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2019年10月29日 (火) 00:27時点における版

楊皇后
南宋の皇后
《宋寧宗后坐像》
在位 1202年12月29日 - 1224年9月17日

全名 楊桂枝
別称 恭聖仁烈皇后
出生 紹興32年(1162年
死去 紹定5年12月7日
1233年1月18日
配偶者 寧宗
子女 趙增
趙埛
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恭聖仁烈皇后(きょうせいじんれつこうごう、1162年 - 1233年1月18日)は、南宋寧宗の2番目の皇后。姓楊 桂枝(よう けいし)と称した。

生涯

初め後宮に入り、女伶[1]を務めた。会稽の人というが、この当時は身分や姓名の記録がなかった。美貌で多芸多才、書にたくみで、絵画もよくした。平陽郡王趙拡(のちの寧宗)に見初められ、寧宗が即位した翌年(慶元元年、1195年)、太皇太后呉氏から寧宗に妃嬪として与えられ、平楽郡夫人に封ぜられた。

寧宗にもっとも寵愛され、慶元3年(1197年)4月に婕妤に上った。この頃、楊次山およびその姉妹の楊蘭枝なる会稽人の姉妹を自称し、「楊桂枝」の名が記録された。さらに婉儀(嬪)、次いで貴妃に上った。韓皇后(恭淑皇后)が崩御すると、曹美人と皇后の座を争った末、嘉泰2年(1202年)12月に皇后に立てられた。

曹美人を皇后に強く推した韓侂冑(韓皇后の同族)は楊氏の恨みを買い、史弥遠開禧3年(1207年)に韓侂冑を殺害した際、楊氏はこれに協力している。

楊氏は2人の男子を産んだが、みな夭折した。他の男子もみな夭折しており、寧宗は従兄弟の沂王趙抦の嗣子であった趙竑を自身の養子とした。しかし趙竑は楊皇后らの専権を憎み、史弥遠の追放を画策した。嘉定17年(1224年)8月、寧宗が危篤状態になると、楊皇后は趙竑を廃し、燕王趙徳昭の9世孫の趙昀(のちの理宗)が太子に冊立された。

理宗が即位すると皇太后となり、垂簾聴政した。紹定5年12月7日(西暦1233年1月18日)、崩御した。

男子

  • 趙增 (1200年 - 1201年)
  • 趙埛 (1203年生没)

伝記資料

  • 宋史
  • 『宋会要輯稿』

脚注

  1. ^ 「伶」には楽人、俳優、召使の意味がある。