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[[関西学院大学]]商経学部卒。[[有限責任監査法人トーマツ|等松青木監査法人]]代表社員等歴任した日本会計学界の大御所的存在であった[[関西学院大学]]教授・[[青木倫太郎]]のゼミ出身。[[学徒出陣]]。 |
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同郷の[[赤坂宿 (中山道)|美濃赤坂]]出身<ref>[https://iss.ndl.go.jp/sp/show/R100000002-I000002410923-00/ 栄町立町八十八年記念 付・田結穣提督小史 | |
同郷の[[赤坂宿 (中山道)|美濃赤坂]]出身<ref>[https://iss.ndl.go.jp/sp/show/R100000002-I000002410923-00/ 栄町立町八十八年記念 付・田結穣提督小史 | あゆみ : 不破郡赤坂町字栄町・大垣市赤坂町栄町区 (貝沼喜久男): 1991]</ref> |
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2019年7月11日 (木) 01:19時点における版
はら おとひこ 原 乙彦 | |
---|---|
原乙彦 | |
生誕 |
1925年 日本 |
国籍 | 日本 |
民族 | 日本人 |
出身校 | 関西学院大学 |
職業 | 実業家 |
活動期間 | 20世紀 |
著名な実績 | 戦後最初の海外進出 |
影響を受けたもの |
五省 小寺源吾 原吉平 小寺新六郎[1] 塩塚忠美 市居誠一 |
活動拠点 |
日本 ブラジル |
非婚配偶者 | 原由比子 |
子供 | 原秀六 |
親 | |
親戚 |
|
原 乙彦(はら おとひこ、1925年(大正14年)1月1日 - )は、日本の実業家。元ユニチカ通商 (のちのユニチカトレーディング) 社長。美濃赤坂生まれ。旧姓・矢橋。ブラジル国法人・ニチボーブラジルやブラジル住友銀行の設立を通して原吉平らとともに戦後最初の海外進出を果たした。
略歴
旧姓・矢橋。1925年、美濃赤坂にて、父・矢橋次郎(赤坂銀行専務取締役[3]、十六銀行監査役[4])と母・絹(滋賀県彦根市出身。彦根高等商業学校〈現・滋賀大学経済学部〉の設置に尽力、「高商町長」〈彦根町〉の愛称で呼ばれた安居喜造の長女 〈安居喜造#人物参照〉)の三男として生まれる[5]。
関西学院大学商経学部卒。等松青木監査法人代表社員等歴任した日本会計学界の大御所的存在であった関西学院大学教授・青木倫太郎のゼミ出身。学徒出陣。
同郷の美濃赤坂出身[6] の海軍中将・田結穣[7](終戦時 : 舞鶴鎮守府司令長官兼第一護衛艦隊司令長官)との縁もあり、海軍へ。満州にて終戦、階級は海軍少尉。
明治維新以前より縁の深い、同郷の美濃大垣藩勘定方家老の家系・小寺家、その当主・小寺成蔵の長男小寺敬一(原は、青年期、この小寺敬一邸〈阪神間モダニズム#当時建設された主な施設・邸宅等参照〉が居所)、その妻花野[8]、 同小寺成蔵養子小寺源吾らとの縁もあり、素封家・原甚之丞の娘婿となる。
