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{{政治家 |
{{政治家 |
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|人名 = スタンリー・ボールドウィン |
|人名 = ビュードリーの初代ボールドウィン伯爵<br/>スタンリー・ボールドウィン |
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|各国語表記 = Stanley Baldwin |
|各国語表記 = Stanley Baldwin<br/>1st Earl Baldwin of Bewdley |
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|画像 = Stanley Baldwin ggbain. |
|画像 = Stanley Baldwin ggbain.35233.jpg |
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|画像説明 = 1920年のボールドウィン |
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|国略称 = {{GBR}} |
|国略称 = {{GBR}} |
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|生年月日 = [[1867年]][[8月3日]] |
|生年月日 = [[1867年]][[8月3日]] |
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|出生地 = {{GBR3}}・[[イングランド]]・[[ウスターシャー]]、{{仮リンク|ビュードレー|en|Bewdley}} |
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|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1867|8|3|1947|12|14}} |
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|死没地 = {{GBR}}・イングランド・ウスターシャー、{{仮リンク|ストアポート=オン=セヴァーン|en|Stourport-on-Severn}} |
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|出身校 = |
|出身校 = [[ケンブリッジ大学]][[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]] |
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|所属政党 = [[保守党 (イギリス)|保守党]] |
|所属政党 = [[保守党 (イギリス)|保守党]] |
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|称号・勲章 = ガーター勲章 (KG) |
|称号・勲章 = ガーター勲章 (KG)、枢密顧問官 (PC)、治安判事 (JP)、[[王立協会]][[フェロー]] (FRS)、[[ビュードリーのボールドウィン伯爵|ビュードリーの初代ボールドウィン伯爵]] |
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|配偶者 = {{仮リンク|ルーシー・ボールドウィン|en|Lucy Baldwin}} |
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|サイン = Stanley Baldwin Signature.svg |
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|国旗 = イギリス |
|国旗 = イギリス |
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|職名 = [[イギリスの首相| |
|職名 = [[イギリスの首相|首相]] |
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|就任日 = [[1923年]][[5月22日]] - [[1924年]][[1月22日]]<br/>1924年[[11月4日]] - [[1929年]][[6月 |
|就任日 = (1)[[1923年]][[5月22日]] - [[1924年]][[1月22日]]<br/>(2)1924年[[11月4日]] - [[1929年]][[6月4日]]<br/>(3)[[1935年]][[6月7日]] |
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|退任日 = [[1937年]][[5月28日]] |
|退任日 = [[1937年]][[5月28日]]{{sfn|秦郁彦(編)|2001|p=511}} |
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|元首職 = [[イギリスの君主|国王]] |
|元首職 = [[イギリスの君主|国王]] |
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|元首 = [[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]<br>[[エドワード8世 (イギリス王)|エドワード8世]] |
|元首 = (1)[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]<br/>(2)ジョージ5世<br/>(3)ジョージ5世、[[エドワード8世 (イギリス王)|エドワード8世]]、[[ジョージ6世 (イギリス王)|ジョージ6世]] |
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|国旗2 = イギリス |
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|職名2 = [[商務庁長官]] |
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|就任日2 = [[1921年]][[4月1日]] |
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|退任日2 = [[1922年]][[10月19日]]{{sfn|秦郁彦(編)|2001| p=513}} |
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|内閣2 = [[デビッド・ロイド・ジョージ|ロイド・ジョージ]]挙国一致内閣 |
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|国旗3 = イギリス |
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|職名3 = [[財務大臣 (イギリス)|財務大臣]] |
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|就任日3 = [[1922年]][[10月24日]] |
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|退任日3 = [[1923年]][[8月27日]]{{sfn|秦郁彦(編)|2001| p=512}} |
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|内閣3 = [[アンドルー・ボナー・ロー|ボナー・ロー]]内閣、第1次ボールドウィン内閣 |
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|国旗4 = イギリス |
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|職名4 = [[枢密院議長 (イギリス)|枢密院議長]] |
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|就任日4 = [[1931年]][[8月24日]] |
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|退任日4 = [[1935年]][[6月7日]] |
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|内閣4 = [[ラムゼイ・マクドナルド|マクドナルド]]挙国一致内閣 |
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|国旗5 = イギリス |
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|職名5 = [[庶民院 (イギリス)|庶民院議員]] |
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|就任日5 = [[1908年]][[2月29日]] |
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|退任日5 = [[1937年]][[6月1日]]<ref name="hansard">{{Cite web |url= https://api.parliament.uk/historic-hansard/people/mr-stanley-baldwin/index.html |title= Mr Stanley Baldwin |accessdate= 2019-06-15 |author= [[イギリス議会|UK Parliament]] |work= [https://api.parliament.uk/historic-hansard/index.html HANSARD 1803–2005] |language= 英語 }}</ref> |
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|選挙区5 = {{仮リンク|ビュードリー選挙区|en|Bewdley (UK Parliament constituency)}} |
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|国旗6 = イギリス |
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|その他職歴1 = [[貴族院 (イギリス)|貴族院議員]] |
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|就任日6 = [[1937年]][[6月8日]] |
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|退任日6 = [[1947年]][[12月4日]]<ref name="hansard"/> |
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[[ビュードリーのボールドウィン伯爵|ビュードリーの初代ボールドウィン伯爵]]'''スタンリー・ボールドウィン'''({{lang-en-short|Stanley Baldwin, 1st Earl Baldwin of Bewdley, {{postnominals|country=GBR|commas=true|size=90%|KG|PC|PCc|JP|FRS}}}}、[[1867年]][[8月3日]] - [[1947年]][[12月14日]])は、[[イギリス]]の[[政治家]]、[[実業家]]、[[世襲貴族|貴族]]。 |
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[[保守党 (イギリス)|保守党]]に所属し、[[挙国一致内閣]]や保守党政権下で大臣職を歴任した後、[[1923年]]に[[アンドルー・ボナー・ロー|ボナー・ロー]]の退任で代わって保守党党首となり、3度にわたって[[イギリスの首相|首相]]を務めた(在任期間 第1次内閣:1923年 - 1924年、第2次内閣:1924年 - 1929年、第3次内閣:1935年 - 1937年)。第1次・第2次内閣は保守党単独政権、第3次内閣は挙国一致内閣だった。第3次内閣の前身となる[[1931年]]から[[1935年]]にかけての[[ラムゼイ・マクドナルド|マクドナルド]]挙国一致内閣においても重要閣僚だった。[[1937年]]に辞職し、[[ネヴィル・チェンバレン]]が代わって首相・保守党党首となった。首相退任直後にビュードリーのボールドウィン伯爵に叙され、[[連合王国貴族]]に列した。 |
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== 概要 == |
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[[1867年]]に中規模の鋳鉄業者の息子として生まれた。[[ケンブリッジ大学]][[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]で学んだ後、 |
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父の会社に入社(''→[[#生い立ち|生い立ち]]'')。 |
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[[1908年]]2月に父が死去し、父が議席を持っていた{{仮リンク|ビュードリー選挙区|en|Bewdley (UK Parliament constituency)}}から[[保守党 (イギリス)|保守党]][[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員となる(''→[[#政界入り|政界入り]]'')。[[1917年]]に[[デビッド・ロイド・ジョージ|ロイド・ジョージ]][[挙国一致内閣]]で{{仮リンク|財務担当政務次官|en|Financial Secretary to the Treasury}}、1921年から[[商務庁長官]]に就任。しかし[[大連立]]解消に主導的役割を果たした(''→[[#ロイド・ジョージ挙国一致内閣下(1916年-1922年)|ロイド・ジョージ挙国一致内閣下]]'')。 |
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[[1922年]]に[[アンドルー・ボナー・ロー|ボナー・ロー]]を首相とする保守党単独政権が誕生すると[[財務大臣 (イギリス)|財務大臣]]に就任し、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]と一次大戦の戦債についての交渉にあたった(''→[[#ボナー・ロー内閣財務大臣(1922年-1923年)|ボナー・ロー内閣財務大臣]]'')。 |
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[[1923年]]5月にボナー・ローが病気退任した後、代わって首相に就任した。{{仮リンク|帝国特恵関税制度|en|Imperial Preference}}の導入を目指し、1923年12月にそれを争点とした[[1923年イギリス総選挙|総選挙]]を行ったが、保護貿易への反発から保守党の議席を大きく減らし、[[1924年]]1月の新議会で不信任案が決議されて辞職に追い込まれた(''→[[#第1次ボールドウィン内閣(1923年-1924年)|第1次ボールドウィン内閣]]'')。 |
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1924年1月に成立した初の労働党政権の第1次[[ラムゼイ・マクドナルド|マクドナルド]]内閣に対しては[[ソビエト連邦|ソ連]]との国交や{{仮リンク|キャンベル事件|en|Campbell Case}}をめぐって批判を強め、10月に[[1924年イギリス総選挙|総選挙]]に追い込んだ。選挙戦中に発覚した[[ジノヴィエフ書簡]]事件を利用して労働党とソ連の関係を批判し、総選挙に大勝した(''→[[#第1次マクドナルド内閣に対する野党期(1924年)|第1次マクドナルド内閣に対する野党期]]'')。 |
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1924年11月に第2次内閣を組閣。[[1925年]]4月に財相[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]の主導で[[金本位制]]復帰を行ったが、石炭業界の海外販路への大打撃となり、給料削減により[[1926年]]の{{仮リンク|1926年イギリス・ゼネラルストライキ|label=ゼネスト|en|1926 United Kingdom general strike}}を誘発した。強硬姿勢をもってゼネストの鎮圧にあたり、[[労働組合会議]]を全面降伏に追い込んだ。外交面では外相[[オースティン・チェンバレン|A.チェンバレン]]の主導で[[1925年]]に[[ロカルノ条約]]、[[1928年]]に[[不戦条約]]を締結して緊張緩和に努めた。[[1926年]]10月から11月にかけては{{仮リンク|1926年帝国会議|label=帝国会議|en|1926 Imperial Conference}}を主催し、[[バルフォア報告書]]を発表した。しかし[[1929年]]5月の[[1929年イギリス総選挙|総選挙]]で労働党に敗れたため、下野を余儀なくされた(''→[[#第2次ボールドウィン内閣(1924年-1929年)|第2次ボールドウィン内閣]]'')。 |
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[[1929年]]6月に成立した労働党政権の第2次マクドナルド内閣は、同年10月末の[[世界大恐慌]]により失業手当カットを巡って閣内・党内分裂。緊縮政策を取るマクドナルドは労働党主流派と袂を分かち、ボールドウィンは国王[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]の仲介もあってマクドナルドに協力することを決意した(''→[[#第2次マクドナルド内閣に対する野党期(1929年-1931年)|第2次マクドナルド内閣に対する野党期]]'')。[[1931年]]8月に成立したマクドナルド挙国一致内閣に[[枢密院 (イギリス)|枢密院議長]]として入閣。マクドナルドの下で1931年10月の[[1931年イギリス総選挙|総選挙]]に臨み、保守党を中心とする挙国政府派が大勝した。[[1932年]]7月から8月にかけての{{仮リンク|大英帝国経済会議|en|British Empire Economic Conference}}にイギリス政府代表として出席し、同年2月に英国議会で可決されていた帝国特恵関税制度を[[ドミニオン|自治領]]諸国に認めさせた(''→[[#マクドナルド挙国一致内閣枢密院議長(1931年-1935年)|マクドナルド挙国一致内閣枢密院議長]]'')。 |
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[[1935年]]6月7日にマクドナルドが病気退任し、代わって挙国一致内閣の首相に就任した<ref>保守党ボールドウィンの挙国内閣成立『東京朝日新聞』1935年(昭和10年)6月8日</ref>。11月に[[1935年イギリス総選挙|総選挙]]に及び、議席を減らすも多数派を維持した。[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]政権下の[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]に対しては宥和政策を取り、[[ドイツ軍]]の[[ラインラント進駐]]や[[スペイン内戦]]に対する軍事介入を回避した。[[1936年]]12月には[[ウォリス・シンプソン]]との恋愛問題をめぐって国王[[エドワード8世 (イギリス王)|エドワード8世]]に退位を迫った。[[1937年]]5月に[[ネヴィル・チェンバレン]]に後事を託して首相を退任した(''→[[#第3次ボールドウィン内閣(1935年-1937年)|第3次ボールドウィン内閣]]'')。 |
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首相退任直後の1937年6月に[[連合王国貴族]]爵位[[ビュードリーのボールドウィン伯爵]]に叙され、[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員となる。[[1947年]]に死去した(''→[[#晩年(1937年-1947年)|晩年]]'')。 |
