「ビスマルク海海戦」の版間の差分
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| commander1={{flagicon2|日本|naval}}[[草鹿任一]]中将<br />{{flagicon2|日本|naval}}[[三川軍一]]中将<br />{{flagicon2|日本|naval}}[[木村昌福]]少将 |
| commander1={{flagicon2|大日本帝国|army}}[[今村均]]中将<br />{{flagicon2|日本|naval}}[[草鹿任一]]中将<br />{{flagicon2|日本|naval}}[[三川軍一]]中将<br />{{flagicon2|大日本帝国|army}}[[安達二十三]]中将{{Sfn|戦史叢書40|1970|pp=44-46|ps=ラエ輸送の第十八軍命令}}<br />{{flagicon2|大日本帝国|army}}[[中野英光]]中将{{Sfn|戦史叢書40|1970|pp=50-53|ps=第五十一師団長の作戦指導}}<br />{{flagicon2|大日本帝国|army}}[[板花義一]]中将{{Sfn|戦史叢書40|1970|pp=39-43|ps=ラエ輸送陸海軍現地協定}}<br />{{flagicon2|日本|naval}}[[木村昌福]]少将<br />{{flagicon2|日本|naval}}[[市丸利之助]]少将{{Sfn|戦史叢書40|1970|pp=39-43|ps=ラエ輸送陸海軍現地協定}} |
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| commander2={{flagicon2|アメリカ合衆国|air force}}エニス・ホワイトヘッド大佐 |
| commander2={{flagicon2|アメリカ合衆国}}[[ダグラス・マッカーサー]]大将<br />{{flagicon2|アメリカ合衆国}}ジョージ・ケニー中将<br/>{{flagicon2|アメリカ合衆国|air force}}エニス・ホワイトヘッド大佐 |
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| strength1=駆逐艦8<br />輸送船8<br />基地航空隊 |
| strength1=駆逐艦8<br />輸送船8<br />陸海軍基地航空隊 |
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| strength2=重爆撃機39<br />中型爆撃機41<br />軽爆撃機34<br />戦闘機54<br />魚雷艇10 |
| strength2=重爆撃機39<br />中型爆撃機41<br />軽爆撃機34<br />戦闘機54<br />魚雷艇10 |
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| casualties1=駆逐艦4沈没<br />輸送船8沈没 |
| casualties1=駆逐艦4沈没<br />輸送船8沈没<br/>陸軍兵約3000名以上戦死 |
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| casualties2=重爆2(2日1機、3日1機)<br />戦闘機3(乃至4) |
| casualties2=重爆2(2日1機、3日1機)<br />戦闘機3(乃至4) |
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[[ファイル:Battle_of_the_Bismark_Sea.jpg|thumb|300px|日本軍の行動図]] |
[[ファイル:Battle_of_the_Bismark_Sea.jpg|thumb|300px|日本軍の行動図]] |
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'''ビスマルク海海戦'''(ビスマルクかいかいせん、Battle of Bismarck Sea)は、[[第二次世界大戦]]中の[[1943年]](昭和18年)[[3月2日]]から[[3月3日]]に、[[ビスマルク海]]から[[ダンピア海峡|ダンピール海峡]]<ref>当時の日本軍は、ヴィティアス海峡も含めて、ニューブリテン島とニューギニア島の間の海峡を、ダンピール海峡と呼んでいた。アジア歴史資料センター大東亜戦争全史草案第5編/第11章 国防圏前衛線の逐次崩壊(1)[https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/listPhoto?NO=17&DB_ID=G0000101EXTERNAL&ID=%24_ID&LANG=default&image_num=16&IS_STYLE=default&TYPE=PDF&DL_TYPE=pdf&REFCODE=C13071335600&CN=1 ウェブ]</ref>にかけての海域で、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍が[[日本軍]]の輸送船団に対し航空攻撃を行ったことで発生した戦闘のこと<ref name="天皇実録9巻42">[[#天皇実録九巻|昭和天皇実録九巻]]42頁『(昭和十八年三月)三日 水曜日(第五十一師団輸送船団壊滅)』</ref>。 |
'''ビスマルク海海戦'''(ビスマルクかいかいせん、Battle of Bismarck Sea)は、[[第二次世界大戦]]中の[[1943年]](昭和18年)[[3月2日]]から[[3月3日]]に、[[ビスマルク海]]から[[ダンピア海峡|ダンピール海峡]]{{Sfn|戦史叢書40|1970|pp=55a-58|ps=船団の全滅}}<ref>当時の日本軍は、ヴィティアス海峡も含めて、ニューブリテン島とニューギニア島の間の海峡を、ダンピール海峡と呼んでいた。アジア歴史資料センター大東亜戦争全史草案第5編/第11章 国防圏前衛線の逐次崩壊(1)[https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/listPhoto?NO=17&DB_ID=G0000101EXTERNAL&ID=%24_ID&LANG=default&image_num=16&IS_STYLE=default&TYPE=PDF&DL_TYPE=pdf&REFCODE=C13071335600&CN=1 ウェブ]</ref>にかけての海域で、[[ダグラス・マッカーサー]]陸軍大将指揮下の[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍ニューギニア・オーストラリア方面部隊が[[日本軍]]の輸送船団に対し航空攻撃を行ったことで発生した戦闘のこと<ref name="天皇実録9巻42">[[#天皇実録九巻|昭和天皇実録九巻]]42頁『(昭和十八年三月)三日 水曜日(第五十一師団輸送船団壊滅)』</ref>。 |
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== 概要 == |
== 概要 == |
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[[1943年]](昭和18年)2月初頭、日本軍は[[ガダルカナル島]]から撤退し{{Sfn|大本営海軍部|1982|pp=118-119|ps=昭和十八年二月の情勢}}、[[大本営]]は[[パプアニューギニア]]([[ニューギニア島]]東部)方面に作戦の重点を移した{{Sfn|戦史叢書66|1980|p=40|ps=新作戦方針転換に対する若干の問題点}}{{Sfn|戦史叢書66|1980|pp=43-44|ps=ニューギニア作戦と兵団運用の問題}}。 |
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[[1943年]](昭和18年)初頭、連合軍は[[パプアニューギニア]]([[ニューギニア島]]東部)で攻勢に出ており、日本軍はニューギニア方面の戦力増強を企図して陸軍・海軍協同の輸送作戦を立案する<ref name="NTF(2)33">[[#南東方面艦隊(2)]]pp.33-34『第五 第八一號作戰 「カ」號作戰ノ爲ニ準備セル部隊ハ「ケ」號作戰ノ概成ト共ニ「ソロモン」方面ヘノ輸送ハ不必要トナリ陸海軍中央協定ニ基キ同兵力ヲ「ニューギニア」方面ニ転送シ該方面ニ於ケル戰略態勢ヲ強化スルコトトナリ輸送ニ関シ第八方面軍ト協定ス(「ニューギニア」方面ニ対スル兵力輸送ニ関スル陸海軍間協定覺書 二月十三日) 第四十一師團主力ノ「ウエワク」附近揚陸及本作戰実施ノ爲陸軍航空部隊展開ニ必要ナル基地員及物件ノ「マダン」「スルミ」及「ツルブ」ニ対スル輸送ハ何レモ豫定通完了セルモ第十八軍司令部及第五十一師團ノ「ラエ」ニ対スル船團輸送ハ事前「モレスビー」方面ニ対スル航空撃滅戰ノ実施不徹底ニ禍セラレ敵空軍ノ大集團攻撃ヲ受ケ潰滅スルニ至レリ(詳細FBG戰斗詳報)第二十師團ノ「マダン」輸送ハ前項「ラエ」輸送ノ失敗ニ鑑ミ敵機ノ攻撃圏ヲ考慮シ揚陸点ヲ「ハンサ」湾ニ変更(NTF信電令作第二號)陸軍航空部隊ノ直衛下ニ三月十二日揚陸完了セリ』</ref><ref name="提督草鹿132">[[#提督草鹿任一]]132-133頁『五、東部ニューギニアの戦闘』</ref>。 |
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同時期、連合軍も東部ニューギニアで攻勢に出ており{{Sfn|戦史叢書66|1980|p=46|ps=挿図第2、1月におけるニューギニア方面戦況要図}}、日本軍はニューギニア方面の戦力増強を企図して陸軍・海軍協同の輸送作戦を立案する<ref name="NTF(2)33">[[#南東方面艦隊(2)]]pp.33-34『第五 第八一號作戰 「カ」號作戰ノ爲ニ準備セル部隊ハ「ケ」號作戰ノ概成ト共ニ「ソロモン」方面ヘノ輸送ハ不必要トナリ陸海軍中央協定ニ基キ同兵力ヲ「ニューギニア」方面ニ転送シ該方面ニ於ケル戰略態勢ヲ強化スルコトトナリ輸送ニ関シ第八方面軍ト協定ス(「ニューギニア」方面ニ対スル兵力輸送ニ関スル陸海軍間協定覺書 二月十三日) 第四十一師團主力ノ「ウエワク」附近揚陸及本作戰実施ノ爲陸軍航空部隊展開ニ必要ナル基地員及物件ノ「マダン」「スルミ」及「ツルブ」ニ対スル輸送ハ何レモ豫定通完了セルモ第十八軍司令部及第五十一師團ノ「ラエ」ニ対スル船團輸送ハ事前「モレスビー」方面ニ対スル航空撃滅戰ノ実施不徹底ニ禍セラレ敵空軍ノ大集團攻撃ヲ受ケ潰滅スルニ至レリ(詳細FBG戰斗詳報)第二十師團ノ「マダン」輸送ハ前項「ラエ」輸送ノ失敗ニ鑑ミ敵機ノ攻撃圏ヲ考慮シ揚陸点ヲ「ハンサ」湾ニ変更(NTF信電令作第二號)陸軍航空部隊ノ直衛下ニ三月十二日揚陸完了セリ』</ref>{{Sfn|提督草鹿任一|1976|pp=132-133|ps=五、東部ニューニギアの戦闘}}。 |
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日本側の輸送作戦の名称は「第八十一号作戦」である<ref>[[#叢書102|戦史叢書102巻]]405頁『81号作戦』(昭和18.3, 第8方面軍、海軍)</ref><ref>[[#叢書102|戦史叢書102巻]]165頁『昭和18年(1943年)2月11日 第51師団のラエ(東部ニューギニア)輸送〔96-46〕』</ref>。 |
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日本側の輸送作戦の名称は「第八十一号作戦」である{{Sfn|撃沈船員記録|2008|pp=87-88|ps=八一号作戦}}{{Sfn|戦史叢書102|1980|p=405a|ps=・81号作戦(昭和18.3,第8方面軍、海軍)}}{{Sfn|戦史叢書102|1980|p=165a|ps=昭和18年(1943年)2月11日 第51師団のラエ(東部ニューギニア)輸送〔96-46〕}}。 |
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[[南東方面艦隊]]司令長官[[草鹿任一]]中将は日本陸軍と協同<ref name="提督草鹿132" />。 |
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2月中旬、[[南東方面艦隊]]司令長官[[草鹿任一]]中将は、ラバウルの[[第8方面軍 (日本軍)|第八方面軍]](司令官[[今村均]]陸軍中将)と協定を結ぶ{{Sfn|戦史叢書102|1980|p=164|ps=昭和18年(1943年)2月13日〔7-166、39-77、40-31、94-77〕}}。 |
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第三水雷戦隊司令官[[木村昌福]]少将が指揮する[[駆逐艦]]8隻に護衛された日本軍輸送船団(輸送船8隻)は[[ニューブリテン島]]から[[ラエ]]・[[サラマウア]](東部ニューギニア、[[フォン湾]])へ航行中の[[3月3日]]に[[ビスマルク海]]から[[ダンピア海峡|ダンピール海峡]]において連合軍航空部隊の大規模攻撃を受け、[[反跳爆撃]]により大損害を受ける<ref name="NTF(2)33" />。日本軍の輸送船団は壊滅(輸送船8隻〈陸軍輸送船7、海軍運送艦1〉沈没、[[駆逐艦]]4隻沈没)、将兵約3000名が戦死<ref name="叢書九六67">[[#戦史叢書96ガ島撤収後]]67-69頁『作戦の終末』</ref>。'''ダンピール海峡の悲劇'''と呼称された<ref name="モリソン225">[[#モリソンの太平洋海戦史]]225-226頁</ref><ref>[[#撃沈船員記録]]87-88頁『八一号作戦』</ref>。 |
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日本陸海軍は南東方面の航空兵力をかき集め、輸送船団の上空掩護を実施した{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=78}}。[[2月28日]]、第三水雷戦隊司令官[[木村昌福]]少将が指揮する[[駆逐艦]]8隻に護衛された日本軍輸送船団(輸送船8隻)は[[ニューブリテン島]][[ラバウル]]を出撃したが{{Sfn|戦史叢書66|1980|pp=247a-248|ps=八十一号作戦計画とダンピールの悲劇}}、[[ラエ]]・[[サラマウア]](東部ニューギニア、[[フォン湾]])へ航行中の[[3月3日]]に[[ビスマルク海]]から[[ダンピア海峡|ダンピール海峡]]において連合軍航空部隊の大規模攻撃を受け、[[反跳爆撃]]により大損害を受ける{{Sfn|太平洋の試練、ガ島からサイパン(上)|2016|p=342}}。日本軍の輸送船団は壊滅(輸送船8隻〈陸軍輸送船7、海軍運送艦1〉沈没、[[駆逐艦]]4隻沈没)、乗船将兵約3,000名が戦死<ref name="叢書九六67">[[#戦史叢書96ガ島撤収後]]67-69頁『作戦の終末』</ref>、搭載していた重機材すべてを喪失{{Sfn|戦史叢書40|1970|pp=58b-62|ps=作戦の終末}}。'''ダンピール海峡の悲劇'''と呼称された{{Sfn|モリソンの太平洋海戦史|2003|pp=225-226}}。 |
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[[第8方面軍 (日本軍)|第八方面軍]]は本作戦について「現況において如何なる方策を講ずるもあのような結果を得るの外なかった」と総括している{{Sfn|戦史叢書66|1980|pp=253a-255|ps=現地軍の反省と爾後の作戦指導に関する研究}}。 |
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== 背景 == |
== 背景 == |
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=== ニューギニア重視の姿勢 === |
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=== 第八十一号作戦 === |
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1942年(昭和17年)12月31日の大本営御前会議において、日本軍は[[ガダルカナル島]]からの撤退を正式に決定する{{Sfn|戦史叢書66|1980|pp=25-26|ps=南東方面作戦方針の転換}}{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=498-504|ps=撤退決定の御前会議}}。ガ島撤収後は、[[ニューギニア島|東部ニューギニア]]での作戦を重視することになった{{Sfn|マッカーサー|2003|pp=132-133}}{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=504-506|ps=陸海軍中央協定における問題点}}(翌年1月4日、大陸命第732号、大海令第23号など){{Sfn|戦史叢書66|1980|pp=30-37|ps=大本營の新作戦に関する命令、指示}}。[[昭和天皇]]は「ただガ島を止めだだけではいかぬ。何処かで攻勢に出なければならない。」と指導したので、大本営はニューギニア作戦に重点を置くことになった{{Sfn|戦史叢書66|1980|p=28}}{{Sfn|太平洋の試練、ガ島からサイパン(上)|2016|p=283}}。大本営陸軍部は、陸地続きのニューギニア戦線ならば負けるはずがなく、ポートモレスビー包囲も努力次第では可能とみていた{{Sfn|戦史叢書40|1970|pp=15-17|ps=ニューギニア作戦の討議}}。またラバウルに根拠地をおく第八方面軍(司令官[[今村均]]陸軍中将)の任務は「第八方面軍司令官ハ大陸命第七百十五号ニ拘ラス海軍ト協同シ「ソロモン」群島及「ビスマルク」群島ノ各要域ヲ確保スルト共ニ「ニューギニヤ」ノ要域ヲ攻略確保シテ同方面ニ於ケル爾後ノ作戦ヲ準備スヘシ」(昭和18年1月4日、大陸命第732号)と定められた{{Sfn|戦史叢書40|1970|pp=9-11|ps=第八方面軍の任務}}。大本営の強気とは裏腹に、第八方面軍はニューギニア戦線についても悲観的な見方をしていた{{Sfn|戦史叢書40|1970|pp=19-22|ps=現地と食い違う状況認識}}。 |
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1943年(昭和18年)2月1日から2月7日にかけて<ref name="十人提督下15">[[#十人提督(下)]]15-16頁『ニューギニアでの防戦』</ref>、日本軍は[[ガダルカナル島]]から撤退した([[ケ号作戦]])<ref name="叢書九六45">[[#戦史叢書96ガ島撤収後]]45-46頁『作戦指導』</ref><ref>[[#天皇実録九巻|昭和天皇実録九巻]]28頁『(昭和十八年二月)八日 月曜日(ガダルカナル島第三次撤収作戦)』</ref>。 |
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同時期、連合軍は[[ニューギニア島]]方面でも攻勢に出ており、日本軍は[[パプアニューギニア]]方面の戦いでも窮地に追い込まれる<ref name="提督草鹿132" /><ref name="奥宮ラバウル227">[[#奥宮ラバウル(学研M文庫)]]227頁『企図された八一号作戦』</ref>。 |
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1943年(昭和18年)2月1日から2月7日にかけて<ref name="十人提督下15">[[#十人提督(下)]]15-16頁『ニューギニアでの防戦』</ref>、日本軍は[[ガダルカナル島]]から撤退した{{Sfn|戦史叢書66|1980|pp=58-59|ps=ガ島撤収作戦の実施}}([[ケ号作戦]])<ref name="叢書九六45">[[#戦史叢書96ガ島撤収後]]45-46頁『作戦指導』</ref><ref>[[#天皇実録九巻|昭和天皇実録九巻]]28頁『(昭和十八年二月)八日 月曜日(ガダルカナル島第三次撤収作戦)』</ref>。 |
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1月2日には東部の[[ブナ (パプアニューギニア)|ブナ]]守備隊が[[玉砕]]した([[ポートモレスビー作戦]])<ref>[[#叢書102|戦史叢書102巻]]158頁『昭和18年(1943年)1月2日 東部ニューギニアのブナ守備隊玉砕〔66-45、83-464〕』</ref><ref name="木俣空母445">[[#木俣空母]]445-446頁『瑞鳳飛行隊』</ref>。2月8日には、第18軍がブナ支隊長にラエ・サラモアへの後退命令を発するに至った<ref>[[#叢書102|戦史叢書102巻]]163頁『昭和18年(1943年)2月8日〔28-598〕』</ref>。 |
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同時期、連合軍は[[ニューギニア島]]方面でも攻勢に出ており、日本軍は[[パプアニューギニア]]方面の戦いでも窮地に追い込まれる{{Sfn|戦史叢書66|1980|pp=44-45|ps=一月におけるニューギニア方面の戦況}}<ref name="奥宮ラバウル227">[[#奥宮ラバウル(学研M文庫)]]227頁『企図された八一号作戦』</ref>。 |
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そこで日本軍は[[大本営]]([[昭和天皇]]出席)指導のもと<ref>[[#天皇実録九巻|昭和天皇実録九巻]]32頁『(昭和十八年二月)十六日 火曜日(昭和十八年綜合作戦指導等の奏上/大本営会議に臨御)』</ref>、連合軍の次の攻撃目標と予測される[[パプアニューギニア]](ニューギニア島東部)各拠点に陸軍部隊を送り、侵攻に備えることにした<ref name="NTF(2)33" /><ref>[[#南東方面海軍作戦(2)]]p.4『一.ガ島撤収作戰直後の彼我兩軍の形成』</ref>。 |
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1月2日には東部の[[ブナ (パプアニューギニア)|ブナ]]守備隊が[[玉砕]]した{{Sfn|マッカーサー|2003|p=119}}([[ポートモレスビー作戦]]){{Sfn|戦史叢書102|1980|p=158|ps=昭和18年(1943年)1月2日 東部ニューギニアのブナ守備隊玉砕〔66-45、83-464〕}}<ref name="木俣空母445">[[#木俣空母]]445-446頁『瑞鳳飛行隊』</ref>。1月13日には、第18軍がブナ支隊長(独立混成第21旅団長[[山縣栗花]]陸軍少将)にラエ・サラモアへの後退命令を発令、1月下旬より撤収作戦がはじまった{{Sfn|戦史叢書77|1974|p=521|ps=ブナ方面の撤収}}。ブナ支隊は2月上旬までに撤退した{{Sfn|戦史叢書102|1980|p=163|ps=昭和18年(1943年)2月8日〔28-598〕}}。 |
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この作戦に投入された日本陸軍[[第51師団 (日本軍)|第51師団]]は、[[ガダルカナル島の戦い|ガダルカナル島攻防戦]]投入を予定して、12月中旬に中国大陸から[[ラバウル]]に到着(八号演習輸送)<ref name="叢書七九368">[[#叢書七九|中國方面海軍作戦(2)]]366-367頁『沖輸送』</ref>。ガ島攻防戦の戦局変化および終結にともない、ラバウルで足止めされていた部隊であった<ref name="叢書七九368" />。 |
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そこで日本軍は[[大本営]]([[昭和天皇]]出席)指導のもと<ref>[[#天皇実録九巻|昭和天皇実録九巻]]32頁『(昭和十八年二月)十六日 火曜日(昭和十八年綜合作戦指導等の奏上/大本営会議に臨御)』</ref>、連合軍の次の攻撃目標と予測される[[パプアニューギニア]](ニューギニア島東部)各拠点に陸軍部隊を送り、侵攻に備えることにした<ref>[[#南東方面海軍作戦(2)]]p.4『一.ガ島撤収作戰直後の彼我兩軍の形成』</ref>{{Sfn|戦史叢書66|1980|pp=76-81|ps=ニューギニア方面の作戦指導}}。 |
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この作戦に投入された日本陸軍[[第51師団 (日本軍)|第51師団]]は、[[ガダルカナル島の戦い|ガダルカナル島攻防戦]]投入を予定して、12月中旬に中国大陸から[[ラバウル]]に到着(八号演習輸送){{Sfn|戦史叢書79|1975|pp=366-367|ps=沖輸送}}。ガ島攻防戦の戦局変化および終結にともない、ラバウルで足止めされていた部隊であった{{Sfn|戦史叢書79|1975|pp=366-367|ps=沖輸送}}。 |
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{{main|ラエ・サラモアの戦い#背景}} |
{{main|ラエ・サラモアの戦い#背景}} |
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1943年(昭和18年)1月初頭に実施されたラエへの最初の輸送作戦「第十八号作戦」は |
1943年(昭和18年)1月初頭に実施されたラエへの最初の輸送作戦「第十八号作戦」は{{Sfn|戦史叢書102|1980|p=402|ps=(昭和18.1, 第8方面軍・海軍)18号作戦}}、7日-8日に歩兵第102連隊からなる岡部支隊が現地に到着した{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=518-519|ps=十八号作戦}}(輸送船5隻中2隻沈没、作戦はおおむね成功){{Sfn|戦史叢書102|1980|p=159|ps=昭和18年(1943年)1月7日、18号作戦(第51師団ラエ輸送)〔7-177、66-45、83-486〕}}。 |
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{{main|ラエ・サラモアの戦い#第十八号作戦}} |
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=== 第八十一号作戦 === |
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第18号作戦の次に行われた輸送作戦を'''第八十一号作戦'''という<ref name="高松宮6巻50">[[#高松宮六|高松宮日記6巻]]50頁『○外南洋部隊(二四-〇八二四)作94号 増援部隊ハ陸海軍協定ニ基キ、駆逐艦八ヲ以テ、二-二八ラボール発、三-三ラエ着、「陸軍輸送船六、「野島」、陸軍海上トラック一」ノ護衛ヲ行フト共ニ、(イ)駆逐艦四 陸兵各150、防空隊(人員20及13m/m機銃三)及「ドラム」缶入糧食各50缶、(ロ)駆逐艦二 陸兵各150、ドラム缶入糧食各60缶、(ハ)駆逐艦二 陸兵各90、「ドラム缶」入糧食各60缶、ヲ輸送スベシ』</ref><ref name="十人提督下16">[[#十人提督(下)]]16-17頁『第八十一号作戦』</ref>。 |
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第18号作戦の次に行われた輸送作戦を'''第八十一号作戦'''という<ref name="高松宮6巻50">[[#高松宮六|高松宮日記6巻]]50頁『○外南洋部隊(二四-〇八二四)作94号 増援部隊ハ陸海軍協定ニ基キ、駆逐艦八ヲ以テ、二-二八ラボール発、三-三ラエ着、「陸軍輸送船六、「野島」、陸軍海上トラック一」ノ護衛ヲ行フト共ニ、(イ)駆逐艦四 陸兵各150、防空隊(人員20及13m/m機銃三)及「ドラム」缶入糧食各50缶、(ロ)駆逐艦二 陸兵各150、ドラム缶入糧食各60缶、(ハ)駆逐艦二 陸兵各90、「ドラム缶」入糧食各60缶、ヲ輸送スベシ』</ref><ref name="十人提督下16">[[#十人提督(下)]]16-17頁『第八十一号作戦』</ref>。第八十一号作戦は、日本陸軍[[第18軍 (日本軍)|第十八軍]](司令官[[安達二十三]]陸軍中将)麾下の[[第20師団 (日本軍)|第二十師団]]、[[第41師団 (日本軍)|第四十一師団]]、[[第51師団 (日本軍)|第五十一師団]]をもって東部ニューギニア要所(ラエ、サラモア、マダン、ウェワク)を増強する作戦である{{Sfn|戦史叢書39|1970|pp=76a-83|ps=八十一号作戦}}。作戦を立案した第八方面軍参謀[[杉田一次]]陸軍大佐によれば「八は縁起がよいというので、八十一号作戦と名付けた」と回想している{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=31}}。第八方面軍参謀長[[吉原矩]]陸軍中将は「マダンに上陸するのでは、ダンピールを棄てることになるので、一か八かラエ強行上陸に決定した」と回想している{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=32}}。 |
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第八十一号作戦は三段階の作戦で構成されていた。陸軍第四十一師団を[[ニューギニア]]中部北岸[[ウェワク]]へ輸送する『丙三号作戦』(丙号輸送)<ref>[[#叢書102|戦史叢書102巻]]405頁『丙号輸送』(昭和18.1〜2実施、聯合艦隊)</ref>(2月下旬)<ref name="奥宮ラバウル228">[[#奥宮ラバウル(学研M文庫)]]227頁</ref><ref name="叢書九六45" />。 |
