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[[File:Lucas de Burgo, Dedication page, "Somma di aritmetica" Wellcome L0006607.jpg|thumb|200px|[[ルカ・パチョーリ]]の著書『スムマ』(1494)。複式簿記を体系化した最初の本とされる。]]
{{複数の問題
{{会計}}
| 単一の出典 = 2012年10月1日 (月) 04:20 (UTC)
'''会計史'''(かいけいし)では、[[会計]]の[[歴史]]および会計と密接に関係がある[[帳簿]]や[[簿記]]の歴史について扱う。会計は[[利益]]を[[利害関係者]]に説明する行為({{Lang-en|accounting}})を指し、簿記は帳簿に[[取引]]を記録する行為({{Lang-en|bookkeeping}})を指す{{Sfn|渡邉|2014|p=185}}。歴史的には、会計は[[財]]の記録とそれにもとづく管理、簿記は会計に固有の記録・計算用ツールともいえる{{Sfn|中野, 清水編|2019|pp=3-4}}。現在の会計という語は[[企業会計]]を指す場合が多いが、[[国家]]についての記録も多数が残されている{{Sfn|濱田|2003|loc=第1章-第2章}}。本記事では[[古代]]を含めて国家・[[商業]]組織の会計や[[家計簿]]を対象とする。
| 参照方法 = 2012年10月1日 (月) 04:20 (UTC)
}}
'''会計史'''(かいけいし)では、[[会計]]の[[歴史]]について取り扱うものとする。


== 概要 ==
==学問としての会計史==
=== 各時代の概要 ===
学問としての会計史は、そもそも[[史学]]として認識されているのかさえも微妙なところである。そもそも会計学自体が歴史の浅い学問のせいか、歴史研究としては学者に興味を持たれたのも最近のことであるため、未だに発展途上にあり今後の研究に期待がかかる。
[[File:Massysm Quentin — The Moneylender and his Wife — 1514.jpg|thumb|250px|[[クエンティン・マサイス]]『[[両替商とその妻]]』(1514年)。金銭を扱う職業の注意深さ、妻の信心深さを表している{{Sfn|ソール|2018|pp=No.1472-1477/5618}}。]]
; 古代
会計や帳簿の[[起源]]は、[[数学史|ものを数える行為]]や、物資を管理する行為に関係し、文字の使用よりも早く行われていた{{Sfn|木原|2006|p=62}}{{Sfn|ジョーゼフ|1996|pp=48-54}}。物資を集めて分け与える管理は[[再配分]]とも呼ばれ、古代の会計や帳簿は再配分と密接な関係にあった。[[穀物]]をはじめとする食糧や現物は、国家の[[財政|歳入歳出]]や交換に使われ、物資の数量把握が必要とされた。[[エジプト]]、[[メソポタミア]]、[[イスラエル]]、[[中国]]、[[ギリシャ]]、[[ローマ帝国|ローマ]]などの地域では、現在の単式簿記にあたる会計が行われていた{{Sfn|ポランニー|2005|pp=95-98}}{{Sfn|ソール|2018|p=No.276/5618}}。


; 中世
== 古代オリエント ==
[[イスラム王朝|イスラーム王朝]]は商業の[[インフラストラクチャー|インフラ]]を整えて、[[財務官|財務官僚]]の技術として書記術とともに簿記術を広め、[[インド数字]]を取り入れた{{Sfn|渡部|2011|pp=9-10, 31}}{{Sfn|熊倉|2011|pp=37-38}}{{Sfn|ジョーゼフ|1996|pp=419-422}}。[[イタリア半島|イタリア]]の[[都市国家]]は地中海貿易を盛んに行い、[[13世紀]]から[[15世紀]]にかけて[[複式簿記]]の原型が整えられていく{{Sfn|橋本|2015|pp=9-10}}。[[貿易]]と[[金融]]の複雑化や、[[商人]]の[[識字率]]の上昇も帳簿の発展を後押しした。[[インド・アラビア数字]]は[[イスラム世界|イスラーム世界]]から[[ヨーロッパ]]へ伝わり、[[計算]]や記録が容易になっていった{{Sfn|ジョーゼフ|1996|p=422}}。
世界で最古の文明を生み出したオリエント地域で会計の萌芽が見られた。[[古代エジプト|エジプト]]・[[バビロニア]]・[[アッシリア]]など複雑な統治機構を有した国家と広範囲にわたる商業網が形成されていた。だが、貨幣に相当するものは存在せず、それ以前の段階の代用貨幣である[[穀物]]や[[貨幣]]などの[[軽貨]]類が交換手段としてあるいは国家の歳入歳出の手段として用いられていた。そのため、そうした物資の正確な数量把握が必要とされていた。


; 近世・近代
エジプトでは[[紀元前4000年]]頃より国家機構が形成されて金銀銅以下家畜や穀物、油類までが租税として徴収され、地方の租税は腐敗の怖れの高いものは地元での行政に支出され、それ以外の物が中央のファラオの倉庫に送られて物資ごとに収められた。これらの倉庫を管理するために会計記録官(スレイラブ)をはじめとする記録官、人夫が配置されて租税として収納された物資の管理及び支出を担当した。会計記録官は読書・計算・行政法の知識に通暁し、パピルスに葦草の筆で記録した。[[紀元前2世紀]]頃の会計に関する記録が[[鰐]]の[[ミイラ]]の中に収蔵されて出土されている。
複式簿記がヨーロッパ各地に伝わり、会計や[[商法]]の近代化が進んだ。主な点としては、(1)年次決算の確立、(2)[[精算表]]の出現、(3)[[時価]]による評価替え、(4)口別損益勘定の総括化、(5)[[貸借対照表]]の原型となる資本金勘定、などがある{{Sfn|渡邉|2017|p=73}}。


初期の複式簿記は少人数の組合員や[[組織 (社会科学)|組織]]によるものだったが、[[産業革命]]が進んで投資額や企業が大規模になると、多くの株主に成果を開示するために[[フローとストック]]を要約した表を開示するようになった。これが[[貸借対照表]]と[[損益計算書]]である{{Sfn|渡邉|2017|p=95}}。会計制度や法規制の増加にともない、専門家として[[公認会計士]]が登場し、[[公認会計士]]による監査制度も整えられた{{Sfn|中野, 清水編|2019|loc=第10章}}。
商業が盛んであったバビロニアでは[[紀元前3500年]]の会計記録が存在しており、エジプト同様の公的会計の仕組が成立していた。バビロニアの会計記録官は契約成立時の立会人としての役割を果たし、時には粘土板上に契約内容を刻んで債権者に手渡し、万が一の際の保証とした。また、バビロニアの商業は神殿・寺院を中心に運営され、寺院財産の財産目録には寄付だけでなく寺院が直接商業や金融業を手がけていたことが明らかになっている。多くの財貨が神殿に預けられ、神官はその管理・運営に大きな発言権を有した。


; 現代
== 古代ギリシア・ローマ ==
地域による会計基準の違いを解決するために、[[国際会計基準]]の導入が進んだ。会計事務所は監査に加えて[[コンサルティング]]を行うようになり、[[20世紀]]後半から[[監査法人]]の[[独立性]]に疑問が呈されるようになる。[[21世紀]]には不正会計により[[大企業]]が相次いで破綻し、会計の厳格化や[[投資家]]保護の法律が定められたが、[[世界金融危機 (2007年-2010年)|世界金融危機]]が発生した{{Sfn|石黒|2010|pp=30-31}}{{Sfn|ソール|2018|loc=第13章}}。
[[古代ギリシア|ギリシア]]・[[古代ローマ|ローマ]]時代になると既に貨幣が登場していた他、多くの出土資料によって会計技術が確立されていたことが明らかになっている。富は神の財産と考えられて神殿などの宗教施設に大部分が蓄積された。だが、実際の管理権は神殿の神官ではなく、国家が責任をもっていた。[[デロス島]]の神殿跡から[[紀元前180年]]頃の会計記録が発見されており、租税収入や賃貸料、貸付金金利、賃金や祭祀のための支出などの記録が記されている。


=== 数学・技術 ===
ローマの国庫の大半は[[サツヌルス神殿]]の地下にあった[[サツヌルス金庫]](aerarium saturni)にて一元的に管理されていた。管理の責任者は[[クァエストル|財務官]]であったが、財務官と言えども[[元老院]]の許しがなくその中身を動かすことは出来なかった。ローマ時代には備忘帳や会計日記帳に相当するアドヴルサリア(adversaria)が存在し、更に元帳に相当するコデックス(codex)も用いられた。また、貸方・借方の概念もこの時代に発生したとされている。
[[File:Codex_Vigilanus_Primeros_Numeros_Arabigos.jpg|300px|thumb|right|{{仮リンク|コーデクス・ヴィギラヌス|en|Codex Vigilanus}}。インド・アラビア数字がヨーロッパで書かれた初期の例。スペインの修道院で発見された{{Sfn|ジョーゼフ|1996|pp=419-420}}。]]
{{see also|数学史|}}
; 記数法
会計には計算が欠かせず、[[記数法]]との関係が重要となる。[[エジプト数学#記数法|エジプト数字]]、[[バビロニア数学#記数法|バビロニア数字]]、[[ローマ数字]]は計算に時間がかかる。この点で[[インド数字]]は十進法であり、計算が容易で会計に適した記数法であった。インド数字は西アジアに取り入れられて[[インド・アラビア数字]]となり、イスラーム世界を通じてヨーロッパ、のちには世界各地に普及していった{{Sfn|濱田|2003|pp=80-82}}。


; 道具
当時多額の資産を持つローマ貴族は自らが市場で株の購入や貸付などの投資行った場合は選挙権などが剥奪される等厳しい仕組みになっていた。それを逃れるために貴族は奴隷を雇い、奴隷たちに一部の資産を与えて投資をさせていた。出資者である貴族は奴隷に投資をした記録などを残すよう命じた。これぞ現代の会計の目的であるある企業(奴隷)が株主(貴族)に対し企業の財務状態を明らかにするのと全く同じであり、会計の原点である。もっとも当時は単に不正や持ち出しがないかチェックをするための簡単な現金出納帳ではあったが。
ものを数える行為は、文字とは別個に行われていた{{efn|ものを数えた最古の記録として、2万年前の[[イシャンゴの骨]]が知られている{{Sfn|ジョーゼフ|1996|pp=48-54}}。}}。紀元前30世紀のメソポタミアでは、粘土のトークンと容器を用いた会計が在庫管理に使われていた{{Sfn|木原|2006|p=62}}。アメリカのインカ帝国では、キープと呼ばれる縄で財政が行われていた{{Sfn|アートン|2012|pp=192-193}}。また、近代の[[無文字社会]]でも官僚組織と財務管理を整備した国家が存在した{{Sfn|ポランニー|2004|loc=第2部1章}}。


会計を記録する道具としては、[[粘土板]]、[[パピルス]]、[[竹簡]]や[[木簡]]、[[樹皮]]や[[木の葉]]、[[結縄]]、[[絹布]]、[[羊皮紙]]などが使われた{{Sfn|三代川|2014|pp=443-445}}。日本では、[[和紙]]の長帳や袋帳に取引を筆書きし、[[そろばん]]を使って集計した。これを[[帳合]]と呼び、分類的には多帳簿制収支(検算)簿記とも呼ぶ{{Sfn|三代川|2014|pp=443-445}}。
==封建社会==
9世紀頃の修道院では所領を管理するための'''所領明細帳'''(polyptique)が作成され、初期の[[記帳法]]が形成されていた。


; 情報
[[11世紀]]イギリスでは[[封建国家]]が形成されていた。国王が領主に土地、労働者の管理権限を与え、領主に財産を委託した。ここでも企業(領主)、株主(国王)の関係がある。領主の代理人である荘園執事は、自分の活動を記録する'''責任負担、責任解除計算書'''たるものが作成されていた。
会計技法の普及には、出版物が大きな効果をもった。ヨーロッパでは、パチョーリの『スムマ』をはじめとする簿記書が15世紀から出版されて複式簿記の普及につながった{{Sfn|渡邉|2014|pp=98-100}}。イスラームでは書記術の一環として、財務官僚に簿記を伝授する本が書かれた{{Sfn|渡部|2011|p=28}}。中国では官僚向けの会計術は書かれたが、民間の商人向けの本は近代までなかった{{Sfn|津谷|1998|p=90}}。日本では、帳簿の記帳や計算方法は商家ごとに秘密とされており、部外者に共有はされなかった{{efn|日本では商業書や算術書は古くから存在し、江戸時代には商業書『[[商売往来]]』があり、算術書『[[塵劫記]]』には商業計算が書かれているが、会計についての教育書は明治以降となる{{Sfn|工藤|2019|pp=15-16}}。}}{{Sfn|中野, 清水編|2019|p=133}}。


=== 分類 ===
荘園の経営は複雑で、領主から任命された執事が荘園の管理責任者であり、村役人は荘園内の全般的な監督に当たった。するとここに会計が必要となる。領主は荘園の経営状態や執事などの働きぶりをチェックするため、執事や村役人は自分の仕事が果たせられているかを証明するためである。そこで領主が執事に荘園の収入を適切に計算するための責任負担、責任解除計算書を記入するよう命じた。
[[File:Max Volkhart Beim Notar.jpg|250px|thumb|{{仮リンク|マックス・フォルクハート|en|Max Volkhart}}『仕事場の公証人』]]
; 財務会計・管理会計
[[財務会計]]は外部の利害関係者に公開する会計で、[[管理会計]]は企業内部の管理のために作成する。この二つは19世紀までは厳密には分かれていなかった。[[イギリス]]や[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の鉄道業には規制が多数設けられ、資金調達や利害調整、コスト管理、[[政府]]や[[国民]]への情報提供などの要因が重なって、財務的側面と管理的側面に分かれることとなった。さらに[[トラスト]]の発生による独占が問題となり、規制のない一般企業でも財務[[会計]]が求められるようになった{{Sfn|中川|2019|p=106}}{{Sfn|中野, 清水編|2019|pp=126-128}}。中世イタリアでは、商人は監査用の帳簿と、日記を兼ねた秘密帳簿をつけ、秘密帳簿の決算は公式の帳簿と一致しない場合が多かった{{Sfn|ソール|2018|pp=No.597, 941/5618}}。


; 原価主義・時価主義
この計算書は、'''現金計算書'''と'''穀物表'''、'''家畜表'''からなっていた。現金計算書は名の通り地代、販売収入を細かく記入されていた。穀物、家畜表は生産物を記録していた。
原価主義は取引をした時点の[[原価]]を基準とし、[[取得原価主義]]とも呼ばれる。これに対して時価主義では現在価値の[[時価]]を基準とする。原価は過去の価値、時価は現在の価値とも表現できる。会計は長らく原価主義で行われていたが、不動産や金融商品においては原価と時価の差が大きい。このため次第に時価主義(物価変動会計)の導入が進み、特に20世紀後半から金融商品を中心として{{仮リンク|公正価値|en|Fair value}}の導入が進んだ{{Sfn|鈴木|2002|pp=1-2}}。
現金計算書には「責任負担」項目と「責任解除」の二項目からなる。「責任負担」項目はいわゆる収入、「責任解除」項目がいわゆる支出である。また、このころからすでに未払いの地代など未払金、未収金も記録されていた。まさしく[[損益計算書]]の原点であるともいえる。最も計算書を作る目的は領主に納入するための総額を示すためのものであり株主に一定期間の経営状態を明らかにするための現在の損益計算書とは意味合いが全く違うが。


=== 会計と社会 ===
さらに計算書には領主から委託された監査人が計算書をチェックしていた。これも現在の[[会計監査]]と全く同じと言ってもいい。
[[File:Schreibende Kaufmannsfrau rem 2.jpg|thumb|200px|商人の筆記。マンハイムの{{仮リンク|ライス・エンゲルホルン博物館|en|Reiss-Engelhorn-Museen}}所蔵。]]
; 人員・組織
[[古代エジプト]]においては、帳簿を記録する[[書記]]は重要な役職だった{{Sfn|松本|2000|pp=178-181}}。古代の[[古代ギリシア|ギリシャ]]や[[古代ローマ|ローマ]]は地中海商業で繁栄したが、商業行為は低く見られており、帳簿をつけるのは[[奴隷]]の役目だった{{Sfn|ソール|2018|pp=No.288-296/5618}}。委託・受託関係の会計として代理人会計があり、古代ギリシャやローマでは主人が奴隷に委託し、[[中央ヨーロッパ|中世ヨーロッパ]]では領主が荘園の管理者に委託した。これらは株主に経営状態を明らかにする現在の損益計算書とは意味合いが異なる{{Sfn|福島|1992|p=103}}{{Sfn|森田|2019|pp=4-5, 20}}。


[[古代バビロニア]]や[[中世イタリア王国|中世イタリア]]では、契約を記録するために立会人や[[公証人]]が働いた。イタリアでは契約の増加によって[[公証人]]が不足すると、商人がみずから記録を残すようになり、帳簿の普及にもつながった{{Sfn|清水|1993|pp=192-197}}。現在では、専門資格を持つ[[公認会計士]]の制度が確立されている{{Sfn|中野, 清水編|2019|loc=第10章}}。国家の経済体制や社会の価値観によって、会計を扱う職業の立場は変化してきた。たとえば[[16世紀]]ヨーロッパでは収税人や帳簿の不正を[[風刺画|風刺する絵画]]が描かれた{{Sfn|ソール|2018|pp=No.1487-1500/5618}}。[[ソヴィエト・ロシア|社会主義政権時代のロシア]]では[[会計士]]には人気がなかったが、[[市場経済]]化が進むにつれて人気の職業となった{{Sfn|齊藤|2003|pp=1-2}}。
== 中世ヨーロッパ ==
ローマ帝国滅亡後の中世は長年、[[暗黒時代]]と考えられてきたが、近年では過剰な評価とされ、商業活動は衰退したのは事実であるが、全く途絶してしまったわけではなかった。この時期には会計の大きな発展は見られなかったが、[[ノルマン朝]][[イングランド]]においては[[大蔵省 (イギリス)|大蔵省]]が『収支簿』([[パイプ・ロール]]([[:en:Pipe Rolls|en]]))と『土地調査簿』([[ドゥームズデイ・ブック]])を作成して財政記録を整備するなど、統一的・科学的な会計記録方式の萌芽が見られている。


会計や簿記の複雑化には、商業組織の事業内容、形態、管理が関係した。複式簿記が掲載されたといわれるイタリアの都市国家では、[[貿易]]の共同企業から遠隔地に支店をもつ大規模な商会への発展が帳簿の発展をうながした{{Sfn|橋本|2015|pp=9-10}}。[[減価償却]]・[[損益計算書]]・[[連結決算]]の成立には19世紀の[[鉄道業]]が影響した{{Sfn|高梠|2000|pp=9-12}}{{Sfn|小栗|2018a|pp=1-3}}。
[[13世紀]]末期から[[14世紀]]初頭の[[イタリア]]にて、これまでの[[単式簿記]]に替わる[[複式簿記]]の基礎が形成されたと言われている。それを体系化・理論化したのは[[ルカ・パチョーリ]]の著書[[スムマ]](算術、幾何、比および比例に関する全集)であるとされている。複式簿記自体はそれ以前からあったが、これを知識として形にしたパチョーリの功績は大きく、「会計の父」の名に相応しいと言える。これと相前後してヨーロッパにおいて[[アラビア数字]]が普及して従来の[[ローマ数字]]に取って代わり、記帳の簡便性が増したことで、会計技術の更なる進歩を促した。


; 信仰
==パチョーリ以後==
古代エジプトでは[[知識]]の神[[トート]]が書記の守護者とされた{{Sfn|パーキンソン, クワーク|1999|p=76}}。[[キリスト教]]や[[イスラム教|イスラーム]]においては[[利子]]({{Lang-la|usura}}、{{Lang-ar|ربا}})が禁止され、中世キリスト教徒の商人の帳簿は神への告解という側面をもった{{Sfn|清水|2010|pp=91-92}}{{Sfn|ソール|2018|pp=No.655-692/5618}}。ヨーロッパでは、帳簿が真実であることを神に誓う証として、元帳に十字架を書く習慣があった{{Sfn|渡邉|2014|pp=33-34}}。ギリシア神話やローマ神話の公正・正義を象徴する女神テミスは、会計事務所や会計に関する施設にも置かれることがある{{Sfn|渡邉|2017|p=191}}。
スムマ以降の簿記に関する本は学問としての簿記の本ではなく、いわゆる実務書、解説書であった。スムマ以降簿記の理論が新たに作られたり、学者などが研究するようなことはなかった。逆に言えばそれだけ簿記の基礎を作り上げたスムマの貢献度は非常に大きかったといえる。


; 政治
== 16~17世紀オランダ ==
会計は組織の活動を理解する手段として有用であり、政府や自治体の[[公会計]]も、営利組織の会計(私会計)と同様に古来から記録されてきた。公会計の資源は徴税であるために、特に支出の統制が重要となった{{Sfn|中野, 清水編|2019|p=249}}。中世イギリスの会計書は、(1) 公的、(2) 私的、(3) 教会、(4) 慈善組織の4種類があった{{Sfn|花田|2010|pp=91-93}}。


複式簿記の手法を国の財政管理に導入することを提案したのは、17世紀の数学者シモン・ステヴィンの論考「王侯簿記」にはじまる{{Sfn|中野, 清水編|2019|pp=82-84}}。政府をバランスシートによって評価するという視点は、[[ブルボン朝]]の財務長官を務めたジャック・ネッケルの『{{仮リンク|国王への会計報告|en|Compte rendu}}』がきっかけだった。国家の収入と支出を調べて問題点を明らかにした『会計報告』は[[フランス革命]]の一因にもなり、各国の公会計に影響を与えた{{Sfn|ソール|2018|pp=No.3370-3376/5618}}。私会計と公会計は影響を与え合う関係にあり、19世紀末から20世紀初頭のアメリカでは私会計をもとに公会計が改革され、さらにその成果が私会計に応用された{{Sfn|中野, 清水編|2019|loc=第11章}}。
当時のオランダは商業の発達したいわゆる黄金時代にあり、[[オランダ東インド会社]]など大規模な組織の設立もあり簿記の研究がどんどん発達していた。
オランダの二大簿記書に、[[ジャン・イムピン]]の「新しい手引き」([[1543年]]発行)、と[[シモン・ステヴィン]]の「数学の伝統」([[1605年]]発行)がある。イムピンの書には決算日に在庫を繰り越す'''期間損益計算'''の概念が取り入れられている。さらにステヴィンの書には年度ごとの損益を比較するための'''年次期間損益計算'''の概念が取り入れられていた。


== 古代 ==
==18世紀~19世紀イギリス==
=== アジア・アフリカ ===
[[File:Ancient Egyptian Scribe's palette HARGM7677.jpg|thumb|upright|left|古代エジプトの書記が使ったパレットと4本の[[尖筆]](スタイラス)。パレットには顔料のくぼみがある。]]
; アフリカ
エジプトでは[[紀元前40世紀]]頃より国家機構が形成されて、家畜や穀物、鉱物などが各地で租税として徴収された。腐敗の怖れの高いものは地元の行政に支出され、それ以外の物資が中央のファラオの倉庫に送られた{{Sfn|屋形|1998|pp=36-37}}。倉庫の管理には会計記録官をはじめとする記録官や人夫が配置され、会計記録官は[[パピルス]]に葦草の筆で記録した。政府の経理文書は上質のパピルス、計算書は低質のパピルスまたは上質のパピルスの断片を使った{{efn|当時の国庫会計を伝える遺物として、紀元前650年頃の「エジプト国庫記録官・王室記録長官・納税記録官・国立穀物倉庫総裁兼エジプト陸軍将官」のハップ・メンの石棺がある{{Sfn|安藤|2002|p=348}}。}}{{Sfn|パーキンソン, クワーク|1999|p=28}}{{Sfn|安藤|2002|p=348}}。神殿や王宮、地方の役所には書記の学校があり、教育を受ける余裕のある家庭ならば、庶民でも訓練を受けて書記に任命される機会があった{{efn|古代エジプトの[[エジプト中王国#教訓・政治文学|教訓文学]]である『ケミイトの書』や『{{仮リンク|ドゥアケティの教訓|en|The Satire of the Trades}}』には、書記の素晴らしさを讃え、書記になるように勧める作品がある{{Sfn|松本|2000|pp=179-180}}。}}{{Sfn|松本|2000|pp=178-181}}。古代エジプト神話においては、知識の神トートが書記の守護者であり、文書を保管する役所ではトートの像が祀られた{{Sfn|パーキンソン, クワーク|1999|p=76}}。現物経済のため、生産物の貯蔵、食糧や土地の配分のための計算が多用された。このため現存する[[エジプト数学]]の記録には、単位分数が多い{{Sfn|ジョーゼフ|1996|pp=101, 109}}。[[アレクサンドロス3世]]による征服ののちは、[[プトレマイオス朝]]をへてヘレニズムやローマの影響を受けた財政となっていった{{Sfn|明石|2017|pp=37-38}}。


[[File:Accountancy clay envelope Louvre Sb1932.jpg|thumb|right|200px|粘土製の容器であるブッラ。紀元前4000年-3100年。]]
; 西アジア
メソポタミアには、粘土製のトークン(証票)と、[[ブッラ]]と呼ばれる粘土製の容器があった。これらは[[紀元前35世紀]]の[[ウルク文化]]中期において、計算や物資の管理に使われたとされる{{efn|トークンは[[新石器時代]]から計算具として使われていたという説や、トークンが文字の原型になったという説もある{{Sfn|木原|2006|p=62}}。}}。[[シュメール|シュメル]]では、文字を読めない者のためにトークンとブッラが[[粘土板]]と併用された{{Sfn|小泉|2016|p=165}}{{Sfn|木原|2006|pp=61-62, 78-79}}。[[紀元前22世紀]]から[[紀元前21世紀]]の[[ウル第三王朝]]の時代には、[[シュルギ]]王が官僚機構の大規模化、度量衡・会計・文書記録の整備を進めた{{Sfn|明石|2015|p=171}}。[[紀元前18世紀]]のバビロニアの[[ハンムラビ法典]]には、商取引・委託受託・賃貸借・貸借の契約についても書かれている{{Sfn|ソール|2018|p=No.276/5618}}。

アラビア半島から広まった[[イスラーム]]では、『[[クルアーン]]』の第2章282節と283節において、貸借関係を明らかにする必要が書かれている{{Sfn|土谷|2009|p=35}}。初期のイスラーム指導者である[[ウマル1世]]は、軍に給料を支払うために受給者名簿を作成し、名簿をもとに現金と現物で支給した。この財政は、軍による征服地の分配と現地人の奴隷化を禁止する意図があった。受給者名簿は[[ディーワーン]]と呼ばれ、最初のイスラーム王朝である[[ウマイヤ朝]]において官庁を指す言葉になる。ウマイヤ朝のディーワーン制度は、[[アッバース朝]]をはじめとするのちのイスラーム王朝に引き継がれた{{Sfn|森本|1976|p=85}}。また、インド数字が古代から西アジアに入り、アラビア語文献でも使用が始まった{{efn|西アジアにおけるインド数字の最古の記録は、[[ネストリウス派]]司祭のセベルス・セベクトの662年の文書であり、インド記数法を使った最古のアラビア語文献が数学者・天文学者の[[アル=フワーリズミー]]の『インド数字による計算法』(825年)である{{Sfn|ジョーゼフ|1996|pp=417-418}}。}}。773年には、インドからの使節が[[マンスール|アル=マンスール]]が治めるバグダードを訪れて記数法を宮廷に伝えた{{Sfn|ジョーゼフ|1996|pp=417-420}}。

; 南アジア
[[File:Bakhshali numerals 1.png|thumb|300px|3世紀から4世紀のバクシャーリー写本に書かれたシャーラダー数字。右端の黒い点が、最古のゼロ表記とされる]]
紀元前4世紀の[[マガダ国]]ではパリサトという行政機関が設置され、ガナカやサンキヤーナカと呼ばれる役職が王家・官庁・法廷で計算をしていた記録があり、現在の会計士にあたる。仏典では大臣に属するガナカの記述があり、[[マウリヤ朝]]の政治家[[カウティリヤ]]が書いた『[[実利論]]』にはサンキヤーナカの仕事が書かれている{{efn|インドの二大叙事詩の一つである『[[マハーバーラタ]]』では、帝王学教育としてガナカについて語られる場面がある{{Sfn|林|1993|p=93}}。}}{{Sfn|林|1993|pp=91-93}}。マウリヤ朝の官僚制度は[[クシャーナ朝]]にも引き継がれ、中央の主税官、税務官、地方の会計官などがいた。クシャーナ朝時代に作られたとされる『[[マヌ法典]]』には、第8条と第39条に会計についての規定がある。不動産、奴隷、債務弁済、[[カースト]]ごとの利息、商税や年貢について定められていた{{Sfn|濱田|2003|pp=77-80}}。

