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2019年2月11日 (月) 01:20時点における版
モンケ・カルジャ(モンゴル語: Möngke Qalǰa,中国語: 忙哥,? - ?)とは、モンゴル帝国に仕えたマングト部出身の左翼千人隊長。チンギス・カンに仕えたが早くに戦死したクイルダル・セチェンの息子で、主に金朝との戦争で活躍した。
『元史』などの漢文史料では忙哥(mánggē)・蒙古寒札(mĕnggŭhánzhá)・木哥漢札(mùgēhànzhá)など、『集史』などのペルシア語史料ではمونککا قلجا(Mūnkkā Qaljā)と記される。
概要
モンゴル部族の族祖伝承ではボドンチャルの子孫にナチン・バートルという人物がおり、ナチン・バートルの2子ウルウダイ、マングダイからウルウト氏、マングト氏が分岐したと伝えられている[1]。マングダイの六世孫がモンケ・カルジャの父クイルダルであり、クイルダルは早い段階からテムジン(後のチンギス・カン)に仕えていたが、ケレイト部との戦い(カラ・カルジトの戦い)で戦死してしまった。クイルダルはこの戦いが始まる前に、チンギス・カンに自身が死んだ時は息子のモンケ・カルジャの生活を保障するよう頼んでおり、チンギス・カンは約定通りモンケ・カルジャを厚遇した。
後にケレイト部が征服された時、精鋭として知られるジルキン兵はモンケ・カルジャに隷属するよう定められ、またモンケ・カルジャにはチンギス・カンと敵対し散亡したマングト人を配下に収めるよう命じられた[2]。1206年にモンゴル帝国が成立すると、前述のジルキン兵やマングト人を基盤にクイルダル・セチェン名義の1千戸とモンケ・カルジャ名義の1千戸が創設されている。
1211年、金朝遠征が始まると、モンケ・カルジャはマングト千人隊を率いてチンギス・カン直属の中軍左翼に従軍した。金朝領の大部分を征服したチンギス・カンは金朝を完全に征服することに拘らず、今度は西方ホラズム・シャー朝への遠征を計画した。チンギス・カンは西方へ出陣するに先立ち、1217年(丁丑)にジャライル部出身で左翼万人隊長のムカリに中軍左翼の武将を一部委ね、金朝方面の計略を一任した。この時ムカリの配下に入った武将にはウルウト4千人隊を率いるケフテイ、マングト千人隊を率いるモンケ・カルジャ、コンギラト3千人隊を率いるアルチ・ノヤン、イキレス2千人隊を率いるブトゥ・キュレゲン、諸部族混合兵を率いるクシャウルとジュスク、現地徴発の契丹・女真・漢人兵を率いるウヤルらがおり[3][4]、この内ジャライル(ムカリ家)・ウルウト(ジュルチェデイ家)・マングト(クイルダル家)・コンギラト(デイ・セチェン家)・イキレス(ブトゥ家)の5部族集団は特に後世「左手の五投下」として広く知られるようになる。
チンギス・カンの死後、オゴデイが第2代皇帝として即位すると、即位後最初の大事業として金朝の征服が開始された。モンケ・カルジャもまたこの征服戦争に従軍し、この時の功績により「郡王」に封ぜられ、以後子孫は代々のこの称号を受け継ぐようになった[5]。1236年には旧金朝領が諸王・貴戚・功臣に投下領として分割され、モンケ・カルジャには泰安州が分与された[6][7]。
子孫
『集史』「マングト部族志」にはモンケ・カルジャの息子ムルカル・カルジャがフレグの西征に従軍したことが記されているが、東方で活躍しなかったためか『元史』などに言及はない[8]。
東方においては、モンケ・カルジャの孫ジルワダイとキタダイの兄弟がその地位を継いだ。更にその後にはクトク、ウダイ、クリカチら兄弟が「郡王」位を継承している[9]。
マングト氏クイルダル家
- グユク(Güyük >畏翼/wèiyì)…クイルダルの兄
- クイルダル・セチェン(Quyildar >畏答児/wèidāér,قویردار/Qūīrdār)
- 郡王モンケ・カルジャ(Möngke Qalǰa >忙哥/,مونککا قلجا/Mūnkkā Qaljā)
- ジャムカ(J̌amuqa >蘸木曷/zhànmùhé)
脚注
- ^ 村上1972,46-51頁
- ^ 『元史』巻121列伝8畏答児伝,「畏答児、忙兀人……及王罕滅、帝以其将只里吉実抗畏答児、乃分只里吉民百戸隸其子、且使世世歳賜不絶。仍令收完忙兀人民之散亡者。
- ^ 『聖武親征録』「戊寅、封木華黎為国王、率王孤部万騎・火朱勒部千騎・兀魯部四千騎・忙兀部将木哥漢札千騎・弘吉剌部按赤那顔三千騎・亦乞剌部孛徒二千騎・札剌児部及帯孫等二千騎、同北京諸部烏葉児元帥・禿花元帥所将漢兵、及札剌児所将契丹兵、南伐金国」
- ^ 『元史』巻119列伝6木華黎伝,「丁丑八月、詔封太師・国王・都行省承制行事、賜誓券・黄金印曰『子孫伝国、世世不絶』。分弘吉剌・亦乞烈思・兀魯兀・忙兀等十軍、及吾也而契丹・蕃・漢等軍、並属麾下」
- ^ 『元史』巻121列伝8畏答児伝,「太宗思其功、復以北方万戸封其子忙哥為郡王」
- ^ 『元史』巻2太宗本紀,「[八年丙申]秋月……詔以真定民戸奉太后湯沐、中原諸州民戸分賜諸王・貴戚・斡魯朶……蒙古寒札・按赤那顔・圻那顔・火斜・朮思、並于東平府戸内撥賜有差」
- ^ 『元史』巻121列伝8畏答児伝,「歳丙申、忽都忽大料漢民、分城邑以封功臣、授忙哥泰安州民万戸。帝訝其少、忽都忽対曰『臣今差次、惟視旧数多寡、忙哥旧才八百戸』。帝曰『不然、畏答児封戸雖少、戦功則多、其増封為二万戸、与十功臣同。為諸侯者、封戸皆異其籍』。兀魯争曰『忙哥旧兵不及臣之半、今封顧多於臣』。帝曰『汝忘而先横鞭馬鬛時耶』。兀魯遂不敢言」
- ^ 志茂2013,693/700頁
- ^ 『元史』巻121列伝8畏答児伝,「忙哥卒、孫只里瓦䚟・乞答䚟、曾孫忽都忽・兀乃忽里・哈赤、倶襲封為郡王」