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「中原氏」の版間の差分

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{{日本の氏族 (古代氏族)
{{日本の氏族 (古代氏族)
|氏名 = 中原氏
|氏名 = 中原氏
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|氏姓 = 中原[[朝臣]]
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→以後は[[大友氏]]を参照
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[[摂津高親]]<br />
|後裔 = [[押小路家]]([[地下家]])<br/>[[平田家]](地下家)<br/>[[志水家]](地下家)<br/>[[山口家]](地下家)<br/>[[深尾家]](地下家)<br/>[[栗津家]](地下家)<br/>[[河村家]](地下家)<br/>[[勢多家]](地下家)<br/>[[辻家]](地下家)<br/>中川家(地下家)<br/>[[藤堂氏|藤堂家]](地下家→[[武家]])<ref>『[[歴名土代]]』</ref><br/>[[宇都宮氏]]<ref>[[藤原北家]][[藤原道兼|道兼]]流と自称するなど諸説あり。</ref>(武家)<br/>[[大友氏]]<ref>藤原北家[[藤原秀郷|秀郷]]流と自称するなど諸説あり。</ref>(武家)
[[摂津満親]]<br />
[[摂津政親]]
|後裔 = '''[[押小路家 (中原氏)|押小路家]]'''('''[[地下家]]棟梁'''→[[華族]]([[男爵]]))<br />[[勢多家]](地下家)<br />[[平田家]](地下家)<br />[[志水家]](地下家)<br />[[山口家]](地下家)<br />[[深尾家]](地下家)<br />[[栗津家]](地下家)<br />[[河村家]](地下家)<br />[[辻家]](地下家)<br />中川家(地下家)<br />
[[大友氏]]([[武家]]){{efn|ただし、7代目の[[大友氏泰]]から[[源氏]]に改姓している。[[#摂津家ほか 貞親流]]を参照。}}<br />
[[摂津氏]](武家){{efn|ただし、家祖の代から[[藤原氏]]に改姓している。[[#摂津家ほか 貞親流]]を参照。}}<br />
中原姓[[安芸氏 (中原氏)|安芸氏]](武家)<br />
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[[鹿子木氏]](武家)<br />
[[長野氏]](武家)<br />
[[宇都宮氏]](武家)?<br />
[[城井氏]](武家)?<br />
[[藤堂氏]](武家→華族([[伯爵]]))?{{efn|ただし、[[藤堂高虎]]の代以降は[[藤原氏]]を称し<ref name="kokushi-todoshi" />、明治時代には舎人親王の子孫である中原朝臣を称している。}}
}}
}}
'''中原氏'''(なかはらうじ)は、[[10世紀]]の[[明経博士]][[中原有象]]を氏祖とし、[[清原広澄|広澄流]][[清原氏 (広澄流)|清原氏]]と共に[[明経道]]を、[[坂上氏]]と共に[[明法道]]を[[家学]]とした[[氏#古代氏族としての「氏」|氏(うじ)]]。清原氏の「清家」に対し、'''中家'''(ちゅうけ)と略される<ref>『日本国語大辞典』第二版「ちゅう‐け 【中家】」</ref>。[[孝元天皇]][[外戚]]とされる伝説的人物の[[十市県主大目]]を上祖とする[[十市氏]]後裔。その後、遅くとも[[室町時代]]には、[[安寧天皇]]第三[[皇子]][[磯城津彦命]]末裔の[[皇別]]氏族と自称した。好敵手の清原氏が室町時代に[[堂上家]]となり上方向に繁栄したのに比べ、中原氏は横方向に繁栄し、多くの朝廷実務官僚および幕府高級官僚の家柄を輩出した。嫡流の[[局務]][[押小路家 (中原氏)|押小路家]]は[[明治時代]]に[[華族]]に列し、[[男爵]]に叙せられた。


== 概要 ==
'''中原氏'''(なかはらうじ)は、[[日本]]の[[氏族]]のひとつ。[[姓]]は'''[[朝臣]]'''。
中原氏の前身の[[十市氏]](とおちうじ)は、古代には[[倭の六県|大和六県]]の一つ[[十市郡|十市県]](とおちのあがた)つまり[[奈良盆地]]南部を支配した氏族である。十市氏の上祖は、『[[古事記]]』([[8世紀]]初頭)では[[孝元天皇]][[外戚]]の[[十市県主大目]]とされている。しかし、[[14世紀]]後半の[[洞院公定]]編『[[尊卑分脈]]』では、疑わしいとしつつも[[安寧天皇]]第三[[皇子]][[磯城津彦命]]後裔の[[皇別氏族]]という説が掲載され、のちに[[後小松上皇]]の勅命により編纂された『[[本朝皇胤紹運録]]』([[応永]]33年([[1426年]]))では正式に磯城津彦命後裔として記載された。これには、当時の中原氏が、自氏の出自に箔をつけるために仮託したのではないかという説がある。中原氏の氏祖は[[平安時代]]の[[儒学者]]の[[明経博士]]十市有象で、[[天禄]]2年([[971年]])ごろに改姓し、[[中原有象]](なかはら の ありかた)を名乗った。

中原氏嫡流は、[[清原広澄|広澄流]][[清原氏 (広澄流)|清原氏]]と並び、[[明経道]]([[儒学]]の研究)を家学として明経博士を世襲し、また事務官・書記官の長である[[局務]][[大外記]]を兼ねた。[[平安時代]]、第5代当主の[[中原師遠]]は[[白河天皇|白河上皇]]の[[記録荘園券契所]]に務めて訴訟制度改革に加わり、第6代当主の[[中原師元]]は聞書集『[[中外抄]]』を著した。また[[後醍醐天皇]]の[[建武政権]]では大きく躍進し、最高政務機関[[記録所]]の3割を中原氏(明法道系統も含む)が占めた。[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[中原師守]]『[[師守記]]』([[重要文化財]])と、室町時代中期の[[中原康富]]『[[康富記]]』は、それぞれの時代の最重要史料の一つである。しかし、室町時代後期には学問上の繁栄・活躍が停滞し、明経博士の地位も清原氏に独占された。とはいえ、嫡流の局務[[押小路家 (中原氏)|押小路家]]は、江戸時代までには[[造酒正]]・[[大炊頭]]・[[掃部頭]]・[[穀倉院]]別当など官人の主要官職を多く手にし、[[小槻氏]]嫡流の[[官務]][[壬生家 (小槻氏)|壬生家]]と共に「[[地下家|地下官人]]の棟梁」とされた。地下家ながら歴代当主には[[公卿]]に列した者もおり、江戸時代後期の[[押小路甫子]]は、[[孝明天皇]]の[[御乳人]](おちのひと、[[乳母]])および[[大御乳人]](中級女官である[[命婦]]の次席)を務めた。[[明治時代]]には[[男爵]]に叙せられ、政務記録や日記など多くの重要史料が[[内閣文庫]]に寄贈された。

傍流の一派は[[明法道]]([[法学]]の研究)を[[坂上氏]]と共に家学とした。一族の多くが室町時代までの重要な法学書を著し、中原明兼([[坂上明兼]]、明法道坂上氏の祖)『[[法曹至要抄]]』、[[中原章澄]]『[[明法条々勘録]]』、[[中原章任]]『[[金玉掌中抄]]』などがある。建武政権期には、嫡流の明経道の系統と共に多く実務官僚として抜擢された。建武政権の[[雑訴決断所]]に参画した[[是円]]・[[真恵]]兄弟は、続く[[室町幕府]]で事実上の基本法『[[建武式目]]』を起草した。法家系統での嫡流の[[勢多家]]は明治維新まで存続し、最後の[[明法博士]]の[[勢多章甫]]は『[[古事類苑]]』の編纂事業などに関わった。

平安時代末期から[[蔵人所]][[出納]]を[[家職]]とした[[平田家]]は、江戸時代初期に[[有職故実]]家の[[平田職忠|職忠]]を輩出した。江戸時代には地下家では押小路家・壬生家に次ぐ実力を有し、合わせて「三催」と称された。

[[中原貞親|貞親流]]は、[[武家政権]]における高級官僚として活躍した。[[鎌倉幕府]]初代[[征夷大将軍|将軍]][[源頼朝]]の側近だった[[中原親能]]・[[大江広元]]兄弟([[十三人の合議制]])や、第4代将軍[[藤原頼経]]の側近だった[[中原師員]]や[[藤原親実]]などがいる。親能の養子の中原能直([[大友能直]])に始まる[[大友氏]]は[[九州]]の有力武家となった。師員は鎌倉幕府[[評定衆]]の初代筆頭席次を務め、後裔の[[摂津氏]]は鎌倉・室町幕府の高級官僚氏族となった。


== 出自 ==
== 出自 ==
=== 前身 ===
[[安寧天皇]]の第三[[皇子]]である[[磯城津彦命]]が源流と言われている。はじめは[[十市氏]]の十市県主から十市首、十市宿禰と[[姓]]を替えて、[[971年]]([[天禄]]2年)に[[十市有象]]・[[十市以忠|以忠]]が中原[[宿禰]]姓に改め、[[974年]]([[天延]]2年)に中原[[朝臣]]姓を賜ったことに始まった。また、大和の[[国衆]]十市氏が中原氏を称していた。中原氏は[[十市御縣坐神社|十市県主]]に由来するともいえる。地下の中では上位であったが、公卿を輩出することはなく堂上にはなれなかった。
中原氏の前身は[[十市氏]](とおちうじ)である{{sfn|吉岡|1997}}。十市氏は[[倭の六県|大和六県]]の一つ[[十市郡|十市県]](とおちのあがた、[[奈良盆地]]南部)を発祥とする氏族{{sfn|太田|1934|pp=3894–3895}}。『[[古事記]]』([[8世紀]]初頭)が語る伝説では、初期の[[天皇家]]の[[外戚]]にあたる古い有力氏族とされる{{sfn|太田|1934|pp=3894–3895}}。つまり、『古事記』によれば、第7代[[天皇]]の[[孝霊天皇]](実在不明)が、十市[[県主]](とおちのあがたぬし)の祖である[[十市県主大目]]の娘の[[細媛命]]を娶り、その間に生まれたのが第8代[[孝元天皇]]と伝えられる{{sfn|太田|1934|pp=3894–3895}}。その後、十市県の支配者である十市県主は[[首 (姓)|首(おびと)]]の[[カバネ|姓(かばね)]]を与えられ、十市首と称した{{sfn|太田|1934|pp=3894–3895}}。十市首は[[部民]](べみん)である[[十市部]](とおちべ)を管理したので、十市部首とも言う{{sfn|太田|1934|pp=3894–3895}}。また、『[[先代旧事本紀]]』(9世紀末)の神話では、[[物部氏]]の祖神[[饒速日命]]が地上に降臨した際、十市首の祖である富富侶を従えたとされるが、[[太田亮]]は、ここから、歴史的にも十市氏は物部氏の配下だったのではないかと推測した{{sfn|太田|1934|pp=3894–3895}}。