古代インドにおいて、現在の会計で使われている数字の原型が作られた。紀元前3世紀頃には、[[シャーラダー数字]]によってゼロと1から10までの数字で全ての数を表せるようになった{{Sfn|ジョーゼフ|1996|pp=323-325}}。インド文化は膨大な桁数の数を用いたが、[[ヴェーダ]]や[[ジャイナ教]]においては宗教や哲学が目的であり、商業計算の記録は3世紀から4世紀の[[バクシャーリー写本]]からとなる{{Sfn|ジョーゼフ|1996|pp=343-351}}。

; 東アジア
紀元前12世紀から紀元前8世紀にかけて栄えた[[周|西周]]では、住民から九賦・九貢・九職を徴収し、それぞれ特定の支出に振り分けた。九賦は現在の経常収入、九貢は非経常収入にあたる。財政の最高責任者は[[天官太宰]]で、その下に司会と呼ばれる会計の官僚がいた。記帳をする最初期の会計として、国家財政を扱った[[九府出納]]がある{{Sfn|津谷|1998|pp=39-43}}。紙が普及する前は、獣骨や亀甲、竹簡や木簡に記録しており、一般の商人が紙を使うようになったのは唐からといわれる{{Sfn|津谷|1998|pp=38, 90}}。

帳簿(簿書)は、[[流水帳]]と呼ばれる方式で記録された。発生順に書いてゆく備忘的な記録であり、帳簿の保存や決算はなかった。この形式が清まで一般的に続くことになる。流水帳は単一の記録として始まり、のちに日記帳にあたる草流、財の種類や収支を区別する細流、総勘定元帳にあたる総青の3つに細分化していった。[[秦]]が成立すると中央集権を整えたことで草流、細流、総青を使い分けた。[[前漢]]の財政は帝室と政府で収入・支出を分けており、帝室財政は[[少府]]、国家財政は[[大司農|治粟内史]]が担当した。この財政の分別と、課税種類の増加によって、草流と細流が発展した{{Sfn|津谷|1998|pp=48-49}}。

{| class="wikitable" border="1" style="text-align:center"
|+ 算木の記数法。正の数は赤、負の数は黒で表した。
!  
! style="width:10px" | 0
! style="width:10px" | 1
! style="width:10px" | 2
! style="width:10px" | 3
! style="width:10px" | 4
! style="width:10px" | 5
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|-
! style="height:10px" | 縦式
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| [[ファイル:Counting_rod_v1r.png]]
| [[ファイル:Counting_rod_v2r.png]]
| [[ファイル:Counting_rod_v3r.png]]
| [[ファイル:Counting_rod_v4r.png]]
| [[ファイル:Counting_rod_v5r.png]]
| [[ファイル:Counting_rod_v6r.png]]
| [[ファイル:Counting_rod_v7r.png]]
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| [[ファイル:Counting_rod_v9r.png]]
|-
! style="height:10px" | 横式
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| [[ファイル:Counting_rod_h1r.png]]
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| [[ファイル:Counting_rod_h3r.png]]
| [[ファイル:Counting_rod_h4r.png]]
| [[ファイル:Counting_rod_h5r.png]]
| [[ファイル:Counting_rod_h6r.png]]
| [[ファイル:Counting_rod_h7r.png]]
| [[ファイル:Counting_rod_h8r.png]]
| [[ファイル:Counting_rod_h9r.png]]
|}

記数法では、紀元前15世紀から紀元前12世紀の甲骨文字で10進法が使われていた。秦から漢にかけて行政の必要から記数法が発達し、[[算木]]を用いた位取り計算が行われた{{efn|ゼロの概念はなかったが、9個の数字によって位取りをした{{Sfn|ジョーゼフ|1996|pp=198-200}}。}}{{Sfn|ジョーゼフ|1996|pp=198-200}}。紀元前2世紀から紀元後1世紀の数学書とされる『[[九章算術]]』には、穀物の比率、財産や金銭の分配、税金などの計算法がある{{Sfn|ジョーゼフ|1996|pp=218, 231}}。財政術を伝える書物が書かれるようになり、[[唐]]の官僚である[[李吉甫]]は国家会計に関する書として『[[元和国計簿]]』(807年)を発表した。同時期に『[[大和国計]]』という書も発表されている{{Sfn|津谷|1998|p=90}}。

; 日本
7世紀以降の[[律令制#日本の律令制|律令制]]時代には、[[租庸調]]という税が定められ、財政責任者の[[太政官]]は[[四度公文]]と呼ばれる文書で各地から報告をさせた。四度公文とは大帳 (計帳)、正税帳、調庸帳、朝集帳を指す。租については[[正税帳]]という決算報告書、調庸については[[調庸帳]]という納税報告書にあたる文書が作られた{{Sfn|田中|2018b|pp=27-28}}。これらの文書は[[正倉院文書]]として管理された{{Sfn|丸山|2010|pp=91, 116, 128, 177}}。

貴族や仏教寺院が管理する[[荘園 (日本)|荘園]]でも決算報告が制度化されていた。初期の荘園の会計記録として、755年から757年の桑原庄券と呼ばれる文書がある。これは収支報告書にあたるもので、[[東大寺]]が[[坂井郡]]の[[桑原庄]]を経営した記録である。荘園の総面積、荘園からの収入・支出・残高、荘園の動産や不動産が書かれている{{efn|内容的には、三柱決算法に属する。資本的支出と収益的支出が未分離であり、建物の購入代金・修理費・開田の費用・農機具などがまとめて「雜用」となっている{{Sfn|田中|2016|p=31}}。}}{{Sfn|田中|2016|pp=24-29}}。[[飛鳥時代]]までの財政に関する記録には、[[木簡]]が使われていた{{Sfn|市|2012|loc=第8章}}。[[奈良時代]]には和紙の生産が増え、戸籍、財政報告、証文の記録に使われていた{{Sfn|三代川|2014|p=446}}。

=== アメリカ ===
; メソアメリカ
[[マヤ文明]]では多数の都市国家が栄え、最盛期は8世紀頃といわれている。それぞれの国家は神官・軍指揮官を兼ねる王に治められ、行政は王族や貴族が執り行った。書記となったのは[[マヤ文字]]を秘儀として教わった一部の貴族で、多くの国民には文字は伝えられなかった。貴族は複数の役割を持ち、書記は石碑の彫刻家・天文学者・役人でもあった。行政機能は宮廷の外にも分化し、地位の高い貴族の住居でも行われた{{Sfn|青山|2015|pp=115-116}}。

=== ヨーロッパ ===
[[File:Linear B (Mycenaean Greek) NAMA Tablette 7671.jpg|thumb|200px|ミケーネ文明の線文字Bの粘土板]]
; ギリシャ
[[ポリス]]が成立する前、[[紀元前16世紀]]から[[紀元前12世紀]]にかけての[[ミケーネ文明]]では、経済活動を記録するために[[線文字B]]が使われた。粘土板にはさまざまな物資の種類や数量が書かれており、衣食住や奴隷、武器、神々への奉納などが宮殿で管理されていた{{Sfn|周藤|2007|pp=14-15,17}}。ポリス成立後の[[アテナイ]]では、国庫を[[デロス島]]の神殿に保管し、官僚が会計報告を作成し、身分の低い市民や奴隷が帳簿係に雇われた。神官にも会計報告の義務があり、贈答品も含めて報告した。アテナイの市民は、国家の債務を返済しなければ国外への移動、神殿への献納、遺言状の作成ができなかった{{Sfn|ソール|2018|pp=No.288-296/5618}}。

; ローマ
[[File:Table with was and stylus Roman times.jpg|thumb|200px|古代ローマの[[蝋板]]と尖筆]]
[[共和政ローマ|共和政]]時代と初期の[[ローマ帝国|帝政]]では、[[クァエストル]]と呼ばれる財務官が存在した。ローマの国有財産は[[サートゥルヌス神殿]]に保管され、{{仮リンク|アエラリウム|en|Aerarium}}すなわち国庫とも呼ばれた。国庫の書記官が出納を記録し、国家の債務、軍、州の収支は別の台帳に記録された。政府の会計は[[タブラリウム]]と呼ばれる公文書館で行われた{{Sfn|ソール|2018|p=No.316/5618}}。

初代ローマ皇帝の[[アウグストゥス]]は会計記録を整備し、現在では「皇帝の帳簿」と呼ばれている。個人用の帳簿には帝国の財政、軍の収支、建設工事の資金繰り、手元現金などが記録されていた。この帳簿は計画の他に、自らの業績を伝える「[[神君アウグストゥスの業績録]]」などの宣伝にも活用された{{Sfn|ソール|2018|p=No.337/5618}}。貴族は、自らが商業活動をすると選挙権などが剥奪される仕組みになっていた。それを逃れるために、支配地域の商人や知識人を奴隷として商業に従事させた。奴隷は貴族の資産を管理し、貴族は奴隷に記録を残すように命じた{{Sfn|福島|1992|pp=103-104}}。

ローマの徴税人だった[[マタイ]]は、イエスの召命に応えてキリスト教に改宗して[[十二使徒]]となった。マタイはのちに会計士、銀行家、税吏の守護聖人となった{{Sfn|ソール|2018|p=No.701-713/5618}}。

== 中世 ==
=== アジア・アフリカ ===
; イスラーム世界
アッバース朝は、文書行政や財政管理のためにアラビア語の書記術を確立し、財務書記や財務官に算術や帳簿術・会計術を伝える内容をそろえた。書記術はイスラームの伝播にともなって各地に伝わり、ペルシアではペルシア語による文書・財務の指南書として発達した。これがイラン式簿記術として確立され、[[オスマン帝国]]に普及していった{{Sfn|渡部|2011|pp=9-10, 31}}{{Sfn|熊倉|2011|pp=37-38}}。イスラームの文書・財務の指南書はペルシアを通じて中央アジアや南アジアにも伝わり、イラン式簿記術がイスラーム政権で用いられた{{Sfn|渡部, 阿部|2017|pp=384-385}}。

イスラームには[[ワクフ]]と呼ばれる寄進制度があり、寄進されたワクフ財は公共目的にあてられて[[カーディー]]らが監督した。所有権を放棄されたワクフ財は寄進ごとに一つの組織として扱われ、私有財産や国家、特定の宗教の財産とは別個だった。会計では収入がワクフ財源・前期繰越金、支出が手当・諸経費・修理費などになる{{Sfn|清水|2011|pp=78-80}}。ワクフの種類には住宅、公共施設、農地、商業不動産の他に、利子で運用する現金もあり、インフラの維持に役立ちつつ善行のための資金調達という役割を果たした。ワクフは12世紀から増加し、特に[[ペストの歴史#中世の黒死病|14世紀のペスト]]による人口減少の影響で急増した{{efn|ワクフの急増は、[[マムルーク朝]]の財源だった[[イクター制]]の崩壊を招いた{{Sfn|五十嵐|2007|pp=35-37}}。}}{{Sfn|五十嵐|2007|pp=37-40}}{{Sfn|林|1999|loc=第9章}}。

古代にインドから伝わった記数法は、10世紀には一般にも普及していた{{efn|哲学者の[[イブン=シーナー]]の自伝によれば、野菜売りの商人からインドの計算法を教わったとある{{Sfn|ジョーゼフ|1996|pp=419-422}}。}}。さらに、インド・アラビア数字としてイスラーム世界を通してヨーロッパに伝わるようになる。イベリア半島の[[アンダルスのウマイヤ朝]]や、アフリカの[[ムワッヒド朝]]が入り口となった{{Sfn|ジョーゼフ|1996|pp=419-422}}。

; 東アジア
中国では、単一の記録として始まった流水帳から[[三脚帳法]]が考案された。これは現金収支のある取引は現金の相手方勘定だけ一つ記録し、現金収支のない取引は内容を示す双方の勘定に二つ記録するので、一つと二つの要素を合わせて三脚と呼ぶ{{efn|三脚帳法が考案された正確な年代は不明であり、現金に代わって信用取引が増加した時代の産物とされる{{Sfn|津谷|1998|p=58}}。}}。三脚帳法の営業損益は半年または1年ごとに決算を行うことが多く、毎月決算をする者もいた{{Sfn|津谷|1998|pp=58-61}}。

[[宋 (王朝)|宋]]において流水帳が進展し、財物の類別総括計算と明細分類計算を行うようになった。授受の時に草流に記録し、これを官庁の各部門で区分・整理して総括分類帳(細流)に入・出・残余を記録し、上位部門は報告をもとに再整理して総青帳に記録した{{Sfn|津谷|1998|pp=49-50}}。モンゴル帝国が中国を統一して[[元 (王朝)|元]]となると、モンゴル時代から協力してきたムスリムやウイグル商人が宮廷に参入した。ムスリムが財務官僚として活動し、[[オルトク]]と呼ばれる特権商人は王族から資金を預かって貿易などに投資した。漢人やキリスト教徒もオルトクに加わった{{Sfn|四日市|2008|loc=第5章}}。

日本における最古の商業帳簿は、現在の質屋にあたる[[土倉]]の債権簿とされる。土倉の帳簿は、日記または日記帳という名称で記録されていた。平安期以降の荘園には年貢[[散用状]]と呼ばれる決算報告書があり、散用状を作成するために日記の覚書が使われた。戦国時代の末には日記が貸付簿としても使われており、[[伊勢神宮]]の[[御師]]である宮後三頭大夫の『国々御道者日記』によれば、日記は[[初穂料]]の受取・貸付・為替の受払などを記録する金銭出納簿でもあった{{efn|初穂料は、会計的には受取収益にあたる。また『国々御道者日記』には、早くも大福帳という表記が見られる{{Sfn|田中|2011a|pp=64-65}}。}}{{Sfn|田中|2011a|pp=60, 63, 74}}。御師は参詣者への宿泊の手配や貸付も行っており、この日記を日本最古の商業帳簿とする説もある。種々の取引を記録していた日記は、やがて近世に大福帳、仕入帳、売帳、買帳など目的別に作成されるようになった{{Sfn|田中|2011a|p=74}}。

=== アメリカ ===
[[File:Nueva corónica y buen gobierno (1936 facsimile) p360.png|thumb|200px|キープを使うインカの役人(キープカマヨック)。左下にあるのは計算具の{{仮リンク|ユパナ|en|yupana}}。]]
; 南アメリカ
[[インカ帝国]]の行政は入れ子状の階層構造になっており、王の側近には秘書、筆頭会計、出納係がいて財産管理にあたり、各地方にも会計係と出納係が置かれた{{Sfn|アートン|2012|pp=192-193}}。インカ帝国では[[キープ (インカ)|キープ]]と呼ばれる縄の道具を記録や行政管理に用いていた。キープは色や太さが異なる紐を結んで作られ、色や結び目によって数を表現した{{efn|キープの会計は階層構造をもち、上方向は合計、下方向は分割となる{{Sfn|アートン|2012|pp=194-195}}。}}。キープは10進法で位取りも行われており、帳簿に数字を記録することと同様の機能を持った。農産物・家畜・人口・納税記録などの情報はキープによって記録され、キープカマヨック(キープ保持者)と呼ばれる官僚が管理した。計算には{{仮リンク|ユパナ|en|yupana}}と呼ばれる道具が使われ、ユパナで集計した結果をキープに保存した{{Sfn|ジョーゼフ|1996|pp=56-66}}。

インカの支配に抵抗し、[[スペインによるアメリカ大陸の植民地化#南アメリカの征服|スペインのインカ征服]]に協力した人々もいた。ペルー中央高原の[[ワンカ族]]はスペイン国王に忠誠を誓い、[[フランシスコ・ピサロ]]をはじめとするスペイン軍に人的・物的支援を行なった。スペイン側はこれを無償奉仕と解釈したが、ワンカ族は支援内容をキープに記録しており、1560年代にはスペインに対して協力の代価を請求した{{efn|中でも{{仮リンク|ハウハ|en|Jauja}}の首長フェリペ・グァクラパウカルはスペイン本国に行き、年金や特権を認められた{{Sfn|網野|2018|pp=186-187}}。}}{{Sfn|網野|2018|pp=157, 186-187}}。

=== ヨーロッパ ===
[[ファイル:Domesday-book-1804x972.jpg |left|thumb|250px|ドゥームズデイ・ブック]]
; 封建国家
ローマ帝国の滅亡後、カトリック教会や修道会はローマ帝国から会計制度を引き継いだ。[[封建国家]]が形成されると、世代が続くにつれて所有関係が複雑化し、会計事務も増加した。ローマ皇帝のような会計記録の公開は、富裕な修道士会や一部の王族をのぞいて行われなかった{{Sfn|ソール|2018|p=No.365/5618}}。[[ノルマン・コンクエスト]]によって成立した[[ノルマン朝]]は、新しい制度を定め、世界初の土地登記簿と言われる[[ドゥームズデイ・ブック]](1086年)を作成した。[[大蔵省 (イギリス)|大蔵省]]は収支簿を作成して財政記録を整備し、羊皮紙をパイプ状に巻いてあるために[[パイプ・ロール]]と呼ばれた{{efn|1986年には、ドゥームズデイ・ブックの出版900年を記念して英国放送協会(BBC)がプログラム『{{仮リンク|ドゥームズデイ・プロジェクト|en|BBC Domesday Project}}』を開発した。}}{{Sfn|ソール|2018|p=No.371/5618}}。

中世イギリスの会計書は、(1) 公的(国王・領主)、(2) 私的(商業組織・ギルド・貴族・市民)、(3) 教会、(4) 慈善組織の4種類に分かれていた{{Sfn|花田|2010|pp=91-93}}。国王は、領主に土地や労働者の管理権限を与えて委託した。領主の荘園は、荘園執事が領主の代理人として管理した。代理人(受託者)は、領主(委託者)に荘園の状態を報告するための会計を記録した。これは代理人会計と呼ばれる。荘園の会計は地代表と現金帳に大きく分かれ、地代表に収入を記録し、現金帳に取引を記録した{{Sfn|森田|2019|pp=4-11}}。

キリスト教においては[[利子]](ウスラ、[[リバー]])が禁止されており、商人は利子とみなされないように取引や投資を行って利益を得たが、会計慣行の多くは[[教会法]]に違反していた。そのため中世キリスト教徒の商人の帳簿には、神に記録を開示する告解という側面もあった{{Sfn|清水|2010|pp=91-92}}{{Sfn|ソール|2018|pp=No.655-692/5618}}。

; 表記法と計算具の変化
ローマ数字は、簿記の計算に必要なゼロや[[位取り記数法|位取り]]を表記する際に不便だった。[[ピサ共和国]]の数学者で商人でもあった[[レオナルド・フィボナッチ]]が『[[算盤の書]]』(1202年)を発表すると、ゼロの概念、位取り、10進法などをもつインド・アラビア数字がヨーロッパに普及していった{{efn|フィボナッチは、イスラーム王朝の[[ムワッヒド朝]]の都市であるブージ(現在の[[ベジャイア]])でインド・アラビア数字と算盤を学んだ{{Sfn|ソール|2018|p=No.452/5618}}。}}。13世紀から14世紀にかけてのイタリア諸都市の帳簿にはローマ数字とアラビア数字が混在しており、一般に普及したのは15世紀後半から16世紀となる{{efn|アラビア数字はときに禁止され、普及の障害となった。ローマ数字と比べると、0を終わりに付け足したり、0を6や9に変えるなど改竄しやすいというのが理由だった{{Sfn|ジョーゼフ|1996|p=422}}。}}{{Sfn|渡邉|2014|pp=11-12}}。同時代には計算用具の[[アバカス]]も普及し、アラビア数字とアバカスによって計算や記帳がより簡便になっていった{{Sfn|ソール|2018|pp=No.438-452/5618}}。

; 複式簿記の形成
[[File:Portia - Henry Woods.jpg|thumb|200px|{{仮リンク|ヘンリー・ウッズ (画家)|en|Henry Woods (painter)|label=ヘンリー・ウッズ}}『ポーシャ』(1887年) 『ヴェニスの商人』の登場人物。]]
[[複式簿記]]の起源について、有力なものが[[13世紀]]末期から[[14世紀]]初頭のイタリア説である。イタリアの都市国家において、以下のような段階をへて複式簿記が生成されたといわれる{{Sfn|橋本|2015|pp=9-10}}。

(1) 12世紀の共同組合と会計実務:
12世紀から[[フィレンツェ共和国|フィレンツェ]]、[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]、[[ジェノヴァ共和国|ジェノヴァ]]などの都市国家が地中海の貿易で栄えた。当時の海上貿易は難破や海賊のリスクが高く、商人はリスクを分散するために航海や商品ごとに共同組合を作った{{efn|[[シェイクスピア]]の戯曲『[[ヴェニスの商人]]』には、中世のヴェネツィアではなくシェイクスピアの同時代の16世紀から17世紀の取引地名が登場する。これは過去のヴェネツィアの繁栄を同時代のロンドンに結びつけて題材にしたともいわれる{{Sfn|中野|1990|pp=38-39}}。}}。共同出資の契約のために[[公証人]]が働き、識字率が高くなかったため公証人が会計実務も行った。やがて商人の識字率が上がり、自分で帳簿をつける商人も増えた{{efn|イタリアでは都市国家によって組合の構成が異なり、会計にも影響を及ぼした。フィレンツェは他人同士による期間組合(マグナ・ソキエタス)であり、ヴェネツィアでは貴族の血縁を中心とした家族組合(ソキエタス)による口別損益計算が行われていた{{Sfn|渡邉|2014|pp=23-24}}。}}{{Sfn|清水|1993|pp=192-197}}{{Sfn|橋本|2015|pp=4-5}}。

イタリア諸都市は、[[十字軍]]への貸付をきっかけに北方のヨーロッパ各地に進出した。十字軍の[[テンプル騎士団]]は遠征費のためにイタリア商人と取引をしており、テンプル騎士団の帳簿は現金管理に加えて[[振込#振替|振替]]も行なっていたとされる{{efn|イタリア商人は為替相場を利用し、ヨーロッパの資金を西アジアに移動して利潤を生み出した。十字軍は多額の遠征費を必要としたため、イタリア商人の立場をより有利にした{{Sfn|三光寺|2011|pp=142-143}}。}}{{Sfn|三光寺|2011|loc=第7章}}。

(2) 13世紀のコンパーニアとビランチオの生成:
海上貿易の増加でヨーロッパ各地の陸上貿易も活発になると、共同組合は次第に長期化し、フィレンツェを中心にコンパーニアと呼ばれる貿易商・両替商・銀行の組織が結成された。コンパーニアのメンバーで利益の計算と分配をするために損益計算が求められ、ビランチオと呼ばれる財務表が作られた{{efn|当初の複式簿記は、損益勘定が元帳にないか、あったとしても企業全体の損益を総括できなかった。そのため利益を計算するには、棚卸をもとに総資産と総負債を時価評価した財務表を作成して差額を求め、前期と今期を比較した{{Sfn|渡邉|2014|pp=25-26}}。}}{{Sfn|橋本|2015|pp=5-6}}{{Sfn|渡邉|2014|pp=25-26}}。現存する最古の勘定記録は1211年のもので、フィレンツェの銀行家がボローニャのサン・ブロコリ定期市で書いた元帳勘定になる{{efn|内容は両替商による貸付記録だが、貸方による回収記録がないため、賃借左右対称方式ではなく賃借前後分離方式だったとされる{{Sfn|渡邉|2017|pp=10-16}}。}}{{Sfn|渡邉|2017|pp=10-16}}。

(3) 14世紀前半のコンパーニアの多拠点化と多帳簿記帳実務:
コンパーニアが拡大を続け、ヨーロッパ各地の駐在人も増加する。三大商会である[[バルディ家|バルディ]]、{{仮リンク|ペルッツィ家|en|Peruzzi|label=ペルッツィ}}、{{仮リンク|アッチャイウォーリ|en|Acciaioli family}}は各地の店舗と代理店契約を結んだ。大規模な商会や銀行は遠隔地に支店を持ち、支店の責任者は本店に経営と財務を報告する説明責任を果たした。組織の大規模化によって、業務ごとに帳簿が作られるようになり、基礎帳簿、補助帳簿、最終帳簿という細分化も進んだ。最終帳簿の中には、各帳簿を集計した秘密帳簿があった{{Sfn|橋本|2015|pp=6-7}}。企業全体の損益勘定を総括した最初期のものとして、フィレンツェの{{仮リンク|コルビッチ商会|it|Corbizzi}}の帳簿がある{{Sfn|渡邉|2014|pp=39-40}}。

(4) 14世紀末の独立拠点と複式簿記の要件を満たす実務:
大規模化した商業組織は、全ての会計実務を各地の支店に任せるようになり、報告のための会計実務が広まった。支店が1年ごとに帳簿を区切って決算報告書を作成する体系が整うと、収益勘定と費用勘定で計算する利益と、ビランチオで計算する利益を一致できるようになり、複式簿記の原理も整った{{Sfn|橋本|2015|pp=7-8}}。やがてフィレンツェとヴェネツィアの簿記方式が統合され、損益計算で総括損益を定期的に計算するようになり、毎年の期間損益計算が確立されていった{{Sfn|渡邉|2014|pp=43-49}}。特に膨大な数の複雑な取引が行われる銀行業務では、複式簿記は必須となった{{efn|たとえば預金を裏付けに手形を振り出して決済をする場合は、商人にとって現金よりも便利ではあるが記帳は複雑化する{{Sfn|ソール|2018|p=No.986/5618}}。}}{{Sfn|ソール|2018|p=No.986/5618}}。

(5) 15世紀の持株会社形態の組織と複式簿記の運用:
[[メディチ銀行]]は、支店と本店を別々のコンパーニアとして、各支店の出資比率は本店が過半数を持って支配した。各支店では帳簿を1年ごとに締め切って決算報告書を作成し、本店では支店ごとの利益を計算して出資者間で分配した{{efn|メディチ銀行では、支店の支配人は会計報告のためにいつでも召集に応じることや、年1回の決算に加えて必要ならばいつでも決算を行って報告する義務があった{{Sfn|ソール|2018|p=No.1001/5618}}。}}。これは現在の連結決算にも類似した方法であり、複式簿記がこの時点で確立されていた{{Sfn|橋本|2015|pp=8-9}}{{Sfn|ソール|2018|pp=No.597, 941/5618}}。フィレンツェでは、1427年に国の税務監査のために簿記の維持が義務となり、商人は監査に見せる公式の帳簿と、日記を兼ねた自分用の秘密帳簿を使い分けた{{efn|現存する秘密帳簿としては、教皇庁とも取引をした商人である[[フランチェスコ・ディ・マルコ・ダティーニ]]やメディチ銀行のものなどがある。メディチ銀行の秘密帳簿からは複式簿記の要素が見られる{{Sfn|橋本|2013|p=4}}{{Sfn|ソール|2018|pp=No.597, 941/5618}}。}}。

複式簿記は法廷でも重要となった。金銭にまつわる紛争では複式簿記の元帳も法的文書として認められ、帳簿に不備のないことが勝敗に影響した{{Sfn|ソール|2018|p=No.967/5618}}。

; 複式簿記の理論化
複式簿記を最初に体系化・理論化したのは、数学者[[ルカ・パチョーリ]]の数学書『[[スムマ]](算術、幾何、比および比例に関する全集)』であるとされる{{efn|『スムマ』で名声を得たパチョーリは[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]とも交流した。『[[モナ・リザ]]』や『[[最後の晩餐 (レオナルド)|最後の晩餐]]』には、パチョーリが教えた遠近法の影響がみられるという説もある{{Sfn|ソール|2018|p=No.1304/5618}}。}}。[[1494年]]にヴェネツィアで出版され、複式簿記については第1部・第9編・論説11で26ページにわたって書かれている。『スムマ』の損益計算は、継続的な帳簿記録をもとに期間で区切る総括損益計算であり、ヴェネツィア式簿記とフィレンツェ式簿記の混合だった{{efn|『スムマ』29章から。「毎年帳簿を締切ることは常に良いことであるが、他の人と組になっている人の場合には特にそうである。諺に「計算を度々すれば、友情が続く」といっている」{{Sfn|渡邉|2017|p=69}}。}}{{Sfn|渡邉|2014|pp=98-100}}。

なお、『スムマ』よりも先に脱稿していた簿記論として[[ベネデット・コトルリ]]の『{{仮リンク|商業と完全な商人|en|Della mercatura e del mercante perfetto}}』があるが、コトルリの著書が出版されたのは『スムマ』よりも後の1573年だった{{Sfn|渡邉|2014|p=90}}。コトルリは、初めて複式簿記 (dupple partite) という言葉を使ったことでも知られる{{Sfn|片岡|2018|p=89}}。

; 決済システムの形成
中世では貴金属含有率に差のある貨幣が複数流通していたため、特に遠距離交易の会計実務で問題となった。そこで13世紀頃からイタリアでは、取引額を帳簿に記録するときには計算用の貨幣単位に換算するようになった。勘定記録の本文には受領した貨幣の額を書き、金額欄には計算用の貨幣単位を書いた。抽象的な計算貨幣によって、為替手形の建値も定められるようになる。こうして複式簿記・商業組織・為替手形・計算貨幣による信用決済が確立されていった{{Sfn|三光寺|2011|pp=54-55}}{{Sfn|名城|2014|pp=51-53}}。

