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2019年10月29日 (火) 00:24時点における版
王皇后 | |
---|---|
北宋の皇后 | |
在位 | 1100年 - 1108年 |
別称 | 静和皇后、顕恭皇后 |
出生 |
1084年 開封 |
死去 |
1108年11月8日(大観2年9月26日) |
埋葬 | 永裕陵 |
配偶者 | 徽宗 |
子女 |
欽宗 趙金奴(栄徳帝姫) |
父親 | 王藻 |
顕恭皇后(けんきょうこうごう、1084年 - 1108年11月8日)は、北宋徽宗の皇后で欽宗の母。姓は王氏。諡は初め静和であった。
生涯
開封で徳州刺史王藻の娘として生まれた。元符2年(1099年)6月、端王趙佶(のちの徽宗)に嫁ぎ、順国夫人に封ぜられた。端王が皇帝に即位後、皇后に立てられた。趙桓(欽宗)と趙金奴(栄徳帝姫)を産んだ。
徽宗は王皇后をあまり寵愛せず、鄭貴妃(後に皇后となった)と大王貴妃を寵愛し、皇后は彼女らと等しく扱われた。大観2年9月26日(1108年11月8日、立冬)、崩じた。徽宗の父神宗の永裕陵に従葬された。
伝記資料
- 『宋史』
- 『宋会要輯稿』