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演劇分野でも活躍した'''アルトゥル・シュニッツラー'''は[[小説]]においてもフロイト流精神分析に基礎をおき、人間の内面心理を深く洞察して、これを「内的独白」というスタイルで展開した。『グストル少尉』や『令嬢エルゼ』は、登場人物の心理の微妙なうつりかわりを描写した佳品とされる。なお、[[森鷗外]]は小説『みれん』、戯曲『恋愛三昧』などのシュニッツラー作品のいくつかを翻訳している。 |
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20世紀初め、伝統的なものとの絆を保持しながらも新しい芸術の形式を生み出そうという気運のもとで「ウィーン詩派」がおこったが、その中心人物が、上述の'''ヘルマン・バール'''である。バールは、[[自然主義]]・[[印象主義]]・[[表現主義]]などあらゆる新たな運動の先頭に立ち、評論や小説分野でも華やかな活動を示した。 |
20世紀初め、伝統的なものとの絆を保持しながらも新しい芸術の形式を生み出そうという気運のもとで「ウィーン詩派」がおこったが、その中心人物が、上述の'''ヘルマン・バール'''である。バールは、[[自然主義]]・[[印象主義]]・[[表現主義]]などあらゆる新たな運動の先頭に立ち、評論や小説分野でも華やかな活動を示した。 |
2020年6月18日 (木) 10:51時点における版
世紀末ウィーン(せいきまつウィーン)とは、19世紀末、史上まれにみる文化の爛熟を示したオーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーン、およびそこで展開された多様な文化事象の総称である。特にユダヤ系の人々の活躍がめざましい。広義には20世紀世界に大きな影響を与えた政治的・経済的諸事象や学芸における諸潮流を含み、多くの場合、1938年のアンシュルス(ナチス・ドイツによるオーストリア併合)までのそれも含んで呼称する[要出典]。
概略
「世紀末ウィーン」の現出は、一般に、帝国の政治面における混乱と凋落により、人々の関心が文化面に向かった結果であるとされている。また、「世紀末ウィーン」の文化事象としての特質や傾向は、当時のウィーンの人々がもっていたコスモポリタン的な雰囲気や環境と密接なかかわりをもっていたとされており、ここには後述するように皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(1830年 - 1916年)の意向もおおいに反映していた。
世界都市ウィーンの成り立ち
ウィーンは、そもそもの成り立ちが2つの道が交差するところに生まれた町であった。ドナウ川に沿ってヨーロッパを東西に横切る道と、バルト海とイタリアを結ぶ南北の道(「琥珀街道」)である。そこはゲルマン系、スラヴ系、マジャール系、ラテン系のそれぞれの居住域の接点にあたり、歴史的にみても紀元前5世紀以降ケルト人の居住する小村であったところにローマ帝国の北の拠点ウィンドボナが建設されたのがウィーンの始まりであった。
オスマン帝国の隆盛時には西ヨーロッパからみてイスラム勢力圏への入り口にもあたっており、伝統的にも多彩な民族性を集約する都市だったのである。19世紀にはバルカン諸国の独立によりイスラム勢力圏への入口は東方に移っており、ウィーンは地理的にヨーロッパの中心となった。
世紀末ウィーンの時代背景
1848年革命はウィーンはじめオーストリア帝国全土を揺るがし、ハンガリー各地やミラノ、プラハでも暴動が起こって、ウィーンではメッテルニヒが追放されるなどの混乱のなか皇帝フェルディナント1世が退位し、甥のフランツ・ヨーゼフ1世(在位:1848年 - 1916年)が18歳の若さで跡を継いだ。
1853年、不凍港獲得を目指すロシア帝国はオスマン帝国との間に戦端を開いてクリミア戦争が起こったが、これに対し、バルカン半島におけるロシアの影響力がさらに増大することを恐れたオーストリアは、オスマン帝国の支持にまわった。これはナポレオン戦争以来の盟友であったロシアとの関係を決定的に悪化させた。1859年にはイタリア統一(リソルジメント)を企図していたサルデーニャ王国との戦争に敗北し、ミラノなどロンバルディア地方を失い、1866年にはビスマルク率いるプロイセン王国との間に普墺戦争が起こってケーニヒグレーツの戦いで大敗を喫した。その結果、オーストリアを盟主とするドイツ連邦は消滅し、イタリアではヴェネト地方を失うなどハプスブルク家率いるオーストリアは確実にその国際的地位を低下させていった。なお、1867年に皇帝の弟マクシミリアンはメキシコで射殺されている。
ドイツから閉め出された形となったオーストリアは、1867年のアウスグライヒ(妥協)によってやむなくマジャール人の自治を認めてオーストリア=ハンガリー二重帝国が成立した。その結果、オーストリア帝国(正式には「帝国議会において代表される諸王国および諸邦」)とハンガリー王国は外交・軍事・一部の財政をともにするだけで、帝国内ではそれぞれ独自の政府と議会をもつこととなった。とはいえ、この国は、対外的に軍事的な国威発揚を続けていくことはもはや限界に達していた。19世紀中葉から後半にかけてのヨーロッパはナショナリズムによる国家統一の旋風が吹き荒れた時代であったが、このことは一方で、この国では二重帝国の複合民族国家としての存在意義を著しく動揺させるものでもあったのである。
ここにおいてオーストリアは、排他的なナショナリズムを掲げることができず、むしろ多民族共生・多文化共存の方針を打ち出さざるを得なくなった。首都ウィーンには将軍たちや支配層の英雄に代わって文人や芸術家たちの銅像が建てられ、かつてオスマン帝国による包囲戦に耐えた城壁は取り壊されて、跡地にはリングシュトラーセ(環状道路)が建設された。リングシュトラーセの沿線にはウィーン宮廷歌劇場(現在の国立歌劇場)をはじめとして、ウィーン市庁舎、帝国議会、取引所、大学、美術館、博物館、ブルク劇場、コンサートホールなどの公共建造物、そして裕福なブルジョアたちの数多くの豪華な建物があいついで建設され、1873年には装いを新たにしたウィーンにおいて万国博覧会が開催された。なお、岩倉使節団もこの博覧会を見学しており、久米邦武は『米欧回覧実記』(1878年)にその記録を残している。