1958年、ブラジル国法人・ニチボーブラジルやブラジル住友銀行(旧ブラスコット銀行営業権が基盤)(住友銀行 60%、ニチボー 40%)の設立を通して、大日本紡績の社長原吉平[9][10]・塩塚忠美[11]・市居誠一[12]や南興物産(1952年大日本紡績子会社、1970年ユニチカ通商に社名変更)の会長原田立之祐らとともに、戦後最初の海外進出を果たした(サンパウロ#サンパウロ出身の人物#サンパウロにゆかりのある日本人参照)[13]。
サンパウロ駐在時、1960年、第3回世界バレーボール大会(女子)がブラジルで開催され、ニチボー貝塚女子バレーボールチームの監督であり日本代表チームのコーチとなった鬼の大松こと大松博文[14][15][16](ニチボー勤務、1964年、東京五輪においてバレーボール全日本女子を金メダルに輝かせた。バレーボール全日本女子#歴史#日ソ2強時代参照)率いる東洋の魔女(ニチボー貝塚女子バレーボールチームのニックネーム)の訪問・励ましを受ける(この時、日本は、ソビエト連邦に敗れはしたものの、世界選手権初出場ながら強豪国を撃破して準優勝)。
1964年に大日本紡績がその社名を変更して生まれたニチボーが、かつて大日本紡績自らが中心となって設立した日本レーヨン[17](ユニチカ#沿革参照)と合併[18]して誕生したのがユニチカ、明治維新前から原の生家・矢橋家(「註釈一覧 3) 矢橋家」)と縁の深い小寺家の養子・小寺源吾(大日本紡績元社長)の六男・小寺新六郎が実父と同じくその社長に就任[19]し、原は戦後最初の海外進出を果たした際縁のあったユニチカ通商(前身は前述の南興物産、のちのユニチカトレーディング)社長に就任することになる。
系譜
江戸中期 (分立) 以前
- 惣本家及び本家・鼻祖の五世祖父 - 矢橋彦十郎(桓武天皇第二皇子の嵯峨天皇にまで遡るとされる系譜〈「註釈一覧 3) 矢橋家」〉。1625年2月8日没。昌嫡男 小字吉。室長松城主渡部筑前守女。「為織田信長公加勢致シ、於江州矢橋手柄有之、天文ノ頃浪人ト成、天正元酉年濃州赤坂ニ住ス、父渡辺新左ェ門尉江州矢橋ニ住ス、故ニ後在名ヲ以テ矢橋ヲ名乗」とある。)
- 惣本家及び本家・鼻祖の高祖父 - 矢橋四郎右衛門(1631年8月5日没。父迪十郎改姓後代々矢橋ヲ名乗。字喜。室高屋道意妹他。)
- 惣本家及び本家・鼻祖の曾祖父 - 矢橋四郎右衛門(1685年2月20日没。旧 小字長吉。室矢橋太兵衛女)
- 惣本家及び本家・鼻祖の祖父 - 矢橋三郎兵衛(1691年6月28日没。垂 号交慰。室矢橋久左衛門女)
- 惣本家及び本家・鼻祖の父 - 矢橋藤十郎(1722年11月18日没。孝 号木巴。室大垣川村太郎ェ門女。)
江戸中期 (分立) 以後
惣本家
- 鼻祖 - 矢橋藤十郎(矢橋藤十郎〈1722年11月18日没。孝 号木巴。〉の実子。本家鼻祖・矢橋三郎兵衛〈1761年11月22日没、元連 小字徳四郎。〉の実兄。1775年8月晦没。宅教 小字惣四郎 号李明。「矢橋惣本家 今称東矢橋又辻矢橋」。室矢橋久左ェ門女。)
- 大伯父 - 矢橋藤十郎(1894年3月12日没。小字増次郎 号十衛。室矢橋宗太郎二女勝後改幾世)
- 大叔母 - 矢橋幾世(1911年4月7日没。矢橋宗太郎ニ女勝後改幾世。矢橋惣本家当主・矢橋藤十郎〈1894年3月12日没、小字増次郎 号十衛〉に嫁す。行年79。)