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== 経歴 == |
== 経歴 == |
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===生い立ち=== |
===生い立ち=== |
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[[1867年]][[8月3日]]、[[イングランド]]・[[ウスターシャー]]・{{仮リンク|ビュードリー|en|Bewdley}}で鋳鉄業者{{仮リンク|アルフレッド・ボールドウィン (政治家)|label=アルフレッド・ボールドウィン|en|Alfred Baldwin (politician)}}とその妻ルイーザ・ボールドウィン(旧姓マクドナルド)(Louisa Macdonald)の間の一人息子として生まれた{{sfn|坂井秀夫|1974|p=4}}<ref name="CP EB">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/baldwin1937.htm|title=Baldwin of Bewdley, Earl (UK, 1937)|accessdate= 2019-6-8 |last= Heraldic Media Limited |work= Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage |language=en }}</ref>。 |
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[[イングランド]]、[[ウスターシャー]]の有名な鉄鋼業者の家に生まれ、[[ハーロー校]]と[[ケンブリッジ大学]]の[[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]で学ぶ。 |
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後にボールドウィンは「私はイングランドの片田舎に取り残された鉄工場の最後の一つがあるウスターシャーの中心で成長した」と表現している。彼は[[ベンジャミン・ディズレーリ|ディズレーリ]]と同じく産業革命に取り残された田園風景や生活を愛した{{sfn|坂井秀夫|1974|p=7}}。 |
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===政界=== |
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20年近く家業にたずさわった後、1908年に[[庶民院 (イギリス)|下院]]議員となり、保守党に属した。1917年から1921年まで大蔵財務次官、1921年から1922年まで[[商務院総裁]]として入閣する。 |
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[[ハーロー校]]と[[ケンブリッジ大学]]の[[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]で学ぶ<ref>{{Cite web2|language=en|url=https://www.britannica.com/biography/Stanley-Baldwin|title=Stanley Baldwin|website=Encyclopaedia Britannica|accessdate=5 June 2020}}</ref>{{Sfn|Brody|1956|p=163}}。 |
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1922年、保守党の[[ロイド・ジョージ]]連立内閣からの脱退を主張してこれを崩壊せしめ、[[アンドルー・ボナー・ロー|ボナー・ロー]]保守党内閣において大抜擢され、一躍[[財務大臣 (イギリス)|蔵相]]となり、[[公債|戦債]]問題処理のため[[ワシントンD.C.|ワシントン]]に出張した。 |
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[[1888年]]9月、21歳で父が経営する「E.P&W.ボールドウィン会社」に入社。父の企業は大企業というわけではなく、世紀初めの頃には150人の従業員しかなく、[[1914年]]にようやく500人に増えた{{sfn|坂井秀夫|1974|p=5}}。この会社は古臭い温情主義で経営されており、経営者と労働者の対話の時間がとられ、ボールドウィンも労働者をファーストネームで覚えたという。彼は保守党党首になった後もこの方式を保守党議員団に対して行い、平議員たちに親しげに話したという{{sfn|クラーク|2004| p=117}}。 |
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===首相=== |
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[[1923年]]に内閣を組閣するが、選挙で[[労働党 (イギリス)|労働党]]にやぶれて翌年に退陣する。同年、[[ラムゼイ・マクドナルド]](1866年 - 1937年)が退陣すると再び組閣。このとき、遂に男女平等[[選挙権]]を認める([[第五次選挙法改正]]、1928年)。翌年、再び労働党にやぶれる。 |
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=== 政界入り === |
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1930年より、母校ケンブリッジ大学の総長を17年間務める。1931年にマクドナルドが挙国一致内閣を組織すると、[[枢密院議長 (イギリス)|枢密院議長]]として入閣する。1935年にマクドナルドが病気のため引退すると、その後を受けて組閣する(1937年まで)。 |
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[[File:Stanley Baldwin.JPG|thumb|180px|1909年のスタンリー・ボールドウィン]] |
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[[1900年]]には[[ウスターシャー]]州議会議員となる{{sfn|坂井秀夫|1974|p=6}}。地方議員としては平凡だったという{{sfn|マッケンジー|1965|p=45}}。 |
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1906年1月の[[1906年イギリス総選挙|総選挙]]で{{仮リンク|キンダーミンスター選挙区|en|Kidderminster (UK Parliament constituency)}}から保守党候補として[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員に立候補するも落選した{{sfn|坂井秀夫|1974|p=6}}。[[1908年]]2月に父が死去すると父が議席をもっていた{{仮リンク|ビュードリー選挙区|en|Bewdley (UK Parliament constituency)}}から立候補した。[[自由党 (イギリス)|自由党]]が候補を立てなかったため、無投票で当選して保守党所属の庶民院議員となった{{sfn|坂井秀夫|1974|p=6-7}}。 |
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1936年に、[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]の後を襲った新国王[[エドワード8世 (イギリス王)|エドワード8世]]が、アメリカ人で離婚歴があり、さらに[[ドイツ]]の[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]駐英大使との交際が噂されていた[[ウォリス・シンプソン]]夫人との結婚を希望した際には、「王制の存続問題になる恐れがある」としてエドワード8世に退位を迫り、それを認めさせた。 |
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政界に入って以来、[[自由党 (イギリス)|自由党]]政権が続いており、ボールドウィンは野党議員として過ごしたが、[[第一次世界大戦]]までの6年間に5回しか議会で演説していないような目立たない[[陣笠議員]]だった{{sfn|マッケンジー|1965|p=45-46}}。 |
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当時[[アドルフ・ヒトラー]]の元でヨーロッパを席巻しつつあった[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]に対しては、[[宥和政策]]の立場をとるが、自分の後を受けて首相となった[[ネヴィル・チェンバレン]](1869年 - 1940年)ほど積極的ではなく、「消極的宥和政策」といわれた。 |
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一次大戦中の[[1915年]]5月に[[ハーバート・ヘンリー・アスキス|アスキス]]内閣は全政党が大連立する[[挙国一致内閣]]となった。ボールドウィンは当初から大連立に否定的で、[[1916年]]3月にはアスキス内閣に代わって保守党党首[[アンドルー・ボナー・ロー|ボナー・ロー]]を首班とする保守党内閣の創設を企てたが、失敗に終わっている{{sfn|坂井秀夫|1974|p=16}}。 |
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===晩年=== |
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ネヴィル・チェンバレンが後を継ぎ、首相退陣後に[[伯爵]]を授けられた。[[第二次世界大戦]]終結後の1947年に死去した。 |
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=== ロイド・ジョージ挙国一致内閣下(1916年-1922年) === |
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==関連項目== |
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[[1917年]]には[[財務大臣 (イギリス)|財務大臣]]だったボナー・ローの推挙で自由党の[[デビッド・ロイド・ジョージ|ロイド・ジョージ]]を首相とする挙国一致内閣の{{仮リンク|財務担当政務次官|en|Financial Secretary to the Treasury}}に就任{{sfn|坂井秀夫|1974|p=15}}。[[1921年]]まで務めた<ref name="CP EB"/>。この人事はボールドウィンの亡父に対するボナー・ローの友情からだったという{{sfn|マッケンジー|1965|p=46}}。 |
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*[[伯爵]] |
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ついで1921年4月から[[商務庁長官]]に就任した{{sfn|坂井秀夫|1974|p=7}}。商務庁長官としてのボールドウィンは実業界から人気があり、「彼らはボールドウィンを自分たちの仲間であるかのように思っていた」という{{sfn|マッケンジー|1965|p=46}}。またロイド・ジョージによればボールドウィンは閣議でめったに発言をしなかったという{{sfn|マッケンジー|1965|p=46}}。 |
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{{先代次代|[[イギリス保守党党首一覧|イギリス保守党党首]]|1923年 - 1937年|[[アンドリュー・ボナー・ロー]]|[[ネヴィル・チェンバレン]]}} |
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{{先代次代|[[イギリスの首相の一覧|イギリスの首相]]|1923年 - 1924年<br/>1924年 - 1929年<br/>1935年 - 1937年|[[アンドリュー・ボナー・ロー]]<br/>ラムゼイ・マクドナルド<br/>ラムゼイ・マクドナルド|[[ラムゼイ・マクドナルド]]<br/>ラムゼイ・マクドナルド<br/>[[ネヴィル・チェンバレン]]}} |
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しかし1921年に入った頃には大連立内閣の首相ロイド・ジョージへの保守党内の不満は相当程度に高まっていた。ボールドウィンもロイド・ジョージのことを「一つの政党を略奪し、他の政党を騙す邪悪な仲介者」「自分と閣僚の間に主人と召使という封建的関係を設定する独裁者」「このような人物は小人物であり、全ての大問題を自分で解決し、自分の名前を歴史に留めようとする人なのである。しかし議会の構造はそのような野心に都合が悪い。万事は政党によって処理されなければならず、道具として政党を利用する個人によってなされてはならない」と論じ、大連立政権がいつまでも続けば議会政治が危機に陥ると考えるようになった{{sfn|坂井秀夫|1974|p=16-17}}。 |
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また彼はロイド・ジョージが総選挙に打って出るのを恐れていた。ロイド・ジョージが自由党と保守党内の連立維持派を合同させて新党を作る恐れがあったためである{{sfn|坂井秀夫|1974|p=17}}。 |
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1922年10月19日、{{仮リンク|カールトン・クラブ|en|Carlton Club}}で保守党下院議員274名が出席する保守党議員総会が開かれた。ボールドウィンは「ロイド・ジョージはダイナミックな力を有している。私の考えではこの事実から困難な事態が起きている。ダイナミックな力は恐るべきものである。これは諸君を破壊するかもしれない。またダイナミックな力は必ずしも正しくはない」としたうえで自由党が破壊されたのはロイド・ジョージのダイナミックの力と比類のないパーソナリティに由来しているとし、「私は早晩これと同じ事態が我が党にも生じるであろうと確信している。」「過去4年間保守党の一派が絶望を感じて連立内閣から離脱したことを私はすでに見ているのである。私は現在の自由党と保守党の連携が続くなら、またもしこの大会が、それを継続させることに同意するなら、諸君はより多くの人々が離れていくのを見ることになるだろう。私はこのような過程が必然的に進行し、やがては伝統ある保守党が粉砕され、破壊されてしまうであろうと信じる」と演説し、大連立継続に反対を表明した{{sfn|坂井秀夫|1974|p=25-26}}。 |
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ボールドウィンはこの演説で将来の保守党を担う人物であると印象付けることに成功したという{{sfn|坂井秀夫|1974|p=25-26}}。結局この大会で「本保守党議員総会は保守党が選挙に際して独自の指導者と綱領を有する独自の政党として戦う意思を有するものであることを証明する」という決議が賛成185票、反対88票で可決されたことでロイド・ジョージは総辞職し、ボナー・ローが保守党単独政権を組閣することになった{{sfn|坂井秀夫|1974|p=27-28}}。 |
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=== ボナー・ロー内閣財務大臣(1922年-1923年) === |
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[[File:Stanley Baldwin daughter.jpg|thumb|180px|1923年1月5日、ボールドウィンと彼の娘]] |
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ボナー・ロー内閣において彼は[[財務大臣 (イギリス)|財務大臣]]に就任{{sfn|坂井秀夫|1974|p=32}}。 |
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[[1923年]][[1月31日]]には[[アメリカ合衆国]]と交渉をまとめ、対米戦債9億8000万ポンド、平均利子率3.3%で62年間にわたって支払うことを取り決めた{{sfn|坂井秀夫|1974|p=32}}。 |
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1923年5月にボナー・ローの病気が悪化し、同月20日に首相を退任。国王[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]は後任の首相を選ばねばならなくなった。候補は二人考えられた。一人はボールドウィン、もう一人は[[外務・英連邦大臣|外務大臣]]の初代[[カーゾン侯爵]][[ジョージ・カーゾン (初代カーゾン・オヴ・ケドルストン侯爵)|ジョージ・カーゾン]]である。家柄や政治経験の面ではカーゾン侯の方が圧倒的に上だが、カーゾン侯は庶民院議員ではなく貴族院議員であり、しかも反民主的な貴族主義者で知られていた{{sfn|ブレイク|1979| p=248}}。一方平民出身の庶民院議員ボールドウィンは庶民院保守党陣笠議員の支持を集めており、[[シティ・オブ・ロンドン|シティ]]の金融資本家や貿易業界からも信頼されていた{{sfn|坂井秀夫|1974| p=34}}。 |
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ボールドウィンの支持者である庶民院議員{{仮リンク|ジョン・デイヴィッドソン (初代デイヴィッドソン子爵)|label=ジョン・デイヴィッドソン|en|J. C. C. Davidson, 1st Viscount Davidson}}によって書かれた「政府重職に占める貴族の数が多すぎて庶民院で反発が起こっている」「カーゾンを支持する保守党庶民院議員は50人もいないであろう」という内容の手紙が{{仮リンク|国王個人秘書 (イギリス)|label=国王個人秘書|en|Private Secretary to the Sovereign}}初代スタムフォーダム男爵{{仮リンク|アーサー・ビッグ (初代スタムフォーダム男爵)|label=アーサー・ビッグ|en|Arthur Bigge, 1st Baron Stamfordham}}を通じて国王ジョージ5世に手交された(ただしスタムフォーダム卿自身はカーゾン侯の支持者でカーゾン侯に組閣の大命を与えるべきことを国王に助言している){{sfn|坂井秀夫|1974| p=34}}{{sfn|ブレイク|1979| p=247-249}}。また国王から助言を求められたバルフォアも「首相職は庶民院に残しておくべき」と奉答した{{sfn|クラーク|2004| p=116-117}}{{sfn|ブレイク|1979| p=249-250}}。 |
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そのため結局国王はボールドウィンに組閣の大命を与えることを決意した。 |
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=== 第1次ボールドウィン内閣(1923年-1924年) === |
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[[File:Curzon-with-baldwin.jpg|thumb|180px|1924年1月、首相ボールドウィンと外相初代[[カーゾン侯爵]][[ジョージ・カーゾン (初代カーゾン・オヴ・ケドルストン侯爵)|ジョージ・カーゾン]]]] |
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[[1923年]][[5月22日]]に国王に召集されて組閣の大命を受けた{{sfn|マッケンジー|1965|p=48}}。 |