民族比率を見れば、二重帝国のなかでドイツ人が占める割合は24%にすぎなかった。10をくだらない異なった民族をかかえる帝国各地からはウィーンへの移住者があいつぎ、郊外には集合住宅が建設された。皇帝フランツ・ヨーゼフ1世はユダヤ人に寛大な姿勢をとり、1860年代の自由主義的な風潮のなかで、職業・結婚・居住などについてユダヤ人に課せられていた各種の制限を取り除いた。これは、前世紀の啓蒙専制君主ヨーゼフ2世の「宗教寛容令」(1781年)の完成であり、アメリカ独立宣言やフランス人権宣言において唱えられた自由・平等の実現でもあった。
当時の東欧ではポグロムと呼称されるユダヤ人迫害が横行していたこともあって、ユダヤ系の人々が数多くウィーンにやって来た。土地所有が禁じられていたユダヤ人たちに居住の自由が与えられたため、それまで縛り付けられていた田舎町を比較的簡単に離れることができたのである。時あたかも第二次産業革命のさなかにあり、本格的な工業社会の到来にも当たっていた。彼らが移住するに当たっては、ユダヤ人に許されていた金融業で蓄えた財産を持参する場合もあれば、身ひとつでやって来る者もいた。この間、ウィーンでは、1869年に6.6%だった都市人口に占めるユダヤ人の割合が、1880年には10.1%にまで増大した[1][注釈 1]。
いっぽう、フランツ・ヨーゼフ1世妃で「シシィ」の愛称をもつ悲劇のヒロインエリーザベト皇后(1837年 - 1898年)は、ギリシア語・ラテン語だけでなく、シェイクスピア作品を原語で読め、なおかつその一節をエリザベス朝期のドイツ語で言い表すことができたといわれる。稀有といえるほど語学の才に恵まれていた「シシィ」であったが、特にハンガリーの風土と文化を心から愛し、規則ずくめの宮廷を嫌ってハンガリー各地を旅行した。彼女は、たとえば反ハプスブルク的なマジャール人の心さえ動かしてしまうくらいハンガリー語に通じていたという。
一般に1861年から1895年までのウィーンはリベラルな時代といわれている。万博の開かれた1873年は経済恐慌が起こって一時的に社会的緊張が生じており、スラブ系諸民族の自立化の要求は相変わらず存在していたが、それでも1880年代はイタリア・ドイツと三国同盟(1882年成立)を結ぶなど全体的にみて小康状態を保っていた。しかし、1889年、皇帝フランツ・ヨーゼフと「シシィ」の息子で唯一の帝位継承者であったルドルフ大公がウィーン郊外のマイヤーリングで愛人マリー・ヴェッツェラと謎の情死を遂げ、さらに、1898年には「シシィ」エリーザベト皇后がイタリア人ルイジ・ルケーニによってジュネーヴで暗殺されるなど、皇帝にとって痛恨のできごとが続いた。この間、1895年にはリベラル派が市評議会(1848年成立、定員150名)選挙に敗れて、その代わりに反ユダヤ的なキリスト教社会党が過半数を占め、市長にカール・ルエーガー(後述)が推されたが、皇帝はこれを拒否している。
ルドルフ大公の死後、帝位継承者に指名されたのは皇帝の甥にあたるフランツ・フェルディナント大公であった。しかし、1914年6月28日にサラエヴォを訪れたフランツ・フェルディナント大公はセルビアの民族主義者ガブリロ・プリンチプによって暗殺されてしまう。皇帝はこの犯罪が処罰されることのないまま放置することができず、最後通牒をセルビア政府に突きつけた。7月28日、ついに戦端は開かれた。第一次世界大戦の勃発である。
「何もかもが我が上にふりかかる」——それが口癖だったといわれる皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、大戦中の1916年に亡くなった。その2年後、700年近く続いたハプスブルク帝国は地上から消滅した。
なお、統計によれば1840年には約40万人だったウィーン市の人口は、1860年には80万人弱となり、次々に郊外を呑みこんで1890年には人口130万を数え、1905年には187万、第一次世界大戦末には220万人に膨れあがっている。
ウィーン世紀末芸術の諸相
美術
美術では、アカデミックな芸術家団体クンストラーハウスの保守性を嫌った人々によって1897年に結成されたウィーン分離派(ゼツェシオン)のグスタフ・クリムト(1862年 - 1918年)が特に有名である。官能的なテーマを数多く描いたクリムトの作品は、甘美で妖艶なエロスを発散していると同時に、常に死の影があり、さらに、全作品にわたって社会の側面がそぎ落とされているとの指摘がある。
ウィーン分離派に加わった人物としてはデザイナーのコロマン・モーザー(1868年 - 1918年)がおり、多方面で活躍した才人であった。かれはまた、建築家ヨーゼフ・ホフマン(後述)とともにウィーン工房の設立にも尽力した。
分離派に加わらなかった若手としては、ウィーンに近いトゥルン出身で20世紀初頭に活躍したエゴン・シーレ(1890年 - 1918年)がいる。かれはクリムトの装飾的な画風から影響を受けたとされ、鋭い描線によるエロティックな絵画を多数のこした。
若い頃にはウィーン工房に参加したものの終生独自の道を歩んだ画家として、『ヴァルデンの肖像』(1910年)やアルマ・マーラーとの愛欲を描いた『風の花嫁』(1914年)で知られるオスカー・ココシュカ(1886年 - 1980年)がいる。かれの作品は、表現主義的傾向をもつとされることが多く、時空を越えた一種の混沌状態とそこにおける苦悩が描かれているといわれる。
『青騎士』の運動に参加したアルフレート・クービン(1877年 - 1959年)は画家であると同時に詩人である。かれはやがて出現するシュルレアリスムの先駆者とされる。
