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==歴史==
==歴史==
[[日本酒の歴史]]を参照。
=== 上代以前 ===
==== 日本酒の起源 ====
[[Image:Sake barrels.jpg|thumb|[[厳島神社]]の酒樽]]
[[日本列島]]に住む人々がいつ頃から米を原料とした酒を造るようになったのかは定かではないが、[[稲作]]、とりわけ[[水稲]]の耕作が定着し、安定して米が収穫できるようになった以降のことであるのは確かと思われる。日本国外には、[[中国大陸]][[揚子江]]流域に紀元前4800年ごろ稲作が始まり、ここで造られた米酒が日本に輸出されたのが日本酒の起源とする説もあるが、さまざまな点で無理があり、日本国内ではほとんど支持されていない。

日本に酒が存在することを示す最古の記録は、3世紀に成立した『[[三国志]]』[[東夷伝]][[倭人]]条(いわゆる'''[[魏志倭人伝]]''')にある記述である。同書は倭人のことを「人性嗜酒(さけをたしなむ)」と評しており、喪に当たっては弔問客が「歌舞飲酒」をする風習があることも述べている。ただ、この酒が具体的に何を原料とし、またどのようなやり方で醸造したものなのかまでは、この記述から窺い知ることはできない。ちなみに、酒と宗教が深く関わっていたことを示すこの『三国志』の記述は、酒造りが[[巫女]](みこ)の仕事として始まったことをうかがわせる一つの根拠となっている。

もう一つの根拠は、'''「医」'''という文字の変遷に見られる。中国大陸においては、古くは同じく口噛みの製法で紀元前14世紀ごろ[[アワ]](粟)、[[キビ]]などの[[雑穀]]から「小米酒」([[ピン音]]: <font lang="zh">{{fontie|xǐao mǐ jǐu}}</font>。小米は粟の意。)を造ることから醸造の歴史が始まり、紀元前8世紀には「米酒<!--(<font lang="zh">{{fontie|mǐ jǐu}}</font>)←類推できるので不要 -->」の時代に入っていた。ただし、「[[米]]」は「[[種子|種]]」という意味でしかないので、注意が必要である。<!--これは成分的に現在の日本酒とほとんど同じである。←検証不可能でしょう-->1世紀ごろの[[漢方医学]]の書物には、古代漢方において[[酒醪]](しゅろう)と呼ばれる処方、すなわち服薬に際して「酒で煎じるべし」「酒で服用すべし」といった指示が頻繁にあらわれる。こうしたことから、当時すでに米で造った酒が医療的に重要な意味を持っていたことがわかる。

「医」の旧字体「醫」の部首である「[[酉]]」(とりへん)は、「醸」「醗」「酵」のように酒に関連した物事をあらわすが、これは酒を醸す[[壺]]が半ば土に埋まっている[[象形]]に起源を持つ。さらに時代をさかのぼると「醫」の下部「酉」は「巫」であった。これはすなわち、まだ医療行為の主流が現代でいう「[[占い]]」のようなものであったころ、集落や古代国家においてそれを司る者が[[巫女]]もしくは[[巫祝]](ふしゅく)であったことを示している。またその文字が時代とともに「醫」に変化していったことから、医師である巫女・巫祝が、「占い」に加えて今でいう「[[薬物療法]]」を取り入れ、医術が進歩もしくは変化してきたことがうかがえる。すなわち、[[生薬]](しょうやく)の類を医師が酒醪として処方するようになってから、「医」の文字も「醫」に変化していった、と考えられるのである。

=== 上代 ===
==== 口嚼ノ酒(くちかみのさけ) ====
米を原料とした酒であることが確実な記録が日本に登場するのは、『三国志』の時代から約500年も後のことになる。興味深いことに、その最古の記述は二つある。

一つは『[[大隅国風土記]]』逸文([[713年]]以降)である。[[大隅国]](今の鹿児島県東部)では村中の男女が水と米を用意して生米を噛んでは容器に吐き戻し、一晩以上の時間をおいて酒の香りがし始めたら全員で飲む風習があることが記されている。彼らはその酒を「口嚼(くちかみ)ノ酒」と称していたという。これは唾液中の澱粉分解酵素である[[アミラーゼ]]、[[ジアスターゼ]]を利用し、空気中の野生酵母で発酵させる原始的な醸造法であり、東アジアから南太平洋、中南米という広い範囲に分布していることが知られている。現代[[日本語]]でも酒を醸造することを「醸(かも)す」というが、その古語である「醸(か)む」と「噛(か)む」が同音であるのは、このことに由来する。

もう一つは『[[播磨国風土記]]』([[716年]]頃)である。神に供えた干し飯が水に濡れてカビが生えたので、酒を造らせてその酒で宴会をしたという記述が見える。こちらは[[麹]]カビの糖化作用を利用した醸造法であり、現代の日本酒のそれと相通じるものである。このように、奈良時代の同時期に口噛みと麹というまったく異なる醸造法が記録されているわけであるが、当時一般的であったのは後者の方であったろう。前者は大隅という辺境の地にたまたま残った古い風習を記録したものと解すべきである。

==== 清酒の起源をめぐって ====
『播磨国風土記』には「清酒(すみさけ)」というものに関する記事もある。これを以て現在の[[清酒]](せいしゅ)の初見とみなす説があるが、それは以下のように議論の分かれるところである。

[[古代]]の酒は、標準的には、出雲や博多に現在も残る[[練酒]](ねりざけ)のようにペースト状でねっとりとしたものであったようである。現在でも、[[皇室]]における[[新嘗祭]](にいなめさい)では、このような古代の製法で醸造した[[白酒 (しろき)|白酒]](しろき)、[[黒酒]](くろき)という二種類の酒が供えられる。黒酒とは、白濁した白酒に、久佐木と呼ばれる草を蒸し焼きにし、その灰をまぜこんで黒くした酒である。これは、黒みがかった古代米で造った古代の酒の色を伝承していくための工夫の結果であろうと考えられている。

さて、このような粘度の高い古代酒から、今日私たちが見るような透明でサラサラとした清酒(せいしゅ)を精製することは決して不可能ではなかっただろうと思われる。濁りを漉しとるだけならば、布、炭、砂などで濾過する原始的技術があったからである。ゆえに、清酒(せいしゅ)が日本酒そのものの誕生とほぼ同時期である上代に造られたと考えるのにはさほど無理はない。

しかしながら、一方ではこの時代の古文書、たとえば[[天平]]年間の諸国の『[[正税帳]]』などには「浄酒」(すみさけ/すみざけ)といった語も出現する。よって「清酒(すみさけ)」は「清(きよ)め」など祭事的な用途に使われる酒を意味していた、という説が生まれた。

いずれにせよ清酒(せいしゅ)は、やがて『[[菩提泉]]』に代表されるような平安時代以降の[[僧坊酒]]にその技術が結集されていくことになる。また、この『菩提泉』をもって日本最初の清酒とする説もあり、それを醸した奈良[[正暦寺]]には「日本清酒発祥之地」の碑が建っている。さらに[[兵庫県]][[伊丹市]]鴻池にも、同市が文化財に指定した「清酒発祥の地」の伝説を示す石碑である[[鴻池稲荷祠碑]](こうのいけいなりしひ)が建っている。

==== 麹造りと醴酒(こざけ) ====
『[[古事記]]』には[[応神天皇]](『[[新撰姓氏録]]』によれば[[仁徳天皇]])の御世に来朝した百済人の[[須須許里]](すすこり)が大御酒(おおみき)を醸造して天皇に献上したという記述がある。『新撰姓氏録』によれば、この献上を行なったのは兄曽々保利、弟曽々保利の二人ということになっている。そもそも須須許里なる人物が実在したかどうかは不明であるが、百済からの[[帰化人]]が用いた醸造法ということであれば、当然それは麹によるものであったに違いない。しかし、だからと言って、この献上より前には、麹による酒造法が日本に存在しなかったということではない。

たとえば、『[[日本書紀]]』によれば、[[応神天皇]]19年に吉野の[[国樔]](くず)が[[醴酒]](こざけ)を献上したという記述が見られる。[[国樔]]は「国主」「国栖」とも書き、奈良時代以前の日本各地に散在していた非農耕民で、その特異な習俗のため大和朝廷からは異種族扱いされていた人々である。『[[延喜式]]』の記述によれば、その国樔が献上した酒でさえも醴酒という米と麹を使用して造る酒であったことがうかがえるので、麹による醸造法は当時既に全国的に普及していたと見るべきである。須須許里が実在の人物であったとしても、彼がもたらしたものはせいぜい酒造技術の向上レベルのものであったと思われる。

なお、醴酒に関しては、養老1年([[717年]])[[美濃国]]から献上された[[醴泉]]で醴酒を造ったとの記述も『[[続日本紀]]』にある。

==== 朝廷による酒造り ====
持統3年([[689年]])には[[飛鳥浄御原令]](あすかきよみはらりょう)に基づいて[[宮内省]](くないしょう)の[[造酒司]](さけのつかさ / みきのつかさ)に[[酒部]](さかべ)という部署が設けられ、[[701年]]には[[大宝律令]]によってそれがさらに体系化され、[[朝廷]]による朝廷のための酒の醸造体制が整えられていった。

=== 中古 ===
『[[延喜式]]』([[927年]])には宮内省造酒司の御酒槽のしくみが記されており、すでに現代の酒とそれほど変わらない製法でいろいろな酒が造られていたことがわかる。なかでも「しおり」と記される製法は、現代の[[貴醸酒]]が開発される基になった。

その後は朝廷直属の酒造組織に代わって、寺院で造られた'''[[僧坊酒]]'''(そうぼうしゅ)が高い評価を得るようになっていった。

数ある僧坊酒の中で、奈良の寺院が造った「[[南都諸白]](なんともろはく)」は室町時代に至るまで長いこと高い名声を保った。'''[[諸白]]'''とは、現在の酒造りの基礎にもなっている、[[麹米]]と[[掛け米]]の両方に精白米を用いる手法で造られた透明度の高い酒、今日でいう[[清酒]]とほぼ等しい酒のことを、当時の酒の主流をしめていた[[濁り酒]](にごりざけ)に対して呼んだ名称であり、江戸時代以降も「[[下り諸白]]」などのように上級酒をあらわす語として使われた。

[[奈良]]菩提山[[正暦寺]]で産する銘酒『[[菩提泉]]』を醸す[[菩提酛]](ぼだいもと)という[[酒母]]や、今でいう[[高温糖化法]]の一種である[[煮酛]](にもと)などの技術によって優れた清酒を醸造していたが、この時代の清酒は量的にも些少であり、有力貴族など極めて限られた階層にしかゆきわたらなかったと考えられる。

=== 中世 ===

==== 鎌倉時代 ====
[[商業]]が盛んになり、[[貨幣経済]]が各地へゆきわたったことを背景として、酒は、米と同等の経済価値を持った商品として流通するようになった。[[京都]]、とくに[[伏見]]などを中心に、自前の蔵で酒の製造を行い、それを販売する店舗も持つ[[酒屋]]、いわゆる「[[造り酒屋]](つくりざかや)」が隆盛し始めた。まだ十石入り仕込み桶が開発される前で、二石から三石入る[[甕]](かめ)(もしくは「瓶」の字をあて「かめ」と読ませる場合も)を土間にならべて酒を造っていたようである。

==== 室町時代 ====
[[室町時代]]前期には、この傾向にはさらに拍車がかかり、応永32年([[1425年]])には[[洛中]][[洛外]]の酒屋の数は342軒に達していたことが記録に残っている。当時の酒屋は資本力を持ち、[[土倉]](どそう)といって金融業者を兼ねていることが多く、借金の取立てや財産の自衛のために[[用心棒]]たちを養っていた。
こうして経済力をつけた酒屋が、それまで酒屋とは別個の職業であった[[麹]]造りにも進出し、従来の麹屋の[[座]]と対立した。この対立は文安1年([[1444年]])、[[文安の麹騒動]]という武力衝突にまで発展し、その結果、京都における麹屋という専門職は滅亡し、麹座も解散した。以後、麹造りは酒屋業の一工程へと吸収合併された形となった。

またこの事件は、争いに明け暮れる京都市中の商人たちとは無縁に坦々と生産が続けられた、奈良の『[[菩提泉]](ぼだいせん)』『山樽(やまだる)』『大和多武峯(たふのみね)酒』、越前の『豊原(ほうげん)酒』、近江の『[[百済寺]]酒』、河内の『[[観心寺]]酒』などの[[僧坊酒]]がさらに評価を高める原因にもなった。

室町時代初期に書かれた『[[御酒之日記]](ごしゅのにっき)』には、すでに今日の[[段仕込み]]や、[[乳酸菌]][[発酵]]の技術、[[#火入れ|火入れ]]による加熱殺菌、木炭による[[#濾過|濾過]]などについての記述がある。

やがて、京都以外の土地でも酒屋が出現するようになり、こういうところで造られた酒が京都の酒市場に出回るようになった。京都の酒屋は、他国から市中に入る酒を「[[他所酒]](よそざけ)」または「[[他所酒|抜け酒]]」と呼んで警戒し、排除しようと躍起になった。洛中洛外の酒屋や[[町組]](ちょうぐみ)からは、価格の安い他所酒の販売差し止めを陳情する願い状が、たびたび幕府の奉行所に提出されている。

しかし、この他所酒こそが、のちの日本の酒文化の中核をなす[[地酒]]の出発点でもあった。文明年間([[1469年]]~[[1487年]])には[[西宮]]の『旨酒』、[[堺]]の『堺酒』、[[加賀]]の『宮越酒』などが、弘治3年([[1557年]])には[[伊豆]]の『江川酒』、[[河内]]の『平野酒』などが盛んに取り引きされたことが記録からうかがえる。また、厳密にいえばこれは日本酒ではないが、天文3年([[1534年]])には「[[南蛮酒]]」として今日でいう[[泡盛]]の『[[清烈而芳]]』が酒市場に入っていた。

==== 安土桃山時代 ====
日本に[[キリスト教]]を伝えた[[フランシスコ・ザビエル]]は[[1552年]]、[[イエズス会]]の上司へ宛てた手紙の中で、「酒は米より造れるが、そのほかに酒なく、その量は少なくして価は高し」と、日本酒に関してヨーロッパ人として最初の報告を書いている。もちろんザビエルは、これを自文化における酒であるワインを基準として日本酒を評価しているわけだから、量や値段の印象などは興味深い。また[[織田信長]]に接して多くの記録を残した宣教師[[ルイス・フロイス]]も天正9年([[1581年]])に「我々は酒を冷やすが、日本では酒を温める」などの情報を本国に書き送っている。

天正10年([[1582年]])『[[多聞院日記]]』によれば[[奈良]]で十石入り仕込み桶が開発された。これによって地方においても酒の大量生産が可能になり、さらに[[地酒]]文化を花開かせることにつながっていく。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[群雄割拠]]が諸国に文化的な独自性を持たせたことも追い風となって、それぞれの土地の一般庶民の[[食文化]]との[[相互補完]]をベースとしながら、各地に数々の新しいローカルブランドが誕生し、味、酒質、製造量などの点において多様化が進んでいった。

このころ以前は、[[新酒]]よりも、[[日本酒#熟成|古酒]]が圧倒的に高級とされ値段も高かった。古酒は茶色がかって、現代の紹興酒のように醤油のような香りがあったと推定される。しかし酒の大量生産が可能になると、酒を輸送するのに用いられるコンテナも、[[日本酒#醸造器|壺]]や[[日本酒#醸造器|甕]]ではなく[[日本酒#醸造器|樽]]が主流になっていった。古酒は密閉されてこそ酒質が保たれ、壺や甕はそのために工夫されて発達してきた醸造器であったが、樽では密閉が効かない。このため古酒が流通しにくくなっていき、人々は新酒をしだいに飲むようになっていった。新酒への需要が高まり、値段も相対的に高くなっていった。

16世紀(1500年代)半ばには[[蒸留]]の技術が九州に伝えられ、[[焼酎]]が造られはじめたが、これらも[[芋酒]](いもざけ)などとしていち早く当時の酒の中央市場であった京都に入っている。
織田信長、[[伊達政宗]]、[[大友宗麟]]ほか有力大名の海外との通商、[[豊臣秀吉]]の[[南蛮貿易]]により[[南蛮酒]]として[[古酒]](くーす)と称される[[琉球]][[泡盛]]や、[[桑酒]]、[[生姜酒]]、[[黄精酒]](おうせいしゅ)、[[八珍酒]]、[[長命酒]]、[[忍冬酒]](にんどうしゅ)、[[地黄酒]](じおうしゅ)、[[五加皮酒]](うこぎしゅ)、[[豆淋酒]](とうりんしゅ)などなどの[[中国]]・[[朝鮮]]の珍酒や[[薬草酒]]、さらにヨーロッパからの[[ワイン]]も入ってきた。「アラキ」と記される南蛮酒もあり、これには[[アラビア]]から[[地中海]]方面に広く現在も存在する[[アラック]]とする説や、戦国武将[[荒木村重]]の城下である[[摂津]][[伊丹]]の銘酒とする説などがある。
こうした国際色豊かな酒の交流は、江戸時代初期の[[朱印船貿易]]へと引き継がれていった。

