「太陽 (博文館)」の版間の差分
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月刊または半月刊。寸法は、[[四六判|四六倍判]]、または[[菊判]]、または菊倍判。本文約200ページのほか口絵・別冊もあった。初期の発行部数は、(博文館によれば)、10万部に近かった<ref>{{cite|和書|last=上野|first=隆生|title=雑誌『太陽』の一側面について|journal=東西南北|year=2007|volume=2007|pages=252-285|month=3|url=http://id.nii.ac.jp/1073/00002451/}}</ref>。 |
月刊または半月刊。寸法は、[[四六判|四六倍判]]、または[[菊判]]、または菊倍判。本文約200ページのほか口絵・別冊もあった。初期の発行部数は、(博文館によれば)、10万部に近かった<ref>{{cite|和書|last=上野|first=隆生|title=雑誌『太陽』の一側面について|journal=東西南北|year=2007|volume=2007|pages=252-285|month=3|url=http://id.nii.ac.jp/1073/00002451/}}</ref>。 |
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記事は、政治・経済・社会・軍事・歴史・工業・宗教・芸術・文学・家庭などにわたり、たとえば第1巻の執筆者は、学者の[[依田学海]]・[[加藤弘之]]・[[久米邦武]]・[[大内青巒]]・[[神田乃武]]・[[植村正久]]・[[石川千代松]]・[[三宅雪嶺]]・[[横井時敬]]・[[天野為之]]・[[志賀重昂]]・[[坪井正五郎]]・[[大西祝]]・[[鳥居竜蔵]]・[[姉崎正治]]、政治家の[[大鳥圭介]]・[[谷干城]]・[[金子堅太郎]]・[[末松謙澄]]・[[小村壽太郎|小村寿太郎]]・[[犬養毅]]・[[尾崎行雄]]・[[牧野伸顕]]・[[近衛篤麿]]、実業家の[[渋沢栄一]]・[[加藤木重教]]・[[巌本善治]]、作家の[[福地源一郎]]・[[饗庭篁村]]・戸川残花([[戸川安宅]])・[[大和田建樹]]・[[坪内逍遙]]・[[落合直文]]・[[森田思軒]]・[[幸田露伴]]・[[斎藤緑雨]]・[[川上眉山]]・[[大橋乙羽]]・[[ |
記事は、政治・経済・社会・軍事・歴史・工業・宗教・芸術・文学・家庭などにわたり、たとえば第1巻の執筆者は、学者の[[依田学海]]・[[加藤弘之]]・[[久米邦武]]・[[大内青巒]]・[[神田乃武]]・[[植村正久]]・[[石川千代松]]・[[三宅雪嶺]]・[[横井時敬]]・[[天野為之]]・[[志賀重昂]]・[[坪井正五郎]]・[[大西祝]]・[[鳥居竜蔵]]・[[姉崎正治]]、政治家の[[大鳥圭介]]・[[谷干城]]・[[金子堅太郎]]・[[末松謙澄]]・[[小村壽太郎|小村寿太郎]]・[[犬養毅]]・[[尾崎行雄]]・[[牧野伸顕]]・[[近衛篤麿]]、実業家の[[渋沢栄一]]・[[加藤木重教]]・[[巌本善治]]、作家の[[福地源一郎]]・[[饗庭篁村]]・戸川残花([[戸川安宅]])・[[大和田建樹]]・[[坪内逍遙]]・[[落合直文]]・[[森田思軒]]・[[幸田露伴]]・[[斎藤緑雨]]・[[川上眉山]]・[[大橋乙羽]]・[[巖谷小波]]・[[高山樗牛]]・[[樋口一葉]]・[[佐佐木信綱]]・[[島崎藤村]]・[[泉鏡花]]・[[与謝野鉄幹]]などと、多彩だった。 |
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高山樗牛と長谷川天渓は、初期から多くの評論・時評を載せた。樗牛を[[大町桂月]]が継いだ。ほかに、加藤弘之の発言集『貧叟百話』(1896 - 1898)、[[鳥谷部春汀]]の『人物月旦』(1897 - 1909)、[[秋月新太郎|秋月天放]]の『牛門随筆』(1897 - 1923)、[[石黒忠悳]]の談話集『况翁閑話』(1898 - 1899)、[[上田敏]]の文芸評論『独語と対話』(1914 - 1915)、[[江見水蔭]]の回想記『自己中心明治文壇史』(1926 - 1927)などの評論があった。 |
