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「ケイ・セージ」の版間の差分

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'''ケイ・セージ'''(Kay Sage、[[1898年]][[6月25日]] - [[1963年]][[1月8日]])は[[アメリカ]]の[[画家]]、[[詩人]]。[[シュルレアリスム]]のアーティストの一人。本名は'''キャサリン・リン・セージ'''(Katherine Linn Sage)。夫は同じく画家[[イヴ・タンギー]]。
'''ケイ・セージ'''(Kay Sage、[[1898年]][[6月25日]] - [[1963年]][[1月8日]]は[[アメリカ]]の[[画家]]、[[詩人]]。詩的・哲学的なテーマを扱い、[[幾何学]]的・[[建築]]的[[オブジェ]]や無人の空間を特徴とする作品を制作した[[シュルレアリスム]]の画家として知られる。夫は同じくシュルレアリスムの画家[[イヴ・タンギー]]。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
ケイ・セージは1998年6月25日、キャサリン・リン・セージ(Katherine Linn Sage)として[[ニューヨーク州]][[オールバニ郡 (ニューヨーク州)|オールバニ郡]]{{仮リンク|ウォーターヴリート|en|Watervliet, New York}}の裕福な家庭に生まれた。父は木材産業で財を成した[[アメリカ合衆国上院|上院]]議員であったが<ref name=":0">{{Cite news|title=La peintre Kay Sage, une surréaliste solitaire et singulière|url=https://www.lemonde.fr/festival/article/2019/08/16/la-peintre-kay-sage-une-surrealiste-solitaire-et-singuliere_5500093_4415198.html|work=Le Monde.fr|date=2019-08-16|accessdate=2020-03-19|language=fr|author=Emmanuelle Lequeux}}</ref>、早くに両親が離婚し(1900年に別居、1907年か1908年頃に離婚)<ref name=":1">{{Cite web|title=Kay Sage {{!}} American painter and poet|url=https://www.britannica.com/biography/Kay-Sage|website=Encyclopedia Britannica|accessdate=2020-03-19|language=en|publisher=|author=Naomi Blumberg|coauthors=Sonia Chakrabarty}}</ref>、[[アルコール依存症]]などの問題を抱える母との複雑な関係のなかで成長した<ref name=":2">長尾天「[https://www.bijutsushi.jp/pdf-files/reikai-youshi/2016_01_23_01_Nagao.pdf ケイ・セージの卵について ―母親との関係から―]」[[早稲田大学]]美術史学会 口頭発表趣旨、2016年。</ref>。また、転校を繰り返し、母と頻繁に旅行するなど、家庭生活、学業とも不安定であったが、この間に[[フランス語]]、[[イタリア語]]、[[スペイン語]]、[[ポルトガル語]]を学ぶ機会を得、特にフランス語とイタリア語が流暢であった<ref name=":0" /><ref name=":1" />。
[[1898年]]、[[ニューヨーク州]]の[[オールバニ (ニューヨーク州)|オールバニ]]で、裕福な家庭の次女として生まれる。


[[ワシントンD.C.]]のコーコラン美術学校(現{{仮リンク|コーコラン美術デザイン学校|en|Corcoran School of the Arts and Design}}に学んだが、[[第一次世界大戦]]が勃発すると、語学力を活かして[[翻訳]]の仕事を始めた<ref name=":0" />。
セージは[[バージニア州]]の[[フォックスクロフト・スクール]]に進学、そこで美術収集家の[[フローラ・ペイン・ホイットニー]]([[ホイットニー美術館]]創立者)と知り合い、生涯の友人となる。


