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「ノースカロライナ (戦艦)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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参考文献1冊追加、建造経緯について補足
(3人の利用者による、間の4版が非表示)
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{{Infobox 艦艇
{| class="wikitable" style="clear:right; float:right; margin: 0em 0em 1em 1em; width: 300px; background:#ffffff"
| 名称 = ノースカロライナ
|colspan="2" align="center"|[[Image:USS_North_Carolina_%28BB-55%29_underway_in_the_Gilbert_islands,_November_1943.jpg|300px|]]
| 画像 = USS_North_Carolina_%28BB-55%29_underway_in_the_Gilbert_islands,_November_1943.jpg
|-
| 画像幅 = 300px
!colspan="2" style="background: #f0f0f0"|艦歴
| 画像説明 =
|-
| 建造所 = [[ブルックリン海軍工廠]]
|発注||[[1937年]][[8月1日]]
| 運用者 = {{USNAVY}}
|-
| 計画 =
|起工||[[1937年]][[10月27日]]
| 発注 = [[1937年]][[8月1日]]
|-
|進水||[[1940年]][[613日]]
| 起工 = [[1937年]][[1027日]]
| 進水 = [[1940年]][[6月13日]]
|-
| 竣工 =
|就役||[[1941年]][[4月9日]]
| 就役 = [[1941年]][[4月9日]]
|-
|退役||[[1947年]][[6月27日]]
| 退役 = [[1947年]][[6月27日]]
| 除籍 = [[1960年]][[6月1日]]
|-
| 除籍後 = 1962年4月29日よりノースカロライナ州[[ウィルミントン (ノースカロライナ州)|ウィルミントン]]で博物館船として公開
|除籍||[[1960年]][[6月1日]]
| 現況 =
|-
| 母港 =
|その後||博物館船として公開
| 愛称 = ショウボート ({{lang|en|Showboat}});<br/>USO ノースカロライナ
|-
| モットー =
!colspan="2" style="background: #f0f0f0"|性能諸元
| 建造費 =
|-
| 改名 =
| style="white-space:nowrap;" |[[排水量]]||基準:36,600[[トン]]<br />満載:44,800[[トン]]
| 要目注記 =
|-
| 艦種 =
|全長||222.11m
| 級名 =
|-
| 前級 =
|全幅||33.03m
| 次級 =
|-
| 排水量 = <!-- [[トン]] -->
|吃水||9.64m
| 基準排水量 = 36,600 [[トン数|トン]]
|-
| 常備排水量 =
|機関||バブコック&ウィルコックス式重油専焼水管缶8基<br/>GE式ギヤード・タービン4基4軸推進
| 公試排水量 =
|-
| 満載排水量 = 44,800 トン
|最大速||27[[ノット]]
| トン数 =
|-
| 総トン数 =
|乗員||士官・兵員:1,880名
| 長さ = <!-- [[メートル| m]] -->
|-
| 全長 = 222.11 [[メートル|m]]
|兵装||45口径40.6cm砲:9門<br />38口径12.7cm砲:20門<br />56口径40mm対空砲:60門<br />70口径20mm対空砲:36門
| 水線長 =
|}
| 垂線間長 =
'''ノースカロライナ ''' ('''USS North Carolina''', '''BB-55''') は、[[アメリカ海軍]]の[[戦艦]]。[[ノースカロライナ級戦艦]]のネームシップ。艦名は[[アメリカ合衆国]][[ノースカロライナ州|12番目の州]]に因む。その名を持つ艦としては3隻目にあたる。
| 幅 = <!-- m -->
| 全幅 = 33.03 m
| 水線幅 =
| 深さ =
| 吃水 = 9.64 m
| 高さ =
| 飛行甲板 =
| 機関 =
| 主缶 = [[バブコック・アンド・ウィルコックス]]式重油専焼水管缶×8基
| 主機 = [[ゼネラル・エレクトリック|GE]]式[[ギアード・タービン方式|ギアード・タービン]]×4基
| 推進器 = [[スクリュープロペラ]]4軸
| 電源 =
| 出力 = 121,000 [[馬力|hp]] (90,000 KW)
| 電力 =
| 速力 = <!-- [[ノット]] -->
| 最大速力 = 28[[ノット]] (52 km/h)
| 巡航速力 =
| 航続距離 = 17,400 [[カイリ|海里]] (32,320 km) /15ノット
| 燃料 = <!-- トン -->
| 乗員 = 士官・兵員:1,880名
| 搭載能力 =
| 兵装 = {{ubl|{{仮リンク|Mk 6 16インチ砲|en|16"/45 caliber Mark 6 gun|label=45口径40.6cm砲}}×9門|[[Mk 12 5インチ砲|38口径12.7cm砲]]×20門|[[28mm対空機銃]]×60門|[[ブローニングM2重機関銃|50口径機関砲]]×16門}}
| 装甲 = {{ubl|水線装甲帯:12 [[インチ|in]] (305 mm)|砲塔部:16 in (406 mm)|甲板部:5.5 in(140mm)|司令塔:14.7 in (373mm)}}
| 搭載艇 =
| 搭載機 = [[OS2U (航空機)|OS2U キングフィッシャー]]観測機×3機
| C4I =
| レーダー =
| ソナー =
| 探索装置 =
| 電子戦 =
| その他 = [[船尾楼甲板|船尾楼甲板部]]に航空機用[[カタパルト]]×2基
| 備考 =
}}
'''ノースカロライナ ''' ('''USS North Carolina''', '''BB-55''') は、[[アメリカ海軍]]の[[戦艦]]<ref name="米国、BB55">[[#米国(昭和15年10月)]] p.7〔 ○米國海軍建艦状況一覽表 其ノ1(軍艦、潜水艦 特務艦艇ノ部)1940-10-1調 〕〔 戰艦|North Carolina(BB55)|35,000|28~30(kt)|(略)|紐育海軍工廠|一九三七年度(二隻)|1937-10-27(起工 契約又ハ建造下令 年月日)|1940-6-13(進水年月日)|1941-10-15(豫定完成年月日)|49(建造月數)|1941-春就役 1941年末迄ニ艦隊編入ノ報アリ 〕</ref>。[[ノースカロライナ級戦艦]]の[[ネームシップ]]。艦名は[[ノースカロライナ州]]に因む。その名を持つ艦としては3隻目にあたる。


== 概要 ==
== 概要 ==
艦は[[太平洋戦争]]開戦前、[[ロンドン海軍軍縮条約]]が解かれることに伴い起工された。当初アメリカ海軍は、口径16インチ(40.6cm)以上の砲を搭載禁止とする第二次ロンドン条約の締結を見越して14インチ(35.6cm)砲を本級に搭載する予定だった、日本が締結を拒否したため、主砲を急遽16インチ砲に変更した。しかし元来14インチ砲搭載艦として設計されたため、防御も14インチ砲に対抗できるものに留まった。
ノースカロライナ級戦艦は、[[大和型戦艦]]と同世代艦である{{Sfn|福井、日本戦艦物語(II)|1992|p=288}}。[[太平洋戦争]]開戦前、[[ロンドン海軍軍縮条約]]が解かれることに伴い起工された{{Sfn|福井、日本戦艦物語(II)|1992|pp=194-195|ps=無条約時代突入の前夜}}。当初アメリカ海軍は、口径16インチ(40.6cm)以上の砲を搭載禁止とする第二次ロンドン条約の締結を見越して14インチ(35.6cm)砲を本級に搭載する予定だった{{Sfn|福井日本戦艦物語(II)|1992|pp=283a-285|ps=大和の情報収集に失敗した米海軍}}。だが日本が締結を拒否し、アメリカ側は日本の新型戦艦([[大和型戦艦]])について16インチ砲搭載の高速戦艦と推測した{{Sfn|福井、日本戦艦物語(II)|1992|p=283b}}。大和型戦艦に対抗するため、本級も主砲を急遽16インチ砲に変更した{{Sfn|福井、日本戦艦物語(II)|1992|p=283b}}。しかし元来14インチ砲搭載艦として設計されたため、防御も14インチ砲に対抗できるものに留まった{{Sfn|福井、日本戦艦物語(II)|1992|p=284}}。ノースカロライナと同時期に建造された[[:en:Fast_battleship|高速戦艦]]の[[大和 (戦艦)|大和]]が装備していたのは、18インチ砲であった{{Sfn|福井、日本戦艦物語(II)|1992|p=288}}。ただし大和の公表値はノースカロライナと大差なく{{Sfn|福井、日本戦艦物語(II)|1992|pp=273-276|ps="三万五〇〇〇トン"の正体}}、主砲も16インチ砲と記載されていた<ref name="艦船要目大和">[[#S17.12.31艦船要目公表範囲]] p.2〔 大和|戰艦|長(米)235.00|幅(米)31.50|喫水(米)9.15|排水量(基準)(噸)42.000|速力(節)25.0|(短艇數)14||呉工廠|昭和12-11-4|昭和15-8-8|昭和16-12-16|主要兵装/大砲40cm…9、15.5cm…12、12.7cm高角…12(略)|馬力 90,000 〕</ref>


就役当初はいくつかの不具合に悩まされたものの、1942年より輸送部隊の護衛、機動部隊の直衛といった任務に就き、太平洋アメリカ軍行なっ主要な上陸作において支援砲を行っている。争末期には日本本土に対する艦砲射も行った
就役当初のノースカロライナはいくつかの不具合に悩まされたものの、1942年(昭和17年)8月より[[フランク・J・フレッチャー|フレッチャー]]提督の[[機動部隊]]に所属して{{Sfn|サボ島沖海戦|1988|p=307|ps=付録(II)サボ島沖海戦におけるフレッチャー機動部隊の勢力1}}、[[ウォッチタワー作戦]]にともなう輸送部隊の護衛、[[航空母艦]]の直衛といった任務に就いた。[[第二次ソロモン海]]は空母[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]直衛艦として活躍し{{Sfn|ソロモン海(歴群05)|1994|p=84b|ps=第1次攻隊合図1 翔鶴隊のエンタープライズ攻状況}}
同年[[9月15日]]{{Sfn|ニミッツ|1962|p=125}}、[[伊号第十九潜水艦]]{{Sfn|戦史叢書98|1979|pp=191-192|ps=ワスプの撃沈}}(潜水艦長[[木梨鷹一]]少佐){{Sfn|ソロモン海戦(歴群05)|1994|pp=176-177|ps=上原光晴:人物抄伝 太平洋の群像51 木梨鷹一 伊号第十九潜水艦長}}の魚雷攻撃により空母[[ワスプ (CV-7)|ワスプ]]が沈没し{{Sfn|潜水艦百物語|2018|pp=149-151|ps=太平洋戦争篇/30 米空母「ワスプ」撃沈}}、外れた魚雷がノースカロライナと駆逐艦[[オブライエン (DD-415)|オブライエン]]に命中した{{Sfn|連合軍艦艇撃沈す|2013|pp=36-38|ps=外れた魚雷の行方}}。オブライエンは避退中に沈没、ノースカロライナは中破した{{#tag:Ref|サミュエル・モリソン博士など{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=126}}、伊19がワスプを撃沈、[[伊号第十五潜水艦]]がノースカロライナとオブライエンを撃破したとする二次資料がある{{Sfn|潜水艦戦争|1973|pp=375a-376|ps=ワスプの損失(1942年9月15日)}}。|group="注"}}。修理後、機動部隊の護衛や、上陸作戦における支援砲撃任務に従事した。戦争末期には日本本土に対する艦砲射撃も行った。


第2次世界大戦後は練習艦として用いられ、その後予備艦艇として保管されたのち退役し、現在も博物館として現存している。
第2次世界大戦後は練習艦として用いられ、その後予備艦艇として保管されたのち退役し、現在も博物館として現存している。


== 艦歴 ==
== 艦歴 ==
=== 建造から太平洋戦争前半まで ===
[[画像:USS_North_Carolina_Fit_out_NARA_1941-04-17.jpg|thumb|220px|1941年4月17日、就役間もないノースカロライナ、艤装工事が続けられている]]
[[画像:USS_North_Carolina_Fit_out_NARA_1941-04-17.jpg|thumb|220px|1941年4月17日、就役間もないノースカロライナ、艤装工事が続けられている]]
ノースカロライナは[[1937年]][[10月27日]]に[[ニューヨーク海軍工廠]]で起工され、1940年6月13日イザベル・ホーイ([[ノースカロライナ州]]知事の娘)の手によって進水し1941年4月9日に初代艦長[[オーラフ・M・ハストベット]]大佐の指揮下就役した。
ノースカロライナは[[1937年]](昭和12年)[[10月27日]]に[[ニューヨーク海軍工廠]]で起工された<ref name="米国BB55" />。同世代の戦艦[[大和 (戦艦)|大和]]{{Sfn|福井、日本戦艦物語(II)|1992|p=288}}より僅かに早い起工であった<ref name="艦船要目大和" />。1940年(昭和15年)[[6月13日]]<ref name="米国、BB55" />、大和より約2か月はやく<ref name="艦船要目大和" />、イザベル・ホーイ([[ノースカロライナ州]]知事の娘)の手によって進水した。1941年(昭和16年)4月9日に初代艦長[[オーラフ・M・ハストベット]]大佐の指揮下就役した。


しかし、艤装工事<!-- fitting out=outfitting? -->と試運転の際にいくつかの不具合が発覚し、特に機関の推進器の振動による問題は後部デッキの居住性を著しく損うものであった。これらの点を改修するためにシャフトとプロペラの修理が幾度となく行われ、最終的には振動を危険水準以下に抑えることに成功したが、実戦投入可能な状態になるまでには就役後数年を要し、そのため、「'''ショウボート'''」(Showboat:「見せかけだけの(使えない)軍艦」という意味)、「'''USO ノースカロライナ'''」(USO North Carolina:修理で本土にいる期間が長いため、他の艦艇よりも多くメディアの目に触れることを揶揄して[[艦船接頭辞]](USS)と[[米国慰問協会]](USO)を掛けたもの)と呼ばれた<ref name="www.zuzuray.com">{{cite web |url=http://www.zuzuray.com/nicknames2.html |title=Ship Nicknames |accessdate=30 May 2020|website=www.zuzuray.com}}</ref>。
しかし、艤装工事<!-- fitting out=outfitting? -->と試運転の際にいくつかの不具合が発覚し、特に機関の推進器の振動による問題は後部デッキの居住性を著しく損うものであった。これらの点を改修するためにシャフトとプロペラの修理が幾度となく行われ、最終的には振動を危険水準以下に抑えることに成功したが、実戦投入可能な状態になるまでには就役後数年を要し、そのため、「'''ショウボート'''」(Showboat:「見せかけだけの(使えない)軍艦」という意味)、「'''USO ノースカロライナ'''」(USO North Carolina:修理で本土にいる期間が長いため、他の艦艇よりも多くメディアの目に触れることを揶揄して[[艦船接頭辞]](USS)と[[米国慰問協会]](USO)を掛けたもの)と呼ばれた<ref name="www.zuzuray.com">{{cite web |url=http://www.zuzuray.com/nicknames2.html |title=Ship Nicknames |accessdate=30 May 2020|website=www.zuzuray.com}}</ref>。


ノースカロライナは[[太平洋戦争]]が始まる前にカリブ海で整備を完了させ、集中的に訓練を実施した。して1942年6月10日パナマ運河を渡って太平洋に出航した。
ノースカロライナは[[太平洋戦争]]が始まる前にカリブ海で整備を完了させ、集中的に訓練を実施した。大和は開戦直後の[[12月16日]]に竣工していた<ref name="艦船要目大和" />。1942年(昭和17年)6月10日、ノースカロライナはパナマ運河を渡って太平洋に出航した。空母[[ヨークタウン (CV-5)|ヨークタウン]]が[[ミッドウェー海戦]]で沈没したので、太平洋戦線4隻目の主力空母として[[ワスプ (CV-7)|ワスプ]]も大西洋から太平洋に転戦した{{#tag:Ref|1942年(昭和17年)6月末時点で太平洋戦線で行動可能なアメリカ軍主力空母は、[[レキシントン級航空母艦]]の[[サラトガ (CV-3)|サラトガ]]、[[ヨークタウン級航空母艦]]の[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]と[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]であった{{Sfn|連合軍艦艇撃沈す|2013|pp=29-30|ps=太平洋へ}}。|group="注"}}


