「安藤百福」の版間の差分
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{{Infobox 人物 |
{{Infobox 人物 |
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|氏名 |
|氏名 = 安藤 百福 |
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|ふりがな |
|ふりがな = あんどう ももふく |
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|画像 = 安藤百福肖像.jpg |
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|画像 = File:Silver statue of Momofuku Ando 20120315.jpg |
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|画像サイズ = <!-- 省略可 --> |
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|画像説明 = 1930年頃 |
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|画像説明 = カップヌードルミュージアムに展示されている安藤の像 |
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|出生名 = 呉 百福(ご ひゃくふく、ゴー・ペクホク) |
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|生年月日 = [[1910年]][[3月5日]] |
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|生 |
|生年月日 = [[1910年]][[3月5日]] |
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|生誕地 = {{TAW1895}} [[嘉義庁]][[東石郡]]朴子街<br>(現:[[嘉義県]][[朴子市]]) |
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|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1910|03|05|2007|01|05}} |
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|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1910|3|5|2007|1|5}} |
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|死没地 = {{JPN}}、[[大阪府]][[池田市]] |
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|死没地 = {{JPN}} [[大阪府]][[池田市]] |
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|職業 = [[日清食品]]創業者 |
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|墓地 = [[九品寺 (大阪市)|九品寺]]{{Sfn|神奈川県立図書館|2012|p=248}} |
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|国籍 = {{JPN1889}}→<br />{{ROC}}→<br />{{JPN}}(1966年に取得<ref>官報 昭和41年3月1日</ref>) |
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|職業 = [[実業家]] |
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|出身校 = [[立命館大学]]専門学部経済科 |
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|著名な実績 = [[日清食品]]創業者<br />[[カップ麺]]開発者 |
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|配偶者 = 安藤仁子([[妻]]) |
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|国籍 = {{JPN}}(1910 - 1945)→<br />{{ROC}}(1945 - 1966)→<br />{{JPN}}(1966 - 2007)<ref>官報 昭和41年3月1日</ref>) |
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|子供 = 安藤宏寿([[長男]])<br />[[安藤宏基]]([[二男]])<br />堀之内明美([[長女]]) |
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|出身校 = [[立命館大学]]専門部経済学科(二部) |
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|親 = <!-- 省略可 --> |
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|配偶者 = [[安藤仁子]]([[妻]]) |
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|親戚 = <!-- 省略可 --> |
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|子供 = 呉美和(ウー・メイホゥ)[https://bunshun.jp/articles/-/11313?page=1]([[長女]])<br /> |
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|別名 = 吳百福 |
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[[安藤宏寿]]([[長男]])<br />[[安藤宏基]]([[次男]]) |
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|親 = 父: 呉獅玉(呉阿獅) <br />母: 呉千緑 |
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|親戚 = <!-- 省略可 --> |
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'''安藤 百福'''(あんどう ももふく、出生名:'''吳百福'''〈[[閩南語]][[白話字]]: {{unicode|Gô͘ Pek-hok}}〉、[[1910年]][[3月5日]] - [[2007年]][[1月5日]])は、[[台湾]][[嘉義]]出身の[[実業家]]、[[発明家]]。[[日本]]で「[[チキンラーメン]]」と「[[カップヌードル]]」を開発し、世界的に普及した[[インスタントラーメン]]産業の創始者となった。[[日清食品]]の創業者。[[位階]]は[[正四位]]。[[勲等]]は[[勲二等]]。 |
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'''安藤 百福'''(あんどう ももふく、[[1910年]]〈[[明治]]43年〉[[3月5日]] - [[2007年]]〈[[平成]]19年〉[[1月5日]])は、[[日本]]の[[実業家]]。[[日清食品]]([[株式会社|株]])創業者。[[インスタントラーメン]]「[[チキンラーメン]]」、[[カップ麺]]「[[カップヌードル]]」の開発者として知られる。 |
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== 概要 == |
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[[ファイル:Cupnoodles seafood taste.jpg|thumb|320px|チキンラーメン、カップヌードルの開発者として知られている]] |
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[[日本統治時代の台湾|台湾]]の[[嘉義庁]]出身。[[1948年]]([[昭和]]23年)に(株)中交総社(後にサンシー殖産に社名変更)を設立。約10年間の[[休眠会社|休眠]]状態を経て、1958年(昭和33年)、チキンラーメンの発明に伴い日清食品株式会社に商号変更。日清食品代表取締役社長、代表取締役会長、創業者会長を歴任。(社)[[日本即席食品工業協会]]会長、(財)[[安藤スポーツ・食文化振興財団]]理事長、(財)漢方医薬研究振興財団会長、世界ラーメン協会WINA会長、(財)いけだ市民文化振興財団会長など、多くの公職を務めた。[[1934年]](昭和9年)、[[立命館大学]]専門学部経済科修了。[[1996年]]([[平成]]8年)、立命館大学名誉経営学博士。[[池田市]][[名誉市民]]。叙位叙勲は正四位勲二等旭日重光章。 |
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[[日本統治時代の台湾]]出身で、出生名は'''呉 百福'''(ご ひゃくふく、ゴー・ペクホク)。[[本島人|台湾本島人]]であるため、戦後は[[中華民国]]籍になり、[[1966年]]([[昭和]]41年)に日本国籍を再取得([[帰化]])した。 |
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「[[チキンラーメン]]」「[[カップヌードル]]」を発明・開発したことにより、食文化に大きな革新をもたらした。チキンラーメンに始まるインスタントラーメン産業は、約半世紀を経て世界で年間総需要1000億食を越える巨大な産業に成長した。 |
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[[1948年]](昭和23年)に(株)中交総社(後の日清食品)を設立し<ref>{{Cite news|url=https://www.nippon.com/ja/views/b07206/|title=安藤百福:世界の食文化を変えたミスターヌードル|publisher=nippon.com|date=2018-04-18|accessdate=2020-02-27}}</ref>、日清食品の代表取締役社長、代表取締役会長、創業者会長を歴任。([[社団法人|社]])[[日本即席食品工業協会]]会長、([[財団法人|財]])[[安藤スポーツ・食文化振興財団]]理事長、[http://jkme.or.jp/ (財)漢方医薬研究振興財団]会長、[https://instantnoodles.org/ 世界ラーメン協会]会長、(財)いけだ市民文化振興財団会長などを務めた。[[池田市]]の[[名誉市民]]。[[位階]]・[[勲等]]は[[正四位]][[勲等|勲二等]]。 |
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== 来歴・人物 == |
== 来歴・人物 == |
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=== 幼少 - 青年期 === |
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[[1910年]]([[明治]]43年)、[[日本統治時代の台湾]]の[[嘉義庁]]にて[[嘉義市]]付近の樸仔脚(現・[[嘉義県]][[朴子市]])に生まれる。樸仔脚は、[[製塩|製塩業]]が盛んな[[布袋鎮|布袋]]や、意麺という麺類で有名な[[塩水鎮|塩水]]の近隣の町である。両親を幼少期に亡くし、<ref>ちくま評伝シリーズ〈ポルトレ〉安藤百福48頁</ref>繊維問屋を経営する祖父母のもとに預けられ、[[台南市]]で育った。[[1932年]]([[昭和]]7年)、22歳のとき父の遺産を元手に繊維商社「東洋莫大小(とうようメリヤス)」を設立した。当時、肌着や靴下など伸縮性のある編み物生地の[[メリヤス]]を扱う[[商社]]は少なく、事業は成功し、翌年には[[大阪市]]に日東商会を設立、繊維産業の本場だった[[船場 (大阪市)|船場]]の近くに事業拠点を置き、日本で仕入れた製品を台湾に輸出して売るという貿易業務を始めた。ほかにも安藤は、光学機器や[[精密機械]]の製造、飛行機エンジンの部品製造などにも事業を拡大する一方、[[立命館大学]]専門学部経済科に学んだ。 |
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=== 少年時代 === |
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戦前戦後には、時代の波に翻弄されて数々の苦労と辛酸を舐め、波乱の人生を過ごすこととなる。軍用機のエンジン部品工場では、国から支給された部品の横流し疑惑が原因で、[[大手前]]の大阪[[憲兵 (日本軍)|憲兵隊]]本部へ連行されたが、やがて[[無罪]]が証明されて釈放された。また当時は[[千里山]]に在住しており近所に住む[[藤田田]]との交流もあった。 |
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[[1910年]]([[明治]]43年)、日本統治時代の台湾の[[台南県 (日本統治時代)|台南県]][[東石郡]]朴子街{{Sfn|神奈川県立図書館|2012|p=244}}(現・[[嘉義県]][[朴子市]])に生まれる。父は呉獅玉(別名は呉阿獅)、母は呉千緑。父は資産家だったが、両親を幼少期に亡くし、繊維問屋を経営する祖父・呉武のもと、[[台南市]]で育った。幼い頃から数字に異常なほど強い興味を持ち、足し算・引き算・掛け算を習得したという{{Sfn|安藤|2008|p=21}}。14歳で[[高等小学校]]を卒業{{Sfn|神奈川県立図書館|2012|p=244}}。学校と家が遠かったため、学生時代は東石郡守の森永信光宅に寄宿し通学した<ref>{{Cite web|和書|url=https://style.nikkei.com/article/DGXZZO0205194009052016000046?channel=DF170320167060|title=私の履歴書復刻版「商売への興味――祖父の仕事見て学ぶ メリヤス販売創業し独立 日清食品創業者 安藤百福(2) 」|publisher=日本経済新聞|date=2014-03-27|accessdate=2014-05-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160630031645/https://style.nikkei.com/article/DGXZZO0205194009052016000046?channel=DF170320167060|archivedate=2016-06-30|url-status=dead|url-status-date=2020-08-25}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.cdns.com.tw/news.php?n_id=0&nc_id=68853|title=首任東石郡守之孫訪朴子分局|publisher=中華日報|date=2016-01-04|accessdate=2016-01-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181004165359/http://www.cdns.com.tw/news.php?n_id=0&nc_id=68853|archivedate=2018-10-04|url-status=dead|url-status-date=2020-08-25}}</ref>。 |
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=== 実業家となる === |
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[[第二次世界大戦]]下では[[1945年]](昭和20年)3月13日から終戦まで続いた[[大阪大空襲]]によって全ての事務所や工場を焼失した。戦後すぐ、大阪で[[百貨店]]経営を手始めに事業を再開。当時は食糧不足で[[栄養失調]]や[[飢餓]]で[[餓死]]する人が多く、[[1946年]]([[昭和]]21年)、[[大阪府]][[泉大津市]]の旧[[大阪砲兵工廠|大阪陸軍造兵廠]]大津大砲試験場跡地の払い下げを受け、製塩事業を始めた。失職中の復員軍人や若者に仕事を与えるため、海岸に鉄板を並べ、その上に海水を流して[[塩]]を製造することに成功した。その後も、泉大津市に病人用の栄養食品を開発する「国民栄養科学研究所」を設立、同じころ、[[愛知県]][[名古屋市]]に「中華交通技術専門学院」を設立して技術者の育成に努めるなど、一貫して、日本が戦後の荒廃から立ち直るための事業に傾倒した。 |
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[[ファイル:The statue of Momofuku Ando.jpg|サムネイル|「安藤百福翁像」]] |
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[[義務教育]]修了後、祖父の繊維問屋を手伝い、森永郡守の紹介で20歳ごろに町に初めてできた[[図書館]]の[[司書]]となったが2年で辞し、父の遺産で[[1932年]]([[昭和]]7年)に台湾の永楽市場で[[繊維]]会社「東洋莫大小(とうようメリヤス)」を設立して[[内地]]から製品を仕入れて台湾で販売した{{Sfn|神奈川県立図書館|2012|p=244}}。当時の繊維業界の動きから[[メリヤス]]の需要が大きく伸びるという予測が当たり、事業は大きな成功を収めた{{Sfn|安藤|2008|pp=22-23}}。[[1933年]](昭和8年)には[[大阪市]]にメリヤス問屋「日東商会」を設立。メリヤスを扱った他、[[近江絹糸紡績]]の[[近江高等学校#創立者|夏川嘉久次]]と組んで、[[トウゴマ]]を栽培して実から[[ひまし油]]を採取、葉を[[養蚕業|養蚕]]用に繊維メーカーに売る事業も手掛けた{{Sfn|安藤|2008|pp=23-25}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://style.nikkei.com/article/DGXZZO0205194009052016000047?channel=DF170320167060|author=|title=私の履歴書復刻版「尽きぬ事業欲――日本一の「丸松」と組む 戦局悪化、蚕糸事業は中止」|publisher=日経BP社|date=2014-03-31|accessdate=2014-05-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180901210650/https://style.nikkei.com/article/DGXZZO0205194009052016000047?channel=DF170320167060|archivedate=2018-09-01|url-status=dead|url-status-date=2020-08}}</ref>。 |
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この時期の安藤は実業家として活動する傍ら、[[立命館大学]]専門部経済学科(二部)に学び、1934年(昭和9年)3月に修了した(同校からは60年後の1996年([[平成]]8年)10月に「戦後のベンチャービジネスの卓越した成果」を称えられ、名誉経営学博士号を授与された{{Sfn|安藤|2008|p=25}}{{R|退任}})。 |
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[[太平洋戦争]]開戦後は、[[幻灯機]]の製造、バラック住宅の製造(兵庫県相生市)などの事業をした<ref>[http://id.nii.ac.jp/1160/00000993/ インスタントラーメン発明記念館についての一考察(塩田昌弘)] 大手前大学論集16巻55-74頁 2016年3月31日</ref>。軍用機エンジンの部品製造をする軍需工場の経営にも携わったが、三等市民扱いの台湾出身であるために、[[冤罪|無実の罪]]で45日間拘束されて[[憲兵]]から拷問を受けることになった。百福は国から支給された資材の横流しに気付き憲兵隊に訴えたが、却って自身が横流しした疑いをかけられ、棍棒で殴られる、正座した足の間に竹の棒を挟まれる、といった拷問を受けた{{Sfn|安藤|2008|pp=30-32}}。なお、憲兵隊の中に横流しをしたと思しき者の親戚がいたことが後に判明したと自著の中で書いている{{Sfn|安藤|2008|p=32}}。自白を強要されたが調書への署名を拒否し、拷問はエスカレートした。 |
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当時、塩は国の[[日本専売公社|専売制]]ではなく、自由に作ることができた。とれた塩は主に近隣の人たちに配った。働いた若者たちには給料ではなく小遣いを支給したが、これが[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の目に留まり、[[所得税法]]の違反に問われることになった。戦後、台湾出身者は[[日本国]]もしくは[[中華民国]]の[[国籍]]選択が必要となり、その際安藤は中華民国を選んだ(のち妻安藤氏の名前に改名し、日本に[[帰化]])。このため「[[財産税法|財産税]]」徴収の対象から外れ、戦前から所有していた資産を引き継ぐことができた。これで戦後、新しい事業に取り組む資金的な足掛かりを得た。しかし、その豊かな資産が、当時歳入不足に陥っていたGHQの目にとまり、[[脱税]]容疑で逮捕、[[巣鴨拘置所|巣鴨プリズン]]に収監されることになった。安藤は税務当局を相手に処分の取り消しを求めて提訴、弁護団を組織して2年間法廷で闘った。やがて当局側から「提訴を取り下げたら釈放する」という和解案が出て、これに応じることでふたたび無罪釈放となった。 |
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安藤は[[留置場]]で知り合った人物を通じて知人の元陸軍[[将校]]に助けを求め解放されたが、留置生活の影響から深刻な内臓疾患を抱えることになり、後に2度の開腹手術を受けている{{Sfn|安藤|2008|pp=32-34}}。空襲が激しくなると終戦まで兵庫県の[[上郡町]]に疎開し炭焼きなどをするが、大阪で事業を手掛けていた頃在住していた[[千里山]]では、三軒隣に[[藤田田]]の一家が住んでおり、交流を持つこととなった{{Sfn|安藤|2013|p=24}}。 |
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[[1948年]](昭和23年)、安藤の数々の事業活動の拠点として泉大津市汐見町に「中交総社」(資本金500万円、のち「サンシー殖産」に商号変更)を設立したが、これが10年間の休眠状態を経て、1958年(昭和33年)、現在の「[[日清食品]]」の母体となって復活することになる。 |
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=== 食品事業の開始 === |