戦後、[[イタリア]]に留学し、[[ローマ]]で[[素描]]と[[絵画]]を学んだ<ref name=":3">{{Cite book|title=The Grove Encyclopedia of American Art|date=|year=2011|publisher=Oxford University Press|editor=Joan Marter|author=Nina Lübbren|language=en}}</ref>。イタリアの[[貴族]]ラニエリ・ディ・サン・ファウスティーノ(Ranieri di San Faustino)と出会って1925年に結婚。ローマとラパッロ([[リグーリア州]][[ジェノヴァ県]])を行き来しながら、夫に同伴して[[社交界]]に出入りするなど、貴族としての生活が始まった<ref name=":1" />。1935年に離婚するまでの10年間は、絵を描く時間はほとんどなく、画家としての「自らの可能性を閉ざしてしまう」ことになった<ref name=":2" />。
美術学校に進学するために、1920年代初頭に[[イタリア]]の[[ラパッロ]]に移住。そこで小説家の[[ラニエリ・ディ・サン・ファウスティーノ]](Ranieri di San Faustino)と出会い、1924年に結婚。しかし、裕福な夫の婦人でいることに不満を抱き、結婚からおよそ10年後に離婚。より芸術的な志を追求し始め、[[フランス]]を訪れて[[シュルレアリスム]]の運動に参加した。


転機となったのは画家{{仮リンク|オノラート・カルランディ|it|Onorato Carlandi}}との出会いであった。セージはカルランディから古典絵画における[[遠近法]]を学び、[[油彩]]、[[水彩]]、[[木炭]]画などの技術に磨きをかけた<ref name=":0" />。さらにイギリスの若手[[彫刻家]]{{仮リンク|ハインツ・ヘンゲス|en|Heinz Henghes}}と、当時彼を支持していたアメリカの詩人[[エズラ・パウンド]]に出会い、二人の支持を得て[[ミラノ]]の[[画廊]]に初めて作品を展示することになった<ref>{{Cite web|title=Kay Sage|url=http://www.weinstein.com/artists/kay-sage/|website=www.weinstein.com|accessdate=2020-03-19|publisher=Weinstein Gallery|language=en}}</ref><ref name=":4">{{Cite web|title=Kay Sage|url=https://awarewomenartists.com/artiste/kay-sage/|website=AWARE Women artists / Femmes artistes|accessdate=2020-03-19|publisher=|language=fr|author=Jacqueline Chénieux-Gendron}}</ref>。また、この頃からジョルジョ・デ・キリコやイヴ・タンギーの影響を強く受けた[[抽象画]]を制作し始めた<ref name=":3" />。
=== イヴ・タンギー ===
[[1937年]]ごろ、セージは[[彫刻家]]の[[ハインツ・ヘンゲス]]から、後の夫である[[イヴ・タンギー]]を紹介された。その後[[第二次世界大戦]]が勃発し、セージはすぐにアメリカへ帰国、タンギーを含むフランスの画家仲間をアメリカに避難させる準備を進めた。


1935年にラニエリと離婚し、1937年に渡仏。1938年の{{仮リンク|シュランデパンダン展|fr|Salon des surindépendants}}に油彩を出展し、シュルレアリスムの[[作家]][[アンドレ・ブルトン]]と画家イヴ・タンギーに絶賛された<ref name=":1" />。これを機に、ブルトンが率いるシュルレアリスムの運動に参加し、同じ1938年にパリで開催された国際シュルレアリスム展に出展した<ref name=":4" />。
[[1940年]][[8月17日]]、セージとタンギーは[[ネバダ州|ネヴァダ州]]の[[リノ (ネバダ州)|リノ]]で結婚。第二次世界大戦が終戦を迎えると、二人は[[コネチカット州]]の[[ウッドベリー]]に家を構え、そこを仕事場にした。


タンギーと恋愛関係になったものの、[[第二次世界大戦]]が勃発すると、アメリカ人のセージは帰国を余儀なくされ、[[ニューヨーク市]]に居を定めた。ニューヨークでは、シュルレアリストら[[フランス]]の芸術家の[[亡命]]を助けるために[[ビザ]]申請や渡米後の一時滞在施設の確保に追われた<ref name=":4" />。
[[1955年]]、タンギーの突然の死にセージは大きなショックを受け、手がける作品数も目に見えて減少した。そんな中彼女は、亡き夫タンギーの作品をまとめた目録を編集、8年がかりでタンギーの全作品463点をまとめた目録を完成させた。