後世、十市氏=中原氏はしばしば[[安寧天皇]]第三[[皇子]][[磯城津彦命]]後裔の[[皇別氏族]]と伝えられる{{sfn|吉岡|1997}}{{sfn|太田|1936|p=4252}}。だが、十市氏を磯城津彦命に繋げる逸話は記紀等には見られない{{sfn|太田|1934|pp=3894–3895}}。14世紀後半の[[洞院公定]]編『[[尊卑分脈]]』においても、安寧天皇後裔説には疑惑有りとされ、確かな検証が必要であると慎重な姿勢が取られていた<ref name="dainihon-shiryo-1-15-200">[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0115/0200 『大日本史料』1編15冊200–201頁].</ref>{{sfn|藤原|1904|p=31}}。しかし、その後、[[後小松上皇]]の勅命により編纂された『[[本朝皇胤紹運録]]』([[応永]]33年([[1426年]]))では正式に磯城津彦命後裔として記載された{{sfn|太田|1936|p=4252}}。
同時に[[物部氏]]の後裔説もある{{Sfn|丹羽|1970|p=240}}。


太田は、磯城津彦命を始祖とする説が発生した理由については、記紀での十市氏と[[磯城氏]]([[磯城]]=[[奈良盆地]]東南部に由来する氏族)との関連性に淵源を求める{{sfn|太田|1934|pp=3894–3895}}。前述した通り、『古事記』では、孝元天皇の母は細媛命で、その父は十市氏の祖である十市県主大目とされる{{sfn|太田|1934|pp=3894–3895}}。また、『[[日本書紀]]』の孝霊天皇段の本文でも、孝霊の皇后は細媛命とされ(父は不明)、一書第二では十市県主等の祖の娘の真舌媛とされる{{sfn|太田|1934|pp=3894–3895}}。ところが、孝元天皇段では細媛命は[[磯城氏]]の磯城県主大目という人物の娘になっている{{sfn|太田|1934|pp=3894–3895}}。[[孝安天皇]]の段でも同様に、[[押媛|孝安天皇の皇后]]について、十市氏出身説と磯城氏出身説が併記されている{{sfn|太田|1934|pp=3894–3895}}。ここから類推するに、十市県主は磯城県主から分かれた氏族であり、十市県主大目(磯城県主大目)よりさらに伝説的遠祖を辿ると、初代天皇の[[神武天皇]]に帰順した地方豪族の磯城彦黒速(通称を[[弟磯城]])に行き着くのではないかという{{sfn|太田|1934|pp=3894–3895}}。そして、中原氏が自身の系図に箔をつけるために、名前が非常によく似ている磯城彦(地方豪族)と磯城津彦(皇子)を意図的に混同して、皇別氏族であるかのように装ったのではないか、と主張した{{sfn|太田|1934|pp=3894–3895}}。
== 略歴 ==
中原氏は[[明法道]]、[[明経道]]を司る[[家系]]で、[[外記|大外記]]、[[外記|少外記]]を世襲職とする[[朝廷]]の[[局務]]家として長く続いた。また[[市司|東市正]]を世襲し、[[京都]]の行政に深く携わった。


なお、『[[日本後紀]]』[[弘仁]]4年([[813年]])5月条に、物部敏久が「[[物部中原氏|物部中原]]宿禰」を下賜され、物部中原敏久(もののべのなかはら の みにく)となったことが見える{{sfn|太田|1936|pp=4251–4252}}。後に敏久はさらに興原宿禰を下賜され、[[興原敏久]](おきはら の みにく)となっている{{sfn|太田|1936|pp=4251–4252}}。敏久はまた、[[刑部省]]大判事にして『[[弘仁格式]]』『[[令義解]]』の成立に深く関わった高名な明法学者である{{sfn|太田|1936|pp=4251–4252}}。このことから、中原氏の成立には物部氏と何らかの関係があるのではないか{{sfn|太田|1936|pp=4251–4252}}、もしくは後胤なのではないか{{Sfn|丹羽|1970|p=240}}という説もある。
[[中原師任]](もろとう、始祖・[[中原有象|有象]](ありかた)の孫)の後、その子である[[中原師平|師平]]流と[[中原貞親|貞親]]流の二つの血統に分かれ、特に貞親流からは[[中原親能]]のように[[鎌倉幕府]]と関係を持つ者も現れた。


=== 氏祖 ===
{{要出典範囲|date=2017年7月|親能の養子となった[[中原師員]]の子孫は[[摂津氏]]を称し、鎌倉・[[室町幕府|室町]]の両幕府の実務面で活躍した。師平流からも[[中原師元]](師尚、[[平清貞]]の父)などを輩出している}}。
{{main|中原有象}}
その後、10世紀後半の[[儒学者]]である十市有象が[[中原有象]](なかはら の ありかた、[[延喜]]2年([[902年]]){{efn|『外記補任』二に天慶6年([[943年]])で(数え)42歳とあり<ref name="dainihon-shiryo-1-17-47"/>、ここから逆算。[[江戸時代]]の『押小路家譜』や『[[系図纂要]]』も延喜2年生としている<ref name="dainihon-shiryo-1-17-47"/>。}}–?)に改姓したのが中原氏の始まりである{{sfn|太田|1936|p=4252}}{{sfn|吉岡|1997}}。


有象以前、十市氏は既に[[明経道]]と関わりがあった。『類聚符宣抄』九に、[[延長 (元号)|延長]]8年([[930年]])[[7月24日 (旧暦)|7月24日]]、[[従五位下]]十市部良佐([[十市良佐]])が助教として[[天文密奏]]を行ったことが見える<ref name="dainihon-shiryo-1-6-272">[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0106/0272?m=all&s=0272 『大日本史料』1編6冊272頁].</ref>。これに加え、後世の系図類では、十市氏は学者の家系であるだけではなく、有象の父の春宗や、叔父とされる良忠(前記の良佐と同一人物とされる)も[[外記局]]に務めていた事務方一家でもあったと書かれている{{sfn|鈴木|1987|p=5}}。しかし、『[[外記補任]]』には春宗や良忠(良佐)が外記を務めていたという記録はなく、[[井上幸治]]は、史料上は否定されるとしている{{sfn|井上|2005|p=329}}。
{{要出典範囲|date=2017年7月|また室町後期から戦国時代にかけて菊池氏の家臣であり、肥後国隈本城を築城した鹿子木親員(寂心)はこの中原氏の末裔ではないかと言われている}}。


有象に話を戻すと、[[承平 (日本)|承平]]元年([[931年]])[[12月27日 (旧暦)|12月27日]]頃にはまだ学生であったが(『[[類聚符宣抄]]』九)、その後に直講(明経道の教師)を経て、[[天慶]]5年([[942年]])[[12月13日 (旧暦)|12月13日]]に権少外記として外記局に務め始め、同8年([[945年]])には[[宿禰]]の[[カバネ|姓(かばね)]]を下賜されて[[氏姓]]が十市首から'''十市宿禰'''となり、同9年([[946年]])[[2月7日 (旧暦)|2月7日]]に大外記として事務方の長となる(『外記補任』二)<ref name="dainihon-shiryo-1-17-47">[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0117/0047 『大日本史料』1編17冊47–56頁].</ref>。同年[[4月28日 (旧暦)|4月28日]]、[[村上天皇]]即位に合わせ、[[従五位下]]を叙爵されて[[貴族]]となった(『外記補任』二)<ref name="dainihon-shiryo-1-17-47" />。その後、[[遠江介]]や[[出雲守]]を歴任したのち(『外記補任』二)、[[天徳 (日本)|天徳]]2年([[958年]])に[[律令制]]における儒学者の頂点である[[明経博士]]の地位に昇った(『[[二中歴]]』二・儒職歴)<ref name="dainihon-shiryo-1-17-47"/>。
{{要出典範囲|date=2017年7月|中原氏[[嫡流]]の[[押小路家#中原氏流|押小路家]]は[[地下家]]筆頭の家として存続し、 [[明治|明治時代]]には[[華族]]に列せられ、[[男爵]]となった}}。


有象は[[左大臣]][[藤原在衡]]や、[[文章博士]][[菅原文時]]([[菅原道真|道真]]孫)とも親交があり、[[安和]]2年([[969年]])[[3月13日 (旧暦)|3月13日]]には、共に[[尚歯会]](有識者同士で高齢を祝う祝宴)を開いている<ref>{{Cite journal|和書|author=野尻忠 |title=<nowiki>[資料紹介] 奈良国立博物館所蔵『明月記』断簡 </nowiki>|journal=鹿園雜集 |ISSN=13466402 |publisher=奈良国立博物館 |year=2007 |month=mar |issue=9 |pages=105-111 |naid=120006530940 |doi=10.24737/00000101 |url=https://doi.org/10.24737/00000101 |ref={{harvid|野尻|2007}} }} {{フリーアクセス}} p.111。</ref>。
挿絵画家の[[中原淳一]]もこの系統といわれる{{Sfn|丹羽|1970|p=240}}。

有象が中原氏を名乗った正確な時期はわからないが、後世の諸系図では[[天禄]]2年([[971年]])に中原宿禰に改姓したと言われ{{sfn|太田|1936|p=4252}}、『国史大辞典』「中原氏」([[吉岡真之]]担当)もこれを採用している{{sfn|吉岡|1997}}。少なくとも、『類聚符宣抄』九によれば、安和2年(969年)[[8月11日 (旧暦)|8月11日]]の時点ではまだ十市氏だった<ref name="dainihon-shiryo-1-17-47" />。

同様に、後世の系図類では、[[天延]]2年([[974年]])11月あるいは12月に[[朝臣]]の姓(かばね)を下賜され、氏姓が中原宿禰から中原朝臣になったという{{sfn|太田|1936|p=4252}}。14世紀後半の系図である『尊卑分脈』では11月だが、それ以後の系図では12月とするものが多い{{sfn|太田|1936|p=4252}}。『国史大辞典』「中原氏」は12月説を採用している{{sfn|吉岡|1997}}。

== {{Anchors|嫡流}} 嫡流(明経道中原氏) ==
=== 略歴 ===
==== 鎌倉時代まで ====
中原氏の嫡流は、[[明経道]]([[儒学]]の研究)を[[家学]]とし、[[清原広澄|広澄流]][[清原氏 (広澄流)|清原氏]]と共に[[明経博士]]の家柄として[[家学]]を相承した{{sfn|吉岡|1997}}。系統としては、氏祖有象の子の[[中原致時|致時]]の次男の[[中原師任|師任]]から続く家系である{{sfn|吉岡|1997}}。なお、[[氏#古代氏族としての「氏」|氏(うじ)]]全体の当主は、[[藤原氏]]・[[源氏]]・[[橘氏]]・[[王氏]]などでは[[氏長者]]と言われるが、他氏では氏長者制度は顕著ではなかった<ref>{{Citation | 和書 | last = 阿部 | first = 武彦 | author-link = 阿部 武彦 | contribution = 氏長者 | title = 国史大辞典 | publisher = 吉川弘文館 | publication-date = 1997 }}</ref>。