- 従伯父 - 矢橋賢吉(美濃赤坂生まれ。矢橋惣本家当主・矢橋藤十郎〈1894年3月12日没、小字増次郎 号十衛〉と矢橋宗太郎二女勝後改幾世の三男。国会議事堂の設計をまとめた中心人物。国会議事堂建設のための営繕組織、すなわち、大蔵省臨時議院建築局〈1918年 - 1925年、工務部長:矢橋賢吉〉・大蔵省営繕管財局〈1925年 - 1943年、工務部長:矢橋賢吉→大熊喜邦〉のトップ〈国会議事堂#歴史#国会議事堂と建築家 及び #営繕組織参照〉。他の作品に、旧総理大臣官邸〈総理大臣公邸〉などがある。近代公共建築を支えた中心人物。大蔵省営繕官僚。)
本家(直系及類縁)
- 鼻祖 - 矢橋三郎兵衛(矢橋藤十郎〈1722年11月18日没。孝 号木巴。〉の実子。惣本家鼻祖・矢橋藤十郎〈1775年8月晦没。宅教 小字惣四郎〉の実弟。1761年11月22日没。元連 小字徳四郎 号李仙。寿50。室京都人図司多美。)
【曾祖父母の代】
- 曾祖父 - 矢橋宗太郎 (美濃赤坂生まれ。矢橋本家当主。大地主。明治維新の廃藩置県の時に、徳川家康が織田信長の岐阜城千畳敷御殿を移築し造営させた将軍家専用休泊所であるお茶屋屋敷の払下げを受けた[20][21])
- 義妹曾祖父 - 中井三郎兵衛 (3代) (三井家別家。第8代三井八郎右衛門の要請で三井家大元方〈三井全事業統括機関〉総元締に就任、三井銀行・三井物産の設立に深く関与する。「丸に越」 〈現在の三越のロゴマーク〉 及び 「丸に井桁三」 〈現在の三井グループのシンボルマーク〉の両方の暖簾を同族以外で特別に使用することができた)
【祖父母の代】
- 祖父 - 矢橋敬吉[22] (1859年10月、美濃赤坂生まれ。号楓園。大地主。赤坂銀行〈十六銀行〉取締役。同氏に昭和天皇と皇太子時代の明仁上皇のご訪問〈行幸 (昭和21年・昭和40年)〉があったこと[23]、所有するお茶屋屋敷〈徳川家康造営の将軍家専用休泊所跡〉の保存・公開[24]などで、知られる同氏の本家当主[25][26][27][28][29])
- 祖父 - 安居喜造(犬上郡選出県会議員。彦根高等商業学校〈滋賀大学経済学部の前身〉設置運動のため東上不在中に無理矢理に、彦根町長に選挙され、在任中は彦根高商設置のため始終奔走し、翌年に彦根高商新築の着工を見て辞任したので、「高商町長」〈彦根町〉の愛称でよばれた[30][31]。)
- 大叔父 - 矢橋友吉(美濃赤坂生まれ。「矢橋式日時計」を考案した矢橋徳太郎の祖父)
- 大叔父 - 矢橋亮吉 (1867年9月、美濃赤坂生まれ。矢橋大理石 創業者。その大理石を使って建てた西洋館に昭和天皇と皇太子時代の明仁上皇のご訪問〈行幸 (昭和21年・昭和40年)〉があった[32]。大学生・大学院生への学資の支援を行なっている公益財団法人矢橋謝恩会[33](外務省経済協力局長・岐阜県知事・古田肇は奨学生の一人[34])の創設者。東京海上専務取締役・第45代文部大臣〈大日本帝国憲法時代〉を歴任し甲南大学・甲南高等学校・中学校を創立した平生釟三郎とは高等商業〈現・一橋大学〉時代互いに支え合った学友)
- 大叔母 - 矢橋幾世(矢橋宗太郎二女勝後改幾世。矢橋惣本家当主・矢橋藤十郎〈1894年3月12日没、小字増次郎 号十衛〉に嫁す。1911年4月7日没。行年79。)
- 義祖父 - 原甚之丞(大阪の旧家・当主、実業家、大地主)
- 義祖母 - 原テル(1885年2月生まれ。旧姓・正木、公益財団法人正木美術館・正木家・米太郎二女)
- 義妹祖父 - 中井三郎兵衛 (4代) (三井家別家。明治-昭和時代前期の実業家。田中源太郎、内貴清兵衛らとともに、京都四天王と呼ばれた。)
【父母の代】