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1923年は[[戦間期]]を通じて就職できない労働人口10%(「手におえない100万人」と呼ばれた)が大量に発生した時期だった。ボールドウィンは失業者救済の核心部分は英国産業の保護にあると信じた{{sfn|ブレイク|1979| p=256}}。もともとボールドウィンは[[1903年]]以来[[ジョゼフ・チェンバレン]]の{{仮リンク|帝国特恵関税制度|en|Imperial Preference}}(保護貿易的な関税改革論)の支持者だった{{sfn|坂井秀夫|1974| p=36-37}}。 |
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ボールドウィンは[[11月2日]]に[[マンチェスター]]の{{仮リンク|自由貿易ホール|en|Free Trade Hall}}で次の6条件による帝国特恵関税制度を提唱した。「(1)失業の増大の原因となっている外国製品の輸入を特に考慮して外国製品に輸入関税を課すこと、(2)自治領に特恵関税を与えること、(3)輸入小麦または輸入食肉には関税を課さないこと、(4)農業振興のために最善の方法を検討すること、(5)老齢、疾病、失業の保険を充実すること、(6)『我が版図、我が帝国』を発展させること」である{{sfn|坂井秀夫|1974| p=40}}。 |
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ボールドウィンは当初これのために解散総選挙する意思はなかったが、ロイド・ジョージが保護貿易に転向し、かつての大連立支持者[[オースティン・チェンバレン]]らと「中央党」を形成するという噂が流れた。ロイド・ジョージ自身は保護貿易主義者に転向したという噂を否定したが、ボールドウィンはその情報に確信を持っており、ロイド・ジョージを倒さねばオースティン・チェンバレンらとともに保守党を把握すると懸念し、唯一の方法は関税問題を前面に押し出して総選挙することだと考えた{{sfn|坂井秀夫|1974| p=41}}。 |
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11月12日には国王に拝謁して解散総選挙を求め、11月13日には庶民院で解散を行う旨を声明した{{sfn|坂井秀夫|1974| p=41}}。 |
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帝国特恵関税制度を選挙の争点としつつ、庶民の不安を高めないよう食料には関税を課さないことを強調して訴えたが、その訴えは有権者から広く信じられなかった。自由党と労働党は保護貿易によって食糧費が高くなるという恐怖感を煽り、結局「高いパンか安いパンか」が争点の総選挙となった{{sfn|坂井秀夫|1974| p=42}}{{sfn|ブレイク|1979| p=257}}。 |
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12月6日に選挙結果が判明し、保守党は前回議席から87議席失う257議席となり、一方野党の労働党は191議席、自由党は151議席をそれぞれ獲得した{{sfn|坂井秀夫|1974|p=42}}。保守党政府は過半数を失う形となったが、自由党の出方が不透明だったのですぐには総辞職せず、新議会を招集した{{sfn|クラーク|2004| p=119}}。 |
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しかし[[1924年]][[1月21日]]の庶民院において労働党議員[[ジョン・ロバート・クラインス]]提出の政府不信任決議案が自由党の賛成も得て72票差で可決された。そのため[[1月22日]]にボールドウィンは辞職し、[[ラムゼイ・マクドナルド]]を首相とする史上初めての労働党政権が発足することとなった{{sfn|坂井秀夫|1974|p=42}}。 |
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=== 第1次マクドナルド内閣に対する野党期(1924年) === |
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1924年1月にマクドナルドに政権を譲った後、ボールドウィンは野党党首になった。ボールドウィンは労働党の漸進的な[[社会改良主義]]と[[共産主義]]は分けて考えており、労働党を全否定はしていなかった。特に首相マクドナルドの外交観はボールドウィンとそれほど差はなかったため、ボールドウィンはマクドナルドに信頼感を持っていた。そのことについて国王側近の初代スタンフォーダム男爵{{仮リンク|アーサー・ビッゲ (初代スタンフォーダム男爵)|label=アーサー・ビッゲ|en|Arthur Bigge, 1st Baron Stamfordham}}は、「ボールドウィンは首相マクドナルドを好み、信頼している。彼はしばしば首相と興味のある話をしていた。彼は首相が共産主義に対して冷静に断固として反対するであろうと考えていた」と評している{{sfn|坂井秀夫|1974| p=47}}。 |
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ところが、マクドナルド労働党政権は、1924年2月に[[ソビエト連邦|ソ連]]と外交関係を樹立し、4月14日から対ソ一般条約締結を目的とした交渉をロンドンで開始した。8月5日まで続いたこの交渉自体はイギリス人財産賠償問題を巡って決裂したのだが、その直後に労働党左派議員が非公式に調停者になってイギリスとソ連の仲立ちをして8月8日には対ソ一般条約が締結された{{sfn|坂井秀夫|1974| p=47}}。 |
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保守党や自由党はこの条約に強く反発した。労働党左派議員が政府に圧力を加えて無理やり調印させたこと、さらにこの条約によりイギリス金融市場でソ連の募集する債権を政府が保証しなければならなくなるためだった。ボールドウィンも労働党左派議員が外交問題に介入したことに憤った{{sfn|坂井秀夫|1974| p=48}}。 |
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さらに[[グレートブリテン共産党]]の{{仮リンク|ジョン・ロス・キャンベル|en|J. R. Campbell (communist)}}が『{{仮リンク|ワーカーズ・ウィークリー|en|Workers' Weekly (UK)}}』で兵士に労働者を撃たないよう呼びかけたが、[[イングランド・ウェールズ法務総裁|法務総裁]]{{仮リンク|パトリック・ヘイスティングス|en|Patrick Hastings}}はこれが{{仮リンク|1797年反乱扇動罪|en|Incitement to Mutiny Act 1797}}に該当するとみなし、キャンベルを起訴したが、労働党左派議員たちがこの起訴に反発し、ヘイスティングスが起訴を取り消すという{{仮リンク|キャンベル事件|en|Campbell Case}}も発生した。この事件をめぐってもボールドウィンは労働党左派議員が司法に圧力をかけて不当に起訴を取り消させたと考え、労働党左派を強く批判した{{sfn|坂井秀夫|1974| p=48}}。 |
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ボールドウィンは10月2日のニューキャッスルの演説において「労働党は過激主義者によって服従させられている」と断じ、ロシア条約を批判した{{sfn|坂井秀夫|1974| p=49}}。 |
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10月8日の議会では自由党のアスキスから「自由党はロシア条約に反対し、キャンベル起訴問題に関する特別調査委員会の設置を要求する」との動議が提出され、保守党もこれに賛成したことで可決された。これに対してマクドナルドは解散総選挙に打って出た{{sfn|坂井秀夫|1974| p=49}}。 |
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総選挙でもボールドウィンは労働党が過激主義者に支配されていること、失業問題に失敗したことを訴えた。この総選挙では保護関税をスローガンにするのは避けた{{sfn|坂井秀夫|1974| p=49}}。選挙戦中の10月24日に[[ジノヴィエフ書簡]]事件が発生した。これはコミンテルン議長[[グリゴリー・ジノヴィエフ]]が9月15日付けでグレートブリテン共産党に送ったとされる「資本家とブルジョワの妨害のせいで未だ条約批准が行われていないので労働者は批准獲得闘争を起こし、イギリスの現体制を崩壊させ、軍隊を解体させるべきである」旨の書簡であり、『[[タイムズ]]』紙がこの書簡とそれに対する英国外務省の抗議文を掲載したことで問題化した事件である{{sfn|坂井秀夫|1974| p=50}}。 |
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この事件により労働党はイギリス労働者とソ連を結合させ、それによってイギリスで革命を起こそうとしている政党だという印象が一般に広まった。ボールドウィンと保守党も労働党とソ連の繋がりを徹底的に批判し、保守党の「安定」、労働党の「赤」のイメージの増幅に努めた{{sfn|坂井秀夫|1974| p=51}}。 |
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その結果、10月29日の選挙結果は、保守党412議席、労働党151議席、自由党40議席という結果に終わった。この結果、再びボールドウィン保守党内閣に政権交代されることとなった。 |
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ボールドウィンは「近い将来自由党は消滅し、左右両党の二大政党の時代(「保守党」対「労働党」の時代)になると思われるが、労働党から共産主義者は排除されなければならない」と述べた{{sfn|坂井秀夫|1974| p=53}}。 |
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=== 第2次ボールドウィン内閣(1924年-1929年) === |
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[[ファイル:Churchill_Chamberlain_Baldwin.jpg|サムネイル|第2次ボールドウィン内閣の顔触れ、[[オースティン・チェンバレン|チェンバレン]]外相、ボールドウィン首相、[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]蔵相。]][[File:Stanley Baldwin-TIME-1927.jpg|thumb|180px|1927年の『[[タイム (雑誌)|タイム]]』誌の表紙を飾ったボールドウィン]] |
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1924年11月4日にボールドウィンは国王ジョージ5世に召集され、再度の組閣の大命を受けた。第2次ボールドウィン内閣を組閣することになった{{sfn|坂井秀夫|1974| p=52}}。 |
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==== 1926年のゼネストの鎮圧 ==== |
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第一次世界大戦後、イギリス石炭業は石炭輸出市場の喪失で不況に陥った。1923年1月のフランス軍・ベルギー軍の[[ルール占領]]でドイツの石炭輸出が激減したことで一時的に好況を迎えたものの、同年11月に両軍が撤退すると再びイギリスの石炭輸出は激減。坑夫の失業者が増加した(1923年のその失業率は2.9%だったが、1924年6月には17.5%に急増している){{sfn|坂井秀夫|1974| p=59}}。 |
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[[1925年]]4月には財務大臣[[ウィンストン・チャーチル]]の主導で戦前レートによる[[金本位制]]復帰が行われたが、これはポンドの過大評価であり、これにより石炭輸出価格が沸騰し、石炭の海外販路はさらに大打撃を受けた。その結果、坑夫の失業率は急速に増大した。この苦難に炭坑資本家は経営の合理化によって乗り切ろうとし、1925年6月30日と7月1日に坑夫連盟に対して従来の最低賃金と7時間労働制を破棄するとともに、13%から48%までの幅のある賃金切り下げを行うことを通告した。これに坑夫連盟は反発し、炭坑資本家への対決姿勢を示した。賃金低下が他産業にも波及することを恐れた他産業労働者にも反発が広がり、[[労働組合会議]]も鉱夫連盟と連帯することを表明し、7月31日深夜以降石炭輸送を全国的にストップすることを決定した。これにより[[ゼネスト]]の危機が生じた{{sfn|坂井秀夫|1974| p=59}}{{sfn|村岡健次|木畑洋一|1991| p=292-293}}。 |
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ボールドウィンはこの威嚇を恐れ、自由党の政治家[[ハーバート・サミュエル (初代サミュエル子爵)|ハーバート・サミュエル]]を石炭業に関する王立委員会を設置することを発表した。その審議の間は、坑夫の賃金と労働時間は据え置き、それによって生じる石炭業の赤字は国が補助金で補填することを約した。坑夫連盟もこの政府の提案を受諾したので、ひとまずゼネストの危機は回避された。労働運動側はこれを勝利とみなし、7月31日を「赤い金曜日」と呼んだ{{Sfn|ピーデン|1990|p=68}}{{sfn|坂井秀夫|1974| p=293}}。 |
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しかしボールドウィンは労働組合勢力の言い分を受け入れるつもりはなく、この一時沈静化の間を利用して反撃の準備を行った。近い将来予想される労働組合との全面衝突に備え、資源の備蓄、スト破り要因の配置、都市近くに軍隊を駐屯などを着実に進めた{{sfn|村岡健次|木畑洋一|1991|p=293}}。 |
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そして1926年3月に王立委員会は石炭業国有化を拒否し、補助金は打ち切り、賃金切り下げ方針の報告書を発表した。炭坑労働者が反発し、再び全面対決の姿勢を示した。政府と妥協を模索していた右派を含む労働組合会議指導部も5月1日からのゼネストを宣言した。それでも指導部右派は交渉による望みをかけていたが、5月3日にボールドウィン政府は『[[デイリー・メール]]』紙の植字工が政府のゼネスト批判の文を掲載しなかったことを理由として交渉を拒否した。5月4日からゼネストが開始され、ゼネスト参加者は280万人に達し、英国の経済活動はあらゆる場所で麻痺した({{仮リンク|1926年イギリス・ゼネラルストライキ|en|1926 United Kingdom general strike}}){{sfn|村岡健次|木畑洋一|1991|p=293}}。 |
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ボールドウィンと資本家側は労働組合会議の右派や穏健派の切り崩しを図り、サミュエルは交渉の覚書を組合側に提出した。全国賃金局の設立や補助金延長を謳っていたが、賃金切り下げ方針が盛り込まれており、炭坑労働者は反発。しかし労働組合会議指導部は交渉に入ることを決断し、5月12日にゼネスト中止を指令した。炭坑労働者はその後も孤立して闘争を続けたが、結局は賃金切り下げと労働時間延長を認めることになった{{sfn|村岡健次|木畑洋一|1991|p=293}}。 |
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1927年7月には同情ストの非合法化や政党への寄金規制を定めた{{仮リンク|1927年労働争議及び労働組合法|label=労働争議及び労働組合法|en|Trade Disputes and Trade Unions Act 1927}}を制定して労働組合の弱体化を図った。これ以降英国社会は労使協調主義による生産拡大追及が顕著となっていく{{sfn|村岡健次|木畑洋一|1991|p=294}}。 |
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==== 外交 ==== |
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第一次世界大戦後のイギリス政府の基本的な外交方針は敗戦国ドイツのこれ以上の弱体化を防ぎ、ドイツに強硬な姿勢を取り続けるフランスの動きを監視することでヨーロッパの勢力均衡を回復させることにあった。これは保守党政権でも第1次労働党政権でも維持された外交観であり、第2次ボールドウィン内閣においても維持された{{sfn|村岡健次|木畑洋一|1991|p=295}}。 |
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その帰結が[[1925年]]12月に締結された[[ロカルノ条約]]だった{{sfn|村岡健次|木畑洋一|1991|p=295}}。ロカルノ条約は外相[[オースティン・チェンバレン]]の主導で、[[ヴァイマル共和政|ドイツ]]・[[フランス第三共和政|フランス]]・[[イタリア王国|イタリア]]・[[ベルギー]]との間に締結され、西ヨーロッパの国境維持、相互不可侵、[[ラインラント]]現状維持を内容としている{{sfn|佐々木雄太|木畑洋一|2005|p=120-121}}。さらにボールドウィン内閣は1926年にドイツの[[国際連盟]]加盟と[[常任理事国 (国際連盟)|常任理事国]]就任も支持した{{sfn|佐々木雄太|木畑洋一|2005|p=121}}。これによりヨーロッパの勢力均衡を回復させることに成功したが、これをきっかけに1920年代後半にはイギリスのヨーロッパへの関心は薄れていった{{sfn|村岡健次|木畑洋一|1991|p=295}}。 |
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他方ソ連と労働党政権の条約を批判して政権に付いた第2次ボールドウィン内閣はソ連との関係は悪化せざるを得ず、1927年5月に国交断絶に至っている{{sfn|佐々木雄太|木畑洋一|2005|p=118}}。しかし[[1928年]]8月にはロカルノ条約締結国の他、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]や[[日本]]、ソ連なども含めた15か国との間にケロッグ=ブリアン条約([[不戦条約]])を締結した{{sfn|佐々木雄太|木畑洋一|2005| p=122}}。 |
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==== 帝国政策 ==== |
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[[File:ImperialConference.jpg|thumb|250px|1926年11月4日の{{仮リンク|1926年帝国会議|label=帝国会議|en|1926 Imperial Conference}}。<br/>{{small|前列左から英首相ボールドウィン、国王[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]、[[カナダ首相]][[ウィリアム・ライアン・マッケンジー・キング|W,マッケンジー・キング]]。後列左から[[ニューファンドランド・ラブラドール州首相|ニューファンドランド首相]]{{仮リンク|ウォルター・スタンリー・モンロー|label=W.S,モンロー|en|Walter Stanley Monroe}}、[[ニュージーランドの首相|ニュージーランド首相]]{{仮リンク|ゴードン・コーツ|label=G.コーツ|en|Gordon Coates}}、[[オーストラリア首相]]{{仮リンク|スタンリー・ブルース|label=S.ブルース|en|Stanley Bruce}}、[[南アフリカの首相|南アフリカ首相]][[ジェームズ・バリー・ミューニック・ヘルツォーク|J.B.M.ヘルツォーク]]、[[アイルランドの首相|アイルランド行政評議会議長]][[ウィリアム・コスグレイヴ|W.コスグレイヴ]]}}]] |
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1920年代後半のイギリス外交はヨーロッパへの関心を失っていたが、帝国政策は熱心だった{{sfn|村岡健次|木畑洋一|1991|p=295}}。 |
