内貴清兵衛
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内貴 清兵衛(ないき せいべえ、1878年(明治11年) - 1955年(昭和30年))は日本の実業家、文化人。日本新薬の創設者、島津製作所・日本電池・京都織物などの役員を歴任、北大路魯山人等のパトロン。元京都市長・内貴甚三郎の長男。洛北や城南に広大な土地を保有した[1][2]。 田中源太郎、中井三郎兵衛らとともに「京都四天王」とよばれた。
ないき せいべえ 内貴 清兵衛 | |
---|---|
生誕 |
1878年 日本 |
死没 | 1955年 |
国籍 | 日本 |
別名 | 京都四天王 |
出身校 | 和仏法律学校 (現・法政大学) |
職業 | 実業家 |
活動期間 | 19世紀 - 20世紀 |
著名な実績 | 日本新薬創設 |
影響を与えたもの |
北大路魯山人 村上華岳 冨田溪仙 小松均 |
活動拠点 |
日本 京都 |
肩書き |
島津製作所役員 日本電池役員 京都織物役員 財団法人立命館協議員 |
補足 | |
略歴
[編集]1878年(明治11年)、京都市初代市長で実業家の内貴甚三郎の長男として生まれる。和仏法律学校(現法政大学)を卒業後、実家の呉服問屋『銭清』を継ぐ。
1919年(大正8年)に市野瀬潜と共に日本新薬を創設する。また、島津製作所・日本電池など多くの企業で役員を務める。
1928年(昭和3年)から1934年(昭和9年)、1936年(昭和11年)から1941年(昭和16年)まで、財団法人立命館の協議員を務めた[3][4]。
1955年(昭和30年)に死去、77歳。
人物
[編集]文化人としても知られており、北大路魯山人[5]、村上華岳[6]、冨田溪仙[7]、小松均[8]など多くの芸術家の支援を行った。
講述書
[編集]- 『金解禁問題の真髄』(国粋之日本社、1929)
脚注
[編集]- ^ “内貴 清兵衛 (読み) ナイキ セイベエ”. kotobank.jp. 2018年10月8日閲覧。
- ^ “魯山人の美意識⑬ 内貴清兵衛の芸術サロン”. s.webry.info. 2018年10月8日閲覧。
- ^ 出典: 『京都法政学校創立事務所 - その場所と人をめぐって -』 著・久保田謙次「立命館百年史紀要 第20巻」
- ^ 父・内貴甚三郎も、京都法政学校(現在の立命館大学)の設立賛助員を務めた
- ^ 『北大路魯山人』
- ^ 『大正の日本画-現代美の源流を探る』
- ^ 『日本美術全集 第22巻』
- ^ 小松均美術館-小松均 略年譜