[[平安時代]]から[[鎌倉時代]]にかけては、後発の清原氏よりも明経道の官職における勢力が強かった{{sfn|楊|2016|p=35}}。平安時代の明経博士は中原氏から15人、清原氏から6人で、鎌倉時代は中原氏から12人、清原氏から9人である{{sfn|楊|2016|p=35}}。その一方で、清原氏からは[[高倉天皇|高倉院]]の[[侍読]]を務めた[[清原頼業]]など皇室に直接近づく者も現れ、その点では一歩先んじられていた{{sfn|楊|2016|p=35}}。学問のほか、事務系の官職も担当し、平安時代中期から、清原氏と共に[[外記]](朝廷の書記・事務方)の首座である[[局務]]を世襲した{{sfn|吉岡|1997}}。さらに、鎌倉時代以降、局務は[[穀倉院]]別当の官職を兼ねるのを慣例とした<ref>{{Citation | 和書 | last = 橋本 | first = 義彦 | author-link = 橋本義彦 | contribution = 局務 | title = 国史大辞典 | publisher = 吉川弘文館 | publication-date = 1997 }}</ref>。

第5代当主{{efn|name="dai"|氏祖の[[中原有象|有象]]を初代とする数え方。『国史大辞典』「中原氏」([[吉岡真之]]担当)は、「外記一族」という点を重視し、系図類で初めて外記に務めたと伝承されている有象の父の[[十市春宗]]を初代とし、押小路家初代の師豊を中原氏第18代と数えている{{sfn|吉岡|1997}}。しかし、『[[外記補任]]』には春宗が外記に務めたという記録がない(有象にはある)ことから、歴史的には春宗を外記一族初代とするのは否定される{{sfn|井上|2005|p=329}}。}}の大外記[[中原師遠]]は、[[天永]]2年([[1111年]])に[[記録荘園券契所]]の[[寄人]](職員)に任じられ、[[白河天皇|白河上皇]]のもと訴訟制度の拡充に関わった<ref>{{Citation | 和書 | last=坂本 | first=賞三 | contribution=記録荘園券契所 | title=国史大辞典 | publisher=吉川弘文館 | publication-date=1997 }}</ref>。第6代当主の[[中原師元|師元]]は、[[関白]][[藤原忠実]]が語る故実・故事談を記録した『[[中外抄]]』を著し、『[[古事談]]』『[[続古事談]]』などを通して、後世の[[説話文学]]に無視できない影響を与えた<ref>{{Citation | 和書 | last=益田 | first=勝実 | contribution=中外抄 | title=国史大辞典 | publisher=吉川弘文館 | publication-date=1997 }}</ref>。第9代当主の[[中原師季]]は[[掃部頭]]となり、以降、掃部頭は中原氏嫡流が兼ねる慣例となった{{sfn|武部|1997}}。

鎌倉時代末期の1320年代には、[[中原師夏]]が、儒学の研究に励む[[花園天皇|花園上皇]]に抜擢され、『[[礼記]]』『[[毛詩]]』を講義した(『[[花園天皇宸記]]』){{sfn|楊|2016|pp=59–61}}。[[元亨]]2年([[1322年]])12月には、当時、明経道の儒家が天皇の侍読を務めるのはまれであったが、花園上皇は[[後伏見天皇|後伏見上皇]]に数度かけあってまで師夏を自身の侍読に登用した{{sfn|楊|2016|pp=59–61}}。

==== 室町時代中期まで ====
中原氏は[[後醍醐天皇]]の[[建武政権]]下では大きく抜擢された。『[[建武記]]』によれば、[[建武 (日本)|建武]]2年([[1335年]])[[3月17日 (旧暦)|3月17日]]時点での、最高政務機関[[記録所]]の寄人(職員)全21名のうち、中原氏からは明法道系統も含め、[[中原師治]]、[[中原秀清]]、[[中原職政]]、[[中原師利]]、[[中原章香]]、[[中原師右]]、[[中原明清]]の7人が選ばれ、全体の3割を占めていた<ref name="kemmu-nenkanki-list">{{Citation | 和書 | editor=経済雑誌社 | title=群書類従 | volume=17 | publisher=経済雑誌社 | year=1894 | url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879818 | chapter=建武年間記 | chapter-url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879818/263 | pages=516–534 | ref = {{harvid|建武年間記|1894}} }} pp. 528–529。</ref>。

[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[中原師茂]]([[正和]]元年([[1312年]]) - [[天授 (日本)|天授]]4年/[[永和 (日本)|永和]]4年([[1378年]]))は、[[北朝 (日本)|北朝]]側に付き、傍系ながら大外記明経博士に任じられ、故実に通じた学者として、先例をしばしば朝廷に勘進した<ref>{{Citation | 和書 | last=飯倉 | first=晴武 | contribution=中原師茂 | title=国史大辞典 | publisher=吉川弘文館 | publication-date=1997 }}</ref>。

師茂の弟の[[中原師守]]は日記『[[師守記]]』を残したが、公事のみならず当時の社会全般に関しての記録が豊富なため、南北朝時代における第一級の史料である<ref>{{Citation | 和書 | last=飯倉 | first=晴武 | contribution=師守記(一) | title=国史大辞典 | publisher=吉川弘文館 | publication-date=1997 }}</ref>。同書は[[2004年]]に[[重要文化財]]指定<ref>{{国指定文化財等データベース|201|00010699|師守記〈自筆本/〉}}</ref>。師守の子孫は押小路家を名乗り、数代が大外記に任じられたものの、しばらくして絶えた{{sfn|武部|1997}}。師守流押小路家は、嫡流とは同名別家で、時代的にはこちらが先行する{{sfn|武部|1997}}。

[[室町時代]]中期の[[中原康富]](? - [[長禄]]元年([[1457年]]))は学問・和歌に優れ、明経道系統の中では庶流ながら正五位下権大外記に昇り、[[伏見宮]]や[[花山院家]]の講師となり、また[[鷹司家]][[家礼]]も務めた<ref>{{Citation | 和書 | last=飯倉 | first=晴武 | contribution=中原康富 | title=国史大辞典 | publisher=吉川弘文館 | publication-date=1997 }}</ref>。15世紀前半の重要史料である日記『[[康富記]]』を残した<ref>{{Citation | 和書 | last=飯倉 | first=晴武 | contribution=康富記 | title=国史大辞典 | publisher=吉川弘文館 | publication-date=1997 }}</ref>。

==== 押小路家 ====
{{main|押小路家 (中原氏)}}
中原氏嫡流は、[[室町時代]]後期、第17代当主{{efn|name="dai"}}の中原師富([[押小路師富]]、[[永享]]6年([[1434年]]) - [[永正]]5年([[1508年]]))の代から、'''[[押小路家 (中原氏)|押小路家]]'''(おしこうじけ)の家名を名乗るようになった{{sfn|武部|1997}}。師富の代から[[造酒正]]を兼任するようになった{{sfn|武部|1997}}。

ところが、室町時代終わりまでに、相方である清原氏が[[少納言]]を経て[[公卿]]になる家格([[堂上家]])に昇格し{{sfn|吉岡|1997}}、[[明経博士]]の官職も清原氏から嫡流[[舟橋家]]・庶流[[伏原家]]の二家が独占した<ref>{{Citation | 和書 | last = 鈴木 | first = 理恵 | contribution = 明経道 | title = 国史大辞典 | publisher = 吉川弘文館 | publication-date = 1997 }}</ref>。結果として、[[江戸時代]]には下級貴族の職である局務は、押小路家に単独で世襲されることになった{{sfn|吉岡|1997}}。やがて押小路家そのものが局務と呼ばれた{{sfn|武部|1997}}。江戸期には、[[左大史]]の上首である[[官務]]を務めた[[小槻氏]]嫡流[[壬生家 (小槻氏)|壬生家]]と合わせて、'''地下官人の棟梁'''と称された{{sfn|武田|1997}}。さらに、[[蔵人所]][[出納]]を家職とした中原氏庶流[[平田家]]も加えて、三催(さんもよおし)とも言う{{sfn|武田|1997}}。儀式・公事の際、下級官人たちは、押小路家の外記方、壬生家の官方、平田家の蔵人方に分かれて催沙汰(もよおしざた、統轄)を受けた{{sfn|武田|1997}}。

押小路家の[[江戸時代]]における家禄は76石{{sfn|武部|1997}}。これまで述べてきた官職に加え、[[大炊頭]]も兼ねた<ref name="kokushi-daijiten-oshikojike-monjo" />。地下家ながら、押小路家第11代当主[[押小路師資|師資]]・第14代[[押小路師徳|師徳]]は[[従三位]]に叙され[[公卿]]に列した{{sfn|三上|正宗|1937|pp=63–66}}。第12代当主の[[押小路師武|師武]]の養女[[押小路甫子|甫子]]は[[孝明天皇]]の[[御乳人]](おちのひと、[[乳母]])、のち[[大御乳人]](中級女官である[[命婦]]の次席)となり、[[日記]]『大御乳人甫子記』や[[随筆]]『大御乳人甫子雑記』などを著述した<ref>{{Citation | 和書 | last = 武部 | first = 敏夫 | contribution = 押小路甫子 | title = 国史大辞典 | publisher = 吉川弘文館 | publication-date = 1997b }}</ref>。

[[明治維新]]後、[[明治]]12年([[1879年]])に[[明治天皇]]の[[特旨]]によって[[華族]]に列し、同17年(1884年)に[[男爵]]となった{{sfn|吉岡|1997}}。明治19年([[1886年]])、当主の[[押小路師成|師成]]は、公事儀式や政務全般を記録した中原氏・押小路家の蔵本242部を[[内閣文庫]]に寄贈した<ref name="kokushi-daijiten-oshikojike-monjo">{{Citation | 和書 | last = 田沼 | first = 睦 | author-link = 田沼睦 | contribution = 押小路家文書 | title = 国史大辞典 | publisher = 吉川弘文館 | publication-date = 1997 }}</ref>。

=== 系図 ===
<div class="NavFrame" style="width:100%;">
<div class="NavHead" style="padding:1.5px; line-height:1.7; letter-spacing:1px;">中原氏嫡流(明経道中原氏)</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
'''凡例'''
* 実子も養子も区別せず、全て実線。
* アラビア数字は中原氏当主の代数。当主名は太字で示した。
** 本系図では、氏祖の有象を初代として数えた{{efn|name="dai"}}。
* 基本的に『国史大辞典』「中原氏」(吉岡真之担当){{sfn|吉岡|1997}}に拠った。この系図は、吉岡が続群書類従本『中原系図』、『系図纂要』、谷森本『諸家系図』(宮内庁書陵部所蔵)を統合し、それに勢多家の分を『[[地下家伝]]』から作ったものであるという{{sfn|吉岡|1997}}。
* [[押小路師富|師富]]以降の系譜は、[[押小路家 (中原氏)|押小路家]]を参照のこと。