== 近世・近代 ==
[[File:Marinus Claesz. van Reymerswaele 005.jpg|thumb|200px|[[マリヌス・ファン・レイメルスワーレ]]『収税人たち』(1540年)。収税人の欲望や帳簿の不正の暗喩であり、会計を風刺した最初の絵画ともいわれる{{Sfn|ソール|2018|pp=No.1487-1500/5618}}。]]

=== ヨーロッパ・アメリカ ===
パチョーリ『スムマ』の簿記法は「イタリア式簿記法」とも呼ばれ、ヨーロッパ各地に伝わった。16世紀のフランス、スペイン、オランダにはヤン・インピンによる『スムマ』の翻訳から伝わり、ドイツはマンゾーニの著作から伝わった。17世紀にはオランダが先進国だったためオランダから各地に伝わった{{efn|当時の複式簿記の普及が分かる作品として、{{仮リンク|ヨースト・アマン|en|Jost Amman}}とヨハン・ノイドルファーの木版画『商業の寓話』がある{{Sfn|土方|2004|pp=137-139}}。}}{{Sfn|濱田|2003|pp=324-325}}。

各地における最初の複式簿記書の出版年を見ると、イタリア1494年(『スムマ』)、ドイツ1518年、フランス・オランダ1543年(インピンによる『スムマ』翻訳)、イギリス1547年(インピン『新しい手引き』翻訳)、スペイン・ポルトガル1590年、スウェーデン1646年、デンマーク1673年、ノルウェー1692年となる{{Sfn|濱田|2003|pp=304-308}}。ヨーロッパでは、帳簿が真実であることを神に誓う証として、元帳に十字架が書かれていた。この習慣は16世紀後半から17世紀まで続いた{{Sfn|渡邉|2014|pp=33-34}}。

; フランドル・オランダ
[[フランドル]]には定住商人が多く、期間損益計算の普及が進んだ。フランドルの都市[[ブリュージュ]]は14世紀から15世紀にかけて繁栄し、当時の記録として両替商ウィレム・ルウェールの元帳や、コラール・ド・マルクの会計帳簿がある。ブリュージュには女性の両替商の活動もあり、ルウェールの死後に妻が自分の資産で両替商をした記録がある{{efn|ルウェールとマルクのいずれも1370年代に破産しており、当時の金融業のリスクを示す証拠にもなっている。14世紀後半の両替商は約15家系あり、各80人から90人の顧客がいた{{Sfn|河原|2006|p=54}}。}}{{Sfn|河原|2006|pp=53-54}}。16世紀にはブリュージュから[[アントウェルペン]]へと経済の中心が移り、織物商[[ヤン・インピン]]は、初のオランダ語の簿記書として『新しい手引き』([[1543年]])を出版した。『新しい手引き』は年次決算を説いた最初の簿記書とされる{{Sfn|中野, 清水編|2019|pp=29-30, 70}}。17世紀には[[オランダ海上帝国|オランダ]]が繁栄し、それまでの組合的な組織とは異なる企業として[[オランダ東インド会社]](VOC)が1602年に設立された。VOCの会計は1会社2会計システムで、本国においては旧来の簿記を使い、支店では複式簿記を採用して年次報告を行った。会社全体を見る簿記は存在せず、決算は10年単位で非公開制だった。VOCはオランダとアジアの2元体制だったため、アジア取引を統括したバタヴィアが実質上の本社的業務を行い、アムステルダムはアジアで仕入れた商品の販売が主体だった。VOCは会計部門を改革しつつ、その後も200年近く続いてゆく{{Sfn|中野, 清水編|2019|pp=75-81}}。

数学者の[[シモン・ステヴィン]]は『[[数学覚書]](Wiskonstighe Ghedachtenissen)』([[1605年]]-[[1608年]])を出版し、複式簿記について150ページほど書いている。『数学覚書』では年次決算や[[精算表]]を説いている他、資本金勘定は期首資本と利益に分けて表示されており、貸借対照表に類似している{{Sfn|中野, 清水編|2019|pp=72-75}}。ステヴィンの簿記論はそれまでと異なり、国家の財政に複式簿記を使うことを目的としていた。『数学覚書』には「王侯簿記」という論考があり、領土簿記と特別財政簿記について書かれている。領土簿記は商業帳簿と同じく仕訳帳と元帳からなり、仕訳帳は債権・債務・対象年に発生した取引の3つに分かれている。ステヴィンは王侯簿記をオランダ総督の[[マウリッツ (オラニエ公)|マウリッツ]]に献呈しており、複式簿記導入の動機として、(1) マウリッツの財産管理人や会計官が何年も決算を行わなかった、(2) 運用可能な資金管理ができていなかった、(3) 会計官が資金を私物化していた、(4) 財政再建の必要があった、などがあった{{efn|マウリッツは軍事教練など政策のマニュアル化を推進しており、王侯簿記は財政マニュアルとして導入されたと推測される{{Sfn|中野, 清水編|2019|p=84}}。}}{{Sfn|中野, 清水編|2019|pp=82-84}}。

[[file:Fuggerkontor.jpg|left|thumb|200px|ヤーコプ・フッガーとフッガー家の会計主任であるシュヴァルツ。ともにヴェネツィアで簿記を学んだ。]]
; ドイツ・スカンジナビア
15世紀に南ドイツの都市がヴェネツィアと貿易を行い、ニュルンベルクの商人がヴェネツィアから複式簿記を持ち込んだ。[[ヤーコプ・フッガー]]や、フッガーの会計主任になる{{仮リンク|マッティウス・シュヴァルツ|en|Matthäus Schwarz}}はヴェネツィアで複式簿記を学び、この技術が[[フッガー家]]の繁栄の一因となる{{Sfn|中野, 清水編|2019|pp=46-47}}。ドイツ人による簿記書は、1518年の{{仮リンク|ハインリッヒ・シュライバー|en|Henricus Grammateus}}や1531年のヨハン・ゴットリーが最初期となる。これらは商品元帳を有する人名勘定元帳について書かれており、『スムマ』の影響を受けていない点に特徴がある。これらの簿記書ののちに複式簿記の移入が進んだ{{efn|[[ゲーテ]]の小説『[[ヴィルヘルム・マイスターの修業時代|ヴィルヘルム・マイスターの演劇的使命]]』では、登場人物のヴェルナーが「複式簿記は人間の頭で発明した最も優れたもののひとつである」という主旨の発言をする。この発言が、ゲーテ自身の言葉だと誤解されている場合がある{{Sfn|中居|2015|pp=61-63}}。}}{{Sfn|濱田|2003|pp=315-319}}。

ドイツの簿記書は、デンマークやスウェーデンでも出版された{{Sfn|濱田|2003|p=339}}。スカンジナビアでは、[[ハンザ]]の商人を中心とするドイツとの貿易を通して複式簿記が移入された。ドイツ語の簿記書が読まれ、のちに簡略版や独自の簿記書が出版された{{Sfn|濱田|2003|p=305}}。

; スペイン・ポルトガル
[[スペイン帝国|スペイン]]では、[[通商院]]が[[スペインによるアメリカ大陸の植民地化|アメリカ大陸の植民地]]との貿易を管理した。通商院は複式簿記を理解するセビリアの商人が運営しており、物流・出納・会計の三部門でそれぞれ責任者が監督に当たった。借方・貸方帳で記帳を行ない、記帳する際には3人の主任の署名を必要として不正を防止した。[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カルロス1世]]は1552年に全ての帳簿を複式簿記にするよう勅令を出し、帝国全体の会計を管理する主計官を定めた。しかし財政の改革にはならず、負債は増え続けた。[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]の財務長官{{仮リンク|フアン・デ・オヴァンド|es|Juan de Ovando y Godoy}}や、通商院経験のある商人ペドロ・ルイス・デ・トレグロサらが改革に着手したが、失敗に終わった{{Sfn|ソール|2018|pp=No.1533-1552/5618}}。スペイン最初の複式簿記書は、1590年の[[バルトロメオ・ソロルザーノ]]の著書になる。[[ポルトガル帝国|ポルトガル]]での最初の簿記書は、ソロルザーノの著書をもとに出版された{{Sfn|濱田|2003|p=304}}。

; フランス
インピンによる『スムマ』のフランス語訳によって、1543年にフランスに複式簿記が伝わった。フランス人初の複式簿記書は、1567年にピエール・サボンヌがアントウェルペンで出版した{{Sfn|濱田|2003|pp=315-319}}。[[ルイ14世]]の[[財務総監]]だった[[ジャン=バティスト・コルベール]]は、[[重商主義]]政策の一環として[[商事王令]](1673年)を制定した。この勅令は、起草の中心人物{{仮リンク|ジャック・サヴァリ|fr|Jacques Savary (financier)}}の名を取って{{仮リンク|サヴァリ法典|fr|Code Savary}}とも呼ばれる。商事王令は世界初の成文法の商法であり、近代的な商法の原型となり、その後の商法で商業帳簿が制度化された{{Sfn|荒鹿|1997|pp=45-48}}。サヴァリは、商事王令の解説書として『完全な商人』(1675年)を書き、経営の規模で簿記を4つに分類して解説した。『完全な商人』は独、蘭、伊、英語に翻訳された{{efn|簿記の分類は、大商人・会社は複式簿記、中有規模の商人は仕分帳・仕入先元帳・売掛帳・得意先元帳・現金売上帳・現金支払帳・現金帳・商品有高帳・負債控帳・染色帳(織物業の例)、小規模の商人は仕入帳・売掛帳・現金帳、最も小規模な商人は借入帳・売掛金および貸付債権を記した帳簿となる{{Sfn|中野, 清水編|2019|p=36}}。}}。商事王令の内容は、のちの[[ナポレオン法典|ナポレオン商法]](1807年)に引き継がれた{{efn|作家の[[オノレ・ド・バルザック]]は、作品でたびたび会計を取り上げた。『[[人間喜劇 (バルザック)|人間喜劇]]』の『禁治産』(1836年)に登場するポピノ判事は、帳簿に人々の暮らしを記録し、貧しい人々を助ける際の資料とした{{Sfn|ソール|2018|p=No.4033-4044/5618}}。同じく長編小説『役人』(1844年)には出納官や会計検査院の仕事が描かれている{{Sfn|バルザック|2013|loc=付録}}。}}{{Sfn|中野, 清水編|2019|pp=35-37}}。

フランスは[[ルイ15世]]の時代に政府が破産状態になり、{{仮リンク|ジョセフ・パリ・デュヴェルネ|fr|Joseph Paris Duverney}}をはじめとする金融家のパリ兄弟が財政改革に取り組んだ。パリ兄弟は商人や実業家の会計が国家にも活用されることを望み、徴税人への複式簿記の義務化などを提案したが、理解を得られず失敗した{{efn|貴族の反感、利権を持つ徴税人の抵抗、[[ジョン・ロー]]の[[ミシシッピ計画]]との対立などの理由があった{{Sfn|ソール|2018|p=No.3700-3114/5618}}。}}。[[ジャック=クロード=マリー=ヴァンサン・ド・グルネー|ヴァンサン・ド・グルネー]]や[[ジャック・テュルゴー]]らの重農主義者は会計専門家でもあったが、その著作は公会計には寄与しなかった{{Sfn|ソール|2018|p=No.3700-3114/5618}}。

; ロシア
[[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]]の時代(1682年から1725年)にフランスの制度をもとにして会計制度の整備が始まり、国家の歳入・歳出を監視する役所が1699年に設置されて役人としての会計士制度が成立した。1716年に会計法規が公布され、1722年にロシア初の簿記係が誕生し、1740年には貸借対照表が商人に義務付けられて商業帳簿も普及していった{{Sfn|森|1983|pp=171-173}}。

; イギリス
[[File:Marriage A-la-Mode 2, The Tête à Tête - William Hogarth.jpg|thumb|250px|[[ウィリアム・ホガース]]『[[当世風結婚]]』(1743年頃)。執事が領収書と帳簿を持っているが、会計は夫婦に無視されている{{Sfn|ソール|2018|p=No.2695/5618}}。]]
イギリスに複式簿記が導入されたのは、[[ロンバード・ストリート (ロンドン)|ロンバード・ストリート]]で商業や金融業を営んでいたイタリア商人からか、海外に住んでいたイギリス商人からと推測されている。イギリスで最初の簿記書は、ヒュー・オールドカッスルの『有益なる論文』(1543年)であると言われているが、現存していない。続いて出版されたのはヤン・インピン『新しい手引き』の英語版(1547年)だった。ジェイムズ・ピールやジョン・ウェディングトンはイタリア簿記の系統で初心者向けの本を出し、引き継がれていった。イギリス商人が複式簿記を使っていた最古の例は、[[トマス・グレシャム]]の仕訳帳(1546年-1552年)となる{{Sfn|中野, 清水編|2019|pp=92-98}}。

17世紀に入ると、オランダに対抗するために[[イギリス東インド会社]]を1600年に設立する。設立当初は航海ごとに組合を組織していたが、1662年にはイギリス初の[[株式会社]]となり、会計には会計担当・監査担当・理事会監査が定められ、世界初の[[株主総会]]をする会社となった。1664年に複式簿記が導入されて定期的な財務報告もあり、現在の株式会社に通じる制度が作られていった{{Sfn|中野, 清水編|2019|loc=第7章}}。

英語の予算(budget)という語は、古フランス語の bourgette を由来とする。この語は小さなカバン、または書類を入れる小袋を指していた。イギリスでは大蔵大臣がカバン(budget)から書類を出して議会に予算を説明し、書類が入っているカバンが予算の書類そのものを指すようになり、18世紀に定着した{{Sfn|中野, 清水編|2019|p=242}}。

; 単式簿記
18世紀のイギリスでは、教育のための実用書が数多く出版され、商人の子弟を対象とした簿記の教科書もアカデミーや[[グラマースクール#初期のグラマースクール|グラマー・スクール]]で読まれた。しかし伝統的な複式簿記(イタリア式簿記)は、小売店の商人にとって複雑すぎるという不満があった。この不満に応えるために、『[[ロビンソン・クルーソー]]』の作者でもある[[ダニエル・デフォー]]は、経営入門書『{{仮リンク|完全なるイギリス商人|en|Daniel Defoe#Late writing}}』で簡便な簿記を提案した{{efn|デフォーは卸売をはじめとして多様な事業経験があり、『ロビンソン・クルーソー』では主人公が貸借対照表のような形式で自己分析をする場面がある{{Sfn|中野|1994|pp=67-69}}。}}。数学者の{{仮リンク|チャールズ・ハットン|en|Charles Hutton}}は、デフォーの提案を単式記帳(single entry)と呼んで体系化した。これが現在は[[単式簿記]]と呼ばれるものの発祥で、イギリスやアメリカの小売商に広まり、明治期には日本にも伝わった。ただし単式簿記の記帳は貸借二重記帳なので単式ではなく、実際には複式簿記の簡便化に属する。このため訳語としては、単純簿記、簡易簿記、略式簿記などがより正確である{{efn|福澤諭吉は『帳合之法』において、複式簿記にあたる「double entry」を本式、単式簿記にあたる「single entry」を略式簿記と呼んでいる{{Sfn|渡邉|2014|pp=171-172}}。}}{{Sfn|渡邉|2014|pp=160-172}}。

; 植民地
[[大航海時代]]以後、ヨーロッパがアメリカやアフリカなど世界各地で植民地化を進めて、植民地には本国の会計制度が移入された{{Sfn|石黒|2010|p=30}}。本国の簿記書が植民地で用いられ、アメリカ植民地ではジョン・メイヤーの『組織的簿記』(1736年)が読まれて図書館にも多数の蔵書があった{{Sfn|ソール|2018|p=No.3440/5618}}。アメリカ植民地では[[ベンジャミン・フランクリン]]らの努力もあって簿記が急速に普及した{{Sfn|ソール|2018|p=No.3462/5618}}。

アメリカ合衆国の独立後は1789年に連邦政府会計が制定され、支払命令書と単式簿記による公会計が始まった{{efn|合衆国最古の予算は、1790年に財務長官の[[アレクサンダー・ハミルトン]]が提出した予算書とされる{{Sfn|中野, 清水編|2019|p=242}}。}}。現金主義だったために不完全な会計実務が問題とされ、複式簿記の導入となる。さらに、1903年以降に都市会計統一化会議が開催されて会計基準が統一されていった{{Sfn|中野, 清水編|2019|pp=232-249}}。

=== 産業革命 ===
[[ファイル:ThomasHosmerShepherdBankofEngpublished1816 edited.jpg|250px|right|thumb|1816年のイングランド銀行と王立証券取引所。イングランド銀行は早くから貸借対照表を使っていた。]]
産業革命によって企業数が増えるにつれ、破産も増加した。株式会社は大規模化し、破産や監査を業務とする会計士が増加し、会計士の専門化と社会的認知が進んだ。会計士の考察によって、[[会計学]]の理論も進展した{{efn|作家の[[チャールズ・ディケンズ]]の父親は破産した会計士であり、作品にさまざまな会計士を登場させた。正直者だが運のない者、強欲で詐欺を働く者、意図的に公会計を不透明にしている財務官などである{{Sfn|ソール|2018|p=No.4045-4081/5618}}。}}{{Sfn|中野, 清水編|2019|loc=第10章}}。

; 貸借対照表
初期の複式簿記は少人数の組合員や組織によるものだったが、大規模な株式会社が成立すると株主も大人数となり、株主に成果を開示するためにストックとフローを要約した表を作成するようになった。これが[[貸借対照表]]と[[損益計算書]]である。最初期の貸借対照表には、[[イギリス東インド会社]]と[[イングランド銀行]]のものがある{{Sfn|渡邉|2014|loc=第9章}}。

; 発生主義と減価償却
費用・収益の計上基準としては、[[現金主義]]と[[発生主義]]があり、現金主義→半発生主義→発生主義と発展してきたとされる{{Sfn|清水|1998|p=81}}。現金主義は、現金の収支によって費用や収益を計上する。[[発生主義]]は、経済価値が費消した事実が発生したときに費用や収益を計上する{{Sfn|村田|2016|p=107}}。現金主義と発生主義は、歴史的には経済状況や生産構造の違いによって選択されており、中世イタリアの初期の複式簿記でも発生主義で作成されているものがあるという説もある。産業革命期のイギリスでは一般企業は発生主義、鉄道や運河などは現金主義であった{{Sfn|村田|2016|p=107}}。鉄道業においても、1838年にはThe London and Birmingham 鉄道が減価償却を導入し、1840年代・1850年代には鉄道業でも発生主義への転換が進んだ{{Sfn|村田|2016|pp=49-50}}。{{Sfn|清水|1998|p=81}}。アメリカ連邦所得課税制度は損益計算の理論に極めて重要な影響を有したが、課税所得計算においても1913年以降に現金主義から発生主義への転換が行われ、1920年代以降には判例においても発生主義の確立が進んだ{{Sfn|中野, 清水編|2019|pp=292-293}}。

[[減価償却]]は鉄道事業によって広まった。購入した蒸気機関車は使用や時間によって価値が減少するため、帳簿価格と現在価値の差を評価する方法として活用された。それまでにも船舶、農場、工場の評価替えは行われていたが、イギリスの技術者{{仮リンク|ユーウィング・マティスン|en|Ewing Matheson}}が著書『工場の減価償却と評価』(1884年)で定期的な減価償却を提案して体系化した{{Sfn|渡邉|2017|p=101}}{{Sfn|中野, 清水編|2019|pp=185-187}}。

; 損益計算書
[[file:Planet replica.jpg|thumb|250px|リバプール・マンチェスター鉄道のプラネット号のレプリカ。鉄道業は減価償却や損益計算書で先駆となった。]]
はじめに損益計算への必要性が高まった業種は、鉄道業だった。鉄道会社の特徴として、(1) それまでの企業に比べて従業員・物資・資金が多かった点、(2) 広い地域に分散した常勤の経営管理者が必要だった点、(3) 遠距離の大量輸送を毎日行っていた点がある。これらの要求に応えるために経営管理組織と専門的訓練を受けた経営者が必要となった{{Sfn|高梠|2000|pp=7-8}}。鉄道会社によって収益勘定表が作成されるようになり、これが損益計算書の原型となった{{Sfn|中野, 清水編|2019|pp=181-185}}。

; 連結会計
最初期の[[連結会計]]はアメリカの鉄道業で行われ、その後に製造業に広まった。確認できる最古の連結財務諸表は1870年代に確認されている。当初は報告の形式もさまざまであり、(1) 親会社・子会社の貸借対照表を合算、(2) 資本連結なき資産連結、(3) 重複分の控除、という段階をへて現在の形に近づいたと推測される。アメリカの鉄道業で連結会計が先行した理由として、会社法が州単位に分かれているので持株会社で解決した点もある。さらに[[1893年恐慌]]によって鉄道会社の倒産が相次ぎ、[[ジョン・モルガン]]のモルガン商会をはじめとする金融資本への連結が行われた。モルガン商会は鉄道業での成功を機に他の産業でも連結会計を活用し、巨大な資本を得てゆく。連結会計は20世紀にかけて国際的に広まっていった{{Sfn|小栗|2018a|pp=12-14}}。

=== アジア・アフリカ ===
; 中国
[[File:RihShengChangBank.jpg|thumb|right|250px|[[山西省]][[平遥古城]]内の[[:zh:日昇昌|日昇昌]]票号の旧跡。票号は銀行にあたる金融機関。]]
[[明]]、[[清]]の時代に商工業が急速に発展し、会計も変化する。現在の銀行にあたる[[銭荘]]や[[票号]]と呼ばれる金融機関は財物や金銭の管理をしていたため帳簿が発達し、該項(負債・資本)と存項(資産)の区別や、帳簿組織の細分化が進んだ{{Sfn|津谷|1998|pp=50-51}}。[[明清交替]]の時代には、[[龍門帳]]と呼ばれる方法が思想家の[[傅山]]によって考案された。龍門帳は単式記帳法や三脚帳法と異なり、総青を4項目の勘定口座に記録する。これによって項目別の計算が可能になり、勘定科目別の計算、決算、決算報告書の作成が容易になった。龍門帳は複式簿記としての特徴をそなえたともいわれる{{Sfn|津谷|1998|pp=65-72}}。18世紀中頃の[[乾隆|乾隆期]]から[[嘉慶 (清)|嘉慶期]]にかけては、[[四脚帳法]]が考案された。上方には収(来帳)を記入し、下方には付(去帳)を記入する。上方(天)と下方(地)が均衡すれば記録が正確なことになるので、天地合帳とも呼ばれた{{Sfn|津谷|1998|pp=73-76}}。

貿易面では、19世紀前半までの[[広東貿易]]体制において帳簿振替で決済した。これは当事者間の相対決済で金融機関の介在が不要であり、帳尻の部分だけを資金移動した。清の時代には[[華僑]]と呼ばれる海外の中国系人口が急増し、この方法が使われた{{Sfn|久末|2007|pp=31-32}}。

1840年の[[アヘン戦争]]以後は欧米の進出が始まり、鉄道や電信の事業とともに業務管理のために欧米式の複式簿記が紹介される。中国の記帳法には、指導や教育に使える書籍がなく、統一性に欠けていた。海外赴任の経験者である{{仮リンク|蔡錫勇|zh|蔡锡勇}}は、中国の記帳法を欧米の貸借複式簿記に組み入れる方法を考え、『連環帳譜』(1905年)を出版する。この本が、中国初の民間向けの簿記書となった。{{仮リンク|謝霖|zh|谢霖}}と{{仮リンク|孟森|zh|孟森}}は、日本で欧米式簿記を学習し、『銀行簿記學』(1907年)を発表して中国に広めた。最初に複式簿記を導入した中国系企業は、1908年の{{仮リンク|大清銀行|zh|大清银行}}となった{{Sfn|津谷|1998|pp=89-94}}{{Sfn|邵|2011|pp=44, 50, 53}}。

; 日本
[[江戸幕府]]は財政管理を[[勘定所]]で行い、統轄をする勘定頭は元禄時代以降に[[勘定奉行]]と呼ばれるようになった。勘定所では[[勘定 (江戸幕府)|勘定]]、[[勘定吟味役]]、[[御金奉行]]、[[御蔵奉行]]、[[切米手形改役]]などの役人が働いた{{Sfn|大野|1996|pp=99, 127}}。日記や日記帳と呼ばれていた商業帳簿は、近世には[[大福帳]](売掛帳)・金銀出入帳・売帳・判取帳・荷物渡帳など用途別に分かれた。各商家によって形式が異なり、独自の符丁を使っている場合も多い。大商家の帳簿には複式構造を持つものもあった{{Sfn|田中|2011a|p=59}}{{Sfn|宮本ほか|2007|pp=62-66}}。大福帳は江戸時代に成立した商業帳簿で、買帳、売帳、金銀出入帳などを統括し、売掛金や残高などを記録する得意先元帳としてよく使われた。最古の大福帳は、[[伊勢商人]]の冨山家の「足利帳」で、元和元年(1615年)の記述がある{{Sfn|三代川|2014|pp=448-449}}。計算具であるそろばんは、17世紀の中頃から末頃に庶民に普及し、[[元禄時代]]には商人の間で必須の道具となった{{Sfn|三代川|2014|pp=443-445}}。

和式会計の特徴として、多帳簿制収支簿記という簿記法がある。勘定口座を帳簿に書かずにそろばんで計算をして集計表を作成できるため、そろばん勘定が洋式簿の勘定口座と同様の機能を果たした{{efn|そろばんは演算過程を保存しておけるので、帳簿に書く必要はない{{Sfn|三代川|2014|p=453}}。}}。和式簿は入金欄と出勤欄を分けず、金額の頭に「入」か「出」を書いて加減を計算して残高を導くようになっている。明治期に洋式の複式簿記法が移入されたのちも、そろばんの計算は残った{{Sfn|三代川|2014|pp=452-454}}。江戸時代から、商家の他にも武家や農家で帳簿をつけていた。武家の帳簿は日記帳が主であり、農家では穀類や麺類の数量計算や、種籾・端境期の食糧についての貸付量計算を主としていた{{Sfn|三代川|2014|p=476}}。

欧米の簿記は、[[明治政府]]成立の前後に移入が始まった。初めて洋式簿記を紹介したのは、[[福澤諭吉]]の『[[帳合之法]]』(1873年(明治6年))だった{{efn|アメリカ商業学校の教師ヘンリー・B・ブライアントとヘンリー・D・ストラットンの『初等中学簿記』(1871年)の翻訳である{{Sfn|渡邉|2014|p=144}}。}}{{Sfn|渡邉|2014|p=144}}。[[福澤諭吉]]が1879年に創設した[[簿記講習所]]においても簿記教育が開始された。大蔵省や横須賀製鉄所で使用される他に、商家でも和式から洋式への切り替えが進んだ{{Sfn|宮本ほか|2007|pp=134-135}}。明治政府は洋式簿記を重視し、明治10年代に簿記の教科書が多数出版された。中でも遠藤宗義編の『小學記簿法』は、[[家計簿]]について最初に教えた本であり、略式簿記の作成法が書いてあった{{Sfn|三代川|2014|pp=459-460}}。1908年には雑誌『[[婦人之友]]』が創刊され、同時期に[[羽仁もと子]]が家計簿を刊行して現在まで続くことになる{{Sfn|樋口, 近藤|2009|pp=}}。フランスの商事王令をもとにヨーロッパで作られた商法は明治期の日本に移入し、商業帳簿制度が1890年(明治23年)の[[商法#歴史|旧商法]]、1899年(明治32年)の新商法で定められた{{efn|この商法は、1807年のフランス商法(会計帳簿と財産目録)、1829年のスペイン商法(年次貸借対照表)、1861年のドイツ商法(財産評価規定)をもとにしている{{Sfn|中野, 清水編|2019|loc=第6章}}。}}{{Sfn|中野, 清水編|2019|loc=第6章}}。

; 朝鮮
朝鮮半島の最初期の商業簿記は、[[開城簿記]]や四介松都治簿法と呼ばれる。開城簿記の帳簿は、基礎帳簿と明細帳簿に大きく分かれる。基礎帳簿は、日々の記入簿と仕訳日記帳にあたる日記と、総勘定元帳にあたる長冊に大きく分かれる。決算は決算書・損益表の作成と元帳決算で行われる。実務では、日記帳で現金仕訳をして、それを貸借に分割して長冊に転記した{{efn|開城簿記の起源については、高麗時代、李氏朝鮮時代、19世紀など諸説がある{{Sfn|田中|2019|p=12}}。}}{{Sfn|田中|2019|pp=14-17}}。