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第八十一号作戦は三段階の作戦で構成されていた{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=77}}。陸軍第四十一師団を[[ニューギニア]]中部北岸[[ウェワク]]へ輸送する「丙号輸送」{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=80}}(海軍側呼称は「丙三号作戦」){{Sfn|戦史叢書102|1980|p=405b|ps=(昭和18.1〜2実施、聯合艦隊)丙号輸送}}(2月下旬)<ref name="奥宮ラバウル228">[[#奥宮ラバウル(学研M文庫)]]227頁</ref><ref name="叢書九六45" />。 |
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陸軍[[第51師団 (日本軍)|第51師団]]を[[ラエ]]に輸送船団をもって輸送する『八十一号作戦ラエ輸送』(本項目)<ref name="叢書九六45" /><ref name="NTF海軍作戦(2)5" />。 |
陸軍[[第51師団 (日本軍)|第51師団]]を[[ラエ]]に輸送船団をもって輸送する『八十一号作戦ラエ輸送』(本項目)<ref name="叢書九六45" /><ref name="NTF海軍作戦(2)5" />。 |
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陸軍第二十師団をニューギニア島北岸[[マダン (パプアニューギニア)|マダン]]へ輸送する作戦である<ref name="奥宮ラバウル228" /><ref name="NTF海軍作戦(2)5">[[#南東方面海軍作戦(2)]]p.5『斯くてニューギニヤ正面の戰略要點ラエ、サラモアの戰備に一大缺陥を生じたるを以て敵の進攻氣勢とも關連し速急に同方面の戰備を強化し確乎たる作戰基盤を造成するを目下の急務とするに至つた。因て第八方面軍は第五十一師團主力を断乎海上輸送を以てラバウルよりラエに直送するに決し左の計畫の下に之を實施することとなつた』</ref>。 |
陸軍第二十師団(師団長[[青木重誠]]陸軍中将){{Sfn|戦史叢書40|1970|p=33}}をニューギニア島北岸[[マダン (パプアニューギニア)|マダン]]へ輸送する作戦である<ref name="奥宮ラバウル228" /><ref name="NTF海軍作戦(2)5">[[#南東方面海軍作戦(2)]]p.5『斯くてニューギニヤ正面の戰略要點ラエ、サラモアの戰備に一大缺陥を生じたるを以て敵の進攻氣勢とも關連し速急に同方面の戰備を強化し確乎たる作戰基盤を造成するを目下の急務とするに至つた。因て第八方面軍は第五十一師團主力を断乎海上輸送を以てラバウルよりラエに直送するに決し左の計畫の下に之を實施することとなつた』</ref>。 |
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2月13日、第8方面軍と南東方面艦隊間に八十一号作戦に関する現地協定が結ばれる<ref>[[#叢書102|戦史叢書102巻]]164頁『昭和18年(1943年)2月13日〔7-166、39-77、40-31、94-77〕』</ref>。 |
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ケ号作戦(ガ島撤収作戦)完了後の2月8日、連合艦隊は電令作第477号により「(一~三、略)四 南東方面部隊ハ「カ」号作戦ヲ続行スルト共ニ陸軍ニ協力 速カニ東部「ニューギニヤ」ノ戦略態勢ヲ強化スベシ」と命じた{{Sfn|戦史叢書39|1970|pp=71-72}}。翌9日、第八方面軍と南東方面艦隊はニューギニア方面作戦について研究を開始した{{Sfn|戦史叢書40|1970|pp=30-32|ps=八十一号作戦}}。 |
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2月21日、南東方面部隊と第八方面軍間の協定に基づき、実施部隊(日本陸軍〈第8方面軍、第18軍〉、日本海軍〈第八艦隊、南東方面艦隊、第三水雷戦隊〉)間で現地協定が結ばれる<ref name="図説3巻47">[[#図説太平洋海戦史第3巻]]47頁</ref><ref name="叢書九六51">[[#戦史叢書96ガ島撤収後]]51-52頁『ラエ船団輸送に関する陸海軍現地協定』</ref>。 |
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2月13日、第八方面軍と南東方面部隊間に八十一号作戦に関する現地協定が結ばれる{{Sfn|戦史叢書102|1980|p=164|ps=昭和18年(1943年)2月13日〔7-166、39-77、40-31、94-77〕}}。「八十一号作戦」の呼称名は、この現地協定で決定したとされる{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=77}}。同時に、航空作戦に関しても現地協定がむすばれた{{Sfn|戦史叢書40|1970|pp=34-35|ps=航空作戦現地協定}}。 |
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2月20日、第八方面軍司令官[[今村均]]陸軍中将はトラック泊地の戦艦[[大和 (戦艦)|大和]]に連合艦隊司令長官[[山本五十六]]海軍大将を訪ね、南東方面における陸海軍作戦計画について協議した{{Sfn|戦史叢書66|1980|pp=79-81}}。第八方面軍の報告をうけた大本営陸軍部は、大本営海軍部に改めてニューギニア方面への作戦協力をもとめた{{Sfn|戦史叢書66|1980|pp=79-81}}。要求には「 「ラエ」「サラモア」地区ノ得失ハ「ニューギニヤ」作戦遂行ノ能否ヲ左右スヘク陸海軍有スル手段ヲ尽シテ之ヲ確保スヘキ情況判断ニ立脚シ、差当リ三月三日「ラエ」上陸ニ先チ(二月下旬)一部兵力資材ノ駆逐艦輸送ヲ敢行スル如ク、両統帥部ハ現地艦隊、軍ヲ指導ス」という項目も含まれていた{{Sfn|戦史叢書66|1980|pp=79-81}}。 |
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<!-- 二 第四十一師団「ウエワク」上陸ニ使用セル海軍艦船(全部優速船)ハ之ヲ「パラオ」ニ引返シ第二十師団残部ノ「マダン」上陸ニ使用スル如ク取計ハレ度 概ネ第四十一師団ノ分ノ半分位ノ船/三 「ニューギニヤ」作戦今後ノ遂行ハ極メテ重大ニシテ両軍共異常ノ努力ヲ必要トスヘク之カ為本月下旬頃「共同図演」ヲ実施シ、先ツ中央部トシテ作戦指導ノ基礎ヲ把握致シ度 --> |
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2月21日、第八艦隊司令部に第八方面軍・第十八軍・船舶部隊・第八艦隊・南東方面艦隊各指揮官や参謀が集まり、作戦会議が開かれた{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=37}}。現地上級部隊(第八方面軍、南東方面部隊)の協定に基づき、実施部隊(日本陸軍〈第18軍司令官[[安達二十三]]陸軍中将、第51師団長[[中野英光]]陸軍中将、第6飛行団長[[板花義一]]陸軍中将〉、日本海軍〈第八艦隊司令長官[[三川軍一]]海軍中将、第二十一航空戦隊司令官[[市丸利之助]]海軍少将、第三水雷戦隊司令官[[木村昌福]]海軍少将〉)間で「八十一号作戦ラエ輸送」について現地協定が結ばれる{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=81}}{{Sfn|戦史叢書40|1970|pp=39-43|ps=ラエ輸送陸海軍現地協定}}<ref name="叢書九六51">[[#戦史叢書96ガ島撤収後]]51-52頁『ラエ船団輸送に関する陸海軍現地協定』</ref>。 |
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22日、方面軍命令により第十八軍司令官は猛作命甲第157号を発令し、ラエ輸送を発令した{{Sfn|戦史叢書40|1970|pp=44-46|ps=ラエ輸送の第十八軍命令}}。 |
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24日、第五十一師団長は五一師作命甲第59号を発令し、ラエ上陸作戦について下達した{{Sfn|戦史叢書40|1970|pp=50-53|ps=第五十一師団長の作戦指導}}。 |
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八十一号作戦の最大の課題は、船団の航空護衛であった<ref name="叢書九六47">[[#戦史叢書96ガ島撤収後]]47-49頁『八十一号作戦陸海軍航空協定』</ref>。当時の南東方面においては、ニューギニア方面の補給輸送の掩護は日本陸軍が、南東方面全域での洋上作戦とソロモン諸島方面航空作戦は日本海軍の分担であった(1月3日、中央陸海軍協定による){{Sfn|戦史叢書39|1970|p=78}}。 |
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第八方面軍と協議した[[田辺盛武]]参謀次長は2月上旬の報告の中で「輸送掩護ノ為ノ航空兵力ハ極メテ貧弱ニシテ此ノ上トモ兵員、船団ノ損耗ヲ小ナラシムル為作戦ノ指導ニ関シ苦慮セラレアリ 殊ニ51D主力ノ直接「ラエ」上陸ハ海軍ノ最モ強力ナル支援ヲ得サル限リ損害ハ少クトモ 二分ノ一 ニ上ルモノト推算セラレアリ」と懸念している{{Sfn|戦史叢書66|1980|p=70}}。日本陸軍の航空戦力では輸送船団の安全な航海は不可能であった{{Sfn|戦史叢書66|1980|p=247b}}。そこで作戦協定により、日本陸軍(司偵5、戦闘機60、軽爆45)と日本海軍(戦闘機60、陸攻20、艦攻8〈瑞鳳〉、艦爆10〈五八二海軍航空隊〉、水偵10〈九五八海軍航空隊〉)という航空戦力を投入する{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=78}}{{Sfn|戦史叢書40|1970|pp=34-35|ps=航空作戦現地協定}}。だが「陸軍戦闘機60」は希望的数字であった{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=78}}。 |
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[[九九式双発軽爆撃機]]を主力とする[[第6飛行師団 (日本軍)|第六飛行師団]](師団長[[板花義一]]陸軍中将)は、[[一〇〇式司令部偵察機]]による偵察を実施、つづいてワウとブナ方面の攻撃を行う{{Sfn|戦史叢書40|1970|pp=47a-49|ps=第六飛行師団の作戦準備}}<ref name="奥宮ラバウル229">[[#奥宮ラバウル(学研M文庫)]]229頁</ref>。2月中旬時点での実動戦力は九九双軽16機であった{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=47b}}。 |
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日本海軍側は、[[一式陸上攻撃機]]が連合軍各飛行場に対して、航空撃滅戦を実施した{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=80}}<ref name="叢書九六49">[[#戦史叢書96ガ島撤収後]]49-51頁『事前輸送及び航空撃滅戦』</ref>。だが日本海軍が同方面の航空兵力を半分集結させても、戦闘機約60、艦爆10、陸攻20、水上機10程度だったという<ref name="奥宮ラバウル229" />。ブナ(20日に7機、21日に3機)、[[ポートモレスビー]](21日に4機)、[[ラビ]](22日に7機、27日に2機)に対し、それぞれ夜間爆撃をおこなう{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=48a}}。 |
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八十一号作戦の最大の課題は、船団の航空護衛であった<ref name="叢書九六47">[[#戦史叢書96ガ島撤収後]]47-49頁『八十一号作戦陸海軍航空協定』</ref>。 |
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また輸送船団8隻を護衛するには戦闘機約200が必要とされたが同方面の日本陸軍戦闘機([[一式戦闘機]])は2月末時点で約50機しかなく{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=48a}}、陸軍側は[[連合艦隊]]に[[零式艦上戦闘機]]の派遣を依頼する<ref name="叢書九六47" />。トラック在泊の[[第一航空戦隊]]([[瑞鶴 (空母)|瑞鶴]]、[[瑞鳳 (空母)|瑞鳳]])よりカビエンに進出していた瑞鳳飛行機隊が<ref name="木俣空母445" />、今度はウェワクに進出して作戦に協力することになった{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=81}}<ref name="叢書九六47" />。連合艦隊は、第八十一号作戦に協力するのは瑞鳳飛行機隊だけで十分だと判断している{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=120}}。航空撃滅戦の効果は疑わしかったが{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=48a}}、2月初旬の[[ケ号作戦|ガダルカナル島撤退作戦]]から「航空撃滅戦の成果があがらない場合でも、輸送掩護に力を注げば、輸送作戦成功の見込みは十分ある」との戦訓が得られており、第八十一号作戦ラエ輸送は実施することになった{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=35}}。 |
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日本軍航空戦力の確保と並行して、日本海軍航空隊([[一式陸上攻撃機]]主力)は連合軍の航空戦力を弱体化させるため<ref name="木俣空母446">[[#木俣空母]]446-449頁『船団出発(二月二十八日)』</ref>、[[ポートモレスビー]]および[[ラビ]]方面の連合軍飛行場を敢行する<ref name="叢書九六49">[[#戦史叢書96ガ島撤収後]]49-51頁『事前輸送及び航空撃滅戦』</ref>。 |
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日本陸軍航空隊([[九九式双発軽爆撃機]]主力)<ref name="木俣空母446" />はワウとブナ方面の攻撃を行う<ref name="奥宮ラバウル229">[[#奥宮ラバウル(学研M文庫)]]229頁</ref><ref name="叢書九六49" />。だが日本海軍が同方面の航空兵力を半分集結させても、戦闘機約60、艦爆10、陸攻20、水上機10程度だったという<ref name="奥宮ラバウル229" />。輸送船団8隻を護衛するには戦闘機約200が必要とされたが同方面の日本陸軍戦闘機([[一式戦闘機]])は約90機しかなく<ref name="木俣空母445" />、陸軍側は[[連合艦隊]]に[[零式艦上戦闘機]]の派遣を依頼<ref name="叢書九六47" />。トラック在泊の[[第一航空戦隊]]([[瑞鶴 (空母)|瑞鶴]]、[[瑞鳳 (空母)|瑞鳳]])よりカビエンに進出していた瑞鳳零戦隊が、引き続き作戦に協力することになった<ref name="木俣空母445" /><ref name="叢書九六47" />。 |
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{{main|ラエ・サラモアの戦い#ワウの戦い}} |
{{main|ラエ・サラモアの戦い#ワウの戦い}} |
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現地では1月27日に岡部支隊がワウに侵攻していたが、2月24日までに撤退していた |
現地では1月27日に岡部支隊がワウに侵攻していたが連合軍の増援部隊に撃退され{{Sfn|マッカーサー|2003|p=134}}、2月24日までに撤退していた{{Sfn|日米諜報戦|2016|p=175}}。ウェワク輸送に関しては{{Sfn|戦史叢書102|1980|p=165b|ps=昭和18年(1943年)2月20日 第41師団の第1梯団、東部ニューギニアのウェワク上陸〔38-38、39-81、66-77〕}}、2月20日から26日にかけて第四十一師団(師団長[[阿部平輔]]陸軍中将)約1万3600名の陸兵と輸送物件の揚陸に成功した{{Sfn|戦史叢書40|1970|pp=38a-39|ps=第四十一師団の編制}}<ref>[[#南東方面海軍作戦(2)]]p.7『(二)ウェワク、マダン方面』</ref>。輸送作戦は軽巡洋艦2隻([[大井 (軽巡洋艦)|大井]]、[[北上 (軽巡洋艦)|北上]])、駆逐艦10隻、輸送船11隻でおこなわれ、[[第一航空戦隊]]飛行機隊がウェワク飛行場に進出して上空援護をおこなった{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=38a}}。上陸部隊は、先にウェワクに上陸していた第二十師団や第二特別根拠地隊(海軍)と共に、飛行場の構築・拡張任務を開始した{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=7}}。 |
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本作戦当時、南東方面の日本海軍を指揮していたのは[[南東方面艦隊]]([[第十一航空艦隊 (日本海軍)|第十一航空艦隊]])司令長官[[草鹿任一]]中将であった<ref name="十人提督上310">[[#十人提督(上)]]310-312頁</ref><ref name="jirei1020">{{アジア歴史資料センター|C13072088600|昭和17年12月25日(発令12月24日付)海軍辞令公報(部内限)第1020号 p.46草鹿・中原補職、p.47三和・大前補職}}</ref>。南東方面艦隊(前年12月24日、新編)司令長官[[草鹿任一]]中将は、基地航空部隊(第十一航空艦隊基幹)と外南洋部隊(第八艦隊および連合艦隊他からの増援部隊)から成る南東方面部隊の指揮官であり{{Sfn|戦史叢書77|1974|pp=469-470|ps=南東方面艦隊の新編}}{{Sfn|戦史叢書102|1980|p=533|ps=南東方面部隊}}、南東方面の日本海軍最高責任者であった{{Sfn|提督草鹿任一|1976|pp=119-123|ps=第一、南東方面艦隊司令長官に就任}}。 |
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当時の南東方面には外南洋部隊指揮官[[三川軍一]]中将 |
当時の南東方面には外南洋部隊指揮官[[三川軍一]]中将([[第八艦隊 (日本海軍)|第八艦隊]]司令長官)の指揮の下<ref>[[#S1709八艦隊日誌(6)]]p.10『主隊|(長官)8F|青葉|全作戦支援』</ref>、[[木村昌福]]第三水雷戦隊司令官(外南洋部隊増援部隊指揮官)の外南洋部隊増援部隊([[川内 (軽巡洋艦)|川内]]、[[朝潮 (朝潮型駆逐艦)|朝潮]]、[[荒潮 (駆逐艦)|荒潮]]、[[白雪 (吹雪型駆逐艦)|白雪]]、[[初雪 (吹雪型駆逐艦)|初雪]]、[[皐月 (睦月型駆逐艦)|皐月]]、[[水無月 (睦月型駆逐艦)|水無月]]、[[文月 (睦月型駆逐艦)|文月]]、[[長月 (睦月型駆逐艦)|長月]]、[[雪風 (駆逐艦)|雪風]]、[[時津風 (陽炎型駆逐艦)|時津風]]、[[朝雲 (駆逐艦)|朝雲]]、[[峯雲 (駆逐艦)|峯雲]]、[[浦波 (吹雪型駆逐艦)|浦波]]、[[敷波 (吹雪型駆逐艦)|敷波]]、[[村雨 (白露型駆逐艦)|村雨]]、[[五月雨 (駆逐艦)|五月雨]])が展開していた<ref>[[#S1709八艦隊日誌(6)]]p.9『増援部隊|(司令官)3sd|3sd司令部 川内8dg(朝潮荒潮)11dg(白雪初雪)22dg 16dg(雪風時津風)9dg(朝雲峯雲)19dg(浦波敷波)2dg(村雨五月雨)|敵艦隊撃滅』</ref>。 |
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第三水雷戦隊司令官[[木村昌福]]少将 |
第三水雷戦隊司令官[[木村昌福]]少将を護衛部隊指揮官{{Sfn|戦史叢書66|1980|p=274b}}とする駆逐艦8隻(第11駆逐隊〈[[白雪 (吹雪型駆逐艦)|白雪]]〉、第19駆逐隊〈[[浦波 (吹雪型駆逐艦)|浦波]]、[[敷波 (吹雪型駆逐艦)|敷波]]〉、第8駆逐隊〈[[朝潮 (朝潮型駆逐艦)|朝潮]]、[[荒潮 (駆逐艦)|荒潮]]〉、第9駆逐隊〈[[朝雲 (駆逐艦)|朝雲]]〉、第16駆逐隊〈[[時津風 (陽炎型駆逐艦)|時津風]]、[[雪風 (駆逐艦)|雪風]]〉){{Sfn|戦史叢書40|1970|pp=49-50|ps=現地海軍の作戦指導}}、輸送船8隻(陸軍輸送船7隻〈大井川丸、太明丸、建武丸、帝洋丸、愛洋丸、神愛丸、旭盛丸〉、海軍運送艦1隻〈野島〉){{Sfn|戦史叢書40|1970|p=46|ps=猛作命甲第百五十七号別紙第二、輸送概見表}}の船団が編成された<ref name="奥宮ラバウル242" /><ref name="叢書九六51" />。輸送人員は、猛作命甲第157号乗船区分表によれば5,916名、南東太平洋方面関係電報綴によれば6,912名、井本方面軍参謀業務日誌によれば約7,500であった{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=53a}}。軍需品は約9,300立米、不沈ドラム缶1500本、大発動艇約40隻を搭載した{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=53a}}。航空燃料は建武丸に搭載し、他の輸送船の安全を確保した{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=53a}}。 |
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同船団上空警戒は、[[ |
同船団上空警戒は、海軍側は第二十一航空戦隊(司令官[[市丸利之助]]少将)が戦闘機隊全部を掌握して実施した{{Sfn|戦史叢書40|1970|pp=49-50|ps=現地海軍の作戦指導}}。[[ニューブリテン島]][[ラバウル]]と[[ニューアイルランド島]][[カビエン]]の第204空や第253空および空母[[瑞鳳 (空母)|瑞鳳]]航空隊の零戦合計60機以上{{Sfn|図説太平洋海戦史、第3巻|1995|p=47}}<ref>[[#高松宮六|高松宮日記6巻]]77-78頁『○第一空襲部隊(二-一九四二)三月二日』</ref><ref name="高松宮6巻84">[[#高松宮六|高松宮日記6巻]]84-85頁『○第一空襲部隊(三-一九四七)三月三日(概報244)』</ref>、陸軍側は第6飛行団長[[板花義一]]陸軍中将指揮下の陸軍戦闘機60機以上が担当する{{Sfn|戦史叢書66|1980|p=77}}。船団の直掩の戦闘機隊は、時間帯によって陸軍と海軍が交互に交代する予定であった<ref>[[#マッカーサーと戦った日本軍]]149頁</ref>。 |
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船団の直掩の戦闘機隊は、時間帯によって陸軍と海軍が交互に交代する予定であった<ref>[[#マッカーサーと戦った日本軍]]149頁</ref>。 |
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作戦実施にあたり、[[木村昌福]]少将(三水戦司令官。2月14日発令)<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072089700|昭和18年2月15日(発令2月14日付)海軍辞令公報(部内限)第1053号 p.28}}</ref>は本来の第三水雷戦隊旗艦( |
作戦実施にあたり、[[木村昌福]]少将(三水戦司令官。2月14日発令)<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072089700|昭和18年2月15日(発令2月14日付)海軍辞令公報(部内限)第1053号 p.28}}</ref>は本来の第三水雷戦隊旗艦(軽巡洋艦[[川内 (軽巡洋艦)|川内]])から[[吹雪型駆逐艦|白雪型駆逐艦]][[白雪 (吹雪型駆逐艦)|白雪]](第11駆逐隊)に座乗した{{Sfn|戦場の将器|1997|p=59}}<ref>[[#戦史叢書96ガ島撤収後]]54-55頁『護衛準備』</ref>。各駆逐艦にも陸軍兵と補給物資搭載の指示がなされた<ref name="高松宮6巻50" />。作戦に参加した駆逐艦の対空装備はすべて機銃程度で、対空砲火の不備は作戦失敗後の戦訓でも失敗の一因と指摘されている{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=83}}。輸送船8隻の対空装備も駆逐艦と大同小異で{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=59a}}、こちらも十分とはいえなかった{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=83}}。 |
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日本軍の作戦では、[[2月28日]](3月1日午前0時0分)に[[ラバウル]]を出航し[[3月3日]]夕刻にラエに到着・揚陸予定であった<ref>[[#南東方面海軍作戦(2)]]p.5『(6)航路計畫 三月一日〇〇〇〇ラバウル發船團速力七節、ニューブリテン島北方接岸航路を執り三月三日一七〇〇ラエ泊地着直に揚搭、翌四日日出前揚搭完了、ラエ發往航を逆航ラバウル歸投』</ref |
日本軍の作戦では、[[2月28日]](3月1日午前0時0分)に[[ラバウル]]を出航し[[3月3日]]夕刻にラエに到着・揚陸予定であった{{Sfn|戦史叢書66|1980|p=247b}}<ref>[[#南東方面海軍作戦(2)]]p.5『(6)航路計畫 三月一日〇〇〇〇ラバウル發船團速力七節、ニューブリテン島北方接岸航路を執り三月三日一七〇〇ラエ泊地着直に揚搭、翌四日日出前揚搭完了、ラエ發往航を逆航ラバウル歸投』</ref>。日本陸軍船舶部隊がラエに先行し、事前に揚陸準備をおこなう{{Sfn|戦史叢書40|1970|pp=48b-49|ps=船舶兵団の作戦準備}}。同時に敵航空戦力を空爆により弱体化させる計画であり{{Sfn|戦史叢書66|1980|p=77}}、夜間爆撃がラビ及び[[ポートモレスビー]]に対して行われたが、前述のように航空戦力の過少と天候不良により不十分であった<ref name="叢書九六49" /><ref name="奥宮ラバウル229" /><ref name="NTF(2)33" />。 |
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また[[ラバウル]]に本拠地を置く日本軍基地航空隊([[第十一航空艦隊 (日本海軍)|第十一航空艦隊]]、司令長官[[草鹿任一]]中将〔南東方面艦隊司令長官兼務〕)は、3月3日当日に重巡[[青葉 (重巡洋艦)|青葉]]と雷撃訓練を行うような状態だった<ref name="高松宮6巻75" />。 |
また[[ラバウル]]に本拠地を置く日本軍基地航空隊([[第十一航空艦隊 (日本海軍)|第十一航空艦隊]]、司令長官[[草鹿任一]]中将〔南東方面艦隊司令長官兼務〕)は、3月3日当日に重巡[[青葉 (重巡洋艦)|青葉]]と雷撃訓練を行うような状態だった<ref name="高松宮6巻75" />。 |
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大本営陸軍部はニューギニア方面作戦およびラエ・サラモア地区の得失を非常に重要視しており、「陸海軍あらゆる手段を尽して之を確保すべき」と決意していた{{Sfn|戦史叢書66|1980|pp=79-81}}。護衛部隊の第三水雷戦隊参謀であった半田仁貴知少佐は、八十一号作戦計画担当であった[[第八艦隊 (日本海軍)|第八艦隊]]作戦参謀[[神重徳]]大佐([[海軍兵学校卒業生一覧 (日本)#48期|海軍兵学校48期]])に「この作戦は敵航空戦力によって全滅されるであろうから、中止してはどうか」と申し入れたが、神大佐から「命令だから全滅覚悟でやってもらいたい」と回答されたという<ref name="叢書九六67" />。その作戦を立案した南東方面艦隊(第十一航空艦隊、第八艦隊)の当事者は、成功率は四分六分、あるいは五分五分程度とみていた<ref name="叢書九六67" />。とくに第八艦隊(長官[[三川軍一]]中将、参謀長[[大西新蔵]]少将、参謀[[神重徳]]大佐)では「直衛機を信頼して無理な輸送作戦を計画するのは根本的に誤りである」と判断していた<ref name="叢書九六55" />。[[軍令部]]は「輸送船の半分に損害はあるかもしれぬ」と判断している<ref name="高松宮6巻75" />。八十一号作戦を立案した第八方面軍は、ラエ輸送の成功率は40パーセントから50パーセントとみていた{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=31}}。だがマダン揚陸ではラエまでの移動に時間がかかり、またラエ・サラモア地区の陸軍を早急に支援しなくてはならないため、冒険的作戦ながら実施することになった{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=31}}。 |