[[アンリ・マティス]]の息子で[[画商]]の{{仮リンク|ピエール・マティス|fr|Pierre Matisse}}は当時ニューヨークで画廊を経営しており、セージは1940年にこの画廊で初の個展を開いた。同年、米国に亡命したタンギーと再会して結婚。翌年、[[コネチカット州]][[リッチフィールド郡 (コネチカット州)|リッチフィールド郡]]{{仮リンク|ウッドベリー|en|Woodbury, Connecticut}}に越した。彫刻家[[アレクサンダー・カルダー|アレクサンダー・カルダ]]ーや画家[[アンドレ・マッソン]]が同じコネチカット州に住んでいた<ref name=":4" />。
=== 自殺 ===

[[1959年]]、セージは最初の自殺を試みるが失敗、未遂に終わった。[[1963年]][[1月8日]](タンギーの誕生日の3日後)に二度目の自殺を図り、死亡した。64歳であった。セージの遺灰は、友人の[[ピエール・マティス]]によって、タンギーの遺灰と共に[[ブルターニュ半島]]の海岸にまかれた。
1941年からタンギーが亡くなる1955年までは、セージにとって最も実り多い時期であった。1943年に{{仮リンク|ペギー・グッゲンハイム|en|Peggy Guggenheim}}の「今世紀のアート・ギャラリー」で開催された女性31人展([[:en:The Art of This Century gallery#Exhibition_by_31_Women|Exhibition by 31 Women]])は、当時、米国に亡命していたブルトン、[[マルセル・デュシャン]]、[[マックス・エルンスト]]が特別に審査員に加わり、セージのほか、[[レオノーラ・キャリントン]]、[[マリア・エレナ・ヴィエイラ・ダ・シルヴァ]]、[[レオノール・フィニ]]、[[エルザ・フォン・フライターク=ローリングホーフェン]]、[[メレット・オッペンハイム]]、[[フリーダ・カーロ]]、[[ドロテア・タニング]]らが参加した大規模な展覧会であった<ref>{{Cite web|url=https://www.academia.edu/25214583/Peggy_Guggenheim_and_the_Exhibition_by_31_Women|title=Peggy Guggenheim and the Exhibition by 31 Women|accessdate=2020-03-19|publisher=Academia|author=Kat Buckley|year=2010|language=en}}</ref>。また、通常は夫タンギーと共同で仕事をすることはなかったが、1952年には[[ハートフォード (コネチカット州)|ハートフォード]]の{{仮リンク|ワズワース・アセニアム|en|Wadsworth Atheneum}}美術館で二人展が行われた<ref name=":1" />。

1955年に夫タンギーが[[脳出血]]で急死し、セージは深い精神的痛手を受けた<ref name=":0" />。さらに[[白内障]]を患った彼女は、次第に人付き合いを避け、鬱状態に陥った<ref name=":1" />。画風も変化し、1956年制作の『通過』には、茫漠とした無機質な空間でたった一人彼方を見つめる女性の背中が描かれている。1959年に[[自殺]]を図ったが未遂に終わり、詩作や[[アサンブラージュ]]の制作をしながら、タンギーの作品を整理し、目録を作って過ごした。これは1963年に[[カタログ・レゾネ]](総作品目録)として刊行されることになるが、セージは刊行の数日前に再び自殺を図り、64歳で死去した<ref name=":0" />。

セージは芸術作品のほか、詩集4冊(3冊はフランス語、1冊は英語)と自伝的テクスト『陶器の卵』を遺した。没後、タンギー、ブルトン、カルダー、マッソン、[[ルネ・マグリット]]、[[ポール・デルヴォー]]の作品を含むセージの個人コレクション約100点が[[ニューヨーク近代美術館]]に所蔵された<ref name=":1" />。