; オスマン帝国
オスマン帝国の財政は財務長官府を頂点として財務官僚に運営された。15世紀時点では20人程度と少数であり、15世紀から17世紀にかけての租税台帳の作成や官僚制度の整備にともなって増員された。租税台帳は各地の担税力を示す明細帳と、地域の徴税権が誰に分配されたかを示す簡易帳に分かれており、台帳作成官、書記、[[カーディー]]が作成した{{Sfn|東洋文庫|2016|pp=}}{{Sfn|高松|2004|pp=109-110}}{{Sfn|林|2016|pp=2580-2603/4663}}。19世紀に入ると、ヨーロッパ型の内務・外務・財務の省庁が組織された{{Sfn|林|2016|pp=4281-4306/4663}}。

寄進制度であるワクフの利用は14世紀から16世紀にかけても増加し、オスマン時代には都市のインフラ維持に欠かせない制度となった{{Sfn|林|1999|loc=第9章}}。[[イスラーム法]]では女性の財産権が定められており、妻と夫の財産は区別されているので、財産をもつ女性はワクフを資産運用としても活用した{{Sfn|林|2016|pp=2993-3023/4663}}。

; アフリカ
アフリカでは、ヨーロッパ各国が[[奴隷貿易]]を行った。やがて奴隷貿易の禁止が進むと、ヨーロッパ各国は[[アフリカ分割]]によって植民地化して利益を得ようとした{{efn|[[ジョゼフ・コンラッド]]の小説『[[闇の奥]]』は作者の体験をもとに書かれており、[[コンゴ自由国]]で植民地業務を行う会計士が登場する{{Sfn|ソール|2018|p=No.4172/5618}}。}}{{Sfn|宮本, 松田編|2018|pp=No.3307-3340/8297}}。植民地では、本国の会計制度をもとに経営が行われ、現地の伝統的な制度に変化をもたらした{{efn|[[王立アフリカ会社]]のような特権会社は経営が悪化して一般の民間業者に代わっていった{{Sfn|ウィリアムズ|2020|pp=57-59}}。}}{{Sfn|石黒|2010|p=30}}{{Sfn|坂井|2017|pp=181-182}}。

かつてのアフリカの[[無文字社会]]では、金融などで公平な記録の必要がある場合は壁に印をつけるなどの方法が取られた{{Sfn|坂井|2017|pp=177, 181-182}}。ヨーロッパと取引をした[[ダホメ王国]]も無文字社会だったが、ヨーロッパ側の記録によれば精緻な官僚制度と正確な会計を整えていたとされる。人口統計は箱に小石を入れて記録し、性別や職業別の労働者数はシンボルをつけた袋で把握した。家畜の統計では、種類別のシンボルをつけた袋に小石やタカラガイを入れた。それらの情報をもとに徴税や徴兵を割り振り、年1回の貢租大祭を開催した。国家財政は宮廷と結びつき、行政官、会計監査官、収税吏、警察などの役割が定められていた。官僚制は双分制にもとづき、役人は必ず男女で実務を行なった{{efn|ダホメ王国にはヨーロッパと奴隷貿易を行うアフリカの国家という特異な面もあった{{Sfn|ポランニー|2004|loc=第1部2章}}。}}{{Sfn|ポランニー|2004|loc=第2部1章}}。

=== 管理会計・財務会計 ===
[[File:A-line1913.jpg|thumb|right|自動車の大量生産を確立した[[フォード・モデルT]]の工場。1913年-1914年頃]]
[[フレデリック・テイラー]]は生産管理の方式を考案し、[[科学的管理法]]と呼ばれるようになった。テイラーは会計担当者に生産管理を分析させてコスト評価の正確性を高め、その管理法は製造業でいち早く導入が進んだ。繊維産業では、作業者を管理する方法として標準原価計算が採用され、それまでの職人的な生産から大規模化した。鉄鋼産業では鋼鉄の前段階と後段階で原料の節約に原価計算を役立てた。自動車産業では[[フォード・モーター]]が[[大量生産]]を確立した{{Sfn|ソール|2018|pp=No.4184-4227/5618}}{{Sfn|中野, 清水編|2019|pp=207-209, 289-291}}。

鉄道産業の管理会計は、20世紀初頭の[[デュポン]]の会計に影響を与えた。デュポンは多くの火薬会社を吸収合併して設立されたため、鉄道会社よりも複雑な組織だった。会計情報をもとに最高経営管理者から下層管理者までの管理活動を体系的に支援した最初期の企業であり、[[投資利益率]](ROI)の手法を使って化学産業など他業種へと業務を拡げてゆく。ROIは大手小売店の店舗面積の売上高粗利益率にも活用され、さらに応用が進んで大手小売店の店舗面積の[[売上高利益率|売上高粗利益率]]にも使われるようになった{{Sfn|中野, 清水編|2019|pp=205-208}}。企業の大規模化で会計や管理の作業量が増え、解決のために機械化が進んだ。遠隔地との連絡を取る電信・電話、計算に用いる{{仮リンク|加算機|en|Adding machine}}・[[会計機]]、タイプライター、パンチカード式の[[作表機]]などが19世紀末から20世紀初頭にかけて普及した{{efn|電信は1844年にアメリカ連邦議会で採用され、電話は1885年にベル・システムが完成した。作表機は1890年、プリンター付きの計算機は1892年、加減乗除の機能をもつ計算機が1893年、単能計算機は1926年に完成した{{Sfn|児玉|1988|p=24}}。}}{{Sfn|児玉|1988|pp=24-25}}。

科学的管理法は公会計にも改革をもたらした。19世紀末からアメリカでは移民増加と地方財政の歳出急増、都市部の政治腐敗が問題とされ、企業の手法だった科学的管理法が政府組織に導入された。支出統制にもとづく予算管理はニューヨーク市をはじめとして地方自治体で普及し、連邦政府も{{仮リンク|予算・会計法|en|Budget and Accounting Act}}(1921年)を制定した{{Sfn|中野, 清水編|2019|pp=232-249}}。

1919年、会計学者の{{仮リンク|ジェイムズ・O・マッキンゼー|en|James O. McKinsey}}はシカゴ大学で会計の講座を発表した。この講座はそれまでの帳簿や出納管理など会計士のための教育とは異なり、経営に役立つ会計を教える内容だった。マッキンゼーの講座は人気を集め、コンサルティング会社[[マッキンゼー・アンド・カンパニー]]の設立へとつながった{{Sfn|田中|2018a|pp=323-325}}。マッキンゼーは1922年の著書『管理会計』で、予算管理の目的は部門の活動の調整、あるいは部門の活動のコントロールにあると書いており、この本の内容をもって管理会計の成立とされている。マッキンゼーの管理会計は、連邦政府の新しい予算制度からも影響を受けていた{{Sfn|中野, 清水編|2019|p=249}}。

管理会計成立期の1920年代においては、標準原価計算・予算管理が中心的な手法であったが、1930年代に入って直接原価計算が発明された。直接原価計算は従来の全部原価計算と異なり、在庫の増大が経営へマイナスに作用することを反映したもので、部分的にではあるが、利益管理のためのキャッシュフロー情報の提供を行うものであった{{Sfn|櫻井|2015|pp=76-77}}。

一方、19世紀からアメリカでは全国規模の株式会社の設立が進み、[[トラスト (企業形態)|トラスト]]と呼ばれる大規模な企業活動が独占を招き、社会で議論となった。トラスト問題の解決として財務情報の公開が求められ、企業外に向けた情報である財務会計が一般会社においても始まった{{Sfn|中野, 清水編|2019|pp=126-128}}。企業の活動を利害関係者に伝えるための[[財務諸表]]の形式が整えられ、[[USスティール]]の1902年の会計報告書には貸借対照表と損益計算書がそろっており、現在の財務諸表に近い{{Sfn|中野, 清水編|2019|p=271}}。

=== 公認会計士制度の成立 ===
鉄道業や製鉄業など巨額の資本調達を行う産業によって、会計不正の影響が大きくなった。投資の安全性を第三者が証明するために会計の専門家の需要が急増し、会計士の組合である会計士協会が設立された。イギリス最初の会計士協会は1853年の[[エディンバラ会計士協会]]であり、1854年には国王の勅許を受けて世界初の公認会計士([[英国勅許会計士]])が誕生した。アメリカでは1880年代に会計士の需要が高まり、イングランドやスコットランドから多数の会計士が渡って会計事務所を設立する。1882年に会計士協会(The Institute of Account)、1887年に{{仮リンク|アメリカ会計士協会|en|American Institute of Certified Public Accountants}}(AAPA)が設立され、1896年に公会計士業を規制する法律(公認会計士法)が成立した{{Sfn|中野, 清水編|2019|pp=221-228}}。19世紀末までに、フランス、ドイツ、イタリア、オランダ、スウェーデン、ベルギーなどヨーロッパ各国でも公認会計士協会が設立された{{Sfn|ソール|2018|pp=No.3916-3923/5618}}。専門化とともに会計教育の制度化が進み、勅許会計士の[[ローレンス・ディクシー]]は、[[バーミンガム大学]]でイギリス初の会計学教授に就任する。のちに[[ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス]]の教授となり、実務書も執筆した{{Sfn|中野, 清水編|2019|pp=229-230}}。

欧米では公正・正義を象徴するギリシア神話の[[テミス]]やローマ神話の[[ユースティティア]]などの彫像を司法施設に置く習慣があり、会計事務所や会計に関する施設にも置かれるようになった{{Sfn|渡邉|2017|p=191}}。

=== 世界大戦・大恐慌期 ===
世界大戦による歳出増加で、国家は所得税の歳入への依存を強めた。このため、会計処理手続が課税所得計算でどのように認められるかが問題となり、[[税務会計]]が利益概念に影響を与えた。一次大戦後には特需があったが、その反動で1920年代に赤字や減益となる企業が増加した。そのため本業の利益を中心とした損益計算書と、配当や社債についての剰余金計算書を区別するようになり、当期利益が明確になっていった{{Sfn|中野, 清水編|2019|pp=289-296}}。大恐慌をきっかけにアメリカで設立されたSECは、会計原則を制定するために{{仮リンク|会計手続委員会|en|Committee on Accounting Procedure}}(CAP)に依頼したが、時間的な制約もあってCAPは特定問題への対処が中心となり、包括的な会計原則は制定されなかった{{Sfn|中野, 清水編|2019|pp=310-313}}。

1929年には[[大恐慌]]が起き、[[ニューヨーク証券取引所]]の上場企業の時価総額は89パーセントが失われた{{Sfn|ソール|2018|pp=No.4279-4338/5618}}。厳しい環境下にあって、投資家保護のために公開基準と収益性を重視する会計観にもとづいて[[1934年証券取引所法]]が制定され、[[証券取引委員会]](SEC)が設置された。公認会計士の法的監査が確立し、会計原則にはアメリカ会計士協会と[[アメリカ会計学会]](AAA)が積極的に関わり、会計手続委員会へとつながる{{Sfn|中野, 清水編|2019|pp=311-313}}。

20世紀に成立した[[社会主義]]政権では、会計制度は資本主義国と異なる運用をされた。第一次大戦期にロシア革命(1917年)によって[[ソヴィエト連邦]]が成立すると、会計も社会主義にもとづいて進められ、会計士は計画経済を進める最高国民経済会議のために働くこととなった。国営企業の会計責任者は、貸借対照表と会計報告書を作成して会計を組織する責任を負った。中央集権化と集団農場化が進んだ1930年代からは、[[スターリン主義]]に批判的な会計士は活動の場を奪われていき、ソ連財務省と中央統計局が会計の指導と監督を行うようになった{{efn|スターリン主義者からは、会計学は個別企業のみを対象にしていると批判された{{Sfn|齊藤|2013|p=1}}。}}{{Sfn|森|1983|pp=176-186}}。

== 現代 ==
=== 会計基準の法典化 ===
[[米国会計基準]]は、国家とは独立した民間団体が会計基準を設定した。会計原則の制定はCAPとSECの意見の相違もあって難航し、新しい団体として1959年に{{仮リンク|会計原則委員会|en|Accounting Principles Board}}(APB)に引き継がれる。しかしAPBの研究を基礎とした演繹的な基準や設定方法には批判が集まり、1973年には会計史協会とは別個の団体である[[財務会計基準審議会]](FASB)へと引き継がれた。次第に会計基準の相互関係が複雑化したため、2009年に会計基準を法典化して簡素化を行った。これによってFASBが営利・非営利すべての非政府組織の会計基準を管理することになり、基準の一覧性も高まった{{efn|権威ある基準には、内容に応じて十進法の分類番号をつけている{{Sfn|中野, 清水編|2019|p=315}}。}}{{Sfn|中野, 清水編|2019|pp=312-315}}。

=== 会計基準の国際化 ===
会計の国際化の動きとして、1949年に[[アメリカ会計学会]]が中南米の会計基準を制定、1951年に欧州会計士連合が発足、1957年に[[極東会計士会議]]が発足した{{Sfn|ソール|2018|pp=No.4352-4365/5618}}。

[[国際会計士連盟]]の[[国際監査基準]]は1992年に受諾された。ヨーロッパでは、1970年代の[[欧州共同体]](EC)の時代から会計実務の調和が進められ、[[欧州連合]](EU)においても継続している。[[国際連合]](UN)、[[国際通貨基金]](IMF)、[[経済協力開発機構]](OECD)、[[東南アジア諸国連合]](ASEAN)などの機関にも会計基準に特化した部門が設立された{{Sfn|石黒|2010|pp=30-31}}。

1980年代後半以降の会計の国際統合の中心となったのは、[[国際会計基準委員会]](IASC)である。IASCは1973年に、各国会計士団体の参加によって、民間団体として設立された。当初のIASCの国際的な影響力は大きくなかったが、1987年に[[証券監督者国際機構]](IOSCO)の支持を受けた。IASCの発表する[[国際会計基準]](IAS)は、1989年の公開草案(ED)第32号「財務諸表の比較可能性」の発表によって、多くの代替的な会計処理の廃止による比較可能性向上が図られる。IASCは1998年に包括的な会計基準体系(コア・スタンダード)を完成させ、2000年にはIOSCOがIASを全世界的な使用をするものとして承認している。IASCは2001年に現在の[[国際会計基準審議会]](IASB)に改組され、IASBの発表する国際財務報告基準(IFRS)は、2005年までにEUの上場企業での強制適用が取り決められた。アメリカのFASBも、IASBとの会計基準の共同開発に取り組むことに合意([[ノーウォーク合意]])し、国際会計基準との差異解消を図っている{{Sfn|伊藤|2018|pp=99-102}}。

日本では[[金融ビッグバン]]にともない、1990年代後半から[[会計ビッグバン]]が進められ、2000年3月期から会計実務が変更されていった。それまでの日本の会計は損益計算を最優先する収益費用中心観の立場をとっており、[[取得原価主義]]だった{{Sfn|小見山|2008|pp=68-69}}。収益費用観は伝統的な会計の考え方だったが、FASBやIASBは資産負債観による会計基準を設定するようになっていった{{Sfn|伊藤|2018|pp=56-57}}。会計ビッグバン以降は、日本でも資産負債中心観に基づく会計基準が導入されるとともに、時価主義的な会計処理が新たに取り入れられるようになった{{efn|資産負債中心観に基づくものとして、連結財務諸表中心の制度導入、財務諸表体系へキャッシュフロー計算書を導入、退職給付・研究開発費・税効果会計・金融商品・棚卸資産を評価する会計基準の導入、などがある{{Sfn|小見山|2008|pp=68-69}}。}}{{Sfn|小見山|2008|pp=68-69}}。他方で、2018年時点でも、日本では収益費用観に重きを置く考えも根強く、収益費用観も会計基準の国際化に一定の影響を与えている{{Sfn|伊藤|2018|pp=56-57}}。

=== キャッシュフロー計算書 ===
巨額な設備投資においては、発生主義にもとづく損益計算では投資可能資金や支払資金を計算するには不十分だった。この解決のために[[キャッシュフロー計算書]]が考案された{{efn|古くは比較貸借対照表や資金運用表がある{{Sfn|渡邉|2017|pp=130-147}}。}}。キャッシュフローという言葉は1960年代の文献から現れ、当時は運転資本を指す場合が多かった。L・C・ヒースは現在のキャッシュフローに通じる現金収支計算書、財政活動計算書、投資活動計算書を説いた。欧米では1980年代から1990年代、日本では2000年にキャッシュフロー計算書が制度化された{{Sfn|渡邉|2017|pp=141-156}}。

=== 公正価値会計 ===
会計原則の大きな変化として、{{仮リンク|公正価値会計|en|Fair value}}がある。アメリカの会計は大恐慌の影響で資産の再評価が認められず、取得原価基準が採用された{{efn|株価暴落の原因として、金融商品の資産の恣意的な再評価があったという分析が理由である{{Sfn|鈴木|2002|pp=2-3}}。}}。1950年代から1960年代には[[朝鮮戦争]]の影響で[[インフレーション]]が問題となり、取得原価主義の限界が議論されるようになる。そして1970年代の[[石油ショック]]によるインフレへの対応が課題となって物価変動会計が導入され、補足情報としての開示が始まった。1980年代以降は金融商品についての公正価値情報の開示が進み、1990年代の[[デリバティブ]]の増加も影響して導入が進んだ{{Sfn|鈴木|2002|pp=9-10}}。

=== 管理会計の発展 ===
1930年代に提唱された前述の直接原価計算は、財務会計の目的に資するかどうか激しい論争が行われたが、管理会計において有用であることは定説となった。そして、1962年には標準原価計算と直接原価計算を結合した[[標準直接原価計算]]が登場するなどの新たな展開を見せた{{Sfn|櫻井|2015|pp=261-263}}。他方、同じく1960年代には、管理会計の分野において、キャッシュフロー情報の活用が進展した。これは設備投資の活発化に伴い、プロジェクト別の採算計算が重要となったためである。プロジェクト別採算計算では、発生主義会計に伴い算定される減価償却費は、投資意思決定とは関係のない埋没原価となってしまう。そのため、[[設備投資意思決定]]においては、[[回収期間法]]や[[DCF法]]などによるキャッシュフロー情報の活用が行われたのである{{Sfn|櫻井|2015|pp=76-77}}。

一方、1980年代のアメリカでは、赤字製品の切り捨てなどのリストラ目的で、活動基準原価計算の導入が図られた{{Sfn|櫻井|2015|pp=354-355}}。この背景には大量生産から多品種少量生産への転換という工場の実態に対応する必要があった。伝統的な原価計算が大量生産に適した製造間接費の配賦基準を用いていたため、多品種少量生産では適切に製造間接費を製品別に配賦できなかったのである。{{仮リンク|ロバート・S・キャプラン|en|Kaplan, Robert S.}}らはこの問題を解決するため、[[活動基準原価計算]](ABC)を提唱し、これは製品戦略に資するものであるとされた{{Sfn|櫻井|2015|p=347}}。活動基準原価計算は全部原価計算の流れを汲むものであり、著名な原価計算学者の[[チャールズ・T・ホーングレン]]は活動基準原価計算に反対し、キャプランと激しい論争を繰り広げたが、結局、ホーングレンも自説を改めて活動基準原価計算を支持した{{Sfn|櫻井|2014|p=557}}。

1990年代になると、M&Aの活発化にともない、企業価値評価で活用されるキャッシュフロー情報が管理会計においてもますます重要となった{{Sfn|櫻井|2015|pp=78-79}}。また、活動基準原価計算は、プロセス改善による原価低減を目的とした活動基準原価管理(ABM)に発展している{{Sfn|櫻井|2015|pp=354-357}}。また、キャプランらによって1992年には新たな管理会計ツールとして[[バランスト・スコアカード]]が提唱され、これは戦略マネジメントシステムとして広がっていくことになった{{Sfn|櫻井|2015|p|=611}}。

=== 社会主義国の会計 ===
==== ソヴィエト連邦 ====
1920年代から1930年代に作られたソ連型の会計制度は中央集権的であり、会計人は中央省庁の計画をもとに実務を行う簿記係と、上級機関に責任をもつ会計担当者に分かれた。経営の改善や専門家としてのイニシアティブを発揮する余地はなくなり、会計は硬直化した{{Sfn|森|1991|p=256}}。1960年代からは経済改革による分権化が行われ、計画経済や企業管理において利潤・原価・価格・利子なども評価されるようになり、会計士は科学技術協会(HTO)に所属して専門家として活動した。HTOでは資本主義諸国の会計の取り入れも検討された{{efn|検討項目としては、標準原価計算、直接原価計算、操業度と原価との関連、固定費と変動費の分類、損益分岐点、責任制と対応した原価設定、コストセンター、原価差異の許容限度、差異分析の利用、製造原価設定と標準修正、諸勘定から得られる設備投資の情報、自製・外注選択などがあった{{Sfn|森|1983|p=194}}。}}{{Sfn|森|1983|pp=189-194}}。

1980年代後半の[[ペレストロイカ]]から民営化や市場経済化が始まり、西側諸国との合弁企業で市場経済の会計が部分的に導入され、企業の営業秘密が認められた{{Sfn|森|2004|pp=104-105}}。1991年のソ連の崩壊によって市場経済化がさらに進み、ロシアでは公認会計士にあたる監査士が国家資格化された{{efn|監査士資格は各省庁の権益の結果として4種類に分かれ、銀行の監査士は中央銀行、保険機関の監査士は保険庁、証券会社と一般企業の監査士は財務省となった{{Sfn|齊藤|2003|p=21}}。}}。社会主義政権時代のロシアでは会計士の人気がなかったが、市場経済化が進むと会計士は人気の職業となった{{efn|市場経済化にともなってモスクワ大学では経済学部が難関となり、その中でも会計コースが人気を集めた。利益計算の学問である点と、高給である欧米の大手監査法人がモスクワに事務所を設立した影響がある{{Sfn|齊藤|2018|p=2}}。}}{{Sfn|齊藤|2003|pp=1-2}}。

==== 中国 ====
1949年に[[中華人民共和国]]が成立し、1950年にソ連をもとにした計画経済の会計制度が訓令された。1958年に[[大躍進政策]]が進められると、自力更生・生産第一というスローガンのもとで企業の会計規定がなくなり、会計担当者は下放されて農業や工業労働に従事した。1962年には会計業務の混乱を収拾するための指示が出され、会計担当者の復帰を認めるとともに、一般人にも容易な記帳法の研究が進められた。1964年に商業部部が増減記帳法の施行を始め、商業やサービス業で導入が進んだ{{efn|増減記帳法の手順は次のようになる。(1) 記帳伝票を作成する。(2) 記帳伝票と原始証憑にもとづいて明細帳等に記録する。(3) 記帳伝票を集計して記帳伝票総括表を作成する。(4) 記帳伝票総括表にもとづいて勘定口座へ転記する。(5) 総勘定元帳各勘定口座と補助簿の残高を照合する。(6) 総勘定元帳と補助簿にもとづいて会計報告書(財務諸表)を作成する{{Sfn|津谷|1998|p=100}}。}}{{Sfn|津谷|1998|pp=98-100, 159}}。

1978年の[[改革開放]]以降は、次のような会計の改革が進められた。(1) 会計基準の統一化が進められた。計画経済のもとでは業界や部門が分離しており、各企業の会計情報は統一されていなかった。(2) 外資を導入するため、国際基準を取り入れて国外の投資家に分かりやすい財務諸表が作成された。(3) 国家のマクロ経済を理解するために統一性と比較性のある会計情報を整備した。1985年には会計法が公布され、会計基準が定められた。国際慣行にそった会計基準や原価計算を取り入れ、それまでの増減記帳法から貸借記帳法に移行した{{Sfn|津谷|1998|p=158-166}}。

==== その他の社会主義諸国 ====
第二次大戦後の東欧諸国は、ソ連が主導する[[経済相互援助会議]](COMECON)に加盟してソ連型の会計制度を採用した。ユーゴスラヴィアは市場経済と労働者の自主管理にもとづいて会計制度を改革し、統一会計制度の採用を義務化せず、付加価値を導入し、社会会計局による監査を行った。他の東欧諸国は1960年代から改革を始め、アメリカ式の直接減価制(ハンガリー)、公認会計士による監査(ポーランド)、基本会計と工場内会計の分離(チェコスロバキア)、会計と統計の統一システム(東ドイツ)などが行われた{{Sfn|森|1991|pp=258-264}}。ベトナムは、1960年代は中国のモデルをもとに会計制度を定め、1970年代からはソ連や他の社会主義国の会計制度を参考とした。1986年からは[[ドイモイ]]政策の改革によって貸借対照表や損益計算書など市場経済の諸制度を導入していった{{Sfn|吉田|2019|pp=43-44}}。

ロシアを含めた旧ソ連の[[NIS諸国]]では国際会計基準への移行を進めているが、会計実務の違い、税制の違い、社会主義時代に存在しなかった概念の翻訳などが課題となっている{{efn|普通仕分帳がない点、勘定分類は西側諸国の5種類に対して3種類である点、現金勘定や商品勘定の違い、資産評価、手形取引や有価証券取引など多数の相違点がある{{Sfn|齊藤|2018|pp=27-31}}。}}{{Sfn|齊藤|2018|pp=3-4}}。

=== イスラーム会計 ===
[[イスラーム経済]]の特徴には利子の授受を行わない点があり、[[イスラーム法]]に準拠した取引が求められる。そのために、(1) 商品売買やリースで財を介在させて売却益や賃貸料収入を得る、(2) 出資として投資からの利益を得る、などの方法が歴史的に使われてきた{{efn|商品売買のムラーバハ、機械や不動産リースのイジャーラ、事業投資・損益分担契約の[[ムダーラバ]]、債権の[[スクーク]]、保険の[[タカフル]]などが発達している{{Sfn|野口|2016|p=195}}。}}{{Sfn|野口|2016|pp=192-193}}。[[イスラーム金融]]とイスラーム金融機関のための国際的な会計基準は、1990年から{{仮リンク|イスラム金融機関会計・監査機構|en|Accounting and Auditing Organization for Islamic Financial Institutions}}(AAOIFI)が定めている{{efn|2016年の時点でイスラーム教徒の数は世界人口の20パーセントを超えており、金融市場におけるイスラーム金融の成長率は20パーセントに達するとされる{{Sfn|野口|2016|p=191}}。}}。AAOIFIは主に湾岸諸国で採用され、マレーシア、インドネシア、パキスタンなどの国は、AAOIFIと併せて独自のイスラーム会計基準を整備した。会計教育では、影響力が大きいアメリカの会計と国民文化でもあるイスラーム会計が並立する国もある{{efn|インドネシアの大学では、植民地時代から続くオランダ式会計からアメリカ式会計に変わり、イスラーム会計は大学ではなくイスラーム経済研究センターが教えている{{Sfn|吉田|2018|p=106}}。}}{{Sfn|野口|2016|pp=193, 201}}。

2009年には、16カ国によってアジア・オセアニア会計基準設定主体グループ(Asian-Oceanian Standard-Setters Group、AOSSG)が設立されて、イスラーム金融の財務報告もテーマとなった。2010年にマレーシアを中心に作業グループ(AOSSG IF WG)が組織され、イスラーム金融にIFRSを適用する際の課題をIASBに提案した。2011年にイスラーム金融諮問グループが設立され、2013年に第1回会議が開催されて、イスラーム会計をIFRSに適用する際の課題が議論されている{{efn|イスラーム会計処理で意見が対立しやすい重要な問題として、貨幣の時間価値の扱いと、型式より実質を優先する点がある{{Sfn|野口|2016|p=195}}。}}{{Sfn|野口|2016|pp=192-198}}。

=== 世界金融危機と会計 ===
[[4大会計事務所|ビッグ8]]と呼ばれる大手会計事務所8社は、監査業務に加えてコンサルティング業務を増加させた。監査対象の企業からもコンサルティング業務を受注したため、監査人の独立性が問題とされるようになった{{Sfn|ソール|2018|p=No.4371/5618}}。1980年代以降のアメリカの会計不正の主な原因としては、(1) 経営者の報酬が株価に依存し、不正な操作で株価をあげる動機があった。(2) 不正を誘発するように株式市場が好調であった。(3) 不正を防ぐべき会計事務所が、監査業務とコンサルティング業務の[[利益相反]]を起こしていた、などがある。こうした状況下で、[[エンロン]]、[[ワールドコム]]などの大手企業が会計不正によって破綻した{{Sfn|祝迫, 古市|2004|p=334}}。

規制強化にもかかわらず、その後も不正は続いた。アメリカでは、エンロンと類似の事件を防ぐために、住宅ローンの国策会社である[[フレディマック]]と[[ファニーメイ]]がバランスシートを縮小した。その影響で住宅ローンに民間業者が参入し、民間業者が導入した[[サブプライムローン]]は住宅価格の上昇に後押しされて2003年以降に急拡大をした{{efn|2006年には、新しい住宅ローンの70パーセントがサブプライムや非従来型ローンで占められ、発行額は2001年の1000億ドルから2005年の1兆ドルまで増加した{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=73-74}}。}}{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=64-67}}。すでに2005年にはサブプライムローンのバブルが指摘されていたものの、[[格付け機関]]はリスクを知りつつサププライムの証券に高い格付けを与え続けた。リスクを警戒し、2006年から住宅ローン売買を減らした投資銀行もあったが問題の解決にはならず、2008年には[[リーマンブラザーズ]]の倒産をきっかけに[[サブプライム住宅ローン危機]]が起きた{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=74-74, 81-82}}。