- 実父 - 矢橋次郎 (1892年11月、美濃赤坂生まれ。赤坂銀行[35]専務取締役[36]矢橋工業〈金生山の鉱山〉 社長、十六銀行監査役[37][38][39])
- 実母 - 矢橋絹 (1896年3月生まれ。滋賀県彦根市出身。安居喜造の姉、「高商町長」〈彦根町〉の愛称でよばれた安居喜造の長女[40]。)
- 養父 - 原甚之丞 (大地主、実業家、近代数寄者、伊勢神宮崇敬会役員)
- 養母 - 原マサ (旧姓・西居)
- 伯父- 矢橋龍吉 (1889年2月、美濃赤坂生まれ。岐阜県多額納税者。農業営む。1920年家督を相続する。号紅亭。 梁川星巌全集刊行会評議員、武藤知事代理[41][42]。伊藤信の遺稿『細香と紅蘭』を編集・校正・発行する。美濃赤坂の儒者で頼山陽・梁川星巌と深い交流のあった矢橋家の矢橋赤山・赤水 兄弟の遺稿を刊行する。美濃赤坂お茶屋屋敷の牡丹園を公開[43][44][45][46][47])
- 叔父 - 安居喜造 (滋賀県彦根市出身[48]。「高商町長」〈彦根町〉の愛称でよばれた安居喜造[49]は同名の父。三井銀行副社長・三井石油化学 (のちの三井化学) 社長・東レ会長・経団連副会長・伊勢神宮崇敬会東京都本部長)
- 従伯父 - 矢橋賢吉 (美濃赤坂生まれ。矢橋惣本家当主・矢橋藤十郎〈1894年3月12日没、小字増次郎 号十衛〉と矢橋宗太郎二女勝後改幾世の三男。国会議事堂の設計をまとめた中心人物。国会議事堂建設のための営繕組織、すなわち、大蔵省臨時議院建築局〈1918年 - 1925年、工務部長:矢橋賢吉〉・大蔵省営繕管財局〈1925年 - 1943年、工務部長:矢橋賢吉→大熊喜邦〉のトップ〈国会議事堂#歴史#国会議事堂と建築家 及び #営繕組織参照〉。他の作品に、旧総理大臣官邸〈総理大臣公邸〉などがある。近代公共建築を支えた中心人物。大蔵省営繕官僚。)
- 従叔父 - 矢橋六郎(1905年11月、美濃赤坂生まれ。矢橋亮吉・五男。洋画家。待合せ場所としてよく利用されたJR名古屋駅新幹線口の壁画「日月と東海の四季」など、〈大理石〉モザイク壁画も手掛け日本近代画に革新的な役割を果たした[50])
【同世代】
- 長兄 - 矢橋宗一 (1918年4月、美濃赤坂生まれ。矢橋次郎の長男[51]。矢橋工業〈金生山の鉱山〉 社長)
- 次兄 - 矢橋恒男 (1921年5月、美濃赤坂生まれ。矢橋次郎の二男[53]。遠山産業副社長)
- 同妻 - 保子
- 従弟 - 矢橋龍太郎 (1926年9月、美濃赤坂生まれ。矢橋敬吉の長男・龍吉の長男。実業家。大垣市功労者。美術蒐集家)[54][55]
- 再従兄 - 矢橋徳太郎(1916年、美濃赤坂生まれ。祖父・敬吉の弟・友吉の孫。愛知淑徳短期大学教授。岐阜天文台副理事長。世界最高の精度を誇る「矢橋式日時計」を考案。[56][57][58][59])
- 再従兄 - 矢橋浩吉 (1919年生まれ。昭和の実業家。会社制限令の指定があるまで一時大日本紡績〈→ニチボー→ユニチカ〉 の傘下にあった揖斐川電気工業〈イビデン〉 にて社長を歴任)
【子の世代】
遠縁
- 遠縁 - 所郁太郎 (美濃赤坂生まれ。蘭方医、幕末の志士。1838年造り酒屋・矢橋亦一〈■ 所郁太郎 • ■ 矢橋家 | 美濃赤坂宿 を参照〉の四男。梁川星巌と親交。適塾塾頭。井上馨の救命、高杉晋作への協力で知られる。)
脚注
- ^ 小寺新六郎
- ^ 矢橋敬吉
- ^ 矢橋次郎 | 人事興信録(第8版)
