「エジプトの歴史」の版間の差分
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この時代は考古学的には「終末期旧石器時代(Terminal Palaeolithic)」または「続旧石器時代(Epipalaeolithic)」に分類される時代にあたる<ref name="高宮2003p25"/>。緑化が進んだことで人々の生活圏はナイル川の両岸地帯から離れた地域にまで広がり、西方の元砂漠地帯に居住の痕跡が残されるようになった<ref name="高宮2003p25"/>。こうした居住の痕跡はエジプト南部の{{仮リンク|ナブタ・プラヤ|en|Nabta Playa}}遺跡やエジプト北部の[[シワ・オアシス]]、[[ファイユーム]]などに代表される<ref name="高宮2003p25"/>。人々の居住はとりわけ、夏季の降水が水たまりを作る低地や湧き水のある[[オアシス]]近辺に集中していた<ref name="高宮2003p26">[[#高宮 2003|高宮 2003]], p. 26</ref>。ナブタ・プラヤ遺跡とその周辺からは小型の[[石刃]]、[[尖角器]]を含む[[石器]]や[[骨角器]]、[[ダチョウ]]の卵で作られた[[ビーズ]]などが見つかっている<ref name="近藤1997p34"/>。ナイル川流域においては、ナイル川中流域(現:[[スーダン]]中部)に特に多数の居住痕跡が確認されており、「[[カルトゥーム中石器]](''Khartoum Mesolithic'')」と呼ばれる文化が広がっていた<ref name="近藤1997pp37_39">[[#近藤 1997|近藤 1997]], pp. 37-39</ref>。現:エジプト地域では南部のナイル川第2急湍付近に[[アルキン文化]](''Arkinian'')と[[シャマルク文化]](''Shamarkian'')が広がっていた。これらナイル川沿いの遺跡では[[魚類]]や[[貝類]]など、ナイル川の水産資源に著しく依存した生活が営まれていたことが発見された遺物からわかっている<ref name="高宮2003p26"/>。 |
この時代は考古学的には「終末期旧石器時代(Terminal Palaeolithic)」または「続旧石器時代(Epipalaeolithic)」に分類される時代にあたる<ref name="高宮2003p25"/>。緑化が進んだことで人々の生活圏はナイル川の両岸地帯から離れた地域にまで広がり、西方の元砂漠地帯に居住の痕跡が残されるようになった<ref name="高宮2003p25"/>。こうした居住の痕跡はエジプト南部の{{仮リンク|ナブタ・プラヤ|en|Nabta Playa}}遺跡やエジプト北部の[[シワ・オアシス]]、[[ファイユーム]]などに代表される<ref name="高宮2003p25"/>。人々の居住はとりわけ、夏季の降水が水たまりを作る低地や湧き水のある[[オアシス]]近辺に集中していた<ref name="高宮2003p26">[[#高宮 2003|高宮 2003]], p. 26</ref>。ナブタ・プラヤ遺跡とその周辺からは小型の[[石刃]]、[[尖角器]]を含む[[石器]]や[[骨角器]]、[[ダチョウ]]の卵で作られた[[ビーズ]]などが見つかっている<ref name="近藤1997p34"/>。ナイル川流域においては、ナイル川中流域(現:[[スーダン]]中部)に特に多数の居住痕跡が確認されており、「[[カルトゥーム中石器]](''Khartoum Mesolithic'')」と呼ばれる文化が広がっていた<ref name="近藤1997pp37_39">[[#近藤 1997|近藤 1997]], pp. 37-39</ref>。現:エジプト地域では南部のナイル川第2急湍付近に[[アルキン文化]](''Arkinian'')と[[シャマルク文化]](''Shamarkian'')が広がっていた。これらナイル川沿いの遺跡では[[魚類]]や[[貝類]]など、ナイル川の水産資源に著しく依存した生活が営まれていたことが発見された遺物からわかっている<ref name="高宮2003p26"/>。 |
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水量の増したナイル川の水産資源は、未だ農耕を知らない終末期旧石器時代の生活文化においてもある程度の定住的生活を可能とした<ref name="高宮2003p26"/>。この頃にエジプトでは[[磨製石器]]や[[土器]]の使用が開始されたと見られる<ref name="高宮2003p29">[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.29</ref>。2003年時点において確認されている世界最古の土器は[[日本]]の[[縄文土器]]などを含む[[東アジア]]のそれであるが、エジプトにおける土器の使用はそれに次ぐ世界で最も早期のものであり、終末期旧石器時代の早い段階から確認されている<ref name="高宮2003p30">[[#高宮 2003|高宮 2003]], p. 30</ref>。ただし土器の使用は局地的であり、また発見例は断片ばかりで用途ははっきりしない<ref name="高宮2003p30"/>。終末期旧石器時代の後半にはアフリカ北東部全域に土器の使用が広まったが、それでもなお土器が全く出土しないこの時期の遺跡が多数ある<ref name="高宮2003p31">[[#高宮 2003|高宮 2003]], p. 31</ref>。また、前8千年紀には[[西アジア]]で[[コムギ|ムギ類]]の栽培が、さらに前7千年紀には[[ヤギ]]の家畜化が始まったと見られているが<ref name="高宮2003p32">[[#高宮 2003|高宮 2003]], p. 32</ref>、エジプトでもこれと同時期かやや遅れて農耕と牧畜が始まった可能性がある<ref name="高宮2003pp32_38">[[#高宮 2003|高宮 2003]], pp. 32-38</ref>。エジプトの農耕と牧畜が西アジアから導入されたのか、独自に開始されたものなのかは多くの学者たちの関心の的であるが、はっきりとはしていない。ただし、特に[[ウシ]]の家畜化についてはエジプト(スーダン)地域で始まった可能性が高いと見られている<ref name="高宮2003pp32_38"/>。確認可能なエジプト最古の穀物栽培の痕跡は前5000年頃に年代づけられる[[ファイユーム]]出土の[[エンマーコムギ]]である<ref name="高宮2003p32"/>。これは既に[[新石器時代]]の遺跡であるが、より古い時代にナブタ・プラヤ遺跡で栽培が行われた可能性も議論されている<ref name="高宮2003p33>[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.33</ref>。また、アフリカ原生の穀物である[[ソルガム]]や[[ミレット]]が栽培されていた可能性もある<ref name="高宮2003p34>[[#高宮 2003|高宮 2003]], p. 34</ref>。 |
水量の増したナイル川の水産資源は、未だ農耕を知らない終末期旧石器時代の生活文化においてもある程度の定住的生活を可能とした<ref name="高宮2003p26"/>。この頃にエジプトでは[[磨製石器]]や[[土器]]の使用が開始されたと見られる<ref name="高宮2003p29">[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.29</ref>。2003年時点において確認されている世界最古の土器は[[日本]]の[[縄文土器]]などを含む[[東アジア]]のそれであるが、エジプトにおける土器の使用はそれに次ぐ世界で最も早期のものであり、終末期旧石器時代の早い段階から確認されている<ref name="高宮2003p30">[[#高宮 2003|高宮 2003]], p. 30</ref>。ただし土器の使用は局地的であり、また発見例は断片ばかりで用途ははっきりしない<ref name="高宮2003p30"/>。終末期旧石器時代の後半にはアフリカ北東部全域に土器の使用が広まったが、それでもなお土器が全く出土しないこの時期の遺跡が多数ある<ref name="高宮2003p31">[[#高宮 2003|高宮 2003]], p. 31</ref>。また、前8千年紀には[[西アジア]]で[[コムギ|ムギ類]]の栽培が、さらに前7千年紀には[[ヤギ]]の家畜化が始まったと見られているが<ref name="高宮2003p32">[[#高宮 2003|高宮 2003]], p. 32</ref>、エジプトでもこれと同時期かやや遅れて農耕と牧畜が始まった可能性がある<ref name="高宮2003pp32_38">[[#高宮 2003|高宮 2003]], pp. 32-38</ref>。エジプトの農耕と牧畜が西アジアから導入されたのか、独自に開始されたものなのかは多くの学者たちの関心の的であるが、はっきりとはしていない。ただし、特に[[ウシ]]の家畜化についてはエジプト(スーダン)地域で始まった可能性が高いと見られている<ref name="高宮2003pp32_38"/>。確認可能なエジプト最古の穀物栽培の痕跡は前5000年頃に年代づけられる[[ファイユーム]]出土の[[エンマーコムギ]]である<ref name="高宮2003p32"/>。これは既に[[新石器時代]]の遺跡であるが、より古い時代にナブタ・プラヤ遺跡で栽培が行われた可能性も議論されている<ref name="高宮2003p33">[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.33</ref>。また、アフリカ原生の穀物である[[ソルガム]]や[[ミレット]]が栽培されていた可能性もある<ref name="高宮2003p34">[[#高宮 2003|高宮 2003]], p. 34</ref>。 |
