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源頼綱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
源 頼綱
時代 平安時代後期
生誕 万寿2年(1025年
死没 承徳元年閏1月27日1097年3月13日
別名 多田頼綱、多田歌人、三河入道
官位 従四位下蔵人左衛門尉検非違使下野守三河守
主君 藤原師実
氏族 摂津源氏多田源氏
父母 父:源頼国、母:藤原中清の娘
兄弟 頼弘六条斎院宣旨頼資頼実実国頼綱国房頼仲師光頼房頼任、明円、藤原為房室、藤原師実室、藤原顕家室、藤原良綱室、藤原定輔室
中納言局
明国仲政国直頼子藤原師通側室、源能俊室、藤原行実室、盛子
養子:行延国房[1]
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源 頼綱(みなもと の よりつな)は、平安時代後期の武将歌人多田頼綱(ただ の よりつな)とも呼ばれる。美濃守源頼国の五男。官位従四位下三河守

生涯

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頼国の五男であったが摂津源氏の嫡流を継承する[2]。頼綱も父祖に同じく摂関家と緊密な関係を築き、関白藤原師実家司として仕える一方、蔵人左衛門尉検非違使などを経て、下野守、三河守を歴任し従四位下に昇った。武門としての事跡に乏しいが、承暦3年(1079年)の延暦寺強訴の際には在京の軍事貴族として源頼俊大和源氏)や仲宗河内源氏)、平正衡伊勢平氏)などと共に都の防衛にあたっている(『為房卿記』)。寛治2年(1088年)10月の春日祭では当時左中将であった藤原忠実の前駆を務めた(『中右記』)。

親族に多くの歌人がいる環境にあり、頼綱もまた和歌に秀でた。永承年間(1046年 - 1052年)の「六條斎院歌合」から嘉保1094年)元年の「高陽院七番歌合」まで6度の歌合に出席しており、大江匡房能因源俊頼などの著名歌人らと交流があったことが知られ、その詠歌は『後拾遺集』以下の勅撰和歌集に計8首入集している。また、頼綱の時代に本拠地・多田庄を摂関家に寄進したとされており、曽祖父・満仲(多田満仲)以来の由緒ある名乗りである「多田」を家号とし、「多田歌人」と呼ばれた。

宮廷との結びつきを深め、女子のうち一女(頼子)を白河天皇後宮に入れ官子内親王を儲けた一方、また別の一女を関白藤原師通の側室としたほか、さらに別の女子を大納言源能俊室や武蔵守藤原行実室、土佐守藤原盛実室(盛子[3])などともしている。こうした関係もあり、永長元年(1096年)に頼綱が出家した際には、その邸に師通自らが足を運んだという(『後二条師通記』)。出家後は参河入道と号し、翌承徳元年(1097年)に卒去した。

子孫

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子孫は摂津国美濃国に分かれ[4]、本拠地の多田荘は長男・明国(多田明国)が継承する。また次男・仲政(馬場仲政)は源三位頼政の父として知られ、三男・国直(山県国直)は山県氏能勢氏などの祖となった。

代表歌

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夏山のならの葉そよぐ夕暮はことしも秋の心ちこそすれ — 『後拾遺和歌集』231番

系譜

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脚注

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  1. ^ 『尊卑分脈』。
  2. ^ 頼綱が摂津源氏の嫡流となった理由は明らかでないが、兄たちの度重なる早世・配流が原因となった可能性が指摘される。なお四兄・実国は特に不祥事などなくその生涯を閉じているが、多田庄を継承しなかった。
  3. ^ 源盛子は盛実との間に少納言藤原顕憲上杉重房の曾祖父)と左大臣藤原頼長の母となる一女を儲けている。
  4. ^ 頼綱は美濃守となった父・頼国と共に任国に下向していることが確認されており、摂津源氏の中では三男・国直の系統と養子とも記される弟・国房の系統が美濃へ進出した。
  5. ^ 頼光の弟頼範の子とする説が提示されたことがある。なお頼範の子の頼綱には範弘なる子息のみがあり、さらにその子・為綱は藤原章家(藤原北家山蔭流)の養子となったとある(『尊卑分脈』)。

参考文献

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関連項目

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