コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「少年世界」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
43行目: 43行目:
小波の多くの掲載稿の目録が、『[[昭和女子大学]]近代文学研究室の「近代文学研究叢書55」(1972)』に載っている。
小波の多くの掲載稿の目録が、『[[昭和女子大学]]近代文学研究室の「近代文学研究叢書55」(1972)』に載っている。


森田思軒が英訳から重訳した『[[十五少年漂流記]]』([[1899年]](明治32年))は、好評で、新訳にもこの邦題を踏襲している例が多い。また、高安月郊の『山椒大夫』([[1908年]](明治41年))は、[[森外]]の小説に先行する戯曲だった。
森田思軒が英訳から重訳した『[[十五少年漂流記]]』([[1899年]](明治32年))は、好評で、新訳にもこの邦題を踏襲している例が多い。また、高安月郊の『山椒大夫』([[1908年]](明治41年))は、[[森外]]の小説に先行する戯曲だった。


博文館は、『少年世界』から分家する形で、[[1900年]](明治33年)に『幼年世界』を、[[1906年]](明治39年)に『[[少女世界]]』を創刊し、小波はそれらの主筆も兼ねたが、[[1906年]](明治39年)に[[実業之日本社]]が『日本少年』を、[[1914年]]([[大正]]3年)に[[講談社|大日本雄弁会]]が『[[少年倶楽部]]』を、[[1918年]](大正7年)に[[鈴木三重吉]]が『[[赤い鳥]]』を創刊するなど、後続に追い上げられた。博文館自らも、[[1920年]](大正9年)、通俗的な『譚海』を創刊した。
博文館は、『少年世界』から分家する形で、[[1900年]](明治33年)に『幼年世界』を、[[1906年]](明治39年)に『[[少女世界]]』を創刊し、小波はそれらの主筆も兼ねたが、[[1906年]](明治39年)に[[実業之日本社]]が『日本少年』を、[[1914年]]([[大正]]3年)に[[講談社|大日本雄弁会]]が『[[少年倶楽部]]』を、[[1918年]](大正7年)に[[鈴木三重吉]]が『[[赤い鳥]]』を創刊するなど、後続に追い上げられた。博文館自らも、[[1920年]](大正9年)、通俗的な『譚海』を創刊した。

2020年6月18日 (木) 11:28時点における版

少年世界
創刊号表紙(1895年明治28年)1月
ジャンル 論説・小説・史伝・科学・投稿・時事など
読者対象 小学生・中学生
刊行頻度 初め月2回、1901年(明治34年)から月刊。
発売国 日本の旗 日本
定価 初め5銭、1906年(明治39年)に10銭。
出版社 博文館
編集長 巌谷小波
刊行期間 1895年(明治28年) - 1933年(昭和8年)頃
発行部数 約3万部(1923年(大正12年)10月)
姉妹誌 幼年世界、少女世界
テンプレートを表示

少年世界』(しょうねんせかい)は、巌谷小波を主筆として1895年明治28年)1月に創刊し、1933年昭和8年)頃まで博文館が出版した、少年向け総合雑誌。

経緯

博文館はすでに盛業だったが、少年向け雑誌は、少年園社の『小年園』や学齢館の『少国民』の先行を許していた。それは博文館が、『日本之少年』『幼年雑誌』『学生筆戦場』の3雑誌と『少年文学』『幼年玉手箱』の2叢書を手広く出していたせいでもあったので、それらを統合し、京都で『日出新聞』の小説主筆をしていた巌谷小波を主筆に迎え、1895年(明治28年)1月に、『少年世界』を創刊した。日清戦争の勝利が見えていた時期である。

小波は4年前、上記少年文学叢書の第1編に『こがね丸』を書き、童話作家の地位を固めていた。武内桂舟が絵画主任を勤め、五姓田芳柳水野年方も描いた。武田桜桃が編集の助筆だった。

初めは月2回、1901年(明治34年)から月刊。菊判、120ページ。論説・小説・史伝・科学・遊戯・文学・学校案内・遊覧案内・図書案内・時事・投書欄など総合な内容で、初め小学生・中学生を対象としたが、半年後に幼年欄を、1年半後に少女欄も設けた。

主筆の小波が、毎号の巻頭にお伽話を載せたほか、年齢順に、依田学海幸堂得知大和田建樹松村介石、宮崎三昧、広津柳浪森田思軒箕作元八巌本善治若松賤子渡辺霞亭上田萬年石橋思案幸田露伴山田美妙高安月郊大町桂月川上眉山大橋乙羽江見水蔭松居松葉堺枯川佐佐木信綱田山花袋徳田秋声泉鏡花久留島武彦黒田湖山金子薫園らが書いた。小波が属した硯友社のメンバーを多く見る。

小波の多くの掲載稿の目録が、『昭和女子大学近代文学研究室の「近代文学研究叢書55」(1972)』に載っている。

森田思軒が英訳から重訳した『十五少年漂流記』(1899年(明治32年))は、好評で、新訳にもこの邦題を踏襲している例が多い。また、高安月郊の『山椒大夫』(1908年(明治41年))は、森鷗外の小説に先行する戯曲だった。

博文館は、『少年世界』から分家する形で、1900年(明治33年)に『幼年世界』を、1906年(明治39年)に『少女世界』を創刊し、小波はそれらの主筆も兼ねたが、1906年(明治39年)に実業之日本社が『日本少年』を、1914年大正3年)に大日本雄弁会が『少年倶楽部』を、1918年(大正7年)に鈴木三重吉が『赤い鳥』を創刊するなど、後続に追い上げられた。博文館自らも、1920年(大正9年)、通俗的な『譚海』を創刊した。

『少年世界』誌の発行部数は、最盛期を過ぎた1923年(大正12年)秋(関東大震災の直後)に、3万部前後だったという[1]

1918年(大正7年)、巌谷小波主筆は博文館の顧問に退き、さらに1927年(昭和2年)、辞職した。

終刊の年月は、1933年(昭和8年)1月、1933年(昭和8年)10月、1934年(昭和9年)1月などと言われる。

復刻版

1895年明治28年)1月の創刊号から1903年明治36年)分までが、『名著普及会』により復刻されている[2]

出典

  • 福田清人:『明治の児童文学』、(「筑摩書房 明治文学全集95(1970)」の巻末)
  • 続橋達雄:『児童文学の誕生』、桜楓社(1972)
  • 昭和女子大学近代文学研究室編:『近代文学研究叢書35』、昭和女子大学近代文化研究所(1972)
  • 西田良子:『少年世界』、(「『児童文学辞典』、東京書籍(1988)」の中)

脚注

  1. ^ 『「女学世界」における「投書」の研究』[1]の表2
  2. ^ 国際子ども図書館 少年世界

外部リンク