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2006年8月5日 (土) 18:09時点における版
ここでは、日本酒の歴史について説明する。
上代以前
日本酒の起源
日本列島に住む人々がいつ頃から米を原料とした酒を造るようになったのかは定かではないが、稲作、とりわけ水稲の耕作が定着し、安定して米が収穫できるようになった以降のことであるのは確かと思われる。日本国外には、中国大陸揚子江流域に紀元前4800年ごろ稲作が始まり、ここで造られた米酒が日本に輸出されたのが日本酒の起源とする説もあるが、さまざまな点で無理があり、日本国内ではほとんど支持されていない。
日本に酒が存在することを示す最古の記録は、3世紀に成立した『三国志』東夷伝倭人条(いわゆる魏志倭人伝)の記述に見られる。同書は倭人のことを「人性嗜酒(さけをたしなむ)」と評しており、喪に当たっては弔問客が「歌舞飲酒」をする風習があることも述べている。ただ、この酒が具体的に何を原料とし、またどのような方法で醸造したものなのかまでは、この記述からうかがい知ることはできない。ちなみに、酒と宗教が深く関わっていたことを示すこの『三国志』の記述は、酒造りが巫女(みこ)の仕事として始まったことをうかがわせる一つの根拠となっている。
もう一つの根拠は、「医」という文字の変遷に見られる。中国大陸においては、古くは同じく口噛みの製法で紀元前14世紀ごろアワ(粟)、キビなどの雑穀から「小米酒」(ピン音: xǐao mǐ jǐu。小米は粟の意。)を造ることから醸造の歴史が始まり、紀元前8世紀には「米酒」の時代に入っていた。ただし、「米」は「種」という意味でしかないので、注意が必要である。1世紀ごろの漢方医学の書物には、古代漢方において酒醪(しゅろう)と呼ばれる処方、すなわち服薬に際して「酒で煎じるべし」「酒で服用すべし」といった指示が頻繁にあらわれる。こうしたことから、当時すでに米で造った酒が医療的に重要な意味を持っていたことがわかる。
「医」の旧字体「醫」の部首である「酉」(とりへん)は、「醸」「醗」「酵」のように酒に関連した物事をあらわすが、これは酒を醸す壺が半ば土に埋まっている象形に起源を持つ。さらに時代をさかのぼると「醫」の下部「酉」は「巫」であった。これはすなわち、まだ医療行為の主流が現代でいう「占い」のようなものであったころ、集落や古代国家においてそれを司る者が巫女もしくは巫祝(ふしゅく)であったことを示している。またその文字が時代とともに「醫」に変化していったことから、医師である巫女・巫祝が、「占い」に加えて今でいう「薬物療法」を取り入れ、医術が進歩もしくは変化してきたことがうかがえる。すなわち、生薬(しょうやく)の類を医師が酒醪として処方するようになってから、「医」の文字も「醫」に変化していった、と考えられるのである。
上代
口嚼ノ酒(くちかみのさけ)
米を原料とした酒であることが確実な記録が日本に登場するのは、『三国志』の時代から約500年も後のことになる。興味深いことに、その最古の記述は二つある。
一つは『大隅国風土記』逸文(713年以降)である。大隅国(今の鹿児島県東部)では村中の男女が水と米を用意して生米を噛んでは容器に吐き戻し、一晩以上の時間をおいて酒の香りがし始めたら全員で飲む風習があることが記されている。彼らはその酒を「口嚼(くちかみ)ノ酒」と称していたという。これは唾液中の澱粉分解酵素であるアミラーゼ、ジアスターゼを利用し、空気中の野生酵母で発酵させる原始的な醸造法であり、東アジアから南太平洋、中南米という広い範囲に分布していることが知られている。現代日本語でも酒を醸造することを「醸(かも)す」というが、その古語である「醸(か)む」と「噛(か)む」が同音であるのは、このことに由来する。
もう一つは『播磨国風土記』(716年頃)である。神に供えた干し飯が水に濡れてカビが生えたので、酒を造らせてその酒で宴会をしたという記述が見える。こちらは麹カビの糖化作用を利用した醸造法であり、現代の日本酒のそれと相通じるものである。このように、奈良時代の同時期に口噛みと麹というまったく異なる醸造法が記録されているわけであるが、当時一般的であったのは後者の方であったろう。前者は大隅という辺境の地にたまたま残った古い風習を記録したものと解すべきである。
清酒の起源をめぐって
『播磨国風土記』には「清酒(すみさけ)」というものに関する記事もある。これを以て現在の清酒(せいしゅ)の初見とみなす説があるが、それは以下のように議論の分かれるところである。
古代の酒は、標準的には、出雲や博多に現在も残る練酒(ねりざけ)のようにペースト状でねっとりとしたものであったようである。現在でも、皇室における新嘗祭(にいなめさい)では、このような古代の製法で醸造した白酒(しろき)、黒酒(くろき)という二種類の酒が供えられる。黒酒とは、白濁した白酒に、久佐木と呼ばれる草を蒸し焼きにし、その灰をまぜこんで黒くした酒である。これは、黒みがかった古代米で造った古代の酒の色を伝承していくための工夫の結果であろうと考えられている。
さて、このような粘度の高い古代酒から、今日私たちが見るような透明でサラサラとした清酒(せいしゅ)を精製することは決して不可能ではなかっただろうと思われる。濁りを漉しとるだけならば、布、炭、砂などで濾過する原始的技術があったからである。ゆえに、清酒(せいしゅ)が日本酒そのものの誕生とほぼ同時期である上代に造られたと考えるのにはさほど無理はない。