建築
1857年、皇帝フランツ・ヨーゼフはウィーンをとりまく城壁の撤去を指令、1860年には撤去が完了し、かわりに1858年から1872年にかけて環状道路(リングシュトラーセ)がつくられた。
既に述べたように、これ以後、リングをとりまいて、高級住宅地が造成され、各種の公共建築物が20世紀初頭までの数十年にわたって次々に建てられた。そのため、この時代のことを「リングシュトラーセ時代」と呼称することがある。これらのは過去の建築様式から都合よく拝借したものであり、それを称して折衷主義という場合がある。
「折衷主義」の例としては、リンクに面した美術史美術館と自然史博物館がある。これは、一対の宮殿として王宮の向かいに建てたもので、ゴットフリート・ゼンパーの基本案とその弟子カール・ハゼナウアーの設計によって1872年から9年がかりで建造された。ここでは、ルネサンス様式とバロック様式が混在している。この2人はまた、ブルク劇場の建築も手がけており、ここではネオ・バロック的要素、ナポレオン3世時代の様式、後期ルネサンス様式が融合している。
他の例では、ウィーン市庁舎はネオ・ゴシック様式の建物の上にフランドル風の鐘楼を載せ、国会議事堂(帝国議会)は古代ギリシアから着想を得た「ギリシア様式」を採用している。このように建物の用途に合わせて様々な建築様式を用いることが折衷主義の特徴である。アドルフ・ロースは見かけの立派な建物が並ぶウィーンを「ポチョムキン都市」と痛烈に批判した。
建築家ヨゼフ・マリア・オルブリッヒ(1867年 - 1908年)と画家クリムトらによって結成された上述のウィーン分離派は、オーストリア近代建築の誕生をも促した。その代表的な建築家にオットー・ワーグナー(1841年 - 1918年)がいる。古典主義建築から出発したワーグナーであったが、ユーゲント・シュティールの傑作として知られる瀟洒な「カールスプラッツ駅」(1899年)や、近代建築運動の幕開けを告げる建物として名高い「ウィーン郵便貯金局」(1905年)を残した。ワーグナーの言葉に「建築は必要にのみ従う」があり、ここでは、機能性と合理性を重視した近代建築の理念が示されている。
オルブリッヒの建築としては、ウィーンのセセッション館(分離派会館)(1897年 - 1898年)が有名であり、分離派とユーゲント・シュティールの最終的な結合を示すとされる。この建物は、ウィーン市から寄贈された土地のうえに建てられたもので、その金色に輝くドームは、月桂樹の葉をモティーフとした透かし彫りになっている。また、会館の建設を支援した1人に工業家カール・ウィトゲンシュタイン(哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの父)がいた。なお、地階の絵画『ベートーヴェン・フリース』は、1902年にベートーヴェンをテーマとして開かれた第14回分離派展のためにクリムトが、第9交響曲を聴いて造形したものとされる。
上述のヨーゼフ・ホフマン(1870年 - 1956年)は建築家であり、デザイナーとしても著名であった。分離派の中心メンバーの1人で、20世紀始めにはウィーン工房を主宰した。ブリュッセルのストックレー邸(1905年)は、ホフマンおよびウィーン工房が内部装飾、家具、庭園、食器類をデザインし、クリムトが食堂の壁画を描いた、近代建築の記念碑的作品である。
カフェ・ムゼウム(1899年)やウィーンのシュタイナー邸(1910年)、ロースハウスなどで知られるアドルフ・ロース(1870年 - 1933年)は「装飾は犯罪である」としてシンプルな造形性のみを求め、「折衷主義」や分離派の装飾性を鋭く批判した。著作に『装飾と犯罪』『文化の堕落について』(ともに1908年)などがある。かれはまた、ウィトゲンシュタインやペーター・アルテンベルクとも親交があった。
このように、世紀末ウィーンの建築家たちは、装飾的傾向から合理主義、機能主義への移行を示し、20世紀のモダニズム建築のさきがけをなした。
音楽
「音楽の都」ウィーンは、ケルト、ゲルマン、ラテン、スラヴ、マジャールなどの民族性豊かな音楽が合流し、ハプスブルク家の手厚い庇護のもと、キリスト教音楽とカトリック教会の強い影響下で、長い年月をかけて重層的に形成されてきたものであり、18世紀末以降、モーツァルトやベートーヴェン、シューベルトなどが活躍していた伝統を受け継ぐものであった。この19世紀末には宮廷歌劇場(現在の国立歌劇場)やウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の本拠地であるウィーン楽友協会などが建設されるなど、現在に続くウィーンのクラシック音楽の象徴的建造物が作られた。
19世紀後半のウィーンでは軽音楽が数多くつくられ、特にワルツは、「ワルツ王」とよばれたヨハン・シュトラウス2世(1825年 - 1899年)らによって、速いテンポのウィンナ・ワルツのスタイルができあがった。シュトラウスの作品『美しく青きドナウ』や『ウィーンの森の物語』は今日でも世界中で演奏され、人気が高い。
ハンブルク生まれで「3大B」のひとりと呼ばれたヨハネス・ブラームス(1833年 - 1897年)もウィーンで活躍した音楽家である。1862年以降ウィーンに生活の拠点を移して、ヨハン・シュトラウス2世とも親交があった。4つの交響曲や協奏曲、室内楽、歌曲などに傑作を残し、緻密さと完成度の高さで知られる作曲家である。
アントン・ブルックナー(1824年 - 1896年)はザンクト・フローリアン修道院のオルガン奏者を務めていたが、ワーグナーに心酔し、テ・デウム(1881年)と交響曲第7番ホ長調(1883年)の成功によって、一挙に名声を高めた。つづく交響曲第8番ハ短調(1892年)は彼の代表作と知られる傑作である。
リートの分野では、スロヴェニア生まれのフーゴ・ヴォルフ(1860年 - 1903年)が崇高で新しい様式を打ち立てた。
