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2019年10月29日 (火) 00:26時点における版
郭皇后 | |
---|---|
北宋の皇后 | |
在位 | 997年 - 1007年 |
別称 | 章穆皇后 |
出生 |
976年 |
死去 |
1007年5月11日 |
配偶者 | 真宗 |
子女 | 趙祐 |
父親 | 郭守文 |
母親 | 梁氏 |
章穆皇后(しょうぼくこうごう、976年 - 1007年5月11日)は、北宋の第3代皇帝真宗の皇后。姓は郭氏。
経歴
太原の人。宣徽南院使の郭守文と妻の梁氏の娘として生まれた。淳化2年(991年)、韓王趙恒(のちの真宗)にとつぎ、後妻となって魯国夫人に封ぜられた。趙祐(のちの悼献太子)を産み、至道2年(996年)に秦国夫人に進んだ。真宗が即位すると、皇后となった。節倹を尊び、郭家の者たちに対して厳しく接した。
趙祐は9歳で死去した。郭皇后は悲嘆にくれて体を壊し、景徳4年4月16日(1007年5月11日、半影月偏食だった)に亡くなった。真宗は深く哀悼した。「荘穆」と諡され、慶暦4年(1044年)11月、夫の諡を重ねて「章穆」と改諡された。
子女
- 趙祐(悼献太子)
伝記資料
- 『宋会要輯稿』
- 『宋史』