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日本陸軍(第八方面軍)は、ラエ輸送の成功率は40パーセントから50パーセントとみていた<ref name="叢書九六45" />。 |
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このように、本作戦はラエ輸送作戦を主張する日本陸軍と、マダンもしくはウェワク輸送を主張した日本海軍(連合艦隊)の、妥協の産物であった<ref name="叢書九六67" />。 |
このように、本作戦はラエ輸送作戦を主張する日本陸軍と、マダンもしくはウェワク輸送を主張した日本海軍(連合艦隊)の、妥協の産物であった{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=78}}<ref name="叢書九六67" />。 |
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出撃の前、野島艦長の松本亀太郎大佐は第8駆逐隊司令の[[佐藤康夫]]大佐に「生還は望めない作戦なので骨だけは拾ってほしい」と頼むと、佐藤大佐は「自分の座乗する『朝潮』が護衛する限り大丈夫だ。『野島』の乗組員は必ず生きて連れて帰る」と返した<ref>[[#豊田全集6巻]]412頁</ref>。 |
出撃の前、野島艦長の松本亀太郎大佐は第8駆逐隊司令の[[佐藤康夫]]大佐に「生還は望めない作戦なので骨だけは拾ってほしい」と頼むと、佐藤大佐は「自分の座乗する『朝潮』が護衛する限り大丈夫だ。『野島』の乗組員は必ず生きて連れて帰る」と返した<ref>[[#豊田全集6巻]]412頁</ref>。 |
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=== 連合軍の準備 === |
=== 連合軍の準備 === |
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一方、連合軍も日本軍がラエ地区の防禦を固めると考え、[[反跳爆撃]](skip bombing)により輸送の阻止を試みた |
一方、連合軍も日本軍がラエ地区の防禦を固めると考えていた{{Sfn|マッカーサー|2003|p=135}}。ニューブリテン島ラバウルに日本軍艦船が集結していること、輸送ルート上に飛行場建設がはじまったことを察知した[[ダグラス・マッカーサー]]大将は、麾下の[[第5空軍 (アメリカ軍)|第5空軍]](司令官{{仮リンク|ジョージ・ケニー|en|George_Kenney|label=ジョージ・ケニー}}中将)部隊に対応を命じる{{Sfn|マッカーサー|2003|p=135}}。連合国軍航空部隊は、[[反跳爆撃]](skip bombing)により日本軍輸送作戦の阻止を試みた{{Sfn|マッカーサー|2003|p=135}}。これは低空・至近距離で海面に爆弾を投下し、海面でジャンプさせ目標に命中させる戦法である{{Sfn|戦史叢書102|1980|p=377|ps=反跳爆撃}}。[[水平爆撃]]に比べ命中率が高い<ref name="木俣空母446" />。反面、低空飛行により対空砲火を受ける確率も高くなるが、増設機銃により敵艦の対空能力を弱めることで被害減少を図った。{{仮リンク|第3作戦群|en|3d Operations Group|label=第3爆撃団}}の{{仮リンク|第90戦闘飛行隊|en|90th Fighter Squadron|label=第90爆撃飛行隊}}には、通常仕様の[[B-25 (航空機)|B-25爆撃機]]から尾部銃座と下部銃塔を除く代わりに前方機銃8丁を備えたB-25C1が配備された<ref name="Craven141">[[#Craven|Craven (1950)]] p. 141.</ref>。また対空装備の乏しい[[駆逐艦]]を日本軍が船団護衛に使用するという情報も連合軍は入手していたとされる。 |
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連合軍は日本軍の船団運航についても事前に把握していた。早くも2月19日に連合軍の情報機関は日本軍のラエ地区への新たな増援について警告し、2月28日には連合軍の情報担当者がラエへの増援部隊上陸日を3月5日、マダンへの増援部隊上陸日を3月12日頃と予報していた<ref name="Craven141" />。連合軍は2月29日に日本軍のラエ輸送に対する警報を発した<ref name="叢書九六65">[[#戦史叢書96ガ島撤収後]]65-67頁『ビスマルク海海戦』</ref>。つづいて3月5日ごろに日本軍がラエに上陸すると判断し、[[アメリカ陸軍航空隊]]と[[オーストラリア空軍]]は[[ポートモレスビー]]や[[ブナ (パプアニューギニア)|ブナ]]に航空機を集結して3月1日には攻撃準備を完了した<ref name="叢書九六65" />。 |
連合軍は日本軍の船団運航についても事前に把握していた。早くも2月19日に連合軍の情報機関は日本軍のラエ地区への新たな増援について警告し、2月28日には連合軍の情報担当者がラエへの増援部隊上陸日を3月5日、マダンへの増援部隊上陸日を3月12日頃と予報していた<ref name="Craven141" />。連合軍は2月29日に日本軍のラエ輸送に対する警報を発した<ref name="叢書九六65">[[#戦史叢書96ガ島撤収後]]65-67頁『ビスマルク海海戦』</ref>。つづいて3月5日ごろに日本軍がラエに上陸すると判断し、[[アメリカ陸軍航空隊]]と[[オーストラリア空軍]]は[[ポートモレスビー]]や[[ブナ (パプアニューギニア)|ブナ]]に航空機を集結して3月1日には攻撃準備を完了した<ref name="叢書九六65" />。 |
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== 戦闘 == |
== 戦闘 == |
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日本軍の輸送船8隻(陸軍第十八軍司令官[[安達二十三]]陸軍中将を含む約 |
日本軍の輸送船8隻(陸軍第十八軍司令官[[安達二十三]]陸軍中将を含む約7000名){{Sfn|戦史叢書66|1980|p=248}}と護衛の[[駆逐艦]]8隻(船団部隊指揮官[[木村昌福]]第三水雷戦隊司令官)からなる輸送船団は{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=81}}{{Sfn|戦史叢書40|1970|pp=53b-55|ps=船団の出航}}、[[2月28日]]午後11時00~30分に[[ニューブリテン島]][[ラバウル]]を出航して港外に集結した<ref name="叢書九六55">[[#戦史叢書96ガ島撤収後]]55-57頁『船団の出撃』</ref><ref name="奥宮ラバウル242">[[#奥宮ラバウル(学研M文庫)]]242頁『魔の三月三日』</ref><ref name="木俣空母446">[[#木俣空母]]446-449頁『船団出発(二月二十八日)』</ref>。 |
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第十八軍戦闘司令所は、駆逐艦[[時津風 (陽炎型駆逐艦)|時津風]]に乗艦した{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=53a}}。第五十一師団長は、最初は駆逐艦[[荒潮 (駆逐艦)|荒潮]]に乗艦予定だったが、実際には駆逐艦[[雪風 (駆逐艦)|雪風]]に乗艦した{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=53a}}。出航時は悪天候で、船団の速力は9ノット程度だった{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=54}}{{Sfn|海軍護衛艦物語|2018|pp=192-193|ps=ダンピール海峡に船団全滅}}。護衛艦(雪風)では、輸送船団の速力に冗談が出るほどだった{{Sfn|大西、艦隊ぐらし|1985|pp=179-181|ps=汝、後進なりや}}。 |
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出航後、各輸送船では食糧庫の中のものを全て厨房へ卸したため、乗船部隊には毎日のように御馳走が振る舞われたという<ref>[[#撃沈船員記録]]108-109頁『越すに越されず』</ref><ref name="撃沈船員180" />。一方で連合軍が投下した[[伝単|宣伝ビラ]]等により出撃前から不安が広がっており、発狂者が続出した<ref name="ダンピールの海">[[#ダンピールの海]]114頁</ref><ref name="撃沈船員180">[[#撃沈船員記録]]118-120頁『恨みは深しダンピール』</ref>。 |
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出航後、各輸送船では食糧庫の中のものを全て厨房へ卸したため、乗船部隊には毎日のように御馳走が振る舞われたという{{Sfn|撃沈船員記録|2008|pp=108-109|ps=越すに越されず}}。一方で連合軍が投下した[[伝単|宣伝ビラ]]等により出撃前から不安が広がっており、発狂者が続出した<ref name="ダンピールの海">[[#ダンピールの海]]114頁</ref>{{Sfn|撃沈船員記録|2008|pp=118-120|ps=恨みは深しダンピール}}。 |
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日本陸軍が防空を担当していた[[3月1日]]午後2時15分、連合軍の[[B-24 (航空機)|B-24爆撃機]]がビスマルク海で船団を発見、接触を続けた |
日本陸軍が防空を担当していた[[3月1日]]午後2時15分、連合軍の[[B-24 (航空機)|B-24爆撃機]]がビスマルク海で船団を発見、接触を続けた{{Sfn|図説太平洋海戦史、第3巻|1995|p=50}}<ref name="叢書九六55" />。陸軍戦闘機は触接機を撃墜できなかった{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=54}}。[[ポートモレスビー]]にはB-17重爆撃機約55、B-24重爆60、B-25中爆約50、B-26中爆約40、A-20軽爆約30、戦闘機計330機が配備されており、ここから戦闘機154機、軽爆34機、中爆41機、重爆39機、計268機が出撃準備を整えた{{Sfn|図説太平洋海戦史、第3巻|1995|p=50}}。3月1日の段階では、日本軍輸送船団の位置は攻撃圏外にあると判断された{{Sfn|図説太平洋海戦史、第3巻|1995|p=50}}<ref name="叢書九六65" />。索敵攻撃に出発したB-17重爆8機は、天候不良のため接敵できなかった<ref name="叢書九六65" />。午後7時から8時にかけて連合軍機が吊光弾を投下したが、船団に対する夜間攻撃はなかった{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=54}}。 |
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[[3月2日]]の日本軍輸送船団上空警戒は、11時45分までは海軍機、それ以降は陸軍機を予定していた<ref name="叢書九六55" />。同日朝、日本軍船団は[[ニューブリテン島]]西端[[グロスター岬]]北東海面を航行していた |
[[3月2日]]の日本軍輸送船団上空警戒は、11時45分までは海軍機、それ以降は陸軍機を予定していた<ref name="叢書九六55" />。同日朝、日本軍船団は[[ニューブリテン島]]西端[[グロスター岬]]北東海面を航行していた{{Sfn|図説太平洋海戦史、第3巻|1995|p=47}}。午前8時以降、[[B-17 (航空機)|B-17爆撃機]]十数機と護衛戦闘機が襲来、B-17隊は船団を高度2000mで水平爆撃をおこなった{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=54}}。輸送船1隻(旭盛丸)が午前8時16時に直撃弾2発を受け、大火災となって午前9時26分に沈没した{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=54}}<ref>[[#南東方面海軍作戦(2)]]p.6『(略)翌二日〇八〇〇前後より敵大型機一〇機の爆撃を受け第五十一師団長乗船の旭盛丸被弾炎上約一時間にして沈没(人員物件は驅逐艦二隻に移載ラエに先行揚陸)した』</ref>。愛洋丸と建武丸が至近弾で若干の被害を受けた{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=54}}。 |
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駆逐艦 |
駆逐艦[[朝雲 (駆逐艦)|朝雲]](第9駆逐隊)と駆逐艦[[雪風 (駆逐艦)|雪風]](第16駆逐隊、第五十一師団長乗艦)が旭盛丸兵員1500名中約900名(戦史叢書40巻では朝雲に819名、戦史叢書96巻では朝雲、雪風に918名)を救助する{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=54}}<ref name="叢書九六55" /><ref name="高松宮6巻96" />。2隻は第9駆逐隊司令[[小西要人]]大佐(朝雲座乗)指揮下で船団から先行し<ref name="叢書九六55" />、ラエへ向かった{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=54}}<ref name="高松宮6巻96">[[#高松宮六|高松宮日記6巻]]96-97頁『八十一号輸送作戦(一)二日被爆沈没、旭盛丸遭難者ヲ搭載シ、二三二〇「朝雲」「雪風」入港、第五十一師団長以下約一〇〇〇名揚陸、〇一三〇出港。(二)三日〇八〇〇フィンシュハーフェン東南50′附近ニテ船団潰滅スルニ至リ、陸海軍協議ノ上、陸軍大発七隻、現場ニ派遣シ救助ニ向ハシメタルモ、敵機ノ妨害ヲ受ケ予定地点ニ到達セズ。四日夜間ラエニ皈着。(三)四日夜間大発ヲ以テサラモア東方40′圏ヲ捜索セシメタルモ漂流者ヲ見ズ(以下略)』</ref>。B-17は1機が撃墜され、14機が損傷した<ref name="木俣空母446" />。零戦の損害は1機だった<ref name="叢書九六55" />。 |
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この事態を受けて、[[第八艦隊 (日本海軍)|第八艦隊]]司令長官[[三川軍一]]中将(外南洋部隊指揮官)は待機していた駆逐艦[[初雪 (吹雪型駆逐艦)|初雪]](第11駆逐隊)に出撃と救援を命じた<ref>[[#高松宮六|高松宮日記6巻]]75頁『○第八艦隊司令長官(二-一〇四二)宛「初雪」、第三水雷戦隊司令官 速ニ出撃、「ラエ」輸送損傷輸送船ヲ救援スベシ。/○第九駆逐隊(二-一二三〇)きょくせい丸人員救助作業終了。大隊長以下将校57名、下士官兵765名、内負傷、陸軍76名。我今ヨリ追及ス』</ref>。第八艦隊司令部(三川長官、大西参謀長、神重徳参謀など)では作戦実施前の憂慮が現実となったことで、悲観的な空気が広がった<ref name="叢書九六55" />。 |
この事態を受けて、[[第八艦隊 (日本海軍)|第八艦隊]]司令長官[[三川軍一]]中将(外南洋部隊指揮官)は待機していた駆逐艦[[初雪 (吹雪型駆逐艦)|初雪]](第11駆逐隊)に出撃と救援を命じた<ref>[[#高松宮六|高松宮日記6巻]]75頁『○第八艦隊司令長官(二-一〇四二)宛「初雪」、第三水雷戦隊司令官 速ニ出撃、「ラエ」輸送損傷輸送船ヲ救援スベシ。/○第九駆逐隊(二-一二三〇)きょくせい丸人員救助作業終了。大隊長以下将校57名、下士官兵765名、内負傷、陸軍76名。我今ヨリ追及ス』</ref>。第八艦隊司令部(三川長官、大西参謀長、神重徳参謀など)では作戦実施前の憂慮が現実となったことで、悲観的な空気が広がった<ref name="叢書九六55" />。 |
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午後 |
午後2時20分以降、B-17爆撃機6機による攻撃があり、直衛戦闘機が応戦した{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=55b}}。爆撃や機銃掃射により各船で若干の死傷者が出た{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=55b}}。午後4時25分以降、B-17爆撃機8機による攻撃があった{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=55b}}。運送艦1隻([[野島 (給炭艦)|野島]])が至近弾で損傷したが、戦闘航海に支障はなかった{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=55b}}<ref>[[#南東方面海軍作戦(2)]]p.6『同日午後敵大型機八機の再度爆撃に依り野島至近弾を受けたが戰闘航海に支障なく任務續行…』</ref>。海軍航空部隊はのべ42機が出動し、敵機体4機撃墜を報じた{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=55b}}。 |
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連合国軍は最初の出撃部隊8機が輸送船2隻撃沈、後続の20機が輸送船3隻炎上、夜中に1機が命中弾2発を報告している{{Sfn|図説太平洋海戦史、第3巻|1995|p=50}}。朝雲と雪風は日没後ラエに到着し、中野師団長と兵員を揚陸に成功した{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=82}}。一方の日本軍輸送船団は予定より2時間はやく進んでいたため、時間調整と偽装のため一旦針路を西方にとり、日没後にビディアス海峡(ロング島とウンボイ島の間)を通過する{{Sfn|図説太平洋海戦史、第3巻|1995|p=47}}。だがオーストラリア軍の[[PBY (航空機)|PBYカタリナ飛行艇]]は夜間も触接を続け、船団の行動を逐次報告していた<ref name="叢書九六55" /><ref name="叢書九六65" />。 |
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[[3月3日]]は快晴で、船団前方に雲がかかっていた<ref name="叢書九六57">[[#戦史叢書96ガ島撤収後]]57-58頁『敵機の来襲状況』</ref>。同日船団防空の取り決めは、日の出から午前11時半までは日本海軍の受け持ちだったため、[[零式艦上戦闘機]]15機前後が1時間交代で哨戒を行う予定だった<ref name="奥宮ラバウル243">[[#奥宮ラバウル(学研M文庫)]]243頁</ref><ref name="叢書九六57" />。空襲時、警戒交代が重複したため、計41機の[[零式艦上戦闘機]]が警戒にあたっていたという |
[[3月3日]]は快晴で{{Sfn|戦史叢書40|1970|pp=55a-58|ps=船団の全滅}}、船団前方に雲がかかっていた<ref name="叢書九六57">[[#戦史叢書96ガ島撤収後]]57-58頁『敵機の来襲状況』</ref>。同日船団防空の取り決めは、日の出から午前11時半までは日本海軍の受け持ちだったため、[[零式艦上戦闘機]]15機前後が1時間交代で哨戒を行う予定だった<ref name="奥宮ラバウル243">[[#奥宮ラバウル(学研M文庫)]]243頁</ref><ref name="叢書九六57" />。空襲時、警戒交代が重複したため、計41機(第一直14機、第二直12機、戦闘末期に第三直15機)の[[零式艦上戦闘機]]が警戒にあたっていたという{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=55b}}<ref name="奥宮ラバウル244">[[#奥宮ラバウル(学研M文庫)]]244頁</ref>。一方、ラエに先行していた朝雲と雪風も船団本隊に戻ってきた{{Sfn|戦場の将器|1997|p=60}}{{Sfn|大西、艦隊ぐらし|1985|pp=181-183|ps=魔の海峡}}。 |
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日本艦隊は、輸送船7隻が右3隻-左4隻の並行縦陣を形成し、その輸送船集団の左右を駆逐艦3隻が守るという陣形を形成していた<ref name="叢書九六59">[[#戦史叢書96ガ島撤収後]]59頁(挿図第四)『三月三日自〇七五〇至〇八三〇間戦闘経過要図』</ref>。まず最右列に先頭より浦波→朝潮→朝雲の順番で駆逐艦3隻が配置され、中央右列に先頭から駆逐艦白雪(三水戦司令官旗艦)と輸送船3隻(帝洋丸、愛洋丸、神愛丸)、中央左列に駆逐艦敷波と輸送船4隻(大井川丸、太明丸、野島、建武丸)、最左列に時津風→荒潮→雪風の順番で駆逐艦が護衛していた |
日本艦隊は、輸送船7隻が右3隻-左4隻の並行縦陣を形成し、その輸送船集団の左右を駆逐艦3隻が守るという陣形を形成していた<ref name="叢書九六59">[[#戦史叢書96ガ島撤収後]]59頁(挿図第四)『三月三日自〇七五〇至〇八三〇間戦闘経過要図』</ref>。まず最右列に先頭より浦波→朝潮→朝雲の順番で駆逐艦3隻が配置され、中央右列に先頭から駆逐艦白雪(三水戦司令官旗艦)と輸送船3隻(帝洋丸、愛洋丸、神愛丸)、中央左列に駆逐艦敷波と輸送船4隻(大井川丸、太明丸、野島、建武丸)、最左列に時津風→荒潮→雪風の順番で駆逐艦が護衛していた{{Sfn|図説太平洋海戦史、第3巻|1995|p=48}}<ref name="叢書九六59" />。 |
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午前7時30分以降、ニューギニアのクレチン岬南東約14海里(約25km)、サラモアから東方約60海里(約110km)地点を航行する日本軍輸送船団に対し、[[P-38 (航空機)|P-38ライトニング双発戦闘機]]と[[P-40 (航空機)|カーチスP-40戦闘機]]に護衛された連合国軍機大部隊が突入する<ref name="奥宮ラバウル243" /><ref name="叢書九六57" />。連合国軍機の機数については資料によって差異があ |
午前7時30分以降、ニューギニアのクレチン岬南東約14海里(約25km)、サラモアから東方約60海里(約110km)地点を航行する日本軍輸送船団に対し、[[P-38 (航空機)|P-38ライトニング双発戦闘機]]と[[P-40 (航空機)|カーチスP-40戦闘機]]に護衛された連合国軍機大部隊が突入する<ref name="奥宮ラバウル243" /><ref name="叢書九六57" />。連合国軍機の機数については資料によって差異があるため{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=55b}}、ここではおおまかな機数のみ記述する<ref name="叢書九六57" />。 |
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まず[[ブリストル ボーフォート|ブリストル・ボーフォート]]約10機が攻撃を試みたが零戦に阻止された<ref name="叢書九六57" />。 |
まず[[ブリストル ボーフォート|ブリストル・ボーフォート]]約10機が攻撃を試みたが零戦に阻止された<ref name="叢書九六57" />。 |
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次いで連合軍の大編隊が襲来。[[ブリストル ボーファイター|ブリストル・ボーファイター]]13機が低空で進入し機銃掃射、B-17爆撃機13機が高高度から爆撃、これを連合国軍戦闘機約50が掩護する |
次いで連合軍の大編隊が襲来。[[ブリストル ボーファイター|ブリストル・ボーファイター]]13機が低空で進入し機銃掃射、B-17爆撃機13機が高高度から爆撃、これを連合国軍戦闘機約50が掩護する{{Sfn|図説太平洋海戦史、第3巻|1995|p=50}}<ref name="叢書九六65" />。零戦隊はB-17隊を最大の脅威とみて迎撃のため高度を上げ、低空への対処が出来なくなる<ref>[[#空母瑞鳳生涯]]131頁</ref>。この時、零戦パイロットは撃墜したB-17爆撃機(瑞鳳零戦が体当たりしたとも)<ref>[[#S1801瑞鳳飛行機隊(1)]]p.50『牧正直|自爆|B-17×1ニ対シ体当リヲ以ツテ之ヲ撃墜セリ』</ref>から脱出した生存者の数名に対して機銃掃射を行った<ref>[[#Gillison]]692-693頁</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.historynet.com/battle-of-the-bismarck-sea.htm |title=Links and Law: Battle of the Bismarck Sea=[[Lawrence Spinetta]] |publisher=[[historynet]] |date=2007-11|accessdate=2014-11-14}}では生存者7名</ref>。 |
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続いて、高度をあげた[[B-25 (航空機)|B-25爆撃機]]13機が中高度で水平爆撃、B-25爆撃機12機が低空で[[反跳爆撃]]をおこなった<ref name="叢書九六65" />。その後も[[A-20 (航空機)|A-20攻撃機]]12機(戦史叢書では機数不詳)、B-25爆撃機6機がさらに反跳爆撃をおこなった<ref name="叢書九六65" />。結局、被害の大部分は低空から侵入した爆撃機の反跳爆撃によるものだった |
続いて、高度をあげた[[B-25 (航空機)|B-25爆撃機]]13機が中高度で水平爆撃、B-25爆撃機12機が低空で[[反跳爆撃]]をおこなった<ref name="叢書九六65" />。その後も[[A-20 (航空機)|A-20攻撃機]]12機(戦史叢書では機数不詳)、B-25爆撃機6機がさらに反跳爆撃をおこなった<ref name="叢書九六65" />。結局、被害の大部分は低空から侵入した爆撃機の反跳爆撃によるものだった{{Sfn|図説太平洋海戦史、第3巻|1995|p=49}}<ref>[[#南東方面海軍作戦(2)]]p.6『〇八〇〇より新戰法(中型爆撃機に搭載した爆弾を低高度にて投下し其の水面反跳力を利用し艦船の舷側に命中せしめ舷側破口より浸水沈没せしめる方法)に依る猛爆撃を受け船團、護衛艦相次で被害を生じ〇八一〇頃迄に全輸送船炎上、驅逐艦二隻沈没、一隻大破するの大損害を蒙りラエ輸送の目的は完全に破砕せられた』</ref>。 |
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輸送船7隻と駆逐艦3隻(白雪、荒潮、時津風)が被弾<ref name="高松宮6巻81">[[#高松宮六|高松宮日記6巻]]81頁『三、護衛隊(イ)「白雪」〇九三五沈没(「敷波」救援)。(ロ)「荒潮」艦橋及二番砲被爆、舵故障、「野島」ト衝突、艦首大破、兵科士官全部戦死(「朝潮」救援)。(ハ)「時津風」機関室右舷ニ被雷、航行不能(「雪風」救援)、「敷波」「朝潮」「雪風」「浦波」「朝雲」被害軽微ナリ、戦闘航海差支ナシ。』</ref><ref name="叢書九六57" />。さらに直撃弾で艦橋を破壊され舵故障に陥った荒潮は |
約20分間の空襲により、輸送船7隻と駆逐艦3隻(白雪、荒潮、時津風)が被弾して戦闘不能となる{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=56}}<ref name="高松宮6巻81">[[#高松宮六|高松宮日記6巻]]81頁『三、護衛隊(イ)「白雪」〇九三五沈没(「敷波」救援)。(ロ)「荒潮」艦橋及二番砲被爆、舵故障、「野島」ト衝突、艦首大破、兵科士官全部戦死(「朝潮」救援)。(ハ)「時津風」機関室右舷ニ被雷、航行不能(「雪風」救援)、「敷波」「朝潮」「雪風」「浦波」「朝雲」被害軽微ナリ、戦闘航海差支ナシ。』</ref><ref name="叢書九六57" />。さらに直撃弾で艦橋を破壊され舵故障に陥った荒潮は{{Sfn|撃沈船員記録|2008|pp=93-96}}、野島と衝突した<ref name="高松宮6巻81" /><ref name="高松宮6巻86" />。建武丸(三光汽船:953総トン)、愛洋丸(東洋汽船:2,746総トン)および駆逐艦[[白雪 (吹雪型駆逐艦)|白雪]](第三水雷戦隊旗艦)が沈没した<ref name="叢書九六60" />。木村司令官は機銃掃射により重傷を負い、敷波に移乗して旗艦を変更した<ref name="高松宮6巻81" /><ref name="叢書九六57" />。 |
