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;ああいえば上祐 |
;ああいえば上祐 |
2018年7月11日 (水) 01:10時点における版
上祐 史浩 | |
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誕生 |
1962年12月17日(61歳) 福岡県三潴郡城島町 (現・久留米市) |
出身校 | 早稲田大学大学院生 |
ホーリーネーム | マイトレーヤ |
ステージ | 正大師 |
教団での役職 |
外報部長 緊急対策本部長 アーレフ代表 |
入信 | 1986年8月 |
関係した事件 |
亀戸異臭事件 国土利用計画法違反事件 |
判決 | 懲役3年 |
現在の活動 | ひかりの輪代表 |
上祐 史浩(じょうゆう ふみひろ、1962年12月17日 - )は、日本の宗教家で、ひかりの輪代表。アーレフ(現Aleph・旧オウム真理教)元代表。
オウム真理教信者としての名前(ホーリーネーム)は、マイトレーヤだった。
外報部長・緊急対策本部長などの役職でスポークスマンの役割を果たす。得意とする堪能な英語力と口八丁で巧みに詭弁を弄することから「ああいえば、上祐」といわれた[1]。オウム真理教では、男性の中で佐伯一明(後の岡崎一明・宮前一明)に次いで二番目の成就者であった。オウム真理教時代に幹部の中で数少ない麻原彰晃に「NO」と言える存在で、のちにロシア支部長に赴任するが、これはこのことが災いしての左遷といわれた[2]。
概要
福岡県三潴郡城島町(現・久留米市)で銀行員の父と元教師の母の間に生まれる[3]。その後、父親が東京の貿易会社に転職し、一家で上京するが、父親の女性問題によって両親が別居し、母子2人暮らしとなる(両親が正式に離婚したのは上祐が出家した頃[4])。早稲田大学高等学院、早稲田大学理工学部を経て、1987年早稲田大学大学院理工学研究科修士課程を修了し、同年4月に特殊法人宇宙開発事業団(現:独立行政法人宇宙航空研究開発機構)に入る。宇宙開発事業団に入った理由は、当時の宇宙開発事業団会長がNHK教育テレビジョンで「これからの地球を救うのは宇宙である」と話しているのを聞き、感銘を受けたためである[4]。
早稲田大学在学中の1986年(昭和61年)8月に「オウム神仙の会」に入会する[3]。フジテレビアナウンサーの軽部真一は高等学院・早大の同級生である。5年後の1992年12月には、「尊師」に次ぐ位階の「正大師」に昇進。1993年9月にはロシア支部長に就任。
地下鉄サリン事件後には麻原に日本へ呼び戻され、「緊急対策本部長」に就任。1995年10月6日に国土法違反事件で有印私文書偽造などの容疑で逮捕され[5]、懲役3年の実刑判決を受ける。
1999年12月に出所し教団に復帰するとすぐに「アレフ」(現Aleph)を設立するが2007年5月、麻原彰晃の家族や反上祐派との対立から別団体として独立、「ひかりの輪」を設立した。なお、公安調査庁は、上祐が麻原の意思を実現するために“麻原隠し”を徹底し観察処分を免れるための隠蔽工作として別団体を作ったのではないのかという見方をしている[3]。
1980年代
- 入信以前
- 宇宙戦艦ヤマトと江川卓と超能力が好きな少年だった[6]。オウム時代とは対照的に成人前の上祐はあまり目立たない方であった。父親は事業に失敗し家に帰らず母子家庭状態となり、上祐が駅や公園で呆然としていた姿も目撃されている[6]。
- 入信
