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*[[永暦]]元年([[1160年]])1月24日、[[禁色]]を許される。10月3日には[[中宮職|中宮権亮]]を兼ねる。
*[[永暦]]元年([[1160年]])1月24日、[[禁色]]を許される。10月3日には[[中宮職|中宮権亮]]を兼ねる。
*[[応保]]元年([[1161年]])1月5日、[[正五位|正五位下]]に昇叙され、8月25日には[[従四位|従四位下]]に昇叙。9月15日、左中将に昇任。
*[[応保]]元年([[1161年]])1月5日、[[正五位|正五位下]]に昇叙され、8月25日には[[従四位|従四位下]]に昇叙。9月15日、左中将に昇任。
*応保2年([[1162年]])1月27日、[[伊予国#国司|伊予介]]を兼ねる。2月5日、中宮が女院([[しゅ子内親王|高松院]])となったために中宮権亮を止める。
*応保2年([[1162年]])1月27日、[[伊予国#国司|伊予介]]を兼ねる。2月5日、中宮が女院([[子内親王|高松院]])となったために中宮権亮を止める。
*[[長寛]]元年([[1163年]])1月5日、従四位上に昇叙。
*[[長寛]]元年([[1163年]])1月5日、従四位上に昇叙。
*[[永万]]元年([[1165年]])1月23日、[[蔵人頭]]に補される。6月25日に改めて蔵人頭に補され、7月22日には[[正四位|正四位下]]に昇叙。さらに同月27日には[[従三位]]に叙される<ref>この時、上臈の頭中将[[藤原家通]]を超越して叙せられた。</ref>。
*[[永万]]元年([[1165年]])1月23日、[[蔵人頭]]に補される。6月25日に改めて蔵人頭に補され、7月22日には[[正四位|正四位下]]に昇叙。さらに同月27日には[[従三位]]に叙される<ref>この時、上臈の頭中将[[藤原家通]]を超越して叙せられた。</ref>。

2020年6月26日 (金) 23:21時点における版

 
藤原兼雅
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代初期
生誕 久安4年(1148年
死没 正治2年7月18日1200年8月29日
別名 後花山院左大臣
官位 従一位左大臣
主君 近衛天皇後白河天皇二条天皇六条天皇高倉天皇安徳天皇後鳥羽天皇
氏族 藤原北家花山院家
父母 父:藤原忠雅、母:藤原家成の娘
兄弟 兼雅、忠恵、忠雲、忠子、源通親側室、兼経
養兄弟:行雅隆雅
平清盛の次女
九条良通室、花山院忠経五辻家経、兼信、兼成、円雅
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藤原 兼雅(ふじわら の かねまさ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。花山院太政大臣藤原忠雅の長男。官位従一位左大臣後花山院左大臣と号す。花山院家4代。

経歴

人物

父・忠雅の後を継ぎ中央官界に進出、平清盛の娘を室として、平氏政権下において順調に昇進を重ねる。このため寿永2年(1183年)には源義仲によって一旦官職を追われるが、後白河法皇の信任を背景に文治3年(1187年)に元の地位である大納言に復帰、以後正治2年(1200年)に左大臣に至るまで昇進を重ねた。

激動期の宮廷にあって最終的に地位を全うしたことで、後世における花山院家の発展の基礎を築いた。和歌今様に通じた才人でもあった。

系譜

脚注

  1. ^ 待賢門院璋子の御給による。
  2. ^ この時、上臈の頭中将藤原家通を超越して叙せられた。
  3. ^ 前年に春宮大夫を止められた時に恐懼に処せられていたことによる。
  4. ^ 子・家経参議に申任するためという。
  5. ^ 『系図纂要』

出典

  • 公卿補任』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※ 永万元年(1165年)に兼雅が非参議となった時以降の記事。
  • 尊卑分脈』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※「花山院兼雅」の項。
  • 角田文衛、『待賢門院璋子の生涯 ー 椒庭秘抄』、朝日選書281、朝日新聞社
  • 橋本義彦、『源通親』、人物叢書、吉川弘文館
先代
藤原忠雅
花山院家
4代
次代
花山院忠経