宮廷歌劇場監督グスタフ・マーラー(1860年 - 1911年)は生前は卓越した指揮者として名を馳せたが、交響曲は聴衆にはほぼ理解されず、マーラー自身もユダヤ人であることから多くの艱難を受けた。戦後から再評価がすすみ、今では頻繁に演奏される作曲家のひとりである。
ユダヤ系のアルノルト・シェーンベルク(1874年 - 1951年)は半音階的な12音からなる音列を基礎にした十二音技法(ドデカフォニー)の創始者として知られる。後期ロマン派的な『浄められた夜』や『グレの歌』から出発し、『月に憑かれたピエロ』(1912年)で無調の技法を探求し、1920年代前半に12音技法を完成させた。
フランツ・シュレーカー(1878年 - 1934年)もユダヤ系で、かれもまた、音楽史上の大胆な革新者であった。かれは「拡張された調性」の原理や「総合芸術としての音楽劇」という発想を20世紀音楽にもたらした。
以上述べたうちの、ヨハン・シュトラウス2世を除く一連の作曲家の作品は、今日の音楽界で「世紀末ウィーン」という一ジャンルとして総称されることがある。
アントン・ヴェーベルン(1883年 - 1945年)とアルバン・ベルク(1885年 - 1935年)はともにシェーンベルクに学び、新ウィーン楽派あるいはウィーン無調楽派と呼ばれた。また、ウィーン出身でのちにアメリカ合衆国に亡命したユダヤ系のエーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト(1897年 - 1957年)は早熟な天才として知られ、渡米後は、自身にとって必ずしも意に沿わない映画音楽での大活躍が有名である。
演劇
20世紀初頭、オーストリアの演劇は、のちに「ウィーン派」とよばれた作家たちによって新たな飛躍を遂げた。そのグループの中核をなしたユダヤ系のヘルマン・バール(1863年 - 1934年)は、多くの風俗劇のなかに鋭さと才知をこめて当時のウィーンの雰囲気を描いた。
ウィーンの富裕なユダヤ系実業家の家に生まれたフーゴ・フォン・ホーフマンスタール(1874年 - 1929年)は、叙情に満ちた初期の作品ののち、「祝祭」としての演劇を唱えて、洗練された美意識にもとづいた戯曲の数々を発表した。代表作にギリシア古典の翻案劇『エレクトラ』『オイディプスとスフィンクス』や中世宗教劇『イェーダーマン』(1911年)がある。ホーフマンスタールはまた、1920年にはじめて開催されたザルツブルク音楽祭を発案したことでも知られる。そのとき、自作『イェーダーマン』(リヒャルト・シュトラウス音楽、マックス・ラインハルト演出)をザルツブルク大聖堂正面前を舞台に上演させている。なお、ホーフマンスタールはリヒャルト・シュトラウスと協力して『薔薇の騎士』などのオペラ創作にも尽力している。
アルトゥル・シュニッツラー(1862年 - 1931年)はユダヤ系(ただしキリスト教徒)で、元来は医者であったが、戯曲『アナトール』(1890年)の成功によって作家生活に入り、ホーフマンスタールと並ぶ新ロマン主義の旗手となった。フロイトの精神分析学の影響を受け、富裕ではあるが閉塞感のただよう市民生活や社交界をときに陰鬱に描き、「世紀末ウィーン」の退廃的な気分を軽妙に表現した。『恋愛三昧』(1895年)や『輪舞』(1900年)が代表作である。
文学
演劇分野でも活躍したアルトゥル・シュニッツラーは小説においてもフロイト流精神分析に基礎をおき、人間の内面心理を深く洞察して、これを「内的独白」というスタイルで展開した。『グストル少尉』や『令嬢エルゼ』は、登場人物の心理の微妙なうつりかわりを描写した佳品とされる。なお、森鷗外は小説『みれん』、戯曲『恋愛三昧』などのシュニッツラー作品のいくつかを翻訳している。
20世紀初め、伝統的なものとの絆を保持しながらも新しい芸術の形式を生み出そうという気運のもとで「ウィーン詩派」がおこったが、その中心人物が、上述のヘルマン・バールである。バールは、自然主義・印象主義・表現主義などあらゆる新たな運動の先頭に立ち、評論や小説分野でも華やかな活動を示した。
バールの影響のもとに現れたのが、印象主義的な新ロマン主義の代表的作家・詩人として知られるフーゴ・フォン・ホーフマンスタール(上述)である。かれは、16歳にして詩集が認められた早熟な天才であり、典雅な形式をもつ唯美主義的な詩作もあれば、美しい韻文劇の書き手でもあり、詩論もなせば、古典の悲劇や中世の伝説を翻案して現代性を付与するなど、その活躍は多方面にわたった。
「世紀末ウィーン」の名物男だったペーター・アルテンベルク(1859年 - 1919年)は「カフェ文士」として知られたユダヤ系の作家で、短編を得意とし、スケッチ風の持ち味で知られる。内容は情緒に富み、その表現は印象主義的傾向が強いとされる。日本では池内紀により『小品六つ』として紹介されている。また、『釣』は森鴎外による翻訳がある。
長編小説『ゲオルクの死』(1900年)や『ある夢の記憶』で知られるユダヤ系のリヒャルト・ベーア=ホフマン(1866年 - 1945年)は、ユーゲントシュティールの代表的存在であり、憂愁と繊細美を特徴とするといわれ、ホーフマンスタールやシュニッツラーの作風に近いと評価されることが多い。『ゲオルクの死』ではストーリーの発展を極力抑え、もっぱら主人公の気分や回想、内省、夢などを様式化して、それを装飾的な言葉で語るという手法を採っている。
『地獄のジュール・ヴェルヌ』と『天国のジュール・ヴェルヌ』で知られるルートヴィヒ・ヘヴェジー(1843年 - 1910年)は淡々とした軽妙な文体で知られるユーモア作家である。かれはまた美術評論も手がけている。
ジャーナリストでもあり批評家でもあったアルフレート・ポルガー(1873年 - 1955年)には佳品として知られる短編小説『すみれの君』がある。ポルガーはスイス、アメリカに亡命し、第二次世界大戦後はチューリヒへ戻って、そこで亡くなった。ポルガーはまた、ウィーンのカフェ文化をこよなく愛した一人でもあった。彼は、カフェハウスを「ひとりでいたいと望みながら、そのための仲間を必要とする人間の行くところ」だとしている。