=== ガダルカナル島の戦い ===
1942年8月7日にアメリカ海軍は日本軍に占領されたガダルカナル島とツラギ島に海兵隊を上陸させ([[ガダルカナル島の戦い]])、日本軍に勝利するために[[飛び石作戦]]([[アイランドホッピング]])を開始した。ノースカロライナは攻略のために補給と輸送ラインを守る航空支援部隊の空母[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]を護衛した。また、[[第二次ソロモン海戦]](米呼称:東部ソロモン海戦)では戦闘機の掩護を受ける爆撃機と雷撃機の攻撃に晒され、7発の至近弾を受けたものの船体にダメージはなく、日本軍機を7機以上撃墜した。<!-- In an 8-minute action, North Carolina shot down between 7 and 14 enemy aircraft, her gunners standing to their guns despite the jarring detonation of 7 near-misses. One man was killed by a strafer, but the ship was undamaged. The Americans struck first, sinking carrier Ryujo; Japanese retaliation came as bombers and torpedo planes, covered by fighters, roared in on Enterprise and North Carolina. In an 8-minute action, North Carolina shot down between 7 and 14 enemy aircraft, her gunners standing to their guns despite the jarring detonation of 7 near-misses. One man was killed by a strafer, but the ship was undamaged. The protection North Carolina could offer Enterprise was limited as the speedier carrier drew ahead of her. Enterprise took three direct hits while her aircraft severely damaged sea-plane carrier Chitose and hit other Japanese ships. Since the Japanese lost about 100 aircraft in this action, the United States won control of the air and averted a threatened Japanese reinforcement of Guadalcanal.-->
1942年(昭和17年)[[8月7日]]{{Sfn|ソロモン海戦(歴群05)|1994|p=65|ps=海兵一個師団、ガ島に上陸}}、アメリカ海軍は[[ウォッチタワー作戦]]により{{Sfn|ソロモン海戦(歴群05)|1994|pp=74-75|ps=熊谷直:ウォッチタワー作戦}}、[[ガダルカナル島]]と[[フロリダ諸島]]([[ツラギ島]])に[[アメリカ海兵隊]]を上陸させた{{Sfn|戦史叢書98|1979|pp=177-178|ps=連合軍のガ島来攻}}([[ガダルカナル島の戦い]]、[[フロリダ諸島の戦い]]){{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=438-439|ps=ガダルカナル島及びツラギ上陸}}。アメリカ軍は日本軍に勝利するために[[飛び石作戦]]([[アイランドホッピング]])を開始した。上陸作戦を、[[フランク・J・フレッチャー|フレッチャー]]提督が指揮する第61任務部隊の空母3隻{{Sfn|ニミッツ|1962|p=110}}([[サラトガ (CV-3)|サラトガ]]、[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]、ワスプ)が支援した{{Sfn|トール(上)ガ島からサイパン|2016|pp=70-75}}{{Sfn|潜水艦戦争|1973|p=374|ps=ガダルカナル(1942年8月~1943年2月)}}。第61任務部隊の護衛艦艇は、戦艦1隻(ノースカロライナ)と重巡洋艦5隻([[ニューオーリンズ (重巡洋艦)|ニューオーリンズ]]、[[ミネアポリス (重巡洋艦)|ミネアポリス]]、[[ポートランド (重巡洋艦)|ポートランド]]、[[サンフランシスコ (重巡洋艦)|サンフランシスコ]]、[[ソルトレイクシティ (重巡洋艦)|ソルトレイクシティ]])、軽巡洋艦[[アトランタ (軽巡洋艦)|アトランタ]]と駆逐艦16隻で構成されていた{{Sfn|サボ島沖海戦|1988|pp=89-91}}。ノースカロライナは攻略のために補給と輸送ラインを守る航空支援部隊の空母エンタープライズを護衛した{{Sfn|ニミッツ|1962|pp=118-119|ps=小休止}}{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=437}}。
アメリカ海兵隊のガ島とツラギ島上陸と共に、[[ニューブリテン島]][[ラバウル]]の[[第十一航空艦隊 (日本海軍)|第十一航空艦隊]]は全力で反撃し、第二十五航空戦隊司令官[[山田定義]]少将は[[一式陸上攻撃機]]27、[[零式艦上戦闘機]]17、[[九九式艦上爆撃機]]9 をガ島に送り込んだ{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=451-455|ps=四 第一次ソロモン海戦 ― 基地航空部隊の作戦/八月七日の作戦}}{{Sfn|写真太平洋戦争(4)|1995|pp=160-165|ps=木俣滋郎:ガ島方面に対する基地航空隊の作戦}}。
日本側の戦果は乏しかったが、フレッチャー提督は「わが方の戦闘機損耗は大である」「これ以上、貴重な空母を危険に晒せない」と判断し、指揮下のアメリカ軍機動部隊を退避させた{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=455}}{{Sfn|ソロモン海戦(歴群05)|1994|pp=180-181|ps=碇義朗:人物抄伝 太平洋の群像53 フランク・J・フレッチャー 第17任務部隊司令官}}。上空支援がなくなったアメリカ軍輸送船団も、物資揚陸を半分ほどすませた段階で撤退し、ガ島の海兵隊は孤立してしまった{{Sfn|トール(上)ガ島からサイパン|2016|pp=99-100}}([[第一次ソロモン海戦]]){{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=474-476|ps=ガダルカナル泊地における連合軍の配備}}。海兵隊は食糧不足に悩まされながら[[ホニアラ国際空港|ヘンダーソン飛行場]]の整備を急いだ{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=547-548|ps=連合軍の作戦}}{{Sfn|トール(上)ガ島からサイパン|2016|pp=123-124}}。


8月下旬{{Sfn|ニミッツ|1962|pp=120a-122|ps=八月の攻撃}}、日本軍はガ島に[[歩兵第28連隊|一木支隊第二梯団]]と[[海軍陸戦隊]]を上陸させるため{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=5-6|ps=船団によるガ島輸送の挫折}}、[[第二水雷戦隊]]司令官[[田中頼三]]少将が護衛する輸送船3隻を南下させていた{{#tag:Ref|護衛部隊(軽巡[[神通 (軽巡洋艦)|神通]]、駆逐艦[[海風 (白露型駆逐艦)|海風]]、[[涼風 (駆逐艦)|涼風]]、[[江風 (白露型駆逐艦)|江風]]〈途中で先行〉、[[島風 (峯風型駆逐艦)|第1号哨戒艇]]、[[灘風 (駆逐艦)|第2号]]、[[薄 (駆逐艦)|第34号]]、[[蔦 (樅型駆逐艦)|第35号]])、輸送船(ぼすとん丸、大福丸、金龍丸){{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=518-519|ps=一木支隊の輸送計画}}。|group="注"}}。
== 伊号第一九潜水艦の攻撃 ==
一木支隊第二梯団を支援する[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]{{Sfn|写真太平洋戦争(4)|1995|p=196}}(司令長官[[近藤信竹]]中将、旗艦「[[愛宕 (重巡洋艦)|愛宕]]」)と{{Sfn|愛宕奮戦記|2008|pp=123-124}}、[[第三艦隊 (日本海軍)|第三艦隊]](司令長官[[南雲忠一]]中将、参謀長[[草鹿龍之介]]少将{{Sfn|草鹿|1979|pp=159-161|ps=長期攻防戦の幕あがる}}、旗艦「[[翔鶴 (空母)|翔鶴]]」)も{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=540-545|ps=聯合艦隊主力の南下}}、ガ島に接近していた{{Sfn|写真太平洋戦争(4)|1995|pp=206-211|ps=瀬名蕘彦:東部ソロモン海戦(米側呼称)}}。
1942年9月15日、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[伊号第一九潜水艦]]が[[ワスプ (CV-7)|空母ワスプ]]を攻撃した<ref name="stri"/>。ノースカロライナは10km離れた場所にいたが、ワスプに命中しなかった[[酸素魚雷]]が向かっていると通信があったので回避運動に入った。ノースカロライナは18ノットで航行中であったが、1番主砲塔真横の左舷に衝撃を受けた。ノースカロライナからは雷跡は見えなかったが、命中した魚雷は駆逐艦マスティン([[:en:USS Mustin (DD-413)]])の艦底を通過してノースカロライナに向かったものだった<ref name="stri"/>。魚雷はノースカロライナの装甲が無い吃水の深い部分(水線下20フィート)に命中し、舷側を破ってから炸裂した。火災は発生しなかったが、舷側の4層の防水区画は破壊され、衝撃で鋲が飛ぶなどして隔壁が変形し1番主砲塔基部の配電盤室や火薬庫にも浸水を来した。第2デッキや第3デッキの乗員区画も吹き上がった衝撃波で破壊された<ref>http://www.history.navy.mil/content/dam/nhhc/research/library/online-reading-room/ships/wardamagereportno61/wdrbb55-60a.jpg</ref>。乗員5名が死亡し23人が負傷したものの<ref name="stri">[http://www.battleshipnc.com/AbouttheShip/History/TorpedoStrikes TORPEDO STRIKES NORTH CAROLINA NORTH CAROLINA博物館公式サイト] 2016年1月27日閲覧</ref>、巧みな[[ダメージコントロール]]と堅牢な構造により、最大5.6度となったノースカロライナの傾斜はおよそ6分で復元された。機関には問題なく24ノットの速力発揮が可能であったが浸水を拡大させないために速度を制限して航行した。ノースカロライナは艦隊を離れて修理を行うように命令され、めくれ上がった外板を切り取ったり補強材を入れたりする応急処置を実施したのちに真珠湾に向かった。魚雷による破孔は32x18フィートの大きさであった<ref name="stri"/>。5人の死者はトンガタプ島の軍人墓地に埋葬された<ref name="stri"/>。修理のため真珠湾に入港したノースカロライナは11月まで活動していなかった<ref>[http://books.google.co.kr/books?id=Ed3FwB9hzSwC&lpg=PA64&ots=3eMk8MCipM&dq=BB-55%20North%20Carolina%20wasp%20Torpedo&hl=ko&pg=PA66#v=onepage&q=BB-55%20North%20Carolina%20wasp%20Torpedo&f=false The Two Thousand Yard Stare: Tom Lea's World War II p.66 "O’Brien, making her crippled way back toward the West Coast, foundered off Samoa on October 19;North Carolina went into Pearl Harbor for repairs and was out of action until November."]</ref>。ノースカロライナの復帰は1942年11月末だった。この攻撃では、駆逐艦[[オブライエン (DD-415)]]にも魚雷が命中し、オブライエンの艦首は10番フレームより前が大破したほか、爆発の衝撃で隔壁の破損や船体へのクラック発生、外板の[[リベット]]脱落などが生じ<ref name="d">岡田, 282ページ</ref>、のちに応急修理を受けて本格的な修理のため本国へ向かったが、1942年10月19日に沈没した。
{{#tag:Ref|支援部隊{{Sfn|聯合艦隊作戦室|2008|pp=103-106|ps=おっとり刀で戦場へ}}(指揮官は[[近藤信竹]]第二艦隊司令長官)の軍隊区分{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=9-10}}:前進部隊(指揮官[[近藤信竹]]第二艦隊司令長官)本隊(第四戦隊〈[[愛宕 (重巡洋艦)|愛宕]]、[[高雄 (重巡洋艦)|高雄]]、[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]〉、第五戦隊〈[[妙高 (重巡洋艦)|妙高]]、[[羽黒 (重巡洋艦)|羽黒]]〉、戦艦〈[[陸奥 (戦艦)|陸奥]]〉、[[水雷戦隊#第四水雷戦隊|第四水雷戦隊]]〈軽巡[[由良 (軽巡洋艦)|由良]]、駆逐艦[[村雨 (白露型駆逐艦)|村雨]]、[[春雨 (白露型駆逐艦)|春雨]]、[[五月雨 (駆逐艦)|五月雨]]、[[朝雲 (駆逐艦)|朝雲]]、[[夏雲 (駆逐艦)|夏雲]]、[[峯雲 (駆逐艦)|峯雲]]〉、第15駆逐隊〈[[黒潮 (駆逐艦)|黒潮]]、[[親潮 (駆逐艦)|親潮]]、[[早潮 (駆逐艦)|早潮]]〉)、航空部隊([[千歳 (水上機母艦)|千歳]])、待機部隊・補給部隊略。|group="注"}}
[[File:Bow view of the North Carolina (BB-55) Pearl Harbor Navy Yard on 16 November 1942..jpg|thumb|1942年11月16日、真珠湾海軍工廠で前方から見たノースカロライナ(BB-55)]]
{{#tag:Ref|支援部隊の軍隊区分{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=9-10}}:機動部隊(指揮官[[南雲忠一]]第三艦隊司令長官):本隊(一航戦〈翔鶴、瑞鶴、龍驤〉、第10駆逐隊〈[[秋雲 (駆逐艦)|秋雲]]、[[夕雲 (駆逐艦)|夕雲]]、[[巻雲 (夕雲型駆逐艦)|巻雲]]、[[風雲 (駆逐艦)|風雲]]〉、第16駆逐隊〈[[初風 (駆逐艦)|初風]]、[[天津風 (陽炎型駆逐艦)|天津風]]、[[時津風 (陽炎型駆逐艦)|時津風]]〉、[[秋月 (駆逐艦)|秋月]]<ref>[[#増援部隊戦闘詳報(4)]] p.16(昭和17年8月25日、機動部隊電令作第5号)</ref>〈途中合流〉)、前衛(指揮官は第十一戦隊司令官[[阿部弘毅]]少将:第十一戦隊〈[[比叡 (戦艦)|比叡]]、[[霧島 (戦艦)|霧島]]〉、第七戦隊〈[[熊野 (重巡洋艦)|熊野]]、[[鈴谷 (重巡洋艦)|鈴谷]]〉、第八戦隊〈[[利根 (重巡洋艦)|利根]]、[[筑摩 (重巡洋艦)|筑摩]]〉、第十戦隊〈軽巡[[長良 (軽巡洋艦)|長良]]、駆逐艦[[野分 (陽炎型駆逐艦)|野分]]、[[舞風 (駆逐艦)|舞風]]〉、第19駆逐隊〈[[浦波 (吹雪型駆逐艦)|浦波]]、[[綾波 (吹雪型駆逐艦)|綾波]]、[[敷波 (吹雪型駆逐艦)|敷波]]〉)、第一補給部隊、第二補給部隊、待機部隊略。|group="注"}}
連合艦隊旗艦「[[大和 (戦艦)|大和]]」(司令長官[[山本五十六]]大将)も、作戦支援のためソロモン諸島北東海面に進出していた{{#tag:Ref|山本長官直率の主隊は、戦艦「大和」、軽空母[[大鷹 (空母)|春日丸]](大鷹){{Sfn|日本空母戦史|1977|p=340}}、第7駆逐隊([[潮 (吹雪型駆逐艦)|潮]]、[[漣 (吹雪型駆逐艦)|漣]]、[[曙 (吹雪型駆逐艦)|曙]]){{Sfn|戦史叢書83|1975|p=6|ps=聯合艦隊主隊}}。機動部隊は[[8月16日]]に、主隊は[[8月17日|17日]]に、それぞれ内海西部を出撃した<ref>[[#S1708(下)経過概要]] p.2(昭和17年8月16日、17日項)</ref>。第二次ソロモン海戦後の8月28日<ref>[[#S1708(下)経過概要]] p.39(昭和17年8月)〔 28| |午後大和ハ「トラック」入港前敵(潜水艦)ノ雷撃ヲ受ク|南洋|三本発射ヲ受ケシモ命中セズ 〕</ref>、大和はトラック泊地に帰投した{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=15}}。|group="注"}}。


