コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

興原敏久

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
興原敏久
時代 平安時代初期
生誕 延暦7年(788年)?
死没 嘉祥2年7月20日849年8月11日)?
官位 正五位上大判事
主君 平城天皇嵯峨天皇淳和天皇
氏族 物部(無姓)→物部中原宿禰→興原宿禰
テンプレートを表示

興原 敏久(おきはら の みにく/としひさ)は、平安時代初期の貴族法律家は物部(無姓)のち(物部)中原宿禰、興原宿禰。官位正五位上大判事

出自

[編集]

三河国出身。

経歴

[編集]

延暦年間末期より明法家として知られるようになり、大同年間初期に大宰少典左大史を歴任する。大同3年(808年外従五位下大外記に叙任され、遅くても弘仁2年(811年)までには明法博士に任じられていた。弘仁4年(813年物部(無姓)から物部中原宿禰に改姓すると共に大判事に任じられる。

弘仁7年(816年上総国夷灊郡で税長・久米部当人が放火により官有物を焼失させた上で自殺したことから、法律家として見解を述べた[1]

  • 放火犯を拘束できれば、弁償させ、弁償できない場合は使役により返済させる。
  • 犯罪の時効は5年であり、時効年限が達した場合は填償は終了していなくても犯人を放免する。
  • 上記取扱では朝廷が不利となるため、延暦5年では神火・人火問わず現任者に公廨をもって補填させる。
  • 欠損の填補は現任者の責任であり、前任者は官職を去れば責任は追及されない。

弘仁10年(819年従五位下、天長元年(824年)従五位上、天長4年(827年正五位下、天長7年(830年)には弘仁格式撰修の功労によって正五位上に叙されるなど、嵯峨朝末から淳和朝にかけて順調に昇進を果たした。また、嵯峨朝では藤原冬嗣の元で『弘仁格式』の、淳和朝では清原夏野に元で『令義解』の撰修に参画している。特に『令義解』の撰修においては、編者における明法家(ほかに讃岐永直・川枯勝成・漢部松長)の筆頭として、敏久の解釈が『令義解』の注釈をリードしたと想定される[2]

一説では、嘉祥2年(849年)7月20日卒去。享年62[3]

令集解』に載せられている「物記」「興大夫云」「原大夫云」「物云」は敏久の発言・学説を引用したものとされている。また、その明法勘文は『法曹類林』や『政事要略』にも採録されている。

官歴

[編集]

注記のないものは『六国史』による。

脚注

[編集]
  1. ^ 『日本後紀』弘仁7年8月23日条
  2. ^ 嵐[2004: 173]
  3. ^ 鈴木真年『諸系譜』第十三冊,秋野
  4. ^ a b 利光三津夫「明法家物部敏久についての一考察」
  5. ^ a b c 『外記補任』
  6. ^ 『法曹類林』巻192
  7. ^ 『類聚三代格』巻1

参考文献

[編集]