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[[ファイル:D4Y3_Yoshinori_Yamaguchi_colorized.jpg|thumb|260px|right|[[エセックス (空母)|空母エセックス]]に突入を試みる神風特攻隊の |
[[ファイル:D4Y3_Yoshinori_Yamaguchi_colorized.jpg|thumb|260px|right|[[エセックス (空母)|空母エセックス]]に突入を試みる神風特攻隊「香取隊」山口善則一飛曹・酒樹正一飛曹搭乗の艦上爆撃機「彗星」]] |
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[[ファイル:USS Essex (CV-9) is hit by a Kamikaze off the Philippines on 25 November 1944.jpg|thumb|280px|right|1944年11月25日[[エセックス (空母)|空母エセックス]]に神風特攻隊機が命中した瞬間]] |
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'''神風特別攻撃隊'''(かみかぜとくべつこうげきたい{{sfn|吉田|2017|p=「特攻隊」}}、しんぷうとくべつこうげきたい<ref name="昭和時代">{{Cite news|title=連載『昭和時代』 第3部 戦前・戦中期(1926〜44年) 第48回「特攻・玉砕」|newspaper=読売新聞|date=2014-02-15|page=18}}</ref>)は、[[第二次大戦]]で[[ |
'''神風特別攻撃隊'''(かみかぜとくべつこうげきたい{{sfn|吉田|2017|p=「特攻隊」}}、しんぷうとくべつこうげきたい<ref name="昭和時代">{{Cite news|title=連載『昭和時代』 第3部 戦前・戦中期(1926〜44年) 第48回「特攻・玉砕」|newspaper=読売新聞|date=2014-02-15|page=18}}</ref>)は、[[第二次大戦]]で[[大日本帝国海軍]]が[[体当たり]][[戦法]]のため[[編制]]した、[[特別攻撃隊]]{{sfn|松村|2017|p=「特別攻撃隊」}}。略称は「'''神風'''」、「'''神風特攻隊'''」{{sfn|上野|2017|p=「神風」}}、「'''特攻隊'''」{{sfn|吉田|2017|p=「特攻隊」}}。[[大日本帝国陸軍]]の[[航空機]]による艦船に対する[[特別攻撃隊]]は当初は通称はなかったが、のちに特攻隊の略号「と」をとって[[と号部隊|と號部隊]]と呼称された<ref>戦史叢書36 沖縄・台湾・硫黄島方面陸軍航空作戦 307頁</ref>。 |
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== 概要 == |
== 概要 == |
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[[1934年]](昭和9年)、[[第二次ロンドン海軍軍縮会議]]予備交渉に参加した[[山本五十六]]少将は<ref>{{Citation|和書|title=<small>米英撃滅の人柱</small> 山本五十六元帥|year=1943|ref=高幣、山本元帥|author=高幣常市|month=10|url={{NDLDC|1719948/78}} 国立国会図書館デジタル資料|chapter=九、ロンドンに於ける山本元帥|publisher=蒼生社|editor}}</ref>、新聞記者に対し「僕が海軍にいる間は、飛行機の体当たり戦術を断行する」「艦長が艦と運命を共にするなら、飛行機も同じだ」と語ったという<ref>{{Citation|和書|title=常在戦場|year=1943|ref=常在戦場|author=米内光政|month=12|url={{NDLDC|1058250/35}} 国立国会図書館デジタルコレクション|chapter=周到なる準備|publisher=大新社|editor=}}コマ36-37(原本59-60頁)『一日元帥と會食した時、飛行機の體當り戰術なるものを私は初めて聞いた。"君は僕を亂暴な男と思ふだらう。しかし考へて見給へ、艦長は艦と運命を共にする、飛行機の操縦士が機と運命を共にするのは當然ぢやないか、飛行機は軍艦に比べて小さいが、操縦士と艦長とは全く同じだ、僕は今度日本に歸つたら、もう一度是非航空をやる。さうして僕が海軍にゐる以上は、飛行機の體當り戰術は誰が何と云つても止めないよ、君見てゐ給へ"と云はれた。眞珠灣攻撃の第一報を見た時も、私は今更のやうに元帥の姿をはつきり目の前に見た』</ref><ref name="史伝山本元帥コマ104">{{Citation|和書|title=史伝山本元帥|year=1944|ref=史伝山本元帥|author=渡辺幾治郎|month=8|url={{NDLDC|1908682/104}}|chapter=|publisher=千倉書房|editor=}}コマ104-106(原本188-193頁)『皇軍の伝統的精神』</ref>。 |
[[1934年]](昭和9年)、[[第二次ロンドン海軍軍縮会議]]予備交渉に参加した[[山本五十六]]少将は<ref>{{Citation|和書|title=<small>米英撃滅の人柱</small> 山本五十六元帥|year=1943|ref=高幣、山本元帥|author=高幣常市|month=10|url={{NDLDC|1719948/78}} 国立国会図書館デジタル資料|chapter=九、ロンドンに於ける山本元帥|publisher=蒼生社|editor}}</ref>、新聞記者に対し「僕が海軍にいる間は、飛行機の体当たり戦術を断行する」「艦長が艦と運命を共にするなら、飛行機も同じだ」と語ったという<ref>{{Citation|和書|title=常在戦場|year=1943|ref=常在戦場|author=米内光政|month=12|url={{NDLDC|1058250/35}} 国立国会図書館デジタルコレクション|chapter=周到なる準備|publisher=大新社|editor=}}コマ36-37(原本59-60頁)『一日元帥と會食した時、飛行機の體當り戰術なるものを私は初めて聞いた。"君は僕を亂暴な男と思ふだらう。しかし考へて見給へ、艦長は艦と運命を共にする、飛行機の操縦士が機と運命を共にするのは當然ぢやないか、飛行機は軍艦に比べて小さいが、操縦士と艦長とは全く同じだ、僕は今度日本に歸つたら、もう一度是非航空をやる。さうして僕が海軍にゐる以上は、飛行機の體當り戰術は誰が何と云つても止めないよ、君見てゐ給へ"と云はれた。眞珠灣攻撃の第一報を見た時も、私は今更のやうに元帥の姿をはつきり目の前に見た』</ref><ref name="史伝山本元帥コマ104">{{Citation|和書|title=史伝山本元帥|year=1944|ref=史伝山本元帥|author=渡辺幾治郎|month=8|url={{NDLDC|1908682/104}}|chapter=|publisher=千倉書房|editor=}}コマ104-106(原本188-193頁)『皇軍の伝統的精神』</ref>。 |
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[[1941年]](昭和16年)12月の[[太平洋戦争]]勃発後、[[ミッドウェー海戦]]や[[ガダルカナル島の戦い]]を経て戦況は悪化 |
[[1941年]](昭和16年)12月の[[太平洋戦争]]勃発後、[[ミッドウェー海戦]]や[[ガダルカナル島の戦い]]を経て戦況は悪化した。[[1943年]](昭和18年)春、日本軍は[[B-29 (航空機)|B-29型超重爆]]の開発情報を掴み「B-29対策委員会」を設置した{{Sfn|戦史叢書66|1973|pp=300-301|ps=B-29対応策}}。4月17日、[[東條英機]]陸軍大臣は局長会議で敵超重爆や防空の心構えについて語った際「一機対一機の体当たりで行く」「海軍ではすでに空母に対し体当たりでゆくよう研究訓練している」と述べ、特攻精神を強調している{{Sfn|戦史叢書66|1973|pp=300-301|ps=B-29対応策}}。 |
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翌[[4月18日]]、[[い号作戦]]にともない[[ソロモン諸島]]を視察中の山本五十六大将(連合艦隊司令長官)は{{Sfn|戦史叢書66|1973|pp=369-370|ps=「い」号作戦の経過とその結果}}、[[海軍甲事件]]で戦死した{{Sfn|戦史叢書66|1973|p=371|ps=山本聯合艦隊司令長官の戦死}}<ref>{{アジア歴史資料センター|A06031086900|写真週報274号}}p.10『一億山本元帥の後につヾかん』/{{アジア歴史資料センター|A06031050700|週報第345号}}p.9『<ins>山本司令長官を悼む</ins>千古不滅の武勲』</ref>。 |
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同年[[6月5日]]、[[城英一郎]]大佐([[昭和天皇]][[侍従武官]])は、特別縁故者として山本元帥の葬儀に参列<ref name="城日記08">[[神風特別攻撃隊#城日記|城英一郎日記]]8-9頁</ref><ref name="城日記281"/>。かつて山本と『航空機体当たり』を検討した事を回想する<ref name="城日記08"/><ref name="城日記281"/>。[[6月22日]]、城は自らを指揮官とする'''特殊攻撃隊'''の構想をまとめる<ref name="城日記08"/><ref>[[神風特別攻撃隊#城日記|城英一郎日記]]288頁『(昭和18年)六月二二日(半晴)当直』</ref>。投入予定海域は[[ソロモン諸島]]および[[パプアニューギニア|ニューギニア]]方面で、敵大型艦(戦艦、空母)は大破、特設空母(軽空母)や巡洋艦は大破または撃沈、駆逐艦や輸送船は撃沈を期待というものだった<ref>[[神風特別攻撃隊#城日記|城英一郎日記]]290-291頁『(昭和18年)六月二八日(月)曇 小雨 当直』</ref>。 |
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[[6月29日]]、城は、特殊航空隊の構想を海軍航空本部総務部長[[大西瀧治郎]]中将に説明した<ref name="城日記08"/><ref>[[神風特別攻撃隊#城日記|城英一郎日記]]292頁『(昭和18年)六月二九日(火)半晴』</ref>。数回の意見具申に対し大西は「(意見は)了解したがまだその時期ではない」と返答し、全幅の賛同を示さなかった<ref>[[神風特別攻撃隊#特攻特質|特攻作戦特質pp]].5-6</ref><ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 322-324頁</ref><ref name="城日記294">[[神風特別攻撃隊#城日記|城英一郎日記]]294頁『(昭和18年)七月二日(金)半晴、時々雨』</ref>。 |
[[6月29日]]、城は、特殊航空隊の構想を海軍航空本部総務部長[[大西瀧治郎]]中将に説明した<ref name="城日記08"/><ref>[[神風特別攻撃隊#城日記|城英一郎日記]]292頁『(昭和18年)六月二九日(火)半晴』</ref>。数回の意見具申に対し大西は「(意見は)了解したがまだその時期ではない」と返答し、全幅の賛同を示さなかった<ref>[[神風特別攻撃隊#特攻特質|特攻作戦特質pp]].5-6</ref><ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 322-324頁</ref><ref name="城日記294">[[神風特別攻撃隊#城日記|城英一郎日記]]294頁『(昭和18年)七月二日(金)半晴、時々雨』</ref>。 |
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[[ニュージョージア島の戦い]]勃発により戦局が悪化する中、城は「特殊航空隊の緊急必要」を痛感する<ref>[[神風特別攻撃隊#城日記|城英一郎日記]]292-293頁『(昭和18年)六月三〇日(水)曇』</ref>。「上司としても計画的に実行するには相当の考慮が必要である。自身としては黙認が得られて、航空機と操縦者が得られれば実行可能であり、転出して実行の機会を待つ」の心境であり<ref name="城日記08"/><ref name="城日記294"/>、その後も個人的に特攻隊について研究し、[[海軍航空本部]]の[[高橋千隼]]課長等にも相談していた<ref name="城日記08"/><ref>[[神風特別攻撃隊#城日記|城英一郎日記]]300頁『(昭和18年)七月一七日(土)晴 当直』</ref><ref>[[神風特別攻撃隊#城日記|城英一郎日記]]302頁『(昭和18年)七月二二日(木)晴(略)帰途、航本〔航空本部〕に立寄り、高橋課長と特空〔特殊航空隊〕を語る。鮫島中将宅を訪ふ。』</ref>。 |
[[ニュージョージア島の戦い]]勃発により戦局が悪化する中、城は「特殊航空隊の緊急必要」を痛感する<ref>[[神風特別攻撃隊#城日記|城英一郎日記]]292-293頁『(昭和18年)六月三〇日(水)曇』</ref>。「上司としても計画的に実行するには相当の考慮が必要である。自身としては黙認が得られて、航空機と操縦者が得られれば実行可能であり、転出して実行の機会を待つ」の心境であり<ref name="城日記08"/><ref name="城日記294"/>、その後も個人的に特攻隊について研究し、[[海軍航空本部]]の[[高橋千隼]]課長等にも相談していた<ref name="城日記08"/><ref>[[神風特別攻撃隊#城日記|城英一郎日記]]300頁『(昭和18年)七月一七日(土)晴 当直』</ref><ref>[[神風特別攻撃隊#城日記|城英一郎日記]]302頁『(昭和18年)七月二二日(木)晴(略)帰途、航本〔航空本部〕に立寄り、高橋課長と特空〔特殊航空隊〕を語る。鮫島中将宅を訪ふ。』</ref>。 |
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[[1944年]](昭和19年)2月15日、城英一郎大佐は |
[[1944年]](昭和19年)2月15日、城英一郎大佐は空母[[千代田 (空母)|千代田]]艦長に任命される<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072095800|昭和19年2月15日(発令2月15日)海軍辞令公報(部内限)第1322号 p.11}}(城英一郎、補千代田艦長)</ref><ref name="城日記10">[[神風特別攻撃隊#城日記|城英一郎日記]]10-11頁</ref>。 |
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6月下旬、日本海軍は[[サイパン島の戦い]]にともなう[[マリアナ沖海戦]]に大敗(城も千代田艦長として参加)<ref name="城日記10"/>。城は大西に対して再び特攻隊の編成を電報で意見具申している<ref>デニス・ウォーナー、ペギー・ ウォーナー『ドキュメント神風 特攻作戦の全貌 上』時事通信社122頁</ref>。また[[第一機動艦隊]]司令長官[[小沢治三郎]]中将、連合艦隊司令長官[[豊田副武]]大将、軍令部総長[[及川古志郎]]大将にも「体当たり攻撃以外に戦勢回復の手段はない」との見解を上申した<ref name="城日記10"/>。 |
6月下旬、日本海軍は[[サイパン島の戦い]]にともなう[[マリアナ沖海戦]]に大敗(城も千代田艦長として参加)<ref name="城日記10"/>。城は大西に対して再び特攻隊の編成を電報で意見具申している<ref>デニス・ウォーナー、ペギー・ ウォーナー『ドキュメント神風 特攻作戦の全貌 上』時事通信社122頁</ref>。また[[第一機動艦隊]]司令長官[[小沢治三郎]]中将、連合艦隊司令長官[[豊田副武]]大将、軍令部総長[[及川古志郎]]大将にも「体当たり攻撃以外に戦勢回復の手段はない」との見解を上申した<ref name="城日記10"/>。 |
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=== 創設 === |
=== 創設 === |
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[[ファイル:Lt Yukio Seki in flightgear.jpg|thumb| |
[[ファイル:Lt Yukio Seki in flightgear.jpg|thumb|270px|関行男大尉(戦死後、中佐へ2階級特進)]] |
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1944年(昭和19年)10月19日夕刻、マバラカット飛行場第201海軍航空隊本部で大西、201空副長[[玉井浅一]]中佐、一航艦首席参謀[[猪口力平]]、二十六航空戦隊参謀兼一航艦参謀[[吉岡忠一]]中佐が集合し、特攻隊編成に関する会議を開いた。大西は「[[空母]]を一週間くらい使用不能にし、[[捷一号作戦]]を成功させるため、零戦に250kg爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに確実な攻撃法は無いと思うがどうだろう」と提案した<ref>戦史叢書56海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 p111</ref>。これに対して玉井は、山本が不在だったために「自分だけでは決められない」と返答したが、大西は小田原が山本と面会して既に同意を得ていることを伝え、同時に特攻を決行するかは玉井に一任した。玉井は時間をもらい、飛行隊長指宿正信大尉・横山岳夫大尉と相談した結果、体当たり攻撃を決意して大西にその旨を伝えたが、その際に特攻隊の編成は航空隊側に一任して欲しいと大西に要望し、大西はそれを許可した<ref>戦史叢書56海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 p111、森史朗『特攻とは何か』文春新書75-82頁</ref>。 |
1944年(昭和19年)10月19日夕刻、マバラカット飛行場第201海軍航空隊本部で大西、201空副長[[玉井浅一]]中佐、一航艦首席参謀[[猪口力平]]、二十六航空戦隊参謀兼一航艦参謀[[吉岡忠一]]中佐が集合し、特攻隊編成に関する会議を開いた。大西は「[[空母]]を一週間くらい使用不能にし、[[捷一号作戦]]を成功させるため、零戦に250kg爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに確実な攻撃法は無いと思うがどうだろう」と提案した<ref>戦史叢書56海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 p111</ref>。これに対して玉井は、山本が不在だったために「自分だけでは決められない」と返答したが、大西は小田原が山本と面会して既に同意を得ていることを伝え、同時に特攻を決行するかは玉井に一任した。玉井は時間をもらい、飛行隊長指宿正信大尉・横山岳夫大尉と相談した結果、体当たり攻撃を決意して大西にその旨を伝えたが、その際に特攻隊の編成は航空隊側に一任して欲しいと大西に要望し、大西はそれを許可した<ref>戦史叢書56海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 p111、森史朗『特攻とは何か』文春新書75-82頁</ref>。 |
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1944年(昭和19年)10月20日午前10時、大西が神風特攻隊の訓示と命名式を行い、初の特攻隊である敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊が編成された。大西は敷島隊に「日本は今、危機でありこの危機を救えるのは若者のみである。したがって国民に代わりお願いする。皆はもう神であるから世俗的欲望はないだろうが、自分は特攻が上聞に達するようにする」と訓示した。同日、一航艦司令部に帰った大西は神風特攻隊編成命令書の起案を副官の[[門司親徳]]に命じたが、門司は不慣れであったため、大西と猪口も手伝って起案され、命令書は、連合艦隊、軍令部、海軍省など中央各所に発信された<ref>戦史叢書56海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦114頁、金子敏夫『神風特攻の記録』光人社NF文庫61頁</ref>。 |
1944年(昭和19年)10月20日午前10時、大西が神風特攻隊の訓示と命名式を行い、初の特攻隊である敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊が編成された。大西は敷島隊に「日本は今、危機でありこの危機を救えるのは若者のみである。したがって国民に代わりお願いする。皆はもう神であるから世俗的欲望はないだろうが、自分は特攻が上聞に達するようにする」と訓示した。同日、一航艦司令部に帰った大西は神風特攻隊編成命令書の起案を副官の[[門司親徳]]に命じたが、門司は不慣れであったため、大西と猪口も手伝って起案され、命令書は、連合艦隊、軍令部、海軍省など中央各所に発信された<ref>戦史叢書56海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦114頁、金子敏夫『神風特攻の記録』光人社NF文庫61頁</ref>。 |
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{{quotation|<poem> |
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機密第202359番電 1944年10月20日発信 |
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機密第202359番電 1944年10月20日発信 |
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「体当り攻撃隊を編成す」 |
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「体当り攻撃隊を編成す」 |
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1. 現戦局に鑑み艦上戦闘機26機(現有兵力)をもって体当り攻撃隊を編成す(体当り13機)。本攻撃はこれを四隊に区分し、 |
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敵機動部隊東方海面出現の場合、これが必殺(少くとも使用不能の程度)を期す。成果は水上部隊突入前にこれを期待す。 |
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今後艦戦の増強を得次第編成を拡大の予定。本攻撃隊を神風特別攻撃隊と呼称す。 |
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2. 201空司令は現有兵力をもって体当り特別攻撃隊を編成し、なるべく十月二十五日までに比島東方海面の敵機動部隊を殲滅すべし。 |
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司令は今後の増強兵力をもってする特別攻撃隊の編成をあらかじめ準備すべし。 |
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3. 編成 指揮官海軍大尉関行男。 |
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4. 各隊の名称を敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊とす。 |
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</poem>}} |
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10月21日、大西は甲板撃破のために時間的猶予を得るため、第一遊撃部隊突入時期の延期を南西方面艦隊司令長官[[三川軍一]]中将と協議するが、既に同月25日と定めて行動しており、困難であることを知った。また、10月22日には[[第二航空艦隊]]司令長官・[[福留繁]]中将に二航艦も特攻を採用するように説得したが、これは断られた<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 504頁</ref>。 |
10月21日、大西は甲板撃破のために時間的猶予を得るため、第一遊撃部隊突入時期の延期を南西方面艦隊司令長官[[三川軍一]]中将と協議するが、既に同月25日と定めて行動しており、困難であることを知った。また、10月22日には[[第二航空艦隊]]司令長官・[[福留繁]]中将に二航艦も特攻を採用するように説得したが、これは断られた<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 504頁</ref>。 |
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[[ファイル:SL Exp 5.jpg|thumb|300px|敷島隊の特攻により爆沈した護衛空母セント・ロー]] |
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神風特別攻撃隊の初出撃は同年10月21日で、敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊の計24機が出撃したが、同日は悪天候などに阻まれてほぼ全機が帰還したものの、大和隊隊長・[[久納好孚]]中尉が未帰還となった。そのため、「特攻第1号」は敷島隊隊長・[[関行男]]ではなく、大和隊隊長・[[久納好孚]]中尉を未確認ながら第一号とする主張も戦後現れた。各隊は出撃を連日繰り返すも全て空振りに終わり、同月23日には大和隊・[[佐藤馨上]]飛曹が未帰還となる。第一航空艦隊航空参謀・[[吉岡忠一]]中佐によれば「久納の出撃は天候が悪く到達できず、山か海に落ちたと想像するしかなかった」「編成の際に指揮官として関を指名した時から関が1号で、順番がどうであれそれに変わりはないと見るべき」という<ref>大野芳『神風特別攻撃隊「ゼロ号」の男 追跡ドキュメント消された戦史 「最初の特攻」が“正史”から抹殺された謎を追う』サンケイ出版1980年71、74頁</ref>。軍令部部員・[[奥宮正武]]によれば、久納未帰還の発表が遅れたのは、生きていた場合のことを考えた連合艦隊航空参謀・[[淵田美津雄]]大佐の慎重な処置ではないかという<ref>御田重宝『特攻』講談社107頁</ref>。また、久納が予備学生であったことから予備学生軽視海兵学校重視の処置とではないかとする意見に対し「当時は目標が空母で、帰還機もあり、空母も見ていない、米側も被害がないので1号とは言えなかった。10月27日に目標が拡大したことで長官が加えた」と話している<ref>千早正隆ほか『日本海軍の功罪 五人の佐官が語る歴史の教訓』プレジデント社281-282頁</ref>。 |
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10月25日6時58分、レイテ突入を目指していた第一遊撃部隊(指揮官[[栗田健男]]第二艦隊司令長官、戦艦[[大和 (戦艦)|大和]]座乗、いわゆる「栗田艦隊」)が、サマール島沖で上陸部隊支援を行っていた[[クリフトン・スプレイグ]]少将指揮の第77任務部隊第4群第3集団の護衛空母群(タフィ3)を発見し攻撃を開始した。離れた海域にいた第77任務部隊第4群第1集団(タフィ1)はタフィ3を援護するため航空機の発進準備を行っていたが<ref>{{Harvnb|オネール|1988|p=154}}</ref>、7時40分に菊水隊、朝日隊、山桜隊の4機の零戦がタフィ1上空に到達した。このときにはタフィ1各艦のレーダーには多数の機影が映っており、この4機が日本軍機と気づくものはおらず、気づいたときにはそのうちの1機が高度2,500mから40度の角度で護衛空母[[サンティー (護衛空母)|サンティ]]に向かって急降下していた<ref>{{Harvnb|冨永|安延|1972|p=20}}</ref>。急降下してきた零戦は舷側から5m内側の飛行甲板に命中して貫通し、飛行甲板下で搭載爆弾が爆発して、42㎡の大穴を飛行甲板に開けて、16名の戦死者と47名の負傷者を生じさせたが、幸運にも火災が航空燃料や弾薬に引火することはなかったので致命的な損傷には至らなかった<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=193}}</ref>。 |
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神風特別攻撃隊の初出撃は同年10月21日で、敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊の計24機が出撃したが、同日は悪天候などに阻まれてほぼ全機が帰還したものの、大和隊隊長・[[久納好孚]]中尉が未帰還となった。そのため、「特攻第1号」は敷島隊隊長・[[関行男]]ではなく、大和隊隊長・[[久納好孚]]中尉を未確認ながら第一号とする主張も戦後現れた。各隊は出撃を連日繰り返すも全て空振りに終わり、同月23日には大和隊・[[佐藤馨上]]飛曹が未帰還となる。そして同月[[10月25日]]午前10時49分、敷島隊指揮官の関(戦死後中佐)以下6機が護衛空母[[セント・ロー (護衛空母)|セント・ロー]]を撃沈し、初戦果を挙げて活路を開いたが、突入する水上部隊だった第一遊撃部隊(指揮官[[栗田健男]]第二艦隊司令長官、戦艦[[大和 (戦艦)|大和]]座乗)が突然反転したため、特攻戦果は作戦成功にはつながらなかった。 |
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続く2機は、護衛空母[[サンガモン (護衛空母)|サンガモン]]と[[ペトロフ・ベイ (護衛空母)|ペトロフ・ベイ]]に向かってそれぞれ急降下したが、いずれも対空砲火を浴びて両艦の至近海面に墜落した<ref>{{Harvnb|冨永|安延|1972|p=21}}</ref>。残る1機は護衛空母[[スワニー (護衛空母)|スワニー]]に向かって急降下してきたので、スワニーは対空砲火を集中した。対空砲火が命中したのか急降下してきた零戦が炎を発したので、スワニーの乗組員は歓声を上げたが、零戦は損傷にめげずにそのまま後部エレベーター付近の飛行甲板に命中、機体と爆弾は貫通して艦内で爆発して、71名の戦死者と82名の負傷者という大きな損害を被った<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=194}}</ref>。特攻機が命中したサンティとスワニーの損害は大きかったが、いずれも[[サンガモン級航空母艦]]であり、排水量基準:11,400t 満載:23,235tと大型で、護衛空母のなかでも非常に強固に建造されていたため、このあとも任務を続行した<ref>{{Harvnb|オネール|1988|p=154}}</ref>。しかし、10月28日にスワニーはもう1機特攻機が命中して、「艦設計の際に考慮されていなかった程の甚大な損傷」を被って戦線離脱している<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=208}}</ref>。 |
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第一航空艦隊航空参謀・[[吉岡忠一]]中佐によれば「久納の出撃は天候が悪く到達できず、山か海に落ちたと想像するしかなかった」「編成の際に指揮官として関を指名した時から関が1号で、順番がどうであれそれに変わりはないと見るべき」という<ref>大野芳『神風特別攻撃隊「ゼロ号」の男 追跡ドキュメント消された戦史 「最初の特攻」が“正史”から抹殺された謎を追う』サンケイ出版1980年71、74頁</ref>。軍令部部員・[[奥宮正武]]によれば、久納未帰還の発表が遅れたのは、生きていた場合のことを考えた連合艦隊航空参謀・[[淵田美津雄]]大佐の慎重な処置ではないかという<ref>御田重宝『特攻』講談社107頁</ref>。また、久納が予備学生であったことから予備学生軽視海兵学校重視の処置とではないかとする意見に対し「当時は目標が空母で、帰還機もあり、空母も見ていない、米側も被害がないので1号とは言えなかった。10月27日に目標が拡大したことで長官が加えた」と話している<ref>千早正隆ほか『日本海軍の功罪 五人の佐官が語る歴史の教訓』プレジデント社281-282頁</ref>。 |
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栗田艦隊との海戦([[レイテ沖海戦|サマール沖海戦]])で護衛空母[[ガンビア・ベイ (護衛空母)|ガンビア・ベイ]]と2隻の駆逐艦、1隻の護衛駆逐艦を失い、護衛空母[[ファンショー・ベイ (護衛空母)|ファンショー・ベイ]]や[[カリニン・ベイ (護衛空母)|カリニン・ベイ]]など損傷艦多数を抱えることとなったタフィ3は、栗田艦隊の突然の変針により、ようやく一息をつくことができた。戦闘配置命令も解除されて、命中弾を1発も受けなかった[[セント・ロー (護衛空母)|セント・ロー]]の乗組員たちは、沈没したガンビア・ベイの艦載機の収容準備などをしながら、自分たちの幸運について語り合っていた<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=198}}</ref>。このときもタフィ1が菊水隊の突入を受けたときと同様に、各艦のレーダーには多数の機影が映っており、関が率いる敷島隊5機の接近に気づくものはいなかった<ref>{{Harvnb|冨永|安延|1972|p=21}}</ref>。10時49分、敷島隊の各機はそれぞれ目標を定めると、急降下を開始した。先頭の1機が、戦艦の巨砲の命中でいくつもの傷口が開いていた[[カリニン・ベイ (護衛空母)|カリニン・ベイ]]めがけて突入し、飛行甲板に数個の穴をあけて火災多数を生じさせたが、搭載していた爆弾は不発であった。この最初にカリニン・ベイに突入した機が関の搭乗機であったという説もある<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=203}}</ref>。カリニン・ベイにはもう1機が海面突入寸前に至近で爆発して損害を与えて、2機の突入により5名の戦死者と55名の負傷者が生じたが、栗田艦隊との海戦で15発以上の命中弾を浴びていたにも関わらず、沈没は免れた<ref>{{Harvnb|冨永|安延|1972|p=24}}</ref>。 |
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大西は「神風特攻隊が体当たりを決行し、大きな戦果を挙げた。自分は、日本が勝つ道はこれ以外にないと信ずるので今後も特攻を続ける。反対するものは、たたき斬る」と語った<ref>門司親徳『空と海の涯で-第一航空艦隊副官の回想』光人社NF文庫</ref>。 |
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護衛空母[[ホワイト・プレインズ (護衛空母)|ホワイト・プレインズ]]に向かって急降下していた零戦1機がホワイト・プレインズの対空砲火が命中し損傷したため、目標をセント・ローに変更し<ref>{{Harvnb|オネール|1988|p=154}}</ref>、セント・ローの艦尾1,000mから高度30mの低空飛行で、そのまま着艦するような姿勢で接近してきた。その零戦に向けてセントローが搭載していた[[エリコンFF 20 mm 機関砲|Mk.IV]]20㎜機関砲と[[ボフォース 40mm機関砲]]を発砲したが、零戦は退避行動をとることなく、発見された1分後に<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=199}}</ref>、飛行甲板中央に命中した。零戦が命中した瞬間に航空燃料が爆発して、猛烈な火炎が飛行甲板を覆い、搭載していた250㎏爆弾は飛行甲板を貫通して格納庫で爆発した。その爆発で格納庫内の高オクタンの航空燃料がまず誘爆し、その後も爆弾や弾薬が次々と誘爆した<ref>{{Harvnb|冨永|安延|1972|p=22}}</ref>。あまりの爆発の激しさに、付近を航行していた重巡洋艦[[ミネアポリス (重巡洋艦)|ミネアポリス]]の乗組員が海中に吹き飛ばされたほどであった。もう手が付けられないと悟ったフランシス・J・マッケンナ艦長は特攻機が命中したわずか2~3分後の10時56分に総員退艦を命じたが、その後も何度も大爆発を繰り返して30分後に沈没した。114名が戦死もしくは行方不明になり、救助された784名の半数が負傷したり火傷を負っていたが、そのうち30名が後日死亡した<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=202}}</ref>。このセント・ローを仕留めた零戦が関の搭乗機だという説が広く認知されている<ref>{{Harvnb|冨永|安延|1972|p=23}}</ref>。他にも護衛空母[[キトカン・ベイ (護衛空母)|キトカン・ベイ]]に1機命中したが、爆弾が艦を貫通して海上で爆発したため軽微な損傷を与えたのと、ホワイト・プレインズ直上で特攻機が爆発して同艦に火災を起こさせた<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=203}}</ref>。 |
