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元治2年(1865年)1月8日、大蔵官僚[[郷純造]]の次男として[[美濃国]]岐阜(現在の[[岐阜県]][[岐阜市]])で生まれる。
元治2年(1865年)1月8日、大蔵官僚[[郷純造]]の次男として[[美濃国]]岐阜(現在の[[岐阜県]][[岐阜市]])で生まれる。


平河小学校(現・[[千代田区立麹町小学校]])卒業後<ref name="nnp">『男爵郷誠之助君伝』(郷男爵記念会編、1943年(昭和18年)、「男爵の年譜」)より[[明治3年]](1870年)に平河小学校入学、『麹町小學校の百年』(麹町小学校創立百年記念会編、1974年(昭和49年)、巻頭グラビア)より[[瀧廉太郎]]や[[邦枝完二]]、[[谷小波]]らと共に卒業生代表として掲載されている。</ref>、[[東京英語学校|官立東京英語学校]](のちの[[第一高等学校 (旧制)|一高]])、さらに尺振八が塾長であった[[日本橋浜町|浜町]]河岸の[[共立学舎]]に通い、明治10年(1877年)から12年(79年)まで県立仙台中学(1886年廃止)にて学ぶ。帰京した明治13年(1880年)には中島行孝の塾通いと共に家庭教師が就き英語・漢学を学ぶ。明治14年(1881年) [[同志社英学校]]に入るも行商をする同級生らに影響されこの年限りでやめ、明治15年(1882年)の私塾通いなどを経て、[[明治]]16年([[1883年]])[[東京大学]](のち帝国大学、東京帝大)選科入学。[[明治]]17年([[1884年]]2月)[[ドイツ]]に留学し、[[ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク|ハイデルベルク大学]]で7年間に渡って[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]、[[ジョン・スチュアート・ミル]]などを研究し、[[哲学博士]]号を授与される。明治24年([[1891年]])12月に帰朝し、[[農商務省 (日本)|農商務省]]に嘱託で勤務する。
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明治28年([[1895年]])に[[日本運送]]社長となり会社の再建に当たった。その後は、財界に一貫して身を置き、[[日本メリヤス]]、[[日本鋼管]]、[[入山採炭]]、[[王子製紙 (初代)|王子製紙]]の社長や取締役を歴任して各会社の再建を成功させ、特に王子製紙では、[[新聞]]のための[[紙]]の国産に成功したことが特筆される。明治43年([[1910年]])日本醤油醸造の再建は、失敗したが、明治44年([[1911年]])[[東京株式取引所]](現在の[[東京証券取引所]]の前身)理事長に就任した。同じ年に貴族院議員になり、終生務めた。[[大正]]2年([[1913年]])[[東京商業会議所]]特別議員。大正6年([[1917年]])[[日本工業倶楽部]]の設立に参加し自ら専務理事となった。大正11年([[1922年]])日本経済聯盟会常務理事に、昭和5年([[1930年]])には日本商工会議所会頭に就任し、こうして郷は、[[第一次世界大戦]]後から昭和戦前にかけて、日本財界のリーダー的存在となっていった。このほか、[[東京電燈]]の再建や、[[内閣参議]]、[[大蔵省]]顧問にも郷の手腕が見込まれての起用となった。
明治28年([[1895年]])に[[日本運送]]社長となり会社の再建に当たった。その後は、財界に一貫して身を置き、[[日本メリヤス]]、[[日本鋼管]]、[[入山採炭]]、[[王子製紙 (初代)|王子製紙]]の社長や取締役を歴任して各会社の再建を成功させ、特に王子製紙では、[[新聞]]のための[[紙]]の国産に成功したことが特筆される。明治43年([[1910年]])日本醤油醸造の再建は、失敗したが、明治44年([[1911年]])[[東京株式取引所]](現在の[[東京証券取引所]]の前身)理事長に就任した。同じ年に貴族院議員になり、終生務めた。[[大正]]2年([[1913年]])[[東京商業会議所]]特別議員。大正6年([[1917年]])[[日本工業倶楽部]]の設立に参加し自ら専務理事となった。大正11年([[1922年]])日本経済聯盟会常務理事に、昭和5年([[1930年]])には日本商工会議所会頭に就任し、こうして郷は、[[第一次世界大戦]]後から昭和戦前にかけて、日本財界のリーダー的存在となっていった。このほか、[[東京電燈]]の再建や、[[内閣参議]]、[[大蔵省]]顧問にも郷の手腕が見込まれての起用となった。

