「小泉成一」の版間の差分
m Bot作業依頼: 森鷗外への記事名変更に伴う変更 - log |
|||
65行目: | 65行目: | ||
* 「小春ノ日和」 |
* 「小春ノ日和」 |
||
*: 油彩・キャンバス、縦57.0cm x 横79.5cm{{sfn|大前|2007|p=17}}。1889年(明治22年)10月[[明治美術会]]第1回展に出品。[[森 |
*: 油彩・キャンバス、縦57.0cm x 横79.5cm{{sfn|大前|2007|p=17}}。1889年(明治22年)10月[[明治美術会]]第1回展に出品。[[森鷗外]]の評を得た{{sfn|小見|1995|pp=57-58}}。1950年代中頃関西で東京画廊山本孝に発見され、[[大光銀行|大光相互銀行]]を経て、1981年(昭和56年)[[新潟県立近代美術館|新潟県美術博物館]]に収蔵された{{sfn|小見|1995|p=55}}。不同舎門人[[鹿子木孟郎]]の誤解により長らく[[小山正太郎]]筆とされてきたが{{sfn|大前|2007|p=21}}、1992年([[平成]]4年)7月[[創形美術学校]]修復研究所で修復中、赤外線検査で「古以津三成一」の署名が発見された{{sfn|小見|1995|p=56}}。 |
||
* 「[[平氏|平]]軍[[南都焼討|南都ニ乱入]]ス」 |
* 「[[平氏|平]]軍[[南都焼討|南都ニ乱入]]ス」 |
2020年6月18日 (木) 12:05時点における版
小泉 成一 S. Koizumi[1] | |
---|---|
生誕 |
明治2年8月16日(1869年9月21日) 備後国深津郡福山西町 |
死没 |
1920年(大正9年)10月27日 宮城県仙台市 |
墓地 | 台東区谷中霊園、仙台市営北山霊園 |
国籍 | 大日本帝国 |
教育 | 本多錦吉郎、小山正太郎 |
出身校 | 彰技堂、不同舎 |
著名な実績 | 洋画 |
代表作 | 「小春ノ日和」「少女像」 |
流派 | 菊葉派 |
配偶者 | 小川ヲクノ |
選出 | 明治美術会 |
小泉 成一(こいずみ せいいち、明治2年8月16日(1869年9月21日) - 1920年(大正9年)10月27日)は戦前日本の洋画家。備後福山藩出身。本多錦吉郎・小山正太郎門下。神奈川県尋常師範学校、宮城県立仙台第二中学校、私立東北学院等で絵画を教えた。
生涯
修業
明治2年(1869年)8月16日備後福山藩士小泉卯一郎の長男として備後国深津郡福山に生まれた[2]。本籍は西町[3]。明治4年(1871年)旧知藩事阿部正桓が上京を命じられると、9月一家で神戸港から海路上京し、東京駒込西片町9番地(文京区西片一丁目)丸山屋敷内に移り住んだ[4]。
1882年(明治15年)10月2日彰技堂に入学して本多錦吉郎に洋画・英学を学び[5]、1883年(明治16年)4月5日から1885年(明治18年)12月まで東京英語学校、1886年(明治19年)3月1日から12月まで東京仏語学校にも通った[2]。1886年(明治19年)11月1日彰技堂図画科を卒業し、12月1日不同舎に入学して小山正太郎に学んだ[2]。
1888年(明治21年)5月15日から高等師範学校雇西毅三郎に写真術を学び、7月3日から1889年(明治22年)7月まで京都・奈良の古代建築・名所を写生した[2]。
教育
1889年(明治22年)8月明治美術会に入会した[6]。同年10月10日東京高等商業学校予備門画学教授、1890年(明治23年)11月14日神奈川県尋常師範学校雇となり、1891年(明治24年)8月30日予備門を辞職して神奈川師範学校本務教員となった[6]。同年2月7日から1892年(明治25年)9月まで巨勢小石・渡辺省亭に日本画を学んだ[6]。
1898年(明治31年)6月10日[6]山形県尋常中学校助教諭となるも[7]、1899年(明治32年)7月辞職し[8]、9月9日宮城県立仙台第二中学校に転じた[6]。