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この日、護衛空母艦隊は戦死1,500名、負傷1,200名と艦載機128機を喪失するという大損害を被り、さらに、母艦を失うか大破して着艦できなくなった67機の艦載機が、占領したばかりで整備不良のレイテ島タクロバン飛行場に緊急着陸を余儀なくされたが、そのうち20数機がぬかるみに脚をとられて破壊された<ref>{{Harvnb|冨永|安延|1972|p=24}}</ref>。しかし、このときにはすでに栗田艦隊はすでに反転しており(いわゆる「栗田ターン」)、特攻戦果は作戦成功にはつながらなかった。大西は「神風特攻隊が体当たりを決行し、大きな戦果を挙げた。自分は、日本が勝つ道はこれ以外にないと信ずるので今後も特攻を続ける。反対するものは、たたき斬る」と語った<ref>門司親徳『空と海の涯で-第一航空艦隊副官の回想』光人社NF文庫</ref>。 |
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=== 拡大 === |
=== 拡大 === |
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[[File:Damage of the island onboard the aircraft carrier Ticonderoga.jpg|thumb|270px|right|特攻機が命中して破壊された正規空母[[タイコンデロガ (空母)|タイコンデロガ]]の艦橋]] |
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10月26日、[[及川古志郎]][[軍令部総長]]は、神風特攻隊が護衛空母を含む5隻に損傷を与えた戦果を奏上した。[[昭和天皇]](大元帥)はこの生還を期さない特攻作戦についてはご存じなく、同月28日には御説明資料も作成された<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 526-527頁</ref>。及川軍令部総長は、「そのようにまでせねばならなかったか。しかしよくやった。」と御嘉賞のお言葉を賜った。そのお言葉は軍令部から全軍に向けて発信され、[[第二〇一海軍航空隊|第201航空隊]]飛行長[[中島正]]少佐は、特攻隊員らの前で電文を読み上げ督励した。また、昭和天皇は、10月30日に[[米内光政|米内海軍大臣]]に、「かくまでせねばならぬとは、まことに遺憾である。神風特別攻撃隊はよくやった。隊員諸氏には哀惜の情にたえぬ。」と仰せられた<ref>猪口力平・中島正『神風特別攻撃隊』P111、太田尚樹『天皇と特攻隊』P20、読売新聞社編『昭和史の天皇〈1〉』</ref>。 |
10月26日、[[及川古志郎]][[軍令部総長]]は、神風特攻隊が護衛空母を含む5隻に損傷を与えた戦果を奏上した。[[昭和天皇]](大元帥)はこの生還を期さない特攻作戦についてはご存じなく、同月28日には御説明資料も作成された<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 526-527頁</ref>。及川軍令部総長は、「そのようにまでせねばならなかったか。しかしよくやった。」と御嘉賞のお言葉を賜った。そのお言葉は軍令部から全軍に向けて発信され、[[第二〇一海軍航空隊|第201航空隊]]飛行長[[中島正]]少佐は、特攻隊員らの前で電文を読み上げ督励した。また、昭和天皇は、10月30日に[[米内光政|米内海軍大臣]]に、「かくまでせねばならぬとは、まことに遺憾である。神風特別攻撃隊はよくやった。隊員諸氏には哀惜の情にたえぬ。」と仰せられた<ref>猪口力平・中島正『神風特別攻撃隊』P111、太田尚樹『天皇と特攻隊』P20、読売新聞社編『昭和史の天皇〈1〉』</ref>。 |
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敷島隊の特攻が戦果を挙げた後、大西は2航艦長官[[福留繁]]中将を説得して、現地で第一航空艦隊・第二航空艦隊を統合した「第一連合基地航空部隊」を編成し、神風特攻隊は拡大した<ref>金子敏夫『神風特攻の記録』光人社NF文庫p155-159</ref>。 |
神風特攻隊編成当初は、参謀の猪口が「特攻隊はわずか4隊でいいのですか?」と訊ねたのに対し、「飛行機がないからなぁ、やむをえん。」と特攻は一度きりで止めたいとの意向を示していた大西であったが<ref>{{Harvnb|猪口|中島|1967|p=112}}</ref>、敷島隊の特攻が戦果を挙げた後、大西は2航艦長官[[福留繁]]中将を説得して、現地で第一航空艦隊・第二航空艦隊を統合した「第一連合基地航空部隊」を編成し、神風特攻隊は拡大した<ref>金子敏夫『神風特攻の記録』光人社NF文庫p155-159</ref>。神風特攻隊の当初の目標は、敵空母の使用不能であり、初回の攻撃でその目標を達成したが、[[レイテ島]]付近で戦闘が続いたため、目標を敵主要艦船に広げて、1945年1月下旬には全ての敵艦船が目標になった<ref>千早正隆ほか『日本海軍の功罪 五人の佐官が語る歴史の教訓』プレジデント社280-281頁</ref>。 |
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大西は、第一航空艦隊、第二航空艦隊、721空の飛行隊長以上40名ほどを召集し、大編隊の攻撃は不可能なので少数で敵を抜けて突撃すること、現在のような戦局ではただ死なすより特攻は慈悲であることなどを話した<ref>森史朗『特攻とは何か』文春新書150-152頁</ref>。また、大西は「特攻隊員への招宴などの特別待遇の禁止」「特攻隊以外の体当たり攻撃禁止」など特攻隊員の心構えなどを強く指導した。その強引な作戦指導に航空幹部の一部が批判的であったが、大西は「今後俺の作戦指導に対しての批判は許さない」と特攻作戦は自分で指導し自らが責任を取るという姿勢を明らかにした。これは大西が搭乗員出身でその心情を一番理解してると自負し、また最後には勝敗の如何を問わず特攻隊員と共に必ず死ぬとの意思表示であったと思われる<ref>戦史叢書17巻 沖縄方面海軍作戦 706頁</ref>。1944年10月27日、大西によって神風特攻隊の編成方法・命名方法・発表方針などがまとめられ、軍令部・海軍省・航空本部など中央に通達された<ref>金子敏夫『神風特攻の記録』光人社NF文庫p161-163</ref>。 |
大西は、第一航空艦隊、第二航空艦隊、721空の飛行隊長以上40名ほどを召集し、大編隊の攻撃は不可能なので少数で敵を抜けて突撃すること、現在のような戦局ではただ死なすより特攻は慈悲であることなどを話した<ref>森史朗『特攻とは何か』文春新書150-152頁</ref>。また、大西は「特攻隊員への招宴などの特別待遇の禁止」「特攻隊以外の体当たり攻撃禁止」など特攻隊員の心構えなどを強く指導した。その強引な作戦指導に航空幹部の一部が批判的であったが、大西は「今後俺の作戦指導に対しての批判は許さない」と特攻作戦は自分で指導し自らが責任を取るという姿勢を明らかにした。これは大西が搭乗員出身でその心情を一番理解してると自負し、また最後には勝敗の如何を問わず特攻隊員と共に必ず死ぬとの意思表示であったと思われる<ref>戦史叢書17巻 沖縄方面海軍作戦 706頁</ref>。1944年10月27日、大西によって神風特攻隊の編成方法・命名方法・発表方針などがまとめられ、軍令部・海軍省・航空本部など中央に通達された<ref>金子敏夫『神風特攻の記録』光人社NF文庫p161-163</ref>。 |
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連合基地航空隊には[[北東方面艦隊]]第12[[航空艦隊]]の戦闘機部隊や<ref>{{Harvnb|猪口|中島|1967|p=115}}</ref>、空母に配属する予定であった第3航空艦隊の大部分などが順次増援として送られ特攻に投入されたが、戦力の消耗も激しく、大西は上京し、更なる増援を大本営と連合艦隊に訴えた。大西は300機の増援を求めたが、連合艦隊は、[[大村海軍航空隊]]、[[元山海軍航空隊]]、[[筑波海軍航空隊]]、[[谷田部海軍航空隊|神ノ池海軍航空隊]]の各教育航空隊から飛行100時間程度の搭乗員と教官から志願を募るなど苦心惨憺して、ようやく150機をかき集めている。これらの隊員は猪口により[[台湾]]の[[台中]]・[[台北]]で10日間集中的に訓練された後フィリピンに送られた<ref>{{Harvnb|猪口|中島|1967|p=136}}</ref>。 |
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これは現地で取られた応急的非常措置であり、現用の飛行機、爆弾をそのまま使用したに過ぎず、中央は所要の飛行機、人員の補給、補充を増加しただけであったが、特攻の常用化に伴い、航空戦備の緊急課題は特攻に移っていった。1945年2月中旬、連合軍に硫黄島が攻略され、沖縄が攻略されるのも遠くないと考えた軍令部は、1945年3月に練習連合航空総隊を解体し、その搭乗員教育航空隊をもって[[第十航空艦隊]]を編制して連合艦隊に編入し、練習機をも特攻攻撃に参加させ、全海軍航空部隊の特攻化が企図された<ref>戦史叢書95巻 海軍航空概史 422頁</ref>。 |
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特攻はアメリカ軍側に大きな衝撃を与えた。レイテ島上陸作戦を行ったアメリカ海軍水陸両用部隊参謀レイ・ターバック大佐は「この戦闘で見られた新奇なものは、自殺的急降下攻撃である。敵が明日撃墜されるはずの航空機100機を保有している場合、敵はそれらの航空機を今日、自殺的急降下攻撃に使用して艦船100隻を炎上させるかもしれない。対策が早急に講じられなければならない。」と考え、物資や兵員の輸送・揚陸には、[[攻撃輸送艦]](APA)や[[攻撃貨物輸送艦]](AKA)といった装甲の薄い艦船ではなく、輸送駆逐艦(APD)や[[LST-1級戦車揚陸艦|戦車揚陸艦]](LST)など装甲の厚い艦船を多用すべきと提言している。またアメリカ軍は、最初の特攻が成功した10月25日以降、[[病院船]]を特攻の被害を被る可能性の高いレイテ湾への入港を禁止したが、[[レイテ島の戦い]]での負傷者を救護する必要に迫られ、3時間だけ入港し負傷者を素早く収容して出港するという運用をせざるを得なくなった<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=212}}</ref>。 |
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神風特攻隊は[[1945年]](昭和20年)8月15日の終戦まで続いた。第五航空艦隊司令長官として[[沖縄戦]]における航空特攻を指揮した[[宇垣纏]]中将も、特攻に出撃して戦死した(宇垣は[[海軍甲事件]]当時の連合艦隊参謀長)。終戦後の8月16日、神風特攻隊を創設した大西は、死をもって旧部下の英霊とその遺族に謝すること、後輩に軽挙は利敵行為と思って自重忍苦し、日本人の矜持も失わないこと、平時に特攻精神を堅持して日本民族と世界平和に尽くすように希望する旨の遺書を残して割腹自決した<ref>戦史叢書93大本営海軍部・聯合艦隊(7)戦争最終期p475</ref>。この自決によって、大西も神風特攻隊の戦死者として名簿に記載された。 |
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その後も特攻機は次々とアメリカ軍の主力高速空母部隊[[第38任務部隊]]の正規空母に突入して大損害を与えていった。1944年10月29日[[イントレピッド (空母)|イントレピッド]]、10月30日[[フランクリン (空母)|フランクリン]] 、[[ベローウッド (空母)|ベローウッド]] 、11月5日[[レキシントン (CV-16)|レキシントン]]、11月25日[[エセックス (空母)|エセックス]]、[[カボット (空母)|カボット]] が大破・中破し戦線離脱に追い込まれ、他にも多数の艦船が撃沈破された<ref>{{Harvnb|原勝洋|2004|pp=61-85}}</ref>。 |
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特攻機による空母部隊の大損害により、第38任務部隊司令[[ウィリアム・ハルゼー・ジュニア]]が11月11日に計画していた艦載機による初の大規模な東京空襲は中止に追い込まれた。ハルゼーはこの中止の判断にあたって「少なくとも、(特攻に対する)防御技術が完成するまでは 大兵力による戦局を決定的にするような攻撃だけが、自殺攻撃に高速空母をさらすことを正当化できる」と特攻対策の強化の検討を要求している<ref>{{Harvnb|ポッター|1991|p=506}}</ref>。 |
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ハルゼーは指揮下の高速空母群に次々と特攻により戦線離脱するのを目のあたりにして「いかに勇敢なアメリカ軍兵士と言えども、少なくとも生き残るチャンスがない任務を決して引き受けはしない」「切腹の文化があるというものの、誠に効果的なこの様な部隊を編成するために十分な隊員を集め得るとは、我々には信じられなかった」と衝撃を受けている<ref>{{Harvnb|ポッター|1991|p=499}}</ref>。 |
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[[フィリピンの戦い (1944-1945年)|フィリピンの戦い]]を指揮した南西太平洋方面軍(最高司令官[[ダグラス・マッカーサー]]大将)の[[メルボルン]]海軍司令部は、指揮下の全艦艇に対して「[[ジャップ]]の自殺機による攻撃が、かなりの成果を挙げているという情報は、敵にとって大きな価値があるという事実から考えて(中略)公然と議論することを禁止し、かつ[[第7艦隊]]司令官は同艦隊にその旨伝達した」とアメリカとイギリスとオーストラリアに徹底した報道管制を引いた。これはニミッツの太平洋方面軍も同様の対応をしており<ref>{{Harvnb|原勝洋|2004|p=133}}</ref>、特攻に関する検閲は太平洋戦争中でもっとも厳重な検閲となっている<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=215}}</ref>。 |
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1945年1月1日、マッカーサー自ら指揮する連合軍大艦隊が、[[ルソン島]]攻略のため出撃したが、その艦隊に対して激しい特攻がおこなわれた。1月4日、神風特攻旭日隊の[[彗星 (航空機)|彗星]]が護衛空母[[オマニー・ベイ (護衛空母)|オマニー・ベイ]]を撃沈した<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=301}}</ref>。1月6日に連合軍艦隊は[[リンガエン湾]]に侵入したが、フィリピン各基地から出撃した32機の特攻機の内12機が命中し7機が有効至近弾となり連合軍艦隊は多大な損害を被った<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=308}}</ref>。戦艦[[ニューメキシコ (戦艦)|ニューメキシコ]]には、イギリス首相[[ウィンストン・チャーチル]]の名代として、[[イギリス陸軍]][[観戦武官]]の{{仮リンク|ハーバード・ラムズデン|en|Herbert Lumsden}}中将が乗艦していたが、その[[艦橋]]に特攻機が突入、ラムスデン中将が戦死し、ラムズデンと40年来の知人であったマッカーサーは衝撃を受けている<ref>{{Harvnb|マッカーサー|2014|p=315}}</ref>。マッカーサー自身が乗艦していた軽巡洋艦[[ボイシ (軽巡洋艦)|ボイシ]]も特攻機に攻撃されたが損害はなかった<ref>{{Harvnb|マッカーサー|2014|p=314}}</ref>。マッカーサーは特攻機とアメリカ艦隊の戦闘を見て「ありがたい。奴らは我々の軍艦を狙っているが、ほとんどの軍艦は一撃をくらっても耐えうるだろう。しかし、もし奴らが我々の軍隊輸送船をこれほど猛烈に攻撃してきたら、我々は引き返すしかないだろう。」と特攻が[[ルソン島の戦い]]の{{読み仮名|帰趨|きすう}}を左右するような威力を有していると懸念している<ref>{{Harvnb|ペレット|2016|p=852}}</ref>。 |
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海軍第1航空艦隊はこの1月6日の出撃で航空機を消耗し尽くしたので、司令の大西は陸戦隊として連合軍を迎え撃つこととし幕僚と協議を重ねていた。そんなときに、連合艦隊より第1航空艦隊は台湾に[[転進]]せよとの命令が届いた。躊躇する大西に猪口ら参謀が「とにかく、大西その人を生かしておいて仕事をさせようと、というところにねらいがあると思われます」と説得したのに対して、大西は「私が帰ったところで、もう勝つ手は私にはないよ」となかなか同意しなかったが<ref>{{Harvnb|生出寿|2017|p=187}}</ref>、最後は大西が折れて、第1航空艦隊司令部と生存していた搭乗員は台湾に撤退することとなった<ref>{{Harvnb|猪口|中島|1967|pp=166-168}}</ref>。1月10日に陸軍航空隊より一足早く第1航空艦隊の一部はルソン島から台湾に移動したが、整備兵や地上要員など多くの兵士がそのまま残されて後に地上戦で死ぬ運命に置かれた<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=320}}</ref>。残った兵士らは、杉本丑衛26航戦司令官の指揮下で「クラーク地区防衛部隊」を編成し地上戦を戦ったが、大西は残してきた兵士らに気を揉み、台湾に転進後も常々「いつか俺は、落下傘でクラーク山中に降下し、杉本司令官以下みんなを見舞ってくるよ」と部下に話していた<ref>{{Harvnb|猪口|中島|1967|p=170}}</ref>。 |
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海軍航空隊はフィリピン戦で特攻機333機を投入し、420名の搭乗員を失い<ref>{{Harvnb|図説特攻|2003|p=58}}</ref>、陸軍航空隊は210機を特攻に投入し、251名の搭乗員を失ったのに対して<ref>{{Harvnb|戦史叢書36|1970|p=307}}</ref>、アメリカ軍は、特攻により22隻の艦艇が沈没、110隻が損傷した。通常航空攻撃による沈没が12隻、損傷が25隻であったのに対して<ref>{{Harvnb|オネール|1988|p=157 }}</ref>、フィリピン戦で日本軍が戦闘で失った航空機のなかで、特攻で失った航空機は全体のわずか14%に過ぎず、通常航空攻撃に対して、相対的に損害が少ないのに、戦果が大きかった特攻の戦術としての有効性が際立つこととなった<ref>{{Harvnb|米国戦略爆撃調査団|1996|p=171}}</ref>。しかし、連合軍は特攻で損害を被りつつも、レイテ島、[[ミンダナオ島]]、ルソン島と進撃を続けたので、特攻はせいぜいのところ遅滞戦術のひとつに過ぎないことも明らかになった<ref>{{Harvnb|米国戦略爆撃調査団|1996|p=170}}</ref>。 |
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台湾に転進した大西ら第1航空艦隊は台湾でも特攻を継続し、残存兵力と台湾方面航空隊のわずかな兵力により1945年1月18日に「神風特攻隊新高隊」が編成された。1月21日に台湾に接近してきた第38任務部隊に対し「神風特攻隊新高隊」が出撃、少数であったが正規空母[[タイコンデロガ (空母)|タイコンデロガ]]に2機の特攻機が命中し、格納庫の艦載機と搭載していた魚雷・爆弾が誘爆し沈没も懸念されたほどの深刻な損傷を被り、{{仮リンク|ディクシー・キーファー|en|Dixie Kiefer}}艦長を含む345名の死傷者が生じたが、キーファーが自らも右手が砕かれるなどの大怪我を負いながら、艦橋内にマットレスを敷いて横たわった状態で12時間もの間的確な[[ダメージコントロール]]を指示し続け、沈没は免れた<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=338}}</ref>。大西はこの頃から沈黙の時間が長くなった代わりに、死について語ることが多くなった。ある日、イタリアの戦犯のニュースの話題になったとき大西は「おれなんか、生きておったならば、絞首刑だな。真珠湾攻撃に参画し、特攻を出して若いものを死なせ、悪いことばかりしてきた」と幕僚たちに述べている<ref>{{Harvnb|草柳大蔵|2006|p=221}}</ref>。 |
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1945年2月19日には、[[硫黄島]]にアメリカ軍が上陸し、[[硫黄島の戦い]]が始まったが、硫黄島に侵攻してきたアメリカ軍艦隊に対しても特攻が行われた<ref>{{Harvnb|ニミッツ|1962|p=430}}</ref>。[[第六〇一海軍航空隊]]で編成された『第二御盾隊』は、2月21日に、彗星12機、[[天山 (航空機)|天山]]8機、零戦12機の合計32機(内未帰還29機)が出撃し、護衛空母[[ビスマーク・シー (護衛空母)|ビスマーク・シー]]を撃沈、正規空母[[サラトガ (CV-3)|サラトガ]]に5発の命中弾を与えて大破させた他、{{仮リンク|キーオカック(防潜網輸送船) |en|USS Keokuk (CMc-6)}}も大破させ、護衛空母[[ルンガ・ポイント (護衛空母)|ルンガ・ポイント]]と{{仮リンク|LST-477 |en|USS LST-477}}を損傷させるなど大戦果を挙げた。第二御盾隊による戦果は硫黄島の[[栗林忠道]]中将率いる[[第109師団 (日本軍)|小笠原兵団]]から視認でき、[[第27航空戦隊]]司令官[[市丸利之助]]少将が「友軍航空機の壮烈なる特攻を望見し、士気ますます高揚、必勝を確信、敢闘を誓う」「必勝を確信敢闘を誓あり」と打電するなど、栗林らを大いに鼓舞した<ref>{{Harvnb|大島隆之|2016|p=|loc=電子版, 位置No.1996}}</ref>。[[梅津美治郎]][[陸軍参謀総長]]と[[及川古志郎]][[軍令部#歴代軍令部総長|軍令部総長]]はこの大戦果を[[昭和天皇]]に[[上奏]]した。及川によれば、昭和天皇はこの大戦果の報を聞いて「硫黄島に対する特攻を何とかやれ」と再攻撃を求めたとされるが、洋上の長距離飛行を要する硫黄島への特攻は負担が大きく、ふたたび実行されることはなかった<ref>{{Harvnb|大島隆之|2016|p=|loc=電子版, 位置No.2006}}</ref>。『第二御盾隊』の成功の報を台湾で聞いた大西は特攻作戦に対して自信を深めて、この後も特攻を推進していく動機付けともなった<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=348}}</ref>。 |
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1945年3月になって、小笠原兵団の勇戦もむなしく硫黄島の戦況がひっ迫してくると、沖縄が攻略されるのも遠くないと考えた軍令部は、1945年3月に練習連合航空総隊を解体し、その搭乗員教育航空隊をもって[[第十航空艦隊]]を編制して連合艦隊に編入し、練習機をも特攻攻撃に参加させ、全海軍航空部隊の特攻化が企図された<ref>戦史叢書95巻 海軍航空概史 422頁</ref>。 |
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{{main|九州沖航空戦}} |
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1945年3月14日にアメリカ軍の機動部隊は沖縄戦に先立って日本軍の抵抗力を弱体化させるため、九州・本州西部・四国の航空基地や海軍基地に攻撃をかけてきた<ref>{{Harvnb|米国陸軍省|1997|p=57}}</ref>。それを1945年に新設されたばかりの[[航空艦隊#第五航空艦隊|第五航空艦隊]]が全力で迎撃し、日本本土と近海で激しい海空戦が繰り広げられ、この戦いは『[[九州沖航空戦]]』と呼称された<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=360}}</ref>。[[松山空港|松山基地]]を出撃した[[第三四三海軍航空隊]](剣部隊)の新鋭戦闘機[[紫電改]]もアメリカ軍艦載機を迎撃し、47機撃墜を報告している<ref>宮崎勇『還ってきた紫電改』184頁</ref>。特攻機を含む日本軍の猛攻でアメリカ軍は空母[[フランクリン (空母)|フランクリン]]と[[ワスプ (CV-18)|ワスプ]]が大破、[[エセックス (空母)|エセックス]]が中破するなど多大な損害を被った<ref>{{Harvnb|菅原|2015|p=245}}</ref>。正式に兵器として採用された特攻兵器[[桜花 (航空機)|桜花]]は九州沖航空戦が初陣となった。<ref>{{Harvnb|戦史叢書88|1975|p=186}}</ref>。3月21日に第五航空艦隊司令[[宇垣纏]]中将が、[[第七二一海軍航空隊]]に、偵察機が発見した2隻の空母を含む機動部隊攻撃を命令したが、第五航空艦隊はそれまでの激戦で戦闘機を消耗しており、護衛戦闘機を55機しか準備できなかった。そこで第七二一海軍航空隊司令の[[岡村基春]]大佐が攻撃中止を上申したが、宇垣は「この状況下で、もしも、使えないものならば、桜花は使う時がない、と思うが、どうかね」と岡村を諭し、出撃を強行している。その後、偵察機より続報が入りアメリカ軍空母はもっと多数であることが判明したが作戦はそのまま続行され<ref>{{Harvnb|菅原|2015|p=239}}</ref>、[[野中五郎]]少佐に率いられた一式陸攻18機の攻撃隊は、護衛の零戦25機が故障で帰投するという不幸もあって、岡村に懸念通り、アメリカ空母の遥か手前で戦闘機の迎撃を受けて全滅した<ref>{{Harvnb|山岡荘八|2015|p=286}}</ref>。 |
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=== 沖縄戦 === |
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[[File:USS BUNKER HILL burning after a Japanese suicide attack. Near Okinawa, May 11, 1945. - NARA - 520657.tif|thumb|270px|right|沖縄戦で2機の零戦の特攻により大火災をおこした正規空母[[バンカー・ヒル (空母)|バンカーヒル]]]] |
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1945年3月1日の大海指第510号「航空作戦ニ関スル陸海軍中央協定」により、陸軍飛行隊[[第6航空軍 (日本軍)|第6航空軍]]などが連合艦隊の指揮下に入り、陸海軍協同で特攻作戦を推進していくことになった<ref>{{Harvnb|戦史叢書17|1968|p=675}}</ref>。1945年3月25日、アメリカ軍が[[慶良間諸島]]に上陸を開始したとの情報が連合艦隊に入ると、3月20日に大本営により下令された[[天号作戦]]に基づき、連合艦隊は1945年3月25日「天一号作戦警戒」、[[南西諸島]]への砲爆撃が激化した翌26日に「天一号作戦発動」を発令した。連合軍を沖縄で迎え撃つ第五航空艦隊の可動戦力は、[[九州沖航空戦]]での消耗で航空機50機足らずとなっていたが、「天一号作戦警戒」発令により[[鈴鹿]]以西の作戦可動航空戦力は、第五航空艦隊司令官[[宇垣纏]]中将指揮下に入った<ref>{{Harvnb|宇垣纏|1953|p=200}}</ref>。 |
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航空戦力は日を追って強化され、海軍だけで4月1日時点で300機<ref>{{Harvnb|戦史叢書17|1968|p=324}}</ref>、この後も順次戦力増強が進み4月19日までに合計2,895機もの大量の作戦機が九州の各基地に進出した<ref>{{Harvnb|戦史叢書17|1968|p=675}}</ref>。 |
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3月26日、慶良間諸島にアメリカ軍が上陸した直後に第五航空艦隊は特攻出撃を開始、4月1日にアメリカ軍が沖縄本島に上陸すると、4月1日35機、2日44機、3日74機と出撃機数は増えていき、空母1隻大破、巡洋艦2隻撃沈などの華々しい大戦果を挙げたと報じられた<ref>{{Harvnb|豊田穣|1980|loc=電子版, 位置No.654}}</ref>。この戦果報告は過大であったが、実際にも輸送駆逐艦(高速輸送艦)[[ディカーソン (駆逐艦)|ディカーソン]]撃沈<ref>[http://www.navsource.org/archives/05/157.htm USS DICKERSON (DD-157 / APD-21)]</ref>、 [[レイモンド・スプルーアンス]]中将が座乗していた[[第5艦隊 (アメリカ軍)|第5艦隊]]の[[旗艦]]重巡[[インディアナポリス (重巡洋艦)|インディアナポリス]]、<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982b|p=12}}</ref>イギリス軍正規空母[[インディファティガブル (空母)|インディファティガブル]]<ref>[http://www.armouredcarriers.com/indefatigable-kamikaze/ HMS INDEFATIGABLE: KAMIKAZE, APRIL 1, 1945]</ref>、護衛空母[[ウェーク・アイランド (護衛空母)|ウェーク・アイランド]]<ref>[https://www.navysite.de/cve/cve65.htm USS Wake Island (CVE 65)]</ref>が甚大な被害を受けて戦線離脱、戦艦[[ネバダ (戦艦)|ネバダ]]と[[ウェストバージニア (戦艦)|ウェストバージニア]]を含む28隻が損傷し、合計約1,000名の死傷者を被るなど連合軍の損害は大きかった<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982b|pp=294-359}}</ref><ref>{{Harvnb|Rielly|2010|pp=318-324}}</ref>。大きな損害を被ったアメリカ軍は「やがて来たる恐るべき戦術-特攻の不吉な前触れ」であったと評している<ref>{{Harvnb|米国陸軍省|1997|p=79}}</ref><ref>[http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/USA-P-Okinawa-2.html United States Army in World War II The War in the Pacific Okinawa: The Last Battle (1947) , p. 67.]</ref>。 |
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大本営は4月6日に、航空戦力を集中した大規模な特攻作戦[[菊水作戦|菊水一号作戦]]を発令、大量の特攻機を出撃させると同時に[[坊ノ岬沖海戦|戦艦大和による海上特攻]]を敢行した<ref>{{Harvnb|宇垣纏|1953|p=207}}</ref>。その後も菊水作戦は続き、4月中に20隻の艦船が撃沈、157隻が撃破されて、アメリカ海軍将兵の戦死・行方不明者1,853名、戦傷者2,650名に達する大きな損害を被っていた<ref>{{Harvnb|米国陸軍省|1997|p=124}}</ref>。太平洋艦隊[[チェスター・ニミッツ]]司令は、1945年4月12日に戦況報告のため腹心の[[フォレスト・シャーマン]]太平洋艦隊司令部戦争計画部長を沖縄に派遣し、詳細な戦況を報告させたが<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982b|p=203}}</ref>、それでも飽き足らず、現場の指揮には口を挟まないという方針を崩して、4月22日に[[アレクサンダー・ヴァンデグリフト]]海兵隊総司令官を連れて、自ら沖縄に乗り込んでいる<ref>{{Harvnb|ポッター|1979|p=517}}</ref>。ニミッツは陸軍の進撃速度が遅いため、海軍の損害が激増していると [[第10軍 (アメリカ軍)|第10軍]]司令官[[サイモン・B・バックナー・ジュニア]]中将に詰め寄ったが、あまりにも慎重なバックナーの姿勢に、普段は温厚であるニミッツが激高し「他の誰かを軍司令官にして戦線を進めてもらう。そうすれば海軍は忌々しいカミカゼから解放される」と言い放っている<ref>{{Harvnb|ハラス|2010|p=37}}</ref>。 |
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前線での苦戦の報告を受けた[[アメリカ合衆国海軍省|海軍省]]長官[[ジェームズ・フォレスタル]]は5月17日の記者会見で、海軍の死傷者が4,702名に達していることを明かし「海軍による上陸作戦への継続的な支援は困難な業務であり、高価な代償を伴うものであることをアメリカ国民の皆様に理解して頂きたい」と訴えた<ref>{{Harvnb|ハラス|2010|p=314}}</ref>。特攻に苦しめられていたアメリカ軍がその対策として、[[B-29 (航空機)|B-29]]を日本の都市や工業地帯への絨毯爆撃から、九州の特攻基地攻撃の戦術爆撃に転用し<ref>{{Harvnb|マーシャル|2001|p=250}}</ref>、B-29の戦力の75%、延べ2,000機がこの特攻機基地攻撃に振り向けられたため、一時的ではあったが、本土の大都市や工業地帯の爆撃による被害が軽減されている<ref>{{Harvnb|カール・バーカー|1971|p=188}}</ref>。しかし、[[戦略爆撃機]]であったB-29は、特攻基地爆撃のような任務には不向きで<ref>{{Harvnb|ポッター|19791|p=515}}</ref> 、九州の各飛行場に分散配置されている特攻機に大きな打撃を加えることはできなかった。B-29の爆撃効果に失望したスプルーアンスは「[[アメリカ陸軍航空軍]]は砂糖工場や鉄道の駅や機材をおおいに壊してくれた」と皮肉を言い、5月中旬にアメリカ海軍はアメリカ陸軍航空軍の支援要請を取り下げて、B-29は都市や産業への戦略爆撃任務に復帰している<ref>{{Harvnb|ブュエル|2000|p=544}}</ref>。 |
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第5艦隊は、日本軍の激しい特攻に対し、まったく防御一点張りのような戦術で常時作戦海域に留まっておらねばならず、上級指揮官らの緊張感は耐えられないくらい大きなものとなっており、ニミッツは前例のない戦闘継続中の艦隊の上級指揮官らの交代を行った。第5艦隊司令はスプルーアンスから[[ウィリアム・ハルゼー・ジュニア]]に、第58任務部隊司令は[[マーク・ミッチャー]]から[[ジョン・S・マケイン・シニア]]に交代となった<ref>{{Harvnb|ニミッツ|1962|p=443}}</ref>。スプルーアンス、ミッチャ―ともに沖縄戦中乗艦していた旗艦に2回ずつ特攻を受けており、いずれの艦も戦線離脱をしている。特にミッチャ―がバンカーヒルで特攻を受けた時、特攻機はミッチャ―の6mの至近距離に突入、奇跡的にミッチャーと参謀長の[[アーレイ・バーク]][[代将]]は負傷しなかったが、艦隊幕僚や当番兵13名が戦死している。それらの心労で体重は大きく落込み、交代時には舷側の梯子を単独では登れないほどに疲労していた<ref>{{Harvnb|ケネディ|2010|p=539}}</ref>。スプルーアンスはのちに沖縄戦での特攻に対して「特攻機は非常に効果的な武器で、我々としてはこれを決して軽視することはできない。私は、この作戦地域にいたことのない者には、それが艦隊に対してどのような力を持っているか理解することはできないと信じる」や<ref>{{Harvnb|ブュエル|2000|p=546}}</ref>「沖縄に対する作戦計画を作成していたとき、日本軍の特攻機がこのような大きな脅威になろうとは誰も考えていなかった。」と回想している<ref>{{Harvnb|ブュエル|2000|p=542}}</ref>。 |
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[[第32軍 (日本軍)|第32軍]]による総攻撃が失敗して、沖縄戦の大勢が決すると、[[本土決戦]]に向けた準備が本格化した。海軍大臣の[[米内光政]]は[[決号作戦]]の準備として、全海軍部隊を指揮できる[[海軍総隊]]を新設し、司令長官に連合艦隊司令長官[[豊田副武]]を兼務させ強力な権限を与えて本土決戦準備を進めた。その豊田は、5月17日に第十航空艦隊の残存機の九州進出を中止するという命令を出した。鈴鹿以西の作戦可動航空戦力は第五航空艦隊宇垣の指揮下とするという従来方針からの後退で、宇垣の指揮下から離れた航空戦力は「決号作戦」に備えて錬成せよという命令も出された。これは、沖縄決戦に全航空戦力を投入しようとしていた海軍首脳部の作戦指導方針の明らかな転換であり、この後は本土決戦に向けての航空戦力の温存が図られていくこととなる。この命令を聞いた第5航空艦隊参謀長[[横井俊之]]少将は「最高統帥が決号(本土決戦)か天号(沖縄戦)の岐路に迷い、バランスが今まさに破れんとするこの絶好のチャンスに沖縄決戦の見切りをつけてしまったのである。前線の将士がいかに地団駄ふんでヂリヂリしてみても、大本営の腰がふらついているのでは所謂「ごまめの歯ぎしり」で何の役にも立たない」と感想を持った<ref>{{Harvnb|草柳大蔵|2006|p=185}}</ref>。5月29日には豊田は軍令部総長に任じられ、連合艦隊司令長官には、軍令部次長の[[小沢治三郎]]中将が親補された<ref>{{Harvnb|土門周平|2015|p=23}}</ref>。そして小沢の後任には「特攻生みの親」大西を任命した。米内は講和派であったが、陸軍の主戦派らの不満を抑え込むため、講和派の[[井上成美]]海軍次官更迭に加えておこなわれた人事であった。海軍内でも講和派からは煙たがられたが、主戦派は本土決戦に向けてこの人事を歓迎している<ref>{{Harvnb|大島隆之|2016|p=|loc=電子版, 位置No.2664}}</ref>。 |