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こうした磨製石器の使用、土器の導入、農耕・牧畜の開始は[[新石器時代]]を定義づける要素とされており、それらの導入が新石器時代の開始とみなされているが、全てが同時に、同じ場所で導入されていたわけではなく、新石器時代と旧石器時代の境界は明確ではない。考古学者[[高宮いづみ]]は概説書において、説明上前6千年紀以降を新石器時代と位置付けている<ref name="高宮2003p29"/>{{refnest|group="注釈"|高宮のまとめによれば、旧石器時代と新石器時代は初めてこの概念をヨーロッパ考古学の中で用いた[[ジョン・ラボック]]([[19世紀]]後半)による定義では[[打製石器]]と[[磨製石器]]の使用によって分類されていた。その後、石器の製造という技術的側面よりも、生産経済のあり様の方が[[人類史]]上重要な区分であるという認識から、現在では農耕・牧畜の開始をもって新石器時代の開始とみなす考え方が主流となってきている<ref name="高宮2003p29"/>。}}。 |
こうした磨製石器の使用、土器の導入、農耕・牧畜の開始は[[新石器時代]]を定義づける要素とされており、それらの導入が新石器時代の開始とみなされているが、全てが同時に、同じ場所で導入されていたわけではなく、新石器時代と旧石器時代の境界は明確ではない。考古学者[[高宮いづみ]]は概説書において、説明上前6千年紀以降を新石器時代と位置付けている<ref name="高宮2003p29"/>{{refnest|group="注釈"|高宮のまとめによれば、旧石器時代と新石器時代は初めてこの概念をヨーロッパ考古学の中で用いた[[ジョン・ラボック]]([[19世紀]]後半)による定義では[[打製石器]]と[[磨製石器]]の使用によって分類されていた。その後、石器の製造という技術的側面よりも、生産経済のあり様の方が[[人類史]]上重要な区分であるという認識から、現在では農耕・牧畜の開始をもって新石器時代の開始とみなす考え方が主流となってきている<ref name="高宮2003p29"/>。}}。 |
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=== 新石器時代 === |
=== 新石器時代 === |
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{{Main|エジプト先王朝時代}} |
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[[アフリカ大陸]]北東部の湿潤期は終了へと向かい、前6000年-前5000年頃から次第に乾燥化が進んだ<ref name="高宮2003p39>[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.39</ref>。次第に進む[[砂漠化]]によって、人々はナイル川流域へと集まっていった<ref name="高宮2003p39/>。[[古代エジプト]]文明に繋がっていく様々な文化がこの人口が集中したナイル川流域において育まれた<ref name="高宮2003p39/>。既に述べたファイユーム地方におけるエンマーコムギの栽培痕跡の登場を始め、この頃にナイル川流域における初の[[農耕]]・[[牧畜]]文化が登場する<ref name="高宮2003p39/>。旧石器時代から新石器時代への文化の変遷を連続的に確認することができるのはナブタ・プラヤ遺跡のみであり、ナイル川に登場した農耕・牧畜文化とそれ以前のエジプトの文化の関係性については確実なことはわからない<ref name="近藤1997p43">[[#近藤 1997|近藤 1997]], p. 43</ref>。 |
[[アフリカ大陸]]北東部の湿潤期は終了へと向かい、前6000年-前5000年頃から次第に乾燥化が進んだ<ref name="高宮2003p39">[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.39</ref>。次第に進む[[砂漠化]]によって、人々はナイル川流域へと集まっていった<ref name="高宮2003p39" />。[[古代エジプト]]文明に繋がっていく様々な文化がこの人口が集中したナイル川流域において育まれた<ref name="高宮2003p39" />。既に述べたファイユーム地方におけるエンマーコムギの栽培痕跡の登場を始め、この頃にナイル川流域における初の[[農耕]]・[[牧畜]]文化が登場する<ref name="高宮2003p39" />。旧石器時代から新石器時代への文化の変遷を連続的に確認することができるのはナブタ・プラヤ遺跡のみであり、ナイル川に登場した農耕・牧畜文化とそれ以前のエジプトの文化の関係性については確実なことはわからない<ref name="近藤1997p43">[[#近藤 1997|近藤 1997]], p. 43</ref>。 |
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前4千年紀末頃、エジプトではおぼろげながら文字史料によって歴史を復元できるようになる。後世のエジプトの伝説では、初めて上下エジプトを統合し、エジプトに統一王朝を築いた王は[[メネス]](メニ)である<ref name="大城2009p64">[[#大城 2009|大城 2009]], p. 64</ref>。一方で考古学的見地から統一王朝の最古の王である可能性が高いと見られるのは[[ナルメル]]王である<ref name="フィネガン1983p204">[[#フィネガン 1983|フィネガン 1983]], p. 204</ref><ref>[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.244</ref>。ナルメルが興したとされる王朝を[[エジプト第1王朝]]とし、以降の時代の王朝は[[エジプト第31王朝|第31]]までの番号で分類される歴代の王朝が栄枯盛衰を繰り返すことになる。ただし、実際にエジプトの「最初の王」が誰であったのかについては今なお定説があるわけではない<ref name="大城2009p78">[[#大城 2009|大城 2009]], p. 78</ref>。伝説のメネス王を第1王朝の王のいずれかの王と同定しようとする試みが続けられており<ref name="近藤1997pp49_54">[[#近藤 1997|近藤 1997]], pp. 49-54</ref><ref name="大城2009p78"/>、あるいはメネスは初期王朝時代の複数の王の記憶の習合によって誕生したものであるかもしれない<ref name="近藤1997p54">[[#近藤 1997|近藤 1997]], p. 54</ref>。 |
前4千年紀末頃、エジプトではおぼろげながら文字史料によって歴史を復元できるようになる。後世のエジプトの伝説では、初めて上下エジプトを統合し、エジプトに統一王朝を築いた王は[[メネス]](メニ)である<ref name="大城2009p64">[[#大城 2009|大城 2009]], p. 64</ref>。一方で考古学的見地から統一王朝の最古の王である可能性が高いと見られるのは[[ナルメル]]王である<ref name="フィネガン1983p204">[[#フィネガン 1983|フィネガン 1983]], p. 204</ref><ref>[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.244</ref>。ナルメルが興したとされる王朝を[[エジプト第1王朝]]とし、以降の時代の王朝は[[エジプト第31王朝|第31]]までの番号で分類される歴代の王朝が栄枯盛衰を繰り返すことになる。ただし、実際にエジプトの「最初の王」が誰であったのかについては今なお定説があるわけではない<ref name="大城2009p78">[[#大城 2009|大城 2009]], p. 78</ref>。伝説のメネス王を第1王朝の王のいずれかの王と同定しようとする試みが続けられており<ref name="近藤1997pp49_54">[[#近藤 1997|近藤 1997]], pp. 49-54</ref><ref name="大城2009p78"/>、あるいはメネスは初期王朝時代の複数の王の記憶の習合によって誕生したものであるかもしれない<ref name="近藤1997p54">[[#近藤 1997|近藤 1997]], p. 54</ref>。 |