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[[1946年]](昭和21年)冬、[[疎開]]先から大阪へ戻り、[[泉大津市]]に住んだ。終戦直後は土地が安く手放されていたため、[[久原房之助]]の助言により、大阪の中心街の[[心斎橋]]ほか[[御堂筋]]や[[大阪駅]]前など相当の土地を手に入れた{{Sfn|神奈川県立図書館|2012|p=245}}。戦後の食糧難の中で「衣食住というが、食がなければ衣も住もあったものではない」という思いを抱くようになり、食品事業を手掛けることを決意した{{Sfn|安藤|2008|p=41}}。百福によるとこの時抱いた想いが原点となって、後に[[日清食品]]の企業理念「食足世平(食足りて世は平らか)」が誕生した{{Sfn|安藤|2008|pp=41-42}}。自宅近くにあった軍需工場跡地の払い下げも受け、跡地に置かれていた鉄板を用いた製塩業や漁業を営んだ{{Sfn|安藤|2008|pp=44-46}}<ref name="rireki8">{{Cite web|和書|url=https://style.nikkei.com/article/DGXZZO0205194009052016000052?channel=DF170320167060|title=私の履歴書復刻版「製塩業―「鉄板に海水」の自己流 名古屋に交通学校も設立 日清食品創業者 安藤百福(8)」|publisher=日本経済新聞|date=2014-04-17|accessdate=2014-05-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180901210709/https://style.nikkei.com/article/DGXZZO0205194009052016000052?channel=DF170320167060|archivedate=2018-10-01|url-status=dead|url-status-date=2020-08-25}}</ref>。 |
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[[ファイル:Instant ramen mus 01.jpg|320px|thumb|right|[[安藤百福発明記念館 大阪池田]]]] |
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自伝『私の履歴書――魔法のラーメン発明物語』(日本経済新聞社刊)等によれば、昭和20年代の深刻な食糧不足をしのぐために、日本政府はアメリカ合衆国から送られる援助物資に頼っていたが、そのほとんどがアメリカの余剰小麦を利用した「粉食」([[パン]]、[[ビスケット]]など)だった。日本の[[厚生省]]は「粉食奨励」を政策として進め、学校給食をはじめ、パン食を奨励することになった。安藤は、古くから東洋の食文化である[[麺|めん]]類をもっと奨励すべきだと、当時の厚生省に提案した。「パンには必ず[[スープ]]や[[おかず]]が必要だが、麺類なら同じ[[丼]]の中に主食の麺にスープと具材が付いて栄養もある」と主張した。厚生省の担当官は、「[[うどん]]や[[ラーメン]]は量産技術が無く流通ルートも確立していないためやむなくパンが主体になっている」実情を説明し、麺文化の振興のために、自ら研究してはどうかと奨めた。当時、安藤は既存事業から手を広げる余裕がなかったため、麺類の事業化には至らなかったが、これが10年後にインスタントラーメンを開発する重大な契機になった。 |
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[[1948年]](昭和23年)、「中交総社」(後の[[日清食品]])を設立{{Sfn|安藤|2008|p=48}}。専門家を集めて国民栄養化学研究所を設立し、牛や豚の骨から[[たんぱく質]]エキスを抽出することに成功、パンに塗るペースト状の栄養商品「[[ビセイクル]]」として病院にも供給された<ref>{{Cite web|和書|url=https://style.nikkei.com/article/DGXZZO0205194009052016000053?channel=DF170320167060|title=私の履歴書復刻版「梁山泊――“青年隊”と愉快な日々 酔い語りあう生活に陰り 日清食品創業者 安藤百福(9)」|publisher=日経BP社|date=2014-04-21|accessdate=2014-05-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181114064437/https://style.nikkei.com/article/DGXZZO0205194009052016000053?channel=DF170320167060|archivedate=2018-11-14|url-status=dead|url-status-date=2020-08-25}}</ref><ref>時代を切り開いた世界の10人 第6巻 安藤百福 レジェンド・ストーリー(学研プラス)</ref>。 |
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戦後も、安藤の苦労はまだまだ続いた。懇願されて、ある[[信用組合]]の[[理事長]]に就任することになるが、[[1957年]](昭和32年)、この信用組合が資金繰りに行き詰まり[[倒産]]する。理事長の安藤は[[負債]]を弁済することになり、戦前から蓄えてきた個人資産をすべて失い、事実上の無一文になった。家財道具にも赤紙が張られ、手元に残ったのは大阪府[[池田市]]にある一軒の自宅(借家)だけとなった。 |
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栄養食品の開発に取り組んでいた頃、仕事の関係で[[厚生省]]に出入りしていたが、当時厚生省は[[日本型食生活#経緯|米国の余剰小麦を使って日本人に粉食を奨励]]しており、同省栄養課長の[[有本邦太郎]](のち[[国立栄養研究所]]長)に麺食を進言し、その研究を勧められる<ref>{{Cite web|和書|url=https://style.nikkei.com/article/DGXZZO02051940Z00C16A5000045?channel=DF170320167060&nra|title=私の履歴書復刻版「即席めん人生――屋台の行列が道示す 苦労にめげず48歳の出発 日清食品創業者 安藤百福(1)」|publisher=日経BP社|date=2014-03-24|accessdate=2014-05-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181004104106/https://style.nikkei.com/article/DGXZZO02051940Z00C16A5000045?channel=DF170320167060&nra|archivedate=2018-10-04|url-status=dead|url-status-date=2020-08-25}}</ref>。 |
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また、[[1947年]](昭和22年)に名古屋で開校した中華交通学院のオーナー・理事長を務めた。中華交通学院は[[1951年]]([[昭和]]26年)に閉校して建物の大部分は[[名城大学]]となった<ref name="rireki8"/><ref>[https://www.meijo-u.ac.jp/sp/story/01/008.html 第1部 第8回 駒方校舎と中華交通学院|第1部:遠い記憶を追って|名城大学物語] [[名城大学]]</ref>。 |
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安藤はその時、厚生省でのやり取りを思い出し、再起をかけて自邸の裏庭に建てた小屋でインスタントラーメンの研究を始める。即席性と保存性の確保、大量生産する技術を手に入れるため、失敗をくりかえすが、ある時、仁子夫人が[[天ぷら]]を揚げているのを見て、麺を油で揚げて乾燥させる「油熱乾燥法」を発明する。1年間かけて開発に成功した安藤は、[[1958年]](昭和33年)[[8月25日]]に世界に先駆けて[[チキンラーメン]]を発売した。丼に入れて湯を注ぐだけでおいしく食べられる簡便な食品は、「魔法のラーメン」と呼ばれて、瞬く間に人気商品となった。同年[[12月]]、サンシー殖産を「[[日清食品]]株式会社」に商号変更し、本社を大阪市[[東区 (大阪市)|東区]](現・[[中央区 (大阪市)|中央区]])に置いた。この社名は[[日清製粉グループ本社|日清製粉株式会社]]とは関係がなく、安藤の「日々清らかに、豊かな味を作ろう」という思いからつけられた。事業は順調に拡大した。信用組合倒産の際、母店となっていた大手銀行の容赦ない取り立てにあい、借金返済の苦労に追われた経験を教訓として、以後、安藤は無借金経営を貫き、日清食品を日本を代表する高収益体質の食品企業に成長させた。[[1963年]](昭和38年)、日清食品は[[東京証券取引所]]2部および[[大阪証券取引所]]2部へ上場するに到った。 |
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=== 脱税による嫌疑 === |
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チキンラーメンの好評を見て、追随する業者が多く出た。粗悪品や模造品の懸念から、安藤はチキンラーメンの[[商標]]や[[特許]]を申請・登録し、会社や商品の信用を守ることに努めた。[[1961年]](昭和36年)にチキンラーメンの商標登録が確定し、翌年には[[インスタントラーメン|即席ラーメン]]の基本的な製造法である「味付け乾麺の製法」と「即席ラーメンの製造法」の特許が登録された。この際、113社が警告を受けた。類似商法を見過ごすことはできないという姿勢を打ち出した安藤であったが、[[1964年]](昭和39年)には一社独占をやめ、日本ラーメン工業協会を設立し、メーカー各社に使用許諾を与えて製法特許権を公開・譲渡した。この時安藤は、「日清食品が特許を独占して野中の一本杉として栄えるより、大きな森となって発展した方がいい」という有名な言葉を残している。また、食品業界の先鞭を切って「製造年月日表示」を始めたほか、インスタントラーメンの[[日本農林規格|JAS規格]]の制定に尽くすなど、一貫して業界全体の品質の維持・向上に努めた。製造年月日表示は、当時、関西主婦連合会・会長だった比嘉正子の強い勧めがあって決断したという。 |
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1948年(昭和23年)12月、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]に脱税の嫌疑をかけられた。安藤は前述の事業において地元の若者を雇い、彼らに「奨学金」として現金を支給していたが、奨学金は所得であり源泉徴収して納税すべきであるのにそれを行わなかったというのが理由であった。判決は4年間の重労働の刑{{Efn|ただし安藤によると、実際に重労働をさせられることはなかったという。}}で、[[巣鴨拘置所]]に収監された。さらに安藤が個人名義で所有していた不動産は全て没収された。収監後、GHQは百福の名を挙げて「納税義務に違反した者は厳罰に処す」という内容の談話を発表した{{Sfn|安藤|2008|pp=52-54}}。百福はこの一件について、「みせしめに使われたようだ」と述べている{{Sfn|安藤|2008|p=54}}。 |
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その後、法学者の[[黒田覚]]の支援を受け、弁護団を結成して処分取り消しを求める裁判を起こした。これに対しGHQ側は「訴えを取り下げれば釈放する」と[[司法取引]]を持ちかけた。当初百福は断固裁判を継続する覚悟を固めていたが、最終的には大阪に残した家族の生活を案じて取引に応じて訴えを取り下げ、釈放された{{Sfn|安藤|2008|pp=54-56}}。なお、[[1945年]](昭和20年)の日本の敗戦に伴う[[台湾光復]]によって台湾人は[[中華民国籍]]を付与され、[[1952年]](昭和27年)に[[日本国との平和条約|サンフランシスコ平和条約]]の発効によって[[日本国籍]]の喪失が確認された([[平和条約国籍離脱者]])。 |
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=== カップヌードル誕生 === |
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安藤は海外への進出を図るため、[[1966年]](昭和41年)に米国・ヨーロッパを視察した。米国のスーパーマーケットのバイヤーがチキンラーメンを二つ折りにして[[コップ#原料による分類|紙コップ]]に入れ、フォークで食べるのを見て、[[カップ麺]]の発想を手に入れた。日清食品は[[1970年]](昭和45年)にアメリカに現地法人を設立。翌[[1971年]](昭和46年)[[9月18日]]に世界初のカップ麺「[[カップヌードル]]」を国内で発売。当初、販売に協力的な問屋はなく苦戦するが、[[1972年]](昭和47年)[[2月]]、世間を驚かせた[[連合赤軍]][[あさま山荘事件]]の[[テレビ]]中継放送で、厳寒の中、湯気の上がるカップヌードルを食べる[[機動隊]]員の姿が映された。何を食べているのか興味を持った視聴者からの問い合わせが殺到し、これが事実上の宣伝となって、爆発的な売れ行きを伸ばした。この時、日清食品は警視庁に通常小売価格(100円)の半額でカップヌードルを提供した。 |
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=== 大阪華銀の破綻、背任罪で有罪判決 === |
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1973年(昭和48年)に、カップヌードルはアメリカ合衆国で「Cup O' Noodles」の名で発売され、その後、世界中にカップめん市場を広げる契機となった。現在カップヌードルは世界80か国で売られる世界ブランドになっている。 |
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収監中に営んでいた事業を整理していたため、事業家としての人生は振り出しに戻ってしまった{{Sfn|安藤|2008|p=56}}。大阪に新設された[[信用組合]]の[[大阪華銀]]から懇願され、その[[理事長]]に就任したが、1957年(昭和32年)9月に大阪華銀は破綻し「いよいよ無一文になった」{{Sfn|安藤|2008|pp=56-59}}。この破綻において安藤は小豆の買い占めに大阪華銀の資金を流用したとして[[背任罪]]に問われ、[[執行猶予]]つきの有罪判決を受けた<ref>{{Cite news|title=『まんぷく』では描かれない「安藤百福」もうひとつの逮捕|date=2019-3-29|newspaper=FLASH|url=https://smart-flash.jp/lifemoney/65879/}}</ref><ref>{{Cite book|title=日経ビジネス|url=https://books.google.co.jp/books?hl=ja&id=iZs0AQAAIAAJ&dq=%E8%8F%AF%E9%8A%80%E3%80%80%E5%AE%89%E8%97%A4%E7%99%BE%E7%A6%8F&focus=searchwithinvolume&q=%E5%A4%A7%E9%98%AA%E8%8F%AF%E9%8A%80+%E5%B0%8F%E8%B1%86%E3%81%AE%E8%B2%B7%E3%81%84%E5%8D%A0%E3%82%81+%E5%9F%B7%E8%A1%8C%E7%8C%B6%E4%BA%88|publisher=日経マグロウヒル社|date=1985|language=ja}}</ref>。 |
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なお、百福はこの件において、信用組合と親密な関係にあった銀行に対し不信感を抱いたことから「銀行には頼らない」と心に決め、日清食品の経営時には無借金を貫いた{{Sfn|安藤|2008|p=59}}。 |
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=== インスタントラーメンの開発 === |
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=== 社長の座を息子へ、会長就任 === |
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大阪府[[池田市]]の自宅敷地内に小屋を作り、かねてから構想を抱いていた[[インスタントラーメン]](即席めん)作りに取り組んだ。安藤はインスタントラーメンを、 |
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[[1981年]](昭和56年)、社長の座を長男の安藤宏寿に譲り、自らは会長に退くが、その2年後の[[1983年]](昭和58年)、宏寿が経営方針の相違から社長を退任したため、百福が会長兼任で再び社長に復帰した<ref>「カップヌードルをぶっつぶせ! 〜創業者を激怒させた二代目社長のマーケティング流儀〜」(安藤宏基著、中央公論新社)81頁</ref>。[[1985年]](昭和60年)[[6月]]に次男の[[安藤宏基|宏基]]が社長に就任し(宏基は現在[[日清食品ホールディングス]][[最高経営責任者|CEO]])、再び会長専任となった。 |
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# おいしくて飽きがこない。 |
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# 保存性がある。 |
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# 調理に手間がかからない。 |
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# 安価である。 |
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# 安全で衛生的。 |
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の5要件を満たすものと定義した{{Sfn|安藤|2006|p=18}}{{Sfn|安藤|2008|p=61-62}}{{Sfn|鈴田編著|2004|pp=58-59}}{{R|資料室}}。そして早朝から深夜まで小屋に籠り、インスタントラーメン作りに取り組む生活を1年間続けた{{Sfn|安藤|2008|p=61}}。 |
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開発の過程は失敗を繰り返しながら少しずつ前進するというもので、開発成功の決定的な場面は思い浮かばないという{{Sfn|安藤|2008|p=62}}。安藤はまず、スープの味を染み込ませた「着味麺」の開発に取り組んだ。小麦粉の中にスープを染み込ませて味の付いた麺を作ろうとしたが、製麺機にかけるとボロボロになって切れた。そこで麺を蒸してからスープに浸してみたが、今度は生地が粘ついて乾燥しにくいという問題が生じた。試行錯誤の末、じょうろを使って生地にスープをかけ、しばらく自然乾燥させた後に手でもみほぐすという方法を考案した{{Sfn|安藤|2008|pp=63-64}}。スープはチキンスープを選んだ。きっかけは庭で飼っていたニワトリが調理中に暴れたことに驚いて以来鳥肉を口にしなくなった息子が、鳥ガラでとったスープで作ったラーメンだけは食べたことにあった{{Sfn|安藤|2008|pp=66-67}}。 |
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[[1982年]](昭和57年)、インスタントラーメンの発明と戦後の日本に新しい食品産業を起こした功績により、勲二等[[瑞宝章]]を受章。また、「食とスポーツは健康を支える両輪である」をモットーに、日本の未来を担う子供たちに食とスポーツ・野外活動を通して心身ともに健全に育ってほしいという願いを込めて、「財団法人[[安藤スポーツ・食文化振興財団]]」を設立。 |
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次に、麺を長期間保存ができるように乾燥させ、かつ熱湯をかけるとすぐに食べることができる状態になる性質を持たせることに挑んだ。ある時に[[天ぷら]]からヒントを得て、麺を高温の油で揚げることにした{{Sfn|鈴田編著|2004|p=5}}{{Sfn|鈴田編著|2004|p=21}}。安藤が意図したのは、麺を高温の油で揚げると水分がはじき出されると同時に麺に無数の穴が開き、熱湯を注いだ際にはその穴から湯が吸収されて麺が元に戻りやすくなるという仕組みであった。しかし麺の固まりを油の中に入れるとバラバラに分解して浮かび上がるため、針金と金網を使って枠型を作り、その中に麺を入れて揚げる手法を考案した。これら一連の製法は「瞬間油熱乾燥法」と名付けられ{{Sfn|安藤|2008|pp=64-66}}、[[1962年]](昭和37年)に[[特許]]を取得した{{R|資料室}}{{Sfn|安藤|2008|pp=85-86}}。安藤は、油熱乾燥させたラーメンは独特の香ばしさを持つようになるが、その香ばしさこそがおいしさの秘密であり、普通のラーメンとは違う食べ物にしているのだと述べている{{Sfn|安藤|2008|p=66}}。 |
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[[1987年]](昭和62年)、食文化の探究のために「麺ロード調査団」を結成して[[料理研究家]]の[[奥村彪生]]とともに[[上海市|上海]]、[[南京市|南京]]、[[揚州市|揚州]]、[[広州市|広州]]、[[厦門市|厦門]]、[[福州市|福州]]、[[成都市|成都]]、[[北京市|北京]]、[[西安市|西安]]、[[蘭州市|蘭州]]、[[ウルムチ市|ウルムチ]]、[[トルファン市|トルファン]]など[[中華人民共和国|中国]]全土を巡って300種類を超える麺を食べた<ref name=nikkei14628>{{cite web|url=https://style.nikkei.com/article/DGXZZO0205194009052016000071|date=2014-06-26|accessdate=2017-12-12|title=会長就任――ラーメンの源 探る旅 中国全土、300種類食べ歩く|publisher=NIKKEI STYLE}}</ref><ref>「[[私の履歴書]] 経済人」第36巻([[日本経済新聞出版社]])</ref>。さらに[[文化人類学者]]の[[石毛直道]]に[[シルクロード]]を通じて世界各地に伝搬した麺の歴史を研究させて麺の系譜図を完成させた<ref name=nikkei14628/>。 |
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==== 即席麺「発明」への疑義 ==== |
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[[1996年]]([[平成]]8年)には食文化の発展を願って個人資産を投じ、同財団の分科会として「食創会」(新しい食品を創造する会・会長伊藤正男)を発足させた。さらに同年、食創会の事業として食品開発の研究者を表彰する「[[安藤百福賞|安藤百福記念賞]]」を制定した。これは大賞賞金が1000万円であり、食品研究者を対象としたものとしては最高額の表彰制度となっている。同財団は2012年4月1日から「公益財団法人」に移行し「公益財団法人[[安藤スポーツ・食文化振興財団]]」に名称変更した。 |
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しかし、以上のような、安藤百福が即席麺を「発明」した、という見解には疑問が寄せられている。 |