一方、織田信長の[[延暦寺|比叡山焼き討ち]]や[[石山本願寺]]攻撃に代表されるように、この時代の支配者たちは、それまでさまざまな意味で強い力を持っていた寺院勢力を恐れ、執拗に殲滅していった。これによって平安時代中期から培われた[[僧坊酒]]の伝統は衰滅していき、のちに寺そのものが再建されても、もはや醸造技術が寺院に復活することはなかった。かたわらでは、[[鴻池善右衛門|鴻池流]]や[[奈良流]]など各地の[[造り酒屋]]や[[杜氏]]の流派が、僧坊酒の技術に改良を加えながらこれを承継していくことになる。

日本酒は、こうして中世の末までにいちおう[[濁り酒]]から[[清酒]]への移行を完了したと考えられるが、だからといって、これ以後に濁り酒がなくなるというわけではないし、清酒も今日のそれと同じものというわけでもない。濁り酒は、農民たちが自家製する[[どぶろく]]を含めて、清酒よりも安価で手軽な格下の酒として製造、流通されつづける。また清酒に関しても、一般的には[[片白]](かたはく)や[[並酒]](なみざけ)が主流であったため、ほとんどの清酒はまだ玄米の持つ[[糠]]が雑味として残る、黄金色がかった、今日の[[味醂]](みりん)のようにこってりした味であったと考えられる。

=== 近世 ===
==== 江戸時代前期 ====
僧坊酒を継ぐように台頭してきたのが、室町時代中期から[[他所酒]]を生産し始めていた、[[摂津国]][[猪名川]]上流の[[伊丹市|伊丹]]・[[池田市|池田]]・[[鴻池流|鴻池]]、[[武庫川]]上流の[[小浜流|小浜(こはま)]]・[[大鹿]]などの酒郷であった。

[[奈良流]]の[[諸白]]を改良し、効率的に清酒を[[伊丹酒#大量生産|大量生産]]する製法が、慶長5年([[1600年]])に[[伊丹市|伊丹]]の[[鴻池善右衛門]](こうのいけぜんえもん)によって開発され、これが大きな契機となって、次第に酒が本格的に一般大衆にも流通するようになっていった。

また日本酒は、[[朱印船貿易]]により東南アジア各地に作られた[[日本人町]]やその国の王族などへ輸出された。とくに[[オランダ東インド会社]](略称VOC)の根拠地であった[[バタヴィア]](現[[インドネシア]]の一部)では、日本酒は定期的に入荷され、人々の暮らしの一部として欠くべからざるものとなったが、ヨーロッパ(おもに[[オランダ]])から届けられるワインに対して日本酒はアルコール度数がじゃっかん高いために、バタヴィアを始めとした東南アジアにおいては、日本酒は[[食前酒]]、ワインを[[食中酒]]として飲むという独自の食文化の伝統が生まれた。

いっぽう日本国内においては、江戸時代初期には、後世から[[四季醸造]]と名づけられる技術があり、[[新酒]]、[[四季醸造|間酒]](あいしゅ)、[[四季醸造|寒前酒]](かんまえざけ / かんまえさけ)、[[寒酒]](かんしゅ)、[[四季醸造|春酒]](はるざけ)と年に五回、四季を通じて酒が造られていた。

酒造りは大量の米を使うために、米を中心とする食料の供給とつねに競合する一面を持っている。そこで幕府は、ときどきの[[米相場]]や食糧事情によって、さまざまな形で[[酒造統制]]を行なった。
まず明暦3年([[1657年]])、初めて'''[[酒株]]'''(酒造株)制度を導入し、酒株を持っていなければ酒が造れないように醸造業を免許制にした。
寛文7年([[1667年]])伊丹でそれまでの寒酒の仕込み方を改良した[[寒造り]]が確立されると、延宝1年([[1673年]])には酒造統制の一環として寒造り以外の醸造が禁止され('''寒造り以外の禁''')、これにより四季醸造はしばらく途絶える形となった。

こうして酒造りは冬に限られた仕事となったので、農民が出稼ぎとして冬場だけ[[杜氏]]を請け負うようになり、やがて各地にそれぞれ地域的な特徴を持った杜氏の職人集団が生成されていった。

このころは全国各地で、一般的に造り酒屋によって[[製造]]・[[卸]]の兼業が行われていたが、とくに江戸では人口が集中して大消費地になったために、酒についても[[江戸酒問屋|専門問屋仲間]]が成立した。そして江戸に着いた荷をさばく[[江戸酒問屋#寄合いの形成|問屋の寄合い]]も形成された。いっぽう大坂では、従来の造り酒屋が問屋を兼業していたので、江戸のような専門酒問屋は出現しなかった。このように江戸時代に入り商品化された酒は「商人の酒」といわれるようになった。

一方、酒によって多大な利益を得る商人から、いかにして租税をとりたてるかが幕府にとって頭の使いどころでもあり、頭の痛い問題でもあった。幕府から見れば、酒株制度には[[酒株#酒造石高|酒造石高]]をめぐって一つの弱点があり、酒屋ら商人たちがそこをうまく利用すると、幕府に入る酒税が先細りになっていく恐れがあった。そのため幕府は寛文6年([[1666年]])を始めとして何回か[[酒株#酒株改め|酒株改め]]をおこなった。ことに[[酒株#元禄の酒株改め|元禄の酒株改め]]([[1697年]])は徹底的におこなわれ、このときから宝永6年([[1709年]])まで酒屋には[[酒株#運上金の導入|運上金]](うんじょうきん)も課せられた。

==== 江戸時代中期 ====
[[伊丹酒]](いたみざけ)や池田酒の評判はつとに高まり、元文5年([[1740年]])には伊丹『[[剣菱]]』が将軍の[[御膳酒]]に指定された。江戸市中の酒の相場でも、伊丹酒や池田酒は他の土地から酒からははるかに高値で取引されていた。

しかしこのころから[[神戸市|神戸]]・[[西宮市|西宮]]あたりの[[灘五郷|灘目三郷]]が新興の醸造地域としてすでに注目を集め始める。後世、銘醸地の代表格となる灘が、最初に文献に登場するのは正徳6年([[1716年]])であるが、享保9年([[1724年]])の[[江戸酒問屋#下り酒と地廻り酒|下り酒問屋]]の調査では、灘目三郷の名が伊丹酒を追い上げる酒の生産地として報告書に記載されている。これが江戸時代後期の[[灘五郷]]である。

これら[[摂泉十二郷]](せっせんじゅうにごう)と呼ばれた、伊丹や灘やその周辺地域で造られた酒は、'''天下の台所'''といわれた集散地[[大阪|大坂]]から、すでに人口70万人を擁していた大消費地[[東京|江戸]]へ船で海上輸送された。こうして上方から江戸へ送られた酒を'''[[下り酒]]'''と呼ぶ。

時代により変動があるが、下り酒の7割から9割は、[[摂泉十二郷]]産のもので、それ以外では[[尾張国|尾張]]、[[三河国|三河]]、[[美濃国|美濃]]で造られ伊勢湾から合流する'''中国もの'''、他には[[山城国|山城]]、[[河内国|河内]]、[[播磨国|播磨]]、[[丹波国|丹波]]、[[伊勢国|伊勢]]、[[紀伊国|紀伊]]で造られた酒が下り酒として江戸に入っていった。いっぽう関東側では、[[中川]]と[[浦賀]]に幕府の派出所があり、ここで江戸に入る物資をチェックしていた。この調査結果は[[下り酒#江戸入津|江戸入津]]と呼ばれ、幕府が江戸市中の経済状態を[[市場操作]]したり、国内の[[移入]][[移出]]の実態を調べるのに活用された。

下り酒は、はじめは[[菱垣廻船]]で[[木綿]]や[[醤油]]などと一緒に送られていたが、享保15年([[1730年]])以降は[[樽廻船]]として酒荷だけで送られるようになった。

宝暦年間初期は豊作が続いたため、幕府は宝暦4年([[1754年]])に[[酒株#宝暦の勝手造り令|勝手造り令]]を出し、[[新酒]]を造ることも許可した。このため四季醸造は復活の機会があったのだが、もはや生き証人としてその技術を心得ている杜氏がいなかったこと、また消費者もうまい寒酒の味に慣れ、酒郷ではよりよい酒質を求めて熾烈な競争をくりひろげていたことなどから、以前のような復活に至らなかった。こうして幕府の酒造統制が緊緩を揺らいでいくうちに、四季醸造の技術は江戸時代の終わりまでに消滅してしまうことになる。それが復活できたのは、じつに昭和時代の工業技術によってであった。

==== 江戸時代後期 ====
天明3年([[1783年]])に[[浅間山]]が大噴火し[[天明の大飢饉]]が起こると、幕府は、天明6年([[1786年]])に諸国の酒造石高を五割にするよう[[酒株#天明の酒株改め|減醸令]](げんじょうれい)を発し、天明8年([[1788年]])にはまたしても[[酒株#天明の酒株改め|酒株改め]]をおこない、その結果にもとづいて[[酒株#天明の酒株改め|三分の一造り令]]などが示達された。

[[松平定信]]は[[寛政の改革]]の一環として天明の三分の一造り令を継続するとともに、「酒などというものは入荷しなければ民も消費しない」との考えのもとに下り酒の江戸入津を著しく制限した。

享和2年([[1802年]])水害などに起因する米価の高騰により、幕府は酒造米の十分の一を供出させた。この米のことを[[酒株#寛政の改革と酒株制度|十分の一役米]]という。酒屋たちは抵抗、反発し、十分の一役米は享和3年([[1803年]])に廃止された。

文化文政年間は豊作の年が続き、幕府は文化3年([[1806年]])にふたたび[[酒株#文化の勝手造り令|勝手造り令]]を発し、酒株を持たない者でも、新しく届出さえすれば酒造りができるようになった。こうして酒株制度はふたたび有名無実化したが、このことはやがて江戸後期から幕末にかけ、酒屋たちのあいだに複雑な[[酒株#無株者と株持ち|内部抗争]]を起こさせることになる。

天保8年([[1837年]])(一説には天保11年([[1840年]]))[[宮水|山邑太左衛門]](やまむらたざえもん)によって[[宮水]](みやみず)が発見されると、摂泉十二郷の中心は海に遠い伊丹から、水と港に恵まれた[[灘五郷|灘]]へと移っていった。

=== 近・現代 ===
===='''[[明治時代]]前期'''====
明治5年([[1872年]])、[[オーストリア]][[万国博覧会]]に日本酒が出品された。2006年3月現在、日本酒造組合中央会など日本における「公式」といってもよい日本酒の歴史によれば、このオーストリア万博への出品を以て日本酒のヨーロッパへの初めての「輸出」とみなしているようである。

しかし、これはとても正確とは言えない。日本国外への輸出は、江戸時代初期に朱印船貿易によって東南アジアに輸出されていた多くの実績があり、とくにそれ以後、日本酒の飲用がその地の独自な食文化の一部として定着をみた、[[オランダ東インド会社]]の根拠地[[バタヴィア]](現インドネシアの一部)などを通じて、オランダ経由で日本酒がすでに江戸時代にヨーロッパにもたらされた形跡がある。また、江戸時代後半にはカムチャツカからシベリア経由でロシア帝国がヨーロッパに日本酒を紹介していたことなども明らかになっている。

しかしながら、明治維新を迎えて、日本酒が政府のお墨付きと後押しを受けて表舞台を通じてヨーロッパに入っていったことは事実であるといえよう。

明治8年([[1875年]])、明治政府は、江戸幕府が定めた複雑に入り組んだ[[酒株]]に関する規制を一挙に撤廃し、酒類の税則を醸造税と営業税の二本立てに簡略化して、醸造技術と資本のある者ならば誰でも自由に酒造りができるように法令を発した。このためわずか一年のあいだに大小含め30000を超える酒蔵がいっきに誕生した。しかし、明治政府が酒税の徴収に目をつけ、酒蔵への課税をどんどん重くしていくにつれ、酒蔵の数は減っていきやがて8000前後にまで減退した。(ちなみに2005年現在では約1500まで減っている。)

酒蔵は無抵抗に明治政府の課税が重くなるのを見過ごしていたわけではなく、さまざまな知恵をこらしてこれに抵抗した。酒税をめぐって、この時期の酒蔵たちと明治政府のあいだで繰り広げられた攻防は、30年近くに及ぶ一つの戦記ものですらあるが、その中で代表的に語り継がれるのが明治15年([[1882年]])の[[大阪酒屋会議事件]]である。

こうしたなかで、最終的に明治政府は国家歳入のじつに30%前後を酒税に頼るにいたった。
課税に耐えて生き残ることができた酒蔵は、富裕な[[大地主]]によって開かれたものばかりであった。以前、大地主たちは毎年の収穫から一定量の米を不作や飢饉の時にそなえて備蓄していたものであったが、[[備蓄米]]はそのまま古くなって無駄になるリスクがつきまとった。そこで彼らは、もはや備蓄することをやめ、その分の米を自己資本でやっている酒蔵へ原料として回したのである。こうした大地主が始めた酒蔵のなかには、そのまま発展して今日の日本酒業界でいわゆる「大メーカー」となっている会社も多い。

数多くの[[ビール]]醸造メーカーも酒類業界に参入したが、清酒メーカーと問屋は、競合品であるビールの進出を阻止しようとした。そのため従来からの問屋はビールを取り扱わず、結果、酒小売店もビールを取り扱わなかった。そこで、ビールメーカーは薬種問屋など新しい[[流通]]網を構築した。

===='''[[明治時代]]後期・[[大正時代]]'''====
明治時代後期([[日清戦争]]以後)から大正時代にかけては、酒造りにおいて一つの特色ある時代を形成する。これを日本醸造業の[[近代化]]の時代ととらえる者もいれば、[[伝統]][[技法]]の逸失ととらえる者もいる。

こうした背景には、近代以前はいわゆる[[科学的再現性]]が酒造りにおいてはつねに大問題だった、という事実がある。たとえ良い酒ができても、「同じものをまたつくる」ということが不可能に近かったのである。酒蔵では空気中に自然に存在する酵母を取り込んだり、昔から住みついている酵母(いわゆる「蔵つき酵母」「家つき酵母」)の力に頼っていたが、株が一定せず、醸造される酒は品質が安定しなかった。しかし明治期に入って、西洋の[[微生物学]]が導入され、さらにやがて日清戦争で国力に余裕のできた政府が後押しをして、ようやく品質の安定と向上が図られるようになったのである。

[[日清戦争]]([[明治27年]]([[1894年]])-[[明治28年]])は明治政府に、勝利による賠償金など有形のもののみならず国際的地位の向上など無形の余裕をもたらした。こうした状況を受けて政府は、鉱工業などと並んで醸造業の発展も積極的に支援し、[[明治37年]]([[1904年]])[[大蔵省]]の管轄下に[[国立醸造試験所]]を設立した。ここではやがて[[明治42年]]([[1909年]])[[山廃仕込み|山廃酛]]が開発され、翌年([[1910年]])には[[#速醸系|速醸酛]]が考案され、[[明治44年]]([[1911年]])には国立醸造試験所によって第一回[[全国新酒鑑評会]]が開催されることになる。

それを基にして、やがて[[国立醸造試験所]](現在の[[酒類総合研究所|独立行政法人酒類総合研究所]])が全国新酒鑑評会を定期的に開き、そこで高い順位を取るなどして客観的に優秀と評価された酵母を、醸造協会(現在の[[日本醸造協会|財団法人日本醸造協会]])が分離、純粋培養し、全国の酒蔵に頒布するというシステムが整えられていった。(本ページ「[[#酵母|酵母]]」の項参照。)

また販売の方法も近代化し、明治34年([[1901年]])には[[#単位|一升瓶]]が登場し、日本酒が瓶詰めで売られる時代に入った。

しかし、政府はこうした一連の[[改革]]を、当然ながら良くも悪くも当時の[[国造り]]の[[理念]]に基づいた酒造りの枠組みとしてとらえていた。すなわち[[酒税]][[収入]]が30%近くも占める状況に鑑み、[[税制]]を立て直すにはまず酒税から仕切りなおさなければならないと考えたのである。ゆえに、一連の醸造業の[[近代化]]への国家レベルへの[[投資]]は、次世代の[[歳入]][[モデル]]を見込んでのものであった。

こうした背景の中で政府は、明治32年([[1899年]])には[[自家用酒税法]]を廃止し、これを以って[[自家製酒]](日本においては、いわゆる'''[[どぶろく]]''')の製造と消費を禁止した。酒の消費を全般的に考えると、本格的な醸造設備が整っていない家庭でもかんたんに造れる'''どぶろく'''が大勢を占めていたわけだが、この製造を禁止すれば、国民の酒の需要は酒税のかかる清酒へと向き、どぶろくに消費されていた分がそっくり清酒の消費となって歳入にはねかえってくるだろう、というのが明治政府の予測であった。

しかし結果的にこの目論見ははずれた。現に日露戦争当時のどぶろく禁止令は、構造改革特区など少数の例外をのぞいて{{CURRENTYEAR}}年現在でも酒税法に残っているが、酒税による税収は国家歳入の2%に満たない。

他方では、明治以前の[[酒樽]]は木製で、樽壁の中に雑菌が生息している可能性もあり、不衛生だという意見があった。この問題を解決するために、今日のような[[琺瑯]](ほうろう)で表面を加工した鉄製の酒造タンクも開発され、政府もこの普及を推進した。

この推進に対しても、今日の評価は分かれている。一つは、琺瑯タンクによる酒造りも、製造される酒質はそれ以前のものと比べて何ら劣るものではなく、あえてコスト高と不衛生のリスクを冒して木樽造りにこだわる意味を見出さないとする派である。