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連合軍機はB-17重爆1機、P-38ライトニング3機を喪失した<ref name="叢書九六65" />。 |
連合軍機はB-17重爆1機、P-38ライトニング3機を喪失した<ref name="叢書九六65" />。 |
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第十八軍戦闘司令所は時津風に乗艦していたが、同艦の被弾航行不能により雪風に移乗した{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=57}}。第十八軍司令官安達中将はフィンシュハーフェンかマダンへの上陸を希望したが、海軍側は残存燃料や生存者救助の観点から同意しなかった{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=57}}。ラバウルでは、第八方面軍(今村中将)が南東方面艦隊(草鹿中将)に対し、残存駆逐艦によるフィンシュもしくはマダン上陸をおこなうよう交渉したが、実現しなかった{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=57}}。 |
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連合軍機撤収後の8時30分以降、残存駆逐艦5隻(損傷軽微〈浦波、敷波、朝潮〉、損傷なし〈朝雲、雪風〉)は沈没艦の生存者救助活動を開始する<ref name="叢書九六61">[[#戦史叢書96ガ島撤収後]]61-63頁『遭難者の救助』</ref>。しかし10時35分頃に敵機再来襲(敵機24機発進、発信者不詳)との報が入り、木村司令官(敷波座乗)は「救助作業中止、全艦北方に避退せよ」との命令を下す<ref name="叢書九六61" />。 |
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ところが第8駆逐隊司令駆逐艦[[朝潮 (朝潮型駆逐艦)|朝潮]](駆逐隊司令[[佐藤康夫]]大佐)は『我野島艦長トノ約束アリ 野島救援ノ後避退ス』と発信<ref name="叢書九六61" />。駆逐艦4隻(敷波、浦波、朝雲、雪風)は北上して戦場を離脱、朝潮は単艦で野島の救援に向かった<ref name="叢書九六61" /><ref>[[#戦場の将器]]63頁</ref>。野島に近づいたところ、近くに航行不能となった姉妹艦[[荒潮 (駆逐艦)|荒潮]](第8駆逐隊)が漂流しており、朝潮は荒潮の陸軍兵士と負傷者を収容して避退に移った(荒潮は残留乗組員により北方への退避を続行)<ref name="高松宮6巻82">[[#高松宮六|高松宮日記6巻]]82頁『○増援部隊(四-〇一三五)二三一五「雪風」ハ「荒潮」ヲ発見、人員146名収容セリ。「荒潮」第二次攻撃ノ為更ニ大破、浸水、傾斜次第ニ増大シ沈没確実ト認ム。右ノ外、艦船其ノ他ヲ認メズ。〇一〇〇救援作業ヲ打切リ北上ス。燃料ノ関係上、カビエンニテ「川内」ヨリ補給ノ上、ラボール回航ス』</ref><ref name="高松宮6巻86">[[#高松宮六|高松宮日記6巻]]86頁『○第十六駆逐隊(四-〇二一五)〇〇一五「荒潮」ノ現乗員全部約一七〇名、「雪風」ニ収容。同艦三日午前ノ空襲ニヨリ艦橋及二番砲被弾、舵取装置故障ニヨリ「野島」ト衝突、艦首圧潰ス。間モナク陸兵並負傷者ヲ「朝潮」ニ移乗セシメタル後、北方ニ避退中、午後再ビ被弾、航行全ク不能ニ陥リ漂流中「雪風」ニ発見セラレタルモノナリ。「雪風」到着時、既ニ左舷ニ約30°傾斜、上甲板水線水面ニ接シアル情況ニテ、漸次傾斜ヲ増大、放置スルモ自沈確実ナリト認メタルヲ以テ処分ヲ取止ム(以下略)』</ref><ref name="草鹿ラバウル82">[[#草鹿ラバウル]]82頁(松本亀太郎大佐の手記より)</ref>。 |
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直後にB-17爆撃機16機、A-20攻撃機12機、B-25爆撃機10機、ブリストル・ボーファイター5機、[[P-38 (航空機)|P-38戦闘機]]11機が船団を攻撃、神愛丸(岸本汽船:3,793総トン)、太明丸(日本郵船:2,883総トン)、帝洋丸(帝国船舶:6863総トン、元独船''Saarland'')、野島が被弾沈没した<ref name="叢書九六60">[[#戦史叢書96ガ島撤収後]]60-61頁『被害の状況』</ref>。被弾し航行不能となっていた大井川丸(東洋海運:6,494総トン)はその夜、アメリカ軍魚雷艇の攻撃で沈没した<ref name="図説3巻52">[[#図説太平洋海戦史第3巻]]52頁</ref><ref name="叢書九六65" />。 |
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連合軍機は午前8時30分までに戦場から去った{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=56}}。ダンピア海峡の潮流は流速1.5ノットもあり、沈没船から海上に脱出した生存者は流されはじめた{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=56}}。残存駆逐艦5隻(損傷軽微〈浦波、敷波、朝潮〉、損傷なし〈朝雲、雪風〉)は沈没艦の生存者救助活動を開始する<ref name="叢書九六61">[[#戦史叢書96ガ島撤収後]]61-63頁『遭難者の救助』</ref>。しかし10時35分頃に敵機再来襲(敵機24機発進、発信者不詳)との報が入り、木村司令官(敷波座乗)は「救助作業中止、全艦北方に避退せよ」との命令を下す<ref name="叢書九六61" />。 |
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健在だった駆逐艦朝潮は付近を行動していた日本軍艦船の中で唯一行動可能だったため集中攻撃を受けて航行不能となり、総員退去に追い込まれた<ref name="高松宮6巻106">[[#高松宮六|高松宮日記6巻]]106-107頁『○第八艦隊司令長官(八-一九三一)「野島」艦長(松本大佐)第八一号作戦概報』</ref>。朝潮乗艦者のうち一部(野島特務艦長[[松本亀太郎]]大佐を含む)は[[大発動艇]]や[[カッターボート]]に乗り、3日間の漂流の後に日本軍に救助されたが、朝潮艦長[[吉井五郎]]中佐のほか、荒潮艦長[[久保木英雄]]中佐、第8駆逐隊司令[[佐藤康夫]]大佐以下299名は戦死した<ref>[[#戦場の将器]]64頁</ref><ref name="叢書九六61" /><ref>[[#草鹿ラバウル]]87頁</ref>。 |
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ところが第8駆逐隊司令駆逐艦[[朝潮 (朝潮型駆逐艦)|朝潮]](駆逐隊司令[[佐藤康夫]]大佐)は『我野島艦長トノ約束アリ 野島救援ノ後避退ス』と発信<ref name="叢書九六61" />。駆逐艦4隻(敷波、浦波、朝雲、雪風)は北上して戦場を離脱、朝潮は単艦で野島の救援に向かった<ref name="叢書九六61" />{{Sfn|戦場の将器|1997|p=63}}。野島に近づいたところ、近くに航行不能となった姉妹艦[[荒潮 (駆逐艦)|荒潮]](第8駆逐隊)が漂流しており、朝潮は荒潮の陸軍兵士と負傷者を収容して避退に移った(荒潮は残留乗組員により北方への退避を続行)<ref name="高松宮6巻82">[[#高松宮六|高松宮日記6巻]]82頁『○増援部隊(四-〇一三五)二三一五「雪風」ハ「荒潮」ヲ発見、人員146名収容セリ。「荒潮」第二次攻撃ノ為更ニ大破、浸水、傾斜次第ニ増大シ沈没確実ト認ム。右ノ外、艦船其ノ他ヲ認メズ。〇一〇〇救援作業ヲ打切リ北上ス。燃料ノ関係上、カビエンニテ「川内」ヨリ補給ノ上、ラボール回航ス』</ref><ref name="高松宮6巻86">[[#高松宮六|高松宮日記6巻]]86頁『○第十六駆逐隊(四-〇二一五)〇〇一五「荒潮」ノ現乗員全部約一七〇名、「雪風」ニ収容。同艦三日午前ノ空襲ニヨリ艦橋及二番砲被弾、舵取装置故障ニヨリ「野島」ト衝突、艦首圧潰ス。間モナク陸兵並負傷者ヲ「朝潮」ニ移乗セシメタル後、北方ニ避退中、午後再ビ被弾、航行全ク不能ニ陥リ漂流中「雪風」ニ発見セラレタルモノナリ。「雪風」到着時、既ニ左舷ニ約30°傾斜、上甲板水線水面ニ接シアル情況ニテ、漸次傾斜ヲ増大、放置スルモ自沈確実ナリト認メタルヲ以テ処分ヲ取止ム(以下略)』</ref>{{Sfn|ラバウル戦線異状なし|1958|p=82|ps=(松本亀太郎大佐の手記より)}}。 |
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午前11時20分頃、陸軍航空部隊(第十二飛行団14機)がダンピール海峡上空に到達した{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=57}}。午後には零戦8機が海峡上空に進出した{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=57}}。午後1時15分頃より、連合軍機約40機が来襲した{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=57}}。B-17爆撃機16機、A-20攻撃機12機、B-25爆撃機10機、ブリストル・ボーファイター5機、[[P-38 (航空機)|P-38戦闘機]]11機の攻撃により、神愛丸(岸本汽船:3,793総トン)、太明丸(日本郵船:2,883総トン)、帝洋丸(帝国船舶:6863総トン、元独船''Saarland'')、野島が被弾沈没した<ref name="叢書九六60">[[#戦史叢書96ガ島撤収後]]60-61頁『被害の状況』</ref>。被弾し航行不能となっていた大井川丸(東洋海運:6,494総トン)はその夜、アメリカ軍魚雷艇の攻撃で沈没した{{Sfn|図説太平洋海戦史、第3巻|1995|p=52}}<ref name="叢書九六65" />。 |
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北方に退避した駆逐艦4隻(敷波、浦波、朝雲、雪風)は救援のため到着した駆逐艦[[初雪 (吹雪型駆逐艦)|初雪]]と合同、[[カビエン]](敷波、朝雲、雪風)やラバウル(浦波、初雪)へ向かった<ref>[[#南東方面海軍作戦(2)]]p.6『午後残存驅逐艦四隻竝にカビエンより救援の爲來會した驅逐艦一隻を以て遭難者を捜索救助し四日〇〇四〇捜索を打切りダンピール海峡を北上カビエン及ラバウルに分離歸投した』</ref><ref name="高松宮6巻104">[[#高松宮六|高松宮日記6巻]]104-105頁『○増援部隊(六-一七一九)戦闘概報』</ref>。 |
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健在だった駆逐艦朝潮は付近を行動していた日本軍艦船の中で唯一行動可能だったため集中攻撃を受けて航行不能となり、総員退去に追い込まれた<ref name="高松宮6巻106">[[#高松宮六|高松宮日記6巻]]106-107頁『○第八艦隊司令長官(八-一九三一)「野島」艦長(松本大佐)第八一号作戦概報』</ref>。朝潮乗艦者のうち一部(野島特務艦長[[松本亀太郎]]大佐を含む)は[[大発動艇]]や[[カッターボート]]に乗り、3日間の漂流の後に日本軍に救助されたが、朝潮艦長[[吉井五郎]]中佐のほか、荒潮艦長[[久保木英雄]]中佐、第8駆逐隊司令[[佐藤康夫]]大佐以下299名は戦死した{{Sfn|戦場の将器|1997|p=64}}<ref name="叢書九六61" />{{Sfn|ラバウル戦線異状なし|1958|p=87}}。 |
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入れ違いで第2駆逐隊司令[[橘正雄]]大佐指揮下<ref name="十人提督下16" />の駆逐艦2隻(第2駆逐隊〈[[村雨 (白露型駆逐艦)|村雨]]〉、第9駆逐隊〈[[峯雲 (駆逐艦)|峯雲]]〉)がラバウルから[[コロンバンガラ島]]へ出撃して行った(2隻は[[3月5日]]の[[ビラ・スタンモーア夜戦]]で沈没)<ref>[[#高松宮六|高松宮日記6巻]]87頁『三月五日(金)晴(略)一九〇〇航空局長官(航空要員養成ニツキ)。「ムンダ」「コロンバンガラ」敵艦砲撃。「村雨」「峯雲」沈没。』</ref><ref>[[#奥宮ラバウル(学研M文庫)]]238頁</ref>。 |
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同日午後、陸軍飛行機隊からの通報で船団の遭難を知った第五十一師団長(雪風により、既にラエに上陸)は、揚陸に備えて現地で待機していた船舶工兵部隊より[[大発動艇]]7隻を遭難者救助のために派遣した{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=58a}}。北方に退避した駆逐艦4隻(敷波、浦波、朝雲、雪風)は、救援のため到着した駆逐艦[[初雪 (吹雪型駆逐艦)|初雪]](第11駆逐隊)と合同する<ref>[[#南東方面海軍作戦(2)]]p.6『午後残存驅逐艦四隻竝にカビエンより救援の爲來會した驅逐艦一隻を以て遭難者を捜索救助し四日〇〇四〇捜索を打切りダンピール海峡を北上カビエン及ラバウルに分離歸投した』</ref>。安達中将(第十八軍司令官)は初雪に移乗した{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=57}}。浦波と初雪(陸軍兵両隻合計約2,700名乗艦)はラバウルに向かった{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=57}}<ref name="高松宮6巻104">[[#高松宮六|高松宮日記6巻]]104-105頁『○増援部隊(六-一七一九)戦闘概報』</ref>。 |
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日没後、敷波・朝雲・雪風は遭難現場へ戻り生存者を捜索した<ref>[[#豊田全集6巻]]412頁</ref>。 |
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日没後、3隻(敷波、朝雲、雪風)は遭難現場へ戻り生存者を捜索した{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=57}}<ref>[[#豊田全集6巻]]412頁</ref>。 |
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駆逐艦荒潮は、雪風に乗員を収容後、放棄された<ref name="高松宮6巻86" /><ref name="高松宮6巻104" />。翌日(4日)、B-17の爆撃によって500ポンド爆弾が第一煙突に命中、沈没した<ref name="叢書九六60" />。乗員を雪風に移乗させたのち放棄されて漂流する[[時津風 (陽炎型駆逐艦)|時津風]]は3月4日になり日本軍航空隊により爆撃されるも失敗、日本側は処分のため潜水艦を派遣する事態になる<ref>[[#高松宮六|高松宮日記6巻]]99頁『○南東方面艦隊(五-二三二五)』</ref><ref name="叢書九六60" />。だが、時津風は同日午後、アメリカ軍機の攻撃で沈没した<ref name="叢書九六60" />。 |
駆逐艦荒潮は、雪風に乗員を収容後、放棄された<ref name="高松宮6巻86" /><ref name="高松宮6巻104" />。翌日(4日)、B-17の爆撃によって500ポンド爆弾が第一煙突に命中、沈没した<ref name="叢書九六60" />。乗員を雪風に移乗させたのち放棄されて漂流する[[時津風 (陽炎型駆逐艦)|時津風]]は3月4日になり日本軍航空隊により爆撃されるも失敗、日本側は処分のため潜水艦を派遣する事態になる<ref>[[#高松宮六|高松宮日記6巻]]99頁『○南東方面艦隊(五-二三二五)』</ref><ref name="叢書九六60" />。だが、時津風は同日午後、アメリカ軍機の攻撃で沈没した<ref name="叢書九六60" />。 |
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空母[[瑞鳳 (空母)|瑞鳳]]から派遣されていた戦闘機隊は18機(文献によっては15機)<ref name="木俣空母445" />が戦闘に参加し(当初15機、増援3機)<ref>[[#S1801瑞鳳飛行機隊(1)]]p.50『参加機種及ビ機數』</ref>、2名が戦死した<ref>[[#空母瑞鳳生涯]]133頁</ref><ref>[[#S1801瑞鳳飛行機隊(1)]]p.49『自爆|2機/戰死者|2名』</ref>。日本側全体では戦闘機5機が自爆乃至未帰還となっている<ref>[[#南東方面海軍航空作戦(3)]]p.33『3-3|ラエ増援部隊輸送部隊上空直衛 fc fb×100來襲|fc×5自、未/輸送船T×6全部炎上/d×3沈没|fb×10 fc×15ムンダ/f×10 ブイン/A-20×3 fc×24)ラエ|fb×2撃墜』</ref>。 |
空母[[瑞鳳 (空母)|瑞鳳]]から派遣されていた戦闘機隊は18機(文献によっては15機)<ref name="木俣空母445" />が戦闘に参加し(当初15機、増援3機)<ref>[[#S1801瑞鳳飛行機隊(1)]]p.50『参加機種及ビ機數』</ref>、2名が戦死した<ref>[[#空母瑞鳳生涯]]133頁</ref><ref>[[#S1801瑞鳳飛行機隊(1)]]p.49『自爆|2機/戰死者|2名』</ref>。日本側全体では戦闘機5機が自爆乃至未帰還となっている<ref>[[#南東方面海軍航空作戦(3)]]p.33『3-3|ラエ増援部隊輸送部隊上空直衛 fc fb×100來襲|fc×5自、未/輸送船T×6全部炎上/d×3沈没|fb×10 fc×15ムンダ/f×10 ブイン/A-20×3 fc×24)ラエ|fb×2撃墜』</ref>。日本陸軍航空隊は救助作業をおこなう大発動艇の掩護をおこない、海軍航空隊は帰還駆逐艦の掩護をおこなった(3月5日、陸攻6と零戦17が出撃し、救命具を投下){{Sfn|戦史叢書40|1970|p=58a}}。 |
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[[3月4日]]午前10時、安達中将と遭難将兵を乗せた浦波と初雪はラバウルに入港した{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=60}}。3隻(敷波、朝雲、雪風)はカビエンで軽巡洋艦[[川内 (軽巡洋艦)|川内]]から燃料を補給したのち<ref name="高松宮6巻82" />、[[3月5日]]午前11時ラバウルに入港した{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=57}}。入れ違いで第2駆逐隊司令[[橘正雄]]大佐指揮下<ref name="十人提督下16" />の駆逐艦[[村雨 (白露型駆逐艦)|村雨]]と[[峯雲 (駆逐艦)|峯雲]]がラバウルから[[コロンバンガラ島]]へ出撃して行った(2隻は同日深夜の[[ビラ・スタンモーア夜戦]]で沈没)<ref>[[#高松宮六|高松宮日記6巻]]87頁『三月五日(金)晴(略)一九〇〇航空局長官(航空要員養成ニツキ)。「ムンダ」「コロンバンガラ」敵艦砲撃。「村雨」「峯雲」沈没。』</ref><ref>[[#奥宮ラバウル(学研M文庫)]]238頁</ref>。 |
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この時、連合軍は航空機や魚雷艇により、漂流する日本軍将兵を虐殺したとされる<ref name="叢書九六65" /><ref name="日米諜報戦180">[[#日米諜報戦]]180-182頁『米軍、漂流生存者も射殺』</ref><ref>[[#撃沈船員記録]]111-112頁</ref>。3月4日時点で、時津風漂流地点周辺には人員約1000名、短艇20から30隻が漂流していた<ref name="叢書九六61" />。日本軍航空隊は生存者に対し、救命具やゴム浮舟を投下<ref name="叢書九六61" />。しかし日本軍潜水艦(伊17)を追い払ったアメリカ軍魚雷艇複数隻が、救助作業中の日本軍小型艇を撃沈したのち、機銃掃射を加えたのである<ref name="モリソン225" /><ref>[[#高松宮六|高松宮日記6巻]]91-92頁『○伊一七潜(五-一八三五)一.〇五〇〇7°-28′S 148°-27′Eニテ短艇二隻ヲ発見近接中、敵魚雷艇二隻ノ来襲ヲ受ケ潜航、爾後二時間ニ亘リ追躡(爆雷攻撃三回)ヲ受ケ、短艇ハ魚雷艇ヨリ機銃掃射ヲ受ケオレリ。二.駆逐艦漂流地点附近捜索セルモ発見セズ。三.収容人員三四名(内重傷一)』</ref>。連合軍側は後に、日本軍兵士は救助されると速やかに現場へ復帰する<ref>[[#Gillison]]694-695頁</ref>、捕虜となったとみせかけて米兵に襲いかかる<ref name="モリソン225" />、先のB-17爆撃機の生存者への機銃掃射に対する報復<ref>{{Cite web|url=http://www.historynet.com/battle-of-the-bismarck-sea.htm |title=Links and Law: Battle of the Bismarck Sea=[[Lawrence Spinetta]] |publisher=[[historynet]] |date=2007-11|accessdate=2014-11-14}}</ref>等の理由をあげ、この行為を正当化した<ref name="モリソン225" />。 |
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3月3日の輸送船団全滅時、連合軍は航空機や魚雷艇により、漂流する日本軍将兵を虐殺したとされる{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=57}}{{Sfn|日米諜報戦|2016|pp=180a-182|ps=米軍、漂流生存者も射殺}}{{Sfn|撃沈船員記録|2008|pp=11-112}}。3月4日にも、米陸軍航空隊や豪空軍の航空機が漂流する日本軍将兵を機銃掃射したとの記録もある。4日時点で、時津風漂流地点周辺には人員約1000名、短艇20から30隻が漂流していた<ref name="叢書九六61" />。しかし日本軍潜水艦(伊17)を追い払ったアメリカ軍魚雷艇複数隻が、救助作業中の日本軍小型艇を撃沈したのち、機銃掃射を加えたのである{{Sfn|モリソンの太平洋海戦史|2003|pp=225-226}}<ref>[[#高松宮六|高松宮日記6巻]]91-92頁『○伊一七潜(五-一八三五)一.〇五〇〇7°-28′S 148°-27′Eニテ短艇二隻ヲ発見近接中、敵魚雷艇二隻ノ来襲ヲ受ケ潜航、爾後二時間ニ亘リ追躡(爆雷攻撃三回)ヲ受ケ、短艇ハ魚雷艇ヨリ機銃掃射ヲ受ケオレリ。二.駆逐艦漂流地点附近捜索セルモ発見セズ。三.収容人員三四名(内重傷一)』</ref>。連合軍側は後に、日本軍兵士は救助されると速やかに現場へ復帰する<ref>[[#Gillison]]694-695頁</ref>、捕虜となったとみせかけて米兵に襲いかかる{{Sfn|モリソンの太平洋海戦史|2003|pp=225-226}}、先のB-17爆撃機の生存者への機銃掃射に対する報復<ref>{{Cite web|url=http://www.historynet.com/battle-of-the-bismarck-sea.htm |title=Links and Law: Battle of the Bismarck Sea=[[Lawrence Spinetta]] |publisher=[[historynet]] |date=2007-11|accessdate=2014-11-14}}</ref>等の理由をあげ、この行為を正当化した{{Sfn|モリソンの太平洋海戦史|2003|pp=225-226}}。 |
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3月4日にも、米陸軍航空隊や豪空軍の航空機が漂流する日本軍将兵を機銃掃射したとの記録もある。 |
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{{Quotation|「決して男らしいやり方とは言えなかった」と第五爆撃隊のある少佐は戦闘記録の中で報告している。「隊員の中には気分の悪くなる者もあった。しかし心に刻んでおかなければならないことは、敵はわれわれを殺すために、そしてわれわれは敵を殺すために、こうして戦っているのだということだ。戦争は遊びではない」|[[ジョン・ダワー]]/[[斎藤元一]]訳『容赦なき戦争』137項}} |
{{Quotation|「決して男らしいやり方とは言えなかった」と第五爆撃隊のある少佐は戦闘記録の中で報告している。「隊員の中には気分の悪くなる者もあった。しかし心に刻んでおかなければならないことは、敵はわれわれを殺すために、そしてわれわれは敵を殺すために、こうして戦っているのだということだ。戦争は遊びではない」|[[ジョン・ダワー]]/[[斎藤元一]]訳『容赦なき戦争』137項}} |
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なお、アメリカ軍は |
なお、アメリカ軍は帝洋丸の救命ボートより日本陸軍将校実役定年名簿(昭和17年10月15日調制)を押収、その名簿には[[東条英機]]陸軍大将から中隊長級に至る日本陸軍将校約4万人の氏名と配備部隊と職種が書かれていたという{{Sfn|日米諜報戦|2016|pp=180b-182}}。 |
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一方、日本陸軍は[[大発動艇]]部隊を派遣したが、3月3日の救助はアメリカ軍機の妨害で失敗、3月4日以降は救助を実施した<ref name="高松宮6巻96" />。 |
一方、日本陸軍はラエに待機していた船舶部隊より[[大発動艇]]部隊を派遣したが{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=57}}、3月3日の救助はアメリカ軍機の妨害で失敗、3月4日以降は救助を実施した<ref name="高松宮6巻96" />。同日、日本海軍は、漂流する時津風の雷撃処分(前述)および生存者救助のため潜水艦を派遣する<ref>[[#高松宮六|高松宮日記6巻]]89頁『○南東方面艦隊(四-一八二七)』</ref>{{Sfn|戦史叢書98|1979|pp=230-231|ps=増援遮断作戦}}。 |
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[[伊号第十七潜水艦|伊17]]は3月4日深夜現場着<ref>[[#高松宮六|高松宮日記6巻]]85頁『○伊一七潜(四-一〇〇八)四-一〇〇〇(略)二三〇〇船団遭難現場着。』</ref>。派遣された[[呂号第百一潜水艦|呂101]]と[[呂号第百三潜水艦|呂103]]のうち、呂101は野島艦長以下44名(合計45名)を収容して3月9日ラバウルに帰投した<ref name="叢書九六61" />{{Sfn|戦史叢書98|1979|pp=230-231|ps=増援遮断作戦}}。 |
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呂103は座礁事故を起こして引き返し<ref>{{Cite book|和書|author=[[防衛研究所|防衛庁防衛研修所]]戦史室|title=海上護衛戦|publisher=朝雲新聞社|series=[[戦史叢書]]|date=1979|page=231頁}}</ref>、3月17日に帰投した{{Sfn|戦史叢書98|1979|pp=230-231|ps=増援遮断作戦}}。 |
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[[伊号第十七潜水艦|伊17]]は3月4日深夜現場着<ref>[[#高松宮六|高松宮日記6巻]]85頁『○伊一七潜(四-一〇〇八)四-一〇〇〇(略)二三〇〇船団遭難現場着。』</ref>。派遣された[[呂号第百一潜水艦|呂101]]と[[呂号第百三潜水艦|呂103]]のうち、呂101は野島艦長以下44名(合計45名)を収容して3月9日ラバウルに帰投した<ref name="叢書九六61" /><ref name="叢書九八230" />。 |
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3月6日、負傷した木村昌福少将は第三水雷戦隊司令官を解任され、後任司令官には[[江戸兵太郎]]少将が任命された<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072089900|昭和18年3月6日(発令3月6日付)海軍辞令公報(部内限)第1064号 p.29}}</ref>。伊17<ref>[[#高松宮六|高松宮日記6巻]]99頁『○伊十七潜(六-一六二〇)』</ref>や[[伊号第二十六潜水艦|伊26]]<ref>[[#高松宮六|高松宮日記6巻]]99-100頁『○伊26潜(六-二一〇九)』</ref><ref>[[#佐藤 艦長続編(文庫)]]307-308頁</ref>は同日も救助活動を実施した。伊26は3月8日にグッドイナフ島西方の小島で54名、3月9日に40名を収容、またそれ以降も沈没船乗組員や陸軍兵少数が陸岸に漂着している<ref name="叢書九六61" />{{Sfn|ラバウル戦線異状なし|1958|pp=88-92}}。たとえば大井川丸が沈没した際、乗船中の歩兵第115聯隊は[[軍旗]]・陸兵・大井川丸船員合計31名が救助艇で脱出、機銃掃射や衰弱により15名が戦死したのち[[4月2日]]になってニューブリテン島マーカス岬西方10km沖合のブツマテレ島に上陸した{{Sfn|戦史叢書40|1970|pp=62-65|ps=歩兵第百十五聯隊軍旗の奇蹟的帰還}}。しかし、陸上に漂着した者の大部分は、現地住民に殺害されたと思われる<ref name="叢書九六65" />{{Sfn|撃沈船員記録|2008|pp=117-118}}。 |