サブプライム危機の一因には、時価評価もあった。取得原価主義であれば、機関投資家は株式などの金融資産で含み益を持つことができる。他方で時価評価主義では、金融資産の減価は自己資本減少と機関投資家が発行する株式の減価に直結し、その株式を保有する企業が発行する株式も減価となる。こうして負の連鎖が拡大した{{Sfn|辻村|2009|pp=91, 96, 102}}。サブプライム危機は[[世界金融危機 (2007年-2010年)|世界金融危機]]に波及し、2008年の[[ワシントン・サミット]]で[[G20]]が金融安定化のための国際会計基準について声明を行い、対応を求められたIASBは会計基準を変更した{{efn|IAS39号およびIFRS7号で認められていない金融資産の保有目的区分の変更を条件つきで認めた。IFRSを採用しているEU企業が、アメリカ企業に対して不利にならないように、EUが要請したとされる{{Sfn|森|2019|p=63}}。}}。この変更で適正手続([[デュー・プロセス・オブ・ロー]])を取らなかったためにIASBは批判を受け、IASBが推進してきた公正価値会計も批判された{{efn|公正価値会計への批判としては、収益費用観と資産負債観に代表される会計観の違いや、{{仮リンク|景気循環増幅効果|en|Procyclical and countercyclical variables}}などマクロ経済の観点からの批判もある{{Sfn|森|2019|pp=66-67}}。}}。IASBは公正価値会計の全面適用から方針を変更し、調整機関としての活動を増やすこととなった。IFRSは2013年に会計基準アドバイザリー・フォーラム(ASAF)を設立し、幅広い地域の団体がメンバーとして関与している{{efn|ASAFのメンバーは、2018年時点でパン・アフリカ会計士連盟(PAFA)、アジア・オセアニア会計基準設定主体グループ(AOSSG)、企業会計基準委員会(ASBJ)、中国財政部会計司(MOF-ARD)、韓国会計基準委員会(KASB)、欧州財務報告諮問グループ(EFRAG)、フランス会計基準局(ANC)、英国財務報告評議会(FRC)、イタリア会計基準設定主体(OIC)、ラテンアメリカ基準設定主体グループ(GLASS)、カナダ会計基準審議会(AcSB)、米国財務会計基準審議会(FASB)となる{{Sfn|森|2019|p=65}}。}}{{Sfn|森|2019|pp=63-68}}。

=== 会計ソフトウェア ===
20世紀後半から、会計実務において[[会計ソフトウェア]]が普及していった。1970年代には会計事務所の専用機型会計ソフトが実用化され、経理業務の正確性や効率性が向上した。1980年代には[[パーソナルコンピュータ]](PC)の影響により、パッケージ型の会計ソフトが発売された。パッケージ型ソフトは専用機に比べて安価であり、ユーザーの習熟度に合わせた入力機能を備えているソフトもあり、中小企業や個人事業者の間で使用者が増えていった。2010年代にはパッケージ型のソフトをネットワーク上で操作する[[クラウドコンピューティング|クラウド]]型の会計ソフトが登場した。クラウド型会計ソフトには、2013年から[[人工知能]](AI)の導入が始まり、銀行口座やクレジットカードのデータ取り込みや帳票のスキャンによって仕訳の自動化が実現した。インターネットによって財務データの入手も容易となり、2008年には金融庁運営の[[EDINET]]から企業が提出した財務諸表をダウンロード可能となった{{Sfn|河合|2017|pp=3, 7-8}}。

== 家計簿の歴史 ==
家計や家政については、古くはアリストテレスの『[[政治学 (アリストテレス)|政治学]]』、[[クセノポン]]の『[[家政論]]』、そしてアリストテレス名義の偽書『[[経済学 (アリストテレス)|経済学]]』などの文献がある{{Sfn|栗原|2016|pp=3-4}}。古代ローマの家長は、国家に家計簿を義務づけられており、財政政策の一部でもあった{{Sfn|ソール|2018|p=No.309/5618}}。当時の家政は[[家父長制]]を前提としたものであり、例えば『家政論』では夫は戸外の政治と農場管理、妻は家庭内という分担が理想とされていた{{Sfn|栗原|2016|pp=4-5}}。

個人的な内容や家庭のために記帳する家計簿も現れ、中世のイタリア商人は、商売の帳簿とは別に個人的な家計簿をつけた{{Sfn|ソール|2018|p=No.602/5618}}。思想の一環として家計簿が使われる場合もあり、アメリカの作家・思想家[[ヘンリー・デイヴィッド・ソロー]]は森で暮らしながら家計簿をつけて、生きるために最低限必要なものを見極めようとした{{Sfn|ソール|2018|pp=No.490-497/5618}}。

アメリカで公認会計士第1号となった{{仮リンク|チャールズ・ワルド・ハスキンズ|en|Charles Waldo Haskins}}は職業教育や家計の重要性を説き、家庭に会計学を活かすために家計の本を出版した{{Sfn|ソール|2018|pp=No.4002-4014/5618}}。日本においては、1908年に羽仁もと子が刊行した家計簿が現在まで続いている点で最も長い。羽仁は家計について、労力と財力が調和を保って発展するようにつとめるという目標を掲げた{{efn|羽仁の家計簿は1ヶ月単位で費目ごとに予算を立てるようになっており、1年間の総収入から生活費・衣食住費・教育・保険衛生・娯楽などを算出し、それを12等分して管理する{{Sfn|樋口, 近藤|2009|pp=}}。}}。刊行当時から現在まで同内容を保っており、当初は主婦1人による記帳を想定していたが、家計簿は家庭全員が参加するものという構想に変わっていった{{Sfn|樋口, 近藤|2009|pp=}}。

== 学問としての会計史 ==
[[File:BurroughsCorporationAddingMachine.jpg|thumb|200px|[[バロース社]]の初期の加算機。加算機は統計調査や会計に使われ、[[会計機]]とも呼ばれた{{efn|作家の[[ウィリアム・バロウズ]]は、バロース社の創始者ウィリアム・シュワード・バロウズ1世の孫にあたる{{Sfn|山形|2003|pp=35-36}}。}}。]]
初期の会計史の研究として{{仮リンク|リチャード・ダフォーン|nl|Richard Dafforne}}の『商人の鏡』(1635年)があるが、1ページのみだった。単行本としては、ベンジャミン・F・フォスターの『The Origin And Progress Of Book-keeping』(1852年)からとなる{{Sfn|中野ほか|2015|pp=1-2}}。日本では明治期の洋式簿記の導入と同時期に歴史研究が始まり、当初は海外研究の抄訳が多かった。初期のものとして曽田愛三郎『学課起源略説』(1878年)や海野力太郎『簿記学起源孝』(1886年)がある{{Sfn|茂木|1992|pp=1-2}}。

学会は、1972年にイギリス会計史学会、1973年に{{仮リンク|アメリカ会計史学会|en|Academy of Accounting Historians}}、1982年に日本会計史学会が設立された。学術誌としては、アメリカ会計史学会の機関紙「{{仮リンク|The Accounting Historians Journal|en|The Accounting Historians Journal}}」(AHJ)が年2回、国際的ジャーナルの「{{仮リンク|Accounting History|en|Accounting History}}」(AH)が年4回発行されている。傾向としては、AHJが伝統的な組織を扱い、AHは限定されずにさまざまな組織を扱う。日本では「会計史学会年報」が発行されている他、会計専門学術誌である『會計』にも研究論文が掲載されている{{Sfn|中野ほか|2015|pp=1-2}}。研究者の傾向として、日本では会計プロフェッションを兼務せずに研究者となる割合が多く、海外では公認会計士の研究者が多い{{Sfn|中野ほか|2015|p=6}}。

; 複式簿記の起源
複式簿記の起源については複数の説があり、特に古代ローマ起源説と中世イタリア起源説に大きく分かれる。ローマ説の根拠としては、会計役の奴隷と主人がおこなっていた代理人簿記を起源とする。中世イタリア起源説は、さらにトスカーナ説、ジェノヴァ説、ロンバルディア説、ヴェネツィア説、各都市国家で同時期に作られた説などに分かれる{{Sfn|片岡|2018|pp=58, 63-64}}。

近代以降のヨーロッパの繁栄や産業革命の一因に、複式簿記を含める説がある。しかし、正確な簿記はヨーロッパ以外にも存在しており、複式簿記が誕生したのちもインドや中国をはじめとする地域はヨーロッパよりも繁栄していた{{Sfn|ポメランツ|2015|pp=179-180}}。そのためアフリカやアメリカ大陸への進出による鉱物資源の調達、人口増加の解決、工業製品の輸出増などがヨーロッパの繁栄や産業革命の主な原因とされる{{Sfn|ポメランツ|2015|loc=第4章}}。

== 出典・脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}

=== 注釈 ===
{{Reflist|group="†"|}}
{{Notelist|2|}}

=== 出典 ===
{{Reflist|20em|}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
=== 単行本 ===
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* {{Citation| 和書
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* {{Citation| 和書
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* {{Citation| 和書
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| title = 会計学の誕生 - 複式簿記が変えた世界
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=== 論文・記事 ===
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* {{Cite journal|和書|author=明石茂生 |title=古代東地中海地域における国家,貨幣,銀行 : アテナイ,エジプト,ローマを中心に |url=http://id.nii.ac.jp/1109/00003901/ |journal=成城大学経済研究 |publisher=成城大学経済学会 |year=2017 |month=jul |issue=217 |pages=1-76 |naid=120006348829 |issn=0387-4753 |accessdate=2020-07-06|ref={{sfnref|明石|2017}}}}
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* {{Cite journal|和書|author=[[安藤英義]] |title=会計の二つの機能をめぐる諸問題--利害調整と情報提供 (特集 学問への招待) |url=https://doi.org/10.15057/10296 |journal=一橋論叢 |publisher=日本評論社(発売) |year=2002 |month=apr |volume=127 |issue=4 |pages=347-362 |naid=110007642609 |doi=10.15057/10296 |issn=00182818 |accessdate=2020-07-16|ref={{sfnref|安藤|2002}}}}
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* {{Cite journal|和書|author=[[祝迫得夫]], 古市峰子 |title=コーポレート・ガバナンスと会計問題--エンロン破綻とアメリカの制度改革を巡って |url=https://doi.org/10.15057/21709 |journal=経済研究 |publisher=岩波書店 |year=2004 |month=oct |volume=55 |issue=4 |pages=328-344 |naid=40006461204 |doi=10.15057/21709 |issn=00229733 |accessdate=2020-07-16|ref={{sfnref|祝迫, 古市|2004}}}}
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* {{Cite journal|和書|author=[[小栗崇資]]|url=https://ahaj.org/conference/aha19th/ahaoguri.pdf|title=アメリカ連結会計の生成起源と展開過程|format=PDF|work=|journal=日本会計史学会年報 |publisher=日本会計史学会 |year=2018 |month= |volume=19 |issue= |pages=1-15 |accessdate=2020-07-04|ref={{sfnref|小栗|2018a}}}}{{404|date=2023-06}}
* {{Cite journal|和書|author=[[片岡信之]] |title=エンロン・ワールドコム事件と株主価値経営の限界 |url=https://hdl.handle.net/10519/3729 |journal=竜谷大学経営学論集 |publisher=龍谷大学経営学会 |year=2004 |month=jun |volume=44 |issue=1 |pages=30-44 |naid=110004622552 |issn=09183434 |accessdate=2020-07-16|ref={{sfnref|片岡|2004}}}}
* {{Cite journal|和書|author=[[片岡泰彦]] |title=複式簿記起源論再考 |url=http://opac.daito.ac.jp/repo/repository/daito/52316/ |journal=経済論集 |year=2018 |month=sep |issue=110 |pages=57-91 |naid=120006715598 |issn=0287-4237 |accessdate=2020-07-16|ref={{sfnref|片岡|2018}}}}
* {{Cite journal|和書|author=河合晋|authorlink=河合晋|year=2017|url=https://doi.org/10.18929/00000232 |work=|publisher=岡崎女子大学・岡崎女子短期大学 地域協働研究 |issue=3 |pages=1-11 |doi=10.18929/00000232 |naid=120006497837 |accessdate=2020-09-11|ref={{sfnref|河合|2017}}}}
* {{Cite journal|和書|author=[[木原徳子]] |title=トークンからみたウルク・エクスパンション |url=http://jswaa.org/jswaa/JWAA_07_2006_061-081.pdf |format=PDF |journal=西アジア考古学 |publisher=日本西アジア考古学会 |year=2006 |month=mar |issue=7 |pages=61-81 |naid=40015182195 |issn=13456288 |accessdate=2020-07-16|ref={{sfnref|木原|2006}}}}
* {{Cite web|和書|author=熊倉和歌子|authorlink=熊倉和歌子|year=2011|url=http://www.tbias2.jp/PDF/kumakura.pdf|title=マムルーク朝時代の官庁における会計帳簿|format=PDF|publisher=共同利用・共同拠点イスラーム地域研究拠点東洋文庫研究部イスラーム地域研究資料室|accessdate=2020-07-04|ref={{sfnref|熊倉|2011}}}}
* {{Cite journal|和書|author=[[栗原麻子]] |title=家族の肖像 : 前四世紀アテナイにおける法制上のオイコスと世帯 |url=https://doi.org/10.14989/shirin_99_3 |journal=史林 |publisher=史学研究会 |year=2016 |month=apr |volume=99 |issue=1 |pages=3-38 |naid=120006598818 |doi=10.14989/shirin_99_3 |issn=03869369 |accessdate=2020-07-16|ref={{sfnref|栗原|2016}}}}
* {{Cite journal|和書|author=[[高梠真一]] |title=アメリカ鉄道管理会計の展開と貢献:鉄道業から製造業へ |url=https://doi.org/10.14846/seisankanri1995.7.7 |journal=生産管理 |publisher=日本生産管理学会 |year=2000 |volume=7 |issue=1 |pages=7-12 |naid=130004376725 |doi=10.14846/seisankanri1995.7.7 |issn=1341-528X |accessdate=2020-07-16|ref={{sfnref|高梠|2000}}}}
* {{Cite journal|和書|author=[[児玉敏一]] |title=経営近代化と管理・事務職務 : アメリカ事務管理の形成過程から |url=http://id.nii.ac.jp/1067/00004437/ |journal=札幌大学女子短期大学部紀要 |publisher=札幌大学女子短大部 |year=1988 |month=sep |volume=12 |issue= |pages=17-36 |naid=120005546336 |issn= |accessdate=2020-09-11 |ref={{sfnref|児玉|1988}}}}
* {{Cite journal|和書|author=[[小見山隆行]] |title=会計観の変容と利益計算原理 |url=http://kiyou.lib.agu.ac.jp/titles/ronbun_meisai_ie?id=135 |format=PDF |journal=愛知学院大学論叢 商学研究 |publisher=愛知学院大学商学会 |year=2008 |month=mar |volume=48 |issue=2 |pages=163-179 |naid=40016359249 |issn=02858932 |accessdate=2020-07-16 |ref={{sfnref|小見山|2008}}}}
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* {{Cite journal|和書|author=[[邵藍蘭]] |title=中国における初期の簿記書 |url=https://hdl.handle.net/10742/1387 |journal=札幌学院大学経営論集
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* {{Cite web|和書|author=鈴木直行|authorlink=鈴木直行|year=2002|url=https://www.imes.boj.or.jp/research/papers/japanese/02-J-06.pdf|title=金融商品の全面公正価値会計の提案に至るまでの米国会計基準の歴史的考察|format=PDF|publisher=日本銀行金融研究所 |id={{CRID|1130282269529246208}} |accessdate=2020-07-04|ref={{sfnref|鈴木|2002}}}}
* {{Cite journal|和書|author=[[周藤芳幸]] |year=2007| |url=https://hdl.handle.net/2237/11271 |title=ミケーネ社会からポリス社会への構造転換に関する統合的研究 |journal=研究報告書.科学研究費補助金報告書;基盤研究(C);16520438 |accessdate=2020-07-16|ref={{sfnref|周藤|2007}}}}
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* {{Cite journal|和書|author=[[田中孝治]]|year=2011|url=https://leo.aichi-u.ac.jp/~keisoken/research/journal/no96/a/96_03.pdf |format=PDF |title=日記と和式簿記|publisher=愛知大学経営総合科学研究所 |journal=経営総合科学 |volume=96 |pages=59-83 |naid=40019178635 |accessdate=2020-07-16|ref={{sfnref|田中|2011a}}}}
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* {{Cite journal|和書|author=田中孝治|year=2018|url=http://id.nii.ac.jp/1082/00009298/ |title=調庸帳と我国古代の決算報告制度 : 調庸帳と勘会と風土記の関係性について |publisher=愛知大学経営総合科学研究所 |journal=経営総合科学 |volume=108 |pages=27-63 |naid=120006545499 |accessdate=2020-09-11 |ref={{sfnref|田中|2018b}}}}
* {{Cite journal|和書|author=田中孝治|year=2019|url=http://id.nii.ac.jp/1082/00009556/ |title=前近代における東アジア諸国の固有簿記について|publisher=愛知大学経営総合科学研究所 |journal=経営総合科学 |volume=110 |pages=1-38 |naid=120006624755 |accessdate=2020-09-11|ref={{sfnref|田中|2019}}}}
* {{Cite journal|和書|author=[[辻村雅子]] |title=米国サブプライム危機の資金循環分析 |journal=産業連関 |publisher=環太平洋産業連関分析学会 |year=2009 |volume=17 |issue=1-2 |pages=88-104 |naid=130005084141 |issn= |url=https://doi.org/10.11107/papaios.17.88 |doi=10.11107/papaios.17.88 |accessdate=2020-08-08|ref={{sfnref|辻村|2009}}}}
* {{Cite journal|和書|author=[[土谷幸久]] |title=イスラム会計の基底 |journal=四天王寺大学紀要 |issn=1883-3497 |publisher=四天王寺大学 |year=2009 |issue=48 |pages=35-56 |naid=110007337489 |url=http://www.shitennoji.ac.jp/ibu/docs/toshokan/kiyou/48/kiyo48-03.pdf |format=PDF |accessdate=2020-07-16|ref={{sfnref|土谷|2009}}}}
* {{Cite web|和書|author=東洋文庫研究部イスラーム地域研究資料室|year=2016|url=http://tbias.jp/ottomansources/tahrir_defteri|title=租税台帳 tahrir defteri|format=PDF|work=|publisher=東洋文庫研究部イスラーム地域研究資料室|accessdate=2020-07-20|ref={{sfnref|東洋文庫|2016}}}}
* {{Cite journal|和書|author=[[中居文治]]|url=http://id.nii.ac.jp/1362/00000175/ |title=引用の作法 - 引用の観点からみた「ゲーテと複式簿記」|journal=九州情報大学研究論集 |publisher=九州情報大学 |year=2015 |month=mar |volume=17 |issue= |pages=51-64 |issn=1349-2780 |naid=120006318167 |accessdate=2020-09-11 |ref={{sfnref|中居|2015}}}}
* {{Cite journal|和書|author=[[中川仁美]] |title=鉄道会計史研究が近代会計理論に与えた影響 |url=https://doi.org/10.18925/00001127 |journal=作大論集 |publisher=作新学院大学 |year=2019 |month=mar |issue=9 |pages=101-122 |naid=120006601960 |doi=10.18925/00001127 |issn=2185-7415|accessdate=2020-07-16|ref={{sfnref|中川|2019}}}}
* {{Cite journal|和書|author=中野常男|title=『ヴェニスの商人』と複式簿記 : パチョーロ簿記論とヴェネツィア式簿記 |url=https://doi.org/10.24546/00174643 |journal=国民経済雑誌 |publisher=神戸大学経済経営学会 |year=1990 |month=jun |volume=161 |issue=6 |pages=35-58 |naid=120000944143 |issn=0387-3129 |doi=10.24546/00174643 |accessdate=2020-07-16 |ref={{sfnref|中野|1990}}}}
* {{Cite journal|和書|author=中野常男 |title=『ロビンソン・クルーソー』と貸借対照表 : ダニエル・デフォーの簿記論研究 (高田正淳博士記念号) |url=https://doi.org/10.24546/00175096 |journal=国民経済雑誌 |publisher=神戸大学経済経営学会 |year=1994 |month=nov |volume=170 |issue=5 |pages=65-91 |naid=120000949671 |doi=10.24546/00175096 |issn=0387-3129 |accessdate=2020-07-16|ref={{sfnref|中野|1994}}}}
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* {{Cite journal|和書|author=[[名城邦夫]] |title=「市場の貨幣史」 資本主義世界経済成立過程における貨幣システムの革新 1 : ニュルンベルク都市史を中心に |journal=名古屋学院大学論集. 人文・自然科学篇 |ISSN=0385-0056 |publisher=名古屋学院大学総合研究所 |year=2014 |month=jan |volume=50 |issue=2 |pages=49-75 |naid=120005662310 |doi=10.15012/00000354 |url=https://doi.org/10.15012/00000354|accessdate=2022-01-18|ref={{sfnref|名城|2014}}}}
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== 関連文献 ==
=== 単行本 ===
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| title = ウルフ 会計史
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| translator = 片岡泰彦, 片岡義雄
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| first = Arthur H.
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| year = 1912
| title = A short history of accountants and accountancy
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* {{Citation| 和書
| first = 義雄
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| author-link = 片岡義雄
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* {{Citation| 和書
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* {{Citation| 和書
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| title = 会計発達史
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| year = 1978
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}}(原書 {{Citation| 洋書
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| first = Ananias Charles
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=== 論文・記事 ===
* {{Cite journal|和書|author=安藤英義 |title=会計帳簿と財産目録 : 会計の原点とその現状 |url=https://doi.org/10.34360/00001627 |journal=専修商学論集 |publisher=専修大学学会 |year=2017 |month=jul |issue=105 |pages=1-17 |naid=120006792341 |doi=10.34360/00001627 |issn=0386-5819|accessdate=2020-07-16|ref={{sfnref|安藤|2017}}}}
* {{Cite web|和書|author=[[日本簿記学会]]簿記理論研究部会|year=2016|url=https://www.bokigakkai.jp/wp-content/uploads/divisionreports/boki_theory_finalreport2016.pdf|title=帳簿組織の研究|format=PDF|work=|publisher=日本簿記学会|accessdate=2020-07-04|ref={{sfnref|日本簿記学会|2016}}}}
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== 関連項目 ==
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* [[会計]]
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2024年12月11日 (水) 19:13時点における最新版

ルカ・パチョーリの著書『スムマ』(1494)。複式簿記を体系化した最初の本とされる。
会計
主要概念
簿記 - 時価会計
現金主義 - 発生主義
環境会計
売上原価 - 借方 / 貸方
複式簿記 - 単式簿記
後入先出法 - 先入先出法
GAAP / US-GAAP
概念フレームワーク
国際財務報告基準
総勘定元帳 - 取得原価主義
費用収益対応の原則
収益認識 - 試算表
会計の分野
原価 - 財務 - 法定
基金 - 管理 -
財務諸表
貸借対照表
損益計算書
キャッシュ・フロー計算書
持分変動計算書
包括利益計算書
注記 - MD&A
監査
監査報告書 - 会計監査
GAAS / ISA - 内部監査
SOX法 / 日本版SOX法
会計資格
JPCPA - ACCA - CA - CGA
CIMA - CMA - CPA - Bcom
税理士 - 簿記検定
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会計史(かいけいし)では、会計歴史および会計と密接に関係がある帳簿簿記の歴史について扱う。会計は利益利害関係者に説明する行為(英語: accounting)を指し、簿記は帳簿に取引を記録する行為(英語: bookkeeping)を指す[1]。歴史的には、会計はの記録とそれにもとづく管理、簿記は会計に固有の記録・計算用ツールともいえる[2]。現在の会計という語は企業会計を指す場合が多いが、国家についての記録も多数が残されている[3]。本記事では古代を含めて国家・商業組織の会計や家計簿を対象とする。

概要

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各時代の概要

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クエンティン・マサイス両替商とその妻』(1514年)。金銭を扱う職業の注意深さ、妻の信心深さを表している[4]
古代

会計や帳簿の起源は、ものを数える行為や、物資を管理する行為に関係し、文字の使用よりも早く行われていた[5][6]。物資を集めて分け与える管理は再配分とも呼ばれ、古代の会計や帳簿は再配分と密接な関係にあった。穀物をはじめとする食糧や現物は、国家の歳入歳出や交換に使われ、物資の数量把握が必要とされた。エジプトメソポタミアイスラエル中国ギリシャローマなどの地域では、現在の単式簿記にあたる会計が行われていた[7][8]

中世

イスラーム王朝は商業のインフラを整えて、財務官僚の技術として書記術とともに簿記術を広め、インド数字を取り入れた[9][10][11]イタリア都市国家は地中海貿易を盛んに行い、13世紀から15世紀にかけて複式簿記の原型が整えられていく[12]貿易金融の複雑化や、商人識字率の上昇も帳簿の発展を後押しした。インド・アラビア数字イスラーム世界からヨーロッパへ伝わり、計算や記録が容易になっていった[13]

近世・近代

複式簿記がヨーロッパ各地に伝わり、会計や商法の近代化が進んだ。主な点としては、(1)年次決算の確立、(2)精算表の出現、(3)時価による評価替え、(4)口別損益勘定の総括化、(5)貸借対照表の原型となる資本金勘定、などがある[14]

初期の複式簿記は少人数の組合員や組織によるものだったが、産業革命が進んで投資額や企業が大規模になると、多くの株主に成果を開示するためにフローとストックを要約した表を開示するようになった。これが貸借対照表損益計算書である[15]。会計制度や法規制の増加にともない、専門家として公認会計士が登場し、公認会計士による監査制度も整えられた[16]

現代

地域による会計基準の違いを解決するために、国際会計基準の導入が進んだ。会計事務所は監査に加えてコンサルティングを行うようになり、20世紀後半から監査法人独立性に疑問が呈されるようになる。21世紀には不正会計により大企業が相次いで破綻し、会計の厳格化や投資家保護の法律が定められたが、世界金融危機が発生した[17][18]

数学・技術

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コーデクス・ヴィギラヌス英語版。インド・アラビア数字がヨーロッパで書かれた初期の例。スペインの修道院で発見された[19]
記数法

会計には計算が欠かせず、記数法との関係が重要となる。エジプト数字バビロニア数字ローマ数字は計算に時間がかかる。この点でインド数字は十進法であり、計算が容易で会計に適した記数法であった。インド数字は西アジアに取り入れられてインド・アラビア数字となり、イスラーム世界を通じてヨーロッパ、のちには世界各地に普及していった[20]

道具

ものを数える行為は、文字とは別個に行われていた[注釈 1]。紀元前30世紀のメソポタミアでは、粘土のトークンと容器を用いた会計が在庫管理に使われていた[5]。アメリカのインカ帝国では、キープと呼ばれる縄で財政が行われていた[21]。また、近代の無文字社会でも官僚組織と財務管理を整備した国家が存在した[22]

会計を記録する道具としては、粘土板パピルス竹簡木簡樹皮木の葉結縄絹布羊皮紙などが使われた[23]。日本では、和紙の長帳や袋帳に取引を筆書きし、そろばんを使って集計した。これを帳合と呼び、分類的には多帳簿制収支(検算)簿記とも呼ぶ[23]

情報

会計技法の普及には、出版物が大きな効果をもった。ヨーロッパでは、パチョーリの『スムマ』をはじめとする簿記書が15世紀から出版されて複式簿記の普及につながった[24]。イスラームでは書記術の一環として、財務官僚に簿記を伝授する本が書かれた[25]。中国では官僚向けの会計術は書かれたが、民間の商人向けの本は近代までなかった[26]。日本では、帳簿の記帳や計算方法は商家ごとに秘密とされており、部外者に共有はされなかった[注釈 2][28]

分類

[編集]
マックス・フォルクハート英語版『仕事場の公証人』
財務会計・管理会計

財務会計は外部の利害関係者に公開する会計で、管理会計は企業内部の管理のために作成する。この二つは19世紀までは厳密には分かれていなかった。イギリスアメリカの鉄道業には規制が多数設けられ、資金調達や利害調整、コスト管理、政府国民への情報提供などの要因が重なって、財務的側面と管理的側面に分かれることとなった。さらにトラストの発生による独占が問題となり、規制のない一般企業でも財務会計が求められるようになった[29][30]。中世イタリアでは、商人は監査用の帳簿と、日記を兼ねた秘密帳簿をつけ、秘密帳簿の決算は公式の帳簿と一致しない場合が多かった[31]

