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{{基礎情報 日本の神
{{Infobox 人物
|名 = 玉櫛媛
| 名 = 玉櫛媛
| 神祇 =
|ふりがな = たまくしひめ
| 全名 = 玉櫛媛
|画像 =
| 別名 = 三島溝樴姫、勢夜陀多良比売、活玉依毘売、
|画像サイズ =
|画像説明 =
| 神階 =
|墓地 =
| 神格 =
| 陵所 =
|別名 = 玉依媛、三島溝樴姫など
|民族 = [[天孫族]]
| = [[三嶋溝抗命]]
| 母 =
|時代 = [[神代]]
| 兄弟姉妹 =
|活動拠点 =
|配偶者 =
| 配偶者 = [[事代主神]]<br/>[[大物主大神]]
| 子 = 事代主神との子:[[媛蹈鞴五十鈴媛命]]
|非婚配偶者 = [[事代主神]](『[[古事記]]』では[[大物主大神]])、[[火雷神]]
| 宮 =
|子供 = 事代主神との子:[[鴨王 (上古)|鴨王]]、[[媛蹈鞴五十鈴媛命]]、[[五十鈴依媛命]]<br />火雷神との子:[[賀茂別雷命]]
| 神社 = [[賀茂御祖神社]] など
|親 = 父:[[三島溝橛耳神]](陶津耳)、母:[[伊賀古夜日売]]
|補足 =
| 記紀 =
| 関連氏族 =
}}
}}
'''玉櫛媛'''(たまくしひめ、'''玉櫛姫'''、'''玉依媛'''、'''玉依姫'''、'''三島溝樴姫'''、『[[古事記]]』では勢夜陀多良比売)は、伝承上の[[上古#日本|上古]][[日本]]の女性。[[神武天皇]]初代[[天皇]])の[[皇后]]の[[媛蹈鞴五十鈴媛命]]や、[[賀茂別雷神社]]祭神の[[賀茂別雷命]]などの母として知られる。
'''玉櫛媛'''(たまくしひめ、'''玉櫛姫''')は、[[日本神話]]に登場する[[女性]]初代[[皇后]]の[[媛蹈鞴五十鈴媛命]]の母として知られる。'''三島溝樴姫'''(みしまのみぞくいひめ)、'''勢夜陀多良比売'''(せやだたらひめ)、'''活玉依毘売'''(いくたまよりひめ)ともいう


[[三嶋溝抗命]]の子である。
[[鴨建角身命]]([[八咫烏]])の子であり、兄に[[鴨建玉依彦命]]([[賀茂氏#天神系|賀茂氏]]の祖)がいる<ref>『[[#keizu|古代豪族系図集覧]]』。</ref>。「玉依媛」・「玉依彦」のように、[[ヒメ]]と[[ヒコ]]の二者(この場合は兄妹)がペアで統治を行う体制は[[ヒメヒコ制]]と呼ばれる。


== 記録 ==
== 記録 ==
以下、'''太字'''にした人名は玉櫛媛のことである。
以下、'''太字'''にした人名は玉櫛媛のことである。

=== 山城国風土記 ===
『[[山城国風土記]]』によれば、[[賀茂建角身命]]は[[丹波国]][[神野]]の神[[伊賀古夜日売]]をめとり、[[玉依日子]]([[賀茂県主]]の遠祖)と'''玉依日売'''の二子を生んだ。玉依日売が[[鴨川 (淀川水系)|石河瀬見小川]]の辺に遊んでいた時、丹塗矢([[火雷神]]の化身)が川上より流れ下ってきた。これを取り床の辺にさし置くと、玉依日売は妊娠して子を生んだ。この子は賀茂建角身命の名からとって[[賀茂別雷命]]と名付けたという。

賀茂建角身命および玉依日売は[[賀茂御祖神社]]の、賀茂別雷命は[[賀茂別雷神社]]の祭神である。この二社は[[賀茂神社]]と総称される。これに関連して、各地に[[加茂神社|賀茂神社・加茂神社]]が存在する。


=== 神代紀・地祇本紀 ===
=== 神代紀・地祇本紀 ===
『[[日本書紀]]』第8段の第6の一書では、「又曰」として、[[事代主神]]が八尋熊[[和邇|鰐]]となって'''三島溝樴姫'''(みしまのみぞくいひめ。或いは'''玉櫛姫'''という。)に通って生まれた子が[[姫蹈鞴五十鈴姫命]]([[神武天皇]]の[[皇后]])であるとする。
『[[日本書紀]]』第8段の第6の一書では、「又曰」として、[[事代主神]]が[[和邇|八尋熊鰐]]となって'''三島溝樴姫'''(みしまのみぞくいひめ。或いは'''玉櫛姫'''という。)に通って生まれた子が[[姫蹈鞴五十鈴姫命]]([[神武天皇]]の[[皇后]])であるとする。


