「弁天島 (根室市)」の版間の差分
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[[File:Nemuro city center area Aerial photograph.1978.jpg|thumb|300px|画像上端の細長い島が弁天島。この画像は上方が北西方角である。1978年撮影の9枚を合成作成。<br/>{{国土航空写真}}。]] |
[[File:Nemuro city center area Aerial photograph.1978.jpg|thumb|300px|画像上端の細長い島が弁天島。この画像は上方が北西方角である。1978年撮影の9枚を合成作成。<br/>{{国土航空写真}}。]] |
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'''弁天島'''(べんてんじま)は、[[北海道]][[根室市]]に存在する[[島]]([[無人島]])。根室市の[[町丁|町名]]でもあり、[[人口]]は0人。[[郵便番号]]は087-0000。 |
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'''弁天島'''(べんてんじま<ref name="島嶼一覧-2-2"/>)は、[[北海道]][[根室港]]([[根室市]])にある[[無人島]]<ref name="シマダス-39"/>{{refnest|group="注"|「根室市内」にはもう一つ別の「弁天島」がある。[[北方領土]]の[[歯舞諸島]]を構成する島の一つで、全域が根室市の管轄となっている[[多楽島]]の北側に「弁天島」という小島がある<ref name="島嶼一覧-1-2"/>。}}。 |
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== 概要 == |
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アイヌ語では「大きな島」を意味する「ホロモシリ」と呼ばれており、江戸時代の[[和人]]は「大黒島」と呼んだ<ref name="道庁Blog-20130404"/>。[[高田屋嘉兵衛]]が島に弁財社を建てたことから、のちに弁天島と呼ばれるようになった<ref name="シマダス-39"/>。 |
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[[1878年]]([[明治]]11年)には、[[考古学者]]の[[ジョン・ミルン]]が[[弁天島貝塚]]を発見し、その後の[[発掘]]によって古代人の穴居跡や[[土器]]、[[石器]]なども発見されている。 |
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島全域が[[オホーツク文化]]の重要な遺跡となっているほか、現存しないものの、1872年([[明治5年]])にこの島に建てられた灯台は北海道では最古のものだった<ref name="シマダス-39"/>。 |
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島内には[[択捉航路]]を開拓した、[[高田屋嘉兵衛]]が建立した[[市杵島神社 (根室市)|市杵島神社]]が鎮座する。 |
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==地形== |
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根室市琴平町から約600メートル西の沖合<ref name="シマダス-39"/>、[[根室港]]からは北西約200m沖にある。[[面積]]0.05km{{sup|2}}、周囲1.2km。 |
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==歴史== |
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===弁天島貝塚=== |
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1878年(明治11年)、[[お雇い外国人]]だった[[考古学者]][[ジョン・ミルン]]が弁天島で貝塚を発見した<ref name="道庁Blog-20130404"/>。これは[[モヨロ貝塚]]([[網走市]])などと同様に[[オホーツク文化]]に属するもので、島全体が貝塚となっていて、[[竪穴式住居]]や大量の動物の骨を伴うものだった<ref name="シマダス-39"/>。この遺跡はオホーツク文化を研究する上では重要なものだったが、その重要性は日本国内よりももっぱら海外で認識されるにとどまった<ref name="シマダス-39"/>。 |
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貝塚の発掘はその後も続けられたが、日本人による本格的な調査は1962年(昭和37年)に[[東京教育大学]]([[筑波大学]]の前身)により実施された<ref name="シマダス-39"/>。この調査では竪穴式住居から、[[ヒグマ]]、[[エゾシカ]]、[[アザラシ]]、[[クジラ]]と推定される骨や、石器も出土した<ref name="シマダス-39"/><ref name="道庁Blog-20140121"/>。これらは[[オホーツク人]]が海獣や獣を狩猟していたことを示すものと考えられている<ref name="道庁Blog-20140121"/>。 |
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===ラクスマンの根室訪問=== |
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[[1782年]]([[天明]]2年)に、[[伊勢国|伊勢]]の廻船屋[[大黒屋光太夫]](1751年 - 1828年)が[[白子港]]([[三重県]][[鈴鹿市]])江戸を目指して出航したが、遭難して[[アリューシャン列島]]まで流された。彼らはロシアの[[アダム・ラクスマン]]らに救助され、当時の[[ロシア帝国]]の首都[[サンクトペテルブルク|ペテルブルク]]まで赴き、女帝[[エカチェリーナ2世]]に謁見した。その後、ラクスマンは遣日使節として、大黒屋光太夫らを伴って再び日本へ向かった。ラクスマンらは1792年([[寛政]]4年)10月20日に[[根室港]]へ到着した<ref name="根室市-ラクスマン"/>。 |