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初期王朝時代の間に(後世の伝説によれば第1王朝)の時代に、上エジプトと下エジプトの結節点にあたる土地に[[イネブ・ヘジ]](白い壁)と呼ばれる都市が建設された。この都市は後には[[メンフィス (エジプト)|メンフィス]]と呼ばれ、古代エジプト時代を通じてエジプトの中心的都市の1つとなった<ref name="フィネガン1983p218">[[#フィネガン 1983|フィネガン 1983]], p. 218</ref>。後世この都市に建設された[[プタハ大神殿]](フゥト・カ・プタハ、[[プタハ]]神の[[古代エジプト人の魂|魂]]の家)は、後にギリシア語でアイギュプトス(''Aigyuptos'')と訛り、これが今日の'''エジプト'''(''Egypt'')の語源となったとする説もある<ref name="古代エジプト百科事典プタハ">[[#古代エジプト百科 1997|古代エジプト百科事典]], pp. 469-470, 「プタハ」の項目より</ref><ref name="馬場2017p238">[[#馬場 2017|馬場 2017]], p. 238</ref>。また、エジプトの王たちは王権の確立に力を注ぎ、公式に用いる王名として[[ホルス名]]を用いる習慣が確立され(初期王朝時代の一時は[[セト名]]が用いられた)<ref name="高宮2006pp49_52">[[#高宮 2006|高宮 2006]], pp. 49-52</ref>、古代エジプト時代の地方行政区分である[[ノモス (エジプト)|ノモス]](セパト)の萌芽ともいえるシステムが整備されたと見られるなど<ref name="馬場2017p80>[[#馬場 2017|馬場 2017]], p. 80</ref><ref name="古谷野2003p260">[[#古谷野 2003|古谷野 2003]], p. 260</ref>{{refnest|group="注釈"|ノモスがいつ頃、どのような存在として整備されたのか、という問題は論争があり現在でも定説は無い。1つは先王朝時代の小規模な「国家」に原型を持つとするものであり、もう1つは初期王朝時代に王朝の行政組織として整備されたというものである<ref name="古谷野2003p260"/>。詳細は[[ノモス (エジプト)|ノモス]]を参照。}}、後の古代エジプト世界の基本的要素が形成された。 |
初期王朝時代の間に(後世の伝説によれば第1王朝)の時代に、上エジプトと下エジプトの結節点にあたる土地に[[イネブ・ヘジ]](白い壁)と呼ばれる都市が建設された。この都市は後には[[メンフィス (エジプト)|メンフィス]]と呼ばれ、古代エジプト時代を通じてエジプトの中心的都市の1つとなった<ref name="フィネガン1983p218">[[#フィネガン 1983|フィネガン 1983]], p. 218</ref>。後世この都市に建設された[[プタハ大神殿]](フゥト・カ・プタハ、[[プタハ]]神の[[古代エジプト人の魂|魂]]の家)は、後にギリシア語でアイギュプトス(''Aigyuptos'')と訛り、これが今日の'''エジプト'''(''Egypt'')の語源となったとする説もある<ref name="古代エジプト百科事典プタハ">[[#古代エジプト百科 1997|古代エジプト百科事典]], pp. 469-470, 「プタハ」の項目より</ref><ref name="馬場2017p238">[[#馬場 2017|馬場 2017]], p. 238</ref>。また、エジプトの王たちは王権の確立に力を注ぎ、公式に用いる王名として[[ホルス名]]を用いる習慣が確立され(初期王朝時代の一時は[[セト名]]が用いられた)<ref name="高宮2006pp49_52">[[#高宮 2006|高宮 2006]], pp. 49-52</ref>、古代エジプト時代の地方行政区分である[[ノモス (エジプト)|ノモス]](セパト)の萌芽ともいえるシステムが整備されたと見られるなど<ref name="馬場2017p80">[[#馬場 2017|馬場 2017]], p. 80</ref><ref name="古谷野2003p260">[[#古谷野 2003|古谷野 2003]], p. 260</ref>{{refnest|group="注釈"|ノモスがいつ頃、どのような存在として整備されたのか、という問題は論争があり現在でも定説は無い。1つは先王朝時代の小規模な「国家」に原型を持つとするものであり、もう1つは初期王朝時代に王朝の行政組織として整備されたというものである<ref name="古谷野2003p260"/>。詳細は[[ノモス (エジプト)|ノモス]]を参照。}}、後の古代エジプト世界の基本的要素が形成された。 |
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=== エジプト古王国 === |
=== エジプト古王国 === |
2019年7月11日 (木) 01:17時点における版
本項では、エジプトの歴史(エジプトのれきし、History of Egypt、تاريخ مصر)を解説する。エジプトという歴史地理的空間を定義するのはほとんど降水がない砂漠地帯を貫流するナイル川である。元々は草原が広がっていたナイル川周辺の地域が気候変動によって乾燥するに従い、人々はナイル川流域に集まっていった。歴史時代のエジプトの人口はその大半がナイル川両岸の極狭い範囲に集中しており、周囲のオアシスに僅かな人口があった。ナイル川流域は川が分岐して扇状に広がるナイルデルタ地帯である北部の下エジプトと、川の両岸数キロ程度の範囲の可住地が線状に続く上エジプトに分けられる。上エジプト南端部のエレファンティネ島(アスワーン)南にあるナイル川の第1急湍より上流ではナイル川流域の地質が急激に変わり、エジプトとは異なるヌビアと呼ばれる地方を形成していた。しかしヌビアもまたエジプトの住民の歴史的な活動の舞台でもある。
概要
ナイル川流域では前5千年紀から前4千年紀には古代エジプト文明の萌芽となる様々な文化が誕生していた。前4千年紀末には上下エジプトを統一する王朝(エジプト第1王朝)が成立し、以降前30年のローマ帝国による征服まで、およそ30に分類される古代エジプト王朝がファラオと呼ばれる神格化された王を中心として国家を営んだ。古代エジプト王朝は大きく古王国(前27世紀―前22世紀)、中王国(前21世紀-前18世紀)、新王国(前16世紀-前11世紀)に分類される。エジプト文明の象徴的建造物であるギザの大ピラミッドがクフ王によって建造されたのは古王国の時代であり、黄金のマスクで知られるツタンカーメン(トゥトゥアンクアメン)王墓は新王国時代の遺構である。
新王国の崩壊後、エジプトではリュビア人やヌビア人など周辺諸国からの流入者による王朝が複数建てられた。やがて前671年にはメソポタミアで勢力を拡張するアッシリアの支配下に入り、以降ハカーマニシュ朝、アレクサンドロス3世の帝国が順次エジプトを支配した。前305年にはアレクサンドロス3世の帝国を分割した後継者(ディアドコイ)の一人、プトレマイオス1世がプトレマイオス朝を建て、その首都アレクサンドリアは東地中海における学問の中心として栄えた。前30年にプトレマイオス朝最後の王クレオパトラ7世がローマの執政官(コンスル)オクタウィアヌス(アウグストゥス)に敗れ、エジプトはローマ帝国に組み込まれた。以降、1000年近くにわたり、エジプトはより大きな帝国の一部としてその歴史を歩んだ。ローマ領となったエジプトは皇帝属州アエギュプトゥスとして、穀物を中心とした富を供給し、ローマ人のパンとサーカスを支えた。その後、ローマ帝国は恒常的に複数の皇帝に分割されるようになり、395年に最後のローマ帝国の分割の後、エジプトは東ローマ帝国の管轄下に入った。現在では東ローマ帝国は一般にビザンツ帝国と呼ばれる。この間、エジプトでは新たな宗教キリスト教が普及し、社会の中核を占めるようになっていった。550年にフィラエ島のイシス神殿が閉鎖され、古代エジプト文明時代の古い神々は忘れ去られた。
エジプトは618年にホスロー2世治世下のサーサーン朝によって征服された。ビザンツ帝国はその後エジプトの奪回に成功したが、間もなく新興宗教イスラームを奉じるアラブ人の共同体(ウンマ)によって646年までに完全に征服され、以後完全にビザンツ帝国から離れてイスラーム圏に入った。正統カリフ(ハリーファ)時代、ウマイヤ朝、アッバース朝といった歴代のムスリム共同体によって重要な属州としてエジプトの支配は受け継がれたが、アッバース朝末期に入るとイスラーム世界は徐々に「地方化」が進み分裂していった。エジプトでも868年にトゥールーン朝が成立し、久方ぶりにエジプトに拠点を置く独立勢力が誕生するに至った。その後エジプトの支配権はチュニジアで興ったファーティマ朝の手に渡ったが、ファーティマ朝は現在のカイロ(アル=カーヒラ)に拠点を遷し事実上エジプトの王朝としての歴史を歩んだ。12世紀に入ってファーティマ朝の内部紛争が激しくなると、西欧諸国による十字軍の侵入や権力者の争いの中で頭角を現したサラディンによって12世紀後半にはアイユーブ朝が建てられた。エジプトはイスラーム世界における学問や経済の中心として栄えたが、それ故に外敵の攻撃にも晒され、特に13世紀には十字軍の主要な攻撃目標となった。
アイユーブ朝では13世紀半ばにマムルーク(奴隷軍人)が政権を握り、新たにマムルーク朝が成立した。テュルク人やチェルケス人などの「白人」奴隷軍人によるこの政権はシリア地方も支配下に置き、モンゴル帝国の侵入も排して16世紀初頭までエジプトを支配した。マムルーク朝の支配は1517年にセリム1世率いるオスマン帝国の攻撃によって終焉を迎えた。以降、オスマン帝国の首都イスタンブルから派遣される総督がエジプトを支配したが、在地のマムルーク権力は強力であり、またエジプト自体も本国に対して高い政治的自立性を維持している期間が長かった。オスマン帝国が斜陽に入り、一方で西欧諸国が勢力を強めると、オスマン帝国のエジプト支配にも動揺が走った。1798年にフランスで権力を握ったナポレオンがエジプトに侵入した。フランスによるエジプト支配は成らなかったが、フランス軍撤退後の政治的混乱の中でオスマン帝国の軍人であったムハンマド・アリーが1805年にエジプトの支配権を掌握し、事実上の独立勢力を作り上げた。