== 作品 ==
== 作品 ==

{{節stub}}
=== 芸術作品 ===
* 《[[ヴォーティシズム|ヴォーティシスト]]のデザイン》''The Vorticist Design'', ca.1935(油彩、板、13.4 x 21 cm){{仮リンク|マタタック博物館|en|Mattatuck Museum}}蔵
* 《その後》''Afterwards'', 1937(油彩、91.4 x 71.1 cm)[[コロラドスプリングス]]美術センター([[:en:Colorado Springs Fine Arts Center|Colorado Springs Fine Arts Center]]蔵
* 《モノリス》''Monolith'', 1937(油彩、92.7 x 71.1 cm)オールバニ歴史芸術博物館([[:en:Albany Institute of History & Art|Albany Institute of History & Art]])蔵
* 《重要な出来事》''An Important Event'', 1938(油彩、45.7 x 37.5 cm){{仮リンク|アリゾナ大学美術館|fr|University of Arizona Museum of Art}}蔵
* 《もう少し後で》''A Litter Later'', 1938(油彩、91.5 x 71.1 cm)[[デンバー美術館]]蔵
* 《世界は青い》''The World is Blue'', 1938(油彩、54 x 72.4 cm)インディアナ大学美術館蔵
* 《敷居の卵》''Egg on Sill'', 1939(油彩、39.4 x 31.8 cm)マタタック博物館蔵
* 《センプレ》''Sempre'', 1939(油彩、91.4 x 71.1 cm){{仮リンク|カリアー美術館|en|Currier Museum of Art|label=カリアー美術画廊}}蔵
* 《私の部屋にはドアが2つある》''My Room Has Two Doors'', 1939(油彩、99 x 83.8 cm)マタタック博物館蔵
* 《ドラムの上の1本の指》''A Finger on the Drum'', 1940(油彩、38.1 x 34.61 cm)[[コーコラン美術館]]蔵
* 《私には影がない》''I Have No Shadow'', 1940(油彩、63.5 x 54.3 cm){{仮リンク|ウースター美術館|en|Worcester Art Museum}}蔵
* 《危険、前方に建造物あり》''Danger, Construction Ahead'', 1940(油彩、111.8 x 157.5 cm){{仮リンク|イェール大学美術館|en|Yale University Art Gallery}}蔵
* 《沈黙の限界》''Margin of Silence'', 1942(油彩、45.7 x 38.1 cm)オールバニ歴史芸術博物館蔵
* 《約束の時間に》''At the Appointed Time'', 1942(油彩、81.3 x 97.2 cm){{仮リンク|ニューアーク美術館|en|The Newark Museum of Art}}蔵
* 《14本の短剣》''The Fourteen Daggers'', 1942(油彩、40.6 x 33 cm)
* 《雷鳴には早すぎる》''Too Soon for Thunder'', 1943(油彩、71.1 x 91.4 cm)[[ネルソン・アトキンス美術館]]蔵
* 《残りの旅程》''Journey To Go'', 1943(油彩、26 x 22.5 cm)
* 《5つの角の近くで》''Near the Five Corners'', 1943(油彩、40.6 x 33 cm)個人蔵
* 《巨人の踊り》''The Giants Dance'', 1944(油彩、31 x 41.3 cm){{仮リンク|フード美術館|en|Hood Museum of Art}}蔵
* 《隠された手紙》''The Hidden Letter'', 1944(油彩、55.9 x 38.1 cm)サンフランシスコ美術館([[:en:Fine Arts Museums of San Francisco|Fine Arts Museums of San Francisco]])蔵
* 《別の道から》''From Another Approach'', 1944(油彩、38.1 x 45.7 cm)[[ウォーカー・アート・センター]]蔵
* 《私は3つの都市を見た》''I Saw Three Cities'', 1944(油彩、92 x 71 cm)[[プリンストン大学美術館]]蔵
* 《鉄の輪、毛の輪》''Ring of Iron, Ring of Wool'', 1947(油彩、137 x 96.2 cm){{仮リンク|ミント博物館|en|Mint Museum}}蔵
* 《魔法のランタン》Magic Lantern, 1947(油彩、45.5 x 35.5 cm)フランス[[国立近代美術館 (フランス)|国立近代美術館]]([[ポンピドゥー・センター]])蔵
* 《橋梁の水切り、隊商》''Starlings, Caravans'', 1948(油彩、81.3 x 99.1 cm)サンフランシスコ美術館蔵
* 《一角獣が海に降りてきた》''The Unicorns Came Down to the Sea'', 1948(油彩、92 x 71.8 cm)[[フィラデルフィア美術館]]蔵
* 《小さな肖像》''Small Portrait'', 1950(油彩、36.8 x 29.1 cm)[[ヴァッサー大学]][[:en:Frances Lehman Loeb Art Center|Frances Lehman Loeb Art Center]]蔵
* 《いつもと違う木曜日》''Unusual Thursday'', 1951(油彩、80.7 x 98.4 cm)ニューブリテン・アメリカ美術館([[:en:New Britain Museum of American Art|New Britain Museum of American Art]])蔵