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第一次世界大戦後、イギリスは国際連盟からの委任統治領という形で旧敵国の領地を獲得した結果、大英帝国の版図は過去最大となっていた。しかし一次大戦がきっかけとなり、帝国内諸地域の自立の動きやナショナリズムの台頭が起こり、これにいかに対処し、帝国における自国の支配権を維持するかが労働党政権を含めて歴代イギリス政府の課題となっていた{{sfn|村岡健次|木畑洋一|1991|p=295}}。 |
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[[1926年]]10月から11月にかけて{{仮リンク|1926年帝国会議|label=帝国会議|en|1926 Imperial Conference}}を開催し、「(自治領は)大英帝国の中における独立したコミュニティであって、平等な地位を有し、内外政いかなる面においても一国が他国に従属する関係にない」と規定する[[バルフォア報告書]]を発表。これは1931年の[[ウェストミンスター憲章]]によって確認される[[イギリス連邦]]体制の原型となる物だった。自治領(特に[[カナダ]]、[[南アフリカ連邦]]、[[アイルランド自由国]])の独立機運をなだめつつ、「王冠への忠誠」のもとに自治領諸国を結び付け、英国の「大国」の地位を保障する大英帝国を維持しようという意図があった{{sfn|村岡健次|木畑洋一|1991|p=296}}。 |
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==== 1929年の総選挙に敗北 ==== |
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ボールドウィン内閣は1928年7月に男女平等選挙権を認める第五次選挙法改正を行ったが、これによって新たに選挙権を得た人々の登録が行われるまでは総選挙はできないとして解散総選挙を避けていた。しかし結局1929年5月30日には[[1929年イギリス総選挙|総選挙]]が行われることになった{{sfn|坂井秀夫|1974|p=74}}。 |
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選挙戦でボールドウィンは「安全第一」(Safety First)のスローガンを採用した。このスローガンには途方もない実験をしようとしている労働党よりも安全な保守党に任せるべきという意味が込められていた{{sfn|クラーク|2004| p=136}}。特に選挙戦の前半、ボールドウィンは労働党攻撃を中心に行い、3月27日のマンチェスターでの演説は、労働党の国有化方針を「国有化は低賃金、生活水準の低下、失業の増大を招く」「企業精神を殺す」「イギリスの官吏は世界一優秀であるが、彼らの訓練や立場では、企業を管理しえない」と論じて批判した{{sfn|坂井秀夫|1974|p=74}}。しかし労働党攻撃宣伝があまり奏功していないと見ると帝国維持をスローガンに切り替え、国民感情に訴えかけることを目指した。ボールドウィンは5月24日のハイド・パークでの演説で「自治領国民は、それら自身の政府によって統治されている。我らは自治領と平等な立場で自由な関係を維持しているが、我らは王への共通の忠誠で統一されている。この方式での統一が我らの力となっている。それは奉仕の紐帯である。我らは物質的繁栄のみならず、全世界の平和促進、交通の発展のために団結して協力しているのである」と論じた{{sfn|坂井秀夫|1974|p=75}}。 |
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一方労働党はボールドウィン内閣が対ソ外交関係を断絶させたせいでソ連という原料供給地、商品市場が失われ、その結果失業が増大していると論じ、1927年の労働争議及び労働組合法が労働組合のゼネスト権を奪ったと批判した{{sfn|坂井秀夫|1974|p=76}}。 |
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全体として保守党の争点が曖昧だったのに対し、労働党の争点は分かりやすく、結果5月30日の選挙は、保守党260議席、労働党287議席、自由党59議席という結果に終わった{{sfn|坂井秀夫|1974|p=76}}。この敗北で再びボールドウィン率いる保守党は下野することになり、マクドナルド労働党政権が発足した。 |
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=== 第2次マクドナルド内閣に対する野党期(1929年-1931年) === |
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1929年6月4日に労働党政権の第2次マクドナルド内閣が発足したが、同年10月末にはアメリカ・[[ウォール街]]の株式暴落に端を発する[[世界恐慌]]が発生。イギリスでも大量の失業者が発生した。マクドナルド内閣は失業者救済のために公共事業拡大策を打ち出したが、野党党首ボールドウィンはそれに反対し、失業対策は保護貿易しかないと主張。この主張はやがて自由党内の保護貿易支持派(特に[[ジョン・サイモン (初代サイモン子爵)|ジョン・サイモン]])にも支持を広げていった{{sfn|坂井秀夫|1974|p=77-78}}。 |
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労働党政府が恐慌に有効な手を打ち出せない中、1931年5月にはオーストリアの{{仮リンク|クレディト・アンシュタルト|en|Creditanstalt}}が破産{{sfn|坂井秀夫|1974|p=79}}。これをきっかけに金融恐慌がイギリスを襲い、1931年半ばから金と外国為替の外国への急激な引き揚げが発生した{{sfn|村岡健次|木畑洋一|1991|p=298}}。アメリカやフランスからの金融的援助は、緊縮の実施を条件とされたため、マクドナルド政府は緊縮政策に傾いていかざるを得なくなり、失業手当のカットが行われた。しかし失業が深刻化する中での失業手当カットは労働党を支える労働組合からの激しい反発を招き、労働党内は緊縮派のマクドナルド派と反緊縮派の[[アーサー・ヘンダーソン]]派に分裂した{{sfn|村岡健次|木畑洋一|1991|p=298}}。 |
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さらに1930年末から1931年にかけて補欠選挙が相次いだが、いずれの選挙でも保守党が票を急増させていた。そのためマクドナルド首相は労働党単独政権を続ける自信をすっかり喪失しており、ヘンダーソンら労働党主流派は切り捨てて保守党と連携する必要があるとの思いを強めた{{sfn|坂井秀夫|1974|p=77-78}}。 |
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下野以来ボールドウィンが目指していたのは大連立ではなく、保守党による政権だった。彼にはかつてロイド・ジョージ挙国一致内閣を潰した経緯もあったので再度の挙国一致内閣は避けたいという思いも強かった。しかし挙国一致内閣に前向きな[[ネヴィル・チェンバレン]]に説得され翻意した{{sfn|坂井秀夫|1974|p=82}}。8月23日に国王ジョージ5世に引見され「マクドナルドの下での挙国一致内閣に参加し、国に仕える覚悟はあるか」との下問を受けたたボールドウィンは「現在の危機にあたって国に奉仕するためにどのようなことでも行う用意があります」と奉答している{{sfn|坂井秀夫|1974|p=83}}。 |
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8月22日と23日の閣議は完全に分裂し、マクドナルドは内閣の統一が保持できないとして8月24日に総辞職{{sfn|坂井秀夫|1974|p=85}}。同日、宮廷でボールドウィンとマクドナルドと[[ハーバート・サミュエル (初代サミュエル子爵)|サミュエル]](自由党党首)による三党会談がもたれた。国王の仲介によりボールドウィンとサミュエルはマクドナルドが組織する挙国一致内閣に参加することを了承した{{sfn|坂井秀夫|1974|p=86}}。この際にボールドウィンは首相の地位を要求せず、閣僚についても10人中4人を保守党とするだけで了解した{{sfn|クラーク|2004| p=150}}。 |
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労働党内ではマクドナルドら挙国派がヘンダーソンらと袂を分かって挙国一致内閣を組織し(労働党は大連立反対派が主流であり、マクドナルドらは事実上除名された形であった)、{{仮リンク|挙国派労働機構|label=挙国派労働党|en|National Labour Organisation}}と保守党と自由党による大連立政権が誕生することになった。 |
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=== マクドナルド挙国一致内閣枢密院議長(1931年-1935年) === |
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[[File:Lloyd George MacDonald Baldwin on Time cover 1931.jpg|thumb|180px|1931年9月7日の『タイム』誌の表紙。左から[[デビッド・ロイド・ジョージ|ロイド・ジョージ]]、[[ラムゼイ・マクドナルド|マクドナルド]]、ボールドウィン]] |
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1931年8月24日にマクドナルド挙国一致内閣が組閣された。ボールドウィンは同内閣に[[枢密院議長 (イギリス)|枢密院議長]]として入閣した{{sfn|坂井秀夫|1974|p=87}}。ボールドウィンが首相ではなかったとはいえ、挙国一致内閣の実質的な主導権は保守党が握っていた{{sfn|クラーク|2004| p=150}}。挙国一致内閣は、ただちに大幅な緊縮財政と金流出を防ぐための金本位停止を庶民院で可決させている{{sfn|坂井秀夫|1974|p=87}}。1932年から1933年には[[王璽尚書]]も兼務した<ref name="CP EB"/>。 |
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==== 1931年の総選挙 ==== |
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9月28日の閣議で保守党閣僚は関税改革を争点とした総選挙を要求。しかし労働党・自由党出身閣僚はこれに反対した。ボールドウィンは各政党は争点の上で自由行動をとってもよいという妥協案を考えだし、翌日の閣議でチェンバレンが「関税改革は選挙後の新内閣によって考慮されるという条件で選挙では自由行動をとる」という妥協案で具体化。各政党間の折衝が行われたのち、10月5日に各党自由に選挙綱領を発表することが決定された{{sfn|坂井秀夫|1974|p=89}}。 |
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マクドナルド挙国一致内閣のもとで総選挙に臨むことになったボールドウィンは、これまでのような労働党攻撃よりも「健全な、明確な、名誉ある財政」「安全第一」といった保守党の安定性を売りにするスローガンを掲げた。10月20日の[[リーズ]]での演説では「結局、基本的争点は何であるか。それは社会主義でもないし、個人主義でもない。また自由貿易でも保護貿易でもない。それは次のようなところにある。諸君の財産、食料、雇用に損害を与えることなく、国民を指導する大政党から選ばれた政府に、この国の運命を、諸君が委任しえるか否かということである」と述べた{{sfn|坂井秀夫|1974|p=90}}。 |
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10月27日の[[1931年イギリス総選挙|選挙]]の結果、挙国政府陣営は521人を当選させ、野党([[アーサー・ヘンダーソン|ヘンダーソン]]率いる労働党52議席、[[ハーバート・サミュエル (初代サミュエル子爵)|サミュエル]]率いる独立自由党37議席)に大きく差をつけた{{sfn|坂井秀夫|1974|p=91}}。 |
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==== 帝国特恵関税制度 ==== |
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1932年7月から8月にかけての{{仮リンク|大英帝国経済会議|en|British Empire Economic Conference}}(オタワ会議)にイギリス政府代表として財務大臣チェンバレンらを伴って出席した{{sfn|坂井秀夫|1974|p=102}}。1932年2月にチェンバレンの主導で成立していた帝国特恵関税制度を帝国諸政府に納得させる目的だった。帝国よりアメリカとの通商を強化したいカナダ首相[[リチャード・ベッドフォード・ベネット]]が最も難色を示したが、ボールドウィンがカナダ産の卵、家禽、バター、チーズその他乳製品の対英輸出に引き続き三年間無税とする譲歩をして説得にあたった。また食肉関税をめぐってボールドウィンとオーストラリア首相{{仮リンク|スタンリー・ブルース|en|Stanley Bruce}}の間で論争になったが、ボールドウィンが提案した割当制をブルースが承認したことでこれも解決した。8月20日にはオタワ協定が成立し、帝国特恵関税制度は実現を見た。1846年に自由貿易を採用して以来、86年ぶりの関税改革となった{{sfn|坂井秀夫|1974|p=103-104}}。 |
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=== 第3次ボールドウィン内閣(1935年-1937年) === |
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1935年6月7日に健康を害したマクドナルドが辞職し、ボールドウィンが代わって挙国一致内閣の首相となった{{sfn|坂井秀夫|1974|p=156}}。彼は首相に返り咲いた後も挙国一致内閣を解消しようとはしなかった。政府が挙国一致であるという事実(あるいは虚構)によって、自由党の抵抗分子を抑え込むことができたためである{{sfn|クラーク|2004| p=171}}。 |
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==== 1935年の総選挙 ==== |
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[[ファイル:Military_Parade_of_Italian_Troops_in_Addis_Ababa_(1936).jpg|サムネイル|[[エチオピア帝国|エチオピア]]の首都[[アディスアベバ]]に入る[[イタリア陸軍]]。[[第二次エチオピア戦争]]では[[イタリア王国|イタリア]]が短期間にエチオピア全土を占領した。]] |
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ボールドウィンの3度目の首相就任の直前に[[第二次エチオピア戦争]]が開戦しており、ボールドウィンは[[イタリア王国|イタリア]]牽制のためには[[国際連盟]]を強化する必要があり、そのためには大規模軍拡が必要と判断し、軍拡の全権委任状を受ける目的で総選挙を行うことを企図するようになった。10月16日には選挙綱領起草委員会が設置され、11月14日に[[1935年イギリス総選挙|総選挙]]を行うことを決定した{{sfn|坂井秀夫|1974|p=163}}。 |
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選挙戦中ボールドウィンは「私は戦争という言葉を使うのに強く反対する」としながらも「集団安全保障を経済的措置に限定するが、イギリス政府はそれと同時に世界平和のために、再軍備を行うことが必要であると考えている」「特定の国に対して一方的な再軍備を行うのではない」「自己の目的ではなく、国際平和のために連盟の枠内でイギリスの軍事力を強化する必要がある」と訴えた{{sfn|坂井秀夫|1974|p=163}}。一方野党の労働党は政府の軍拡計画に反対する選挙綱領を掲げた{{sfn|坂井秀夫|1974|p=164}}。 |
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選挙の結果、挙国政府は1931年選挙に比して92議席を喪失し、429議席(うち保守党は387議席)となった。労働党は154議席を獲得して勢力を回復。独立自由党は21議席だった。しかし多数派は保守党が維持したので引き続きボールドウィン政権が続くことになった{{sfn|坂井秀夫|1974|p=165}}{{sfn|クラーク|2004| p=171}}。 |
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==== 対独宥和外交 ==== |
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[[ドイツ]]では[[1933年]]以来[[アドルフ・ヒトラー]]率いる[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチス)が政権を掌握していた。ボールドウィンはナチスの反共主義の面に期待し、ドイツをソ連共産主義の防波堤にすべく対独宥和外交を基本方針とした{{sfn|坂井秀夫|1974|p=185}}。それについてボールドウィンは1936年7月28日の保守党議員団との会合で「我々はヒトラーが『[[我が闘争]]』の中で述べているごとく、ドイツが東方進出することを希望している。もし彼が東方に進出するならば、私は[[ボルシェヴィキ]]とナチスが戦争を行うのを見たいものである」と語っている{{sfn|坂井秀夫|1974|p=185}}。 |
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[[1936年]]3月7日の[[ドイツ国防軍|ドイツ軍]]の[[ラインラント進駐]]をめぐってボールドウィンは、3月19日に訪英中だったフランス外相{{仮リンク|ピエール・エティエンヌ・フランダン|fr|Pierre-Étienne Flandin}}と秘密会談を行ったが、フランダンが「ヒトラーの野望を阻むには軍事力行使しかない」と主張したのに対し、「イギリスは戦争ができる状態にない」としてフランスの対独強硬外交と関わり合いになるのを断った{{sfn|坂井秀夫|1974|p=180}}。 |
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1936年7月に勃発した[[スペイン内戦]]をめぐってもボールドウィンは外相[[アンソニー・イーデン|イーデン]]に対して「フランスまたは他の諸国が我らをソ連側に立って参戦させようとするかもしれないが、この企みに乗ってはならない」という訓令を与えた{{sfn|坂井秀夫|1974|p=190}}。共産主義とファシズムの戦争はスペインの中に押しとどめ、西ヨーロッパの火災にしないのがボールドウィンの考えであった{{sfn|坂井秀夫|1974|p=190}}。 |
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==== エドワード8世退位問題 ==== |
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{{main|エドワード8世の退位}} |
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{{multiple image|footer=ボールドウィン首相、国王[[エドワード8世_(イギリス王)|エドワード8世]]、[[ウォリス・シンプソン]]|align=|caption_align=center|total_width=290|image1=Stanley_Baldwin_02.jpg|caption1=|image2=King_Edward_VIII_and_Mrs_Simpson_on_holiday_in_Yugoslavia,_1936.jpg|caption2=}}1936年1月に国王ジョージ5世が崩御し、皇太子エドワードが[[エドワード8世 (イギリス王)|エドワード8世]]として即位した。エドワード8世は親独派であり、即位するや外交問題についてボールドウィン政府に圧力を加えるようになった。特に1936年3月の[[ラインラント進駐]]の際にはドイツと戦争にならぬよう政府高官に影響を及ぼしたといわれる。しかしボールドウィンはこうした王の外交介入を快く思っていなかった{{sfn|坂井秀夫|1974|p=193}}。 |