- その後早稲田大学在学中、サークルでディベートの技術を学ぶ。ディベートサークルの活動を通じて、苫米地英人と面識があった[7]。大学時代より超常現象チベット仏教教団活動、ヨーガなどに強い興味を持っていたが、オカルト雑誌『トワイライトゾーン』に掲載されていた麻原彰晃のアーサナ解説記事をきっかけに、1986年に、同誌で紹介されていた麻原彰晃主催で後のオウム真理教となるオウム神仙の会に入会する[8]。
- 早稲田大学大学院を出た後、特殊法人宇宙開発事業団に就職するも1ヶ月で退職し出家、ニューヨーク支部建設に携わる。出家番号は13。
- ニューヨークでは入信者を増やすことができず、定期的に入信状況を伝える都沢からの電話で手厳しい叱咤激励の言葉をかけられ、プライドを傷つけられた。
- 1988年にニューヨーク支部の閉鎖が決まると、麻原から「今後海外支部を担当することはないだろう」と言われる[9]。
- 恋人を捧げる
- 上祐の恋人の都沢和子も共に出家信者となった。入会後は都沢と別れ都沢は麻原の愛人となる。上祐は尊師のものになっていく都沢を恨めしく思ったりもしたが、尊師のマハームドラー(試練)だと認識し理解することで乗り越えられたという[10]。一方、教団内では上祐には新たな愛人がおり、うまく厄介払いできたと噂になっていた。1995年に岩上安身のインタビューに答えて、「尊師は煩悩を遮断する力が強いので誰とセックスしてもいい」「彼女(都沢)は麻原尊師と融合するならば、それはあの、精神的ステージが高くなるんで、私と融合するよりいいと思うんで、私は恋人を麻原尊師に捧げたいと思います。私はそういうのは負担ですので。」と語っている[11]。
- 坂本弁護士との接点
- 1989年、青山吉伸、早川紀代秀らと共に坂本堤弁護士と訴訟回避に向けた交渉を行ったり、TBSに坂本弁護士インタビューの放送中止を要求する(TBSビデオ問題)などしていたが、未成年だけでなく上祐のような成人も親元に戻るべきとする坂本と見解の相違が生じて決裂した。
- 麻原から(坂本の名前は出さずに)教団に批判的な存在をポア(殺害)することについて一度意見を求められた際に強く反対しており、そのため、坂本弁護士の殺害に関しては、同じく反対していた石井久子や上祐を除いて、麻原は殺害を謀議、坂本堤弁護士一家殺害事件を起こす。暴力行為ではなく自らの広報活動によって批判による影響を和らげるべきだと考えていた上祐は、教団が起こした事件だと察した際には不満を感じ麻原に電話するも、逆に事件を正当化するよう説得された。
- 後年、上祐はテレビ朝日の取材の中で(その当時は自分がまだ知らなかったオウムの犯罪を考慮すると)坂本に先見の明があったと思うと証言している。
1990年代
- 衆議院選挙オウム出馬
- 1990年の第39回衆議院議員総選挙に、真理党として教団幹部の立候補にも岐部哲也と共に最後まで反対していたと伝えられている[12]。この選挙が惨敗に終わり、麻原が大勢の信者達を前に話した「国家権力によって票のすり替えが行われた」という陰謀論にもただ一人異議を唱え、「自分独自の電話調査では麻原彰晃に投票すると言った有権者は100名中誰もいなかった」と発言。一人で反駁を続けたため、麻原は選挙結果の調査をするが、麻原の考えは変わらなかった[2]。
- BC兵器開発
- オウム真理教の兵器開発にも携わっており、生物兵器風船爆弾開発、ホスゲン爆弾計画、第7サティアンサリンプラント計画、亀戸異臭事件に関わっていた。
- 特に1993年6月~7月の亀戸異臭事件では炭疽菌培養のまとめ役を担当した。1993年1月(亀戸異臭事件の前)に行われた以後のテロ活動に関する謀議では、参加はしていたものの肯定的でなかったことから麻原に叱責を受けたと語るが[2]、野田成人によると、どうせ失敗するのではと考える他の信者をよそに「絶対にこのプロジェクトは成功させるからな!」と張り切っていたという[13]。
- ロシア支部へ