ムハンマド・アリーはオスマン帝国との数度の戦争によってその領土を蚕食し新たな帝国の形成を目指したが、これを国益上の障害と見たイギリスの軍事介入によって1840年にエジプト以外の全征服地を喪失し、代わりにエジプト総督位の世襲権を得た(ムハンマド・アリー朝)。多くの非西欧諸国で試みられたように、ムハンマド・アリー朝下でエジプトの近代化・西欧化が目指され、内政の改革やスエズ運河の建設などの開発政策が実施されたが、スエズ運河開発に伴う対外債務の負荷や、アフマド・オラービーによる「外来の王朝」に対する革命などの対応に追われる中で、名目的にはオスマン帝国の宗主権の下にありながら実質的にイギリスの植民地と化していった。1914年に第一次世界大戦が勃発するとエジプトは公式にイギリスの保護領とされ、オスマン帝国の宗主権から脱した。
イギリスはエジプトを完全に支配下に置いたものとみなしたが、第一次世界大戦後には激しい民族運動が沸き起こり、エジプト独立の父とも言われるサアド・ザグルールらが独立運動を主導した。結局イギリスはムハンマド・アリー朝の継続のもと、1922年にエジプト王国の独立を承認したが、エジプトへの駐兵を継続し、政治上の様々な留保をつけるなど、エジプトの独立は制限付きのものとなった。エジプトは辛抱強く主権の回復に向けて努力を続け、1936年にはスエズ運河地帯以外からのイギリス軍の撤兵にこぎつけ、1937年に国際連盟に加盟した。また、同年には猶予期間を置いての治外法権の撤廃も勝ち取った。
第二次世界大戦を契機にパレスチナにユダヤ人国家イスラエルが成立すると、エジプトはこれを認めず周辺のアラブ諸国と共に第一次中東戦争でパレスチナに侵攻したが敗れた。敗戦によってムハンマド・アリー朝は権威を失い、1952年には軍のクーデター(エジプト革命)によって王が追放され、翌年には公式に王制の終了が宣言された。共和制への移行後、ナーセルが大統領として主導権を握り、1956年には武力危機の末にスエズ運河の国有化(スエズ動乱)を実現した。アラブ民族主義の台頭の下、ナーセルが中核となって1958年にはシリア、イエメンと合邦してアラブ連合共和国が成立した。しかしこの連合は上手く行かず、3年で解体した。1967年には第三次中東戦争でのイスラエルに対する敗北によってナーセルの権威は失墜し、1970年にはナーセルが死去した。
ナーセルの跡を継いだサーダートは1979年にイスラエルとの和平(キャンプ・デーヴィッド合意)を実現したが、アラブ諸国との関係悪化を招き、さらに対イスラエル強硬派によって暗殺された。次いで成立したムバーラク政権はエジプトの国際関係を再編し、アラブ諸国における主導権の回復を目指した。特に1990年のイラクによるクウェート侵攻を契機に始まった湾岸戦争ではアメリカ側に立って多国籍軍に参加し、国際的地位を大きく上昇させた。また、アメリカや湾岸諸国から莫大な経済援助を引き出し、これを梃子に経済開発に力を入れ、大きな成果を上げた。
しかし、2010年にチュニジアで始まった民衆運動は、ソーシャル・メディアなどを通じて瞬く間にアラブ諸国に波及し、エジプトでも大規模な反政府の抗議運動が発生した(アラブの春)。ムバーラク大統領は地位を追われ、その後ソーシャル・メディアなどを駆使して結成された複数の「青年勢力」、そしてムスリム同胞団や「イスラーム集団」、ジハード団などのイスラーム勢力が政治アクターとして存在感を増し、伝統的に大きな権力を持つ軍部なども交えて、新たな体制が模索されている。
有史以前
現在、エジプトと呼ばれる地域は第三紀末頃に地質運動の中で形成され、550万年前頃に原始ナイル川が形成された[1]。このナイル川流域での人類の足跡が初めて確認されるのは50万年前頃と言われる[1]。当時ナイル川流域を含む北アフリカのサハラ地方には広大なステップ地帯が広がっており、非常に温暖な気候であった[1]。
旧石器時代
前50000年から前30000年頃には、後期旧石器時代の現生人類がナイル河畔や周辺の湖沼沿い、オアシスを移動しながら大型獣を追い、原始的な狩猟採集生活を送っていたと見られる[1][2]。後期旧石器時代は石刃技法による石器製作技術の導入によって特徴付けられる[3]。1万年単位のスパンにおいてはナイル川流域・北アフリカの気候は大きく変動しており、後期旧石器時代には現在と同じように乾燥していて広大な砂漠が広がっていた[3]。このため、後期旧石器時代の遺跡はナイル川沿いの土地に集中している[3]。2003年現在、最も古い後期旧石器時代の遺跡は、紀元前31000年頃のものと見られるエジプト中部のナイル川西岸のナズレット・カタル遺跡である[2]。
前19000年頃に入ると、上エジプト南部からスーダン北部にかけての地域に様々な石器文化が集中的に出現した[2]。これらの文化にはクッバニーヤ文化(春ファン文化)、セビル文化、カダン文化などと呼ばれるものがある[2]。人々はナマズに代表されるナイル川の豊富な漁業資源や水鳥、貝類や植物に支えられてかなり安定した生活を営んでいた[4]。この後期旧石器時代のエジプトではアフリカ独自の穀物栽培が行われていたという説もあったが、研究の結果現在ではこれは否定されている[4]。
前12000年頃、アフリカ北東部は「第4湿潤期」と呼ばれる時期に入った。これは赤道アフリカのモンスーンを伴う降雨帯が南下し、スーダン北部からエジプト南部に至る地域に年間200mm程度の降雨がもたらされるようになった時期である[5]。第4湿潤期のエジプトも決して雨量豊富というわけではなかったが、砂漠地帯の景観は一変し、タマリスクやアカシア、ナツメヤシが繁茂し、ウサギ、ガゼル、オリックスなどが生息するようになった[5][6]。
この時代は考古学的には「終末期旧石器時代(Terminal Palaeolithic)」または「続旧石器時代(Epipalaeolithic)」に分類される時代にあたる[5]。緑化が進んだことで人々の生活圏はナイル川の両岸地帯から離れた地域にまで広がり、西方の元砂漠地帯に居住の痕跡が残されるようになった[5]。こうした居住の痕跡はエジプト南部のナブタ・プラヤ遺跡やエジプト北部のシワ・オアシス、ファイユームなどに代表される[5]。人々の居住はとりわけ、夏季の降水が水たまりを作る低地や湧き水のあるオアシス近辺に集中していた[7]。ナブタ・プラヤ遺跡とその周辺からは小型の石刃、尖角器を含む石器や骨角器、ダチョウの卵で作られたビーズなどが見つかっている[6]。ナイル川流域においては、ナイル川中流域(現:スーダン中部)に特に多数の居住痕跡が確認されており、「カルトゥーム中石器(Khartoum Mesolithic)」と呼ばれる文化が広がっていた[8]。現:エジプト地域では南部のナイル川第2急湍付近にアルキン文化(Arkinian)とシャマルク文化(Shamarkian)が広がっていた。これらナイル川沿いの遺跡では魚類や貝類など、ナイル川の水産資源に著しく依存した生活が営まれていたことが発見された遺物からわかっている[7]。
水量の増したナイル川の水産資源は、未だ農耕を知らない終末期旧石器時代の生活文化においてもある程度の定住的生活を可能とした[7]。この頃にエジプトでは磨製石器や土器の使用が開始されたと見られる[9]。2003年時点において確認されている世界最古の土器は日本の縄文土器などを含む東アジアのそれであるが、エジプトにおける土器の使用はそれに次ぐ世界で最も早期のものであり、終末期旧石器時代の早い段階から確認されている[10]。ただし土器の使用は局地的であり、また発見例は断片ばかりで用途ははっきりしない[10]。終末期旧石器時代の後半にはアフリカ北東部全域に土器の使用が広まったが、それでもなお土器が全く出土しないこの時期の遺跡が多数ある[11]。また、前8千年紀には西アジアでムギ類の栽培が、さらに前7千年紀にはヤギの家畜化が始まったと見られているが[12]、エジプトでもこれと同時期かやや遅れて農耕と牧畜が始まった可能性がある[13]。エジプトの農耕と牧畜が西アジアから導入されたのか、独自に開始されたものなのかは多くの学者たちの関心の的であるが、はっきりとはしていない。ただし、特にウシの家畜化についてはエジプト(スーダン)地域で始まった可能性が高いと見られている[13]。確認可能なエジプト最古の穀物栽培の痕跡は前5000年頃に年代づけられるファイユーム出土のエンマーコムギである[12]。これは既に新石器時代の遺跡であるが、より古い時代にナブタ・プラヤ遺跡で栽培が行われた可能性も議論されている[14]。また、アフリカ原生の穀物であるソルガムやミレットが栽培されていた可能性もある[15]。
こうした磨製石器の使用、土器の導入、農耕・牧畜の開始は新石器時代を定義づける要素とされており、それらの導入が新石器時代の開始とみなされているが、全てが同時に、同じ場所で導入されていたわけではなく、新石器時代と旧石器時代の境界は明確ではない。考古学者高宮いづみは概説書において、説明上前6千年紀以降を新石器時代と位置付けている[9][注釈 1]。
新石器時代