原価主義・時価主義

原価主義は取引をした時点の原価を基準とし、取得原価主義とも呼ばれる。これに対して時価主義では現在価値の時価を基準とする。原価は過去の価値、時価は現在の価値とも表現できる。会計は長らく原価主義で行われていたが、不動産や金融商品においては原価と時価の差が大きい。このため次第に時価主義(物価変動会計)の導入が進み、特に20世紀後半から金融商品を中心として公正価値英語版の導入が進んだ[32]

会計と社会

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商人の筆記。マンハイムのライス・エンゲルホルン博物館英語版所蔵。
人員・組織

古代エジプトにおいては、帳簿を記録する書記は重要な役職だった[33]。古代のギリシャローマは地中海商業で繁栄したが、商業行為は低く見られており、帳簿をつけるのは奴隷の役目だった[34]。委託・受託関係の会計として代理人会計があり、古代ギリシャやローマでは主人が奴隷に委託し、中世ヨーロッパでは領主が荘園の管理者に委託した。これらは株主に経営状態を明らかにする現在の損益計算書とは意味合いが異なる[35][36]

古代バビロニア中世イタリアでは、契約を記録するために立会人や公証人が働いた。イタリアでは契約の増加によって公証人が不足すると、商人がみずから記録を残すようになり、帳簿の普及にもつながった[37]。現在では、専門資格を持つ公認会計士の制度が確立されている[16]。国家の経済体制や社会の価値観によって、会計を扱う職業の立場は変化してきた。たとえば16世紀ヨーロッパでは収税人や帳簿の不正を風刺する絵画が描かれた[38]社会主義政権時代のロシアでは会計士には人気がなかったが、市場経済化が進むにつれて人気の職業となった[39]

会計や簿記の複雑化には、商業組織の事業内容、形態、管理が関係した。複式簿記が掲載されたといわれるイタリアの都市国家では、貿易の共同企業から遠隔地に支店をもつ大規模な商会への発展が帳簿の発展をうながした[12]減価償却損益計算書連結決算の成立には19世紀の鉄道業が影響した[40][41]

信仰

古代エジプトでは知識の神トートが書記の守護者とされた[42]キリスト教イスラームにおいては利子ラテン語: usuraアラビア語: ربا‎)が禁止され、中世キリスト教徒の商人の帳簿は神への告解という側面をもった[43][44]。ヨーロッパでは、帳簿が真実であることを神に誓う証として、元帳に十字架を書く習慣があった[45]。ギリシア神話やローマ神話の公正・正義を象徴する女神テミスは、会計事務所や会計に関する施設にも置かれることがある[46]

政治

会計は組織の活動を理解する手段として有用であり、政府や自治体の公会計も、営利組織の会計(私会計)と同様に古来から記録されてきた。公会計の資源は徴税であるために、特に支出の統制が重要となった[47]。中世イギリスの会計書は、(1) 公的、(2) 私的、(3) 教会、(4) 慈善組織の4種類があった[48]

複式簿記の手法を国の財政管理に導入することを提案したのは、17世紀の数学者シモン・ステヴィンの論考「王侯簿記」にはじまる[49]。政府をバランスシートによって評価するという視点は、ブルボン朝の財務長官を務めたジャック・ネッケルの『国王への会計報告英語版』がきっかけだった。国家の収入と支出を調べて問題点を明らかにした『会計報告』はフランス革命の一因にもなり、各国の公会計に影響を与えた[50]。私会計と公会計は影響を与え合う関係にあり、19世紀末から20世紀初頭のアメリカでは私会計をもとに公会計が改革され、さらにその成果が私会計に応用された[51]

古代

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アジア・アフリカ

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古代エジプトの書記が使ったパレットと4本の尖筆(スタイラス)。パレットには顔料のくぼみがある。
アフリカ

エジプトでは紀元前40世紀頃より国家機構が形成されて、家畜や穀物、鉱物などが各地で租税として徴収された。腐敗の怖れの高いものは地元の行政に支出され、それ以外の物資が中央のファラオの倉庫に送られた[52]。倉庫の管理には会計記録官をはじめとする記録官や人夫が配置され、会計記録官はパピルスに葦草の筆で記録した。政府の経理文書は上質のパピルス、計算書は低質のパピルスまたは上質のパピルスの断片を使った[注釈 3][54][53]。神殿や王宮、地方の役所には書記の学校があり、教育を受ける余裕のある家庭ならば、庶民でも訓練を受けて書記に任命される機会があった[注釈 4][33]。古代エジプト神話においては、知識の神トートが書記の守護者であり、文書を保管する役所ではトートの像が祀られた[42]。現物経済のため、生産物の貯蔵、食糧や土地の配分のための計算が多用された。このため現存するエジプト数学の記録には、単位分数が多い[56]アレクサンドロス3世による征服ののちは、プトレマイオス朝をへてヘレニズムやローマの影響を受けた財政となっていった[57]

粘土製の容器であるブッラ。紀元前4000年-3100年。
西アジア

メソポタミアには、粘土製のトークン(証票)と、ブッラと呼ばれる粘土製の容器があった。これらは紀元前35世紀ウルク文化中期において、計算や物資の管理に使われたとされる[注釈 5]シュメルでは、文字を読めない者のためにトークンとブッラが粘土板と併用された[58][59]紀元前22世紀から紀元前21世紀ウル第三王朝の時代には、シュルギ王が官僚機構の大規模化、度量衡・会計・文書記録の整備を進めた[60]紀元前18世紀のバビロニアのハンムラビ法典には、商取引・委託受託・賃貸借・貸借の契約についても書かれている[8]

アラビア半島から広まったイスラームでは、『クルアーン』の第2章282節と283節において、貸借関係を明らかにする必要が書かれている[61]。初期のイスラーム指導者であるウマル1世は、軍に給料を支払うために受給者名簿を作成し、名簿をもとに現金と現物で支給した。この財政は、軍による征服地の分配と現地人の奴隷化を禁止する意図があった。受給者名簿はディーワーンと呼ばれ、最初のイスラーム王朝であるウマイヤ朝において官庁を指す言葉になる。ウマイヤ朝のディーワーン制度は、アッバース朝をはじめとするのちのイスラーム王朝に引き継がれた[62]。また、インド数字が古代から西アジアに入り、アラビア語文献でも使用が始まった[注釈 6]。773年には、インドからの使節がアル=マンスールが治めるバグダードを訪れて記数法を宮廷に伝えた[64]

南アジア
3世紀から4世紀のバクシャーリー写本に書かれたシャーラダー数字。右端の黒い点が、最古のゼロ表記とされる

紀元前4世紀のマガダ国ではパリサトという行政機関が設置され、ガナカやサンキヤーナカと呼ばれる役職が王家・官庁・法廷で計算をしていた記録があり、現在の会計士にあたる。仏典では大臣に属するガナカの記述があり、マウリヤ朝の政治家カウティリヤが書いた『実利論』にはサンキヤーナカの仕事が書かれている[注釈 7][66]。マウリヤ朝の官僚制度はクシャーナ朝にも引き継がれ、中央の主税官、税務官、地方の会計官などがいた。クシャーナ朝時代に作られたとされる『マヌ法典』には、第8条と第39条に会計についての規定がある。不動産、奴隷、債務弁済、カーストごとの利息、商税や年貢について定められていた[67]

古代インドにおいて、現在の会計で使われている数字の原型が作られた。紀元前3世紀頃には、シャーラダー数字によってゼロと1から10までの数字で全ての数を表せるようになった[68]。インド文化は膨大な桁数の数を用いたが、ヴェーダジャイナ教においては宗教や哲学が目的であり、商業計算の記録は3世紀から4世紀のバクシャーリー写本からとなる[69]

東アジア

紀元前12世紀から紀元前8世紀にかけて栄えた西周では、住民から九賦・九貢・九職を徴収し、それぞれ特定の支出に振り分けた。九賦は現在の経常収入、九貢は非経常収入にあたる。財政の最高責任者は天官太宰で、その下に司会と呼ばれる会計の官僚がいた。記帳をする最初期の会計として、国家財政を扱った九府出納がある[70]。紙が普及する前は、獣骨や亀甲、竹簡や木簡に記録しており、一般の商人が紙を使うようになったのは唐からといわれる[71]

帳簿(簿書)は、流水帳と呼ばれる方式で記録された。発生順に書いてゆく備忘的な記録であり、帳簿の保存や決算はなかった。この形式が清まで一般的に続くことになる。流水帳は単一の記録として始まり、のちに日記帳にあたる草流、財の種類や収支を区別する細流、総勘定元帳にあたる総青の3つに細分化していった。が成立すると中央集権を整えたことで草流、細流、総青を使い分けた。前漢の財政は帝室と政府で収入・支出を分けており、帝室財政は少府、国家財政は治粟内史が担当した。この財政の分別と、課税種類の増加によって、草流と細流が発展した[72]

算木の記数法。正の数は赤、負の数は黒で表した。
  0 1 2 3 4 5 6 7 8 9
縦式  
横式  

記数法では、紀元前15世紀から紀元前12世紀の甲骨文字で10進法が使われていた。秦から漢にかけて行政の必要から記数法が発達し、算木を用いた位取り計算が行われた[注釈 8][73]。紀元前2世紀から紀元後1世紀の数学書とされる『九章算術』には、穀物の比率、財産や金銭の分配、税金などの計算法がある[74]。財政術を伝える書物が書かれるようになり、の官僚である李吉甫は国家会計に関する書として『元和国計簿』(807年)を発表した。同時期に『大和国計』という書も発表されている[26]

日本

7世紀以降の律令制時代には、租庸調という税が定められ、財政責任者の太政官四度公文と呼ばれる文書で各地から報告をさせた。四度公文とは大帳 (計帳)、正税帳、調庸帳、朝集帳を指す。租については正税帳という決算報告書、調庸については調庸帳という納税報告書にあたる文書が作られた[75]。これらの文書は正倉院文書として管理された[76]

貴族や仏教寺院が管理する荘園でも決算報告が制度化されていた。初期の荘園の会計記録として、755年から757年の桑原庄券と呼ばれる文書がある。これは収支報告書にあたるもので、東大寺坂井郡桑原庄を経営した記録である。荘園の総面積、荘園からの収入・支出・残高、荘園の動産や不動産が書かれている[注釈 9][78]飛鳥時代までの財政に関する記録には、木簡が使われていた[79]奈良時代には和紙の生産が増え、戸籍、財政報告、証文の記録に使われていた[80]

アメリカ

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メソアメリカ

マヤ文明では多数の都市国家が栄え、最盛期は8世紀頃といわれている。それぞれの国家は神官・軍指揮官を兼ねる王に治められ、行政は王族や貴族が執り行った。書記となったのはマヤ文字を秘儀として教わった一部の貴族で、多くの国民には文字は伝えられなかった。貴族は複数の役割を持ち、書記は石碑の彫刻家・天文学者・役人でもあった。行政機能は宮廷の外にも分化し、地位の高い貴族の住居でも行われた[81]

ヨーロッパ

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ミケーネ文明の線文字Bの粘土板
ギリシャ

ポリスが成立する前、紀元前16世紀から紀元前12世紀にかけてのミケーネ文明では、経済活動を記録するために線文字Bが使われた。粘土板にはさまざまな物資の種類や数量が書かれており、衣食住や奴隷、武器、神々への奉納などが宮殿で管理されていた[82]。ポリス成立後のアテナイでは、国庫をデロス島の神殿に保管し、官僚が会計報告を作成し、身分の低い市民や奴隷が帳簿係に雇われた。神官にも会計報告の義務があり、贈答品も含めて報告した。アテナイの市民は、国家の債務を返済しなければ国外への移動、神殿への献納、遺言状の作成ができなかった[34]

ローマ
古代ローマの蝋板と尖筆

共和政時代と初期の帝政では、クァエストルと呼ばれる財務官が存在した。ローマの国有財産はサートゥルヌス神殿に保管され、アエラリウム英語版すなわち国庫とも呼ばれた。国庫の書記官が出納を記録し、国家の債務、軍、州の収支は別の台帳に記録された。政府の会計はタブラリウムと呼ばれる公文書館で行われた[83]

初代ローマ皇帝のアウグストゥスは会計記録を整備し、現在では「皇帝の帳簿」と呼ばれている。個人用の帳簿には帝国の財政、軍の収支、建設工事の資金繰り、手元現金などが記録されていた。この帳簿は計画の他に、自らの業績を伝える「神君アウグストゥスの業績録」などの宣伝にも活用された[84]。貴族は、自らが商業活動をすると選挙権などが剥奪される仕組みになっていた。それを逃れるために、支配地域の商人や知識人を奴隷として商業に従事させた。奴隷は貴族の資産を管理し、貴族は奴隷に記録を残すように命じた[85]

ローマの徴税人だったマタイは、イエスの召命に応えてキリスト教に改宗して十二使徒となった。マタイはのちに会計士、銀行家、税吏の守護聖人となった[86]

中世

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アジア・アフリカ

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イスラーム世界

アッバース朝は、文書行政や財政管理のためにアラビア語の書記術を確立し、財務書記や財務官に算術や帳簿術・会計術を伝える内容をそろえた。書記術はイスラームの伝播にともなって各地に伝わり、ペルシアではペルシア語による文書・財務の指南書として発達した。これがイラン式簿記術として確立され、オスマン帝国に普及していった[9][10]。イスラームの文書・財務の指南書はペルシアを通じて中央アジアや南アジアにも伝わり、イラン式簿記術がイスラーム政権で用いられた[87]

イスラームにはワクフと呼ばれる寄進制度があり、寄進されたワクフ財は公共目的にあてられてカーディーらが監督した。所有権を放棄されたワクフ財は寄進ごとに一つの組織として扱われ、私有財産や国家、特定の宗教の財産とは別個だった。会計では収入がワクフ財源・前期繰越金、支出が手当・諸経費・修理費などになる[88]。ワクフの種類には住宅、公共施設、農地、商業不動産の他に、利子で運用する現金もあり、インフラの維持に役立ちつつ善行のための資金調達という役割を果たした。ワクフは12世紀から増加し、特に14世紀のペストによる人口減少の影響で急増した[注釈 10][90][91]

古代にインドから伝わった記数法は、10世紀には一般にも普及していた[注釈 11]。さらに、インド・アラビア数字としてイスラーム世界を通してヨーロッパに伝わるようになる。イベリア半島のアンダルスのウマイヤ朝や、アフリカのムワッヒド朝が入り口となった[11]

東アジア

中国では、単一の記録として始まった流水帳から三脚帳法が考案された。これは現金収支のある取引は現金の相手方勘定だけ一つ記録し、現金収支のない取引は内容を示す双方の勘定に二つ記録するので、一つと二つの要素を合わせて三脚と呼ぶ[注釈 12]。三脚帳法の営業損益は半年または1年ごとに決算を行うことが多く、毎月決算をする者もいた[93]

において流水帳が進展し、財物の類別総括計算と明細分類計算を行うようになった。授受の時に草流に記録し、これを官庁の各部門で区分・整理して総括分類帳(細流)に入・出・残余を記録し、上位部門は報告をもとに再整理して総青帳に記録した[94]。モンゴル帝国が中国を統一してとなると、モンゴル時代から協力してきたムスリムやウイグル商人が宮廷に参入した。ムスリムが財務官僚として活動し、オルトクと呼ばれる特権商人は王族から資金を預かって貿易などに投資した。漢人やキリスト教徒もオルトクに加わった[95]

日本における最古の商業帳簿は、現在の質屋にあたる土倉の債権簿とされる。土倉の帳簿は、日記または日記帳という名称で記録されていた。平安期以降の荘園には年貢散用状と呼ばれる決算報告書があり、散用状を作成するために日記の覚書が使われた。戦国時代の末には日記が貸付簿としても使われており、伊勢神宮御師である宮後三頭大夫の『国々御道者日記』によれば、日記は初穂料の受取・貸付・為替の受払などを記録する金銭出納簿でもあった[注釈 13][97]。御師は参詣者への宿泊の手配や貸付も行っており、この日記を日本最古の商業帳簿とする説もある。種々の取引を記録していた日記は、やがて近世に大福帳、仕入帳、売帳、買帳など目的別に作成されるようになった[98]

アメリカ

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キープを使うインカの役人(キープカマヨック)。左下にあるのは計算具のユパナ英語版
南アメリカ

インカ帝国の行政は入れ子状の階層構造になっており、王の側近には秘書、筆頭会計、出納係がいて財産管理にあたり、各地方にも会計係と出納係が置かれた[21]。インカ帝国ではキープと呼ばれる縄の道具を記録や行政管理に用いていた。キープは色や太さが異なる紐を結んで作られ、色や結び目によって数を表現した[注釈 14]。キープは10進法で位取りも行われており、帳簿に数字を記録することと同様の機能を持った。農産物・家畜・人口・納税記録などの情報はキープによって記録され、キープカマヨック(キープ保持者)と呼ばれる官僚が管理した。計算にはユパナ英語版と呼ばれる道具が使われ、ユパナで集計した結果をキープに保存した[100]

インカの支配に抵抗し、スペインのインカ征服に協力した人々もいた。ペルー中央高原のワンカ族はスペイン国王に忠誠を誓い、フランシスコ・ピサロをはじめとするスペイン軍に人的・物的支援を行なった。スペイン側はこれを無償奉仕と解釈したが、ワンカ族は支援内容をキープに記録しており、1560年代にはスペインに対して協力の代価を請求した[注釈 15][102]

ヨーロッパ

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ドゥームズデイ・ブック
封建国家

ローマ帝国の滅亡後、カトリック教会や修道会はローマ帝国から会計制度を引き継いだ。封建国家が形成されると、世代が続くにつれて所有関係が複雑化し、会計事務も増加した。ローマ皇帝のような会計記録の公開は、富裕な修道士会や一部の王族をのぞいて行われなかった[103]ノルマン・コンクエストによって成立したノルマン朝は、新しい制度を定め、世界初の土地登記簿と言われるドゥームズデイ・ブック(1086年)を作成した。大蔵省は収支簿を作成して財政記録を整備し、羊皮紙をパイプ状に巻いてあるためにパイプ・ロールと呼ばれた[注釈 16][104]

中世イギリスの会計書は、(1) 公的(国王・領主)、(2) 私的(商業組織・ギルド・貴族・市民)、(3) 教会、(4) 慈善組織の4種類に分かれていた[48]。国王は、領主に土地や労働者の管理権限を与えて委託した。領主の荘園は、荘園執事が領主の代理人として管理した。代理人(受託者)は、領主(委託者)に荘園の状態を報告するための会計を記録した。これは代理人会計と呼ばれる。荘園の会計は地代表と現金帳に大きく分かれ、地代表に収入を記録し、現金帳に取引を記録した[105]

キリスト教においては利子(ウスラ、リバー)が禁止されており、商人は利子とみなされないように取引や投資を行って利益を得たが、会計慣行の多くは教会法に違反していた。そのため中世キリスト教徒の商人の帳簿には、神に記録を開示する告解という側面もあった[43][44]

表記法と計算具の変化

ローマ数字は、簿記の計算に必要なゼロや位取りを表記する際に不便だった。ピサ共和国の数学者で商人でもあったレオナルド・フィボナッチが『算盤の書』(1202年)を発表すると、ゼロの概念、位取り、10進法などをもつインド・アラビア数字がヨーロッパに普及していった[注釈 17]。13世紀から14世紀にかけてのイタリア諸都市の帳簿にはローマ数字とアラビア数字が混在しており、一般に普及したのは15世紀後半から16世紀となる[注釈 18][107]。同時代には計算用具のアバカスも普及し、アラビア数字とアバカスによって計算や記帳がより簡便になっていった[108]

複式簿記の形成
ヘンリー・ウッズ英語版『ポーシャ』(1887年) 『ヴェニスの商人』の登場人物。

複式簿記の起源について、有力なものが13世紀末期から14世紀初頭のイタリア説である。イタリアの都市国家において、以下のような段階をへて複式簿記が生成されたといわれる[12]

(1) 12世紀の共同組合と会計実務: 12世紀からフィレンツェヴェネツィアジェノヴァなどの都市国家が地中海の貿易で栄えた。当時の海上貿易は難破や海賊のリスクが高く、商人はリスクを分散するために航海や商品ごとに共同組合を作った[注釈 19]。共同出資の契約のために公証人が働き、識字率が高くなかったため公証人が会計実務も行った。やがて商人の識字率が上がり、自分で帳簿をつける商人も増えた[注釈 20][37][111]

イタリア諸都市は、十字軍への貸付をきっかけに北方のヨーロッパ各地に進出した。十字軍のテンプル騎士団は遠征費のためにイタリア商人と取引をしており、テンプル騎士団の帳簿は現金管理に加えて振替も行なっていたとされる[注釈 21][113]

(2) 13世紀のコンパーニアとビランチオの生成: 海上貿易の増加でヨーロッパ各地の陸上貿易も活発になると、共同組合は次第に長期化し、フィレンツェを中心にコンパーニアと呼ばれる貿易商・両替商・銀行の組織が結成された。コンパーニアのメンバーで利益の計算と分配をするために損益計算が求められ、ビランチオと呼ばれる財務表が作られた[注釈 22][115][114]。現存する最古の勘定記録は1211年のもので、フィレンツェの銀行家がボローニャのサン・ブロコリ定期市で書いた元帳勘定になる[注釈 23][116]

(3) 14世紀前半のコンパーニアの多拠点化と多帳簿記帳実務: コンパーニアが拡大を続け、ヨーロッパ各地の駐在人も増加する。三大商会であるバルディペルッツィ英語版アッチャイウォーリ英語版は各地の店舗と代理店契約を結んだ。大規模な商会や銀行は遠隔地に支店を持ち、支店の責任者は本店に経営と財務を報告する説明責任を果たした。組織の大規模化によって、業務ごとに帳簿が作られるようになり、基礎帳簿、補助帳簿、最終帳簿という細分化も進んだ。最終帳簿の中には、各帳簿を集計した秘密帳簿があった[117]。企業全体の損益勘定を総括した最初期のものとして、フィレンツェのコルビッチ商会イタリア語版の帳簿がある[118]

(4) 14世紀末の独立拠点と複式簿記の要件を満たす実務: 大規模化した商業組織は、全ての会計実務を各地の支店に任せるようになり、報告のための会計実務が広まった。支店が1年ごとに帳簿を区切って決算報告書を作成する体系が整うと、収益勘定と費用勘定で計算する利益と、ビランチオで計算する利益を一致できるようになり、複式簿記の原理も整った[119]。やがてフィレンツェとヴェネツィアの簿記方式が統合され、損益計算で総括損益を定期的に計算するようになり、毎年の期間損益計算が確立されていった[120]。特に膨大な数の複雑な取引が行われる銀行業務では、複式簿記は必須となった[注釈 24][121]

(5) 15世紀の持株会社形態の組織と複式簿記の運用: メディチ銀行は、支店と本店を別々のコンパーニアとして、各支店の出資比率は本店が過半数を持って支配した。各支店では帳簿を1年ごとに締め切って決算報告書を作成し、本店では支店ごとの利益を計算して出資者間で分配した[注釈 25]。これは現在の連結決算にも類似した方法であり、複式簿記がこの時点で確立されていた[123][31]。フィレンツェでは、1427年に国の税務監査のために簿記の維持が義務となり、商人は監査に見せる公式の帳簿と、日記を兼ねた自分用の秘密帳簿を使い分けた[注釈 26]

複式簿記は法廷でも重要となった。金銭にまつわる紛争では複式簿記の元帳も法的文書として認められ、帳簿に不備のないことが勝敗に影響した[125]

複式簿記の理論化

複式簿記を最初に体系化・理論化したのは、数学者ルカ・パチョーリの数学書『スムマ(算術、幾何、比および比例に関する全集)』であるとされる[注釈 27]1494年にヴェネツィアで出版され、複式簿記については第1部・第9編・論説11で26ページにわたって書かれている。『スムマ』の損益計算は、継続的な帳簿記録をもとに期間で区切る総括損益計算であり、ヴェネツィア式簿記とフィレンツェ式簿記の混合だった[注釈 28][24]

なお、『スムマ』よりも先に脱稿していた簿記論としてベネデット・コトルリの『商業と完全な商人英語版』があるが、コトルリの著書が出版されたのは『スムマ』よりも後の1573年だった[128]。コトルリは、初めて複式簿記 (dupple partite) という言葉を使ったことでも知られる[129]

決済システムの形成

中世では貴金属含有率に差のある貨幣が複数流通していたため、特に遠距離交易の会計実務で問題となった。そこで13世紀頃からイタリアでは、取引額を帳簿に記録するときには計算用の貨幣単位に換算するようになった。勘定記録の本文には受領した貨幣の額を書き、金額欄には計算用の貨幣単位を書いた。抽象的な計算貨幣によって、為替手形の建値も定められるようになる。こうして複式簿記・商業組織・為替手形・計算貨幣による信用決済が確立されていった[130][131]

近世・近代

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マリヌス・ファン・レイメルスワーレ『収税人たち』(1540年)。収税人の欲望や帳簿の不正の暗喩であり、会計を風刺した最初の絵画ともいわれる[38]

ヨーロッパ・アメリカ

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パチョーリ『スムマ』の簿記法は「イタリア式簿記法」とも呼ばれ、ヨーロッパ各地に伝わった。16世紀のフランス、スペイン、オランダにはヤン・インピンによる『スムマ』の翻訳から伝わり、ドイツはマンゾーニの著作から伝わった。17世紀にはオランダが先進国だったためオランダから各地に伝わった[注釈 29][133]

各地における最初の複式簿記書の出版年を見ると、イタリア1494年(『スムマ』)、ドイツ1518年、フランス・オランダ1543年(インピンによる『スムマ』翻訳)、イギリス1547年(インピン『新しい手引き』翻訳)、スペイン・ポルトガル1590年、スウェーデン1646年、デンマーク1673年、ノルウェー1692年となる[134]。ヨーロッパでは、帳簿が真実であることを神に誓う証として、元帳に十字架が書かれていた。この習慣は16世紀後半から17世紀まで続いた[45]

フランドル・オランダ

フランドルには定住商人が多く、期間損益計算の普及が進んだ。フランドルの都市ブリュージュは14世紀から15世紀にかけて繁栄し、当時の記録として両替商ウィレム・ルウェールの元帳や、コラール・ド・マルクの会計帳簿がある。ブリュージュには女性の両替商の活動もあり、ルウェールの死後に妻が自分の資産で両替商をした記録がある[注釈 30][136]。16世紀にはブリュージュからアントウェルペンへと経済の中心が移り、織物商ヤン・インピンは、初のオランダ語の簿記書として『新しい手引き』(1543年)を出版した。『新しい手引き』は年次決算を説いた最初の簿記書とされる[137]。17世紀にはオランダが繁栄し、それまでの組合的な組織とは異なる企業としてオランダ東インド会社(VOC)が1602年に設立された。VOCの会計は1会社2会計システムで、本国においては旧来の簿記を使い、支店では複式簿記を採用して年次報告を行った。会社全体を見る簿記は存在せず、決算は10年単位で非公開制だった。VOCはオランダとアジアの2元体制だったため、アジア取引を統括したバタヴィアが実質上の本社的業務を行い、アムステルダムはアジアで仕入れた商品の販売が主体だった。VOCは会計部門を改革しつつ、その後も200年近く続いてゆく[138]

数学者のシモン・ステヴィンは『数学覚書(Wiskonstighe Ghedachtenissen)』(1605年-1608年)を出版し、複式簿記について150ページほど書いている。『数学覚書』では年次決算や精算表を説いている他、資本金勘定は期首資本と利益に分けて表示されており、貸借対照表に類似している[139]。ステヴィンの簿記論はそれまでと異なり、国家の財政に複式簿記を使うことを目的としていた。『数学覚書』には「王侯簿記」という論考があり、領土簿記と特別財政簿記について書かれている。領土簿記は商業帳簿と同じく仕訳帳と元帳からなり、仕訳帳は債権・債務・対象年に発生した取引の3つに分かれている。ステヴィンは王侯簿記をオランダ総督のマウリッツに献呈しており、複式簿記導入の動機として、(1) マウリッツの財産管理人や会計官が何年も決算を行わなかった、(2) 運用可能な資金管理ができていなかった、(3) 会計官が資金を私物化していた、(4) 財政再建の必要があった、などがあった[注釈 31][49]

ヤーコプ・フッガーとフッガー家の会計主任であるシュヴァルツ。ともにヴェネツィアで簿記を学んだ。
ドイツ・スカンジナビア

15世紀に南ドイツの都市がヴェネツィアと貿易を行い、ニュルンベルクの商人がヴェネツィアから複式簿記を持ち込んだ。ヤーコプ・フッガーや、フッガーの会計主任になるマッティウス・シュヴァルツ英語版はヴェネツィアで複式簿記を学び、この技術がフッガー家の繁栄の一因となる[141]。ドイツ人による簿記書は、1518年のハインリッヒ・シュライバー英語版や1531年のヨハン・ゴットリーが最初期となる。これらは商品元帳を有する人名勘定元帳について書かれており、『スムマ』の影響を受けていない点に特徴がある。これらの簿記書ののちに複式簿記の移入が進んだ[注釈 32][143]