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呂103は座礁事故を起こして引き返し<ref>{{Cite book|和書|author=[[防衛研究所|防衛庁防衛研修所]]戦史室|title=海上護衛戦|publisher=朝雲新聞社|series=[[戦史叢書]]|date=1979|page=231頁}}</ref>、3月17日に帰投した<ref name="叢書九八230" />。 |
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3月6日、負傷した木村昌福少将は第三水雷戦隊司令官を解任され、後任司令官には[[江戸兵太郎]]少将が任命された<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072089900|昭和18年3月6日(発令3月6日付)海軍辞令公報(部内限)第1064号 p.29}}</ref>。伊17<ref>[[#高松宮六|高松宮日記6巻]]99頁『○伊十七潜(六-一六二〇)』</ref>や[[伊号第二十六潜水艦|伊26]]<ref>[[#高松宮六|高松宮日記6巻]]99-100頁『○伊26潜(六-二一〇九)』</ref><ref>[[#佐藤 艦長続編(文庫)]]307-308頁</ref>は同日も救助活動を実施した。伊26は3月8日にグッドイナフ島西方の小島で54名、3月9日に40名を収容、またそれ以降も沈没船乗組員や陸軍兵少数が陸岸に漂着している<ref name="叢書九六61" /><ref>[[#草鹿ラバウル]]88-92頁</ref>。しかし、陸上に漂着した者の大部分は、現地住民に殺害されたと思われる<ref name="叢書九六65" /><ref>[[#撃沈船員記録]]117-118頁</ref>。 |
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<!-- 3月8日、ビスマルク海海戦を生き残った各艦と長月を加えた駆逐艦5隻(朝雲、雪風、浦波、敷波)に長月を加えた駆逐艦5隻はコロンバンガラ島への鼠輸送を実施、13日にも駆逐艦3隻(朝雲、雪風、長月)が再びコロンバンガラへの輸送作戦を行った<ref>戦史叢書96巻南東方面海軍作戦(3)ガ島撤収後 77-78頁『その他の三月中の中部ソロモン方面輸送』</ref>。この二回の鼠輸送でビラ・スタンモーア夜戦で撃沈された村雨、峯雲の生存者を回収した<ref>[[#S1712四水戦日誌(5)]]pp.16-17『八日1420(司令)2dg(宛略)2dg機密第081420番電 六日早朝ヨリ八聯特協力ヲ得テ「コロンバンガラ」基地ニ収容セラレタル生存者左ノ通リニシテ引續キ行方不明者ノ捜索ヲNGBニ依頼生存者ハ今夜入港予定ノ駆逐艦ニ便乗「ラボール」皈投ノ予定 生存者村雨准士官以上本職艦長砲術長水雷長通信士小西候補生掌砲長掌水雷長缶長計9名下士官兵41(内重傷4名軽傷6名)兵84名(内重傷5名軽傷6名)合計134名 峯雲巡士官以上砲術長航海長計2名下士官14名兵29名(内重傷1名)合計45名』</ref>。ビラ・スタンモーア夜戦関連なので、ビスマルク海海戦の項目では表記せず --> |
<!-- 3月8日、ビスマルク海海戦を生き残った各艦と長月を加えた駆逐艦5隻(朝雲、雪風、浦波、敷波)に長月を加えた駆逐艦5隻はコロンバンガラ島への鼠輸送を実施、13日にも駆逐艦3隻(朝雲、雪風、長月)が再びコロンバンガラへの輸送作戦を行った<ref>戦史叢書96巻南東方面海軍作戦(3)ガ島撤収後 77-78頁『その他の三月中の中部ソロモン方面輸送』</ref>。この二回の鼠輸送でビラ・スタンモーア夜戦で撃沈された村雨、峯雲の生存者を回収した<ref>[[#S1712四水戦日誌(5)]]pp.16-17『八日1420(司令)2dg(宛略)2dg機密第081420番電 六日早朝ヨリ八聯特協力ヲ得テ「コロンバンガラ」基地ニ収容セラレタル生存者左ノ通リニシテ引續キ行方不明者ノ捜索ヲNGBニ依頼生存者ハ今夜入港予定ノ駆逐艦ニ便乗「ラボール」皈投ノ予定 生存者村雨准士官以上本職艦長砲術長水雷長通信士小西候補生掌砲長掌水雷長缶長計9名下士官兵41(内重傷4名軽傷6名)兵84名(内重傷5名軽傷6名)合計134名 峯雲巡士官以上砲術長航海長計2名下士官14名兵29名(内重傷1名)合計45名』</ref>。ビラ・スタンモーア夜戦関連なので、ビスマルク海海戦の項目では表記せず --> |
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雪風航海士(当時)の証言では、ラバウルに帰還した駆逐艦4隻(敷波、浦波、雪風、朝雲)の内、朝雲艦長[[岩橋透]]中佐は第八艦隊司令部に乗り込んで「こんな無謀な作戦をたてるということは、ひいては日本民族を滅亡させるようなものだ。よく考えてからやっていただきたい」と怒鳴ったという<ref>[[#豊田全集6巻]]415頁</ref>。 |
雪風航海士(当時)の証言では、ラバウルに帰還した駆逐艦4隻(敷波、浦波、雪風、朝雲)の内、朝雲艦長[[岩橋透]]中佐は第八艦隊司令部に乗り込んで「こんな無謀な作戦をたてるということは、ひいては日本民族を滅亡させるようなものだ。よく考えてからやっていただきたい」と怒鳴ったという<ref>[[#豊田全集6巻]]415頁</ref>。なお既述のように、本作戦は昭和天皇の「ガ島から撤収するするのはいいが、何処かで攻勢に出ねばならぬ」という意向により{{Sfn|戦史叢書66|1980|p=28}}、大本営陸海軍部、連合艦隊、南東方面部隊(南東方面艦隊、第十一航空艦隊、第八艦隊)、第八方面軍の一致した方針および作戦協定により実施した作戦である。 |
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== 結果 == |
== 結果 == |
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[[ファイル:Attack On Japanese Transporter (Battle Of The Bismarck Sea).jpg|thumb|攻撃を受ける太明丸。船体に迷彩塗装が施されている。]] |
[[ファイル:Attack On Japanese Transporter (Battle Of The Bismarck Sea).jpg|thumb|攻撃を受ける太明丸。船体に迷彩塗装が施されている。]] |
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[[ダグラス・マッカーサー]]陸軍大将は「史上屈指の完璧で圧倒的勝利に終わった戦い」との声明をラジオ放送を通じて発表した{{Sfn|太平洋の試練、ガ島からサイパン(上)|2016|p=343}}。マッカーサー自身はビスマルク海海戦について以下の報告をおこなったと回顧している{{Sfn|マッカーサー|2003|p=136}}。 |
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連合軍([[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]司令部)の戦果記録は、日本軍輸送船および駆逐艦22隻撃沈、人員1万5000人、航空機150機撃墜というものだったが、これは当時の連合軍自身も過剰計算だと認めている<ref name="日米諜報戦180" />。実際の被害は以下のとおり。 |
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{{Quotation|われわれが得た勝利は、敵にとっては大きい破局といえるほど徹底的なものであった。われわれの決定的な成功が敵の戦略、戦術両面の計画にきわめて重大な影響を与えることは疑いない。少なくとも当分は、敵の戦闘行為は完全に調子が狂った。|[[ダグラス・マッカーサー]](著)/津島一夫(訳) 『マッカーサー回顧録』136ページ}} |
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;日本の損失<ref name="叢書九六67" /> |
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マッカーサーによれば、[[フランクリン・ルーズベルト]]大統領{{Sfn|マッカーサー|2003|p=137}}、オーストラリア首相[[ジョン・カーティン]]、イギリス首相[[ウィンストン・チャーチル]]{{Sfn|マッカーサー|2003|p=138}}、イギリス空軍高官など各方面から祝電が届いたという{{Sfn|マッカーサー|2003|pp=138-139}}。連合軍(マッカーサー司令部)の戦果記録は、日本軍輸送船および駆逐艦22隻撃沈、人員1万5000人、航空機150機撃墜というものだったが、これは当時の連合軍自身も過剰計算だと認めている{{Sfn|日米諜報戦|2016|pp=180b-182}}。実際の被害は以下のとおり。 |
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;日本の損失{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=82}} |
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*陸軍輸送船7隻沈没 |
*陸軍輸送船7隻沈没 |
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*海軍輸送船1隻沈没 |
*海軍輸送船1隻沈没 |
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*駆逐艦4隻(白雪、朝潮、荒潮、時津風)沈没 |
*駆逐艦4隻(白雪、朝潮、荒潮、時津風)沈没 |
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*戦闘機4(未帰還機含む) |
*戦闘機4(未帰還機含む) |
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*陸軍第十八軍司令部、第51師団主力 |
*陸軍第十八軍司令部、第51師団主力約7000名中生存者3625名{{Sfn|戦史叢書102|1980|p=167|ps=昭和18年(1943年)3月3日 第51師団輸送船団、ダンピール海峡で敵機の攻撃を受け全滅〔40-55、96-58、7-172、95-303、94-78、66-248〕}}。3月4日時点の報告(第八方面軍、剛方参一電第564号と566号)によると全乗員(艦)人員6,912名、生存者約3,900名(ラエ上陸約875名、ラバウル帰投2,700名)、戦死約3,000名以上{{Sfn|戦史叢書40|1970|pp=58b-62|ps=作戦の終末}}{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=59b|ps=第十八軍記録では、第五十一師団の将兵108名、下士官兵1820名、軍属8名が戦死}}。 |
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第十八軍の報告(剛方参二電第295号)によれば、15㎝榴弾砲4門、10㎝カノン砲3門、高射砲11門、山砲6門、連隊砲2門、大隊砲6門、対戦車砲4門、自動貨車34両、輜重車94輌、弾薬500トン、糧秣ほか8,800立米、航空ガソリン入りドラム缶2,000本、通信機材、無線修理車、船舶装備(高射砲17門、野砲3門、機関砲5門、大発動艇40隻)を喪失した{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=59a}}。海軍も乗員、防空隊の多くを失った<ref name="叢書九六67" />。この輸送作戦失敗は'''ダンピールの悲劇'''と呼ばれ{{Sfn|戦史叢書66|1980|pp=247a-248|ps=八十一号作戦計画とダンピールの悲劇}}、その後のニューギニア方面作戦に大きな影響を与えた{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=85}}{{Sfn|戦史叢書40|1970|pp=69-70|ps=南太平洋作戦の根本問題}}。しかし、大本営陸海軍部の南東方面重視(陸軍はニューギニア、海軍はソロモン諸島){{Sfn|戦史叢書40|1970|pp=73-76|ps=海軍三段作戦計画}}の姿勢に変化はなかった{{Sfn|戦史叢書40|1970|pp=71-72|ps=陸海軍部の申し合わせ}}{{Sfn|戦史叢書40|1970|pp=77-85|ps=陸海軍中央協定}}{{Sfn|戦史叢書40|1970|pp=85-86|ps=ニューギニア重点の経緯}}。 |
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この他に搭載武器、弾薬、車両を失い、海軍も乗員、防空隊の多くを失った<ref name="叢書九六67" />。約2,500トンの物資を喪失<ref name="木俣空母446" />。第51師団長以下875名がラエに上陸<ref name="木俣空母446" /><ref name="叢書九六67" />。第18軍以下約2700名がラバウルに帰投<ref name="叢書九六67" />。この輸送作戦失敗は'''ダンピールの悲劇'''と呼ばれ<ref name="木俣空母446" /><ref name="叢書一〇二167" />、ニューギニア方面作戦に多大な支障をもたらした<ref name="叢書九六67" /><ref name="提督草鹿132" />。輸送船団の全滅は[[昭和天皇]]に上奏され<ref name="天皇実録9巻42" /><ref>[[#天皇実録九巻|昭和天皇実録九巻]]43頁『(昭和十八年三月)四日 木曜日(杉山参謀総長の奏上)』</ref>、天皇は「失敗ノ原因ヲヨク研究シテ禍ヲ転ジテ福トスル様ニト」と伝えたという<ref name="高松宮6巻78">[[#高松宮六|高松宮日記6巻]]78頁『三月四日(木)曇、晴(略)〔上欄〕〇九〇〇軍令部。「ラエ」補給ニ対スル研究』</ref>。 |
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輸送船団の全滅はただちに[[昭和天皇]]に上奏された<ref name="天皇実録9巻42" />。天皇は「今後以下如何にするや」と御下問した{{Sfn|戦史叢書66|1980|pp=249a-253|ps=大本營の当面の対応策}}。 |
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翌4日、[[杉山元]]参謀総長が上奏した際には<ref>[[#天皇実録九巻|昭和天皇実録九巻]]43頁『(昭和十八年三月)四日 木曜日(杉山参謀総長の奏上)』</ref>「この度のことは将来のため良い教訓であろう。航空兵力を増強し地上兵力も安全なところに上陸し道路をつくり、歩一歩地歩を占め、今後ラエ、サラモアがガ島同様にならぬようにやれ。今後の兵力運用の腹案如何?」と述べた{{Sfn|戦史叢書66|1980|p=249b}}。[[永野修身]]軍令部総長に対して天皇は「失敗ノ原因ヲヨク研究シテ禍ヲ転ジテ福トスル様ニト」と伝えたという<ref name="高松宮6巻78">[[#高松宮六|高松宮日記6巻]]78頁『三月四日(木)曇、晴(略)〔上欄〕〇九〇〇軍令部。「ラエ」補給ニ対スル研究』</ref>。 |
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本作戦を指揮した[[南東方面艦隊]](第十一航空艦隊司令長官[[草鹿任一]]中将兼務)は、作戦失敗について「ポートモレスビー方面の連合軍基地に対する航空撃滅戦不徹底」を挙げている<ref name="NTF(2)33" />。南東方面艦隊参謀長[[中原義正]]少将も<ref name="jirei1020" />、事前航空撃滅戦の不徹底、到着時刻の検討不足による航路設定の不備、対空戦闘能力の不足等を敗戦の教訓としている<ref name="叢書九六67" />。 |
本作戦を指揮した[[南東方面艦隊]](第十一航空艦隊司令長官[[草鹿任一]]中将兼務)は、作戦失敗について「ポートモレスビー方面の連合軍基地に対する航空撃滅戦不徹底」を挙げている<ref name="NTF(2)33" />。南東方面艦隊参謀長[[中原義正]]少将も<ref name="jirei1020" />、事前航空撃滅戦の不徹底、到着時刻の検討不足による航路設定の不備、対空戦闘能力の不足等を敗戦の教訓としている<ref name="叢書九六67" />。 |
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[[高松宮宣仁親王]](軍令部大佐、[[昭和天皇]]弟宮)は以下のように敗戦を分析している<ref name="高松宮6巻75">[[#高松宮六|高松宮日記6巻]]76-77頁『三月三日(水)晴、時〃曇』</ref>。 |
[[高松宮宣仁親王]](軍令部大佐、[[昭和天皇]]弟宮)は以下のように敗戦を分析している<ref name="高松宮6巻75">[[#高松宮六|高松宮日記6巻]]76-77頁『三月三日(水)晴、時〃曇』</ref>。 |
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**六、輸送船ノ半数ハ損害アルモ、斯ク〔ノ〕如キ全滅ニ加フルニ駆逐艦ノ半数ヲ被害ヲ被ラシムルトハ考ヘナカツタ(中略)互ニ上級司令部ノ悪口ヲ云フ傾向ハ止メネバナラヌ。 |
**六、輸送船ノ半数ハ損害アルモ、斯ク〔ノ〕如キ全滅ニ加フルニ駆逐艦ノ半数ヲ被害ヲ被ラシムルトハ考ヘナカツタ(中略)互ニ上級司令部ノ悪口ヲ云フ傾向ハ止メネバナラヌ。 |
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[[第18軍 (日本軍)|第十八軍]]司令官[[安達二十三]]中将の所感は以下の通り。 |
[[第18軍 (日本軍)|第十八軍]]司令官[[安達二十三]]中将の所感は以下の通り{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=83}}{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=60}}。 |
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{{Quotation|一 敵情判断ヲ粗漏ニセシコトヲ痛感ス 航空勢力ニ関シテモ多分ニ希望的観測ニ立脚シ何トカナルベシト考ヘヰタル所ニ大ナル誤謬アリキ<br/>二 「ガ」島及「ブナ」ニ対スル我軍ノ圧迫消失シ敵ガ自由ニ跳梁スル今日、今次作戦ノ如キ原始的上陸作戦ハ成功ノ算ナシ 何等カノ考察ニ依リ敵ノ航空勢力ノ眼ヲ避ケテ実施シ得ルモノナラザルベカラズ|第十八軍司令官 三月四日/[[戦史叢書]] 南東方面海軍作戦<3>ガ島撤収後 69ページ}} |
{{Quotation|一 敵情判断ヲ粗漏ニセシコトヲ痛感ス 航空勢力ニ関シテモ多分ニ希望的観測ニ立脚シ何トカナルベシト考ヘヰタル所ニ大ナル誤謬アリキ<br/>二 「ガ」島及「ブナ」ニ対スル我軍ノ圧迫消失シ敵ガ自由ニ跳梁スル今日、今次作戦ノ如キ原始的上陸作戦ハ成功ノ算ナシ 何等カノ考察ニ依リ敵ノ航空勢力ノ眼ヲ避ケテ実施シ得ルモノナラザルベカラズ|第十八軍司令官 三月四日/[[戦史叢書]] 南東方面海軍作戦<3>ガ島撤収後 69ページ}} |
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もともとこの輸送作戦は航空の劣勢から無理があり、成功可能性よりも必要性を優先させたものであった |
もともとこの輸送作戦は航空の劣勢から無理があり、天皇の意向を受けた大本営陸海軍部のニューギニア方面作戦重視という観点から、成功可能性よりも必要性を優先させたものであった<ref name="叢書九六67" />。また経験したことのない連合軍による多数機での銃撃、低空爆撃(反跳爆撃。被弾時、木村司令官は魚雷攻撃を受けたと判断){{Sfn|戦史叢書39|1970|p=82}}、中高度爆撃があり、南東方面艦隊参謀兼第十一航空艦隊参謀の[[三和義勇]]大佐([[海軍兵学校卒業生一覧 (日本)#48期|海軍兵学校48期]])は<ref name="jirei1020" />、3月4日の日誌に「余は敵のこの種の攻撃を予想せざりき、余の失敗なり、予想したりとせば、八十一号作戦は成り立たず」と残している<ref name="叢書九六67" />。 |
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[[奥宮正武]](当時海軍少佐、[[第二航空戦隊]]参謀)は作戦失敗の主因を『日本軍航空兵力の不足(一、日本陸軍の航空機が洋上作戦に不向きで、作戦可能機が著しく少なかった。二、海軍航空部隊がソロモン群島方面作戦とニューギニア方面作戦に従事して充分な数を集められなかった)』と指摘している<ref name="十人提督上310" />。 |
[[奥宮正武]](当時海軍少佐、[[第二航空戦隊]]参謀)は作戦失敗の主因を『日本軍航空兵力の不足(一、日本陸軍の航空機が洋上作戦に不向きで、作戦可能機が著しく少なかった。二、海軍航空部隊がソロモン群島方面作戦とニューギニア方面作戦に従事して充分な数を集められなかった)』と指摘している<ref name="十人提督上310" />。 |
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また作戦失敗の直接原因として[[直掩機|直掩]]の戦闘機隊が中高度に配置されていたため、低空から進入する連合軍機に対処できなかったことも指摘される |
また作戦失敗の直接原因として[[直掩機|直掩]]の戦闘機隊が中高度に配置されていたため、低空から進入する連合軍機に対処できなかったことも指摘される{{Sfn|図説太平洋海戦史、第3巻|1995|p=52}}。遭難時を考慮して、もっと接岸航路をとるべきだったという意見もあった{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=83}}。 |
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ラバウルを訪問していた南方軍参謀[[吉川正治]]少佐によれば、第八方面軍の航空幕僚は「海軍機の直衛の場合は、船団掩護の見地から心配である」と心配していたという{{Sfn|戦史叢書66|1980|p=249b}}。 |
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船団の直掩の戦闘機隊が時間帯によって陸軍と海軍が交互に交代する措置について陸軍参謀本部作戦課長の[[真田穣一郎]]大佐は「陸海軍航空の担任が、午前と午後というような部署では、1+1の戦力発揮はできない。統一使用に関しさらに努力せねばならぬ」と述べた<ref>[[#戦史叢書7東部ニューギニア方面陸軍航空作戦]]175項</ref>。 |
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船団の直掩の戦闘機隊が時間帯によって陸軍と海軍が交互に交代する措置について、陸軍参謀本部作戦課長の[[真田穣一郎]]大佐は「陸海軍航空の担任が、午前と午後というような部署では、1+1の戦力発揮はできない。統一使用に関しさらに努力せねばならぬ」と述べた<ref>[[#戦史叢書7東部ニューギニア方面陸軍航空作戦]]175項</ref>。真田日記では「[[第三艦隊 (日本海軍)|3F]]ノ航空艦隊ノモノヲ集中スレバ海軍ノ飛行機一〇〇機ヲ集中出来ル、ヨシソレヲヤレト申シタノニヤッテ居ナイ。七〇機ハ集中シタ様ダ、「トラック」ニ居ル[[瑞鶴 (空母)|瑞鶴]]ノ[[戦闘機|FM]]ガ加入シテ居ナイ。」等、日本海軍への不満も見られる{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=84}}。真田大佐は作戦失敗原因を以下のように分析している{{Sfn|戦史叢書66|1980|p=249b}}。 |
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:(1)敵の基地航空の洋上における組織的攻撃の成功 |
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[[軍令部]]は輸送船団による輸送を諦め、とりあえず[[大発動艇]]の輸送に頼ること、速力20ノット程度の高速輸送艇([[第一号型輸送艦]])を急速開発する事などを検討した<ref name="高松宮6巻78" />。 |
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:(2)敵の索敵哨戒の優位 |
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:(3)わが海軍航空の劣勢 |
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本作戦を指揮した[[草鹿任一]]海軍中将([[南東方面艦隊]]司令長官、[[第十一航空艦隊 (日本海軍)|第十一航空艦隊]]司令長官兼務)は、敗北の責任を問われなかった<ref name="十人提督上310" />。 |
本作戦を指揮した[[草鹿任一]]海軍中将([[南東方面艦隊]]司令長官、[[第十一航空艦隊 (日本海軍)|第十一航空艦隊]]司令長官兼務)は、敗北の責任を問われなかった<ref name="十人提督上310" />。 |
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作戦失敗後の3月7日、[[第8方面軍 (日本軍)|第八方面軍]]は研究会を開いて本作戦を反省し「現況において如何なる方策を講ずるもあのような結果を得るの外なかった」と総括した{{Sfn|戦史叢書66|1980|pp=253a-255|ps=現地軍の反省と爾後の作戦指導に関する研究}}。第八方面軍の戦訓は以下のとおり{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=60}}{{Sfn|戦史叢書66|1980|pp=253b-254}}。 |
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:一 航空作戦について |
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::(1)事前の航空撃滅戦が重要だったが兵力が足らず思い切って出来なかったうえ、海軍側も熱意がなかった。 |
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::(2)敵の動静が的確につかめれば良かったが、現況では期待できない。 |
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::(3)陸軍航空隊が船団直衛を担当していたら作戦は成功したか? 陸軍機でも「大同小異」であっただろう。 |
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::(4)敵情判断を重視して敵の行動を予期していたら他に方策があったか? これも別に名案はなく、真に敵の企図明瞭ならば本作戦は中止したであろう。 |
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:二 優速船(15ノット)で本作戦を実施したら成功の算があったか? |
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::航海中の損害は減らせても、泊地で揚陸中に大規模空襲を受ければ揚陸可能かどうか不明。要するに旧形式の上陸作戦は実施不可能である。航空作戦に関する兵力や施設を増強しなければ、現況打開の方策はない。 |
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[[井本熊男]]第八方面軍参謀は、当時の南東方面戦局と大本営の認識について以下のように判断している{{Sfn|戦史叢書66|1980|pp=254-255}}。 |
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{{Quotation|吾人ノ着任以来抱懐シアル観察ハ遺憾乍ラ事実トシテ現レツツアリ。目下ノ努力ハ致命的重病ヲ何トカシテ長ク持久スルコトニ努ムルニ似タリ。幸ニ病勢ヲ喰止メ得タルニセヨ更ニ健康ヲ増進スルコトハ困難ナリト判断ス。<br/>大本營ノ南太平洋方面ニ対スル認識ハ第十七軍ノ任務カ逐次変化セシ如ク常ニ後手々々ト情況ノ進展ニ一歩遅レツツ認識ヲ微妙角度変更シアルモノト考ヘラル。終ニ正鵠ヲ得タル手ヲ打ツコトハナカルヘシ 天下人無キヲ憂フコト切ナリ。|[[戦史叢書]] 大本營陸軍部<6> ―昭和十八年六月まで― 254-255ページ}} |