[[ミッドウェー作戦]]の時と違って、連合軍は日本海軍の新しい暗号を完全に解読していなかった{{Sfn|写真太平洋戦争(4)|1995|pp=200-205|ps=原勝洋:解読されていなかった暗号システム}}。無線交信や各種の兆候から、上級部隊は「敵空母部隊はトラック島北方にいる」{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=318}}、「敵空母部隊は最速で8月25日頃に攻撃をしかけてくる」と判断した{{Sfn|トール(上)ガ島からサイパン|2016|pp=131-132|ps=第二次ソロモン海戦}}。
== 終戦まで ==
フレッチャー提督は燃料補給のためワスプを南下退避させており{{Sfn|写真太平洋戦争(4)|1995|p=175|ps=第二次ソロモン海戦各隊行動図}}、結局、ワスプは機動部隊同士の決戦に間に合わなかった{{Sfn|連合軍艦艇撃沈す|2013|p=31}}{{#tag:Ref|第18任務部隊:空母ワスプ、重巡[[サンフランシスコ (重巡洋艦)|サンフランシスコ]]、重巡[[ソルトレイクシティ (重巡洋艦)|ソルトレイクシティ]]、軽巡[[サンフアン_(軽巡洋艦)|サンフアン]]、駆逐艦6隻{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=327}}。|group="注"}}。
真珠湾で修理を終えて1942年11月末に復帰したノースカロライナは次の年までの間、ソロモン諸島で補給線を守る空母エンタープライズ、[[サラトガ (CV-3)|サラトガ]]の前衛を務めた。[[1943年]]の3月から4月にかけて真珠湾で新型の射撃管制機器とレーダー装置を装備し、9月に再び真珠湾に戻って[[ギルバート諸島]]侵攻に備えた([[ギルバート・マーシャル諸島の戦い]])。
提督は手持ちの空母2隻(サラトガ、エンタープライズ)と、[[一木清直]]陸軍大佐の一木支隊先遣隊の[[イル川渡河戦|攻撃]]{{Sfn|草鹿|1979|pp=162-163|ps=優秀装備の前に一木支隊壊滅}}をはねのけた[[ホニアラ国際空港|ヘンダーソン飛行場]]の基地航空隊をもちいて{{#tag:Ref|8月20日、軽巡[[ヘレナ (軽巡洋艦)|ヘレナ]]の護衛下{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=318}}、護衛空母[[ロング・アイランド_(護衛空母)|ロング・アイランド]]が[[F4F (航空機)|F4Fワイルドキャット]]19機、[[SBD (航空機)|SBDドーントレス]]12機を輸送した{{Sfn|トール(上)ガ島からサイパン|2016|pp=125-127}}。ヘンダーソン飛行場の稼働により、アメリカ軍はガ島周辺の制空権を握った{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=537-540|ps=敵機動部隊の発見と敵機のガダルカナル進出}}{{Sfn|ソロモン海戦(歴群05)|1994|pp=17-18|ps=昭和17年8月20日 ガ島飛行場に海兵隊機進出}}。|group="注"}}、連合艦隊を迎え撃った{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=562-563|ps=連合軍の作戦}}。


[[8月24日]]の[[第二次ソロモン海戦]]{{Sfn|淵田、奥宮|1992|p=48|ps=第二次ソロモン海戦概況図(昭和17/8/24)}}(米呼称:東ソロモン海戦{{Sfn|トール(上)ガ島からサイパン|2016|p=137|ps=東ソロモン海戦(日本側呼称、第2次ソロモン海戦)1942年8月24日}}、東部ソロモン海戦{{Sfn|ニミッツ|1962|p=121}}など)において、第61任務部隊([[第11任務部隊]]〈空母サラトガ、重巡ミネアポリス、重巡ニューオーリンズ、駆逐艦5隻〉、[[第16任務部隊]]〈空母エンタープライズ、戦艦ノースカロライナ、重巡ポートランド、軽巡アトランタ、駆逐艦5隻〉)は{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=327}}、[[第一航空戦隊]](翔鶴<!-- 第三艦艦隊/一航戦旗艦、南雲中将座乗 -->、[[瑞鶴 (空母)|瑞鶴]])の攻撃に晒された{{Sfn|トール(上)ガ島からサイパン|2016|p=136}}{{Sfn|ソロモン海戦(歴群05)|1994|pp=82-89|ps=甲斐克彦:第二次ソロモン海戦}}。
1945年8月に戦争が終結するとノースカロライナは日本占領任務にあたる上陸部隊の輸送に従事し、その後は[[東京湾]]に9月5日に錨を降ろすまで日本沿岸のパトロールを行った。その後[[沖縄県|沖縄]]で帰還兵を乗艦させると、本国への帰途についた。10月8日にパナマ運河を通過し、10月17日に[[ボストン]]に到着、ニューヨークでオーバーホールを受ける。
[[8月24日|24日]]の日本時間午前4時15分より、一航戦は[[九七式艦上攻撃機]] 19機を索敵に出したとする{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=566}}。このあと重巡[[筑摩 (重巡洋艦)|筑摩]]の水上偵察機が撃墜されたので、南雲機動部隊は攻撃隊の発進準備にかかった{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=567b}}。12時55分、翔鶴飛行長[[関衛]]少佐が指揮する一航戦第一次攻撃隊37機{{Sfn|写真太平洋戦争(4)|1995|p=176}}(翔鶴〈艦爆18、零戦4〉、瑞鶴〈艦爆9、零戦6〉)が発進した{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=567a-569|ps=機動部隊本隊の作戦/第一次攻撃}}{{#tag:Ref|[[高橋定]](当時、瑞鶴飛行隊長)によれば、母艦直衛に零戦多数を残したため各攻撃隊に零戦9しか配備できなくなり、一航戦第一次攻撃隊の編成は零戦・艦爆・艦攻の合計54機であったという{{Sfn|母艦航空隊|2013|p=12}}。|group="注"}}。
筑摩水上機と[[比叡 (戦艦)|比叡]]水上機の情報や誘導により、一航戦第一次攻撃隊は日本時間14時20分にアメリカ軍機動部隊を発見した{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=567b}}。
エンタープライズと護衛艦艇(ノースカロライナ、ポートランド、アトランタほか)には{{Sfn|ソロモン海戦(歴群05)|1994|p=84b|ps=第1次攻撃隊合戦図1 翔鶴隊のエンタープライズ攻撃状況}}、翔鶴隊の艦爆18機が空襲をおこなった<ref name="S190824経過22">[[#S1708(下)経過概要]] p.22(昭和17年8月)〔 24|1300頃|敵fb×2我KdB主隊ニ来襲|南東|被害ナシ 〕〔 24|1430|「スチュアート」島SW海面ニ敵新型A×1 「カリフォルニヤ」型B×1 C.d.数隻ヨリ成ル一群トA×1 C×数隻ヨリナル一群トニ対シKdBノf隊ハ第一次攻撃ヲ加フ|〃|翔鶴ノfb隊ハ新型Aニ対シ250kg爆彈12以上命中 〕〔 24|1300|龍驤「ガダルカナル」ノ敵空襲|〃|龍驤沈没乗員大部救助セラル 〕〔 24|1600頃|千歳空襲ヲ受ク|〃|至近彈2ニ依リ左舷機等浸水d×1ヲ附シ「トラック」ニ回航ヲ命ズ 〕</ref><ref name="S190824経過29">[[#S1708(下)経過概要]] p.29(昭和17年8月)〔 24|1440|第一次攻撃隊ハ二群ニ分レタル敵艦隊ヲ発見/翔鶴fb×18ハ北方ノA×1(上空ニ多数ノfcアリ)爆撃|南東|6発以上命中大火災 〕〔 |瑞鶴fb×9ハ南方ノA×1 B×1ヲ爆撃|〃|各命中彈アリ火災 〕〔 |第二次攻撃隊ハ一四〇〇頃発進セルモ遂ニ敵ヲ発見セズ両攻撃隊ハ一七〇〇(日没後約一時間)乃至二一〇〇ノ間ニ相当ノ困難ヲ冒シテ収容|〃|攻撃隊ノ認メタル敵兵力 北方部隊B×1(「ペンシルバニヤ型」)A×1(「エセックス」型ノ疑アリ)C×1 d×7/南方部隊 A×1 B×1 C d×約10 〕</ref>。
サラトガ隊には瑞鶴隊の艦爆9機が攻撃をおこなったとされる{{Sfn|ソロモン海戦(歴群05)|1994|p=85|ps=第1次攻撃隊合戦図2 瑞鶴隊のサラトガ攻撃状況}}。
米側は[[F4F (航空機)|F4F]]戦闘機 53機と[[SBD (航空機)|SBD]]数機を直掩として空母上空に配置したが{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=569}}、母艦へ帰投中の索敵機や攻撃隊と混同し、日本側の攻撃を空中で阻止できなかった{{Sfn|写真太平洋戦争(4)|1995|p=204}}。F4Fは空戦で艦爆6機を撃墜したという{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=332}}。


ノースカロライナは、戦闘機の掩護を受ける爆撃機と雷撃機{{#tag:Ref|[[草鹿龍之介]](当時、第三艦隊参謀長)の回想や{{Sfn|草鹿|1979|p=164}}、『戦史叢書』を含め大多数の二次資料で{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=579}}、一航戦は[[九七式艦上攻撃機]]を出動させていないとする{{Sfn|淵田、奥宮|1992|p=49}}{{Sfn|ソロモン海戦(歴群05)|1994|pp=84a-85|ps=第一次攻撃隊攻撃中なり}}。木俣滋郎『日本空母戦史』329ページでは、一航戦第一次攻撃隊を零戦10〈翔鶴4、瑞鶴6〉、艦爆27〈翔鶴18、瑞鶴9〉、艦攻4〈翔鶴4〉とする{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=329}}。|group="注"}}の攻撃に晒された{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=333}}。7発の至近弾を受けたものの船体にダメージはなく、日本軍機を7機以上撃墜した。<!-- In an 8-minute action, North Carolina shot down between 7 and 14 enemy aircraft, her gunners standing to their guns despite the jarring detonation of 7 near-misses. One man was killed by a strafer, but the ship was undamaged. The Americans struck first, sinking carrier Ryujo; Japanese retaliation came as bombers and torpedo planes, covered by fighters, roared in on Enterprise and North Carolina. In an 8-minute action, North Carolina shot down between 7 and 14 enemy aircraft, her gunners standing to their guns despite the jarring detonation of 7 near-misses. One man was killed by a strafer, but the ship was undamaged. The protection North Carolina could offer Enterprise was limited as the speedier carrier drew ahead of her. Enterprise took three direct hits while her aircraft severely damaged sea-plane carrier Chitose and hit other Japanese ships. Since the Japanese lost about 100 aircraft in this action, the United States won control of the air and averted a threatened Japanese reinforcement of Guadalcanal.-->
オーバーホールの完了後は主に練習艦としての任務に就き、ニューイングランド水域で訓練を行い、1946年夏には[[アメリカ海軍兵学校|海軍兵学校]]の士官候補生を乗艦させカリブ海で訓練巡航を行った。
ノースカロライナが護衛していたエンタープライズには、爆弾3発が命中した{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=569}}。エンタープライズは炎上し、舵故障となって危機に陥った{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=334}}。だが火災は間もなく鎮火し、舵の応急修理にも成功{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=335a}}、致命傷を避けることが出来た{{Sfn|トール(上)ガ島からサイパン|2016|p=140}}{{#tag:Ref|なお戦史研究家[[木俣滋郎]]は『日本空母戦史』335ページで「瑞鶴隊の艦爆9機が攻撃したのはサラトガではなく、エンタープライズとノースカロライナだった。瑞鶴隊はノースカロライナやアトランタの対空砲火に脅威を感じ、高度4500mで水平爆撃をおこなった。」と記述している{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=335b|ps=第2次ソロモン海戦における米戦艦攻撃図.昭和17年8月24日(瑞鶴隊)}}。|group="注"}}{{#tag:Ref|『戦史叢書49巻』569ページでは「なお、瑞鶴隊のサラトガ攻撃については記録がなく、命中弾も与えていない。」と記述する{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=569}}。[[源田実]](当時、瑞鶴飛行長)は{{Sfn|海軍航空隊始末記|1996|p=233}}、第二次ソロモン海戦前後の瑞鶴について詳しく記述していない{{Sfn|海軍航空隊始末記|1996|pp=225-226}}。瑞鶴艦爆隊(大塚礼次郎大尉)は8機が撃墜され、1機が不時着した{{Sfn|空母瑞鶴の生涯|1985|p=191}}。操縦員大川豊信 一飛曹と偵察員の前野広 二飛曹のうち前野は[[南太平洋海戦]]で戦死した{{Sfn|空母瑞鶴の生涯|1985|p=191}}。第二次ソロモン海戦における瑞鶴艦爆隊の戦闘経過は、よくわからない<ref name="ZOB(4)8">[[#増援部隊戦闘詳報(4)]] pp.8-9〔 機動部隊指揮官|二十五日〇〇四〇(宛略)|戰斗速報第四 一.第一次瑞鶴艦爆隊ハ南方輪形陣ノ空母戰艦一ヲ攻撃何レモ火災ヲ生ゼシメタルモ搭乗員未皈還ノ爲詳細不明/二.速報第三中戰艦一ヲ二ニ訂正 又第二空母ハ艦型不詳ナルモ大型艦橋ヲ有ス/三.未皈還中 艦戰三(四) 艦爆一三(一一)括弧内ハ瑞鶴 計戰斗機七 艦爆二四 着信者 總長|無電 〕</ref>。|group="注"}}。

この日の戦闘で、アメリカ側は戦闘機20(資料によっては25機)を喪失した{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=580-582|ps=米機動部隊の作戦}}。日本側の損害は諸説ある{{#tag:Ref|。『戦史叢書49巻』によれば、一航戦第一次攻撃隊(零戦10、艦爆27)は、未帰還(零戦3、艦爆17)、不時着(零戦3、艦爆1)、合計24(零戦6、艦爆18)喪失、収容(零戦4、艦爆9)であった{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=579}}。南雲機動部隊の速報では、零戦7(翔鶴3、瑞鶴4)、艦爆24(翔鶴13、瑞鶴11)喪失であった<ref name="ZOB(4)8" />。
木俣によれば、翔鶴隊は零戦1、艦爆8、艦攻4を失った{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=337}}。[[福地周夫]](翔鶴運用長)は第二次ソロモン海戦での翔鶴戦死者を整備兵6名、搭乗員戦死29名とする{{Sfn|翔鶴海戦記|1962|p=109|ps=昭和十七年八月二十四日第二次ソロモン海戦}}。高橋定(瑞鶴飛行隊長)によれば、雷撃隊の九七艦攻は2隻合計9機しか帰らなかったという{{Sfn|母艦航空隊|2013|p=13}}。瑞鶴艦爆隊は全滅した(喪失8、不時着1){{Sfn|空母瑞鶴の生涯|1985|p=191}}。|group="注"}}。一航戦第二次攻撃隊は米軍機動部隊を発見できず<ref name="S190824経過29" />、翔鶴と瑞鶴へ帰投した{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=336}}。艦爆4機が行方不明となり、1機が不時着した{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=571}}。
南雲機動部隊はノースカロライナを[[テネシー級戦艦|カルフォルニア型戦艦]]<ref name="S190824経過22" /><ref>[[#増援部隊戦闘詳報(4)]] p.4(機動部隊指揮官、24日1912電、速報第一)</ref>もしくは[[ペンシルベニア級戦艦]]と判断した<ref name="S190824経過29" />。
エンタープライズの方を[[エセックス級航空母艦]]と推定している<ref name="S190824経過29" /><ref>[[#増援部隊戦闘詳報(4)]] p.6〔 機動部隊指揮官|二十四日二一〇八(宛略)|第一次攻撃隊成果 敵空母二中「エセックス」型ラシキモノ一隻ニ二十五番三發以上命中 其ノ他後 通報軍令部總長|無電 〕</ref>{{#tag:Ref|昭和17年8月25日項より{{Sfn|高松宮日記4巻|1996|p=448}}〔 ○機動部隊(三四六=二四-一七二八)「翔鶴」第一次攻撃機隊成果、敵空母二隻中「エセックス」型ラシキモノ《之ハ未ダ完成セザルベク「[[ワシントン (BB-56)|ワシントン]]」型等ナルベシ》一隻ニ[[大日本帝国海軍航空爆弾一覧#航空爆弾|二十五番]]十二(?)発以上命中、其他後報ス。<br/>○機動部隊(三四八=二四-一八〇〇)敵艦隊ノ兵力及位置左ノ如シ(搭乗員報告)。一群ハ一四三〇「ステワート」諸島ノ141°16′Co.110°Sp.25kt。(兵力)新空母位置、「[[カリフォルニア (戦艦)|カリフォルニア]]」型戦艦一、巡洋艦、駆逐艦数隻。他ノ一群ハ同島ノ167°27′Co.110°。(兵力)空母一、巡洋艦数隻。「翔鶴」第一次攻撃隊半数ノ戦果、新型空母ニ対シ六発以上命中大火災(速報第一) 〕|group="注"}}。

