宗教寛容令
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宗教寛容令(しゅうきょうかんようれい、 英:Edict of toleration)とは、特定の宗教の信者が迫害されないこと、すなわち特定の宗教に関する信教の自由を政府や君主が保証したものである。
なお、必ずしも発令者が対象の宗教を支持したことを示すものではなく、あくまでも容認、黙認と捉えられるものが多い。
歴史上の宗教寛容令
[編集]古代
[編集]- 紀元前539年 – キュロス・シリンダー:アケメネス朝のキュロス2世が、バビロンのマルドゥク信仰など様々な信仰(ユダヤ教も含むとされる)の復興を認めたもの。粘土板に刻まれたアッカド語の原文が発掘されている。
- 311年 – ガレリウスの宗教寛容令:ローマ帝国の皇帝ガレリウス、コンスタンティヌス1世、リキニウスが発した勅令。ディオクレティアヌス時代からのキリスト教迫害を公式に終わらせた。
- 313年 – ミラノ勅令:コンスタンティヌス1世とリキニウスが発した勅令。全ローマ帝国においてキリスト教を合法化した。
中世
[編集]- 1264年9月8日 - カリシュの法令:ヴィエルコポルスカ公ボレスワフ・ポボジュヌィが発した、ユダヤ人の高い法的地位を認めた法令。
- 1436年 – バーゼルの誓約:バーゼル公会議において、神聖ローマ皇帝ジギスムントらがボヘミア王国のウトラキスト(フス派穏健派)の信仰を一部許容した。
近世
[編集]- 1562年1月 – サン=ジェルマン勅令:一月勅令とも。フランスの摂政カトリーヌ・ド・メディシスが、ユグノーの信仰を条件付きで認めた勅令。しかしカトリック教徒は強く反発し、2か月後のヴァシーの虐殺を発端としてフランス宗教戦争が勃発した。
- 1568年1月28日 – トルダの勅令:「宗教寛容と良心の自由の法令」とも。東ハンガリー王国のヤーノシュ2世が発した勅令。国内で従来認められていたカトリック、ルター派、カルヴァン派に加えてユニテリアンの信仰も保証した。その他の信仰も、公式な保護は与えないながらも認めた。
- 1573年1月28日 – ワルシャワ連盟協約:ポーランド・リトアニア共和国の貴族が締結した、あらゆる信教の自由を認めた法令。後にヘンリク条項に加えられ、以降のポーランド王は即位する際に必ず宣誓することを義務付けられた。
- 1579年1月23日 – ユトレヒト同盟:八十年戦争において、プロテスタントの多いネーデルラント北部の独立派7州が結成した対スペイン同盟。個人の信教の自由を認めるとともに、今後カトリック州が信仰を捨てずに同盟に加わることを認めた。
- 1598年4月13日 – ナントの勅令:フランスのアンリ4世が、ユグノーに限定的な信教の自由を認めた勅令。公の場での信仰、集会の許可、公職や大学への就職、要塞都市の維持を認めた。これによりユグノー戦争は終息に向かった。しかし1685年、ルイ14世がフォンテーヌブローの勅令でナントの勅令を破棄し、フランスにおける新教は再び非合法となった。
- 1609年 – ルドルフ2世の勅書:神聖ローマ皇帝ルドルフ2世が、ボヘミア王としてボヘミア・シロンスクの非貴族階級を含めた全住民に信教の自由を認めた布告。
- 1649年4月21日 – メリーランド寛容法:アメリカ東海岸のメリーランド植民地で、キリスト教内での信教の自由を認めた法律。イギリスのアメリカ植民地において宗教的寛容を唱えた2番目の法令であり、ヘイトスピーチを制限したものとしては世界初である。法令は1649年に破棄され、その後一旦復活したものの、名誉革命後の1692年以降は再び廃止された。メリーランド寛容法は、信教の自由を阻害する法律の制定を禁じたアメリカ合衆国憲法修正第1条(1791年制定)制定に大きな影響を与えた。
- 1664年9月16日 – ブランデンブルク寛容令:ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムが発布した宗教寛容令。プロテスタント各派間の寛容を定めるとともに、カトリックやプロテスタントが他宗派の信条を批判することを禁じた。
- 1685年10月29日 – ポツダム勅令:ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムの勅令。フランスでの弾圧を逃れたユグノーの、ブランデンブルク=プロイセン領への移住の便宜を図った。
- 1689年5月24日 – 寛容法:イングランド議会で可決された、ピューリタンなどの非国教徒プロテスタントに対する差別を撤廃した法律。ただしカトリックやユニテリアンなど急進派プロテスタントは意図的に除外された。