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エドワード8世は即位時すでに40過ぎだったが、妃がいなかった。皇太子時代からアーネスト・シンプソンの夫人のアメリカ人女性[[ウォリス・シンプソン]]と付き合っていた{{Sfn|山上|1960|p=141}}。1936年10月27日にシンプソン夫妻の離婚が法的に決まると、エドワード8世は彼女と結婚する意思をボールドウィン首相に伝えた。だが伝統を重んじるボールドウィン以下保守党の政治家たちには、二度も離婚歴があり、さらに[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]駐英ドイツ大使との交際歴もあるアメリカ人女性との結婚には反対の声が根強かった{{Sfn|山上|1960|p=142}}。またボールドウィンは自己主張の強い王エドワード8世より、気の弱い王弟[[ジョージ6世 (イギリス王)|ヨーク公アルバート]]の方がイギリスの王位に向いていると考えるようになり、エドワード8世に結婚するなら退位するよう迫っていく{{Sfn|山上|1960|p=142}}。 |
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一方のエドワード8世は11月16日に{{仮リンク|国王秘書官|en|Private Secretary to the Sovereign}}の[[アレグザンダー・ハーディング (第2代ペンズハーストのハーディング男爵)|アレック・ハーディング]]から「速やかにウォリス夫人を国外退去させるように」手紙で求められて衝撃を受けている{{Sfnp|Brody|1956|p=198}}。これ以降、国王は退位か、貴賤結婚かの間で揺れ動いていく。 |
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同日、エドワード8世がボールドウィン首相を引見した際には退位の意思を伝えていたが、11月25日になって保守党議員の一部が主張していた[[貴賎相婚]](シンプソン夫人を正式な王妃としてではなく、[[コーンウォール公]]夫人としてエドワード8世に嫁がせる)を可能とする法整備を要求するようになった{{Sfn|Brody|1956|pp=205,214-215}}。ボールドウィンは「もしそのような方法で結婚をやり遂げようとしておられるなら大きな間違いを犯すことになる」と国王に忠告したという{{sfn|坂井秀夫|1974|p=201-202}}。 |
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1931年1月にインド自治に反対して「[[影の内閣]]」から離脱して以来、保守党内の反ボールドウィン派となっていたチャーチルがエドワード8世の主張を支持して取り入ろうとしていた{{Sfn|Brody|1956|p=233}}。そのためボールドウィンは、チャーチルが中央党を結成し、エドワード8世から組閣の大命を受けようという宮廷陰謀が進行中と疑っていた{{sfn|坂井秀夫|1974|p=202}}。しかし結局チャーチルの中央党結成の試みは賛同議員を40名程度しか集められなかったため成功に至らなかった{{sfn|坂井秀夫|1974|p=203}}。 |
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[[ファイル:I_am_Willing_to_Withdraw.jpg|サムネイル|200x200ピクセル|「私が身を引く」とのウォリス夫人の発言を伝える新聞。しかし、国王はこの翌日に退位した。<br>(『[[デイリー・エクスプレス]]』紙、[[12月8日]]付)]] |
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12月2日、再び国王に拝謁したボールドウィンは貴賎相婚は非現実的であり、望ましくもない。したがってそれに関する法律を制定する見込みはないとする内閣と自治領政府の意思を国王に報告した{{Sfn|Brody|1956|pp=218-221}}。12月5日には自治領政府に対し、王がシンプソン夫人との結婚を断念するか、退位するか、いずれかの態度を取るよう王に正式に勧告するよう要請した。それに従ってオーストラリア、南アフリカ連邦、カナダなどが続々と勧告を行った。この圧力を受けてついにエドワード8世は12月9日に退位文書に署名した{{sfn|坂井秀夫|1974|p=205}}。翌日10日、ボールドウィンは[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]で国王退位の発表を行った。演説では『[[ハムレット]]』から引用し、「国王の意思は彼のものではない…自分勝手に道をひらくは許されぬ、すべて{{ルビ|国民|くにたみ}}の安否は彼が思いのままにかかっているのだから」と国王の義務を指摘した{{Sfn|Brody|1956|p=235}}。 |
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この一件はこれで収束したが、この件を最後にボールドウィンはほとんど政治指導をしなくなった{{sfn|坂井秀夫|1974|p=205}}。 |
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==== 退任 ==== |
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[[ジョージ6世 (イギリス王)|ジョージ6世]]戴冠式の後の1937年5月28日に首相を辞職すると表明した。ボールドウィンは5月26日の最後の閣議において「私は長い間重責から逃れることを希望してきた。今やその時期が到来した。現在同僚と別離することは真に辛いことである。二年前の総選挙時に私は新しい指導者が自分と交代する事が正しいとわかっていた。諸君は人の世の有為転変を味わってきた。このことは私にも言われうることである」と述べた{{sfn|坂井秀夫|1974|p=205}}。 |
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ボールドウィン辞職後、[[ネヴィル・チェンバレン]]が新たな首相・保守党党首として英国を指導していく{{sfn|坂井秀夫|1974|p=205}}。 |
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=== 晩年(1937年-1947年) === |
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首相退任直後の1937年6月8日に[[連合王国貴族]]爵位の'''[[ビュードリーのボールドウィン伯爵]]'''と'''コーヴェデール子爵'''に叙せられ<ref>{{London Gazette |issue=34405 |date=8 June 1937 |page=3663}}</ref>、[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員に列した<ref name="hansard"/>。 |
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[[1945年]]6月に妻の{{仮リンク|ルーシー・ボールドウィン|label=ルーシー|en|Lucy Baldwin}}が死去した<ref name="CP EB"/>。ボールドウィンも晩年には関節炎を患い、スティックなしでは歩けなくなっていた。[[1947年]][[12月14日]]に死去。爵位は長男{{仮リンク|オリヴァー・ボールドウィン (ビュードリーの第2代ボールドウィン伯爵)|label=オリヴァー・ボールドウィン|en|Oliver Baldwin, 2nd Earl Baldwin of Bewdley}}が継承した<ref name="CP EB"/>。 |
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== 人物・評価 == |
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=== 人物 === |
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[[ファイル:Rudyard_Kipling,_by_Elliott_&_Fry_(cropped).jpg|サムネイル|213x213ピクセル|詩人・小説家[[ラドヤード・キップリング|ラドヤード・キプリング]]。ボールドウィンの従兄弟にあたる。]] |
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* 温厚な性格のため人に命令することが苦手であった。閣僚の陰謀や嫉妬にも手をこまねいて、「同僚の中には私をウスバカだという者もいるし、また他の者はウスバカ以下と考えているらしい。それはよく解る。理解できないのは、そんな大バカの作っている内閣に彼らがなぜ留まると言い張るのかという点である」と語ったという{{Sfn|Brody|1956|p=167}}。 |
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* 畑いじり、園芸を好み、自然を愛でるのが好きで散歩も趣味とした{{Sfn|Brody|1956|pp=163-164}}。 |
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* 文才があったという。ボールドウィンの従兄弟には小説家[[ラドヤード・キップリング|ラドヤード・キプリング]]がおり、そのため本人は謙遜して「誰が[[天才]](キプリング)と競争したいと思うだろうか」と語ったが、キプリングのほうも「文筆で容易に私と張り合えただろう、スタンレーは一族のなかでは本当に文人だ」と述べたという{{Sfn|Brody|1956|p=163}}。 |
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=== 評価 === |
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ピーター・クラークはボールドウィンについて次のように論評している。「彼の基調とは新しい保守主義であり、労働党にははっきりと反対しつつも[[階級闘争]]という強硬なレトリックは棚上げにするという、穏健な合意の確立を目指したものだった。」「細部にわたる政策決定は対外的な物であれ、国内的な物であれ、まったくボールドウィンの得意とするところではなく、その点では[[ベンジャミン・ディズレーリ|ディズレーリ]]と似たり寄ったりであった。さらに公衆に対する彼のイメージは、同僚が見ていたイメージと同じだとは限らなかった。同僚は彼の一貫性のなさや、戦略的な物事の把握に明らかに欠けている点などに時に苛立たされていた。国内政策では、政府は[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]と[[ネヴィル・チェンバレン]]にひどく依存していた。」{{sfn|クラーク|2004| p=127}}。 |
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歴史家シーマン(L.C.G.seaman)はボールドウィンを次のように論評している。「ボールドウィンの最も重要な特質は、彼の精神が近代的な、知的な、しかも都会的な背景から形成されたのではなく、後期[[ヴィクトリア朝]]の着実な中産階級、とくにほとんど大部分地方的な背景から形作られていたことである。ボールドウィン自身、地方的な中産階級の実業家であった。このため、イギリスの一般民衆はボールドウィンを自分たちの代表と見做していたのであった。というのは、彼らもまた革新的な思想家によって影響されず、政治、経済、文学、芸術、生活様式といったあらゆる分野において新機軸を打ち出す人々に疑惑を感じていたからである。とくにボールドウィンの影響力は政界という狭い範囲を超えて拡大し、多くの庶民の態度に及んでいた。このことはボールドウィンが新時代のマスコミを巧みに利用したためだった。すなわち彼の言動は一般民衆の購読する新聞に出ており、またラジオからしばしば演説を行った。このようなマスメディアは、当時のイギリス人の心にスタンリー・ボールドウィンの動揺しない安心感を与える容貌および態度を印象付けるのに役立った」{{sfn|坂井秀夫|1974|p=91-92}}。 |
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また、{{仮リンク|ケネス・ベイカー|en|Kenneth_Baker,_Baron_Baker_of_Dorking}}は「ボールドウィンの本質は懐柔、譲歩、コンセンサスを得る政治能力にあって、(平時の)紛争解決にその手腕を揮う時に最も冴えわたっていた」と評している<ref>{{Cite book|title=『風刺画で読み解くイギリス宰相列伝―ウォルポールからメージャーまで』|date=2018年5月31日|year=2018|publisher=[[ミネルヴァ書房]]|page=171|isbn=978-4-623-07946-9|author={{enlink|Kenneth_Baker,_Baron_Baker_of_Dorking|Kenneth Baker|p=off|s=off}},|translator=[[松村昌家|松村 昌家]]}}</ref>。 |
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== 住居 == |
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[[ウスターシャー]]・{{仮リンク|アストリー (ウスターシャー)|label=アストリー|en|Astley, Worcestershire}}にある{{仮リンク|アストリー・ホール (ストアポート=オン=セバーン)|label=アストリー・ホール|en|Astley Hall (Stourport-on-Severn)}}を[[1902年]]に購入し、以降[[1947年]]に死去するまで邸宅とした<ref name="britishlistedbuildings"> Astley Hall on [http://www.britishlistedbuildings.co.uk/en-152254-astley-hall-astley-and-dunley-worcesters#.VazD8-lRHIU www.britishlistedbuildings.co.uk], 2019年6月13日参照</ref>。ボールドウィンの死後、この邸宅は売却されて学校となった<ref name="parksandgardens"> Astley Hall on [http://www.parksandgardens.org/places-and-people/site/174 www.parksandgardens.org], 2019年6月13日参照</ref>。 |
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== 栄典 == |
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=== 爵位 === |
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[[ファイル:Coat_of_Arms_of_Stanley_Baldwin,_1st_Earl_Baldwin_of_Bewdley,_KG,_PC,_PC_(Can),_JP,_FRS.png|サムネイル|220x220ピクセル|ボールドウィン個人の紋章。[[伯爵]]に叙されたこと、[[ガーター勲章]]を授けられたことが判る。]] |
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[[1937年]][[6月8日]]に以下の爵位を新規に叙される<ref name="CP EB"/>。 |
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*'''{{仮リンク|ビュードリー|en|Bewdley}}の初代[[ビュードリーのボールドウィン伯爵|ボールドウィン伯爵]]''' {{small|(1st Earl Baldwin of Bewdley)}} |
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*:([[勅許状]]による[[連合王国貴族]]爵位) |
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*'''[[シュロップシャー]]州における{{仮リンク|コーヴェデール|en|Corvedale}}の初代コーヴェデール子爵''' {{small|(1st Viscount Corvedale, of Corvedale in the County of Shropshire)}} |
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*:(勅許状による連合王国貴族爵位) |
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=== 勲章 === |
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*[[1937年]][[5月28日]]、[[ガーター勲章]]ナイト {{small|(Knight, Order of the Garter, KG)}}<ref name="CP EB"/> |
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=== 学長職 === |
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*1923年-1926年、[[エディンバラ大学]]{{仮リンク|エディンバラ大学学長|label=学長|en|Rector of the University of Edinburgh}}{{small|(Lord Rector of Edinburgh University)}}<ref name="CP EB"/> |
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*1928年-1931年、[[グラスゴー大学]]{{仮リンク|グラスゴー大学学長|label=学長|en|Rector of the University of Glasgow}}{{small|(Lord Rector of the University of Glasgow)}}<ref name="CP EB"/> |
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*1929年-1947年、[[セント・アンドルーズ大学 (スコットランド)|セント・アンドルーズ大学]]{{仮リンク|セント・アンドルーズ大学学長|label=学長|en|Chancellor of the University of St Andrews}}{{small|(Chancellor of St. Andrews University)}}<ref name="CP EB"/> |
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*1930年-1947年、[[ケンブリッジ大学]]{{仮リンク|ケンブリッジ大学学長|label=学長|en|List of Chancellors of the University of Cambridge}}{{small|(Chancellor of Cambridge University)}}<ref name="CP EB"/> |
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=== その他 === |
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*1920年、[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]]{{small|(Privy Counsellor (PC))}}<ref name="CP EB"/> |
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*1927年、[[枢密院 (カナダ)|枢密顧問官(カナダ)]]{{small|(Privy Counsellor (PC) [Canada])}}<ref name="CP EB"/> |