{{chart/start|style=font-size:90%;}}
{{chart|border=0| |!| | | | | | | | | | | | | | | | }}
{{chart|border=0| 000 | | | | | | | | |000=[[十市勝良]]}}
{{chart|border=0| |!| | | | | | | | | | | | | | | | }}
{{chart|border=0| 000 | | | | | | | | |000=[[十市春宗]]}}
{{chart|border=0| |!| | | | | | | | | | | | | | | | }}
{{chart|border=0| 000 | | | | | | | | |000='''[[中原有象]]'''<sup>1</sup>}}
{{chart|border=0| |!| | | | | | | | | | | | | | | | }}
{{chart|border=0| 000 | | | | | | | | |000='''[[中原致時|致時]]'''<sup>2</sup>}}
{{chart|border=0| |)|-|-|.| | | | | | | | | | | | | }}
{{chart|border=0| 000 | 001 | | | | | | |000=[[中原俊光|俊光]]|001='''[[中原師任|師任]]'''<sup>3</sup>}}
{{chart|border=0| |!| | |)|-|-|.| | | | | | | | | | }}
{{chart|border=0| 000 | 001 | 002 | | |000=[[中原範政|範政]]<br />〔明法道〕|001='''[[中原師平|師平]]'''<sup>4</sup>|002=[[中原貞親|貞親]]<br />〔貞親流〕}}
{{chart|border=0| |,|-|-|'| | | | | | | | | | | | | }}
{{chart|border=0| 000 | | | | | | | | |000='''[[中原師遠|師遠]]'''<sup>5</sup>}}
{{chart|border=0| |!| | | | | | | | | | | | | | | | }}
{{chart|border=0| 000 | | | | | | | | |000='''[[中原師元|師元]]'''<sup>6</sup>}}
{{chart|border=0| |)|-|-|-|-|-|.| | | | | | | | | | }}
{{chart|border=0| 000 | | | | 001 | | |000='''[[中原師尚|師尚]]'''<sup>7</sup>|001=[[中原祐安|祐安]]}}
{{chart|border=0| |)|-|-|.| | |!| | | | | | | | | | }}
{{chart|border=0| 000 | 001 | 002 | | |000='''[[中原師綱|師綱]]'''<sup>8</sup>|001=[[中原師重|師重]]|002=[[平田職国]]<br />〔[[平田家]]〕}}
{{chart|border=0| |!| | |!| | | | | | | | | | | | | }}
{{chart|border=0| 000 | 001 | | | | | |000='''[[中原師季|師季]]'''<sup>9</sup>|001=[[中原師兼|師兼]]}}
{{chart|border=0| |!| | |!| | | | | | | | | | | | | }}
{{chart|border=0| 000 | 001 | | | | | |000='''[[中原師光|師光]]'''<sup>10</sup>|001=[[中原師古|師古]]}}
{{chart|border=0| |!| | |!| | | | | | | | | | | | | }}
{{chart|border=0| 000 | 001 | | | | | |000='''[[中原師宗|師宗]]'''<sup>11</sup>|001=[[中原師右|師右]]}}
{{chart|border=0| |!| | |)|-|-|.| | | | | | | | | | }}
{{chart|border=0| 000 | 001 | 002 | | |000='''[[中原師蔭|師蔭]]'''<sup>12</sup>|001=[[中原師茂|師茂]]|002=[[中原師守|師守]]}}
{{chart|border=0| |!| | |!| | | | | | | | | | | | | }}
{{chart|border=0| 000 | 001 | | | | | |000='''[[中原師千|師千]]'''<sup>13</sup>|001=[[中原師夏 (師茂子)|師夏]]}}
{{chart|border=0| |!| | | | | | | | | | | | | | | | }}
{{chart|border=0|000 | | | | | | | | |000='''[[中原師香|師香]]'''<sup>14</sup>}}
{{chart|border=0| |!| | | | | | | | | | | | | | | | }}
{{chart|border=0|000 | | | | | | | | |000='''[[中原師胤|師胤]]'''<sup>15</sup>}}
{{chart|border=0| |!| | | | | | | | | | | | | | | | }}
{{chart|border=0|000 | | | | | | | | |000='''[[中原師郷|師郷]]'''<sup>16</sup>}}
{{chart|border=0| |!| | | | | | | | | | | | | | | | }}
{{chart|border=0|000 | | | | | | | | |000='''[[押小路師富|師富]]'''<sup>17</sup><br />〔'''[[押小路家 (中原氏)|押小路家]]'''〕}}
{{chart/end}}
</div>
</div>

== 明法道中原氏 ==
=== 略歴 ===
明法道中原氏(法家中原流)は、明法道[[坂上氏]]と共に[[明法道]]([[律令法]]([[法学]])の研究)を[[家学]]とした家系{{sfn|吉岡|1997}}。「章」を[[通字]]とする<ref name="kokushi-daijinten-akikane" />。[[中原有象]]の曾孫である[[中原範政]]によって創始された{{sfn|吉岡|1997}}。

家祖の範政の兄弟のうち、明法道系の中原氏は年少の[[中原範光]]が継いだ{{sfn|吉岡|1997}}。一方、長子である中原明兼は晩年に[[坂上明兼]]([[承暦]]3年([[1079年]]) - [[久安]]3年([[1147年]]))を名乗り、明法道坂上氏の家祖となった<ref name="kokushi-daijinten-akikane">{{Citation | 和書 | last = 利光 | first = 三津夫 | author-link = 利光三津夫 | contribution = 坂上明兼 | title = 国史大辞典 | publisher = 吉川弘文館 | publication-date = 1997 }}</ref>。明兼の学説は、後裔によって[[鎌倉時代]]に大著『[[法曹至要抄]]』として結実し<ref name="kokushi-daijinten-akikane" />、官撰ではなく私撰の書にもかかわらず、当時の法の実務上に規範的な効果があった<ref>{{Citation | 和書 | last = 棚橋 | first = 光男 | contribution = 法曹至要抄 | title = 改訂新版世界大百科事典 | publisher = 平凡社 | publication-date = 2007 }}</ref>。特に[[刑事法]]の面では、[[鎌倉幕府]]の基本法『[[御成敗式目]]』に影響を与えたという説もある<ref>{{Citation | 和書 | last = 古澤 | first = 直人 | author-link = 古澤直人 | contribution = 法曹至要抄 | title = 日本大百科全書 | publisher = 小学館 | publication-date = 1994 }}</ref>。

[[中原章澄]]の『[[明法条々勘録]]』([[文永]]4年([[1267年]]))もまた、『法曹至要抄』と同様に、当時の明法道や[[公家法]]を知る上で重要{{sfn|吉岡|1997}}。

[[中原章房]](? - [[元徳]]2年([[1330年]]))は、[[刑部省]]で活躍し、[[嘉暦]]3年([[1328年]])に[[大判事]]に任じられた<ref name="kokushi-daijiten-norifusa">{{Citation | 和書 | last=利光 | first=三津夫 | contribution=中原章房 | title=国史大辞典 | publisher=吉川弘文館 | publication-date=1997 }}</ref>。『地下家伝』によれば、明法博士に昇ったという<ref name="kokushi-daijiten-norifusa" />。[[軍記物語]]『[[太平記]]』では「中家一流ノ棟梁、法曹一途ノ碩儒」とその学才を高く讃えられた<ref name="kokushi-daijiten-norifusa" />。また、同物語では暗殺で死亡し、子の[[中原章兼|章兼]]と章信が仇討ちをしたと描かれ、珍しい文官の仇討ち物語の例として知られている<ref name="kokushi-daijiten-norifusa" />。章房の後裔に「勢多大夫判官」と称する章兼・章頼が出て、明法博士を世襲した[[勢多家]]の祖となったため、後世にはこの系統が嫡流と見なされるようになった<ref name="kokushi-daijiten-norifusa" />。

[[明法博士]][[中原師緒]](? - [[建武 (日本)|建武]]元年([[1334年]])頃?)は、[[元応]]2年([[1320年]])、[[後醍醐天皇]]が翌年は[[辛酉革命]]の年に当たるからといって朝廷の慣例通り改元をしようとした時に、[[讖緯説]]は迷信であると合理的な意見を述べ、辛酉の改元の慣例は止めるべきと進言した<ref>{{Citation | 和書 | last=飯倉 | first=晴武 | contribution=中原師緒 | title=国史大辞典 | publisher=吉川弘文館 | publication-date=1997}}</ref>。

[[中原章有]](14世紀)は庶流ながら明法博士となって貴族に叙爵され、建武政権の[[雑訴決断所]]に参画した<ref name="kokushi-daijiten-noriari">{{Citation | 和書 | last=利光 | first=三津夫 | contribution=中原章有 | title=国史大辞典 | publisher=吉川弘文館 | publication-date=1997 }}</ref>。また[[最勝光院]]{{efn|[[後白河天皇|後白河法皇]]に由来する巨大な寺社領。}}の寄検非違使{{efn|寺社領の犯罪を見張る上級警察官。}}も務め、子も[[検非違使庁]]の有力官人となった<ref name="kokushi-daijiten-noriari" />。

[[建武の新政]]([[1333年]] - [[1336年]])では、明法道の系統からも、[[中原職政]]や[[中原章香]]ら数名が、最高政務機関である[[記録所]]の[[寄人]](職員)に抜擢されている([[#嫡流]])。

建武の新政前後に特に顕著に活躍したのが、[[中原章任]]・[[是円]]・[[真恵]]三兄弟である。章任は律令の参考書『[[金玉掌中抄]]』を著し、また、[[西園寺実兼]]の[[家司]]を務めたり[[花園天皇|花園院]]に明法道を講じたりなど政界周辺でも活躍した<ref name="kokushi-daijiten-kingyoku">{{Citation | 和書 | last = 利光 | first = 三津夫 | author-link = 利光三津夫 | contribution = 金玉掌中抄 | title = 国史大辞典 | publisher = 吉川弘文館 | publication-date = 1997 }}</ref>。是円房道昭(俗名は中原章賢)は『御成敗式目』への注釈書『是円抄』(散逸)を著すなど、[[公家法]]と[[武家法]]の双方に通じていた<ref name="kokushi-daijiten-zeen">{{Citation | 和書 | last = 大三輪 | first = 竜彦 | contribution = 中原章賢 | title = [[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]] | publisher = [[吉川弘文館]] | publication-date = 1997 }}</ref>。是円・真恵兄弟は、建武政権では雑訴決断所職員として務めた<ref name="asahi-rekijin-shinne">{{Cite Kotobank|word=真恵|encyclopedia=朝日日本歴史人物事典|access-date=2020年7月11日}}</ref>。是円・真恵兄弟は、[[建武の乱]]では[[足利尊氏]]方に付き、[[延元]]元年/[[建武 (日本)|建武]]3年[[11月7日 (旧暦)|11月7日]]([[1336年]][[12月10日]])には、[[室町幕府]]の基本法である『[[建武式目]]』の主要答申者(起草者)となった<ref name="asahi-rekijin-shinne" />。

[[幕末]]から[[明治時代]]の勢多家当主の[[勢多章甫]]は、[[明治維新]]後に官位を返上して日本最後の明法博士となった<ref name="aida-2010">{{Cite journal|和書|author=相田満 |title=勢多本類聚国史目録のこと |journal=国文学研究資料館紀要. 文学研究篇 |ISSN=1880-2230 |publisher=国文学研究資料館 |year=2010 |month=mar |issue=36 |pages=65-96 |naid=120005722000 |doi=10.24619/00000731 |url=https://doi.org/10.24619/00000731 |ref={{harvid|相田|2010}} }} {{フリーアクセス}} pp. 73–74, 95–96.</ref>。維新後には[[皇典講究所]]などに務め、『[[古事類苑]]』の編纂事業など様々な著作に携わった<ref name="aida-2010" />。