アフリカ大陸北東部の湿潤期は終了へと向かい、前6000年-前5000年頃から次第に乾燥化が進んだ[16]。次第に進む砂漠化によって、人々はナイル川流域へと集まっていった[16]。古代エジプト文明に繋がっていく様々な文化がこの人口が集中したナイル川流域において育まれた[16]。既に述べたファイユーム地方におけるエンマーコムギの栽培痕跡の登場を始め、この頃にナイル川流域における初の農耕・牧畜文化が登場する[16]。旧石器時代から新石器時代への文化の変遷を連続的に確認することができるのはナブタ・プラヤ遺跡のみであり、ナイル川に登場した農耕・牧畜文化とそれ以前のエジプトの文化の関係性については確実なことはわからない[17]。
現代の学者による名称 | 発見地域 | 推定年代 | 備考 |
---|---|---|---|
ファイユーム文化(Fayumian) | ファイユーム地方 | 前5230年-前4230年頃[18] | 発見当初はファイユームA文化(Faiyum A culture)と呼ばれた。 農耕・牧畜が導入されたナイル川下流域最古の文化。 |
メリムデ文化 | 下エジプト | 前5000年頃[19]、または前4750年-前4250年頃?[20] | ワルダーン村のメリムデ・ベニ・サラーム遺跡を標準遺跡とする。 これはエジプト・ナイル川流域最古の定住農耕村落遺跡である。 |
オマリ文化(Omari culture) | 下エジプト | 前4600年-前4400年頃[21] | メリムデ文化の最終期と同時期。相互の関係は不明瞭。 |
バダリ文化(Badarian culture) | 上エジプト | 前4500年-前4000年頃[22] | 上エジプト最古の農耕・牧畜文化。 |
カルトゥーム新石器文化(Khartoum Neolithic) | スーダン | 前4500年、または前4000年頃?[23] | 牧畜が大きく発展していた。農耕については不明瞭である[24]。 |
前5千年紀に入ると、上下エジプト、更にスーダンで土器の使用や農耕・牧畜の確実な証拠を伴った文化(新石器時代の文化)が続々と登場する。最も早期と見られるのは上下エジプト結節点そばのファイユーム地方に登場したファイユーム文化(Faiyumian)であり、前5230年-前4230年頃にかけて存続した[18][注釈 2]。この文化はナイル川流域における農耕・牧畜の導入の確実な痕跡を残す最古の文化である[26]。下エジプト(ナイルデルタ)においては前5000年頃[19]、または前4750年頃[20]にメリムデ文化が登場した。この地域ではナイル川流域最古の定住農耕村落遺跡が発見されている[27]。ファイユーム文化とメリムデ文化の終末期に平行する前5千年紀末にはオマリ文化(Omari Culture)が登場している[21]。
上エジプトでは終末期旧石器時代に上エジプトで初の土器を伴う文化であるターリフ文化(Tafirian、前5200年頃)が登場しており[28]、新石器時代に入り前5千年紀終わり頃にはバダリ文化(Badarian culture)で最古の農耕・牧畜の痕跡が確認される[22]。この文化のでは多数の副葬品を伴う集団墓地が営まれた。これはエジプトにおける副葬品を伴う墓地の最古の例であり、後の王朝時代の葬送習慣との関係においても重要である[29]。
他に、終末期旧石器時代に栄えたナブタ・プラヤ遺跡を始め、ファラフラ・オアシスやカルーガ・オアシスなど西部のオアシス地帯でも前6千年紀から前5千年紀にかけて新石器時代の遺跡が発見されており、またヌビア南部(現:スーダン中央部)ではかつてのカルトゥーム中石器文化から発達したカルトゥーム新石器(Khartoum Neolithic)文化が普及した[24]。ヌビア北部では前6千年紀にカルトゥーム・ヴァリアント(Khartoum Variant)文化、前5千年紀にポスト・シャマルク文化(Post-Shamarkian)、前5千年紀から前4千年紀にかけてアブカン文化(Abukan)が登場する[24]。これらの文化においては土器の使用とウシを中心とした牧畜が生活の中枢となっていたことが確認されているが、ムギ類の栽培は確認されておらず、その他の農耕の痕跡もはっきりしたものは見つかっていない[24]。総じて、ナイル川上流域では牧畜に比べて農耕の導入は遅かったことが知られ、生活様式が異なっていたと考えられる[30]。
前4千年紀に入ると、下エジプトではマーディ・ブト文化(Maadi culture)、上エジプトではナカダ文化、そしてヌビアではヌビアAグループ文化が発達した[31][32]。これらの文化はメソポタミアなど周辺地域との密接な関係の中で発達し、またこの頃から銅製品が登場することから、初期青銅器時代に分類される[33][32]。
古代エジプト文明
前4千年紀末から、ローマによる征服まで続いたエジプトの独立王朝、あるいはキリスト教の浸透まで続いた古代エジプト人の「宗教」体系、そして言語などを含む生活文化などは、古代エジプト文明と呼ばれている。古代エジプト史は概ね第1王朝から第31王朝、またはプトレマイオス朝まで至る30余りの王朝に分類されており、これらの王朝は大きく、初期王朝時代(前4千年紀末-前3千年紀前半)、古王国(前3千年紀半ば-前3千年紀末)、第1中間期(前3千年紀末)、中王国(前21世紀頃-前18世紀頃)、第2中間期(前18世紀頃-前16世紀頃)、新王国(前16世紀頃-前1070年頃)、第3中間期および末期王朝時代(前332年頃まで)という時代に区分されている。これらの区分のそれぞれに属する王朝、その期間などについては学者間の見解相違が大きいものの、枠組みとしては通常は上記の分類に沿った説明が行われる[注釈 3]。ただし、これはあくまで現代のエジプト学における区分であり、古代エジプトの人々自身がこのような時代区分法を用いていたわけではない。
統一王朝以前
前4千年紀において最も重要な文化は上エジプトで登場したナカダ文化である。ナカダ文化は北はアビュドス、南はヒエラコンポリスまでの地域から登場し、その後エジプト全域に普及していく。ナカダ文化はかつてイギリス人の学者フリンダーズ・ピートリーによって、土器の形式によって古い順にアムラー期、ゲルゼ期、セマイナー期の3期に分類され、これがエジプト先王朝時代の編年の基準となった[41]。これは現在ではアムラー期はナカダ1期、ゲルゼ期は2期、とされ、セマイナー期は存在が否定されている[41]。ナカダ文化期には農耕・牧畜の重要性が増し、それを中心にした社会が形成され、多種多様な器形の土器が生産されていた[42]。特に現在発見されているナカダ文化の土器は、上流階級の墓地に収める副葬品として生産されたものが中心であるためか、単なる日用品であった後代の王朝時代の土器類よりも品質が良いことを特徴とする[43]。パレットと呼ばれるアイシャドーを磨り潰すための石製品もこの時代に登場している[43]。
下エジプトでは恐らくファイユーム文化やメリムデ文化などより古い時代の文化から発展したマーディ・ブト文化と呼ばれる文化が成長していた[44][45]。この文化の痕跡はナイル川流域を離れ、シナイ半島からも発見されている[45]。エジプトから銅製品が発見されるようになることから、この頃からシナイ半島や東方砂漠地帯からの銅の採集が行われていたと見られている[45]。このシナイ半島からの銅の調達は後の王朝時代において王家主導で行われる大規模事業へと発達する[45]。
相互に関係を持ちつつもそれぞれ独自の発達を続けていた上エジプトと下エジプトの文化であったが、ナカダ2期の間までに、下エジプトのマーディ・ブト文化は急速に独自性を失い、エジプト全域にナカダ文化の系譜を引く共通の文化が分布するようになっていった[46][47]。このためにナカダ2期の終わりには、エジプトが「文化的に統一」(高宮いづみ)されたと言われるような状況が生じた[47]。この文化的な統一が政治上の統一を示すものと見ることができるかどうかはわからないが、これらの状況証拠から、上下エジプトでそれぞれに発達していた文化圏は前4千年紀の間に、上エジプトの人々の主導で統一されていったと考えられている[48]。
ナカダ2期に続くナカダ3期(前3300年-前3100年頃)に入ると、上エジプトの墓地でははっきりと階層分化の傾向を見ることができ[49][50]、西アジアとの接触や交易路の掌握[51][52]、さらに文字の使用の開始が開始されるなど[49]、短期間のうちにエジプトの社会・政治・文化に大きな変化があった[49]。ナカダ3期の後半にはエジプト第1王朝に先行する数名の王(例えばサソリ王[53])の存在が知られているため、この時期をエジプト原王朝時代、またはエジプト第0王朝と呼ぶ場合もある[49][38]。
ヌビアではヌビアAグループ文化と呼ばれる文化集団が栄えていた[54]。この文化はエジプトのナカダ文化と密接な関わりを持ち、それと匹敵する文化水準を保持していた[54]。この文化ではエジプトの王権概念と通底するモチーフ(例えばホルス神や上エジプトの王冠である白冠、ヘジェト)が用いられていたことから、エジプト文明以前の「ヌビアの失われたファラオ」の存在を巡って議論が行われた[55]。これは現在では学術的には否定的見解が強いが、人種問題やヨーロッパ文明のアイデンティティを巡る議論に影響を与えている[56]。
初期王朝時代
前4千年紀末頃、エジプトではおぼろげながら文字史料によって歴史を復元できるようになる。後世のエジプトの伝説では、初めて上下エジプトを統合し、エジプトに統一王朝を築いた王はメネス(メニ)である[57]。一方で考古学的見地から統一王朝の最古の王である可能性が高いと見られるのはナルメル王である[58][59]。ナルメルが興したとされる王朝をエジプト第1王朝とし、以降の時代の王朝は第31までの番号で分類される歴代の王朝が栄枯盛衰を繰り返すことになる。ただし、実際にエジプトの「最初の王」が誰であったのかについては今なお定説があるわけではない[60]。伝説のメネス王を第1王朝の王のいずれかの王と同定しようとする試みが続けられており[61][60]、あるいはメネスは初期王朝時代の複数の王の記憶の習合によって誕生したものであるかもしれない[62]。