- 1692年3月22日 – 天主教公認の上諭:清の康熙帝が[1]、イエズス会によるカトリック布教を公認し、宣教師や教会への攻撃を禁じた[2]。しかし中国古来の風習との習合を容認するイエズス会の方針がヨーロッパで問題視された典礼論争の末、清は態度を硬化させ1724年にキリスト教を全面禁止した。
- 1712年3月29日 – ビューティンゲン寛容法:イーゼンブルク=ビューディンゲン伯エルンスト・カジミール1世が、完全な思想・良心の自由を認めた法令。同時に、高潔で礼儀正しいキリスト教徒としてふるまうことを求めた。この寛容法の狙いは、戦争や疫病で減少した人口を外部からの移民受け入れにより穴埋めしようというものであった。
- 1773年6月17日 – エカチェリーナ2世の寛容勅令:ロシアのエカチェリーナ2世が、国内のタタール人などのムスリムの抗争への対応として発した勅令。ロシア領内に存在するあらゆる信仰に対する寛容を約束したが、第一次ポーランド分割でロシアの支配下に入った多くのユダヤ人は埒外に置かれた。また9月に勃発したプガチョフの乱にはムスリムも多く参加した。
- 1781年10月13日/1782年1月2日 – ヨーゼフ2世の寛容令・寛容勅令:神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世がハプスブルク帝国内の非カトリック教徒(ルター派、カルヴァン派、セルビア正教)に信教の自由を与えた法令(ヨーゼフ主義)。1782年の勅令ではユダヤ人も適用範囲に含めた。しかし貴族勢力などの反発にあい、ヨーゼフ2世は1790年に死の床で寛容令を撤回した。
- 1784年 – トリーア寛容勅令:トリーア選帝侯クレメンス・ヴェンツェル・フォン・ザクセンが、トリーア領内のプロテスタントへの寛容を述べた勅令。
- 1787年11月29日 – ヴェルサイユ勅令:フランスのルイ16世が、ユグノーやユダヤ人など非カトリック教徒に公民としての権利を認めた勅令。信仰の自由までは含んでいなかった。なお、フォンテーヌブローの勅令はこの勅令の公布によって破棄された。
- 1791年12月15日 - 権利章典修正第一条:アメリカの合衆国憲法にメリーランド寛容法と同様の信教の自由が明記された。
近代
[編集]- 1839年7月17日 – ハワイ寛容勅令:ハワイ王国のカメハメハ3世が、従来優勢だったプロテスタントに加えてカトリックの宣教も認めた勅令。
- 1844年3月21日 – 1844年の寛容勅令:オスマン帝国において、イスラーム圏での「背教の罪」が必ずしも死刑とはならないとする解釈が出され[3]、パレスチナへのユダヤ人植民が容認された。
- 1847年3月30日 – フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の寛容勅令:プロイセンのフリードリヒ・ヴィルヘルム4世が、棄教の自由を認めた。
20世紀
[編集]- 1905年4月30日/1906年10月30日 – ニコライ2世の寛容勅令:ロシアのニコライ2世が、ロシア正教会以外の宗教に法的地位を与えた勅令。1906年の勅令では、ロシア正教会から分離したセクトにも法的地位を認めた[4]。
脚注
[編集]- ^ “In the Light and Shadow of an Emperor: Tomás Pereira, S.J. (1645-1708), the Kangxi Emperor and the Jesuit Mission in China”, An International Symposium in Commemoration of the 3rd Centenary of the death of Tomás Pereira, S.J., Lisbon, Portugal and Macau, China, (2008), オリジナルの2009-08-22時点におけるアーカイブ。
- ^ S. Neill, A History of Christian Missions (Harmondsworth: Penguin Books,964), pp. 189l90.
- ^ Sours, Michael (1998). “The 1844 Ottoman 'Edict of Toleration' in Baha'i Secondary Literature”. Journal of Baha'i Studies 8 (3): 53–80.
- ^ Pospielovsky, Dmitry (1984). The Russian Church Under the Soviet Regime. Crestwood: St. Vladimir Seminary Press. p. 22. ISBN 0-88141-015-2