=== 系図 ===
<div class="NavFrame" style="width:100%;">
<div class="NavHead" style="padding:1.5px; line-height:1.7; letter-spacing:1px;">明法道中原氏</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
'''凡例'''
* 実子も養子も区別せず、全て実線。
* アラビア数字は明法道系統の中原氏当主の代数。当主名は太字で示した。
** なお、勢多大夫判官[[中原章兼]]の系統が法家嫡流と見なされたのは、その後裔の[[勢多家]]が地位を確立した後である<ref name="kokushi-daijiten-norifusa" />。ここでは、便宜上、勢多家に繋がる系統を過去遡及的に全て当主とした。
* 漢数字は、氏祖の[[中原有象|有象]]を初代と数えた時の中原氏本宗家の代数。
* 基本的に『国史大辞典』「中原氏」([[吉岡真之]]担当){{sfn|吉岡|1997}}に拠った。この系図は、吉岡が続群書類従本『中原系図』、『系図纂要』、谷森本『諸家系図』(宮内庁書陵部所蔵)を統合し、それに勢多家の分を『[[地下家伝]]』から作ったものであるという{{sfn|吉岡|1997}}。
** 『国史大辞典』「中原氏」系図には[[是円]]・[[真恵]]兄弟が示されていないが補った。
** 第8世代の中原職直([[建武政権]][[記録所]][[寄人]]を務めた[[中原職政|職政]]の父)には職治という兄がいるが{{sfn|吉岡|1997}}、スペースの都合上省いた。

{{chart/start|style=font-size:90%;}}
{{chart|border=0| |!| | | | | | | | | | | | | | | | }}
{{chart|border=0| 000 | | | | | | | | |000=[[中原致時|致時]]<sup>二</sup>}}
{{chart|border=0| |)|-|-|.| | | | | | | | | | | | | }}
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{{chart|border=0| 000 | 001 | | | | | | |000=[[坂上明兼]]<br />〔[[坂上氏#明法家坂上氏|法家坂氏]]〕|001='''[[中原範光|範光]]'''<sup>2</sup>}}
{{chart|border=0| |,|-|-|'| | | | | | | | | | | | | }}
{{chart|border=0| 000 | | | | | | | | |000='''[[中原季盛|季盛]]'''<sup>3</sup>}}
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{{chart|border=0| 000 | | | | | | | | |000='''[[中原章貞|章貞]]'''<sup>4</sup>}}
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{{chart|border=0| 000 | 001 | | | | | | | | | | | | | | | | 002 | 003 | | | | 004 |000=能貞|001='''[[中原章久|章久]]'''<sup>6</sup>|002=章宗|003=章秀|004=章童}}
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{{chart|border=0| 000 | 001 | 002 | | | | | | | | | | 003 | 004 | 005 | 006 | 007 |000=章行|001=章種|002='''[[中原章澄|章澄]]'''<sup>7</sup>|003=章名|004=職資|005=職国|006=職隆|007=章職}}
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{{chart|border=0| 000 | 001 | 002 | 003 | | | | 004 | 005 | 006 | 007 | 008 | 000=章村|001=章興|002=章世|003=章仲|004=章明|005='''[[中原章兼|章兼]]'''<sup>10</sup><br />〔'''[[勢多家]]'''〕|006=章英|007=章村|008=職宗}}
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{{chart|border=0| | | | 000 | 001 | 002 | | | | | | | | | | 003 |000=章言|001=章相|002=章彦|003=章忠}}
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</div>
</div>

== 平田家 ==
{{main|平田家}}
[[平田家]]は、[[平安時代]]末期から[[蔵人所]][[出納]]を[[家職]]とした[[地下家]]{{sfn|吉岡|1997}}。中原氏嫡流第6代当主の[[中原師元]]の養子である中原祐安の子の[[平田職国]]を家祖とする{{sfn|吉岡|1997}}。

[[江戸時代]]初期の[[平田職忠]]は[[有職故実]]に通じた碩学として知られ、[[北畠親房]]『[[職原抄]]』の刊行を行った他、自身でも『[[官職便覧]]』を著した{{sfn|吉岡|1997}}。職忠は[[後陽成天皇]]の寵遇を得て[[正四位上]]・[[殿上人]]となった{{sfn|吉岡|1997}}。

江戸時代には有力官人として、「蔵人方」に分類される地下家の催沙汰(もよおしざた、統轄)を行い、本家である中原氏嫡流[[局務]][[押小路家 (中原氏)|押小路家]]および[[小槻氏]]嫡流[[官務]][[壬生家 (小槻氏)|壬生家]]と共に、三催(さんもよおし)と称された{{sfn|武田|1997}}。

== 摂津家ほか 貞親流 ==
=== 略歴 ===
中原氏のうち、[[中原貞親|貞親]]の子孫からは[[鎌倉幕府]]に高級官僚として仕えた者が多く出た{{sfn|永井|2006|p=104}}。中原氏の鎌倉下向は3つの時期に分けられる{{sfn|永井|2006|p=104}}。

第一期として、[[鎌倉幕府]]草創期には、[[中原親能]]・[[大江広元]]兄弟が初代[[征夷大将軍|将軍]][[源頼朝]]に側近として仕え、幕府の政治体制の基礎造りに尽力した{{sfn|永井|2006|p=104}}([[十三人の合議制]])。[[九州]]の有力武将である[[大友氏]]の初代当主[[大友能直|能直]]は、親能の養子である<ref name="kokushi-daijiten-otomoshi">{{Citation | 和書 | last = 渡辺 | first = 澄夫 | author-link = 渡辺澄夫 | contribution = 大友氏 | title = 国史大辞典 | publisher = 吉川弘文館 | publication-date = 1997 }}</ref>。ただし、大友氏第7代当主の[[大友氏泰]]は将軍[[足利尊氏]]の[[猶子]]となる手続きを通して[[源氏]]に改姓している<ref name="kokushi-daijiten-otomoshi" />。

第二期として下向したのが[[書道 (大学寮)|書博士]]の[[中原師俊]]で、『[[鎌倉年代記]]』や発給文書には活動が見えるが、『[[吾妻鏡]]』には名を残しておらず、幕府内でどのような地位を築いたのかは不明である{{sfn|永井|2006|pp=104–105}}。

第三期として、[[藤原親実]]とその甥の[[中原師員]]が下向し、鎌倉幕府第4代将軍の[[藤原頼経]](九条頼経)に側近として仕えた{{sfn|永井|2006|pp=104–107}}。親実には明経道系の官職に付いた形跡が見られないことから、[[永井晋]]によれば、かなり早い段階で中原氏から藤原氏に改姓したのではないかという{{sfn|永井|2006|p=105}}。一方、師員は頼経の[[侍読]]として、中原氏の傍系ながら氏族の極官である[[明経博士]]・[[大外記]]にまで昇り{{sfn|永井|2006|p=105}}、幕府では[[評定衆]]の創設時の筆頭席次を得た{{sfn|永井|2006|p=107}}。親実・師員とその子孫は、[[寛元]]4年([[1246年]])の[[宮騒動]]で頼経が失脚したのちも、実務官僚として活躍し続けた{{sfn|永井|2006|pp=107–112}}。師員の次男の[[中原師連|師連]]の子の[[摂津親致|親致]]は、藤原氏に改姓して武家である[[摂津氏]]の祖となり、家学の明経道からは離れ、後裔は幕府の高級官僚の家系として活躍した{{sfn|永井|2006|pp=118–119}}。親致の子[[摂津親鑑|親鑑]]と孫[[摂津高親|高親]]は、[[東勝寺合戦]]にて北条氏と運命を共にしたものの、親致弟[[摂津親秀|親秀]]の系統は続く[[室町幕府]]でも、[[地方奉行]]などの役職を実質的に世襲した<ref name="kokushi-daijinten-jikatabugyo">{{Citation | 和書 | last = 小林 | first = 保夫 | author-link = 小林保夫 | contribution = 地方奉行 | title = 国史大辞典 | publisher = 吉川弘文館 | publication-date = 1997 }}</ref>。[[摂津満親]]は[[足利義満]]の姻戚となり([[足利義嗣]]の母は満親の姉妹)[[摂津政親]]は[[足利義政]]の重臣として勢力があった。孫の[[摂津晴門]]は幕府の代表として[[織田信長]]と対峙した。


また、中原親能の子の師員{{efn|前記した評定衆の師員は中原師茂の子のため{{sfn|福井|1994}}、それとは同名別人か。}}の後裔で[[安芸守]]だった[[中原貞房]](安芸貞房)が、[[筑後国]][[三池郡]]([[大牟田市]])の地頭職を得て、中原姓[[安芸氏 (中原氏)|安芸氏]]の始祖となったという<ref name="kanokogi-no-sho">{{ Citation | 和書 | title=[[日本歴史地名大系]] | publisher=[[平凡社]] | date=2006 | contribution = 熊本県:飽託郡 > 鹿子木庄 }}</ref>。さらに、貞房の長男は[[三池員時]]として[[三池氏]]の祖となり、次男は[[鹿子木荘]]を本貫とし[[鹿子木貞教]]として[[鹿子木氏]]の祖となった<ref name="kanokogi-no-sho"/>。[[肥後国]]隈本([[熊本県]][[熊本市]])は長らく名義上の国府に過ぎない寒村だったが、15世紀後半に[[菊池氏]]一族の[[出田秀信]]、次いでこの鹿子木氏の[[鹿子木親貞]]が入ったことで初めて本格的な都市開発が進められたという<ref>{{Citation | 和書 | last = 松本 | first = 寿三郎 | author-link = 松本寿三郎 | contribution = 熊本[市]>熊本城下 | title = 改訂新版世界大百科事典 | publisher = 平凡社 | publication-date = 2007 }}</ref>。

=== 系図 ===
<div class="NavFrame" style="width:100%;">
<div class="NavHead" style="padding:1.5px; line-height:1.7; letter-spacing:1px;">中原氏貞親流</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
'''凡例'''
* 実子も養子も区別せず、全て実線。
* アラビア数字は明法道系統の中原氏当主の代数。当主名は太字で示した。
* 漢数字は、氏祖の[[中原有象|有象]]を初代と数えた時の中原氏本宗家の代数。
* 忠順、広季の代までは『日本大百科全書』「中原氏」([[福井俊彦]]担当){{sfn|福井|1994}}に拠り、それ以降は[[永井晋]]『金沢北条氏の研究』([[八木書店]]、[[2006年]]){{sfn|永井|2006|p=106}}に拠った。
** 永井(2006年)の系図では[[大江広元]]が[[中原親能]]の兄になっているが、ここでは親能を兄とした。
* [[摂津親致]]以降の[[摂津氏]]も追加した。ただし、摂津氏は始祖の親致の代に本姓を[[藤原氏]]に改姓した{{sfn|永井|2006|p=118}}。そのため、厳密には二代目以降は中原氏ではない。
* [[藤原親実]]以降も厳密には藤原氏だが、便宜上ここに掲載した。