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6月23日未明に、第32軍司令官[[牛島満]]大将と参謀長の[[長勇]]中将が、沖縄南部の[[摩文仁]]の司令部壕内で[[自決]]し、沖縄における日本軍の組織的な抵抗は終わった{{sfn|八原博通|1972・2015|p=437}}。3ヶ月間で特攻機1,895機<ref>{{Harvnb|米国戦略爆撃調査団|1996|p=179}}</ref>通常作戦機1,112機<ref>{{Harvnb|米国戦略爆撃調査団|1996|p=171}}</ref>を失った天号作戦は終わった<ref>{{Harvnb|渡辺洋二|2003|p=244}}</ref>。沖縄戦でのアメリカ海軍の損害は、アメリカ軍の公式記録上では艦船沈没36隻、損傷368隻、艦上での戦死者は4,907名、負傷者4,824名と大きなものとなったが{{sfn|アレン|ボーマー|1995|p=147}}、その大部分は特攻による損害で{{sfn|マッカーサー|2014|p=356}}、アメリカ海軍史上単一の作戦で受けた損害としては最悪のものとなっている{{sfn|米国戦略爆撃調査団|1996|p=100}}。 |
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日本軍は、菊水作戦の戦果によりアメリカ軍に対抗可能な戦術は唯一特攻であるとの認識となり、本土決戦の方針を定めた「今後採ルヘキ戦争指導ノ基本大綱」において、特攻を主戦術として本土決戦を戦う方針を示されている。軍令部豊田総長は「敵全滅は不能とするも約半数に近きものは、水際到達前に撃破し得るの算ありと信ず」と本土に侵攻してくる連合軍を半減できるとの見通しを示している<ref>{{Harvnb|大島隆之|2016|p=|loc=電子版, 位置No.2702-2755}}</ref>。豊田の見通しに基づき「敵予想戦力、13個師団、輸送船1,500隻。その半数である750隻を海上で撃滅する。」という「[[決号作戦]]に於ける海軍作戦計画大綱」が定められたが<ref>[[NHKスペシャル]]『特攻・なぜ拡大したのか』2015年8月8日放送</ref>、その手段は、1945年7月13日の海軍総司令長官名で出された指示「敵の本土来攻の初動においてなるべく至短期間に努めて多くの敵を撃砕し陸上作戦と相俟って敵上陸軍を撃滅す。航空作戦指導の主眼は特攻攻撃に依り敵上陸船団を撃滅するに在り」の通り、特攻となった<ref>{{Harvnb|土門周平|2015|p=24}}</ref>。海軍は本土決戦のために5,000機の特攻用の稼働機を準備し、さらに5,000機を整備中であった<ref>{{Harvnb|草鹿龍之介|1979|p=375}}</ref>。 |
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しかし、沖縄戦で大量の実用機を喪失していた海軍は、練習機や水上偵察機といった本来なら実戦には投入困難な機体も特攻に投入する計画で、準備された特攻機のなかでそのような機体が多数を占めた。終戦時に残存していた機体でもっとも数が多かったのが、[[九三式中間練習機]](水上練習機型も含む)の2,791機であり、2番目は零戦1,017機、3番目は[[紫電改]](紫電を含む)376機と実用機であったが、4番目は練習機の[[白菊 (航空機)|白菊]]365機であった<ref>{{Harvnb|陰山慶一|1987|p=205}}</ref>。飛行教官は、練習機に爆装して特攻する予定の特攻隊員らに「もし敵が本土上陸を開始すれば、海軍に5,000機、陸軍に8,000機の飛行機が現存している。飛行機と名の付く飛行機には、全機爆装して出撃する。5機に1機の割合で、敵の上陸用舟艇に命中すればその8割は撃滅できる。あとの2割は本土防衛隊が波打ち際で撃退する。われに勝算あり、必ず勝つ!」と檄を飛ばし士気を鼓舞していたが、これが机上の空論でナンセンスな話であることは十分認識していたという<ref>{{Harvnb|陰山慶一|1987|p=204}}</ref>。 |
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一方でアメリカ軍は、沖縄で特攻により被った甚大な損害を重く見て「十分な訓練も受けていないパイロットが旧式機を操縦しても、集団特攻攻撃が水上艦艇にとって非常に危険であることが沖縄戦で証明された。終戦時でさえ、日本本土に接近する侵攻部隊に対し、日本空軍が特攻攻撃によって重大な損害を与える能力を有していた事は明白である。」「連合軍の空軍がカミカゼを上空から一掃し、連合軍の橋頭堡や沖合の艦船に近づかない様にできたかについては、永遠に回答は出ないだろう、終戦時の日本軍の空軍力を見れば連合軍の仕事は生易しいものではなかったと思われる」と評価し、[[ダウンフォール作戦]]が開始され日本[[本土決戦]]となった場合、特攻機による撃沈破艦が990隻に達すると見積もっていた<ref>{{Harvnb|米国戦略爆撃調査団|1996|p=189}}</ref>。 |
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神風特攻隊は1945年8月15日の終戦まで続いたが、本土決戦のために大量に準備された特攻機が出撃することはなかった。第五航空艦隊司令長官として[[沖縄戦]]における航空特攻を指揮した宇垣も、特攻に出撃して戦死した。終戦後の8月16日、神風特攻隊を創設した大西は、死をもって旧部下の英霊とその遺族に謝すること、後輩に軽挙は利敵行為と思って自重忍苦し、日本人の矜持も失わないこと、平時に特攻精神を堅持して日本民族と世界平和に尽くすように希望する旨の遺書を残して割腹自決した<ref>戦史叢書93大本営海軍部・聯合艦隊(7)戦争最終期p475</ref>。大西は台湾にいたとき副官に「剣道はできるか?俺の骨は太いよ。介錯するときに、骨が折れますよ」と話したことがあったが、自刃するさいには介錯人はおかず、深夜一人で割腹し、頸動脈を斬り、心臓をつらぬき、それでも明け方までは息があって、駆け付けた[[多田武雄]]海軍次官や[[児玉誉士夫]]に「できるだけ永く苦しんで死ぬんだ」と言って治療や介錯を拒みながら息を引き取った<ref>{{Harvnb|草柳大蔵|2006|p=221}}</ref>。終戦の混乱で海軍からは[[霊柩車]]はおろか[[棺桶]]の手配すらなく、従兵が庭の木を伐採して棺桶を自作した。霊柩車は結局手配できず、[[火葬場]]には借りてきたトラックで運ぶこととなった。大西は花が好きであったが、手向ける花すらなかったので、多田の妻女が火葬場の道中で見かけた[[キョウチクトウ]]の花を摘んで大西に手向けた<ref>{{Harvnb|草柳大蔵|2006|p=332}}</ref>。火葬場に近づくと、厚木方向から飛んできた零戦が低空で突っ込んできて、トラック上で翼を振りどこかに飛び去っていった<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982b|p=271}}</ref>。この自決によって、大西も神風特攻隊の戦死者として名簿に記載された。 |
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== 名称と発表 == |
== 名称と発表 == |
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[[ファイル:Shashin Shuho No 347.jpg|thumb|220px|right|関行男大尉の特攻を報じる『[[写真週報]]』]] |
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「神風特別攻撃隊」の名称は、命名者の[[猪口力平]]中佐によれば、郷里の道場「'''神風(しんぷう)'''流」から取ったものである<ref>金子敏夫『神風特攻の記録』光人社NF文庫p52-53</ref>。猪口によれば、大西中将が特攻隊を提案した10月19日の晩、201空副長[[玉井浅一]]中佐と相談して「神風を吹かせなければならん」と言って決め、大西中将に採用されたものであるという<ref>戦史叢書56 海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 112-113頁</ref> |
「神風特別攻撃隊」の名称は、命名者の[[猪口力平]]中佐によれば、郷里の道場「'''神風(しんぷう)'''流」から取ったものである<ref>金子敏夫『神風特攻の記録』光人社NF文庫p52-53</ref>。猪口によれば、大西中将が特攻隊を提案した10月19日の晩、201空副長[[玉井浅一]]中佐と相談して「神風を吹かせなければならん」と言って決め、大西中将に採用されたものであるという<ref>戦史叢書56 海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 112-113頁</ref> |
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この神風特攻隊の発表は、1944年10月28日の「海軍省公表」で行われた。この公表は敷島隊の戦果だけであり、同じく特攻した菊水隊、大和隊の戦果が同時に発表されなかった。この神風特攻隊発表の筋書きは、講和推進派の海軍大臣[[米内光政]]大将と軍令部総長[[及川古志郎]]によるものであり、特攻のインパクトのために数より(海軍兵学校出身者による特攻という)質を重視した判断という指摘もある<ref>大野芳『神風特別攻撃隊「ゼロ号」の男 追跡ドキュメント消された戦史 「最初の特攻」が“正史”から抹殺された謎を追う』サンケイ出版1980年306頁</ref>。また、1944年10月初旬から既に新聞・ラジオで「神風」という言葉が頻出するようになっていた<ref>デニス・ウォーナー、ペギー・ ウォーナー『ドキュメント神風 特攻作戦の全貌 上』時事通信社144ページ</ref>。国民が神風特攻隊を知ったのは1944年10月29日の新聞各紙による海軍省公表、特攻第一号・関中佐の記事が最初だった<ref>大野芳『神風特別攻撃隊「ゼロ号」の男 追跡ドキュメント消された戦史 「最初の特攻」が“正史”から抹殺された謎を追う』サンケイ出版1980年56-58頁</ref>。海軍省公表とともに詳しい記事が各紙で掲載された。 |
この神風特攻隊の発表は、1944年10月28日の「海軍省公表」で行われた。この公表は敷島隊の戦果だけであり、同じく特攻した菊水隊、大和隊の戦果が同時に発表されなかった。この神風特攻隊発表の筋書きは、講和推進派の海軍大臣[[米内光政]]大将と軍令部総長[[及川古志郎]]によるものであり、特攻のインパクトのために数より(海軍兵学校出身者による特攻という)質を重視した判断という指摘もある<ref>大野芳『神風特別攻撃隊「ゼロ号」の男 追跡ドキュメント消された戦史 「最初の特攻」が“正史”から抹殺された謎を追う』サンケイ出版1980年306頁</ref>。また、1944年10月初旬から既に新聞・ラジオで「神風」という言葉が頻出するようになっていた<ref>デニス・ウォーナー、ペギー・ ウォーナー『ドキュメント神風 特攻作戦の全貌 上』時事通信社144ページ</ref>。国民が神風特攻隊を知ったのは1944年10月29日の新聞各紙による海軍省公表、特攻第一号・関中佐の記事が最初だった<ref>大野芳『神風特別攻撃隊「ゼロ号」の男 追跡ドキュメント消された戦史 「最初の特攻」が“正史”から抹殺された謎を追う』サンケイ出版1980年56-58頁</ref>。海軍省公表とともに詳しい記事が各紙で掲載された。 |
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{{quotation|<poem> |
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海軍省公表(昭和十九年十月二十八日十五時)神風特別攻撃隊敷島隊員に関し、聯合艦隊司令長官は左の通全軍に布告せり。 |
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海軍省公表(昭和十九年十月二十八日十五時)神風特別攻撃隊敷島隊員に関し、聯合艦隊司令長官は左の通全軍に布告せり。 |
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布告 |
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布告 |
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戦闘〇〇〇飛行隊分隊長 海軍大尉 関 行男 |
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戦闘〇〇〇飛行隊分隊長 海軍大尉 関 行男 |
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戦闘〇〇〇飛行隊付 海軍一等飛行兵曹 中野磐雄 |
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戦闘〇〇〇飛行隊付 同 谷 暢夫 |
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同 海軍飛行兵長 永峰 肇 |
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戦闘〇〇〇飛行隊付 海軍上等飛行兵 大黒繁男 |
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神風特別攻撃隊敷島隊員として昭和十九年十月二十五日〇〇時「スルアン」島の〇〇度〇〇浬に於て中型航空母艦四隻を基幹とする敵艦の一群を補足するや、 |
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必死必中の体当り攻撃を以て航空母艦一隻撃沈同一隻炎上撃破、巡洋艦一隻轟沈の戦果を収める悠久の大義に殉ず、忠烈万世に燦たり。 |
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昭和十九年十月二十八日 聯合艦隊司令長官 豊田副武 |
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</poem>}} |
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== 戦果 == |
== 戦果 == |
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=== 艦艇に対する戦果 === |
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[[File:SL Exp 5.jpg|thumb|300px|right|神風特攻隊「敷島隊」の特攻で爆沈する護衛空母セント・ロー]] |
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[[File:Frances & Ommaney Bay.jpg|thumb|300px|right|1944年12月15日09時45分頃、護衛空母[[オマニー・ベイ (護衛空母)|オマニー・ベイ]]の上空で撃墜された特攻機銀河。オマニー・ベイは1945年1月4日に特攻により沈没 ]] |
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[[ファイル:USS Newcomb Damage 1945.jpg|thumb|right|250px|1945年4月6日、5機の特攻機が命中した駆逐艦[[ニューコム (駆逐艦)|ニューコム]]。アメリカ本土に曳航後、修理は不可能と診断されて除籍]] |
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{{See also|特攻で損害を受けた艦船の一覧}} |
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陸軍『と號部隊』によるものと合わせた戦果は下記の通りとなる<ref>{{Harvnb|米国海軍省戦史部|1956|pp=187-320}}</ref><ref>{{Harvnb|戦史叢書17|1968|loc=付表第2 沖縄方面神風特別攻撃隊一覧表}}</ref><ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982b|pp=294-359}}</ref><ref>{{Harvnb|図説特攻|2003|pp=122-123}}</ref><ref>{{Harvnb|原勝洋|2004|pp=295-349}}</ref><ref>{{Harvnb|安延多計夫|1960|p=349 別表第2 被害艦要目一覧表 }}</ref><ref>{{Harvnb|米国戦略爆撃調査団|1996|p=157}}</ref><ref>{{Harvnb|オネール|1988|pp=16-269 }}</ref><ref>{{Harvnb|Rielly|2010|pp=318-324}}</ref><ref>{{Harvnb|Smith|2015|}}</ref><ref>{{Harvnb|Stern|2010|p=338}}</ref><ref>{{Harvnb|Kalosky|2006|}}</ref><ref>{{Harvnb|Silverstone|2007|pp=1-350}}</ref><ref name="Chronology1944">{{Cite web |url=http://www.navsource.org/Naval/1944.htm |title=U.S. Naval Chronology Of W.W.II, 1944 |language=英語 |accessdate=2016-12-22}}</ref><ref name="Chronology1945">{{Cite web |url=http://www.navsource.org/Naval/1945.htm |title=U.S. Naval Chronology Of W.W.II, 1945 |language=英語 |accessdate=2016-12-22}}</ref> |
|||
。 |
|||
{| class="wikitable" |
|||
|+ | 撃沈 |
|||
|- |
|||
! style="width:10%;"|艦種 |
|||
! style="width:10%;"|船体分類記号 |
|||
! style="width:10%;"|撃沈艦 |
|||
! style="width:10%;"|除籍艦<ref group="注">アメリカ本土に曳航されたが修理不能と判定され除籍されたか、戦後に行われた損傷艦艇の検査の際に、新造以上のコストがかかると判定され、海軍作戦部長命で廃艦指示された艦。</ref><ref>{{Harvnb|ロット|1983|p=277}}</ref> |
|||
! style="width:10%;"|損傷艦<ref group="注">損傷艦は延べ数</ref> |
|||
|- |
|||
| 戦艦 || BB || ||||16隻 |
|||
|- |
|||
| 正規空母 || CV |||| ||21隻 |
|||
|- |
|||
| 軽空母 || CVL || || || 5隻 |
|||
|- |
|||
| 護衛空母 || CVE || 3隻|| 1隻|| 16隻 |
|||
|- |
|||
| [[水上機母艦]] || AV || || || 4隻 |
|||
|- |
|||
| 重巡洋艦 ||CA |||| ||8隻 |
|||
|- |
|||
| 軽巡洋艦 || CL |||||| 8隻 |
|||
|- |
|||
| 駆逐艦 || DD || 14隻|| 8隻|| 91隻 |
|||
|- |
|||
| 護衛駆逐艦 || DE || 1隻 || 1隻|| 24隻 |
|||
|- |
|||
| 掃海駆逐艦 || DM || 2隻 || 7隻|| 26隻 |
|||
|- |
|||
| 輸送駆逐艦 ||APD || 4隻 || 3隻|| 17隻 |
|||
|- |
|||
| 潜水艦 || SS |||||| 1隻 |
|||
|- |
|||
| 駆潜艇 || SC・PC || 1隻 ||1隻|| 1隻 |
|||
|- |
|||
| 掃海艇 || AM・YMS || 3隻<ref group="注">アメリカ海軍・イギリス軍・ソ連軍各1隻</ref>|| || 16隻 |
|||
|- |
|||
| 魚雷艇 || PT || 2隻|||| 4隻 |
|||
|- |
|||
| 戦車揚陸艦 || LST ||5隻 ||||15隻 |
|||
|- |
|||
| 中型揚陸艦 || LSM || 7隻 ||1隻|| 4隻 |
|||
|- |
|||
| 上陸支援艇 || LCS || 2隻|||| 13隻 |
|||
|- |
|||
| 歩兵揚陸艇 || LCI || 1隻|| || 7隻 |
|||
|- |
|||
| タグボート || AT || 1隻|||| 1隻 |
|||
|- |
|||
| 魚雷艇母艦 || AGP || ||||1隻 |
|||
|- |
|||
| ドッグ艦 || ARL |||||| 2隻 |
|||
|- |
|||
| 病院船 || AH |||| || 1隻 |
|||
|- |
|||
| タンカー || AO・IX || 1隻|| || 2隻 |
|||
|- |
|||
| [[攻撃輸送艦]] || AKA・APA || || ||18隻 |
|||
|- |
|||
| 傷病者輸送艦 || APH |||| ||1隻 |
|||
|- |
|||
| 防潜網設置艦 || AKN || ||||1隻 |
|||
|- |
|||
| 輸送艦 || || 7隻|| || 35隻 |
|||
|- |
|||
|'''合計''' || || '''54隻'''|| '''22隻'''||'''359隻''' |
|||
|} |
|||
特攻の戦果は、航空特攻で撃沈57隻 戦力として完全に失われたもの108隻 船体及び人員に重大な損害を受けたもの83隻 軽微な損傷206隻(元英軍従軍記者オーストラリアの戦史研究家デニス・ウォーナー著『ドキュメント神風下巻』)<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982b|p=288}}</ref>。 |
|||
航空特攻で撃沈49隻 損傷362隻 回天特攻で撃沈3隻 損傷6隻 特攻艇で撃沈7隻 損傷19隻 合計撃沈59隻 損傷387隻(イギリスの戦史研究家Robin L. Rielly著『KAMIKAZE ATTACKS of WORLD WAR II』)<ref name="Rielly_p318-324">{{Harvnb|Rielly|2010|pp=318-324}}</ref>など諸説ある。 |
|||
アメリカ軍は、フィリピンで特攻により大きな損害を被った教訓として、沖縄本島近海で作戦行動をとる主力艦隊や輸送艦隊を包み込むように、半径100㎞の巨大な円周上に、レーダーを装備した[[レーダーピケット艦]]を配置し早期警戒体制を整えた。このレーダーピケット部隊は第5上陸作戦場スクリーン隊という部隊名であったが、一般的にはレーダーピケットラインと呼ばれた<ref>{{Harvnb|ボールドウィン|1967|p=426}}</ref>。レーダーピケット部隊は[[駆逐艦]]や[[高速輸送艦]](輸送駆逐艦)1隻に対し、対空装備を満載した[[上陸支援艇]]、[[掃海艇]]、[[駆潜艇]]などの小型艦2隻を最小単位として編成されており、二重に主力艦隊や輸送艦隊を取り囲んでいた。高速空母艦隊の第58任務部隊も輸送艦隊と同様に、高速空母隊の周りに警戒駆逐艦を配備し早期警戒に当たらせていた<ref>{{Harvnb|ニミッツ|1962|p=439}}</ref>。 |
|||
日本軍はアメリカ軍のレーダーピケットラインを寸断するために、レーダーピケット艦を優先攻撃目標のひとつとしており、また出撃した特攻機もアメリカ軍の大量の迎撃機に阻まれて、最初に接触するレーダーピケット艦を攻撃することが多く<ref>{{Harvnb|吉本貞昭|2012|p=195}}</ref>、その消耗は激しかった<ref>{{Harvnb|オネール|1988|p=186}}</ref>。ニミッツは[[アーネスト・キング]][[アメリカ海軍作戦部長|海軍作戦部長]]に「直衛艦艇と哨戒艦艇を1隻ずつ狙い撃ちにする特攻機により、現在受けつつあり、また将来加えられると予想される損害のため、スプルーアンスとターナーは2人とも、(アメリカ軍が)投入可能な駆逐艦及び護衛駆逐艦全てを太平洋に移動する必要がある点を指摘している」と請願し<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982b|p=203}}</ref>、ドイツ軍の[[Uボート]]を制圧していた大西洋の駆逐艦や護衛駆逐艦が続々と沖縄に派遣された<ref>{{Harvnb|ボールドウィン|1967|p=431}}</ref>。アメリカ軍は、レーダーピケット艦が沈められた時に生存者の救出を図るため、レーダーピケット艦の周りを小型艇でびっしりと囲ませていた。そのような小型艦艇は『棺桶の担い手』と呼ばれ、実際に、特攻で粉砕されたレーダーピケット艦の生存者を救出し、遺体を収容している<ref>{{Harvnb|アレン|ボーマー|1995|p=137}}</ref>。 |
|||
特攻により生じた大量の損傷艦のために慶良間列島の泊地は常に満杯であり、損傷艦は[[工作艦]]により応急修理がなされると、随伴艦と一緒に群れを成して太平洋を横断してアメリカ本国に帰還した<ref>{{Harvnb|ボールドウィン|1967|p=431}}</ref>。特攻による損傷艦のなかには、護衛空母[[スワニー (護衛空母)|スワニー]]のように、艦設計の際に考慮されていなかった程の甚大な損傷を負った艦や<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=208}}</ref>、正規空母[[バンカーヒル (空母)|バンカーヒル]] のように、[[ピュージェット・サウンド海軍工廠]]で修理を受けた艦船の中では最悪の損傷レベルと認定された艦もあった<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982b|p=166}}</ref>。甚大な損傷を負った艦のなかには、修理不能と診断されてそのままスクラップとなった艦も少なくない<ref>{{Harvnb|ロット|1983|p=277}}</ref>。 |
|||
レーダーピケット艦は特攻機を早期発見するという本来の任務のほかに、結果的に特攻機を引き付ける役割となってしまい、特攻機は何度もレーダーピケット艦に対する攻撃に集中し、大破して沈没寸前の艦にまで執拗に体当たりを繰り返した<ref>{{Harvnb|オネール|1988|p=184}}</ref>。特にレーダーピケットラインの中枢で、「ブリキ缶」「スモールボーイ」などの俗称で呼ばれていた駆逐艦の損害は大きく<ref>{{Harvnb|ボールドウィン|1967|p=426}}</ref>、「まるで射的場の標的の様な形で沖縄本島の沖合に(駆逐艦が)配置されている」と皮肉を言われるほどで<ref>{{Harvnb|ファイファー|1995|p=351}}</ref>、やけになった駆逐艦の乗組員が、駆逐艦の艦尾に大きな矢印をつけて「日本の特攻隊員よ、空母はこの方向です!」と示したほどだった<ref>{{Harvnb|オネール|1988|p=184}}</ref>。 |
|||
沖縄戦中にアメリカ海軍は駆逐艦17隻(航空特攻15隻、特殊潜航艇1隻、陸上砲撃1隻)を沈められ、18隻が再起不能の損傷を受けて除籍される甚大な損害を被ったが(輸送・掃海等の用途特化型の駆逐艦を含む)、文字通り自らを犠牲にして主力艦隊や輸送艦隊を特攻から守り切った。その働きぶりはアメリカ海軍より「光輝ある我が海軍の歴史の中で、これほど微力な部隊が、これほど長い期間、これほど優秀な敵の攻撃を受けながら、これほど大きく全体の為に寄与したことは無い」と賞されている<ref>{{Harvnb|ファイファー|1995|p=356}}</ref>。 |
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=== 人員に対する戦果 === |
|||
連合軍の人的損失については、特攻のみによる死傷者の公式統計はないため推計の域は出ないが、アメリカ軍の公式記録等を調査したRobin L. Rielly著『KAMIKAZE ATTACKS of WORLD WAR II』では特攻によるアメリカ軍の戦死者6,805名負傷者9,923名合計16,728名<ref name="Rielly_p318-324" />、 Steven J Zaloga著『Kamikaze: Japanese Special Attack Weapons 1944-45』では戦死者7,000名超<ref>{{Harvnb|Zaloga|2011|p=12}}</ref>、太平洋戦争の航空機関連で多くの著書があり、NPO法人『零戦の会』の発起人の一人でもある[[ノンフィクションライター]][[神立尚紀]]の集計によれば戦死者8,064名負傷者10,708名合計18,772名とされている<ref>{{Cite book |title=日本人なら知っておくべき特攻の真実~右でもなく、左でもなく…当事者の証言とデータから実像に迫る |year=2018 |publisher=講談社 |page=4 |language=日本語 |url=https://gendai.ismedia.jp/articles/-/55270?page=4 |accessdate=2018-1-5}}</ref>。他にイギリス軍、オーストラリア軍、オランダ軍でも数百名の死傷者が出ている。連合軍全体では、戦死者12,260名、負傷者33,769名に達したという推計もある<ref>{{Harvnb|北影雄幸|2005|p=12}}</ref>。 |
|||
=== 有効率 === |
|||
{| class="wikitable" |
|||
|+ |特攻作戦有効率([[米国戦略爆撃調査団]]統計 USSBS Report 62, Japanese Air Power)<ref>{{Cite book |title=USSBS Report 62, Japanese Air Power |year=1946 |publisher=米国戦略爆撃調査団 |page=76 |language=英語 |url=http://ja.scribd.com/doc/60048408/USSBS-Report-62-Japanese-Air-Power-OCR |accessdate=2016-12-22}}</ref> |
|||
|- |
|||
! style="width:18%;"| |
|||
! style="width:18%;"|フィリピン戦 |
|||
! style="width:18%;"|沖縄戦 |
|||
! style="width:18%;"|合計 |
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|- |
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| 特攻機損失数 || 650機 || 1,900機 || 2,550機 |
|||
|- |
|||
| 命中もしくは有効至近命中<ref group="注">有効至近命中はアメリカ軍艦艇に損傷を与えたもののみ計上。</ref> || 174機 || 279機 || 475機<ref group="注">合計が合わないが原資料のまま。</ref> |
|||
|- |
|||
| 有効率 || 26.8% || 14.7% || 18.6% |
|||
|- |
|||
|} |
|||
{| class="wikitable" |
|||
|+ |1944年10月 - 1945年4月アメリカ軍艦艇の射程内に入った特攻機と通常攻撃機の有効攻撃数(U.S.NAVY Anti-Suicide Action Summary Table I)<ref>{{Cite book |title=Anti-Suicide Action Summary |year=1945 |publisher=アメリカ海軍 |page=2|language=英語 |url=https://www.history.navy.mil/research/library/online-reading-room/title-list-alphabetically/a/anti-suicide-action-summary.html |accessdate=2018-1-9}}</ref> |
|||
|- |
|||
! style="width:15%;"| |
|||
! style="width:10%;"|1944年10月~1945年1月 |
|||
! style="width:10%;"|1945年2月 |
|||
! style="width:10%;"|1945年3月 |
|||
! style="width:10%;"|1945年4月 |
|||
! style="width:10%;"|合計 |
|||
|- style="border:1px solid #000000;" |
|||
| アメリカ軍艦艇の射程内に入った日本軍機合計 || 1,616機 || 123機 || 219機|| 978機|| 2,936機 |
|||
|- |
|||
| その内、特攻機|| 376機 || 18機 || 42機 || 348機|| 784機 |
|||
|- |
|||
| その内、通常攻撃機 || 1,240機 || 105機 || 177機|| 630機|| 2,152機 |
|||
|- |
|||
| 特攻機命中 || 120機(命中率31.9%)|| 8機 || 10機 || 78機|| 216機(命中率27.6%) |
|||
|- |
|||
| 通常攻撃命中 || 41機(命中率3.3%)|| 1機 || 10機 || 6機|| 58機(命中率2.7%) |
|||
|} |
|||
{| class="wikitable" |
|||
|+ |1944年10月 - 1945年4月アメリカ軍艦艇の射程内に入った特攻機と通常攻撃機の有効性の比較(U.S.NAVY Anti-Suicide Action Summary Table VI)<ref>{{Cite book |title=Anti-Suicide Action Summary |year=1945 |publisher=アメリカ海軍 |page=4|language=英語 |url=https://www.history.navy.mil/research/library/online-reading-room/title-list-alphabetically/a/anti-suicide-action-summary.html |accessdate=2018-1-9}}</ref> |
|||
|- |
|||
! style="width:25%;"| |
|||
! style="width:18%;"|特攻機 |
|||
! style="width:18%;"|通常攻撃機 |
|||
|- style="border:1px solid #000000;" |
|||
| 艦艇に1発の命中弾を与えるために必要な攻撃機数 || 3.6機 || 37機 |
|||
|- |
|||
| 命中率 || 27% || 2.7% |
|||
|- |
|||
| 艦艇に命中弾を与えるまでの損失機数 || 3.6機 || 6.1機 |
|||
|} |
|||
これらの統計の結果でアメリカ軍は、通常攻撃機をすべて特攻機に回したならば、この間の通常攻撃機による79発の命中弾が792発(792機)の命中になったであろうと分析している<ref>{{Cite book |title=Anti-Suicide Action Summary |year=1945 |publisher=アメリカ海軍 |page=4|language=英語 |url=https://www.history.navy.mil/research/library/online-reading-room/title-list-alphabetically/a/anti-suicide-action-summary.html |accessdate=2018-1-9}}</ref>。 |
|||
上記統計の通り、航空機による通常攻撃と比較して特攻の有効性が圧倒的に上回っていた。 |
|||