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安藤の出身地である台湾では、[[1946年]]には、「雞絲麵 (鶏糸麺、ケーシーメン、ジースーミエン)」と呼ばれる、油で麺を揚げて保存し、お湯を注いで食べる鶏出汁スープの麺が考案されている<ref name="doshisha">{{Cite web|和書|url=https://www.dwc.doshisha.ac.jp/research/faculty_column/2019-01-30-10-23|title=チキンラーメン誕生秘話|author=吉海直人|authorlink=吉海直人|date=2019-01-30|publisher=[[同志社女子大学]]|accessdate=2022-02-22}}</ref><ref name="z">{{Cite web|和書|url=https://dailyportalz.jp/kiji/instant_ramen-origin-taiwan|title=台湾でインスタントラーメンの源流かもしれない麺を食べ歩く|author=玉置標本|date=2019-11-04|website=[[デイリーポータルZ]]|accessdate=2022-02-22}}</ref><ref name="flash1">{{cite news|url=https://smart-flash.jp/lifemoney/63928/1/|title=『まんぷく』安藤百福の即席麺「発明は嘘」と異論噴出|date=2019-03-05|newspaper=[[Smart FLASH]]|accessdate=2022-02-22}}</ref><ref name="shincho1">{{cite news|url=https://www.dailyshincho.jp/article/2019/01251130/?all=1|title=【番外編】NHK『まんぷく』チキンラーメンは本当に「発明」なのか(上)|author=野嶋剛|authorlink=野嶋剛|date=2019-01-25|newspaper=[[デイリー新潮]]|publisher=[[新潮社]]|accessdate=2022-02-22}}</ref><ref name="gendai4">{{Cite web|和書|url=https://gendai.media/articles/-/58365?page=4|title=なぜNHK「まんぷく」は、安藤百福の“台湾ルーツ”を隠したのか|author=野嶋剛|authorlink=野嶋剛|date=2018-11-11|website=[[現代ビジネス]]|publisher=[[講談社]]|accessdate=2022-02-22}}</ref>ほか、[[台南市|台南]]では、ちぢれ麺である「[[伊府麺|伊麺]](イーメン)」を油で揚げた上で蒸すなどして食す食べ方が[[大正時代]]から存在しており<ref name="shincho1"/><ref name="flash1"/>、こうした油揚げの即席麺は台湾では広く定着し<ref name="gendai4"/>、いずれも現在まで食されている<ref name="z"/><ref name="shincho1"/>。 |
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=== 晩年 === |
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[[1999年]]([[平成]]11年)、安藤の業績を記念した「[[安藤百福発明記念館 大阪池田|インスタントラーメン発明記念館]]」(現・安藤百福発明記念館 大阪池田)が池田市にオープンした(7年後の[[2006年]][[7月28日]]には入場者100万人を達成した)。 |
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さらに、即席麺を日本で商品化したのも安藤が最初ではなかった。[[1958年]]春、チキンラーメンが発売される以前に、安藤と同じく台湾出身の張國文が即席麺「長寿麺」を発売した<ref name="flash1"/><ref name="shincho2">{{cite news|url=https://www.dailyshincho.jp/article/2019/02011130/?all=1|title=【番外編】NHK『まんぷく』チキンラーメンは本当に「発明」なのか(下)|date=2019-02-01|author=野嶋剛|authorlink=野嶋剛|newspaper=[[デイリー新潮]]|publisher=[[新潮社]]|accessdate=2022-02-22}}</ref>。これは、お湯を注ぐだけでスープに入った麺が食べられる即席ラーメンであり<ref name="shincho2"/>、[[南極観測隊]]にも採用された<ref name="flash1"/>。張は同年12月、安藤が特許出願を行うよりやや早い時期に、味付乾麺の特許を出願した<ref name="shincho2"/><ref name="flash2">{{cite news|url=https://smart-flash.jp/lifemoney/63928/1/|title=『まんぷく』安藤百福の即席麺「発明は嘘」と異論噴出|date=2019-03-05|newspaper=[[Smart FLASH]]|accessdate=2022-02-22}}</ref>。また、同年、チキンラーメンの発売より前に、台湾出身で大和通商社長の陳栄泰が即席「ケーシーメン」を東京の百貨店で販売しており<ref name="doshisha"/>、一説には、陳のケーシーメンに興味を持った安藤が代理店の株主となり、日本人の口に合うように改良したものがチキンラーメンであるとも言われている<ref name="doshisha"/>。 |
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[[2000年]](平成12年)、訪中した際にチキンラーメンが好物だった[[清朝]]最後の皇帝である[[愛新覚羅溥儀]]の座った[[紫禁城]]の玉座にチキンラーメンを供えた<ref>{{cite web|url=http://www.huffingtonpost.jp/2017/10/17/the-last-emperor-pu-yi_a_23246525/|date=2017-10-18|accessdate=2017-12-12|title=「ラストエンペラー」溥儀の没後50年。波乱の生涯をふり返る(写真集)|publisher=[[ハフポスト]]}}</ref>。 |
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即席麺の特許を巡っては、安藤、張に加えて、「鶏糸麺」の特許を出願した台湾人もおり<ref name="shincho2"/>、特許を巡って三つ巴の争いとなった。しかし、張の特許申請が認められる直前に、日清食品は張の特許を2300万円(現在の約3億円)で買い取った{{Efn|日清食品はこの特許買い取りについて、市場環境整備のためであると説明している<ref name="flash2"/>。}}<ref name="flash2"/>。 |
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[[2001年]](平成13年)、[[宇宙食]]ラーメン「Space Ram(スペース・ラム)」の開発に着手。[[2005年]](平成17年)、NASAフード・ラボから宇宙食としての認可を得たSpace Ramは、[[野口聡一]]宇宙飛行士が搭乗したアメリカ合衆国の[[スペースシャトル]]「[[ディスカバリー (オービタ)|ディスカバリー]]」に搭載された。野口宇宙飛行士は宇宙ステーションで「Space Ram (とんこつ味)」を食べ、宇宙でラーメンを食べた最初の人となった。 |
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=== チキンラーメンの開発 === |
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同年、「日清食品には若い経営者が育っており、経営を任せることに不安はない。私がまだ元気なうちに引き継がせたい」という理由から、[[6月29日]]で[[取締役]]を退任して「創業者会長」に就任した。 |
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インスタントラーメンの開発は[[1958年]](昭和33年)の春にはほぼ完了した{{Sfn|安藤|2008|p=67}}。貿易会社を通じて試作品を[[アメリカ合衆国]]に送ったところ注文が入り、日本で発売する前に日本国外への輸出が行われた{{Sfn|安藤|2008|p=68}}。同年夏には「[[チキンラーメン]]」という商品名で日本での発売を開始。安藤によると、チキンラーメンの需要は「ある日突然に爆発した」{{Sfn|安藤|2008|p=76}}。価格をうどん玉6円、乾麺25円に対し35円に設定したことや、安藤が当時の慣例とは異なる(2-3か月の手形決済が普通だった)現金決済を要求したことから問屋の反応は芳しくなかったが、ある時小売店から問屋への注文が殺到するようになり、問屋から「現金前払いでもいいから」と注文が入るようになったという{{Sfn|安藤|2008|pp=73-76}}。[[三菱商事]]、[[カーギルジャパン|東京食品]]、[[伊藤忠商事]]の3社と販売委託契約を結び流通網を整え、同時に大量生産を可能にするべく大阪府[[高槻市]]に2万4000[[平方メートル]]の敷地を購入して工場を建設した。 |
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この頃、製麺機の幅について技術者との検討中に切歯へ右手を差し出した際、薬指が第一関節あたり皮一枚でつながっている状態の怪我を負った。医師が後の責任が負えないので切断するしかないと言うのに対し、自分が責任を持つのでくっつけてくれと依頼し、無事に接合された<ref>{{Cite web|和書|url=https://style.nikkei.com/article/DGXZZO0205194009052016000061?channel=DF170320167060|title=私の履歴書復刻版「追い風――時代を味方に大繁盛 工場囲む問屋のトラック 日清食品創業者 安藤百福(17)」|publisher=日経BP社|date=2014-05-21|accessdate=2014-06-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180901210932/https://style.nikkei.com/article/DGXZZO0205194009052016000061?channel=DF170320167060|archivedate=2018-09-01|url-status=dead|url-status-date=2020-08-25}}</ref>。 |
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[[2006年]](平成18年)、米[[タイム (雑誌)|タイム]]誌アジア版[[11月13日]]号のアジア版60周年記念特集「60年間のアジアの英雄」において、「食の革新者」としての功績により、日本人のアジアの英雄13人の一人に選ばれた。 |
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相手が専門家だからといって、なんでも鵜呑みにしてはいけないと考える機会となったという<ref>[https://v-tsushin.jp/interview/nisshin_9/3/ 日清食品株式会社 創業者 安藤 百福 3/3] ベンチャー通信9号(2003年12月号)から抜粋</ref>。 |
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安藤によると「いくら売っても需要に追いつかない」日々が続き、工場用地の購入代金をチキンラーメンの売り上げ1か月分で賄うことができたという{{Sfn|安藤|2008|pp=77-81}}。安藤はチキンラーメンがヒットした要因に、 |
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[[2007年]](平成19年)[[1月5日]]、急性[[心筋梗塞]]のため大阪府池田市の市立池田病院で[[死去]]。享年98(満{{没年齢|1910|3|5|2007|1|5}})。3日前には幹部社員とゴルフをし、18ホールを回ったという。亡くなる前日には仕事始めで立ったまま約30分の訓辞を行い、昼休みには社員と[[餅]]入りのチキンラーメンを食べたという<ref name="sankei">{{cite web|url=http://www.sankei.co.jp/seikatsu/shoku/070106/shk070106000.htm|accessdate=2007-01-10|title=安藤百福さん 死去前日、社員とチキンラーメン雑煮 ("Mr. Ando ate Chikin Ramen with colleagues the day before he past away.")|publisher=The Sankei Shimbun Web-site}}</ref>。96歳まで生涯現役で、波乱万丈の実業家人生を終えた。長寿・健康の秘訣を聞かれると必ず「週2回の[[ゴルフ]]と毎日お昼に欠かさず食べるチキンラーメン」と答えるのが口癖だった。生前に残した言葉の中から、「食足世平<ref group="注">この言葉に基づき、[[災害]]時にはインスタントラーメンの提供などの支援活動を行ってきた([http://www.nissinfoods-holdings.co.jp/csr/hyakufukushi/009_noodlecan/index.html 第9弾 “チキンラーメン&カップヌードル保存缶”プロジェクト - 日清食品ホールディングス])。</ref>」「食創為世」「美健賢食」「食為聖職」の4つが日清食品グループの創業者精神として継承されている。 |
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* チキンラーメン発売と同じ時期に[[スーパーマーケット]]が加工食品を大量販売する流通システムを確立しはじめた。 |
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* [[テレビコマーシャル]]が効果を上げた。 |
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* 日本の消費者が食事に簡便性を求めるようになっていた。 |
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の3つを挙げている{{Sfn|安藤|2008|p=83}}{{Sfn|鈴田編著|2004|p=23}}。[[1963年]](昭和38年)10月、安藤が経営する[[日清食品]]{{Efn|2008年10月1日付で[[持株会社制]]移行に伴い「[[日清食品ホールディングス]]」に称号変更した。同時に事業会社として「[[日清食品]](株)」が新たに設立されている。}}(かつての中交総社)は[[東京証券取引所]]、および[[大阪取引所|大阪証券取引所]](現在は市場統合)の第二部に上場した{{Sfn|鈴田編著|2004|p=110}}。 |
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なお、チキンラーメンがヒットすると「チキンラーメン」と銘打ったりパッケージをチキンラーメンに似せた類似品が多数出回るようになった。日清食品はチキンラーメンに関する[[商標]]や[[特許]]を申請・登録し、類似品の販売差し止めを求める裁判を起こすなどしてチキンラーメンのブランドを守ることに努めたが、それに対し類似品を販売する業者が「全国チキンラーメン協会」を設立し、「チキンラーメンは普通名詞である」と訴えて商標登録に異議を申し立てるなどチキンラーメンをめぐる法的紛争は数年にわたって続いた。これに対し食糧庁は業界の協調体制を整えるよう勧告を出し、これを受けて日清食品など56社が[[1964年]](昭和39年)に[[社団法人]]日本ラーメン工業協会(現在の[[一般社団法人]][[日本即席食品工業協会]])を設立、安藤は同協会の理事長に就任した{{Sfn|安藤|2008|pp=84-86}}。 |
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同年[[1月9日]]付の米紙[[ニューヨーク・タイムズ]]は社説でその死を悼み<ref>{{cite web|url=http://www.nytimes.com/2007/01/09/business/worldbusiness/09ando.html|accessdate=2008-06-05|title=Momofuku Ando, 96, Dies; Invented Instant Ramen|publisher=New York Times}}</ref>、「ミスター[[麺|ヌードル]]に感謝」という見出しを掲げ、即席麺開発の業績により「安藤氏は人類の進歩の殿堂に不滅の地位を占めた」と絶賛した。同社説は「即席めんの発明は戦後日本の生んだ独創的な発明品、[[ホンダ・シビック|シビック]]、[[ウォークマン]]や[[ハローキティ]]のように、日本から世界的に普及した製品と同じく会社組織のチームで開発された奇跡だと思っていたがそうではなかった。安藤百福というたった一人の力で開発されたものなのである」と驚きを表現した<ref>{{cite web|url=http://www.nytimes.com/2007/01/09/opinion/09tue3.html|accessdate=2008-06-05|title=Mr. Noodle|publisher=New York Times}}</ref>。さらに社説は「人に魚を釣る方法を教えればその人は一生食べていけるが、人に即席めんを与えればもう何も教える必要はない」と結んでいる。 |
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なお日清食品はこの時申請・登録が遅れた経験を生かし、後にカップヌードルを発売した際には発売前に特許出願を行うなどして紛争に備えた{{Sfn|安藤|2008|p=110}}。安藤は特許について、「異議申し立てが多いほど実力がある」、「異議申し立てを退けて成立した特許は、常に強力である」と述べている{{Sfn|安藤|2008|p=111}}。また、日本ラーメン工業協会設立後に所得した特許についても、きちんと契約をした上で、要望があれば使用許諾を行っていた<ref>『洋泉社BOOK 世界の食文化を変えた安藤百福』(2018年10月3日、洋泉社発行)30 - 31ページ『権利を独占せずに業界のとりまとめに奔走 続ぞくと登場する類似品との戦い』より。</ref>。 |
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[[2月27日]]、[[大阪市]]の[[大阪ドーム|京セラドーム大阪]]にて[[葬儀|社葬]]が行われた。葬儀委員長は生前から安藤と親交があった[[中曽根康弘]]元[[内閣総理大臣|首相]]が務め、[[小泉純一郎]]元首相、[[福田康夫]]元首相夫妻などのほか、政官学界、実業界から親交の深かった6500名が参列し別れを惜しんだ。[[戒名]]は「清寿院仁誉百福楽邦居士」。没後、[[正四位]]に叙された。父親の後を追うように、同年6月、長男・宏寿が死去。また、仁子夫人も2010年3月に92歳で死去。 |
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類似品を含めインスタントラーメンの生産が盛んになるにつれ、麺を質の悪い油で揚げるなど品質に問題のある商品が市場に出回るようになった。安藤は法律によって義務付けられる前に自社製品のすべてに製造年月日の表示を行い、日本ラーメン工業協会においても成分表示や製造基準に関する検討を行い、インスタントラーメンに関する[[日本農林規格]]を制定するよう[[農林水産省|農林省]]に要請を行うなど、インスタントラーメンの安全、信頼の確保のための仕組み作りに取り組んだ{{Sfn|安藤|2008|pp=88-90}}。 |
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=== 死後 === |
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[[2008年]](平成20年)[[4月8日]]、世界各国の即席麺メーカーが参加する「第6回世界ラーメンサミット」が大阪で行われるのを記念して、インスタントラーメン発明記念館(現・安藤百福発明記念館 大阪池田)の正面広場に安藤の[[銅像]]が建てられた。同日、仁子夫人、中曽根康弘元首相らが参加して除幕式が行われた。銅像はカップヌードルの容器をかたどった台座の上に立ち、右手にはチキンラーメンが掲げられた。安藤の功績を称える碑文は中曽根元首相の手によるもので、「安藤百福翁は勤勉力行、不屈不撓の人である。1910(明治43)年に生を受け、幼くして両親を無くし、自立独立の道を歩む。敗戦後、無一文の苦境から立ち上がり、困難を克服して世界初の即席めん「チキンラーメン」を開発、次いで世界初のカップ麺「カップヌードル」を発明、日本の食生活に一大革命を起こす。百福翁の蒔いた一粒の種が国境を越えて世界に伝播し、ついに総需要九百億食を超える世界食となる(後略)」が記されている。 |
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=== カップヌードルを開発 === |
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安藤の創業した日清食品は[[2008年]]([[平成]]20年)[[10月1日]]付で[[持株会社制]]に移行し、「[[日清食品ホールディングス]]」に商号変更され、同時に新会社として「[[日清食品]](株)」が設立されている。また同年、日清食品グループが創立50周年を迎えたの機に、次の50年(創立100周年となる[[2058年]])に向けて、企業プロジェクト「<ruby><rb>百福士</rb><rp>(</rp><rt>ひゃくふくし</rt><rp>)</rp></ruby>プロジェクト」を始めた。これは、社会福祉活動に熱心だった百福の遺志を継ぎ、今後50年に合計100の社会貢献活動を行っていくものである。{{Main|日清食品ホールディングス#百福士(ひゃくふくし)プロジェクト}} |
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[[ファイル:Cup_Noodles.jpg|thumb|[[カップヌードル]](1971年以降)]] |
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[[1966年]](昭和41年)、視察のために訪れたアメリカ合衆国で新商品開発のヒントを掴んだ。あるスーパーマーケットへチキンラーメンを持ちこんだところ、麺を入れるどんぶりがなく、相手は紙コップの中にチキンラーメンを割ったものを入れ、湯をかけてフォークで食べた。それを見て欧米人には箸とどんぶりでインスタントラーメンを食べる習慣がないことを改めて認識し、カップに入れてフォークで食べられるインスタントラーメン、[[カップヌードル]]の開発に着手した{{Sfn|安藤|2008|pp=90-92}}{{Sfn|安藤|2008|p=96}}{{Sfn|鈴田編著|2004|pp=76-77}}。 |
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カップの素材として、断熱性が高く、経済性に優れた[[ポリスチレン]]に着目。食品容器にふさわしい品質に精製し、当時厚さ2センチメートルほどに加工されるのが一般的であったところを2.1ミリメートルまで薄くした。完成した容器について、「画期的な技術革新」であったと述べている{{Sfn|安藤|2008|pp=97-98}}。 |
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2015年3月5日には彼の生誕105周年を記念した[[Google Doodle]]が日本やアメリカ合衆国、南米の数カ国、オーストラリアなどの複数の国向けに表示された<ref>[https://www.google.com/doodles/momofuku-andos-105th-birthday 安藤百福生誕 105 周年] Google Doodle アーカイブ</ref>。 |