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ラクスマン一行は弁天島に船を停泊させ、総勢42名で根室に上陸、そこで8ヶ月を過ごした。冬の間は結氷した湾内で[[スケート]]をしており、これは日本における最古のアイススケートだとされている<ref name="根室市-ラクスマン"/>。 |
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===弁財天と市杵島神社=== |
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廻船業者[[高田屋嘉兵衛]](1769年 - 1827年)は、[[択捉島]]への航路を拓いて成功した。[[文化 (元号)|文化年間]](1804年 - 1813年)に、高田屋嘉兵衛はこの島に[[弁財天]]を祭祀した<ref name="神社庁-市杵島神社"/>。これがのちに「'''弁天島'''」の名前の由来とされている<ref name="シマダス-39"/>。しかしこの社は1843年([[天保]]14年)に[[山田文右衛門]]が起こした失火が原因で焼失した<ref name="神社庁-市杵島神社"/>。 |
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再建されたのは22年後の1865年([[元治]]2年)のことで、[[藤野喜兵衛]]が費用を負担した。明治時代に入ると地元の住民が費用を負担して春と秋の例祭を奉斎するようになり、1882年(明治15年)には[[村社]]として認められた<ref name="神社庁-市杵島神社"/>。現在の社殿は1958年(昭和33年)建築のコンクリート製のものだが、天保6年(1835年)製の石鳥居が現存し、社宝となっている<ref name="神社庁-市杵島神社"/>。 |
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この[[弁天社]]はのちに[[市杵島神社]]となり、例年9月15日を祭礼日と定めて神事が営まれている<ref name="シマダス-39"/><ref name="神社庁-市杵島神社"/>。弁天島は北海道埋藏文化指定地域となっており、ふだんは上陸できないが、この祭りのときだけは根室港から渡し船が出て、上陸ができるようになる<ref name="道庁Blog-20130509"/><ref name="神社庁-市杵島神社"/>。 |
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===松浦武四郎の証言=== |
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江戸時代末期に北海道を探検した[[松浦武四郎]]は、「知床日誌」のなかでこの島について記録している。その報告によると、この島は[[アイヌ人]]たちによって「'''ホロモシリ'''(「大きな島」の意)」と呼ばれていた<ref name="道庁Blog-20130404"/>。松浦は「ホロモシリ」は「海上五丁周九丁」(海上約550メートルにあり、周囲は約980メートル)だと報告している<ref name="道庁Blog-20130404"/>。 |
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松浦武四郎によれば島には弁天社があり、当時の[[和人]]はこの島を「'''大黒島'''」と呼んでいたという<ref name="道庁Blog-20130404"/><ref name="道庁Blog-20140121"/>。 |
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===北海道最古の灯台建設=== |
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根室港のある[[根室湾]]や、周辺海域の[[野付水道]]や[[根室海峡]]などは[[暗礁]]が多く、航海の難所だった。[[明治3年]]に日本と[[イギリス海軍]]が協力してこの海域の測量を行い、航海の道しるべとして根室、弁天島、[[花咲]]の3箇所に灯台を建設することになった<ref name="道庁Blog-20130509"/>。初めは木標だったが、明治5年から燈火が灯されるようになった<ref name="シマダス-39"/><ref name="道庁Blog-20130509"/>。これは北海道最古の灯台である<ref name="道庁Blog-20130509"/>。 |
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建設費は[[開拓使|北海道開拓使]]の[[松本十郎 (開拓使大判官)|松本十郎]]が私費で賄った。灯台は後に改築されたが、1945年(昭和20年)の[[北海道空襲]]で滅失した<ref name="道庁Blog-20130509"/>。 |
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===リンドバーグの来訪=== |
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1931年(昭和6年)に[[大西洋横断飛行]]で有名になった[[チャールズ・リンドバーグ]]が、アメリカから北太平洋を横断して訪日した。このときリンドバーグは[[アラスカ]]から[[カムチャツカ半島]]、[[千島列島]]に沿って日本へ向かい、[[国後島]]に停泊した後、8月24日に根室上空に到達、[[根室半島]]北岸の紅煙岬の沖合から弁天島の北を通り、根室港に着水した<ref name="根室市-リンドバーグ"/>。 |
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== 所在地 == |