1901年(明治34年)4月3日布施淡の後任として[9]私立東北学院普通科図画科教授を兼務した[6]。1906年(明治39年)1月18日私立尚絅女学校に出講した[10]。
1914年(大正3年)3月31日仙台二中を退職し、4月1日[10]私立曹洞宗第二中学林に転じた[7]。1920年(大正9年)東華高等女学校講師となったが、1921年(大正10年)4月1日廃校により退職した[10]。
死去
1921年(大正10年)10月25日東北学院長夫人を訪れ、午後帰宅中脳溢血を発症し、27日朝死去した[11]。東北学院により院葬が行われ[10]、浅草区乗満寺に葬られた[12]。
関東大震災後、乗満寺は世田谷区に移転となり、1925年(大正14年)5月19日[13]谷中霊園の旧主君阿部家墓近くに改葬された[12]。
1960年(昭和35年)妻が仙台市営北山霊園に葬られると、1988年(昭和63年)10月同地に分葬され、仙台栽松院により清教院実相成範居士の戒名を贈られた[14]。
作品
- 「小春ノ日和」
- 「少女像」
1901年(明治34年)東北学院TG章[6]、1910年(明治43年)校旗を考案した[22]。現在東北学院中学校・高等学校、榴ケ岡高等学校で使用されている[23]。
小泉家
先祖
家族
- 母:フジ[2]
- 弟:小泉徳治(1874年(明治7年) - 1927年(昭和2年))[5]
- 次男:小泉三十二(1900年(明治33年)10月30日生)[6]
- 三男:小泉守三(1903年(明治36年)10月23日生)[10]
- 長女:貞(1908年(明治41年)8月2日生)[10]
- 四男:小泉維四郎(1910年(明治43年)4月22日生)[10]
- 次女:明子(1914年(大正3年)5月12日生)[10]
脚注
- ^ a b 明治美術会 1890.
- ^ a b c d e f 大前 2007, p. 28.
- ^ a b c 大前 2007, p. 31.
- ^ a b 大前 2007, p. 15.
- ^ a b c d e 大前 2007, p. 16.
- ^ a b c d e f g h i j k 大前 2007, p. 29.
- ^ a b c 大前 2007, p. 24.
- ^ 小見 1995, p. 59.
- ^ 大前 2007, p. 26.
- ^ a b c d e f g h 大前 2007, p. 30.
- ^ a b 大前 2007, p. 27.
- ^ a b 大前 2007, p. 25.
- ^ a b c d 大前 2007, p. 33.
- ^ 大前 2007, pp. 32–33.
- ^ 大前 2007, p. 17.
- ^ a b 小見 1995, pp. 57–58.
- ^ 小見 1995, p. 55.
- ^ 大前 2007, p. 21.
- ^ 小見 1995, p. 56.
- ^ a b 大前 2007, p. 22.
- ^ 大前 2007, p. 23.
- ^ a b c d 大前 2007, p. 32.
- ^ 東北学院.
- ^ a b c 大前 2007, p. 14.
- ^ 大前 2007, pp. 15–16.
- ^ “東京藝術大学大学美術館収蔵品データベース”. 東京藝術大学大学美術館. 2018年3月3日閲覧。
- ^ 露国革命関係救恤一件/救恤審査会往信綴 第一巻分割2
参考文献
- 五十嵐正「噫小泉成一君」『東北学院時報』第45号、東北学院、1922年1月1日。
- 小見秀男「小泉成一《小春ノ日和》(新潟県立近代美術館蔵)について」『新潟県立近代美術館研究紀要』第1号、新潟県立近代美術館、1995年。
- 大前勝信「福山出身の洋画家、小泉成一について」『ふくやま美術館研究紀要』第4号、ふくやま美術館、2007年7月。
- “校章・シンボルマーク”. 学校法人東北学院. 2018年3月3日閲覧。
- 『明治美術会報告第三回報告』明治美術会、1890年2月。NDLJP:849779/30