* 《これに対して》''On the Contrary'', 1952(油彩、90.2 cm x 70.5 cm)[[ウォーカー・アート・センター]]蔵
* 《第三段落》''Third Paragraph'', 1953(油彩、96.5 x 78.7 cm)
* 《ハイフン》''Hyphen'', 1954(油彩、76.2 x 50.9 cm)[[ニューヨーク近代美術館]]蔵
* 《通り抜け禁止》''No Passing'', 1954(油彩、130.2 x 96.5 cm)[[ホイットニー美術館]]蔵
* 《明日は決して》''Tomorrow is never'', 1955(油彩、96.2 x 136.8 cm)[[メトロポリタン美術館]]蔵
* 《通過》''Le Passage'', 1956(油彩、91 x 71 cm)
* 《明日、南から南西に吹く風》''South to South-Westerly Winds Tomorrow'', 1957(油彩、33 x 40.6 cm)
* 《時計を見ながら》''Watching the Clock'', 1958(油彩、35.6 x 35.6 cm)ニューヨーク近代美術館蔵
* 《絶えざる変化》''Constant Variation'', 1958(素描、水彩、48.42 x 68.26 cm)個人蔵
* 《答えはNo》''The Answer is No'', 1958(油彩、99.1 × 81.3 cm)イェール大学美術館蔵
* 《大きな不可能》''The Great Impossible'', 1961(水彩、木炭、[[ガラス]]の[[レンズ]]、張り合わせた紙、32.3 x 23.5 cm)ニューヨーク近代美術館蔵

=== 文学作品 ===

* 自伝的テクスト『陶器の卵』''China Eggs/Les Œufs de porcelain'' - 1955年執筆、1966年刊行
* 詩集『明日、シルベール氏』''Demain Monsieur Silber'', 1957年
* 詩集『驚くほど』''The More I wonder'', 1957年
* 詩集『言わなければ…』''Faut dire c'qui est'', 1959年
* 詩集『粘り強く』''Mordicus'', 1962年

== 脚注 ==
{{Reflist}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
46行目: 101行目:
*[[シュルレアリスム]]
*[[シュルレアリスム]]


== 外部リンク ==
{{シュルレアリスム}}
{{Artist-stub}}


* [https://www.moma.org/artists/16189?=undefined&page=&direction= Kay Sage] - MoMA([[ニューヨーク近代美術館]])
* [https://www.centrepompidou.fr/cpv/ressource.action?param.id=FR_R-be704c5e4182e59319b42ee64b9ee62c&param.idSource=FR_O-34e97bf0adbc169422e69487a1dbfb37 ''Magic Lantern''], Kay Sage - Centre Pompidou([[ポンピドゥー・センター]])
* [https://www.albanyinstitute.org/details/items/margin-of-silence.html ''Margin of Silence''], Kay Sage - Albany Institute of History & Art
* ''[https://artgallery.yale.edu/collections/objects/52853 Danger, Construction Ahead]'', Kay Sage - Yale University Art Gallery
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2020年3月19日 (木) 10:55時点における版

ケイ・セージ
Kay Sage
生誕 キャサリン・リン・セージ(Katherine Linn Sage)
(1898-06-25) 1898年6月25日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ニューヨーク州オールバニ郡ウォーターヴリート英語版
死没 1963年1月8日(1963-01-08)(64歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国コネチカット州リッチフィールド郡ウッドベリー英語版
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
著名な実績 画家詩人
運動・動向 シュルレアリスム
影響を受けた
芸術家
ジョルジョ・デ・キリコイヴ・タンギー

ケイ・セージ(Kay Sage、1898年6月25日 - 1963年1月8日)はアメリカ画家詩人。詩的・哲学的なテーマを扱い、幾何学的・建築オブジェや無人の空間を特徴とする作品を制作したシュルレアリスムの画家として知られる。夫は同じくシュルレアリスムの画家イヴ・タンギー