{{chart/start|style=font-size:90%;}}
{{chart|border=0| |)|-|-|.| | | | | | | | | | | | | }}
{{chart|border=0| 000 | 001 | | | | | | |000=[[中原俊光|俊光]]|001=[[中原師任|師任]]<sup>三</sup>}}
{{chart|border=0| |!| | |)|-|-|.| | | | | | | | | | }}
{{chart|border=0| 000 | 001 | 002 | | |000=[[中原範政|範政]]<br />〔明法道〕|001=[[中原師平|師平]]<sup>四</sup><br />〔本宗家〕|002='''[[中原貞親|貞親]]'''}}
{{chart|border=0| |,|-|-|-|-|-|'| | | | | | | | | | }}
{{chart|border=0| 000 | 000 = [[中原広宗|広宗]]}}
{{chart|border=0| |!| | | | | | | | | | | | | | | | }}
{{chart|border=0| 000 | 000 = [[中原広忠|広忠]]}}
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{{chart|border=0| 000 | | | | | | | | | | 001 | 000=[[中原忠順|忠順]]|001=[[中原広季|広季]]}}
{{chart|border=0| |)|-|-|-|-|-|-|-|-|.| | |)|-|-|.| }}
{{chart|border=0| 000 | | | | | | | 001 | 002 | 003 | 000=[[中原師茂 (貞親流)|師茂]]|001=[[藤原親実]]|002=[[中原親能|親能]]|003=[[大江広元]]}}
{{chart|border=0| |)|-|-|.| | | | | |!| | |)|-|-|.| }}
{{chart|border=0| 000 | 001 | | | | 002 | 003 | 004 |000=[[中原師国|師国]]|001=[[中原師員|師員]]|002=[[藤原親光]]|003=[[大友能直]]<br />〔[[大友氏]]〕|004=[[中原季時|季時]]}}
{{chart|border=0| |!| | |)|-|-|.| | |!| | | | | | | }}
{{chart|border=0| 000 | 001 | 002 | 003 |000=[[中原師俊|師俊]]|001=[[中原師守 (貞親流)|師守]]|002=[[中原師連|師連]]|003=[[藤原親定]]}}
{{chart|border=0| | | | |!| | |!| | | | | | | | | | }}
{{chart|border=0| | | | 000 | 001 | | | |000=[[中原師文|師文]]|001=[[摂津親致]]<br />〔[[摂津氏]]〕}}
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{{chart|border=0| | | | | | | 000 | | | |000=[[摂津高親]]}}
{{chart/end}}
</div>
</div>

== その他の傍流 ==
[[下野国]]([[栃木県]])の武家の名門[[宇都宮氏]]の出自は諸説の中に中原氏という説もあり<ref name="kokushi-utsunomiyashi">{{Citation | 和書 | last = 稲垣 | first = 泰彦 | author-link = 稲垣泰彦 | contribution = 宇都宮氏 | title = 国史大辞典 | publisher = 吉川弘文館 | publication-date = 1997 }}</ref>、実際、一門の武将で豊前宇都宮氏([[城井氏]])の初代[[宇都宮信房]]は中原氏を称したことがあるが<ref>{{Citation | 和書 | last = 恵良 | first = 宏 | author-link = 恵良宏 | contribution = 宇都宮信房 | title = 国史大辞典 | publisher = 吉川弘文館 | publication-date = 1997 }}</ref>、確実な出自は不明<ref name="kokushi-utsunomiyashi"/>。

[[江戸時代]]に[[津藩]]藩主となる[[藤堂氏]]は、『[[歴名土代]]』に拠れば、もともと本姓中原氏を自称していた<ref name="kokushi-todoshi">{{Citation | 和書 | last = 杉本 | first = 嘉八 | author-link = 杉本嘉八 | contribution = 藤堂氏 | title = 国史大辞典 | publisher = 吉川弘文館 | publication-date = 1997 }}</ref>。しかし、[[藤堂高虎]]が[[五摂家]]の一つ藤原氏[[近衛家]]当主の[[近衛信尋]]と親しかったことから、本姓を藤原氏であると自称するようになった<ref name="kokushi-todoshi" />。ただし、明治時代の[[華族]]における[[宗族制 (華族)|宗族制]]では、藤堂氏の2家は[[舎人親王]]の曾孫[[中原長谷]]を始祖とする中原朝臣を称している。

また、挿絵画家の[[中原淳一]]も、中原氏の末裔といわれる{{Sfn|丹羽|1970|p=240}}。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{Reflist}}
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|20em}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* {{ Citation | 和書
* {{Citation|和書|last=丹羽|first=基二|author-link=丹羽基二|others=[[樋口清之]]監修|date=1970-7|title=姓氏 : 姓氏研究の決定版|publisher=[[秋田書店]]|isbn=4253002099|ref=harv}}
| editor-last=井上
| editor-first=幸治
| editor-link=井上幸治
| title=外記補任
| publisher=[[続群書類従完成会発行]]
| year=2005
| pages=329
| isbn=4-7971-0723-5
}}({{Google books|BpPJQKTvqjEC|外記補任|page=32}})
* {{Citation|和書|last=太田|first=亮|author-link=太田亮|others=[[上田萬年]]、[[三上参次]]監修|chapter=十市 トヲチ トウチ|pages=3894–3898|volume=2|date=1934|title=姓氏家系大辞典|publisher=姓氏家系大辞典刊行会|id={{全国書誌番号|47004572}}|url={{NDLDC|1130938/1041}}|ref=harv}} {{OA}}
* {{Citation|和書|last=太田|first=亮|others=上田萬年、三上参次監修|chapter=中原 ナカハラ|pages=4251-4257|volume=3|date=1936|title=姓氏家系大辞典|publisher=姓氏家系大辞典刊行会|id={{全国書誌番号|47004572}}|url={{NDLDC|1131019/91}}|ref=harv}} {{OA}}
* {{Cite journal | 和書
| last=鈴木
| first=理恵
| authorlink=鈴木理恵 (日本史研究者)
| title=明経博士家中原・清原氏による局務請負と教育
| journal=日本の教育史学
| url=https://doi.org/10.15062/kyouikushigaku.30.0_4
| volume=30
| pages=4-23
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| doi=10.15062/kyouikushigaku.30.0_4
}} {{フリーアクセス}}
* {{Citation | 和書
| last=武部
| first=敏夫
| author-link=武部敏夫
| contribution=押小路家(一)
| title=[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]
| publisher=[[吉川弘文館]]
| publication-date=1997
}}
* {{Citation | 和書
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| title=金沢北条氏の研究
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* {{Citation | 和書
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| author-link=丹羽基二
| others=[[樋口清之]]監修
| date=1970-7
| title=姓氏 : 姓氏研究の決定版
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* {{Citation | 和書
| last=福井
| first=俊彦
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| contribution=中原氏
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* {{ Citation | 和書
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| title=新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集
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| publisher=吉川弘文館
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* {{ Citation | 和書
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* {{Cite thesis | 和書
| last=楊
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| authorlink=楊洋 (思想史学者)
| degree=博士(文学)
| title=中世日本に於ける四書の受容と学風の転換
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}} {{フリーアクセス}}
* {{Citation | 和書
| last=吉岡
| first=真之
| author-link=吉岡真之
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}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[天文密奏]]
* [[天文密奏]]
* [[弘宗王]] - [[天武天皇]]末裔。子らが中原真人に臣籍降下。
* [[興原敏久]] - 中原宿禰としての[[カバネ|姓]]を与えられた。
* [[興原敏久]] - [[物部中原氏]]の氏祖。
* [[宇都宮氏]] - [[藤原氏]]の流れといわれるが、一説には、「[[祭祀]]においては[[藤原北家]]であるが、血統では中原氏である」ともいわれている。
* [[伊伎月雄]] - 月雄流中原氏の氏祖。中原有象以前に中原朝臣の氏姓を下賜された。
* [[大友氏]] - 宇都宮氏とは逆に祭祀においては中原氏であるが、血統では藤原北家であるといわれている。


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2024年2月8日 (木) 15:09時点における最新版

中原氏

抱き花杏葉だきはなぎょうよう[1][注釈 1]
氏姓 (十市県主→十市→十市宿禰→)中原宿禰→中原朝臣
始祖 十市県主大目孝元天皇外戚
磯城津彦命安寧天皇第三皇子
出自 十市氏
氏祖 中原有象(十市有象)
種別 不明(『新撰姓氏録』には十市氏の記載なし)
皇別
著名な人物

明経道
中原師遠
中原師元
中原師守
中原康富
押小路甫子


明法道
坂上明兼
中原章澄
中原章任
是円(中原章賢)
真恵
勢多章甫


平田家
平田職忠


貞親流 摂津家
中原親能
中原能直(大友能直) →以後は大友氏を参照 大江広元
藤原親実
中原師員
中原親致(摂津親致摂津高親
摂津満親

摂津政親
後裔

押小路家地下家棟梁華族男爵))
勢多家(地下家)
平田家(地下家)
志水家(地下家)
山口家(地下家)
深尾家(地下家)
栗津家(地下家)
河村家(地下家)
辻家(地下家)
中川家(地下家)
大友氏武家[注釈 2]
摂津氏(武家)[注釈 3]
中原姓安芸氏(武家)
三池氏(武家)
鹿子木氏(武家)
長野氏(武家)
宇都宮氏(武家)?
城井氏(武家)?

藤堂氏(武家→華族(伯爵))?[注釈 4]
凡例 / Category:氏

中原氏(なかはらうじ)は、10世紀明経博士中原有象を氏祖とし、広澄流清原氏と共に明経道を、坂上氏と共に明法道家学とした氏(うじ)。清原氏の「清家」に対し、中家(ちゅうけ)と略される[3]孝元天皇外戚とされる伝説的人物の十市県主大目を上祖とする十市氏後裔。その後、遅くとも室町時代には、安寧天皇第三皇子磯城津彦命末裔の皇別氏族と自称した。好敵手の清原氏が室町時代に堂上家となり上方向に繁栄したのに比べ、中原氏は横方向に繁栄し、多くの朝廷実務官僚および幕府高級官僚の家柄を輩出した。嫡流の局務押小路家明治時代華族に列し、男爵に叙せられた。

概要

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中原氏の前身の十市氏(とおちうじ)は、古代には大和六県の一つ十市県(とおちのあがた)つまり奈良盆地南部を支配した氏族である。十市氏の上祖は、『古事記』(8世紀初頭)では孝元天皇外戚十市県主大目とされている。しかし、14世紀後半の洞院公定編『尊卑分脈』では、疑わしいとしつつも安寧天皇第三皇子磯城津彦命後裔の皇別氏族という説が掲載され、のちに後小松上皇の勅命により編纂された『本朝皇胤紹運録』(応永33年(1426年))では正式に磯城津彦命後裔として記載された。これには、当時の中原氏が、自氏の出自に箔をつけるために仮託したのではないかという説がある。中原氏の氏祖は平安時代儒学者明経博士十市有象で、天禄2年(971年)ごろに改姓し、中原有象(なかはら の ありかた)を名乗った。