2020年7月3日 (金) 06:12時点における版

郷誠之助
郷誠之助

郷 誠之助(ごう せいのすけ、元治2年1月8日1865年2月3日) - 昭和17年(1942年1月19日)は、日本実業家日本商工会議所会頭、日本経済聯盟会会長、東京電燈会長、東京株式取引所理事長などを歴任。貴族院議員。

来歴・人物

元治2年(1865年)1月8日、大蔵官僚郷純造の次男として美濃国岐阜(現在の岐阜県岐阜市)で生まれる。

平河小学校(現・千代田区立麹町小学校)卒業後[1]官立東京英語学校(のちの一高)、さらに尺振八が塾長であった浜町河岸の共立学舎に通い、明治10年(1877年)から12年(79年)まで県立仙台中学(1886年廃止)にて学ぶ。帰京した明治13年(1880年)には中島行孝の塾通いと共に家庭教師が就き英語・漢学を学ぶ。明治14年(1881年) 同志社英学校に入るも行商をする同級生らに影響されこの年限りでやめ、明治15年(1882年)の私塾通いなどを経て、明治16年(1883年東京大学(のち帝国大学、東京帝大)選科入学。明治17年(1884年2月)ドイツに留学し、ハイデルベルク大学で7年間に渡ってヘーゲルジョン・スチュアート・ミルなどを研究し、哲学博士号を授与される。明治24年(1891年)12月に帰朝し、農商務省に嘱託で勤務する。

明治28年(1895年)に日本運送社長となり会社の再建に当たった。その後は、財界に一貫して身を置き、日本メリヤス日本鋼管入山採炭王子製紙の社長や取締役を歴任して各会社の再建を成功させ、特に王子製紙では、新聞のためのの国産に成功したことが特筆される。明治43年(1910年)日本醤油醸造の再建は、失敗したが、明治44年(1911年東京株式取引所(現在の東京証券取引所の前身)理事長に就任した。同じ年に貴族院議員になり、終生務めた。大正2年(1913年東京商業会議所特別議員。大正6年(1917年日本工業倶楽部の設立に参加し自ら専務理事となった。大正11年(1922年)日本経済聯盟会常務理事に、昭和5年(1930年)には日本商工会議所会頭に就任し、こうして郷は、第一次世界大戦後から昭和戦前にかけて、日本財界のリーダー的存在となっていった。このほか、東京電燈の再建や、内閣参議大蔵省顧問にも郷の手腕が見込まれての起用となった。

しかし、郷が世話役となって主宰していた若手財界人の勉強会であった「番町会」が昭和9年(1934年帝人事件に巻き込まれ、番町会会員は検挙された。結局、帝人事件は斎藤実内閣を倒す陰謀で検挙者全員が無罪となった。

親族

父・純造は大蔵官僚で、退官後貴族院議員に勅選された。弟の昌作は数え2歳で三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の養子となると同時に豊弥と改名し、兄・誠之助と同じく実業界で活躍した。元岩崎勝商事社長・岩崎勝太郎は誠之助の甥(岩崎豊弥の長男)で、随筆家入江相政は誠之助の義理の甥(岩崎豊弥の娘婿)にあたる。なお誠之助は生涯独身で末弟・朔雄(純造の九男)を養嗣子としたが、朔雄は肥前国平戸藩第12代藩主・松浦詮の三男で山城国淀藩12代目藩主・稲葉正邦の養嗣子となった稲葉正縄の三女・英子と結婚した。松浦詮の四男で出羽国秋田藩佐竹氏の分家・佐竹東家の養嗣子となった佐竹義準の三女・操子が弥太郎の嫡孫で三菱地所の取締役を務めた岩崎彦弥太三菱3代目総帥・岩崎久弥の長男)に嫁いだため、郷家は三菱の創業者一族・岩崎家と二重の姻戚関係にあり、岩崎彦弥太の妻と郷誠之助及び岩崎豊弥の弟の妻が従姉妹同士ということになる。また姉の幸子は東京川崎財閥の2代目当主・2代目川崎八右衛門(東京川崎財閥創業者・初代川崎八右衛門の三男)に嫁いでおり、東京川崎財閥の3代目当主・川崎守之助(2代目八右衛門の長男)は誠之助の甥にあたる。なお、東洋大学および岡山大学教授で考古学者和島誠一は誠之助の庶子とされる[2]