- 1992年よりロシア支部に派遣されている[14]。早川紀代秀曰くロシアでの上祐は「グルのようで、小麻原みたいになっていた」[15]。1994年以降は麻原に「日本にいると身に災いが及ぶ」と言われほとんどをロシア連邦で過ごしていたが、一時的に日本に戻った際に教団による薬物を使ったイニシエーションを受け、麻原への帰依を深めることとなった[2]。
- 地下鉄サリン事件後
- 1995年、地下鉄サリン事件が発生して間もなく、麻原から「広報活動をしてほしい」との電話が届き、日本へ帰国する。
- サリン事件後、教団の広報責任者として青山吉伸や村井秀夫らと共に、連日朝から晩までテレビのワイドショーやニュース番組やラジオに出演し、オウムに批判的なあらゆる意見に対して徹底的に反論、数々の疑惑事件は創価学会や米軍、自衛隊を初めとする国家権力の陰謀であり、サリン被害を受けているのはオウムだとの見解を示し続けた。海外メディアに対しても堪能な英語で反論した。
- 更に、記者会見の場でも才能を発揮。容疑が軽犯罪法、いわゆる微罪逮捕や別件逮捕が横行した際は、怒りをあらわにし、机に拳を叩きつけながら警察、報道機関を批難した。逮捕容疑の一覧を記したフリップを公表すると「だから私はあまりごちゃごちゃ言いたくないんですよ、これ(フリップ)見たら分かるでしょう? 馬鹿らしいですよこんなの!」と言いながらフリップを投げたり、村井秀夫刺殺事件直後の会見では、記者が今度の事件で麻原彰晃代表が会見を開くのかと質問したところ、「麻原を殺す気ですか今度は? 麻原を殺す気ですか? 今度は!? 尊師を今度は殺すんですか!?」と激昂するなど、名演技を披露した[16]。
- ああいえば上祐
- 当時、連日メディアに出演し見せた言論パフォーマンスから、ジャーナリストの二木啓孝に「ああ言えばこう言う」を捩った「ああ言えば上祐」と命名され[17]、「上祐ギャル」と呼ばれる熱狂的な追っかけの女性ファンも登場、ファンクラブができるなど一躍話題の人となった[18]。上祐ギャルからは「母性本能をくすぐる」「愛人になってもいい」「オウムを出てきちんとした宗教団体をつくったら、誘われて入っちゃう」「(神秘性を保つために)村井さんみたいに殺されたほうがいいのかも」と人気があった[6]。
- 都沢和子とともに早稲田大学英語部(ESA)で教育ディベートの経験者であったことがマスメディアに報じられ、ディベートが相手を言い負かす技術として注目を集めることとなった。また、上祐の女性運転手も美人で話題となった(後に逮捕され執行猶予判決)[19]。
- 懲役3年の実刑判決
- 熊本県阿蘇郡波野村(現・阿蘇市波野)の土地取得をめぐる国土利用計画法違反事件で1995年10月6日に逮捕。偽証と有印私文書偽造・同行使の罪で10月28日に起訴される。
- 麻原の側近と目される教団幹部であったが、一連のオウム真理教事件では1992年以降はロシア支部にいたこともあり、教団本部の共謀や実行の場にいなかったことや、サリンプラント建設事件では建設・警備関係者のみが起訴されたこと[20]、亀戸異臭事件などの生物兵器テロでは、有毒な炭疽菌が生成・噴霧されずに被害が出なかったため不能犯とされたことなどで、重要犯罪事件で起訴はされなかった。
- 法廷では麻原について「麻原尊師はあらゆる意味で導き手であり、救世主であり、私のすべて」「サンキュー・アンド・グッドバイ」と語った[21][22]。
- その後、懲役3年の実刑判決を受け、広島刑務所に収監された。
2000年代
- シガチョフ・チェイス
- 1999年(平成11年)12月29日の広島刑務所出所後も、教団で有力者とみられていた。公安警察から当初は教団再活性化の危険性があるのではないかと危惧されていた。