「日本軍パイロットがまだ持っていた唯一の長所は、彼等パイロットの確実な死を喜んでおこなう決意であった。 このような状況下で、かれらはカミカゼ戦術を開発させた。 飛行機を艦船まで真っ直ぐ飛ばすことができるパイロットは、敵戦闘機と対空砲火のあるスクリーンを通過したならば、目標に当る為のわずかな技能があるだけでよかった。もし十分な数の日本軍機が同時に攻撃したなら、突入を完全に阻止することは不可能であっただろう。 」と[[米国戦略爆撃調査団]]作成の公式報告書で述べられている通り<ref>{{Cite web |author=Chuck Anesi |url=http://www.anesi.com/ussbs01.htm |title=United States Strategic Bombing Survey: Summary Report (Pacific War) |language=英語 |accessdate=2018-1-9}}</ref>、通常の航空爆撃と異なり、対空攻撃によって特攻機の乗員が負傷したり機体が破損するなどしても、特攻機は命中するまで操舵を続けるため、投下する爆弾や魚雷を避けることを前提とした艦船の回避行動はほとんど意味がなかった<ref>United States Navy ACTION REPORT FILM CONFIDENTIAL 1945 MN5863 『Combating suicide plane attacks』1945年アメリカ海軍航空局作成</ref>。1999年作成[[アメリカ空軍]]報告書において、特攻機は現在の[[対艦ミサイル]]に匹敵する誘導兵器と見なされて、アメリカ軍艦船の最悪の脅威であったと指摘されている。そして特攻機は相対的には少数でありながら、アメリカ軍の戦略に多大な変更を強いており、実際の戦力以上に戦況に影響を与える潜在能力を有していたと分析している<ref>{{Cite web |url=https://archive.li/v4SuI#selection-259.0-261.34 |title=PRECISION WEAPONS, POWER PROJECTION, AND |
|||
THE REVOLUTION IN MILITARY AFFAIRS |publisher=The Air Force History Support Office|language=英語 |accessdate=2019-01-09}}</ref>。 |
|||
台湾沖で、神風特攻新高隊の零戦2機の特攻攻撃を受け大破炎上、144名戦死203名負傷の甚大な損害を被り、自らも重傷を負った空母[[タイコンデロガ (空母)|タイコンデロガ]]のディクシー・キーファー艦長は、療養中にアマリロ・デイリー・ニュースの取材に対して「日本のカミカゼは、通常の急降下爆撃や水平爆撃より4 - 5倍高い確率で命中している。」と答えている<ref>Amarillo Daily News Friday, July 20, 1945 Page 15</ref>。また、「通常攻撃機からの爆撃を回避するように操舵するのは難しくないが、舵を取りながら接近してくる特攻機から回避するように操舵するのは不可能である。」とも述べている。<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=338}}</ref>またイギリスの著名な戦史・軍事評論家のバリー・ピッドは<ref group="注">[[ブリタニカ百科事典]]の海戦項目の執筆や[[英国放送協会|BBC]]制作『大戦』の総監修を務めるなど、イギリスにおける第二次世界大戦に関する軍事評論の第一人者だった。</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.telegraph.co.uk/news/obituaries/1516827/Barrie-Pitt.html |title=Barrie Pitt |publisher=[[デイリー・テレグラフ]] |language=英語 |accessdate=2017-10-26}}</ref>「日本軍の神風特攻がいかに効果的であったかと言えば、沖縄戦中1900機の特攻機の攻撃で実に14.7%が有効だったと判定されているのである。これはあらゆる戦闘と比較しても驚くべき効率であると言えよう」「アメリカ軍の海軍士官のなかには、神風特攻が連合軍の侵攻阻止に成功するかもしれないと、まじめに考えはじめるものもいたのである」との記述をしている<ref>{{Harvnb|フランク|1971|p=8}}</ref><ref>{{Harvnb|吉本貞昭|2012|p=221}}</ref>。 |
|||
特攻の高い有効性について、アメリカ海軍は下記のように分析していた<ref name="HyperWar">{{Cite web |url=http://www.ibiblio.org/hyperwar/USN/rep/Kamikaze/AAA-Summary/AAA-Summary-1.html |title=ANTIAIRCRAFT ACTION SUMMARY SUICIDE ATTACKS 1945 april |language=英語 |accessdate=2018-01-17}}</ref> |
|||
。 |
|||
# 特攻は、アメリカ軍艦隊が直面したもっとも困難な対空問題である |
|||
# 今まで有効であった対空戦術は特攻機に対しては機能しない |
|||
# 特攻機は撃墜されるか、激しい損傷で操縦不能とならない限りは、目標を確実に攻撃する。 |
|||
# 操縦不能ではない特攻機は、回避行動の有無に関わらず、あらゆる大きさの艦船に対して事実上100%命中できるチャンスがある。 |
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『国史大辞典』によれば、全期間での特攻戦死者数は約4400人、命中率は16.5%だった{{sfn|国史大辞典編集委員会|2013|p=570}}。 |
『国史大辞典』によれば、全期間での特攻戦死者数は約4400人、命中率は16.5%だった{{sfn|国史大辞典編集委員会|2013|p=570}}。 |
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[[社会学]]者[[青木秀男]]の[[研究論文]]いわく、特攻の定義や用いられた資料により、出撃回数・出撃機数・帰還機数・戦果といった算定は変わる{{sfn|青木秀男|2008|p=75}}。 |
[[社会学]]者[[青木秀男]]の[[研究論文]]いわく、特攻の定義や用いられた資料により、出撃回数・出撃機数・帰還機数・戦果といった算定は変わる{{sfn|青木秀男|2008|p=75}}。 |
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* 服部省吾の算定{{#tag:ref|服部省吾「第四章第六節 特攻作戦」奥村房夫監修『近代日本戦争史第四編大東亜戦争』1995年、590頁{{sfn|青木秀男|2008|p=89}}。|group="注"}}:「出撃総数は約3,300機、敵艦船への命中率11.6%、至近突入5.7%、命中32隻、損傷368隻」{{sfn|青木秀男|2008|p=75}}。 |
* 服部省吾の算定{{#tag:ref|服部省吾「第四章第六節 特攻作戦」奥村房夫監修『近代日本戦争史第四編大東亜戦争』1995年、590頁{{sfn|青木秀男|2008|p=89}}。|group="注"}}:「出撃総数は約3,300機、敵艦船への命中率11.6%、至近突入5.7%、命中32隻、損傷368隻」{{sfn|青木秀男|2008|p=75}}。 |
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* 生田惇の算定{{#tag:ref|生田惇『陸軍航空特別攻撃隊史』1977年、223頁{{sfn|青木秀男|2008|p=89}}。|group="注"}}:「出撃機数2,483機、[[成功|奏功]]率16.5%、被害敵艦数358隻」{{sfn|青木秀男|2008|p=75}} |
* 生田惇の算定{{#tag:ref|生田惇『陸軍航空特別攻撃隊史』1977年、223頁{{sfn|青木秀男|2008|p=89}}。|group="注"}}:「出撃機数2,483機、[[成功|奏功]]率16.5%、被害敵艦数358隻」{{sfn|青木秀男|2008|p=75}} |
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{{See also|特攻で損害を受けた艦船の一覧}} |
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== 特攻隊員 == |
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[[File:Nichiei 232 First Kamikaze 02 PDVD 008.JPG|thumb|270px|right|特攻初出撃の日に201空司令代行玉井浅一大佐(後姿)から別杯を受ける特攻隊員、左から関行男、中野磐雄、山下憲行、谷暢夫、塩田寛]] |
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=== 特攻志願 === |
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特攻隊員の選抜については、大西が軍令部に航空特攻の開始を進言した際に総長の及川より「あくまでも本人の自由意志に基づいてやってください。決して命令はしてくださるな」と念を押されたように、原則は本人の志願に基づくものとされていた<ref>{{Harvnb|冨永|安延|1972|p=46}}</ref>。しかし、最初の神風特攻隊『敷島隊』の指揮官となった関が、実質的には命令に近い志願の打診を受けたように、初めから志願者のみという原則は徹底されていなかった<ref>{{Harvnb|城山三郎|2004|loc=p.445}}</ref>。志願にあたっては、「親一人、子一人の者」「長男」「妻子のある者」を除外することとしていたが、これも徹底はされていなかった<ref>{{Harvnb|城山三郎|2004|loc=p.454}}</ref>。 |
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[[桜花 (航空機)|桜花]]搭乗員の募集は、フィリピンで特攻が開始される前の1944年8月中旬から始まっており、海軍省の人事局長と教育部長による連名で、後顧の憂いのないものから募集するという方針が出されている<ref>{{Harvnb|加藤浩|2009|p=69}}</ref>。[[台南海軍航空隊]]では、司令の高橋俊策大佐より、搭乗員に対して「戦局は憂うべき状況にあり、中央でとても効果が高い航空機が開発されているが、それは死を覚悟した攻撃である」との説明があり、「確実に命を落とすが、現状打破にはこの方法しかない、海軍としてはやむを得ない選択であり志願を募る」と告げた。ただし妻帯者、一人っ子、長男はその中から除外された。3日間の猶予を与えられたが、海軍飛行予備学生第13期の鈴木英男大尉は「自分の命を引き換えに日本が壊滅的な状況になる前に、有利な講和交渉に持ち込めたら」「我々の時代は大学に進学するのはエリートであり、将来的に国のために尽くしてくれると、世間の人たちから大事にしてもらってきた厚意に報いたい」という気持ちで志願している<ref>{{Harvnb|最後の証言|2013|p=22}}</ref>。 |
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関らの成功により特攻志願者は増えたが、フィリピン戦の時点では選抜は原則志願を徹底するように慎重に行われていた。敷島隊の突入の10日足らずのちの1944年11月3日に[[元山海軍航空隊]]で特攻の志願者を募ったが、その際司令の藤原喜代間少将は「熟慮のうえで志願するように」と伝え、志願者が司令官公室に出向いてくると「後顧の憂いはないのか」と再度念を押している。志願者が意志を曲げない場合でも「君の希望を中央に連絡する」と即答を避けた。それでも選抜されない場合もあり、海軍飛行予備学生第13期の土方敏夫少尉の場合は、3回志願したがついに選抜されることはなかった<ref>{{Harvnb|渡辺洋二|2007|p=17}}</ref>。 |
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しかし、アメリカ軍が沖縄まで侵攻し、菊水作戦で特攻がより大規模になると様相は変わり、一時の感情にかられて志願するものや、また周囲の雰囲気に流されて、[[同調圧力]]で志願するものも多くなった<ref>{{SfnRef|猪口|中島|1951|loc=p.2863}}</ref>。[[高知海軍航空隊]]は練習機[[白菊 (航空機)|白菊]]による搭乗員訓練の航空隊であったが、戦局も逼迫した1944年末に横須賀鎮守府より特攻隊編成の訓示があり、航空隊司令加藤秀吉大佐から各員に「特別攻撃隊を編成するから、志願する者は分隊長に申し出るように」との指示があった。各人の意志に委ねられた形式で積極的に志願した者が多かったが、なかには、搭乗員である以上は勇ましい志願をせざるを得ず、やむなく志願した者もいたという<ref>{{Harvnb|特攻の記録|2011|loc=p.819}}</ref>。[[筑波海軍航空隊]]では海軍飛行予備学生の訓練生に志願が呼びかけられたが、特攻に志願しないと飛行機に搭乗することができず、防空壕掘りか、代用燃料の[[松根油]]の材料であった松の根掘りに回されるという噂が立ち、自尊心から特攻を志願したものもいた<ref>{{Harvnb|陰山慶一|1987|p=196}}</ref>。 |
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また、形式的な志願もない特攻出撃を命令されることもあった。指揮官の[[美濃部正]]少佐が特攻を拒否したことで知られる[[芙蓉部隊]]において、1945年2月17日、[[ジャンボリー作戦]]で日本本土を攻撃してきた[[第38任務部隊|第58任務部隊]]に対して、美濃部がかねてより温めてきた「黎明に銃爆撃特攻隊を準備し、最後は人機諸共に(空母の飛行)甲板上に滑り込み発進準備中の甲板上の飛行機を掃き落とす」<ref>アジア歴史センター「芙蓉部隊天号作戦々史 自昭和20年2月1日至昭和20年8月末日 第3航空艦隊131航空隊芙蓉部隊」「芙蓉部隊作戦思想(B)kabニ對シテ」</ref>という対機動部隊特攻戦術で攻撃するべく、美濃部は出撃する搭乗員らに「空母を見つけたら飛行甲板に滑り込め」や「機動部隊を見たらそのままぶち当たれ」と命じて、別れの盃(別盃)を交わしているが<ref>{{Harvnb|渡辺洋二|2003|pp=82-83}}</ref>。この日出撃した河原政則少尉の記憶では、指揮所に行くと志願をしてもないのに自分の名前が出撃者名簿に記載されていたという。美濃部は別盃が並んだテーブルを前に、河原ら特攻出撃者とひとりひとり握手を交わしたが、出撃した特攻機は敵艦隊を発見できずに引き返した<ref>{{Harvnb|境克彦|2017|pp=296-297}}</ref>。引き返した特攻機はアメリカ軍の[[F6F_(航空機)|F6F]]戦闘機と[[SB2C (航空機)|SB2C]]艦上爆撃機に追尾されており、爆弾や燃料を搭載したままであった彗星や零戦は攻撃により次々と爆発炎上し、芙蓉部隊は彗星7機と零戦1機を破壊され、2名が戦死している<ref>{{Harvnb|渡辺洋二|2003|pp=83-84}}</ref>。美濃部は特攻を完全に否定していたのではなく「特攻は戦機に乗じ臨機必死隊を出すべきものにして常用するは戦闘の邪道なり」と、安易な特攻への依存を拒否していただけで、戦機に応じて特攻は出すべきものとしていた<ref>アジア歴史センター「芙蓉部隊天号作戦々史 自昭和20年2月1日至昭和20年8月末日 第3航空艦隊131航空隊芙蓉部隊」「五.戦訓 イ.精神力ト訓練」</ref><ref>{{Harvnb|境克彦|2017|p=297}}</ref>。 |
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航空隊全体が特攻を命じられることもあり、[[第二〇五海軍航空隊]]については103名の搭乗員全員が、「特攻大義隊員を命ず」との辞令で特攻隊員に選抜されている<ref>{{Cite book |title=日本人なら知っておくべき特攻の真実~右でもなく、左でもなく…当事者の証言とデータから実像に迫る |year=2018 |publisher=講談社 |page=3 |language=日本語 |url=https://gendai.ismedia.jp/articles/-/55270?page=3 |accessdate=2018-1-5}}</ref>。沖縄戦で特攻機の護衛や要撃任務に就いていた[[厚木海軍航空隊|第二〇三海軍航空隊]]戦闘303飛行隊に対しても「特攻隊員を〇人出せ」というような命令が来たが、飛行長の[[岡嶋清熊]]少佐が「戦闘機乗りというものは最後の最後まで敵と戦い、これを撃ち落として帰ってくるのが本来の使命、敵と戦うのが戦闘機乗りの本望なのであって、爆弾抱いて突っ込むなどという戦法は邪道だ」という信念で、容易にはその命令に従わなかった<ref>{{Harvnb|最後の証言|2013|p=375}}</ref>。しかし、特攻が開始された直後のフィリピン戦においては、1944年10月29日に岡嶋が全搭乗員32名を整列させて特攻志願者を募り、全員が志願したためそのなかから3名を選抜している<ref>{{Harvnb|本田稔|2004|p=183}}</ref>。 |
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民間航空機搭乗員を希望して乙種[[海軍飛行予科練習生]]第18期生として[[土浦海軍航空隊]]に入隊した桑原敬一は、ある日、講堂に集合させられ、参謀より「戦局悪化により特攻隊編成を余儀なくされたので、諸君らの意思を確認したい。各人に用紙を渡すから明日までに特攻志願する場合は所属部隊名と氏名を用紙に書き、志望しない場合は白紙で出すように」と言われた。各隊員は来るべきものが来たという気持ちで、複雑な心境ながら翌日に大多数は志願したが、白紙で提出した隊員も少なくなかった。しかし後日の参謀からの言葉は「諸君の意思は全員熱望であり、ただの一人の白紙もなかった」という意外なものであった。その言葉を聞いた桑原は憤りで頭にカアッと血が上ったと言う。桑原はこの自分の体験により、末期の特攻志願は似たような志願の強制事例が横行していたと考えていた<ref>{{Harvnb|桑原敬一|2006|p=156}}</ref>。 |
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終戦後に、[[米国戦略爆撃調査団]]は特攻に対して詳細な調査を行ったが、海軍兵学校卒の現役士官4名、学徒出陣の海軍飛行予備学生2名に対して、特攻の志願について事情聴取をおこなっている。アメリカ軍調査官ヘラー准将の「特攻は強制であったか、志願であったか?」との質問に対して、兵学校出身の現役士官は「全て志願であった、しかしフィリピンでは戦況によって部隊全部が特攻出撃したこともある。」「内地で募集した際も殆ど全員が熱望し、中には夜中に学生から何度も起こされて自分を第一番にしてもらいたいと言われたこともある。また一人息子だから対象者から外したら、母親から息子を特攻隊員にしてほしいとの嘆願書が来たこともあった」と答えている。また海軍飛行予備学生の2名も「学徒出陣の我々は軍人精神を体得した者とは言えないが、一般人として戦況を痛感し、特攻が最も有効な攻撃法と信じた。我々が身を捧げる事により、日本の必勝を信じ、後輩がよりよい学問を成し得るようにと考えて志願した」と答えている。この事情聴取によって、当初は「アメリカの青年には到底理解できない。生還の道を講ずることなく、国家や天皇の為に自殺しようとする考え方は考える事ができない」と言っていたヘラー准将も、最後には「特攻隊の精神力をやや理解できた。君らのいう事は理に適っており、アメリカ人にも理解できると思う」と話している<ref>{{Harvnb|中島正|猪口力平|1984|p=188}}</ref>。 |
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多数の特攻隊指揮官から隊員の生存者まで尋問した米国戦略爆撃調査団の出した結論は「入手した大量の証拠や口述書によって大多数の日本軍のパイロットが自殺航空任務に、すすんで志願した事は極めて明らかである。機体にパイロットがしばりつけられていたという話<ref group="注">当時アメリカの一部では特攻隊員は機体に縛り付けられたり、薬やアルコールで判断力を失っていると信じられていた。</ref>は実際にそういうことが起きたとしても、一度だけだったであろう。また、戦争最後の数週間前までに、もっとも熱心なパイロットは消耗されつくしたか、あるいは出撃を待っている状態だった事も明らかである。陸海軍両軍とも、新米で訓練不足のパイロットを自殺部隊に割り当てる、つまり志願者を徴集する段階に到達していた。」と原則志願制でありながら、それが既に限界に達していたと分析している<ref>{{Harvnb|米国戦略爆撃調査団|1996|p=163}}</ref>。 |
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=== 戦没者 === |
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{| class="wikitable" |
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|+ |海軍特攻戦没者数と構成率<ref>{{Harvnb|特攻隊慰霊顕彰会|1990|p=131}}</ref> |
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|- |
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!階級||戦没者数||構成比率 |
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|- |
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|[[役種|現役]][[士官]]/[[将校]]現役士官||121名||4.8% |
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|- |
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|[[海軍予備員|予備学生]]||648名||25.6% |
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|- |
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|[[特務士官]]・[[准士官]]・[[下士官]]兵||1,762名||69.6% |
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|- |
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|合計||2,531名||100% |
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|} |
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{| class="wikitable" |
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|+ |大戦末期の日本海軍航空隊全搭乗員の階級別構成率<ref>{{Harvnb|戦史叢書95|loc=付表}}</ref> |
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|- |
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!階級||1945年4月1日時点||構成比率 ||1945年7月1日時点||構成比率 |
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|現役士官/将校||1,269名||5.3%||1,036名||4.7% |
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|予備学生||5,944名||25.0%||5,530名||24.8% |
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|- |
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|特務士官・准士官・下士官兵||16,616名||69.7%||15,711名||70.5% |
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|合計||23,829名||100%||22,277名||100% |
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|} |
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「身内の、[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]卒のエリート士官を温存し、学生出身の予備士官や予科練出身の若い下士官兵ばかりが特攻に出された」という俗説がよく言われているが<ref>{{Cite book |title=日本人なら知っておくべき特攻の真実~右でもなく、左でもなく…当事者の証言とデータから実像に迫る |year=2018 |publisher=講談社 |page=3 |language=日本語 |url=https://gendai.ismedia.jp/articles/-/55270?page=3 |accessdate=2018-1-5}}</ref>、上表'''『海軍特攻戦没者数と構成率』'''と'''『大戦末期の日本海軍航空隊全搭乗員の階級別構成率』'''の通り、特攻戦没者数の海軍兵学校卒の現役士官、[[学徒出陣]]などで学生から採用された海軍予備学生、特務士官以下の構成率は、大戦末期の日本海軍全搭乗員の構成率とほぼ同じであり、単なる人数比に過ぎず、母数を無視してあたかも現役士官が優遇されていたように指摘するのは「軍隊=身内をかばう悪しき組織」とした方が、特攻を批判するのに都合がいいからという意見もある<ref>{{Cite book |title=日本人なら知っておくべき特攻の真実~右でもなく、左でもなく…当事者の証言とデータから実像に迫る |year=2018 |publisher=講談社 |page=3 |language=日本語 |url=https://gendai.ismedia.jp/articles/-/55270?page=3 |accessdate=2018-1-5}}</ref>。 |
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{| class="wikitable" |
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|+ |飛行学生(海軍兵学校卒)と飛行予備学生の戦没率の対比<ref>{{Harvnb|陰山慶一|1987|p=210}}</ref> |
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!||飛行学生||飛行予備学生 |
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|人員総数||1,945名||10,778名 |
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|戦没者||1,103名||2,464名 |
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|内特攻死||108名||652名 |
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|内殉職||142名||386名 |
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|'''戦没率'''||'''56.7%'''||'''22.9%''' |
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|} |
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上表の通り、海軍兵学校卒の航空士官の戦没率は、海軍航空予備学生の航空士官の2倍以上に達している。戦争の激化に伴い、士官の消耗が激しくなったことから、海軍兵学校も55期~65期までの100名~150名であった卒業生の任官を、大幅に増加させる必要に迫られた。66期に219名と200名を突破したあとも年々増加し、70期では432名、そして終戦直前の1945年3月に卒業した74期は1,024名の大量任官となった。しかし、海軍兵学校の現役士官の戦没率は非常に高く、海兵68期卒業生288名の内191名が戦死し戦没率66.32%、海兵69期卒業生343名中222名戦死し戦没率64.72%、70期は433名中287名戦死し戦没率66.28%、71期は581名中329名の56.6%、72期は625名中の337名の53.9%と高水準となっており <ref>{{Harvnb|海軍兵学校連合クラス会|2018|p=86}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.naniwa-navy.com/senboturitu1.html |title=海軍三校入試状況及び戦没情況調べ(自 昭和 9年 至 昭和20年) |publisher=なにわ会 |accessdate=2016-12-26}}</ref>、特に、航空士官の死亡率が高く、例えば1939年に卒業した第67期は全体では248名の同期生の戦没率は64.5%であったが、そのうち86名の航空士官に限れば66名戦没で戦没率76.6%、特に戦闘機に搭乗した士官は16名のうちで生存者はたった1名、艦爆搭乗の士官の13名に至っては全員戦没している<ref>{{Harvnb|島原落穂|1990|p=76}} </ref>。海軍兵学校卒の航空士官の補充が到底追いつかなくなった海軍は、[[学徒出陣]]で海軍飛行予備学生を大量に航空士官として採用せざるを得ず、沖縄戦開始時点の4月1日時点では、日本海軍の航空士官で海軍飛行予備学生の士官が占める割合は82.4%にも達していた<ref>{{Harvnb|戦史叢書95|loc=付表}}</ref>。海軍省に対し、ある航空隊の司令官が「今や、私の航空隊の搭乗員の主力は、第13期予備学生の出身者で占められている。彼らなしでは戦えない。彼らを大量にされたことはまことに有意義なことであった」と報告した通り、日本海軍航空士官の主力は、学徒の海軍飛行予備学生の士官と言っても過言ではない状況となっていた<ref>{{Harvnb|陰山慶一|1987|p=209}}</ref> |
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海軍が航空士官不足に陥り、飛行予備学生の大量採用に踏み切った以降の卒業生となる13期、14期、予備生徒1期で合計8,673名中戦没者は2,192名、戦没率25.2%と飛行予備学生全体の戦没率より高めのうえ<ref>{{Cite book |title=日本人なら知っておくべき特攻の真実~右でもなく、左でもなく…当事者の証言とデータから実像に迫る |year=2018 |publisher=講談社 |page=3 |language=日本語 |url=https://gendai.ismedia.jp/articles/-/55270?page=3 |accessdate=2018-1-5}}</ref>、戦没率に占める特攻死の比率が飛行予備学生の方が高いため、戦争当時も「飛行予備学生出は海兵出の弾よけであった」などの批判はあっていた。そのような批判に対して、[[長岡高等工業学校]](現[[新潟大学]])から飛行予備学生となった陰山慶一中尉は、海軍兵学校に対して「われわれを立派な海鷲の士官として育ててくれた上官、教官には深く感謝し、ともに闘ってきた[[コレス]]の(海軍兵学校)72期、79期の飛行学生には、深い友情を覚える」と述べている<ref>{{Harvnb|陰山慶一|1987|p=209}}</ref>。 |
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== 方法 == |
== 方法 == |
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=== 機材・爆弾 === |
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[[ファイル:Fire_fighting_on_USS_Enterprise_(CV-6)_after_Kamikaze 1945.jpg|thumb|270px|right|神風特攻隊の特攻機命中後、消火作業が行われている[[エンタープライズ (CV-6)]]]] |
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[[File:USS Randolph (CV-15) under repair.jpg|thumb|270px|right|800キロ爆弾を搭載した陸上攻撃機「[[銀河 (航空機)|銀河]]」が命中し損傷した正規空母[[ランドルフ (空母)|ランドルフ]]]] |
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最初の神風特攻隊を編成した1944年10月20日、零戦を改修したものを利用した。改修は、もともと零戦で反跳爆撃の訓練が行われていたため、250キロ爆弾を搭載でき、爆弾発火装置を作動状態にするために風車翼螺止ピアノ線を操縦者が機上から外せるようにするだけでよく、体当たり直前に操縦者が抜ける簡単な装置であった。その後、500キロ爆弾になり、艦爆その他も特攻に使われるが、特別工作を必要とするものではなく、1945年以降も爆装さえしていれば、特攻に使用する機体は問題にするほどの工作は不要だった<ref>戦史叢書17巻 沖縄方面海軍作戦 136頁</ref>。練習機材の特攻装備は、[[九三式中間練習機]]、[[二式陸上中間練習機|二式中間練習機]]、[[九五式水上偵察機]]、[[零式観測機]]、[[零式練習戦闘機]]は、250キロ爆弾1発。機上作業練習機「[[白菊 (航空機)|白菊]]」、[[九四式水上偵察機]]、[[零式水上偵察機]]は、250キロ爆弾2発<ref>戦史叢書95巻 海軍航空概史 422頁</ref>。 |
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最初の神風特攻隊を編成した1944年10月20日、零戦を改修したものを利用した。改修は、もともと零戦で反跳爆撃の訓練が行われていたため、250キロ爆弾を搭載でき、爆弾発火装置を作動状態にするために風車翼螺止ピアノ線を操縦者が機上から外せるようにするだけでよく、体当たり直前に操縦者が抜ける簡単な装置であった。その後、500キロ爆弾になり、艦爆その他も特攻に使われるが、特別工作を必要とするものではなく、1945年以降も爆装さえしていれば、特攻に使用する機体は問題にするほどの工作は不要だった<ref>戦史叢書17巻 沖縄方面海軍作戦 136頁</ref>。 |
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1945年2月17日、連合艦隊はアメリカ艦隊を泊地[[ウルシー環礁|ウルシー]]で攻撃する[[丹作戦]]を命令した。攻撃部隊として、陸上攻撃機「[[銀河 (航空機)|銀河]]」を基幹とする特攻隊を編成し菊水部隊梓特別攻撃隊と命名した。銀河には、それまでの500キロ爆弾1発もしくは250キロ爆弾2発ではなく、魚雷にも匹敵する威力の800㎏爆弾が搭載された<ref>{{Harvnb|木俣滋郎|2000|pp=122-123}}</ref>。3月11日に24機の銀河が出撃したが、途中で脱落する機が続出し、1機が 正規空母[[ランドルフ (空母)|ランドルフ]]に命中したにとどまった。銀河はランドルフの飛行甲板後方に命中したため、死傷者は150名以上と人的損害は大きかったが、致命的な損傷には至らなかった <ref>{{Harvnb|戦史叢書93|1976|pp=231-232}}</ref>。 |
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艦艇を撃沈するためには、魚雷により[[喫水線]]下を攻撃するのが最も効果的であったが、特攻を開始した大戦末期には、魚雷をだいて、強力な敵戦闘機の防御網を突破して、敵艦に肉薄して雷撃を行うことができる熟練搭乗員は極度に不足しており、その代わりとして高い命中率が期待できる零戦による特攻が企画された<ref>{{Harvnb|特攻の記録|2011|loc=p.237}}</ref>。爆弾を搭載しての特攻は、雷撃に対して威力が相当に劣るため、突入方法や敵艦艇の突入目標箇所などの研究が行われている<ref>{{Harvnb|特攻の記録|2011|loc=p.250}}</ref>。 |
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日本海軍軍令部が想定していた特攻機の搭載爆弾別の威力は下記の通りであった<ref>{{Harvnb|戦史叢書17|1968|p=709}}</ref>。 |
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{| class="wikitable" |
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|+ | 特攻機の威力 |