生涯

ケイ・セージは1998年6月25日、キャサリン・リン・セージ(Katherine Linn Sage)としてニューヨーク州オールバニ郡ウォーターヴリート英語版の裕福な家庭に生まれた。父は木材産業で財を成した上院議員であったが[1]、早くに両親が離婚し(1900年に別居、1907年か1908年頃に離婚)[2]アルコール依存症などの問題を抱える母との複雑な関係のなかで成長した[3]。また、転校を繰り返し、母と頻繁に旅行するなど、家庭生活、学業とも不安定であったが、この間にフランス語イタリア語スペイン語ポルトガル語を学ぶ機会を得、特にフランス語とイタリア語が流暢であった[1][2]

ワシントンD.C.のコーコラン美術学校(現コーコラン美術デザイン学校英語版に学んだが、第一次世界大戦が勃発すると、語学力を活かして翻訳の仕事を始めた[1]

戦後、イタリアに留学し、ローマ素描絵画を学んだ[4]。イタリアの貴族ラニエリ・ディ・サン・ファウスティーノ(Ranieri di San Faustino)と出会って1925年に結婚。ローマとラパッロ(リグーリア州ジェノヴァ県)を行き来しながら、夫に同伴して社交界に出入りするなど、貴族としての生活が始まった[2]。1935年に離婚するまでの10年間は、絵を描く時間はほとんどなく、画家としての「自らの可能性を閉ざしてしまう」ことになった[3]

転機となったのは画家オノラート・カルランディイタリア語版との出会いであった。セージはカルランディから古典絵画における遠近法を学び、油彩水彩木炭画などの技術に磨きをかけた[1]。さらにイギリスの若手彫刻家ハインツ・ヘンゲス英語版と、当時彼を支持していたアメリカの詩人エズラ・パウンドに出会い、二人の支持を得てミラノ画廊に初めて作品を展示することになった[5][6]。また、この頃からジョルジョ・デ・キリコやイヴ・タンギーの影響を強く受けた抽象画を制作し始めた[4]

1935年にラニエリと離婚し、1937年に渡仏。1938年のシュランデパンダン展フランス語版に油彩を出展し、シュルレアリスムの作家アンドレ・ブルトンと画家イヴ・タンギーに絶賛された[2]。これを機に、ブルトンが率いるシュルレアリスムの運動に参加し、同じ1938年にパリで開催された国際シュルレアリスム展に出展した[6]

タンギーと恋愛関係になったものの、第二次世界大戦が勃発すると、アメリカ人のセージは帰国を余儀なくされ、ニューヨーク市に居を定めた。ニューヨークでは、シュルレアリストらフランスの芸術家の亡命を助けるためにビザ申請や渡米後の一時滞在施設の確保に追われた[6]

アンリ・マティスの息子で画商ピエール・マティスは当時ニューヨークで画廊を経営しており、セージは1940年にこの画廊で初の個展を開いた。同年、米国に亡命したタンギーと再会して結婚。翌年、コネチカット州リッチフィールド郡ウッドベリー英語版に越した。彫刻家アレクサンダー・カルダーや画家アンドレ・マッソンが同じコネチカット州に住んでいた[6]

1941年からタンギーが亡くなる1955年までは、セージにとって最も実り多い時期であった。1943年にペギー・グッゲンハイム英語版の「今世紀のアート・ギャラリー」で開催された女性31人展(Exhibition by 31 Women)は、当時、米国に亡命していたブルトン、マルセル・デュシャンマックス・エルンストが特別に審査員に加わり、セージのほか、レオノーラ・キャリントンマリア・エレナ・ヴィエイラ・ダ・シルヴァレオノール・フィニエルザ・フォン・フライターク=ローリングホーフェンメレット・オッペンハイムフリーダ・カーロドロテア・タニングらが参加した大規模な展覧会であった[7]。また、通常は夫タンギーと共同で仕事をすることはなかったが、1952年にはハートフォードワズワース・アセニアム英語版美術館で二人展が行われた[2]