モラヴィア出身のユダヤ人カール・クラウス(1874年 - 1936年)は、詩や戯曲、随筆で知られる。また、1899年から1930年にかけては闘争的な評論誌『ファッケル』(炬火)の編集と執筆にたずさわっている。そのなかでかれは黄禍論を批判したり、第一次世界大戦中、当時にあっては例外的であった反戦論を果敢に唱えたりしている。自分自身さえ皮肉の対象としてしまうクラウスの公開朗読会は、当時としてはかなり衝撃的なものであったという。ジャーナリズムの堕落を告発し続けた『黒魔術による世界没落』(1932年)、いち早くヒトラーの危険を暴いた『第三のワルプルギスの夜』(1933年完成、1952年出版)が代表作である。また、その風刺や時代批判を含む詩や随筆にはクラウス特有の厭世観の存在があるとも指摘される。
フリッツ・フォン・ヘルツマノフスキー=オルランド(1877年 - 1954年)は『皇帝に捧げる乳歯』(1927年)や『薔薇生籬に絡めとられた駑馬』など奇天烈で破天荒な作品で話題を集めた。
エゴン・フリーデル(1878年 - 1938年)は作家、随筆家、編集者、劇評家であり、博学な文化史家でもあった。浩瀚な『近代文化史』で知られる。また、若いころのフリーデルは「名物男」アルテンブルクと奇妙な二人組を組んでウィーンの街を徘徊し、かれの作品を世に紹介している。マックス・ラインハルトのもとでの劇場俳優、またアルフレート・ポルガーと共同経営したカバレット(文学キャバレー)での俳優兼劇作家、また朗読家でもあったかれは、アンシュルスに際し、亡命を拒んで自殺している。
『変身』(1912年 - 1915年)や『審判』(1914年)で知られ、「ユダヤ人であってユダヤ教徒でない」と自称するプラハ生まれのフランツ・カフカ(1883年 - 1924年)は、神の不在や失われた人間関係からくる不安と孤独を描き出した。その作品世界は非現実的かつ幻想的であり、独特の不条理さをたたえているとされる。かれは生前中はあまり評価されないまま、41歳で結核のため亡くなっているが、第二次世界大戦後、カミュなどに取り上げられて一大ブームを引き起こし、20世紀の代表的な作家とみなされるようになった。『審判』、『城』、『アメリカ』は親友のマックス・ブロート(1884年 - 1968年)に焼却を依頼した作品であったが、ブロートがカフカの遺言に反して発表したものである。
『同時代人の肖像』(1940年)で知られるウィーン生まれのフランツ・ブライ(1871年 - 1942年)はもっとも早くフランツ・カフカの短篇を自分の雑誌に掲載した作家・批評家である。ほとんど無名だったロベルト・ムージルをいち早く評価したことでも知られる。フランス文学の翻訳などのほか、代表作として、エロスをテーマにした『恋愛教本』(1924年)や同時代の作家などを動物にみたてた風刺『文学動物大百科』(1920年)がある。1938年アメリカに亡命、ニューヨークで没している。
ウィーン生まれでユダヤ系のシュテファン・ツヴァイク(1881年 - 1942年)は第二次世界大戦の悲劇をのがれブラジルに移住し、その地で自殺した。歴史的短編集である『人類の星の時間』(1927年)や回想『昨日の世界』(1942年)などで知られる。多くの小説や評論・伝記を書いているが、『マリー・アントワネット』『ジョゼフ・フーシェ』『メアリー・スチュアート』など、フロイトの心理学を用いて、歴史上の人物の性格を鋭い洞察力で解釈した。
『士官候補生テルレスの惑い』(1906年)、『和合』(1911年)、『三人の女』(1924年)、『生前の遺稿集』(1936年)などの短編で知られるロベルト・ムージル(1880年 - 1942年)はチェコ人で、のちにスイスに亡命した。『特性のない男』(1933年)は、ムージル唯一の長編で第一次世界大戦直前のウィーンを舞台にした未完の小説。ハプスブルク帝国(ムージルは「カカーニエン」と呼ぶ)への鎮魂歌とも言える。
ウィーンの富裕なユダヤ人家庭に生まれたヘルマン・ブロッホ(1886年 - 1951年)は、ムージルと並んで「帝国」が生んだ20世紀の巨匠とされ、代表作に『夢遊の人々』がある。かれの作品には、長大な作品のなかで新しい小説の形式の追求を試みている点や社会批判などの点で、ムージル作品との共通点が指摘される。長篇評論に『ホフマンスタールとその時代』があり、そのなかで多民族都市ウィーンのもつコスモポリタン性や文化の多層性とともに、ハプスブルク朝末期の時代状況を、あらゆる価値や尺度が相対化される「価値の真空」と名づけて論じている。ブロッホは、1938年にアメリカに亡命した。
ゲオルク・トラークル(1887年 - 1914年)は、第一次世界大戦中の怖ろしい体験のために自ら命を絶った夭折の天才詩人である。「世界苦」をうたった貴重な叙情詩をのこしており、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインもその詩の愛読者であった。
『果てしなき逃走』や『ラデツキー行進曲』で知られるヨーゼフ・ロート(1894年 - 1939年)はユダヤ系の作家でありシオニストでもあった。明晰な文体を特色とし、物語性に富む多くの小説を著した。『ラデツキー行進曲』では、理念としての「多民族国家」を高らかに謳いあげている。ヒトラーの政権掌握後はフランスに亡命し、パリで病死している。
広大なハプスブルク帝国の領土を精神空間として生まれたオーストリア文学の特質を、池内紀は「ドイツとスラヴとユダヤの出会い」としている(1995)。なお、19世紀の小説家・随筆家フェルディナント・キュルンベルガー(1823年 - 1879年)は次の言葉を残している。
- 「われわれウィーン人は、胸はドイツでも、胸のボタンの穴はコスモポリタンである」
20世紀をリードする学術と思想
精神分析・心理学