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開発において最も苦労したのは、カップの中に入れる厚さが約6センチメートルの麺の固まりをいかに均一に揚げるかということだった。固まりのまま揚げると中まで油熱が通らないため、バラバラにした麺を揚げると油熱の通った順に浮き上がってくること利用し、バラバラにした麺を枠型の中に入れて揚げ、先に浮き上がった麺が後から揚がった麺に押し上げられてカップと同じ形状に固まる仕組みを編み出し、均一に揚がった厚さ6センチメートルの麺の固まりを作り出すことに成功した{{Sfn|安藤|2008|pp=98-99}}。 |
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=== 生誕100年 === |
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2010年(平成22年)は安藤百福の生誕100年にあたり、記念商品<ref group="注">チキンラーメン、カップヌードルの各記念パッケージ(チキンラーメンは発売開始当時([[1958年]])の35円、カップヌードルは同([[1971年]])100円の特別価格が設定された)、特別企画商品「'''百福長寿麺'''」(鶏だし塩ラーメン、鴨だしそばの2種。麺の長さはカップ麺史上最長の100cm)。</ref>が発売された<ref>[http://www.nissinfoods.co.jp/com/news/news_release.html?yr=2010&mn=1&nid=1789 -インスタントラーメンの父 安藤百福 生誕百年- 記念商品の発売について] - 日清食品株式会社、2010年1月12日</ref><ref>[http://www.j-cast.com/mono/2010/01/13057809.html 「即席めんの父」生誕100年 チキンラーメンを「35円」に] - J-CASTニュース、2010年1月13日</ref><ref>[http://jp.ibtimes.com/article/biznews/100113/48037.html 日清食品が安藤百福生誕100周年記念配当] - IBTimes、2010年1月13日</ref><ref>[http://enjoy.nikkansports.com/topics/eat/1001130722.html インスタント麺誕生100周年「百福長寿麺」] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20150701043054/http://enjoy.nikkansports.com/topics/eat/1001130722.html |date=2015年7月1日 }} - 日刊スポーツ、2010年1月13日</ref>ほか、テレビの特別番組(『インスタントラーメン発明物語 安藤百福伝』<ref group="注">[[MBSテレビ|毎日放送]]制作、2010年(平成22年)[[3月5日]]放送([[TBSテレビ|TBS]]系[[Japan News Network|JNN]]28局ネット)。チキンラーメン誕生にまつわる秘話や、百福の生涯をたどる再現ドラマなどで構成([http://hochi.yomiuri.co.jp/osaka/gossip/entertainment/news/20100224-OHO1T00088.htm 徳光和夫、百福さんの精神伝える…「インスタントラーメン発明物語」] - おおさか報知、2010年2月24日、[http://hochi.yomiuri.co.jp/osaka/gossip/entertainment/news/20100217-OHO1T00088.htm 原田龍二がチキンラーメンの父ドラマ化で主演] - おおさか報知、2010年2月17日)。</ref>、『こだわり人物伝「安藤百福~遅咲きのラーメン王」』<ref group="注">[[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビ]]『[[知る楽]]・水曜 こだわり人物伝』において2010年(平成22年)[[5月5日]]から[[5月26日]]にかけて4週連続の特集。</ref>が放映され、記念イベント<ref group="注">2010年[[3月27日]]より、[[東京都]][[江東区]][[豊洲]]の[[アーバンドック ららぽーと豊洲]]において、百福生誕100年の記念イベント「'''インスタントラーメン発明物語〜安藤百福 生誕百年 記念展〜'''」が開催された([http://www.nissinfoods-holdings.co.jp/news/news_release.html?nid=1790 日清食品ホールディングス株式会社のニュースリリース] - 2010年1月12日)。</ref><ref group="注">安藤の出身地である大阪府池田市にある[[安藤百福発明記念館 大阪池田|インスタントラーメン発明記念館]](現・安藤百福発明記念館 大阪池田)では、2010年3月27日から[[5月10日]]まで、特別展示「'''インスタントラーメンを科学しよう!'''」が開催された([http://www.nissinfoods-holdings.co.jp/news/news_release.html?nid=1846 日清食品ホールディングス株式会社のニュースリリース] - 2010年3月3日)。</ref>が催された。なお、同年[[3月17日]]には百福の妻仁子が92歳で生涯を閉じている<ref>[http://www.jiji.com/jc/c?g=obt_30&k=2010031900861 安藤仁子さん死去(安藤宏基日清食品ホールディングス社長の母)] - 時事ドットコム、2010年3月19日</ref>。2011年(平成23年)[[9月17日]]、[[横浜市]][[中区 (横浜市)|中区]]の[[みなとみらい21]]地区で[[安藤百福発明記念館 横浜|安藤百福発明記念館]](カップヌードルミュージアム、現在は名称の後尾に'''横浜'''が付されている)が開館した。 |
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麺の固まりが壊れるのを防ぐため、固まりの直径はカップの底部より大きくし、容器の中で宙づりの状態にして固定された。固まりを容器と水平にして固定することに苦労したが、容器の中に麺を入れるのではなく麺の固まりの上から容器をかぶせる方法を考案した。この方法は[[実用新案]]登録された{{Sfn|安藤|2008|pp=101-102}}。 |
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同年、子どもたちの自然体験活動の奨励に熱心だった安藤の思いを引き継ぎ、[[安藤スポーツ・食文化振興財団|安藤百福記念 自然体験活動指導者養成センター]](愛称「安藤百福センター」)が[[長野県]][[小諸市]]に誕生している。 |
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安藤は容器が包装材料、調理器具、食器の3役をこなす画期的な商品が完成したのではないかという感触を得たが、マスコミや問屋からの評判は冴えず、スーパーマーケットなど正規のルートで販売することができなかった{{Sfn|安藤|2008|pp=103-105}}。そこで給湯設備付きの[[自動販売機]]を設置したところ、売れ行きがよく、徐々に取り扱う問屋が現れるようになった{{Sfn|安藤|2008|pp=106-109}}。 |
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=== NHK連続テレビ小説『まんぷく』 === |
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妻の仁子(まさこ)とともに、[[2018年]](平成30年)[[10月1日]]より放送予定の同年度後期の[[日本放送協会|NHK]][[連続テレビ小説]]『[[まんぷく]]』のモデルとなる。妻・仁子をモデルとする福子をヒロインに、ヒロインとその実業家の夫・萬平の夫婦の成功物語として描かれる。なお、妻・仁子を取材した書籍や雑誌等の資料が皆無なことから、関係者への取材は行われるもののヒロインの福子はほぼ[[フィクション]]上の人物となる<ref>[http://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=12331 《平成30年度後期》連続テレビ小説 制作決定!連続テレビ小説 まんぷく](NHKオンライン)</ref>。万福をモデルとした立花萬平は[[長谷川博己]]<ref>[http://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=13330&f=prtw 《平成30年度後期》連続テレビ小説 長谷川博己、立花萬平 役で “朝ドラ” 初出演!](2018年2月7日)、NHKオンライン、2018年2月7日閲覧。</ref>、主人公の福子は[[安藤サクラ]]が演じる<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201801310000363.html|title=「まんぷく」安藤サクラ、朝ドラ初ママさんヒロイン|newspaper=日刊スポーツ|date=2018-01-31|accecedate=2018-02-01}}</ref>。 |
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カップヌードルの需要が爆発的に高まるきっかけとなったのは、当時日清食品が一社提供を務めていた若者向け音楽バラエティ番組『[[ヤングOH!OH!]]』で繰り返しCMを放送した事と、[[1972年]](昭和47年)に起こった[[あさま山荘事件]]であった。この事件の際、山荘を包囲する[[機動隊|機動隊員]]がカップヌードルを食べる姿が繰り返しテレビで放映されたことにより大きな話題を集め、生産が追いつかなくなるほどの売れ行きを見せるようになった{{Sfn|安藤|2008|pp=109-110}}。カップヌードルは日清食品にとってチキンラーメン以来のヒット商品となり、1972年に同社は東京証券取引所、大阪証券取引所、および[[名古屋証券取引所]]の第一部に上場した{{Sfn|安藤|2008|pp=110-112}}。 |
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=== カップライスの失敗 === |
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[[1974年]](昭和49年)7月、日清食品は「[[カップライス]]」を発売した。この商品は[[食糧庁]]長官から「お湯をかけてすぐに食べられる米の加工食品」の開発を持ちかけられたことがきっかけとなって完成したものであった{{Sfn|安藤|2008|p=112}}{{Sfn|鈴田編著|2004|p=50}}。カップライスを試食した政治家や食糧庁職員の評判はすこぶる高く、マスコミは「奇跡の食品」、「米作農業の救世主」と報道した。「長い経営者人生の中で、これほど褒めそやされたことはなかった」と述懐している{{Sfn|安藤|2008|pp=114-115}}{{Sfn|鈴田編著|2004|p=50}}。 |
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だが、価格が「カップライス1個で袋入りのインスタントラーメンが10個買える」といわれるほど高く設定された(原因は米が小麦粉よりもはるかに高価なことにあった)ことがネックとなって消費者に敬遠され、早期撤退を余儀なくされた{{Sfn|安藤|2008|pp=116-118}}。安藤は日清食品の資本金の約2倍、年間の利益に相当する30億円を投じて、カップライス生産用の設備を整備していた{{Sfn|安藤|2008|p=115}}{{Sfn|鈴田編著|2004|p=51}}が、「30億円を捨てても仕方がない」と覚悟を決めたという{{Sfn|安藤|2008|p=116}}。この時の経験について安藤は、「落とし穴は、賛辞の中にある」と述べている{{Sfn|鈴田編著|2004|p=51}}。 |
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=== 社長の座を息子へ、会長就任 === |
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[[ファイル:Instant ramen mus 01.jpg|300px|thumb|right|[[安藤百福発明記念館 大阪池田]]]] |
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[[1981年]](昭和56年)、社長の座を長男の[[安藤宏寿]](母親は台湾時代の第1夫人の黄綉梅)に譲り、自らは会長に退くが、その2年後の[[1983年]](昭和58年)、宏寿が経営方針の相違から社長を退任したため、百福が会長兼任で再び社長に復帰した<ref>「カップヌードルをぶっつぶせ! 〜創業者を激怒させた二代目社長のマーケティング流儀〜」(安藤宏基著、中央公論新社)81頁</ref>。[[1985年]](昭和60年)6月に次男の[[安藤宏基|宏基]](母親は3人目の妻安藤仁子)が社長に就任し(宏基は現在[[日清食品ホールディングス]]の[[最高経営責任者|CEO]])、再び会長専任となった{{Sfn|安藤|2013|p=102}}。 |
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社長退任後、安藤はかねてから関心を寄せていた「日本人は何を食べてきたのか」というテーマを探求すべく、4年間にわたり日本各地を巡って[[郷土料理]]を食べる旅に出た{{Sfn|安藤|2008|pp=123-124}}。続いて「いつ、誰が、どこで、ラーメンを生みだしたのか」という疑問から[[中国]]、[[中央アジア]]、[[イタリア]]などを巡る旅に出た{{Sfn|安藤|2008|pp=125-126}}。[[1987年]](昭和62年)、食文化の探究のために「麺ロード調査団」を結成して[[料理研究家]]の[[奥村彪生]]とともに[[上海市|上海]]、[[南京市|南京]]、[[揚州市|揚州]]、[[広州市|広州]]、[[厦門市|厦門]]、[[福州市|福州]]、[[成都市|成都]]、[[北京市|北京]]、[[西安市|西安]]、[[蘭州市|蘭州]]、[[ウルムチ市|ウルムチ]]、[[トルファン市|トルファン]]など[[中華人民共和国|中国]]全土を巡って300種類を超える麺を食べた{{R|日経20140628}}<ref>「[[私の履歴書]] 経済人」第36巻([[日本経済新聞出版社]])</ref>。さらに[[文化人類学者]]の[[石毛直道]]に[[シルクロード]]を通じて世界各地に伝搬した麺の歴史を研究させて麺の系譜図を完成させた{{R|日経20140628}}。調査の結論として安藤は、「ラーメンは中国を起源とし、シルクロードを通ってイスラム世界に伝わり、さらにイタリアへ伝わった」と見解を示している{{Sfn|安藤|2008|pp=125-126}}。 |
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[[1996年]](平成8年)、食品業界における[[ベンチャー]]を奨励するために基金を設立し、基金をもとに「食創会(新しい食品の創造開発を奨める会)」が設立された。食創会は[[日本経済新聞社]]の後援の下、食品研究・開発者を対象とした[[安藤百福賞]]を主催している{{Sfn|安藤|2008|pp=130-133}}。 |
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[[1999年]](平成11年)、安藤がチキンラーメンを開発した大阪府池田市に[[安藤百福発明記念館 大阪池田|インスタントラーメン発明記念館]]が建設された。記念館の中には安藤が開発研究を行った小屋が再現された。(この小屋には「研究や発明は立派な設備がなくてもできる」という思いが込められているとのことである{{Sfn|安藤|2008|pp=133-135}}。)[[2001年]](平成13年)には日本経済新聞『[[私の履歴書]]』において自伝を執筆。安藤は「自らの人生の浮き沈みを世の中に語って、果たして何の意味があるのか」という思いから日経新聞からの要請を断り続けていたが、「何か人に言えない具合の悪いことでもあるのか」と担当者に言われたことに反発し、執筆を決意した{{Sfn|安藤|2008|pp=7-8}}。 |
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[[2002年]](平成14年)頃から[[宇宙食]]ラーメン「スペース・ラム」の開発に取り組んだ。スペース・ラムには無重力空間でもスープが飛び散らないよう粘度を高め、[[スペースシャトル]]内で給湯可能な70[[セルシウス度|度]]の湯で調理ができるようにする、麺をボール状にするなどの工夫が施された{{Sfn|安藤|2006|pp=286-287}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nissin.com/jp/news/890 |title=宇宙食ラーメン「スペース・ラム」 |publisher=[[日清食品ホールディングス|日清食品グループ]] |accessdate=2019-02-10}}</ref><ref name="p41">『洋泉社BOOK 世界の食文化を変えた安藤百福』(2018年10月3日、洋泉社発行)41ページ。</ref>。 |
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スペース・ラムは[[2005年]](平成17年)7月にアメリカ合衆国が打ち上げた[[スペースシャトル]]「[[スペースシャトル・ディスカバリー|ディスカバリー]]」に搭載され、[[宇宙飛行士]]の[[野口聡一]]によって食された<ref>{{Cite web|和書|author=|url=http://www.miraikan.jst.go.jp/aboutus/guest/061005231012.html|title=2006年10月5日のお客様|work=ようこそ未来館へ|publisher=[[日本科学未来館]]|language=日本語|accessdate=2009-12-20|archiveurl=https://www.miraikan.jst.go.jp/aboutus/guest/061005231012.html|archivedate=2009-01-03|url-status=dead|url-status-date=2020-08-25}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date = 2005-07-27|url = http://www.spaceref.co.jp/news/3Wed/2005_07_27son.html|title = 宇宙食ラーメン「スペースラム」、日清食品が公開|publisher = エネックス|language = 日本語|accessdate = 2009-12-20}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=|url=http://instantnoodles.org/jp/noodles/history.html|title=「宇宙食ラーメン」の開発|publisher=世界ラーメン協会|language=日本語|accessdate=2009-12-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080407215033/http://instantnoodles.org/jp/noodles/history.html|archivedate=2008-04-07|url-status=dead|url-status-date=2020-08-25}}</ref>。 |
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野口が最初に食べた「スペース・ラム」は「とんこつ味」だったという<ref name="p41" />。 |
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=== 晩年 === |
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2005年(平成17年)、安藤は95歳にして健康な身でありながらも、自ら6月2日の取締役会に発議して、役員任期が満了となる6月29日をもって日清食品の代表取締役会長を退任するとともに、1代かぎりの「創業者会長」(経営執行権のない[[名誉職]])に就任した<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.nissin.com/jp/news/873|title=日清食品株式会社 代表取締役会長 安藤百福 取締役を退任し「創業者会長」に就任|date=2005-06-02|publisher=日清食品|archiveurl=https://web.archive.org/web/20240304090002/https://www.nissin.com/jp/news/873|archivedate=2024-03-04|url-status=live}}</ref>{{efn|「創業者会長」への就任日は、代表取締役会長の退任日と同じ2005年6月29日<ref>{{Cite book|和書|url=https://www.nissin.com/jp/ir/stock/meeting/pdf/kas_050629_01.pdf#page=5|title=第57期定時株主総会決議ご通知|page=5|publisher=日清食品株式会社|date=2012-06-29|format=PDF|archiveurl=|archivedate=|urlstatus=live}}</ref>。}}。役員異動の発表の中で「[[安藤スポーツ・食文化振興財団]]の理事長職に専念し、スポーツ、自然体験、[[食育]]の振興などを通じ、明日をになう子供たちの健全な心身の育成に力を注ぎたい」という安藤の申し出によることが述べられている。なお、当該財団は、日清食品創立25周年にあたる1983年(昭和58年)に、当時の[[少年非行]]の社会問題化への対策として、子供たちの健全な心身育成につながるスポーツの振興を目的に設立されたものであり、その後、2002年(平成14年)に「日清スポーツ振興財団」から「安藤スポーツ・食文化振興財団」へ名称変更された際に、安藤は退職金全額から投じて{{Sfn|神奈川県立図書館|2012|p=247}}財団への10億円の寄付を行っている<ref>{{Cite press release|和書|date = 2002-05-21|url = https://www.nissin.com/jp/news/456|title = 安藤百福 食文化振興のため 私財10億円を寄付|publisher = 日清食品|accessdate = 2018-04-03}}</ref>(2012年4月1日、公益財団法人に移行)。 |
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2006年(平成18年)、[[タイム (雑誌)|タイム]]誌アジア版11月13日号のアジア版60周年記念特集「60年間のアジアの英雄」において、アジアの英雄の一人に選ばれた<ref>{{Cite web|和書|date = 2006-11-09|url =https://www.shikoku-np.co.jp/national/life_topic/20061109000007|title = 黒沢氏ら日本から13人 / タイム誌「アジアの英雄」|publisher = [[四国新聞|四国新聞社]]|language =ja|accessdate = 2018-04-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2006-11-09|url=http://wws.tv-asahi.co.jp/smt/f/geinou_tokuho/hot/?id=hot_20061109_090|title=「タイム」誌発表!「アジアの英雄」に王、黒澤ら日本から13人!!|publisher=[[テレビ朝日]]|language=日本語|accessdate=2018-04-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180403173632/http://wws.tv-asahi.co.jp/smt/f/geinou_tokuho/hot/?id=hot_20061109_090|archivedate=2018-04-03|url-status=dead|url-status-date=2020-08-25}}</ref>。 |