もう一つは、木樽造りは長い実績を経た醸造技術であり、それが生み出す[[#香り|木香]]もまた日本酒の魅力であるとする派である。彼らの中には、醸造する酒の3%前後を樽の木材が吸収してしまい、結果的に酒の生産量を目減りさせていたから、それがひいては明治政府にとっては税収の目減りにつながるため琺瑯びきタンクの普及に躍起になっていたのだ、と主張する者もいる。

[[木樽造り]]、もしくは[[木桶造り]]は、平成時代になって各地で盛んに復元されており、{{CURRENTYEAR}}年現在すでに消費者が価格と味を比べて審判できる市場になってきている。(本ページ「[[#日本酒の現在|日本酒の現在]]」参照。)

===='''[[昭和時代]]以降'''====
昭和12年([[1937年]])、[[日中戦争]]による[[米不足]]で酒の生産量が減少し、水で薄めた[[金魚酒]]などが横行し始めたため、昭和15年([[1940年]])にアルコール濃度の規格ができ、政府の監査により[[日本酒級別制度]]が設けられた。この制度は平成4年([[1992年]])まで続いた。

昭和16年([[1941年]])、[[太平洋戦争]]が始まり米不足に拍車がかかると、昭和18年([[1943年]])酒類は[[配給制]]となった。戦後、配給制が解かれ[[昭和24年]]([[1949年]])5月6日には酒類販売の自由化がなされた。配給制から自由化に移行するに当たって、各都道府県に指定の卸が置かれることとなった。この卸の役割を担ったのが清酒メーカーであった。そのため清酒の主な販売経路となっていたようである。

====='''[[#吟醸酒・純米吟醸酒|吟醸酒]]の誕生'''=====
吟醸酒の起源は、[[国立醸造試験所]]などにおける[[1920年代]]前後の[[清酒酵母]]の研究にさかのぼる。このころすでに、ある種の特殊な酵母を用いて醸造した酒は、それまでの日本酒にはない洗練された香味を醪に内包させ、水に溶け出さないこれらの成分も、アルコール添加によって引き出せることが技術的に知られていた。

当初は市販流通を目的として造られた酒ではなく、その造りには高度な醸造技術を要することから、蔵人たちの修業研鑽のために、また[[全国新酒鑑評会|鑑評会]]への[[出品酒]]とするために、ごく限られた量だけ実験的に造られていた。

[[1930年代]]には、[[縦型精米機]]の登場などによって精米技術が飛躍的に発達し、吟醸酒を造るのに欠かせない高い精米歩合が以前より容易に実現されるようになった。これによって、それまで一部のごく限られた愛飲家だけに楽しまれていた吟醸酒が、市販流通に耐えうる量を生産できる展望が開かれた。

[[1970年代]]には、[[醪]](もろみ)造りの工程における温度管理の技術が飛躍的に発達し、また[[協会系酵母#協会7号|協会7号]]や[[協会系酵母#協会9号|協会9号]]などの吟醸香を出す新しい酵母が実用化され、初めは少量であったが[[#吟醸酒・純米吟醸酒|吟醸酒・純米吟醸酒]]などが出荷されはじめた。消費者への受けは良く、[[1980年代]]には吟醸酒は広く一般市場に流通するようになった。

[[1980年代]]には、さらに[[少酸性酵母]]、[[高エステル生成酵母]]、[[リンゴ酸]]高生産性多酸酵母といった高い香りを出す酵母が多数つくられ、都道府県の研究センターや農業大学などを中心として吟醸酒に適した新たな[[酵母]]の開発が進んだ。これは[[バブル経済]]ともあいまって吟醸酒ブームを生んだ。

[[1990年代]]以降は、地域の特性を生かした[[酒米|酒造好適米]]や酵母の開発が進み、それぞれ開発地を名称に冠する[[清酒酵母#静岡酵母|静岡酵母]]、[[清酒酵母#山形酵母|山形酵母]]、[[清酒酵母#秋田酵母|秋田酵母]]、[[清酒酵母#福島酵母|福島酵母]]や、[[清酒酵母#長野酵母|アルプス酵母]]に代表される[[カプロン酸エチル]]高生産性酵母、あるいは東京農業大学が[[なでしこ]]、[[ベコニア]]、[[ツルバラ]]の花から分離した[[花酵母]]などが、新しい[[吟醸香]]を引き出すものとして評価を集めている。

[[2000年代]]には、吟醸酒ブームの中心は、アメリカ・フランスを中心とした国外市場に移り、ニューヨークやパリなどでは、[[食前酒]]として日本産の吟醸酒を飲むのがトレンディとされている向きもある。

いっぽう、吟醸酒を「ほんらいの米の味と香りのする酒のほうがいい」と嫌う愛飲家も多く存在し、また吟醸香も強すぎればかえって酒の味を損なってしまうことなどから、強い吟醸香を出す酵母を敬遠する蔵元も多く、そういう新種の酵母は、他の酵母とブレンドしたり、[[全国新酒鑑評会|鑑評会]]への[[出品酒]]のみに使ったりと、まだ使い方が模索されている途上にあるといってよい。

しかしながら、日本酒が日本国内で売れなくなった消費低迷期に、国外でその消費を伸ばした牽引役がこの吟醸酒であったことは銘記されてよい。

そうした背景には、普通酒を造るレベルの設備を持った日本酒醸造所なら、いまや日本国外にも多く存在するという事実がある。そのため必然的に、日本から輸出される対象となるのが、吟醸酒に代表されるような日本の水や技術でしか作れない高級酒となっているわけである。2006年現在まで、日本国内消費の減退とはうらはらに、吟醸酒を中心として日本酒の輸出量は年々倍増している。

====='''消費低迷期'''=====
昭和26年([[1951年]])の進駐軍撤退、日本独立後、日本酒の消費は伸び続けたが、[[国税庁]]発表の資料によれば昭和48年([[1973年]])を境に減少へと転じ、平成14年([[2002年]])には全盛期の半分近くまで落ち込んでしまっている。このような長期低迷のの原因としては以下のようなものが考えられている。

(1)'''アルコール離れ'''

:とくに若年層や[[健康志向]]者がアルコール飲料を飲まなくなったことで、日本酒の消費が長期的に減少してきているとする説。じつはこの「アルコール離れ」なる現象は、英語で"disalcoholization"という新語も提案されているほど世界的な傾向で、ワイン消費大国フランスでもアンケートで「ワインをほぼ毎日飲む」と答える人は1980年には51%だったのが2005年には21%と大きく減少しており([[フランス全国ワイン業者組合]]2005年調査)、醸造業者は頭を痛め食文化そのものの変容を嘆く声も出始めている。

(2)'''[[バブル経済]]の影響'''

:これは日本の他のほとんどすべての経済分野と共通である。のちの項目で詳述される三増酒が、1980年代に入ってからも売れ続けていたということが、このことを一端として物語るであろう。

(3)'''日本人の「欧米志向」'''

:[[明治維新]]以来、いや[[黒船]]来航以来、日本人の中に通底音として響き続け、断続的に表面に出てくるのが、この「欧米志向」である。平たくいえば、「日本酒は年寄りの飲むダサイ飲み物、ワインはもっと文化的でおしゃれで上等な飲み物」と思い込んでいる日本人が多いということである。

(4)'''愛好者の閉鎖性'''

:日本酒をよく飲む人というと「味にうるさく」「気難しい」というイメージが一般にあるのが一因とも言われている。それが日本酒愛好者に新規参入しようかと考える人々にとって、「へたなことを言って馬鹿にされるだけなんじゃないか」という躊躇をもたらし、新たな消費人口への敷居を高くしている側面があると思われる。

(5)'''[[三増酒]]の流通'''

:戦後50年以上にわたって流通した日本酒の主流が三増酒であったことが現在の消費低迷を招いたということは、日本酒固有の問題といってよいだろう。取り扱いにくい問題であるが、日本酒の近・現代史、現在、未来を考えるうえで、避けては通れない話題であるともいえる。

:[[三増酒]]が何たるかについては、その別項にゆずるが、以下に挙げるようないくつかの要因が幸か不幸かみごとに方向性を一にしてしまい、戦後も長らく流通した日本酒の大半が三増酒となっていった。

:(a) 政策
::前述したような昭和初期の[[食糧難]]や[[米不足]]から、当時の政府は米を配給制にするなど、日本人の主食であった「米」に大きく政策的に関与した。昭和30年代になり「もはや戦後ではない」と言われるような物質的に豊かな時代がなってもしばらくは、それを持っていかなければ米が買いにいけない、[[配給米]]時代の名残りともいえる[[米穀通帳]]というものが各家庭にあったくらいである。こうした政策のもとでは、品質を追求するよりも、質は問わずに量だけ生産していく酒造りをおこなっていくほうが、時流に乗っていて経済的リスクも少なかったのである。まず、三増酒が大量生産されていく下地として、このような経済環境があった。
::ほかにも、政府や[[地方自治体]]にとっては、各地の大小の酒蔵メーカーが生産量をあげ、見かけ上の収益を増加させていってくれたほうが、[[歳入]]・[[税収]]が増えるという、なおざりにはできないメリットがあった。

:(b) 生産者の意向
::どんな品質の日本酒でも造れば造るだけ売れるという当時の経済環境のなか、零細な地方蔵から、大資本をもつ大メーカーに至るまで、多くの酒造メーカーが量産主義に走った。その結果が質を落とした三増酒になったといっても過言ではない。なかには「[[桶売り]]・[[桶買い]]」といって、零細な地方蔵が産した地酒をタンクごと大メーカーが買い取り、大メーカーはそうして集めたあちこちの地酒をまぜあわせたり、自社醸造の酒の割り増しに使ったり、あるいはそのまま自社ブランドの瓶に詰めて販路に乗せたりした。酒は瓶に詰めて出荷された時点で課税対象の商品となるので、桶売り・桶買いの段階では取引に関わる納税の義務が生じない。それゆえ地方蔵にとっても大メーカーにとっても、これは経営上、重要な節税のテクニックでもあった。このため「[[未納税取引]]」とも呼ばれる。

::しかし、このような流通システムでは、ほんらいの[[地酒]]の味が活きず、流通しなかった。また桶売りは、売る側にとっては、買い手である大メーカーの言うままになって酒を造っていればよかったので、そこの蔵の本来の持ち味が失われていった。このため三増酒の時代が終わり、地酒復興の波がやってきたときに、桶売りに頼っていた蔵は自立ができず、また買い手からも取引を打ち切られて、多くが衰滅していった。

:(c) 消費者の需要
::酒造メーカーがどんなものでも造れば売れたという時代の背景には、もちろん消費者たちの選択と責任があった。つまるところ「酒だったら何でもいい」「酒は味わうためでなく酔うために飲む」といった価値観を持った大量消費者(いわゆる「呑んべえ」)たちの欲求や需要が、安価な三増酒の消費を促進していった側面は否定しさることはできない。
::だが、その背景として語られなければならないことの一つとして、当時は現在よりも[[アルコール依存]](当時はむしろ[[アルコール中毒]]/[[アル中]]と呼ばれた)に対する認識が低かったということがある。[[飲酒運転]]にかかわる罰則も今よりはるかにゆるく、大学の[[コンパ]]などでは今では立派に犯罪となるような「先輩からの強要」や「[[イッキ呑み]]」などが日常的に行なわれていた。いわゆる[[新歓コンパ]]から新入生が[[急性アルコール中毒]]で救急車で病院にかつぎこまれ、そのまま死亡するケースも多くあった。

:以上のような要因で量産された三増酒は、六割以上が醸造アルコールや糖分、調味料などなので、けっして味覚的においしくないばかりか、悪酔いを残すなど飲み心地も悪い特徴がある。
:若いころに三増酒を年上の酒呑みから飲まされた世代は、そういうものが日本酒だと思い込んでしまい、そのまま現在に至っていることが多い。そういう世代は、大人になり自分の選択でアルコール飲料を買いに行くようになると、日本酒には見向きもせず、ビール、焼酎、ワインなどを選択するようになった。これも明らかに、昭和後期から現在に至るまでの日本酒の消費減退の根深い伏線となっていると思われる。

これに対して、いま日本酒業界は長期低迷を脱皮しようとして、さまざまな試行錯誤を重ねており、むしろ品質的には、古代に日本酒が最初に醸されて以来、もっとも洗練され錬磨された水準に達しており、そのことは世界的にも評価されているが、いまだにそれは日本国内の日本酒の消費回復に直結していないようである。「三増酒」という言葉すら知らずに「日本酒とはああいうものだ」という固定観念を極めて深いところに持ってしまっている世代は、なかなか三増酒でない真の日本酒に目を向けようとしていないのが現状と思われる。(平成17年([[2005年]])現在。)

====='''辛口ブーム'''=====
[[1980年代]]から[[2005年]]ごろにいたるまで、日本酒をめぐる潮流の一つとして辛口がブームであった。''詳しくは「[[日本酒辛口ブーム]]」参照。''

背景として、以下のようなものが考えられる。

*[[日本酒辛口ブーム#三増酒への反動|三増酒への反動]]
*[[日本酒辛口ブーム#ビールからの影響|ビールからの影響]]
*[[日本酒辛口ブーム#外食産業における主流味の変化|外食産業における主流味の変化]]
*[[日本酒辛口ブーム#時代の空気|時代の空気]]
*[[日本酒辛口ブーム#透明度と濾過の問題|透明度と濾過の問題]]

奇しくもバブル期の揺り戻しであった[[平成大不況]]から[[2006年]]第一四半期に抜け出るとほぼ同時ごろに日本酒の辛口ブームも終焉し、日本酒に求められる味も多様化してきたようである。

====='''日本酒の現在'''=====
昭和15年([[1940年]])に始まった[[日本酒級別制度]]への批判が高まり、平成2年([[1990年]])からそれに代わる日本酒の分類として使われるようになったのが、のちに分類の項で詳しく述べられるような'''[[#普通酒|普通酒]]'''、'''[[#特定名称酒|特定名称酒]]'''など9種類の名称である。日本酒級別制度は平成4年([[1992年]])に完全に撤廃された。

日本酒は、昔ながらの正統な味や質の継承と復活も去ることながら、輸出の伸張と国内消費を回復をめざして、{{CURRENTYEAR}}年{{CURRENTMONTH}}月{{CURRENTDAY}}日現在、次のような方向で多様な模索が続けられている。

*'''小ボトル化'''
*:1901年に導入されていらい百年余り、日本酒は一升瓶で買うのが主流であったが、一升瓶をさげて家に帰っていくのはためらわれる消費者が多いため四合瓶や300ml瓶への変換が図られている。。しかし消費者の側からは、小瓶になるとかなりの割高になる現在の日本酒の価格体系や、小瓶を並べているコンビニエンスストアなどの陳列方法が果たして日本酒の販売に適切な温度管理なのかといった疑問が寄せられている。
*'''流通経路の改革'''
*:主に蔵元の生酒や稀少地酒を、大都市へ[[低温輸送]]するため。
*'''種類の多様化'''
*:[[貴醸酒]]、[[低濃度酒]]、[[低精白酒]]、[[発泡日本酒]]などの開発など。
*'''女性消費者の開拓'''
*:[[協会系酵母#赤色清酒酵母|赤色酵母]]を用いたピンク色の甘口の日本酒など。
*'''国外市場へのプロモーション'''
*'''ラベルのデザインの改良'''
*'''伝統的製法の復活と復元'''
*:[[樽酒]]、[[木桶造り]]、日本で最初に分離された酵母による醸造、古文書『[[延喜式]]』による[[貴醸酒]]の開発など。
*'''[[アンテナショップ]]の増加'''
*:大手の酒類販売店が自己資本で飲食店(主に高級居酒屋・[[和ダイニングバー]]など)を経営し、一般消費者層になじみの薄かった地方の銘酒などを試飲感覚で安価で提供している。
*'''健康効果の研究とアピール'''
*:[[アミノ酸]]成分への再評価、[[秋田大学]]の研究による日本酒の抗がん成分[[アルペラチン]]など。「日本酒はカロリーが高く肥る」との通説の科学的否定。
*'''水割り・チェイサー・カクテルの提案'''

=== 日本酒に関する古文書 ===
*[[延喜式]](えんぎしき)
*:[[927年]] [[藤原忠平]]ほか著。[[律令]]の施行細則50巻。[[平安時代]]初期までの朝廷による酒造について記述されている。
*[[御酒之日記]](ごしゅのにっき)
*:[[1355年]]または[[1489年]] 著者不詳。中世の酒造法が詳しく記されている。[[秋田藩]][[佐竹氏|佐竹家]]に伝わっていた、日本最初の民間の酒造技術書。
*[[多聞院日記]](たもんいんにっき)
*:[[1478年]]-[[1618年]] 僧[[英俊]]ほか著。[[興福寺]][[塔頭]]多聞院で140年にわたり歴代つけられていた日記。当時の酒、醤油、味噌などに関する製造記録を含む。
*[[童蒙酒造記]](どうもうしゅぞうき)
*:[[1687年]]? 著者不詳。[[鴻池善右衛門|鴻池流]]を中心とした酒造技術書。現存するこの分野の書では、江戸時代を通じて質量ともに最高の内容を誇る。
*[[本朝食鑑]](ほんちょうしょっかん)
*:[[1697年]] [[人見必大]]著。 江戸時代前期の食に関する百科全書。
*[[和漢三才図会]](わかんさんさいずえ)
*:[[1713年]] [[寺島良安]]著。日本初の絵入り百科事典。
*[[日本山海名産図会]](にほんさんかいめいさんずえ)
*:[[1797年]] 伊丹や灘で造られている[[下り酒]]の様子が詳細な絵入りで説明されている。
*[[手造酒法]](てづくりしゅほう)
*:[[1813年]] 『[[東海道中膝栗毛]]』で名高い[[十返舎一九]](じっぺんしゃいっく)が書いた当時のグルメ本。前半は様々な酒に関して薀蓄が垂れられている。
*[[守貞漫稿]](もりさだまんこう)
*:[[1853年]] [[喜田川守貞]]著。江戸時代末期の酒に関する[[風俗]]、[[流通]]、[[#酒器|酒器]]について述べたもの。酒を通じて当時の庶民の生活が伝わってくる。