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|- |
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!width="250"| 特攻機と搭載爆弾 |
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!width="250"| 桜花 (炸薬量1300kg) |
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!width="250"| 800kg爆弾を搭載した特攻機 |
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!width="250"| 500kg爆弾を搭載した特攻機 |
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!width="250"| 250kg爆弾を搭載した特攻機 |
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|- |
|||
| 威力点 || 5点 || 3点 || 2点 || 1点 |
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|} |
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{| class="wikitable" |
|||
|+ | 撃沈に要する威力 |
|||
|- |
|||
!width="100"| |
|||
!width="250"| 正規空母 |
|||
!width="250"| 巡改(軽)空母 |
|||
!width="250"| 護衛空母 |
|||
!width="250"| 戦 艦 |
|||
!width="250"| 巡洋艦 |
|||
|- |
|||
| 所要弾薬 || 桜花1機と800kg特攻機1機 || 桜花1機と800kg特攻機1機 || 800kg特攻機1機 || 桜花2機 || 桜花1機 |
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|- |
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| 所要威力点 || 8点 || 8点 || 3点 || 10点 || 5点 |
|||
|} |
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これは想定であり、実戦で必ずしもこの通りになったわけではないが、正規空母や軽空母を撃沈するためには、250キロ爆弾を搭載した零戦が8機以上も命中する必要があると軍令部は想定しており、事実、巡洋艦以上の大型艦艇を撃沈することはできなかった。アメリカ軍も「45隻の艦船が沈没したが、その多くは駆逐艦だった。日本は大型艦を沈めたという膨張された主張に彼等自身騙され、大型艦を沈めるにはより重量のある爆発弾頭が必要であるという技術者達の忠告を無視した」<ref name="Anesi">{{Cite web |author=Chuck Anesi |url=http://www.anesi.com/ussbs01.htm |title=United States Strategic Bombing Survey Summary Report (Pacific War) |accessdate=2016-12-22}}</ref>、「大型機を別にすれば、陸海軍機のすべては、威力不十分な爆弾を使用していた。連合軍の主力艦が自殺機によって、1隻も撃沈されなかった理由のひとつも、このあたりにあった」と総括し<ref>{{Harvnb|米国戦略爆撃調査団|1996|p=185}}</ref>と特攻機に搭載された爆弾の威力不足を指摘していた。 |
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搭載爆弾を大型化すれば、威力向上するのを日本軍も理解し様々な対策を講じたが、爆弾が大型化すればするほど特攻機の搭載重量は増え運動性は低下するため、飛行が困難になるばかりでなく敵の迎撃の好餌となってしまった。特に大重量爆弾を搭載できる双発機は、アメリカ軍の特攻対策マニュアル「Anti-Suicide Action Summary」にて「桜花母機及び、潜在的な母機となりうる双発機を最優先で攻撃すること。」と、特攻兵器[[桜花 (航空機)|桜花]]を警戒していたアメリカ軍から優先攻撃目標とされていたため<ref name="Anti-Suicide Action" />、敵艦への接近が非常に困難になっていた。 |
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これまでの戦訓により、大型爆弾を搭載した特攻機が敵の激烈な迎撃を突破することや、1隻の敵艦艇に多数の特攻機が命中するのが困難と認識した軍令部は、少数の特攻機の命中でも、大型艦に致命的打撃威力を発揮できる、画期的威力増大策の研究を行い、下記の検討を行っている<ref name="戦史叢書88p145-146">{{Harvnb|戦史叢書88|1975|pp=145-146}}</ref>。 |
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# 特攻攻撃により爆弾を敵艦船の水線下に確実に命中させる方法。 |
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# 特攻機突入時の撃速増大の方法、突撃時攻撃機の翼を切断し速力を急増し、敵の迎撃を局限すると共に撃速を増大させる([[キ115]]の開発と増産)。 |
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# [[成形炸薬弾]]頭であるV爆弾の実戦配備([[成形炸薬弾]]頭とは[[モンロー/ノイマン効果]]を利用した弾頭)。 |
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# 液体酸素、過酸化水素、黄燐等の炸裂威力助成剤を搭載し爆発威力を増大させる |
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# 旧型魚雷に過酸化水素を充填し代用爆弾とする。 |
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終戦までに具体化したものはなく、「中央当局の努力にもかかわらず終戦までに具体的に搭乗員の崇高なる特攻精神にふさわしい威力を具備した特攻機は出現しなかった。」と総括されている<ref>{{Harvnb|戦史叢書88|1975|p=145}}</ref>。 |
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[[File:Pressure bandaged after they suffered burns when their ship was hit by a kamikaze attack, men are fed aboard the USS... - NARA - 520693.jpg|thumb|230px|right|特攻により大火傷を負い、病院船ソラースで治療をうけるアメリカ軍兵士]] |
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搭載爆弾の威力不足問題は解消できなかったが、特攻機の機体そのものが兵器になり、効果を増大させていた。[[第6航空軍 (日本軍)|第6航空軍]]の高級参謀は「特攻は(通常攻撃より)効果が大きい、その理由は爆弾の衝撃が飛行機の衝突によって増加され、またガソリンの爆発で火災が起きる。さらに、適切な角度で行えば通常の爆撃よりもスピードが大きく、命中率が高くなる」と分析していた<ref>{{Harvnb|米国戦略爆撃調査団|1996|pp=176-177}}</ref>。 |
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特攻機の航空燃料で生じる激しい火災により、アメリカ軍の被害艦では重篤な火傷を負った負傷者が多かった<ref>{{Harvnb|モリソン|2003|p=429}}</ref>。航空燃料による火傷の他に、特攻機や搭載爆弾の爆発で生じる[[閃光]]による閃光火傷を負う負傷者も多かった<ref>{{Harvnb|フェーイー|1994|p=276}}</ref>。死傷者の増大に悩まされたアメリカ軍は、『Combating suicide plane attacks』という兵士向けのニュース映画を作成して「一か所に大人数で集まることを禁止」「全兵員が長袖の軍服を着用し袖や襟のボタンをしっかりとめる、顔など露出部には火傷防止クリームを塗布する」「全兵員のヘルメット着用義務化」「対空戦闘要員以外はうつ伏せになる」など事細かに特攻による兵員の死傷の防止策を指導していた<ref>United States Navy ACTION REPORT FILM CONFIDENTIAL 1945 MN5863 『Combating suicide plane attacks』1945年アメリカ海軍航空局作成</ref> |
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=== 攻撃方法 === |
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[[File:USS Enterprise (CV-6) hit by kamikaze 1945.jpg|thumb|300px|right|[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]に富安俊助中尉が搭乗する零戦が突入した瞬間、爆発の先端に吹き飛んでいるのがエレベーター]] |
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海軍航空隊は特攻機による接敵法として「高高度接敵法」と「低高度接敵法」を訓練していた<ref>{{Harvnb|中島正|猪口力平|1984|loc=pp.106, 110}}</ref>。 |
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:高高度接敵法 |
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:: 高度6,000m - 7,000mで敵艦隊に接近する。敵艦を発見しにくくなるが、爆弾を搭載して運動性が落ちている特攻機は敵戦闘機による迎撃が死活問題であり、高高度なら敵戦闘機が上昇してくるまで時間がかかること、また高高度では空気が希薄になり、敵戦闘機のパイロットの視力や判断力も低下し空戦能力が低下するため、戦闘機の攻撃を回避できる可能性が高まった。しかし敵のレーダーからは容易に発見されてしまう難点はあった。 |
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:: 敵艦を発見したら、まず20度以下の浅い速度で近づいた。いきなり急降下すると身体が浮いて操縦が難しくなったり、過速となり舵が効かなくなる危険性があった<ref>{{Harvnb|中島正|猪口力平|1984|p=106}}</ref>。敵艦に接近したら高度1,000m - 2,000mを突撃点とし、艦船の致命部を照準にして角度35度 - 55度で急降下すると徹底された。艦船の致命部というのは空母なら前部リフト、戦闘艦なら艦橋もしくは船首から長さ{{分数|1|3}}くらいの箇所であったが、これは艦船に甚大な損傷を与えられるだけでなく、攻撃を避けようと旋回しようとする艦船は、転心<ref group="注">船が回頭する際の軸。前進中ならば船首から船の重心までの距離の約{{分数|1|3}}にあたる</ref>を軸にして回るため、その転心が一番動きが少ない安定した照準点とされた<ref>{{Harvnb|特攻の記録|2011|loc=pp.360, 363 表3・表4}}</ref>。 |
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:低高度接敵法 |
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:: 超低高度(10m - 15m)で海面をはうように敵艦隊に接近する。レーダー及び上空からの視認で発見が困難となるが、高度な操縦技術が必要であった。敵に近づくと敵艦の直前で高度400m - 500mに上昇し、高高度接敵法の時より深い角度で敵艦の致命部に体当たりを目指す。突入角度が深ければ効果も大きいため、技量や状況が許すならこちらの戦法が推奨された。<ref name="中島猪口p108">{{Harvnb|中島正|猪口力平|1984|p=108}}</ref> |
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複数の部隊で攻撃する場合は「高高度接敵法」と「低高度接敵法」を併用し、敵の迎撃の分散を図った。他にも特攻対策の中心的存在であった連合国軍のレーダーを欺瞞する為に、錫箔を貼った模造紙(電探紙、今で言う[[チャフ]])をばら撒いたり、レーダー欺瞞隊と制空部隊ら支援隊と特攻機隊が、別方向から敵艦隊に突入する「時間差攻撃」を行ったり<ref>{{Harvnb|特攻の記録|2011|p=372}}</ref>という戦法などで対抗している<ref>{{Harvnb|冨永|安延|1972|p=48}}</ref>。 |
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海軍航空隊における特攻の教育日程は、発進訓練(発動、離陸、集合)2日、編隊訓練2日、接敵突撃訓練3日を基本に、時間に応じこの日程を反復していた<ref name="中島猪口p108" />。 |
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特攻に主に使われた零戦は、もともと空戦用にできているため急降下すると機首が浮き上がり、速度で舵も鈍くなるため正確に突入するのが困難という意見もあり<ref>{{Harvnb|神立尚紀|2004|p=193}}</ref>、沖縄戦時の菊水作戦中に第5航空艦隊参謀に就任していた中島正中佐が出撃する特攻隊員に「ダイブ(急降下)角は45度」という訓示をしているが、中島の訓示の後に[[第七二一海軍航空隊]]の林富士夫大尉が「中島中佐は自分が飛ばないからわからない。高い角度のダイブで突入することは不可能で、せいぜい20~30度である。突入は舷側を狙え」と中島の指示を訂正している<ref>{{Harvnb|神立尚紀|2015|p=321}}</ref>。 |
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突入角度が浅いと、特攻機の爆弾が敵艦を貫通しないケースも少なからずあった。特攻の戦果確認機からの過大戦果報告に疑念を感じていた[[軍令部]]次長大西が、[[海軍航空技術廠|第一航空技術廠]]長の多田力三中将に特攻の効果についての実験を要請している。その要請を受けて、第一航空技術廠と[[横須賀海軍航空隊]]は1945年5月に協同で、250kg爆弾を搭載した無人の零戦をカタパルトで射出し、様々な角度で鋼板に衝突させる実験を行った。その結果、30度以上の角度では爆弾も機体も鋼板を貫通するが、30度未満の角度では鋼板の上を滑って機体も爆弾も跳躍してしまうことが判明した。この実験結果を見て大西は、搭乗員の心理作用で突入角度が浅くなって、結果的に特攻機が敵艦を貫通できないケースがあることを認識している<ref>{{Harvnb|日本海軍航空史1|1969|p=489}}</ref>。 |
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しかし、沖縄戦で富安俊助中尉が搭乗する零戦が空母エンタープライズを大破させたときの最終突入確度は50度に達しており、深い角度で突入した事例もある<ref>{{Harvnb|菅原|2015|p=255}}</ref>。一方で、フィリピンにおいて護衛空母のセント・ローに命中した敷島隊の零戦は、まるで着艦でもする様な高度(30m)で接近してきてそのまま時速480km/hで浅い角度で体当たりしたが<ref>Dogfights - Episode 12: Kamikaze (History Documentary)セント・ローの乗組員(電気技師)オービル・ビサード証言</ref>、搭載爆弾は甲板を貫通、格納庫で爆発し、燃料や弾薬を誘爆させ合計7回の爆発を経たのちに、特攻機命中からわずか32分後に爆沈したように<ref>{{Cite web |url=http://www.dondennisfamily.com/USS_St_Lo/samar/actionreport9.html |title=Battle off Samar - Action Report |language=英語 |accessdate=2018-09-06}}</ref>、突入角度が浅くとも敵艦に深刻な損害を与えた事例も多い。 |
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=== 練習機や水上偵察機による特攻 === |
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[[File:95&94suitei.jpg|thumb|270px|right|特攻に投入された水上偵察機、手前[[九五式水上偵察機]]、奥[[九四式水上偵察機]]。]] |
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大戦末期には、それまでの戦闘による消耗で特攻に投入できる機体が枯渇しており、練習機や[[水上機|水上]][[偵察機]]も特攻に投入された。[[九三式中間練習機]]、[[二式陸上中間練習機|二式中間練習機]]、[[九五式水上偵察機]]、[[零式観測機]]、[[零式練習戦闘機]]は、250キロ爆弾1発。機上作業練習機「[[白菊 (航空機)|白菊]]」、[[九四式水上偵察機]]、[[零式水上偵察機]]は、250キロ爆弾2発を搭載して特攻に出撃した<ref>戦史叢書95巻 海軍航空概史 422頁</ref>。 |
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[[菊水作戦#菊水七号作戦|菊水七号作戦]]中の1945年(昭和20年)5月24日の夜間に初の白菊特攻隊、第一次白菊隊14機が[[串良町|串良]]の航空基地から出撃した。故障や不時着の3機を除き11機が未帰還となったが、一部が敵艦隊に到達している。[[沖縄戦]]で特攻を指揮した[[航空艦隊|第5航空艦隊]]司令部はアメリカ軍の無電を傍受しており、「時速160㎞~170㎞の日本軍機に追尾されている。」というアメリカ軍の[[駆逐艦]]の無電を聞いた一人の幕僚が、「駆逐艦の方がのろい白菊を追いかけているんだろう。」と笑う有様で<ref>{{Harvnb|島原落穂|1990|p=23}}</ref>、第5航空艦隊司令官[[宇垣纏]]中将も「夜間は兎も角昼間敵戦闘機に会して一たまりもなき情なき事なり(中略)数あれど之に大なる期待はかけ難し。」と白菊特攻について厳しい評価を下し、夜間や[[黎明]]に限定して投入することとしている<ref>{{Harvnb|宇垣|1953b|p=244}}</ref> |
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しかし、軍による低い期待とは裏腹に練習機や偵察機の特攻は戦果を挙げており、アメリカ軍側の記録により確認できる戦果だけでも、1945年5月4日には、[[九四式水上偵察機]]が[[F4U (航空機)|F4Uコルセア]]の迎撃を巧みにかわすと、{{仮リンク|モリソン(駆逐艦)|en|USS Morrison (DD-560)}}の[[航跡]]の上に一旦着水、航跡の上を滑走しながらモリソンを追尾し、離水するとそのまま超低空で砲塔に突入して火薬庫を誘爆させた。モリソンは8分間で轟沈し<ref>{{Harvnb|米国陸軍省|1997|p=313}}</ref>死傷者255名にも上り、無事だったのは、誘爆で海中に投げ出された71名に過ぎなかった<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982b|p=134}}</ref>。 |
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1945年5月27日の[[海軍記念日]]に出撃させる特攻機が枯渇していた海軍は、やむなく白菊を出撃させた。この日、鹿屋基地に第五航空艦隊司令部付将校として配属されていた[[野原一夫]]少尉は、通信室でアメリカ軍の無電を傍受していたが、やがてアメリカ軍駆逐艦や警備艇が「海面すれすれの、30mぐらいの低空に奇妙な物体がいくつか見える」「飛行機にしてはあまりにスピードがスローである。何だろう、爆音が聞こえてきた。やはり飛行機かもしれない」「太った雌鶏が空を飛んでいる。あれは[[ボギー]](敵機)だ」「ボギーにしてはスピードが遅すぎる、先日も飛んできた。ボギーに間違いない」という無電を発したのを聞いている<ref>{{Harvnb|野原一夫|1987|p=226}}</ref>。この白菊隊は、雨雲を抜けると駆逐艦[[ドレクスラー (駆逐艦)|ドレクスラー]]に突入した。ドレクスラーの乗組員からは、接近してくる白菊は時代遅れの練習機には見えず、操縦しているのも、経験を十分積んだ熟練パイロットのように見えたという<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982b|p=178}}</ref>。白菊のうち1機は、ドレクスラーの艦後部に突入してボイラー室と機械室を破壊し、航行不能に陥らせた<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982b|p=178}}</ref>。 |
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このときドレクスラーが発したと思われる「甲板上大火災」「至急救援たのむ」という無電を傍受した通信室の野原ら将校は「突っ込んだんだ、白菊が。白菊だ。やったぞ」と歓喜している<ref>{{Harvnb|野原一夫|1987|p=227}}</ref>。この後、ドレクスラーにはもう1機の白菊も突入し、たちまち転覆して沈没した。あまりに沈没が早かったため、乗組員158名が死亡、艦長を含む52名が負傷した<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982b|p=179}}</ref>。その後も、1945年6月21日に輸送駆逐艦(高速輸送艦)[[バリー (DD-248)|バリー]] と[[LSM-1級中型揚陸艦]] LSM-59の合計3隻を撃沈し<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982b|p=186}}</ref>、1945年(昭和20年)5月29日に{{仮リンク|シュブリック(駆逐艦) |en|USSShubrick (DD-639)}}<ref group="注">シュブリックに突入した機体の機種は公式記録上は不明であるが、シュブリックが特攻された時間、5月29日0:13に沖縄に突入した航空機は、28日19:13から夜間出撃した第三次白菊隊11機以外になく(白菊は沖縄到達まで約5時間の飛行時間)白菊の戦果と推定される</ref><ref>{{Harvnb|島原落穂|1990|p=83}}</ref><ref>{{Harvnb|原|2006|p=238}}</ref>、1945年(昭和20年)6月21日に中型揚陸艦LSM-213の2隻を大破させ<ref>{{Harvnb|丸スペシャル 神風特別攻撃隊|1986|p=59}}</ref>、その後両艦は修理が断念されて、[[スクラップ]]となった<ref>{{cite web|url=http://ussshubrick.com/okinawa.htm|title=USS SHUBRICK DD-639 Personal War Diary|accessdate=2017-10-14}}</ref>。 |
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終戦直前の7月29日に93式中間練習機7機で編成された「第3龍虎隊」が[[宮古島]]から出撃、「第3龍虎隊」は2日に渡って[[レーダーピケット艦]]を攻撃し、突入した7機で駆逐艦 [[キャラハン (駆逐艦)|キャラハン]]を撃沈し、{{仮リンク|カシンヤング(駆逐艦) |en|USS Cassin Young (DD-793)}}を大破させて、{{仮リンク|プリチェット(駆逐艦) |en|USS Prichett (DD-561)}}と{{仮リンク|ホラス・A・バス(輸送駆逐艦)|en|USS Horace A. Bass (APD-124)}}を損傷させた。この4艦で74名の戦死者と133名の負傷者が生じた<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982b|p=195}}</ref>。 |
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わずか7機の93式中間練習機に痛撃を被ったアメリカ軍は、練習機での特攻を脅威と認識、効果が大きかった要因を以下のように分析し、高速の新鋭機による特攻と同等以上の警戒を呼び掛けている<ref name="Anti-Suicide Action">{{Cite web |author=アメリカ合衆国海軍司令部 |url=http://www.history.navy.mil/research/library/online-reading-room/title-list-alphabetically/a/anti-suicide-action-summary.html |title=Anti-Suicide Action Summary |publisher=[[アメリカ海軍]]公式ウェブサイト |language=英語 |accessdate=2018-12-31}}</ref> |
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神風特攻隊に使われた零戦はもともと空戦用にできているため急降下すると機首が浮き上がり、速度で舵も鈍くなるため正確に突入するのは難しかった<ref>神立尚紀『戦士の肖像』文春ネスコ193</ref>。沖縄戦の戦訓として、当時の日本海軍は航空特攻の予期命中率について対機動部隊に対しては9分の1、対上陸船団に対しては6分の1と判断していた<ref>戦史叢書88巻 海軍軍戦備(2)開戦以後 141-142頁</ref>。 |
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* 木製や布製でありレーダーで探知できる距離が短い。 |
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* [[近接信管]]が作動しにくい(通常の機体なら半径100フィート(約30m)で作動するが、93式中間練習機では30フィート(約9m)でしか作動しない)。 |
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* 対空火器の[[エリコンFF 20 mm 機関砲|Mk.IV]]20㎜機関砲は、エンジンやタンクといった金属部分に命中しないと信管が作動せずに貫通してしまい効果が薄い。ただし、[[ボフォース 40mm機関砲]]は木造部分や羽布張り部分でも有効であった。 |
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* 非常に機動性が高く、巧みに操縦されていた。 |
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アメリカ側は練習機や水上偵察機や[[九九式艦上爆撃機]]の様に、通常攻撃ではアメリカ軍艦艇に打撃を与えることが不可能となっていた、低速機、複葉機、旧式機などが、特攻では戦果を挙げていることを見て「特攻は、複葉機や九九式艦上爆撃機のような固定脚の時代遅れの航空機でも作戦に使用できるという付随的な利点があった」と評価している<ref>{{Harvnb|モリソン|2003|p=429}}</ref>。 |
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神風特攻隊の目標は、最初の隊は敵空母の使用不能を目標として1944年10月27日に目標を達成したが、[[レイテ島]]付近で戦闘が続いたため、目標を敵主要艦船に広げて、1945年1月下旬には全ての敵艦船が目標になった<ref>千早正隆ほか『日本海軍の功罪 五人の佐官が語る歴史の教訓』プレジデント社280-281頁</ref>。 |
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== 神風特攻隊の一覧 == |
== 神風特攻隊の一覧 == |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C16120723000|title=特攻作戦(海軍の部)資料 昭和22.10/(3)海上特攻作戦|ref=海上特攻}} |
**{{Cite book|和書|id=Ref.C16120723000|title=特攻作戦(海軍の部)資料 昭和22.10/(3)海上特攻作戦|ref=海上特攻}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C16120723100|title=特攻作戦(海軍の部)資料 昭和22.10/(5)特攻の成果|ref=特攻成果}} |
**{{Cite book|和書|id=Ref.C16120723100|title=特攻作戦(海軍の部)資料 昭和22.10/(5)特攻の成果|ref=特攻成果}} |
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* 猪口力平 |
* {{Cite book |和書 |author=[[猪口力平]] |author2=[[中島正]] |year=1951 |title=神風特別攻撃隊 |publisher=日本出版協同 |asin=B000JBADFW|ref={{SfnRef|猪口|中島|1951}}}} |
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* {{Cite book|和書|author=[[宇垣纏]]|year=1953|title=戦藻録後編|publisher=日本出版協同 |asin=B000JBADFW|ref={{SfnRef|宇垣纏|1953}} }} |
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* {{Cite book |和書 |author=[[草鹿龍之介]] |year=1979 |title=連合艦隊参謀長の回想 |publisher=光和堂 |isbn=4875380399 |ref={{SfnRef|草鹿龍之介|1979}}}} |
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* {{Cite book|和書|author=[[八原博通]]|title=沖縄決戦 高級参謀の手記|publisher=読売新聞社・中公文庫|date=1972・2015|ref={{SfnRef|八原博通|1972・2015}} }} |
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* {{Cite book |和書 |last=上野|first=文枝 |year=2017 |chapter=神風 |title=日本大百科全書(ニッポニカ) |publisher=[[小学館]]・Kotobank |url= https://kotobank.jp/word/%E7%A5%9E%E9%A2%A8-466369#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 |ref=harv }} |
* {{Cite book |和書 |last=上野|first=文枝 |year=2017 |chapter=神風 |title=日本大百科全書(ニッポニカ) |publisher=[[小学館]]・Kotobank |url= https://kotobank.jp/word/%E7%A5%9E%E9%A2%A8-466369#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 |ref=harv }} |
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* {{Cite book |和書 |author=株式会社日立ソリューションズ・クリエイト |year=2017 |chapter=神風特別攻撃隊 |title=百科事典マイペディア|publisher=株式会社日立ソリューションズ・クリエイト・Kotobank |url=https://kotobank.jp/word/%E7%A5%9E%E9%A2%A8%E7%89%B9%E5%88%A5%E6%94%BB%E6%92%83%E9%9A%8A-46629#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2 |ref=harv }} |
* {{Cite book |和書 |author=株式会社日立ソリューションズ・クリエイト |year=2017 |chapter=神風特別攻撃隊 |title=百科事典マイペディア|publisher=株式会社日立ソリューションズ・クリエイト・Kotobank |url=https://kotobank.jp/word/%E7%A5%9E%E9%A2%A8%E7%89%B9%E5%88%A5%E6%94%BB%E6%92%83%E9%9A%8A-46629#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2 |ref=harv }} |
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* {{cite book|和書|author =国史大辞典編集委員会|chapter=神風特別攻撃隊|title=国史大辞典|year=2013|volume =三巻|edition=第一版第八刷|isbn=978-4-642-00503-6|ref =harv }} |
* {{cite book|和書|author =国史大辞典編集委員会|chapter=神風特別攻撃隊|title=国史大辞典|year=2013|volume =三巻|edition=第一版第八刷|isbn=978-4-642-00503-6|ref =harv }} |
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*<!-- ジョウ -->{{Cite book|和書|author=城英一郎著|editor=野村実・編|year=1982|month=2|chapter=|title={{smaller|侍従武官}} 城英一郎日記|publisher=山川出版社|series=近代日本史料選書|isbn=|ref=城日記}} |
*<!-- ジョウ -->{{Cite book|和書|author=城英一郎著|editor=野村実・編|year=1982|month=2|chapter=|title={{smaller|侍従武官}} 城英一郎日記|publisher=山川出版社|series=近代日本史料選書|isbn=|ref=城日記}} |
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* 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 |
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* 戦史叢書56 海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 |
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* {{Cite book |和書 |last=松村|first=明 |year=2017 |chapter=特攻隊 |title=デジタル大辞泉 |publisher=[[小学館]]・Kotobank |url=https://kotobank.jp/word/%E7%89%B9%E6%94%BB%E9%9A%8A-105377#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 |ref=harv }} |
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* {{Cite book |和書 |editor=防衛庁防衛研修所戦史室 編 |year=1968 |title=沖縄方面海軍作戦 |publisher=[[朝雲新聞|朝雲新聞社]] |series=[[戦史叢書]]17 |ref={{SfnRef|戦史叢書17|1968}} }} |
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* {{Cite book |和書 |editor=海軍兵学校連合クラス会 編 |year=2018|title=実録海軍兵学校 回想のネービーブルー |publisher=光人社 |series=光人社NF文庫 |isbn=978-4769830689 |ref={{SfnRef|海軍兵学校連合クラス会|2018}} }} |