中原氏嫡流は、広澄流清原氏と並び、明経道儒学の研究)を家学として明経博士を世襲し、また事務官・書記官の長である局務大外記を兼ねた。平安時代、第5代当主の中原師遠白河上皇記録荘園券契所に務めて訴訟制度改革に加わり、第6代当主の中原師元は聞書集『中外抄』を著した。また後醍醐天皇建武政権では大きく躍進し、最高政務機関記録所の3割を中原氏(明法道系統も含む)が占めた。南北朝時代中原師守師守記』(重要文化財)と、室町時代中期の中原康富康富記』は、それぞれの時代の最重要史料の一つである。しかし、室町時代後期には学問上の繁栄・活躍が停滞し、明経博士の地位も清原氏に独占された。とはいえ、嫡流の局務押小路家は、江戸時代までには造酒正大炊頭掃部頭穀倉院別当など官人の主要官職を多く手にし、小槻氏嫡流の官務壬生家と共に「地下官人の棟梁」とされた。地下家ながら歴代当主には公卿に列した者もおり、江戸時代後期の押小路甫子は、孝明天皇御乳人(おちのひと、乳母)および大御乳人(中級女官である命婦の次席)を務めた。明治時代には男爵に叙せられ、政務記録や日記など多くの重要史料が内閣文庫に寄贈された。

傍流の一派は明法道法学の研究)を坂上氏と共に家学とした。一族の多くが室町時代までの重要な法学書を著し、中原明兼(坂上明兼、明法道坂上氏の祖)『法曹至要抄』、中原章澄明法条々勘録』、中原章任金玉掌中抄』などがある。建武政権期には、嫡流の明経道の系統と共に多く実務官僚として抜擢された。建武政権の雑訴決断所に参画した是円真恵兄弟は、続く室町幕府で事実上の基本法『建武式目』を起草した。法家系統での嫡流の勢多家は明治維新まで存続し、最後の明法博士勢多章甫は『古事類苑』の編纂事業などに関わった。

平安時代末期から蔵人所出納家職とした平田家は、江戸時代初期に有職故実家の職忠を輩出した。江戸時代には地下家では押小路家・壬生家に次ぐ実力を有し、合わせて「三催」と称された。

貞親流は、武家政権における高級官僚として活躍した。鎌倉幕府初代将軍源頼朝の側近だった中原親能大江広元兄弟(十三人の合議制)や、第4代将軍藤原頼経の側近だった中原師員藤原親実などがいる。親能の養子の中原能直(大友能直)に始まる大友氏九州の有力武家となった。師員は鎌倉幕府評定衆の初代筆頭席次を務め、後裔の摂津氏は鎌倉・室町幕府の高級官僚氏族となった。

出自

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前身

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中原氏の前身は十市氏(とおちうじ)である[4]。十市氏は大和六県の一つ十市県(とおちのあがた、奈良盆地南部)を発祥とする氏族[5]。『古事記』(8世紀初頭)が語る伝説では、初期の天皇家外戚にあたる古い有力氏族とされる[5]。つまり、『古事記』によれば、第7代天皇孝霊天皇(実在不明)が、十市県主(とおちのあがたぬし)の祖である十市県主大目の娘の細媛命を娶り、その間に生まれたのが第8代孝元天皇と伝えられる[5]。その後、十市県の支配者である十市県主は首(おびと)姓(かばね)を与えられ、十市首と称した[5]。十市首は部民(べみん)である十市部(とおちべ)を管理したので、十市部首とも言う[5]。また、『先代旧事本紀』(9世紀末)の神話では、物部氏の祖神饒速日命が地上に降臨した際、十市首の祖である富富侶を従えたとされるが、太田亮は、ここから、歴史的にも十市氏は物部氏の配下だったのではないかと推測した[5]

後世、十市氏=中原氏はしばしば安寧天皇第三皇子磯城津彦命後裔の皇別氏族と伝えられる[4][6]。だが、十市氏を磯城津彦命に繋げる逸話は記紀等には見られない[5]。14世紀後半の洞院公定編『尊卑分脈』においても、安寧天皇後裔説には疑惑有りとされ、確かな検証が必要であると慎重な姿勢が取られていた[7][8]。しかし、その後、後小松上皇の勅命により編纂された『本朝皇胤紹運録』(応永33年(1426年))では正式に磯城津彦命後裔として記載された[6]

太田は、磯城津彦命を始祖とする説が発生した理由については、記紀での十市氏と磯城氏磯城奈良盆地東南部に由来する氏族)との関連性に淵源を求める[5]。前述した通り、『古事記』では、孝元天皇の母は細媛命で、その父は十市氏の祖である十市県主大目とされる[5]。また、『日本書紀』の孝霊天皇段の本文でも、孝霊の皇后は細媛命とされ(父は不明)、一書第二では十市県主等の祖の娘の真舌媛とされる[5]。ところが、孝元天皇段では細媛命は磯城氏の磯城県主大目という人物の娘になっている[5]孝安天皇の段でも同様に、孝安天皇の皇后について、十市氏出身説と磯城氏出身説が併記されている[5]。ここから類推するに、十市県主は磯城県主から分かれた氏族であり、十市県主大目(磯城県主大目)よりさらに伝説的遠祖を辿ると、初代天皇の神武天皇に帰順した地方豪族の磯城彦黒速(通称を弟磯城)に行き着くのではないかという[5]。そして、中原氏が自身の系図に箔をつけるために、名前が非常によく似ている磯城彦(地方豪族)と磯城津彦(皇子)を意図的に混同して、皇別氏族であるかのように装ったのではないか、と主張した[5]

なお、『日本後紀弘仁4年(813年)5月条に、物部敏久が「物部中原宿禰」を下賜され、物部中原敏久(もののべのなかはら の みにく)となったことが見える[9]。後に敏久はさらに興原宿禰を下賜され、興原敏久(おきはら の みにく)となっている[9]。敏久はまた、刑部省大判事にして『弘仁格式』『令義解』の成立に深く関わった高名な明法学者である[9]。このことから、中原氏の成立には物部氏と何らかの関係があるのではないか[9]、もしくは後胤なのではないか[10]という説もある。

氏祖

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その後、10世紀後半の儒学者である十市有象が中原有象(なかはら の ありかた、延喜2年(902年[注釈 5]–?)に改姓したのが中原氏の始まりである[6][4]

有象以前、十市氏は既に明経道と関わりがあった。『類聚符宣抄』九に、延長8年(930年7月24日従五位下十市部良佐(十市良佐)が助教として天文密奏を行ったことが見える[12]。これに加え、後世の系図類では、十市氏は学者の家系であるだけではなく、有象の父の春宗や、叔父とされる良忠(前記の良佐と同一人物とされる)も外記局に務めていた事務方一家でもあったと書かれている[13]。しかし、『外記補任』には春宗や良忠(良佐)が外記を務めていたという記録はなく、井上幸治は、史料上は否定されるとしている[14]

有象に話を戻すと、承平元年(931年12月27日頃にはまだ学生であったが(『類聚符宣抄』九)、その後に直講(明経道の教師)を経て、天慶5年(942年12月13日に権少外記として外記局に務め始め、同8年(945年)には宿禰姓(かばね)を下賜されて氏姓が十市首から十市宿禰となり、同9年(946年2月7日に大外記として事務方の長となる(『外記補任』二)[11]。同年4月28日村上天皇即位に合わせ、従五位下を叙爵されて貴族となった(『外記補任』二)[11]。その後、遠江介出雲守を歴任したのち(『外記補任』二)、天徳2年(958年)に律令制における儒学者の頂点である明経博士の地位に昇った(『二中歴』二・儒職歴)[11]

有象は左大臣藤原在衡や、文章博士菅原文時道真孫)とも親交があり、安和2年(969年3月13日には、共に尚歯会(有識者同士で高齢を祝う祝宴)を開いている[15]

有象が中原氏を名乗った正確な時期はわからないが、後世の諸系図では天禄2年(971年)に中原宿禰に改姓したと言われ[6]、『国史大辞典』「中原氏」(吉岡真之担当)もこれを採用している[4]。少なくとも、『類聚符宣抄』九によれば、安和2年(969年)8月11日の時点ではまだ十市氏だった[11]

同様に、後世の系図類では、天延2年(974年)11月あるいは12月に朝臣の姓(かばね)を下賜され、氏姓が中原宿禰から中原朝臣になったという[6]。14世紀後半の系図である『尊卑分脈』では11月だが、それ以後の系図では12月とするものが多い[6]。『国史大辞典』「中原氏」は12月説を採用している[4]

嫡流(明経道中原氏)

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略歴

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鎌倉時代まで

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中原氏の嫡流は、明経道儒学の研究)を家学とし、広澄流清原氏と共に明経博士の家柄として家学を相承した[4]。系統としては、氏祖有象の子の致時の次男の師任から続く家系である[4]。なお、氏(うじ)全体の当主は、藤原氏源氏橘氏王氏などでは氏長者と言われるが、他氏では氏長者制度は顕著ではなかった[16]

平安時代から鎌倉時代にかけては、後発の清原氏よりも明経道の官職における勢力が強かった[17]。平安時代の明経博士は中原氏から15人、清原氏から6人で、鎌倉時代は中原氏から12人、清原氏から9人である[17]。その一方で、清原氏からは高倉院侍読を務めた清原頼業など皇室に直接近づく者も現れ、その点では一歩先んじられていた[17]。学問のほか、事務系の官職も担当し、平安時代中期から、清原氏と共に外記(朝廷の書記・事務方)の首座である局務を世襲した[4]。さらに、鎌倉時代以降、局務は穀倉院別当の官職を兼ねるのを慣例とした[18]

第5代当主[注釈 6]の大外記中原師遠は、天永2年(1111年)に記録荘園券契所寄人(職員)に任じられ、白河上皇のもと訴訟制度の拡充に関わった[19]。第6代当主の師元は、関白藤原忠実が語る故実・故事談を記録した『中外抄』を著し、『古事談』『続古事談』などを通して、後世の説話文学に無視できない影響を与えた[20]。第9代当主の中原師季掃部頭となり、以降、掃部頭は中原氏嫡流が兼ねる慣例となった[21]

鎌倉時代末期の1320年代には、中原師夏が、儒学の研究に励む花園上皇に抜擢され、『礼記』『毛詩』を講義した(『花園天皇宸記』)[22]元亨2年(1322年)12月には、当時、明経道の儒家が天皇の侍読を務めるのはまれであったが、花園上皇は後伏見上皇に数度かけあってまで師夏を自身の侍読に登用した[22]

室町時代中期まで

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中原氏は後醍醐天皇建武政権下では大きく抜擢された。『建武記』によれば、建武2年(1335年3月17日時点での、最高政務機関記録所の寄人(職員)全21名のうち、中原氏からは明法道系統も含め、中原師治中原秀清中原職政中原師利中原章香中原師右中原明清の7人が選ばれ、全体の3割を占めていた[23]

南北朝時代中原師茂正和元年(1312年) - 天授4年/永和4年(1378年))は、北朝側に付き、傍系ながら大外記明経博士に任じられ、故実に通じた学者として、先例をしばしば朝廷に勘進した[24]

師茂の弟の中原師守は日記『師守記』を残したが、公事のみならず当時の社会全般に関しての記録が豊富なため、南北朝時代における第一級の史料である[25]。同書は2004年重要文化財指定[26]。師守の子孫は押小路家を名乗り、数代が大外記に任じられたものの、しばらくして絶えた[21]。師守流押小路家は、嫡流とは同名別家で、時代的にはこちらが先行する[21]