- しかし、2000年(平成12年)に現地で非合法化されたロシアのオウム信者が、日本でのテロによる麻原奪還・ロシア脱出を計画していることを知ると、ロシアの警察と警視庁公安部に通報し、信者も使って、その阻止に動いた。その中で東京入国管理局に該当信者の入国を認めないよう要請するが、東京入管は違法性がないとして入国させたため、自分に近い信者をロシア信者の監視に派遣した(シガチョフ事件)。
- 軟禁された代表
- 2002年(平成14年)に、アーレフで代表となるも、「オウム真理教事件を反省し、麻原彰晃の影響を排除する」という改革を打ち出したため主流派(麻原回帰派)の強い反発を受け、翌年にも事実上失脚。「修行」と称して自室に軟禁されるようになる。なお、この期間の間に、オウムの分派のケロヨンクラブで傷害致死事件が発生され、グループ内部から、上祐らアーレフ幹部に告発があったが、その際も、告発した信者に、警視庁に告発するように促している。
- 上祐派として分裂
- 2006年(平成18年)4月30日、TBSの「報道特集」が、新教団立ち上げ計画を明言していた事を報道。この時期、千葉県習志野市のマンションを「上祐派」の道場として使用しながら活動するも、管理者からは立ち退きを要求されていた。2006年(平成18年)9月、習志野市のマンションからは立ち退き完了し、東京都世田谷区南烏山のマンションを拠点とした。
- 公式サイトも教団から分離して、「脱麻原」(後述)を旨とする新教団として活動、その後も内部分裂が進み、2007年(平成19年)3月8日に、アーレフを正式脱退。翌9日、mixiのアカウントを取得したことを、公式サイトのブログで公表した。上祐のマイミクシィ(申請含む)は、わずか2日で上限の1,000人に達した。
- 5月7日に、麻原の教義を完全排除した、とする新団体「ひかりの輪」を設立して、代表の座についた。
2010年代
- オウム時代の回想
- 2010年12月3日号のFRIDAY誌上にて、麻原彰晃はカリスマ的な能力はあるが、それが人格と一致せず、誇大妄想と被害妄想の精神病理的な人物と考えていると述べた。その麻原の人格の根源は、幼い頃からの親・社会に対する反感・逆恨みではないかと評した。また、ロシアに行く前から、オウム真理教がサリンを研究していた事実を承知していたが、当時反対しきれなかったのは、それは信者にとって、麻原彰晃に一般人と共にポアされることを意味するからだと述べた[23]。
- 「オウム真理教は事件に関わりがあると薄々気づきながら、当時はマスコミに無関係だと嘘をつき続けていた。自分は嘘吐きだった」と告白した。また、サリン事件が教団が起こしたものだと麻原に伝えられたのは帰国して1ヶ月後(村井秀夫刺殺事件の後)で、一連の事件の全貌を知ったのもその頃だったと語っている。
- また村井刺殺事件に関しては、後に雑誌『FRIDAY』2010年12月3日号誌上の対談にて「覚醒剤取引などで関係の深かった暴力団による口封じ説、村井秀夫氏が生きていることで、第2・第3のサリン事件が起きる可能性があったために、当局が起こした謀略説などがあるが、予言を実現させるためにオウム真理教が行った自作自演の可能性があると感じている」と発言している[23]。『終わらないオウム』で実行犯の徐裕行と対談した2013年以降は「徐氏に会って、あれは単独犯だと感じた。彼の巨悪のオウムを倒すという義憤によるものです。 背景にオウムも暴力団も関係していないと思う」と単独犯説を主張するようになった。『田原総一朗 オフレコ!スペシャル』(2013年6月14日)で上祐と対談した田原総一郎はこの主張に対して「本当かな?」「彼(徐裕行)にとって悪なんかあるのかな」と疑問を投げかけている。
- 菊地直子による批判