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* {{Cite book |和書 |author=冨永謙吾 |author2=安延多計夫 |year=1972 |title=神風特攻隊 壮烈な体あたり作戦 |publisher=秋田書店 |asin=B000JBQ7K2 |ref={{SfnRef|冨永|安延|1972}} }} |
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* {{Cite book |和書 |author=本田稔 |year=2004|title=私はラバウルの撃墜王だった―証言・昭和の戦争 |publisher=光人社 |series=光人社NF文庫 |isbn=978-4769820901 |ref={{SfnRef|本田稔|2004}} }} |
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* {{Cite book |和書 |author=陰山慶一|year=1987|title=海軍飛行科予備学生よもやま物語 |publisher=光人社 |isbn=978-4769803485 |ref={{SfnRef|陰山慶一|1987}} }} |
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* {{Cite book |和書 |author=[[木俣滋郎]] |year=1993 |title=日本潜水艦戦史 |publisher=図書出版社 |isbn=4809901785 |ref=harv}} |
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* {{Cite book |和書 |author=木俣滋郎 |year=2001 |title=桜花特攻隊 知られざる人間爆弾の悲劇 |publisher=光人社 |series=光人社NF文庫 |isbn=4769823169 |ref=harv}} |
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* {{Cite book |和書 |author=木俣滋郎 |year=2000 |title=高速爆撃機「銀河」 |ublisher=光人社 |series=光人社NF文庫|isbn=978-4769822684 |ref={{SfnRef|木俣滋郎|2000}}}} |
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* {{Cite book |和書 |author=桑原敬一 |year=2006 |title=語られざる特攻基地・串良 生還した「特攻」隊員の告白 |publisher=文藝春秋 |series=文春文庫 |isbn=4167717026 |ref=harv}} |
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* {{Cite book |和書 |author=渡辺洋二 |year=2003 |title=彗星夜襲隊 特攻拒否の異色集団 |publisher=光人社 |series=光人社NF文庫 |isbn=4769824041 |ref={{SfnRef|渡辺洋二|2003}}}} |
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* {{Cite book |和書 |author=[[城山三郎]] |year=2004 |title=指揮官たちの特攻: 幸福は花びらのごとく |publisher=新潮社 |isbn=978-4101133287 |ref={{SfnRef|城山三郎|2004}}}} |
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* {{Cite book |和書 |author=[[野原一夫]] |year=1987 |title=宇垣特攻軍団の最期 |publisher=講談社|isbn=978-4062026086 |ref={{SfnRef|野原一夫|1987}}}} |
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* {{Cite book |和書 |author=[[草柳大蔵]] |year=2006 |title=特攻の思想―大西瀧治郎伝 |publisher=グラフ社|isbn=978-4766209532 |ref={{SfnRef|草柳大蔵|2006}}}} |
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* {{Cite book |和書 |author=森山康平 |author2=太平洋戦争研究会(編) |year=2003 |title=図説 特攻 太平洋戦争の戦場 |publisher=河出書房新社 |series=ふくろうの本 |isbn=4309760341 |ref={{SfnRef|図説特攻|2003}} }} |
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* {{Cite book |和書 |author=[[大島隆之]] |year=2016|title=特攻 なぜ拡大したのか|publisher=[[幻冬舎]]|isbn=978-4344029699|ref={{SfnRef|大島隆之|2016}} }} |
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* {{Cite book |和書 |author=[[土門周平]] |year=2015 |title=本土決戦―幻の防衛作戦と米軍進攻計画 |publisher=潮書房光人社 |series=光人社NF文庫 |isbn=978-4769829096|ref={{SfnRef|土門周平|2015}} }} |
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* {{Cite book |和書 |author=[[島原落穂]] |year=1990 |title=海に消えた56人―海軍特攻隊・徳島白菊隊 |publisher=童心社 |isbn=4494018147 |ref={{SfnRef|島原落穂|1990}} }} |
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*{{Cite book|和書|author=境克彦|year=2017|title=特攻セズー美濃部正の生涯 |publisher=方丈社 |isbn=978-4908925160|ref={{SfnRef|境克彦|2017}} }} |
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* {{Cite book|和書|author=生出寿|year=2017|title=特攻長官 大西瀧治郎―負けて目ざめる道|publisher=潮書房光人社 |series=光人社NF文庫|isbn=978-4769830320|ref={{SfnRef|生出寿|2017}} }} |
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* {{Cite book |和書 |author=吉本貞昭 |year=2012 |title=世界が語る神風特別攻撃隊 カミカゼはなぜ世界で尊敬されるのか |publisher=ハート出版 |isbn=4892959111 |ref=harv}} |
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* {{Cite book |和書 |author=加藤浩 |year=2009 |title=神雷部隊始末記 人間爆弾「桜花」特攻全記録 |publisher=[[学研プラス|学研パブリッシング]] |isbn=4054042023 |ref=harv}} |
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* {{Cite book |和書 |author=[[原勝洋]] |year=2004 |title=真相・カミカゼ特攻 必死必中の300日 |publisher=[[ベストセラーズ]] |isbn=4584187991 |ref=harv}} |
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* {{Cite book |和書 |author=吉本貞昭 |year=2012 |title=世界が語る神風特別攻撃隊 カミカゼはなぜ世界で尊敬されるのか |publisher=ハート出版 |isbn=4892959111 |ref={{SfnRef|吉本貞昭|2012}}}} |
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* {{Cite book |和書 |author=[[ダグラス・マッカーサー]] |others=津島一夫(訳) |year=2014 |title=マッカーサー大戦回顧録 |publisher=中央公論新社 |isbn=978-4122059771 |ref={{SfnRef|マッカーサー|2014}} }} |
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* {{Cite book |和書 |author=リチャード オネール |others=[[益田 善雄]](訳) |year=1988 |title=特別攻撃隊―神風SUICIDE SQUADS |publisher=霞出版社 |isbn=978-4876022045 |ref={{SfnRef|オネール|1988}} }} |
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* {{Cite book |和書 |author=デニス・ウォーナー |year=1982a |title=ドキュメント神風 |volume=上 |publisher=時事通信社 |asin=B000J7NKMO |ref={{SfnRef|ウォーナー|1982a}} }} |
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* {{Cite book |和書 |author=ハンソン・ボールドウィン |others=[[木村忠雄]](訳) |year=1967 |title=勝利と敗北 第二次世界大戦の記録 |publisher=朝日新聞社 |asin=B000JA83Y6 |ref={{SfnRef|ボールドウィン|1967}} }} |
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* {{Cite book |和書 |author=ジェームス・H. ハラス |year=2010 |title=沖縄シュガーローフの戦い 米海兵隊地獄の7日間 |publisher=光人社 |series=光人社NF文庫 |isbn=4769826532 |ref={{SfnRef|ハラス|2010}} }} |
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* {{Cite book |和書 |author=チェスター・マーシャル |others=高木晃治(訳) |year=2001 |title=B-29日本爆撃30回の実録―第2次世界大戦で東京大空襲に携わった米軍パイロットの実戦日記 |publisher=[[ネコパブリッシング]] |isbn=978-4873662350 |ref={{SfnRef|マーシャル|2001}} }} |
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* {{Cite book |和書 |author=マクスウェル・テイラー・ケネディ |others=中村有以(訳) |year=2010 |title=『特攻 空母バンカーヒルと二人のカミカゼ |publisher=ハート出版 |isbn=978-4-89295-651-5 |ref={{SfnRef|ケネディ|2010}} }} |
|||
* {{Cite book |和書 |author=カール・バーガー |others=中野 五郎(訳) |year=1971 |title=B29―日本本土の大爆撃 |publisher=サンケイ新聞社出版局 |series=第二次世界大戦ブックス 4 |asin=B000J9GF8I |ref={{SfnRef|カール・バーカー|1971}} }} |
|||
* {{Cite book |和書 |author=トーマス・アレン |author2=ノーマン・ボーマー |others=栗山洋児(訳) |year=1995 |title=日本殲滅 日本本土侵攻作戦の全貌 |publisher=光人社 |isbn=4769807236 |ref={{SfnRef|アレン|ボーマー|1995}} }} |
|||
*{{Citation|和書|author1=ジェフリー・ペレット|author2=林義勝, 寺澤由紀子, 金澤宏明, 武井望, 藤田怜史 訳|title=ダグラス・マッカーサーの生涯 老兵は死なず|year=2016|publisher=鳥影社|ref={{SfnRef|ペレット|2014}}|isbn=9784862655288}} |
|||
* {{Cite book |last=Christopher |first=John |year=2013 |title=The Race for Hitler's X-Planes: Britain's 1945 Mission to Capture Secret Luftwaffe Technology |publisher=Spellmount Ltd Pub |isbn=0752464574 |ref=harv}} |
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* {{Cite book |last=Diamond |first=Jon |year=2015 |title=The Fall of Malaya and Singapore: Rare Photographs from Wartime Archives |publisher=Pen and Sword Militar |isbn=978-1473845589 |ref=harv}} |
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* {{Cite book |last=Kalosky |first=Harold |year=2006 |title=Harm's Way-Every Day: The Book of a Destroyer (Tin Can) at Okinawa |publisher=Publishamerica |isbn=1424100313 |ref=harv}} |
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* {{Cite book |last=Rielly |first=Robin L. |year=2010 |title=KAMIKAZE ATTACKS of WORLD WAR II |publisher=Mcfarland |isbn=0786446544 |ref=harv}} |
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* {{Cite book |last=Silverstone |first=Paul |year=2007 |title=The Navy of World War II, 1922-1947 |publisher=Routledge |isbn=041597898X |ref=harv}} |
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* {{Cite book |last=Smith |first=Peter C. |year=2015 |title=Kamikaze: To Die for the Emperor |publisher=Pen & Sword |isbn=1781593132 |ref=harv}} |
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* {{Cite book |last=Stafford |first=Edward P. |year=2002 |title=The Big E The Story of the USS Enterprise |publisher=Naval Institute Press |series=BLUEJACKET BOOKS |isbn=1557509980 |ref=harv}} |
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* {{Cite book |editor=Turner Publishing |year=1999 |title=USS Wasp |volume=Vol. II |publisher=Turner |isbn=1563114046 |ref={{SfnRef|Wasp|1999}} }} |
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* {{Cite book |last=Walker |first=J. Samuel |year=2009 |title=Prompt and Utter Destruction: Truman and the Use of Atomic Bombs Against Japan |edition=Easyread Super Large 20pt Edition |isbn=1442994770 |ref=harv}} |
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* {{Cite book |last=Young |first=Edward M. |last2=Styling |first2=Mark |year=2012 |title=American Aces Against the Kamikaze |publisher=Osprey Publishing |isbn=1849087458 |ref=harv}} |
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* {{Cite book |last=Zaloga |first=Steven J. |year=2011 |title=Kamikaze: Japanese Special Attack Weapons 1944-45 |publisher=Osprey Publishing |isbn=1849083533 |ref=harv}} |
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* {{Cite book |last=Bull |first=Stephen |year=2008 |title=Infantry Tactics of the Second World War (General Military) |publisher=Osprey Publishing |isbn=1846032820 |ref=harv}} |
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* {{Cite book |last=Atkins |first=Dick |year=2006 |title=American Sailor Serves His Country |publisher=Xulon Press |isbn=1600343260 |ref=harv}} |
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* {{Cite book |last=Alexander |first=Joseph H. |year=1996 |title=The Final Campaign: Marines in the Victory on Okinawa |publisher=Diane Pub Co |isbn=0788135287 |ref=harv}} |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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* [[城英一郎]] |
* [[城英一郎]] |
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* [[関行男]] - 特攻第1号とされる敷島隊隊長。 |
* [[関行男]] - 特攻第1号とされる敷島隊隊長。 |
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* [[芙蓉部隊]] - |
* [[芙蓉部隊]] -指揮官の[[美濃部正]]が特攻を拒否したとされている[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の飛行隊。 |
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* [[オリヴィエ・ジェルマントマ]] |
* [[オリヴィエ・ジェルマントマ]] |
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*自爆テロ - 世界中で「KAMIKAZE」と訳され、世界共通語となっている |
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{{太平洋戦争・詳細}} |
{{太平洋戦争・詳細}} |
2019年1月30日 (水) 22:21時点における版
神風特別攻撃隊(かみかぜとくべつこうげきたい[1]、しんぷうとくべつこうげきたい[2])は、第二次大戦で大日本帝国海軍が体当たり戦法のため編制した、特別攻撃隊[3]。略称は「神風」、「神風特攻隊」[4]、「特攻隊」[1]。大日本帝国陸軍の航空機による艦船に対する特別攻撃隊は当初は通称はなかったが、のちに特攻隊の略号「と」をとってと號部隊と呼称された[5]。
概要
飛行機に爆装して体当たりした「航空特攻」と、特殊潜航艇や人間魚雷などの「海上特攻」とがあった[3]。
「神風」は猪口力平が名付けた「しんぷう」が正式な読み方であるが、当時のニュース映画が誤って「かみかぜ」と読み上映したことで「かみかぜ」が定着した[2]。
歴史
創設まで
日本海軍の航空機による体当たり戦術は、太平洋戦争および神風特攻隊の創設以前に、日本海軍航空隊の草分けである山本五十六が言及していた[6]。
1924年(大正13年)9月1日、山本五十六海軍大佐は霞ヶ浦海軍航空隊附となる[7](山本は大正13年12月1日より同隊副長。大正14年12月1日、転任)[8][9]。 この時、太平洋戦争における神風特攻隊を実施した大西瀧治郎少佐(同隊に大正14年1月7日〜15年2月1日まで配属)[10][11]と城英一郎大尉(同隊に大正12年2月10日〜昭和2年11月15日まで生徒・教官時代含め所在)も霞ヶ浦海軍航空隊に所属しており、山本・大西・城は親密な関係になった[12]。城英一郎は1926年(大正15年)8月20日に結婚したが、これにより山本栄少佐(同隊に大正11年12月〜15年5月まで配属)の義弟となった[12]。後年、山本栄は神風特別攻撃隊が出撃した第二〇一海軍航空隊司令となった[12]。
1931年(昭和6年)12月1日、城英一郎少佐は海軍大学校卒業時の作業答案を山本五十六少将(海軍航空本部技術部長)に提示、将来の航空機について山本の意見を聞く[13]。この時に2人は「最後の手は、肉弾体当たり、操縦者のみにて爆弾搭載射出」として航空機の体当たり戦術を検討した[13][14]。
1934年(昭和9年)、第二次ロンドン海軍軍縮会議予備交渉に参加した山本五十六少将は[15]、新聞記者に対し「僕が海軍にいる間は、飛行機の体当たり戦術を断行する」「艦長が艦と運命を共にするなら、飛行機も同じだ」と語ったという[16][6]。
1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争勃発後、ミッドウェー海戦やガダルカナル島の戦いを経て戦況は悪化した。1943年(昭和18年)春、日本軍はB-29型超重爆の開発情報を掴み「B-29対策委員会」を設置した[17]。4月17日、東條英機陸軍大臣は局長会議で敵超重爆や防空の心構えについて語った際「一機対一機の体当たりで行く」「海軍ではすでに空母に対し体当たりでゆくよう研究訓練している」と述べ、特攻精神を強調している[17]。 翌4月18日、い号作戦にともないソロモン諸島を視察中の山本五十六大将(連合艦隊司令長官)は[18]、海軍甲事件で戦死した[19][20]。 同年6月5日、城英一郎大佐(昭和天皇侍従武官)は、特別縁故者として山本元帥の葬儀に参列[21][14]。かつて山本と『航空機体当たり』を検討した事を回想する[21][14]。6月22日、城は自らを指揮官とする特殊攻撃隊の構想をまとめる[21][22]。投入予定海域はソロモン諸島およびニューギニア方面で、敵大型艦(戦艦、空母)は大破、特設空母(軽空母)や巡洋艦は大破または撃沈、駆逐艦や輸送船は撃沈を期待というものだった[23]。 6月29日、城は、特殊航空隊の構想を海軍航空本部総務部長大西瀧治郎中将に説明した[21][24]。数回の意見具申に対し大西は「(意見は)了解したがまだその時期ではない」と返答し、全幅の賛同を示さなかった[25][26][27]。 ニュージョージア島の戦い勃発により戦局が悪化する中、城は「特殊航空隊の緊急必要」を痛感する[28]。「上司としても計画的に実行するには相当の考慮が必要である。自身としては黙認が得られて、航空機と操縦者が得られれば実行可能であり、転出して実行の機会を待つ」の心境であり[21][27]、その後も個人的に特攻隊について研究し、海軍航空本部の高橋千隼課長等にも相談していた[21][29][30]。
1944年(昭和19年)2月15日、城英一郎大佐は空母千代田艦長に任命される[31][32]。 6月下旬、日本海軍はサイパン島の戦いにともなうマリアナ沖海戦に大敗(城も千代田艦長として参加)[32]。城は大西に対して再び特攻隊の編成を電報で意見具申している[33]。また第一機動艦隊司令長官小沢治三郎中将、連合艦隊司令長官豊田副武大将、軍令部総長及川古志郎大将にも「体当たり攻撃以外に戦勢回復の手段はない」との見解を上申した[32]。
マリアナ沖海戦後、岡村基春大佐も大西へ対して特攻機の開発、および特攻隊編成の要望があった[34]。さらに、252空司令舟木忠夫大佐も「体当たり攻撃(特攻)以外、空母への有効な攻撃は無い」と大西に訴え[35]、大西自身もこの頃には「何とか意義のある戦いをさせてやりたいが、それには体当たりしか無い。もう体当たりでなければいけない」と周囲に語っていた[36]。この頃すでに、日本海軍の中央で特攻兵器の研究は進められていたが、これは神風特攻隊とは関係無い別物だった[37]。
1944年(昭和19年)10月5日、大西が第一航空艦隊司令長官に内定すると、軍需局を去る際に局員だった杉山利一に対して「向こう(第一航空艦隊)に行ったら、必ず(特攻を)やるからお前らも後から来い」と声をかけた。これを聞いた杉山は、大西自らが真っ先に体当たり特攻を決行するだろうと直感したという[38]。大西は出発前、海軍省で海軍大臣米内光政大将に「フィリピンを最後にする」と特攻を行う決意を伝えて承認を得ていた[39]。また、及川古志郎軍令部総長に対しても決意を語ったが、及川は「決して(特攻の)命令はしないように。(戦死者の)処遇に関しては考慮します」[40]「(特攻の)指示はしないが、現地の自発的実施には反対しない」と承認した。それに対して大西は「中央からは何も指示をしないように」と希望した[41]。大西は、軍令部航空部員源田実中佐に戦力を持って行きたいと相談するが、源田は現在それが無いことを告げ、その代わりとして零戦150機を準備すると約束した。その際にも、大西は場合によっては特攻を行うという決意を話した[42]。
同年10月9日、フィリピンに向けて出発した大西は、到着までに台湾・新竹で航空戦の様子を見学し、多田武雄中将に対して「これでは体当たり以外無い」と話し、連合艦隊長官豊田副武大将にも「(単独飛行がやっとの練度の)現状では被害に見合う戦果を期待できない。体当たり攻撃しか無い。しかし、命令では無くそういった空気にならなければ(特攻は)実行できない」と語った。
フィリピンに到着すると、大西は前任者の第一航空艦隊司令長官寺岡謹平中将に「基地航空部隊は、当面の任務は敵空母の甲板の撃破として、発着艦能力を奪って水上部隊を突入させる。普通の戦法では間に合わない。心を鬼にする必要がある。必死志願者はあらかじめ姓名を大本営に報告し、心構えを厳粛にして落ち着かせる必要がある。司令を介さず若鷲に呼び掛けるか…。いや、司令を通じた方が後々のためによかろう。まず、戦闘機隊勇士で編成すれば他の隊も自然に続くだろう。水上部隊もその気持ちになるだろう。海軍全体がこの意気で行けば陸軍も続いてくるだろう」と語り、必死必中の体当たり戦法しか国を救う方法はないと結論して、寺岡から同意を得て一任された[43]。
寺岡から同意を得た大西は、フィリピンで第一航空艦隊参謀長小田原俊彦少将を初めとする幕僚に、特攻を行う理由を「軍需局の要職にいたため最も日本の戦力を知っており、重油・ガソリンは半年も持たず全ての機能が停止する。もう戦争を終わらせるべきである。講和を結ばなければならないが、戦況も悪く資材もない現状一刻も早くしなければならないため、一撃レイテで反撃し、7:3の条件で講和を結んで満州事変の頃まで大日本帝国を巻き戻す。フィリピンを最後の戦場とする。特攻を行えば天皇陛下も戦争を止めろと仰るだろう。この犠牲の歴史が日本を再興するだろう」と説明した[44]。[注 1]
同年10月19日、大西はマニラ艦隊司令部にクラーク空軍基地の761空司令前田孝成大佐、飛行長庄司八郎少佐と、マバラカット基地の201空司令山本栄中佐、飛行長中島正少佐を呼び出し、司令部内にて特攻の相談を行おうとしたが、前田・庄司は司令部に到着して相談できたものの、山本・中島は到着が遅れたため、大西が自ら出向くことにしたが、すれ違いとなり面会は叶わなかった[46]。しかし、小田原が代わりに山本と面会し、特攻決行の同意を得た[47]。
創設
1944年(昭和19年)10月19日夕刻、マバラカット飛行場第201海軍航空隊本部で大西、201空副長玉井浅一中佐、一航艦首席参謀猪口力平、二十六航空戦隊参謀兼一航艦参謀吉岡忠一中佐が集合し、特攻隊編成に関する会議を開いた。大西は「空母を一週間くらい使用不能にし、捷一号作戦を成功させるため、零戦に250kg爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに確実な攻撃法は無いと思うがどうだろう」と提案した[48]。これに対して玉井は、山本が不在だったために「自分だけでは決められない」と返答したが、大西は小田原が山本と面会して既に同意を得ていることを伝え、同時に特攻を決行するかは玉井に一任した。玉井は時間をもらい、飛行隊長指宿正信大尉・横山岳夫大尉と相談した結果、体当たり攻撃を決意して大西にその旨を伝えたが、その際に特攻隊の編成は航空隊側に一任して欲しいと大西に要望し、大西はそれを許可した[49]。
「指揮官の選定は海軍兵学校出身者を」という猪口の意向を受け、玉井は関行男を指名した[50]。猪口によれば、関は指名された際にその場で熟考の後「ぜひやらせて下さい」と即答したという[51]が、玉井によれば、関は「一晩考えさせて下さい」と即答を避け、翌朝になって承諾する返事をしたと語った。いずれにせよ、関は特攻隊指揮官の指名を受けた後に自室へ戻って遺書を書き終え、海軍報道班員のインタビューに対して「日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて」「KA(妻)をアメ公(アメリカ)から守るために死ぬ」と語った[52]。
特攻隊の編成を一任された玉井は、自分が育成した甲飛10期生を中心に33名を集めて特攻の志願を募り、最終的に24名の特攻隊を編成した[53]。[注 2]飛行長だった中島正によると、特攻の編成はだいたいこれだと思うものを集めて志願を募っていたという[56]。
玉井は戦後の回想で、大西の特攻に対する決意と必要性を説明した後に志願を募ると、皆が喜びの感激に目をキラキラさせて全員が挙手して志願したと話している[57]。しかし、志願した山桜隊・高橋保男によれば「もろ手を挙げて(特攻に)志願した。意気高揚[58]」、同じく志願者の井上武によれば「中央は特攻に消極的だったため、現場には不平不満があり、やる気が失せていた。現場では体当たり攻撃するくらいじゃないとだめと考えていた。志願は親しんだ上官の玉井だったからこそ抵抗なかった」という[59]。一方で、志願者の中には特攻の話を聞かされて一同が黙り込む中、玉井が「行くのか?行かんのか?」と叫んだことで一同の手がすぐに上がったと証言する者もおり[60]、志願した浜崎勇は「仕方なくしぶしぶ手をあげた[61]」、佐伯美津男は「強制ではないと説明された。零戦を100機近く失った201空の責任上の戦法で後に広がるとは思わなかった」と話している[62]。
猪口は、郷里の道場である「神風(しんぷう)流」から名前を取り、特攻隊の名称を「神風特別攻撃隊」と提案し、玉井も「神風を起こさなければならない」と同意して大西がそれを認めた。また大西は、各隊に本居宣長の歌「敷島の 大和心を 人問わば 朝日に匂ふ 山桜花」から敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊と命名した[63]。
特攻第一号
1944年(昭和19年)10月20日午前10時、大西が神風特攻隊の訓示と命名式を行い、初の特攻隊である敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊が編成された。大西は敷島隊に「日本は今、危機でありこの危機を救えるのは若者のみである。したがって国民に代わりお願いする。皆はもう神であるから世俗的欲望はないだろうが、自分は特攻が上聞に達するようにする」と訓示した。同日、一航艦司令部に帰った大西は神風特攻隊編成命令書の起案を副官の門司親徳に命じたが、門司は不慣れであったため、大西と猪口も手伝って起案され、命令書は、連合艦隊、軍令部、海軍省など中央各所に発信された[64]。
機密第202359番電 1944年10月20日発信
「体当り攻撃隊を編成す」
1. 現戦局に鑑み艦上戦闘機26機(現有兵力)をもって体当り攻撃隊を編成す(体当り13機)。本攻撃はこれを四隊に区分し、
敵機動部隊東方海面出現の場合、これが必殺(少くとも使用不能の程度)を期す。成果は水上部隊突入前にこれを期待す。
今後艦戦の増強を得次第編成を拡大の予定。本攻撃隊を神風特別攻撃隊と呼称す。
2. 201空司令は現有兵力をもって体当り特別攻撃隊を編成し、なるべく十月二十五日までに比島東方海面の敵機動部隊を殲滅すべし。
司令は今後の増強兵力をもってする特別攻撃隊の編成をあらかじめ準備すべし。
3. 編成 指揮官海軍大尉関行男。
4. 各隊の名称を敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊とす。
10月21日、大西は甲板撃破のために時間的猶予を得るため、第一遊撃部隊突入時期の延期を南西方面艦隊司令長官三川軍一中将と協議するが、既に同月25日と定めて行動しており、困難であることを知った。また、10月22日には第二航空艦隊司令長官・福留繁中将に二航艦も特攻を採用するように説得したが、これは断られた[65]。
神風特別攻撃隊の初出撃は同年10月21日で、敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊の計24機が出撃したが、同日は悪天候などに阻まれてほぼ全機が帰還したものの、大和隊隊長・久納好孚中尉が未帰還となった。そのため、「特攻第1号」は敷島隊隊長・関行男ではなく、大和隊隊長・久納好孚中尉を未確認ながら第一号とする主張も戦後現れた。各隊は出撃を連日繰り返すも全て空振りに終わり、同月23日には大和隊・佐藤馨上飛曹が未帰還となる。第一航空艦隊航空参謀・吉岡忠一中佐によれば「久納の出撃は天候が悪く到達できず、山か海に落ちたと想像するしかなかった」「編成の際に指揮官として関を指名した時から関が1号で、順番がどうであれそれに変わりはないと見るべき」という[66]。軍令部部員・奥宮正武によれば、久納未帰還の発表が遅れたのは、生きていた場合のことを考えた連合艦隊航空参謀・淵田美津雄大佐の慎重な処置ではないかという[67]。また、久納が予備学生であったことから予備学生軽視海兵学校重視の処置とではないかとする意見に対し「当時は目標が空母で、帰還機もあり、空母も見ていない、米側も被害がないので1号とは言えなかった。10月27日に目標が拡大したことで長官が加えた」と話している[68]。
10月25日6時58分、レイテ突入を目指していた第一遊撃部隊(指揮官栗田健男第二艦隊司令長官、戦艦大和座乗、いわゆる「栗田艦隊」)が、サマール島沖で上陸部隊支援を行っていたクリフトン・スプレイグ少将指揮の第77任務部隊第4群第3集団の護衛空母群(タフィ3)を発見し攻撃を開始した。離れた海域にいた第77任務部隊第4群第1集団(タフィ1)はタフィ3を援護するため航空機の発進準備を行っていたが[69]、7時40分に菊水隊、朝日隊、山桜隊の4機の零戦がタフィ1上空に到達した。このときにはタフィ1各艦のレーダーには多数の機影が映っており、この4機が日本軍機と気づくものはおらず、気づいたときにはそのうちの1機が高度2,500mから40度の角度で護衛空母サンティに向かって急降下していた[70]。急降下してきた零戦は舷側から5m内側の飛行甲板に命中して貫通し、飛行甲板下で搭載爆弾が爆発して、42㎡の大穴を飛行甲板に開けて、16名の戦死者と47名の負傷者を生じさせたが、幸運にも火災が航空燃料や弾薬に引火することはなかったので致命的な損傷には至らなかった[71]。