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在パラオの第二十師団をマダンに輸送する作戦は、揚陸地点をマダン北西150kmのハンサ湾に変更した{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=82}}{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=66}}。第10駆逐隊司令[[吉村真武]]大佐の指揮により駆逐艦5隻(秋雲、夕雲、風雲、五月雨、皐月)と輸送船6隻は3月6日にパラオを出発、3月12日未明にハンサ湾に到着して揚陸に成功した{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=82}}{{Sfn|戦史叢書40|1970|p=67}}。 |
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また東部ニューギニア方面の連合国軍陸海軍航空部隊および艦船部隊に打撃を加えるべく、[[連合艦隊]](司令長官[[山本五十六]]大将、参謀長[[宇垣纏]]中将)の主導により[[い号作戦]]が実施されることになった{{Sfn|戦史叢書66|1980|pp=367-369|ps=「い」号作戦実施の動機}}<ref>[[#十人提督(下)]]19頁『「い」号作戦の実施と成果』</ref>。軍令部作戦課長[[山本親雄]]によれば「い号作戦について軍令部から指示した記憶はない。八十一号作戦ラエ輸送の全滅は「い」号作戦決行の一つの動機になったと思う」という{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=117}}。連合艦隊首席参謀[[黒島亀人]]や戦務参謀[[渡辺安次]]は、母艦航空兵力の南東方面陸上基地配備はかねてから構想していたが、第八十一号作戦失敗により作戦準備を促進したと回想している{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=118}}。 |
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{{main|い号作戦}} |
{{main|い号作戦}} |
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一方、日本陸軍は1月の時点でラエまでの海路での輸送に限界を感じており、[[フォン半島]]の反対側のマダンからフィニステル山脈を内陸部へ迂回してジャングルを突っ切ってラエに至る全長300~400キロの自動車道路の建設を計画、2月から4月にかけて建設を開始した{{Sfn|戦史叢書39|1970|p=87}}。3月6日の大本営陸海軍作戦会議において、あらためてマダン~ラエ道路の構築を急ぎ、8月末の完成を目指すことで一致した{{Sfn|戦史叢書66|1980|p=251}}。だが本作戦の結果が示すように敵制空権下での船団輸送は不可能であり、海上トラックや沿岸伝いの舟艇機動([[蟻輸送]])でかろうじて補給を継続していた{{Sfn|戦史叢書66|1980|p=378}}。この輸送方式では、機材や資材はもちろん、糧秣の補給も充分にできなかった{{Sfn|戦史叢書66|1980|p=376}}。道路建設や飛行場建設は原始的手法([[つるはし]]や[[もっこ]]による人力作業)に頼らざるを得ず{{Sfn|戦史叢書66|1980|p=376}}、9月になっても完成しなかった。 |
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またビスマルク海海戦と[[ビラ・スタンモーア夜戦]]の結果を受けて東部ニューギニア方面における連合国軍の陸海軍航空部隊および艦船部隊に打撃を加えるべく、[[い号作戦]]が実施されることになった<ref>[[#十人提督(下)]]19頁『「い」号作戦の実施と成果』</ref><ref name="木俣空母446" />。軍令部作戦課長[[山本親雄]]によれば「い号作戦について軍令部から指示した記憶はない。八十一号作戦ラエ輸送の全滅は「い」号作戦決行の一つの動機になったと思う」という<ref>戦史叢書39巻大本営海軍部・連合艦隊4 第三段作戦前期 117-118頁 </ref>。 |
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日本軍は、連合軍制空権下における船団方式輸送を諦めざるを得なかった{{Sfn|マッカーサー|2003|p=136}}。大本営海軍部は、とりあえず[[大発動艇]]の輸送に頼ること、速力20ノット程度の高速輸送艇([[第一号型輸送艦]])を急速開発する事などを検討した<ref name="高松宮6巻78" />。ニューギニア方面やソロモン諸島への海上補給・輸送問題に悩む大本営陸軍部(参謀本部)は{{Sfn|戦史叢書66|1980|pp=347-349|ps=海上補給輸送の困難性の増加と中央における輸送会議}}、陸軍独自の輸送用艦艇開発に乗り出し、[[三式潜航輸送艇]](まるゆ)、[[機動艇|SS艇]]、各種舟艇の開発・生産・整備に尽力することになった{{Sfn|戦史叢書66|1980|p=349-350|ps=海洋決戦態勢確立への努力}}。 |
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一方日本陸軍は1月の時点でラエまでの海路での輸送に限界を感じており、[[フォン半島]]の反対側のマダンからフィニステル山脈を内陸部へ迂回してジャングルを突っ切ってラエに至る全長300キロの自動車道路の建設を計画、2月から4月にかけて建設を開始したが作業は主に[[つるはし]]と[[もっこ]]による人力作業であり、9月になっても完成しなかった。 |
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== 題材にした作品 == |
== 題材にした作品 == |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030116500|title=昭和17年12月1日〜昭和18年4月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(6)|ref=S1804四水戦日誌(6)}} |
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030116500|title=昭和17年12月1日〜昭和18年4月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(6)|ref=S1804四水戦日誌(6)}} |
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<!-- ウィキペディア |
<!-- ウィキペディア[[出典を明記する]]により、著者五十順 --> |
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* {{Cite book|和書|author=[[ |
*<!-- アメクラ2018 -->{{Cite book|和書|author=[[雨倉孝之]]|coauthors=|year=2018|month=02|origyear=2009|chapter=|title=海軍<ruby><rb>護衛艦</rb><rt>コンボイ</rt></ruby>物語 {{small|海上護衛戦、対潜水艦戦のすべて}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-3054-2|ref={{SfnRef|海軍護衛艦物語|2018}} }} |
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* <!-- オ |
* <!-- オイデ1997 -->{{Cite book|和書|author=[[生出寿]]|year=1997|month=12|title={{small|連合艦隊・名指揮官の生涯}} 戦場の将器 木村昌福|publisher=光人社|isbn=4-7698-0835-6|ref={{SfnRef|戦場の将器|1997}}}} |
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* <!-- オオニシ1985 -->{{Cite book|和書|author=[[大西喬]]|coauthors=|year=1985||month=5|title=艦隊ぐらしよもやま物語|publisher=光人社|isbn=4-7698-0200-5|ref={{SfnRef|大西、艦隊ぐらし|1985}}}} 大西は雪風下士官として本海戦参加。 |
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* <!-- オクミヤ1983 -->{{Cite book|和書|author=奥宮正武|year=1983|month=8|chapter= 5 草鹿任一中将 ― 長期の激戦に耐え抜いた勇将 ―|title=太平洋戦争と十人の提督(上)|publisher=朝日ソノラマ|isbn=4-257-17030-1|ref=十人提督(上)}} |
* <!-- オクミヤ1983 -->{{Cite book|和書|author=奥宮正武|year=1983|month=8|chapter= 5 草鹿任一中将 ― 長期の激戦に耐え抜いた勇将 ―|title=太平洋戦争と十人の提督(上)|publisher=朝日ソノラマ|isbn=4-257-17030-1|ref=十人提督(上)}} |
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* <!-- オクミヤ1983 -->{{Cite book|和書|author=奥宮正武|year=1983|month=8|chapter=|title=太平洋戦争と十人の提督(下)|publisher=朝日ソノラマ|isbn=4-257-17031-X|ref=十人提督(下)}} |
* <!-- オクミヤ1983 -->{{Cite book|和書|author=奥宮正武|year=1983|month=8|chapter=|title=太平洋戦争と十人の提督(下)|publisher=朝日ソノラマ|isbn=4-257-17031-X|ref=十人提督(下)}} |
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* {{Cite book|和書|author=桂理平|year=1999|month=10|title=空母瑞鳳の生涯 {{small|われ等かく戦えり}}|publisher=霞出版社|isbn=4-87602-213-5|ref=空母瑞鳳生涯}} |
* {{Cite book|和書|author=桂理平|year=1999|month=10|title=空母瑞鳳の生涯 {{small|われ等かく戦えり}}|publisher=霞出版社|isbn=4-87602-213-5|ref=空母瑞鳳生涯}} |
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* <!-- キマタ1977 -->{{Cite book|和書|author=木俣滋郎|year=1977|title=日本空母戦史|publisher=図書出版社|ref=木俣空母}} |
* <!-- キマタ1977 -->{{Cite book|和書|author=木俣滋郎|year=1977|title=日本空母戦史|publisher=図書出版社|ref=木俣空母}} |
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* <!-- クサカ1958 -->{{Cite book|和書|author=[[草鹿任一]]|year=1958|month=7|title=ラバウル戦線異状なし {{small|我等かく生きかく戦えり}}|publisher=光和堂|isbn=|ref= |
* <!-- クサカ1958 -->{{Cite book|和書|author=[[草鹿任一]]|year=1958|month=7|title=ラバウル戦線異状なし {{small|我等かく生きかく戦えり}}|publisher=光和堂|isbn=|ref={{SfnRef|ラバウル戦線異状なし|1958}}}} |
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* <!-- クサカ1976 -->{{Cite book|和書|author=草鹿提督伝記刊行会|year=1976|month=2|chapter=|title=提督 草鹿任一|publisher=光和堂|isbn=|ref=提督草鹿任一}} |
* <!-- クサカ1976 -->{{Cite book|和書|author=草鹿提督伝記刊行会|year=1976|month=2|chapter=|title=提督 草鹿任一|publisher=光和堂|isbn=|ref={{SfnRef|提督草鹿任一|1976}}}} |
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* <!-- クナイ2016-09 -->{{Cite book|和書|author=[[宮内庁]]編|coauthors=|authorlink=|year=2016|month=9|title=昭和天皇実録 第九 {{small|自昭和十八年至昭和二十年}}|chapter=|publisher=東京書籍株式会社|ISBN=978-4-487-74409-1|ref=天皇実録九巻}} |
* <!-- クナイ2016-09 -->{{Cite book|和書|author=[[宮内庁]]編|coauthors=|authorlink=|year=2016|month=9|title=昭和天皇実録 第九 {{small|自昭和十八年至昭和二十年}}|chapter=|publisher=東京書籍株式会社|ISBN=978-4-487-74409-1|ref=天皇実録九巻}} |
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* 佐藤和正『太平洋海戦2 激闘篇』 [[講談社]]、1988年 ISBN 4-06-203742-4 |
* 佐藤和正『太平洋海戦2 激闘篇』 [[講談社]]、1988年 ISBN 4-06-203742-4 |
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* {{Cite book|和書|author=[[高松宮宣仁親王]]著|coauthors=[[嶋中鵬二]]発行人|title=高松宮日記 第六巻 {{small|昭和十八年二月十二日〜九月}}|publisher=中央公論社|year=1997|month=3|ISBN=4-12-403396-6|ref=高松宮六}} |
* {{Cite book|和書|author=[[高松宮宣仁親王]]著|coauthors=[[嶋中鵬二]]発行人|title=高松宮日記 第六巻 {{small|昭和十八年二月十二日〜九月}}|publisher=中央公論社|year=1997|month=3|ISBN=4-12-403396-6|ref=高松宮六}} |
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* {{Cite book|和書|author=田中宏巳|authorlink=|year=2009|title=マッカーサーと戦った日本軍 {{small|ニューギニア戦の記録}}|publisher=ゆまに書房|isbn=978-4-8433-3229-0|ref=マッカーサーと戦った日本軍}} |
* {{Cite book|和書|author=田中宏巳|authorlink=|year=2009|title=マッカーサーと戦った日本軍 {{small|ニューギニア戦の記録}}|publisher=ゆまに書房|isbn=978-4-8433-3229-0|ref=マッカーサーと戦った日本軍}} |
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* {{Cite book|和書|author= |
* <!--ダワー2001-->{{Cite book|和書|author=[[ジョン・ダワー]]著|coauthors=[[斎藤元一]]訳|year=2001|title=容赦なき戦争――太平洋戦争における人種差別|publisher=[[平凡社]]|isbn=4582764193|ref=容赦なき戦争}} |
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* <!-- テラウチ2015 -->{{Cite book|和書|author=寺内正道ほか|authorlink=|year=2015|month=9|title=海軍駆逐隊 {{small|駆逐艦群の戦闘部隊編成と戦場の実相}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-47698-1601-0|ref={{SfnRef|海軍駆逐隊|2015}}}} |
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**{{small|当時「時津風」水雷科指揮所伝令・海軍一等水兵}}桝谷克彦『ラエ輸送の悲劇 炎と波とわが時津風と {{small|反跳爆撃に斃れた第十六駆逐隊=時津風と雪風のビスマルク海海戦}}』 |
**{{small|当時「時津風」水雷科指揮所伝令・海軍一等水兵}}桝谷克彦『ラエ輸送の悲劇 炎と波とわが時津風と {{small|反跳爆撃に斃れた第十六駆逐隊=時津風と雪風のビスマルク海海戦}}』 |
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* {{Cite book|和書|author=土井全二郎|year=1994|title=ダンピールの海 {{small|戦時船員たちの記録}}|publisher=丸善ブックス|isbn=4-621-06007-4|ref=ダンピールの海}} |
* <!-- ドイ1994 -->{{Cite book|和書|author=土井全二郎|year=1994|title=ダンピールの海 {{small|戦時船員たちの記録}}|publisher=丸善ブックス|isbn=4-621-06007-4|ref=ダンピールの海}} |
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*{{Cite book|和書|author=土井全二郎|year=2008|month=5|title=撃沈された船員たちの記録 {{small|戦争の底辺で働いた輸送船の戦い}}|chapter=第三章 ダンピールの海|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2569-2|ref=撃沈船員記録}} |
* <!-- ドイ2008 -->{{Cite book|和書|author=土井全二郎|year=2008|month=5|title=撃沈された船員たちの記録 {{small|戦争の底辺で働いた輸送船の戦い}}|chapter=第三章 ダンピールの海|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2569-2|ref={{SfnRef|撃沈船員記録|2008}}}} |
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* {{Cite book|和書| |
*<!-- トール2016上 -->{{Cite book|和書|author1=イアン・トール著|author2=村上和久訳|year=2016|month=03|title=太平洋の試練 {{small|ガダルカナルからサイパン陥落まで}} 〈上〉|series=|volume=|publisher=株式会社文藝春秋|isbn=978-4-16-390423-8|ref={{SfnRef|太平洋の試練、ガ島からサイパン(上)|2016}} }} |
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* {{Cite book|和書|author= |
* <!-- トヤマ1995 -->{{Cite book|和書|author=外山三郎|year=1995|month=9|title=図説 太平洋海戦史 第3巻 {{small|写真と図説で見る日米戦争}}|publisher=[[光人社]]|isbn=4-7698-0711-2|ref={{SfnRef|図説太平洋海戦史第3巻|1995}}}} |
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* {{Cite book|和書|author=豊田穣|title= |
* <!-- トヨダ2004 -->{{Cite book|和書|author=豊田穣|title=雪風ハ沈マズ {{small|強運駆逐艦 栄光の生涯}}|publisher=光人社NF文庫|year=2004|origyear=1983|ISBN=978-4-7698-2027-7|ref=豊田、雪風(文庫)}} |
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* <!-- トヨダ1990 -->{{Cite book|和書|author=豊田穣|title=豊田穣文学/戦記全集 第6巻|publisher=光人社|year=1990|origyear=1983|ISBN=4-7698-0516-0|ref=豊田全集6巻}} |
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* {{Cite book|和書|author=平塚柾雄|year=2016|month=8|chapter=第八章 ダンピール海峡の悲劇|title=太平洋戦争裏面史 日米諜報戦 {{small|勝敗を決した作戦にスパイあり}}|publisher=株式会社ビジネス社|isbn=978-4-8284-1902-2|ref=日米諜報戦}} |
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* <!-- ヒラツカ2016 -->{{Cite book|和書|author=平塚柾雄|year=2016|month=8|chapter=第八章 ダンピール海峡の悲劇|title=太平洋戦争裏面史 日米諜報戦 {{small|勝敗を決した作戦にスパイあり}}|publisher=株式会社ビジネス社|isbn=978-4-8284-1902-2|ref={{SfnRef|日米諜報戦|2016}}}} |
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* {{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|authorlink=|year=1967|month=8|title=戦史叢書7 東部ニューギニア方面陸軍航空作戦|publisher=朝雲新聞社|ref=戦史叢書7東部ニューギニア方面陸軍航空作戦}} |
* {{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|authorlink=|year=1967|month=8|title=戦史叢書7 東部ニューギニア方面陸軍航空作戦|publisher=朝雲新聞社|ref=戦史叢書7東部ニューギニア方面陸軍航空作戦}} |
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* {{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 |
*<!--ホウエイチョウ39 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<4> {{small|―第三段作戦前期―}}|volume=第39巻|year=1970|month=10|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書39|1970}}}} |
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*<!--ボウエイチョウ40 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 南太平洋陸軍作戦<3> {{small|ムンダ・サラモア}}|volume=第40巻|year=1970|month=12|publisher=朝雲新聞社|ref={{Sfn|戦史叢書40|1970}}}} |
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*<!--ホウエイチョウ66 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 大本營陸軍部<6> {{small|昭和十八年六月まで}}|volume=第66巻|year=1973|month=06|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書66|1973}}}} |
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*<!--ホウエイチョウ77 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<3> {{small|―昭和18年2月まで―}}|volume=第77巻|year=1974|month=9|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書77|1974}}}} |
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*<!--ホウエイチョウ79 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 中國方面海軍作戦(2) {{small|昭和十三年四月以降}}|volume=第79巻|year=1975|month=1|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書79|1975}}}} |
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* {{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|authorlink=|year=1976|month=8|title=戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3) {{small|ガ島撤収後}}|publisher=朝雲新聞社|ref=戦史叢書96ガ島撤収後}} |
* {{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|authorlink=|year=1976|month=8|title=戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3) {{small|ガ島撤収後}}|publisher=朝雲新聞社|ref=戦史叢書96ガ島撤収後}} |
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* <!--ホウエイチョウ98 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 潜水艦史|volume=第98巻|year=1979|month=6|publisher=朝雲新聞社|ref=叢書98}} |
* <!--ホウエイチョウ98 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 潜水艦史|volume=第98巻|year=1979|month=6|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書98|1979}}}} |
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* <!--ホウエイチョウ102 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 陸海軍年表 {{small|付 兵器・兵語の解説}}|volume=第102巻|year=1980|month=1|publisher=朝雲新聞社|ref=叢書102}} |
* <!--ホウエイチョウ102 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 陸海軍年表 {{small|付 兵器・兵語の解説}}|volume=第102巻|year=1980|month=1|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書102|1980}}}} |
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* 増田禮二『怨み深し血の海、ビスマルクの海』 |
* 増田禮二『怨み深し血の海、ビスマルクの海』 |
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* {{Cite book|和書| |
* <!-- マッカーサー2003 -->{{Cite book|和書|author1=[[ダグラス・マッカーサー]]著|coauthors=津島一夫訳|year=2003|month=07|origyear=1964|chapter=|title=マッカーサー大戦回顧録|publisher=中央公論新社|series=中公文庫|isbn=978-4-12-205977-1|ref={{SfnRef|マッカーサー|2003}} }} |