=== 日本酒にまつわる事件 ===
*[[亭子院の酒合戦]](ていしいんのさけがっせん)
*:延喜11年([[911年]]) 『本朝文粋』に記述あり。

*[[文安の麹騒動]](ぶんあんのこうじそうどう)
*:文安1年([[1444年]]) 武力衝突により麹屋業の滅亡。以後、麹造りは酒屋業の仕事の一部に。

*[[宮中十種酒十度飲の宴]]
*:文明6年([[1474年]]) 『親長卿記』に記述あり。

*[[醍醐の花見]](だいごのはなみ)
*:慶長3年([[1598年]]) 豊臣秀吉はこのとき諸国の銘酒を献上させた。また南蛮酒として、広く海外からも珍酒が集められた。

*[[川崎大師河原の酒合戦]](かわさきだいしがわらのさけがっせん)
*:慶安1年([[1648年]])  『水鳥記』に記述あり

*[[大阪酒屋会議事件]]
*:明治15年([[1882年]]) 酒造業者の明治政府への増税反対運動が高まり、大阪府警は酒屋会議を禁止。酒屋は淀川の舟の中や、京都で会議を強行。

*[[どぶろく裁判]]
*:([[1984年]] - [[1989年]]) [[食文化]]における国民の幸福の追求か、国家の税収の確保かを争点として、自家製酒どぶろくをめぐって最高裁まで争われた裁判。

*[[全国小売酒販組合中央会年金資金不正支出事件]]
*:([[2005年]]) 日本酒の国内消費の減退も遠因といわれる。近年の[[年金]]危機の周辺事件。


==原料==
==原料==
840行目: 525行目:
*:国税庁の[http://www.nta.go.jp/category/sake/04/03/02.htm 地理的表示に関する表示基準を定める件]により、国税庁長官の指定を受けた地域において表示できる。産地の特長を生かすよう原料や製法等が制限される。また、この指定を受けると、他の地域で製造された清酒への類似表示(「○○風仕込み」「○○式清酒」)が禁止されるため、地域ブランドを保護できる。これらの理由から活用が期待されているが、2006年1月現在、白山菊酒([[石川県]][[白山市]])のみがその指定を受けている。
*:国税庁の[http://www.nta.go.jp/category/sake/04/03/02.htm 地理的表示に関する表示基準を定める件]により、国税庁長官の指定を受けた地域において表示できる。産地の特長を生かすよう原料や製法等が制限される。また、この指定を受けると、他の地域で製造された清酒への類似表示(「○○風仕込み」「○○式清酒」)が禁止されるため、地域ブランドを保護できる。これらの理由から活用が期待されているが、2006年1月現在、白山菊酒([[石川県]][[白山市]])のみがその指定を受けている。


==関連項目==


==='''日本酒に関する単位'''===
==日本酒に関する単位==
*1升(しょう)=10合(ごう)=1.8リットル
*1升(しょう)=10合(ごう)=1.8リットル
*1石(こく)=10斗(と)=100升
*1石(こく)=10斗(と)=100升
863行目: 547行目:
*:現在では「一献やりましょう」というように、「一緒に酒を飲む」という意味で用いられる「一献」であるが、古くは一盃になみなみと酒を満たし、一座を一回りするのが「一献」であった。よって、たとえば「宴が三献ほどしたら」というような表現があった。
*:現在では「一献やりましょう」というように、「一緒に酒を飲む」という意味で用いられる「一献」であるが、古くは一盃になみなみと酒を満たし、一座を一回りするのが「一献」であった。よって、たとえば「宴が三献ほどしたら」というような表現があった。


==='''日本酒を評価する基準・用語・表現'''===


====日本酒度====
==日本酒を評価する基準・用語・表現==

===日本酒度===
清酒の[[比重]]を示す単位。
清酒の[[比重]]を示す単位。


880行目: 565行目:
一般の人の舌が知覚する「甘辛感」は、酒の持つ香り、旨み、こく、食べあわせている食品や調味料、また飲んでいるときの体調などにより、大きな揺らぎを持つ。
一般の人の舌が知覚する「甘辛感」は、酒の持つ香り、旨み、こく、食べあわせている食品や調味料、また飲んでいるときの体調などにより、大きな揺らぎを持つ。


====酸度====
===酸度===
清酒10mlを[[中和]]するのに要する、10分の1規定[[水酸化ナトリウム]]溶液の滴定ml数のこと。この値が大きければ「さっぱり」、小さければ「こくがある」といった表現が使われるが、これも日本酒度と同じく、一般の人の味覚は香り、食べあわせ、体調などにより大きく変動するものだということは留意されてよい。
清酒10mlを[[中和]]するのに要する、10分の1規定[[水酸化ナトリウム]]溶液の滴定ml数のこと。この値が大きければ「さっぱり」、小さければ「こくがある」といった表現が使われるが、これも日本酒度と同じく、一般の人の味覚は香り、食べあわせ、体調などにより大きく変動するものだということは留意されてよい。


====甘辛度(あまからど)====
===甘辛度(あまからど)===
清酒の甘辛の度合いを示す値。清酒の[[ブドウ糖]]濃度と酸度から次のように計算される。
清酒の甘辛の度合いを示す値。清酒の[[ブドウ糖]]濃度と酸度から次のように計算される。
:甘辛度=0.86×ブドウ糖濃度-1.16×酸度-1.31
:甘辛度=0.86×ブドウ糖濃度-1.16×酸度-1.31
903行目: 588行目:
:非常に甘い   3
:非常に甘い   3


====アミノ酸度====
===アミノ酸度===


====味をあらわす表現====
===味をあらわす表現===
*辛口
*辛口
*甘口
*甘口
912行目: 597行目:
*芳醇 / 豊醇(ほうじゅん)
*芳醇 / 豊醇(ほうじゅん)


===='''香りをあらわす用語・表現'''====
===香りをあらわす用語・表現===
これも製法に関わる用語・表現と同じく、時代・世代や地方によってさまざまであり、統一されていないが、標準的なものを示しておく。
これも製法に関わる用語・表現と同じく、時代・世代や地方によってさまざまであり、統一されていないが、標準的なものを示しておく。


941行目: 626行目:
*:呑んだあとに、腹から鼻に抜けるように感じられる香。これも鑑評会などでは評価の対象から漏れてしまう。
*:呑んだあとに、腹から鼻に抜けるように感じられる香。これも鑑評会などでは評価の対象から漏れてしまう。


==='''温度をあらわす表現(飲用温度)'''===
===温度をあらわす表現(飲用温度)===
これも統一された用語というわけではないが標準的なものを示しておく。
これも統一された用語というわけではないが標準的なものを示しておく。


962行目: 647行目:
燗は季節の温度と密接に関わるため、[[#家庭行事|別火]]のような年中行事をも生んだ。
燗は季節の温度と密接に関わるため、[[#家庭行事|別火]]のような年中行事をも生んだ。


==='''日本酒に関る道具'''===
==日本酒に関る道具==
====酒器====
===酒器===
酒を飲むときに用いられる道具で、日本の生活をきめ細やかに支えている。
酒を飲むときに用いられる道具で、日本の生活をきめ細やかに支えている。
*[[盃]](さかづき)
*[[盃]](さかづき)
989行目: 674行目:
*:[[高御膳]]、[[中御膳]]など。出される酒と肴の意味を外側から規定していたといってよい。
*:[[高御膳]]、[[中御膳]]など。出される酒と肴の意味を外側から規定していたといってよい。


====醸造器====
===醸造器===
酒を造るために用いる道具。
酒を造るために用いる道具。
*[[壺]](つぼ)
*[[壺]](つぼ)
1,015行目: 700行目:
*[[縦型精米機]](たてがたせいまいき)
*[[縦型精米機]](たてがたせいまいき)


==='''日本酒にまつわる文化行事'''===
==日本酒にまつわる文化行事==
====家庭行事====
===家庭行事===
*[[屠蘇]] / [[屠蘇|屠蘇散]](とそさん)
*[[屠蘇]] / [[屠蘇|屠蘇散]](とそさん)


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*[[雪見|雪見酒]](ゆきみざけ)
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====祭り====
===祭り===
*[[どろめ祭り]]
*[[どろめ祭り]]


===日本酒に関する創作作品===
==日本酒に関する創作作品==
====文芸・漫画====
===文芸・漫画===
*[[蔵]]
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*:[[宮尾登美子]]著。[[小説]]。[[戦前]]新潟県の造り酒屋の娘として生まれた女性が、障害を負いながらも蔵元として成長する姿を描く。
*:[[宮尾登美子]]著。[[小説]]。[[戦前]]新潟県の造り酒屋の娘として生まれた女性が、障害を負いながらも蔵元として成長する姿を描く。
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*:[[西村ミツル]]著の回想記、およびこれを原作として脚色を加えた[[かわすみひろし]]作画の漫画。料理人である主人公が雇用者である外交官に日本酒の良さを解くが、日本国外での日本酒の流行は流行りに弱い若い世代だけのものといわれてしまう。しかし日本酒の真価を認めてもらうというエピソードがある。
*:[[西村ミツル]]著の回想記、およびこれを原作として脚色を加えた[[かわすみひろし]]作画の漫画。料理人である主人公が雇用者である外交官に日本酒の良さを解くが、日本国外での日本酒の流行は流行りに弱い若い世代だけのものといわれてしまう。しかし日本酒の真価を認めてもらうというエピソードがある。


====音楽・演劇・舞踊====
===音楽・演劇・舞踊===
*『[[黒田節]]』(邦楽)
*『[[黒田節]]』(邦楽)


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*:[[昭和]]40年代、[[現代邦楽]]の作曲家、[[杵屋正邦]]の作品。酒をはじめとする食品を[[擬人化]]した曲。きな粉元年あずきの末、自慢のし合いがもとで、酒一族と餅一族が座敷が原で[[合戦]]を繰り広げる。それを聞きつけた白大根練馬介の[[御台所]]、白妙の方が、人参の赤姫、ゴボウの黒姫などの女武者を引き連れて仲裁に入り、争いも治まり平和になる。
*:[[昭和]]40年代、[[現代邦楽]]の作曲家、[[杵屋正邦]]の作品。酒をはじめとする食品を[[擬人化]]した曲。きな粉元年あずきの末、自慢のし合いがもとで、酒一族と餅一族が座敷が原で[[合戦]]を繰り広げる。それを聞きつけた白大根練馬介の[[御台所]]、白妙の方が、人参の赤姫、ゴボウの黒姫などの女武者を引き連れて仲裁に入り、争いも治まり平和になる。


=== その他の関連項目 ===
== 関連項目 ==
*[[日本酒の歴史]]
*[[清酒酵母]]
*[[清酒酵母]]
*[[協会系酵母]]
*[[協会系酵母]]

2006年8月5日 (土) 18:21時点における版


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日本酒(にほんしゅ)は、醗酵させて作るアルコール飲料である。酒税法上では清酒(せいしゅ)、一般には単に(さけ)またはお酒(おさけ)、古語では酒々(ささ)、僧の隠語で般若湯(はんにゃとう)、現代の学生言葉ではポン酒など、英語などではsakeと呼ばれる。

酒器に酌まれた日本酒。(左)、猪口(中央)、

約5℃から約60℃まで幅広い飲用温度帯がある(本ページ「飲用温度」参照)。同じアルコール飲料を同じ土地で異なった温度で味わうのを常としているのは、世界的に見て日本酒のみである。また日本酒は米を米麹で醸す唯一の酒であり、醸造学的にも並行複醗酵で造る特異な飲料である。

料理魚介類の臭み消しや香り付けなどの調味料としても使用される。

近年、日本国内での消費は減退ぎみになる一方、国外ではアメリカ・フランスを中心として日本酒、とくに吟醸酒のブームが起こっている。(本ページ「昭和時代以降」参照)

歴史

日本酒の歴史を参照。

原料

正確には、日本酒の「原料」とは、米と水と麹(米麹)のみであるが、それ以外にも酵母を初めとして多くのものに支えられて日本酒が醸造されるので、広義にはそれらすべてを「日本酒の原料」と呼ぶこともある。専門的には、香味の調整に使われる「醸造アルコール」「酸味料」「調味料」「アミノ酸」「糖類」などは副原料と呼んで区別する。

麹米(こうじまい)用と掛け米(かけまい)用の二種類ある。

麹米には通常酒米(酒造好適米)が使われる。掛け米には、全部または一部に一般米(うるち米)が使われるが、特定名称酒の場合、酒米のみが使われることが多い。普通酒は麹米、掛け米ともにすべて一般米で造られるのがほとんどである。

水は日本酒の80%を占める成分で、品質を左右する大きな要因となる。水源はほとんどが伏流水地下水である。条件が良い所では、これらを水源とする水道水が使われることもあるが、醸造所によって専用の水源を確保することが多い。都市部の醸造所などでは、水質の悪化のために遠隔地から水を輸送したり、良質な水源を求めて移転することもある。 酒造りに使われる水は、仕込み水はもちろんのこと、瓶やバケツを洗う水まで酒造用水である。
また蔵元によっては仕込み水そのものを商品として販売しており、その水が大抵の場合好評を以って消費者から受け入れられている。

硬度

水の硬度は、酒の味に影響する要素の一つである。日本の日常生活では、硬度の測定にアメリカ硬度を用いているが、醸造業界では永らくドイツ硬度を用いてきた。最近はアメリカ硬度へ移行する兆しも見受けられる。

造られる酒の味は、おおざっぱに言えば、軟水で造ればソフトな酒、硬水で造ればハードな酒になる。理由は、醸造過程で硬水を使用すると、ミネラルにより酵母の働きが活発になり、アルコール醗酵すなわちの分解が速く進み、逆に軟水を使用するとミネラルが少ないため酵母の働きが低調になり醗酵がなかなか進まないからである。

江戸時代以来、高品質な酒を産出してきたでは宮水と呼ばれる硬水が使用されていた。一方、明治30年(1897年)には広島県の三浦仙三郎により軟水醸造法が開発された。このような理由から、かつては硬水酒造用水としてもてはやされていたが、軟水で醸した酒の味わいが現代人の味覚にマッチしているとして、近年では軟水も見直されている傾向もある。

水質

古来から酒蔵は川の近くに多いが、それは酒造用水として川の伏流水を汲み上げる必要があるからである。水は、酒の原材料のなかで唯一、表示義務の対象とされていないものだが、酒造用水に課せられている基準は、水道水などと比べるとはるかに厳格で、酒蔵は使用する水を事前にそれぞれの都道府県の醸造試験所食品試験所、酒造指導機関などに送って監査を受けなくてはならない。

監査は以下のような項目で行なわれる。

中国大陸とは違い、日本の水は各地によって小差はあるもののほとんどが中硬水であり、香味を損ねる分やマンガンの含有量が少ないため、醸造に適していると言える。太平洋戦争前は満洲へ渡り、在留日本人のために当地で日本酒を造ろうとした醸造業者たちが水を見つけるのに苦労したという話が多いのはそのためである。

なお、醗酵、および麹菌酵母菌の繁殖を促進するのに有効なだけの微量のカリウムマグネシウム燐酸は、それらを成分調整として加えることができる。

酒造用水の用途

酒造りに用いられる酒造用水は、以下のように分類される。

  • 醸造用水 - 醸造作業の最中に酒のなかに成分として取りこまれる水。
    • 洗米浸漬用水 - 仕込みの前に米の中に吸収される水でもある。
    • 仕込み用水 - 酒が「液体」として商品になる所以ともいえる。
    • 雑用用水 - 洗浄やボイラーに用いられる水であるが、これも水質の項で述べられているような厳しい基準を通過した酒造用水が用いられる。
  • 瓶詰用水
    • 洗瓶用水 - 瓶を洗う水である。
    • 加水調整用水 - アルコール度数を調整するために加える水で、醸造後に酒にとりこまれる。
    • 雑用用水 - タンクやバケツの清掃に用いる水であるが、これも水質の項で述べられているような厳しい基準を通過した酒造用水が用いられる。


蔵人たちの食事や洗面など日常生活には、一般人のそれと同じく水道水が用いられるが、興味深いことに、蔵人たちが入る風呂は酒造用水が用いられる酒蔵が多い。すでにその段階から「仕込み」が始まっているとの酒蔵の考えによるものであるが、これは単なる縁起かつぎに類するものと割り切れない側面もあり、人体の基本組成が水に似ていること、胎児に外から音楽を聞かせる胎教と似た原理が考えられること、などの理由から生物学者や心理学者の中で関心を寄せている者も存在する事象である。上記の分類にもまだ入れられていない。今後の研究が期待される。