日本側はサラトガ隊の攻撃で、分離行動中の軽空母[[龍驤 (空母)|龍驤]]が沈没した{{Sfn|草鹿|1979|pp=163-164|ps=敵機動部隊発見に勇躍}}{{#tag:Ref|ヘンダーソン基地攻撃のため第八戦隊司令官[[原忠一]]少将指揮下の機動部隊支隊{{Sfn|淵田、奥宮|1992|pp=45-46}}([[利根 (重巡洋艦)|利根]]、龍驤、[[時津風 (陽炎型駆逐艦)|時津風]]、[[天津風 (陽炎型駆逐艦)|天津風]])で行動中、エンタープライズ索敵隊(SBD 2機){{Sfn|トール(上)ガ島からサイパン|2016|p=135}}、サラトガ隊(SBD 28機、TBF 8機)と{{Sfn|ソロモン海戦(歴群05)|1994|pp=86-88|ps=石橋を叩いた指揮官}}、[[エスピリトゥサント島]]から来た[[B-17 (航空機)|B-17型重爆]]の攻撃を受けた{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=563-566|ps=機動部隊支隊の作戦 ― 龍驤の沈没}}{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=325}}。|group="注"}}。
エンタープライズから発進した索敵のSBD 2機{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=581}}に奇襲された翔鶴では<ref name="S190824経過22" />、急転舵の際に零戦1機と整備兵6名が海中に落下した{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=330}}{{Sfn|翔鶴海戦記|1962|p=108}}。
米機動部隊第二次攻撃隊(SBD 13、TBF 12)の攻撃で{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=581}}、水上機母艦[[千歳 (空母)|千歳]]が中破{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=575-577|ps=前進部隊の作戦}}{{#tag:Ref|昭和17年8月25日項より{{Sfn|高松宮日記4巻|1996|p=447}}〔 ○航空部隊指揮官(十一航戦司令官[[城島高次]]少将)(タナ九〇=二四-一六〇〇)「千歳」至近弾二発、左舷機浸水使用不能、出シ得ル速力16kt、人力操舵、左舷後部小浸水、小火災。〕|group="注"}}、トラック泊地に撤退した<ref name="S190824経過22" />。

[[8月25日|25日]]朝、[[伊号第十五潜水艦 (初代)|伊15]]はノースカロライナ型戦艦1隻、エンタープライズ型空母1隻、巡洋艦2隻と駆逐艦多数のアメリカ艦隊を発見、通報した<ref>[[#S1707十一戦隊日誌(2)]] p.53〔 八月二十五日〇九一三 伊十五艦長(宛略)敵兵力戰艦一隻(ノースカロライナ型)空母一隻(エンタプライズ型)C×2 d×15 輸送船二隻 二五日〇七三〇|無電 〕</ref>。
連合艦隊旗艦「大和」と護衛部隊(春日丸、潮、漣、曙)は、ノースカロライナを含むアメリカ軍機動部隊を追撃するため南下を開始、北上退避する南雲機動部隊とすれ違った{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=338}}。一方、連合軍はガ島ヘンダーソン飛行場と[[エスピリトゥサント島]]の航空機で日本軍輸送船団を攻撃した{{Sfn|ニミッツ|1962|p=122}}。SBDと[[B-17 (航空機)|B-17]]の空襲により、輸送船[[金龍丸 (特設巡洋艦)|金龍丸]]と駆逐艦[[睦月 (駆逐艦)|睦月]]が沈没し、軽巡[[神通 (軽巡洋艦)|神通]]<ref>[[#S1708(下)経過概要]] p.24(昭和17年8月)〔 24《25》| |梯団護衛隊指揮官乗艦タル(司令官)2Sd神通ハ今朝「マライタ」島北側ニ於テ「ガダルカナル」(飛行場)ヨリfノ空襲ヲ受ク|南東|爆彈一発命中火災 〕〔 24| |卯月ハ(30dg/8F)夜「ガダルカナル」[[西|W]]ノ海軍部隊ニ対シ救援物資ヲ揚陸交付 〕</ref>(二水戦旗艦)が中破した<ref>[[#S1708(下)経過概要]] pp.28-29(昭和17年8月)〔 25|0605頃|金竜丸(aC)爆撃セラル|南東|大火災爆発ニテ鎭火ノ見込ミナク〇八三五睦月ニテ処分乗員ハdニ収容 陸戰隊乗艦中 〕〔 25|0837|睦月(30dg/8F)B-17×3ニ爆撃セラル|南東|後部機械室ニ命中〇九四〇沈没 戰死40負傷11 〕〔 25|0840/1200|卯月(30dg/8F)敵f×7 敵f×5 }ニ爆撃セラル|南東|至近彈ニ依リ小破最大速力24kt「ラバウル」ニ囘航 〕〔 25|午前|一木支隊主力ヲ護衛中ノ神通(司令官/4Sd? 2Sd)ハ爆撃ヲ受ク/2Sd司令官陽炎ニ移乗指揮ヲトリツツアリ|南東|爆彈1命中火災 一.二番砲及附近ノ船体破壊同砲使用不能 應急処置ニ依リ鎭火 前部火薬庫ニ注水 凉風護衛ノ下ニ「トラック」ニ回航 〕</ref>。
{{#tag:Ref|飛行場砲撃を終えた駆逐艦部隊(睦月、弥生、磯風、陽炎、江風)が合流し<ref>[[#S1708(下)経過概要]] p.23(昭和17年8月)〔 24|2200|30dg(卯月望月2D缺)(8F) 江風(24dg/1Sd) 磯風(17dg/1Sd) 陽炎(15dg/2Sd)ハ「ガダルカナル」敵艦船夜襲/陽炎ハ敵S×1ヲ砲撃爆雷攻撃|南東|夜襲後「マライタ」島北側ニ於テ「ガダルカナル」揚陸ノ第二梯団護衛部隊ニ合同ノ予定/概ネ確実ニ撃沈(S×1) 〕</ref>、陣形変更中に[[SBD (航空機)|SBDドーントレス]]の爆撃を受け、神通中破、金龍丸が沈没した{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=586-588|ps=金龍丸及び「睦月」の沈没}}。救助作業中に[[B-17 (航空機)|B-17]]の爆撃で睦月が沈没した{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=587}}。|group="注"}}

日本軍は輸送船団によるガ島揚陸作戦を諦め、駆逐艦による[[鼠輸送]]を開始した{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=589-591|ps=輸送方式の転換}}。連合軍はエンタープライズの航空隊の一部をヘンダーソン基地に配備し{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=338}}{{Sfn|ソロモン海戦(歴群05)|1994|pp=98-99|ps=谷光太郎:Facts File3 カクタス空軍}}、母艦を[[ニューカレドニア]]の[[ヌメア]]後退させた{{Sfn|トール(上)ガ島からサイパン|2016|p=143}}{{#tag:Ref|このあと、エンタープライズは本格的修理のため真珠湾にひきあげた{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=338}}。|group="注"}}。
サラトガとワスプおよびノースカロライナを含む機動部隊は引き続きガ島南方海域に留まり{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=11-12|ps=連合軍の状況}}、ガ島にむかう輸送船団の支援をおこなった<ref>[[#S1708(下)経過概要]] p.42(昭和17年8月)〔 29|1220|敵TBハKdBノ強力ナル支援ノ下ニ「ガダルカナル」「ツラギ」方面ニ補給ヲ強行シT×2 C2×1ラシキモノd×2「ルンガ」岬入泊|南東|  〕</ref>{{Sfn|草鹿|1979|pp=166-167|ps=地理的不利をかこつ}}。

連合軍の商船乗りは、日本軍潜水艦が遊弋するガダルカナル島南東海域を「<ruby><rb>[[魚雷]]</rb><rt>トピード</rt></ruby><ruby><rb>[[交差点]]</rb><rt>ジャンクション</rt></ruby>」と呼んでいた{{Sfn|トール(上)ガ島からサイパン|2016|p=183}}。
8月26日、伊19は空母と戦艦を含む米機動部隊を発見したが{{Sfn|ソロモン海戦(歴群05)|1994|p=148}}、魚雷発射の機会を得られなかった<ref>[[#S1708(下)経過概要]] p.32(昭和17年8月)〔 26|1400|イ19(2Sg)ハ11°20S 164E附近ニテA×1 B×1 C×数隻 d×多数ヲ伴フ部隊北上中ヲ発見一五〇〇反転SEニ向フヲ認メ触接ニ努ム/索敵機ガ発見セル敵損傷A(C×2 d×6ヲ伴フ、二十五日ニ発見セルモノ)ニ対シテハ[[伊号第百二十一潜水艦|イ121]](6F附)ヲ以テ追撃 2Ss(イ19 イ26)ニテ追蹤捕捉ニ努メツツアリ|南東|dニ制圧セラレ敵ヲ見失フ/尓跡敵状ヲ得ズ 〕</ref>。
8月31日、ノースカロライナが護衛する空母サラトガを{{Sfn|トール(上)ガ島からサイパン|2016|p=178}}、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[伊号第二十六潜水艦]]{{Sfn|戦史叢書98|1979|p=186}}(潜水艦長[[横田稔 (海軍軍人)|横田稔]]少佐)が襲撃する{{Sfn|写真太平洋戦争(4)|1995|pp=226-231|ps=伊達久:ワスプ撃沈、伊19潜の魚雷命中}}。
伊26は{{coor dm|10|25|S|164|15|E|}}地点で魚雷6本を発射した<ref>[[#S1708(下)経過概要]] p.48(昭和17年8月)〔 31|0040|イ26(2Sg/1Ss)「ツラギ」ノ65°140′ニA×1 B×1 C d数隻ヲ発見dノ制圧ヲ受ク〇二〇〇見失フ|南東|「ガダルカナル」部隊ノ掩護fノ増強等ノ如シ 〕、同経過概要 p.49(昭和17年8月)〔 31|0446|イ26(2Sg/1Ss)10°25S・164°15Eニテ「サラトガ」型Aヲ襲撃 尓後四時間dノ執拗ナル攻撃ヲ受ク 尚引続fdニ制圧セラレ日没後ニ至リ漸ク浮上シ南方40′迠追跡捜索スルモ敵状ヲ得ズ|南東|魚雷6本発射一本命中音ヲ聴キタルモ効果確認セス至近彈七発アリシモ大ナル被害ナシ/散開線ニ復皈 〕</ref>。大破したサラトガは戦線を離脱{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=64-65}}、長期修理を余儀なくされる{{Sfn|潜水艦戦争|1973|p=375b|ps=サラトガへの魚雷攻撃(1942年8月31日)}}。サラトガが戦線に復帰したのは約3ヶ月後だった{{Sfn|ニミッツ|1962|p=124}}{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=69-70|ps=ガ島海域の状況}}。

サラトガが離脱して空母2隻([[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]、ワスプ)になったアメリカ海軍機動部隊は、引き続きソロモン諸島周辺を行動した{{Sfn|ニミッツ|1962|p=124}}。[[9月6日]]には[[伊号第十一潜水艦]]にホーネットが狙われた<ref>[[#S1709(上)経過概要]] p.17(昭和17年9月)〔 6|0910|イ11(旗艦/3Ss)「ツラギ」ノSSE300′ニテ「ヱンタープライズ」型A×1 C×2 d×数隻ヲ発見約40分後襲撃ニ成功 敵ヨリ離脱シテ「トラック」ニ向ケ西航中更ニfd×2ニ発見セラレ交戰|南東|魚雷2本命中 命中後三分ニテ別ノ爆発音ヲ聴取少ナク共大破セシメタルモノト認ム 二時間後ヨリ約三時間半敵ノ爆雷攻撃ニテ至近彈五発アリ主蓄電池大部破損 被害ナシ 〕</ref>。
伊11の魚雷は、もう少しでホーネットとノースカロライナに命中するところだった{{Sfn|トール(上)ガ島からサイパン|2016|p=179}}{{#tag:Ref|伊11は[[ヨークタウン級航空母艦|エンタープライズ型空母]]に魚雷2本命中と報告した{{Sfn|戦史叢書98|1979|p=186}}。昭和17年9月7日項より{{Sfn|高松宮日記4巻|1996|p=534}}〔 ○第三潜水戦隊(六-一八三〇)伊十一潜、六日〇九一〇敵空母(エンタープライズ類似)一隻、重巡二隻、駆逐艦数隻発見、地点ケラル48、Co.230°。〇九四九空母雷撃、命中二本、命中三分後大爆発音ヲキク。一一一一敵空母襲撃後二時間後ヨリ爆雷攻撃(至近五、遠二〇)ヲ一四三〇迠受ク。主蓄電池両群共大部破損、七日〇二〇〇地点「ケルモ」ヨリCo.0°Sp.18k、潜航不能、トラックニ向フ。〕|group="注"}}。このような状況下、ヘンダーソン基地に対する[[川口清健]]陸軍少将指揮下の[[第18師団_(日本軍)#川口支隊|川口支隊]]総攻撃([[:en:Battle of Edson's Ridge|Battle of Edson's Ridge]])の顛末を見届けた{{Sfn|トール(上)ガ島からサイパン|2016|pp=174-177}}。
日本側の前進部隊(第二艦隊、近藤中将){{Sfn|愛宕奮戦記|2008|pp=156-157}}と機動部隊(第三艦隊、南雲中将)も{{Sfn|草鹿|1979|pp=167-168|ps=地上部隊、再び潰ゆ}}、9月9日から10日にかけてトラック泊地を出撃し{{Sfn|淵田、奥宮|1992|p=55}}{{Sfn|聯合艦隊作戦室|2008|pp=106-108|ps=総攻撃失敗}}、ガ島北方海域でアメリカ軍機動部隊を警戒していた{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=116-120|ps=前進部隊及び機動部隊}}。この戦いに大和は出撃せず、その後もトラック泊地に停泊しつづけて「大和ホテル」と呼ばれた{{Sfn|トール(上)ガ島からサイパン|2016|pp=194-195}}。