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90歳を過ぎても健康体を維持し、趣味のゴルフも土砂降りでもコースを回るほど熱中し、[[京都府]]の[[日清都カントリークラブ]]に年間100回以上通っていた<ref>『洋泉社BOOK 世界の食文化を変えた安藤百福』(2018年10月3日、洋泉社発行)42ページ。</ref>。 |
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2007年(平成19年)1月5日の早朝に38℃の高熱を出し、同日の夕方に急性[[心筋梗塞]]のため大阪府池田市の[[市立池田病院]]で死去<ref>『洋泉社BOOK 世界の食文化を変えた安藤百福』(2018年10月3日、洋泉社発行)56ページ『世界中を飛び回るも最期は妻の側で 百福の最後を看取った妻』より。</ref>。享年97(満{{没年齢|1910|3|5|2007|1|5}})。3日前には幹部社員とゴルフをし<ref name="p43">『洋泉社BOOK 世界の食文化を変えた安藤百福』(2018年10月3日、洋泉社発行)43ページ。</ref>、18ホールを回ったという。亡くなる前日には仕事始めで立ったまま約30分の訓辞を行い<ref name="p43" />、昼休みには社員と[[餅]]入りのチキンラーメンを食べたという<ref name="sankei">{{Cite web|和書|url=http://www.sankei.co.jp/seikatsu/shoku/070106/shk070106000.htm|accessdate=2007-01-10|title=安藤百福さん 死去前日、社員とチキンラーメン雑煮 ("Mr. Ando ate Chikin Ramen with colleagues the day before he past away.")|publisher=The Sankei Shimbun Web-site|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070307091308/http://www.sankei.co.jp/seikatsu/shoku/070106/shk070106000.htm|archivedate=2007-03-07|url-status=dead|url-status-date=2019-11}}</ref>。96歳まで生涯現役で、波乱万丈の実業家人生を終えた。長寿・健康の秘訣を聞かれると必ず「週2回の[[ゴルフ]]と毎日お昼に欠かさず食べるチキンラーメン」と答えるのが口癖だった。生前に残した言葉の中から、「食足世平{{Efn|この言葉に基づき、[[災害]]時にはインスタントラーメンの提供などの支援活動を行ってきた([https://www.nissin.com/jp/about/csr/social/hyakufukushi/009_noodlecan/ 第9弾 “チキンラーメン&カップヌードル保存缶”プロジェクト - 日清食品ホールディングス])。}}」「食創為世」「美健賢食」「食為聖職」の4つが日清食品グループの創業者精神として継承されている。 |
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同年1月9日付の米紙[[ニューヨーク・タイムズ]]は社説でその死を悼み<ref>{{cite web|url=http://www.nytimes.com/2007/01/09/business/worldbusiness/09ando.html|accessdate=2008-06-05|title=Momofuku Ando, 96, Dies; Invented Instant Ramen|publisher=New York Times}}</ref>、「ミスター[[麺|ヌードル]]に感謝」という見出しを掲げ、即席麺開発の業績により「安藤氏は人類の進歩の殿堂に不滅の地位を占めた」と絶賛した。同社説は「即席めんの発明は戦後日本の生んだ独創的な発明品、[[ホンダ・シビック|シビック]]、[[ウォークマン]]や[[ハローキティ]]のように、日本から世界的に普及した製品と同じく会社組織のチームで開発された奇跡だと思っていたがそうではなかった。安藤百福というたった一人の力で開発されたものなのである」と驚きを表現した<ref>{{cite web|url=http://www.nytimes.com/2007/01/09/opinion/09tue3.html|accessdate=2008-06-05|title=Mr. Noodle|publisher=New York Times}}</ref>。 |
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さらに社説は「人に魚を釣る方法を教えればその人は一生食べていけるが、人に即席めんを与えればもう何も教える必要はない」と結んでいる。 |
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2月27日、[[大阪市]]の[[大阪ドーム|京セラドーム大阪]]にて[[葬儀|社葬]]が行われた。「宇宙葬」と名付けられた社葬において、百福は星々に彩られながら、多くの参列者に見送られた<ref name="p43" />。葬儀委員長は生前から安藤と親交があった[[中曽根康弘]]元[[内閣総理大臣|首相]]が務め、[[小泉純一郎]]元首相、[[福田康夫]]元首相夫妻などのほか、政官学界、実業界から親交の深かった6,500名が参列し別れを惜しんだ。[[戒名]]は「清寿院仁誉百福楽邦居士」。没後、[[明仁|天皇]]より[[正四位]]に叙され{{Sfn|安藤|2013|p=127-131}}、[[叙位叙勲]]は「正四位勲二等旭日重光章」となった<ref name="p43" />。 |
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=== 死後 === |
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[[ファイル:MOMO FUKU Noodle, by NISSIN.jpg|サムネイル|MOMOFUKU Noodle]] |
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2008年(平成20年)4月8日、世界各国の即席麺メーカーが参加する「第6回世界ラーメンサミット」が大阪で行われるのを記念して、インスタントラーメン発明記念館(現・安藤百福発明記念館 大阪池田)の正面広場に安藤の[[銅像]]が建てられた<ref>{{Cite press release|和書|title=「第6回 世界ラーメンサミット大阪」開催 (2008年4月8日〜9日)|publisher=日清食品グループ|date=2008-03-31|url=https://www.nissin.com/jp/news/1302|accessdate=2018-09-13}}</ref>。 |
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同日、{{要出典範囲|date=2018年9月|仁子夫人、中曽根康弘元首相らが参加して}}除幕式が行われた。銅像はカップヌードルの容器をかたどった台座の上に立ち、右手にはチキンラーメンが掲げられた<ref>{{Cite news|url=http://www.asahi.com/edu/nie/kiji/kiji/TKY200804140136.html|title=asahi.com:(青鉛筆)カップラーメンの上に銅像 発明50年を記念 大阪・池田|accessdate=2018-09-13|date=2008-04-14|newspaper= 朝日新聞}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://osaka-info.jp/page/instant-ramen-museum|title=インスタントラーメン発明記念館へ行こう!|accessdate=2018-09-13|work=OSAKA-INFO|publisher=[[大阪観光局]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180913005331/https://osaka-info.jp/page/instant-ramen-museum|archivedate=2018-09-13|url-status=dead|url-status-date=2020-08-25}}</ref>。 |
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安藤の功績を称える碑文は中曽根元首相の手によるもので、「安藤百福翁は勤勉力行、不屈不撓の人である。1910(明治43)年に生を受け、幼くして両親を無くし、自立独立の道を歩む。敗戦後、無一文の苦境から立ち上がり、困難を克服して世界初の即席めん「チキンラーメン」を開発、次いで世界初のカップ麺「カップヌードル」を発明、日本の食生活に一大革命を起こす。百福翁の蒔いた一粒の種が国境を越えて世界に伝播し、ついに総需要九百億食を超える世界食となる(後略)」と記されている{{Sfn|安藤|2013|p=132}}。 |
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安藤の創業した日清食品は2008年(平成20年)10月1日付で[[持株会社制]]に移行し、「[[日清食品ホールディングス]]」に商号変更され、同時に事業会社として「[[日清食品]](株)」が新たに設立されている。また同年、日清食品グループが創立50周年を迎えたのを機に、次の50年(創立100周年となる[[2058年]])に向けて、企業プロジェクト「{{読み仮名|百福士|ひゃくふくし}}プロジェクト」を始めた。これは、社会福祉活動に熱心だった百福の遺志を継ぎ、今後50年に合計100の社会貢献活動を行っていくものである。{{Main|日清食品ホールディングス#百福士(ひゃくふくし)プロジェクト}} |
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2015年3月5日には生誕105周年を記念した[[Google Doodle]]が日本やアメリカ合衆国、南米の数カ国、オーストラリアなどの複数の国向けに表示された<ref>[https://www.google.com/doodles/momofuku-andos-105th-birthday 安藤百福生誕 105 周年] Google Doodle アーカイブ</ref>。 |
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=== 生誕100年 === |
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[[2010年]](平成22年)は安藤百福の生誕100年にあたり、記念商品{{Efn|チキンラーメン、カップヌードルの各記念パッケージ(チキンラーメンは発売開始当時([[1958年]])の35円、カップヌードルは同([[1971年]])100円の特別価格が設定された)、特別企画商品「'''百福長寿麺'''」(鶏だし塩ラーメン、鴨だしそばの2種。麺の長さはカップ麺史上最長の100cm)。}}が発売された<ref>[http://www.nissinfoods.co.jp/com/news/news_release.html?yr=2010&mn=1&nid=1789 -インスタントラーメンの父 安藤百福 生誕百年- 記念商品の発売について] - 日清食品株式会社、2010年1月12日</ref><ref>[https://www.j-cast.com/trend/2010/01/13057809.html 「即席めんの父」生誕100年 チキンラーメンを「35円」に] - J-CASTニュース、2010年1月13日</ref><ref>[http://enjoy.nikkansports.com/topics/eat/1001130722.html インスタント麺誕生100周年「百福長寿麺」] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20150701043054/http://enjoy.nikkansports.com/topics/eat/1001130722.html |date=2015年7月1日 }} - 日刊スポーツ、2010年1月13日</ref>ほか、テレビの特別番組(『インスタントラーメン発明物語 安藤百福伝』{{Efn|[[毎日放送]]制作、2010年(平成22年)3月5日放送([[TBSテレビ|TBS]]系[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|JNN]]28局ネット)。チキンラーメン誕生にまつわる秘話や、百福の生涯をたどる再現ドラマなどで構成された<ref>[https://web.archive.org/web/20100227144910/http://hochi.yomiuri.co.jp/osaka/gossip/entertainment/news/20100224-OHO1T00088.htm 徳光和夫、百福さんの精神伝える…「インスタントラーメン発明物語」] - おおさか報知、2010年2月24日</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20100221023359/http://hochi.yomiuri.co.jp/osaka/gossip/entertainment/news/20100217-OHO1T00088.htm 原田龍二がチキンラーメンの父ドラマ化で主演] - おおさか報知、2010年2月17日</ref>。}}、『こだわり人物伝「安藤百福~遅咲きのラーメン王」』{{Efn|[[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビ]]『[[知る楽]]・水曜 こだわり人物伝』において2010年(平成22年)5月5日から5月26日にかけて4週連続の特集。}}が放映されたほか、記念イベント{{Efn|2010年3月27日より、[[東京都]][[江東区]][[豊洲]]の[[アーバンドック ららぽーと豊洲]]において、百福生誕100年の記念イベント「インスタントラーメン発明物語〜安藤百福 生誕百年 記念展〜」を開催した<ref>[https://www.nissin.com/jp/news/1790 日清食品HDのニュースリリース] - 2010年1月12日</ref>。}}{{Efn|安藤の出身地である大阪府池田市のインスタントラーメン発明記念館(現・[[安藤百福発明記念館 大阪池田]])では、2010年3月27日から5月10日まで、特別展示「インスタントラーメンを科学しよう!」を開催した<ref>[https://www.nissin.com/jp/news/1846 日清食品HDのニュースリリース] - 2010年3月3日</ref>。}}も開催された。なお、同年3月17日には百福の妻仁子が92歳で生涯を閉じている{{r|死去}}。2011年(平成23年)9月17日、[[神奈川県]][[横浜市]][[中区 (横浜市)|中区]]の[[みなとみらい21]]地区で安藤百福発明記念館(カップヌードルミュージアム、現・[[安藤百福発明記念館 横浜]])が開館した。同年、子どもたちの自然体験活動の奨励に熱心だった安藤の思いを引き継ぎ、[[安藤スポーツ・食文化振興財団|安藤百福記念 自然体験活動指導者養成センター]](愛称「安藤百福センター」)が[[小諸市|長野県小諸市]]に誕生している。 |
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== 家族・親族 == |
=== 家族・親族 === |
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* 祖父 - 呉武 |
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* 妻 - 呉黄梅、呉金鶯、安藤仁子<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=X0N4CgAAQBAJ&pg=PA67 『尤物09月號/2015第67期: 汽車旅館度春宵─俐諭』p67]尤物USEXY, 2015/09/01</ref>。百福は1948年に大阪に移住してのち仁子と結婚して日本国籍を取得した<ref>[http://omoide.us.com/famous/$/no/64284/v/family/ 「安藤 百福」の家系]思い出アルバム</ref>。仁子は2010年に92歳で亡くなった<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1904M_Z10C10A3CC1000/ 安藤宏基日清食品ホールディングス社長の母・仁子さんが死去]日本経済新聞、2010/3/19</ref>。 |
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** 父 - 呉獅玉(別名は呉阿獅) |
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* [[長男]] - [[安藤宏寿]](ひろとし、元日清食品代表取締役社長)・故人 |
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** 母 - 呉千緑 |
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* 呉宏男・故人 |
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*** 妻 - 黄綉梅(ファン・シウメイ、1907 - 2011)台湾時代の第1夫人。幼少期に百福の実家で[[新婦仔]](シンプア、裕福な家庭の男児の妻にするため買い取られて育てられる養女)として育ち、大房(=正妻)として1928年に結婚し、新北市新店区の高齢者施設で104歳で死去<ref name=tanaka/>。 |
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* 呉武徳・故人 |
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****[[長男]] - [[安藤宏寿]](ひろとし、元日清食品代表取締役社長、のちに安藤姓、1930 - 2007<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=日清食品創業者・安藤百福の歴史から「消えた娘」は台湾でホームレスになっていた(2ページ目)|url=https://bunshun.jp/articles/-/11313|website=文春オンライン|accessdate=2020-08-25|publisher=|author=田中淳}}</ref>)・故人 |
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* 呉美和 |
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**** [[養女]] - 呉火盆 |
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* [[二男]] - [[安藤宏基]](こうき、現[[日清食品ホールディングス]][[株式会社]]代表取締役[[CEO]]) |
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*** 妻 - 呉金鶯(ウー・ジンイン、1919 - 1971)台湾時代の第2夫人(二房)。台湾では一夫多妻が1970年頃まで許容されていた<ref name=tanaka/>)。[[奈良女子高等師範学校]]の[[保姆]]養成科在学中だった1938年ごろ台北で百福と出会い<ref name=":0" />、翌年から大阪で同棲、実子のほか、正妻の長男・宏寿を引き取って育てた<ref name=tanaka/>。1945年頃台湾に帰国し、国民党軍の軍人と再婚したが離婚、百福からの仕送りのほか、野菜を売ったり台湾製品を日本に横流しするなどで糊口を凌ぎ、双極性障害を患った末に52歳で死去した<ref name=tanaka/>。 |
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* [[長女]] - [[堀之内明美]](ほりのうち あけみ) |
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**** 呉宏男・故人(1938<ref name=":0" /> -) |
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**** 呉武徳・故人(1941<ref name=":0" /> -) |
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**** 呉美和(1942年5月8日<ref name=":0" /> -)出生名は'''呉 美和子。'''大阪で生まれた、事実上の長女。母親に連れられ台湾に帰国し、私立女子校の台北市天主教静修高級中学、国立台湾芸術専科学校(現・国立台湾芸術大学)で学んだ<ref name=tanaka/>。百福本人はその存在を公にしておらず、百福の葬儀では安藤家により親族席に座すことを拒否され、警備員に完全包囲されつつ一般会葬者のひとりとして参加<ref name=":0" />したという。また2019年4月現在、[[台北市]]で76歳という高齢でホームレス(路上生活者)をしているという<ref name=":0" />。 |
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*** 妻 - [[安藤仁子]](1917-2010)<ref name=tanaka/>、3人目の妻([[重婚]])<ref>[https://bunshun.jp/articles/-/11314 『まんぷく』が描かなかった「台湾の娘」と詐欺師に狙われた1400万円の遺産相続 | 文春オンライン]</ref>。安藤重信の三女。安藤家は福島県二本松神社の神職一族で、当地では名家。百福は大阪の関西財界の社交場「大阪倶楽部」の[[受付嬢]]だった仁子と1943年ごろから交際を始め、正妻との婚姻関係を解消しないまま所帯を持ち1945年に結婚し<ref name=":0" />、1966年に日本国籍を取得した<ref name=tanaka/>。仁子との婚姻については大阪家庭裁判所は2005年5月27日、「黄綉梅との婚姻関係が法的に解消されていず、重婚であり無効」との一審判決を出した<ref name=tanaka/>。仁子は2010年に92歳で亡くなった<ref name=死去>[https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1904M_Z10C10A3CC1000/ 安藤宏基日清食品ホールディングス社長の母・仁子さんが死去]日本経済新聞、2010年3月19日</ref>。[[連続テレビ小説]]『[[まんぷく]]』ヒロイン立花福子のモデル([[安藤サクラ]]が演じた)。 |
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****[[次男]] - [[安藤宏基]](こうき) 現・[[日清食品ホールディングス]]の[[株式会社]]代表取締役[[CEO]] |
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*****[[孫]] - [[安藤徳隆]] 安藤宏基の長男、現・日清食品の社長 |