東欧系ユダヤ人(アシュケナジム)の家に生まれたジークムント・フロイト(1856年 - 1939年)は精神分析学を創始して同時代の芸術文化に多大な影響をもたらした。グスタフ・マーラーもフロイトの診察を受けたことがあり、フロイト自身はシュニッツラーの文学作品に親近感をもったという。また、トーマス・マンをはじめとする20世紀のほとんどすべての作家は何らかの形でフロイトの影響を受けているとされる。
精神分析学は、精神療法であると同時に、健康であるか否かを問わず、人間の心理を解明しようとする1つの科学として提唱され、さらには「人間とは何か」という古来の哲学的な問いにたいして答えようとする1つの思想でもあった。自由連想にもとづいて無意識のなかに沈みこんで抑圧されている過去の記憶を掘りおこし、それを言葉で言い表すことによって過去から決別しようとする手法をとり、無意識の欲望の根底にリビドー(性的衝動およびそれを発散させる力)をおいた。フロイトは、アンシュルスの起こった1938年にはロンドンに亡命し、翌年、同地で没した。
やはりユダヤ系のアルフレッド・アドラー(1870年 - 1937年)はフロイトの弟子であったが、師の唱えたエディプス・コンプレックスやリビドーの考え方、また何事も性に還元する手法には賛同できず、むしろ、自らの生きる支えとしての自尊感情に着目し、権力を志向する優越欲求や劣等感の代償作用、帰属感、自己受容など自己に対する価値評価をテーマとする個人心理学(個性心理学)を創設し、人はいかにして心の平安とやすらぎを得ることができるかを探究した。こんにち、メンタルヘルスへの関心の高まりとともに学校や企業の現場であらためて注目されている。
哲学・思想
ユダヤ系哲学者のオットー・ヴァイニンガー(1880年 - 1903年)の主著『性と性格』(1903年)は、かれが23歳の若さで自殺を遂げたのちに高く評価され、若きウィトゲンシュタインにも影響を与えている。男性原理と女性原理を基本用語として諸事象を解析していく手法は、こんにちでは性差別主義、あるいは反ユダヤ主義としてしばしば非難の対象となっている一方、天才的ひらめきに満ちた名論文として高い評価が与えられることもある。
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889年 - 1951年)はウィーン出身の哲学者である。父はユダヤ系で鉄鋼業で財をなしたカール・ウィトゲンシュタインで、思春期に2人の兄を自殺で失っている。1912年から1914年にかけてケンブリッジ大学で哲学を学んだが、25歳で相続した多額な遺産はほとんど全部を手放している。志願兵として前線にあった第一次世界大戦の間書き続けたノートをもとに1918年から翌年にかけて『論理哲学論考』(1923年出版)を完成させたが、それ以後、このテーマに関して自分のし残したことはないと哲学を離れ、教員養成学校に入学した。6年あまりの小学校教員生活のあいだに『国民学校用辞典』(1926年刊)をつくった。ウィトゲンシュタインはよく「哲学では、いつも利口でいないこと、が非常に大事だ」と語っていたという。また、かれは「わたしの言語の限界は、わたしの世界の限界を意味する」「語りえぬものについては沈黙しなければならない」と述べているように、哲学の仕事を言語分析に限定した。その研究はモーリッツ・シュリックらウィーン学団の哲学思想に大きな影響を与え、こんにちのイギリス、アメリカの分析哲学に多大な影響を与えたとされる。
なお、不完全性定理で著名な数学者・論理学者クルト・ゲーデル(1906年 - 1978年)や批判的合理主義や反証主義で知られる哲学者カール・ポパー(1902年 - 1994年)はオーストリア出身、物理学・数学・論理学・工学・計算機科学・気象学など多方面で活躍したジョン・フォン・ノイマン(1903年 - 1957年)はハンガリー出身である。
自然科学・医学
物理学の分野では、統計力学の端緒を開いたほか、電磁気学、熱力学、数学の研究でも知られるルートヴィッヒ・ボルツマン(1844年 - 1906年)やモラヴィア生まれでアインシュタインに多大な影響を与えたエルンスト・マッハ(1838年 - 1916年)が著名である。
生物学の分野では、シュレージエンの農家に生まれ、エンドウマメの研究から世紀の大発見「遺伝の法則」を発見したグレゴール・ヨハン・メンデル(1822年 - 1884年)がいる。メンデルの研究は生前世に容れられなかったが、メンデルは「やがて私の時代が来る」と言ったとされる。メンデルの研究は、その死後16年たった1900年、それぞれ独自に研究を進めていた3人の研究者によってほぼ同時にその真価が認められた。
医学の分野では、精力的な病理解剖をおこなったカール・ロキタンスキー、近代的な診断学をつくりあげたヨーゼフ・スコダ、「標準視力検査表」をつくった眼科のフェルディナント・アルルト、麻酔法や胃の切除で新しい技術を確立したテオドール・ビルロート(1829年 - 1894年)、「整形外科の父」とよばれ、無血外科治療を考案したアドルフ・ローレンツ(動物学者コンラート・ローレンツの父)、ABO式血液型を発見したカール・ラントシュタイナー(1868年 - 1943年)など錚々たる名前が並ぶ。こうしたウィーン医学の隆盛は、1938年のアンシュルスによって断ち切られるように終焉を迎えた。医学関係者にはユダヤ系の人材が少なくなく、ある者は強制収容所に送られ、ある者は亡命の道を選んだからである。アセチルコリンの医学への応用で知られる、グラーツのオットー・レーヴィもそうした一人であった。亡命者の多くがアメリカに渡ったことによって、医学界の共通語がドイツ語から英語へ切り替わったとする見方さえ存在するほどである。
経済学
経済学ではオーストリア学派のカール・メンガー(1840年 - 1921年)が限界効用理論を唱え、それまでの労働価値説に代わる価値の根源に対する新しい考え方(限界効用)を提示して、ジェボンズ、ワルラスとともに近代経済学の祖のひとりとなった。主著に『社会科学、特に経済学の方法に関する研究』(1883年)がある。