=== 伊号第十九潜水艦の攻撃 ===
1942年(昭和17年)[[9月13日]]午前11時45分、アメリカ軍機動部隊発見の報告により[[連合艦隊]]はソロモン方面で行動中の潜水艦を攻撃に向かわせた{{Sfn|戦史叢書98|1979|p=189}}{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=122-125|ps=先遣部隊の作戦(ワスプ撃沈)}}。[[伊号第九潜水艦|伊9]]、[[伊号第三十一潜水艦|伊31]]、[[伊号第二十四潜水艦|伊24]]、[[伊号第二十一潜水艦|伊21]]、[[伊号第二十六潜水艦|伊26]]、'''[[伊号第十九潜水艦|伊19]]'''、伊15、[[伊号第十七潜水艦|伊17]]、[[伊号第三十三潜水艦|伊33]]の順番で[[散開線]]を形成することになった{{Sfn|戦史叢書98|1979|p=190}}。ところが伊19は命じられた散開線への移動前に旧配備地点においてワスプを発見しており、命令通りに散開線へ移動していたならば、ワスプ撃沈の戦果は得られなかった可能性が高い{{Sfn|戦史叢書98|1979|pp=202-203|ps=潜水艦作戦指導について}}。
[[9月14日]]、アメリカ海兵隊をのせた輸送船6隻は、ガ島にむけてエスピリサント島を出撃した{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=125a-127|ps=八 米海上部隊の作戦}}。アメリカ軍機動部隊は、この輸送船団の支援を任じられていた{{Sfn|連合軍艦艇撃沈す|2013|p=132}}{{Sfn|トール(上)ガ島からサイパン|2016|p=179}}。B-17は前進部隊を爆撃して重巡[[妙高 (重巡洋艦)|妙高]]に軽微な被害を与えたが<ref>[[#S1709(上)経過概要]] p.38(昭和17年9月)〔 14| |午前AdBハ敵fdニ發見觸接セラレ一三四五ヨリ約一時間ニ亘リ敵B-17×10ノ爆撃ヲ受ク|南東|妙高彈片ニ依リ死傷者数名及機銃一門破損セル外被害ナシ 〕</ref>、米機動部隊の索敵機は日本軍機動部隊を発見できなかった{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=125b}}。

[[9月15日]]、伊19{{Sfn|淵田、奥宮|1992|p=57|ps=(炎上するワスプ写真、木梨少佐写真)}}(潜水艦長[[木梨鷹一]]少佐)が{{Sfn|潜水艦百物語|2018|pp=149-151|ps=太平洋戦争篇/30 米空母「ワスプ」撃沈}}、{{coor dm|12|25|S|164|25|E|}}地点で空母ワスプ(艦長[[フォレスト・シャーマン]]大佐)を攻撃した{{Sfn|写真太平洋戦争(4)|1995|p=228}}。
伊19は日本時間午前9時50分に音源を探知、10時50分距離1万5000mに「空母1、大型巡洋艦1、駆逐艦数隻」を発見、11時45分に魚雷6本を発射した{{Sfn|戦史叢書98|1979|pp=191-192|ps=ワスプの撃沈}}。ワスプに魚雷3本が命中{{Sfn|トール(上)ガ島からサイパン|2016|p=180}}(伊19は4本命中と聴音){{#tag:Ref|昭和17年9月16日記事{{Sfn|高松宮日記4巻|1996|p=614}} ○第二潜水隊(一五-一六三〇)伊十九 一〇五〇敵空母一(飛行甲板長ク煙突低小)、大型巡洋艦一、駆逐艦数隻ヲ発見、「ケワヨ」48、敵Co.330°Sp.(空白)。一一二〇敵反転。一一四五「ケワラ25」ニテ敵空母ニ肉迫雷撃、魚雷命中音四発ヲ聴取、爾後駆逐艦ノ制圧ヲ受ク(爆雷八〇、至近弾0)、襲撃時ノ敵Co.170°Sp.12k。|group="注"}}、同艦は炎上して漂流したあと沈没した{{#tag:Ref|伊19は制圧攻撃を受けて潜水を続け、ワスプの沈没を目撃できなかった{{Sfn|ソロモン海戦(歴群05)|1994|p=149}}。日本時間午後6時、伊15は漂流中の空母が{{coor dm|12|25|S|163|45|E|}}地点で沈没するのを認めた{{Sfn|戦史叢書98|1979|p=192}}。〔 ○伊一五潜(一五-一八一五){{Sfn|高松宮日記4巻|1996|p=614}} 一、味方航空部隊攻撃ニ依リ、地点「ケロラ」28ニ漂流、大型ノ敵空母([[ヨークタウン級航空母艦|エンタープライズ型]])一隻ハ左ニ大傾斜後沈没セリ。/二、一五三五敵巡洋艦二、駆逐艦数隻。一七四六敵駆逐艦一隻ハ空母ヲ見捨、南方ニ避退セリ。〕{{Sfn|愛宕奮戦記|2008|pp=173-174|ps=(昭和17年9月16日項)エンタープライズ型空母撃沈}}。|group="注"}}{{#tag:Ref|ワスプは放棄されたあと随伴駆逐艦{{仮リンク|ランズダウン|en|USS Lansdowne (DD-486)}}によって処分された{{Sfn|連合軍艦艇撃沈す|2013|p=35}}。日本側は10月27日のアメリカ側放送で「ワスプ」の沈没を知った<ref>[[#S1709(上)経過概要]] p.40(昭和17年9月)〔 15|1050/1145|イ19敵A×1 C×1 d×数隻ヲ發見敵ガ反転南下ノ際「ガダルカナル」島東端ノ128°260′附近ニテ敵Aニ肉迫襲撃魚雷4ヲ命中セシム(1Ss/6F 2Sg)|南東|イ19ハ敵Aハ飛行甲板長ク艦橋煙突低所ナル故、大型特設空母ト推定 〕〔 15|1800|イ15ハ右Aガ左ニ大傾斜沈没セルヲ確認報告(1Ss/6F 2Sg)|南東|イ15 沈没セルA×1ハ「エンタープライズ」型ト報ズ 十月二十七日朝ノ桑港放送ニテ「ワスプ」ナルコト判明ス 〕</ref>。|group="注"}}。

ホーネットを護衛していたノースカロライナは{{Sfn|写真太平洋戦争(4)|1995|p=230}}、ワスプ被雷地点から北北東5浬付近にいた{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=126}}。ワスプに命中しなかった[[酸素魚雷]]がホーネット隊の方にむかっているとの通信があったので、各艦は回避運動に入った{{Sfn|潜水艦百物語|2018|p=150}}。伊19の魚雷は、駆逐艦{{仮リンク|マスティン (DD-413)|en|USS Mustin (DD-413)|label=マスティン}}と[[デイル (DD-353)|デイル]]の艦底を通過したりかすめたりして、ノースカロライナに向かった{{Sfn|トール(上)ガ島からサイパン|2016|p=181}}{{Sfn|連合軍艦艇撃沈す|2013|pp=36-38|ps=外れた魚雷の行方}}。ノースカロライナは18ノットで航行中であったが、1番主砲塔真横の左舷に衝撃を受けた。魚雷はノースカロライナの装甲が無い吃水の深い部分(水線下20フィート)に命中し、舷側を破ってから炸裂した。火災は発生しなかったが、舷側の4層の防水区画は破壊され、衝撃で鋲が飛ぶなどして隔壁が変形し1番主砲塔基部の配電盤室や火薬庫にも浸水を来した。第2デッキや第3デッキの乗員区画も吹き上がった衝撃波で破壊された<ref>http://www.history.navy.mil/content/dam/nhhc/research/library/online-reading-room/ships/wardamagereportno61/wdrbb55-60a.jpg</ref>。乗員5名が死亡し23人が負傷したものの<ref name="stri">[http://www.battleshipnc.com/AbouttheShip/History/TorpedoStrikes TORPEDO STRIKES NORTH CAROLINA NORTH CAROLINA博物館公式サイト] 2016年1月27日閲覧</ref>、巧みな[[ダメージコントロール]]と堅牢な構造により、最大5.6度となったノースカロライナの傾斜は、およそ6分で復元された。機関には問題なく24ノットの速力発揮が可能であったが浸水を拡大させないために速度を制限して航行した。ノースカロライナは艦隊を離れて修理を行うように命令され、めくれ上がった外板を切り取ったり補強材を入れたりする応急処置を実施したのちに真珠湾に向かった。魚雷による破孔は32x18フィートの大きさであった<ref name="stri"/>(幅10m、高さ5m){{Sfn|連合軍艦艇撃沈す|2013|p=37}}。5人の死者は[[トンガタプ島]]の軍人墓地に埋葬された<ref name="stri"/>。修理のため、本艦は11月まで活動できなかった<ref>[http://books.google.co.kr/books?id=Ed3FwB9hzSwC&lpg=PA64&ots=3eMk8MCipM&dq=BB-55%20North%20Carolina%20wasp%20Torpedo&hl=ko&pg=PA66#v=onepage&q=BB-55%20North%20Carolina%20wasp%20Torpedo&f=false The Two Thousand Yard Stare: Tom Lea's World War II p.66 "O’Brien, making her crippled way back toward the West Coast, foundered off Samoa on October 19;North Carolina went into Pearl Harbor for repairs and was out of action until November."]</ref>。

この攻撃で、駆逐艦[[オブライエン (DD-415)]]にも伊19の魚雷が命中した{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=126}}。魚雷1本を回避したが、2本目が右舷艦首に命中した{{Sfn|連合軍艦艇撃沈す|2013|p=37}}。オブライエンの艦首は10番フレームより前が大破したほか、爆発の衝撃で隔壁の破損や船体へのクラック発生、外板の[[リベット]]脱落などが生じた<ref name="d">岡田, 282ページ</ref>。応急修理を受けてたのち、本格的な修理のため本国へ向かったが{{Sfn|潜水艦百物語|2018|p=151}}、同年[[10月19日]]に船体が折れて沈没した{{Sfn|連合軍艦艇撃沈す|2013|p=37}}。

なお日本側の二次資料(公刊戦史『[[戦史叢書]]』など)では、伊19は一度の攻撃で3隻(ワスプ、ノースカロライナ、オブライエン)に魚雷を命中させたとする{{Sfn|潜水艦百物語|2018|p=151}}{{Sfn|戦史叢書98|1979|p=192}}。魚雷6本を発射し、5本を命中させた{{Sfn|ソロモン海戦(歴群05)|1994|pp=150-151|ps=六本発射、五本命中の快挙}}。しかし[[サミュエル・モリソン]]など海外の研究者や二次資料では{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=126}}、伊19がワスプを撃沈し、空母[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]を狙った伊15がノースカロライナとオブライエンを撃破したとする見解もある{{Sfn|潜水艦戦争|1973|pp=375a-376|ps=ワスプの損失(1942年9月15日)}}。モリソン博士は「東ソロモン群島沖海戦(第二次ソロモン海戦)のときには好機を逸したこれら二隻の日本潜水艦も、その日は<ruby><rb>[[ジャックポット|大あたり]]</rb><rt>ジャックポット</rt></ruby>に当たった」と評している{{Sfn|潜水艦戦争|1973|p=376}}。しかし伊15は魚雷発射を記録しておらず、3隻の戦果はいずれも伊19によるものだった{{Sfn|連合軍艦艇撃沈す|2013|p=38}}。ワスプの沈没とノースカロライナの戦線離脱により、太平洋戦線での可動空母は一時的に空母ホーネット{{Sfn|写真太平洋戦争(4)|1995|p=177}}{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=126}}、新鋭戦艦は[[ワシントン (BB-56)|ワシントン]]だけになった{{Sfn|ニミッツ|1962|p=125}}。10月中旬、エンタープライズが復帰し、新鋭戦艦[[サウスダコタ (戦艦)|サウスダコタ]]も戦線に投入され{{Sfn|連合軍艦艇撃沈す|2013|p=37}}、日本軍のガ島総攻撃に備えることになった{{Sfn|ニミッツ|1962|p=130}}([[南太平洋海戦]]、[[第三次ソロモン海戦]])。

[[File:Bow view of the North Carolina (BB-55) Pearl Harbor Navy Yard on 16 November 1942..jpg|thumb|1942年11月16日、真珠湾海軍工廠で前方から見たノースカロライナ(BB-55)]]

=== 終戦まで ===
真珠湾で修理を終えて1942年11月末に復帰したノースカロライナは次の年までの間、ソロモン諸島で補給線を守る空母エンタープライズ、[[サラトガ (CV-3)|サラトガ]]の前衛を務めた。[[1943年]]の3月から4月にかけて真珠湾で新型の射撃管制機器とレーダー装置を装備し、9月に再び真珠湾に戻って[[ギルバート諸島]]侵攻に備えた([[ギルバート・マーシャル諸島の戦い]])。その後、[[マリアナ沖海戦]]、[[ジャンボリー作戦]]など機動部隊の護衛艦艇として転戦した。

[[1945年]](昭和20年)3月下旬以降の[[沖縄戦]]でも機動部隊の護衛をつとめた。4月7日、戦艦[[大和 (戦艦)|大和]]([[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]旗艦)は空母機動部隊艦上機により撃沈される{{Sfn|ニミッツ|1962|pp=440-441}}([[坊ノ岬沖海戦]])。ノースカロライナを含め、連合軍の戦艦が[[大和型戦艦]]と砲戦をおこなう機会はなかった。8月15日に戦争が終結すると、ノースカロライナは日本占領任務にあたる上陸部隊の輸送に従事した。その後は[[東京湾]]に9月5日に錨を降ろすまで日本沿岸のパトロールを行った。その後[[沖縄県|沖縄]]で帰還兵を乗艦させると、本国への帰途についた({{仮リンク|マジックカーペット作戦|en|Operation Magic Carpet}})。10月8日にパナマ運河を通過し、10月17日に[[ボストン]]に到着、ニューヨークでオーバーホールを受ける。オーバーホールの完了後は主に練習艦としての任務に就き、ニューイングランド水域で訓練を行い、1946年夏には[[アメリカ海軍兵学校|海軍兵学校]]の士官候補生を乗艦させカリブ海で訓練巡航を行った。


ノースカロライナは[[第二次世界大戦]]の戦功により15個の従軍星章を受章した。
ノースカロライナは[[第二次世界大戦]]の戦功により15個の従軍星章を受章した。


==退役とその後==
=== 退役とその後 ===
{{Infobox_nrhp | name = USS ノースカロライナ (戦艦)
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| nrhp_type =nhl
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博物館の改修案はいくつか計画されている。次の主な改修計画は船体の修理である。これは最も近い[[バージニア州]][[ノーフォーク (バージニア州)|ノーフォーク]]の[[乾ドック]]に入り、ウィルミントンから数ヶ月間離れることになるかもしれないものである。
博物館の改修案はいくつか計画されている。次の主な改修計画は船体の修理である。これは最も近い[[バージニア州]][[ノーフォーク (バージニア州)|ノーフォーク]]の[[乾ドック]]に入り、ウィルミントンから数ヶ月間離れることになるかもしれないものである。


== 脚注 ==
== 登場作品 ==
=== 漫画・文芸・小説 ===
{{脚注ヘルプ}}
; [[かわぐちかいじ]]作『[[ジパング (漫画)|ジパング]]』
{{Reflist}}
:第9巻、[[アッツ島の戦い|アッツ島攻略作戦]]で[[トーマス・C・キンケイド]]提督の旗艦として登場、重巡[[サンフランシスコ (重巡洋艦)|サンフランシスコ]]や軽巡[[アトランタ (軽巡洋艦)|アトランタ]]を率いていた。日本軍撤退作戦を支援していた[[イージス艦]]「みらい」と[[キスカ島]]沖合で交戦し、[[ハープーン_(ミサイル)|ハープーンミサイル]]が命中して大破する。