しかしながら、一方ではこの時代の古文書、たとえば天平年間の諸国の『正税帳』などには「浄酒」(すみさけ/すみざけ)といった語も出現する。よって「清酒(すみさけ)」は「清(きよ)め」など祭事的な用途に使われる酒を意味していた、という説が生まれた。
いずれにせよ清酒(せいしゅ)は、やがて『菩提泉』に代表されるような平安時代以降の僧坊酒にその技術が結集されていくことになる。また、この『菩提泉』をもって日本最初の清酒とする説もあり、それを醸した奈良正暦寺には「日本清酒発祥之地」の碑が建っている。さらに兵庫県伊丹市鴻池にも、同市が文化財に指定した「清酒発祥の地」の伝説を示す石碑である鴻池稲荷祠碑(こうのいけいなりしひ)が建っている。
麹造りと醴酒(こざけ)
『古事記』には応神天皇(『新撰姓氏録』によれば仁徳天皇)の御世に来朝した百済人の須須許里(すすこり)が大御酒(おおみき)を醸造して天皇に献上したという記述がある。『新撰姓氏録』によれば、この献上を行なったのは兄曽々保利、弟曽々保利の二人ということになっている。そもそも須須許里なる人物が実在したかどうかは不明であるが、百済からの帰化人が用いた醸造法ということであれば、当然それは麹によるものであったに違いない。しかし、だからと言って、この献上より前には、麹による酒造法が日本に存在しなかったということではない。
たとえば、『日本書紀』によれば、応神天皇19年に吉野の国樔(くず)が醴酒(こざけ)を献上したという記述が見られる。国樔は「国主」「国栖」とも書き、奈良時代以前の日本各地に散在していた非農耕民で、その特異な習俗のため大和朝廷からは異種族扱いされていた人々である。『延喜式』の記述によれば、その国樔が献上した酒でさえも醴酒という米と麹を使用して造る酒であったことがうかがえるので、麹による醸造法は当時既に全国的に普及していたと見るべきである。須須許里が実在の人物であったとしても、彼がもたらしたものはせいぜい酒造技術の向上レベルのものであったと思われる。
なお、醴酒に関しては、養老1年(717年)美濃国から献上された醴泉で醴酒を造ったとの記述も『続日本紀』にある。
朝廷による酒造り
持統3年(689年)には飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)に基づいて宮内省(くないしょう)の造酒司(さけのつかさ / みきのつかさ)に酒部(さかべ)という部署が設けられ、701年には大宝律令によってそれがさらに体系化され、朝廷による朝廷のための酒の醸造体制が整えられていった。
中古
『延喜式』(927年)には宮内省造酒司の御酒槽のしくみが記されており、すでに現代の酒とそれほど変わらない製法でいろいろな酒が造られていたことがわかる。なかでも「しおり」と記される製法は、現代の貴醸酒が開発される基になった。
その後は朝廷直属の酒造組織に代わって、寺院で造られた僧坊酒(そうぼうしゅ)が高い評価を得るようになっていった。
数ある僧坊酒の中で、奈良の寺院が造った「南都諸白(なんともろはく)」は室町時代に至るまで長いこと高い名声を保った。諸白とは、現在の酒造りの基礎にもなっている、麹米と掛け米の両方に精白米を用いる手法で造られた透明度の高い酒、今日でいう清酒とほぼ等しい酒のことを、当時の酒の主流をしめていた濁り酒(にごりざけ)に対して呼んだ名称であり、江戸時代以降も「下り諸白」などのように上級酒をあらわす語として使われた。
奈良菩提山正暦寺で産する銘酒『菩提泉』を醸す菩提酛(ぼだいもと)という酒母や、今でいう高温糖化法の一種である煮酛(にもと)などの技術によって優れた清酒を醸造していたが、この時代の清酒は量的にも些少であり、有力貴族など極めて限られた階層にしかゆきわたらなかったと考えられる。
中世
鎌倉時代
商業が盛んになり、貨幣経済が各地へゆきわたったことを背景として、酒は、米と同等の経済価値を持った商品として流通するようになった。京都、とくに伏見などを中心に、自前の蔵で酒の製造を行い、それを販売する店舗も持つ酒屋、いわゆる「造り酒屋(つくりざかや)」が隆盛し始めた。まだ十石入り仕込み桶が開発される前で、二石から三石入る甕(かめ)(もしくは「瓶」の字をあて「かめ」と読ませる場合も)を土間にならべて酒を造っていたようである。
室町時代
室町時代前期には、この傾向にはさらに拍車がかかり、応永32年(1425年)には洛中洛外の酒屋の数は342軒に達していたことが記録に残っている。当時の酒屋は資本力を持ち、土倉(どそう)といって金融業者を兼ねていることが多く、借金の取立てや財産の自衛のために用心棒たちを養っていた。 こうして経済力をつけた酒屋が、それまで酒屋とは別個の職業であった麹造りにも進出し、従来の麹屋の座と対立した。この対立は文安1年(1444年)、文安の麹騒動という武力衝突にまで発展し、その結果、京都における麹屋という専門職は滅亡し、麹座も解散した。以後、麹造りは酒屋業の一工程へと吸収合併された形となった。
またこの事件は、争いに明け暮れる京都市中の商人たちとは無縁に坦々と生産が続けられた、奈良の『菩提泉(ぼだいせん)』『山樽(やまだる)』『大和多武峯(たふのみね)酒』、越前の『豊原(ほうげん)酒』、近江の『百済寺酒』、河内の『観心寺酒』などの僧坊酒がさらに評価を高める原因にもなった。
室町時代初期に書かれた『御酒之日記(ごしゅのにっき)』には、すでに今日の段仕込みや、乳酸菌発酵の技術、火入れによる加熱殺菌、木炭による濾過などについての記述がある。