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* {{Cite book|和書|author=[[ |
* <!-- モリソン2003 -->{{Cite book|和書|author=[[サミュエル・モリソン]]著|coauthors=[[大谷内一夫]]訳|year=2003|month=8|title=モリソンの太平洋海戦史|publisher=光人社|isbn=4-7698-1098-9|ref={{SfnRef|モリソンの太平洋海戦史|2003}}}} |
||
* <!--ヤマモト1982-->{{Cite book|和書|author=山本親雄|year=1982|month=12|title=大本営海軍部|publisher=朝日ソノラマ|series=航空戦史シリーズ|volume=21|isbn=4-257-17021-2|ref={{SfnRef|大本営海軍部|1982}}}} |
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* {{Cite book|last=Craven |first=Wesley F. |last2=Cate |first2=James L. |title=The Pacific: Guadalcanal to Saipan August 1942 to July 1944 |series=The Army Air Forces in World War II |url=http://www.ibiblio.org/hyperwar/AAF/IV/index.html |date=1950 |publisher=The University of Chicago Press |location=Chicago |ref=Craven}} |
* {{Cite book|last=Craven |first=Wesley F. |last2=Cate |first2=James L. |title=The Pacific: Guadalcanal to Saipan August 1942 to July 1944 |series=The Army Air Forces in World War II |url=http://www.ibiblio.org/hyperwar/AAF/IV/index.html |date=1950 |publisher=The University of Chicago Press |location=Chicago |ref=Craven}} |
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* Douglas Gillison『Royal Australian Air Force 1939–1942』 [[オーストラリア戦争記念館|Australian War Memorial]]、1962年 oclc=2000369 |
* Douglas Gillison『Royal Australian Air Force 1939–1942』 [[オーストラリア戦争記念館|Australian War Memorial]]、1962年 oclc=2000369 |
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253行目: | 305行目: | ||
*[[南東方面艦隊]] |
*[[南東方面艦隊]] |
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*[[第十一航空艦隊 (日本海軍)]] |
*[[第十一航空艦隊 (日本海軍)]] |
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*[[ラバウル航空隊]] |
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*[[鼠輸送]] |
*[[鼠輸送]] |
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*[[三式潜航輸送艇]] |
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*[[第一号型輸送艦]] |
*[[第一号型輸送艦]] |
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*[[第百一号型輸送艦]] |
*[[第百一号型輸送艦]] |
2019年2月28日 (木) 12:00時点における版
ビスマルク海海戦 | |
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炎上する旭盛丸。(大同海運:5,493総トン) | |
戦争:太平洋戦争 / 大東亜戦争 | |
年月日:1943年3月2日〜3月3日〜3月4日 | |
場所:ビスマルク海 | |
結果:連合軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
大日本帝国 | アメリカ合衆国 オーストラリア |
指導者・指揮官 | |
今村均中将 草鹿任一中将 三川軍一中将 安達二十三中将[1] 中野英光中将[2] 板花義一中将[3] 木村昌福少将 市丸利之助少将[3] |
ダグラス・マッカーサー大将 ジョージ・ケニー中将 エニス・ホワイトヘッド大佐 |
戦力 | |
駆逐艦8 輸送船8 陸海軍基地航空隊 |
重爆撃機39 中型爆撃機41 軽爆撃機34 戦闘機54 魚雷艇10 |
損害 | |
駆逐艦4沈没 輸送船8沈没 陸軍兵約3000名以上戦死 |
重爆2(2日1機、3日1機) 戦闘機3(乃至4) |
ビスマルク海海戦(ビスマルクかいかいせん、Battle of Bismarck Sea)は、第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)3月2日から3月3日に、ビスマルク海からダンピール海峡[4][5]にかけての海域で、ダグラス・マッカーサー陸軍大将指揮下の連合国軍ニューギニア・オーストラリア方面部隊が日本軍の輸送船団に対し航空攻撃を行ったことで発生した戦闘のこと[6]。
概要
1943年(昭和18年)2月初頭、日本軍はガダルカナル島から撤退し[7]、大本営はパプアニューギニア(ニューギニア島東部)方面に作戦の重点を移した[8][9]。 同時期、連合軍も東部ニューギニアで攻勢に出ており[10]、日本軍はニューギニア方面の戦力増強を企図して陸軍・海軍協同の輸送作戦を立案する[11][12]。 日本側の輸送作戦の名称は「第八十一号作戦」である[13][14][15]。 2月中旬、南東方面艦隊司令長官草鹿任一中将は、ラバウルの第八方面軍(司令官今村均陸軍中将)と協定を結ぶ[16]。
日本陸海軍は南東方面の航空兵力をかき集め、輸送船団の上空掩護を実施した[17]。2月28日、第三水雷戦隊司令官木村昌福少将が指揮する駆逐艦8隻に護衛された日本軍輸送船団(輸送船8隻)はニューブリテン島ラバウルを出撃したが[18]、ラエ・サラマウア(東部ニューギニア、フォン湾)へ航行中の3月3日にビスマルク海からダンピール海峡において連合軍航空部隊の大規模攻撃を受け、反跳爆撃により大損害を受ける[19]。日本軍の輸送船団は壊滅(輸送船8隻〈陸軍輸送船7、海軍運送艦1〉沈没、駆逐艦4隻沈没)、乗船将兵約3,000名が戦死[20]、搭載していた重機材すべてを喪失[21]。ダンピール海峡の悲劇と呼称された[22]。 第八方面軍は本作戦について「現況において如何なる方策を講ずるもあのような結果を得るの外なかった」と総括している[23]。
背景
ニューギニア重視の姿勢
1942年(昭和17年)12月31日の大本営御前会議において、日本軍はガダルカナル島からの撤退を正式に決定する[24][25]。ガ島撤収後は、東部ニューギニアでの作戦を重視することになった[26][27](翌年1月4日、大陸命第732号、大海令第23号など)[28]。昭和天皇は「ただガ島を止めだだけではいかぬ。何処かで攻勢に出なければならない。」と指導したので、大本営はニューギニア作戦に重点を置くことになった[29][30]。大本営陸軍部は、陸地続きのニューギニア戦線ならば負けるはずがなく、ポートモレスビー包囲も努力次第では可能とみていた[31]。またラバウルに根拠地をおく第八方面軍(司令官今村均陸軍中将)の任務は「第八方面軍司令官ハ大陸命第七百十五号ニ拘ラス海軍ト協同シ「ソロモン」群島及「ビスマルク」群島ノ各要域ヲ確保スルト共ニ「ニューギニヤ」ノ要域ヲ攻略確保シテ同方面ニ於ケル爾後ノ作戦ヲ準備スヘシ」(昭和18年1月4日、大陸命第732号)と定められた[32]。大本営の強気とは裏腹に、第八方面軍はニューギニア戦線についても悲観的な見方をしていた[33]。
1943年(昭和18年)2月1日から2月7日にかけて[34]、日本軍はガダルカナル島から撤退した[35](ケ号作戦)[36][37]。 同時期、連合軍はニューギニア島方面でも攻勢に出ており、日本軍はパプアニューギニア方面の戦いでも窮地に追い込まれる[38][39]。 1月2日には東部のブナ守備隊が玉砕した[40](ポートモレスビー作戦)[41][42]。1月13日には、第18軍がブナ支隊長(独立混成第21旅団長山縣栗花陸軍少将)にラエ・サラモアへの後退命令を発令、1月下旬より撤収作戦がはじまった[43]。ブナ支隊は2月上旬までに撤退した[44]。 そこで日本軍は大本営(昭和天皇出席)指導のもと[45]、連合軍の次の攻撃目標と予測されるパプアニューギニア(ニューギニア島東部)各拠点に陸軍部隊を送り、侵攻に備えることにした[46][47]。 この作戦に投入された日本陸軍第51師団は、ガダルカナル島攻防戦投入を予定して、12月中旬に中国大陸からラバウルに到着(八号演習輸送)[48]。ガ島攻防戦の戦局変化および終結にともない、ラバウルで足止めされていた部隊であった[48]。
1943年(昭和18年)1月初頭に実施されたラエへの最初の輸送作戦「第十八号作戦」は[49]、7日-8日に歩兵第102連隊からなる岡部支隊が現地に到着した[50](輸送船5隻中2隻沈没、作戦はおおむね成功)[51]。
第八十一号作戦
第18号作戦の次に行われた輸送作戦を第八十一号作戦という[52][53]。第八十一号作戦は、日本陸軍第十八軍(司令官安達二十三陸軍中将)麾下の第二十師団、第四十一師団、第五十一師団をもって東部ニューギニア要所(ラエ、サラモア、マダン、ウェワク)を増強する作戦である[54]。作戦を立案した第八方面軍参謀杉田一次陸軍大佐によれば「八は縁起がよいというので、八十一号作戦と名付けた」と回想している[55]。第八方面軍参謀長吉原矩陸軍中将は「マダンに上陸するのでは、ダンピールを棄てることになるので、一か八かラエ強行上陸に決定した」と回想している[56]。
第八十一号作戦は三段階の作戦で構成されていた[57]。陸軍第四十一師団をニューギニア中部北岸ウェワクへ輸送する「丙号輸送」[58](海軍側呼称は「丙三号作戦」)[59](2月下旬)[60][36]。 陸軍第51師団をラエに輸送船団をもって輸送する『八十一号作戦ラエ輸送』(本項目)[36][61]。 陸軍第二十師団(師団長青木重誠陸軍中将)[62]をニューギニア島北岸マダンへ輸送する作戦である[60][61]。
ケ号作戦(ガ島撤収作戦)完了後の2月8日、連合艦隊は電令作第477号により「(一~三、略)四 南東方面部隊ハ「カ」号作戦ヲ続行スルト共ニ陸軍ニ協力 速カニ東部「ニューギニヤ」ノ戦略態勢ヲ強化スベシ」と命じた[63]。翌9日、第八方面軍と南東方面艦隊はニューギニア方面作戦について研究を開始した[64]。 2月13日、第八方面軍と南東方面部隊間に八十一号作戦に関する現地協定が結ばれる[16]。「八十一号作戦」の呼称名は、この現地協定で決定したとされる[57]。同時に、航空作戦に関しても現地協定がむすばれた[65]。 2月20日、第八方面軍司令官今村均陸軍中将はトラック泊地の戦艦大和に連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将を訪ね、南東方面における陸海軍作戦計画について協議した[66]。第八方面軍の報告をうけた大本営陸軍部は、大本営海軍部に改めてニューギニア方面への作戦協力をもとめた[66]。要求には「 「ラエ」「サラモア」地区ノ得失ハ「ニューギニヤ」作戦遂行ノ能否ヲ左右スヘク陸海軍有スル手段ヲ尽シテ之ヲ確保スヘキ情況判断ニ立脚シ、差当リ三月三日「ラエ」上陸ニ先チ(二月下旬)一部兵力資材ノ駆逐艦輸送ヲ敢行スル如ク、両統帥部ハ現地艦隊、軍ヲ指導ス」という項目も含まれていた[66]。
2月21日、第八艦隊司令部に第八方面軍・第十八軍・船舶部隊・第八艦隊・南東方面艦隊各指揮官や参謀が集まり、作戦会議が開かれた[67]。現地上級部隊(第八方面軍、南東方面部隊)の協定に基づき、実施部隊(日本陸軍〈第18軍司令官安達二十三陸軍中将、第51師団長中野英光陸軍中将、第6飛行団長板花義一陸軍中将〉、日本海軍〈第八艦隊司令長官三川軍一海軍中将、第二十一航空戦隊司令官市丸利之助海軍少将、第三水雷戦隊司令官木村昌福海軍少将〉)間で「八十一号作戦ラエ輸送」について現地協定が結ばれる[68][3][69]。 22日、方面軍命令により第十八軍司令官は猛作命甲第157号を発令し、ラエ輸送を発令した[1]。 24日、第五十一師団長は五一師作命甲第59号を発令し、ラエ上陸作戦について下達した[2]。
八十一号作戦の最大の課題は、船団の航空護衛であった[70]。当時の南東方面においては、ニューギニア方面の補給輸送の掩護は日本陸軍が、南東方面全域での洋上作戦とソロモン諸島方面航空作戦は日本海軍の分担であった(1月3日、中央陸海軍協定による)[17]。 第八方面軍と協議した田辺盛武参謀次長は2月上旬の報告の中で「輸送掩護ノ為ノ航空兵力ハ極メテ貧弱ニシテ此ノ上トモ兵員、船団ノ損耗ヲ小ナラシムル為作戦ノ指導ニ関シ苦慮セラレアリ 殊ニ51D主力ノ直接「ラエ」上陸ハ海軍ノ最モ強力ナル支援ヲ得サル限リ損害ハ少クトモ 二分ノ一 ニ上ルモノト推算セラレアリ」と懸念している[71]。日本陸軍の航空戦力では輸送船団の安全な航海は不可能であった[72]。そこで作戦協定により、日本陸軍(司偵5、戦闘機60、軽爆45)と日本海軍(戦闘機60、陸攻20、艦攻8〈瑞鳳〉、艦爆10〈五八二海軍航空隊〉、水偵10〈九五八海軍航空隊〉)という航空戦力を投入する[17][65]。だが「陸軍戦闘機60」は希望的数字であった[17]。 九九式双発軽爆撃機を主力とする第六飛行師団(師団長板花義一陸軍中将)は、一〇〇式司令部偵察機による偵察を実施、つづいてワウとブナ方面の攻撃を行う[73][74]。2月中旬時点での実動戦力は九九双軽16機であった[75]。
日本海軍側は、一式陸上攻撃機が連合軍各飛行場に対して、航空撃滅戦を実施した[58][76]。だが日本海軍が同方面の航空兵力を半分集結させても、戦闘機約60、艦爆10、陸攻20、水上機10程度だったという[74]。ブナ(20日に7機、21日に3機)、ポートモレスビー(21日に4機)、ラビ(22日に7機、27日に2機)に対し、それぞれ夜間爆撃をおこなう[77]。 また輸送船団8隻を護衛するには戦闘機約200が必要とされたが同方面の日本陸軍戦闘機(一式戦闘機)は2月末時点で約50機しかなく[77]、陸軍側は連合艦隊に零式艦上戦闘機の派遣を依頼する[70]。トラック在泊の第一航空戦隊(瑞鶴、瑞鳳)よりカビエンに進出していた瑞鳳飛行機隊が[42]、今度はウェワクに進出して作戦に協力することになった[68][70]。連合艦隊は、第八十一号作戦に協力するのは瑞鳳飛行機隊だけで十分だと判断している[78]。航空撃滅戦の効果は疑わしかったが[77]、2月初旬のガダルカナル島撤退作戦から「航空撃滅戦の成果があがらない場合でも、輸送掩護に力を注げば、輸送作戦成功の見込みは十分ある」との戦訓が得られており、第八十一号作戦ラエ輸送は実施することになった[79]。
現地では1月27日に岡部支隊がワウに侵攻していたが連合軍の増援部隊に撃退され[80]、2月24日までに撤退していた[81]。ウェワク輸送に関しては[82]、2月20日から26日にかけて第四十一師団(師団長阿部平輔陸軍中将)約1万3600名の陸兵と輸送物件の揚陸に成功した[83][84]。輸送作戦は軽巡洋艦2隻(大井、北上)、駆逐艦10隻、輸送船11隻でおこなわれ、第一航空戦隊飛行機隊がウェワク飛行場に進出して上空援護をおこなった[85]。上陸部隊は、先にウェワクに上陸していた第二十師団や第二特別根拠地隊(海軍)と共に、飛行場の構築・拡張任務を開始した[86]。
本作戦当時、南東方面の日本海軍を指揮していたのは南東方面艦隊(第十一航空艦隊)司令長官草鹿任一中将であった[87][88]。南東方面艦隊(前年12月24日、新編)司令長官草鹿任一中将は、基地航空部隊(第十一航空艦隊基幹)と外南洋部隊(第八艦隊および連合艦隊他からの増援部隊)から成る南東方面部隊の指揮官であり[89][90]、南東方面の日本海軍最高責任者であった[91]。 当時の南東方面には外南洋部隊指揮官三川軍一中将(第八艦隊司令長官)の指揮の下[92]、木村昌福第三水雷戦隊司令官(外南洋部隊増援部隊指揮官)の外南洋部隊増援部隊(川内、朝潮、荒潮、白雪、初雪、皐月、水無月、文月、長月、雪風、時津風、朝雲、峯雲、浦波、敷波、村雨、五月雨)が展開していた[93]。
第三水雷戦隊司令官木村昌福少将を護衛部隊指揮官[94]とする駆逐艦8隻(第11駆逐隊〈白雪〉、第19駆逐隊〈浦波、敷波〉、第8駆逐隊〈朝潮、荒潮〉、第9駆逐隊〈朝雲〉、第16駆逐隊〈時津風、雪風〉)[95]、輸送船8隻(陸軍輸送船7隻〈大井川丸、太明丸、建武丸、帝洋丸、愛洋丸、神愛丸、旭盛丸〉、海軍運送艦1隻〈野島〉)[96]の船団が編成された[97][69]。輸送人員は、猛作命甲第157号乗船区分表によれば5,916名、南東太平洋方面関係電報綴によれば6,912名、井本方面軍参謀業務日誌によれば約7,500であった[98]。軍需品は約9,300立米、不沈ドラム缶1500本、大発動艇約40隻を搭載した[98]。航空燃料は建武丸に搭載し、他の輸送船の安全を確保した[98]。
同船団上空警戒は、海軍側は第二十一航空戦隊(司令官市丸利之助少将)が戦闘機隊全部を掌握して実施した[95]。ニューブリテン島ラバウルとニューアイルランド島カビエンの第204空や第253空および空母瑞鳳航空隊の零戦合計60機以上[99][100][101]、陸軍側は第6飛行団長板花義一陸軍中将指揮下の陸軍戦闘機60機以上が担当する[102]。船団の直掩の戦闘機隊は、時間帯によって陸軍と海軍が交互に交代する予定であった[103]。
作戦実施にあたり、木村昌福少将(三水戦司令官。2月14日発令)[104]は本来の第三水雷戦隊旗艦(軽巡洋艦川内)から白雪型駆逐艦白雪(第11駆逐隊)に座乗した[105][106]。各駆逐艦にも陸軍兵と補給物資搭載の指示がなされた[52]。作戦に参加した駆逐艦の対空装備はすべて機銃程度で、対空砲火の不備は作戦失敗後の戦訓でも失敗の一因と指摘されている[107]。輸送船8隻の対空装備も駆逐艦と大同小異で[108]、こちらも十分とはいえなかった[107]。
日本軍の作戦では、2月28日(3月1日午前0時0分)にラバウルを出航し3月3日夕刻にラエに到着・揚陸予定であった[72][109]。日本陸軍船舶部隊がラエに先行し、事前に揚陸準備をおこなう[110]。同時に敵航空戦力を空爆により弱体化させる計画であり[102]、夜間爆撃がラビ及びポートモレスビーに対して行われたが、前述のように航空戦力の過少と天候不良により不十分であった[76][74][11]。 またラバウルに本拠地を置く日本軍基地航空隊(第十一航空艦隊、司令長官草鹿任一中将〔南東方面艦隊司令長官兼務〕)は、3月3日当日に重巡青葉と雷撃訓練を行うような状態だった[111]。
大本営陸軍部はニューギニア方面作戦およびラエ・サラモア地区の得失を非常に重要視しており、「陸海軍あらゆる手段を尽して之を確保すべき」と決意していた[66]。護衛部隊の第三水雷戦隊参謀であった半田仁貴知少佐は、八十一号作戦計画担当であった第八艦隊作戦参謀神重徳大佐(海軍兵学校48期)に「この作戦は敵航空戦力によって全滅されるであろうから、中止してはどうか」と申し入れたが、神大佐から「命令だから全滅覚悟でやってもらいたい」と回答されたという[20]。その作戦を立案した南東方面艦隊(第十一航空艦隊、第八艦隊)の当事者は、成功率は四分六分、あるいは五分五分程度とみていた[20]。とくに第八艦隊(長官三川軍一中将、参謀長大西新蔵少将、参謀神重徳大佐)では「直衛機を信頼して無理な輸送作戦を計画するのは根本的に誤りである」と判断していた[112]。軍令部は「輸送船の半分に損害はあるかもしれぬ」と判断している[111]。八十一号作戦を立案した第八方面軍は、ラエ輸送の成功率は40パーセントから50パーセントとみていた[55]。だがマダン揚陸ではラエまでの移動に時間がかかり、またラエ・サラモア地区の陸軍を早急に支援しなくてはならないため、冒険的作戦ながら実施することになった[55]。
このように、本作戦はラエ輸送作戦を主張する日本陸軍と、マダンもしくはウェワク輸送を主張した日本海軍(連合艦隊)の、妥協の産物であった[17][20]。 出撃の前、野島艦長の松本亀太郎大佐は第8駆逐隊司令の佐藤康夫大佐に「生還は望めない作戦なので骨だけは拾ってほしい」と頼むと、佐藤大佐は「自分の座乗する『朝潮』が護衛する限り大丈夫だ。『野島』の乗組員は必ず生きて連れて帰る」と返した[113]。
連合軍の準備
一方、連合軍も日本軍がラエ地区の防禦を固めると考えていた[114]。ニューブリテン島ラバウルに日本軍艦船が集結していること、輸送ルート上に飛行場建設がはじまったことを察知したダグラス・マッカーサー大将は、麾下の第5空軍(司令官ジョージ・ケニー中将)部隊に対応を命じる[114]。連合国軍航空部隊は、反跳爆撃(skip bombing)により日本軍輸送作戦の阻止を試みた[114]。これは低空・至近距離で海面に爆弾を投下し、海面でジャンプさせ目標に命中させる戦法である[115]。水平爆撃に比べ命中率が高い[116]。反面、低空飛行により対空砲火を受ける確率も高くなるが、増設機銃により敵艦の対空能力を弱めることで被害減少を図った。第3爆撃団の第90爆撃飛行隊には、通常仕様のB-25爆撃機から尾部銃座と下部銃塔を除く代わりに前方機銃8丁を備えたB-25C1が配備された[117]。また対空装備の乏しい駆逐艦を日本軍が船団護衛に使用するという情報も連合軍は入手していたとされる。
連合軍は日本軍の船団運航についても事前に把握していた。早くも2月19日に連合軍の情報機関は日本軍のラエ地区への新たな増援について警告し、2月28日には連合軍の情報担当者がラエへの増援部隊上陸日を3月5日、マダンへの増援部隊上陸日を3月12日頃と予報していた[117]。連合軍は2月29日に日本軍のラエ輸送に対する警報を発した[118]。つづいて3月5日ごろに日本軍がラエに上陸すると判断し、アメリカ陸軍航空隊とオーストラリア空軍はポートモレスビーやブナに航空機を集結して3月1日には攻撃準備を完了した[118]。
戦闘
日本軍の輸送船8隻(陸軍第十八軍司令官安達二十三陸軍中将を含む約7000名)[119]と護衛の駆逐艦8隻(船団部隊指揮官木村昌福第三水雷戦隊司令官)からなる輸送船団は[68][120]、2月28日午後11時00~30分にニューブリテン島ラバウルを出航して港外に集結した[112][97][116]。 第十八軍戦闘司令所は、駆逐艦時津風に乗艦した[98]。第五十一師団長は、最初は駆逐艦荒潮に乗艦予定だったが、実際には駆逐艦雪風に乗艦した[98]。出航時は悪天候で、船団の速力は9ノット程度だった[121][122]。護衛艦(雪風)では、輸送船団の速力に冗談が出るほどだった[123]。 出航後、各輸送船では食糧庫の中のものを全て厨房へ卸したため、乗船部隊には毎日のように御馳走が振る舞われたという[124]。一方で連合軍が投下した宣伝ビラ等により出撃前から不安が広がっており、発狂者が続出した[125][126]。
日本陸軍が防空を担当していた3月1日午後2時15分、連合軍のB-24爆撃機がビスマルク海で船団を発見、接触を続けた[127][112]。陸軍戦闘機は触接機を撃墜できなかった[121]。ポートモレスビーにはB-17重爆撃機約55、B-24重爆60、B-25中爆約50、B-26中爆約40、A-20軽爆約30、戦闘機計330機が配備されており、ここから戦闘機154機、軽爆34機、中爆41機、重爆39機、計268機が出撃準備を整えた[127]。3月1日の段階では、日本軍輸送船団の位置は攻撃圏外にあると判断された[127][118]。索敵攻撃に出発したB-17重爆8機は、天候不良のため接敵できなかった[118]。午後7時から8時にかけて連合軍機が吊光弾を投下したが、船団に対する夜間攻撃はなかった[121]。
3月2日の日本軍輸送船団上空警戒は、11時45分までは海軍機、それ以降は陸軍機を予定していた[112]。同日朝、日本軍船団はニューブリテン島西端グロスター岬北東海面を航行していた[99]。午前8時以降、B-17爆撃機十数機と護衛戦闘機が襲来、B-17隊は船団を高度2000mで水平爆撃をおこなった[121]。輸送船1隻(旭盛丸)が午前8時16時に直撃弾2発を受け、大火災となって午前9時26分に沈没した[121][128]。愛洋丸と建武丸が至近弾で若干の被害を受けた[121]。 駆逐艦朝雲(第9駆逐隊)と駆逐艦雪風(第16駆逐隊、第五十一師団長乗艦)が旭盛丸兵員1500名中約900名(戦史叢書40巻では朝雲に819名、戦史叢書96巻では朝雲、雪風に918名)を救助する[121][112][129]。2隻は第9駆逐隊司令小西要人大佐(朝雲座乗)指揮下で船団から先行し[112]、ラエへ向かった[121][129]。B-17は1機が撃墜され、14機が損傷した[116]。零戦の損害は1機だった[112]。 この事態を受けて、第八艦隊司令長官三川軍一中将(外南洋部隊指揮官)は待機していた駆逐艦初雪(第11駆逐隊)に出撃と救援を命じた[130]。第八艦隊司令部(三川長官、大西参謀長、神重徳参謀など)では作戦実施前の憂慮が現実となったことで、悲観的な空気が広がった[112]。
午後2時20分以降、B-17爆撃機6機による攻撃があり、直衛戦闘機が応戦した[131]。爆撃や機銃掃射により各船で若干の死傷者が出た[131]。午後4時25分以降、B-17爆撃機8機による攻撃があった[131]。運送艦1隻(野島)が至近弾で損傷したが、戦闘航海に支障はなかった[131][132]。海軍航空部隊はのべ42機が出動し、敵機体4機撃墜を報じた[131]。 連合国軍は最初の出撃部隊8機が輸送船2隻撃沈、後続の20機が輸送船3隻炎上、夜中に1機が命中弾2発を報告している[127]。朝雲と雪風は日没後ラエに到着し、中野師団長と兵員を揚陸に成功した[133]。一方の日本軍輸送船団は予定より2時間はやく進んでいたため、時間調整と偽装のため一旦針路を西方にとり、日没後にビディアス海峡(ロング島とウンボイ島の間)を通過する[99]。だがオーストラリア軍のPBYカタリナ飛行艇は夜間も触接を続け、船団の行動を逐次報告していた[112][118]。
3月3日は快晴で[4]、船団前方に雲がかかっていた[134]。同日船団防空の取り決めは、日の出から午前11時半までは日本海軍の受け持ちだったため、零式艦上戦闘機15機前後が1時間交代で哨戒を行う予定だった[135][134]。空襲時、警戒交代が重複したため、計41機(第一直14機、第二直12機、戦闘末期に第三直15機)の零式艦上戦闘機が警戒にあたっていたという[131][136]。一方、ラエに先行していた朝雲と雪風も船団本隊に戻ってきた[137][138]。 日本艦隊は、輸送船7隻が右3隻-左4隻の並行縦陣を形成し、その輸送船集団の左右を駆逐艦3隻が守るという陣形を形成していた[139]。まず最右列に先頭より浦波→朝潮→朝雲の順番で駆逐艦3隻が配置され、中央右列に先頭から駆逐艦白雪(三水戦司令官旗艦)と輸送船3隻(帝洋丸、愛洋丸、神愛丸)、中央左列に駆逐艦敷波と輸送船4隻(大井川丸、太明丸、野島、建武丸)、最左列に時津風→荒潮→雪風の順番で駆逐艦が護衛していた[140][139]。
午前7時30分以降、ニューギニアのクレチン岬南東約14海里(約25km)、サラモアから東方約60海里(約110km)地点を航行する日本軍輸送船団に対し、P-38ライトニング双発戦闘機とカーチスP-40戦闘機に護衛された連合国軍機大部隊が突入する[135][134]。連合国軍機の機数については資料によって差異があるため[131]、ここではおおまかな機数のみ記述する[134]。 まずブリストル・ボーフォート約10機が攻撃を試みたが零戦に阻止された[134]。 次いで連合軍の大編隊が襲来。ブリストル・ボーファイター13機が低空で進入し機銃掃射、B-17爆撃機13機が高高度から爆撃、これを連合国軍戦闘機約50が掩護する[127][118]。零戦隊はB-17隊を最大の脅威とみて迎撃のため高度を上げ、低空への対処が出来なくなる[141]。この時、零戦パイロットは撃墜したB-17爆撃機(瑞鳳零戦が体当たりしたとも)[142]から脱出した生存者の数名に対して機銃掃射を行った[143][144]。 続いて、高度をあげたB-25爆撃機13機が中高度で水平爆撃、B-25爆撃機12機が低空で反跳爆撃をおこなった[118]。その後もA-20攻撃機12機(戦史叢書では機数不詳)、B-25爆撃機6機がさらに反跳爆撃をおこなった[118]。結局、被害の大部分は低空から侵入した爆撃機の反跳爆撃によるものだった[145][146]。 約20分間の空襲により、輸送船7隻と駆逐艦3隻(白雪、荒潮、時津風)が被弾して戦闘不能となる[147][148][134]。さらに直撃弾で艦橋を破壊され舵故障に陥った荒潮は[149]、野島と衝突した[148][150]。建武丸(三光汽船:953総トン)、愛洋丸(東洋汽船:2,746総トン)および駆逐艦白雪(第三水雷戦隊旗艦)が沈没した[151]。木村司令官は機銃掃射により重傷を負い、敷波に移乗して旗艦を変更した[148][134]。 連合軍機はB-17重爆1機、P-38ライトニング3機を喪失した[118]。