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*1927年11月3日、[[王立協会フェロー]]{{small|(Fellow, Royal Society (FRS))}}<ref name="RS">{{FRS|code=NA8113|title=Baldwin; Stanley (1867 - 1947); 1st Earl Baldwin of Bewdley|accessdate=5 June 2020}}</ref> |
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== 家族 == |
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[[ファイル:Lucy-ne-Ridsdale-Countess-Baldwin.jpg|サムネイル|220x220ピクセル|妻ルーシー・ボールドウィン]] |
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[[1892年]][[9月12日]]にエドワード・ルーカス・リズデール(Edward Lucas Ridsdale)の長女{{仮リンク|ルーシー・ボールドウィン|label=ルーシー・リズデール|en|Lucy Baldwin}}{{small|(1869頃-1945)}}と結婚。彼女との間に以下の6子を儲けた<ref name="CP EB"/>。 |
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*第1子(長女)'''ダイアナ・ルーシー・ボールドウィン''' {{small|(Diana Lucy Baldwin, 1895-1982) - リチャード・マンロー、ついで{{仮リンク|ジョージ・ケンプ=ウェルチ|en|George Kemp-Welch}}と結婚}} |
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*第2子(次女)'''レオノーラ・スタンリー・ボールドウィン''' {{small|(Leonora Stanley Baldwin, 1896-1989) - {{仮リンク|アーサー・ハワード (政治家)|label=アーサー・ハワード|en|Arthur Howard (politician)}}と結婚}} |
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*第3子(三女)'''パメラ・マーガレット・ボールドウィン''' {{small|(Pamela Margaret Baldwin, 1897-1976) - 第2代{{仮リンク|ハンティントン=ホワイトリー準男爵|label=準男爵|en|Huntington-Whiteley baronets}}サー・ハーバート・ハンティントン=ホワイトリーと結婚}} |
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*第4子(長男)'''{{仮リンク|オリヴァー・ボールドウィン (ビュードリーの第2代ボールドウィン伯爵)|label=オリヴァー・リズデール・ボールドウィン|en|Oliver Baldwin, 2nd Earl Baldwin of Bewdley}}''' {{small|(Oliver Ridsdale Baldwin, 1899-1958) - ビュードリーの第2代ボールドウィン伯爵位を継承}} |
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*第5子(四女)'''エスター・ルイーザ・ボールドウィン''' {{small|(Esther Louisa Baldwin, 1902-1981) - サラ・ジェイムズと結婚}} |
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*第6子(次男)'''{{仮リンク|アーサー・ボールドウィン (ビュードリーの第3代ボールドウィン伯爵)|label=アーサー・ウィンダム・ボールドウィン|en|Arthur Baldwin, 3rd Earl Baldwin of Bewdley}}''' {{small|(Arthur Windham Baldwin, 1904-1976) - ビュードリーの第3代ボールドウィン伯爵位を継承}} |
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== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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<!-- === 注釈 === |
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{{Notelist}} --> |
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=== 出典 === |
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{{reflist|20em}} |
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==参考文献== |
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*{{Cite book|和書|first=ピーター|last=クラーク|translator=[[市橋秀夫 (社会学者)|市橋秀夫]], [[椿建也]], [[長谷川淳一]]|year=2004|title=イギリス現代史 1900-2000|publisher=[[名古屋大学出版会]]|isbn=978-4815804916|ref=harv}} |
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*{{Cite book|和書|author=坂井秀夫|year=1974|title=近代イギリス政治外交史3 -スタンリ・ボールドウィンを中心として-|publisher=創文社|asin=B000J9IXRE|ref=harv}} |
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*{{Cite book|和書|author1=佐々木雄太|authorlink1=佐々木雄太|author2=木畑洋一|authorlink2=木畑洋一|year=2005|title=イギリス外交史|publisher=[[有斐閣]]|isbn=978-4641122536|ref=harv}} |
|||
*{{Cite book|和書|year=2001|title=世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000|editor=秦郁彦|editor-link=秦郁彦|publisher=[[東京大学出版会]]|isbn=978-4130301220|ref=harv}} |
|||
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|G.C. ピーデン|en|G. C. Peden}}|translator=[[千葉頼夫]]、[[美馬孝人]]|year=1990|title=イギリス経済社会政策史 ロイドジョージからサッチャーまで|publisher=[[梓出版社]]|isbn=978-4900071643|ref={{Sfnref|ピーデン|1990}} }} |
|||
*{{Cite book|和書|first=ロバート|last=ブレイク|translator=[[早川崇]]|year=1979|title=英国保守党史 ピールからチャーチルまで|publisher=[[労働法令協会]]|asin=B000J73JSE|ref=harv}} |
|||
*{{Cite book|和書|first=ロバート|last=マッケンジー|translator=[[早川崇]]、[[三沢潤生]]|year=1965|title=英国の政党〈上巻〉 保守党・労働党内の権力配置|publisher=有斐閣|asin=B000JAD4LI|ref=harv}} |
|||
*{{Cite book|和書|author1=村岡健次|authorlink1=村岡健次_(歴史学者)|author2=木畑洋一|authorlink2=木畑洋一|year=1991|title=イギリス史〈3〉近現代|series=世界歴史大系|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634460300|ref=harv}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=山上正太郎|authorlink=山上正太郎|year=1960|title=ウィンストン・チャーチル 二つの世界戦争|publisher=[[誠文堂新光社]]|asin=B000JAP0JM|ref={{Sfnref|山上|1960}} }} |
|||
*{{Cite book|和書 |title=ウィンザー公とともに去りぬ |year=1956 |publisher=[[新潮社]] |page= |edition=初版 |location=[[東京都]][[新宿区]] |ref=harv |first=Iles |last=Brody |ASIN=B000JB0DN4 |translator=[[向後英一|向後 英一]]}} |
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== 外部リンク == |
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{{Commons category|Stanley Baldwin}} |
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*{{hansard-contribs | mr-stanley-baldwin | Stanley Baldwin }} |
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*[https://web.archive.org/web/20111216134952/http://www.number10.gov.uk/history-and-tour/stanley-baldwin-2/ Stanley Baldwin] 英国首相官邸 |
|||
*[http://sounds.bl.uk/View.aspx?item=024M-1CL0047621XX-0100V0.xml Recording of Baldwin's youth speech at the Empire Rally of Youth (1937)] – a British Library sound recording ボールドウィンの肉声 |
|||
* {{NPG name|name=Stanley Baldwin, 1st Earl Baldwin}} |
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* {{Internet Archive author |sname=Stanley Baldwin |sopt=t}} |
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* {{Librivox author |id=8944}} |
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* {{PM20|FID=pe/000939}} |
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{{s-start}} |
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{{s-off}} |
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{{s-bef|before={{仮リンク|ハードマン・レヴァー|label=サー・ハードマン・レヴァー|en|Hardman Lever}}}} |
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{{s-ttl|title={{仮リンク|財務担当政務次官|en|Financial Secretary to the Treasury}}|years=1917年 – 1921年|alongside={{仮リンク|ハードマン・レヴァー|label=サー・ハードマン・レヴァー|en|Hardman Lever}}}} |
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{{s-aft|after={{仮リンク|ヒルトン・ヤング (初代ケンネット男爵)|label=ヒルトン・ヤング|en|Hilton Young, 1st Baron Kennet}}}} |
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{{s-bef|rows=2|before={{仮リンク|ロバート・ホーン (スラマナンの初代ホーン子爵)|label=サー・ロバート・ホーン|en|Robert Horne, 1st Viscount Horne of Slamannan}}}} |
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{{s-ttl|title=[[商務庁長官]]|years=1921年 – 1922年}} |
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{{s-aft|after={{仮リンク|フィリップ・カンリフ=リスター (初代スウィントン伯爵)|label=サー・フィリップ・ロイド=グレーム|en|Philip Cunliffe-Lister, 1st Earl of Swinton}}}} |
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ビュードリーの初代ボールドウィン伯爵 スタンリー・ボールドウィン Stanley Baldwin 1st Earl Baldwin of Bewdley | |
---|---|
1920年のボールドウィン | |
生年月日 | 1867年8月3日 |
出生地 | イギリス・イングランド・ウスターシャー、ビュードレー |
没年月日 | 1947年12月14日(80歳没) |
死没地 | イギリス・イングランド・ウスターシャー、ストアポート=オン=セヴァーン |
出身校 | ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ |
所属政党 | 保守党 |
称号 | ガーター勲章 (KG)、枢密顧問官 (PC)、治安判事 (JP)、王立協会フェロー (FRS)、ビュードリーの初代ボールドウィン伯爵 |
配偶者 | ルーシー・ボールドウィン |
サイン | |
在任期間 |
(1)1923年5月22日 - 1924年1月22日 (2)1924年11月4日 - 1929年6月4日 (3)1935年6月7日 - 1937年5月28日[1] |
国王 |
(1)ジョージ5世 (2)ジョージ5世 (3)ジョージ5世、エドワード8世、ジョージ6世 |
内閣 | ロイド・ジョージ挙国一致内閣 |
在任期間 | 1921年4月1日 - 1922年10月19日[2] |
内閣 | ボナー・ロー内閣、第1次ボールドウィン内閣 |
在任期間 | 1922年10月24日 - 1923年8月27日[3] |
内閣 | マクドナルド挙国一致内閣 |
在任期間 | 1931年8月24日 - 1935年6月7日 |
選挙区 | ビュードリー選挙区 |
在任期間 | 1908年2月29日 - 1937年6月1日[4] |
その他の職歴 | |
貴族院議員 (1937年6月8日 - 1947年12月4日[4]) |
ビュードリーの初代ボールドウィン伯爵スタンリー・ボールドウィン(英: Stanley Baldwin, 1st Earl Baldwin of Bewdley, KG, PC, PC, JP, FRS、1867年8月3日 - 1947年12月14日)は、イギリスの政治家、実業家、貴族。
保守党に所属し、挙国一致内閣や保守党政権下で大臣職を歴任した後、1923年にボナー・ローの退任で代わって保守党党首となり、3度にわたって首相を務めた(在任期間 第1次内閣:1923年 - 1924年、第2次内閣:1924年 - 1929年、第3次内閣:1935年 - 1937年)。第1次・第2次内閣は保守党単独政権、第3次内閣は挙国一致内閣だった。第3次内閣の前身となる1931年から1935年にかけてのマクドナルド挙国一致内閣においても重要閣僚だった。1937年に辞職し、ネヴィル・チェンバレンが代わって首相・保守党党首となった。首相退任直後にビュードリーのボールドウィン伯爵に叙され、連合王国貴族に列した。
概要
[編集]1867年に中規模の鋳鉄業者の息子として生まれた。ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで学んだ後、 父の会社に入社(→生い立ち)。
1908年2月に父が死去し、父が議席を持っていたビュードリー選挙区から保守党庶民院議員となる(→政界入り)。1917年にロイド・ジョージ挙国一致内閣で財務担当政務次官、1921年から商務庁長官に就任。しかし大連立解消に主導的役割を果たした(→ロイド・ジョージ挙国一致内閣下)。
1922年にボナー・ローを首相とする保守党単独政権が誕生すると財務大臣に就任し、アメリカと一次大戦の戦債についての交渉にあたった(→ボナー・ロー内閣財務大臣)。
1923年5月にボナー・ローが病気退任した後、代わって首相に就任した。帝国特恵関税制度の導入を目指し、1923年12月にそれを争点とした総選挙を行ったが、保護貿易への反発から保守党の議席を大きく減らし、1924年1月の新議会で不信任案が決議されて辞職に追い込まれた(→第1次ボールドウィン内閣)。
1924年1月に成立した初の労働党政権の第1次マクドナルド内閣に対してはソ連との国交やキャンベル事件をめぐって批判を強め、10月に総選挙に追い込んだ。選挙戦中に発覚したジノヴィエフ書簡事件を利用して労働党とソ連の関係を批判し、総選挙に大勝した(→第1次マクドナルド内閣に対する野党期)。
1924年11月に第2次内閣を組閣。1925年4月に財相チャーチルの主導で金本位制復帰を行ったが、石炭業界の海外販路への大打撃となり、給料削減により1926年のゼネストを誘発した。強硬姿勢をもってゼネストの鎮圧にあたり、労働組合会議を全面降伏に追い込んだ。外交面では外相A.チェンバレンの主導で1925年にロカルノ条約、1928年に不戦条約を締結して緊張緩和に努めた。1926年10月から11月にかけては帝国会議を主催し、バルフォア報告書を発表した。しかし1929年5月の総選挙で労働党に敗れたため、下野を余儀なくされた(→第2次ボールドウィン内閣)。
1929年6月に成立した労働党政権の第2次マクドナルド内閣は、同年10月末の世界大恐慌により失業手当カットを巡って閣内・党内分裂。緊縮政策を取るマクドナルドは労働党主流派と袂を分かち、ボールドウィンは国王ジョージ5世の仲介もあってマクドナルドに協力することを決意した(→第2次マクドナルド内閣に対する野党期)。1931年8月に成立したマクドナルド挙国一致内閣に枢密院議長として入閣。マクドナルドの下で1931年10月の総選挙に臨み、保守党を中心とする挙国政府派が大勝した。1932年7月から8月にかけての大英帝国経済会議にイギリス政府代表として出席し、同年2月に英国議会で可決されていた帝国特恵関税制度を自治領諸国に認めさせた(→マクドナルド挙国一致内閣枢密院議長)。
1935年6月7日にマクドナルドが病気退任し、代わって挙国一致内閣の首相に就任した[5]。11月に総選挙に及び、議席を減らすも多数派を維持した。ナチス政権下のドイツに対しては宥和政策を取り、ドイツ軍のラインラント進駐やスペイン内戦に対する軍事介入を回避した。1936年12月にはウォリス・シンプソンとの恋愛問題をめぐって国王エドワード8世に退位を迫った。1937年5月にネヴィル・チェンバレンに後事を託して首相を退任した(→第3次ボールドウィン内閣)。
首相退任直後の1937年6月に連合王国貴族爵位ビュードリーのボールドウィン伯爵に叙され、貴族院議員となる。1947年に死去した(→晩年)。
経歴
[編集]生い立ち
[編集]1867年8月3日、イングランド・ウスターシャー・ビュードリーで鋳鉄業者アルフレッド・ボールドウィンとその妻ルイーザ・ボールドウィン(旧姓マクドナルド)(Louisa Macdonald)の間の一人息子として生まれた[6][7]。
