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「六条斎院宣旨」の版間の差分

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'''六条斎院宣旨'''(ろくじょうさいいんのせんじ、[[長保]]頃 - [[寛治]]6年[[2月22日 (旧暦)|2月22日]]([[1092年]]))は、[[平安時代]]後期の[[歌人]]・[[作家]]。父は[[源頼国]]。兄弟に[[源頼弘|頼弘]]、[[源頼資|頼資]]、[[源頼実|頼実]]、[[源実国|実国]]、[[源頼綱|頼綱]]、[[源国房|国房]]、[[源師光|師光]]らがある。六条斎院([[ばい子内親王 (後朱雀天皇皇女)|禖子内親王]])の[[宣旨 (役職)|宣旨]]([[女房]]の筆頭格)。
'''六条斎院宣旨'''(ろくじょうさいいんのせんじ、[[長保]]頃 - [[寛治]]6年[[2月22日 (旧暦)|2月22日]]([[1092年]]))は、[[平安時代]]後期の[[歌人]]・[[作家]]。父は[[源頼国]]。兄弟に[[源頼弘|頼弘]]、[[源頼資|頼資]]、[[源頼実|頼実]]、[[源実国|実国]]、[[源頼綱|頼綱]]、[[源国房|国房]]、[[源師光|師光]]らがある。六条斎院([[子内親王 (後朱雀天皇皇女)|禖子内親王]])の[[宣旨 (役職)|宣旨]]([[女房]]の筆頭格)。


主家である禖子内親王家で催された「六条斎院歌合」に16度出詠したことが確認される。はじめ[[藤原高定]]の妻となったが、後に[[源隆国]]と再婚したものと推測されている。[[天喜]]3年([[1055年]])の「六条斎院禖子内親王家物語合」では物語「玉藻に遊ぶ権大納言」を提出した。また『[[狭衣物語]]』の作者であると考えられている。
主家である禖子内親王家で催された「六条斎院歌合」に16度出詠したことが確認される。はじめ[[藤原高定]]の妻となったが、後に[[源隆国]]と再婚したものと推測されている。[[天喜]]3年([[1055年]])の「六条斎院禖子内親王家物語合」では物語「玉藻に遊ぶ権大納言」を提出した。また『[[狭衣物語]]』の作者であると考えられている。

2020年6月26日 (金) 23:32時点における版

六条斎院宣旨(ろくじょうさいいんのせんじ、長保頃 - 寛治6年2月22日1092年))は、平安時代後期の歌人作家。父は源頼国。兄弟に頼弘頼資頼実実国頼綱国房師光らがある。六条斎院(禖子内親王)の宣旨女房の筆頭格)。

主家である禖子内親王家で催された「六条斎院歌合」に16度出詠したことが確認される。はじめ藤原高定の妻となったが、後に源隆国と再婚したものと推測されている。天喜3年(1055年)の「六条斎院禖子内親王家物語合」では物語「玉藻に遊ぶ権大納言」を提出した。また『狭衣物語』の作者であると考えられている。

その詠歌は『後拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に入集している。

参考文献

  • 萩谷朴「六条斎院宣旨伝記小攷」「国語と国文学」20巻2号、1943年 
  • 久下裕利(晴康)「狭衣作者六条斎院宣旨略伝考」「古代文化」32巻9号、1990年 『狭衣物語の人物と方法』(新典社研究叢書、1993年所収。
  • 小町谷照彦「六条斎院宣旨論―『狭衣物語』の作者」石川徹編「平安時代の作家と作品」武蔵野書院、1992年所収。
  • 久保田淳平田喜信校注『後拾遺和歌集』 (1994年、岩波書店