やがて、京都以外の土地でも酒屋が出現するようになり、こういうところで造られた酒が京都の酒市場に出回るようになった。京都の酒屋は、他国から市中に入る酒を「他所酒(よそざけ)」または「抜け酒」と呼んで警戒し、排除しようと躍起になった。洛中洛外の酒屋や町組(ちょうぐみ)からは、価格の安い他所酒の販売差し止めを陳情する願い状が、たびたび幕府の奉行所に提出されている。
しかし、この他所酒こそが、のちの日本の酒文化の中核をなす地酒の出発点でもあった。文明年間(1469年~1487年)には西宮の『旨酒』、堺の『堺酒』、加賀の『宮越酒』などが、弘治3年(1557年)には伊豆の『江川酒』、河内の『平野酒』などが盛んに取り引きされたことが記録からうかがえる。また、厳密にいえばこれは日本酒ではないが、天文3年(1534年)には「南蛮酒」として今日でいう泡盛の『清烈而芳』が酒市場に入っていた。
安土桃山時代
日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルは1552年、イエズス会の上司へ宛てた手紙の中で、「酒は米より造れるが、そのほかに酒なく、その量は少なくして価は高し」と、日本酒に関してヨーロッパ人として最初の報告を書いている。もちろんザビエルは、これを自文化における酒であるワインを基準として日本酒を評価しているわけだから、量や値段の印象などは興味深い。また織田信長に接して多くの記録を残した宣教師ルイス・フロイスも天正9年(1581年)に「我々は酒を冷やすが、日本では酒を温める」などの情報を本国に書き送っている。
天正10年(1582年)『多聞院日記』によれば奈良で十石入り仕込み桶が開発された。これによって地方においても酒の大量生産が可能になり、さらに地酒文化を花開かせることにつながっていく。戦国時代の群雄割拠が諸国に文化的な独自性を持たせたことも追い風となって、それぞれの土地の一般庶民の食文化との相互補完をベースとしながら、各地に数々の新しいローカルブランドが誕生し、味、酒質、製造量などの点において多様化が進んでいった。
このころ以前は、新酒よりも、古酒が圧倒的に高級とされ値段も高かった。古酒は茶色がかって、現代の紹興酒のように醤油のような香りがあったと推定される。しかし酒の大量生産が可能になると、酒を輸送するのに用いられるコンテナも、壺や甕ではなく樽が主流になっていった。古酒は密閉されてこそ酒質が保たれ、壺や甕はそのために工夫されて発達してきた醸造器であったが、樽では密閉が効かない。このため古酒が流通しにくくなっていき、人々は新酒をしだいに飲むようになっていった。新酒への需要が高まり、値段も相対的に高くなっていった。
16世紀(1500年代)半ばには蒸留の技術が九州に伝えられ、焼酎が造られはじめたが、これらも芋酒(いもざけ)などとしていち早く当時の酒の中央市場であった京都に入っている。 織田信長、伊達政宗、大友宗麟ほか有力大名の海外との通商、豊臣秀吉の南蛮貿易により南蛮酒として古酒(くーす)と称される琉球泡盛や、桑酒、生姜酒、黄精酒(おうせいしゅ)、八珍酒、長命酒、忍冬酒(にんどうしゅ)、地黄酒(じおうしゅ)、五加皮酒(うこぎしゅ)、豆淋酒(とうりんしゅ)などなどの中国・朝鮮の珍酒や薬草酒、さらにヨーロッパからのワインも入ってきた。「アラキ」と記される南蛮酒もあり、これにはアラビアから地中海方面に広く現在も存在するアラックとする説や、戦国武将荒木村重の城下である摂津伊丹の銘酒とする説などがある。 こうした国際色豊かな酒の交流は、江戸時代初期の朱印船貿易へと引き継がれていった。
一方、織田信長の比叡山焼き討ちや石山本願寺攻撃に代表されるように、この時代の支配者たちは、それまでさまざまな意味で強い力を持っていた寺院勢力を恐れ、執拗に殲滅していった。これによって平安時代中期から培われた僧坊酒の伝統は衰滅していき、のちに寺そのものが再建されても、もはや醸造技術が寺院に復活することはなかった。かたわらでは、鴻池流や奈良流など各地の造り酒屋や杜氏の流派が、僧坊酒の技術に改良を加えながらこれを承継していくことになる。
日本酒は、こうして中世の末までにいちおう濁り酒から清酒への移行を完了したと考えられるが、だからといって、これ以後に濁り酒がなくなるというわけではないし、清酒も今日のそれと同じものというわけでもない。濁り酒は、農民たちが自家製するどぶろくを含めて、清酒よりも安価で手軽な格下の酒として製造、流通されつづける。また清酒に関しても、一般的には片白(かたはく)や並酒(なみざけ)が主流であったため、ほとんどの清酒はまだ玄米の持つ糠が雑味として残る、黄金色がかった、今日の味醂(みりん)のようにこってりした味であったと考えられる。
近世
江戸時代前期
僧坊酒を継ぐように台頭してきたのが、室町時代中期から他所酒を生産し始めていた、摂津国猪名川上流の伊丹・池田・鴻池、武庫川上流の小浜(こはま)・大鹿などの酒郷であった。
奈良流の諸白を改良し、効率的に清酒を大量生産する製法が、慶長5年(1600年)に伊丹の鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)によって開発され、これが大きな契機となって、次第に酒が本格的に一般大衆にも流通するようになっていった。