メンガーの熱心な支持者であったオイゲン・フォン・ベーム=バヴェルク(1851年 - 1914年)は、近代的所得税の導入を提言し、その成功によりオーストリアの大蔵大臣を3期務めた近代経済学者である。限界効用価値説の発展に貢献し、利子論における時差制の主張者として有名である。主著に『資本と利子』(1884年 - 1889年)がある。
「イノベーションの理論」を唱えたヨーゼフ・シュンペーター(1883年 - 1950年)もオーストリア出身の経済学者である。1919年にオーストリア蔵相も務めた、20世紀の指導的な経済学者のひとりである。主著に『経済発展の理論』(1912年)がある。
ヒトラーとウィーン
アドルフ・ヒトラー(1889年 - 1945年)は父の死んだ1903年以後、学問をうち捨てて画業に専念し、1905年にはリンツの高等実科学校を退学して、画家を志してウィーンの美術学校を受験するが2回とも失敗した。当時のヒトラーは、毎日図書館から多くの本を借りて独学する勉強家だったといわれる。また、キリスト教社会党を指導していたカール・ルエーガー(1844年 - 1910年)の反ユダヤ主義演説に感動し、汎ゲルマン主義と反ユダヤ主義に基づく民族主義政治運動を率いていたゲオルク・フォン・シェーネラー(1842年 - 1921年)などからも強い影響を受けていた。ヒトラーはこの2人を「我が人生の師」と呼んでいる。
ヒトラーはのちに、『わが闘争』(1924年)のなかでこう書いている。
「この国家の内部が空虚であり、それを救うことが不可能だと認めると私は気のめいる不満に襲われた。しかし同時に、この国家がなそうとしていることはドイツの民衆の不幸となることを確信をもって予感した。
この君主国の首都が示している民族国家、つまりチェコ、ポーランド、ハンガリー、ルテニア、セルビアの民族の混交は私には不快なものに思われたし、人類の風紀を乱す菌を忘れてはならない、それはユダヤ人、さらにまたユダヤ人だ…この町で暮らせば暮らすほど、ドイツ文化の古くからの中心地をそこないはじめた外国民の混交に対する私の憎しみは激しくなっていった。
この時期のオーストリアは部品を合わせて結びつける接着剤が古くもろくなってしまったモザイクのようなものだった。この傑作に触れないでいるかぎり、それはうわべの生存であなた方をごまかすことができる。しかし、一撃を加えられると、無数の塊に壊されるし、その一撃がいつもたらされるかだけが問題なのだ。この国が崩壊する時、ドイツ国民の解放がはじまるようにいつも思われるのだ」
文化の「自殺」と崩壊する自由主義
19世紀後半から20世紀初頭にかけ帝政期のウィーンは、文化的多様性を統合する価値と理想である自由主義を体現し、史上まれにみる文化の爛熟をもたらし、歴史の曲がり角に向かって変転しつつあったときもそれを先導する役割を担ったが、この方向転換が結果的には一種の「文化的自殺」に終わってしまったと評されることがある[2]。
政治思想の面からも、上述したゲオルク・フォン・シェーネラー、カール・ルエーガーらの反ユダヤ主義とともに、それとは逆の方向から自由主義の瓦解を導くことになってしまったとされる運動としてシオニズムが掲げられることがある。
シオニズムの祖テオドール・ヘルツル(1860年 - 1904年)は、ハンガリーのブダペストに生まれ、ウィーンで育ったユダヤ人作家であった。コスモポリタン的なドイツ文化の教養を身につけて、高尚な貴族文化に憧れる穏健な教養人であったが、新聞記者としてドレフュス事件(1894年)の取材にあたったとき、いまだ根強いユダヤ人に対する偏見と遭遇して衝撃を受け、これを機に失われた祖国イスラエルを取り戻すシオニズム運動を起こした。同じ頃の東欧でのユダヤ人迫害や、シェーネラー、ルエーガーによる反ユダヤ的大衆運動に接してかれの態度が鮮明になったといわれる。1897年、バーゼルにおいて最初のシオニスト会議をひらいたが、その威厳のある立居振舞いは「ユダヤ人の王」とさえ呼ばれた。かれは小説『古く新しい国』(1902年)の冒頭に「もしあなたが望むなら、それはお伽噺ではない」と書いている。
ヘルツルとは同郷出身の同化ユダヤ人マックス・ノルダウ(1849年 - 1923年)もプロテスタント女性と結婚し、ドイツ文化に親しみを感じ、「15歳になった時、私はユダヤ的な生活態度とトーラーの研究を放棄した。…以来、ユダヤ教は単なる思い出となり、私は自らをドイツ人以外の何者でもないと感じるようになった」と記していた。しかし、ドレフュス事件に憤慨してユダヤ教に再改宗し、ヘルツルとともにシオニズム運動に身を投じている。
ノルダウはまた、その著作『頽廃論』(1892年)のなかで当時のヨーロッパに生起した反ユダヤ主義をデカダンスの一形態として非難しているが、同時に、一方では近代芸術とくに世紀末芸術を、身体的・精神的な一種の病気であり「退廃」であるとして批判する「頽廃芸術」論を展開した。この見解は、皮肉なことにノルダウ以降も右翼や一部美術家を中心にさかんに取り上げられ、後にナチスが第一次世界大戦後の文化の堕落を批判したうえで人種主義的主張の補強に用いたり、ユダヤ人芸術家たちへの迫害の口実に用いたりしている。
欧州統合へ
反ユダヤ主義とシオニズムという鬼子を生んだ世紀末ウィーンであったが、後に国家を越えた共生への道を探り、欧州統合へと向かう動きが誕生したのもウィーンであった。
オーストリアの政治家リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー(1894年 - 1972年)は、在日オーストリア代理公使の父ハインリヒと日本人の母青山ミツとの間に東京で生まれた。ウィーン大学で哲学を学んだ彼は、汎ヨーロッパ主義を唱え1923年に『汎ヨーロッパ』を著した。1926年早くもウィーンで第1回パン・ヨーロッパ会議がひらかれている。26ヵ国の代表が行った決議には「ヨーロッパの連帯。これは共通通貨、均等関税、水路の共用、軍事と外交政策の統一を基礎とする」の条項があり、これはまさに第二次世界大戦後のヨーロッパ共同体(EC)と今日の欧州連合(EU)構想の先駆けである。日本生まれのクーデンホーフ=カレルギーは、今日「EUの父」と呼ばれている。