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**** 娘 - 堀之内明美(日清食品ホールディングス元監査役・堀之内徹の妻<ref name=tanaka>[https://bunshun.jp/articles/-/11313 日清食品創業者・安藤百福の歴史から「消えた娘」は台湾でホームレスになっていた]田中淳、週刊文春、2019/3/30</ref>) |
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== 栄典 == |
== 栄典 == |
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* [[褒章|紺綬褒章]]([[1983年]]) |
* [[褒章|紺綬褒章]]([[1983年]]) |
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* [[科学技術庁]]長官賞「功労者賞」([[1992年]]) |
* [[科学技術庁]]長官賞「功労者賞」([[1992年]]) |
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* [[立命館大学]]名誉博士号([[1996年]])<ref>{{Wayback|url=https://www.ritsumeikan-trust.jp/file.jsp?id=234242&f=.pdf|title=名誉博士(学校法人立命館ホームページ)|date=20240304070101}}</ref> |
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* [[旭日章|勲二等旭日重光章]]([[2002年]]) |
* [[旭日章|勲二等旭日重光章]]([[2002年]]) |
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* [[正四位]]([[2007年]]) |
* [[正四位]]([[2007年]]) |
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== 著作 == |
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* 『インスタントラーメン発明王 安藤百福かく語りき』([[2007年]]、[[中央公論新社]])ISBN 978-4-12-003813-6 |
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=== 著書 === |
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* 『食欲礼賛』([[2006年]]、[[PHP研究所]])ISBN 978-4-569-65441-6 |
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* 『100歳を元気に生きる 安藤百福の賢食紀行』([[2005年]]、[[中央公論新社]])ISBN 978-4-12-003637-8 |
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==== 単著 ==== |
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* 『魔法のラーメン発明物語 私の履歴書』([[2002年]]、[[日本経済新聞社]])ISBN 978-4-532-16410-2 |
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* {{Cite book |和書 |title=奇想天外の発想 |date=1983-07-04 |publisher=[[講談社]] |id={{NDLJP|12102418}}|isbn=9784062006514 }} |
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* 『ラーメンのルーツを探る 進化する麺食文化』([[1998年]]、日清ネットコム、共著:[[奥村彪生]]、安藤百福)ISBN 978-4-938642-09-9 |
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* {{Cite book |和書 |title=食足世平 日本の味探訪 |date=1985-03-05 |publisher=講談社 |id={{NDLJP|12101649}}|isbn=9784062015806 }} |
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* 『食は時代とともに 安藤百福フィールドノート』([[1999年]]、旭屋出版) ISBN 978-4-7511-0157-5 |
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** {{Cite book |和書 |title=続 食足世平 日本の味探訪 |date=1987-07-22 |publisher=講談社 |id={{NDLJP|12100189}}|isbn=9784062034715 }} |
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* 『苦境からの脱出 激変の時代を生きる』([[1992年]]、日清ネットコム) ISBN 978-4-938642-05-1 |
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* {{Cite book |和書 |title=安藤百福語録 |date=1987-03 |publisher=[[日清食品]] }} |
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* 『日本めん百景』([[1991年]]、日清ネットコム)ISBN 978-4-938642-02-0 |
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* {{Cite book |和書 |title=苦境からの脱出 激変の時代を生きる |date=1992-05 |publisher=フーディアム・コミュニケーション |isbn=9784938642051 }} |
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* 『時代に学ぶ美健賢食』([[1990年]]、日清ネットコム) |
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* {{Cite book |和書 |title=食は時代とともに 安藤百福フィールドノート |date=1999-03 |publisher=旭屋出版 |isbn=9784751101575 }} |
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* 『美健賢食 新和風薬膳のすすめ』([[1989年]]、日清ネットコム)ISBN 978-4-938642-01-3 |
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* {{Cite book |和書 |title=魔法のラーメン発明物語 私の履歴書 |date=2002-03 |publisher=[[日本経済新聞社]] |isbn=9784532164102 }} |
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* 『麺ロードを行く』([[1988年]]、[[講談社]]) ISBN 978-4-06-203847-8 |
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* {{Cite book |和書 |others=[[加護野忠男]]インタビュアー |title=安藤百福氏 日清食品代表取締役会長 |date=2002-03 |publisher=「関西企業家ライブラリーの構築」研究グループ・大阪商工会議所大阪企業家ミュージアム |series=関西企業家映像ライブラリー 10 }} |
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* 『安藤百福語録』([[1987年]]、日清食品) |
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* {{Cite book |和書 |title=100歳を元気に生きる 安藤百福の賢食紀行 |date=2005-05 |publisher=[[中央公論新社]] |isbn=9784120036378 }} |
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* 『続・日本の味探訪 食足世平』(1987年、講談社)ISBN 978-4-06-203471-5 |
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* {{Cite book |和書 |title=食欲礼賛 |date=2006-06 |publisher=[[PHP研究所]] |isbn=9784569654416 }} |
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* 『日本の味探訪 食足世平』([[1985年]]、講談社)ISBN 978-4-06-201580-6 |
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* {{Cite book |和書 |title=インスタントラーメン発明王安藤百福かく語りき |date=2007-02 |publisher=中央公論新社 |isbn=9784120038136 }} |
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* {{Cite book |和書 |title=安藤百福かく語りき 日清食品株式会社創業者 |date=2007-08 |publisher=日清食品広報部 }} |
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* {{Cite book |和書 |title=魔法のラーメン発明物語 |date=2008-08 |publisher=日本経済新聞出版社 |series=日経ビジネス人文庫 456 |isbn=9784532194567 }} |
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* {{Cite book |和書 |editor=安藤百福発明記念館|editor-link=安藤百福発明記念館 |title=転んでもただでは起きるな! 定本・安藤百福 |date=2013-03 |publisher=中央公論新社 |isbn=9784120044694 }} |
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** {{Cite book |和書 |editor=安藤百福発明記念館 |title=転んでもただでは起きるな! 定本・安藤百福 |date=2013-11 |publisher=中央公論新社 |series=[[中公文庫]] あ76-1 |isbn=9784122058699 }} |
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==== 編集 ==== |
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* {{Cite book |和書 |title=食の未来を考える 「郷土料理に学ぶ」食と健康フォーラム・1986 |date=1986-09-10 |publisher=日清食品総務部広報課|id={{NDLJP|12168998}} }} |
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* {{Cite book |和書 |title=麺ロードを行く |date=1988-03 |publisher=講談社 |isbn=9784062038478 }} |
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* {{Cite book |和書 |title=美健賢食 新和風薬膳のすすめ |date=1989-06 |publisher=フーディアム・コミュニケーション |isbn=9784938642013 }} |
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* {{Cite book |和書 |title=時代に学ぶ美健賢食 |date=1990-06 |publisher=フーディアム・コミュニケーション }} |
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* {{Cite book |和書 |title=日本めん百景 |date=1991-09 |publisher=フーディアム・コミュニケーション |isbn=9784938642020 }} |
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==== 監修 ==== |
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* {{Cite book |和書 |title=麺談 文化麺類学 |date=1994-05 |publisher=フーディアム・コミュニケーション |isbn=9784938642075 }} |
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* {{Cite book |和書 |author=奥村彪生|authorlink=奥村彪生 |title=進化する麺食文化 ラーメンのルーツを探る |date=1998-06 |publisher=フーディアム・コミュニケーション |isbn=9784938642099 }} |
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** {{Cite book |和書 |author=奥村彪生 |title=麺の歴史 ラーメンはどこから来たか |date=2017-11 |publisher=[[KADOKAWA]] |series=[[角川ソフィア文庫]] N-226-1 |isbn=9784044002923 }} |
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=== 論文等 === |
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* {{Cite journal |和書 |date=1982-12 |title=歴史に思う |journal=経済人 |volume=36 |issue=12 |pages=56-59 |publisher=[[関西経済連合会]] |naid=40000881192 }} |
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* {{Cite journal |和書 |date=1983-02 |title=日本の食文化変容が意味するもの〔日清食品会長に聞く〕 |journal=[[エコノミスト (日本の雑誌)|エコノミスト]] |volume=61 |issue=4 |pages=58-61 |publisher=[[毎日新聞社]] |naid=40000230223 }} |
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* {{Cite journal |和書 |date=1995-02 |title=方向感乏しい日米関係 |journal=経済人 |volume=49 |issue=2 |pages=4-7 |publisher=関西経済連合会 |naid=40000882012 }} |
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* {{Cite journal |和書 |date=1996-08 |title=“即席めんのパイオニア”安藤百福(日清食品会長)が語る「ベンチャー精神の秘密」 |journal=経済界 |volume=31 |issue=17 |pages=32-35 |publisher=[[経済界 (出版社)|経済界]] |naid=40000846006 }} |
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* {{Cite journal |和書 |date=2002-03 |title=現代を生きる刮目の経営者 日清食品会長 安藤百福――「人類はめん類」を世界に広める |journal=政経人 |volume=49 |issue=3 |pages=96-101 |publisher=政経社 |naid=40002030150 }} |
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* {{Cite journal |和書 |date=2004-02 |title=安藤百福会長の激白 |journal=[[日経ビジネス]] |issue=1230 |pages=30-33 |publisher=[[日経BP社]] |naid=40006109372 }} |
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* {{Cite journal |和書 |date=2014-12 |title=安藤百福 日清食品社長 競合が増えても味覚は正直 消費者は日清食品に戻ってくる |journal=[[週刊ダイヤモンド]] |volume=102 |issue=1 |page=12 |publisher=[[ダイヤモンド社]] |naid=40019919834 }} |
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== 特集された番組 == |
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* [[プロジェクトX 挑戦者たち]](NHK総合)魔法のラーメン 82億食の奇跡 〜カップめん・どん底からの逆転劇〜 2001年10月16日放送 |
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* 経済ドキュメンタリードラマ ルビコンの決断([[テレビ東京]])”食の安全” をどう守ったのか? インスタントラーメン開発者の決断 2009年6月4日放送 |
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* [[こだわり人物伝]](NHK教育)安藤百福 遅咲きのラーメン王 |
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** 第1回「48歳の青春」2010年5月5日放送<ref>[https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A201005052225001300200 第1回「48歳の青春」] - NHKアーカイヴス 2010年5月5日</ref> |
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** 第2回「君子 豹(ひょう)変すべし」2010年5月12日放送<ref>[https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A201005122225001300200 第2回「君子 豹(ひょう)変すべし」] - NHKアーカイヴス 2010年5月12日</ref> |
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** 第3回「父と子の“フードバトル”」2010年5月19日放送<ref>[https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A201005192225001300200 第3回「父と子の“フードバトル”」] - NHKアーカイヴス 2010年5月19日</ref> |
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** 第4回「めんロードの旅人」2010年5月26日放送<ref>[https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A201005262225001300200 第4回「めんロードの旅人」] - NHKアーカイヴス 2010年5月26日</ref> |
|||
* [[奇跡体験!アンビリバボー]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]])絶対諦めなかった奇跡SP『世界が絶賛した日本人 偉大なる大発明』2013年8月22日放送 |
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* [[昭和偉人伝]] 安藤百福([[BS朝日]])2014年2月5日放送 |
|||
* チキンラーメン60周年 注ぎたくな~るTV([[中京テレビ]])2018年8月25日放送 |
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* [[あの人に会いたい|NHK映像ファイル あの人に会いたい]] アンコール〜安藤百福 <実業家>(NHK総合)2018年9月29日放送 |
|||
* [[まんぷく]](2018年10月1日 - 2019年3月30日放送、NHK)- 日清食品の創業者夫妻をモデルとして、世界初となるインスタントラーメン「チキンラーメン」の開発を成功させるまでの物語<ref>[https://www.homemate-research.com/bc183/entame-fan/127/ 朝ドラ「まんぷく」即席ラーメン誕生までの軌跡] - エンタメファン 2024年4月26日閲覧</ref>。 |
|||
* 先人たちの底力 知恵泉(ちえいず)・選「インスタントラーメンの父 安藤百福」([[NHK教育テレビジョン|NHKEテレ]])2019年1月1日放送 |
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* [[歴史秘話ヒストリア]]「まんぷく家族が生んだ魔法のラーメン」(NHK総合)2019年3月6日放送 |
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== 演じた俳優 == |
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* [[中村梅雀]]([[連続テレビ小説]]「[[てるてる家族]]」、2003年)安藤をモデルとした登場人物「安西千吉」役 |
* [[中村梅雀 (2代目)|中村梅雀]]([[連続テレビ小説]]「[[てるてる家族]]」、2003年)安藤をモデルとした登場人物「安西千吉」役 |
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* [[渡辺いっけい]](「[[経済ドキュメンタリードラマ ルビコンの決断]]」、2009年) |
* [[渡辺いっけい]](「[[経済ドキュメンタリードラマ ルビコンの決断]]」、2009年) |
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* [[原田龍二]](「インスタントラーメン発明物語 安藤百福伝」、2010年) |
* [[原田龍二]](「インスタントラーメン発明物語 安藤百福伝」、2010年) |
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* [[長谷川博己]](連続テレビ小説「[[まんぷく]]」 |