『[[先代旧事本紀]]』の「[[地祇本紀]]」によれば、[[都味歯八重事代主神]](つみはやえことしろぬし の かみ)は八尋熊鰐となって[[三島溝杭]](みしまのみぞくい)の娘'''活玉依姫'''(いくたまより-)に通い、以下の三子を生んだという。
『[[先代旧事本紀]]』の「[[地祇本紀]]」によれば、[[都味歯八重事代主神]](つみはやえことしろぬし の かみ)は八尋熊鰐となって[[三島湟咋|三島溝杭]](みしまのみぞくい)の娘である'''活玉依姫'''(いくたまよりひめのもとに通い、以下の三子を生んだという。
* [[天日方奇日方命]](あめのひがたくしひがた の みこと、阿田都久志尼命)
* [[天日方奇日方命]](あめのひがたくしひがた の みこと、阿田都久志尼命)
*: [[神武天皇]]の時代に[[申食国政大夫]]となる。[[三輪氏]]・[[賀茂氏#地祇系|賀茂氏]]の祖。
*: [[神武天皇]]の時代に[[申食国政大夫]]となる。[[三輪氏]]・[[賀茂朝臣氏|賀茂氏]]の祖。
* [[姫踏韛五十鈴姫命]](ひめたたらいすずひめ の みこと)
* [[姫踏韛五十鈴姫命]](ひめたたらいすずひめ の みこと)
*: [[神武天皇]]の[[皇后]]で、[[綏靖天皇]]などの母。
*: [[神武天皇]]の[[皇后]]で、[[綏靖天皇]]などの母。
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『日本書紀』[[神武天皇]]段によれば、人(名は不明)が天皇に
『日本書紀』[[神武天皇]]段によれば、人(名は不明)が天皇に


「[[事代主神]][[三島溝橛耳神]]の女'''玉櫛媛'''に共して生める児、号を[[媛蹈鞴五十鈴媛命]]と曰う。是国色の秀者。」
「[[事代主神]][[三嶋湟咋|三島溝橛耳神]]の女'''玉櫛媛'''に共して生める児、号を[[媛蹈鞴五十鈴媛命]]と曰う。是国色の秀者。」


と奏したという。[[綏靖天皇]]段によれば、媛蹈鞴五十鈴媛命は事代主神の娘だという。[[安寧天皇]]段によれば、[[五十鈴依媛命]]も事代主神の娘であるという。
と奏したという。[[綏靖天皇]]段によれば、媛蹈鞴五十鈴媛命は事代主神の娘だという。[[安寧天皇]]段によれば、[[五十鈴依媛命]]も事代主神の娘であるという。
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『先代旧事本紀』の「[[天皇本紀]]」によれば、人(名は不明)が神武天皇に
『先代旧事本紀』の「[[天皇本紀]]」によれば、人(名は不明)が神武天皇に


[[事代主神]][[三島溝橛耳神]]の女'''玉櫛媛'''と生める児、号を[[媛蹈五十鈴媛命]]と曰う。是国色の秀者なり。」
「事代主神三島溝橛耳神の女'''玉櫛媛'''と生める児、号を媛蹈五十鈴媛命と曰う。是国色の秀者なり。」


と奏したという。また、媛蹈五十鈴媛命および[[五十鈴依媛命]]は事代主神の娘であるという。
と奏したという。また、媛蹈五十鈴媛命および[[五十鈴依媛命]]は事代主神の娘であるという。


『[[古事記]]』[[神武天皇]]段によれば、神武天皇が[[大后]]とする美人を求めた時、[[大久米命]]が
『[[古事記]]』[[神武天皇]]段によれば、神武天皇が[[大后]]とする美人を求めた時、[[大久米命]]が