初期王朝時代の間に(後世の伝説によれば第1王朝)の時代に、上エジプトと下エジプトの結節点にあたる土地にイネブ・ヘジ(白い壁)と呼ばれる都市が建設された。この都市は後にはメンフィスと呼ばれ、古代エジプト時代を通じてエジプトの中心的都市の1つとなった[63]。後世この都市に建設されたプタハ大神殿(フゥト・カ・プタハ、プタハ神の魂の家)は、後にギリシア語でアイギュプトス(Aigyuptos)と訛り、これが今日のエジプト(Egypt)の語源となったとする説もある[64][65]。また、エジプトの王たちは王権の確立に力を注ぎ、公式に用いる王名としてホルス名を用いる習慣が確立され(初期王朝時代の一時はセト名が用いられた)[66]、古代エジプト時代の地方行政区分であるノモス(セパト)の萌芽ともいえるシステムが整備されたと見られるなど[67][68][注釈 4]、後の古代エジプト世界の基本的要素が形成された。
エジプト古王国
一般的に第3王朝以降が古王国とされている[34][35][36][37][69]。古王国の終わりは学者によって見解が異なるが第6王朝までとするのが一般的である[34][69][70]。ただし、王朝組織の連続性を考慮して第8王朝までを古王国とする分類を用いる学者もいる[37][35]。その年代は概ね前3千年紀半ばから後半にかけて、具体的には前27世紀から前22世紀頃までとされる[注釈 5]。
古王国時代を特徴付けるのは、体系的な国家機構の整備と、それによって可能となった巨大建造物、即ちピラミッドの建設である。既に先王朝時代に登場していたと見られる地方行政組織のノモスについて初めて明確な記録が登場するのは古王国時代のことで、これは行政州としてのノモスがより明確な形を持って整備されていたことを示すと考えられる[68][74]。大規模建築を行う労働力を管理するため、上級官職として建築活動を統括する労働長官(王の全ての労働の長官 imy-r kkȝt nbt nt nswt)が置かれ[75]、その他の民生部門と合わせて、初期王朝時代の原始的な組織を整備・拡張した官僚組織が姿を現し始める[76]。官僚機構における高官職は王族の独占であった。
こうして整備された国家機能の下、ピラミッドの建設が大々的に行われた。ピラミッドはマスタバ墓と呼ばれる大型の方形墳墓から発展したもので、初めてピラミッドを建造したのは第3王朝のジェセル王であった(ジェセル王のピラミッド、サッカラ)[77]。この建造を指揮したのは古代エジプトにおける伝説的な宰相であるイムヘテプ(イムホテプ)であると伝えられており、ジェセル王のピラミッドは階段状の外観を持つ階段ピラミッドとして完成した[77]。第4王朝時代にはいると、ピラミッドの外観は階段状のものから太陽光線を具象化したとも言われる方錐形の真正ピラミッドへと移行した[78][79]。これは王権と太陽神信仰の結びつきが強くなったことを示すと見られ、スネフェル王(第4王朝初代)の屈折ピラミッドをその端緒とする[80]。真正ピラミッドはその後技術革新と大型化が続けられていった[80]。その建造の最盛期に建設された第4王朝のクフ、カフラー、メンカウラーの3王のピラミッドは現在もなおその威容を留めており、古代エジプトを象徴する建造物となっている。
ピラミッド建設はこの3王、特にクフ王のそれを頂点として建設技術が粗雑化し、規模が縮小され定型化されていった[81]。それと同時に第5王朝時代には太陽神殿の建設が始まる。太陽神殿はピラミッドとよく似た付属建造物群(ピラミッド・コンプレックス)を持ち、基壇の上に巨大なオベリスクを据えたものであった[82][83]。
第5、第6王朝時代に入ると、官僚組織がますます拡張整備され、それに伴って高官職の王族独占も崩れていった[84]。これは王朝の衰退というよりは、むしろ国家機構の拡充を示すものであると考えられる[84]。しかし、こうした組織拡張によって増大した官吏への報酬の確保が困難になり始め、元来葬祭儀礼等に関わるピラミッド複合体の管理職や領地が給与・恩賞として与えられるようになっていった[85]。これは当初は有効に機能した政策であったが、長期的には有力な官吏が王権に対抗可能なほど強大化していく効果ももたらし、また最終的にはやはり財源の不足の問題にも直面せざるを得なかった[85][86][87]。地方のノモス(州)に土着化していた長官(州侯)たちの勢力と独自性も増大して行き、これら有力官吏や州侯たちのマスタバ墓の中には王墓に匹敵する規模のものも登場する[87][88][89]。これに古王国末期の気候の寒冷化(4.2kイベント[注釈 6])およびナイル川の水位低下と、それに伴う農業生産の低下によって、古王国の安定と統一は失われ、前22世紀初頭には地方の州侯たちが独自に王を称してエジプトは分裂した[89][87]。
エジプト中王国
メンフィスの王朝(第7・第8王朝)が実権を喪失する一方、前22世紀の後半にはヘラクレオポリス(ヘウト・ネンネス)で成立した王朝(第9、第10王朝)が下エジプトを、テーベ(ワセト)で成立した王朝(第11王朝)が上エジプトを支配し、南北にわかれて1世紀余りの間エジプトの支配を争った[92][注釈 7]。この分裂は第11王朝の王、メンチュヘテプ2世が治世21年(前2040頃)にヘラクレオポリスを陥落させたことで終わった。以降のエジプトの統一王朝は一般に中王国と呼ばれる[92][94][95]。
テーベ(ワセト)の政権である第11王朝によってエジプトが再統一されたことによって、この都市の重要性が飛躍的に高まった。この時、エジプト神話における太陽神・ラーとワセトの守護神・アメンを習合(一体化)した「アメン・ラー」を神とする宗教が誕生した。エジプト第12王朝の時代にはファイユームの干拓工事や、エジプト古王国時代に第6王朝の重臣ウェニによって作られた運河の改修工事を行い、食糧生産の増加や物流が改善された。
エジプト第2中間期(紀元前1782年 - 紀元前1570年)
エジプト第15王朝・エジプト第16王朝はヒクソス[96]と呼ばれる異民族による下エジプトを中心とした王朝である。ヒクソス時代には対外貿易が活発化し、クレタ島のミノア文明の遺物などが見つかっている。ヒクソスはシリアのウガリット神話の英雄神・バアル神とセト神を習合(一体化)したセト神を信仰していた。
ワセトのエジプト第17王朝のイアフメス1世がエジプトを再統一し、以後をエジプト第18王朝と呼ぶ。
エジプト新王国(紀元前1570年 - 紀元前1070年)
エジプト第18王朝ではハトシェプスト女王との共同統治の後、トトメス3世はメギドの戦いでカナンのカデシュ王と戦い、勝利した。アメンホテプ4世はトトメス3世の時代に強大となったアメン神官団と対立して、アマルナ革命と呼ばれるアテン神の宗教によるアメン信仰の排除を推進し、アケトアテンへ遷都した。この時期にヒッタイト帝国のシュッピルリウマ1世はシリア南部に進出し、アムル王国のアジルに宗主権を認めさせた。エジプトは外交(アマルナ文書)によってミタンニと同盟し、ヒッタイトの南下に対抗した。ツタンカーメンの時代には宰相アイと将軍ホルエムヘブが政治的実権を握り、下エジプトのメンフィスに遷都した。ホルエムヘブ王の主導でシリア南部は回復された。
『旧約聖書』「出エジプト記」の時代はエジプト第18王朝と考えられている。モーゼを育てたのがハトシェプストであるとする説があるが、モーゼの出エジプトがエジプト第19王朝のラムセス2世の時代であれば、時代が離れ過ぎているため諸説ある。いずれにせよ、この集団が後にイスラエル王国を建国したと考えられている。
エジプト第19王朝の時代には、紀元前1274年にカデシュの戦いでラムセス2世がヒッタイト帝国のムワタリと戦ったが、ヒッタイト帝国のパレスチナへの南下を許すことになり、戦略的には勝利を収めるに至らなかったと見られている。
メルエンプタハの時代になると前1200年のカタストロフによる動乱期[97]に入り、紀元前1180年にヒッタイト帝国が滅亡した。
エジプト第20王朝の末頃、ワセトを中心とするアメン神官団がアメン大司祭国家を作り、上エジプトを支配した。
エジプト第3中間期(紀元前1069年 - 紀元前664年)
下エジプトに首都タニスを中心とするエジプト第21王朝が成立すると、上エジプトのアメン大司祭国家と協力関係が築かれた。
紀元前1021年にはイスラエル王国、紀元前930年にはユダ王国が建国された。紀元前925年にシェションク1世はen:Sack of Jerusalem (10th century BC)でユダ王国を属国にし、次いでイスラエル王国に侵攻し、メギドに至とヤロブアム1世はギレアド(現ヨルダン)へ逃亡した。 紀元前853年のカルカルの戦いでは、エジプト第22王朝はシリア連合軍(ダマスカス、イスラエル王国、ハマテ)に援軍を派遣し、アッシリア軍の撃退に成功した。シェションク3世の治世に、アメン司祭ハルシエセ[98]のもとテーベ周辺が事実上独立し、紀元前818年には下エジプトのタレム(英: Taremu)ではエジプト第23王朝が独立した。紀元前727年に下エジプトのサイスでエジプト第24王朝が独立した。