続く2機は、護衛空母サンガモンとペトロフ・ベイに向かってそれぞれ急降下したが、いずれも対空砲火を浴びて両艦の至近海面に墜落した[72]。残る1機は護衛空母スワニーに向かって急降下してきたので、スワニーは対空砲火を集中した。対空砲火が命中したのか急降下してきた零戦が炎を発したので、スワニーの乗組員は歓声を上げたが、零戦は損傷にめげずにそのまま後部エレベーター付近の飛行甲板に命中、機体と爆弾は貫通して艦内で爆発して、71名の戦死者と82名の負傷者という大きな損害を被った[73]。特攻機が命中したサンティとスワニーの損害は大きかったが、いずれもサンガモン級航空母艦であり、排水量基準:11,400t 満載:23,235tと大型で、護衛空母のなかでも非常に強固に建造されていたため、このあとも任務を続行した[74]。しかし、10月28日にスワニーはもう1機特攻機が命中して、「艦設計の際に考慮されていなかった程の甚大な損傷」を被って戦線離脱している[75]。
栗田艦隊との海戦(サマール沖海戦)で護衛空母ガンビア・ベイと2隻の駆逐艦、1隻の護衛駆逐艦を失い、護衛空母ファンショー・ベイやカリニン・ベイなど損傷艦多数を抱えることとなったタフィ3は、栗田艦隊の突然の変針により、ようやく一息をつくことができた。戦闘配置命令も解除されて、命中弾を1発も受けなかったセント・ローの乗組員たちは、沈没したガンビア・ベイの艦載機の収容準備などをしながら、自分たちの幸運について語り合っていた[76]。このときもタフィ1が菊水隊の突入を受けたときと同様に、各艦のレーダーには多数の機影が映っており、関が率いる敷島隊5機の接近に気づくものはいなかった[77]。10時49分、敷島隊の各機はそれぞれ目標を定めると、急降下を開始した。先頭の1機が、戦艦の巨砲の命中でいくつもの傷口が開いていたカリニン・ベイめがけて突入し、飛行甲板に数個の穴をあけて火災多数を生じさせたが、搭載していた爆弾は不発であった。この最初にカリニン・ベイに突入した機が関の搭乗機であったという説もある[78]。カリニン・ベイにはもう1機が海面突入寸前に至近で爆発して損害を与えて、2機の突入により5名の戦死者と55名の負傷者が生じたが、栗田艦隊との海戦で15発以上の命中弾を浴びていたにも関わらず、沈没は免れた[79]。
護衛空母ホワイト・プレインズに向かって急降下していた零戦1機がホワイト・プレインズの対空砲火が命中し損傷したため、目標をセント・ローに変更し[80]、セント・ローの艦尾1,000mから高度30mの低空飛行で、そのまま着艦するような姿勢で接近してきた。その零戦に向けてセントローが搭載していたMk.IV20㎜機関砲とボフォース 40mm機関砲を発砲したが、零戦は退避行動をとることなく、発見された1分後に[81]、飛行甲板中央に命中した。零戦が命中した瞬間に航空燃料が爆発して、猛烈な火炎が飛行甲板を覆い、搭載していた250㎏爆弾は飛行甲板を貫通して格納庫で爆発した。その爆発で格納庫内の高オクタンの航空燃料がまず誘爆し、その後も爆弾や弾薬が次々と誘爆した[82]。あまりの爆発の激しさに、付近を航行していた重巡洋艦ミネアポリスの乗組員が海中に吹き飛ばされたほどであった。もう手が付けられないと悟ったフランシス・J・マッケンナ艦長は特攻機が命中したわずか2~3分後の10時56分に総員退艦を命じたが、その後も何度も大爆発を繰り返して30分後に沈没した。114名が戦死もしくは行方不明になり、救助された784名の半数が負傷したり火傷を負っていたが、そのうち30名が後日死亡した[83]。このセント・ローを仕留めた零戦が関の搭乗機だという説が広く認知されている[84]。他にも護衛空母キトカン・ベイに1機命中したが、爆弾が艦を貫通して海上で爆発したため軽微な損傷を与えたのと、ホワイト・プレインズ直上で特攻機が爆発して同艦に火災を起こさせた[85]。
この日、護衛空母艦隊は戦死1,500名、負傷1,200名と艦載機128機を喪失するという大損害を被り、さらに、母艦を失うか大破して着艦できなくなった67機の艦載機が、占領したばかりで整備不良のレイテ島タクロバン飛行場に緊急着陸を余儀なくされたが、そのうち20数機がぬかるみに脚をとられて破壊された[86]。しかし、このときにはすでに栗田艦隊はすでに反転しており(いわゆる「栗田ターン」)、特攻戦果は作戦成功にはつながらなかった。大西は「神風特攻隊が体当たりを決行し、大きな戦果を挙げた。自分は、日本が勝つ道はこれ以外にないと信ずるので今後も特攻を続ける。反対するものは、たたき斬る」と語った[87]。
拡大
10月26日、及川古志郎軍令部総長は、神風特攻隊が護衛空母を含む5隻に損傷を与えた戦果を奏上した。昭和天皇(大元帥)はこの生還を期さない特攻作戦についてはご存じなく、同月28日には御説明資料も作成された[88]。及川軍令部総長は、「そのようにまでせねばならなかったか。しかしよくやった。」と御嘉賞のお言葉を賜った。そのお言葉は軍令部から全軍に向けて発信され、第201航空隊飛行長中島正少佐は、特攻隊員らの前で電文を読み上げ督励した。また、昭和天皇は、10月30日に米内海軍大臣に、「かくまでせねばならぬとは、まことに遺憾である。神風特別攻撃隊はよくやった。隊員諸氏には哀惜の情にたえぬ。」と仰せられた[89]。
神風特攻隊編成当初は、参謀の猪口が「特攻隊はわずか4隊でいいのですか?」と訊ねたのに対し、「飛行機がないからなぁ、やむをえん。」と特攻は一度きりで止めたいとの意向を示していた大西であったが[90]、敷島隊の特攻が戦果を挙げた後、大西は2航艦長官福留繁中将を説得して、現地で第一航空艦隊・第二航空艦隊を統合した「第一連合基地航空部隊」を編成し、神風特攻隊は拡大した[91]。神風特攻隊の当初の目標は、敵空母の使用不能であり、初回の攻撃でその目標を達成したが、レイテ島付近で戦闘が続いたため、目標を敵主要艦船に広げて、1945年1月下旬には全ての敵艦船が目標になった[92]。
大西は、第一航空艦隊、第二航空艦隊、721空の飛行隊長以上40名ほどを召集し、大編隊の攻撃は不可能なので少数で敵を抜けて突撃すること、現在のような戦局ではただ死なすより特攻は慈悲であることなどを話した[93]。また、大西は「特攻隊員への招宴などの特別待遇の禁止」「特攻隊以外の体当たり攻撃禁止」など特攻隊員の心構えなどを強く指導した。その強引な作戦指導に航空幹部の一部が批判的であったが、大西は「今後俺の作戦指導に対しての批判は許さない」と特攻作戦は自分で指導し自らが責任を取るという姿勢を明らかにした。これは大西が搭乗員出身でその心情を一番理解してると自負し、また最後には勝敗の如何を問わず特攻隊員と共に必ず死ぬとの意思表示であったと思われる[94]。1944年10月27日、大西によって神風特攻隊の編成方法・命名方法・発表方針などがまとめられ、軍令部・海軍省・航空本部など中央に通達された[95]。
連合基地航空隊には北東方面艦隊第12航空艦隊の戦闘機部隊や[96]、空母に配属する予定であった第3航空艦隊の大部分などが順次増援として送られ特攻に投入されたが、戦力の消耗も激しく、大西は上京し、更なる増援を大本営と連合艦隊に訴えた。大西は300機の増援を求めたが、連合艦隊は、大村海軍航空隊、元山海軍航空隊、筑波海軍航空隊、神ノ池海軍航空隊の各教育航空隊から飛行100時間程度の搭乗員と教官から志願を募るなど苦心惨憺して、ようやく150機をかき集めている。これらの隊員は猪口により台湾の台中・台北で10日間集中的に訓練された後フィリピンに送られた[97]。
特攻はアメリカ軍側に大きな衝撃を与えた。レイテ島上陸作戦を行ったアメリカ海軍水陸両用部隊参謀レイ・ターバック大佐は「この戦闘で見られた新奇なものは、自殺的急降下攻撃である。敵が明日撃墜されるはずの航空機100機を保有している場合、敵はそれらの航空機を今日、自殺的急降下攻撃に使用して艦船100隻を炎上させるかもしれない。対策が早急に講じられなければならない。」と考え、物資や兵員の輸送・揚陸には、攻撃輸送艦(APA)や攻撃貨物輸送艦(AKA)といった装甲の薄い艦船ではなく、輸送駆逐艦(APD)や戦車揚陸艦(LST)など装甲の厚い艦船を多用すべきと提言している。またアメリカ軍は、最初の特攻が成功した10月25日以降、病院船を特攻の被害を被る可能性の高いレイテ湾への入港を禁止したが、レイテ島の戦いでの負傷者を救護する必要に迫られ、3時間だけ入港し負傷者を素早く収容して出港するという運用をせざるを得なくなった[98]。
その後も特攻機は次々とアメリカ軍の主力高速空母部隊第38任務部隊の正規空母に突入して大損害を与えていった。1944年10月29日イントレピッド、10月30日フランクリン 、ベローウッド 、11月5日レキシントン、11月25日エセックス、カボット が大破・中破し戦線離脱に追い込まれ、他にも多数の艦船が撃沈破された[99]。 特攻機による空母部隊の大損害により、第38任務部隊司令ウィリアム・ハルゼー・ジュニアが11月11日に計画していた艦載機による初の大規模な東京空襲は中止に追い込まれた。ハルゼーはこの中止の判断にあたって「少なくとも、(特攻に対する)防御技術が完成するまでは 大兵力による戦局を決定的にするような攻撃だけが、自殺攻撃に高速空母をさらすことを正当化できる」と特攻対策の強化の検討を要求している[100]。 ハルゼーは指揮下の高速空母群に次々と特攻により戦線離脱するのを目のあたりにして「いかに勇敢なアメリカ軍兵士と言えども、少なくとも生き残るチャンスがない任務を決して引き受けはしない」「切腹の文化があるというものの、誠に効果的なこの様な部隊を編成するために十分な隊員を集め得るとは、我々には信じられなかった」と衝撃を受けている[101]。
フィリピンの戦いを指揮した南西太平洋方面軍(最高司令官ダグラス・マッカーサー大将)のメルボルン海軍司令部は、指揮下の全艦艇に対して「ジャップの自殺機による攻撃が、かなりの成果を挙げているという情報は、敵にとって大きな価値があるという事実から考えて(中略)公然と議論することを禁止し、かつ第7艦隊司令官は同艦隊にその旨伝達した」とアメリカとイギリスとオーストラリアに徹底した報道管制を引いた。これはニミッツの太平洋方面軍も同様の対応をしており[102]、特攻に関する検閲は太平洋戦争中でもっとも厳重な検閲となっている[103]。
1945年1月1日、マッカーサー自ら指揮する連合軍大艦隊が、ルソン島攻略のため出撃したが、その艦隊に対して激しい特攻がおこなわれた。1月4日、神風特攻旭日隊の彗星が護衛空母オマニー・ベイを撃沈した[104]。1月6日に連合軍艦隊はリンガエン湾に侵入したが、フィリピン各基地から出撃した32機の特攻機の内12機が命中し7機が有効至近弾となり連合軍艦隊は多大な損害を被った[105]。戦艦ニューメキシコには、イギリス首相ウィンストン・チャーチルの名代として、イギリス陸軍観戦武官のハーバード・ラムズデン中将が乗艦していたが、その艦橋に特攻機が突入、ラムスデン中将が戦死し、ラムズデンと40年来の知人であったマッカーサーは衝撃を受けている[106]。マッカーサー自身が乗艦していた軽巡洋艦ボイシも特攻機に攻撃されたが損害はなかった[107]。マッカーサーは特攻機とアメリカ艦隊の戦闘を見て「ありがたい。奴らは我々の軍艦を狙っているが、ほとんどの軍艦は一撃をくらっても耐えうるだろう。しかし、もし奴らが我々の軍隊輸送船をこれほど猛烈に攻撃してきたら、我々は引き返すしかないだろう。」と特攻がルソン島の戦いの
海軍第1航空艦隊はこの1月6日の出撃で航空機を消耗し尽くしたので、司令の大西は陸戦隊として連合軍を迎え撃つこととし幕僚と協議を重ねていた。そんなときに、連合艦隊より第1航空艦隊は台湾に転進せよとの命令が届いた。躊躇する大西に猪口ら参謀が「とにかく、大西その人を生かしておいて仕事をさせようと、というところにねらいがあると思われます」と説得したのに対して、大西は「私が帰ったところで、もう勝つ手は私にはないよ」となかなか同意しなかったが[109]、最後は大西が折れて、第1航空艦隊司令部と生存していた搭乗員は台湾に撤退することとなった[110]。1月10日に陸軍航空隊より一足早く第1航空艦隊の一部はルソン島から台湾に移動したが、整備兵や地上要員など多くの兵士がそのまま残されて後に地上戦で死ぬ運命に置かれた[111]。残った兵士らは、杉本丑衛26航戦司令官の指揮下で「クラーク地区防衛部隊」を編成し地上戦を戦ったが、大西は残してきた兵士らに気を揉み、台湾に転進後も常々「いつか俺は、落下傘でクラーク山中に降下し、杉本司令官以下みんなを見舞ってくるよ」と部下に話していた[112]。
海軍航空隊はフィリピン戦で特攻機333機を投入し、420名の搭乗員を失い[113]、陸軍航空隊は210機を特攻に投入し、251名の搭乗員を失ったのに対して[114]、アメリカ軍は、特攻により22隻の艦艇が沈没、110隻が損傷した。通常航空攻撃による沈没が12隻、損傷が25隻であったのに対して[115]、フィリピン戦で日本軍が戦闘で失った航空機のなかで、特攻で失った航空機は全体のわずか14%に過ぎず、通常航空攻撃に対して、相対的に損害が少ないのに、戦果が大きかった特攻の戦術としての有効性が際立つこととなった[116]。しかし、連合軍は特攻で損害を被りつつも、レイテ島、ミンダナオ島、ルソン島と進撃を続けたので、特攻はせいぜいのところ遅滞戦術のひとつに過ぎないことも明らかになった[117]。
台湾に転進した大西ら第1航空艦隊は台湾でも特攻を継続し、残存兵力と台湾方面航空隊のわずかな兵力により1945年1月18日に「神風特攻隊新高隊」が編成された。1月21日に台湾に接近してきた第38任務部隊に対し「神風特攻隊新高隊」が出撃、少数であったが正規空母タイコンデロガに2機の特攻機が命中し、格納庫の艦載機と搭載していた魚雷・爆弾が誘爆し沈没も懸念されたほどの深刻な損傷を被り、ディクシー・キーファー艦長を含む345名の死傷者が生じたが、キーファーが自らも右手が砕かれるなどの大怪我を負いながら、艦橋内にマットレスを敷いて横たわった状態で12時間もの間的確なダメージコントロールを指示し続け、沈没は免れた[118]。大西はこの頃から沈黙の時間が長くなった代わりに、死について語ることが多くなった。ある日、イタリアの戦犯のニュースの話題になったとき大西は「おれなんか、生きておったならば、絞首刑だな。真珠湾攻撃に参画し、特攻を出して若いものを死なせ、悪いことばかりしてきた」と幕僚たちに述べている[119]。
1945年2月19日には、硫黄島にアメリカ軍が上陸し、硫黄島の戦いが始まったが、硫黄島に侵攻してきたアメリカ軍艦隊に対しても特攻が行われた[120]。第六〇一海軍航空隊で編成された『第二御盾隊』は、2月21日に、彗星12機、天山8機、零戦12機の合計32機(内未帰還29機)が出撃し、護衛空母ビスマーク・シーを撃沈、正規空母サラトガに5発の命中弾を与えて大破させた他、キーオカック(防潜網輸送船) も大破させ、護衛空母ルンガ・ポイントとLST-477 を損傷させるなど大戦果を挙げた。第二御盾隊による戦果は硫黄島の栗林忠道中将率いる小笠原兵団から視認でき、第27航空戦隊司令官市丸利之助少将が「友軍航空機の壮烈なる特攻を望見し、士気ますます高揚、必勝を確信、敢闘を誓う」「必勝を確信敢闘を誓あり」と打電するなど、栗林らを大いに鼓舞した[121]。梅津美治郎陸軍参謀総長と及川古志郎軍令部総長はこの大戦果を昭和天皇に上奏した。及川によれば、昭和天皇はこの大戦果の報を聞いて「硫黄島に対する特攻を何とかやれ」と再攻撃を求めたとされるが、洋上の長距離飛行を要する硫黄島への特攻は負担が大きく、ふたたび実行されることはなかった[122]。『第二御盾隊』の成功の報を台湾で聞いた大西は特攻作戦に対して自信を深めて、この後も特攻を推進していく動機付けともなった[123]。
1945年3月になって、小笠原兵団の勇戦もむなしく硫黄島の戦況がひっ迫してくると、沖縄が攻略されるのも遠くないと考えた軍令部は、1945年3月に練習連合航空総隊を解体し、その搭乗員教育航空隊をもって第十航空艦隊を編制して連合艦隊に編入し、練習機をも特攻攻撃に参加させ、全海軍航空部隊の特攻化が企図された[124]。
1945年3月14日にアメリカ軍の機動部隊は沖縄戦に先立って日本軍の抵抗力を弱体化させるため、九州・本州西部・四国の航空基地や海軍基地に攻撃をかけてきた[125]。それを1945年に新設されたばかりの第五航空艦隊が全力で迎撃し、日本本土と近海で激しい海空戦が繰り広げられ、この戦いは『九州沖航空戦』と呼称された[126]。松山基地を出撃した第三四三海軍航空隊(剣部隊)の新鋭戦闘機紫電改もアメリカ軍艦載機を迎撃し、47機撃墜を報告している[127]。特攻機を含む日本軍の猛攻でアメリカ軍は空母フランクリンとワスプが大破、エセックスが中破するなど多大な損害を被った[128]。正式に兵器として採用された特攻兵器桜花は九州沖航空戦が初陣となった。[129]。3月21日に第五航空艦隊司令宇垣纏中将が、第七二一海軍航空隊に、偵察機が発見した2隻の空母を含む機動部隊攻撃を命令したが、第五航空艦隊はそれまでの激戦で戦闘機を消耗しており、護衛戦闘機を55機しか準備できなかった。そこで第七二一海軍航空隊司令の岡村基春大佐が攻撃中止を上申したが、宇垣は「この状況下で、もしも、使えないものならば、桜花は使う時がない、と思うが、どうかね」と岡村を諭し、出撃を強行している。その後、偵察機より続報が入りアメリカ軍空母はもっと多数であることが判明したが作戦はそのまま続行され[130]、野中五郎少佐に率いられた一式陸攻18機の攻撃隊は、護衛の零戦25機が故障で帰投するという不幸もあって、岡村に懸念通り、アメリカ空母の遥か手前で戦闘機の迎撃を受けて全滅した[131]。
沖縄戦
1945年3月1日の大海指第510号「航空作戦ニ関スル陸海軍中央協定」により、陸軍飛行隊第6航空軍などが連合艦隊の指揮下に入り、陸海軍協同で特攻作戦を推進していくことになった[132]。1945年3月25日、アメリカ軍が慶良間諸島に上陸を開始したとの情報が連合艦隊に入ると、3月20日に大本営により下令された天号作戦に基づき、連合艦隊は1945年3月25日「天一号作戦警戒」、南西諸島への砲爆撃が激化した翌26日に「天一号作戦発動」を発令した。連合軍を沖縄で迎え撃つ第五航空艦隊の可動戦力は、九州沖航空戦での消耗で航空機50機足らずとなっていたが、「天一号作戦警戒」発令により鈴鹿以西の作戦可動航空戦力は、第五航空艦隊司令官宇垣纏中将指揮下に入った[133]。 航空戦力は日を追って強化され、海軍だけで4月1日時点で300機[134]、この後も順次戦力増強が進み4月19日までに合計2,895機もの大量の作戦機が九州の各基地に進出した[135]。
3月26日、慶良間諸島にアメリカ軍が上陸した直後に第五航空艦隊は特攻出撃を開始、4月1日にアメリカ軍が沖縄本島に上陸すると、4月1日35機、2日44機、3日74機と出撃機数は増えていき、空母1隻大破、巡洋艦2隻撃沈などの華々しい大戦果を挙げたと報じられた[136]。この戦果報告は過大であったが、実際にも輸送駆逐艦(高速輸送艦)ディカーソン撃沈[137]、 レイモンド・スプルーアンス中将が座乗していた第5艦隊の旗艦重巡インディアナポリス、[138]イギリス軍正規空母インディファティガブル[139]、護衛空母ウェーク・アイランド[140]が甚大な被害を受けて戦線離脱、戦艦ネバダとウェストバージニアを含む28隻が損傷し、合計約1,000名の死傷者を被るなど連合軍の損害は大きかった[141][142]。大きな損害を被ったアメリカ軍は「やがて来たる恐るべき戦術-特攻の不吉な前触れ」であったと評している[143][144]。
大本営は4月6日に、航空戦力を集中した大規模な特攻作戦菊水一号作戦を発令、大量の特攻機を出撃させると同時に戦艦大和による海上特攻を敢行した[145]。その後も菊水作戦は続き、4月中に20隻の艦船が撃沈、157隻が撃破されて、アメリカ海軍将兵の戦死・行方不明者1,853名、戦傷者2,650名に達する大きな損害を被っていた[146]。太平洋艦隊チェスター・ニミッツ司令は、1945年4月12日に戦況報告のため腹心のフォレスト・シャーマン太平洋艦隊司令部戦争計画部長を沖縄に派遣し、詳細な戦況を報告させたが[147]、それでも飽き足らず、現場の指揮には口を挟まないという方針を崩して、4月22日にアレクサンダー・ヴァンデグリフト海兵隊総司令官を連れて、自ら沖縄に乗り込んでいる[148]。ニミッツは陸軍の進撃速度が遅いため、海軍の損害が激増していると 第10軍司令官サイモン・B・バックナー・ジュニア中将に詰め寄ったが、あまりにも慎重なバックナーの姿勢に、普段は温厚であるニミッツが激高し「他の誰かを軍司令官にして戦線を進めてもらう。そうすれば海軍は忌々しいカミカゼから解放される」と言い放っている[149]。
前線での苦戦の報告を受けた海軍省長官ジェームズ・フォレスタルは5月17日の記者会見で、海軍の死傷者が4,702名に達していることを明かし「海軍による上陸作戦への継続的な支援は困難な業務であり、高価な代償を伴うものであることをアメリカ国民の皆様に理解して頂きたい」と訴えた[150]。特攻に苦しめられていたアメリカ軍がその対策として、B-29を日本の都市や工業地帯への絨毯爆撃から、九州の特攻基地攻撃の戦術爆撃に転用し[151]、B-29の戦力の75%、延べ2,000機がこの特攻機基地攻撃に振り向けられたため、一時的ではあったが、本土の大都市や工業地帯の爆撃による被害が軽減されている[152]。しかし、戦略爆撃機であったB-29は、特攻基地爆撃のような任務には不向きで[153] 、九州の各飛行場に分散配置されている特攻機に大きな打撃を加えることはできなかった。B-29の爆撃効果に失望したスプルーアンスは「アメリカ陸軍航空軍は砂糖工場や鉄道の駅や機材をおおいに壊してくれた」と皮肉を言い、5月中旬にアメリカ海軍はアメリカ陸軍航空軍の支援要請を取り下げて、B-29は都市や産業への戦略爆撃任務に復帰している[154]。
第5艦隊は、日本軍の激しい特攻に対し、まったく防御一点張りのような戦術で常時作戦海域に留まっておらねばならず、上級指揮官らの緊張感は耐えられないくらい大きなものとなっており、ニミッツは前例のない戦闘継続中の艦隊の上級指揮官らの交代を行った。第5艦隊司令はスプルーアンスからウィリアム・ハルゼー・ジュニアに、第58任務部隊司令はマーク・ミッチャーからジョン・S・マケイン・シニアに交代となった[155]。スプルーアンス、ミッチャ―ともに沖縄戦中乗艦していた旗艦に2回ずつ特攻を受けており、いずれの艦も戦線離脱をしている。特にミッチャ―がバンカーヒルで特攻を受けた時、特攻機はミッチャ―の6mの至近距離に突入、奇跡的にミッチャーと参謀長のアーレイ・バーク代将は負傷しなかったが、艦隊幕僚や当番兵13名が戦死している。それらの心労で体重は大きく落込み、交代時には舷側の梯子を単独では登れないほどに疲労していた[156]。スプルーアンスはのちに沖縄戦での特攻に対して「特攻機は非常に効果的な武器で、我々としてはこれを決して軽視することはできない。私は、この作戦地域にいたことのない者には、それが艦隊に対してどのような力を持っているか理解することはできないと信じる」や[157]「沖縄に対する作戦計画を作成していたとき、日本軍の特攻機がこのような大きな脅威になろうとは誰も考えていなかった。」と回想している[158]。
第32軍による総攻撃が失敗して、沖縄戦の大勢が決すると、本土決戦に向けた準備が本格化した。海軍大臣の米内光政は決号作戦の準備として、全海軍部隊を指揮できる海軍総隊を新設し、司令長官に連合艦隊司令長官豊田副武を兼務させ強力な権限を与えて本土決戦準備を進めた。その豊田は、5月17日に第十航空艦隊の残存機の九州進出を中止するという命令を出した。鈴鹿以西の作戦可動航空戦力は第五航空艦隊宇垣の指揮下とするという従来方針からの後退で、宇垣の指揮下から離れた航空戦力は「決号作戦」に備えて錬成せよという命令も出された。これは、沖縄決戦に全航空戦力を投入しようとしていた海軍首脳部の作戦指導方針の明らかな転換であり、この後は本土決戦に向けての航空戦力の温存が図られていくこととなる。この命令を聞いた第5航空艦隊参謀長横井俊之少将は「最高統帥が決号(本土決戦)か天号(沖縄戦)の岐路に迷い、バランスが今まさに破れんとするこの絶好のチャンスに沖縄決戦の見切りをつけてしまったのである。前線の将士がいかに地団駄ふんでヂリヂリしてみても、大本営の腰がふらついているのでは所謂「ごまめの歯ぎしり」で何の役にも立たない」と感想を持った[159]。5月29日には豊田は軍令部総長に任じられ、連合艦隊司令長官には、軍令部次長の小沢治三郎中将が親補された[160]。そして小沢の後任には「特攻生みの親」大西を任命した。米内は講和派であったが、陸軍の主戦派らの不満を抑え込むため、講和派の井上成美海軍次官更迭に加えておこなわれた人事であった。海軍内でも講和派からは煙たがられたが、主戦派は本土決戦に向けてこの人事を歓迎している[161]。
6月23日未明に、第32軍司令官牛島満大将と参謀長の長勇中将が、沖縄南部の摩文仁の司令部壕内で自決し、沖縄における日本軍の組織的な抵抗は終わった[162]。3ヶ月間で特攻機1,895機[163]通常作戦機1,112機[164]を失った天号作戦は終わった[165]。沖縄戦でのアメリカ海軍の損害は、アメリカ軍の公式記録上では艦船沈没36隻、損傷368隻、艦上での戦死者は4,907名、負傷者4,824名と大きなものとなったが[166]、その大部分は特攻による損害で[167]、アメリカ海軍史上単一の作戦で受けた損害としては最悪のものとなっている[168]。
日本軍は、菊水作戦の戦果によりアメリカ軍に対抗可能な戦術は唯一特攻であるとの認識となり、本土決戦の方針を定めた「今後採ルヘキ戦争指導ノ基本大綱」において、特攻を主戦術として本土決戦を戦う方針を示されている。軍令部豊田総長は「敵全滅は不能とするも約半数に近きものは、水際到達前に撃破し得るの算ありと信ず」と本土に侵攻してくる連合軍を半減できるとの見通しを示している[169]。豊田の見通しに基づき「敵予想戦力、13個師団、輸送船1,500隻。その半数である750隻を海上で撃滅する。」という「決号作戦に於ける海軍作戦計画大綱」が定められたが[170]、その手段は、1945年7月13日の海軍総司令長官名で出された指示「敵の本土来攻の初動においてなるべく至短期間に努めて多くの敵を撃砕し陸上作戦と相俟って敵上陸軍を撃滅す。航空作戦指導の主眼は特攻攻撃に依り敵上陸船団を撃滅するに在り」の通り、特攻となった[171]。海軍は本土決戦のために5,000機の特攻用の稼働機を準備し、さらに5,000機を整備中であった[172]。
しかし、沖縄戦で大量の実用機を喪失していた海軍は、練習機や水上偵察機といった本来なら実戦には投入困難な機体も特攻に投入する計画で、準備された特攻機のなかでそのような機体が多数を占めた。終戦時に残存していた機体でもっとも数が多かったのが、九三式中間練習機(水上練習機型も含む)の2,791機であり、2番目は零戦1,017機、3番目は紫電改(紫電を含む)376機と実用機であったが、4番目は練習機の白菊365機であった[173]。飛行教官は、練習機に爆装して特攻する予定の特攻隊員らに「もし敵が本土上陸を開始すれば、海軍に5,000機、陸軍に8,000機の飛行機が現存している。飛行機と名の付く飛行機には、全機爆装して出撃する。5機に1機の割合で、敵の上陸用舟艇に命中すればその8割は撃滅できる。あとの2割は本土防衛隊が波打ち際で撃退する。われに勝算あり、必ず勝つ!」と檄を飛ばし士気を鼓舞していたが、これが机上の空論でナンセンスな話であることは十分認識していたという[174]。
一方でアメリカ軍は、沖縄で特攻により被った甚大な損害を重く見て「十分な訓練も受けていないパイロットが旧式機を操縦しても、集団特攻攻撃が水上艦艇にとって非常に危険であることが沖縄戦で証明された。終戦時でさえ、日本本土に接近する侵攻部隊に対し、日本空軍が特攻攻撃によって重大な損害を与える能力を有していた事は明白である。」「連合軍の空軍がカミカゼを上空から一掃し、連合軍の橋頭堡や沖合の艦船に近づかない様にできたかについては、永遠に回答は出ないだろう、終戦時の日本軍の空軍力を見れば連合軍の仕事は生易しいものではなかったと思われる」と評価し、ダウンフォール作戦が開始され日本本土決戦となった場合、特攻機による撃沈破艦が990隻に達すると見積もっていた[175]。
神風特攻隊は1945年8月15日の終戦まで続いたが、本土決戦のために大量に準備された特攻機が出撃することはなかった。第五航空艦隊司令長官として沖縄戦における航空特攻を指揮した宇垣も、特攻に出撃して戦死した。終戦後の8月16日、神風特攻隊を創設した大西は、死をもって旧部下の英霊とその遺族に謝すること、後輩に軽挙は利敵行為と思って自重忍苦し、日本人の矜持も失わないこと、平時に特攻精神を堅持して日本民族と世界平和に尽くすように希望する旨の遺書を残して割腹自決した[176]。大西は台湾にいたとき副官に「剣道はできるか?俺の骨は太いよ。介錯するときに、骨が折れますよ」と話したことがあったが、自刃するさいには介錯人はおかず、深夜一人で割腹し、頸動脈を斬り、心臓をつらぬき、それでも明け方までは息があって、駆け付けた多田武雄海軍次官や児玉誉士夫に「できるだけ永く苦しんで死ぬんだ」と言って治療や介錯を拒みながら息を引き取った[177]。終戦の混乱で海軍からは霊柩車はおろか棺桶の手配すらなく、従兵が庭の木を伐採して棺桶を自作した。霊柩車は結局手配できず、火葬場には借りてきたトラックで運ぶこととなった。大西は花が好きであったが、手向ける花すらなかったので、多田の妻女が火葬場の道中で見かけたキョウチクトウの花を摘んで大西に手向けた[178]。火葬場に近づくと、厚木方向から飛んできた零戦が低空で突っ込んできて、トラック上で翼を振りどこかに飛び去っていった[179]。この自決によって、大西も神風特攻隊の戦死者として名簿に記載された。
名称と発表
「神風特別攻撃隊」の名称は、命名者の猪口力平中佐によれば、郷里の道場「神風(しんぷう)流」から取ったものである[180]。猪口によれば、大西中将が特攻隊を提案した10月19日の晩、201空副長玉井浅一中佐と相談して「神風を吹かせなければならん」と言って決め、大西中将に採用されたものであるという[181]
しかし、大西瀧治郎中将は特攻の戦果発表に関心を持っており、長官に内定した1944年10月5日には海軍報道班員に対して「活躍ぶりを内地に報道してほしい」と依頼していた[182]。また、海軍省による発表の準備も進められており、現場の大西中将に発表方法を相談するために、軍令部から大海機密第261917番電「神風攻撃隊、発表ハ全軍ノ士気昂揚並ニ国民戦意ノ振作ニ重大ノ関係アル処。各隊攻撃実施ノ都度、純忠ノ至誠ニ報ヒ攻撃隊名(敷島隊、朝日隊等)ヲモ伴セ適当ノ時期ニ発表ノコトニ取計ヒタキ処、貴見至急承知致度」(1944年10月13日起案、10月26日発信)が打電された。13日に起案された電文に「神風攻撃隊」という名前が記載されているので、大西が東京を出発する前に中央と名前を打ち合わせていたとも言われる。電文の発信は軍令部第一部長中沢佑少将、起案は軍令部航空部員源田実中佐が担当した。電文には海軍省の人事局主務者による「一航艦同意シ来レル場合ノ発表時機其ノ他二関シテハ省部更二研究ノコトト致シ度」という意見が付されている[183]。特攻隊の編成命令を起案した門司親徳(大西の副官)によれば、起案日は誤記で23日ではないかという[184]。源田は、日付は覚えていないが、神風特攻隊の名前はフィリピンに飛んだ際に大西から直接聞いたと証言している[185]。この電文を特攻の指示、命名の指示と紹介する文献もあるが、現地で特攻の編成・命名が行われたのは20日であり、この電文が現地に発信されたのは26日であるため、この電文は特攻隊の編成や命名に影響を与えていない。
この神風特攻隊の発表は、1944年10月28日の「海軍省公表」で行われた。この公表は敷島隊の戦果だけであり、同じく特攻した菊水隊、大和隊の戦果が同時に発表されなかった。この神風特攻隊発表の筋書きは、講和推進派の海軍大臣米内光政大将と軍令部総長及川古志郎によるものであり、特攻のインパクトのために数より(海軍兵学校出身者による特攻という)質を重視した判断という指摘もある[186]。また、1944年10月初旬から既に新聞・ラジオで「神風」という言葉が頻出するようになっていた[187]。国民が神風特攻隊を知ったのは1944年10月29日の新聞各紙による海軍省公表、特攻第一号・関中佐の記事が最初だった[188]。海軍省公表とともに詳しい記事が各紙で掲載された。
海軍省公表(昭和十九年十月二十八日十五時)神風特別攻撃隊敷島隊員に関し、聯合艦隊司令長官は左の通全軍に布告せり。
布告
戦闘〇〇〇飛行隊分隊長 海軍大尉 関 行男
戦闘〇〇〇飛行隊付 海軍一等飛行兵曹 中野磐雄
戦闘〇〇〇飛行隊付 同 谷 暢夫
同 海軍飛行兵長 永峰 肇
戦闘〇〇〇飛行隊付 海軍上等飛行兵 大黒繁男
神風特別攻撃隊敷島隊員として昭和十九年十月二十五日〇〇時「スルアン」島の〇〇度〇〇浬に於て中型航空母艦四隻を基幹とする敵艦の一群を補足するや、
必死必中の体当り攻撃を以て航空母艦一隻撃沈同一隻炎上撃破、巡洋艦一隻轟沈の戦果を収める悠久の大義に殉ず、忠烈万世に燦たり。
昭和十九年十月二十八日 聯合艦隊司令長官 豊田副武
戦果
艦艇に対する戦果
陸軍『と號部隊』によるものと合わせた戦果は下記の通りとなる[189][190][191][192][193][194][195][196][197][198][199][200][201][202][203] 。
艦種 | 船体分類記号 | 撃沈艦 | 除籍艦[注 3][204] | 損傷艦[注 4] |
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戦艦 | BB | 16隻 | ||
正規空母 | CV | 21隻 | ||
軽空母 | CVL | 5隻 | ||
護衛空母 | CVE | 3隻 | 1隻 | 16隻 |
水上機母艦 | AV | 4隻 | ||
重巡洋艦 | CA | 8隻 | ||
軽巡洋艦 | CL | 8隻 | ||
駆逐艦 | DD | 14隻 | 8隻 | 91隻 |
護衛駆逐艦 | DE | 1隻 | 1隻 | 24隻 |
掃海駆逐艦 | DM | 2隻 | 7隻 | 26隻 |
輸送駆逐艦 | APD | 4隻 | 3隻 | 17隻 |
潜水艦 | SS | 1隻 | ||
駆潜艇 | SC・PC | 1隻 | 1隻 | 1隻 |
掃海艇 | AM・YMS | 3隻[注 5] | 16隻 | |
魚雷艇 | PT | 2隻 | 4隻 | |
戦車揚陸艦 | LST | 5隻 | 15隻 | |
中型揚陸艦 | LSM | 7隻 | 1隻 | 4隻 |
上陸支援艇 | LCS | 2隻 | 13隻 | |
歩兵揚陸艇 | LCI | 1隻 | 7隻 | |
タグボート | AT | 1隻 | 1隻 | |
魚雷艇母艦 | AGP | 1隻 | ||
ドッグ艦 | ARL | 2隻 | ||
病院船 | AH | 1隻 | ||
タンカー | AO・IX | 1隻 | 2隻 | |
攻撃輸送艦 | AKA・APA | 18隻 | ||
傷病者輸送艦 | APH | 1隻 | ||
防潜網設置艦 | AKN | 1隻 | ||
輸送艦 | 7隻 | 35隻 | ||
合計 | 54隻 | 22隻 | 359隻 |
特攻の戦果は、航空特攻で撃沈57隻 戦力として完全に失われたもの108隻 船体及び人員に重大な損害を受けたもの83隻 軽微な損傷206隻(元英軍従軍記者オーストラリアの戦史研究家デニス・ウォーナー著『ドキュメント神風下巻』)[205]。 航空特攻で撃沈49隻 損傷362隻 回天特攻で撃沈3隻 損傷6隻 特攻艇で撃沈7隻 損傷19隻 合計撃沈59隻 損傷387隻(イギリスの戦史研究家Robin L. Rielly著『KAMIKAZE ATTACKS of WORLD WAR II』)[206]など諸説ある。
アメリカ軍は、フィリピンで特攻により大きな損害を被った教訓として、沖縄本島近海で作戦行動をとる主力艦隊や輸送艦隊を包み込むように、半径100㎞の巨大な円周上に、レーダーを装備したレーダーピケット艦を配置し早期警戒体制を整えた。このレーダーピケット部隊は第5上陸作戦場スクリーン隊という部隊名であったが、一般的にはレーダーピケットラインと呼ばれた[207]。レーダーピケット部隊は駆逐艦や高速輸送艦(輸送駆逐艦)1隻に対し、対空装備を満載した上陸支援艇、掃海艇、駆潜艇などの小型艦2隻を最小単位として編成されており、二重に主力艦隊や輸送艦隊を取り囲んでいた。高速空母艦隊の第58任務部隊も輸送艦隊と同様に、高速空母隊の周りに警戒駆逐艦を配備し早期警戒に当たらせていた[208]。
日本軍はアメリカ軍のレーダーピケットラインを寸断するために、レーダーピケット艦を優先攻撃目標のひとつとしており、また出撃した特攻機もアメリカ軍の大量の迎撃機に阻まれて、最初に接触するレーダーピケット艦を攻撃することが多く[209]、その消耗は激しかった[210]。ニミッツはアーネスト・キング海軍作戦部長に「直衛艦艇と哨戒艦艇を1隻ずつ狙い撃ちにする特攻機により、現在受けつつあり、また将来加えられると予想される損害のため、スプルーアンスとターナーは2人とも、(アメリカ軍が)投入可能な駆逐艦及び護衛駆逐艦全てを太平洋に移動する必要がある点を指摘している」と請願し[211]、ドイツ軍のUボートを制圧していた大西洋の駆逐艦や護衛駆逐艦が続々と沖縄に派遣された[212]。アメリカ軍は、レーダーピケット艦が沈められた時に生存者の救出を図るため、レーダーピケット艦の周りを小型艇でびっしりと囲ませていた。そのような小型艦艇は『棺桶の担い手』と呼ばれ、実際に、特攻で粉砕されたレーダーピケット艦の生存者を救出し、遺体を収容している[213]。
特攻により生じた大量の損傷艦のために慶良間列島の泊地は常に満杯であり、損傷艦は工作艦により応急修理がなされると、随伴艦と一緒に群れを成して太平洋を横断してアメリカ本国に帰還した[214]。特攻による損傷艦のなかには、護衛空母スワニーのように、艦設計の際に考慮されていなかった程の甚大な損傷を負った艦や[215]、正規空母バンカーヒル のように、ピュージェット・サウンド海軍工廠で修理を受けた艦船の中では最悪の損傷レベルと認定された艦もあった[216]。甚大な損傷を負った艦のなかには、修理不能と診断されてそのままスクラップとなった艦も少なくない[217]。