* [[長谷川博己]] (連続テレビ小説「[[まんぷく]]」、2018年)安藤をモデルとした登場人物「立花萬平」役 |
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== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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=== 出典 === |
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<ref name="資料室">{{Cite web|和書|url = https://web.archive.org/web/20080828205446/http://www.chikinramen.jp/house/qa/qa.html|title = チキンラーメン資料室1|work = 日清チキンラーメン チキラー島|publisher = [[日清食品]]|language = 日本語|accessdate = 2009-12-20}}</ref> |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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<!-- 参考文献:実際に参考にした文献一覧(本文中の追加した情報の後に脚注を導入し文献参照ページを示して、実際に参考にした出典〈書籍、論文、資料やウェブページなど〉のみを列挙して下さい。実際には参考にしていないが、さらにこの項目を理解するのに役立つ関連した文献は、「関連文献」などとセクション名を分けて区別して下さい。) --> |
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* 『日清食品会長 安藤百福のゼロからの「成功法則」』(2004年、[[かんき出版]]/[[鈴田孝史]] 編著)ISBN 978-4-7612-6150-4 |
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* {{Cite book|和書 |
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* 和泉清『食文化を変えた男 安藤百福』日本食糧新聞社 (1996/06) |
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|author = 安藤百福 |
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|title = 食欲礼賛 |
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|title = 魔法のラーメン発明物語 |
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* {{Cite book|和書 |
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|editor = 鈴田孝史(編・著) |
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|title = 日清食品会長安藤百福のゼロからの「成功法則」 |
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* {{Cite book|和書 |
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|author = 安藤百福 |
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|title = 転んでもただでは起きるな! - 定本・安藤百福 |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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<!-- 関連項目:本文記事を理解する上での補足として役立つ、関連性のある項目へのウィキ間リンク(姉妹プロジェクトリンク、言語間リンク)、ウィキリンク(ウィキペディア内部リンク)。可能なら本文内に埋め込んで下さい。 --> |
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* [[チキンラーメン]] |
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* [[エルヴィス・コステロ]] - 2008年発表のアルバムに『[[百福|momofuku]]』と命名 |
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* [[エルヴィス・コステロ]] - 2008年発表のアルバムに『[[百福|momofuku]]』と命名。 |
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* [[高槻市]] - 現在の日清食品HDのかつての本店所在地 |
* [[高槻市]] - 現在の日清食品HDのかつての本店所在地 |
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* [[まんぷく]] - 2018年度後期のNHK[[連続テレビ小説]] |
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* [[大阪府出身の人物一覧]] |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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* [ |
* [https://www.cupnoodles-museum.jp/ja/ カップヌードルミュージアム・ホームページ] |
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* [http://www.ando-zaidan.jp/html/top.html 財団法人 安藤スポーツ・食文化振興財団] |
* [http://www.ando-zaidan.jp/html/top.html 財団法人 安藤スポーツ・食文化振興財団] |
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* [ |
* [https://www.cupnoodles-museum.jp/ja/osaka_ikeda/ インスタントラーメン発明記念館] |
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* [https://www.nissin.com/jp/about/chronicle/ 安藤百福クロニクル] |
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* [https://www.economist.com/obituary/2007/01/18/momofuku-ando 英エコノミスト誌による追悼記事] |
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* [http://www.nissinfoods-holdings.co.jp/about/philosophy/founder/index.html 日清食品HD 創業者精神] |
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* [http://phdcomics.com/comics/archive.php?comicid=807 Ph.D (Piled Higher and Deeper) での追悼記事] |
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* [http://www.nissinfoods.co.jp/knowledge/chronicle/index.html 日清食品 日清食品クロニクル] |
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* {{NHK人物録|D0009072364_00000}} |
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* [http://economist.com/obituary/displaystory.cfm?story_id=E1_RVQRQGT 英エコノミスト誌による追悼記事] |
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*{{Kotobank}} |
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* [http://www.phdcomics.com/comics/archive.php?comicid=807 Ph.D (Piled Higher and Deeper) での追悼記事] |
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2024年11月26日 (火) 01:37時点における最新版
あんどう ももふく 安藤 百福 | |
---|---|
1930年頃 | |
生誕 |
呉 百福(ご ひゃくふく、ゴー・ペクホク) 1910年3月5日 日本統治下台湾 嘉義庁東石郡朴子街 (現:嘉義県朴子市) |
死没 |
2007年1月5日(96歳没) 日本 大阪府池田市 |
墓地 | 九品寺[1] |
国籍 |
日本(1910 - 1945)→ 中華民国(1945 - 1966)→ 日本(1966 - 2007)[2]) |
出身校 | 立命館大学専門部経済学科(二部) |
職業 | 実業家 |
著名な実績 |
日清食品創業者 カップ麺開発者 |
配偶者 | 安藤仁子(妻) |
子供 |
安藤宏寿(長男) 安藤宏基(次男) |
親 |
父: 呉獅玉(呉阿獅) 母: 呉千緑 |
安藤 百福(あんどう ももふく、1910年〈明治43年〉3月5日 - 2007年〈平成19年〉1月5日)は、日本の実業家。日清食品(株)創業者。インスタントラーメン「チキンラーメン」、カップ麺「カップヌードル」の開発者として知られる。
日本統治時代の台湾出身で、出生名は呉 百福(ご ひゃくふく、ゴー・ペクホク)。台湾本島人であるため、戦後は中華民国籍になり、1966年(昭和41年)に日本国籍を再取得(帰化)した。
1948年(昭和23年)に(株)中交総社(後の日清食品)を設立し[3]、日清食品の代表取締役社長、代表取締役会長、創業者会長を歴任。(社)日本即席食品工業協会会長、(財)安藤スポーツ・食文化振興財団理事長、(財)漢方医薬研究振興財団会長、世界ラーメン協会会長、(財)いけだ市民文化振興財団会長などを務めた。池田市の名誉市民。位階・勲等は正四位勲二等。
来歴・人物
[編集]少年時代
[編集]1910年(明治43年)、日本統治時代の台湾の台南県東石郡朴子街[4](現・嘉義県朴子市)に生まれる。父は呉獅玉(別名は呉阿獅)、母は呉千緑。父は資産家だったが、両親を幼少期に亡くし、繊維問屋を経営する祖父・呉武のもと、台南市で育った。幼い頃から数字に異常なほど強い興味を持ち、足し算・引き算・掛け算を習得したという[5]。14歳で高等小学校を卒業[4]。学校と家が遠かったため、学生時代は東石郡守の森永信光宅に寄宿し通学した[6][7]。
実業家となる
[編集]義務教育修了後、祖父の繊維問屋を手伝い、森永郡守の紹介で20歳ごろに町に初めてできた図書館の司書となったが2年で辞し、父の遺産で1932年(昭和7年)に台湾の永楽市場で繊維会社「東洋莫大小(とうようメリヤス)」を設立して内地から製品を仕入れて台湾で販売した[4]。当時の繊維業界の動きからメリヤスの需要が大きく伸びるという予測が当たり、事業は大きな成功を収めた[8]。1933年(昭和8年)には大阪市にメリヤス問屋「日東商会」を設立。メリヤスを扱った他、近江絹糸紡績の夏川嘉久次と組んで、トウゴマを栽培して実からひまし油を採取、葉を養蚕用に繊維メーカーに売る事業も手掛けた[9][10]。 この時期の安藤は実業家として活動する傍ら、立命館大学専門部経済学科(二部)に学び、1934年(昭和9年)3月に修了した(同校からは60年後の1996年(平成8年)10月に「戦後のベンチャービジネスの卓越した成果」を称えられ、名誉経営学博士号を授与された[11][12])。
太平洋戦争開戦後は、幻灯機の製造、バラック住宅の製造(兵庫県相生市)などの事業をした[13]。軍用機エンジンの部品製造をする軍需工場の経営にも携わったが、三等市民扱いの台湾出身であるために、無実の罪で45日間拘束されて憲兵から拷問を受けることになった。百福は国から支給された資材の横流しに気付き憲兵隊に訴えたが、却って自身が横流しした疑いをかけられ、棍棒で殴られる、正座した足の間に竹の棒を挟まれる、といった拷問を受けた[14]。なお、憲兵隊の中に横流しをしたと思しき者の親戚がいたことが後に判明したと自著の中で書いている[15]。自白を強要されたが調書への署名を拒否し、拷問はエスカレートした。
安藤は留置場で知り合った人物を通じて知人の元陸軍将校に助けを求め解放されたが、留置生活の影響から深刻な内臓疾患を抱えることになり、後に2度の開腹手術を受けている[16]。空襲が激しくなると終戦まで兵庫県の上郡町に疎開し炭焼きなどをするが、大阪で事業を手掛けていた頃在住していた千里山では、三軒隣に藤田田の一家が住んでおり、交流を持つこととなった[17]。
食品事業の開始
[編集]1946年(昭和21年)冬、疎開先から大阪へ戻り、泉大津市に住んだ。終戦直後は土地が安く手放されていたため、久原房之助の助言により、大阪の中心街の心斎橋ほか御堂筋や大阪駅前など相当の土地を手に入れた[18]。戦後の食糧難の中で「衣食住というが、食がなければ衣も住もあったものではない」という思いを抱くようになり、食品事業を手掛けることを決意した[19]。百福によるとこの時抱いた想いが原点となって、後に日清食品の企業理念「食足世平(食足りて世は平らか)」が誕生した[20]。自宅近くにあった軍需工場跡地の払い下げも受け、跡地に置かれていた鉄板を用いた製塩業や漁業を営んだ[21][22]。
1948年(昭和23年)、「中交総社」(後の日清食品)を設立[23]。専門家を集めて国民栄養化学研究所を設立し、牛や豚の骨からたんぱく質エキスを抽出することに成功、パンに塗るペースト状の栄養商品「ビセイクル」として病院にも供給された[24][25]。 栄養食品の開発に取り組んでいた頃、仕事の関係で厚生省に出入りしていたが、当時厚生省は米国の余剰小麦を使って日本人に粉食を奨励しており、同省栄養課長の有本邦太郎(のち国立栄養研究所長)に麺食を進言し、その研究を勧められる[26]。
また、1947年(昭和22年)に名古屋で開校した中華交通学院のオーナー・理事長を務めた。中華交通学院は1951年(昭和26年)に閉校して建物の大部分は名城大学となった[22][27]。
脱税による嫌疑
[編集]1948年(昭和23年)12月、GHQに脱税の嫌疑をかけられた。安藤は前述の事業において地元の若者を雇い、彼らに「奨学金」として現金を支給していたが、奨学金は所得であり源泉徴収して納税すべきであるのにそれを行わなかったというのが理由であった。判決は4年間の重労働の刑[注釈 1]で、巣鴨拘置所に収監された。さらに安藤が個人名義で所有していた不動産は全て没収された。収監後、GHQは百福の名を挙げて「納税義務に違反した者は厳罰に処す」という内容の談話を発表した[28]。百福はこの一件について、「みせしめに使われたようだ」と述べている[29]。
その後、法学者の黒田覚の支援を受け、弁護団を結成して処分取り消しを求める裁判を起こした。これに対しGHQ側は「訴えを取り下げれば釈放する」と司法取引を持ちかけた。当初百福は断固裁判を継続する覚悟を固めていたが、最終的には大阪に残した家族の生活を案じて取引に応じて訴えを取り下げ、釈放された[30]。なお、1945年(昭和20年)の日本の敗戦に伴う台湾光復によって台湾人は中華民国籍を付与され、1952年(昭和27年)にサンフランシスコ平和条約の発効によって日本国籍の喪失が確認された(平和条約国籍離脱者)。
大阪華銀の破綻、背任罪で有罪判決
[編集]収監中に営んでいた事業を整理していたため、事業家としての人生は振り出しに戻ってしまった[31]。大阪に新設された信用組合の大阪華銀から懇願され、その理事長に就任したが、1957年(昭和32年)9月に大阪華銀は破綻し「いよいよ無一文になった」[32]。この破綻において安藤は小豆の買い占めに大阪華銀の資金を流用したとして背任罪に問われ、執行猶予つきの有罪判決を受けた[33][34]。 なお、百福はこの件において、信用組合と親密な関係にあった銀行に対し不信感を抱いたことから「銀行には頼らない」と心に決め、日清食品の経営時には無借金を貫いた[35]。
インスタントラーメンの開発
[編集]大阪府池田市の自宅敷地内に小屋を作り、かねてから構想を抱いていたインスタントラーメン(即席めん)作りに取り組んだ。安藤はインスタントラーメンを、
- おいしくて飽きがこない。
- 保存性がある。
- 調理に手間がかからない。
- 安価である。
- 安全で衛生的。
の5要件を満たすものと定義した[36][37][38][39]。そして早朝から深夜まで小屋に籠り、インスタントラーメン作りに取り組む生活を1年間続けた[40]。
開発の過程は失敗を繰り返しながら少しずつ前進するというもので、開発成功の決定的な場面は思い浮かばないという[41]。安藤はまず、スープの味を染み込ませた「着味麺」の開発に取り組んだ。小麦粉の中にスープを染み込ませて味の付いた麺を作ろうとしたが、製麺機にかけるとボロボロになって切れた。そこで麺を蒸してからスープに浸してみたが、今度は生地が粘ついて乾燥しにくいという問題が生じた。試行錯誤の末、じょうろを使って生地にスープをかけ、しばらく自然乾燥させた後に手でもみほぐすという方法を考案した[42]。スープはチキンスープを選んだ。きっかけは庭で飼っていたニワトリが調理中に暴れたことに驚いて以来鳥肉を口にしなくなった息子が、鳥ガラでとったスープで作ったラーメンだけは食べたことにあった[43]。
次に、麺を長期間保存ができるように乾燥させ、かつ熱湯をかけるとすぐに食べることができる状態になる性質を持たせることに挑んだ。ある時に天ぷらからヒントを得て、麺を高温の油で揚げることにした[44][45]。安藤が意図したのは、麺を高温の油で揚げると水分がはじき出されると同時に麺に無数の穴が開き、熱湯を注いだ際にはその穴から湯が吸収されて麺が元に戻りやすくなるという仕組みであった。しかし麺の固まりを油の中に入れるとバラバラに分解して浮かび上がるため、針金と金網を使って枠型を作り、その中に麺を入れて揚げる手法を考案した。これら一連の製法は「瞬間油熱乾燥法」と名付けられ[46]、1962年(昭和37年)に特許を取得した[39][47]。安藤は、油熱乾燥させたラーメンは独特の香ばしさを持つようになるが、その香ばしさこそがおいしさの秘密であり、普通のラーメンとは違う食べ物にしているのだと述べている[48]。
即席麺「発明」への疑義
[編集]しかし、以上のような、安藤百福が即席麺を「発明」した、という見解には疑問が寄せられている。
安藤の出身地である台湾では、1946年には、「雞絲麵 (鶏糸麺、ケーシーメン、ジースーミエン)」と呼ばれる、油で麺を揚げて保存し、お湯を注いで食べる鶏出汁スープの麺が考案されている[49][50][51][52][53]ほか、台南では、ちぢれ麺である「伊麺(イーメン)」を油で揚げた上で蒸すなどして食す食べ方が大正時代から存在しており[52][51]、こうした油揚げの即席麺は台湾では広く定着し[53]、いずれも現在まで食されている[50][52]。
さらに、即席麺を日本で商品化したのも安藤が最初ではなかった。1958年春、チキンラーメンが発売される以前に、安藤と同じく台湾出身の張國文が即席麺「長寿麺」を発売した[51][54]。これは、お湯を注ぐだけでスープに入った麺が食べられる即席ラーメンであり[54]、南極観測隊にも採用された[51]。張は同年12月、安藤が特許出願を行うよりやや早い時期に、味付乾麺の特許を出願した[54][55]。また、同年、チキンラーメンの発売より前に、台湾出身で大和通商社長の陳栄泰が即席「ケーシーメン」を東京の百貨店で販売しており[49]、一説には、陳のケーシーメンに興味を持った安藤が代理店の株主となり、日本人の口に合うように改良したものがチキンラーメンであるとも言われている[49]。
即席麺の特許を巡っては、安藤、張に加えて、「鶏糸麺」の特許を出願した台湾人もおり[54]、特許を巡って三つ巴の争いとなった。しかし、張の特許申請が認められる直前に、日清食品は張の特許を2300万円(現在の約3億円)で買い取った[注釈 2][55]。
チキンラーメンの開発
[編集]インスタントラーメンの開発は1958年(昭和33年)の春にはほぼ完了した[56]。貿易会社を通じて試作品をアメリカ合衆国に送ったところ注文が入り、日本で発売する前に日本国外への輸出が行われた[57]。同年夏には「チキンラーメン」という商品名で日本での発売を開始。安藤によると、チキンラーメンの需要は「ある日突然に爆発した」[58]。価格をうどん玉6円、乾麺25円に対し35円に設定したことや、安藤が当時の慣例とは異なる(2-3か月の手形決済が普通だった)現金決済を要求したことから問屋の反応は芳しくなかったが、ある時小売店から問屋への注文が殺到するようになり、問屋から「現金前払いでもいいから」と注文が入るようになったという[59]。三菱商事、東京食品、伊藤忠商事の3社と販売委託契約を結び流通網を整え、同時に大量生産を可能にするべく大阪府高槻市に2万4000平方メートルの敷地を購入して工場を建設した。
この頃、製麺機の幅について技術者との検討中に切歯へ右手を差し出した際、薬指が第一関節あたり皮一枚でつながっている状態の怪我を負った。医師が後の責任が負えないので切断するしかないと言うのに対し、自分が責任を持つのでくっつけてくれと依頼し、無事に接合された[60]。 相手が専門家だからといって、なんでも鵜呑みにしてはいけないと考える機会となったという[61]。
安藤によると「いくら売っても需要に追いつかない」日々が続き、工場用地の購入代金をチキンラーメンの売り上げ1か月分で賄うことができたという[62]。安藤はチキンラーメンがヒットした要因に、
の3つを挙げている[63][64]。1963年(昭和38年)10月、安藤が経営する日清食品[注釈 3](かつての中交総社)は東京証券取引所、および大阪証券取引所(現在は市場統合)の第二部に上場した[65]。
なお、チキンラーメンがヒットすると「チキンラーメン」と銘打ったりパッケージをチキンラーメンに似せた類似品が多数出回るようになった。日清食品はチキンラーメンに関する商標や特許を申請・登録し、類似品の販売差し止めを求める裁判を起こすなどしてチキンラーメンのブランドを守ることに努めたが、それに対し類似品を販売する業者が「全国チキンラーメン協会」を設立し、「チキンラーメンは普通名詞である」と訴えて商標登録に異議を申し立てるなどチキンラーメンをめぐる法的紛争は数年にわたって続いた。これに対し食糧庁は業界の協調体制を整えるよう勧告を出し、これを受けて日清食品など56社が1964年(昭和39年)に社団法人日本ラーメン工業協会(現在の一般社団法人日本即席食品工業協会)を設立、安藤は同協会の理事長に就任した[66]。
なお日清食品はこの時申請・登録が遅れた経験を生かし、後にカップヌードルを発売した際には発売前に特許出願を行うなどして紛争に備えた[67]。安藤は特許について、「異議申し立てが多いほど実力がある」、「異議申し立てを退けて成立した特許は、常に強力である」と述べている[68]。また、日本ラーメン工業協会設立後に所得した特許についても、きちんと契約をした上で、要望があれば使用許諾を行っていた[69]。
類似品を含めインスタントラーメンの生産が盛んになるにつれ、麺を質の悪い油で揚げるなど品質に問題のある商品が市場に出回るようになった。安藤は法律によって義務付けられる前に自社製品のすべてに製造年月日の表示を行い、日本ラーメン工業協会においても成分表示や製造基準に関する検討を行い、インスタントラーメンに関する日本農林規格を制定するよう農林省に要請を行うなど、インスタントラーメンの安全、信頼の確保のための仕組み作りに取り組んだ[70]。
カップヌードルを開発