後にボールドウィンは「私はイングランドの片田舎に取り残された鉄工場の最後の一つがあるウスターシャーの中心で成長した」と表現している。彼はディズレーリと同じく産業革命に取り残された田園風景や生活を愛した[8]。
ハーロー校とケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジで学ぶ[9][10]。
1888年9月、21歳で父が経営する「E.P&W.ボールドウィン会社」に入社。父の企業は大企業というわけではなく、世紀初めの頃には150人の従業員しかなく、1914年にようやく500人に増えた[11]。この会社は古臭い温情主義で経営されており、経営者と労働者の対話の時間がとられ、ボールドウィンも労働者をファーストネームで覚えたという。彼は保守党党首になった後もこの方式を保守党議員団に対して行い、平議員たちに親しげに話したという[12]。
政界入り
[編集]1900年にはウスターシャー州議会議員となる[13]。地方議員としては平凡だったという[14]。
1906年1月の総選挙でキンダーミンスター選挙区から保守党候補として庶民院議員に立候補するも落選した[13]。1908年2月に父が死去すると父が議席をもっていたビュードリー選挙区から立候補した。自由党が候補を立てなかったため、無投票で当選して保守党所属の庶民院議員となった[15]。
政界に入って以来、自由党政権が続いており、ボールドウィンは野党議員として過ごしたが、第一次世界大戦までの6年間に5回しか議会で演説していないような目立たない陣笠議員だった[16]。
一次大戦中の1915年5月にアスキス内閣は全政党が大連立する挙国一致内閣となった。ボールドウィンは当初から大連立に否定的で、1916年3月にはアスキス内閣に代わって保守党党首ボナー・ローを首班とする保守党内閣の創設を企てたが、失敗に終わっている[17]。
ロイド・ジョージ挙国一致内閣下(1916年-1922年)
[編集]1917年には財務大臣だったボナー・ローの推挙で自由党のロイド・ジョージを首相とする挙国一致内閣の財務担当政務次官に就任[18]。1921年まで務めた[7]。この人事はボールドウィンの亡父に対するボナー・ローの友情からだったという[19]。
ついで1921年4月から商務庁長官に就任した[8]。商務庁長官としてのボールドウィンは実業界から人気があり、「彼らはボールドウィンを自分たちの仲間であるかのように思っていた」という[19]。またロイド・ジョージによればボールドウィンは閣議でめったに発言をしなかったという[19]。
しかし1921年に入った頃には大連立内閣の首相ロイド・ジョージへの保守党内の不満は相当程度に高まっていた。ボールドウィンもロイド・ジョージのことを「一つの政党を略奪し、他の政党を騙す邪悪な仲介者」「自分と閣僚の間に主人と召使という封建的関係を設定する独裁者」「このような人物は小人物であり、全ての大問題を自分で解決し、自分の名前を歴史に留めようとする人なのである。しかし議会の構造はそのような野心に都合が悪い。万事は政党によって処理されなければならず、道具として政党を利用する個人によってなされてはならない」と論じ、大連立政権がいつまでも続けば議会政治が危機に陥ると考えるようになった[20]。
また彼はロイド・ジョージが総選挙に打って出るのを恐れていた。ロイド・ジョージが自由党と保守党内の連立維持派を合同させて新党を作る恐れがあったためである[21]。
1922年10月19日、カールトン・クラブで保守党下院議員274名が出席する保守党議員総会が開かれた。ボールドウィンは「ロイド・ジョージはダイナミックな力を有している。私の考えではこの事実から困難な事態が起きている。ダイナミックな力は恐るべきものである。これは諸君を破壊するかもしれない。またダイナミックな力は必ずしも正しくはない」としたうえで自由党が破壊されたのはロイド・ジョージのダイナミックの力と比類のないパーソナリティに由来しているとし、「私は早晩これと同じ事態が我が党にも生じるであろうと確信している。」「過去4年間保守党の一派が絶望を感じて連立内閣から離脱したことを私はすでに見ているのである。私は現在の自由党と保守党の連携が続くなら、またもしこの大会が、それを継続させることに同意するなら、諸君はより多くの人々が離れていくのを見ることになるだろう。私はこのような過程が必然的に進行し、やがては伝統ある保守党が粉砕され、破壊されてしまうであろうと信じる」と演説し、大連立継続に反対を表明した[22]。
ボールドウィンはこの演説で将来の保守党を担う人物であると印象付けることに成功したという[22]。結局この大会で「本保守党議員総会は保守党が選挙に際して独自の指導者と綱領を有する独自の政党として戦う意思を有するものであることを証明する」という決議が賛成185票、反対88票で可決されたことでロイド・ジョージは総辞職し、ボナー・ローが保守党単独政権を組閣することになった[23]。
ボナー・ロー内閣財務大臣(1922年-1923年)
[編集]1923年1月31日にはアメリカ合衆国と交渉をまとめ、対米戦債9億8000万ポンド、平均利子率3.3%で62年間にわたって支払うことを取り決めた[24]。
1923年5月にボナー・ローの病気が悪化し、同月20日に首相を退任。国王ジョージ5世は後任の首相を選ばねばならなくなった。候補は二人考えられた。一人はボールドウィン、もう一人は外務大臣の初代カーゾン侯爵ジョージ・カーゾンである。家柄や政治経験の面ではカーゾン侯の方が圧倒的に上だが、カーゾン侯は庶民院議員ではなく貴族院議員であり、しかも反民主的な貴族主義者で知られていた[25]。一方平民出身の庶民院議員ボールドウィンは庶民院保守党陣笠議員の支持を集めており、シティの金融資本家や貿易業界からも信頼されていた[26]。
ボールドウィンの支持者である庶民院議員ジョン・デイヴィッドソンによって書かれた「政府重職に占める貴族の数が多すぎて庶民院で反発が起こっている」「カーゾンを支持する保守党庶民院議員は50人もいないであろう」という内容の手紙が国王個人秘書初代スタムフォーダム男爵アーサー・ビッグを通じて国王ジョージ5世に手交された(ただしスタムフォーダム卿自身はカーゾン侯の支持者でカーゾン侯に組閣の大命を与えるべきことを国王に助言している)[26][27]。また国王から助言を求められたバルフォアも「首相職は庶民院に残しておくべき」と奉答した[28][29]。
そのため結局国王はボールドウィンに組閣の大命を与えることを決意した。
第1次ボールドウィン内閣(1923年-1924年)
[編集]1923年5月22日に国王に召集されて組閣の大命を受けた[30]。
1923年は戦間期を通じて就職できない労働人口10%(「手におえない100万人」と呼ばれた)が大量に発生した時期だった。ボールドウィンは失業者救済の核心部分は英国産業の保護にあると信じた[31]。もともとボールドウィンは1903年以来ジョゼフ・チェンバレンの帝国特恵関税制度(保護貿易的な関税改革論)の支持者だった[32]。
ボールドウィンは11月2日にマンチェスターの自由貿易ホールで次の6条件による帝国特恵関税制度を提唱した。「(1)失業の増大の原因となっている外国製品の輸入を特に考慮して外国製品に輸入関税を課すこと、(2)自治領に特恵関税を与えること、(3)輸入小麦または輸入食肉には関税を課さないこと、(4)農業振興のために最善の方法を検討すること、(5)老齢、疾病、失業の保険を充実すること、(6)『我が版図、我が帝国』を発展させること」である[33]。
ボールドウィンは当初これのために解散総選挙する意思はなかったが、ロイド・ジョージが保護貿易に転向し、かつての大連立支持者オースティン・チェンバレンらと「中央党」を形成するという噂が流れた。ロイド・ジョージ自身は保護貿易主義者に転向したという噂を否定したが、ボールドウィンはその情報に確信を持っており、ロイド・ジョージを倒さねばオースティン・チェンバレンらとともに保守党を把握すると懸念し、唯一の方法は関税問題を前面に押し出して総選挙することだと考えた[34]。
11月12日には国王に拝謁して解散総選挙を求め、11月13日には庶民院で解散を行う旨を声明した[34]。
帝国特恵関税制度を選挙の争点としつつ、庶民の不安を高めないよう食料には関税を課さないことを強調して訴えたが、その訴えは有権者から広く信じられなかった。自由党と労働党は保護貿易によって食糧費が高くなるという恐怖感を煽り、結局「高いパンか安いパンか」が争点の総選挙となった[35][36]。
12月6日に選挙結果が判明し、保守党は前回議席から87議席失う257議席となり、一方野党の労働党は191議席、自由党は151議席をそれぞれ獲得した[35]。保守党政府は過半数を失う形となったが、自由党の出方が不透明だったのですぐには総辞職せず、新議会を招集した[37]。
しかし1924年1月21日の庶民院において労働党議員ジョン・ロバート・クラインス提出の政府不信任決議案が自由党の賛成も得て72票差で可決された。そのため1月22日にボールドウィンは辞職し、ラムゼイ・マクドナルドを首相とする史上初めての労働党政権が発足することとなった[35]。
第1次マクドナルド内閣に対する野党期(1924年)
[編集]1924年1月にマクドナルドに政権を譲った後、ボールドウィンは野党党首になった。ボールドウィンは労働党の漸進的な社会改良主義と共産主義は分けて考えており、労働党を全否定はしていなかった。特に首相マクドナルドの外交観はボールドウィンとそれほど差はなかったため、ボールドウィンはマクドナルドに信頼感を持っていた。そのことについて国王側近の初代スタンフォーダム男爵アーサー・ビッゲは、「ボールドウィンは首相マクドナルドを好み、信頼している。彼はしばしば首相と興味のある話をしていた。彼は首相が共産主義に対して冷静に断固として反対するであろうと考えていた」と評している[38]。
ところが、マクドナルド労働党政権は、1924年2月にソ連と外交関係を樹立し、4月14日から対ソ一般条約締結を目的とした交渉をロンドンで開始した。8月5日まで続いたこの交渉自体はイギリス人財産賠償問題を巡って決裂したのだが、その直後に労働党左派議員が非公式に調停者になってイギリスとソ連の仲立ちをして8月8日には対ソ一般条約が締結された[38]。
保守党や自由党はこの条約に強く反発した。労働党左派議員が政府に圧力を加えて無理やり調印させたこと、さらにこの条約によりイギリス金融市場でソ連の募集する債権を政府が保証しなければならなくなるためだった。ボールドウィンも労働党左派議員が外交問題に介入したことに憤った[39]。
さらにグレートブリテン共産党のジョン・ロス・キャンベルが『ワーカーズ・ウィークリー』で兵士に労働者を撃たないよう呼びかけたが、法務総裁パトリック・ヘイスティングスはこれが1797年反乱扇動罪に該当するとみなし、キャンベルを起訴したが、労働党左派議員たちがこの起訴に反発し、ヘイスティングスが起訴を取り消すというキャンベル事件も発生した。この事件をめぐってもボールドウィンは労働党左派議員が司法に圧力をかけて不当に起訴を取り消させたと考え、労働党左派を強く批判した[39]。
ボールドウィンは10月2日のニューキャッスルの演説において「労働党は過激主義者によって服従させられている」と断じ、ロシア条約を批判した[40]。
10月8日の議会では自由党のアスキスから「自由党はロシア条約に反対し、キャンベル起訴問題に関する特別調査委員会の設置を要求する」との動議が提出され、保守党もこれに賛成したことで可決された。これに対してマクドナルドは解散総選挙に打って出た[40]。
総選挙でもボールドウィンは労働党が過激主義者に支配されていること、失業問題に失敗したことを訴えた。この総選挙では保護関税をスローガンにするのは避けた[40]。選挙戦中の10月24日にジノヴィエフ書簡事件が発生した。これはコミンテルン議長グリゴリー・ジノヴィエフが9月15日付けでグレートブリテン共産党に送ったとされる「資本家とブルジョワの妨害のせいで未だ条約批准が行われていないので労働者は批准獲得闘争を起こし、イギリスの現体制を崩壊させ、軍隊を解体させるべきである」旨の書簡であり、『タイムズ』紙がこの書簡とそれに対する英国外務省の抗議文を掲載したことで問題化した事件である[41]。
この事件により労働党はイギリス労働者とソ連を結合させ、それによってイギリスで革命を起こそうとしている政党だという印象が一般に広まった。ボールドウィンと保守党も労働党とソ連の繋がりを徹底的に批判し、保守党の「安定」、労働党の「赤」のイメージの増幅に努めた[42]。
その結果、10月29日の選挙結果は、保守党412議席、労働党151議席、自由党40議席という結果に終わった。この結果、再びボールドウィン保守党内閣に政権交代されることとなった。
ボールドウィンは「近い将来自由党は消滅し、左右両党の二大政党の時代(「保守党」対「労働党」の時代)になると思われるが、労働党から共産主義者は排除されなければならない」と述べた[43]。
第2次ボールドウィン内閣(1924年-1929年)
[編集]1924年11月4日にボールドウィンは国王ジョージ5世に召集され、再度の組閣の大命を受けた。第2次ボールドウィン内閣を組閣することになった[44]。
1926年のゼネストの鎮圧
[編集]第一次世界大戦後、イギリス石炭業は石炭輸出市場の喪失で不況に陥った。1923年1月のフランス軍・ベルギー軍のルール占領でドイツの石炭輸出が激減したことで一時的に好況を迎えたものの、同年11月に両軍が撤退すると再びイギリスの石炭輸出は激減。坑夫の失業者が増加した(1923年のその失業率は2.9%だったが、1924年6月には17.5%に急増している)[45]。
1925年4月には財務大臣ウィンストン・チャーチルの主導で戦前レートによる金本位制復帰が行われたが、これはポンドの過大評価であり、これにより石炭輸出価格が沸騰し、石炭の海外販路はさらに大打撃を受けた。その結果、坑夫の失業率は急速に増大した。この苦難に炭坑資本家は経営の合理化によって乗り切ろうとし、1925年6月30日と7月1日に坑夫連盟に対して従来の最低賃金と7時間労働制を破棄するとともに、13%から48%までの幅のある賃金切り下げを行うことを通告した。これに坑夫連盟は反発し、炭坑資本家への対決姿勢を示した。賃金低下が他産業にも波及することを恐れた他産業労働者にも反発が広がり、労働組合会議も鉱夫連盟と連帯することを表明し、7月31日深夜以降石炭輸送を全国的にストップすることを決定した。これによりゼネストの危機が生じた[45][46]。
ボールドウィンはこの威嚇を恐れ、自由党の政治家ハーバート・サミュエルを石炭業に関する王立委員会を設置することを発表した。その審議の間は、坑夫の賃金と労働時間は据え置き、それによって生じる石炭業の赤字は国が補助金で補填することを約した。坑夫連盟もこの政府の提案を受諾したので、ひとまずゼネストの危機は回避された。労働運動側はこれを勝利とみなし、7月31日を「赤い金曜日」と呼んだ[47][48]。
しかしボールドウィンは労働組合勢力の言い分を受け入れるつもりはなく、この一時沈静化の間を利用して反撃の準備を行った。近い将来予想される労働組合との全面衝突に備え、資源の備蓄、スト破り要因の配置、都市近くに軍隊を駐屯などを着実に進めた[49]。
そして1926年3月に王立委員会は石炭業国有化を拒否し、補助金は打ち切り、賃金切り下げ方針の報告書を発表した。炭坑労働者が反発し、再び全面対決の姿勢を示した。政府と妥協を模索していた右派を含む労働組合会議指導部も5月1日からのゼネストを宣言した。それでも指導部右派は交渉による望みをかけていたが、5月3日にボールドウィン政府は『デイリー・メール』紙の植字工が政府のゼネスト批判の文を掲載しなかったことを理由として交渉を拒否した。5月4日からゼネストが開始され、ゼネスト参加者は280万人に達し、英国の経済活動はあらゆる場所で麻痺した(1926年イギリス・ゼネラルストライキ)[49]。
ボールドウィンと資本家側は労働組合会議の右派や穏健派の切り崩しを図り、サミュエルは交渉の覚書を組合側に提出した。全国賃金局の設立や補助金延長を謳っていたが、賃金切り下げ方針が盛り込まれており、炭坑労働者は反発。しかし労働組合会議指導部は交渉に入ることを決断し、5月12日にゼネスト中止を指令した。炭坑労働者はその後も孤立して闘争を続けたが、結局は賃金切り下げと労働時間延長を認めることになった[49]。
1927年7月には同情ストの非合法化や政党への寄金規制を定めた労働争議及び労働組合法を制定して労働組合の弱体化を図った。これ以降英国社会は労使協調主義による生産拡大追及が顕著となっていく[50]。
外交
[編集]第一次世界大戦後のイギリス政府の基本的な外交方針は敗戦国ドイツのこれ以上の弱体化を防ぎ、ドイツに強硬な姿勢を取り続けるフランスの動きを監視することでヨーロッパの勢力均衡を回復させることにあった。これは保守党政権でも第1次労働党政権でも維持された外交観であり、第2次ボールドウィン内閣においても維持された[51]。
その帰結が1925年12月に締結されたロカルノ条約だった[51]。ロカルノ条約は外相オースティン・チェンバレンの主導で、ドイツ・フランス・イタリア・ベルギーとの間に締結され、西ヨーロッパの国境維持、相互不可侵、ラインラント現状維持を内容としている[52]。さらにボールドウィン内閣は1926年にドイツの国際連盟加盟と常任理事国就任も支持した[53]。これによりヨーロッパの勢力均衡を回復させることに成功したが、これをきっかけに1920年代後半にはイギリスのヨーロッパへの関心は薄れていった[51]。
他方ソ連と労働党政権の条約を批判して政権に付いた第2次ボールドウィン内閣はソ連との関係は悪化せざるを得ず、1927年5月に国交断絶に至っている[54]。しかし1928年8月にはロカルノ条約締結国の他、アメリカや日本、ソ連なども含めた15か国との間にケロッグ=ブリアン条約(不戦条約)を締結した[55]。
帝国政策
[編集]1920年代後半のイギリス外交はヨーロッパへの関心を失っていたが、帝国政策は熱心だった[51]。
第一次世界大戦後、イギリスは国際連盟からの委任統治領という形で旧敵国の領地を獲得した結果、大英帝国の版図は過去最大となっていた。しかし一次大戦がきっかけとなり、帝国内諸地域の自立の動きやナショナリズムの台頭が起こり、これにいかに対処し、帝国における自国の支配権を維持するかが労働党政権を含めて歴代イギリス政府の課題となっていた[51]。
1926年10月から11月にかけて帝国会議を開催し、「(自治領は)大英帝国の中における独立したコミュニティであって、平等な地位を有し、内外政いかなる面においても一国が他国に従属する関係にない」と規定するバルフォア報告書を発表。これは1931年のウェストミンスター憲章によって確認されるイギリス連邦体制の原型となる物だった。自治領(特にカナダ、南アフリカ連邦、アイルランド自由国)の独立機運をなだめつつ、「王冠への忠誠」のもとに自治領諸国を結び付け、英国の「大国」の地位を保障する大英帝国を維持しようという意図があった[56]。
1929年の総選挙に敗北
[編集]ボールドウィン内閣は1928年7月に男女平等選挙権を認める第五次選挙法改正を行ったが、これによって新たに選挙権を得た人々の登録が行われるまでは総選挙はできないとして解散総選挙を避けていた。しかし結局1929年5月30日には総選挙が行われることになった[57]。
選挙戦でボールドウィンは「安全第一」(Safety First)のスローガンを採用した。このスローガンには途方もない実験をしようとしている労働党よりも安全な保守党に任せるべきという意味が込められていた[58]。特に選挙戦の前半、ボールドウィンは労働党攻撃を中心に行い、3月27日のマンチェスターでの演説は、労働党の国有化方針を「国有化は低賃金、生活水準の低下、失業の増大を招く」「企業精神を殺す」「イギリスの官吏は世界一優秀であるが、彼らの訓練や立場では、企業を管理しえない」と論じて批判した[57]。しかし労働党攻撃宣伝があまり奏功していないと見ると帝国維持をスローガンに切り替え、国民感情に訴えかけることを目指した。ボールドウィンは5月24日のハイド・パークでの演説で「自治領国民は、それら自身の政府によって統治されている。我らは自治領と平等な立場で自由な関係を維持しているが、我らは王への共通の忠誠で統一されている。この方式での統一が我らの力となっている。それは奉仕の紐帯である。我らは物質的繁栄のみならず、全世界の平和促進、交通の発展のために団結して協力しているのである」と論じた[59]。
一方労働党はボールドウィン内閣が対ソ外交関係を断絶させたせいでソ連という原料供給地、商品市場が失われ、その結果失業が増大していると論じ、1927年の労働争議及び労働組合法が労働組合のゼネスト権を奪ったと批判した[60]。
全体として保守党の争点が曖昧だったのに対し、労働党の争点は分かりやすく、結果5月30日の選挙は、保守党260議席、労働党287議席、自由党59議席という結果に終わった[60]。この敗北で再びボールドウィン率いる保守党は下野することになり、マクドナルド労働党政権が発足した。
第2次マクドナルド内閣に対する野党期(1929年-1931年)
[編集]1929年6月4日に労働党政権の第2次マクドナルド内閣が発足したが、同年10月末にはアメリカ・ウォール街の株式暴落に端を発する世界恐慌が発生。イギリスでも大量の失業者が発生した。マクドナルド内閣は失業者救済のために公共事業拡大策を打ち出したが、野党党首ボールドウィンはそれに反対し、失業対策は保護貿易しかないと主張。この主張はやがて自由党内の保護貿易支持派(特にジョン・サイモン)にも支持を広げていった[61]。