レーダーピケット艦は特攻機を早期発見するという本来の任務のほかに、結果的に特攻機を引き付ける役割となってしまい、特攻機は何度もレーダーピケット艦に対する攻撃に集中し、大破して沈没寸前の艦にまで執拗に体当たりを繰り返した[218]。特にレーダーピケットラインの中枢で、「ブリキ缶」「スモールボーイ」などの俗称で呼ばれていた駆逐艦の損害は大きく[219]、「まるで射的場の標的の様な形で沖縄本島の沖合に(駆逐艦が)配置されている」と皮肉を言われるほどで[220]、やけになった駆逐艦の乗組員が、駆逐艦の艦尾に大きな矢印をつけて「日本の特攻隊員よ、空母はこの方向です!」と示したほどだった[221]。 沖縄戦中にアメリカ海軍は駆逐艦17隻(航空特攻15隻、特殊潜航艇1隻、陸上砲撃1隻)を沈められ、18隻が再起不能の損傷を受けて除籍される甚大な損害を被ったが(輸送・掃海等の用途特化型の駆逐艦を含む)、文字通り自らを犠牲にして主力艦隊や輸送艦隊を特攻から守り切った。その働きぶりはアメリカ海軍より「光輝ある我が海軍の歴史の中で、これほど微力な部隊が、これほど長い期間、これほど優秀な敵の攻撃を受けながら、これほど大きく全体の為に寄与したことは無い」と賞されている[222]。
人員に対する戦果
連合軍の人的損失については、特攻のみによる死傷者の公式統計はないため推計の域は出ないが、アメリカ軍の公式記録等を調査したRobin L. Rielly著『KAMIKAZE ATTACKS of WORLD WAR II』では特攻によるアメリカ軍の戦死者6,805名負傷者9,923名合計16,728名[206]、 Steven J Zaloga著『Kamikaze: Japanese Special Attack Weapons 1944-45』では戦死者7,000名超[223]、太平洋戦争の航空機関連で多くの著書があり、NPO法人『零戦の会』の発起人の一人でもあるノンフィクションライター神立尚紀の集計によれば戦死者8,064名負傷者10,708名合計18,772名とされている[224]。他にイギリス軍、オーストラリア軍、オランダ軍でも数百名の死傷者が出ている。連合軍全体では、戦死者12,260名、負傷者33,769名に達したという推計もある[225]。
有効率
フィリピン戦 | 沖縄戦 | 合計 | |
---|---|---|---|
特攻機損失数 | 650機 | 1,900機 | 2,550機 |
命中もしくは有効至近命中[注 6] | 174機 | 279機 | 475機[注 7] |
有効率 | 26.8% | 14.7% | 18.6% |
1944年10月~1945年1月 | 1945年2月 | 1945年3月 | 1945年4月 | 合計 | |
---|---|---|---|---|---|
アメリカ軍艦艇の射程内に入った日本軍機合計 | 1,616機 | 123機 | 219機 | 978機 | 2,936機 |
その内、特攻機 | 376機 | 18機 | 42機 | 348機 | 784機 |
その内、通常攻撃機 | 1,240機 | 105機 | 177機 | 630機 | 2,152機 |
特攻機命中 | 120機(命中率31.9%) | 8機 | 10機 | 78機 | 216機(命中率27.6%) |
通常攻撃命中 | 41機(命中率3.3%) | 1機 | 10機 | 6機 | 58機(命中率2.7%) |
特攻機 | 通常攻撃機 | |
---|---|---|
艦艇に1発の命中弾を与えるために必要な攻撃機数 | 3.6機 | 37機 |
命中率 | 27% | 2.7% |
艦艇に命中弾を与えるまでの損失機数 | 3.6機 | 6.1機 |
これらの統計の結果でアメリカ軍は、通常攻撃機をすべて特攻機に回したならば、この間の通常攻撃機による79発の命中弾が792発(792機)の命中になったであろうと分析している[229]。
上記統計の通り、航空機による通常攻撃と比較して特攻の有効性が圧倒的に上回っていた。 「日本軍パイロットがまだ持っていた唯一の長所は、彼等パイロットの確実な死を喜んでおこなう決意であった。 このような状況下で、かれらはカミカゼ戦術を開発させた。 飛行機を艦船まで真っ直ぐ飛ばすことができるパイロットは、敵戦闘機と対空砲火のあるスクリーンを通過したならば、目標に当る為のわずかな技能があるだけでよかった。もし十分な数の日本軍機が同時に攻撃したなら、突入を完全に阻止することは不可能であっただろう。 」と米国戦略爆撃調査団作成の公式報告書で述べられている通り[230]、通常の航空爆撃と異なり、対空攻撃によって特攻機の乗員が負傷したり機体が破損するなどしても、特攻機は命中するまで操舵を続けるため、投下する爆弾や魚雷を避けることを前提とした艦船の回避行動はほとんど意味がなかった[231]。1999年作成アメリカ空軍報告書において、特攻機は現在の対艦ミサイルに匹敵する誘導兵器と見なされて、アメリカ軍艦船の最悪の脅威であったと指摘されている。そして特攻機は相対的には少数でありながら、アメリカ軍の戦略に多大な変更を強いており、実際の戦力以上に戦況に影響を与える潜在能力を有していたと分析している[232]。
台湾沖で、神風特攻新高隊の零戦2機の特攻攻撃を受け大破炎上、144名戦死203名負傷の甚大な損害を被り、自らも重傷を負った空母タイコンデロガのディクシー・キーファー艦長は、療養中にアマリロ・デイリー・ニュースの取材に対して「日本のカミカゼは、通常の急降下爆撃や水平爆撃より4 - 5倍高い確率で命中している。」と答えている[233]。また、「通常攻撃機からの爆撃を回避するように操舵するのは難しくないが、舵を取りながら接近してくる特攻機から回避するように操舵するのは不可能である。」とも述べている。[234]またイギリスの著名な戦史・軍事評論家のバリー・ピッドは[注 8][235]「日本軍の神風特攻がいかに効果的であったかと言えば、沖縄戦中1900機の特攻機の攻撃で実に14.7%が有効だったと判定されているのである。これはあらゆる戦闘と比較しても驚くべき効率であると言えよう」「アメリカ軍の海軍士官のなかには、神風特攻が連合軍の侵攻阻止に成功するかもしれないと、まじめに考えはじめるものもいたのである」との記述をしている[236][237]。
特攻の高い有効性について、アメリカ海軍は下記のように分析していた[238] 。
- 特攻は、アメリカ軍艦隊が直面したもっとも困難な対空問題である
- 今まで有効であった対空戦術は特攻機に対しては機能しない
- 特攻機は撃墜されるか、激しい損傷で操縦不能とならない限りは、目標を確実に攻撃する。
- 操縦不能ではない特攻機は、回避行動の有無に関わらず、あらゆる大きさの艦船に対して事実上100%命中できるチャンスがある。
『国史大辞典』によれば、全期間での特攻戦死者数は約4400人、命中率は16.5%だった[239]。
社会学者青木秀男の研究論文いわく、特攻の定義や用いられた資料により、出撃回数・出撃機数・帰還機数・戦果といった算定は変わる[240]。
- 服部省吾の算定[注 9]:「出撃総数は約3,300機、敵艦船への命中率11.6%、至近突入5.7%、命中32隻、損傷368隻」[240]。
- 生田惇の算定[注 10]:「出撃機数2,483機、奏功率16.5%、被害敵艦数358隻」[240]
特攻隊員
特攻志願
特攻隊員の選抜については、大西が軍令部に航空特攻の開始を進言した際に総長の及川より「あくまでも本人の自由意志に基づいてやってください。決して命令はしてくださるな」と念を押されたように、原則は本人の志願に基づくものとされていた[242]。しかし、最初の神風特攻隊『敷島隊』の指揮官となった関が、実質的には命令に近い志願の打診を受けたように、初めから志願者のみという原則は徹底されていなかった[243]。志願にあたっては、「親一人、子一人の者」「長男」「妻子のある者」を除外することとしていたが、これも徹底はされていなかった[244]。
桜花搭乗員の募集は、フィリピンで特攻が開始される前の1944年8月中旬から始まっており、海軍省の人事局長と教育部長による連名で、後顧の憂いのないものから募集するという方針が出されている[245]。台南海軍航空隊では、司令の高橋俊策大佐より、搭乗員に対して「戦局は憂うべき状況にあり、中央でとても効果が高い航空機が開発されているが、それは死を覚悟した攻撃である」との説明があり、「確実に命を落とすが、現状打破にはこの方法しかない、海軍としてはやむを得ない選択であり志願を募る」と告げた。ただし妻帯者、一人っ子、長男はその中から除外された。3日間の猶予を与えられたが、海軍飛行予備学生第13期の鈴木英男大尉は「自分の命を引き換えに日本が壊滅的な状況になる前に、有利な講和交渉に持ち込めたら」「我々の時代は大学に進学するのはエリートであり、将来的に国のために尽くしてくれると、世間の人たちから大事にしてもらってきた厚意に報いたい」という気持ちで志願している[246]。
関らの成功により特攻志願者は増えたが、フィリピン戦の時点では選抜は原則志願を徹底するように慎重に行われていた。敷島隊の突入の10日足らずのちの1944年11月3日に元山海軍航空隊で特攻の志願者を募ったが、その際司令の藤原喜代間少将は「熟慮のうえで志願するように」と伝え、志願者が司令官公室に出向いてくると「後顧の憂いはないのか」と再度念を押している。志願者が意志を曲げない場合でも「君の希望を中央に連絡する」と即答を避けた。それでも選抜されない場合もあり、海軍飛行予備学生第13期の土方敏夫少尉の場合は、3回志願したがついに選抜されることはなかった[247]。
しかし、アメリカ軍が沖縄まで侵攻し、菊水作戦で特攻がより大規模になると様相は変わり、一時の感情にかられて志願するものや、また周囲の雰囲気に流されて、同調圧力で志願するものも多くなった[248]。高知海軍航空隊は練習機白菊による搭乗員訓練の航空隊であったが、戦局も逼迫した1944年末に横須賀鎮守府より特攻隊編成の訓示があり、航空隊司令加藤秀吉大佐から各員に「特別攻撃隊を編成するから、志願する者は分隊長に申し出るように」との指示があった。各人の意志に委ねられた形式で積極的に志願した者が多かったが、なかには、搭乗員である以上は勇ましい志願をせざるを得ず、やむなく志願した者もいたという[249]。筑波海軍航空隊では海軍飛行予備学生の訓練生に志願が呼びかけられたが、特攻に志願しないと飛行機に搭乗することができず、防空壕掘りか、代用燃料の松根油の材料であった松の根掘りに回されるという噂が立ち、自尊心から特攻を志願したものもいた[250]。
また、形式的な志願もない特攻出撃を命令されることもあった。指揮官の美濃部正少佐が特攻を拒否したことで知られる芙蓉部隊において、1945年2月17日、ジャンボリー作戦で日本本土を攻撃してきた第58任務部隊に対して、美濃部がかねてより温めてきた「黎明に銃爆撃特攻隊を準備し、最後は人機諸共に(空母の飛行)甲板上に滑り込み発進準備中の甲板上の飛行機を掃き落とす」[251]という対機動部隊特攻戦術で攻撃するべく、美濃部は出撃する搭乗員らに「空母を見つけたら飛行甲板に滑り込め」や「機動部隊を見たらそのままぶち当たれ」と命じて、別れの盃(別盃)を交わしているが[252]。この日出撃した河原政則少尉の記憶では、指揮所に行くと志願をしてもないのに自分の名前が出撃者名簿に記載されていたという。美濃部は別盃が並んだテーブルを前に、河原ら特攻出撃者とひとりひとり握手を交わしたが、出撃した特攻機は敵艦隊を発見できずに引き返した[253]。引き返した特攻機はアメリカ軍のF6F戦闘機とSB2C艦上爆撃機に追尾されており、爆弾や燃料を搭載したままであった彗星や零戦は攻撃により次々と爆発炎上し、芙蓉部隊は彗星7機と零戦1機を破壊され、2名が戦死している[254]。美濃部は特攻を完全に否定していたのではなく「特攻は戦機に乗じ臨機必死隊を出すべきものにして常用するは戦闘の邪道なり」と、安易な特攻への依存を拒否していただけで、戦機に応じて特攻は出すべきものとしていた[255][256]。
航空隊全体が特攻を命じられることもあり、第二〇五海軍航空隊については103名の搭乗員全員が、「特攻大義隊員を命ず」との辞令で特攻隊員に選抜されている[257]。沖縄戦で特攻機の護衛や要撃任務に就いていた第二〇三海軍航空隊戦闘303飛行隊に対しても「特攻隊員を〇人出せ」というような命令が来たが、飛行長の岡嶋清熊少佐が「戦闘機乗りというものは最後の最後まで敵と戦い、これを撃ち落として帰ってくるのが本来の使命、敵と戦うのが戦闘機乗りの本望なのであって、爆弾抱いて突っ込むなどという戦法は邪道だ」という信念で、容易にはその命令に従わなかった[258]。しかし、特攻が開始された直後のフィリピン戦においては、1944年10月29日に岡嶋が全搭乗員32名を整列させて特攻志願者を募り、全員が志願したためそのなかから3名を選抜している[259]。
民間航空機搭乗員を希望して乙種海軍飛行予科練習生第18期生として土浦海軍航空隊に入隊した桑原敬一は、ある日、講堂に集合させられ、参謀より「戦局悪化により特攻隊編成を余儀なくされたので、諸君らの意思を確認したい。各人に用紙を渡すから明日までに特攻志願する場合は所属部隊名と氏名を用紙に書き、志望しない場合は白紙で出すように」と言われた。各隊員は来るべきものが来たという気持ちで、複雑な心境ながら翌日に大多数は志願したが、白紙で提出した隊員も少なくなかった。しかし後日の参謀からの言葉は「諸君の意思は全員熱望であり、ただの一人の白紙もなかった」という意外なものであった。その言葉を聞いた桑原は憤りで頭にカアッと血が上ったと言う。桑原はこの自分の体験により、末期の特攻志願は似たような志願の強制事例が横行していたと考えていた[260]。
終戦後に、米国戦略爆撃調査団は特攻に対して詳細な調査を行ったが、海軍兵学校卒の現役士官4名、学徒出陣の海軍飛行予備学生2名に対して、特攻の志願について事情聴取をおこなっている。アメリカ軍調査官ヘラー准将の「特攻は強制であったか、志願であったか?」との質問に対して、兵学校出身の現役士官は「全て志願であった、しかしフィリピンでは戦況によって部隊全部が特攻出撃したこともある。」「内地で募集した際も殆ど全員が熱望し、中には夜中に学生から何度も起こされて自分を第一番にしてもらいたいと言われたこともある。また一人息子だから対象者から外したら、母親から息子を特攻隊員にしてほしいとの嘆願書が来たこともあった」と答えている。また海軍飛行予備学生の2名も「学徒出陣の我々は軍人精神を体得した者とは言えないが、一般人として戦況を痛感し、特攻が最も有効な攻撃法と信じた。我々が身を捧げる事により、日本の必勝を信じ、後輩がよりよい学問を成し得るようにと考えて志願した」と答えている。この事情聴取によって、当初は「アメリカの青年には到底理解できない。生還の道を講ずることなく、国家や天皇の為に自殺しようとする考え方は考える事ができない」と言っていたヘラー准将も、最後には「特攻隊の精神力をやや理解できた。君らのいう事は理に適っており、アメリカ人にも理解できると思う」と話している[261]。
多数の特攻隊指揮官から隊員の生存者まで尋問した米国戦略爆撃調査団の出した結論は「入手した大量の証拠や口述書によって大多数の日本軍のパイロットが自殺航空任務に、すすんで志願した事は極めて明らかである。機体にパイロットがしばりつけられていたという話[注 11]は実際にそういうことが起きたとしても、一度だけだったであろう。また、戦争最後の数週間前までに、もっとも熱心なパイロットは消耗されつくしたか、あるいは出撃を待っている状態だった事も明らかである。陸海軍両軍とも、新米で訓練不足のパイロットを自殺部隊に割り当てる、つまり志願者を徴集する段階に到達していた。」と原則志願制でありながら、それが既に限界に達していたと分析している[262]。
戦没者
階級 | 戦没者数 | 構成比率 |
---|---|---|
現役士官/将校現役士官 | 121名 | 4.8% |
予備学生 | 648名 | 25.6% |
特務士官・准士官・下士官兵 | 1,762名 | 69.6% |
合計 | 2,531名 | 100% |
階級 | 1945年4月1日時点 | 構成比率 | 1945年7月1日時点 | 構成比率 |
---|---|---|---|---|
現役士官/将校 | 1,269名 | 5.3% | 1,036名 | 4.7% |
予備学生 | 5,944名 | 25.0% | 5,530名 | 24.8% |
特務士官・准士官・下士官兵 | 16,616名 | 69.7% | 15,711名 | 70.5% |
合計 | 23,829名 | 100% | 22,277名 | 100% |
「身内の、海軍兵学校卒のエリート士官を温存し、学生出身の予備士官や予科練出身の若い下士官兵ばかりが特攻に出された」という俗説がよく言われているが[265]、上表『海軍特攻戦没者数と構成率』と『大戦末期の日本海軍航空隊全搭乗員の階級別構成率』の通り、特攻戦没者数の海軍兵学校卒の現役士官、学徒出陣などで学生から採用された海軍予備学生、特務士官以下の構成率は、大戦末期の日本海軍全搭乗員の構成率とほぼ同じであり、単なる人数比に過ぎず、母数を無視してあたかも現役士官が優遇されていたように指摘するのは「軍隊=身内をかばう悪しき組織」とした方が、特攻を批判するのに都合がいいからという意見もある[266]。
飛行学生 | 飛行予備学生 | |
---|---|---|
人員総数 | 1,945名 | 10,778名 |
戦没者 | 1,103名 | 2,464名 |
内特攻死 | 108名 | 652名 |
内殉職 | 142名 | 386名 |
戦没率 | 56.7% | 22.9% |
上表の通り、海軍兵学校卒の航空士官の戦没率は、海軍航空予備学生の航空士官の2倍以上に達している。戦争の激化に伴い、士官の消耗が激しくなったことから、海軍兵学校も55期~65期までの100名~150名であった卒業生の任官を、大幅に増加させる必要に迫られた。66期に219名と200名を突破したあとも年々増加し、70期では432名、そして終戦直前の1945年3月に卒業した74期は1,024名の大量任官となった。しかし、海軍兵学校の現役士官の戦没率は非常に高く、海兵68期卒業生288名の内191名が戦死し戦没率66.32%、海兵69期卒業生343名中222名戦死し戦没率64.72%、70期は433名中287名戦死し戦没率66.28%、71期は581名中329名の56.6%、72期は625名中の337名の53.9%と高水準となっており [268][269]、特に、航空士官の死亡率が高く、例えば1939年に卒業した第67期は全体では248名の同期生の戦没率は64.5%であったが、そのうち86名の航空士官に限れば66名戦没で戦没率76.6%、特に戦闘機に搭乗した士官は16名のうちで生存者はたった1名、艦爆搭乗の士官の13名に至っては全員戦没している[270]。海軍兵学校卒の航空士官の補充が到底追いつかなくなった海軍は、学徒出陣で海軍飛行予備学生を大量に航空士官として採用せざるを得ず、沖縄戦開始時点の4月1日時点では、日本海軍の航空士官で海軍飛行予備学生の士官が占める割合は82.4%にも達していた[271]。海軍省に対し、ある航空隊の司令官が「今や、私の航空隊の搭乗員の主力は、第13期予備学生の出身者で占められている。彼らなしでは戦えない。彼らを大量にされたことはまことに有意義なことであった」と報告した通り、日本海軍航空士官の主力は、学徒の海軍飛行予備学生の士官と言っても過言ではない状況となっていた[272]
海軍が航空士官不足に陥り、飛行予備学生の大量採用に踏み切った以降の卒業生となる13期、14期、予備生徒1期で合計8,673名中戦没者は2,192名、戦没率25.2%と飛行予備学生全体の戦没率より高めのうえ[273]、戦没率に占める特攻死の比率が飛行予備学生の方が高いため、戦争当時も「飛行予備学生出は海兵出の弾よけであった」などの批判はあっていた。そのような批判に対して、長岡高等工業学校(現新潟大学)から飛行予備学生となった陰山慶一中尉は、海軍兵学校に対して「われわれを立派な海鷲の士官として育ててくれた上官、教官には深く感謝し、ともに闘ってきたコレスの(海軍兵学校)72期、79期の飛行学生には、深い友情を覚える」と述べている[274]。
方法
機材・爆弾
最初の神風特攻隊を編成した1944年10月20日、零戦を改修したものを利用した。改修は、もともと零戦で反跳爆撃の訓練が行われていたため、250キロ爆弾を搭載でき、爆弾発火装置を作動状態にするために風車翼螺止ピアノ線を操縦者が機上から外せるようにするだけでよく、体当たり直前に操縦者が抜ける簡単な装置であった。その後、500キロ爆弾になり、艦爆その他も特攻に使われるが、特別工作を必要とするものではなく、1945年以降も爆装さえしていれば、特攻に使用する機体は問題にするほどの工作は不要だった[275]。
1945年2月17日、連合艦隊はアメリカ艦隊を泊地ウルシーで攻撃する丹作戦を命令した。攻撃部隊として、陸上攻撃機「銀河」を基幹とする特攻隊を編成し菊水部隊梓特別攻撃隊と命名した。銀河には、それまでの500キロ爆弾1発もしくは250キロ爆弾2発ではなく、魚雷にも匹敵する威力の800㎏爆弾が搭載された[276]。3月11日に24機の銀河が出撃したが、途中で脱落する機が続出し、1機が 正規空母ランドルフに命中したにとどまった。銀河はランドルフの飛行甲板後方に命中したため、死傷者は150名以上と人的損害は大きかったが、致命的な損傷には至らなかった [277]。
艦艇を撃沈するためには、魚雷により喫水線下を攻撃するのが最も効果的であったが、特攻を開始した大戦末期には、魚雷をだいて、強力な敵戦闘機の防御網を突破して、敵艦に肉薄して雷撃を行うことができる熟練搭乗員は極度に不足しており、その代わりとして高い命中率が期待できる零戦による特攻が企画された[278]。爆弾を搭載しての特攻は、雷撃に対して威力が相当に劣るため、突入方法や敵艦艇の突入目標箇所などの研究が行われている[279]。
日本海軍軍令部が想定していた特攻機の搭載爆弾別の威力は下記の通りであった[280]。
特攻機と搭載爆弾 | 桜花 (炸薬量1300kg) | 800kg爆弾を搭載した特攻機 | 500kg爆弾を搭載した特攻機 | 250kg爆弾を搭載した特攻機 |
---|---|---|---|---|
威力点 | 5点 | 3点 | 2点 | 1点 |
正規空母 | 巡改(軽)空母 | 護衛空母 | 戦 艦 | 巡洋艦 | |
---|---|---|---|---|---|
所要弾薬 | 桜花1機と800kg特攻機1機 | 桜花1機と800kg特攻機1機 | 800kg特攻機1機 | 桜花2機 | 桜花1機 |
所要威力点 | 8点 | 8点 | 3点 | 10点 | 5点 |
これは想定であり、実戦で必ずしもこの通りになったわけではないが、正規空母や軽空母を撃沈するためには、250キロ爆弾を搭載した零戦が8機以上も命中する必要があると軍令部は想定しており、事実、巡洋艦以上の大型艦艇を撃沈することはできなかった。アメリカ軍も「45隻の艦船が沈没したが、その多くは駆逐艦だった。日本は大型艦を沈めたという膨張された主張に彼等自身騙され、大型艦を沈めるにはより重量のある爆発弾頭が必要であるという技術者達の忠告を無視した」[281]、「大型機を別にすれば、陸海軍機のすべては、威力不十分な爆弾を使用していた。連合軍の主力艦が自殺機によって、1隻も撃沈されなかった理由のひとつも、このあたりにあった」と総括し[282]と特攻機に搭載された爆弾の威力不足を指摘していた。
搭載爆弾を大型化すれば、威力向上するのを日本軍も理解し様々な対策を講じたが、爆弾が大型化すればするほど特攻機の搭載重量は増え運動性は低下するため、飛行が困難になるばかりでなく敵の迎撃の好餌となってしまった。特に大重量爆弾を搭載できる双発機は、アメリカ軍の特攻対策マニュアル「Anti-Suicide Action Summary」にて「桜花母機及び、潜在的な母機となりうる双発機を最優先で攻撃すること。」と、特攻兵器桜花を警戒していたアメリカ軍から優先攻撃目標とされていたため[283]、敵艦への接近が非常に困難になっていた。
これまでの戦訓により、大型爆弾を搭載した特攻機が敵の激烈な迎撃を突破することや、1隻の敵艦艇に多数の特攻機が命中するのが困難と認識した軍令部は、少数の特攻機の命中でも、大型艦に致命的打撃威力を発揮できる、画期的威力増大策の研究を行い、下記の検討を行っている[284]。
- 特攻攻撃により爆弾を敵艦船の水線下に確実に命中させる方法。
- 特攻機突入時の撃速増大の方法、突撃時攻撃機の翼を切断し速力を急増し、敵の迎撃を局限すると共に撃速を増大させる(キ115の開発と増産)。
- 成形炸薬弾頭であるV爆弾の実戦配備(成形炸薬弾頭とはモンロー/ノイマン効果を利用した弾頭)。
- 液体酸素、過酸化水素、黄燐等の炸裂威力助成剤を搭載し爆発威力を増大させる
- 旧型魚雷に過酸化水素を充填し代用爆弾とする。
終戦までに具体化したものはなく、「中央当局の努力にもかかわらず終戦までに具体的に搭乗員の崇高なる特攻精神にふさわしい威力を具備した特攻機は出現しなかった。」と総括されている[285]。
搭載爆弾の威力不足問題は解消できなかったが、特攻機の機体そのものが兵器になり、効果を増大させていた。第6航空軍の高級参謀は「特攻は(通常攻撃より)効果が大きい、その理由は爆弾の衝撃が飛行機の衝突によって増加され、またガソリンの爆発で火災が起きる。さらに、適切な角度で行えば通常の爆撃よりもスピードが大きく、命中率が高くなる」と分析していた[286]。
特攻機の航空燃料で生じる激しい火災により、アメリカ軍の被害艦では重篤な火傷を負った負傷者が多かった[287]。航空燃料による火傷の他に、特攻機や搭載爆弾の爆発で生じる閃光による閃光火傷を負う負傷者も多かった[288]。死傷者の増大に悩まされたアメリカ軍は、『Combating suicide plane attacks』という兵士向けのニュース映画を作成して「一か所に大人数で集まることを禁止」「全兵員が長袖の軍服を着用し袖や襟のボタンをしっかりとめる、顔など露出部には火傷防止クリームを塗布する」「全兵員のヘルメット着用義務化」「対空戦闘要員以外はうつ伏せになる」など事細かに特攻による兵員の死傷の防止策を指導していた[289]
攻撃方法
海軍航空隊は特攻機による接敵法として「高高度接敵法」と「低高度接敵法」を訓練していた[290]。
- 高高度接敵法
- 高度6,000m - 7,000mで敵艦隊に接近する。敵艦を発見しにくくなるが、爆弾を搭載して運動性が落ちている特攻機は敵戦闘機による迎撃が死活問題であり、高高度なら敵戦闘機が上昇してくるまで時間がかかること、また高高度では空気が希薄になり、敵戦闘機のパイロットの視力や判断力も低下し空戦能力が低下するため、戦闘機の攻撃を回避できる可能性が高まった。しかし敵のレーダーからは容易に発見されてしまう難点はあった。
- 敵艦を発見したら、まず20度以下の浅い速度で近づいた。いきなり急降下すると身体が浮いて操縦が難しくなったり、過速となり舵が効かなくなる危険性があった[291]。敵艦に接近したら高度1,000m - 2,000mを突撃点とし、艦船の致命部を照準にして角度35度 - 55度で急降下すると徹底された。艦船の致命部というのは空母なら前部リフト、戦闘艦なら艦橋もしくは船首から長さ1⁄3くらいの箇所であったが、これは艦船に甚大な損傷を与えられるだけでなく、攻撃を避けようと旋回しようとする艦船は、転心[注 12]を軸にして回るため、その転心が一番動きが少ない安定した照準点とされた[292]。
- 低高度接敵法
- 超低高度(10m - 15m)で海面をはうように敵艦隊に接近する。レーダー及び上空からの視認で発見が困難となるが、高度な操縦技術が必要であった。敵に近づくと敵艦の直前で高度400m - 500mに上昇し、高高度接敵法の時より深い角度で敵艦の致命部に体当たりを目指す。突入角度が深ければ効果も大きいため、技量や状況が許すならこちらの戦法が推奨された。[293]
複数の部隊で攻撃する場合は「高高度接敵法」と「低高度接敵法」を併用し、敵の迎撃の分散を図った。他にも特攻対策の中心的存在であった連合国軍のレーダーを欺瞞する為に、錫箔を貼った模造紙(電探紙、今で言うチャフ)をばら撒いたり、レーダー欺瞞隊と制空部隊ら支援隊と特攻機隊が、別方向から敵艦隊に突入する「時間差攻撃」を行ったり[294]という戦法などで対抗している[295]。 海軍航空隊における特攻の教育日程は、発進訓練(発動、離陸、集合)2日、編隊訓練2日、接敵突撃訓練3日を基本に、時間に応じこの日程を反復していた[293]。
特攻に主に使われた零戦は、もともと空戦用にできているため急降下すると機首が浮き上がり、速度で舵も鈍くなるため正確に突入するのが困難という意見もあり[296]、沖縄戦時の菊水作戦中に第5航空艦隊参謀に就任していた中島正中佐が出撃する特攻隊員に「ダイブ(急降下)角は45度」という訓示をしているが、中島の訓示の後に第七二一海軍航空隊の林富士夫大尉が「中島中佐は自分が飛ばないからわからない。高い角度のダイブで突入することは不可能で、せいぜい20~30度である。突入は舷側を狙え」と中島の指示を訂正している[297]。
突入角度が浅いと、特攻機の爆弾が敵艦を貫通しないケースも少なからずあった。特攻の戦果確認機からの過大戦果報告に疑念を感じていた軍令部次長大西が、第一航空技術廠長の多田力三中将に特攻の効果についての実験を要請している。その要請を受けて、第一航空技術廠と横須賀海軍航空隊は1945年5月に協同で、250kg爆弾を搭載した無人の零戦をカタパルトで射出し、様々な角度で鋼板に衝突させる実験を行った。その結果、30度以上の角度では爆弾も機体も鋼板を貫通するが、30度未満の角度では鋼板の上を滑って機体も爆弾も跳躍してしまうことが判明した。この実験結果を見て大西は、搭乗員の心理作用で突入角度が浅くなって、結果的に特攻機が敵艦を貫通できないケースがあることを認識している[298]。
しかし、沖縄戦で富安俊助中尉が搭乗する零戦が空母エンタープライズを大破させたときの最終突入確度は50度に達しており、深い角度で突入した事例もある[299]。一方で、フィリピンにおいて護衛空母のセント・ローに命中した敷島隊の零戦は、まるで着艦でもする様な高度(30m)で接近してきてそのまま時速480km/hで浅い角度で体当たりしたが[300]、搭載爆弾は甲板を貫通、格納庫で爆発し、燃料や弾薬を誘爆させ合計7回の爆発を経たのちに、特攻機命中からわずか32分後に爆沈したように[301]、突入角度が浅くとも敵艦に深刻な損害を与えた事例も多い。
練習機や水上偵察機による特攻
大戦末期には、それまでの戦闘による消耗で特攻に投入できる機体が枯渇しており、練習機や水上偵察機も特攻に投入された。九三式中間練習機、二式中間練習機、九五式水上偵察機、零式観測機、零式練習戦闘機は、250キロ爆弾1発。機上作業練習機「白菊」、九四式水上偵察機、零式水上偵察機は、250キロ爆弾2発を搭載して特攻に出撃した[302]。
菊水七号作戦中の1945年(昭和20年)5月24日の夜間に初の白菊特攻隊、第一次白菊隊14機が串良の航空基地から出撃した。故障や不時着の3機を除き11機が未帰還となったが、一部が敵艦隊に到達している。沖縄戦で特攻を指揮した第5航空艦隊司令部はアメリカ軍の無電を傍受しており、「時速160㎞~170㎞の日本軍機に追尾されている。」というアメリカ軍の駆逐艦の無電を聞いた一人の幕僚が、「駆逐艦の方がのろい白菊を追いかけているんだろう。」と笑う有様で[303]、第5航空艦隊司令官宇垣纏中将も「夜間は兎も角昼間敵戦闘機に会して一たまりもなき情なき事なり(中略)数あれど之に大なる期待はかけ難し。」と白菊特攻について厳しい評価を下し、夜間や黎明に限定して投入することとしている[304]
しかし、軍による低い期待とは裏腹に練習機や偵察機の特攻は戦果を挙げており、アメリカ軍側の記録により確認できる戦果だけでも、1945年5月4日には、九四式水上偵察機がF4Uコルセアの迎撃を巧みにかわすと、モリソン(駆逐艦)の航跡の上に一旦着水、航跡の上を滑走しながらモリソンを追尾し、離水するとそのまま超低空で砲塔に突入して火薬庫を誘爆させた。モリソンは8分間で轟沈し[305]死傷者255名にも上り、無事だったのは、誘爆で海中に投げ出された71名に過ぎなかった[306]。
1945年5月27日の海軍記念日に出撃させる特攻機が枯渇していた海軍は、やむなく白菊を出撃させた。この日、鹿屋基地に第五航空艦隊司令部付将校として配属されていた野原一夫少尉は、通信室でアメリカ軍の無電を傍受していたが、やがてアメリカ軍駆逐艦や警備艇が「海面すれすれの、30mぐらいの低空に奇妙な物体がいくつか見える」「飛行機にしてはあまりにスピードがスローである。何だろう、爆音が聞こえてきた。やはり飛行機かもしれない」「太った雌鶏が空を飛んでいる。あれはボギー(敵機)だ」「ボギーにしてはスピードが遅すぎる、先日も飛んできた。ボギーに間違いない」という無電を発したのを聞いている[307]。この白菊隊は、雨雲を抜けると駆逐艦ドレクスラーに突入した。ドレクスラーの乗組員からは、接近してくる白菊は時代遅れの練習機には見えず、操縦しているのも、経験を十分積んだ熟練パイロットのように見えたという[308]。白菊のうち1機は、ドレクスラーの艦後部に突入してボイラー室と機械室を破壊し、航行不能に陥らせた[309]。
このときドレクスラーが発したと思われる「甲板上大火災」「至急救援たのむ」という無電を傍受した通信室の野原ら将校は「突っ込んだんだ、白菊が。白菊だ。やったぞ」と歓喜している[310]。この後、ドレクスラーにはもう1機の白菊も突入し、たちまち転覆して沈没した。あまりに沈没が早かったため、乗組員158名が死亡、艦長を含む52名が負傷した[311]。その後も、1945年6月21日に輸送駆逐艦(高速輸送艦)バリー とLSM-1級中型揚陸艦 LSM-59の合計3隻を撃沈し[312]、1945年(昭和20年)5月29日にシュブリック(駆逐艦) [注 13][313][314]、1945年(昭和20年)6月21日に中型揚陸艦LSM-213の2隻を大破させ[315]、その後両艦は修理が断念されて、スクラップとなった[316]。
終戦直前の7月29日に93式中間練習機7機で編成された「第3龍虎隊」が宮古島から出撃、「第3龍虎隊」は2日に渡ってレーダーピケット艦を攻撃し、突入した7機で駆逐艦 キャラハンを撃沈し、カシンヤング(駆逐艦) を大破させて、プリチェット(駆逐艦) とホラス・A・バス(輸送駆逐艦)を損傷させた。この4艦で74名の戦死者と133名の負傷者が生じた[317]。
わずか7機の93式中間練習機に痛撃を被ったアメリカ軍は、練習機での特攻を脅威と認識、効果が大きかった要因を以下のように分析し、高速の新鋭機による特攻と同等以上の警戒を呼び掛けている[283]
- 木製や布製でありレーダーで探知できる距離が短い。
- 近接信管が作動しにくい(通常の機体なら半径100フィート(約30m)で作動するが、93式中間練習機では30フィート(約9m)でしか作動しない)。
- 対空火器のMk.IV20㎜機関砲は、エンジンやタンクといった金属部分に命中しないと信管が作動せずに貫通してしまい効果が薄い。ただし、ボフォース 40mm機関砲は木造部分や羽布張り部分でも有効であった。
- 非常に機動性が高く、巧みに操縦されていた。
アメリカ側は練習機や水上偵察機や九九式艦上爆撃機の様に、通常攻撃ではアメリカ軍艦艇に打撃を与えることが不可能となっていた、低速機、複葉機、旧式機などが、特攻では戦果を挙げていることを見て「特攻は、複葉機や九九式艦上爆撃機のような固定脚の時代遅れの航空機でも作戦に使用できるという付随的な利点があった」と評価している[318]。
神風特攻隊の一覧
注釈
- ^ このコンセプトは米内光政海軍大臣によるものと言われる[45]。
- ^ 甲飛10期生は、神風特攻隊の創始者を大西ではなく玉井と見ている。その理由として、「編成は現場を熟知している玉井によって既に作られていたような手早い段取り、組み合わせだったこと[54]」「玉井はフィリピンにおける特攻の最たる推進者で、マリアナ沖海戦後は早い段階から体当たり攻撃を提唱し、甲飛10期生に『もう特攻しかない』『必ず特攻の機会をやる』と話していたこと」を挙げている[55]。
- ^ アメリカ本土に曳航されたが修理不能と判定され除籍されたか、戦後に行われた損傷艦艇の検査の際に、新造以上のコストがかかると判定され、海軍作戦部長命で廃艦指示された艦。
- ^ 損傷艦は延べ数
- ^ アメリカ海軍・イギリス軍・ソ連軍各1隻
- ^ 有効至近命中はアメリカ軍艦艇に損傷を与えたもののみ計上。
- ^ 合計が合わないが原資料のまま。
- ^ ブリタニカ百科事典の海戦項目の執筆やBBC制作『大戦』の総監修を務めるなど、イギリスにおける第二次世界大戦に関する軍事評論の第一人者だった。
- ^ 服部省吾「第四章第六節 特攻作戦」奥村房夫監修『近代日本戦争史第四編大東亜戦争』1995年、590頁[241]。
- ^ 生田惇『陸軍航空特別攻撃隊史』1977年、223頁[241]。
- ^ 当時アメリカの一部では特攻隊員は機体に縛り付けられたり、薬やアルコールで判断力を失っていると信じられていた。
- ^ 船が回頭する際の軸。前進中ならば船首から船の重心までの距離の約1⁄3にあたる
- ^ シュブリックに突入した機体の機種は公式記録上は不明であるが、シュブリックが特攻された時間、5月29日0:13に沖縄に突入した航空機は、28日19:13から夜間出撃した第三次白菊隊11機以外になく(白菊は沖縄到達まで約5時間の飛行時間)白菊の戦果と推定される
脚注
- ^ a b 吉田 2017, p. 「特攻隊」.
- ^ a b “連載『昭和時代』 第3部 戦前・戦中期(1926〜44年) 第48回「特攻・玉砕」”. 読売新聞: p. 18. (2014年2月15日)
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- ^ 大正13年9月2日(火)官報第3609号。国立国会図書館デジタルコレクションコマ3(山本、補霞ヶ浦海軍航空隊附)
- ^ 大正13年12月2日(火)官報第3684号。国立国会図書館デジタルコレクションコマ11(山本、補霞ヶ浦海軍航空隊教頭兼副長)
- ^ 大正14年12月2日(水)官報第3982号。国立国会図書館デジタルコレクションコマ7(山本免職)
- ^ 大正14年1月8日(木)官報第3711号。国立国会図書館デジタルコレクションコマ5(大西、補霞ヶ浦海軍航空隊教官)
- ^ 大正15年2月2日(火)官報第4030号。国立国会図書館デジタルコレクションコマ4(大西、免霞ヶ浦海軍航空隊教官)
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