エジプトの混乱期の紀元前747年にヌビアのヌビア人ピアンキ王によるエジプト第25王朝が開かれた。紀元前722年に強勢となったアッシリアにイスラエル王国が攻滅ぼされた(イスラエルの失われた10支族)。紀元前702年、バビロニア(バビロン第10王朝)のメロダク・バルアダン2世が、キシュの戦いでアッシリアのセンナケリブ王に破れ、エラム王国に逃亡。紀元前694年に、エラム王国がバビロニアの反乱を支援し、アッシリアのアッシュール・ナディン・シュミ王子を捕縛し、再びバビロニアを独立させた。しかし、センナケリブ王のアッシリア軍によるハルールの戦いでバビロニアが敗北し、エラム王国の干渉は失敗した。紀元前681年にセンナケリブが暗殺され、アッシリアで王位継承をめぐる内戦が勃発。紀元前671年、タハルカ王がユダ王国のヒゼキヤ王と同盟すると、アッシリアのエサルハドン王がエジプトに侵攻した。敗れたタハルカはヌビアへ追われた。
エジプト末期王朝時代(紀元前664年 - 紀元前525年)
紀元前664年、アッシュールバニパルの遠征によって第25王朝が滅亡し、アッシリアの庇護の下でエジプト第26王朝の時代になった。この後、アッシリアは急速に弱体化した。メディア王国が強勢となり、紀元前625年に新バビロニアが建国されると、メディアと新バビロニアは同盟を結んでアッシリアを攻撃し、紀元前612年にアッシリアが滅亡した。紀元前609年のメギドの戦いでユダ王国(ヨシヤ)をエジプトの属国にした。紀元前605年のカルケミシュの戦いで新バビロニアに破れ、旧宗主国アッシリアを支援するネコ2世のシリア政策は完全に挫折した。
紀元前597年、ユダ王国が新バビロニアのネブカドネザル2世に敗れた。ユダ王国のゼデキヤは、エジプト第26王朝のアプリエスと結んでバビロニアに対抗しようと試みたが、紀元前586年にユダ王国が新バビロニアに敗れ滅亡した(バビロン捕囚)。新バビロニアで神官が台頭し、政治が不安定になると、紀元前539年にアケメネス朝ペルシアのキュロス2世によって新バビロニアも滅亡した。
アケメネス朝(紀元前525年 - 紀元前332年)
紀元前525年にエジプトのプサメティコス3世も、アケメネス朝ペルシア帝国のカンビュセス2世にペルシウムの戦いで征服され、古代オリエント世界は統一された(en:Twenty-seventh Dynasty of Egypt)。
404年にペロポネソス戦争が終結すると、402年に混乱を突いて独立し、ペルシアによる支配が終わった。独立期間(en:Twenty-eighth Dynasty of Egypt、en:Twenty-ninth Dynasty of Egypt、エジプト第30王朝)が続いたが、342年にペルシアのアルタクセルクセス3世が最後のファラオ・ネクタネボ2世を破り、エジプトに再びサトラップを置いた(en:Thirty-first Dynasty of Egypt)。
グレコ・ローマン期
アルゲアス・プトレマイオス朝(紀元前332年 - 紀元前30年)
イッソスの戦いの後、紀元前332年にはマケドニア王国のアレクサンドロス大王によってエジプトは征服された(アルゲアス朝)。紀元前323年のアレクサンドロス大王の死後、ディアドコイ戦争を経て、紀元前305年にギリシア系のプトレマイオス朝が成立し、ヘレニズム文化の中心のひとつとして栄えた。この時期には、6度にわたるシリア戦争が行なわれたが、多数のギリシャ人が入植した。ロゼッタ・ストーンには古代ギリシャ語でもプトレマイオス5世の事跡が記録されていることが知られている。
ローマ帝国期(紀元前30年 - 395年)
プトレマイオス朝は紀元前30年に滅ぼされ、エジプトはローマ帝国の属州となる。ローマ帝国の統治下ではキリスト教が広まり、コプト教会が生まれた。当初、エジプト属州は皇帝直轄領として、豊かな穀物生産でその繁栄を支えた。
皇帝ネロ(54年-68年)の治世にen:Tax resistanceのユダヤ戦争でエルサレム攻囲戦の結果、ユダヤ人がアレクサンドリアに移住した。
皇帝ハドリアヌス(117年-138年)の治世にエジプト属州でキトス戦争、ユダヤ属州で再びバル・コクバの乱が起こった結果、ユダヤ的なものの根絶を目指し、ペリシテ人の名前からとって属州「シリア・パレスティナ」と名付けた。
皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス(161年-180年)の治世でも、増税へのen:Tax resistanceを目的にしたブコリック戦争[要リンク修正]と呼ばれる反乱が起こり、エジプト属州の地域経済に大打撃を与えた。これ以後も増税と反乱を繰り返し、帝国は財政破綻へ向かっていった。
4世紀には、ギリシア文字を基にしたコプト文字が使われ出し、神聖文字や民衆文字は使われなくなった。
ビザンチン帝国期(380年 - 642年)
ローマ帝国の分割後は東ローマ帝国に属した。
Sassanid conquest of Egypt(618年–621年)でササン朝ペルシャが勝利し、629年までその支配下にあった。同629年、エルサレムなどでキリスト教に改宗しないユダヤ人に対する虐殺事件、Massacres of the Jewsが起こり、ユダヤ人がエジプトに脱出した[99][100][101]。
エジプトのイスラム化
イスラム帝国期(639年 - 1250年)
639年から始まったイスラム軍(正統カリフ)の将軍アムル・イブン・アル=アースによる侵攻(Muslim conquest of Egypt)は、646年にニキウの戦いで征服され終結した。
その後、ウマイヤ朝およびアッバース朝の一部となった。アッバース朝の支配が衰えると、そのエジプト総督から自立したトゥールーン朝・イフシード朝の短い支配を経て、969年に現在のチュニジアで興ったファーティマ朝によって征服された。
1154年、en:Crusader invasions of Egypt(1154年-1169年)で、十字軍国家のエルサレム王国がファーティマ朝エジプトへ侵攻した。
これ以来、アイユーブ朝、マムルーク朝とエジプトを本拠地としてシリア地方まで版図に組み入れたイスラム王朝が500年以上に渡って続く。
マムルーク朝(1250年 - 1517年)
第7回十字軍(1248年-1254年)では、カペー朝フランス王国のルイ9世の軍が1249年にエジプトに侵攻した。この時、アイユーブ朝のスルタン・サーリフが急死すると、シャジャル・アッ=ドゥッル夫人率いるマムルーク軍団が十字軍を撃退し、その後のクーデターでバフリー・マムルーク朝(1250年-1382年)の女性スルタンに即位した。
モンゴル帝国はオゴデイ後継者問題で混乱した後、フレグがフレグの西征を開始した。1258年にアッバース朝を滅ぼしたが、1260年に再び大ハーン・モンケの朴報が届き、フレグはモンゴルへ帰還した。キト・ブカは1万の留守部隊を預けられてシリアに駐屯していたが、アイン・ジャールートの戦いでムザッファル・クトゥズが大軍を率いてシリア奪還した。
マムルーク朝のもとで中央アジアやカフカスなどアラブ世界の外からやってきたマムルーク(奴隷軍人)による支配体制が確立し、250年間続いた。
1324年頃、マリ帝国のマンサ・ムーサ王がメッカ巡礼の途上でナースィル・ムハンマドの元に立ち寄り、大量の金の贈り物をしたことでカイロの金の相場が下落したと伝えられている。そのためか、晩年のムハンマドは奢侈に走って財政を傾かせ、マムルークの力が強大になった。
バルクークがクーデターによってサーリフ・ハーッジーを廃し、ブルジー・マムルーク朝(1382年-1517年)を開いた。
オスマン帝国期(1517 - 1805)
1517年にマルジュ・ダービクの戦いで、オスマン帝国のセリム1世はマムルーク朝を滅ぼしてエジプトを属州としたが、マムルーク支配は温存された。
1798年、フランスのナポレオン・ボナパルトがエジプト遠征を行なった。この時、紀元前196年に書かれたロゼッタ・ストーンが港湾都市ロゼッタで発見され、1801年にイギリス軍の手に渡った。石碑に神聖文字と民衆文字で書かれた古代エジプト語は、1822年、ジャン=フランソワ・シャンポリオンによって対応する古代ギリシア語から解読され、古代エジプトの文学や文化を理解する道が開けた。
近代エジプト
ムハンマド・アリーの近代化(1805年 - 1882年)
ナポレオンのエジプト遠征を契機として、エジプトは近代国家形成の時代へと突入していった。エジプト遠征にともなう混乱を収拾して権力を掌握した軍人ムハンマド・アリー(オスマン帝国が派遣したアルバニア人部隊の隊長)は、1805年にエジプト総督の地位をオスマン帝国に認めさせると、豪族化していた各地のマムルークを打倒して集権化を進めた。その上で、富国強兵、殖産興業を通じたエジプトの近代化を目指した。また、1822年に導入された徴兵制では、宗教の別なく均質な国民として徴兵を行った。こうした政策は、エジプトにおける国民創出、国民国家形成の試みとも解釈できる。また、近代化の財源には、列強からの借款でなくナイル川での商品作物栽培で得られた利益をあてることとして、列強の経済的従属に陥らないよう気を配った。
1831年からのエジプト・トルコ戦争で、エジプトをオスマン帝国から半ば独立させることに成功し、アルバニア系ムハンマド・アリー家による世襲政権を打ち立てた(ムハンマド・アリー朝)。
スエズ運河とエジプトの従属
しかし、当時の世界に勢力を広げたヨーロッパ列強はエジプトの独立を認めず、またムハンマド・アリー朝の急速な近代化政策による社会矛盾は結局、エジプトを列強に経済的に従属させることになった。1869年にエジプトはフランスとともにスエズ運河を開通させるが、その財政負担はエジプトの経済的自立に決定的な打撃を与え、イギリスの進出を招いた。1881年にアフメド・ウラービーが中心となって起きた反英運動・ウラービー革命もイギリスによって鎮圧され、エジプトは事実上の保護国となる(正式には1914年)。
現代(1882年 - 現在)
エジプトの民族運動と独立