労働党政府が恐慌に有効な手を打ち出せない中、1931年5月にはオーストリアのクレディト・アンシュタルトが破産[62]。これをきっかけに金融恐慌がイギリスを襲い、1931年半ばから金と外国為替の外国への急激な引き揚げが発生した[63]。アメリカやフランスからの金融的援助は、緊縮の実施を条件とされたため、マクドナルド政府は緊縮政策に傾いていかざるを得なくなり、失業手当のカットが行われた。しかし失業が深刻化する中での失業手当カットは労働党を支える労働組合からの激しい反発を招き、労働党内は緊縮派のマクドナルド派と反緊縮派のアーサー・ヘンダーソン派に分裂した[63]。
さらに1930年末から1931年にかけて補欠選挙が相次いだが、いずれの選挙でも保守党が票を急増させていた。そのためマクドナルド首相は労働党単独政権を続ける自信をすっかり喪失しており、ヘンダーソンら労働党主流派は切り捨てて保守党と連携する必要があるとの思いを強めた[61]。
下野以来ボールドウィンが目指していたのは大連立ではなく、保守党による政権だった。彼にはかつてロイド・ジョージ挙国一致内閣を潰した経緯もあったので再度の挙国一致内閣は避けたいという思いも強かった。しかし挙国一致内閣に前向きなネヴィル・チェンバレンに説得され翻意した[64]。8月23日に国王ジョージ5世に引見され「マクドナルドの下での挙国一致内閣に参加し、国に仕える覚悟はあるか」との下問を受けたたボールドウィンは「現在の危機にあたって国に奉仕するためにどのようなことでも行う用意があります」と奉答している[65]。
8月22日と23日の閣議は完全に分裂し、マクドナルドは内閣の統一が保持できないとして8月24日に総辞職[66]。同日、宮廷でボールドウィンとマクドナルドとサミュエル(自由党党首)による三党会談がもたれた。国王の仲介によりボールドウィンとサミュエルはマクドナルドが組織する挙国一致内閣に参加することを了承した[67]。この際にボールドウィンは首相の地位を要求せず、閣僚についても10人中4人を保守党とするだけで了解した[68]。
労働党内ではマクドナルドら挙国派がヘンダーソンらと袂を分かって挙国一致内閣を組織し(労働党は大連立反対派が主流であり、マクドナルドらは事実上除名された形であった)、挙国派労働党と保守党と自由党による大連立政権が誕生することになった。
マクドナルド挙国一致内閣枢密院議長(1931年-1935年)
[編集]1931年8月24日にマクドナルド挙国一致内閣が組閣された。ボールドウィンは同内閣に枢密院議長として入閣した[69]。ボールドウィンが首相ではなかったとはいえ、挙国一致内閣の実質的な主導権は保守党が握っていた[68]。挙国一致内閣は、ただちに大幅な緊縮財政と金流出を防ぐための金本位停止を庶民院で可決させている[69]。1932年から1933年には王璽尚書も兼務した[7]。
1931年の総選挙
[編集]9月28日の閣議で保守党閣僚は関税改革を争点とした総選挙を要求。しかし労働党・自由党出身閣僚はこれに反対した。ボールドウィンは各政党は争点の上で自由行動をとってもよいという妥協案を考えだし、翌日の閣議でチェンバレンが「関税改革は選挙後の新内閣によって考慮されるという条件で選挙では自由行動をとる」という妥協案で具体化。各政党間の折衝が行われたのち、10月5日に各党自由に選挙綱領を発表することが決定された[70]。
マクドナルド挙国一致内閣のもとで総選挙に臨むことになったボールドウィンは、これまでのような労働党攻撃よりも「健全な、明確な、名誉ある財政」「安全第一」といった保守党の安定性を売りにするスローガンを掲げた。10月20日のリーズでの演説では「結局、基本的争点は何であるか。それは社会主義でもないし、個人主義でもない。また自由貿易でも保護貿易でもない。それは次のようなところにある。諸君の財産、食料、雇用に損害を与えることなく、国民を指導する大政党から選ばれた政府に、この国の運命を、諸君が委任しえるか否かということである」と述べた[71]。
10月27日の選挙の結果、挙国政府陣営は521人を当選させ、野党(ヘンダーソン率いる労働党52議席、サミュエル率いる独立自由党37議席)に大きく差をつけた[72]。
帝国特恵関税制度
[編集]1932年7月から8月にかけての大英帝国経済会議(オタワ会議)にイギリス政府代表として財務大臣チェンバレンらを伴って出席した[73]。1932年2月にチェンバレンの主導で成立していた帝国特恵関税制度を帝国諸政府に納得させる目的だった。帝国よりアメリカとの通商を強化したいカナダ首相リチャード・ベッドフォード・ベネットが最も難色を示したが、ボールドウィンがカナダ産の卵、家禽、バター、チーズその他乳製品の対英輸出に引き続き三年間無税とする譲歩をして説得にあたった。また食肉関税をめぐってボールドウィンとオーストラリア首相スタンリー・ブルースの間で論争になったが、ボールドウィンが提案した割当制をブルースが承認したことでこれも解決した。8月20日にはオタワ協定が成立し、帝国特恵関税制度は実現を見た。1846年に自由貿易を採用して以来、86年ぶりの関税改革となった[74]。
第3次ボールドウィン内閣(1935年-1937年)
[編集]1935年6月7日に健康を害したマクドナルドが辞職し、ボールドウィンが代わって挙国一致内閣の首相となった[75]。彼は首相に返り咲いた後も挙国一致内閣を解消しようとはしなかった。政府が挙国一致であるという事実(あるいは虚構)によって、自由党の抵抗分子を抑え込むことができたためである[76]。
1935年の総選挙
[編集]ボールドウィンの3度目の首相就任の直前に第二次エチオピア戦争が開戦しており、ボールドウィンはイタリア牽制のためには国際連盟を強化する必要があり、そのためには大規模軍拡が必要と判断し、軍拡の全権委任状を受ける目的で総選挙を行うことを企図するようになった。10月16日には選挙綱領起草委員会が設置され、11月14日に総選挙を行うことを決定した[77]。
選挙戦中ボールドウィンは「私は戦争という言葉を使うのに強く反対する」としながらも「集団安全保障を経済的措置に限定するが、イギリス政府はそれと同時に世界平和のために、再軍備を行うことが必要であると考えている」「特定の国に対して一方的な再軍備を行うのではない」「自己の目的ではなく、国際平和のために連盟の枠内でイギリスの軍事力を強化する必要がある」と訴えた[77]。一方野党の労働党は政府の軍拡計画に反対する選挙綱領を掲げた[78]。
選挙の結果、挙国政府は1931年選挙に比して92議席を喪失し、429議席(うち保守党は387議席)となった。労働党は154議席を獲得して勢力を回復。独立自由党は21議席だった。しかし多数派は保守党が維持したので引き続きボールドウィン政権が続くことになった[79][76]。
対独宥和外交
[編集]ドイツでは1933年以来アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が政権を掌握していた。ボールドウィンはナチスの反共主義の面に期待し、ドイツをソ連共産主義の防波堤にすべく対独宥和外交を基本方針とした[80]。それについてボールドウィンは1936年7月28日の保守党議員団との会合で「我々はヒトラーが『我が闘争』の中で述べているごとく、ドイツが東方進出することを希望している。もし彼が東方に進出するならば、私はボルシェヴィキとナチスが戦争を行うのを見たいものである」と語っている[80]。
1936年3月7日のドイツ軍のラインラント進駐をめぐってボールドウィンは、3月19日に訪英中だったフランス外相ピエール・エティエンヌ・フランダンと秘密会談を行ったが、フランダンが「ヒトラーの野望を阻むには軍事力行使しかない」と主張したのに対し、「イギリスは戦争ができる状態にない」としてフランスの対独強硬外交と関わり合いになるのを断った[81]。
1936年7月に勃発したスペイン内戦をめぐってもボールドウィンは外相イーデンに対して「フランスまたは他の諸国が我らをソ連側に立って参戦させようとするかもしれないが、この企みに乗ってはならない」という訓令を与えた[82]。共産主義とファシズムの戦争はスペインの中に押しとどめ、西ヨーロッパの火災にしないのがボールドウィンの考えであった[82]。
エドワード8世退位問題
[編集]1936年1月に国王ジョージ5世が崩御し、皇太子エドワードがエドワード8世として即位した。エドワード8世は親独派であり、即位するや外交問題についてボールドウィン政府に圧力を加えるようになった。特に1936年3月のラインラント進駐の際にはドイツと戦争にならぬよう政府高官に影響を及ぼしたといわれる。しかしボールドウィンはこうした王の外交介入を快く思っていなかった[83]。
エドワード8世は即位時すでに40過ぎだったが、妃がいなかった。皇太子時代からアーネスト・シンプソンの夫人のアメリカ人女性ウォリス・シンプソンと付き合っていた[84]。1936年10月27日にシンプソン夫妻の離婚が法的に決まると、エドワード8世は彼女と結婚する意思をボールドウィン首相に伝えた。だが伝統を重んじるボールドウィン以下保守党の政治家たちには、二度も離婚歴があり、さらにヨアヒム・フォン・リッベントロップ駐英ドイツ大使との交際歴もあるアメリカ人女性との結婚には反対の声が根強かった[85]。またボールドウィンは自己主張の強い王エドワード8世より、気の弱い王弟ヨーク公アルバートの方がイギリスの王位に向いていると考えるようになり、エドワード8世に結婚するなら退位するよう迫っていく[85]。
一方のエドワード8世は11月16日に国王秘書官のアレック・ハーディングから「速やかにウォリス夫人を国外退去させるように」手紙で求められて衝撃を受けている[86]。これ以降、国王は退位か、貴賤結婚かの間で揺れ動いていく。
同日、エドワード8世がボールドウィン首相を引見した際には退位の意思を伝えていたが、11月25日になって保守党議員の一部が主張していた貴賎相婚(シンプソン夫人を正式な王妃としてではなく、コーンウォール公夫人としてエドワード8世に嫁がせる)を可能とする法整備を要求するようになった[87]。ボールドウィンは「もしそのような方法で結婚をやり遂げようとしておられるなら大きな間違いを犯すことになる」と国王に忠告したという[88]。
1931年1月にインド自治に反対して「影の内閣」から離脱して以来、保守党内の反ボールドウィン派となっていたチャーチルがエドワード8世の主張を支持して取り入ろうとしていた[89]。そのためボールドウィンは、チャーチルが中央党を結成し、エドワード8世から組閣の大命を受けようという宮廷陰謀が進行中と疑っていた[90]。しかし結局チャーチルの中央党結成の試みは賛同議員を40名程度しか集められなかったため成功に至らなかった[91]。
12月2日、再び国王に拝謁したボールドウィンは貴賎相婚は非現実的であり、望ましくもない。したがってそれに関する法律を制定する見込みはないとする内閣と自治領政府の意思を国王に報告した[92]。12月5日には自治領政府に対し、王がシンプソン夫人との結婚を断念するか、退位するか、いずれかの態度を取るよう王に正式に勧告するよう要請した。それに従ってオーストラリア、南アフリカ連邦、カナダなどが続々と勧告を行った。この圧力を受けてついにエドワード8世は12月9日に退位文書に署名した[93]。翌日10日、ボールドウィンは庶民院で国王退位の発表を行った。演説では『ハムレット』から引用し、「国王の意思は彼のものではない…自分勝手に道をひらくは許されぬ、すべて
この一件はこれで収束したが、この件を最後にボールドウィンはほとんど政治指導をしなくなった[93]。
退任
[編集]ジョージ6世戴冠式の後の1937年5月28日に首相を辞職すると表明した。ボールドウィンは5月26日の最後の閣議において「私は長い間重責から逃れることを希望してきた。今やその時期が到来した。現在同僚と別離することは真に辛いことである。二年前の総選挙時に私は新しい指導者が自分と交代する事が正しいとわかっていた。諸君は人の世の有為転変を味わってきた。このことは私にも言われうることである」と述べた[93]。
ボールドウィン辞職後、ネヴィル・チェンバレンが新たな首相・保守党党首として英国を指導していく[93]。
晩年(1937年-1947年)
[編集]首相退任直後の1937年6月8日に連合王国貴族爵位のビュードリーのボールドウィン伯爵とコーヴェデール子爵に叙せられ[95]、貴族院議員に列した[4]。
1945年6月に妻のルーシーが死去した[7]。ボールドウィンも晩年には関節炎を患い、スティックなしでは歩けなくなっていた。1947年12月14日に死去。爵位は長男オリヴァー・ボールドウィンが継承した[7]。
人物・評価
[編集]人物
[編集]- 温厚な性格のため人に命令することが苦手であった。閣僚の陰謀や嫉妬にも手をこまねいて、「同僚の中には私をウスバカだという者もいるし、また他の者はウスバカ以下と考えているらしい。それはよく解る。理解できないのは、そんな大バカの作っている内閣に彼らがなぜ留まると言い張るのかという点である」と語ったという[96]。
- 畑いじり、園芸を好み、自然を愛でるのが好きで散歩も趣味とした[97]。
- 文才があったという。ボールドウィンの従兄弟には小説家ラドヤード・キプリングがおり、そのため本人は謙遜して「誰が天才(キプリング)と競争したいと思うだろうか」と語ったが、キプリングのほうも「文筆で容易に私と張り合えただろう、スタンレーは一族のなかでは本当に文人だ」と述べたという[10]。
評価
[編集]ピーター・クラークはボールドウィンについて次のように論評している。「彼の基調とは新しい保守主義であり、労働党にははっきりと反対しつつも階級闘争という強硬なレトリックは棚上げにするという、穏健な合意の確立を目指したものだった。」「細部にわたる政策決定は対外的な物であれ、国内的な物であれ、まったくボールドウィンの得意とするところではなく、その点ではディズレーリと似たり寄ったりであった。さらに公衆に対する彼のイメージは、同僚が見ていたイメージと同じだとは限らなかった。同僚は彼の一貫性のなさや、戦略的な物事の把握に明らかに欠けている点などに時に苛立たされていた。国内政策では、政府はチャーチルとネヴィル・チェンバレンにひどく依存していた。」[98]。
歴史家シーマン(L.C.G.seaman)はボールドウィンを次のように論評している。「ボールドウィンの最も重要な特質は、彼の精神が近代的な、知的な、しかも都会的な背景から形成されたのではなく、後期ヴィクトリア朝の着実な中産階級、とくにほとんど大部分地方的な背景から形作られていたことである。ボールドウィン自身、地方的な中産階級の実業家であった。このため、イギリスの一般民衆はボールドウィンを自分たちの代表と見做していたのであった。というのは、彼らもまた革新的な思想家によって影響されず、政治、経済、文学、芸術、生活様式といったあらゆる分野において新機軸を打ち出す人々に疑惑を感じていたからである。とくにボールドウィンの影響力は政界という狭い範囲を超えて拡大し、多くの庶民の態度に及んでいた。このことはボールドウィンが新時代のマスコミを巧みに利用したためだった。すなわち彼の言動は一般民衆の購読する新聞に出ており、またラジオからしばしば演説を行った。このようなマスメディアは、当時のイギリス人の心にスタンリー・ボールドウィンの動揺しない安心感を与える容貌および態度を印象付けるのに役立った」[99]。
また、ケネス・ベイカーは「ボールドウィンの本質は懐柔、譲歩、コンセンサスを得る政治能力にあって、(平時の)紛争解決にその手腕を揮う時に最も冴えわたっていた」と評している[100]。
住居
[編集]ウスターシャー・アストリーにあるアストリー・ホールを1902年に購入し、以降1947年に死去するまで邸宅とした[101]。ボールドウィンの死後、この邸宅は売却されて学校となった[102]。
栄典
[編集]爵位
[編集]- ビュードリーの初代ボールドウィン伯爵 (1st Earl Baldwin of Bewdley)
- シュロップシャー州におけるコーヴェデールの初代コーヴェデール子爵 (1st Viscount Corvedale, of Corvedale in the County of Shropshire)
- (勅許状による連合王国貴族爵位)
勲章
[編集]学長職
[編集]- 1923年-1926年、エディンバラ大学学長(Lord Rector of Edinburgh University)[7]
- 1928年-1931年、グラスゴー大学学長(Lord Rector of the University of Glasgow)[7]
- 1929年-1947年、セント・アンドルーズ大学学長(Chancellor of St. Andrews University)[7]
- 1930年-1947年、ケンブリッジ大学学長(Chancellor of Cambridge University)[7]
その他
[編集]- 1920年、枢密顧問官(Privy Counsellor (PC))[7]
- 1927年、枢密顧問官(カナダ)(Privy Counsellor (PC) [Canada])[7]
- 1927年11月3日、王立協会フェロー(Fellow, Royal Society (FRS))[103]
家族
[編集]1892年9月12日にエドワード・ルーカス・リズデール(Edward Lucas Ridsdale)の長女ルーシー・リズデール(1869頃-1945)と結婚。彼女との間に以下の6子を儲けた[7]。
- 第1子(長女)ダイアナ・ルーシー・ボールドウィン (Diana Lucy Baldwin, 1895-1982) - リチャード・マンロー、ついでジョージ・ケンプ=ウェルチと結婚
- 第2子(次女)レオノーラ・スタンリー・ボールドウィン (Leonora Stanley Baldwin, 1896-1989) - アーサー・ハワードと結婚
- 第3子(三女)パメラ・マーガレット・ボールドウィン (Pamela Margaret Baldwin, 1897-1976) - 第2代準男爵サー・ハーバート・ハンティントン=ホワイトリーと結婚
- 第4子(長男)オリヴァー・リズデール・ボールドウィン (Oliver Ridsdale Baldwin, 1899-1958) - ビュードリーの第2代ボールドウィン伯爵位を継承
- 第5子(四女)エスター・ルイーザ・ボールドウィン (Esther Louisa Baldwin, 1902-1981) - サラ・ジェイムズと結婚
- 第6子(次男)アーサー・ウィンダム・ボールドウィン (Arthur Windham Baldwin, 1904-1976) - ビュードリーの第3代ボールドウィン伯爵位を継承
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ 秦郁彦(編) 2001, p. 511.
- ^ 秦郁彦(編) 2001, p. 513.
- ^ 秦郁彦(編) 2001, p. 512.
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参考文献
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- 秦郁彦 編『世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000』東京大学出版会、2001年。ISBN 978-4130301220。
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- ブレイク, ロバート 著、早川崇 訳『英国保守党史 ピールからチャーチルまで』労働法令協会、1979年。ASIN B000J73JSE。
- マッケンジー, ロバート 著、早川崇、三沢潤生 訳『英国の政党〈上巻〉 保守党・労働党内の権力配置』有斐閣、1965年。ASIN B000JAD4LI。
- 村岡健次、木畑洋一『イギリス史〈3〉近現代』山川出版社〈世界歴史大系〉、1991年。ISBN 978-4634460300。
- 山上正太郎『ウィンストン・チャーチル 二つの世界戦争』誠文堂新光社、1960年。ASIN B000JAP0JM。
- Brody, Iles 著、向後 英一 訳『ウィンザー公とともに去りぬ』(初版)新潮社、東京都新宿区、1956年。ASIN B000JB0DN4。
外部リンク
[編集]- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Stanley Baldwin
- Stanley Baldwin 英国首相官邸
- Recording of Baldwin's youth speech at the Empire Rally of Youth (1937) – a British Library sound recording ボールドウィンの肉声
- Stanley Baldwin, 1st Earl Baldwin - ナショナル・ポートレート・ギャラリー
- スタンリー・ボールドウィンに関連する著作物 - インターネットアーカイブ
- スタンリー・ボールドウィンの著作 - LibriVox(パブリックドメインオーディオブック)
- Newspaper clippings about スタンリー・ボールドウィン in the 20th Century Press Archives of the ZBW