==出典==
=== 注 ===
<div style="font-size:88%">
{{Reflist|group="注"}}

=== 脚注 ===
{{reflist|2}}</div>

== 参考文献 ==
<!--著者五十音順 -->
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:*(7-17頁){{small|元「瑞鶴」艦爆隊長・海軍少佐}}高橋定『母艦飛行隊長が告白する名空母の証明 {{small|勇名をはせた艦爆隊長が証言する翔鶴型空母の強味と弱味}}』
:*(198-218頁){{small|元「翔鶴」艦爆隊偵察員・海軍少佐}}有馬敬一『空母「翔鶴」艦爆分隊長ソロモンの死闘 {{small|敵空母損傷と引きかえに多大な犠牲を出した第二次ソロモン海戦記}}』
*<!-- タカマツミヤ4巻 -->{{Cite book|和書|author=[[高松宮宣仁親王]]著|coauthors=[[嶋中鵬二]]発行人|title=高松宮日記 第四巻 {{small|昭和十七年一月一日〜昭和十七年九月三十日}}|publisher=中央公論社|date=1996-07|isbn=4-12-403394-X|ref={{SfnRef|高松宮日記4巻|1996}}}}
*<!-- トール2016上 -->{{Cite book|和書|author1=イアン・トール著|author2=村上和久訳|date=2016-03|title=太平洋の試練 {{small|ガダルカナルからサイパン陥落まで}} 〈上〉|series=|volume=|publisher=株式会社文藝春秋|isbn=978-4-16-390423-8|ref={{SfnRef|トール(上)ガ島からサイパン|2016}} }}
*<!-- トヨダ1985 -->{{Cite book|和書|author=[[豊田穣]]|coauthors=|date=1985-07|origyear=1982|title=空母瑞鶴の生涯|chapter=第九章 ソロモンの死闘|publisher=集英社|series=集英社文庫|isbn=4-08-749009-2|ref={{SfnRef|空母瑞鶴の生涯|1985}}}}
*<!-- ナカジマチカタカ2008 -->{{Cite book|和書|author=[[中島親孝]]|dater=2008-10|chapter=第三章 敗北の構図〈第三艦隊参謀時代(一)〉、第四章 南溟の砲声〈第三艦隊参謀時代(二)〉|title=聯合艦隊作戦室から見た太平洋戦争 {{small|参謀が描く聯合艦隊興亡記}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2175-1|ref={{SfnRef|聯合艦隊作戦室|2008}}}}
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*<!--ホウエイチョウ98 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 潜水艦史|volume=第98巻|year=1979|month=6|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書98|1979}}}}
*<!--マル1995-3-->{{Cite book|和書|author=雑誌「丸」編集部編|year=1995|month=3|title=写真 太平洋戦争<第四巻> {{small|北方作戦 第1次 第2次 ソロモン海戦/サボ島沖海戦}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2076-3|ref={{SfnRef|写真太平洋戦争(4)|1995}}}}
*<!-- レキシグンゾウ1994-11 -->{{Cite book|和書|author=歴史群像編集部編|year=1994|month=11|title=ソロモン海戦 {{small|米軍ガダルカナル島上陸により惹起されたソロモンの制海権争奪の前半戦を徹底解析}}|series=歴史群像 太平洋戦史シリーズ|volume=第5巻|publisher=学習研究社|isbn=|ref={{SfnRef|ソロモン海戦(歴群05)|1994}} }}

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* [https://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所)
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030044000|title=昭17年6月1日~昭和17年11月30日 第5戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)|ref=S1705五戦隊日誌(2)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030051400|title=昭17年7月14日~昭和17年11月30日 第11戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)|ref=S1707十一戦隊日誌(1)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030051500|title=昭17年7月14日~昭和17年11月30日 第11戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)|ref=S1707十一戦隊日誌(2)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030096600|title=昭和17年8月13日~昭和17年8月31日 外南洋部隊増援部隊戦闘詳報(3)|ref=増援部隊戦闘詳報(3)}}
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C13072012500|title=昭和17年12月31日現在10版内令提要追録第12号原稿・巻1/第6類機密保護|ref=S17.12.31艦船要目公表範囲}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C14121189800|title=軍令部秘報 昭和15.10.15/I米国|ref=米国(昭和15年10月)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C16120633400|title=昭和17.7.1~昭和17.9.28 太平洋戦争経過概要その3(防衛省防衛研究所)17年8月15日~17年8月31日|ref=S1708(下)経過概要}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C16120633500|title=昭和17.7.1~昭和17.9.28 太平洋戦争経過概要その3(防衛省防衛研究所)17年9月1日~17年9月16日|ref=S1709(上)経過概要}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C16120657200|title=昭和16.12~18.12 大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の1(防衛省防衛研究所)昭和17年8月|ref=S1708護衛対潜}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C16120657300|title=昭和16.12~18.12 大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の1(防衛省防衛研究所)昭和17年9月|ref=S1709護衛対潜}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C19010070800|title=昭16~17 軍艦熊野 接授電報 其の3軍令部秘報(防衛省防衛研究所)機動部隊 昭和17年8月25日~昭和17年8月27日|ref=1942.8機動部隊}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
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* [[アメリカ海軍艦艇一覧]]
* [[アメリカ海軍艦艇一覧]]
* [[酸素魚雷]]
* [[酸素魚雷]]

== 参考文献 ==
* 岡田幸和『<span style="font-size:90%;">世界の艦船別冊</span> 艦艇工学入門 <span style="font-size:90%;">-理論と実際-</span>』海人社、1997年、ISBN 4-905551-62-5


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
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[[Category:ノースカロライナ級戦艦]]

2020年6月23日 (火) 15:03時点における版

ノースカロライナ
基本情報
建造所 ブルックリン海軍工廠
運用者 アメリカ合衆国の旗 アメリカ海軍
愛称 ショウボート (Showboat);
USO ノースカロライナ
艦歴
発注 1937年8月1日
起工 1937年10月27日
進水 1940年6月13日
就役 1941年4月9日
退役 1947年6月27日
除籍 1960年6月1日
除籍後 1962年4月29日よりノースカロライナ州ウィルミントンで博物館船として公開
要目
基準排水量 36,600 トン
満載排水量 44,800 トン
全長 222.11 m
最大幅 33.03 m
吃水 9.64 m
主缶 バブコック・アンド・ウィルコックス式重油専焼水管缶×8基
主機 GEギアード・タービン×4基
出力 121,000 hp (90,000 KW)
推進器 スクリュープロペラ4軸
最大速力 28ノット (52 km/h)
航続距離 17,400 海里 (32,320 km) /15ノット
乗員 士官・兵員:1,880名
兵装
装甲
  • 水線装甲帯:12 in (305 mm)
  • 砲塔部:16 in (406 mm)
  • 甲板部:5.5 in(140mm)
  • 司令塔:14.7 in (373mm)
搭載機 OS2U キングフィッシャー観測機×3機
その他 船尾楼甲板部に航空機用カタパルト×2基
テンプレートを表示

ノースカロライナ (USS North Carolina, BB-55) は、アメリカ海軍戦艦[1]ノースカロライナ級戦艦ネームシップ。艦名はノースカロライナ州に因む。その名を持つ艦としては3隻目にあたる。

概要

ノースカロライナ級戦艦は、大和型戦艦と同世代艦である[2]太平洋戦争開戦前、ロンドン海軍軍縮条約が解かれることに伴い起工された[3]。当初アメリカ海軍は、口径16インチ(40.6cm)以上の砲を搭載禁止とする第二次ロンドン条約の締結を見越して14インチ(35.6cm)砲を本級に搭載する予定だった[4]。だが日本が締結を拒否し、アメリカ側は日本の新型戦艦(大和型戦艦)について16インチ砲搭載の高速戦艦と推測した[5]。大和型戦艦に対抗するため、本級も主砲を急遽16インチ砲に変更した[5]。しかし元来14インチ砲搭載艦として設計されたため、防御も14インチ砲に対抗できるものに留まった[6]。ノースカロライナと同時期に建造された高速戦艦大和が装備していたのは、18インチ砲であった[2]。ただし大和の公表値はノースカロライナと大差なく[7]、主砲も16インチ砲と記載されていた[8]

就役当初のノースカロライナはいくつかの不具合に悩まされたものの、1942年(昭和17年)8月よりフレッチャー提督の機動部隊に所属して[9]ウォッチタワー作戦にともなう輸送部隊の護衛、航空母艦の直衛といった任務に就いた。第二次ソロモン海戦では空母エンタープライズの直衛艦として活躍した[10]。 同年9月15日[11]伊号第十九潜水艦[12](潜水艦長木梨鷹一少佐)[13]の魚雷攻撃により空母ワスプが沈没し[14]、外れた魚雷がノースカロライナと駆逐艦オブライエンに命中した[15]。オブライエンは避退中に沈没、ノースカロライナは中破した[注 1]。修理後、機動部隊の護衛や、上陸作戦における支援砲撃任務に従事した。戦争末期には日本本土に対する艦砲射撃も行った。

第2次世界大戦後は練習艦として用いられ、その後予備艦艇として保管されたのち退役し、現在も博物館として現存している。

艦歴

建造から太平洋戦争前半まで

1941年4月17日、就役間もないノースカロライナ、艤装工事が続けられている

ノースカロライナは1937年(昭和12年)10月27日ニューヨーク海軍工廠で起工された[1]。同世代の戦艦大和[2]より僅かに早い起工であった[8]。1940年(昭和15年)6月13日[1]、大和より約2か月はやく[8]、イザベル・ホーイ(ノースカロライナ州知事の娘)の手によって進水した。1941年(昭和16年)4月9日に初代艦長オーラフ・M・ハストベット大佐の指揮下就役した。

しかし、艤装工事と試運転の際にいくつかの不具合が発覚し、特に機関の推進器の振動による問題は後部デッキの居住性を著しく損うものであった。これらの点を改修するためにシャフトとプロペラの修理が幾度となく行われ、最終的には振動を危険水準以下に抑えることに成功したが、実戦投入可能な状態になるまでには就役後数年を要し、そのため、「ショウボート」(Showboat:「見せかけだけの(使えない)軍艦」という意味)、「USO ノースカロライナ」(USO North Carolina:修理で本土にいる期間が長いため、他の艦艇よりも多くメディアの目に触れることを揶揄して艦船接頭辞(USS)と米国慰問協会(USO)を掛けたもの)と呼ばれた[18]

ノースカロライナは太平洋戦争が始まる前にカリブ海で整備を完了させ、集中的に訓練を実施した。大和は開戦直後の12月16日に竣工していた[8]。1942年(昭和17年)6月10日、ノースカロライナはパナマ運河を渡って太平洋に出航した。空母ヨークタウンミッドウェー海戦で沈没したので、太平洋戦線4隻目の主力空母としてワスプも大西洋から太平洋に転戦した[注 2]

ガダルカナル島の戦い

1942年(昭和17年)8月7日[20]、アメリカ海軍はウォッチタワー作戦により[21]ガダルカナル島フロリダ諸島ツラギ島)にアメリカ海兵隊を上陸させた[22]ガダルカナル島の戦いフロリダ諸島の戦い[23]。アメリカ軍は日本軍に勝利するために飛び石作戦アイランドホッピング)を開始した。上陸作戦を、フレッチャー提督が指揮する第61任務部隊の空母3隻[24]サラトガエンタープライズ、ワスプ)が支援した[25][26]。第61任務部隊の護衛艦艇は、戦艦1隻(ノースカロライナ)と重巡洋艦5隻(ニューオーリンズミネアポリスポートランドサンフランシスコソルトレイクシティ)、軽巡洋艦アトランタと駆逐艦16隻で構成されていた[27]。ノースカロライナは攻略のために補給と輸送ラインを守る航空支援部隊の空母エンタープライズを護衛した[28][29]。 アメリカ海兵隊のガ島とツラギ島上陸と共に、ニューブリテン島ラバウル第十一航空艦隊は全力で反撃し、第二十五航空戦隊司令官山田定義少将は一式陸上攻撃機27、零式艦上戦闘機17、九九式艦上爆撃機9 をガ島に送り込んだ[30][31]。 日本側の戦果は乏しかったが、フレッチャー提督は「わが方の戦闘機損耗は大である」「これ以上、貴重な空母を危険に晒せない」と判断し、指揮下のアメリカ軍機動部隊を退避させた[32][33]。上空支援がなくなったアメリカ軍輸送船団も、物資揚陸を半分ほどすませた段階で撤退し、ガ島の海兵隊は孤立してしまった[34]第一次ソロモン海戦[35]。海兵隊は食糧不足に悩まされながらヘンダーソン飛行場の整備を急いだ[36][37]

8月下旬[38]、日本軍はガ島に一木支隊第二梯団海軍陸戦隊を上陸させるため[39]第二水雷戦隊司令官田中頼三少将が護衛する輸送船3隻を南下させていた[注 3]。 一木支隊第二梯団を支援する第二艦隊[41](司令長官近藤信竹中将、旗艦「愛宕」)と[42]第三艦隊(司令長官南雲忠一中将、参謀長草鹿龍之介少将[43]、旗艦「翔鶴」)も[44]、ガ島に接近していた[45][注 4] [注 5] 連合艦隊旗艦「大和」(司令長官山本五十六大将)も、作戦支援のためソロモン諸島北東海面に進出していた[注 6]

ミッドウェー作戦の時と違って、連合軍は日本海軍の新しい暗号を完全に解読していなかった[54]。無線交信や各種の兆候から、上級部隊は「敵空母部隊はトラック島北方にいる」[55]、「敵空母部隊は最速で8月25日頃に攻撃をしかけてくる」と判断した[56]。 フレッチャー提督は燃料補給のためワスプを南下退避させており[57]、結局、ワスプは機動部隊同士の決戦に間に合わなかった[58][注 7]。 提督は手持ちの空母2隻(サラトガ、エンタープライズ)と、一木清直陸軍大佐の一木支隊先遣隊の攻撃[60]をはねのけたヘンダーソン飛行場の基地航空隊をもちいて[注 8]、連合艦隊を迎え撃った[64]

8月24日第二次ソロモン海戦[65](米呼称:東ソロモン海戦[66]、東部ソロモン海戦[67]など)において、第61任務部隊(第11任務部隊〈空母サラトガ、重巡ミネアポリス、重巡ニューオーリンズ、駆逐艦5隻〉、第16任務部隊〈空母エンタープライズ、戦艦ノースカロライナ、重巡ポートランド、軽巡アトランタ、駆逐艦5隻〉)は[59]第一航空戦隊(翔鶴、瑞鶴)の攻撃に晒された[68][69]24日の日本時間午前4時15分より、一航戦は九七式艦上攻撃機 19機を索敵に出したとする[70]。このあと重巡筑摩の水上偵察機が撃墜されたので、南雲機動部隊は攻撃隊の発進準備にかかった[71]。12時55分、翔鶴飛行長関衛少佐が指揮する一航戦第一次攻撃隊37機[72](翔鶴〈艦爆18、零戦4〉、瑞鶴〈艦爆9、零戦6〉)が発進した[73][注 9]。 筑摩水上機と比叡水上機の情報や誘導により、一航戦第一次攻撃隊は日本時間14時20分にアメリカ軍機動部隊を発見した[71]。 エンタープライズと護衛艦艇(ノースカロライナ、ポートランド、アトランタほか)には[10]、翔鶴隊の艦爆18機が空襲をおこなった[75][76]。 サラトガ隊には瑞鶴隊の艦爆9機が攻撃をおこなったとされる[77]。 米側はF4F戦闘機 53機とSBD数機を直掩として空母上空に配置したが[78]、母艦へ帰投中の索敵機や攻撃隊と混同し、日本側の攻撃を空中で阻止できなかった[79]。F4Fは空戦で艦爆6機を撃墜したという[80]