とは、蒸した米に麹菌というコウジカビ胞子をふりかけて育てたものであり、米麹(こめこうじ)ともいう。これが米のデンプン質ブドウ糖へ変える、すなわち糖化の働きをする。

穀物である米は、主成分が多糖類であるデンプン質であり、そのままでは酵母がエネルギー源として利用できないために、麹の働きにより分子量が少ないへ分解しなければならない。言いかえれば、酵母がデンプンから直接アルコール醗酵を行うことはできないため、アルコールが生成されるには酵母が醗酵を始められるように、いわば下ごしらえとしてデンプンを糖化されてなければならず、それを行うのが日本酒の場合は米麹というわけである。米麹は、コウジカビが生成するデンプンの分解酵素であるα-アミラーゼグルコアミラーゼを含み、これらの働きにより糖化がおこなわれる。 米麹は、ほかにタンパク質の分解酵素も含んでおり、分解により生じたアミノ酸ペプチドは、酵母の生育や完成した酒の風味に影響する。(本ページ「製法 - 麹造り」も参照のこと。)

西洋においては、ワインに代表されるように、原料であるブドウ果汁の中にすでにブドウ糖が含まれているので、わざわざこうした糖化の工程が要らず、そのため単醗酵文化圏となったわけだが、東洋においては、日本酒のみならず他の酒類や味噌味醂醤油など多くの食品に麹が使われ、それが食文化的に複醗酵文化圏、カビ文化圏などとも呼ばれる所以ともなっている。
これは東南アジア~東アジアの中高温湿潤地帯という気候上の特性から可能であった醸造法であり微生物としての「カビ」の効果を利用したものである。

東洋で使われる麹菌には数々の種類があり、焼酎には白麹黒麹・黄麹、泡盛には黒麹、紹興酒には赤麹が用いられるのが通常だが、日本酒の場合は味噌、味醂、醤油と同じく黄麹(きこうじ)、もしくは黄麹菌(きこうじきん)、黄色麹菌(きいろこうじきん)が用いられる。しかし黄色と言われるわりには、実際の色は緑や黄緑に近い。

また形状から分類すると、日本で用いられる麹は、肉眼で見るかぎり米粒そのままの形をしているため、散麹(ばらこうじ)と呼ばれる。それに対して、中国など他の東洋諸国で用いられる麹は、餅麹(もちこうじ)と呼ばれ、原料となる米・麦など穀物の粉に水を加えて練り固めたものに、自然界に存在するクモノスカビケカビの胞子が付着、繁殖してできるものである。

酵母

厳密に言えば原料ではないが、日本酒造りの大きな要素であるため、ここに記す。詳細は清酒酵母を参照。

酵母とは生物学的には真菌類に属する単細胞生物である。酒造りにおいては、通常は出芽酵母を指す。これも何十万を超える種類が自然界に広く存在しており、それぞれ異なった資質を持っている。この酵母の多様性が酒の味や香りや質を決定づける重要な鍵となる。また多種多様な酵母のなかで日本酒の醸造に用いられる酵母を清酒酵母といい、種は80%以上がSaccharomyces cerevisiaeである。

近代以前は、麹と水を合わせる過程において空気中に自然に存在する酵母を取り込んだり、酒蔵に住みついた「家つき酵母」もしくは「蔵つき酵母」に頼っていたが、株が一定せず、いわゆる科学的再現性がなかっため、醸造される酒は品質が安定しなかった。

明治時代になると微生物学の導入により有用な株の分離が行われ、それが配布されることにより品質の安定と向上の要因となった。 明治44年(1911年)第一回全国新酒鑑評会が開かれると、日本醸造協会が全国レベルで有用な酵母を収集するようになり、鑑評会で一位となるなどして客観的に優秀と評価された酵母を採取し、純粋培養して頒布した。こうして頒布された酵母には、日本醸造協会にちなんで「協会n号」(nには番号が入る)という名がつけられた。このような酵母を協会系酵母、もしくは協会酵母という。アルコール醗酵時に二酸化炭素の泡を出す泡あり酵母と、出さない泡なし酵母に大別される。

もともとの日本酒は、米の持つ地味な香りしかなく、いわゆるワインのようなフルーティーな香りはない。それを持つようになった吟醸酒を誕生させるのに大きな役割を果たしたのは、協会系酵母のなかの協会7号協会9号であった。

1980年代に吟醸酒が消費者層に広く受け入れられると、協会系酵母の他にも、少酸性酵母高エステル生成酵母リンゴ酸高生産性多酸酵母といった高い香りを出す酵母が多数つくられ、今も大メーカーやバイオ研究所、大学などでさまざまな酵母がつくられている。 1990年代以降は、それぞれ開発地の地名を冠する静岡酵母山形酵母秋田酵母福島酵母なども高く評価されるようになり、最近では、アルプス酵母に代表されるカプロン酸エチル高生産性酵母や、東京農業大学なでしこベコニアツルバラの花から分離した花酵母などが、強い吟醸香を引き出すのに注目を集めている。

しかし、日本酒における吟醸香は、ちょうど人が香水をやたらにつければ逆効果であるのに似て、あまり強すぎれば酒の味を損なう諸刃の剣である。そこで、強い吟醸香を出す酵母は蔵元に敬遠される一面もある。そういう酵母は、他の酵母とブレンドしたり、鑑評会への出品酒のみに使ったりと、まだ使い方が模索されている途上にあるといってよい。

その他

正式には副原料に区分されるもの。

  • 醸造アルコール - すっきりした味わいにするため、あるいは香りを出すためにもろみに加えられる。単に増量のために加えられることもある(三増酒)。
  • 糖類 - 酒に甘味を付け加える。
  • アミノ酸 - 酒に旨みを付け加える。
  • 調味料 - 酒に旨みを付け加える。
  • 酸味料 - 酒に酸味を付け加える。

製法

日本酒はビール葡萄酒とおなじく醸造酒に分類され、原料を発酵させてアルコールを得る。しかし、日本酒やビールは葡萄酒と違い、原料に糖分を含まないため、糖化という過程が必要である。

ビールの場合は、完全に麦汁を糖化させた後に発酵させるが、日本酒は糖化発酵を並行して行う工程があることが大きな特徴である。並行複発酵と呼ばれるこの日本酒独特の醸造方法が、他の醸造酒に比べて高いアルコール度数を得ることができる要因になっている。

日本酒は、次の過程を経て醸造される。

精米

玄米から胚芽を取り除き、あわせて胚乳を削る。削られた割合は精米歩合により表される。

に含まれる蛋白質脂肪は粒の外側でより多く含まれる。醸造の過程において、蛋白質・脂肪は雑味の原因となるため、米が砕けないよう慎重に削り落とされ、それにより洗練された味を引き出すことができる。その反面、精米歩合が高くなればなるほど米の品種の個性が生かしにくくなり、発酵を促すミネラル分やビタミン類も失われるので、後の工程での高度な技術が要求されることになる。

精米の速度が速すぎると、米が熱をもって変質したり、砕けて使い物にならなくなるので、細心の注意をもってゆっくり行なわなくてはならない。吟醸、大吟醸となると、削りこむ部分が大きいだけでなく、そのぶん対象物が小さくなって神経も使うので、精米に要する時間は丸二日を超えることもある。

昭和5年(1930年)ごろ以降は縦型精米機の出現により、より高度で迅速な精米作業が可能になり、ひいてはのちの吟醸酒の大量生産を可能にした(本ページ「吟醸酒の誕生」参照)。最近ではこの縦型精米機をコンピュータで制御して精米している大メーカーもある。

放冷・枯らし

精米後の白米、分け後の酒母、出麹後の麹を次の工程で使用されるまで放置すること。

精米された米はかなりの摩擦熱を帯びている。精米歩合が高く、精米時間が長ければ長いほど、帯びる熱量も大きくなる。そのままでは次の工程へ進むには米の質が安定していない(蔵人言葉では「米がおちついていない」)ため、袋に入れて倉庫のなかでしばらく冷ますことになる。 これを放冷(ほうれい)、また蔵人言葉では枯らし(からし)という。「しばらく」と言っても数時間単位で済む作業ではなく、摩擦熱が放散しきって完全に米が落ち着くまで通常3週間から4週間はかかる。

洗米

精米された米は、精米の過程で表面に付いた・米くずを徹底的に除去される。これが洗米(せんまい)である。

普通酒を造る米などは機械でいっぺんに洗米されるが、高級酒を造る米は手作業でおよそ10kgぐらいずつ5℃前後の手を切るような冷水の流水圧を使って洗われる。こうして洗っているあいだにも米は必要な水分を吸収しはじめており、そのため「第二の精米作業」と言われるほど神経をとがらせて行なわれる工程である。 こうして洗われた米は浸漬へ回される。

浸漬

洗米された米は、水につけられ、水分を吸わされる。これを浸漬(しんせき)という。

浸漬は、のちのち蒸しあがった米にムラができないように、米の粒全般に水分を行き渡らせるために施される工程である。水が、米粒の外側から、中心部の心白(蔵人言葉では「目んたま」)と呼ばれるデンプン質の多い部分へ浸透していくと、米粒が文字通り透き通ってくる。米の搗(つ)き方、その日の天候気温湿度水温などさまざまな条件によって時間は精緻に異なる。冬の厳寒のさなかの手仕事である。

このとき、米にどれだけ水を吸わせるかによって、できあがりの酒の味が著しく違ってくる。米の品種や、目指す酒質によって、浸漬時間も数分から数時間と幅広い。精米歩合が高い米ほど、その違いが大きく結果を左右するので、高級酒の場合はストップウォッチを使って秒単位まで厳密に浸漬時間を管理する。米は水からあげた後もしばらく吸水しつづけるので、その時間も計算に入れた上で浸漬時間は判断される。

なお、できあがりの酒質のコンセプトによっては、意図的に途中で水から上げるなど、ある一定の時間だけ米に吸水させることを限定吸水(げんていきゅうすい)という。

蒸し

浸漬を経た米は広げて、湿度を保たせる。このあいだも米は水分を吸収し続ける。

その後、麹の酵素が米のデンプンを分解しやすくさせるために、米を蒸す。この工程を正式には蒸きょう(じょうきょう:「きょう」は「食へんに強」)、もしくは蔵人言葉で蒸しという。普通酒などでは自動蒸米機(じどうじょうまいき)という機械で、高級酒などでは和釜に載せた(こしき)という大きな蒸籠(せいろ)に移して、約1時間ほど乾燥蒸気で蒸す。

蒸しあがった米は、「内柔外剛」といって、外側がパサパサとしていて内側が柔らかいのがよいとされている。外側が溶けていると、コウジカビの定着の前に腐敗が始まる恐れがあり、また、内側に芯が残っていると、米で一番良質のデンプン質を含んだ部分が、糖化・発酵しない可能性があるからである。

なお、和釜から甑を外すことを甑倒し(こしきだおし)という。それは単に蒸しの作業が終わることだけでなく、蔵人たちにとっては気の抜けない酒造りのシーズンが終わりほっと一息つく日の到来をも意味する。

麹造り

とは、蒸した米に麹菌というコウジカビ胞子をふりかけて育てたもので、米のデンプン質ブドウ糖へ変える糖化の働きをする。(詳しくは本ページ「原料 - 」参照。)麹造りは正式には製麹(せいぎく)という。

口噛み製法で醸されていた原初期の日本酒をのぞいて、奈良時代の初めにはすでに麹を用いた製法が確立していたと考えられる。(本ページ「麹造りと醴酒」参照。)以来、永らく麹造りは、酒造りの工程に占める重要性と、味噌や醤油など他の食品への供給需要から、酒屋業とは別個の専門職として室町時代まで営まれてきたのだが、1444年文安の麹騒動によって酒屋業の一部へと武力で吸収合併された。(本ページ「室町時代」参照。)

現在、たいてい酒蔵には麹室(こうじむろ)と呼ばれる特別の部屋があり、そこで麹造りが行なわれている。床暖房やエアコンなどで温度は30℃近く、湿度は60%以下に保たれている。温度が高いのは、そうしないと黄麹菌が培養されないからであり、また湿度に関しては、それ以上高いと黄麹菌以外のカビや雑菌が繁殖してしまうからである。入室には全身の消毒が必要で、関係者以外は入れない。それに加え、室外から雑菌が入り込まないように二重扉密閉窓断熱壁など、かなりの資本をかけ念入りに造られているのが通常で、よく「麹室は酒蔵の財産」と言われる。

「原料 - 」の項に詳しく述べられているように、麹からは糖化作用のためのデンプン分解酵素のほか、タンパク質分解酵素なども出ており、これらが蒸し米を溶かし、なおかつ酒質や酒味を決めていくわけだが、あまり酵素が出すぎると目指す酒質にならないため、米の溶け具合がちょうどよいところで止まるように麹を造る必要がある。

それを見極めるのに着目されるのが、米のところどころに生じる破精(はぜ)であり、またその破精込み具合によって麹は突破精型総破精型に分類される。一応、

  • 突破精型(つきはぜがた) 淡麗で上品な酒質に仕上がるため吟醸酒向け
  • 総破精型(そうはぜがた) 濃醇でどっしりした酒質に仕上がるため純米酒向け

という傾向はあるものの、そこは造り手のコンセプトによっていくらでも独自性が発揮される。

蔵人のあいだではよく「一、麹。二、酛(もと)。三、造り。」といわれ、また「よい麹ができれば酒は七割できたも同然」という蔵人もいるくらいで、酒造りの出発点として重要視される。

目安としては蒸し米30kgにつき約1坪のスペースが必要で、また大吟醸酒などでは蒸し米100kgあたりに振りかける黄麹菌は5gほどである。

目指す酒質によって、麹造りには以下のような方法がある。

蓋麹法

蓋麹法(ふたこうじほう)は、主に吟醸酒かそれ以上の高級酒のための方法であり、麹造りに要する時間は丸2日以上、だいたい50時間で、おおかた以下のような順番で作業がおこなわれる。

  1. 種切り まだ35℃近くの蒸し米を薄く敷き詰め、(ふるい)から種麹(たねこうじ)、すなわち粉状の黄麹菌を振りかけていく。終わると米を大きな饅頭のように中央に集めて布で包む。
  2. 切り返し 種切りから8~9時間経つと、黄麹菌の繁殖熱により水分が蒸発し米が固くなっているので、一度ひろげて熱を放散させたうえで、ふたたび大きな饅頭にして包む。
  3. 盛り 翌日あたりになると黄麹菌の活動が盛んになり、米の温度も上昇がいちじるしい。そこで大きな饅頭を解き、小さな箱に米を少量ずつ小分けにしていき、この箱を決められたスペースに積み重ねて管理する。この小さな箱のことを麹蓋(こうじぶた)といい、麹蓋に米を盛りつけることからこの工程を盛りと呼ぶ。非吟醸系の酒の場合、麹蓋は使われないことも多い。
  4. 積み替え 盛りから3~4時間経つと、ふたたび米が熱を持ってくるので、麹蓋を上下に積み替えて温度を下げる。
  5. 仲仕事(なかしごと) ふたたび熱を散らすために米を広げて温度を下げる。
  6. 仕舞い仕事(しまいしごと) また熱を散らすため、米を広げる。これで米の熱を散らす作業は終わりという意味から仕舞い仕事と呼ぶのだが、実際上はこれが最後ではない。
  7. 最高積み替え  仕舞い仕事のあとも米の温度はさらに上がる。温度が最高になったときに、最後の温度調整のために麹蓋の上下積み替えをおこなう。温度が最高になったときに行なうので最高積み替えという。この後も何回か米の温度を見て、適宜に積み替えをして温度を下げる作業が続く。
  8. 出麹(でこうじ) 50時間ほど経過したころになると、栗を焼いたような香ばしい匂いがしてくる。これが麹ができたサインとなる。こうなったら麹室から麹を出す。

箱麹法

箱麹法(はここうじほう)は、蓋麹法から「3.盛り」以降を簡略化する手法で、普通酒を中心とした酒質に用いられる。麹蓋を大きくしたような麹箱をつかって米を小分けするが、大きい分だけ一度に処理できる米の量が増え、ひいては手間やコストの低減化につながる。

床麹法

床麹法(とここうじほう)は、麹蓋や麹箱を用いずに、麹床(こうじどこ)などと呼ばれる、米に黄麹を振りかける台で米の熱を放散させて造る方法である。普通酒を中心とした酒質に用いられる。

機械製麹法

機械製麹法(きかいせいぎくほう)は、機械を用いて麹を大量生産できる方法。手間がかからず生産コストは抑えられるが、できる酒質には限界があるので、高級酒には適さないとされる。普通酒を中心とした酒質に用いられる。

酒母造り

酵母を増やす行程のこと。蔵人言葉では「酛立て」(もとだて)という。

酵母にはブドウ糖アルコールに変える働き、すなわち醗酵作用があるものの、酒蔵で扱うような大量の米を醗酵させるためには、微生物である酵母が一匹や二匹ではまったく不十分で、米の量に見合っただけの何百億、何千億匹もの酵母が必要となる。だが、じっさいの酵母の数を数える単位は匹ではなくcellという。

こうした状況のなかで酒蔵では、アンプルに入っている少量の酵母を特定の環境で大量に育てることになる。このように大量に培養されたものを酒母(しゅぼ / もと)または(もと)という。

作業としては、まず酛桶(もとおけ)と呼ばれる高さ1mほどの桶もしくはタンクに、麹と冷たい水を入れ、それらをよく混ぜる。すると水麹(みずこうじ)と呼ばれる状態のものができあがる。酛桶は、最近では高品質のステンレスのものが多く、どうみても「タンク」といった風体だが、醸造器としてはあくまでも「酛桶」という。

