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清原広澄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
清原広澄
時代 平安時代中期
生誕 承平4年(934年[注釈 1]
死没 寛弘6年(1009年
官位 正五位下明経博士
主君 花山天皇一条天皇
氏族 海(あま)宿禰清原真人
父母 海業恒[2]
兄弟 正澄、善澄?[1]広澄、近澄[2]
頼隆(近澄の子)
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清原 広澄(きよはら の ひろずみ)は、平安時代中期の貴族儒学者左大史・海業恒の子。官位正五位下明経博士。広澄流清原氏の氏祖。

出自

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出自は諸説あるが、海氏(海宿禰)出身が定説(詳細な議論は清原氏 (広澄流)#出自を参照)。太田亮は、海氏の中でも特に天武天皇の時代の凡海氏(大海氏)の凡海麁鎌の子孫と主張した[3]

経歴

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小野吉柯の門人。直講を経て、寛和元年(985年)権少外記に任ぜられると、寛和2年(986年)少外記、永延元年(987年)大外記と一条初期に外記を務めながら急速に昇任し、永延2年(988年従五位下に叙爵して、外記局を離れた。

大隅守などの地方官を務めたのち、明経道助教として京官に復し、長保4年(1002年明経博士に任ぜられた。寛弘元年(1004年海宿禰から清原真人改姓し、位階正五位下に至る。

寛弘6年(1009年)7月5日卒去享年76。跡を養嫡子の頼隆(弟の近澄の子)が継いだ[4]

死後、大江匡房の『続本朝往生伝』(1100年ごろ)では、一条天皇治世下(986–1011年)の代表的な明経道の儒学者について、善澄と広澄が双璧として語られている[4]

官歴

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注記のないものは『外記補任』による。

系譜

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  • 父:海業恒
  • 母:不詳
  • 妻:不詳
  • 養子

脚注

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注釈

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  1. ^ 尊卑分脈』記載の没年と数え年[1]からの逆算。

出典

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  1. ^ a b 鈴木 1987, p. 21.
  2. ^ a b c d e 『尊卑分脈』
  3. ^ 太田 1934, pp. 1985–1986.
  4. ^ a b c 鈴木 1987, p. 6.
  5. ^ 『権記』

参考文献

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  • 太田亮清原 キヨハラ」『姓氏家系大辞典』 第2、上田萬年三上参次監修、姓氏家系大辞典刊行会、1934年、1980-1989頁。全国書誌番号:47004572https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130938/84  オープンアクセス
  • 鈴木, 理恵明経博士家中原・清原氏による局務請負と教育」『日本の教育史学』第30巻、1987年、4-23頁、doi:10.15062/kyouikushigaku.30.0_4  閲覧は自由