ドイツの簿記書は、デンマークやスウェーデンでも出版された[144]。スカンジナビアでは、ハンザの商人を中心とするドイツとの貿易を通して複式簿記が移入された。ドイツ語の簿記書が読まれ、のちに簡略版や独自の簿記書が出版された[145]

スペイン・ポルトガル

スペインでは、通商院アメリカ大陸の植民地との貿易を管理した。通商院は複式簿記を理解するセビリアの商人が運営しており、物流・出納・会計の三部門でそれぞれ責任者が監督に当たった。借方・貸方帳で記帳を行ない、記帳する際には3人の主任の署名を必要として不正を防止した。カルロス1世は1552年に全ての帳簿を複式簿記にするよう勅令を出し、帝国全体の会計を管理する主計官を定めた。しかし財政の改革にはならず、負債は増え続けた。フェリペ2世の財務長官フアン・デ・オヴァンドスペイン語版や、通商院経験のある商人ペドロ・ルイス・デ・トレグロサらが改革に着手したが、失敗に終わった[146]。スペイン最初の複式簿記書は、1590年のバルトロメオ・ソロルザーノの著書になる。ポルトガルでの最初の簿記書は、ソロルザーノの著書をもとに出版された[147]

フランス

インピンによる『スムマ』のフランス語訳によって、1543年にフランスに複式簿記が伝わった。フランス人初の複式簿記書は、1567年にピエール・サボンヌがアントウェルペンで出版した[143]ルイ14世財務総監だったジャン=バティスト・コルベールは、重商主義政策の一環として商事王令(1673年)を制定した。この勅令は、起草の中心人物ジャック・サヴァリフランス語版の名を取ってサヴァリ法典フランス語版とも呼ばれる。商事王令は世界初の成文法の商法であり、近代的な商法の原型となり、その後の商法で商業帳簿が制度化された[148]。サヴァリは、商事王令の解説書として『完全な商人』(1675年)を書き、経営の規模で簿記を4つに分類して解説した。『完全な商人』は独、蘭、伊、英語に翻訳された[注釈 33]。商事王令の内容は、のちのナポレオン商法(1807年)に引き継がれた[注釈 34][152]

フランスはルイ15世の時代に政府が破産状態になり、ジョセフ・パリ・デュヴェルネフランス語版をはじめとする金融家のパリ兄弟が財政改革に取り組んだ。パリ兄弟は商人や実業家の会計が国家にも活用されることを望み、徴税人への複式簿記の義務化などを提案したが、理解を得られず失敗した[注釈 35]ヴァンサン・ド・グルネージャック・テュルゴーらの重農主義者は会計専門家でもあったが、その著作は公会計には寄与しなかった[153]

ロシア

ピョートル1世の時代(1682年から1725年)にフランスの制度をもとにして会計制度の整備が始まり、国家の歳入・歳出を監視する役所が1699年に設置されて役人としての会計士制度が成立した。1716年に会計法規が公布され、1722年にロシア初の簿記係が誕生し、1740年には貸借対照表が商人に義務付けられて商業帳簿も普及していった[154]

イギリス
ウィリアム・ホガース当世風結婚』(1743年頃)。執事が領収書と帳簿を持っているが、会計は夫婦に無視されている[155]

イギリスに複式簿記が導入されたのは、ロンバード・ストリートで商業や金融業を営んでいたイタリア商人からか、海外に住んでいたイギリス商人からと推測されている。イギリスで最初の簿記書は、ヒュー・オールドカッスルの『有益なる論文』(1543年)であると言われているが、現存していない。続いて出版されたのはヤン・インピン『新しい手引き』の英語版(1547年)だった。ジェイムズ・ピールやジョン・ウェディングトンはイタリア簿記の系統で初心者向けの本を出し、引き継がれていった。イギリス商人が複式簿記を使っていた最古の例は、トマス・グレシャムの仕訳帳(1546年-1552年)となる[156]

17世紀に入ると、オランダに対抗するためにイギリス東インド会社を1600年に設立する。設立当初は航海ごとに組合を組織していたが、1662年にはイギリス初の株式会社となり、会計には会計担当・監査担当・理事会監査が定められ、世界初の株主総会をする会社となった。1664年に複式簿記が導入されて定期的な財務報告もあり、現在の株式会社に通じる制度が作られていった[157]

英語の予算(budget)という語は、古フランス語の bourgette を由来とする。この語は小さなカバン、または書類を入れる小袋を指していた。イギリスでは大蔵大臣がカバン(budget)から書類を出して議会に予算を説明し、書類が入っているカバンが予算の書類そのものを指すようになり、18世紀に定着した[158]

単式簿記

18世紀のイギリスでは、教育のための実用書が数多く出版され、商人の子弟を対象とした簿記の教科書もアカデミーやグラマー・スクールで読まれた。しかし伝統的な複式簿記(イタリア式簿記)は、小売店の商人にとって複雑すぎるという不満があった。この不満に応えるために、『ロビンソン・クルーソー』の作者でもあるダニエル・デフォーは、経営入門書『完全なるイギリス商人英語版』で簡便な簿記を提案した[注釈 36]。数学者のチャールズ・ハットン英語版は、デフォーの提案を単式記帳(single entry)と呼んで体系化した。これが現在は単式簿記と呼ばれるものの発祥で、イギリスやアメリカの小売商に広まり、明治期には日本にも伝わった。ただし単式簿記の記帳は貸借二重記帳なので単式ではなく、実際には複式簿記の簡便化に属する。このため訳語としては、単純簿記、簡易簿記、略式簿記などがより正確である[注釈 37][161]

植民地

大航海時代以後、ヨーロッパがアメリカやアフリカなど世界各地で植民地化を進めて、植民地には本国の会計制度が移入された[162]。本国の簿記書が植民地で用いられ、アメリカ植民地ではジョン・メイヤーの『組織的簿記』(1736年)が読まれて図書館にも多数の蔵書があった[163]。アメリカ植民地ではベンジャミン・フランクリンらの努力もあって簿記が急速に普及した[164]

アメリカ合衆国の独立後は1789年に連邦政府会計が制定され、支払命令書と単式簿記による公会計が始まった[注釈 38]。現金主義だったために不完全な会計実務が問題とされ、複式簿記の導入となる。さらに、1903年以降に都市会計統一化会議が開催されて会計基準が統一されていった[165]

産業革命

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1816年のイングランド銀行と王立証券取引所。イングランド銀行は早くから貸借対照表を使っていた。

産業革命によって企業数が増えるにつれ、破産も増加した。株式会社は大規模化し、破産や監査を業務とする会計士が増加し、会計士の専門化と社会的認知が進んだ。会計士の考察によって、会計学の理論も進展した[注釈 39][16]

貸借対照表

初期の複式簿記は少人数の組合員や組織によるものだったが、大規模な株式会社が成立すると株主も大人数となり、株主に成果を開示するためにストックとフローを要約した表を作成するようになった。これが貸借対照表損益計算書である。最初期の貸借対照表には、イギリス東インド会社イングランド銀行のものがある[167]

発生主義と減価償却

費用・収益の計上基準としては、現金主義発生主義があり、現金主義→半発生主義→発生主義と発展してきたとされる[168]。現金主義は、現金の収支によって費用や収益を計上する。発生主義は、経済価値が費消した事実が発生したときに費用や収益を計上する[169]。現金主義と発生主義は、歴史的には経済状況や生産構造の違いによって選択されており、中世イタリアの初期の複式簿記でも発生主義で作成されているものがあるという説もある。産業革命期のイギリスでは一般企業は発生主義、鉄道や運河などは現金主義であった[169]。鉄道業においても、1838年にはThe London and Birmingham 鉄道が減価償却を導入し、1840年代・1850年代には鉄道業でも発生主義への転換が進んだ[170][168]。アメリカ連邦所得課税制度は損益計算の理論に極めて重要な影響を有したが、課税所得計算においても1913年以降に現金主義から発生主義への転換が行われ、1920年代以降には判例においても発生主義の確立が進んだ[171]

減価償却は鉄道事業によって広まった。購入した蒸気機関車は使用や時間によって価値が減少するため、帳簿価格と現在価値の差を評価する方法として活用された。それまでにも船舶、農場、工場の評価替えは行われていたが、イギリスの技術者ユーウィング・マティスン英語版が著書『工場の減価償却と評価』(1884年)で定期的な減価償却を提案して体系化した[172][173]

損益計算書
リバプール・マンチェスター鉄道のプラネット号のレプリカ。鉄道業は減価償却や損益計算書で先駆となった。

はじめに損益計算への必要性が高まった業種は、鉄道業だった。鉄道会社の特徴として、(1) それまでの企業に比べて従業員・物資・資金が多かった点、(2) 広い地域に分散した常勤の経営管理者が必要だった点、(3) 遠距離の大量輸送を毎日行っていた点がある。これらの要求に応えるために経営管理組織と専門的訓練を受けた経営者が必要となった[174]。鉄道会社によって収益勘定表が作成されるようになり、これが損益計算書の原型となった[175]

連結会計

最初期の連結会計はアメリカの鉄道業で行われ、その後に製造業に広まった。確認できる最古の連結財務諸表は1870年代に確認されている。当初は報告の形式もさまざまであり、(1) 親会社・子会社の貸借対照表を合算、(2) 資本連結なき資産連結、(3) 重複分の控除、という段階をへて現在の形に近づいたと推測される。アメリカの鉄道業で連結会計が先行した理由として、会社法が州単位に分かれているので持株会社で解決した点もある。さらに1893年恐慌によって鉄道会社の倒産が相次ぎ、ジョン・モルガンのモルガン商会をはじめとする金融資本への連結が行われた。モルガン商会は鉄道業での成功を機に他の産業でも連結会計を活用し、巨大な資本を得てゆく。連結会計は20世紀にかけて国際的に広まっていった[176]

アジア・アフリカ

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中国
山西省平遥古城内の日昇昌票号の旧跡。票号は銀行にあたる金融機関。

の時代に商工業が急速に発展し、会計も変化する。現在の銀行にあたる銭荘票号と呼ばれる金融機関は財物や金銭の管理をしていたため帳簿が発達し、該項(負債・資本)と存項(資産)の区別や、帳簿組織の細分化が進んだ[177]明清交替の時代には、龍門帳と呼ばれる方法が思想家の傅山によって考案された。龍門帳は単式記帳法や三脚帳法と異なり、総青を4項目の勘定口座に記録する。これによって項目別の計算が可能になり、勘定科目別の計算、決算、決算報告書の作成が容易になった。龍門帳は複式簿記としての特徴をそなえたともいわれる[178]。18世紀中頃の乾隆期から嘉慶期にかけては、四脚帳法が考案された。上方には収(来帳)を記入し、下方には付(去帳)を記入する。上方(天)と下方(地)が均衡すれば記録が正確なことになるので、天地合帳とも呼ばれた[179]

貿易面では、19世紀前半までの広東貿易体制において帳簿振替で決済した。これは当事者間の相対決済で金融機関の介在が不要であり、帳尻の部分だけを資金移動した。清の時代には華僑と呼ばれる海外の中国系人口が急増し、この方法が使われた[180]

1840年のアヘン戦争以後は欧米の進出が始まり、鉄道や電信の事業とともに業務管理のために欧米式の複式簿記が紹介される。中国の記帳法には、指導や教育に使える書籍がなく、統一性に欠けていた。海外赴任の経験者である蔡錫勇中国語版は、中国の記帳法を欧米の貸借複式簿記に組み入れる方法を考え、『連環帳譜』(1905年)を出版する。この本が、中国初の民間向けの簿記書となった。謝霖中国語版孟森中国語版は、日本で欧米式簿記を学習し、『銀行簿記學』(1907年)を発表して中国に広めた。最初に複式簿記を導入した中国系企業は、1908年の大清銀行中国語版となった[181][182]

日本

江戸幕府は財政管理を勘定所で行い、統轄をする勘定頭は元禄時代以降に勘定奉行と呼ばれるようになった。勘定所では勘定勘定吟味役御金奉行御蔵奉行切米手形改役などの役人が働いた[183]。日記や日記帳と呼ばれていた商業帳簿は、近世には大福帳(売掛帳)・金銀出入帳・売帳・判取帳・荷物渡帳など用途別に分かれた。各商家によって形式が異なり、独自の符丁を使っている場合も多い。大商家の帳簿には複式構造を持つものもあった[184][185]。大福帳は江戸時代に成立した商業帳簿で、買帳、売帳、金銀出入帳などを統括し、売掛金や残高などを記録する得意先元帳としてよく使われた。最古の大福帳は、伊勢商人の冨山家の「足利帳」で、元和元年(1615年)の記述がある[186]。計算具であるそろばんは、17世紀の中頃から末頃に庶民に普及し、元禄時代には商人の間で必須の道具となった[23]

和式会計の特徴として、多帳簿制収支簿記という簿記法がある。勘定口座を帳簿に書かずにそろばんで計算をして集計表を作成できるため、そろばん勘定が洋式簿の勘定口座と同様の機能を果たした[注釈 40]。和式簿は入金欄と出勤欄を分けず、金額の頭に「入」か「出」を書いて加減を計算して残高を導くようになっている。明治期に洋式の複式簿記法が移入されたのちも、そろばんの計算は残った[188]。江戸時代から、商家の他にも武家や農家で帳簿をつけていた。武家の帳簿は日記帳が主であり、農家では穀類や麺類の数量計算や、種籾・端境期の食糧についての貸付量計算を主としていた[189]

欧米の簿記は、明治政府成立の前後に移入が始まった。初めて洋式簿記を紹介したのは、福澤諭吉の『帳合之法』(1873年(明治6年))だった[注釈 41][190]福澤諭吉が1879年に創設した簿記講習所においても簿記教育が開始された。大蔵省や横須賀製鉄所で使用される他に、商家でも和式から洋式への切り替えが進んだ[191]。明治政府は洋式簿記を重視し、明治10年代に簿記の教科書が多数出版された。中でも遠藤宗義編の『小學記簿法』は、家計簿について最初に教えた本であり、略式簿記の作成法が書いてあった[192]。1908年には雑誌『婦人之友』が創刊され、同時期に羽仁もと子が家計簿を刊行して現在まで続くことになる[193]。フランスの商事王令をもとにヨーロッパで作られた商法は明治期の日本に移入し、商業帳簿制度が1890年(明治23年)の旧商法、1899年(明治32年)の新商法で定められた[注釈 42][194]

朝鮮

朝鮮半島の最初期の商業簿記は、開城簿記や四介松都治簿法と呼ばれる。開城簿記の帳簿は、基礎帳簿と明細帳簿に大きく分かれる。基礎帳簿は、日々の記入簿と仕訳日記帳にあたる日記と、総勘定元帳にあたる長冊に大きく分かれる。決算は決算書・損益表の作成と元帳決算で行われる。実務では、日記帳で現金仕訳をして、それを貸借に分割して長冊に転記した[注釈 43][196]

オスマン帝国

オスマン帝国の財政は財務長官府を頂点として財務官僚に運営された。15世紀時点では20人程度と少数であり、15世紀から17世紀にかけての租税台帳の作成や官僚制度の整備にともなって増員された。租税台帳は各地の担税力を示す明細帳と、地域の徴税権が誰に分配されたかを示す簡易帳に分かれており、台帳作成官、書記、カーディーが作成した[197][198][199]。19世紀に入ると、ヨーロッパ型の内務・外務・財務の省庁が組織された[200]

寄進制度であるワクフの利用は14世紀から16世紀にかけても増加し、オスマン時代には都市のインフラ維持に欠かせない制度となった[91]イスラーム法では女性の財産権が定められており、妻と夫の財産は区別されているので、財産をもつ女性はワクフを資産運用としても活用した[201]

アフリカ

アフリカでは、ヨーロッパ各国が奴隷貿易を行った。やがて奴隷貿易の禁止が進むと、ヨーロッパ各国はアフリカ分割によって植民地化して利益を得ようとした[注釈 44][203]。植民地では、本国の会計制度をもとに経営が行われ、現地の伝統的な制度に変化をもたらした[注釈 45][162][205]

かつてのアフリカの無文字社会では、金融などで公平な記録の必要がある場合は壁に印をつけるなどの方法が取られた[206]。ヨーロッパと取引をしたダホメ王国も無文字社会だったが、ヨーロッパ側の記録によれば精緻な官僚制度と正確な会計を整えていたとされる。人口統計は箱に小石を入れて記録し、性別や職業別の労働者数はシンボルをつけた袋で把握した。家畜の統計では、種類別のシンボルをつけた袋に小石やタカラガイを入れた。それらの情報をもとに徴税や徴兵を割り振り、年1回の貢租大祭を開催した。国家財政は宮廷と結びつき、行政官、会計監査官、収税吏、警察などの役割が定められていた。官僚制は双分制にもとづき、役人は必ず男女で実務を行なった[注釈 46][22]

管理会計・財務会計

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自動車の大量生産を確立したフォード・モデルTの工場。1913年-1914年頃

フレデリック・テイラーは生産管理の方式を考案し、科学的管理法と呼ばれるようになった。テイラーは会計担当者に生産管理を分析させてコスト評価の正確性を高め、その管理法は製造業でいち早く導入が進んだ。繊維産業では、作業者を管理する方法として標準原価計算が採用され、それまでの職人的な生産から大規模化した。鉄鋼産業では鋼鉄の前段階と後段階で原料の節約に原価計算を役立てた。自動車産業ではフォード・モーター大量生産を確立した[208][209]

鉄道産業の管理会計は、20世紀初頭のデュポンの会計に影響を与えた。デュポンは多くの火薬会社を吸収合併して設立されたため、鉄道会社よりも複雑な組織だった。会計情報をもとに最高経営管理者から下層管理者までの管理活動を体系的に支援した最初期の企業であり、投資利益率(ROI)の手法を使って化学産業など他業種へと業務を拡げてゆく。ROIは大手小売店の店舗面積の売上高粗利益率にも活用され、さらに応用が進んで大手小売店の店舗面積の売上高粗利益率にも使われるようになった[210]。企業の大規模化で会計や管理の作業量が増え、解決のために機械化が進んだ。遠隔地との連絡を取る電信・電話、計算に用いる加算機英語版会計機、タイプライター、パンチカード式の作表機などが19世紀末から20世紀初頭にかけて普及した[注釈 47][212]

科学的管理法は公会計にも改革をもたらした。19世紀末からアメリカでは移民増加と地方財政の歳出急増、都市部の政治腐敗が問題とされ、企業の手法だった科学的管理法が政府組織に導入された。支出統制にもとづく予算管理はニューヨーク市をはじめとして地方自治体で普及し、連邦政府も予算・会計法英語版(1921年)を制定した[165]

1919年、会計学者のジェイムズ・O・マッキンゼー英語版はシカゴ大学で会計の講座を発表した。この講座はそれまでの帳簿や出納管理など会計士のための教育とは異なり、経営に役立つ会計を教える内容だった。マッキンゼーの講座は人気を集め、コンサルティング会社マッキンゼー・アンド・カンパニーの設立へとつながった[213]。マッキンゼーは1922年の著書『管理会計』で、予算管理の目的は部門の活動の調整、あるいは部門の活動のコントロールにあると書いており、この本の内容をもって管理会計の成立とされている。マッキンゼーの管理会計は、連邦政府の新しい予算制度からも影響を受けていた[47]

管理会計成立期の1920年代においては、標準原価計算・予算管理が中心的な手法であったが、1930年代に入って直接原価計算が発明された。直接原価計算は従来の全部原価計算と異なり、在庫の増大が経営へマイナスに作用することを反映したもので、部分的にではあるが、利益管理のためのキャッシュフロー情報の提供を行うものであった[214]

一方、19世紀からアメリカでは全国規模の株式会社の設立が進み、トラストと呼ばれる大規模な企業活動が独占を招き、社会で議論となった。トラスト問題の解決として財務情報の公開が求められ、企業外に向けた情報である財務会計が一般会社においても始まった[30]。企業の活動を利害関係者に伝えるための財務諸表の形式が整えられ、USスティールの1902年の会計報告書には貸借対照表と損益計算書がそろっており、現在の財務諸表に近い[215]

公認会計士制度の成立

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鉄道業や製鉄業など巨額の資本調達を行う産業によって、会計不正の影響が大きくなった。投資の安全性を第三者が証明するために会計の専門家の需要が急増し、会計士の組合である会計士協会が設立された。イギリス最初の会計士協会は1853年のエディンバラ会計士協会であり、1854年には国王の勅許を受けて世界初の公認会計士(英国勅許会計士)が誕生した。アメリカでは1880年代に会計士の需要が高まり、イングランドやスコットランドから多数の会計士が渡って会計事務所を設立する。1882年に会計士協会(The Institute of Account)、1887年にアメリカ会計士協会英語版(AAPA)が設立され、1896年に公会計士業を規制する法律(公認会計士法)が成立した[216]。19世紀末までに、フランス、ドイツ、イタリア、オランダ、スウェーデン、ベルギーなどヨーロッパ各国でも公認会計士協会が設立された[217]。専門化とともに会計教育の制度化が進み、勅許会計士のローレンス・ディクシーは、バーミンガム大学でイギリス初の会計学教授に就任する。のちにロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの教授となり、実務書も執筆した[218]

欧米では公正・正義を象徴するギリシア神話のテミスやローマ神話のユースティティアなどの彫像を司法施設に置く習慣があり、会計事務所や会計に関する施設にも置かれるようになった[46]

世界大戦・大恐慌期

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世界大戦による歳出増加で、国家は所得税の歳入への依存を強めた。このため、会計処理手続が課税所得計算でどのように認められるかが問題となり、税務会計が利益概念に影響を与えた。一次大戦後には特需があったが、その反動で1920年代に赤字や減益となる企業が増加した。そのため本業の利益を中心とした損益計算書と、配当や社債についての剰余金計算書を区別するようになり、当期利益が明確になっていった[219]。大恐慌をきっかけにアメリカで設立されたSECは、会計原則を制定するために会計手続委員会英語版(CAP)に依頼したが、時間的な制約もあってCAPは特定問題への対処が中心となり、包括的な会計原則は制定されなかった[220]

1929年には大恐慌が起き、ニューヨーク証券取引所の上場企業の時価総額は89パーセントが失われた[221]。厳しい環境下にあって、投資家保護のために公開基準と収益性を重視する会計観にもとづいて1934年証券取引所法が制定され、証券取引委員会(SEC)が設置された。公認会計士の法的監査が確立し、会計原則にはアメリカ会計士協会とアメリカ会計学会(AAA)が積極的に関わり、会計手続委員会へとつながる[222]

20世紀に成立した社会主義政権では、会計制度は資本主義国と異なる運用をされた。第一次大戦期にロシア革命(1917年)によってソヴィエト連邦が成立すると、会計も社会主義にもとづいて進められ、会計士は計画経済を進める最高国民経済会議のために働くこととなった。国営企業の会計責任者は、貸借対照表と会計報告書を作成して会計を組織する責任を負った。中央集権化と集団農場化が進んだ1930年代からは、スターリン主義に批判的な会計士は活動の場を奪われていき、ソ連財務省と中央統計局が会計の指導と監督を行うようになった[注釈 48][224]

現代

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会計基準の法典化

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米国会計基準は、国家とは独立した民間団体が会計基準を設定した。会計原則の制定はCAPとSECの意見の相違もあって難航し、新しい団体として1959年に会計原則委員会英語版(APB)に引き継がれる。しかしAPBの研究を基礎とした演繹的な基準や設定方法には批判が集まり、1973年には会計史協会とは別個の団体である財務会計基準審議会(FASB)へと引き継がれた。次第に会計基準の相互関係が複雑化したため、2009年に会計基準を法典化して簡素化を行った。これによってFASBが営利・非営利すべての非政府組織の会計基準を管理することになり、基準の一覧性も高まった[注釈 49][226]

会計基準の国際化

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会計の国際化の動きとして、1949年にアメリカ会計学会が中南米の会計基準を制定、1951年に欧州会計士連合が発足、1957年に極東会計士会議が発足した[227]

国際会計士連盟国際監査基準は1992年に受諾された。ヨーロッパでは、1970年代の欧州共同体(EC)の時代から会計実務の調和が進められ、欧州連合(EU)においても継続している。国際連合(UN)、国際通貨基金(IMF)、経済協力開発機構(OECD)、東南アジア諸国連合(ASEAN)などの機関にも会計基準に特化した部門が設立された[17]

1980年代後半以降の会計の国際統合の中心となったのは、国際会計基準委員会(IASC)である。IASCは1973年に、各国会計士団体の参加によって、民間団体として設立された。当初のIASCの国際的な影響力は大きくなかったが、1987年に証券監督者国際機構(IOSCO)の支持を受けた。IASCの発表する国際会計基準(IAS)は、1989年の公開草案(ED)第32号「財務諸表の比較可能性」の発表によって、多くの代替的な会計処理の廃止による比較可能性向上が図られる。IASCは1998年に包括的な会計基準体系(コア・スタンダード)を完成させ、2000年にはIOSCOがIASを全世界的な使用をするものとして承認している。IASCは2001年に現在の国際会計基準審議会(IASB)に改組され、IASBの発表する国際財務報告基準(IFRS)は、2005年までにEUの上場企業での強制適用が取り決められた。アメリカのFASBも、IASBとの会計基準の共同開発に取り組むことに合意(ノーウォーク合意)し、国際会計基準との差異解消を図っている[228]

日本では金融ビッグバンにともない、1990年代後半から会計ビッグバンが進められ、2000年3月期から会計実務が変更されていった。それまでの日本の会計は損益計算を最優先する収益費用中心観の立場をとっており、取得原価主義だった[229]。収益費用観は伝統的な会計の考え方だったが、FASBやIASBは資産負債観による会計基準を設定するようになっていった[230]。会計ビッグバン以降は、日本でも資産負債中心観に基づく会計基準が導入されるとともに、時価主義的な会計処理が新たに取り入れられるようになった[注釈 50][229]。他方で、2018年時点でも、日本では収益費用観に重きを置く考えも根強く、収益費用観も会計基準の国際化に一定の影響を与えている[230]

キャッシュフロー計算書

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巨額な設備投資においては、発生主義にもとづく損益計算では投資可能資金や支払資金を計算するには不十分だった。この解決のためにキャッシュフロー計算書が考案された[注釈 51]。キャッシュフローという言葉は1960年代の文献から現れ、当時は運転資本を指す場合が多かった。L・C・ヒースは現在のキャッシュフローに通じる現金収支計算書、財政活動計算書、投資活動計算書を説いた。欧米では1980年代から1990年代、日本では2000年にキャッシュフロー計算書が制度化された[232]

公正価値会計

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会計原則の大きな変化として、公正価値会計英語版がある。アメリカの会計は大恐慌の影響で資産の再評価が認められず、取得原価基準が採用された[注釈 52]。1950年代から1960年代には朝鮮戦争の影響でインフレーションが問題となり、取得原価主義の限界が議論されるようになる。そして1970年代の石油ショックによるインフレへの対応が課題となって物価変動会計が導入され、補足情報としての開示が始まった。1980年代以降は金融商品についての公正価値情報の開示が進み、1990年代のデリバティブの増加も影響して導入が進んだ[234]

管理会計の発展

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1930年代に提唱された前述の直接原価計算は、財務会計の目的に資するかどうか激しい論争が行われたが、管理会計において有用であることは定説となった。そして、1962年には標準原価計算と直接原価計算を結合した標準直接原価計算が登場するなどの新たな展開を見せた[235]。他方、同じく1960年代には、管理会計の分野において、キャッシュフロー情報の活用が進展した。これは設備投資の活発化に伴い、プロジェクト別の採算計算が重要となったためである。プロジェクト別採算計算では、発生主義会計に伴い算定される減価償却費は、投資意思決定とは関係のない埋没原価となってしまう。そのため、設備投資意思決定においては、回収期間法DCF法などによるキャッシュフロー情報の活用が行われたのである[214]

一方、1980年代のアメリカでは、赤字製品の切り捨てなどのリストラ目的で、活動基準原価計算の導入が図られた[236]。この背景には大量生産から多品種少量生産への転換という工場の実態に対応する必要があった。伝統的な原価計算が大量生産に適した製造間接費の配賦基準を用いていたため、多品種少量生産では適切に製造間接費を製品別に配賦できなかったのである。ロバート・S・キャプラン英語版らはこの問題を解決するため、活動基準原価計算(ABC)を提唱し、これは製品戦略に資するものであるとされた[237]。活動基準原価計算は全部原価計算の流れを汲むものであり、著名な原価計算学者のチャールズ・T・ホーングレンは活動基準原価計算に反対し、キャプランと激しい論争を繰り広げたが、結局、ホーングレンも自説を改めて活動基準原価計算を支持した[238]