- 2012年6月19日号の『SPA!』のインタビュー記事で、上祐が「菊地直子はサリン生成に関与し、刑事責任を負った」と語ったことに関し、菊地は事実ではないと東京拘置所内から手紙で上祐宛に撤回するよう要請したが、返事はなかった。このことの象徴されるように、菊地は上祐ほどの幹部であっても、直接関係しない他部署の事情は知らないのが普通であり、オウムは極端に情報が分断された世界だったと述べている。また、菊地がサリン生成に関与したかどうかは、生成に関与した遠藤誠一、土谷正実らに聞けば分かるにもかかわらず、それをせず捜査機関の情報(=マスメディアの報道)を鵜呑みにし、菊地が何をしたのか知らないのに知っているように話したり、菊地は上祐ともほとんど話したことがないにもかかわらず、菊地の性格についても触れたりしている態度を2018年4月13日付のブログ中で強く批判している[24]。
- 麻原死刑執行に賛成
- 2018年にオウム裁判が終結し、麻原死刑執行間近との噂が流れたが、麻原の死刑執行については賛成を表明している[25]。
略歴
- 1962年12月 - 福岡県に生まれる。
- 1969年 - 小学校2年の時に東京都世田谷区へ転居。
- 1978年 - 世田谷区立池尻中学校(現世田谷区立三宿中学校)卒業、早稲田高等学院進学。
- 1981年 - 早稲田大学高等学院卒業、早稲田大学理工学部電子通信学科に入学。
- 1985年 - 早稲田大学理工学部電子通信学科卒業、早稲田大学大学院理工学研究科に進学。人工知能を専攻。
- 1986年 - オウム神仙の会に入会。
- 1987年 - 早稲田大学大学院理工学研究科修士課程修了、工学修士、宇宙開発事業団(現・宇宙航空研究開発機構)に就職。1ヶ月の研修期間終了と同時に退職し同年5月1日付でオウムの出家信者となる。クンダリニーヨーガの成就を認定され大師となる。
- 1988年 - ニューヨーク支部に派遣され、翌年帰国。
- 1989年 - マハームドラーの成就を認定され正悟師となる。
- 1990年 - 第39回衆議院議員総選挙で真理党から東京5区で立候補したが落選。
- 1992年 - ロシア支部に派遣される。大乗のヨーガの成就を認定され正大師となる。
- 1993年 - 亀戸異臭事件発生。同年秋にロシア支部長となる。
- 1995年3月 - 地下鉄サリン事件発生後ロシアから帰国(この事件では訴追されていない)。
- 1995年10月7日 - 逮捕される(国土法違反などで懲役3年の実刑)。
- 1999年12月29日 - 広島刑務所を出所。
- 2002年1月29日 - 「アーレフ」教団代表に就任。
- 2003年10月 - 麻原回帰派の反発により教団運営から隔離され、自室にこもる。
- 2007年3月8日 - アーレフを脱退し、松本死刑囚の教義を完全排除した新団体を設立すると発表。
- 2007年5月7日 - 松本死刑囚の教義を完全排除した新団体ひかりの輪を設立、代表に就任。万物が一体であり、オウムのように社会を善悪の二元に分けることを否定する、「一元思想」を提唱している[26]。
- 2009年7月6日 - ひかりの輪の代表として、オウム真理教事件の被害者団体(オウム真理教犯罪被害者支援機構)と賠償契約を締結した。
- 2013年12月31日 - ひかりの輪の代表として、宗教団体ではなく、思想哲学の学習教室に改革する規約を採択した。
著書
- 『覚醒新世紀』東山出版(2002年)ISBN 483440076X
- 『上祐史浩が語る―苦悩からの解放』東山出版(2002年)ISBN 4834400727
- 『上祐史浩が語る〈2〉心の解放と神秘の世界』東山出版(2003年)ISBN 4834400786
- 『オウム事件 17年目の告白』扶桑社(2012年)ISBN 978-4594067496