「此間(ここ)に媛女(おとめ)有り、是神御子と謂う。其を神御子なりと謂(もう)す所以(ゆえ)は、[[三湟咋]]の女、名は'''勢夜陀多良比売'''、其れ容姿麗美故、[[大神神社|美和]]の[[大物主神]]、見感でて、其の美人(おとめ)の大便為すの時に、丹塗矢と化(な)りて、其の大便為すの溝の流下より、其の美人の[[女性器|ほと]]を突きたまいき。爾(かれ)其の美人驚きて、立ち走りいすすきき。乃(か)くて其の矢を将来して、床辺に置きしかば、忽ちに麗しき壮夫(おとこ)に成りて、即ち其の美人を娶りて子を生む。名は[[富登多多良伊須須岐比売命]]と謂(もう)す。亦の名は[[比売多多良伊須気余理比売]]と謂す。故(かれ)是(ここ)を以て神御子とは謂すなり。」
「此間(ここ)に媛女(おとめ)有り、是神御子と謂う。其を神御子なりと謂(もう)す所以(ゆえ)は、[[三湟咋]]の女、名は'''勢夜陀多良比売'''、其れ容姿麗美故、[[大神神社|美和]]の[[大物主神]]、見感でて、其の美人(おとめ)の大便為すの時に、丹塗矢と化(な)りて、其の大便為すの溝の流下より、其の美人の[[女性器|ほと]]を突きたまいき。爾(かれ)其の美人驚きて、立ち走りいすすきき。乃(か)くて其の矢を将来して、床辺に置きしかば、忽ちに麗しき壮夫(おとこ)に成りて、即ち其の美人を娶りて子を生む。名は[[富登多多良伊須須岐比売命]]と謂(もう)す。亦の名は[[比売多多良伊須気余理比売]]と謂す。故(かれ)是(ここ)を以て神御子とは謂すなり。」


といったという。
といったという。


== 諸説 ==
=== 崇神天皇紀・崇神天皇記 ===
『古事記』に記述されている大物主との神婚譚に関しては、『土佐国風土記』逸文に類した話があり、三輪山神婚説話に分類される(後述書 p.136)。この三輪山神婚説話の類型は、ユーラシアの北半球から北アメリカ、そして朝鮮半島からモンゴルにまで分布する、太陽(妹)に月(兄)が恋をし、夜に来訪する恋人の正体をつかもうとして、太陽は恋人の顔に煤(すす)をつけ、朝になって兄の顔に煤がついていた、という話のモチーフが変化したものが三輪山神婚説話であるという考え(坂本太郎 他注『日本書紀 上』)もある(志田諄一 『<日本史=21> 風土記の世界』 教育者 1979年 p.137)。
『日本書紀』[[崇神天皇]]段によれば、[[茅渟県]][[陶邑]]にいた[[大田田根子]]に天皇が「汝は其れ誰が子ぞ。」と問うたところ、大田田根子は

「父をば[[大物主大神]]と曰。母をば'''活玉依媛'''と曰。陶津耳の女なり(亦は云う、奇日方天日方、武茅渟祇の女なり)。」

と言ったという。

『古事記』崇神天皇段によれば、[[河内国|河内]]の[[美努村]]にいた[[意富多多泥古]]に天皇が「汝は誰が子ぞ。」と問うたところ、意富多多泥古は

「僕は[[大物主大神]]、[[陶津耳命]]の女'''活玉依毘売'''を娶りて生みませる子、名は[[櫛御方命]]の子、[[飯肩巣見命]]の子、[[建甕槌命]]の子、僕意富多多泥古」

と言ったという。

また、『古事記』には次のように書かれている。

「此の意富多多泥古人と謂うを、神の子と知れる所以は、上に云える活玉依毘売、其れ容姿端正。是に神壮夫有りて、其の形姿威儀、時に比無し。夜半の時、倏忽と到来す。故相感でて、共婚供住の間、未だ幾時を経ず、其の美人妊身す。爾(ここ)に父母其の妊身の事を怪しみて、其の女に問いて曰く、『汝は自ずから妊めり。夫無きに、何の由にか妊身(はら)みぬ。』ととえば、答えて曰く、『麗美(うるわ)しき壮夫有り。其の姓名を知らず。夕毎に到来し、供住の間に、自然(おのず)から懷妊(はら)みぬ。』という。是を以て其の父母其の人を知らんと欲して、其の女に誨えて曰く、『赤土を以て床の前に散らし、へその紡麻を以て針に貫きて、其の衣の襴(すそ)に刺せ。』とおしう。故教の如くして旦時に見れば、針に著けたる麻は、戸の鉤穴より控き通りて出で、唯遺れる麻は三勾のみなりき。爾(かれ)即ち鉤穴より出でし状を知りて、糸の從(まにま)に尋ね行きしかば、[[美和山]]に至りて、[[大神神社|神の社]]に留りき。故其の神の子なりとは知りぬ。故其の麻の三勾(みわ)遺れるに因りて、其の地を名づけて美和と謂うなり。〈此の意富多多泥古の命は、[[三輪氏|神君]]、[[賀茂氏#地祇系|鴨君]]の祖なり。〉」