- ^ “「昭和18年 (1943) 7月20日 矢橋次郎監査役に就任」 (年表37頁)”. shashi.shibusawa.or.jp. 2018年10月11日閲覧。
- ^ 矢橋次郎三男乙彦 | 人事興信録(第8版)
- ^ 栄町立町八十八年記念 付・田結穣提督小史 | あゆみ : 不破郡赤坂町字栄町・大垣市赤坂町栄町区 (貝沼喜久男): 1991
- ^ 追憶 (2) ★小柳資料 (海軍省・田結穣の…)
- ^ 『人事興信録 第13版上』コ29頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年9月19日閲覧。
- ^ 原吉平(1956-1957年度・会長) | 大阪南ロータリークラブの歴史
- ^ 原吉平 | 大阪南ロータリークラブ 創立年のメンバー
- ^ 副社長は塩塚忠美が就任する | ユニチカ編・通史編 第1章 ニチボー・日本レイヨンの合併
- ^ 市居家(大阪府) – 閨閥学 -偉人たちの経歴・家族・子孫-
- ^ “ニチボー編 第5章 構造的不況打開への経営努力 (昭和30年~44年) 29頁/58頁”. https://www.unitika.co.jp. 2018年10月8日閲覧。
- ^ Hirofumi Daimatsu - International Volleyball Hall of Fame
- ^ 「回転レシーブ」神田好子が語る東洋の魔女 “鬼の大松”は王子様だった! | デイリー
- ^ 1964東京五輪“東洋の魔女”率いた鬼の大松 当時のエース・井戸川さんが明かす苛烈秘話 | 東京スポーツ
- ^ 日本レイヨン編 第1章 日本レイヨンの初期とレーヨン工業の確立 - ユニチカ
- ^ ユニチカ編・通史編 第1章 ニチボー・日本レイヨンの合併
- ^ 小寺新六郎新社長
- ^ お茶屋屋敷跡 (岐阜県公式ホームページ) 2019年2月2日閲覧。
- ^ 画像表示: 矢橋敬吉 (第4版) - 『人事興信録』データベース
- ^ 矢橋敬吉
- ^ 西美濃地域 産業観光ガイド 〜 産業観光施設・企業、産業遺産・文化財の紹介 〜 / 天皇の行幸と矢橋家
- ^ 岐阜県大垣市赤坂 3・御茶屋屋敷.(矢橋家) 2017年10月10日閲覧。
- ^ 画像表示: 矢橋敬吉 (第4版) - 『人事興信録』データベース
- ^ 美濃赤坂宿 ■ 所郁太郎 ■ 矢橋家 2018年1月15日閲覧。
- ^ 中山道美濃路-2 赤坂 2018年10月12日閲覧。
- ^ 神戸大学 電子図書館システム --一次情報表示--時事新報社第三回調査全国五拾万円以上資産家 (岐阜県の三(人員十名通計十八名)) 2018年10月5日閲覧。
- ^ 系譜 (「註釈一覧 3) 矢橋家」) 2019年1月15日閲覧。
- ^ 「…大正八年二月六日、運動の為東上不在中に無理矢理に、彦根町長に選挙され、在任中は高商設置のため始終奔走し、翌年十二月、高商の新築の着工を見て辞任したゝめ、「高商町長」のニックネームがつけられたなどのエピソードも…」| 阿部安成「<資料紹介> 滋賀大学経済経営研究所調査資料室報⑨ - Ⅹ 創立のころ(上)ー「「彦根高商創立当時を語る」座談会」という記録」ー」彦根論叢351号162-163頁(滋賀大学経済学会発行)
- ^ 「…彦根高等商業学校創立寄附金芳名録…」| 阿部安成「<資料紹介> 滋賀大学経済経営研究所調査資料室報⑪ - Ⅻ 創立のころ(下)ー「「彦根高商創立当時を語る」座談会」という記録」ー」彦根論叢355号150頁(滋賀大学経済学会発行)