第十八軍戦闘司令所は時津風に乗艦していたが、同艦の被弾航行不能により雪風に移乗した[152]。第十八軍司令官安達中将はフィンシュハーフェンかマダンへの上陸を希望したが、海軍側は残存燃料や生存者救助の観点から同意しなかった[152]。ラバウルでは、第八方面軍(今村中将)が南東方面艦隊(草鹿中将)に対し、残存駆逐艦によるフィンシュもしくはマダン上陸をおこなうよう交渉したが、実現しなかった[152]。
連合軍機は午前8時30分までに戦場から去った[147]。ダンピア海峡の潮流は流速1.5ノットもあり、沈没船から海上に脱出した生存者は流されはじめた[147]。残存駆逐艦5隻(損傷軽微〈浦波、敷波、朝潮〉、損傷なし〈朝雲、雪風〉)は沈没艦の生存者救助活動を開始する[153]。しかし10時35分頃に敵機再来襲(敵機24機発進、発信者不詳)との報が入り、木村司令官(敷波座乗)は「救助作業中止、全艦北方に避退せよ」との命令を下す[153]。 ところが第8駆逐隊司令駆逐艦朝潮(駆逐隊司令佐藤康夫大佐)は『我野島艦長トノ約束アリ 野島救援ノ後避退ス』と発信[153]。駆逐艦4隻(敷波、浦波、朝雲、雪風)は北上して戦場を離脱、朝潮は単艦で野島の救援に向かった[153][154]。野島に近づいたところ、近くに航行不能となった姉妹艦荒潮(第8駆逐隊)が漂流しており、朝潮は荒潮の陸軍兵士と負傷者を収容して避退に移った(荒潮は残留乗組員により北方への退避を続行)[155][150][156]。
午前11時20分頃、陸軍航空部隊(第十二飛行団14機)がダンピール海峡上空に到達した[152]。午後には零戦8機が海峡上空に進出した[152]。午後1時15分頃より、連合軍機約40機が来襲した[152]。B-17爆撃機16機、A-20攻撃機12機、B-25爆撃機10機、ブリストル・ボーファイター5機、P-38戦闘機11機の攻撃により、神愛丸(岸本汽船:3,793総トン)、太明丸(日本郵船:2,883総トン)、帝洋丸(帝国船舶:6863総トン、元独船Saarland)、野島が被弾沈没した[151]。被弾し航行不能となっていた大井川丸(東洋海運:6,494総トン)はその夜、アメリカ軍魚雷艇の攻撃で沈没した[157][118]。 健在だった駆逐艦朝潮は付近を行動していた日本軍艦船の中で唯一行動可能だったため集中攻撃を受けて航行不能となり、総員退去に追い込まれた[158]。朝潮乗艦者のうち一部(野島特務艦長松本亀太郎大佐を含む)は大発動艇やカッターボートに乗り、3日間の漂流の後に日本軍に救助されたが、朝潮艦長吉井五郎中佐のほか、荒潮艦長久保木英雄中佐、第8駆逐隊司令佐藤康夫大佐以下299名は戦死した[159][153][160]。
同日午後、陸軍飛行機隊からの通報で船団の遭難を知った第五十一師団長(雪風により、既にラエに上陸)は、揚陸に備えて現地で待機していた船舶工兵部隊より大発動艇7隻を遭難者救助のために派遣した[161]。北方に退避した駆逐艦4隻(敷波、浦波、朝雲、雪風)は、救援のため到着した駆逐艦初雪(第11駆逐隊)と合同する[162]。安達中将(第十八軍司令官)は初雪に移乗した[152]。浦波と初雪(陸軍兵両隻合計約2,700名乗艦)はラバウルに向かった[152][163]。
日没後、3隻(敷波、朝雲、雪風)は遭難現場へ戻り生存者を捜索した[152][164]。 駆逐艦荒潮は、雪風に乗員を収容後、放棄された[150][163]。翌日(4日)、B-17の爆撃によって500ポンド爆弾が第一煙突に命中、沈没した[151]。乗員を雪風に移乗させたのち放棄されて漂流する時津風は3月4日になり日本軍航空隊により爆撃されるも失敗、日本側は処分のため潜水艦を派遣する事態になる[165][151]。だが、時津風は同日午後、アメリカ軍機の攻撃で沈没した[151]。 空母瑞鳳から派遣されていた戦闘機隊は18機(文献によっては15機)[42]が戦闘に参加し(当初15機、増援3機)[166]、2名が戦死した[167][168]。日本側全体では戦闘機5機が自爆乃至未帰還となっている[169]。日本陸軍航空隊は救助作業をおこなう大発動艇の掩護をおこない、海軍航空隊は帰還駆逐艦の掩護をおこなった(3月5日、陸攻6と零戦17が出撃し、救命具を投下)[161]。
3月4日午前10時、安達中将と遭難将兵を乗せた浦波と初雪はラバウルに入港した[170]。3隻(敷波、朝雲、雪風)はカビエンで軽巡洋艦川内から燃料を補給したのち[155]、3月5日午前11時ラバウルに入港した[152]。入れ違いで第2駆逐隊司令橘正雄大佐指揮下[53]の駆逐艦村雨と峯雲がラバウルからコロンバンガラ島へ出撃して行った(2隻は同日深夜のビラ・スタンモーア夜戦で沈没)[171][172]。
3月3日の輸送船団全滅時、連合軍は航空機や魚雷艇により、漂流する日本軍将兵を虐殺したとされる[152][173][174]。3月4日にも、米陸軍航空隊や豪空軍の航空機が漂流する日本軍将兵を機銃掃射したとの記録もある。4日時点で、時津風漂流地点周辺には人員約1000名、短艇20から30隻が漂流していた[153]。しかし日本軍潜水艦(伊17)を追い払ったアメリカ軍魚雷艇複数隻が、救助作業中の日本軍小型艇を撃沈したのち、機銃掃射を加えたのである[22][175]。連合軍側は後に、日本軍兵士は救助されると速やかに現場へ復帰する[176]、捕虜となったとみせかけて米兵に襲いかかる[22]、先のB-17爆撃機の生存者への機銃掃射に対する報復[177]等の理由をあげ、この行為を正当化した[22]。
なお、アメリカ軍は帝洋丸の救命ボートより日本陸軍将校実役定年名簿(昭和17年10月15日調制)を押収、その名簿には東条英機陸軍大将から中隊長級に至る日本陸軍将校約4万人の氏名と配備部隊と職種が書かれていたという[178]。
一方、日本陸軍はラエに待機していた船舶部隊より大発動艇部隊を派遣したが[152]、3月3日の救助はアメリカ軍機の妨害で失敗、3月4日以降は救助を実施した[129]。同日、日本海軍は、漂流する時津風の雷撃処分(前述)および生存者救助のため潜水艦を派遣する[179][180]。 伊17は3月4日深夜現場着[181]。派遣された呂101と呂103のうち、呂101は野島艦長以下44名(合計45名)を収容して3月9日ラバウルに帰投した[153][180]。 呂103は座礁事故を起こして引き返し[182]、3月17日に帰投した[180]。 3月6日、負傷した木村昌福少将は第三水雷戦隊司令官を解任され、後任司令官には江戸兵太郎少将が任命された[183]。伊17[184]や伊26[185][186]は同日も救助活動を実施した。伊26は3月8日にグッドイナフ島西方の小島で54名、3月9日に40名を収容、またそれ以降も沈没船乗組員や陸軍兵少数が陸岸に漂着している[153][187]。たとえば大井川丸が沈没した際、乗船中の歩兵第115聯隊は軍旗・陸兵・大井川丸船員合計31名が救助艇で脱出、機銃掃射や衰弱により15名が戦死したのち4月2日になってニューブリテン島マーカス岬西方10km沖合のブツマテレ島に上陸した[188]。しかし、陸上に漂着した者の大部分は、現地住民に殺害されたと思われる[118][189]。
雪風航海士(当時)の証言では、ラバウルに帰還した駆逐艦4隻(敷波、浦波、雪風、朝雲)の内、朝雲艦長岩橋透中佐は第八艦隊司令部に乗り込んで「こんな無謀な作戦をたてるということは、ひいては日本民族を滅亡させるようなものだ。よく考えてからやっていただきたい」と怒鳴ったという[190]。なお既述のように、本作戦は昭和天皇の「ガ島から撤収するするのはいいが、何処かで攻勢に出ねばならぬ」という意向により[29]、大本営陸海軍部、連合艦隊、南東方面部隊(南東方面艦隊、第十一航空艦隊、第八艦隊)、第八方面軍の一致した方針および作戦協定により実施した作戦である。
結果
ダグラス・マッカーサー陸軍大将は「史上屈指の完璧で圧倒的勝利に終わった戦い」との声明をラジオ放送を通じて発表した[191]。マッカーサー自身はビスマルク海海戦について以下の報告をおこなったと回顧している[192]。
われわれが得た勝利は、敵にとっては大きい破局といえるほど徹底的なものであった。われわれの決定的な成功が敵の戦略、戦術両面の計画にきわめて重大な影響を与えることは疑いない。少なくとも当分は、敵の戦闘行為は完全に調子が狂った。 — ダグラス・マッカーサー(著)/津島一夫(訳) 『マッカーサー回顧録』136ページ
マッカーサーによれば、フランクリン・ルーズベルト大統領[193]、オーストラリア首相ジョン・カーティン、イギリス首相ウィンストン・チャーチル[194]、イギリス空軍高官など各方面から祝電が届いたという[195]。連合軍(マッカーサー司令部)の戦果記録は、日本軍輸送船および駆逐艦22隻撃沈、人員1万5000人、航空機150機撃墜というものだったが、これは当時の連合軍自身も過剰計算だと認めている[178]。実際の被害は以下のとおり。
- 日本の損失[133]
- 陸軍輸送船7隻沈没
- 海軍輸送船1隻沈没
- 駆逐艦4隻(白雪、朝潮、荒潮、時津風)沈没
- 戦闘機4(未帰還機含む)
- 陸軍第十八軍司令部、第51師団主力約7000名中生存者3625名[196]。3月4日時点の報告(第八方面軍、剛方参一電第564号と566号)によると全乗員(艦)人員6,912名、生存者約3,900名(ラエ上陸約875名、ラバウル帰投2,700名)、戦死約3,000名以上[21][197]。
第十八軍の報告(剛方参二電第295号)によれば、15㎝榴弾砲4門、10㎝カノン砲3門、高射砲11門、山砲6門、連隊砲2門、大隊砲6門、対戦車砲4門、自動貨車34両、輜重車94輌、弾薬500トン、糧秣ほか8,800立米、航空ガソリン入りドラム缶2,000本、通信機材、無線修理車、船舶装備(高射砲17門、野砲3門、機関砲5門、大発動艇40隻)を喪失した[108]。海軍も乗員、防空隊の多くを失った[20]。この輸送作戦失敗はダンピールの悲劇と呼ばれ[18]、その後のニューギニア方面作戦に大きな影響を与えた[198][199]。しかし、大本営陸海軍部の南東方面重視(陸軍はニューギニア、海軍はソロモン諸島)[200]の姿勢に変化はなかった[201][202][203]。
輸送船団の全滅はただちに昭和天皇に上奏された[6]。天皇は「今後以下如何にするや」と御下問した[204]。 翌4日、杉山元参謀総長が上奏した際には[205]「この度のことは将来のため良い教訓であろう。航空兵力を増強し地上兵力も安全なところに上陸し道路をつくり、歩一歩地歩を占め、今後ラエ、サラモアがガ島同様にならぬようにやれ。今後の兵力運用の腹案如何?」と述べた[206]。永野修身軍令部総長に対して天皇は「失敗ノ原因ヲヨク研究シテ禍ヲ転ジテ福トスル様ニト」と伝えたという[207]。 本作戦を指揮した南東方面艦隊(第十一航空艦隊司令長官草鹿任一中将兼務)は、作戦失敗について「ポートモレスビー方面の連合軍基地に対する航空撃滅戦不徹底」を挙げている[11]。南東方面艦隊参謀長中原義正少将も[88]、事前航空撃滅戦の不徹底、到着時刻の検討不足による航路設定の不備、対空戦闘能力の不足等を敗戦の教訓としている[20]。 高松宮宣仁親王(軍令部大佐、昭和天皇弟宮)は以下のように敗戦を分析している[111]。
- 「ラエ」輸送船団失敗ノ原因ヲ思ツク儘ニ挙ゲレバ
- 一、戦闘機集中不十分。
- 二、事前、敵飛行場攻撃ヲセザリシコト
- 三、事前、敵情(偵察、通信判断)ニ対シ輸送計画変更シ得ザリシカ。
- 四、基地航空部隊陸攻ハ当日「青葉」ニ対シ雷撃教練ヲナシタル模様ナリ。又「ツラギ」夜間攻撃ヲナシタリ。之等ハ他日トナシ得ベシ。
- 五、基地航空部隊ノ直衛戦闘機兵力区分ハ予メ十二分ノ出シ得ル兵力ヲ部署スルヲ必要トス。前日ニナリ段々ニ兵力ヲ増加セリ。
- 六、輸送船ノ半数ハ損害アルモ、斯ク〔ノ〕如キ全滅ニ加フルニ駆逐艦ノ半数ヲ被害ヲ被ラシムルトハ考ヘナカツタ(中略)互ニ上級司令部ノ悪口ヲ云フ傾向ハ止メネバナラヌ。
第十八軍司令官安達二十三中将の所感は以下の通り[107][170]。
一 敵情判断ヲ粗漏ニセシコトヲ痛感ス 航空勢力ニ関シテモ多分ニ希望的観測ニ立脚シ何トカナルベシト考ヘヰタル所ニ大ナル誤謬アリキ
二 「ガ」島及「ブナ」ニ対スル我軍ノ圧迫消失シ敵ガ自由ニ跳梁スル今日、今次作戦ノ如キ原始的上陸作戦ハ成功ノ算ナシ 何等カノ考察ニ依リ敵ノ航空勢力ノ眼ヲ避ケテ実施シ得ルモノナラザルベカラズ — 第十八軍司令官 三月四日/戦史叢書 南東方面海軍作戦<3>ガ島撤収後 69ページ
もともとこの輸送作戦は航空の劣勢から無理があり、天皇の意向を受けた大本営陸海軍部のニューギニア方面作戦重視という観点から、成功可能性よりも必要性を優先させたものであった[20]。また経験したことのない連合軍による多数機での銃撃、低空爆撃(反跳爆撃。被弾時、木村司令官は魚雷攻撃を受けたと判断)[133]、中高度爆撃があり、南東方面艦隊参謀兼第十一航空艦隊参謀の三和義勇大佐(海軍兵学校48期)は[88]、3月4日の日誌に「余は敵のこの種の攻撃を予想せざりき、余の失敗なり、予想したりとせば、八十一号作戦は成り立たず」と残している[20]。 奥宮正武(当時海軍少佐、第二航空戦隊参謀)は作戦失敗の主因を『日本軍航空兵力の不足(一、日本陸軍の航空機が洋上作戦に不向きで、作戦可能機が著しく少なかった。二、海軍航空部隊がソロモン群島方面作戦とニューギニア方面作戦に従事して充分な数を集められなかった)』と指摘している[87]。 また作戦失敗の直接原因として直掩の戦闘機隊が中高度に配置されていたため、低空から進入する連合軍機に対処できなかったことも指摘される[157]。遭難時を考慮して、もっと接岸航路をとるべきだったという意見もあった[107]。
ラバウルを訪問していた南方軍参謀吉川正治少佐によれば、第八方面軍の航空幕僚は「海軍機の直衛の場合は、船団掩護の見地から心配である」と心配していたという[206]。 船団の直掩の戦闘機隊が時間帯によって陸軍と海軍が交互に交代する措置について、陸軍参謀本部作戦課長の真田穣一郎大佐は「陸海軍航空の担任が、午前と午後というような部署では、1+1の戦力発揮はできない。統一使用に関しさらに努力せねばならぬ」と述べた[208]。真田日記では「3Fノ航空艦隊ノモノヲ集中スレバ海軍ノ飛行機一〇〇機ヲ集中出来ル、ヨシソレヲヤレト申シタノニヤッテ居ナイ。七〇機ハ集中シタ様ダ、「トラック」ニ居ル瑞鶴ノFMガ加入シテ居ナイ。」等、日本海軍への不満も見られる[209]。真田大佐は作戦失敗原因を以下のように分析している[206]。
- (1)敵の基地航空の洋上における組織的攻撃の成功
- (2)敵の索敵哨戒の優位
- (3)わが海軍航空の劣勢
本作戦を指揮した草鹿任一海軍中将(南東方面艦隊司令長官、第十一航空艦隊司令長官兼務)は、敗北の責任を問われなかった[87]。 作戦失敗後の3月7日、第八方面軍は研究会を開いて本作戦を反省し「現況において如何なる方策を講ずるもあのような結果を得るの外なかった」と総括した[23]。第八方面軍の戦訓は以下のとおり[170][210]。
- 一 航空作戦について
- (1)事前の航空撃滅戦が重要だったが兵力が足らず思い切って出来なかったうえ、海軍側も熱意がなかった。
- (2)敵の動静が的確につかめれば良かったが、現況では期待できない。
- (3)陸軍航空隊が船団直衛を担当していたら作戦は成功したか? 陸軍機でも「大同小異」であっただろう。
- (4)敵情判断を重視して敵の行動を予期していたら他に方策があったか? これも別に名案はなく、真に敵の企図明瞭ならば本作戦は中止したであろう。
- 二 優速船(15ノット)で本作戦を実施したら成功の算があったか?
- 航海中の損害は減らせても、泊地で揚陸中に大規模空襲を受ければ揚陸可能かどうか不明。要するに旧形式の上陸作戦は実施不可能である。航空作戦に関する兵力や施設を増強しなければ、現況打開の方策はない。
井本熊男第八方面軍参謀は、当時の南東方面戦局と大本営の認識について以下のように判断している[211]。
吾人ノ着任以来抱懐シアル観察ハ遺憾乍ラ事実トシテ現レツツアリ。目下ノ努力ハ致命的重病ヲ何トカシテ長ク持久スルコトニ努ムルニ似タリ。幸ニ病勢ヲ喰止メ得タルニセヨ更ニ健康ヲ増進スルコトハ困難ナリト判断ス。
大本營ノ南太平洋方面ニ対スル認識ハ第十七軍ノ任務カ逐次変化セシ如ク常ニ後手々々ト情況ノ進展ニ一歩遅レツツ認識ヲ微妙角度変更シアルモノト考ヘラル。終ニ正鵠ヲ得タル手ヲ打ツコトハナカルヘシ 天下人無キヲ憂フコト切ナリ。 — 戦史叢書 大本營陸軍部<6> ―昭和十八年六月まで― 254-255ページ
在パラオの第二十師団をマダンに輸送する作戦は、揚陸地点をマダン北西150kmのハンサ湾に変更した[133][212]。第10駆逐隊司令吉村真武大佐の指揮により駆逐艦5隻(秋雲、夕雲、風雲、五月雨、皐月)と輸送船6隻は3月6日にパラオを出発、3月12日未明にハンサ湾に到着して揚陸に成功した[133][213]。 また東部ニューギニア方面の連合国軍陸海軍航空部隊および艦船部隊に打撃を加えるべく、連合艦隊(司令長官山本五十六大将、参謀長宇垣纏中将)の主導によりい号作戦が実施されることになった[214][215]。軍令部作戦課長山本親雄によれば「い号作戦について軍令部から指示した記憶はない。八十一号作戦ラエ輸送の全滅は「い」号作戦決行の一つの動機になったと思う」という[216]。連合艦隊首席参謀黒島亀人や戦務参謀渡辺安次は、母艦航空兵力の南東方面陸上基地配備はかねてから構想していたが、第八十一号作戦失敗により作戦準備を促進したと回想している[217]。
一方、日本陸軍は1月の時点でラエまでの海路での輸送に限界を感じており、フォン半島の反対側のマダンからフィニステル山脈を内陸部へ迂回してジャングルを突っ切ってラエに至る全長300~400キロの自動車道路の建設を計画、2月から4月にかけて建設を開始した[218]。3月6日の大本営陸海軍作戦会議において、あらためてマダン~ラエ道路の構築を急ぎ、8月末の完成を目指すことで一致した[219]。だが本作戦の結果が示すように敵制空権下での船団輸送は不可能であり、海上トラックや沿岸伝いの舟艇機動(蟻輸送)でかろうじて補給を継続していた[220]。この輸送方式では、機材や資材はもちろん、糧秣の補給も充分にできなかった[221]。道路建設や飛行場建設は原始的手法(つるはしやもっこによる人力作業)に頼らざるを得ず[221]、9月になっても完成しなかった。
日本軍は、連合軍制空権下における船団方式輸送を諦めざるを得なかった[192]。大本営海軍部は、とりあえず大発動艇の輸送に頼ること、速力20ノット程度の高速輸送艇(第一号型輸送艦)を急速開発する事などを検討した[207]。ニューギニア方面やソロモン諸島への海上補給・輸送問題に悩む大本営陸軍部(参謀本部)は[222]、陸軍独自の輸送用艦艇開発に乗り出し、三式潜航輸送艇(まるゆ)、SS艇、各種舟艇の開発・生産・整備に尽力することになった[223]。
題材にした作品
- マンガ
脚注
- ^ a b 戦史叢書40 1970, pp. 44–46ラエ輸送の第十八軍命令
- ^ a b 戦史叢書40 1970, pp. 50–53第五十一師団長の作戦指導
- ^ a b c 戦史叢書40 1970, pp. 39–43ラエ輸送陸海軍現地協定
- ^ a b 戦史叢書40 1970, pp. 55a-58船団の全滅
- ^ 当時の日本軍は、ヴィティアス海峡も含めて、ニューブリテン島とニューギニア島の間の海峡を、ダンピール海峡と呼んでいた。アジア歴史資料センター大東亜戦争全史草案第5編/第11章 国防圏前衛線の逐次崩壊(1)ウェブ
- ^ a b 昭和天皇実録九巻42頁『(昭和十八年三月)三日 水曜日(第五十一師団輸送船団壊滅)』
- ^ 大本営海軍部 1982, pp. 118–119昭和十八年二月の情勢
- ^ 戦史叢書66 1980, p. 40新作戦方針転換に対する若干の問題点
- ^ 戦史叢書66 1980, pp. 43–44ニューギニア作戦と兵団運用の問題
- ^ 戦史叢書66 1980, p. 46挿図第2、1月におけるニューギニア方面戦況要図
- ^ a b c #南東方面艦隊(2)pp.33-34『第五 第八一號作戰 「カ」號作戰ノ爲ニ準備セル部隊ハ「ケ」號作戰ノ概成ト共ニ「ソロモン」方面ヘノ輸送ハ不必要トナリ陸海軍中央協定ニ基キ同兵力ヲ「ニューギニア」方面ニ転送シ該方面ニ於ケル戰略態勢ヲ強化スルコトトナリ輸送ニ関シ第八方面軍ト協定ス(「ニューギニア」方面ニ対スル兵力輸送ニ関スル陸海軍間協定覺書 二月十三日) 第四十一師團主力ノ「ウエワク」附近揚陸及本作戰実施ノ爲陸軍航空部隊展開ニ必要ナル基地員及物件ノ「マダン」「スルミ」及「ツルブ」ニ対スル輸送ハ何レモ豫定通完了セルモ第十八軍司令部及第五十一師團ノ「ラエ」ニ対スル船團輸送ハ事前「モレスビー」方面ニ対スル航空撃滅戰ノ実施不徹底ニ禍セラレ敵空軍ノ大集團攻撃ヲ受ケ潰滅スルニ至レリ(詳細FBG戰斗詳報)第二十師團ノ「マダン」輸送ハ前項「ラエ」輸送ノ失敗ニ鑑ミ敵機ノ攻撃圏ヲ考慮シ揚陸点ヲ「ハンサ」湾ニ変更(NTF信電令作第二號)陸軍航空部隊ノ直衛下ニ三月十二日揚陸完了セリ』
- ^ 提督草鹿任一 1976, pp. 132–133五、東部ニューニギアの戦闘
- ^ 撃沈船員記録 2008, pp. 87–88八一号作戦
- ^ 戦史叢書102 1980, p. 405a・81号作戦(昭和18.3,第8方面軍、海軍)
- ^ 戦史叢書102 1980, p. 165a昭和18年(1943年)2月11日 第51師団のラエ(東部ニューギニア)輸送〔96-46〕
- ^ a b 戦史叢書102 1980, p. 164昭和18年(1943年)2月13日〔7-166、39-77、40-31、94-77〕
- ^ a b c d e 戦史叢書39 1970, p. 78.
- ^ a b 戦史叢書66 1980, pp. 247a-248八十一号作戦計画とダンピールの悲劇
- ^ 太平洋の試練、ガ島からサイパン(上) 2016, p. 342.
- ^ a b c d e f g h #戦史叢書96ガ島撤収後67-69頁『作戦の終末』
- ^ a b 戦史叢書40 1970, pp. 58b-62作戦の終末
- ^ a b c d モリソンの太平洋海戦史 2003, pp. 225–226.
- ^ a b 戦史叢書66 1980, pp. 253a-255現地軍の反省と爾後の作戦指導に関する研究
- ^ 戦史叢書66 1980, pp. 25–26南東方面作戦方針の転換
- ^ 戦史叢書77 1974, pp. 498–504撤退決定の御前会議
- ^ マッカーサー 2003, pp. 132–133.
- ^ 戦史叢書77 1974, pp. 504–506陸海軍中央協定における問題点
- ^ 戦史叢書66 1980, pp. 30–37大本營の新作戦に関する命令、指示
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- 大西喬『艦隊ぐらしよもやま物語』光人社、1985年5月。ISBN 4-7698-0200-5。 大西は雪風下士官として本海戦参加。
- 奥宮正武「5 草鹿任一中将 ― 長期の激戦に耐え抜いた勇将 ―」『太平洋戦争と十人の提督(上)』朝日ソノラマ、1983年8月。ISBN 4-257-17030-1。
- 奥宮正武『太平洋戦争と十人の提督(下)』朝日ソノラマ、1983年8月。ISBN 4-257-17031-X。
- 奥宮正武『ラバウル海軍航空隊』学習研究社、2001年3月(原著1992年)。ISBN 4-05-901045-6。
- 第4部 二つの悲劇(昭和18年3月〜4月) 第2章 ダンピール海峡の南方に沈んだ輸送船団
- 桂理平『空母瑞鳳の生涯 われ等かく戦えり』霞出版社、1999年10月。ISBN 4-87602-213-5。
- 木俣滋郎『日本空母戦史』図書出版社、1977年。
- 草鹿任一『ラバウル戦線異状なし 我等かく生きかく戦えり』光和堂、1958年7月。
- 草鹿提督伝記刊行会『提督 草鹿任一』光和堂、1976年2月。
- 宮内庁編『昭和天皇実録 第九 自昭和十八年至昭和二十年』東京書籍株式会社、2016年9月。ISBN 978-4-487-74409-1。
- 佐藤和正『太平洋海戦2 激闘篇』 講談社、1988年 ISBN 4-06-203742-4
- 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 続編 17人の艦長が語った勝者の条件』光人社NF文庫、1995年12月。ISBN 4-7698-2106-9。
- 「地の軍人」<潜水艦「伊二六」艦長・横田稔大佐の証言>(太平洋戦争時、伊26潜水艦長、第一潜水戦隊参謀、伊44潜水艦長等を歴任)
- 佐藤和正「最高の傑作 <駆逐艦「時津風」ダンピールに逝く>」『艦と乗員たちの太平洋戦争 日本海軍と乗員はいかに戦ったか』光人社、2004年9月(原著1984年)。ISBN 4-7698-2432-7。
- 重本俊一ほか『陽炎型駆逐艦 水雷戦隊の中核となった精鋭たちの実力と奮戦』潮書房光人社、2014年10月。ISBN 978-4-7698-1577-8。
- 当時「時津風」主計科員・海軍上等主計兵曹芝田博之『八方破れ「時津風」が演じたガダルの奇蹟 ガ島撤収作戦に一役かった時津風に訪れたダンピール海峡の悲劇』
- 高松宮宣仁親王著、嶋中鵬二発行人『高松宮日記 第六巻 昭和十八年二月十二日〜九月』中央公論社、1997年3月。ISBN 4-12-403396-6。
- 田中宏巳『マッカーサーと戦った日本軍 ニューギニア戦の記録』ゆまに書房、2009年。ISBN 978-4-8433-3229-0。
- ジョン・ダワー著、斎藤元一訳『容赦なき戦争――太平洋戦争における人種差別』平凡社、2001年。ISBN 4582764193。
- 寺内正道ほか『海軍駆逐隊 駆逐艦群の戦闘部隊編成と戦場の実相』潮書房光人社、2015年9月。ISBN 978-47698-1601-0。
- 当時「時津風」水雷科指揮所伝令・海軍一等水兵桝谷克彦『ラエ輸送の悲劇 炎と波とわが時津風と 反跳爆撃に斃れた第十六駆逐隊=時津風と雪風のビスマルク海海戦』
- 土井全二郎『ダンピールの海 戦時船員たちの記録』丸善ブックス、1994年。ISBN 4-621-06007-4。
- 土井全二郎「第三章 ダンピールの海」『撃沈された船員たちの記録 戦争の底辺で働いた輸送船の戦い』光人社〈光人社NF文庫〉、2008年5月。ISBN 978-4-7698-2569-2。
- イアン・トール著、村上和久訳『太平洋の試練 ガダルカナルからサイパン陥落まで 〈上〉』株式会社文藝春秋、2016年3月。ISBN 978-4-16-390423-8。
- 外山三郎『図説 太平洋海戦史 第3巻 写真と図説で見る日米戦争』光人社、1995年9月。ISBN 4-7698-0711-2。
- 豊田穣『雪風ハ沈マズ 強運駆逐艦 栄光の生涯』光人社NF文庫、2004年(原著1983年)。ISBN 978-4-7698-2027-7。
- 豊田穣『豊田穣文学/戦記全集 第6巻』光人社、1990年(原著1983年)。ISBN 4-7698-0516-0。
- 平塚柾雄「第八章 ダンピール海峡の悲劇」『太平洋戦争裏面史 日米諜報戦 勝敗を決した作戦にスパイあり』株式会社ビジネス社、2016年8月。ISBN 978-4-8284-1902-2。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書7 東部ニューギニア方面陸軍航空作戦』朝雲新聞社、1967年8月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<4> ―第三段作戦前期―』 第39巻、朝雲新聞社、1970年10月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 南太平洋陸軍作戦<3> ムンダ・サラモア』 第40巻、朝雲新聞社、1970年12月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營陸軍部<6> 昭和十八年六月まで』 第66巻、朝雲新聞社、1973年6月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<3> ―昭和18年2月まで―』 第77巻、朝雲新聞社、1974年9月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 中國方面海軍作戦(2) 昭和十三年四月以降』 第79巻、朝雲新聞社、1975年1月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』朝雲新聞社、1976年8月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 潜水艦史』 第98巻、朝雲新聞社、1979年6月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 陸海軍年表 付 兵器・兵語の解説』 第102巻、朝雲新聞社、1980年1月。
- 増田禮二『怨み深し血の海、ビスマルクの海』
- ダグラス・マッカーサー著、津島一夫訳『マッカーサー大戦回顧録』中央公論新社〈中公文庫〉、2003年7月(原著1964年)。ISBN 978-4-12-205977-1。
- サミュエル・モリソン著、大谷内一夫訳『モリソンの太平洋海戦史』光人社、2003年8月。ISBN 4-7698-1098-9。
- 山本親雄『大本営海軍部』 21巻、朝日ソノラマ〈航空戦史シリーズ〉、1982年12月。ISBN 4-257-17021-2。
- Craven, Wesley F.; Cate, James L. (1950). The Pacific: Guadalcanal to Saipan August 1942 to July 1944. The Army Air Forces in World War II. Chicago: The University of Chicago Press
- Douglas Gillison『Royal Australian Air Force 1939–1942』 Australian War Memorial、1962年 oclc=2000369
関連項目
外部リンク
- Chapter V Battle of the Bismarck Sea
- US Air Force Historical Study No. 113 – The Fifth Air Force in the Huon Peninsula Campaign(PDF)