金子喜代太
金子 喜代太(かねこ きよた、1883年(明治16年)3月9日[1] - 1971年(昭和46年)6月6日[1])は、日本の実業家。結婚によって浅野総一郎の親戚になり、浅野財閥の多数の企業の重役を務めた。
経歴
[編集]1883年(明治16年)3月に、高知県の金子虎太郎の長男として生まれた。東京高等師範学校(筑波大学)の物理化学科を1907年(明治40年)に卒業した[2]。 或いは数学科を卒業した[3]。
教師として数年間働いてから、東京帝国大学(東京大学)に入学して、穂積八束博士宅に寄寓して、昼は学生、夜は教師をして苦学しながら、法科 [3]または政治科を大正4年に卒業した[2]。 卒業後に最初は三菱合資に就職したが[2]、 穂積八束博士の娘であり穂積重威の妹でもある女性と結婚して、浅野総一郎の親戚となり、大正6年に浅野セメント(太平洋セメント)に転職した。頭が飛切り良く数理的観念が優れていたので、浅野良三から浅野セメントの営業を一任された[3]。
郷誠之助に能力を高く評価されて、番町会のメンバーになった。漁区事件で日魯漁業の堤社長が失脚した時に、郷誠之助は川上俊彦を日魯漁業の社長にしたが、浅野財閥の了解を得て、金子喜代太をその女房役として送り込んだ。だが、浅野財閥は貴重な人材を手放すわけにはいかないので、暫くすると呼び戻して浅野セメントの専務に据えた。[4]
役職
[編集]大阪石綿工業の取締役会長、浅野セメント(太平洋セメント)・日本セメントの専務取締役、鶴見製鉄造船(JFE、ジャパンマリンユナイテッド)・日之出汽船(NYKバルク・プロジェクト)・南武鉄道(JR南武線)・伏木板紙・小倉製鋼(日本製鉄)・日本ヒューム管(日本ヒューム)・三岐鉄道・関東運輸・五日市鉄道(JR五日市線)・小倉築港(小倉興産)・青梅電気鉄道(JR青梅線)・浅野カーリット(日本カーリット)・浅野ブロック製造・満州セメントの取締役。関東水力電気(東京電力の佐久発電所)・浅野物産(丸紅、NIPPO)の監査役[2]。 東北淺野製材、旭コンクリート、神奈川コークス(東京ガスエネルギー)、鶴見木工、内外石油、富士製鋼(日本製鉄)、日本スレート販賣、信越木材、淺野スレート(エーアンドエーマテリアル)、地下工業の取締役、淺野石材工業の監査役、浅野同族の理事[5]。
趣味
[編集]釣り[4]
家族
[編集]- 妻 千鶴子 穂積八束博士の娘で穂積重威の妹[2]
- 義理の父 穂積八束博士 浅野総一郎の長女マツの夫[2][6]
- 義理の兄弟 穂積重威 穂積八束とマツの長男で、弁護士、中央大学教授、ジャパンタイムス取締役、浅野同族・浅野物産・浅野石炭部の監査役[2][6]
脚注
[編集]- ^ a b 『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 1 (政治・経済・社会篇)』日外アソシエーツ株式会社、2012年、356頁。
- ^ a b c d e f g “浅野・渋沢・大川・古河コンツェルン読本 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. pp. 63-64. 2019年8月26日閲覧。
- ^ a b c “中堅財閥の新研究. 関東篇 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. p. 219. 2019年8月26日閲覧。
- ^ a b “中堅財閥の新研究. 関東篇 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. p. 220. 2019年8月26日閲覧。
- ^ “金子喜代太 (第8版) - 『人事興信録』データベース”. jahis.law.nagoya-u.ac.jp. 2019年8月26日閲覧。
- ^ a b “中堅財閥の新研究. 関東篇 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. p. 217. 2019年8月26日閲覧。