- ^ 西美濃地域 産業観光ガイド 〜 産業観光施設・企業、産業遺産・文化財の紹介 〜 / 天皇の行幸と矢橋家
- ^ 非営利法人データーベースシステム NOPODAS 公益財団法人矢橋謝恩会
- ^ NTT西日本 岐阜支店 (報道発表資料) : 矢橋亮吉が設立した公益財団法人矢橋謝恩会、奨学生古田肇 (通産省入省・外務省経済協力局長・岐阜県知事)
- ^ 赤坂支店の歴史 | 十六銀行赤坂支店新築移転オープン
- ^ 矢橋次郎 | 人事興信録(第8版)
- ^ 十六銀行 赤坂支店 2018年11月10日閲覧。
- ^ 昭和18年 (1943) 7月20日 矢橋次郎監査役に就任 (年表37頁) 2018年10月14日閲覧。
- ^ 画像表示: 矢橋敬吉 (第4版) - 『人事興信録』データベース
- ^ 矢橋次郎妻絹 | 人事興信録(第8版)
- ^ 矢橋龍吉 | 人事興信録(第8版)
- ^ 矢橋龍吉 | 徳富蘇峰記念館
- ^ 矢橋龍吉 2019年2月1日閲覧。
- ^ Saikō to kōran. - WorldCat 2019年2月1日閲覧。
- ^ 『赤山遺稿』『赤水遺稿』 2019年2月1日閲覧。
- ^ お茶屋屋敷跡 (大垣市ホームページ) 2019年2月2日閲覧。
- ^ 画像表示: 矢橋敬吉 (第4版) - 『人事興信録』データベース
- ^ 「 …東レ会長や経団連副会長を務めた実業家・安居喜造(きぞう)は彦根市出身です…」| 日本人の名字と家紋
- ^ 「…大正八年二月六日、運動の為東上不在中に無理矢理に、彦根町長に選挙され、在任中は高商設置のため始終奔走し、翌年十二月、高商の新築の着工を見て辞任したゝめ、「高商町長」のニックネームがつけられたなどのエピソードも…」| 阿部安成「<資料紹介> 滋賀大学経済経営研究所調査資料室報⑨ - Ⅹ 創立のころ(上)ー「「彦根高商創立当時を語る」座談会」という記録」ー」彦根論叢351号162-163頁(滋賀大学経済学会発行)
- ^ 矢橋 六郎(ヤバシ ロクロウ)とは - コトバンク
- ^ 矢橋次郎長男宗一 | 人事興信録(第8版)
- ^ “橋口勝利「近代津島地域における企業勃興と資産家活動 ―資産家グループ形成と津島紡績株式会社の事業展開ー」政策創造研究2巻72頁 (2009年)”. https://kuir.jm.kansai-u.ac.jp. 2018年10月8日閲覧。
- ^ 矢橋次郎二男恒男 | 人事興信録(第8版)
- ^ “白州正子の西美濃 (1)”. http://app.f.m-cocolog.jp. 2018年10月8日閲覧。
- ^ “大垣市功労者 - 功労章 -”. http://www.city.ogaki.lg.jp. 2018年10月8日閲覧。
- ^ 1983年 第24回受賞者 : 矢橋徳太郎 | CBCクラブ文化賞〈くちなし章〉受賞者一覧
- ^ 『ひどけい』15号9頁 (2009年3月) | 日本日時計の会会報
- ^ …「精密日時計(矢橋式日時計)」は、境内に設置されている。日時計ながら5分刻みという世界最高の精度を誇る。矢橋徳太郎(元愛知淑徳大学教授、元岐阜天文台副理事長)が考案した。… | 近江神宮(大津市)
- ^ 矢橋, 徳太郎, 1916-1996 - Web NDL Authorities - 国立国会図書館