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「法蔵寺 (あま市)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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== 本尊 ==
== 本尊 ==
寺伝にれば、[[永禄]]3年([[1560年]])[[5月 (旧暦)|5月]][[蜂須賀正勝]]が[[桶狭間の戦い]]のおり、戦勝を祈念して[[蓮華寺 (あま市)|蓮華寺]]に奉安されていた鉄地蔵を戦場へ持参することにしたが、鉄造のため重く担ぐのが困難となり、この地に放置し、地蔵が手にもつ[[錫杖]]のみを持って出陣した。後に村民が本寺へ移し祀ったものである。「子安延命地蔵大菩薩」として広く信仰された。「尾張名所図会」には「弘法大師蜂須賀蓮華寺の創建から女人安産の願を込め、鉄によるところの霊像なり、子安地蔵と称す・・・」などと記述され、江戸時代から知られた鉄地蔵であったことが分かる。(この節の主要な出典<ref>{{Cite web |url=https://www.pref.aichi.jp/kyoiku/bunka/bunkazainavi/yukei/choukoku/kunisitei/0301.html |title=鉄造地蔵菩薩立像(てつぞうじぞうぼさつりゅうぞう) |publisher=愛知県 |accessdate=2019-06-10}}</ref><!-- 別の出典で記事を追加するには出典をその追加記事の後に脚注を導入して付け加えて下さい。 -->)
寺伝にれば、[[永禄]]3年([[1560年]])[[5月 (旧暦)|5月]][[蜂須賀正勝]]が[[桶狭間の戦い]]のおり、戦勝を祈念して[[蓮華寺 (あま市)|蓮華寺]]に奉安されていた鉄地蔵を戦場へ持参することにしたが、鉄造のため重く担ぐのが困難となり、この地に放置し、地蔵が手にもつ[[錫杖]]のみを持って出陣した。後に村民が本寺へ移し祀ったものである。「子安延命地蔵大菩薩」として広く信仰された。「尾張名所図会」には「弘法大師蜂須賀蓮華寺の創建から女人安産の願を込め、鉄によるところの霊像なり、子安地蔵と称す・・・」などと記述され、江戸時代から知られた鉄地蔵であったことが分かる。<nowiki>[[File:宝蔵寺 解説看板.JPG.png]]</nowiki>(この節の主要な出典<ref>{{Cite web |url=https://www.pref.aichi.jp/kyoiku/bunka/bunkazainavi/yukei/choukoku/kunisitei/0301.html |title=鉄造地蔵菩薩立像(てつぞうじぞうぼさつりゅうぞう) |publisher=愛知県 |accessdate=2019-06-10}}</ref><!-- 別の出典で記事を追加するには出典をその追加記事の後に脚注を導入して付け加えて下さい。 -->)


本尊は[[地蔵|鉄造地蔵菩薩立像]]。高さ160[[センチメートル|cm]]。円頂、衲衣を着け、右手は[[印相|施無畏印]]で、左手に[[宝珠]]を持つ。「一切衆生成仏得道也寛喜二年庚寅八月日願主入蓮」([[寛喜]]2年は[[1230年]])と陽鋳銘がある。1971年(昭和46年)、国の[[重要文化財]]に指定。
本尊は[[地蔵|鉄造地蔵菩薩立像]]。高さ160[[センチメートル|cm]]。円頂、衲衣を着け、右手は[[印相|施無畏印]]で、左手に[[宝珠]]を持つ。「一切衆生成仏得道也寛喜二年庚寅八月日願主入蓮」([[寛喜]]2年は[[1230年]])と陽鋳銘がある。1971年(昭和46年)、国の[[重要文化財]]に指定。

2019年6月14日 (金) 13:23時点における版

法蔵寺(ほうぞうじ)は、愛知県あま市中橋にある浄土宗の寺。

瑞応山法蔵寺

地図
所在地 愛知県あま市中橋郷中16
位置 北緯35度12分20.50秒 東経136度46分51.50秒 / 北緯35.2056944度 東経136.7809722度 / 35.2056944; 136.7809722座標: 北緯35度12分20.50秒 東経136度46分51.50秒 / 北緯35.2056944度 東経136.7809722度 / 35.2056944; 136.7809722
宗旨 浄土宗
本尊 鉄造地蔵菩薩立像
創建年 1560年永禄3年)
法人番号 5180005013859 ウィキデータを編集
法蔵寺 (あま市)の位置(愛知県内)
法蔵寺 (あま市)
法蔵寺 (あま市)の位置(日本内)
法蔵寺 (あま市)
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歴史

瑞応山法蔵寺。浄土宗西山派。永照良慶によって開基された。

本尊

寺伝にれば、永禄3年(1560年5月蜂須賀正勝桶狭間の戦いのおり、戦勝を祈念して蓮華寺に奉安されていた鉄地蔵を戦場へ持参することにしたが、鉄造のため重く担ぐのが困難となり、この地に放置し、地蔵が手にもつ錫杖のみを持って出陣した。後に村民が本寺へ移し祀ったものである。「子安延命地蔵大菩薩」として広く信仰された。「尾張名所図会」には「弘法大師蜂須賀蓮華寺の創建から女人安産の願を込め、鉄によるところの霊像なり、子安地蔵と称す・・・」などと記述され、江戸時代から知られた鉄地蔵であったことが分かる。[[File:宝蔵寺 解説看板.JPG.png]](この節の主要な出典[1]

本尊は鉄造地蔵菩薩立像。高さ160cm。円頂、衲衣を着け、右手は施無畏印で、左手に宝珠を持つ。「一切衆生成仏得道也寛喜二年庚寅八月日願主入蓮」(寛喜2年は1230年)と陽鋳銘がある。1971年(昭和46年)、国の重要文化財に指定。

脚注

参考文献

  • 『美和町史』
  • 『尾張名所図会』大日本名所図会刊行会、1919年