高山樗牛と長谷川天渓は、初期から多くの評論・時評を載せた。樗牛を[[大町桂月]]が継いだ。ほかに、加藤弘之の発言集『貧叟百話』(1896 - 1898)、[[鳥谷部春汀]]の『人物月旦』(1897 - 1909)、[[秋月新太郎|秋月天放]]の『牛門随筆』(1897 - 1923)、[[石黒忠悳]]の談話集『况翁閑話』(1898 - 1899)、[[上田敏]]の文芸評論『独語と対話』(1914 - 1915)、[[江見水蔭]]の回想記『自己中心明治文壇史』(1926 - 1927)などの評論があった。 |
2020年7月3日 (金) 06:19時点における版
太陽 | |
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The Sun | |
創刊号の表紙 佐久間文吾画 | |
ジャンル | 総合 |
読者対象 | 成人 |
刊行頻度 | 月刊、または、半月刊 |
発売国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
出版社 | 博文館 |
発行人 | 大橋信太郎ほか |
編集長 |
坪谷水哉・高山樗牛・鳥谷部春汀・ 浮田和民・浅田江村・長谷川天渓・ 平林初之輔 |
刊行期間 | 1895年1月 - 1928年2月 |
発行部数 | 100,000弱部(1895年博文館調べ) |
姉妹誌 | 文芸倶楽部、少年世界 |
太陽は、博文館が、1895年(明治28年)1月から1928年(昭和3年)2月まで、計531冊発行した、日本初の総合雑誌。大正デモクラシーの世相に乗り遅れて、廃刊した。
歴史
日清戦争の勝利が決定的となった1894年12月、博文館は、「日本は世界の大国になったのだから、欧米諸国に負けない総合雑誌を」という趣旨の「太陽発刊の主意」を発表し[1]、翌月『太陽』を創刊した。このとき同社は、既刊の『日本商業雑誌』『日本大家論集』『日本農業雑誌』『日本之法律』『婦女雑誌』を『太陽』誌に、『文芸共進会』『世界文庫』『明治文庫』『逸話文庫』『春夏秋冬』を『文芸倶楽部』誌に、『日本之少年』『幼年雑誌』『学生筆戦場』『少年文学』『幼年玉手箱』を『少年世界』誌に、それぞれ統合している。
編集人(編集主幹)は、年代順に次の通りである。
- 坪谷善四郎(水哉):1895年1月 - 1897年5月
- 高山樗牛:1897年6月 - 1902年12月
- 鳥谷部銑太郎(春汀):1903年1月 - 1909年1月
- 浮田和民:1909年2月 - 1917年6月
- 浅田彦一(江村):1917年7月 - 1923年9月
- 長谷川誠也(天渓):1923年10月 - 1927年3月
- 平林初之輔:1927年4月 - 1928年2月
月刊または半月刊。寸法は、四六倍判、または菊判、または菊倍判。本文約200ページのほか口絵・別冊もあった。初期の発行部数は、(博文館によれば)、10万部に近かった[2]。
記事は、政治・経済・社会・軍事・歴史・工業・宗教・芸術・文学・家庭などにわたり、たとえば第1巻の執筆者は、学者の依田学海・加藤弘之・久米邦武・大内青巒・神田乃武・植村正久・石川千代松・三宅雪嶺・横井時敬・天野為之・志賀重昂・坪井正五郎・大西祝・鳥居竜蔵・姉崎正治、政治家の大鳥圭介・谷干城・金子堅太郎・末松謙澄・小村寿太郎・犬養毅・尾崎行雄・牧野伸顕・近衛篤麿、実業家の渋沢栄一・加藤木重教・巌本善治、作家の福地源一郎・饗庭篁村・戸川残花(戸川安宅)・大和田建樹・坪内逍遙・落合直文・森田思軒・幸田露伴・斎藤緑雨・川上眉山・大橋乙羽・巖谷小波・高山樗牛・樋口一葉・佐佐木信綱・島崎藤村・泉鏡花・与謝野鉄幹などと、多彩だった。