また日本酒は、朱印船貿易により東南アジア各地に作られた日本人町やその国の王族などへ輸出された。とくにオランダ東インド会社(略称VOC)の根拠地であったバタヴィア(現インドネシアの一部)では、日本酒は定期的に入荷され、人々の暮らしの一部として欠くべからざるものとなったが、ヨーロッパ(おもにオランダ)から届けられるワインに対して日本酒はアルコール度数がじゃっかん高いために、バタヴィアを始めとした東南アジアにおいては、日本酒は食前酒、ワインを食中酒として飲むという独自の食文化の伝統が生まれた。
いっぽう日本国内においては、江戸時代初期には、後世から四季醸造と名づけられる技術があり、新酒、間酒(あいしゅ)、寒前酒(かんまえざけ / かんまえさけ)、寒酒(かんしゅ)、春酒(はるざけ)と年に五回、四季を通じて酒が造られていた。
酒造りは大量の米を使うために、米を中心とする食料の供給とつねに競合する一面を持っている。そこで幕府は、ときどきの米相場や食糧事情によって、さまざまな形で酒造統制を行なった。 まず明暦3年(1657年)、初めて酒株(酒造株)制度を導入し、酒株を持っていなければ酒が造れないように醸造業を免許制にした。 寛文7年(1667年)伊丹でそれまでの寒酒の仕込み方を改良した寒造りが確立されると、延宝1年(1673年)には酒造統制の一環として寒造り以外の醸造が禁止され(寒造り以外の禁)、これにより四季醸造はしばらく途絶える形となった。
こうして酒造りは冬に限られた仕事となったので、農民が出稼ぎとして冬場だけ杜氏を請け負うようになり、やがて各地にそれぞれ地域的な特徴を持った杜氏の職人集団が生成されていった。
このころは全国各地で、一般的に造り酒屋によって製造・卸の兼業が行われていたが、とくに江戸では人口が集中して大消費地になったために、酒についても専門問屋仲間が成立した。そして江戸に着いた荷をさばく問屋の寄合いも形成された。いっぽう大坂では、従来の造り酒屋が問屋を兼業していたので、江戸のような専門酒問屋は出現しなかった。このように江戸時代に入り商品化された酒は「商人の酒」といわれるようになった。
一方、酒によって多大な利益を得る商人から、いかにして租税をとりたてるかが幕府にとって頭の使いどころでもあり、頭の痛い問題でもあった。幕府から見れば、酒株制度には酒造石高をめぐって一つの弱点があり、酒屋ら商人たちがそこをうまく利用すると、幕府に入る酒税が先細りになっていく恐れがあった。そのため幕府は寛文6年(1666年)を始めとして何回か酒株改めをおこなった。ことに元禄の酒株改め(1697年)は徹底的におこなわれ、このときから宝永6年(1709年)まで酒屋には運上金(うんじょうきん)も課せられた。
江戸時代中期
伊丹酒(いたみざけ)や池田酒の評判はつとに高まり、元文5年(1740年)には伊丹『剣菱』が将軍の御膳酒に指定された。江戸市中の酒の相場でも、伊丹酒や池田酒は他の土地から酒からははるかに高値で取引されていた。
しかしこのころから神戸・西宮あたりの灘目三郷が新興の醸造地域としてすでに注目を集め始める。後世、銘醸地の代表格となる灘が、最初に文献に登場するのは正徳6年(1716年)であるが、享保9年(1724年)の下り酒問屋の調査では、灘目三郷の名が伊丹酒を追い上げる酒の生産地として報告書に記載されている。これが江戸時代後期の灘五郷である。
これら摂泉十二郷(せっせんじゅうにごう)と呼ばれた、伊丹や灘やその周辺地域で造られた酒は、天下の台所といわれた集散地大坂から、すでに人口70万人を擁していた大消費地江戸へ船で海上輸送された。こうして上方から江戸へ送られた酒を下り酒と呼ぶ。
時代により変動があるが、下り酒の7割から9割は、摂泉十二郷産のもので、それ以外では尾張、三河、美濃で造られ伊勢湾から合流する中国もの、他には山城、河内、播磨、丹波、伊勢、紀伊で造られた酒が下り酒として江戸に入っていった。いっぽう関東側では、中川と浦賀に幕府の派出所があり、ここで江戸に入る物資をチェックしていた。この調査結果は江戸入津と呼ばれ、幕府が江戸市中の経済状態を市場操作したり、国内の移入移出の実態を調べるのに活用された。
下り酒は、はじめは菱垣廻船で木綿や醤油などと一緒に送られていたが、享保15年(1730年)以降は樽廻船として酒荷だけで送られるようになった。
宝暦年間初期は豊作が続いたため、幕府は宝暦4年(1754年)に勝手造り令を出し、新酒を造ることも許可した。このため四季醸造は復活の機会があったのだが、もはや生き証人としてその技術を心得ている杜氏がいなかったこと、また消費者もうまい寒酒の味に慣れ、酒郷ではよりよい酒質を求めて熾烈な競争をくりひろげていたことなどから、以前のような復活に至らなかった。こうして幕府の酒造統制が緊緩を揺らいでいくうちに、四季醸造の技術は江戸時代の終わりまでに消滅してしまうことになる。それが復活できたのは、じつに昭和時代の工業技術によってであった。
江戸時代後期
天明3年(1783年)に浅間山が大噴火し天明の大飢饉が起こると、幕府は、天明6年(1786年)に諸国の酒造石高を五割にするよう減醸令(げんじょうれい)を発し、天明8年(1788年)にはまたしても酒株改めをおこない、その結果にもとづいて三分の一造り令などが示達された。
松平定信は寛政の改革の一環として天明の三分の一造り令を継続するとともに、「酒などというものは入荷しなければ民も消費しない」との考えのもとに下り酒の江戸入津を著しく制限した。
享和2年(1802年)水害などに起因する米価の高騰により、幕府は酒造米の十分の一を供出させた。この米のことを十分の一役米という。酒屋たちは抵抗、反発し、十分の一役米は享和3年(1803年)に廃止された。