- 『終わらないオウム』鹿砦社、上祐史浩, 鈴木邦男,徐裕行の共同著者、田原総一朗監修(2013年)ISBN 978-4846309497
- 『危険な宗教の見分け方』 ポプラ社、上祐史浩、田原総一郎の共著(2013年)ISBN 978-4591136768
- 『地下鉄サリン事件20年被害者の僕がききます』 dZERO、上祐史浩、さかはらあつしの共著(2015年)ISBN 978-4-8443-7676-7
脚注・出典
- ^ 一橋文哉『オウム帝国の正体』 p.47
- ^ a b c d 上祐史浩個人の総括 | オウムの教訓 -オウム時代の反省・総括の概要- ひかりの輪公式サイト
- ^ a b c 公安調査庁公式サイト "オウム真理教について"
- ^ a b 田原総一朗 オフレコ!2013年6月14日放送
- ^ 彼の逮捕は各局が緊急報道特番を編成し全国に伝えられ、超力戦隊オーレンジャーなどが特番の影響受けた
- ^ a b c 有田芳生と女性自身「シリーズ人間」取材班『「あの子」がオウムに!』p.76-103
- ^ ミランカ『博士も知らないニッポンのウラ』、苫米地英人『洗脳原論』(春秋社、2000年)
- ^ オウム出版『マハームドラー』 p.108
- ^ 島田裕巳『オウム なぜ宗教はテロリズムを生んだのか』(トランスビュー、2001年)
- ^ オウム出版『マハームドラー』 p.129
- ^ 上祐インタビュー(1995.6) 岩上安身ウェブサイト(InternetArchive)
- ^ 『オウム解体』宮崎学vs上祐史浩(雷韻出版 2000年5月1日)
- ^ 野田成人ブログ「報道4」 2018/2/12閲覧
- ^ 『オウム帝国の正体』 p.81
- ^ 江川紹子『魂の虜囚』 p.429
- ^ オウム真理教 上祐史浩 外国人記者会見6/8 日本外国特派員協会 (日本外国特派員協会)
- ^ 「ああ言えば、上祐」の言葉を作った記者が語る 死刑執行で神格化された麻原彰晃の危険性 (1/2) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)
- ^ 元オウム追っかけギャルたちが語る、幹部たちとの思い出 | ビジネスジャーナル
- ^ 毎日新聞 1997年2月5日 夕刊9面
- ^ 「オウム サリン量産計画 上祐被告関与の疑い」 読売新聞 1995年12月13日
- ^ 降幡賢一『オウム法廷 グルのしもべたち上』 p.205
- ^ 江川紹子『魂の虜囚』 2000年 p.86
- ^ a b ひかりの輪広報部(2011年01月19日)
- ^ 上祐史浩さんのSPA!インタビュー記事について 2018.04.13 Friday 00:17
- ^ 麻原の死刑執行はアレフを抑制して再発防止の決め手に | 上祐史浩
- ^ ひかりの輪公式サイト"宗教と科学の統合"
外部リンク
- 上祐史浩オフィシャルサイト
- 上祐史浩オフィシャルブログ
- 上祐史浩 (@joyu_fumihiro) - X(旧Twitter)
- 上祐史浩講話集 動画
- "ああいえば上祐"研究会 1995年当時の上祐史浩動画集
- オウム真理教を総括する-1995 上祐史浩出演動画集
- オウムの教訓 上祐史浩個人の総括 - オウム時代の総括及び反省を裁判資料と共に上祐が記した文章。
- 平野悠の好奇心・何でも聞いてやろう「オウムって何?」前半 - 野田成人や鈴木邦男(一水会顧問)との対談
- 平野悠の好奇心・何でも聞いてやろう「オウムって何?」後半 - 野田成人や鈴木邦男(一水会顧問)との対談
- プチ鹿島・居島一平の思わず聞いてしまいました!!4 - ゲストとして出演