そのあと水麹に醸造用乳酸と、採用すると決めた酵母を少量だけ入れる。採用する酵母は、多種多様な清酒酵母から、造り手が目指す酒質に適すると考えるものが通常は一種類だけ選ばれるが、その酵母があまりにも強い特性を持つ場合などには、それを緩和するためにもう一種類の酵母をブレンドして入れることも多い。

上記のものに蒸し米を加えると酒母造りの仕込みは完成する。あとは製法によって2週間から1ヶ月待つと、仕込まれた桶のなかで酵母が大量に培養され酒母すなわち酛の完成となる。

酒母造りの場所は、酒母室(しゅぼしつ)もしくは酛場(もとば)と呼ばれ、雑菌野生酵母が入り込まないように室温は5℃ぐらいに保たれている。しかし麹室に比べると管理の厳重さを必要としないので、酒蔵によっては見学者を入れてくれるところもある。酒母室のなかでは、酵母が醗酵する小さな独特の音が響いている。

酒母造りの際には、タンクの蓋は開け放しの状態になるから、空気中からタンク内にたくさんの雑菌野生酵母が容易に入り込んでくる。そのため硝酸還元菌乳酸菌を加え、乳酸を生成させることによって雑菌や野生酵母を死滅させ駆逐することが必要となる。この乳酸を、どのように加えるかによって、酒母造りは大きく次の2通りに分類される。

生酛系(きもとけい)

乳酸菌を自然から取り込み,乳酸を作らせる古来からの伝統的な製法。

所要約1ヶ月。しかし、腐敗のリスクが大きく、時間も労力もかかるので敬遠される傾向にある。

  • 工程の流れは以下の通り。
    1. 米、麹、水を混ぜる
    2. 山卸(山廃仕込みでは省略)
    3. 温度管理
    4. 酵母添加
    5. 温度管理
    6. 酒母完成
  • 山廃仕込み(やまはいしこみ / -じこみ)
    生酛系に属する仕込み方の一つ。「山卸廃止酛(やまおろしはいしもと)」、もしくはその方法でで醸造した酒のことをいう。山廃(やまはい)と略される。「山卸」とは、蒸した米、麹、水を混ぜ粥状になるまですりつぶす工程であり、山廃はそれを重労働ゆえに廃止した仕込み方である。詳しくは「山廃仕込み」参照。


速醸系(そくじょうけい)

乳酸を人工的にあらかじめ加える近代的な製法。仕込み水に醸造用の乳酸を加え、じゅうぶんに混ぜ合わせた上で、掛け米と麹を投入して行なわれる。速醸酛(そくじょうもと)とも呼ばれる。

所要約2週間。現在造られている日本酒のほとんどは速醸系である。

  • 工程
    1. 米、麹、水、乳酸を混ぜる
    2. 酵母添加
    3. 温度管理
    4. 酒母完成

醪(もろみ)造り

(もろみ)とは、仕込みに用いるタンクのなかで酒母、麹、蒸米が一体化した、白く濁って泡立ちのある粘度の高い液体のことであるが、学問的・専門的にではなく、あくまでも一般的理解のためという前提で補足すると、日本酒の製法という文脈に限っては、

  • 「醪(もろみ)」=「仕込み」=「造り」

としてほぼ同意に使われることが多い。
したがってこの醪造りも、単に「造り」と呼ばれる。「一に麹、二に酛、三に造り」というときの「造り」はこれを意味している。またこの造りをおこなう場所を仕込み場(しこみば)という。現在の仕込み場は、たいてい温度センサーのとりつけられた3t仕込みタンクが並んでいる。

醪造りの工程においては、酵母のはたらきで醪(もろみ)がアルコールを生成すると同時に、麹によってデンプンが糖に変わる。この同時並行的な変化が日本酒に特徴的な並行複醗酵である。
また仕込むときに三回に分けて蒸米と麹を加える。これが室町時代の記録『御酒之日記』にもすでに記載されている段仕込みもしくは三段仕込みである。
この方法により酵母が活性を失わずに醗酵を進めるため、醪造りの最後には20%を超えるアルコールが生成される。これは醸造酒としては稀に見る高いアルコール度数であり、日本酒ならではの特異な方法で、世界に誇れる技術的遺産といえる。


一回目を初添(はつぞえ 略称「添」)、踊りと呼ばれる中一日を空けて、二回目を仲添(なかぞえ 略称「仲」)、3回目を留添(とめぞえ 略称「留」)という。20~30日かけて醗酵させる。

吟醸系(吟醸酒大吟醸酒)と非吟醸系(それ以外の酒)は、この過程において以下の二つの点で造り方が分かれる。

(1)精米歩合

精米は、米に含まれる蛋白質を取り除くために行われるが、生物の構成において蛋白質が重要である以上、精米歩合の高い麹米・掛米から造られた醪は、酵母が生きていくにはよい環境ではない。そのため、酵母はその環境で生存するために、それら自身がアミノ酸クエン酸リンゴ酸などの有機酸を生成する。これらの中で、揮発性のものが独特の吟醸香を構成する。平たく言えば、米を削りこんだほど、酵母は苦しんで、吟醸香を出すというわけである。

(2)温度管理

酵母がブドウ糖からエネルギーを得るためにも、また酵母が自身にとって快適な生存環境を構築するためにも、熱が放出される。しかし、その熱は醪の中の化学成分、特に有機酸に影響を与えて、雑味となる成分を生成してしまう。また生物は、主な構成物質が蛋白質であるために、その大半は蛋白質の凝固温度の手前である35℃前後が活動に適した温度であって、熱が放出された結果それより高い温度になってしまうことは避けられなくてはならない。
そのために、日本酒造りは冬の寒い時期に行われることになった。通常の造りは15℃前後に熱を抑えるのに対し、さらに有機酸への影響を多く考えなくてはならない吟醸系の場合は10℃前後が目安とされる。

泡の状貌

温度計もセンサーもなかった古来から、蔵人たちは醪の表面の泡立ちの様子を観察し、いくつかの段階に区分けすることによって、内部の醗酵の進行状況を把握してきた。この醪の表面の泡立ちの状態を(泡の)状貌(じょうぼう)といい、以下のように示される。

  1. 筋泡(すじあわ) 留添から2~3日ほど経つと生じてくる筋のような泡で、醪の内部での醗酵の始まりを告げる。
  2. 水泡(みずあわ) 筋泡からさらに2日ほど経ったころ。カニが口から吹くような白い泡。醪の中の糖分は頂点に達している。
  3. 岩泡(いわあわ) 水泡からさらに2日ほど経ったころ。岩のような形となる泡。醗酵にともなって放熱されるので温度上昇も著しいころである。
  4. 高泡(たかあわ) 岩泡からさらに2日ほど経ったころ。留添から通算すると1週間から10日前後。岩泡ぜんたいが盛り上がりを見せる。化学的には醗酵が糖化に追いつこうとしている状態。泡あり酵母泡なし酵母の区別は、この高泡の有無で決められることが多い。
  5. 落泡(おちあわ) 留添から12日前後経ったころ。泡の盛り上がりが落ち着いてくる。化学的には醗酵が糖化に追いついた状態。
  6. 玉泡(たまあわ) さらに2日ほど、また留添から通算で2週間ほど経ったころ。詳しくは大玉泡中玉泡小玉泡に分けられる。泡は玉のかたちになってどんどん小さくなっていく。小さければ小さいほど醗酵はだいぶ落ち着いてきている。
  7. (じ) さらに5日ほど、または留添から通算3週間近く経ったころ。玉泡が小さくなりきって、今度は消えていく。醗酵も終盤に近いことを示す。だが、どの段階で「醪造り」の全工程の終了とみなすかは、杜氏の判断に任されている。目的とする酒質によっては、このまま何日か時間を置いたほうがよく、また吟醸系の場合はさらにその状態を持続させることが好ましいとされるからである。


近年、泡なし酵母が多く開発されてきたが、今日でも泡あり酵母を使った醸造では、仕込みタンクのなかで日々刻々と上記のような状貌の推移を見ることができる。

アルコール添加

上槽の約2日前から2時間前にかけて、ゆっくりと丹念に30%程度に薄めた醸造アルコールを添加していくこと。

「アルコール添加」、または略して「アル添(アルてん)」という語感から、工業的に何か不純な添加物を加えるかのようなイメージをもたれることが多い(本ページ「日本酒に関する創作作品 - 『美味しんぼ』」参照。)が、古くは江戸時代の柱焼酎という技法にさかのぼる、伝統的な工程の一つである。

次のような目的のためにおこなわれる。

  1. 防腐効果 現在のアルコール添加の起源となっている、江戸時代の柱焼酎は、酒の腐造を防ぐために焼酎を加える技法であった。だから、かつては防腐効果がアルコール添加の最も重要な目的であったのだが、衛生管理が進んだ現代にあっては、もはやあまり正面から目的とされているわけではない。
  2. 香味の調整 現在のアルコール添加の目的の第一はこれである。適切なアルコール添加は醪からあがった原酒に潜在している香りを引き出す。とくに吟醸系の酒の香味成分は、水には溶けないものが多く、それを溶かしだすためにアルコール添加が必要となる。そもそも吟醸酒じたいが、アルコール添加を前提として開発された酒種であった。(本ページ「吟醸酒の誕生」参照。)
    現在、吟醸酒を生産する酒蔵ではアルコール添加は酒質を高めるために必須と考えているところが多い。
  3. 味の軽快化 現在のアルコール添加の目的の第二。醪の中には醗酵の過程で生成された糖や酸が多く含まれており、これらを放置しておくと、完成した酒が、良く言えば重厚、悪く言えば鈍重な味わいになる。ここでアルコール添加をおこなっておくと、それらが調整される。
    また純米酒はその性質上、後味に多寡はあれども酸味が生じるが、アルコール添加により酸味が抑えられ、飲み口がまろやかになる。
    さらに、現代の食生活では旨み・油が多用され、飲料としては軽快な味わいのものが求められるようになってきたために、酒のキレをよくするためにアルコール添加が活用されている側面もある。
  4. 増量 三増酒の全盛時代には、酒の量を水増しするために行なわれたことが多かった。「アル添」という工程が一般的に悪いイメージを持たれるのには、主にそうした前の時代の負の遺産であると思われる。

上槽

上槽(じょうそう)とは、杜氏の判断で「熟成した」と判断された瞬間を経たへ、アルコール添加副原料の投入が施されたあと、搾って白米・米麹などの固形分と、生酒となる液体分とに分けることをいう。蔵人言葉では搾り(しぼり)、上槽(あげふね)ともいう。
なお、固形分がいわゆる酒粕(さけかす)になる。白米の重量に対する上槽後の酒粕の重量を粕歩合(かすぶあい)という。
上槽をおこなう場所を上槽場(じょうそうば)といい、普通酒本醸造酒純米酒は、そこで醪自動圧搾機(もろみじどうあっさくき)や遠心分離機(えんしんぶんりき)など機械で搾られるが、吟醸酒のように精緻な作業を要する酒は昔ながらの槽搾り(ふねしぼり)、ヤブタ搾り袋吊りなどの方法で搾られる。それは単に手造り感を演出しているわけではなく、吟醸酒の醪には溶解していない米が他種の酒よりも多く残る結果となるので、機械で搾ろうとしても酒粕が詰まってしまうからである。
搾りだされた酒が出てくるところを槽口(ふなくち)という。

また酒蔵では、その年初めての酒が上槽されると、軒下に杉玉(すぎたま)もしくは酒林(さかばやし)を吊るし、新酒ができたことを知らせる習わしがある。吊るしたばかりの杉玉は蒼々としているが、やがて枯れて茶色がかってくる。この色の変化がまた、その酒蔵の新酒の熟成具合を人々に知らせる役割をしている。

滓下げ

槽口(ふなくち)から搾り出されたばかりの酒は、まだ炭酸ガスを含むものも多く、酵母やデンプンの粒子が漂い、濁った黄金色をしている。この濁りの成分を(おり)といい、これらを沈殿させるため、酒はしばらくタンクのなかで放置される。この過程を滓下げ(おりさげ)という。
滓下げを施した上澄みの部分を「生酒」(なましゅ)という。「生酒」(なまざけ)とは別の概念なので注意を要する。
完成酒を生酒(なまざけ)や無濾過酒(むろかしゅ)に仕立てる場合などは異なるが、大多数の一般的な酒の場合、上槽から出荷までには二度ほど滓下げを施すことが多い。第一回目の滓下げをおこなったあとの生酒(なましゅ)にも、まだ酵母やデンプン粒子などの滓が残っているのがふつうで、雑味もかなりあり、これらを漉し取るために濾過(ろか)の工程が必要となってくる。
近年では、消費者の「生」志向に乗じて、滓下げ以降の工程を施さず無濾過生原酒として出荷する酒蔵もあらわれてきている。

濾過

濾過(ろか)とは、滓下げの施された生酒(なましゅ)の中にまだ残っている細かい滓(おり)や雑味を取り除き、また時として色を黄金色から無色透明にできるだけ近づけるために行なわれる工程である。生酒(なましゅ)の中に、粉末状の活性炭を投入することによって行なわれる。そのため炭素濾過(たんそろか)もしくは活性炭濾過(かっせいたんろか)ともいう。逆に、この工程をあえてスキップして無濾過酒(むろかしゅ)として出荷する場合も多い。
この活性炭粉末を、酒蔵ではたんに炭(すみ)という。基本的には一般家庭の冷蔵庫などで使われる脱臭炭や、煙草のフィルターに入っている黒い粉末と同じものである。目安として、生酒(なましゅ)1klにつき炭1kgを投入し、取り除きたい成分や色をその炭に吸着させて沈澱させる。その後に不要成分ごと炭を脱去する。
投入するといっても、単に投げ入れるだけではなく、取り除きたい成分や色だけを抜くところにこの工程の難しさがある。あまり入れすぎると酒は澄んでくるが、味も色も香りもすべて無化して面白くも何ともない完成酒になってしまう。じつは高級酒ほど炭の使用量は少なく、根強いファン層を持つ銘酒では0.06kg程度であるともいう。このように、炭加減(すみかげん)がたいへん微妙であるために、地酒の本場では蔵人のあいだで炭屋(すみや)と呼ばれる、この工程だけの専門家が存在する。
槽口(ふなくち)から搾られたばかりの日本酒はたいてい秋の稲穂のように美しい黄金色をしているのだが、かつて全国新酒鑑評会では、酒に色がついた出品酒を減点対象にしていた時代があり、そのため酒蔵はどこも懸命に活性炭濾過で色を抜き、水のような無色透明にして出荷するようになった。2006年現在、いわゆる「清酒」という言葉から一般的に連想される無色透明な色調は、その時代の名残りともいえる。
しかし、雑味や雑香はともかく色の抜去は求められなくなってきたので、色のついたまま流通する酒が復活してきている。このような流れのなかで、濾過のあり方も今後どうなるか注目されるところである。

火入れ

火入れ(ひいれ)とは、醸造した酒を加熱して殺菌処理を施すこと。火当て(ひあて)ともいう。火入れされる前の酒は、まだ中に酵母が生きて活動している。また、により生成された酵素もその活性を保っている。さらに、製造工程の中で、乳酸菌の一種である火落菌が混入している恐れがある。そこで加熱によりそれらを殺菌・死滅あるいは失活させ、酒質を固定するとともに、出荷後の腐敗を防ぐのである。
しかし、あまり加熱が過ぎれば、アルコール分や揮発性の香気成分が蒸発して飛んでしまうので、これもまた加減が難しい。通常は62℃~68℃ていどで行なわれる。

火入れの技法は、室町時代に書かれた醸造技術書『御酒之日記』にもすでに記載され、平安時代後期から畿内を中心に行なわれていたことがわかる。これはすなわち、西洋における細菌学の祖、ルイ・パスツール加熱殺菌を発見するより500年も前に、日本ではそれが酒造りにおいて一般に行なわれていたことになる。
だがちなみに、中国ではパスツールより700年以上前、代の政和七年(1117年)に序文が書かれた醸造技術書『北山酒経』の中に、加熱殺菌を意味する「煮酒」の技法が記載されている。しかし同書が室町時代ごろまでに日本にもたらされたか否かについては2024年現在まだ確証がなく、日本の火入れの技法が独自にたどりついたものか、大陸から伝来したものかは未だわかっていない。(また同書には、現在の酵母を意味する「」という表現も見られる。)

生酒をめぐる表示問題

生貯蔵酒(なまちょぞうしゅ)や生詰酒(なまづめしゅ)に仕立てる場合などをのぞいて、大多数の一般的な酒の場合、上槽から出荷までのあいだに火入れは二度ほど行なわれる。すなわち、一回目は貯蔵して熟成させる前、二回目は瓶詰めして出荷する直前である。とくに一回目の火入れは、成分に落ち着きを与え、その先の貯蔵中にどういうふうに熟成していくかの方向性を左右する。