文化文政年間は豊作の年が続き、幕府は文化3年(1806年)にふたたび勝手造り令を発し、酒株を持たない者でも、新しく届出さえすれば酒造りができるようになった。こうして酒株制度はふたたび有名無実化したが、このことはやがて江戸後期から幕末にかけ、酒屋たちのあいだに複雑な内部抗争を起こさせることになる。
天保8年(1837年)(一説には天保11年(1840年))山邑太左衛門(やまむらたざえもん)によって宮水(みやみず)が発見されると、摂泉十二郷の中心は海に遠い伊丹から、水と港に恵まれた灘へと移っていった。
近・現代
明治時代前期
明治5年(1872年)、オーストリア万国博覧会に日本酒が出品された。2006年3月現在、日本酒造組合中央会など日本における「公式」といってもよい日本酒の歴史によれば、このオーストリア万博への出品を以て日本酒のヨーロッパへの初めての「輸出」とみなしているようである。
しかし、これはとても正確とは言えない。日本国外への輸出は、江戸時代初期に朱印船貿易によって東南アジアに輸出されていた多くの実績があり、とくにそれ以後、日本酒の飲用がその地の独自な食文化の一部として定着をみた、オランダ東インド会社の根拠地バタヴィア(現インドネシアの一部)などを通じて、オランダ経由で日本酒がすでに江戸時代にヨーロッパにもたらされた形跡がある。また、江戸時代後半にはカムチャツカからシベリア経由でロシア帝国がヨーロッパに日本酒を紹介していたことなども明らかになっている。
しかしながら、明治維新を迎えて、日本酒が政府のお墨付きと後押しを受けて表舞台を通じてヨーロッパに入っていったことは事実であるといえよう。
明治8年(1875年)、明治政府は、江戸幕府が定めた複雑に入り組んだ酒株に関する規制を一挙に撤廃し、酒類の税則を醸造税と営業税の二本立てに簡略化して、醸造技術と資本のある者ならば誰でも自由に酒造りができるように法令を発した。このためわずか一年のあいだに大小含め30000を超える酒蔵がいっきに誕生した。しかし、明治政府が酒税の徴収に目をつけ、酒蔵への課税をどんどん重くしていくにつれ、酒蔵の数は減っていきやがて8000前後にまで減退した。(ちなみに2005年現在では約1500まで減っている。)
酒蔵は無抵抗に明治政府の課税が重くなるのを見過ごしていたわけではなく、さまざまな知恵をこらしてこれに抵抗した。酒税をめぐって、この時期の酒蔵たちと明治政府のあいだで繰り広げられた攻防は、30年近くに及ぶ一つの戦記ものですらあるが、その中で代表的に語り継がれるのが明治15年(1882年)の大阪酒屋会議事件である。
こうしたなかで、最終的に明治政府は国家歳入のじつに30%前後を酒税に頼るにいたった。 課税に耐えて生き残ることができた酒蔵は、富裕な大地主によって開かれたものばかりであった。以前、大地主たちは毎年の収穫から一定量の米を不作や飢饉の時にそなえて備蓄していたものであったが、備蓄米はそのまま古くなって無駄になるリスクがつきまとった。そこで彼らは、もはや備蓄することをやめ、その分の米を自己資本でやっている酒蔵へ原料として回したのである。こうした大地主が始めた酒蔵のなかには、そのまま発展して今日の日本酒業界でいわゆる「大メーカー」となっている会社も多い。
数多くのビール醸造メーカーも酒類業界に参入したが、清酒メーカーと問屋は、競合品であるビールの進出を阻止しようとした。そのため従来からの問屋はビールを取り扱わず、結果、酒小売店もビールを取り扱わなかった。そこで、ビールメーカーは薬種問屋など新しい流通網を構築した。
明治時代後期(日清戦争以後)から大正時代にかけては、酒造りにおいて一つの特色ある時代を形成する。これを日本醸造業の近代化の時代ととらえる者もいれば、伝統技法の逸失ととらえる者もいる。
こうした背景には、近代以前はいわゆる科学的再現性が酒造りにおいてはつねに大問題だった、という事実がある。たとえ良い酒ができても、「同じものをまたつくる」ということが不可能に近かったのである。酒蔵では空気中に自然に存在する酵母を取り込んだり、昔から住みついている酵母(いわゆる「蔵つき酵母」「家つき酵母」)の力に頼っていたが、株が一定せず、醸造される酒は品質が安定しなかった。しかし明治期に入って、西洋の微生物学が導入され、さらにやがて日清戦争で国力に余裕のできた政府が後押しをして、ようやく品質の安定と向上が図られるようになったのである。
日清戦争(明治27年(1894年)-明治28年)は明治政府に、勝利による賠償金など有形のもののみならず国際的地位の向上など無形の余裕をもたらした。こうした状況を受けて政府は、鉱工業などと並んで醸造業の発展も積極的に支援し、明治37年(1904年)大蔵省の管轄下に国立醸造試験所を設立した。ここではやがて明治42年(1909年)山廃酛が開発され、翌年(1910年)には速醸酛が考案され、明治44年(1911年)には国立醸造試験所によって第一回全国新酒鑑評会が開催されることになる。
それを基にして、やがて国立醸造試験所(現在の独立行政法人酒類総合研究所)が全国新酒鑑評会を定期的に開き、そこで高い順位を取るなどして客観的に優秀と評価された酵母を、醸造協会(現在の財団法人日本醸造協会)が分離、純粋培養し、全国の酒蔵に頒布するというシステムが整えられていった。(本ページ「酵母」の項参照。)
また販売の方法も近代化し、明治34年(1901年)には一升瓶が登場し、日本酒が瓶詰めで売られる時代に入った。
