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小波の多くの掲載稿の目録が、『[[昭和女子大学]]近代文学研究室の「近代文学研究叢書55」(1972)』に載っている。 |
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森田思軒が英訳から重訳した『[[十五少年漂流記]]』([[1899年]](明治32年))は、好評で、新訳にもこの邦題を踏襲している例が多い。また、高安月郊の『山椒大夫』([[1908年]](明治41年))は、[[森 |
森田思軒が英訳から重訳した『[[十五少年漂流記]]』([[1899年]](明治32年))は、好評で、新訳にもこの邦題を踏襲している例が多い。また、高安月郊の『山椒大夫』([[1908年]](明治41年))は、[[森鷗外]]の小説に先行する戯曲だった。 |
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博文館は、『少年世界』から分家する形で、[[1900年]](明治33年)に『幼年世界』を、[[1906年]](明治39年)に『[[少女世界]]』を創刊し、小波はそれらの主筆も兼ねたが、[[1906年]](明治39年)に[[実業之日本社]]が『日本少年』を、[[1914年]]([[大正]]3年)に[[講談社|大日本雄弁会]]が『[[少年倶楽部]]』を、[[1918年]](大正7年)に[[鈴木三重吉]]が『[[赤い鳥]]』を創刊するなど、後続に追い上げられた。博文館自らも、[[1920年]](大正9年)、通俗的な『譚海』を創刊した。 |
博文館は、『少年世界』から分家する形で、[[1900年]](明治33年)に『幼年世界』を、[[1906年]](明治39年)に『[[少女世界]]』を創刊し、小波はそれらの主筆も兼ねたが、[[1906年]](明治39年)に[[実業之日本社]]が『日本少年』を、[[1914年]]([[大正]]3年)に[[講談社|大日本雄弁会]]が『[[少年倶楽部]]』を、[[1918年]](大正7年)に[[鈴木三重吉]]が『[[赤い鳥]]』を創刊するなど、後続に追い上げられた。博文館自らも、[[1920年]](大正9年)、通俗的な『譚海』を創刊した。 |
2020年6月18日 (木) 11:28時点における版
少年世界 | |
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ジャンル | 論説・小説・史伝・科学・投稿・時事など |
読者対象 | 小学生・中学生 |
刊行頻度 | 初め月2回、1901年(明治34年)から月刊。 |
発売国 | 日本 |
定価 | 初め5銭、1906年(明治39年)に10銭。 |
出版社 | 博文館 |
編集長 | 巌谷小波 |
刊行期間 | 1895年(明治28年) - 1933年(昭和8年)頃 |
発行部数 | 約3万部(1923年(大正12年)10月) |
姉妹誌 | 幼年世界、少女世界 |
『少年世界』(しょうねんせかい)は、巌谷小波を主筆として1895年(明治28年)1月に創刊し、1933年(昭和8年)頃まで博文館が出版した、少年向け総合雑誌。
経緯
博文館はすでに盛業だったが、少年向け雑誌は、少年園社の『小年園』や学齢館の『少国民』の先行を許していた。それは博文館が、『日本之少年』『幼年雑誌』『学生筆戦場』の3雑誌と『少年文学』『幼年玉手箱』の2叢書を手広く出していたせいでもあったので、それらを統合し、京都で『日出新聞』の小説主筆をしていた巌谷小波を主筆に迎え、1895年(明治28年)1月に、『少年世界』を創刊した。日清戦争の勝利が見えていた時期である。
小波は4年前、上記少年文学叢書の第1編に『こがね丸』を書き、童話作家の地位を固めていた。武内桂舟が絵画主任を勤め、五姓田芳柳・水野年方も描いた。武田桜桃が編集の助筆だった。
初めは月2回、1901年(明治34年)から月刊。菊判、120ページ。論説・小説・史伝・科学・遊戯・文学・学校案内・遊覧案内・図書案内・時事・投書欄など総合な内容で、初め小学生・中学生を対象としたが、半年後に幼年欄を、1年半後に少女欄も設けた。
主筆の小波が、毎号の巻頭にお伽話を載せたほか、年齢順に、依田学海、幸堂得知、大和田建樹、松村介石、宮崎三昧、広津柳浪、森田思軒、箕作元八、巌本善治、若松賤子、渡辺霞亭、上田萬年、石橋思案、幸田露伴、山田美妙、高安月郊、大町桂月、川上眉山、大橋乙羽、江見水蔭、松居松葉、堺枯川、佐佐木信綱、田山花袋、徳田秋声、泉鏡花、久留島武彦、黒田湖山、金子薫園らが書いた。小波が属した硯友社のメンバーを多く見る。
小波の多くの掲載稿の目録が、『昭和女子大学近代文学研究室の「近代文学研究叢書55」(1972)』に載っている。
森田思軒が英訳から重訳した『十五少年漂流記』(1899年(明治32年))は、好評で、新訳にもこの邦題を踏襲している例が多い。また、高安月郊の『山椒大夫』(1908年(明治41年))は、森鷗外の小説に先行する戯曲だった。
博文館は、『少年世界』から分家する形で、1900年(明治33年)に『幼年世界』を、1906年(明治39年)に『少女世界』を創刊し、小波はそれらの主筆も兼ねたが、1906年(明治39年)に実業之日本社が『日本少年』を、1914年(大正3年)に大日本雄弁会が『少年倶楽部』を、1918年(大正7年)に鈴木三重吉が『赤い鳥』を創刊するなど、後続に追い上げられた。博文館自らも、1920年(大正9年)、通俗的な『譚海』を創刊した。
『少年世界』誌の発行部数は、最盛期を過ぎた1923年(大正12年)秋(関東大震災の直後)に、3万部前後だったという[1]。
1918年(大正7年)、巌谷小波主筆は博文館の顧問に退き、さらに1927年(昭和2年)、辞職した。
終刊の年月は、1933年(昭和8年)1月、1933年(昭和8年)10月、1934年(昭和9年)1月などと言われる。
復刻版
1895年(明治28年)1月の創刊号から1903年(明治36年)分までが、『名著普及会』により復刻されている[2]。
出典
- 福田清人:『明治の児童文学』、(「筑摩書房 明治文学全集95(1970)」の巻末)
- 続橋達雄:『児童文学の誕生』、桜楓社(1972)
- 昭和女子大学近代文学研究室編:『近代文学研究叢書35』、昭和女子大学近代文化研究所(1972)
- 西田良子:『少年世界』、(「『児童文学辞典』、東京書籍(1988)」の中)
脚注
- ^ 『「女学世界」における「投書」の研究』[1]の表2
- ^ 国際子ども図書館 少年世界