これをわかりやすくチャートにすると以下のようになる。

上槽 → 滓下げ1回目 → 濾過1回目 →  火入れ1回目 →貯蔵・熟成
   → 滓下げ2回目 → 濾過2回目割水火入れ2回目 → 瓶詰め
   → 出荷

  • 生貯蔵酒(なまちょぞうしゅ) 火入れ1回目をしない。蔵人言葉では「先生」(さきなま)、「生貯」(なまちょ)などという。
  • 生詰酒(なまづめしゅ) 火入れ2回目をしない。蔵人言葉では「後生」(あとなま)などという。
  • 生酒(なまざけ ) 火入れ1回目も2回目もしない。蔵人言葉では「生生」(なまなま)、「本生」(ほんなま)などという。
  • 生酒(なましゅ) 滓下げ1回目を施された上澄み部分の酒のこと。


刺身に代表される「生」の食文化圏である日本では、新鮮であることが抜きん出て好まれる。また日本の日本酒業界は、「生」や「辛口」で売り上げを伸ばしたビール業界の影響を受けやすい。それらの要因から、日本酒も上記のような「生」と銘打った商品が増えてきた。
しかし、たしかに火入れをしていない酒はみずみずしく、香りも若やいで華やかではあるが、味は荒々しく、貯蔵・熟成を経た酒が持つ旨みやまろみ、深みに欠けるため、筋金入りの愛飲家や酒類評論家のあいだでは一般に、「生」系の酒よりも昔ながらの火入れの工程を経た酒の方が好まれる傾向がある。

こうした背景のなか、2006年07月現在、生貯蔵酒生詰酒は、少なくとも一回は火入れをしていて本当は「生」ではないわけだから、「生」を名称に含めるのは妥当ではない、という議論がなされている。
また、「生」好みの消費者心理を利用し、生貯蔵酒や生詰酒の「生」の字だけを大きく、あるいは目立つ色彩でラベルに印刷し、その他の文字を小さく地味に添えるなどして、あたかも生貯蔵酒や生詰酒が「生」の酒であるかのようにイメージを演出して流通させている蔵元もある。
一方では、吟醸酒や純米酒のなかには「生詰」と表示したほんとうの生酒(なまざけ)つまり「生生」も流通されるようになってきた。

居酒屋など日本酒を出す飲食店のなかには、じっさいは本当の生酒(なまざけ)ではなく、生貯蔵酒生詰酒であるのにもかかわらず、メニューや張り紙に「生酒」と書いて客に提示している店も多く見かける。
生酒(なまざけ)は、保存や流通の温度管理が難しい分だけコストが上乗せされ、ふつう値段が高くなるものである。それを、生貯蔵酒や生詰酒の値段でメニュー表示されたならば、とうぜん消費者は「割安だ」と勘違いする。こういう表示の仕方は、れっきとした偽装表示にあたるので、消費者はためらいなく指摘することができる。

貯蔵・熟成

上槽滓下げのあと、目的とする酒質によっては濾過火入れを経ないものもあるが、通常それらの工程を経た後に、さらに酒の旨み、まろみ、味の深みなどを引き出すためにしばらく貯蔵(ちょぞう)される。
熟成(じゅくせい)とは、一般にこのように貯蔵されているあいだに起こる酒質の成長や完成への過程をいう。
とくに火入れを経過させない酒の内部においては醗酵が止まっておらず、調熟作用(ちょうじゅくさよう)といって、アミノ酸分解や糖化により風味の自然調和が続いている。そのため、調熟作用によって最終的にその酒の持ち味を生み出している銘柄では、すぐに出荷せず貯蔵・熟成させるのは、欠かすことのできない工程の一部である。

日本酒は、牛乳と同じく新鮮さが命である生酒はもちろんのこと、そうではない火入れをしてある酒であっても、原則的には出荷後はできるだけ早く飲んだほうがよい。しかし、そのことと出荷前に熟成の期間をおくことは別問題と考えなくてはならない。むしろ貯蔵・熟成の期間をおいて、最高の酒質になったときを見計らって出荷されるがゆえに、出荷後はできるだけ早く飲んだほうがよいと言われるのだ、と理解されるべきである。

吟醸系の酒は、香りや味わいを安定させるために、半年かそれ以上、熟成の期間を持たせるものも多い。しかし、いちいち古酒古々酒といった表示をするのは、吟醸の品格からして無粋であるというような感覚から、そういった表示はラベルにされないのが通常である。
また非吟醸系であっても、本醸造酒純米酒では、酒蔵のある風土の自然条件、仕込み水の特徴、杜氏が目的とするコンセプトなどさまざまな理由から、長期間貯蔵して熟成させるものがある。
あるいは、たとえば滋賀県鮒寿司のように、その地方の基本的食品がある一定の期間の貯蔵・熟成を経てから食べられる土地などにおいては、食品が熟成する時間と同じだけの時間が、酒質の完成にももとよりかかるように醸造される地酒もある。こういった熟成は、まさに食文化の基礎にある相互補完という地酒の原点を物語るものである。

新酒・古酒・秘蔵酒

日本酒は、毎年7月から翌年6月が製造年度と定められており、通常は製造年度内に出荷されたものが新酒と呼ばれる。
しかし最近は、上槽した年の秋を待たず6月より前に出荷する酒に「新酒」というラベルを貼って、ひやおろしから差別化して新鮮さをアピールする酒が増えたために、「新酒」の定義に混乱が生じつつある。

また古酒に関しても、酒類評論家のなかには「5年以下は古酒と認めない」という立場をとる人もおり、明確な定義が確立されているわけではない。

なお、蔵元のなかには西洋のワインにおけるヴィンテージという考え方を導入し、ラベルに酒の製造年度を明記しているところもある。熟成することによって味に奥行きが出るように造るこうしたヴィンテージ系日本酒は、熟成期間の長いものでは20~30年にも及ぶ。

ひやおろし

ひやおろしとは、冬季に醸造したあと春から夏にかけて涼しい酒蔵で貯蔵・熟成させ、気温の下がる秋に瓶詰めして出荷する酒のことである。醸造年度を越して出荷されるという意味では、ほんらい古酒に区分されることになるが、慣行的に新酒の一種として扱われる。


大古酒

大古酒(だいこしゅ / おおこしゅ)という語に関して、2024年11月現在まだ明確な定義は確立されていない。しかし概して「大」がつくだけの桁が違う熟成が求められる。昭和43年(1968年)に開封された元禄の大古酒のように279年まで行かなくとも、熟成期間100年を超した年代ものは一般に大古酒と呼ばれる。

割水

割水(わりみず)とは、熟成のための貯蔵タンクから出された酒へ、出荷の直前に水を、より正確には加水調整用水を加える作業をいう。加水調整(かすいちょうせい)あるいは単に加水とも呼ばれる。ちなみに焼酎の製造過程では、まったく同じ工程を和水(わすい)と呼んでいる。
この工程の目的は、酒のアルコール度数を下げることにある。醪ができた直後には、ほとんどの酒が並行複醗酵により20度近いアルコール度数を持っており、アルコール度数の高いほうが腐敗の危険が少ないために貯蔵・熟成もこの20度近いアルコール度のまま行なわれるのだが、出荷するときには酒税法の規定との兼ね合いもあり、また消費者が低アルコール度を好むという事情もあって、目的とするアルコール度数まで下げる必要があるのである。(「低濃度酒」参照。)

いっぽう、割水をしないで、醪ができた時点のアルコール度のまま出荷した酒のことを原酒(げんしゅ)という(ただし、アルコール度数の変化が1%未満の加水は認められている)。
原酒というと、一般的にはその酒の元となった醪や酵母を使った本源的な酒、あるいは何かどろっとした濃いエキスのような酒がイメージされるようであるが、実際はそういうものではない。ただ、割水をしていない分、一般酒よりもアルコール度数が高めであることは確かである。

瓶詰め・出荷

こうして割水など最後の調整を果たした酒は、洗瓶用水で洗浄された瓶の中へ瓶詰め(びんづめ)され、出荷され、各自の蔵元がそれぞれ独自に切り拓いている流通販路に乗る。

製法に関する用語・表現一覧

現在はもう使われない歴史上の製法にかかわる表現を含む。

「~歩合」

「~歩合(ぶあい)」で終わる用語には、次のものがある。

「~仕込み」または「~造り」

学問的・専門的にではなく、あくまでも一般的な理解のためという前提で補足すると、日本酒の製法という文脈に限っては、

  • 「仕込む」=「造る」
  • 「仕込み」=「造り」

はほぼ同義語として考えてよい。どちらが呼称として一般的であるかは、その時代の趨勢と、造り手の意図によるところが大きい。

「~仕込み」または「~造り」で終わる用語には、次のものがある。

「~酛」または「~酒母」

学問的・専門的にではなく、あくまでも一般的な理解のためという前提で補足すると、日本酒の製法という文脈に限っては、

  • 「酛(もと)」=「酒母(もと/しゅぼ)」

はほぼ同義語として考えてよい。

「~酛」または「~酒母」で終わる用語には、次のものがある。

その他

以上の分類にあてはまらない用語には、次のものがある。

分類

清酒の分類において、もっとも重要なのは特定名称である。原料や製法が一定の基準を満たす清酒は、純米酒(じゅんまいしゅ)、吟醸酒(ぎんじょうしゅ)、本醸造酒(ほんじょうぞうしゅ)といった特定名称酒(とくていめいしょうしゅ)に分類される。特定名称酒に該当しない清酒は、普通酒(ふつうしゅ)と呼ばれる。
特定名称以外にも、特徴的な原料や製法によって様々な分類があるが、これらは国税庁の告示である清酒の製法品質表示基準により定められるものと、酒造メーカーや業界団体によって伝統的・慣用的に用いられるものとがある。
前者においては、特定名称といくつかの記載事項・任意記載事項・記載禁止事項が定められている。後者においては、付加価値を高めるため前者において定義されていない多様な分類が見られるが、同意の分類でも地方や世代などによって異なる用語が用いられることがあり(中取り / 中汲み 等)統一がとられていない。

普通酒

特定名称酒以外の清酒。一般に流通している大部分の日本酒である。白米米麹(こめこうじ)以外にも、醸造アルコール、糖類、酸味料、化学調味料酒粕(さけかす)などの副原料を加えて作ることが、副原料の重量が米・米麹の重量を超えない範囲という条件つきで認められている。三倍増醸清酒、またはそれをブレンドした酒も普通酒に含まれる。

特定名称酒

三等米以上の白米を用い、白米の重量に対する米麹の使用割合が15%以上の清酒。原料や精米歩合により本醸造酒(ほんじょうぞうしゅ)・純米酒(じゅんまいしゅ)・吟醸酒(ぎんじょうしゅ)に分類される。

本醸造酒

精米歩合70%以下の白米米麹および醸造アルコールで造った清酒で、香味及び色沢が良好なもの。使用する白米1トンにつき120リットル(重量比でおよそ1/10)以下のアルコール添加アル添)をしてよいことになっている。そのままではアルコール度数が高いので水で割ってあることが多い(本ページ「割水」参照。)一般的に味は軽くなり、すっきりしたものとなる。

純米酒

白米米麹およびだけを原料として製造した清酒で、香味及び色沢が良好なもの。ただし、米麹の総重量が白米の総重量にたいして15%以上なければならない。一般に吟醸酒や本醸造に比ベてコクがあり、蔵ごとの個性が強いといわれる。

歴史的にいえば、もともと日本酒は、古来より昭和初期まですべて純米酒であったといっても過言ではない。アルコール添加の原型と見なされる柱焼酎でさえも、原料は米だったからである。それが太平洋戦争前後の米不足から、増量目的のアルコール添加による三倍増醸清酒が出回り、かたわらではそのアルコール添加を善用しようと吟醸酒が開発されたのであった。
こうして純米酒以外の日本酒が主流を占める時代が長く続いたが、近年では「米だけで造ってある酒」という、もとは当たり前だった前提がかえって新鮮なイメージを呼び、純米酒は日本酒のなかに一つのカテゴリーを形成しつつある。

また純米種に関わる規定として、平成15年(2003年)まで「精米歩合が70%以下のもの」という項目があったが、平成16年(2004年)1月1日以降削除された。これは、純米酒という名称に、暗黙に或る一定の品位と酒質の高さを、法規制という形で課していた時代から、米だけで造ってあればたとえ普通酒なみの精米歩合でも純米酒と認め、あとは消費者の選択に任せるようになったという、いわば近年の規制緩和の一環である。これに対しては、「消費者権利の拡大」と賛同的に取る立場と、「酒造技術の低下を招くもの」と批判的に取る立場があらわれた。
この規制緩和によって、いくらアルコール添加をしていなくても、くず米などを使用していたために、純米酒を名乗れなかった銘柄が、多く純米酒に格上げされることになった。一方では、あえて精米歩合の低い酒米を原料とする低精白酒などの新しい純米酒の開発も産んだ。

吟醸酒・純米吟醸酒

精米歩合60%以下の白米米麹およびを原料とし、吟味して製造した清酒で、固有の香味及び色沢が良好なもの。低温で長時間かけて発酵させて造る。吟醸香と呼ばれる、リンゴやバナナを思わせる華やかな香りを特徴とする。最後に吟醸香を引き出すために使用する白米1トンにつき120リットル(重量比でおよそ1/10)以下の醸造アルコールを添加する。

吟醸酒のうち、精米歩合60%以下の白米、米こうじ及び水のみを原料とするものを特に純米吟醸酒と言う。一般に、他の吟醸酒に比べて穏やかな香りである。

本ページを含め、よく「吟醸系(の酒)」と表現される場合は、これら吟醸酒・純米吟醸酒・大吟醸酒・純米大吟醸酒・山廃吟醸酒など、吟醸香を持つ酒すべてをグループ化して意味している。

1920年代から開発が着手され、1930年代の精米技術の向上と、1970年代の温度管理技術の進歩に促されて、しだいに一般市場に出回るだけの生産量が確保できるようになった。吟醸酒が日本国内の市場に流通するようになったのは1980年代以降であり、現在では日本国外でも需要が高まっている。詳しくは「吟醸酒の誕生」参照。

大吟醸酒・純米大吟醸酒

精米歩合50%以下の白米米麹およびを原料とし、吟味して製造した清酒で、吟醸酒よりさらに徹底して低温長期発酵する。固有の香味及び色沢が特に良好なもの。最後に吟醸香を引き出すために少量の醸造アルコールを添加する場合もある。この場合は、純米大吟醸酒にはならず、大吟醸酒(だいぎんじょうしゅ)となる。

フルーティで華やかな香りと、淡くサラリとした味わいが特徴。

大吟醸酒のうち、精米歩合50%以下の白米、米こうじ及び水のみを原料とするものを純米大吟醸酒と言う。一般に、他の大吟醸酒に比べて、穏やかな香りで味わい深い。

大吟醸酒は最高の酒米を極限までみがき、蔵人の力を結集して醸した日本酒の最高峰といえる。
吟醸酒の誕生」参照。

ラベル記載表示用語一覧

国税庁清酒の製法品質表示基準による任意記載事項

  • 原料米の品種名
    酒造好適米など、特定の品種を原料米の50%以上使用した場合、品種名とその使用割合を表示することができる。
  • 清酒の産地名
    単一の産地で製造された場合、産地名を表示することができる。
  • 貯蔵年数
    一年以上貯蔵・熟成された清酒には、貯蔵年数を表示することができる。酒造メーカーによっては、1年以上熟成した酒に古酒・古々酒・大古酒・熟成酒・秘蔵酒などの名称を冠して販売することがあるが、年数と用語に関する統一された基準はない。
  • 原酒
    上漕後、割水もしくは加水調整(アルコール分1%未満の範囲内の加水調整を除く)をしない清酒。
  • 生酒
    製成後、加熱処理もしくは火入れを一度もしない清酒。牛乳などと同様に生もので劣化しやすいので、鮮度には注意が必要であり、冷蔵保存する必要がある。(本ページ「火入れ」「生酒をめぐる表示問題」参照。)
  • 生貯蔵酒
    製成後、火入れをしないで貯蔵し、製造場から移出する際に火入れした清酒。貯蔵期間については規定されていない。(本ページ「火入れ」「生酒をめぐる表示問題」参照。)
  • 生一本
    単一の製造場のみで醸造した純米酒。
  • 樽酒
    木製ので貯蔵し、木香のついた清酒(瓶その他の容器に詰め替えたものを含む)。