しかし、政府はこうした一連の改革を、当然ながら良くも悪くも当時の国造りの理念に基づいた酒造りの枠組みとしてとらえていた。すなわち酒税収入が30%近くも占める状況に鑑み、税制を立て直すにはまず酒税から仕切りなおさなければならないと考えたのである。ゆえに、一連の醸造業の近代化への国家レベルへの投資は、次世代の歳入モデルを見込んでのものであった。
こうした背景の中で政府は、明治32年(1899年)には自家用酒税法を廃止し、これを以って自家製酒(日本においては、いわゆるどぶろく)の製造と消費を禁止した。酒の消費を全般的に考えると、本格的な醸造設備が整っていない家庭でもかんたんに造れるどぶろくが大勢を占めていたわけだが、この製造を禁止すれば、国民の酒の需要は酒税のかかる清酒へと向き、どぶろくに消費されていた分がそっくり清酒の消費となって歳入にはねかえってくるだろう、というのが明治政府の予測であった。
しかし結果的にこの目論見ははずれた。現に日露戦争当時のどぶろく禁止令は、構造改革特区など少数の例外をのぞいて2024年現在でも酒税法に残っているが、酒税による税収は国家歳入の2%に満たない。
他方では、明治以前の酒樽は木製で、樽壁の中に雑菌が生息している可能性もあり、不衛生だという意見があった。この問題を解決するために、今日のような琺瑯(ほうろう)で表面を加工した鉄製の酒造タンクも開発され、政府もこの普及を推進した。
この推進に対しても、今日の評価は分かれている。一つは、琺瑯タンクによる酒造りも、製造される酒質はそれ以前のものと比べて何ら劣るものではなく、あえてコスト高と不衛生のリスクを冒して木樽造りにこだわる意味を見出さないとする派である。
もう一つは、木樽造りは長い実績を経た醸造技術であり、それが生み出す木香もまた日本酒の魅力であるとする派である。彼らの中には、醸造する酒の3%前後を樽の木材が吸収してしまい、結果的に酒の生産量を目減りさせていたから、それがひいては明治政府にとっては税収の目減りにつながるため琺瑯びきタンクの普及に躍起になっていたのだ、と主張する者もいる。
木樽造り、もしくは木桶造りは、平成時代になって各地で盛んに復元されており、2024年現在すでに消費者が価格と味を比べて審判できる市場になってきている。(本ページ「日本酒の現在」参照。)
昭和時代以降
昭和12年(1937年)、日中戦争による米不足で酒の生産量が減少し、水で薄めた金魚酒などが横行し始めたため、昭和15年(1940年)にアルコール濃度の規格ができ、政府の監査により日本酒級別制度が設けられた。この制度は平成4年(1992年)まで続いた。
昭和16年(1941年)、太平洋戦争が始まり米不足に拍車がかかると、昭和18年(1943年)酒類は配給制となった。戦後、配給制が解かれ昭和24年(1949年)5月6日には酒類販売の自由化がなされた。配給制から自由化に移行するに当たって、各都道府県に指定の卸が置かれることとなった。この卸の役割を担ったのが清酒メーカーであった。そのため清酒の主な販売経路となっていたようである。
吟醸酒の誕生
吟醸酒の起源は、国立醸造試験所などにおける1920年代前後の清酒酵母の研究にさかのぼる。このころすでに、ある種の特殊な酵母を用いて醸造した酒は、それまでの日本酒にはない洗練された香味を醪に内包させ、水に溶け出さないこれらの成分も、アルコール添加によって引き出せることが技術的に知られていた。
当初は市販流通を目的として造られた酒ではなく、その造りには高度な醸造技術を要することから、蔵人たちの修業研鑽のために、また鑑評会への出品酒とするために、ごく限られた量だけ実験的に造られていた。
1930年代には、縦型精米機の登場などによって精米技術が飛躍的に発達し、吟醸酒を造るのに欠かせない高い精米歩合が以前より容易に実現されるようになった。これによって、それまで一部のごく限られた愛飲家だけに楽しまれていた吟醸酒が、市販流通に耐えうる量を生産できる展望が開かれた。
1970年代には、醪(もろみ)造りの工程における温度管理の技術が飛躍的に発達し、また協会7号や協会9号などの吟醸香を出す新しい酵母が実用化され、初めは少量であったが吟醸酒・純米吟醸酒などが出荷されはじめた。消費者への受けは良く、1980年代には吟醸酒は広く一般市場に流通するようになった。
1980年代には、さらに少酸性酵母、高エステル生成酵母、リンゴ酸高生産性多酸酵母といった高い香りを出す酵母が多数つくられ、都道府県の研究センターや農業大学などを中心として吟醸酒に適した新たな酵母の開発が進んだ。これはバブル経済ともあいまって吟醸酒ブームを生んだ。
1990年代以降は、地域の特性を生かした酒造好適米や酵母の開発が進み、それぞれ開発地を名称に冠する静岡酵母、山形酵母、秋田酵母、福島酵母や、アルプス酵母に代表されるカプロン酸エチル高生産性酵母、あるいは東京農業大学がなでしこ、ベコニア、ツルバラの花から分離した花酵母などが、新しい吟醸香を引き出すものとして評価を集めている。
2000年代には、吟醸酒ブームの中心は、アメリカ・フランスを中心とした国外市場に移り、ニューヨークやパリなどでは、食前酒として日本産の吟醸酒を飲むのがトレンディとされている向きもある。
いっぽう、吟醸酒を「ほんらいの米の味と香りのする酒のほうがいい」と嫌う愛飲家も多く存在し、また吟醸香も強すぎればかえって酒の味を損なってしまうことなどから、強い吟醸香を出す酵母を敬遠する蔵元も多く、そういう新種の酵母は、他の酵母とブレンドしたり、鑑評会への出品酒のみに使ったりと、まだ使い方が模索されている途上にあるといってよい。