番町会

郷誠之助を中心として、財界の斡旋・調停などで活躍した若手実業家のグループ[3]。元部下の岩倉具光河合良成後藤圀彦により設立された[4][5]。東京・番町の郷の邸宅で毎月1回会食したところから番町会と呼ばれ、1923年ころから1934年ころまで続いた[3]。設立者に加えてメンバーとされる人物は、永野護河合良成長崎英造正力松太郎小林中中島久万吉中野金次郎(のちに日通社長)、伊藤忠兵衛金子喜代太(のちに浅野セメント社長)、春田茂躬(日中合弁「中日実業」専務取締役)、渋沢正雄渋沢栄一三男)、松岡潤吉(松岡修造 (実業家)の娘婿)ら[3][6](河合良成は小林中と長崎英造は関係がなかったと後年の著書で述べている[7])。1933年に会のメンバーらが帝人株10万株を入手したことに対し、1934年に武藤山治(元鐘紡社長)経営の『時事新報』が「番町会を暴く」と題した糾弾記事を連載し、政治家と財界人の癒着による不正であると攻撃した[3][8]。連載中に武藤が暴漢に射殺されたことから番町会の疑惑が拡大し、また、帝人事件に絡んでメンバーが検挙されたことから会の名前が広く知られるようになった[3]

栄典

位階
勲章等

系譜

 
 
 
 
 
 
郷誠之助
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
郷朔雄
 
 
郷濬一
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
郷純造
 
 
 
 
稲葉正縄
 
英子
 
 
郷誠次
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
郷健太郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
千葉忠二
 
恭子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
佐竹義準
 
操子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岩崎豊弥
 
 
 
 
 
 
岩崎寛弥
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岩崎弥太郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岩崎久弥
 
 
岩崎彦弥太
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
喜勢
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岩崎隆弥
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
保科正益
 
 
寧子
 
 
岩崎恒弥
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

脚注

  1. ^ 『男爵郷誠之助君伝』(郷男爵記念会編、1943年(昭和18年)、「男爵の年譜」)より明治3年(1870年)に平河小学校入学、『麹町小學校の百年』(麹町小学校創立百年記念会編、1974年(昭和49年)、巻頭グラビア)より瀧廉太郎邦枝完二巖谷小波らと共に卒業生代表として掲載されている。
  2. ^ 『アルカ通信』No.173 (PDF) 考古学研究所株式会社アルカ 2018年(平成30年)2月1日刊 p.1
  3. ^ a b c d e 番町会 ばんちょうかいコトバンク
  4. ^ 河合良成『帝人事件 30年目の証言』p26-32
  5. ^ 波多野勝「正力の支援と思惑」『日米野球史?メジャーを追いかけた70年』PHP新書
  6. ^ 伏魔殿の由来 『「番町会」を暴く. 帝国人絹の巻』(時事新報社, 1934)
  7. ^ 中島久万吉と帝人事件 : 財界人から精神的指導者へ村山元理、一橋大学、2015-02-27
  8. ^ 『兵は凶器なり』 (21) 15年戦争と新聞メディア -1926-1935-前坂俊之アーカイブス
  9. ^ 『官報』第5159号「叙任及辞令」1900年9月11日。
  10. ^ 『官報』第4289号、「叙任及辞令」1926年12月09日。
  11. ^ 『官報』第3440号「叙任及辞令」1924年2月14日。
  12. ^ 『官報』第3533号、「叙任及辞令」1924年06月04日。
  13. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。

参考文献

  • 郷男爵記念会編 男爵 郷誠之助君伝 1943年発行、1988年復刻 大空社

関連項目

外部リンク

日本の爵位
先代
郷純造
男爵
郷(純造)家第2代
1910年 - 1942年
次代
郷朔雄
その他の役職
先代
藤田謙一
日本商工会議所会頭
1930年 - 1936年
次代
結城豊太郎