1990年代になると、M&Aの活発化にともない、企業価値評価で活用されるキャッシュフロー情報が管理会計においてもますます重要となった[239]。また、活動基準原価計算は、プロセス改善による原価低減を目的とした活動基準原価管理(ABM)に発展している[240]。また、キャプランらによって1992年には新たな管理会計ツールとしてバランスト・スコアカードが提唱され、これは戦略マネジメントシステムとして広がっていくことになった[241]

社会主義国の会計

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ソヴィエト連邦

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1920年代から1930年代に作られたソ連型の会計制度は中央集権的であり、会計人は中央省庁の計画をもとに実務を行う簿記係と、上級機関に責任をもつ会計担当者に分かれた。経営の改善や専門家としてのイニシアティブを発揮する余地はなくなり、会計は硬直化した[242]。1960年代からは経済改革による分権化が行われ、計画経済や企業管理において利潤・原価・価格・利子なども評価されるようになり、会計士は科学技術協会(HTO)に所属して専門家として活動した。HTOでは資本主義諸国の会計の取り入れも検討された[注釈 53][244]

1980年代後半のペレストロイカから民営化や市場経済化が始まり、西側諸国との合弁企業で市場経済の会計が部分的に導入され、企業の営業秘密が認められた[245]。1991年のソ連の崩壊によって市場経済化がさらに進み、ロシアでは公認会計士にあたる監査士が国家資格化された[注釈 54]。社会主義政権時代のロシアでは会計士の人気がなかったが、市場経済化が進むと会計士は人気の職業となった[注釈 55][39]

中国

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1949年に中華人民共和国が成立し、1950年にソ連をもとにした計画経済の会計制度が訓令された。1958年に大躍進政策が進められると、自力更生・生産第一というスローガンのもとで企業の会計規定がなくなり、会計担当者は下放されて農業や工業労働に従事した。1962年には会計業務の混乱を収拾するための指示が出され、会計担当者の復帰を認めるとともに、一般人にも容易な記帳法の研究が進められた。1964年に商業部部が増減記帳法の施行を始め、商業やサービス業で導入が進んだ[注釈 56][249]

1978年の改革開放以降は、次のような会計の改革が進められた。(1) 会計基準の統一化が進められた。計画経済のもとでは業界や部門が分離しており、各企業の会計情報は統一されていなかった。(2) 外資を導入するため、国際基準を取り入れて国外の投資家に分かりやすい財務諸表が作成された。(3) 国家のマクロ経済を理解するために統一性と比較性のある会計情報を整備した。1985年には会計法が公布され、会計基準が定められた。国際慣行にそった会計基準や原価計算を取り入れ、それまでの増減記帳法から貸借記帳法に移行した[250]

その他の社会主義諸国

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第二次大戦後の東欧諸国は、ソ連が主導する経済相互援助会議(COMECON)に加盟してソ連型の会計制度を採用した。ユーゴスラヴィアは市場経済と労働者の自主管理にもとづいて会計制度を改革し、統一会計制度の採用を義務化せず、付加価値を導入し、社会会計局による監査を行った。他の東欧諸国は1960年代から改革を始め、アメリカ式の直接減価制(ハンガリー)、公認会計士による監査(ポーランド)、基本会計と工場内会計の分離(チェコスロバキア)、会計と統計の統一システム(東ドイツ)などが行われた[251]。ベトナムは、1960年代は中国のモデルをもとに会計制度を定め、1970年代からはソ連や他の社会主義国の会計制度を参考とした。1986年からはドイモイ政策の改革によって貸借対照表や損益計算書など市場経済の諸制度を導入していった[252]

ロシアを含めた旧ソ連のNIS諸国では国際会計基準への移行を進めているが、会計実務の違い、税制の違い、社会主義時代に存在しなかった概念の翻訳などが課題となっている[注釈 57][254]

イスラーム会計

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イスラーム経済の特徴には利子の授受を行わない点があり、イスラーム法に準拠した取引が求められる。そのために、(1) 商品売買やリースで財を介在させて売却益や賃貸料収入を得る、(2) 出資として投資からの利益を得る、などの方法が歴史的に使われてきた[注釈 58][256]イスラーム金融とイスラーム金融機関のための国際的な会計基準は、1990年からイスラム金融機関会計・監査機構英語版(AAOIFI)が定めている[注釈 59]。AAOIFIは主に湾岸諸国で採用され、マレーシア、インドネシア、パキスタンなどの国は、AAOIFIと併せて独自のイスラーム会計基準を整備した。会計教育では、影響力が大きいアメリカの会計と国民文化でもあるイスラーム会計が並立する国もある[注釈 60][259]

2009年には、16カ国によってアジア・オセアニア会計基準設定主体グループ(Asian-Oceanian Standard-Setters Group、AOSSG)が設立されて、イスラーム金融の財務報告もテーマとなった。2010年にマレーシアを中心に作業グループ(AOSSG IF WG)が組織され、イスラーム金融にIFRSを適用する際の課題をIASBに提案した。2011年にイスラーム金融諮問グループが設立され、2013年に第1回会議が開催されて、イスラーム会計をIFRSに適用する際の課題が議論されている[注釈 61][260]

世界金融危機と会計

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ビッグ8と呼ばれる大手会計事務所8社は、監査業務に加えてコンサルティング業務を増加させた。監査対象の企業からもコンサルティング業務を受注したため、監査人の独立性が問題とされるようになった[261]。1980年代以降のアメリカの会計不正の主な原因としては、(1) 経営者の報酬が株価に依存し、不正な操作で株価をあげる動機があった。(2) 不正を誘発するように株式市場が好調であった。(3) 不正を防ぐべき会計事務所が、監査業務とコンサルティング業務の利益相反を起こしていた、などがある。こうした状況下で、エンロンワールドコムなどの大手企業が会計不正によって破綻した[262]

規制強化にもかかわらず、その後も不正は続いた。アメリカでは、エンロンと類似の事件を防ぐために、住宅ローンの国策会社であるフレディマックファニーメイがバランスシートを縮小した。その影響で住宅ローンに民間業者が参入し、民間業者が導入したサブプライムローンは住宅価格の上昇に後押しされて2003年以降に急拡大をした[注釈 62][264]。すでに2005年にはサブプライムローンのバブルが指摘されていたものの、格付け機関はリスクを知りつつサププライムの証券に高い格付けを与え続けた。リスクを警戒し、2006年から住宅ローン売買を減らした投資銀行もあったが問題の解決にはならず、2008年にはリーマンブラザーズの倒産をきっかけにサブプライム住宅ローン危機が起きた[265]

サブプライム危機の一因には、時価評価もあった。取得原価主義であれば、機関投資家は株式などの金融資産で含み益を持つことができる。他方で時価評価主義では、金融資産の減価は自己資本減少と機関投資家が発行する株式の減価に直結し、その株式を保有する企業が発行する株式も減価となる。こうして負の連鎖が拡大した[266]。サブプライム危機は世界金融危機に波及し、2008年のワシントン・サミットG20が金融安定化のための国際会計基準について声明を行い、対応を求められたIASBは会計基準を変更した[注釈 63]。この変更で適正手続(デュー・プロセス・オブ・ロー)を取らなかったためにIASBは批判を受け、IASBが推進してきた公正価値会計も批判された[注釈 64]。IASBは公正価値会計の全面適用から方針を変更し、調整機関としての活動を増やすこととなった。IFRSは2013年に会計基準アドバイザリー・フォーラム(ASAF)を設立し、幅広い地域の団体がメンバーとして関与している[注釈 65][270]

会計ソフトウェア

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20世紀後半から、会計実務において会計ソフトウェアが普及していった。1970年代には会計事務所の専用機型会計ソフトが実用化され、経理業務の正確性や効率性が向上した。1980年代にはパーソナルコンピュータ(PC)の影響により、パッケージ型の会計ソフトが発売された。パッケージ型ソフトは専用機に比べて安価であり、ユーザーの習熟度に合わせた入力機能を備えているソフトもあり、中小企業や個人事業者の間で使用者が増えていった。2010年代にはパッケージ型のソフトをネットワーク上で操作するクラウド型の会計ソフトが登場した。クラウド型会計ソフトには、2013年から人工知能(AI)の導入が始まり、銀行口座やクレジットカードのデータ取り込みや帳票のスキャンによって仕訳の自動化が実現した。インターネットによって財務データの入手も容易となり、2008年には金融庁運営のEDINETから企業が提出した財務諸表をダウンロード可能となった[271]

家計簿の歴史

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家計や家政については、古くはアリストテレスの『政治学』、クセノポンの『家政論』、そしてアリストテレス名義の偽書『経済学』などの文献がある[272]。古代ローマの家長は、国家に家計簿を義務づけられており、財政政策の一部でもあった[273]。当時の家政は家父長制を前提としたものであり、例えば『家政論』では夫は戸外の政治と農場管理、妻は家庭内という分担が理想とされていた[274]

個人的な内容や家庭のために記帳する家計簿も現れ、中世のイタリア商人は、商売の帳簿とは別に個人的な家計簿をつけた[275]。思想の一環として家計簿が使われる場合もあり、アメリカの作家・思想家ヘンリー・デイヴィッド・ソローは森で暮らしながら家計簿をつけて、生きるために最低限必要なものを見極めようとした[276]

アメリカで公認会計士第1号となったチャールズ・ワルド・ハスキンズ英語版は職業教育や家計の重要性を説き、家庭に会計学を活かすために家計の本を出版した[277]。日本においては、1908年に羽仁もと子が刊行した家計簿が現在まで続いている点で最も長い。羽仁は家計について、労力と財力が調和を保って発展するようにつとめるという目標を掲げた[注釈 66]。刊行当時から現在まで同内容を保っており、当初は主婦1人による記帳を想定していたが、家計簿は家庭全員が参加するものという構想に変わっていった[193]

学問としての会計史

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バロース社の初期の加算機。加算機は統計調査や会計に使われ、会計機とも呼ばれた[注釈 67]

初期の会計史の研究としてリチャード・ダフォーンオランダ語版の『商人の鏡』(1635年)があるが、1ページのみだった。単行本としては、ベンジャミン・F・フォスターの『The Origin And Progress Of Book-keeping』(1852年)からとなる[279]。日本では明治期の洋式簿記の導入と同時期に歴史研究が始まり、当初は海外研究の抄訳が多かった。初期のものとして曽田愛三郎『学課起源略説』(1878年)や海野力太郎『簿記学起源孝』(1886年)がある[280]

学会は、1972年にイギリス会計史学会、1973年にアメリカ会計史学会英語版、1982年に日本会計史学会が設立された。学術誌としては、アメリカ会計史学会の機関紙「The Accounting Historians Journal英語版」(AHJ)が年2回、国際的ジャーナルの「Accounting History英語版」(AH)が年4回発行されている。傾向としては、AHJが伝統的な組織を扱い、AHは限定されずにさまざまな組織を扱う。日本では「会計史学会年報」が発行されている他、会計専門学術誌である『會計』にも研究論文が掲載されている[279]。研究者の傾向として、日本では会計プロフェッションを兼務せずに研究者となる割合が多く、海外では公認会計士の研究者が多い[281]

複式簿記の起源

複式簿記の起源については複数の説があり、特に古代ローマ起源説と中世イタリア起源説に大きく分かれる。ローマ説の根拠としては、会計役の奴隷と主人がおこなっていた代理人簿記を起源とする。中世イタリア起源説は、さらにトスカーナ説、ジェノヴァ説、ロンバルディア説、ヴェネツィア説、各都市国家で同時期に作られた説などに分かれる[282]

近代以降のヨーロッパの繁栄や産業革命の一因に、複式簿記を含める説がある。しかし、正確な簿記はヨーロッパ以外にも存在しており、複式簿記が誕生したのちもインドや中国をはじめとする地域はヨーロッパよりも繁栄していた[283]。そのためアフリカやアメリカ大陸への進出による鉱物資源の調達、人口増加の解決、工業製品の輸出増などがヨーロッパの繁栄や産業革命の主な原因とされる[284]

出典・脚注

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注釈

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  1. ^ ものを数えた最古の記録として、2万年前のイシャンゴの骨が知られている[6]
  2. ^ 日本では商業書や算術書は古くから存在し、江戸時代には商業書『商売往来』があり、算術書『塵劫記』には商業計算が書かれているが、会計についての教育書は明治以降となる[27]
  3. ^ 当時の国庫会計を伝える遺物として、紀元前650年頃の「エジプト国庫記録官・王室記録長官・納税記録官・国立穀物倉庫総裁兼エジプト陸軍将官」のハップ・メンの石棺がある[53]
  4. ^ 古代エジプトの教訓文学である『ケミイトの書』や『ドゥアケティの教訓英語版』には、書記の素晴らしさを讃え、書記になるように勧める作品がある[55]
  5. ^ トークンは新石器時代から計算具として使われていたという説や、トークンが文字の原型になったという説もある[5]
  6. ^ 西アジアにおけるインド数字の最古の記録は、ネストリウス派司祭のセベルス・セベクトの662年の文書であり、インド記数法を使った最古のアラビア語文献が数学者・天文学者のアル=フワーリズミーの『インド数字による計算法』(825年)である[63]
  7. ^ インドの二大叙事詩の一つである『マハーバーラタ』では、帝王学教育としてガナカについて語られる場面がある[65]
  8. ^ ゼロの概念はなかったが、9個の数字によって位取りをした[73]
  9. ^ 内容的には、三柱決算法に属する。資本的支出と収益的支出が未分離であり、建物の購入代金・修理費・開田の費用・農機具などがまとめて「雜用」となっている[77]
  10. ^ ワクフの急増は、マムルーク朝の財源だったイクター制の崩壊を招いた[89]
  11. ^ 哲学者のイブン=シーナーの自伝によれば、野菜売りの商人からインドの計算法を教わったとある[11]
  12. ^ 三脚帳法が考案された正確な年代は不明であり、現金に代わって信用取引が増加した時代の産物とされる[92]
  13. ^ 初穂料は、会計的には受取収益にあたる。また『国々御道者日記』には、早くも大福帳という表記が見られる[96]
  14. ^ キープの会計は階層構造をもち、上方向は合計、下方向は分割となる[99]
  15. ^ 中でもハウハ英語版の首長フェリペ・グァクラパウカルはスペイン本国に行き、年金や特権を認められた[101]
  16. ^ 1986年には、ドゥームズデイ・ブックの出版900年を記念して英国放送協会(BBC)がプログラム『ドゥームズデイ・プロジェクト英語版』を開発した。
  17. ^ フィボナッチは、イスラーム王朝のムワッヒド朝の都市であるブージ(現在のベジャイア)でインド・アラビア数字と算盤を学んだ[106]
  18. ^ アラビア数字はときに禁止され、普及の障害となった。ローマ数字と比べると、0を終わりに付け足したり、0を6や9に変えるなど改竄しやすいというのが理由だった[13]
  19. ^ シェイクスピアの戯曲『ヴェニスの商人』には、中世のヴェネツィアではなくシェイクスピアの同時代の16世紀から17世紀の取引地名が登場する。これは過去のヴェネツィアの繁栄を同時代のロンドンに結びつけて題材にしたともいわれる[109]
  20. ^ イタリアでは都市国家によって組合の構成が異なり、会計にも影響を及ぼした。フィレンツェは他人同士による期間組合(マグナ・ソキエタス)であり、ヴェネツィアでは貴族の血縁を中心とした家族組合(ソキエタス)による口別損益計算が行われていた[110]
  21. ^ イタリア商人は為替相場を利用し、ヨーロッパの資金を西アジアに移動して利潤を生み出した。十字軍は多額の遠征費を必要としたため、イタリア商人の立場をより有利にした[112]
  22. ^ 当初の複式簿記は、損益勘定が元帳にないか、あったとしても企業全体の損益を総括できなかった。そのため利益を計算するには、棚卸をもとに総資産と総負債を時価評価した財務表を作成して差額を求め、前期と今期を比較した[114]
  23. ^ 内容は両替商による貸付記録だが、貸方による回収記録がないため、賃借左右対称方式ではなく賃借前後分離方式だったとされる[116]
  24. ^ たとえば預金を裏付けに手形を振り出して決済をする場合は、商人にとって現金よりも便利ではあるが記帳は複雑化する[121]
  25. ^ メディチ銀行では、支店の支配人は会計報告のためにいつでも召集に応じることや、年1回の決算に加えて必要ならばいつでも決算を行って報告する義務があった[122]
  26. ^ 現存する秘密帳簿としては、教皇庁とも取引をした商人であるフランチェスコ・ディ・マルコ・ダティーニやメディチ銀行のものなどがある。メディチ銀行の秘密帳簿からは複式簿記の要素が見られる[124][31]
  27. ^ 『スムマ』で名声を得たパチョーリはレオナルド・ダ・ヴィンチとも交流した。『モナ・リザ』や『最後の晩餐』には、パチョーリが教えた遠近法の影響がみられるという説もある[126]
  28. ^ 『スムマ』29章から。「毎年帳簿を締切ることは常に良いことであるが、他の人と組になっている人の場合には特にそうである。諺に「計算を度々すれば、友情が続く」といっている」[127]
  29. ^ 当時の複式簿記の普及が分かる作品として、ヨースト・アマン英語版とヨハン・ノイドルファーの木版画『商業の寓話』がある[132]
  30. ^ ルウェールとマルクのいずれも1370年代に破産しており、当時の金融業のリスクを示す証拠にもなっている。14世紀後半の両替商は約15家系あり、各80人から90人の顧客がいた[135]
  31. ^ マウリッツは軍事教練など政策のマニュアル化を推進しており、王侯簿記は財政マニュアルとして導入されたと推測される[140]
  32. ^ ゲーテの小説『ヴィルヘルム・マイスターの演劇的使命』では、登場人物のヴェルナーが「複式簿記は人間の頭で発明した最も優れたもののひとつである」という主旨の発言をする。この発言が、ゲーテ自身の言葉だと誤解されている場合がある[142]
  33. ^ 簿記の分類は、大商人・会社は複式簿記、中有規模の商人は仕分帳・仕入先元帳・売掛帳・得意先元帳・現金売上帳・現金支払帳・現金帳・商品有高帳・負債控帳・染色帳(織物業の例)、小規模の商人は仕入帳・売掛帳・現金帳、最も小規模な商人は借入帳・売掛金および貸付債権を記した帳簿となる[149]
  34. ^ 作家のオノレ・ド・バルザックは、作品でたびたび会計を取り上げた。『人間喜劇』の『禁治産』(1836年)に登場するポピノ判事は、帳簿に人々の暮らしを記録し、貧しい人々を助ける際の資料とした[150]。同じく長編小説『役人』(1844年)には出納官や会計検査院の仕事が描かれている[151]
  35. ^ 貴族の反感、利権を持つ徴税人の抵抗、ジョン・ローミシシッピ計画との対立などの理由があった[153]
  36. ^ デフォーは卸売をはじめとして多様な事業経験があり、『ロビンソン・クルーソー』では主人公が貸借対照表のような形式で自己分析をする場面がある[159]
  37. ^ 福澤諭吉は『帳合之法』において、複式簿記にあたる「double entry」を本式、単式簿記にあたる「single entry」を略式簿記と呼んでいる[160]
  38. ^ 合衆国最古の予算は、1790年に財務長官のアレクサンダー・ハミルトンが提出した予算書とされる[158]
  39. ^ 作家のチャールズ・ディケンズの父親は破産した会計士であり、作品にさまざまな会計士を登場させた。正直者だが運のない者、強欲で詐欺を働く者、意図的に公会計を不透明にしている財務官などである[166]
  40. ^ そろばんは演算過程を保存しておけるので、帳簿に書く必要はない[187]
  41. ^ アメリカ商業学校の教師ヘンリー・B・ブライアントとヘンリー・D・ストラットンの『初等中学簿記』(1871年)の翻訳である[190]
  42. ^ この商法は、1807年のフランス商法(会計帳簿と財産目録)、1829年のスペイン商法(年次貸借対照表)、1861年のドイツ商法(財産評価規定)をもとにしている[194]
  43. ^ 開城簿記の起源については、高麗時代、李氏朝鮮時代、19世紀など諸説がある[195]
  44. ^ ジョゼフ・コンラッドの小説『闇の奥』は作者の体験をもとに書かれており、コンゴ自由国で植民地業務を行う会計士が登場する[202]
  45. ^ 王立アフリカ会社のような特権会社は経営が悪化して一般の民間業者に代わっていった[204]
  46. ^ ダホメ王国にはヨーロッパと奴隷貿易を行うアフリカの国家という特異な面もあった[207]
  47. ^ 電信は1844年にアメリカ連邦議会で採用され、電話は1885年にベル・システムが完成した。作表機は1890年、プリンター付きの計算機は1892年、加減乗除の機能をもつ計算機が1893年、単能計算機は1926年に完成した[211]
  48. ^ スターリン主義者からは、会計学は個別企業のみを対象にしていると批判された[223]
  49. ^ 権威ある基準には、内容に応じて十進法の分類番号をつけている[225]
  50. ^ 資産負債中心観に基づくものとして、連結財務諸表中心の制度導入、財務諸表体系へキャッシュフロー計算書を導入、退職給付・研究開発費・税効果会計・金融商品・棚卸資産を評価する会計基準の導入、などがある[229]
  51. ^ 古くは比較貸借対照表や資金運用表がある[231]
  52. ^ 株価暴落の原因として、金融商品の資産の恣意的な再評価があったという分析が理由である[233]
  53. ^ 検討項目としては、標準原価計算、直接原価計算、操業度と原価との関連、固定費と変動費の分類、損益分岐点、責任制と対応した原価設定、コストセンター、原価差異の許容限度、差異分析の利用、製造原価設定と標準修正、諸勘定から得られる設備投資の情報、自製・外注選択などがあった[243]
  54. ^ 監査士資格は各省庁の権益の結果として4種類に分かれ、銀行の監査士は中央銀行、保険機関の監査士は保険庁、証券会社と一般企業の監査士は財務省となった[246]
  55. ^ 市場経済化にともなってモスクワ大学では経済学部が難関となり、その中でも会計コースが人気を集めた。利益計算の学問である点と、高給である欧米の大手監査法人がモスクワに事務所を設立した影響がある[247]
  56. ^ 増減記帳法の手順は次のようになる。(1) 記帳伝票を作成する。(2) 記帳伝票と原始証憑にもとづいて明細帳等に記録する。(3) 記帳伝票を集計して記帳伝票総括表を作成する。(4) 記帳伝票総括表にもとづいて勘定口座へ転記する。(5) 総勘定元帳各勘定口座と補助簿の残高を照合する。(6) 総勘定元帳と補助簿にもとづいて会計報告書(財務諸表)を作成する[248]
  57. ^ 普通仕分帳がない点、勘定分類は西側諸国の5種類に対して3種類である点、現金勘定や商品勘定の違い、資産評価、手形取引や有価証券取引など多数の相違点がある[253]
  58. ^ 商品売買のムラーバハ、機械や不動産リースのイジャーラ、事業投資・損益分担契約のムダーラバ、債権のスクーク、保険のタカフルなどが発達している[255]
  59. ^ 2016年の時点でイスラーム教徒の数は世界人口の20パーセントを超えており、金融市場におけるイスラーム金融の成長率は20パーセントに達するとされる[257]
  60. ^ インドネシアの大学では、植民地時代から続くオランダ式会計からアメリカ式会計に変わり、イスラーム会計は大学ではなくイスラーム経済研究センターが教えている[258]
  61. ^ イスラーム会計処理で意見が対立しやすい重要な問題として、貨幣の時間価値の扱いと、型式より実質を優先する点がある[255]
  62. ^ 2006年には、新しい住宅ローンの70パーセントがサブプライムや非従来型ローンで占められ、発行額は2001年の1000億ドルから2005年の1兆ドルまで増加した[263]
  63. ^ IAS39号およびIFRS7号で認められていない金融資産の保有目的区分の変更を条件つきで認めた。IFRSを採用しているEU企業が、アメリカ企業に対して不利にならないように、EUが要請したとされる[267]
  64. ^ 公正価値会計への批判としては、収益費用観と資産負債観に代表される会計観の違いや、景気循環増幅効果英語版などマクロ経済の観点からの批判もある[268]
  65. ^ ASAFのメンバーは、2018年時点でパン・アフリカ会計士連盟(PAFA)、アジア・オセアニア会計基準設定主体グループ(AOSSG)、企業会計基準委員会(ASBJ)、中国財政部会計司(MOF-ARD)、韓国会計基準委員会(KASB)、欧州財務報告諮問グループ(EFRAG)、フランス会計基準局(ANC)、英国財務報告評議会(FRC)、イタリア会計基準設定主体(OIC)、ラテンアメリカ基準設定主体グループ(GLASS)、カナダ会計基準審議会(AcSB)、米国財務会計基準審議会(FASB)となる[269]
  66. ^ 羽仁の家計簿は1ヶ月単位で費目ごとに予算を立てるようになっており、1年間の総収入から生活費・衣食住費・教育・保険衛生・娯楽などを算出し、それを12等分して管理する[193]
  67. ^ 作家のウィリアム・バロウズは、バロース社の創始者ウィリアム・シュワード・バロウズ1世の孫にあたる[278]

出典

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参考文献

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単行本

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  • 網野徹哉『インカとスペイン 帝国の交錯』講談社〈講談社学術文庫〉、2018年。 
  • 市大樹『飛鳥の木簡 - 古代史の新たな展開』中央公論新社〈中公新書〉、2012年。 
  • 伊藤邦雄『新・現代会計入門 第三版』中央経済社、2018年。ISBN 9784532134808 
  • エリック・ウィリアムズ 著、中山毅 訳『資本主義と奴隷制』筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2020年。 (原書 Williams, Eric (1944), Capitalism and Slavery, University of North Carolina Press 
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  • 河原温『ブリュージュ - フランドルの輝ける宝石』中央公論新社〈中公新書〉、2006年。 
  • 工藤栄一郎 著「我が国における会計基礎教育の歴史」、日本公認会計士協会 編『会計基礎教育の歴史と現況』日本公認会計士協会出版局、2019年。 
  • 小泉龍人『都市の起源 - 古代の先進地域=西アジアを掘る』講談社〈講談社選書メチエ〉、2016年。 
  • 櫻井通晴『原価計算』同文館出版、2014年。 
  • 櫻井通晴『管理会計 第六版』同文館出版、2015年。 
  • 三光寺由実子『中世フランス会計史 - 13‐14世紀会計帳簿の実証的研究』同文舘出版、2011年。 
  • 清水廣一郎『中世イタリア商人の世界 - ルネサンス前夜の年代記』平凡社〈平凡社ライブラリー〉、1993年。 
  • ジョージ・G・ジョーゼフ 著、垣田高夫, 大町比佐栄 訳『非ヨーロッパ起源の数学 - もう一つの数学史』講談社〈ブルーバックス〉、1996年。 (原書 Joseph, George Gheverghese (1990), The Crest of the Peacock: Non-European Roots of Mathematics 
  • ジェイコブ・ソール 著、村井章子 訳『帳簿の世界史』文藝春秋〈文春文庫(Kindle版)〉、2018年。 (原書 Soll, Jacob (2014), The Reckoning: Financial Accountability and the Making and Breaking of Nations., Basic Books Limited 
  • 田中靖浩『会計の世界史 - イタリア、イギリス、アメリカ――500年の物語』日経BP、2018年。 
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  • 富田俊基『国債の歴史 - 金利に凝縮された過去と未来』東洋経済新報社、2006年。 
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  • 林佳世子『オスマン帝国 - 500年の平和』講談社〈講談社学術文庫(Kindle版)〉、2016年。 
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  • 宮本又郎; 阿部武司; 宇田川勝; 沢井実; 橘川武郎『日本経営史〔新版〕 - 江戸時代から21世紀へ』有斐閣、2007年。 
  • 屋形禎亮 著「古代エジプト」、樺山紘一 編『岩波講座 世界歴史2 オリエント世界』岩波書店、1998年。 
  • 山形浩生『たかがバロウズ本。』大村書店、2003年。 
  • 四日市康博 著「銀と銅銭のアジア海道」、四日市康博 編『モノから見た海域アジア史 - モンゴル~宋元時代のアジアと日本の交流』九州大学出版会、2008年。 
  • 渡邉泉『会計の歴史探訪 - 過去から未来へのメッセージ』同文館出版、2014年。 
  • 渡邉泉『会計学の誕生 - 複式簿記が変えた世界』岩波書店〈岩波新書〉、2017年。 

論文・記事

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関連文献

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単行本

[編集]
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  • 片岡義雄「会計史」『社会科学大事典 3』鹿島研究所出版会、1968年。 
  • 橋本寿哉『中世イタリア複式簿記生成史』白桃書房、2009年。 
  • A・C・リトルトン英語版 著、片野一郎 訳『会計発達史』同文館出版、1978年。 (原書 Littleton, Ananias Charles (1933), Accounting evolution to 1900, Univ of Alabama Press 

論文・記事

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関連項目

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外部リンク

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