== 所在地 == |
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*[[郵便番号]]:〒087-0000<ref name="神社庁-市杵島神社"/> |
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==脚注== |
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===注釈=== |
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* 根室港から船で約5分。 |
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===出典=== |
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*<ref name="シマダス-39">『日本の島ガイド SHIMADAS』p39「弁天島」</ref> |
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*<ref name="島嶼一覧-1-2">『日本島嶼一覧』p2(01北海道 北方領土)</ref> |
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*<ref name="島嶼一覧-2-2">『日本島嶼一覧』p2(02北海道)</ref> |
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*<ref name="根室市-ラクスマン">[[根室市]]庁公式サイト、歴史と自然の資料館、[http://www.city.nemuro.hokkaido.jp/lifeinfo/kakuka/kyoikuiinkai/kyoikushiryokan/siryoukann/rekishinitsuite/rakusuman/index.html ラクスマンの根室来航]、2018年4月28日閲覧。</ref> |
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*<ref name="根室市-リンドバーグ">[[根室市]]庁公式サイト、歴史と自然の資料館、[http://www.city.nemuro.hokkaido.jp/lifeinfo/kakuka/kyoikuiinkai/kyoikushiryokan/siryoukann/rekishinitsuite/1/1309.html リンドバーグの大西洋横断、北太平洋横断の航路]、2018年4月28日閲覧。</ref> |
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*<ref name="道庁Blog-20130404">[[北海道庁]]公式ブログ、2013年4月4日付、[https://plaza.rakuten.co.jp/machi01hokkaido/diary/201304040001/ ねむろのちょっと歴史たび 第15回]、2018年4月28日閲覧。</ref> |
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*<ref name="道庁Blog-20130509">[[北海道庁]]公式ブログ、2013年5月9日付、[https://plaza.rakuten.co.jp/machi01hokkaido/diary/201305090006/ ねむろのちょっと歴史たび第17回]、2018年4月28日閲覧。</ref> |
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*<ref name="道庁Blog-20140121">[[北海道庁]]公式ブログ、2014年1月21日付、[https://plaza.rakuten.co.jp/machi01hokkaido/diary/201401210007/ ねむろのちょっと歴史たび第35回「弁天島遺跡」]、2018年4月28日閲覧。</ref> |
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*<ref name="神社庁-市杵島神社">北海道神社庁、[http://www.hokkaidojinjacho.jp/data/16/16002.html 市杵島神社(根室市)]、2018年4月28日閲覧。</ref> |
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===書誌情報=== |
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*『日本の島ガイド SHIMADAS』財団法人日本離島センター編、1998年、2005年(第2版第3刷)、ISBN 4-931230-22-9 |
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*『日本島嶼一覧』財団法人日本離島センター、1976年 |
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== 関連項目 == |
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* [[根室半島チャシ跡群]] |
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* [[第一管区海上保安本部]] |
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2018年5月10日 (木) 06:27時点における版
弁天島 | |
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所在地 | 日本 北海道 |
所在海域 | 根室湾 |
座標 | 北緯43度20分32秒 東経145度34分35秒 / 北緯43.34222度 東経145.57639度座標: 北緯43度20分32秒 東経145度34分35秒 / 北緯43.34222度 東経145.57639度 |