しかしながら、日本酒が日本国内で売れなくなった消費低迷期に、国外でその消費を伸ばした牽引役がこの吟醸酒であったことは銘記されてよい。
そうした背景には、普通酒を造るレベルの設備を持った日本酒醸造所なら、いまや日本国外にも多く存在するという事実がある。そのため必然的に、日本から輸出される対象となるのが、吟醸酒に代表されるような日本の水や技術でしか作れない高級酒となっているわけである。2006年現在まで、日本国内消費の減退とはうらはらに、吟醸酒を中心として日本酒の輸出量は年々倍増している。
消費低迷期
昭和26年(1951年)の進駐軍撤退、日本独立後、日本酒の消費は伸び続けたが、国税庁発表の資料によれば昭和48年(1973年)を境に減少へと転じ、平成14年(2002年)には全盛期の半分近くまで落ち込んでしまっている。このような長期低迷のの原因としては以下のようなものが考えられている。
(1) アルコール離れ
- とくに若年層や健康志向者がアルコール飲料を飲まなくなったことで、日本酒の消費が長期的に減少してきているとする説。じつはこの「アルコール離れ」なる現象は、英語で"disalcoholization"という新語も提案されているほど世界的な傾向で、ワイン消費大国フランスでもアンケートで「ワインをほぼ毎日飲む」と答える人は1980年には51%だったのが2005年には21%と大きく減少しており(フランス全国ワイン業者組合2005年調査)、醸造業者は頭を痛め食文化そのものの変容を嘆く声も出始めている。
(2)バブル経済の影響
- これは日本の他のほとんどすべての経済分野と共通である。のちの項目で詳述される三増酒が、1980年代に入ってからも売れ続けていたということが、このことを一端として物語るであろう。
(3)日本人の「欧米志向」
- 明治維新以来、いや黒船来航以来、日本人の中に通底音として響き続け、断続的に表面に出てくるのが、この「欧米志向」である。平たくいえば、「日本酒は年寄りの飲むダサイ飲み物、ワインはもっと文化的でおしゃれで上等な飲み物」と思い込んでいる日本人が多いということである。
(4)愛好者の閉鎖性
- 日本酒をよく飲む人というと「味にうるさく」「気難しい」というイメージが一般にあるのが一因とも言われている。それが日本酒愛好者に新規参入しようかと考える人々にとって、「へたなことを言って馬鹿にされるだけなんじゃないか」という躊躇をもたらし、新たな消費人口への敷居を高くしている側面があると思われる。
(5)三増酒の流通
- 戦後50年以上にわたって流通した日本酒の主流が三増酒であったことが現在の消費低迷を招いたということは、日本酒固有の問題といってよいだろう。取り扱いにくい問題であるが、日本酒の近・現代史、現在、未来を考えるうえで、避けては通れない話題であるともいえる。
- 三増酒が何たるかについては、その別項にゆずるが、以下に挙げるようないくつかの要因が幸か不幸かみごとに方向性を一にしてしまい、戦後も長らく流通した日本酒の大半が三増酒となっていった。
- (a) 政策
- 前述したような昭和初期の食糧難や米不足から、当時の政府は米を配給制にするなど、日本人の主食であった「米」に大きく政策的に関与した。昭和30年代になり「もはや戦後ではない」と言われるような物質的に豊かな時代がなってもしばらくは、それを持っていかなければ米が買いにいけない、配給米時代の名残りともいえる米穀通帳というものが各家庭にあったくらいである。こうした政策のもとでは、品質を追求するよりも、質は問わずに量だけ生産していく酒造りをおこなっていくほうが、時流に乗っていて経済的リスクも少なかったのである。まず、三増酒が大量生産されていく下地として、このような経済環境があった。
- ほかにも、政府や地方自治体にとっては、各地の大小の酒蔵メーカーが生産量をあげ、見かけ上の収益を増加させていってくれたほうが、歳入・税収が増えるという、なおざりにはできないメリットがあった。
- (b) 生産者の意向
- どんな品質の日本酒でも造れば造るだけ売れるという当時の経済環境のなか、零細な地方蔵から、大資本をもつ大メーカーに至るまで、多くの酒造メーカーが量産主義に走った。その結果が質を落とした三増酒になったといっても過言ではない。なかには「桶売り・桶買い」といって、零細な地方蔵が産した地酒をタンクごと大メーカーが買い取り、大メーカーはそうして集めたあちこちの地酒をまぜあわせたり、自社醸造の酒の割り増しに使ったり、あるいはそのまま自社ブランドの瓶に詰めて販路に乗せたりした。酒は瓶に詰めて出荷された時点で課税対象の商品となるので、桶売り・桶買いの段階では取引に関わる納税の義務が生じない。それゆえ地方蔵にとっても大メーカーにとっても、これは経営上、重要な節税のテクニックでもあった。このため「未納税取引」とも呼ばれる。
- しかし、このような流通システムでは、ほんらいの地酒の味が活きず、流通しなかった。また桶売りは、売る側にとっては、買い手である大メーカーの言うままになって酒を造っていればよかったので、そこの蔵の本来の持ち味が失われていった。このため三増酒の時代が終わり、地酒復興の波がやってきたときに、桶売りに頼っていた蔵は自立ができず、また買い手からも取引を打ち切られて、多くが衰滅していった。
- (c) 消費者の需要