ノースカロライナは、戦闘機の掩護を受ける爆撃機と雷撃機[注 10]の攻撃に晒された[86]。7発の至近弾を受けたものの船体にダメージはなく、日本軍機を7機以上撃墜した。 ノースカロライナが護衛していたエンタープライズには、爆弾3発が命中した[78]。エンタープライズは炎上し、舵故障となって危機に陥った[87]。だが火災は間もなく鎮火し、舵の応急修理にも成功[88]、致命傷を避けることが出来た[89][注 11][注 12]

この日の戦闘で、アメリカ側は戦闘機20(資料によっては25機)を喪失した[95]。日本側の損害は諸説ある[注 13]。一航戦第二次攻撃隊は米軍機動部隊を発見できず[76]、翔鶴と瑞鶴へ帰投した[99]。艦爆4機が行方不明となり、1機が不時着した[100]。 南雲機動部隊はノースカロライナをカルフォルニア型戦艦[75][101]もしくはペンシルベニア級戦艦と判断した[76]。 エンタープライズの方をエセックス級航空母艦と推定している[76][102][注 14]

日本側はサラトガ隊の攻撃で、分離行動中の軽空母龍驤が沈没した[104][注 15]。 エンタープライズから発進した索敵のSBD 2機[110]に奇襲された翔鶴では[75]、急転舵の際に零戦1機と整備兵6名が海中に落下した[111][112]。 米機動部隊第二次攻撃隊(SBD 13、TBF 12)の攻撃で[110]、水上機母艦千歳が中破[113][注 16]、トラック泊地に撤退した[75]

25日朝、伊15はノースカロライナ型戦艦1隻、エンタープライズ型空母1隻、巡洋艦2隻と駆逐艦多数のアメリカ艦隊を発見、通報した[115]。 連合艦隊旗艦「大和」と護衛部隊(春日丸、潮、漣、曙)は、ノースカロライナを含むアメリカ軍機動部隊を追撃するため南下を開始、北上退避する南雲機動部隊とすれ違った[116]。一方、連合軍はガ島ヘンダーソン飛行場とエスピリトゥサント島の航空機で日本軍輸送船団を攻撃した[117]。SBDとB-17の空襲により、輸送船金龍丸と駆逐艦睦月が沈没し、軽巡神通[118](二水戦旗艦)が中破した[119][注 17]

日本軍は輸送船団によるガ島揚陸作戦を諦め、駆逐艦による鼠輸送を開始した[123]。連合軍はエンタープライズの航空隊の一部をヘンダーソン基地に配備し[116][124]、母艦をニューカレドニアヌメア後退させた[125][注 18]。 サラトガとワスプおよびノースカロライナを含む機動部隊は引き続きガ島南方海域に留まり[126]、ガ島にむかう輸送船団の支援をおこなった[127][128]

連合軍の商船乗りは、日本軍潜水艦が遊弋するガダルカナル島南東海域を「魚雷トピード交差点ジャンクション」と呼んでいた[129]。 8月26日、伊19は空母と戦艦を含む米機動部隊を発見したが[130]、魚雷発射の機会を得られなかった[131]。 8月31日、ノースカロライナが護衛する空母サラトガを[132]日本海軍伊号第二十六潜水艦[133](潜水艦長横田稔少佐)が襲撃する[134]。 伊26は南緯10度25分 東経164度15分 / 南緯10.417度 東経164.250度 / -10.417; 164.250地点で魚雷6本を発射した[135]。大破したサラトガは戦線を離脱[136]、長期修理を余儀なくされる[137]。サラトガが戦線に復帰したのは約3ヶ月後だった[138][139]

サラトガが離脱して空母2隻(ホーネット、ワスプ)になったアメリカ海軍機動部隊は、引き続きソロモン諸島周辺を行動した[138]9月6日には伊号第十一潜水艦にホーネットが狙われた[140]。 伊11の魚雷は、もう少しでホーネットとノースカロライナに命中するところだった[141][注 19]。このような状況下、ヘンダーソン基地に対する川口清健陸軍少将指揮下の川口支隊総攻撃(Battle of Edson's Ridge)の顛末を見届けた[143]。 日本側の前進部隊(第二艦隊、近藤中将)[144]と機動部隊(第三艦隊、南雲中将)も[145]、9月9日から10日にかけてトラック泊地を出撃し[146][147]、ガ島北方海域でアメリカ軍機動部隊を警戒していた[148]。この戦いに大和は出撃せず、その後もトラック泊地に停泊しつづけて「大和ホテル」と呼ばれた[149]

伊号第十九潜水艦の攻撃

1942年(昭和17年)9月13日午前11時45分、アメリカ軍機動部隊発見の報告により連合艦隊はソロモン方面で行動中の潜水艦を攻撃に向かわせた[150][151]伊9伊31伊24伊21伊26伊19、伊15、伊17伊33の順番で散開線を形成することになった[152]。ところが伊19は命じられた散開線への移動前に旧配備地点においてワスプを発見しており、命令通りに散開線へ移動していたならば、ワスプ撃沈の戦果は得られなかった可能性が高い[153]9月14日、アメリカ海兵隊をのせた輸送船6隻は、ガ島にむけてエスピリサント島を出撃した[154]。アメリカ軍機動部隊は、この輸送船団の支援を任じられていた[155][141]。B-17は前進部隊を爆撃して重巡妙高に軽微な被害を与えたが[156]、米機動部隊の索敵機は日本軍機動部隊を発見できなかった[157]

9月15日、伊19[158](潜水艦長木梨鷹一少佐)が[14]南緯12度25分 東経164度25分 / 南緯12.417度 東経164.417度 / -12.417; 164.417地点で空母ワスプ(艦長フォレスト・シャーマン大佐)を攻撃した[159]。 伊19は日本時間午前9時50分に音源を探知、10時50分距離1万5000mに「空母1、大型巡洋艦1、駆逐艦数隻」を発見、11時45分に魚雷6本を発射した[12]。ワスプに魚雷3本が命中[160](伊19は4本命中と聴音)[注 20]、同艦は炎上して漂流したあと沈没した[注 21][注 22]

ホーネットを護衛していたノースカロライナは[167]、ワスプ被雷地点から北北東5浬付近にいた[16]。ワスプに命中しなかった酸素魚雷がホーネット隊の方にむかっているとの通信があったので、各艦は回避運動に入った[168]。伊19の魚雷は、駆逐艦マスティン英語版デイルの艦底を通過したりかすめたりして、ノースカロライナに向かった[169][15]。ノースカロライナは18ノットで航行中であったが、1番主砲塔真横の左舷に衝撃を受けた。魚雷はノースカロライナの装甲が無い吃水の深い部分(水線下20フィート)に命中し、舷側を破ってから炸裂した。火災は発生しなかったが、舷側の4層の防水区画は破壊され、衝撃で鋲が飛ぶなどして隔壁が変形し1番主砲塔基部の配電盤室や火薬庫にも浸水を来した。第2デッキや第3デッキの乗員区画も吹き上がった衝撃波で破壊された[170]。乗員5名が死亡し23人が負傷したものの[171]、巧みなダメージコントロールと堅牢な構造により、最大5.6度となったノースカロライナの傾斜は、およそ6分で復元された。機関には問題なく24ノットの速力発揮が可能であったが浸水を拡大させないために速度を制限して航行した。ノースカロライナは艦隊を離れて修理を行うように命令され、めくれ上がった外板を切り取ったり補強材を入れたりする応急処置を実施したのちに真珠湾に向かった。魚雷による破孔は32x18フィートの大きさであった[171](幅10m、高さ5m)[172]。5人の死者はトンガタプ島の軍人墓地に埋葬された[171]。修理のため、本艦は11月まで活動できなかった[173]

この攻撃で、駆逐艦オブライエン (DD-415)にも伊19の魚雷が命中した[16]。魚雷1本を回避したが、2本目が右舷艦首に命中した[172]。オブライエンの艦首は10番フレームより前が大破したほか、爆発の衝撃で隔壁の破損や船体へのクラック発生、外板のリベット脱落などが生じた[174]。応急修理を受けてたのち、本格的な修理のため本国へ向かったが[175]、同年10月19日に船体が折れて沈没した[172]

なお日本側の二次資料(公刊戦史『戦史叢書』など)では、伊19は一度の攻撃で3隻(ワスプ、ノースカロライナ、オブライエン)に魚雷を命中させたとする[175][163]。魚雷6本を発射し、5本を命中させた[176]。しかしサミュエル・モリソンなど海外の研究者や二次資料では[16]、伊19がワスプを撃沈し、空母ホーネットを狙った伊15がノースカロライナとオブライエンを撃破したとする見解もある[17]。モリソン博士は「東ソロモン群島沖海戦(第二次ソロモン海戦)のときには好機を逸したこれら二隻の日本潜水艦も、その日は大あたりジャックポットに当たった」と評している[177]。しかし伊15は魚雷発射を記録しておらず、3隻の戦果はいずれも伊19によるものだった[178]。ワスプの沈没とノースカロライナの戦線離脱により、太平洋戦線での可動空母は一時的に空母ホーネット[179][16]、新鋭戦艦はワシントンだけになった[11]。10月中旬、エンタープライズが復帰し、新鋭戦艦サウスダコタも戦線に投入され[172]、日本軍のガ島総攻撃に備えることになった[180]南太平洋海戦第三次ソロモン海戦)。

1942年11月16日、真珠湾海軍工廠で前方から見たノースカロライナ(BB-55)

終戦まで

真珠湾で修理を終えて1942年11月末に復帰したノースカロライナは次の年までの間、ソロモン諸島で補給線を守る空母エンタープライズ、サラトガの前衛を務めた。1943年の3月から4月にかけて真珠湾で新型の射撃管制機器とレーダー装置を装備し、9月に再び真珠湾に戻ってギルバート諸島侵攻に備えた(ギルバート・マーシャル諸島の戦い)。その後、マリアナ沖海戦ジャンボリー作戦など機動部隊の護衛艦艇として転戦した。

1945年(昭和20年)3月下旬以降の沖縄戦でも機動部隊の護衛をつとめた。4月7日、戦艦大和第二艦隊旗艦)は空母機動部隊艦上機により撃沈される[181]坊ノ岬沖海戦)。ノースカロライナを含め、連合軍の戦艦が大和型戦艦と砲戦をおこなう機会はなかった。8月15日に戦争が終結すると、ノースカロライナは日本占領任務にあたる上陸部隊の輸送に従事した。その後は東京湾に9月5日に錨を降ろすまで日本沿岸のパトロールを行った。その後沖縄で帰還兵を乗艦させると、本国への帰途についた(マジックカーペット作戦)。10月8日にパナマ運河を通過し、10月17日にボストンに到着、ニューヨークでオーバーホールを受ける。オーバーホールの完了後は主に練習艦としての任務に就き、ニューイングランド水域で訓練を行い、1946年夏には海軍兵学校の士官候補生を乗艦させカリブ海で訓練巡航を行った。

ノースカロライナは第二次世界大戦の戦功により15個の従軍星章を受章した。

退役とその後

USS ノースカロライナ (戦艦)
戦艦ノースカロライナ記念館
所在地ノースカロライナ州ウィルミントン
座標北緯34度14分11秒 西経77度57分15秒 / 北緯34.2364度 西経77.9542度 / 34.2364; -77.9542
建設1941年
建築家ニューヨーク海軍工廠
NRHP登録番号82004893
指定・解除日
NRHP指定日1986年1月14日[182]
NHL指定日1982年11月10日[183]

ノースカロライナは1947年6月27日に退役し、不活性化の後、予備艦艇として係留保管された。1960年6月1日には予備艦艇としても退役し、同日付で海軍籍から除籍された。1961年9月6日にノースカロライナ市民の下に管理を移され、1962年4月29日、ノースカロライナ州ウィルミントンで、全ての第二次世界大戦における死者のメモリアルとして一般に公開された。その後1986年にはアメリカ合衆国国定歴史建造物に指定された。

「戦艦ノースカロライナ号博物館」への訪問客は、艦の主甲板、多くの内部の部屋やいくつかの砲塔を見学することができる。博物館ではさまざまなイベントが開催され、いくつかのスペースは催し物のために貸し出されることもある。士官室には第二次世界大戦で戦死したノースカロライナ州民の氏名がリストされている。博物館にはこのほか売店、ビジターセンター、ピクニック・エリアが存在する。

博物館は1960年にノースカロライナ州の制定法によって設立された、戦艦ノースカロライナ委員会によって運営される。博物館は寄付金及び自らの収入で運営され、税金は投入されない。

博物館の改修案はいくつか計画されている。次の主な改修計画は船体の修理である。これは最も近いバージニア州ノーフォーク乾ドックに入り、ウィルミントンから数ヶ月間離れることになるかもしれないものである。

登場作品

漫画・文芸・小説

かわぐちかいじ作『ジパング
第9巻、アッツ島攻略作戦トーマス・C・キンケイド提督の旗艦として登場、重巡サンフランシスコや軽巡アトランタを率いていた。日本軍撤退作戦を支援していたイージス艦「みらい」とキスカ島沖合で交戦し、ハープーンミサイルが命中して大破する。