なお、クーデンホーフ=カレルギーの後継者となったのは、オーストリア最後の皇太子だったオットー・フォン・ハプスブルクである。彼は幼少期に多民族国家を統治するための教育を受け、旧帝国内のあらゆる民族を愛するように育ったことに加えて、ヒトラーと対峙してアメリカ大陸に亡命したことによって「ヨーロッパ人」という自覚を持つに至った。オットー大公の関与した汎ヨーロッパ・ピクニックが、その後のベルリンの壁崩壊、さらには東欧革命を引き起こすことになった。今日の欧州連合は、「民族の牢獄」と呼ばれたかつての多民族国家、ハプスブルク君主国の精神を発展させて生まれたものといえる。
脚注
注釈
- ^ ただし教団に帰属するユダヤ教徒のみの数字。改宗等の理由でウィーンのユダヤ教団に帰属しなかったユダヤ系の者を含まない。
出典
関連する展覧会
- ウィーン・ミュージアム所蔵 クリムト、シーレ ウィーン世紀末展(2009年9月16日-10月12日、日本橋髙島屋8階ホール)
- クリムト、シーレのほか、オスカー・ココシュカ、カール・モル(Carl Julius Rudolf Moll、1861年-1945年)、アントン・フィルクカ(Anton Filkuka、1888年-1957年)などが取り上げられた。
関連項目
文学作品
- アルトゥル・シュニッツラー『ウィーンの青春 ある自伝的回想』 田尻三千夫訳、みすず書房、1989年11月。ISBN 4622033356
- 『ウィーン世紀末文学選』 池内紀編訳、岩波文庫、1989年10月。ISBN 4003245415
- 『ウィーン 聖なる春』 池内紀編、国書刊行会、新装版1997年。ISBN 4336039305
- ヘルマン・バール『世紀末ウィーン文化評論集』 西村雅樹編訳、岩波文庫、2019年11月。ISBN 4003358317
参考文献
- カール・E・ショースキー『世紀末ウィーン』安井琢磨訳、岩波書店、1983年、ISBN 400001160X
- 木村直司編『ウィーン世紀末の文化』東洋出版、新版1993年5月、ISBN 4809671224
- 池内紀『ウィーンの世紀末』白水社〈白水Uブックス〉、1992年4月、ISBN 456-0073201
- 池内紀、南川三治郎編『世紀末ウィーンを歩く』新潮社〈とんぼの本〉、1987年3月、ISBN 410-6019442
- 池内紀、南川三治郎編『ハプスブルク物語』新潮社〈とんぼの本〉、1993年1月、ISBN 410-6020122
- 南川三治郎編『図説 ウィーン世紀末散歩』河出書房新社〈ふくろうの本〉、1998年4月、ISBN 4309725767
- 南川三治郎編『図説 クリムトとウィーン美術散歩』河出書房新社〈ふくろうの本〉、1998年10月、ISBN 4309725856
- 『読んで旅する世界の歴史と文化 オーストリア』池内紀監修、新潮社、1995年5月、ISBN 410-6018403
- ピーター・ゲイ『シュニッツラーの世紀』田中裕介訳、岩波書店、2004年、ISBN 4-00-023402-1
- 小宮正安『ヨハン・シュトラウス ワルツ王と落日のウィーン』中央公論新社〈中公新書〉、2000年12月 ISBN 412-1015673
- 鈴木晶『フロイト以後』講談社現代新書、1992年4月、ISBN 406149094X
- スティーヴン・ベラー『世紀末ウィーンのユダヤ人 1967-1938』、桑名映子訳、刀水書房〈人間科学叢書〉、2007年。ISBN 978-4887083684
- 村山雅人『反ユダヤ主義 世紀末ウィーンの政治と文化』講談社選書メチエ、1995年8月。ISBN 406-2580543
- 山之内克子『ウィーン ブルジョアの時代から世紀末へ』講談社現代新書、1995年11月、ISBN 406-1492764
- ロート美恵『「生」と「死」のウィーン 世紀末を生きる都市』講談社現代新書、1991年3月。ISBN 406-1490451
- 渡辺裕『マーラーと世紀末ウィーン』岩波現代文庫、2004年2月、ISBN 400-6020821
- ジェーン・カリアー『エゴン・シーレ ドローイング・水彩画作品集』アイヴァン・ヴァルタニアン監修、和田京子編訳、新潮社、2003年3月、ISBN 4-10-542801-2
- 『エゴン・シーレ ウィーン世紀末を駆け抜けた鬼才』水沢勉編、六耀社、新装版2012年。ISBN 4897377196
- 『クリムトとシーレ 世紀末ウィーンの革命児』千足伸行監修、平凡社<別冊太陽>、2019年3月。ISBN 4582922724
- ガリマール社編『望遠郷8 ウィーン』、同朋舎出版〈旅する21世紀 ブック〉、1995年3月、ISBN 4-8104-2055-8
- 樺山紘一ほか編『クロニック世界全史 CHRONICLE OF THE WORLD』講談社、1994年11月
- 河辺利夫・保坂栄一編『新版 世界人名辞典 西洋編』東京堂出版、1971年10月、ISBN 4-490-10346-8
- フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編『図説 ラルース世界史人物百科 III フランス革命 - 世界大戦前夜』原書房、2005年4月、ISBN 4-562-03730-X
- 西村雅樹『世紀末ウィーン文化探究 「異」への関わり』晃洋書房、2009年7月、ISBN 978-4-7710-2055-9
外部リンク
- [世紀転換期をめぐるウィーン]年譜 - 三重県立美術館
- ウィーン世紀末年譜(続) - 三重県立美術館
- フランツ・カフカ『城』-松岡正剛の千夜千冊
- フランク・ウィットフォード『エゴン・シーレ』-松岡正剛の千夜千冊
- 世紀末ウィーンの建築
- ヒトラーの師とヘプ - ウェイバックマシン(2010年1月1日アーカイブ分)
- 崩壊する自由主義と文化