最高標高 | 13[1] m |
プロジェクト 地形 |
弁天島(べんてんじま[2])は、北海道根室港(根室市)にある無人島[1][注 1]。
アイヌ語では「大きな島」を意味する「ホロモシリ」と呼ばれており、江戸時代の和人は「大黒島」と呼んだ[4]。高田屋嘉兵衛が島に弁財社を建てたことから、のちに弁天島と呼ばれるようになった[1]。
島全域がオホーツク文化の重要な遺跡となっているほか、現存しないものの、1872年(明治5年)にこの島に建てられた灯台は北海道では最古のものだった[1]。
地形
根室市琴平町から約600メートル西の沖合[1]、根室港からは北西約200m沖にある。面積0.05km2、周囲1.2km。
島から北防波堤、西防波堤が建設されており、この両防波堤と共に島自体が根室港の防波堤の役割を果たしている[1]。
歴史
弁天島貝塚
1878年(明治11年)、お雇い外国人だった考古学者ジョン・ミルンが弁天島で貝塚を発見した[4]。これはモヨロ貝塚(網走市)などと同様にオホーツク文化に属するもので、島全体が貝塚となっていて、竪穴式住居や大量の動物の骨を伴うものだった[1]。この遺跡はオホーツク文化を研究する上では重要なものだったが、その重要性は日本国内よりももっぱら海外で認識されるにとどまった[1]。
貝塚の発掘はその後も続けられたが、日本人による本格的な調査は1962年(昭和37年)に東京教育大学(筑波大学の前身)により実施された[1]。この調査では竪穴式住居から、ヒグマ、エゾシカ、アザラシ、クジラと推定される骨や、石器も出土した[1][5]。これらはオホーツク人が海獣や獣を狩猟していたことを示すものと考えられている[5]。
ラクスマンの根室訪問
1782年(天明2年)に、伊勢の廻船屋大黒屋光太夫(1751年 - 1828年)が白子港(三重県鈴鹿市)江戸を目指して出航したが、遭難してアリューシャン列島まで流された。彼らはロシアのアダム・ラクスマンらに救助され、当時のロシア帝国の首都ペテルブルクまで赴き、女帝エカチェリーナ2世に謁見した。その後、ラクスマンは遣日使節として、大黒屋光太夫らを伴って再び日本へ向かった。ラクスマンらは1792年(寛政4年)10月20日に根室港へ到着した[6]。
ラクスマン一行は弁天島に船を停泊させ、総勢42名で根室に上陸、そこで8ヶ月を過ごした。冬の間は結氷した湾内でスケートをしており、これは日本における最古のアイススケートだとされている[6]。
弁財天と市杵島神社
廻船業者高田屋嘉兵衛(1769年 - 1827年)は、択捉島への航路を拓いて成功した。文化年間(1804年 - 1813年)に、高田屋嘉兵衛はこの島に弁財天を祭祀した[7]。これがのちに「弁天島」の名前の由来とされている[1]。しかしこの社は1843年(天保14年)に山田文右衛門が起こした失火が原因で焼失した[7]。
再建されたのは22年後の1865年(元治2年)のことで、藤野喜兵衛が費用を負担した。明治時代に入ると地元の住民が費用を負担して春と秋の例祭を奉斎するようになり、1882年(明治15年)には村社として認められた[7]。現在の社殿は1958年(昭和33年)建築のコンクリート製のものだが、天保6年(1835年)製の石鳥居が現存し、社宝となっている[7]。
この弁天社はのちに市杵島神社となり、例年9月15日を祭礼日と定めて神事が営まれている[1][7]。弁天島は北海道埋藏文化指定地域となっており、ふだんは上陸できないが、この祭りのときだけは根室港から渡し船が出て、上陸ができるようになる[8][7]。
松浦武四郎の証言
江戸時代末期に北海道を探検した松浦武四郎は、「知床日誌」のなかでこの島について記録している。その報告によると、この島はアイヌ人たちによって「ホロモシリ(「大きな島」の意)」と呼ばれていた[4]。松浦は「ホロモシリ」は「海上五丁周九丁」(海上約550メートルにあり、周囲は約980メートル)だと報告している[4]。
松浦武四郎によれば島には弁天社があり、当時の和人はこの島を「大黒島」と呼んでいたという[4][5]。
北海道最古の灯台建設
根室港のある根室湾や、周辺海域の野付水道や根室海峡などは暗礁が多く、航海の難所だった。明治3年に日本とイギリス海軍が協力してこの海域の測量を行い、航海の道しるべとして根室、弁天島、花咲の3箇所に灯台を建設することになった[8]。初めは木標だったが、明治5年から燈火が灯されるようになった[1][8]。これは北海道最古の灯台である[8]。
建設費は北海道開拓使の松本十郎が私費で賄った。灯台は後に改築されたが、1945年(昭和20年)の北海道空襲で滅失した[8]。
リンドバーグの来訪
1931年(昭和6年)に大西洋横断飛行で有名になったチャールズ・リンドバーグが、アメリカから北太平洋を横断して訪日した。このときリンドバーグはアラスカからカムチャツカ半島、千島列島に沿って日本へ向かい、国後島に停泊した後、8月24日に根室上空に到達、根室半島北岸の紅煙岬の沖合から弁天島の北を通り、根室港に着水した[9]。
所在地
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m 『日本の島ガイド SHIMADAS』p39「弁天島」
- ^ 『日本島嶼一覧』p2(02北海道)
- ^ 『日本島嶼一覧』p2(01北海道 北方領土)
- ^ a b c d e 北海道庁公式ブログ、2013年4月4日付、ねむろのちょっと歴史たび 第15回、2018年4月28日閲覧。
- ^ a b c 北海道庁公式ブログ、2014年1月21日付、ねむろのちょっと歴史たび第35回「弁天島遺跡」、2018年4月28日閲覧。
- ^ a b 根室市庁公式サイト、歴史と自然の資料館、ラクスマンの根室来航、2018年4月28日閲覧。
- ^ a b c d e f g 北海道神社庁、市杵島神社(根室市)、2018年4月28日閲覧。
- ^ a b c d e 北海道庁公式ブログ、2013年5月9日付、ねむろのちょっと歴史たび第17回、2018年4月28日閲覧。
- ^ 根室市庁公式サイト、歴史と自然の資料館、リンドバーグの大西洋横断、北太平洋横断の航路、2018年4月28日閲覧。
書誌情報
- 『日本の島ガイド SHIMADAS』財団法人日本離島センター編、1998年、2005年(第2版第3刷)、ISBN 4-931230-22-9
- 『日本島嶼一覧』財団法人日本離島センター、1976年