高山樗牛と長谷川天渓は、初期から多くの評論・時評を載せた。樗牛を大町桂月が継いだ。ほかに、加藤弘之の発言集『貧叟百話』(1896 - 1898)、鳥谷部春汀の『人物月旦』(1897 - 1909)、秋月天放の『牛門随筆』(1897 - 1923)、石黒忠悳の談話集『况翁閑話』(1898 - 1899)、上田敏の文芸評論『独語と対話』(1914 - 1915)、江見水蔭の回想記『自己中心明治文壇史』(1926 - 1927)などの評論があった。
久米桂一郎の『新印象派の影響』(1911)、小松耕輔の『欧米音楽界の現況』(1923)など、美術・音楽の紹介もした。
初出の文学作品には、時代順に次などがあった。
- 斎藤緑雨:『雨蛙』(1895.5)
- 樋口一葉:『ゆく雲』(1897.5)
- 泉鏡花:『海城発電』(1896.1)
- 斎藤緑雨:『おぼえ帳』(1897.4 - 12)
- 二葉亭四迷訳:ツルゲネフの『うき草』(1897.5)
- 広津柳浪:『畜生腹』(1897.10)
- 国木田独歩:『郊外』(1900.10)
- 泉鏡花:『鷺の灯』(1903.9)
- 正宗白鳥訳:チェーホフの『不運くらべ』(1904.6)
- 永井荷風:『酔美人』(1905.6)、『夜半の酒場』(1906.12)、『旧恨』(1907.1)、『春と秋』(1907.10)、(以上4篇『あめりか物語』に収録)
- 田山花袋:『少女病』(1907.5)
- 永井荷風:『カルチェー、ラタンの一夜』(1909.1)(『おもかげ』と改題し『ふらんす物語』に収録)
- 正宗白鳥:玉突屋(1908.4)
- 森鷗外訳:リルケの『家常茶飯』(1909.10)
- 久保田万太郎:『雪』(1912.5)
- 中村星湖:『女のなか』(1914.1)
- 森鴎外:『安井夫人』(1914.4)
- 木下杢太郎:『柏屋伝右衛門』(1914.4)
- 森鴎外:『栗山大膳』(1914.11)
- 正宗白鳥:『入江のほとり』(1915.4)
- 有島生馬:『暴君へ』(1916.1)
- 吉田絃二郎:『清作の妻』(1916.1)
- 有島武郎:『クララの出家』(1917.9)
- 宇野浩二:『或る法学士の話』(1920.12)
- 宮島資夫:『老火夫』(1921.4)
- 宮地嘉六:『工場主の娘』(1921.11)
- 宇野浩二:『子を貸し屋』(1923.3、4)
- 志賀直哉:『プラトニック・ラヴ』(1926.4)
1923年の関東大震災後、探偵小説の流行を追い、平林初之輔を編集人に立ててプロレタリア的評論・小説を載せたものの、世に後れ、廃刊した。
ほかの『太陽』誌
- 朝日新聞社の『太陽』:1942年7月から1945年4月まで34冊。
- 太陽社の『太陽』:1946年1月から短期間。
- 筑摩書房の『太陽』:1957年10月から短期間。
- 平凡社の『太陽』:1963年6月から2000年12月まで482冊。
- 平凡社の『別冊太陽』:1972年11月から現在まで。
脚注
- ^ 「夫レ征清ノ盛挙ハ我カ帝国ヲシテ一躍世界一等国ノ地位ニ登ラシメシノミナラス、又実ニ第二ノ維新ヲナスノ機ナリ、乃チ我ガ新聞雑誌モ亦進ンテ世界一等ノ地歩ヲ占メ、第二ノ維新ヲナサンコト蓋シ至当ノ順序ナリ」。「太陽発刊の主意」『婦女雑誌』第4巻第23号、1894年12月5日付。“井澤恒夫「解題」”. 2005年4月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年1月15日閲覧。, pp. 23-25.
- ^ 上野隆生「雑誌『太陽』の一側面について」『東西南北』第2007巻、252-285頁、2007年3月 。
出典
参考文献
- 日本近代文学館編:『太陽総目次』、八木書店(1999/1)ISBN 9784840600163
- 国立国語研究所編:『太陽コーパス雑誌「太陽」日本語データベース』、博文館新社(2005)ISBN 9784861151569
外部リンク
- 日本近代文学館 太陽総目次・執筆者索引
- 近現代日本文学史年表 1888 - 1897 - ウェイバックマシン(2010年11月25日アーカイブ分)