その他の記載表示

  • 生詰酒
    生貯蔵酒とは逆に、製成後、火入れをしてから貯蔵し、製造場から移出する際には火入れを行わない清酒。(本ページ「火入れ」「生酒をめぐる表示問題」参照。)
  • ひやおろし
    冬季に醸造した後に春・夏の間涼しい酒蔵で貯蔵・熟成させ、気温の下がる秋に瓶詰めし出荷された清酒。本ページ「ひやおろし」参照。
  • 以下3項目は、上槽時に搾りが施されている間の時期(前期・中期・後期など)で分類されるが、明確な基準はない。
    • 荒走り(あらばしり)
      上槽時、すなわちという搾り器を使って(もろみ)をしぼるときに最初にほとばしるように出てくる部分の酒のこと。もしくはその部分だけを瓶詰めし出荷した酒。最初に積まれた酒袋の自重だけであっさりと出てくるもので、一般に固形分である(おり)が多く、アルコール度は比較的に低めで、味はキレがよいと言われる。
    • 中取り(なかどり)・中汲み(なかぐみ)・中垂れ(なかだれ)
      上槽時、荒走りの次に、中間層として出てくる部分。アルコール度と味は中庸。味と香りのバランスが最も良いとも、味が荒走りより練られているとも言われる。厳密には、この中取り、もしくは中汲み、中垂れという一つの段階の中にも、酒袋が槽いっぱいになるまで積まれたときに酒袋の山の自重で出てきたものと、自重に加えて初めて油圧をかけたときに出てきたものの二段階がある。
    • 責め(せめ)・押し切り(おしきり)
      上槽時、最後に出てくる部分。特に槽搾りにおいて、油圧をかけて圧搾して出てきた部分。アルコール度は高く、かなり練られた濃い味。
  • 袋吊り・袋しぼり・雫しぼり・首吊り
    上槽時、もろみを袋に詰め、袋を吊り下げてそこから垂れてくる酒をとる方法。出品酒などの高級酒に多く用いられる。こうして採られた酒は雫酒(しずくざけ)と呼ばれることもある。
  • 斗瓶取り・斗瓶囲い
    上槽時、出てきた酒を斗瓶(18リットル瓶)単位に分け、そこから良いものを選ぶ方法。出品酒等の高級酒に多く用いられる。
  • 無ろ過無濾過(むろか)
    活性炭濾過による香味調整をしない酒。
  • 地理的表示
    国税庁の地理的表示に関する表示基準を定める件により、国税庁長官の指定を受けた地域において表示できる。産地の特長を生かすよう原料や製法等が制限される。また、この指定を受けると、他の地域で製造された清酒への類似表示(「○○風仕込み」「○○式清酒」)が禁止されるため、地域ブランドを保護できる。これらの理由から活用が期待されているが、2006年1月現在、白山菊酒(石川県白山市)のみがその指定を受けている。


日本酒に関する単位

  • 1升(しょう)=10合(ごう)=1.8リットル
  • 1石(こく)=10斗(と)=100升
    これらの容積単位はすべて日本の単位体系である尺貫法の一部である。
    1升とは、酒屋などでごく普通に目にする日本酒の大瓶、すなわち一升瓶に入る容量である。明治34年(1901年)に『白鶴』が一升瓶で日本酒を販売するようになって以来、百年余りにわたって主流を占めてきたが、近年ではその大きさやつきまとうイメージの泥臭さなどが消費減退の理由だと唱える人々がおり、小ボトル化する傾向もある。(本ページ「日本酒の現在」参照。)
    いわゆる中瓶は四合瓶で、文字通り4合(720ml)入る。
    酒蔵では、18リットル入る斗瓶を使っており、消費者が販売店で見る「斗瓶囲い」といった記載表示はそれに由来する。(本ページ「その他の記載表示」参照。)
    (こく)は、おもに酒蔵の生産量を示すのに用いられる。これも極めておおざっぱな目安であるが、一般の小さな酒蔵だと年間500石、大手地酒蔵で年間5000石以上といったところである。
    なお、生産石高と、生産される酒質には、何の相関関係もない。
  • 1荷(か)=酒樽2個 =(約)酒70升 = 126リットル
    「荷」は、主に酒の陸上輸送に使われた単位である。樽は、安土桃山時代ごろから酒を運ぶ手段となった。人足が酒樽を天秤棒(てんびんぼう)で前後に一個ずつかついだことからこのように云う。
    は四斗樽(よんとだる)だが、ふつうは四斗いっぱい入れずに三斗五升ほど入れる。そのため70升と計算しておいた。日本酒度を見ればわかるように、酒の比重も若干の幅があるが、ほぼ水と同じと考えられるから、人足は約126kgの荷をかついで街道を行く仕事であったということになる。
  • 1盃(はい)
    現在では「一杯やりましょう」というと、一杯どころではなく何杯も酒を飲むことが通常だが、江戸時代以前は「一盃」はれっきとした容積単位であった。しかし地方、藩によって厳密に統一されていなかった。豊臣秀吉太閤検地をした際に度量衡を統一したが、この一環として容積について定められた京枡(きょうます)は、江戸時代になってもなかなか東北諸藩などに普及しなかったことが原因である。
    しかし、小差はあっても概して「100盃=(約)4斗」であったというから、「1盃=(約)720ml」ということになり、四合瓶やワイン一本と同じくらいの分量ということになる。当時は「一盃」飲むとなると、四合瓶を飲み干すことを意味したのである。
  • 1献(こん)
    現在では「一献やりましょう」というように、「一緒に酒を飲む」という意味で用いられる「一献」であるが、古くは一盃になみなみと酒を満たし、一座を一回りするのが「一献」であった。よって、たとえば「宴が三献ほどしたら」というような表現があった。


日本酒を評価する基準・用語・表現

日本酒度

清酒の比重を示す単位。

対象とする清酒を15℃にし、規定の浮秤(ふひょう)を浮かべて計測する。そのときに、4℃の蒸留水と同じ重さの酒の日本酒度を0とする。それよりも軽いものは+(プラス)の値、重いものは-(マイナス)の値をとる。

計量法により日本酒度は次のように定義されている。

  • 日本酒度=(1/比重)-1)×1443

これを逆算すると、以下の式も得られる。

  • 酒を15℃にした時の比重=1443/(1443+日本酒度)

近年、とくに辛口ブーム以降、この日本酒度が酒の辛口甘口を論じる決定的な規準のように考えられている風潮があるが、これは厳密な意味では正しくない。たしかに日本酒度はそれを推定するのに便利な目安ではあるが、厳密にはそれをもっと正確にあらわすのは甘辛度(あまからど)である。とはいっても、甘辛度ですら、人の味覚のすべてを数値化できるわけではない。

一般の人の舌が知覚する「甘辛感」は、酒の持つ香り、旨み、こく、食べあわせている食品や調味料、また飲んでいるときの体調などにより、大きな揺らぎを持つ。

酸度

清酒10mlを中和するのに要する、10分の1規定水酸化ナトリウム溶液の滴定ml数のこと。この値が大きければ「さっぱり」、小さければ「こくがある」といった表現が使われるが、これも日本酒度と同じく、一般の人の味覚は香り、食べあわせ、体調などにより大きく変動するものだということは留意されてよい。

甘辛度(あまからど)

清酒の甘辛の度合いを示す値。清酒のブドウ糖濃度と酸度から次のように計算される。

甘辛度=0.86×ブドウ糖濃度-1.16×酸度-1.31

また、ブドウ糖濃度の代わりに日本酒度を用いて、

甘辛度=(193593/(1443+日本酒度))-1.16×酸度-132.57

とすることもできる。

この式によって人間が酒を甘い辛いと感じる感覚の81%が説明できる。

清酒の甘辛の程度と甘辛度の関係は下記のとおりである。

非常に辛い  -3
かなり辛い  -2
すこし辛い  -1
どちらでもない 0
すこし甘い   1
かなり甘い   2
非常に甘い   3

アミノ酸度

味をあらわす表現

  • 辛口
  • 甘口
  • 旨口(うまくち)
  • 端麗 / 淡麗(たんれい)
  • 芳醇 / 豊醇(ほうじゅん)

香りをあらわす用語・表現

これも製法に関わる用語・表現と同じく、時代・世代や地方によってさまざまであり、統一されていないが、標準的なものを示しておく。

  • 老ね香(ひねか)
    保存の方法が正しくなかったなどの理由で、酒が酸化してしまったときに生じる異香。ごく稀に、少しばかりの老ね香はかえってその酒に箔をつけるものとしてプラスに評価される場合もあるが、通常は酒をまずくする臭いである。
  • 生老ね香(なまひねか)
    生酒や新酒の保存状態が適切でないときに生じる猛烈な悪臭。これは生産する蔵の問題というよりも、それを扱う流通・小売業者、あるいは購入後の消費者の、保存方法や温度管理のまずさによるところが大きい。「生酒は米の牛乳」と思っておけば、まず間違いない。
  • 木香(きが / もくが / もくか / もっか)
    木樽で造った樽酒などが持つ。スギヒノキなどの木材の香りが酒に移ったもの。好ましい香りとして扱う人もいるが、鑑評会などでは「木香臭(きがしゅう)がする」というと、往々にしてマイナス点にされると思ってよい。

また、酒器を手に取ってから飲み込むまでの各段階において感じられる香りは以下のように呼ばれる。

  • 上立香(うわだちか)
    まだ酒を口に含まず、酒の表面から鼻先へ匂い立つ香。吟醸香(ぎんじょうか)をセールスポイントにする酒や、鑑評会に出品される酒では、とかく重視される。
  • 含み香(ふくみか)
    酒を口に含み、舌先でころがしたときに感じられる香。
  • 吟香(ぎんか)
    酒を呑みこむとき、喉を過ぎるときに感じられる香。鑑評会などで唎き酒するときは、酒は呑みこまず、味わったあとは吐き出してしまうので、吟香は味わえない。よって鑑評会での評価の対象になりえないという問題がある。「吟醸香」のことを略して「吟香」という人も多いので、混乱しやすい表現の一つである。
  • 返り香(かえりか)
    呑んだあとに、腹から鼻に抜けるように感じられる香。これも鑑評会などでは評価の対象から漏れてしまう。

温度をあらわす表現(飲用温度)

これも統一された用語というわけではないが標準的なものを示しておく。

  • 飛び切り燗(とびきりかん)  55度前後
  • 熱燗(あつかん)       50度前後
  • 上燗             45度前後
  • ぬる燗            40度前後
  • 人肌燗            37度前後
  • 日向燗(ひなたかん)     33度前後
  • 冷や             常温 
    冷蔵庫などで冷やしたものが「冷や」ではない。
  • 涼冷え(すずびえ)      15度前後
  • 花冷え            10度前後
  • 雪冷え             5度前後

それぞれの酒質によって、飲用に最も適するとされる温度は多様である。

一般に、造りのしっかりした酒でなければ燗には向かないといわれる。燗に向く酒は、燗にしても風味のバランスが崩れないで、再び冷えて「燗冷まし(かんざまし)」になってもそれなりに味わいがある。逆に「燗上がり(かんあがり)」しない酒は、燗にしたときに薬品のようなアルコール臭が上立香としてのぼってくる。

燗は季節の温度と密接に関わるため、別火のような年中行事をも生んだ。

日本酒に関する道具

酒器

酒を飲むときに用いられる道具で、日本の生活をきめ細やかに支えている。

  • (さかづき)
    「盃をかわす」「盃をとらす」といった表現がわかりやすい例であるように、日本文化の中でははたんに酒を飲む容器であるだけではなく、人間関係、名誉格式などのさまざまな文化事象と関係した複雑な媒体である。今日の私たちが思い描くのは「塗り盃」だが、江戸時代後期には陶磁器の盃も用いられた。
  • 徳利(とっくり / とくり)
    今でも酒を注ぐのに用いられているが、江戸時代以前は上方と江戸では色が違っていた。上方では五合か一升入る茶色がかった陶器であり、江戸ではねずみ色の陶器か取っ手のついた樽であった。個人の所有ではなく酒屋の貸し物であることが普通で、酒屋の屋号が大きく書かれていた。
  • 猪口(ちょこ / ちょく)
    今では徳利から酒を受け、飲むのに用いる小さな器だが、徳利とセットで使うようになったのはそんなに古いことではない。江戸時代では上方でも江戸でも、宴の初めのうちは盃で酒を受け、宴も半ばを過ぎ座がくだけてくると猪口に変えたという。
  • 銚子(ちょうし)
    現在も使われる、燗をつけた酒を移し入れる器を指すが、時代を下るに従って小型になってきている。江戸時代、上方では御殿から娼家に至るまでどこでも銚子で燗をつけていたが、江戸では銚子は正式の膳である式正(しきじょう)にのみ使うものであったという。現代では銚子と徳利はほぼ同じものとして扱っているが、江戸時代には別物であった。江戸時代中期ごろまでは、宴も初めのうちは銚子を使い、三献すると徳利に切り替えた。やがて初めから徳利を用いるようになり、江戸時代末期には大名ですら酒宴で徳利で酒を飲むようになったという。
  • / / / (ます)
  • 瓶子(へいし)
    昔はこれに酒を入れて持ち歩いた。今はもう用いられない。
  • 土器(かわらけ)
    昔はこれに酒をそそいで飲み干した。携帯用の、あるいは非公式の盃のようなもの。
  • (すず)
    錫でできた瓶子と思われる。安土桃山時代あたりまで用いられたようである。江戸時代以降は確認されていない。
  • 角樽(つのだる)
    今でも結納(ゆいのう)の際に用いられる、上は朱塗り、下は黒漆塗りの樽。角が出ているように取っ手がついていることからこの名がある。
  • 指樽(さしだる)
    江戸時代の人々が花見などの際に酒を背負っていくときに使ったらしい、黒漆塗りの角型の樽だが、幕末以降は見られないようである。
  • 燗鍋(かんなべ)
    平安時代ごろ、酒を燗するときに用いた銅製または鉄製の鍋。直火で加熱した。
  • (ぜん)
    高御膳中御膳など。出される酒と肴の意味を外側から規定していたといってよい。

醸造器

酒を造るために用いる道具。

日本酒にまつわる文化行事

家庭行事

  • 別火(わかれび) 桃の節句をやめることをさす。

祭り

日本酒に関する創作作品

文芸・漫画

  • 宮尾登美子著。小説戦前新潟県の造り酒屋の娘として生まれた女性が、障害を負いながらも蔵元として成長する姿を描く。
  • 夏子の酒
    尾瀬あきら作。漫画テレビドラマ。東京でOLをしていた新潟県の造り酒屋の娘が、兄の死をきっかけに蔵を継ぎ、様々な問題に立ち向かいながら幻の酒米を復活させる。
  • 奈津の蔵
    尾瀬あきら作。夏子の酒の主人公夏子の祖母である奈津が蔵に嫁入りしてからの半生を、酒造技術の発展や戦争などの時代背景とともに描く。
  • 美味しんぼ
    雁屋哲原作、花咲アキラ作画の漫画。第54巻 「日本酒の実力」で、日本酒を取り巻く状況を紹介した。しかし醸造過程におけるアルコール添加の描写が、あたかも不純物を添加している印象を与えるような不適切な説明であって、ひいては消費者に多大な誤解を与えるとして、石川県や新潟県の多くの酒蔵が抗議をおこなった。
  • もやしもん
    石川雅之作。漫画。麹や酵母等の菌が見える主人公と、周囲の人間たちの農大生活を描く。
  • 大使閣下の料理人
    西村ミツル著の回想記、およびこれを原作として脚色を加えたかわすみひろし作画の漫画。料理人である主人公が雇用者である外交官に日本酒の良さを解くが、日本国外での日本酒の流行は流行りに弱い若い世代だけのものといわれてしまう。しかし日本酒の真価を認めてもらうというエピソードがある。

音楽・演劇・舞踊

  • 『胡飲酒 (こんじゅ) 』 (雅楽
    唐楽で天平年間に 林邑僧仏哲が伝えた「林邑楽八曲」の一つ。胡 (西域) 人が酒に酔ってこの曲を演奏する様を舞にした、一人舞の舞楽でもある。
  • 猩々』 (しょうじょう) (
  • 安宅(あたか) 』 (能)
    山伏に身をやつした義経主従が奥州平泉へ逃げのびる際、北陸道安宅の関を通ろうとすると、怪しいとして止められる。弁慶は関守の富樫と山伏について問答をし、偽の勧進帳を読み上げ、必死で危機を乗り越えようとする。その姿に感銘を受けた富樫は、義経主従とは知りつつも関の通過を許し、詫びのしるしとして一行に酒を振る舞う。その酒を豪快に飲み干した弁慶は、お礼にと延年の舞を披露しつつ一行をせき立て、陸奥へ落ち延びていく。歌舞伎『勧進帳』の原作。
  • 棒縛 (ぼうしばり) 』 (狂言
    主の留守に、家来の太郎冠者、次郎冠者が酒を盗み飲みするので、ある日主人は外出に際して、太郎冠者を棒に縛り付け、また次郎冠者を後ろ手に縛って出かける。二人は縛られたまま、何とか酒を飲もうと色々と工夫してついに酒のふたを開け、互いに飲ませ合い、すっかり酔って歌うは舞うはの騒ぎとなり、主の悪口を言い合っている所に当の主人が帰ってくる。
  • 『笹の露』 (地歌箏曲
    文化文政時代に、京都で活躍した盲人音楽家菊岡検校が地歌として作曲、八重崎検校の手付をした手事もの(てごともの)の大曲。和漢のさまざまな故事から、酒にまつわる箇所をいろいろ引いて酒の徳を讃えた名曲。「笹の露」とは酒の美称でもあり、またこの曲の別名を「酒」ともいう。二カ所の長大な手事 (楽器だけで奏される長い器楽間奏部) は技巧に富む一方、三味線と箏の掛け合いが非常に多く、これは酒を差しつ差されつするさまを表しているといわれる。
  • 勧進帳』 (歌舞伎および長唄
    天保11年 (1840年) 初演。四世杵屋六三郎作曲。歌舞伎十八番の一つで人気が高い。内容は能の『安宅』に同じ。また長唄の名曲としても知られ、演奏会で長唄のみ演奏されることも多い。
  • 『新版酒餅合戦 (しんぱんさかもちがっせん)』
    長唄常磐津節義太夫節 掛け合い曲
    昭和40年代、現代邦楽の作曲家、杵屋正邦の作品。酒をはじめとする食品を擬人化した曲。きな粉元年あずきの末、自慢のし合いがもとで、酒一族と餅一族が座敷が原で合戦を繰り広げる。それを聞きつけた白大根練馬介の御台所、白妙の方が、人参の赤姫、ゴボウの黒姫などの女武者を引き連れて仲裁に入り、争いも治まり平和になる。

関連項目

外部リンク