出典

  1. ^ サミュエル・モリソン博士など[16]、伊19がワスプを撃沈、伊号第十五潜水艦がノースカロライナとオブライエンを撃破したとする二次資料がある[17]
  2. ^ 1942年(昭和17年)6月末時点で太平洋戦線で行動可能なアメリカ軍主力空母は、レキシントン級航空母艦サラトガヨークタウン級航空母艦エンタープライズホーネットであった[19]
  3. ^ 護衛部隊(軽巡神通、駆逐艦海風涼風江風〈途中で先行〉、第1号哨戒艇第2号第34号第35号)、輸送船(ぼすとん丸、大福丸、金龍丸)[40]
  4. ^ 支援部隊[46](指揮官は近藤信竹第二艦隊司令長官)の軍隊区分[47]:前進部隊(指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官)本隊(第四戦隊〈愛宕高雄摩耶〉、第五戦隊〈妙高羽黒〉、戦艦〈陸奥〉、第四水雷戦隊〈軽巡由良、駆逐艦村雨春雨五月雨朝雲夏雲峯雲〉、第15駆逐隊〈黒潮親潮早潮〉)、航空部隊(千歳)、待機部隊・補給部隊略。
  5. ^ 支援部隊の軍隊区分[47]:機動部隊(指揮官南雲忠一第三艦隊司令長官):本隊(一航戦〈翔鶴、瑞鶴、龍驤〉、第10駆逐隊〈秋雲夕雲巻雲風雲〉、第16駆逐隊〈初風天津風時津風〉、秋月[48]〈途中合流〉)、前衛(指揮官は第十一戦隊司令官阿部弘毅少将:第十一戦隊〈比叡霧島〉、第七戦隊〈熊野鈴谷〉、第八戦隊〈利根筑摩〉、第十戦隊〈軽巡長良、駆逐艦野分舞風〉、第19駆逐隊〈浦波綾波敷波〉)、第一補給部隊、第二補給部隊、待機部隊略。
  6. ^ 山本長官直率の主隊は、戦艦「大和」、軽空母春日丸(大鷹)[49]、第7駆逐隊([50]。機動部隊は8月16日に、主隊は17日に、それぞれ内海西部を出撃した[51]。第二次ソロモン海戦後の8月28日[52]、大和はトラック泊地に帰投した[53]
  7. ^ 第18任務部隊:空母ワスプ、重巡サンフランシスコ、重巡ソルトレイクシティ、軽巡サンフアン、駆逐艦6隻[59]
  8. ^ 8月20日、軽巡ヘレナの護衛下[55]、護衛空母ロング・アイランドF4Fワイルドキャット19機、SBDドーントレス12機を輸送した[61]。ヘンダーソン飛行場の稼働により、アメリカ軍はガ島周辺の制空権を握った[62][63]
  9. ^ 高橋定(当時、瑞鶴飛行隊長)によれば、母艦直衛に零戦多数を残したため各攻撃隊に零戦9しか配備できなくなり、一航戦第一次攻撃隊の編成は零戦・艦爆・艦攻の合計54機であったという[74]
  10. ^ 草鹿龍之介(当時、第三艦隊参謀長)の回想や[81]、『戦史叢書』を含め大多数の二次資料で[82]、一航戦は九七式艦上攻撃機を出動させていないとする[83][84]。木俣滋郎『日本空母戦史』329ページでは、一航戦第一次攻撃隊を零戦10〈翔鶴4、瑞鶴6〉、艦爆27〈翔鶴18、瑞鶴9〉、艦攻4〈翔鶴4〉とする[85]
  11. ^ なお戦史研究家木俣滋郎は『日本空母戦史』335ページで「瑞鶴隊の艦爆9機が攻撃したのはサラトガではなく、エンタープライズとノースカロライナだった。瑞鶴隊はノースカロライナやアトランタの対空砲火に脅威を感じ、高度4500mで水平爆撃をおこなった。」と記述している[90]
  12. ^ 『戦史叢書49巻』569ページでは「なお、瑞鶴隊のサラトガ攻撃については記録がなく、命中弾も与えていない。」と記述する[78]源田実(当時、瑞鶴飛行長)は[91]、第二次ソロモン海戦前後の瑞鶴について詳しく記述していない[92]。瑞鶴艦爆隊(大塚礼次郎大尉)は8機が撃墜され、1機が不時着した[93]。操縦員大川豊信 一飛曹と偵察員の前野広 二飛曹のうち前野は南太平洋海戦で戦死した[93]。第二次ソロモン海戦における瑞鶴艦爆隊の戦闘経過は、よくわからない[94]
  13. ^ 。『戦史叢書49巻』によれば、一航戦第一次攻撃隊(零戦10、艦爆27)は、未帰還(零戦3、艦爆17)、不時着(零戦3、艦爆1)、合計24(零戦6、艦爆18)喪失、収容(零戦4、艦爆9)であった[82]。南雲機動部隊の速報では、零戦7(翔鶴3、瑞鶴4)、艦爆24(翔鶴13、瑞鶴11)喪失であった[94]。 木俣によれば、翔鶴隊は零戦1、艦爆8、艦攻4を失った[96]福地周夫(翔鶴運用長)は第二次ソロモン海戦での翔鶴戦死者を整備兵6名、搭乗員戦死29名とする[97]。高橋定(瑞鶴飛行隊長)によれば、雷撃隊の九七艦攻は2隻合計9機しか帰らなかったという[98]。瑞鶴艦爆隊は全滅した(喪失8、不時着1)[93]
  14. ^ 昭和17年8月25日項より[103]〔 ○機動部隊(三四六=二四-一七二八)「翔鶴」第一次攻撃機隊成果、敵空母二隻中「エセックス」型ラシキモノ《之ハ未ダ完成セザルベク「ワシントン」型等ナルベシ》一隻ニ二十五番十二(?)発以上命中、其他後報ス。
    ○機動部隊(三四八=二四-一八〇〇)敵艦隊ノ兵力及位置左ノ如シ(搭乗員報告)。一群ハ一四三〇「ステワート」諸島ノ141°16′Co.110°Sp.25kt。(兵力)新空母位置、「カリフォルニア」型戦艦一、巡洋艦、駆逐艦数隻。他ノ一群ハ同島ノ167°27′Co.110°。(兵力)空母一、巡洋艦数隻。「翔鶴」第一次攻撃隊半数ノ戦果、新型空母ニ対シ六発以上命中大火災(速報第一) 〕
  15. ^ ヘンダーソン基地攻撃のため第八戦隊司令官原忠一少将指揮下の機動部隊支隊[105]利根、龍驤、時津風天津風)で行動中、エンタープライズ索敵隊(SBD 2機)[106]、サラトガ隊(SBD 28機、TBF 8機)と[107]エスピリトゥサント島から来たB-17型重爆の攻撃を受けた[108][109]
  16. ^ 昭和17年8月25日項より[114]〔 ○航空部隊指揮官(十一航戦司令官城島高次少将)(タナ九〇=二四-一六〇〇)「千歳」至近弾二発、左舷機浸水使用不能、出シ得ル速力16kt、人力操舵、左舷後部小浸水、小火災。〕
  17. ^ 飛行場砲撃を終えた駆逐艦部隊(睦月、弥生、磯風、陽炎、江風)が合流し[120]、陣形変更中にSBDドーントレスの爆撃を受け、神通中破、金龍丸が沈没した[121]。救助作業中にB-17の爆撃で睦月が沈没した[122]
  18. ^ このあと、エンタープライズは本格的修理のため真珠湾にひきあげた[116]
  19. ^ 伊11はエンタープライズ型空母に魚雷2本命中と報告した[133]。昭和17年9月7日項より[142]〔 ○第三潜水戦隊(六-一八三〇)伊十一潜、六日〇九一〇敵空母(エンタープライズ類似)一隻、重巡二隻、駆逐艦数隻発見、地点ケラル48、Co.230°。〇九四九空母雷撃、命中二本、命中三分後大爆発音ヲキク。一一一一敵空母襲撃後二時間後ヨリ爆雷攻撃(至近五、遠二〇)ヲ一四三〇迠受ク。主蓄電池両群共大部破損、七日〇二〇〇地点「ケルモ」ヨリCo.0°Sp.18k、潜航不能、トラックニ向フ。〕
  20. ^ 昭和17年9月16日記事[161] ○第二潜水隊(一五-一六三〇)伊十九 一〇五〇敵空母一(飛行甲板長ク煙突低小)、大型巡洋艦一、駆逐艦数隻ヲ発見、「ケワヨ」48、敵Co.330°Sp.(空白)。一一二〇敵反転。一一四五「ケワラ25」ニテ敵空母ニ肉迫雷撃、魚雷命中音四発ヲ聴取、爾後駆逐艦ノ制圧ヲ受ク(爆雷八〇、至近弾0)、襲撃時ノ敵Co.170°Sp.12k。
  21. ^ 伊19は制圧攻撃を受けて潜水を続け、ワスプの沈没を目撃できなかった[162]。日本時間午後6時、伊15は漂流中の空母が南緯12度25分 東経163度45分 / 南緯12.417度 東経163.750度 / -12.417; 163.750地点で沈没するのを認めた[163]。〔 ○伊一五潜(一五-一八一五)[161] 一、味方航空部隊攻撃ニ依リ、地点「ケロラ」28ニ漂流、大型ノ敵空母(エンタープライズ型)一隻ハ左ニ大傾斜後沈没セリ。/二、一五三五敵巡洋艦二、駆逐艦数隻。一七四六敵駆逐艦一隻ハ空母ヲ見捨、南方ニ避退セリ。〕[164]
  22. ^ ワスプは放棄されたあと随伴駆逐艦ランズダウン英語版によって処分された[165]。日本側は10月27日のアメリカ側放送で「ワスプ」の沈没を知った[166]

脚注

  1. ^ a b c #米国(昭和15年10月) p.7〔 ○米國海軍建艦状況一覽表 其ノ1(軍艦、潜水艦 特務艦艇ノ部)1940-10-1調 〕〔 戰艦|North Carolina(BB55)|35,000|28~30(kt)|(略)|紐育海軍工廠|一九三七年度(二隻)|1937-10-27(起工 契約又ハ建造下令 年月日)|1940-6-13(進水年月日)|1941-10-15(豫定完成年月日)|49(建造月數)|1941-春就役 1941年末迄ニ艦隊編入ノ報アリ 〕
  2. ^ a b c 福井、日本戦艦物語(II) 1992, p. 288.
  3. ^ 福井、日本戦艦物語(II) 1992, pp. 194–195無条約時代突入の前夜
  4. ^ 福井、日本戦艦物語(II) 1992, pp. 283a-285大和の情報収集に失敗した米海軍
  5. ^ a b 福井、日本戦艦物語(II) 1992, p. 283b.
  6. ^ 福井、日本戦艦物語(II) 1992, p. 284.
  7. ^ 福井、日本戦艦物語(II) 1992, pp. 273–276"三万五〇〇〇トン"の正体
  8. ^ a b c d #S17.12.31艦船要目公表範囲 p.2〔 大和|戰艦|長(米)235.00|幅(米)31.50|喫水(米)9.15|排水量(基準)(噸)42.000|速力(節)25.0|(短艇數)14||呉工廠|昭和12-11-4|昭和15-8-8|昭和16-12-16|主要兵装/大砲40cm…9、15.5cm…12、12.7cm高角…12(略)|馬力 90,000 〕
  9. ^ サボ島沖海戦 1988, p. 307付録(II)サボ島沖海戦におけるフレッチャー機動部隊の勢力1
  10. ^ a b ソロモン海戦(歴群05) 1994, p. 84b第1次攻撃隊合戦図1 翔鶴隊のエンタープライズ攻撃状況
  11. ^ a b ニミッツ 1962, p. 125.
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  119. ^ #S1708(下)経過概要 pp.28-29(昭和17年8月)〔 25|0605頃|金竜丸(aC)爆撃セラル|南東|大火災爆発ニテ鎭火ノ見込ミナク〇八三五睦月ニテ処分乗員ハdニ収容 陸戰隊乗艦中 〕〔 25|0837|睦月(30dg/8F)B-17×3ニ爆撃セラル|南東|後部機械室ニ命中〇九四〇沈没 戰死40負傷11 〕〔 25|0840/1200|卯月(30dg/8F)敵f×7 敵f×5 }ニ爆撃セラル|南東|至近彈ニ依リ小破最大速力24kt「ラバウル」ニ囘航 〕〔 25|午前|一木支隊主力ヲ護衛中ノ神通(司令官/4Sd? 2Sd)ハ爆撃ヲ受ク/2Sd司令官陽炎ニ移乗指揮ヲトリツツアリ|南東|爆彈1命中火災 一.二番砲及附近ノ船体破壊同砲使用不能 應急処置ニ依リ鎭火 前部火薬庫ニ注水 凉風護衛ノ下ニ「トラック」ニ回航 〕
  120. ^ #S1708(下)経過概要 p.23(昭和17年8月)〔 24|2200|30dg(卯月望月2D缺)(8F) 江風(24dg/1Sd) 磯風(17dg/1Sd) 陽炎(15dg/2Sd)ハ「ガダルカナル」敵艦船夜襲/陽炎ハ敵S×1ヲ砲撃爆雷攻撃|南東|夜襲後「マライタ」島北側ニ於テ「ガダルカナル」揚陸ノ第二梯団護衛部隊ニ合同ノ予定/概ネ確実ニ撃沈(S×1) 〕
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参考文献

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  • 勝目純也『日本海軍潜水艦百物語 ホランド型から潜高小型まで水中兵器アンソロジー』潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2018年12月。ISBN 978-4-7698-3097-9 
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  • 高橋定ほか『母艦航空隊 体験で綴る空母機動部隊の一挙一動と海空戦の真相!』潮書房光人社、2013年1月。ISBN 978-4-7698-1538-9 
  • (7-17頁)元「瑞鶴」艦爆隊長・海軍少佐高橋定『母艦飛行隊長が告白する名空母の証明 勇名をはせた艦爆隊長が証言する翔鶴型空母の強味と弱味
  • (198-218頁)元「翔鶴」艦爆隊偵察員・海軍少佐有馬敬一『空母「翔鶴」艦爆分隊長ソロモンの死闘 敵空母損傷と引きかえに多大な犠牲を出した第二次ソロモン海戦記
  • 高松宮宣仁親王著、嶋中鵬二発行人『高松宮日記 第四巻 昭和十七年一月一日〜昭和十七年九月三十日』中央公論社、1996年7月。ISBN 4-12-403394-X 
  • イアン・トール著、村上和久訳『太平洋の試練 ガダルカナルからサイパン陥落まで 〈上〉』株式会社文藝春秋、2016年3月。ISBN 978-4-16-390423-8 
  • 豊田穣「第九章 ソロモンの死闘」『空母瑞鶴の生涯』集英社〈集英社文庫〉、1985年7月(原著1982年)。ISBN 4-08-749009-2 
  • 中島親孝「第三章 敗北の構図〈第三艦隊参謀時代(一)〉、第四章 南溟の砲声〈第三艦隊参謀時代(二)〉」『聯合艦隊作戦室から見た太平洋戦争 参謀が描く聯合艦隊興亡記』光人社〈光人社NF文庫〉。ISBN 4-7698-2175-1 
  • チェスター・ニミッツ、E・B・ポッター『ニミッツの太平洋海戦史』実松譲、富永謙吾(共訳)、恒文社、1962年12月。 
  • R・F・ニューカム著、田中至訳『サボ島沖海戦 米軍史上最大の敗北』光人社〈光人社NF文庫〉、1998年4月(原著1963年)。ISBN 4-7698-2192-1 
  • 福井静夫 著、阿部安雄、戸高一成編 編『福井静夫著作集 ― 軍艦七十五年回想第二巻 日本戦艦物語〔Ⅱ〕』光人社、1992年8月。ISBN 4-7698-0608-6 
  • 福地周夫『空母翔鶴海戦記』出版共同社、1962年6月。 
  • 淵田美津雄奥宮正武「第3章 南太平洋上の決戦」『機動部隊』朝日ソノラマ〈文庫版新戦史シリーズ〉、1992年12月。ISBN 4-257-17269-X 
  • レオンス・ペイヤール著、長塚隆二訳「太平洋戦争 ― 日本の憩潮 一九四二年三月~一九四三年六月」『潜水艦戦争 1939-1945』早川書房、1973年12月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪還作戦開始まで』 第49巻、朝雲新聞社、1971年9月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで』 第83巻、朝雲新聞社、1975年8月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 潜水艦史』 第98巻、朝雲新聞社、1979年6月。 
  • 雑誌「丸」編集部編『写真 太平洋戦争<第四巻> 北方作戦 第1次 第2次 ソロモン海戦/サボ島沖海戦』光人社〈光人社NF文庫〉、1995年3月。ISBN 4-7698-2076-3 
  • 歴史群像編集部編『ソロモン海戦 米軍ガダルカナル島上陸により惹起されたソロモンの制海権争奪の前半戦を徹底解析』 第5巻、学習研究社〈歴史群像 太平洋戦史シリーズ〉、1994年11月。 
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『昭17年6月1日~昭和17年11月30日 第5戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030044000。 
    • 『昭17年7月14日~昭和17年11月30日 第11戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030051400。 
    • 『昭17年7月14日~昭和17年11月30日 第11戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030051500。 
    • 『昭和17年8月13日~昭和17年8月31日 外南洋部隊増援部隊戦闘詳報(3)』。Ref.C08030096600。 
    • 『昭和17年8月13日~昭和17年8月31日 外南洋部隊増援部隊戦闘詳報(4)』。Ref.C08030096700。 
    • 『昭16年12月~昭和18年11月 翔鶴飛行機隊戦闘行動調書(2)』。Ref.C08051577200。 
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    • 『昭和17年12月31日現在10版内令提要追録第12号原稿・巻1/第6類機密保護』。Ref.C13072012500。 
    • 『軍令部秘報 昭和15.10.15/I米国』。Ref.C14121189800。 
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    • 『昭和17.7.1~昭和17.9.28 太平洋戦争経過概要その3(防衛省防衛研究所)17年9月1日~17年9月16日』。Ref.C16120633500。 
    • 『昭和16.12~18.12 大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の1(防衛省防衛研究所)昭和17年8月』。Ref.C16120657200。 
    • 『昭和16.12~18.12 大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の1(防衛省防衛研究所)昭和17年9月』。Ref.C16120657300。 
    • 『昭16~17 軍艦熊野 接授電報 其の3軍令部秘報(防衛省防衛研究所)機動部隊 昭和17年8月25日~昭和17年8月27日』。Ref.C19010070800。 

関連項目

外部リンク