1955年に夫タンギーが脳出血で急死し、セージは深い精神的痛手を受けた[1]。さらに白内障を患った彼女は、次第に人付き合いを避け、鬱状態に陥った[2]。画風も変化し、1956年制作の『通過』には、茫漠とした無機質な空間でたった一人彼方を見つめる女性の背中が描かれている。1959年に自殺を図ったが未遂に終わり、詩作やアサンブラージュの制作をしながら、タンギーの作品を整理し、目録を作って過ごした。これは1963年にカタログ・レゾネ(総作品目録)として刊行されることになるが、セージは刊行の数日前に再び自殺を図り、64歳で死去した[1]

セージは芸術作品のほか、詩集4冊(3冊はフランス語、1冊は英語)と自伝的テクスト『陶器の卵』を遺した。没後、タンギー、ブルトン、カルダー、マッソン、ルネ・マグリットポール・デルヴォーの作品を含むセージの個人コレクション約100点がニューヨーク近代美術館に所蔵された[2]

作品

芸術作品

  • 《これに対して》On the Contrary, 1952(油彩、90.2 cm x 70.5 cm)ウォーカー・アート・センター
  • 《第三段落》Third Paragraph, 1953(油彩、96.5 x 78.7 cm)
  • 《ハイフン》Hyphen, 1954(油彩、76.2 x 50.9 cm)ニューヨーク近代美術館
  • 《通り抜け禁止》No Passing, 1954(油彩、130.2 x 96.5 cm)ホイットニー美術館
  • 《明日は決して》Tomorrow is never, 1955(油彩、96.2 x 136.8 cm)メトロポリタン美術館
  • 《通過》Le Passage, 1956(油彩、91 x 71 cm)
  • 《明日、南から南西に吹く風》South to South-Westerly Winds Tomorrow, 1957(油彩、33 x 40.6 cm)
  • 《時計を見ながら》Watching the Clock, 1958(油彩、35.6 x 35.6 cm)ニューヨーク近代美術館蔵
  • 《絶えざる変化》Constant Variation, 1958(素描、水彩、48.42 x 68.26 cm)個人蔵
  • 《答えはNo》The Answer is No, 1958(油彩、99.1 × 81.3 cm)イェール大学美術館蔵
  • 《大きな不可能》The Great Impossible, 1961(水彩、木炭、ガラスレンズ、張り合わせた紙、32.3 x 23.5 cm)ニューヨーク近代美術館蔵

文学作品

  • 自伝的テクスト『陶器の卵』China Eggs/Les Œufs de porcelain - 1955年執筆、1966年刊行
  • 詩集『明日、シルベール氏』Demain Monsieur Silber, 1957年
  • 詩集『驚くほど』The More I wonder, 1957年
  • 詩集『言わなければ…』Faut dire c'qui est, 1959年
  • 詩集『粘り強く』Mordicus, 1962年

脚注

  1. ^ a b c d e f Emmanuelle Lequeux (2019年8月16日). “La peintre Kay Sage, une surréaliste solitaire et singulière” (フランス語). Le Monde.fr. https://www.lemonde.fr/festival/article/2019/08/16/la-peintre-kay-sage-une-surrealiste-solitaire-et-singuliere_5500093_4415198.html 2020年3月19日閲覧。 
  2. ^ a b c d e f g Naomi Blumberg; Sonia Chakrabarty. “Kay Sage | American painter and poet” (英語). Encyclopedia Britannica. 2020年3月19日閲覧。
  3. ^ a b 長尾天「ケイ・セージの卵について ―母親との関係から―早稲田大学美術史学会 口頭発表趣旨、2016年。
  4. ^ a b Nina Lübbren (2011). Joan Marter. ed (英語). The Grove Encyclopedia of American Art. Oxford University Press 
  5. ^ Kay Sage” (英語). www.weinstein.com. Weinstein Gallery. 2020年3月19日閲覧。
  6. ^ a b c d Jacqueline Chénieux-Gendron. “Kay Sage” (フランス語). AWARE Women artists / Femmes artistes. 2020年3月19日閲覧。
  7. ^ Kat Buckley (2010年). “Peggy Guggenheim and the Exhibition by 31 Women” (英語). Academia. 2020年3月19日閲覧。

関連項目

外部リンク