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[タマヨリビメ]]
* [[タマヨリビメ]]
* [[石園座多久虫玉神社]]
* [[溝咋神社]]
* [[溝咋神社]]
* [[日本の神の一覧]]
* [[日本の神の一覧]]


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[[Category:日本の神]]
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2024年7月12日 (金) 06:11時点における最新版

玉櫛媛

全名 玉櫛媛
別名 三島溝樴姫、勢夜陀多良比売、活玉依毘売、
三嶋溝抗命
配偶者 事代主神
大物主大神
事代主神との子:媛蹈鞴五十鈴媛命
神社 賀茂御祖神社 など
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玉櫛媛(たまくしひめ、玉櫛姫)は、日本神話に登場する女性。初代皇后媛蹈鞴五十鈴媛命の母として知られる。三島溝樴姫(みしまのみぞくいひめ)、勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)、活玉依毘売(いくたまよりひめ)ともいう。

三嶋溝抗命の子である。

記録

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以下、太字にした人名は玉櫛媛のことである。

神代紀・地祇本紀

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日本書紀』第8段の第6の一書では、「又曰」として、事代主神八尋熊鰐となって三島溝樴姫(みしまのみぞくいひめ。或いは玉櫛姫という。)に通って生まれた子が姫蹈鞴五十鈴姫命神武天皇皇后)であるとする。

先代旧事本紀』の「地祇本紀」によれば、都味歯八重事代主神(つみはやえことしろぬし の かみ)は八尋熊鰐となって三島溝杭(みしまのみぞくい)の娘である活玉依姫(いくたまよりひめ)のもとに通い、以下の三子を生んだという。

神武-安寧天皇紀・神武天皇記・天皇本紀

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『日本書紀』神武天皇段によれば、人(名は不明)が天皇に

事代主神三島溝橛耳神の女玉櫛媛に共して生める児、号を媛蹈鞴五十鈴媛命と曰う。是国色の秀者。」

と奏したという。綏靖天皇段によれば、媛蹈鞴五十鈴媛命は事代主神の娘だという。安寧天皇段によれば、五十鈴依媛命も事代主神の娘であるという。

『先代旧事本紀』の「天皇本紀」によれば、人(名は不明)が神武天皇に

「事代主神三島溝橛耳神の女玉櫛媛と生める児、号を媛蹈鞴五十鈴媛命と曰う。是国色の秀者なり。」

と奏したという。また、媛蹈鞴五十鈴媛命および五十鈴依媛命は事代主神の娘であるという。

古事記神武天皇段によれば、神武天皇が大后とする美人を求めた時、大久米命

「此間(ここ)に媛女(おとめ)有り、是神御子と謂う。其を神御子なりと謂(もう)す所以(ゆえ)は、三嶋湟咋の女、名は勢夜陀多良比売、其れ容姿麗美故、美和大物主神、見感でて、其の美人(おとめ)の大便為すの時に、丹塗矢と化(な)りて、其の大便為すの溝の流下より、其の美人のほとを突きたまいき。爾(かれ)其の美人驚きて、立ち走りいすすきき。乃(か)くて其の矢を将来して、床辺に置きしかば、忽ちに麗しき壮夫(おとこ)に成りて、即ち其の美人を娶りて子を生む。名は富登多多良伊須須岐比売命と謂(もう)す。亦の名は比売多多良伊須気余理比売と謂す。故(かれ)是(ここ)を以て神御子とは謂すなり。」

といったという。

諸説

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『古事記』に記述されている大物主との神婚譚に関しては、『土佐国風土記』逸文に類した話があり、三輪山神婚説話に分類される(後述書 p.136)。この三輪山神婚説話の類型は、ユーラシアの北半球から北アメリカ、そして朝鮮半島からモンゴルにまで分布する、太陽(妹)に月(兄)が恋をし、夜に来訪する恋人の正体をつかもうとして、太陽は恋人の顔に煤(すす)をつけ、朝になって兄の顔に煤がついていた、という話のモチーフが変化したものが三輪山神婚説話であるという考え(坂本太郎 他注『日本書紀 上』)もある(志田諄一 『<日本史=21> 風土記の世界』 教育者 1979年 p.137)。

脚注

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出典

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参考文献

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  • 近藤敏喬 編『古代豪族系図集覧』東京堂出版、1993年、156頁頁。ISBN 4-490-20225-3 

関連項目

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