室町時代中期の中原康富(? - 長禄元年(1457年))は学問・和歌に優れ、明経道系統の中では庶流ながら正五位下権大外記に昇り、伏見宮花山院家の講師となり、また鷹司家家礼も務めた[27]。15世紀前半の重要史料である日記『康富記』を残した[28]

押小路家

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中原氏嫡流は、室町時代後期、第17代当主[注釈 6]の中原師富(押小路師富永享6年(1434年) - 永正5年(1508年))の代から、押小路家(おしこうじけ)の家名を名乗るようになった[21]。師富の代から造酒正を兼任するようになった[21]

ところが、室町時代終わりまでに、相方である清原氏が少納言を経て公卿になる家格(堂上家)に昇格し[4]明経博士の官職も清原氏から嫡流舟橋家・庶流伏原家の二家が独占した[29]。結果として、江戸時代には下級貴族の職である局務は、押小路家に単独で世襲されることになった[4]。やがて押小路家そのものが局務と呼ばれた[21]。江戸期には、左大史の上首である官務を務めた小槻氏嫡流壬生家と合わせて、地下官人の棟梁と称された[30]。さらに、蔵人所出納を家職とした中原氏庶流平田家も加えて、三催(さんもよおし)とも言う[30]。儀式・公事の際、下級官人たちは、押小路家の外記方、壬生家の官方、平田家の蔵人方に分かれて催沙汰(もよおしざた、統轄)を受けた[30]

押小路家の江戸時代における家禄は76石[21]。これまで述べてきた官職に加え、大炊頭も兼ねた[31]。地下家ながら、押小路家第11代当主師資・第14代師徳従三位に叙され公卿に列した[32]。第12代当主の師武の養女甫子孝明天皇御乳人(おちのひと、乳母)、のち大御乳人(中級女官である命婦の次席)となり、日記『大御乳人甫子記』や随筆『大御乳人甫子雑記』などを著述した[33]

明治維新後、明治12年(1879年)に明治天皇特旨によって華族に列し、同17年(1884年)に男爵となった[4]。明治19年(1886年)、当主の師成は、公事儀式や政務全般を記録した中原氏・押小路家の蔵本242部を内閣文庫に寄贈した[31]

系図

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明法道中原氏

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略歴

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明法道中原氏(法家中原流)は、明法道坂上氏と共に明法道律令法法学)の研究)を家学とした家系[4]。「章」を通字とする[34]中原有象の曾孫である中原範政によって創始された[4]

家祖の範政の兄弟のうち、明法道系の中原氏は年少の中原範光が継いだ[4]。一方、長子である中原明兼は晩年に坂上明兼承暦3年(1079年) - 久安3年(1147年))を名乗り、明法道坂上氏の家祖となった[34]。明兼の学説は、後裔によって鎌倉時代に大著『法曹至要抄』として結実し[34]、官撰ではなく私撰の書にもかかわらず、当時の法の実務上に規範的な効果があった[35]。特に刑事法の面では、鎌倉幕府の基本法『御成敗式目』に影響を与えたという説もある[36]

中原章澄の『明法条々勘録』(文永4年(1267年))もまた、『法曹至要抄』と同様に、当時の明法道や公家法を知る上で重要[4]

中原章房(? - 元徳2年(1330年))は、刑部省で活躍し、嘉暦3年(1328年)に大判事に任じられた[37]。『地下家伝』によれば、明法博士に昇ったという[37]軍記物語太平記』では「中家一流ノ棟梁、法曹一途ノ碩儒」とその学才を高く讃えられた[37]。また、同物語では暗殺で死亡し、子の章兼と章信が仇討ちをしたと描かれ、珍しい文官の仇討ち物語の例として知られている[37]。章房の後裔に「勢多大夫判官」と称する章兼・章頼が出て、明法博士を世襲した勢多家の祖となったため、後世にはこの系統が嫡流と見なされるようになった[37]

明法博士中原師緒(? - 建武元年(1334年)頃?)は、元応2年(1320年)、後醍醐天皇が翌年は辛酉革命の年に当たるからといって朝廷の慣例通り改元をしようとした時に、讖緯説は迷信であると合理的な意見を述べ、辛酉の改元の慣例は止めるべきと進言した[38]

中原章有(14世紀)は庶流ながら明法博士となって貴族に叙爵され、建武政権の雑訴決断所に参画した[39]。また最勝光院[注釈 7]の寄検非違使[注釈 8]も務め、子も検非違使庁の有力官人となった[39]

建武の新政1333年 - 1336年)では、明法道の系統からも、中原職政中原章香ら数名が、最高政務機関である記録所寄人(職員)に抜擢されている(#嫡流)。

建武の新政前後に特に顕著に活躍したのが、中原章任是円真恵三兄弟である。章任は律令の参考書『金玉掌中抄』を著し、また、西園寺実兼家司を務めたり花園院に明法道を講じたりなど政界周辺でも活躍した[40]。是円房道昭(俗名は中原章賢)は『御成敗式目』への注釈書『是円抄』(散逸)を著すなど、公家法武家法の双方に通じていた[41]。是円・真恵兄弟は、建武政権では雑訴決断所職員として務めた[42]。是円・真恵兄弟は、建武の乱では足利尊氏方に付き、延元元年/建武3年11月7日1336年12月10日)には、室町幕府の基本法である『建武式目』の主要答申者(起草者)となった[42]

幕末から明治時代の勢多家当主の勢多章甫は、明治維新後に官位を返上して日本最後の明法博士となった[43]。維新後には皇典講究所などに務め、『古事類苑』の編纂事業など様々な著作に携わった[43]

系図

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平田家

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平田家は、平安時代末期から蔵人所出納家職とした地下家[4]。中原氏嫡流第6代当主の中原師元の養子である中原祐安の子の平田職国を家祖とする[4]

江戸時代初期の平田職忠有職故実に通じた碩学として知られ、北畠親房職原抄』の刊行を行った他、自身でも『官職便覧』を著した[4]。職忠は後陽成天皇の寵遇を得て正四位上殿上人となった[4]

江戸時代には有力官人として、「蔵人方」に分類される地下家の催沙汰(もよおしざた、統轄)を行い、本家である中原氏嫡流局務押小路家および小槻氏嫡流官務壬生家と共に、三催(さんもよおし)と称された[30]

摂津家ほか 貞親流

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略歴

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中原氏のうち、貞親の子孫からは鎌倉幕府に高級官僚として仕えた者が多く出た[44]。中原氏の鎌倉下向は3つの時期に分けられる[44]

第一期として、鎌倉幕府草創期には、中原親能大江広元兄弟が初代将軍源頼朝に側近として仕え、幕府の政治体制の基礎造りに尽力した[44]十三人の合議制)。九州の有力武将である大友氏の初代当主能直は、親能の養子である[45]。ただし、大友氏第7代当主の大友氏泰は将軍足利尊氏猶子となる手続きを通して源氏に改姓している[45]

第二期として下向したのが書博士中原師俊で、『鎌倉年代記』や発給文書には活動が見えるが、『吾妻鏡』には名を残しておらず、幕府内でどのような地位を築いたのかは不明である[46]

第三期として、藤原親実とその甥の中原師員が下向し、鎌倉幕府第4代将軍の藤原頼経(九条頼経)に側近として仕えた[47]。親実には明経道系の官職に付いた形跡が見られないことから、永井晋によれば、かなり早い段階で中原氏から藤原氏に改姓したのではないかという[48]。一方、師員は頼経の侍読として、中原氏の傍系ながら氏族の極官である明経博士大外記にまで昇り[48]、幕府では評定衆の創設時の筆頭席次を得た[49]。親実・師員とその子孫は、寛元4年(1246年)の宮騒動で頼経が失脚したのちも、実務官僚として活躍し続けた[50]。師員の次男の師連の子の親致は、藤原氏に改姓して武家である摂津氏の祖となり、家学の明経道からは離れ、後裔は幕府の高級官僚の家系として活躍した[51]。親致の子親鑑と孫高親は、東勝寺合戦にて北条氏と運命を共にしたものの、親致弟親秀の系統は続く室町幕府でも、地方奉行などの役職を実質的に世襲した[52]摂津満親足利義満の姻戚となり(足利義嗣の母は満親の姉妹)摂津政親足利義政の重臣として勢力があった。孫の摂津晴門は幕府の代表として織田信長と対峙した。


また、中原親能の子の師員[注釈 9]の後裔で安芸守だった中原貞房(安芸貞房)が、筑後国三池郡大牟田市)の地頭職を得て、中原姓安芸氏の始祖となったという[54]。さらに、貞房の長男は三池員時として三池氏の祖となり、次男は鹿子木荘を本貫とし鹿子木貞教として鹿子木氏の祖となった[54]肥後国隈本(熊本県熊本市)は長らく名義上の国府に過ぎない寒村だったが、15世紀後半に菊池氏一族の出田秀信、次いでこの鹿子木氏の鹿子木親貞が入ったことで初めて本格的な都市開発が進められたという[55]

系図

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その他の傍流

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下野国栃木県)の武家の名門宇都宮氏の出自は諸説の中に中原氏という説もあり[58]、実際、一門の武将で豊前宇都宮氏(城井氏)の初代宇都宮信房は中原氏を称したことがあるが[59]、確実な出自は不明[58]

江戸時代津藩藩主となる藤堂氏は、『歴名土代』に拠れば、もともと本姓中原氏を自称していた[2]。しかし、藤堂高虎五摂家の一つ藤原氏近衛家当主の近衛信尋と親しかったことから、本姓を藤原氏であると自称するようになった[2]。ただし、明治時代の華族における宗族制では、藤堂氏の2家は舎人親王の曾孫中原長谷を始祖とする中原朝臣を称している。

また、挿絵画家の中原淳一も、中原氏の末裔といわれる[10]

脚注

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注釈

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  1. ^ 見聞諸家紋』に拠る[1]
  2. ^ ただし、7代目の大友氏泰から源氏に改姓している。#摂津家ほか 貞親流を参照。
  3. ^ ただし、家祖の代から藤原氏に改姓している。#摂津家ほか 貞親流を参照。
  4. ^ ただし、藤堂高虎の代以降は藤原氏を称し[2]、明治時代には舎人親王の子孫である中原朝臣を称している。
  5. ^ 『外記補任』二に天慶6年(943年)で(数え)42歳とあり[11]、ここから逆算。江戸時代の『押小路家譜』や『系図纂要』も延喜2年生としている[11]
  6. ^ a b c 氏祖の有象を初代とする数え方。『国史大辞典』「中原氏」(吉岡真之担当)は、「外記一族」という点を重視し、系図類で初めて外記に務めたと伝承されている有象の父の十市春宗を初代とし、押小路家初代の師豊を中原氏第18代と数えている[4]。しかし、『外記補任』には春宗が外記に務めたという記録がない(有象にはある)ことから、歴史的には春宗を外記一族初代とするのは否定される[14]
  7. ^ 後白河法皇に由来する巨大な寺社領。
  8. ^ 寺社領の犯罪を見張る上級警察官。
  9. ^ 前記した評定衆の師員は中原師茂の子のため[53]、それとは同名別人か。

出典

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参考文献

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関連項目

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