1914年には、第一次世界大戦によってイギリスがエジプトの名目上の宗主国であるオスマン帝国と開戦したため、エジプトはオスマン帝国の宗主権から切り離された。その結果、大戦後の1922年2月28日にエジプト王国が成立し、翌年イギリスはその独立を認めたが、その後もイギリスの間接的な支配体制は続いた。1940年、イタリアのエジプト侵攻。
第二次世界大戦後のエジプト
エジプト王国は立憲君主制をひいて議会を設置し、緩やかな近代化を目指すが、第二次世界大戦前後からパレスチナ問題の深刻化や、1948年から1949年のパレスチナ戦争(第一次中東戦争)でイスラエルに敗北、経済状況の悪化、ムスリム同胞団など政治のイスラム化(イスラム主義)を唱える社会勢力の台頭によって次第に動揺していった。この状況を受けて1952年、自由将校団がクーデターを起こしてムハンマド・アリー朝を打倒(エジプト革命)、1953年に共和制へと移行し、エジプト共和国が成立した。
1956年、第2代大統領に就任したガマール・アブドゥン=ナーセル(ナセル)のもとでエジプトは冷戦下での中立外交と汎アラブ主義(アラブ民族主義)を柱とする独自の政策を進め、第三世界・アラブ諸国の雄として台頭する。同年にエジプトはスエズ運河国有化(英: Nationalisation of the Suez Canal)を断行し、これによって勃発した第二次中東戦争(スエズ戦争)で政治的に勝利を収めた。1958年にはシリアと連合してアラブ連合共和国を成立させた(1961年に解消)。1962年から始まった北イエメン内戦では、ソビエト連邦と共に共和派を支援し、王党派を支援するサウジアラビアやヨルダンと対立した。 しかし、1967年の第三次中東戦争(6日戦争)は惨敗に終わり、これによってナーセルの権威は求心力を失った。エジプトは1971年まで「アラブ連合共和国」と称し続けたが、その後エジプト・アラブ共和国と改称した。
1970年に急死したナーセルの後任となったアンワル・アッ=サーダート(サダト)は、社会主義的経済政策の転換、イスラエルとの融和など、ナーセル体制の切り替えを進めた。しかし政治的自由化によってイスラム主義がかえって勢力を伸張させて体制に対する抵抗が激化し、サーダート自身も1981年にイスラム過激派のジハード団によって暗殺された。
かわって副大統領から大統領に昇格したホスニー・ムバーラクは、対米協調外交を進める一方、イスラム主義運動を厳しく弾圧して国内外の安定化をはかるなど、開発独裁的な政権を長きにわたり維持したが、しかし同じく長期政権を維持してきたチュニジアのベン=アリー大統領はジャスミン革命で政権を失い、それに呼応したエジプト革命は30年続いたムバーラク政権を崩壊させた(アラブの春)。軍による暫定的な統治の後にムスリム同胞団のムハンマド・ムルシーが自由選挙を経て2012年7月に大統領に就任した。同国初の文民大統領であったが、次第に強権的な姿勢が目立つようになったほか、イスラム化を推し進めたことが反発を呼び、各地で反政府デモが起こった[102]。2013年7月3日、軍はムルシーの大統領権限を剥奪し、暫定政権を樹立させた(2013年エジプトクーデター)。
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脚注
注釈
- ^ 高宮のまとめによれば、旧石器時代と新石器時代は初めてこの概念をヨーロッパ考古学の中で用いたジョン・ラボック(19世紀後半)による定義では打製石器と磨製石器の使用によって分類されていた。その後、石器の製造という技術的側面よりも、生産経済のあり様の方が人類史上重要な区分であるという認識から、現在では農耕・牧畜の開始をもって新石器時代の開始とみなす考え方が主流となってきている[9]。
- ^ ファイユーム地方ではかつてファイユームA文化とファイユームB文化と呼ばれた2つの文化が見つかっていた。20世紀前半には、ファイユーム地方の中心であるカルーン湖の水位が時代とともに低下し続けていたという仮定の下、高地で検出されたファイユームA文化の方が古いと考えられていた。しかしその後、ファイユームB文化の方が終末期旧石器時代に位置付けられるより古い文化であることが判明し、さらにファイユームA文化よりも新しい新たな新石器時代の文化も発見された。このため、かつてのファイユームB文化をカルーン文化(Qrunian)、ファイユームA文化をファイユーム文化(Faiyumian)、もう1つの新しい新石器時代の文化をモエリス文化(Moerian)とする新しい区分が提案された[25]。ただし、ファイユームA文化という名称も今なお使用されている[17]。
- ^ これらの時代区分の確実な定義、および年代を提示することはほとんど不可能である。現代においてこの問題について各学者個々人の分類が互いに完全に一致することはない。例示した分類はクレイトン[34]やスペンサー[35]、山花[36]、ドドソンおよびヒルトン[37]など、多数の学者が用いているもっとも一般的なものである。だが、それぞれの時代にどの王朝を位置付けるかについてはこれらの学者の間で一致しない。また編年についても時代が遡るほど年代設定の差は大きくなり、例えば初期王朝時代の開始は前3150年に置くクレイトン[38]やドドソン、ヒルトン[39]から、前3000年におく山花[40]まで多岐にわたる。そしてこれらの学者たち自身が編年について確実性がないことを付記するのが普通である。
- ^ ノモスがいつ頃、どのような存在として整備されたのか、という問題は論争があり現在でも定説は無い。1つは先王朝時代の小規模な「国家」に原型を持つとするものであり、もう1つは初期王朝時代に王朝の行政組織として整備されたというものである[68]。詳細はノモスを参照。
- ^ 古王国の期間について主だった見解は以下の通りである。前2686年-前2181年[34][71][72]、前2680年-前2190年頃[70]、前2686年-前2160年頃(第8王朝まで)[35]、ドドソンおよびヒルトンはこの時代について遥かに遅い年代を採用しており、第3王朝の開始を前2520年に置き[39]、第6王朝の終焉を前2117年とし、第8王朝の滅亡年は率直に不明とする[73]。
- ^ いわゆる4.2kイベントによる4200年前の寒冷化は、エジプト固有のものではなく全地球規模のものであった。その程度をどのように評価するかについて差異はあるにせよ、日本の縄文時代[90]やメソポタミアなど[91]、各地における生活様式や集落形態の変化、政治的な変動などをこの出慣例化と結び付けるような研究が複数存在する。
- ^ 第1中間期の期間と、その時期に属する王朝についても各学者間の想定年代は基本的に一致しない。王朝については大きく第7王朝から第11王朝までとする分類と[34][70][93]、第9王朝から第11王朝までとする分類[35][37]に大別される。他、第7、第8王朝の分類について特に言及しないような場合や[69]、第7王朝から第10王朝までとするような場合もある[71]。編年については仮に第7王朝から第11王朝までとした場合、概ね前22世紀半ばから前21世紀半ばまでのおおよそ100年強が一般的となる。具体的な編年としては以下のようなものがある。前2181-前2040年[34]、前2145年頃-前2040年頃[93]、。フィネガンは第7王朝から第10王朝を第1中間期に分類した上で、前2181年-前2040年という年次を使用している[71]。高宮は年表において前2190年頃-前2020年頃として掲載しているが、第11王朝を第1中間期と中王国の両方に分類している[70]。第9王朝から第11王朝までとする分類としては、第1中間期の編年は前2160年頃-前2040年頃[35]、開始年代不明-前2040年頃などがある[37]。これらの分類・編年の中から「正しいもの」を提示することはできない。
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- ^ アムル人とも云われるが、詳細は良く判っていない。紀元前15世紀末にレバノンに建国されたアムル王国もアムル人の国家である。
- ^ 2度の戦争があり、イスラエルの反乱はイスラエル石碑に、海の民によるペルイレルの戦い(Battle of Perire)はカルナック神殿のen:Great Karnak Inscriptionに記されている。
- ^ 同時代に同名のアメン大司祭ハルシエセがいるが別人である。
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- ピーター・クレイトン『古代エジプトファラオ歴代誌』吉村作治監修、藤沢邦子訳、創元社、1999年4月。ISBN 978-4-422-21512-9。
- エイダン・ドドソン、ディアン・ヒルトン 著、池田裕 訳『全系図付エジプト歴代王朝史』東洋書林、2012年5月。ISBN 978-4-88721-798-0。
- ジャック・フィネガン 著、三笠宮崇仁 訳『考古学から見た古代オリエント史』岩波書店、1983年12月。ISBN 978-4-00-000787-0。
- A.J.スペンサー『図説 大英博物館古代エジプト史』近藤二郎監訳、小林朋則訳、原書房、2009年6月。ISBN 978-4-562-04289-0。
- イアン・ショー、ポール・ニコルソン 著、内田杉彦 訳『大英博物館 古代エジプト百科事典』原書房、1997年5月。ISBN 978-4-562-02922-8。
その他の資料
- 大沼克彦 編『ユーラシア乾燥地域の 農耕民と牧畜民』六一書房、2013年3月。
- 羽生淳子「考古学研究会第62回総会講演 食の多様性と気候変動 : 縄文時代前期・中期の事例から」『考古学研究』第63巻、考古学研究会、2016年9月、NAID 40020976917、2019年7月閲覧。