[編集]1966年(昭和41年)、視察のために訪れたアメリカ合衆国で新商品開発のヒントを掴んだ。あるスーパーマーケットへチキンラーメンを持ちこんだところ、麺を入れるどんぶりがなく、相手は紙コップの中にチキンラーメンを割ったものを入れ、湯をかけてフォークで食べた。それを見て欧米人には箸とどんぶりでインスタントラーメンを食べる習慣がないことを改めて認識し、カップに入れてフォークで食べられるインスタントラーメン、カップヌードルの開発に着手した[71][72][73]。
カップの素材として、断熱性が高く、経済性に優れたポリスチレンに着目。食品容器にふさわしい品質に精製し、当時厚さ2センチメートルほどに加工されるのが一般的であったところを2.1ミリメートルまで薄くした。完成した容器について、「画期的な技術革新」であったと述べている[74]。
開発において最も苦労したのは、カップの中に入れる厚さが約6センチメートルの麺の固まりをいかに均一に揚げるかということだった。固まりのまま揚げると中まで油熱が通らないため、バラバラにした麺を揚げると油熱の通った順に浮き上がってくること利用し、バラバラにした麺を枠型の中に入れて揚げ、先に浮き上がった麺が後から揚がった麺に押し上げられてカップと同じ形状に固まる仕組みを編み出し、均一に揚がった厚さ6センチメートルの麺の固まりを作り出すことに成功した[75]。
麺の固まりが壊れるのを防ぐため、固まりの直径はカップの底部より大きくし、容器の中で宙づりの状態にして固定された。固まりを容器と水平にして固定することに苦労したが、容器の中に麺を入れるのではなく麺の固まりの上から容器をかぶせる方法を考案した。この方法は実用新案登録された[76]。
安藤は容器が包装材料、調理器具、食器の3役をこなす画期的な商品が完成したのではないかという感触を得たが、マスコミや問屋からの評判は冴えず、スーパーマーケットなど正規のルートで販売することができなかった[77]。そこで給湯設備付きの自動販売機を設置したところ、売れ行きがよく、徐々に取り扱う問屋が現れるようになった[78]。
カップヌードルの需要が爆発的に高まるきっかけとなったのは、当時日清食品が一社提供を務めていた若者向け音楽バラエティ番組『ヤングOH!OH!』で繰り返しCMを放送した事と、1972年(昭和47年)に起こったあさま山荘事件であった。この事件の際、山荘を包囲する機動隊員がカップヌードルを食べる姿が繰り返しテレビで放映されたことにより大きな話題を集め、生産が追いつかなくなるほどの売れ行きを見せるようになった[79]。カップヌードルは日清食品にとってチキンラーメン以来のヒット商品となり、1972年に同社は東京証券取引所、大阪証券取引所、および名古屋証券取引所の第一部に上場した[80]。
カップライスの失敗
[編集]1974年(昭和49年)7月、日清食品は「カップライス」を発売した。この商品は食糧庁長官から「お湯をかけてすぐに食べられる米の加工食品」の開発を持ちかけられたことがきっかけとなって完成したものであった[81][82]。カップライスを試食した政治家や食糧庁職員の評判はすこぶる高く、マスコミは「奇跡の食品」、「米作農業の救世主」と報道した。「長い経営者人生の中で、これほど褒めそやされたことはなかった」と述懐している[83][82]。
だが、価格が「カップライス1個で袋入りのインスタントラーメンが10個買える」といわれるほど高く設定された(原因は米が小麦粉よりもはるかに高価なことにあった)ことがネックとなって消費者に敬遠され、早期撤退を余儀なくされた[84]。安藤は日清食品の資本金の約2倍、年間の利益に相当する30億円を投じて、カップライス生産用の設備を整備していた[85][86]が、「30億円を捨てても仕方がない」と覚悟を決めたという[87]。この時の経験について安藤は、「落とし穴は、賛辞の中にある」と述べている[86]。
社長の座を息子へ、会長就任
[編集]1981年(昭和56年)、社長の座を長男の安藤宏寿(母親は台湾時代の第1夫人の黄綉梅)に譲り、自らは会長に退くが、その2年後の1983年(昭和58年)、宏寿が経営方針の相違から社長を退任したため、百福が会長兼任で再び社長に復帰した[88]。1985年(昭和60年)6月に次男の宏基(母親は3人目の妻安藤仁子)が社長に就任し(宏基は現在日清食品ホールディングスのCEO)、再び会長専任となった[89]。
社長退任後、安藤はかねてから関心を寄せていた「日本人は何を食べてきたのか」というテーマを探求すべく、4年間にわたり日本各地を巡って郷土料理を食べる旅に出た[90]。続いて「いつ、誰が、どこで、ラーメンを生みだしたのか」という疑問から中国、中央アジア、イタリアなどを巡る旅に出た[91]。1987年(昭和62年)、食文化の探究のために「麺ロード調査団」を結成して料理研究家の奥村彪生とともに上海、南京、揚州、広州、厦門、福州、成都、北京、西安、蘭州、ウルムチ、トルファンなど中国全土を巡って300種類を超える麺を食べた[92][93]。さらに文化人類学者の石毛直道にシルクロードを通じて世界各地に伝搬した麺の歴史を研究させて麺の系譜図を完成させた[92]。調査の結論として安藤は、「ラーメンは中国を起源とし、シルクロードを通ってイスラム世界に伝わり、さらにイタリアへ伝わった」と見解を示している[91]。
1996年(平成8年)、食品業界におけるベンチャーを奨励するために基金を設立し、基金をもとに「食創会(新しい食品の創造開発を奨める会)」が設立された。食創会は日本経済新聞社の後援の下、食品研究・開発者を対象とした安藤百福賞を主催している[94]。
1999年(平成11年)、安藤がチキンラーメンを開発した大阪府池田市にインスタントラーメン発明記念館が建設された。記念館の中には安藤が開発研究を行った小屋が再現された。(この小屋には「研究や発明は立派な設備がなくてもできる」という思いが込められているとのことである[95]。)2001年(平成13年)には日本経済新聞『私の履歴書』において自伝を執筆。安藤は「自らの人生の浮き沈みを世の中に語って、果たして何の意味があるのか」という思いから日経新聞からの要請を断り続けていたが、「何か人に言えない具合の悪いことでもあるのか」と担当者に言われたことに反発し、執筆を決意した[96]。
2002年(平成14年)頃から宇宙食ラーメン「スペース・ラム」の開発に取り組んだ。スペース・ラムには無重力空間でもスープが飛び散らないよう粘度を高め、スペースシャトル内で給湯可能な70度の湯で調理ができるようにする、麺をボール状にするなどの工夫が施された[97][98][99]。 スペース・ラムは2005年(平成17年)7月にアメリカ合衆国が打ち上げたスペースシャトル「ディスカバリー」に搭載され、宇宙飛行士の野口聡一によって食された[100][101][102]。 野口が最初に食べた「スペース・ラム」は「とんこつ味」だったという[99]。
晩年
[編集]2005年(平成17年)、安藤は95歳にして健康な身でありながらも、自ら6月2日の取締役会に発議して、役員任期が満了となる6月29日をもって日清食品の代表取締役会長を退任するとともに、1代かぎりの「創業者会長」(経営執行権のない名誉職)に就任した[103][注釈 4]。役員異動の発表の中で「安藤スポーツ・食文化振興財団の理事長職に専念し、スポーツ、自然体験、食育の振興などを通じ、明日をになう子供たちの健全な心身の育成に力を注ぎたい」という安藤の申し出によることが述べられている。なお、当該財団は、日清食品創立25周年にあたる1983年(昭和58年)に、当時の少年非行の社会問題化への対策として、子供たちの健全な心身育成につながるスポーツの振興を目的に設立されたものであり、その後、2002年(平成14年)に「日清スポーツ振興財団」から「安藤スポーツ・食文化振興財団」へ名称変更された際に、安藤は退職金全額から投じて[105]財団への10億円の寄付を行っている[106](2012年4月1日、公益財団法人に移行)。
2006年(平成18年)、タイム誌アジア版11月13日号のアジア版60周年記念特集「60年間のアジアの英雄」において、アジアの英雄の一人に選ばれた[107][108]。
90歳を過ぎても健康体を維持し、趣味のゴルフも土砂降りでもコースを回るほど熱中し、京都府の日清都カントリークラブに年間100回以上通っていた[109]。
2007年(平成19年)1月5日の早朝に38℃の高熱を出し、同日の夕方に急性心筋梗塞のため大阪府池田市の市立池田病院で死去[110]。享年97(満96歳没)。3日前には幹部社員とゴルフをし[111]、18ホールを回ったという。亡くなる前日には仕事始めで立ったまま約30分の訓辞を行い[111]、昼休みには社員と餅入りのチキンラーメンを食べたという[112]。96歳まで生涯現役で、波乱万丈の実業家人生を終えた。長寿・健康の秘訣を聞かれると必ず「週2回のゴルフと毎日お昼に欠かさず食べるチキンラーメン」と答えるのが口癖だった。生前に残した言葉の中から、「食足世平[注釈 5]」「食創為世」「美健賢食」「食為聖職」の4つが日清食品グループの創業者精神として継承されている。
同年1月9日付の米紙ニューヨーク・タイムズは社説でその死を悼み[113]、「ミスターヌードルに感謝」という見出しを掲げ、即席麺開発の業績により「安藤氏は人類の進歩の殿堂に不滅の地位を占めた」と絶賛した。同社説は「即席めんの発明は戦後日本の生んだ独創的な発明品、シビック、ウォークマンやハローキティのように、日本から世界的に普及した製品と同じく会社組織のチームで開発された奇跡だと思っていたがそうではなかった。安藤百福というたった一人の力で開発されたものなのである」と驚きを表現した[114]。 さらに社説は「人に魚を釣る方法を教えればその人は一生食べていけるが、人に即席めんを与えればもう何も教える必要はない」と結んでいる。
2月27日、大阪市の京セラドーム大阪にて社葬が行われた。「宇宙葬」と名付けられた社葬において、百福は星々に彩られながら、多くの参列者に見送られた[111]。葬儀委員長は生前から安藤と親交があった中曽根康弘元首相が務め、小泉純一郎元首相、福田康夫元首相夫妻などのほか、政官学界、実業界から親交の深かった6,500名が参列し別れを惜しんだ。戒名は「清寿院仁誉百福楽邦居士」。没後、天皇より正四位に叙され[115]、叙位叙勲は「正四位勲二等旭日重光章」となった[111]。
死後
[編集]2008年(平成20年)4月8日、世界各国の即席麺メーカーが参加する「第6回世界ラーメンサミット」が大阪で行われるのを記念して、インスタントラーメン発明記念館(現・安藤百福発明記念館 大阪池田)の正面広場に安藤の銅像が建てられた[116]。 同日、仁子夫人、中曽根康弘元首相らが参加して[要出典]除幕式が行われた。銅像はカップヌードルの容器をかたどった台座の上に立ち、右手にはチキンラーメンが掲げられた[117][118]。 安藤の功績を称える碑文は中曽根元首相の手によるもので、「安藤百福翁は勤勉力行、不屈不撓の人である。1910(明治43)年に生を受け、幼くして両親を無くし、自立独立の道を歩む。敗戦後、無一文の苦境から立ち上がり、困難を克服して世界初の即席めん「チキンラーメン」を開発、次いで世界初のカップ麺「カップヌードル」を発明、日本の食生活に一大革命を起こす。百福翁の蒔いた一粒の種が国境を越えて世界に伝播し、ついに総需要九百億食を超える世界食となる(後略)」と記されている[119]。
安藤の創業した日清食品は2008年(平成20年)10月1日付で持株会社制に移行し、「日清食品ホールディングス」に商号変更され、同時に事業会社として「日清食品(株)」が新たに設立されている。また同年、日清食品グループが創立50周年を迎えたのを機に、次の50年(創立100周年となる2058年)に向けて、企業プロジェクト「
2015年3月5日には生誕105周年を記念したGoogle Doodleが日本やアメリカ合衆国、南米の数カ国、オーストラリアなどの複数の国向けに表示された[120]。
生誕100年
[編集]2010年(平成22年)は安藤百福の生誕100年にあたり、記念商品[注釈 6]が発売された[121][122][123]ほか、テレビの特別番組(『インスタントラーメン発明物語 安藤百福伝』[注釈 7]、『こだわり人物伝「安藤百福~遅咲きのラーメン王」』[注釈 8]が放映されたほか、記念イベント[注釈 9][注釈 10]も開催された。なお、同年3月17日には百福の妻仁子が92歳で生涯を閉じている[128]。2011年(平成23年)9月17日、神奈川県横浜市中区のみなとみらい21地区で安藤百福発明記念館(カップヌードルミュージアム、現・安藤百福発明記念館 横浜)が開館した。同年、子どもたちの自然体験活動の奨励に熱心だった安藤の思いを引き継ぎ、安藤百福記念 自然体験活動指導者養成センター(愛称「安藤百福センター」)が長野県小諸市に誕生している。
家族・親族
[編集]- 祖父 - 呉武
- 父 - 呉獅玉(別名は呉阿獅)
- 母 - 呉千緑
- 妻 - 黄綉梅(ファン・シウメイ、1907 - 2011)台湾時代の第1夫人。幼少期に百福の実家で新婦仔(シンプア、裕福な家庭の男児の妻にするため買い取られて育てられる養女)として育ち、大房(=正妻)として1928年に結婚し、新北市新店区の高齢者施設で104歳で死去[129]。
- 妻 - 呉金鶯(ウー・ジンイン、1919 - 1971)台湾時代の第2夫人(二房)。台湾では一夫多妻が1970年頃まで許容されていた[129])。奈良女子高等師範学校の保姆養成科在学中だった1938年ごろ台北で百福と出会い[130]、翌年から大阪で同棲、実子のほか、正妻の長男・宏寿を引き取って育てた[129]。1945年頃台湾に帰国し、国民党軍の軍人と再婚したが離婚、百福からの仕送りのほか、野菜を売ったり台湾製品を日本に横流しするなどで糊口を凌ぎ、双極性障害を患った末に52歳で死去した[129]。
- 妻 - 安藤仁子(1917-2010)[129]、3人目の妻(重婚)[131]。安藤重信の三女。安藤家は福島県二本松神社の神職一族で、当地では名家。百福は大阪の関西財界の社交場「大阪倶楽部」の受付嬢だった仁子と1943年ごろから交際を始め、正妻との婚姻関係を解消しないまま所帯を持ち1945年に結婚し[130]、1966年に日本国籍を取得した[129]。仁子との婚姻については大阪家庭裁判所は2005年5月27日、「黄綉梅との婚姻関係が法的に解消されていず、重婚であり無効」との一審判決を出した[129]。仁子は2010年に92歳で亡くなった[128]。連続テレビ小説『まんぷく』ヒロイン立花福子のモデル(安藤サクラが演じた)。
栄典
[編集]- 藍綬褒章(1977年)
- 勲二等瑞宝章(1982年)
- 紺綬褒章(1983年)
- 科学技術庁長官賞「功労者賞」(1992年)
- 立命館大学名誉博士号(1996年)[132]
- 勲二等旭日重光章(2002年)
- 正四位(2007年)
著作
[編集]著書
[編集]単著
[編集]- 『奇想天外の発想』講談社、1983年7月4日。ISBN 9784062006514。NDLJP:12102418。
- 『食足世平 日本の味探訪』講談社、1985年3月5日。ISBN 9784062015806。NDLJP:12101649。
- 『続 食足世平 日本の味探訪』講談社、1987年7月22日。ISBN 9784062034715。NDLJP:12100189。
- 『安藤百福語録』日清食品、1987年3月。
- 『苦境からの脱出 激変の時代を生きる』フーディアム・コミュニケーション、1992年5月。ISBN 9784938642051。
- 『食は時代とともに 安藤百福フィールドノート』旭屋出版、1999年3月。ISBN 9784751101575。
- 『魔法のラーメン発明物語 私の履歴書』日本経済新聞社、2002年3月。ISBN 9784532164102。
- 『安藤百福氏 日清食品代表取締役会長』加護野忠男インタビュアー、「関西企業家ライブラリーの構築」研究グループ・大阪商工会議所大阪企業家ミュージアム〈関西企業家映像ライブラリー 10〉、2002年3月。
- 『100歳を元気に生きる 安藤百福の賢食紀行』中央公論新社、2005年5月。ISBN 9784120036378。
- 『食欲礼賛』PHP研究所、2006年6月。ISBN 9784569654416。
- 『インスタントラーメン発明王安藤百福かく語りき』中央公論新社、2007年2月。ISBN 9784120038136。
- 『安藤百福かく語りき 日清食品株式会社創業者』日清食品広報部、2007年8月。
- 『魔法のラーメン発明物語』日本経済新聞出版社〈日経ビジネス人文庫 456〉、2008年8月。ISBN 9784532194567。
- 安藤百福発明記念館 編『転んでもただでは起きるな! 定本・安藤百福』中央公論新社、2013年3月。ISBN 9784120044694。
- 安藤百福発明記念館 編『転んでもただでは起きるな! 定本・安藤百福』中央公論新社〈中公文庫 あ76-1〉、2013年11月。ISBN 9784122058699。
編集
[編集]- 『食の未来を考える 「郷土料理に学ぶ」食と健康フォーラム・1986』日清食品総務部広報課、1986年9月10日。NDLJP:12168998。
- 『麺ロードを行く』講談社、1988年3月。ISBN 9784062038478。
- 『美健賢食 新和風薬膳のすすめ』フーディアム・コミュニケーション、1989年6月。ISBN 9784938642013。
- 『時代に学ぶ美健賢食』フーディアム・コミュニケーション、1990年6月。
- 『日本めん百景』フーディアム・コミュニケーション、1991年9月。ISBN 9784938642020。
監修
[編集]- 『麺談 文化麺類学』フーディアム・コミュニケーション、1994年5月。ISBN 9784938642075。
- 奥村彪生『進化する麺食文化 ラーメンのルーツを探る』フーディアム・コミュニケーション、1998年6月。ISBN 9784938642099。
- 奥村彪生『麺の歴史 ラーメンはどこから来たか』KADOKAWA〈角川ソフィア文庫 N-226-1〉、2017年11月。ISBN 9784044002923。
論文等
[編集]- 「歴史に思う」『経済人』第36巻第12号、関西経済連合会、1982年12月、56-59頁、NAID 40000881192。
- 「日本の食文化変容が意味するもの〔日清食品会長に聞く〕」『エコノミスト』第61巻第4号、毎日新聞社、1983年2月、58-61頁、NAID 40000230223。
- 「方向感乏しい日米関係」『経済人』第49巻第2号、関西経済連合会、1995年2月、4-7頁、NAID 40000882012。
- 「“即席めんのパイオニア”安藤百福(日清食品会長)が語る「ベンチャー精神の秘密」」『経済界』第31巻第17号、経済界、1996年8月、32-35頁、NAID 40000846006。
- 「現代を生きる刮目の経営者 日清食品会長 安藤百福――「人類はめん類」を世界に広める」『政経人』第49巻第3号、政経社、2002年3月、96-101頁、NAID 40002030150。
- 「安藤百福会長の激白」『日経ビジネス』第1230号、日経BP社、2004年2月、30-33頁、NAID 40006109372。
- 「安藤百福 日清食品社長 競合が増えても味覚は正直 消費者は日清食品に戻ってくる」『週刊ダイヤモンド』第102巻第1号、ダイヤモンド社、2014年12月、12頁、NAID 40019919834。
特集された番組
[編集]- プロジェクトX 挑戦者たち(NHK総合)魔法のラーメン 82億食の奇跡 〜カップめん・どん底からの逆転劇〜 2001年10月16日放送
- 経済ドキュメンタリードラマ ルビコンの決断(テレビ東京)”食の安全” をどう守ったのか? インスタントラーメン開発者の決断 2009年6月4日放送
- こだわり人物伝(NHK教育)安藤百福 遅咲きのラーメン王
- 奇跡体験!アンビリバボー(フジテレビ)絶対諦めなかった奇跡SP『世界が絶賛した日本人 偉大なる大発明』2013年8月22日放送
- 昭和偉人伝 安藤百福(BS朝日)2014年2月5日放送
- チキンラーメン60周年 注ぎたくな~るTV(中京テレビ)2018年8月25日放送
- NHK映像ファイル あの人に会いたい アンコール〜安藤百福 <実業家>(NHK総合)2018年9月29日放送
- まんぷく(2018年10月1日 - 2019年3月30日放送、NHK)- 日清食品の創業者夫妻をモデルとして、世界初となるインスタントラーメン「チキンラーメン」の開発を成功させるまでの物語[137]。
- 先人たちの底力 知恵泉(ちえいず)・選「インスタントラーメンの父 安藤百福」(NHKEテレ)2019年1月1日放送
- 歴史秘話ヒストリア「まんぷく家族が生んだ魔法のラーメン」(NHK総合)2019年3月6日放送
演じた俳優
[編集]- 中村梅雀(連続テレビ小説「てるてる家族」、2003年)安藤をモデルとした登場人物「安西千吉」役
- 渡辺いっけい(「経済ドキュメンタリードラマ ルビコンの決断」、2009年)
- 原田龍二(「インスタントラーメン発明物語 安藤百福伝」、2010年)
- 長谷川博己 (連続テレビ小説「まんぷく」、2018年)安藤をモデルとした登場人物「立花萬平」役
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ ただし安藤によると、実際に重労働をさせられることはなかったという。
- ^ 日清食品はこの特許買い取りについて、市場環境整備のためであると説明している[55]。
- ^ 2008年10月1日付で持株会社制移行に伴い「日清食品ホールディングス」に称号変更した。同時に事業会社として「日清食品(株)」が新たに設立されている。
- ^ 「創業者会長」への就任日は、代表取締役会長の退任日と同じ2005年6月29日[104]。
- ^ この言葉に基づき、災害時にはインスタントラーメンの提供などの支援活動を行ってきた(第9弾 “チキンラーメン&カップヌードル保存缶”プロジェクト - 日清食品ホールディングス)。
- ^ チキンラーメン、カップヌードルの各記念パッケージ(チキンラーメンは発売開始当時(1958年)の35円、カップヌードルは同(1971年)100円の特別価格が設定された)、特別企画商品「百福長寿麺」(鶏だし塩ラーメン、鴨だしそばの2種。麺の長さはカップ麺史上最長の100cm)。
- ^ 毎日放送制作、2010年(平成22年)3月5日放送(TBS系JNN28局ネット)。チキンラーメン誕生にまつわる秘話や、百福の生涯をたどる再現ドラマなどで構成された[124][125]。
- ^ NHK教育テレビ『知る楽・水曜 こだわり人物伝』において2010年(平成22年)5月5日から5月26日にかけて4週連続の特集。
- ^ 2010年3月27日より、東京都江東区豊洲のアーバンドック ららぽーと豊洲において、百福生誕100年の記念イベント「インスタントラーメン発明物語〜安藤百福 生誕百年 記念展〜」を開催した[126]。
- ^ 安藤の出身地である大阪府池田市のインスタントラーメン発明記念館(現・安藤百福発明記念館 大阪池田)では、2010年3月27日から5月10日まで、特別展示「インスタントラーメンを科学しよう!」を開催した[127]。
出典
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- ^ 第3回「父と子の“フードバトル”」 - NHKアーカイヴス 2010年5月19日
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参考文献
[編集]- 安藤百福『食欲礼賛』PHP研究所、2006年。ISBN 978-4569654416。
- 安藤百福『魔法のラーメン発明物語』日本経済新聞出版社〈日経ビジネス人文庫〉、2008年。ISBN 978-4-532-19456-7。
- 鈴田孝史(編・著) 編『日清食品会長安藤百福のゼロからの「成功法則」』かんき出版、2004年。ISBN 4-7612-6150-1。
- 安藤百福『転んでもただでは起きるな! - 定本・安藤百福』中央公論新社、2013年。ISBN 978-4122058699。
- 神奈川県立図書館・神奈川県立川崎図書館 編「安藤百福」『社史と伝記にみる日本の実業家――人物データと文献案内』神奈川県立図書館、2012年3月、244-251頁 。
関連項目
[編集]- 安藤百福発明記念館(カップヌードルミュージアム)
- エルヴィス・コステロ - 2008年発表のアルバムに『momofuku』と命名
- 高槻市 - 現在の日清食品HDのかつての本店所在地
- 大阪企業家ミュージアム
- 大阪府出身の人物一覧
外部リンク
[編集]- カップヌードルミュージアム・ホームページ
- 財団法人 安藤スポーツ・食文化振興財団
- インスタントラーメン発明記念館
- 安藤百福クロニクル
- 英エコノミスト誌による追悼記事
- Ph.D (Piled Higher and Deeper) での追悼記事
- 安藤百福 - NHK人物録
- 『安藤百福』 - コトバンク