中野英光
中野 英光 | |
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生誕 |
1890年4月18日 大日本帝国 佐賀県 |
死没 | 1982年3月19日(91歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1912 - 1945 |
最終階級 | 陸軍中将 |
中野 英光(なかの ひでみつ、1890年(明治23年)4月18日 - 1982年(昭和57年)3月19日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]旧佐賀藩士・中野竹九郎の長男として生まれる。佐賀中学を卒業。1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第23連隊付となる。1920年(大正9年)11月、陸軍大学校(32期)を卒業し、参謀本部支那班に配属された。
1926年(大正15年)5月、関東軍司令部付としてハルビン特務機関に配属。その後、歩兵第63連隊大隊長、参謀本部員、吉林特務機関長、満州国軍政部顧問などを歴任。
1936年(昭和11年)8月、歩兵大佐に昇進。1937年(昭和12年)8月、北支那方面軍司令部付(済南特務機関長)に就任。1938年(昭和13年)3月、歩兵第13連隊長に任じられ日中戦争に参戦。武漢作戦などに従軍。1939年(昭和14年)2月、第21軍司令部付(広東特務機関長)に転じ、同年3月、陸軍少将に進んだ。1940年(昭和15年)2月、南支那方面軍司令部付(広東特務機関長)となり、歩兵第29旅団長を経て、同年12月、関東軍司令部付(満州国軍政部最高顧問)に就任。1941年(昭和16年)10月、陸軍中将に進級し太平洋戦争を迎えた。
1941年11月、第51師団長に親補され、広東の警備を担った。1942年(昭和17年)11月、ニューギニア戦線に転用され第18軍に編入、ラバウルに進出。1943年(昭和18年)2月、ニューギニアの戦いに参戦のため東部ニューギニアに派遣されたが、輸送船が撃沈され多大の損害を被った。その後、ラエ・サラモアの戦いに敗れ、サラワケット越えを敢行するなど苦戦を強いられた。オーストラリア軍と戦闘を交える中、ニューギニアのクッシャムで終戦を迎えた。
1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた[1]。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章