- 酒造メーカーがどんなものでも造れば売れたという時代の背景には、もちろん消費者たちの選択と責任があった。つまるところ「酒だったら何でもいい」「酒は味わうためでなく酔うために飲む」といった価値観を持った大量消費者(いわゆる「呑んべえ」)たちの欲求や需要が、安価な三増酒の消費を促進していった側面は否定しさることはできない。
- だが、その背景として語られなければならないことの一つとして、当時は現在よりもアルコール依存(当時はむしろアルコール中毒/アル中と呼ばれた)に対する認識が低かったということがある。飲酒運転にかかわる罰則も今よりはるかにゆるく、大学のコンパなどでは今では立派に犯罪となるような「先輩からの強要」や「イッキ呑み」などが日常的に行なわれていた。いわゆる新歓コンパから新入生が急性アルコール中毒で救急車で病院にかつぎこまれ、そのまま死亡するケースも多くあった。
- 以上のような要因で量産された三増酒は、六割以上が醸造アルコールや糖分、調味料などなので、けっして味覚的においしくないばかりか、悪酔いを残すなど飲み心地も悪い特徴がある。
- 若いころに三増酒を年上の酒呑みから飲まされた世代は、そういうものが日本酒だと思い込んでしまい、そのまま現在に至っていることが多い。そういう世代は、大人になり自分の選択でアルコール飲料を買いに行くようになると、日本酒には見向きもせず、ビール、焼酎、ワインなどを選択するようになった。これも明らかに、昭和後期から現在に至るまでの日本酒の消費減退の根深い伏線となっていると思われる。
これに対して、いま日本酒業界は長期低迷を脱皮しようとして、さまざまな試行錯誤を重ねており、むしろ品質的には、古代に日本酒が最初に醸されて以来、もっとも洗練され錬磨された水準に達しており、そのことは世界的にも評価されているが、いまだにそれは日本国内の日本酒の消費回復に直結していないようである。「三増酒」という言葉すら知らずに「日本酒とはああいうものだ」という固定観念を極めて深いところに持ってしまっている世代は、なかなか三増酒でない真の日本酒に目を向けようとしていないのが現状と思われる。(平成17年(2005年)現在。)
辛口ブーム
1980年代から2005年ごろにいたるまで、日本酒をめぐる潮流の一つとして辛口がブームであった。詳しくは「日本酒辛口ブーム」参照。
背景として、以下のようなものが考えられる。
奇しくもバブル期の揺り戻しであった平成大不況から2006年第一四半期に抜け出るとほぼ同時ごろに日本酒の辛口ブームも終焉し、日本酒に求められる味も多様化してきたようである。
日本酒の現在
昭和15年(1940年)に始まった日本酒級別制度への批判が高まり、平成2年(1990年)からそれに代わる日本酒の分類として使われるようになったのが、のちに分類の項で詳しく述べられるような普通酒、特定名称酒など9種類の名称である。日本酒級別制度は平成4年(1992年)に完全に撤廃された。
日本酒は、昔ながらの正統な味や質の継承と復活も去ることながら、輸出の伸張と国内消費を回復をめざして、2024年11月8日現在、次のような方向で多様な模索が続けられている。
- 小ボトル化
- 1901年に導入されていらい百年余り、日本酒は一升瓶で買うのが主流であったが、一升瓶をさげて家に帰っていくのはためらわれる消費者が多いため四合瓶や300ml瓶への変換が図られている。。しかし消費者の側からは、小瓶になるとかなりの割高になる現在の日本酒の価格体系や、小瓶を並べているコンビニエンスストアなどの陳列方法が果たして日本酒の販売に適切な温度管理なのかといった疑問が寄せられている。
- 流通経路の改革
- 主に蔵元の生酒や稀少地酒を、大都市へ低温輸送するため。
- 種類の多様化
- 女性消費者の開拓
- 赤色酵母を用いたピンク色の甘口の日本酒など。
- 国外市場へのプロモーション
- ラベルのデザインの改良
- 伝統的製法の復活と復元
- アンテナショップの増加
- 大手の酒類販売店が自己資本で飲食店(主に高級居酒屋・和ダイニングバーなど)を経営し、一般消費者層になじみの薄かった地方の銘酒などを試飲感覚で安価で提供している。
- 健康効果の研究とアピール
- 水割り・チェイサー・カクテルの提案
日本酒に関する古文書
- 延喜式(えんぎしき)
- 御酒之日記(ごしゅのにっき)
- 多聞院日記(たもんいんにっき)
- 童蒙酒造記(どうもうしゅぞうき)
- 本朝食鑑(ほんちょうしょっかん)
- 和漢三才図会(わかんさんさいずえ)
- 日本山海名産図会(にほんさんかいめいさんずえ)
- 手造酒法(てづくりしゅほう)
- 守貞漫稿(もりさだまんこう)
日本酒にまつわる事件
- 亭子院の酒合戦(ていしいんのさけがっせん)
- 延喜11年(911年) 『本朝文粋』に記述あり。
- 文安の麹騒動(ぶんあんのこうじそうどう)
- 文安1年(1444年) 武力衝突により麹屋業の滅亡。以後、麹造りは酒屋業の仕事の一部に。
- 文明6年(1474年) 『親長卿記』に記述あり。
- 醍醐の花見(だいごのはなみ)
- 慶長3年(1598年) 豊臣秀吉はこのとき諸国の銘酒を献上させた。また南蛮酒として、広く海外からも珍酒が集められた。
- 川崎大師河原の酒合戦(かわさきだいしがわらのさけがっせん)
- 慶安1年(1648年) 『水鳥記』に記述あり
- 明治15年(1882年) 酒造業者の明治政府への増税反対運動が高まり、大阪府警は酒屋会議を禁止。酒屋は淀川の舟の中や、京都で会議を強行。