「パルティア」の版間の差分
m →宗教 |
m →王権と称号: 微修正 |
||
(7人の利用者による、間の44版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
{{出典の明記|date=2009年4月}} |
|||
{{基礎情報 過去の国 |
{{基礎情報 過去の国 |
||
|略名 = パルティア |
|略名 = パルティア |
||
8行目: | 7行目: | ||
|先代1 = セレウコス朝 |
|先代1 = セレウコス朝 |
||
|先旗1 = Vergiasun.svg |
|先旗1 = Vergiasun.svg |
||
|次代1 = |
|次代1 = サーサーン朝 |
||
|次旗1 = |
|次旗1 = Derafsh Kaviani.png |
||
|次代2 = |
|次代2 = |
||
|次旗2 = |
|次旗2 = |
||
|国旗画像 = |
|国旗画像 = |
||
|国旗リンク = <!--「"略名"の国旗」以外を指定--> |
|国旗リンク = <!--「"略名"の国旗」以外を指定--> |
||
|国旗説明 = |
|国旗説明 = |
||
|国旗幅 = <!--初期値125px--> |
|国旗幅 = <!--初期値125px--> |
||
|国旗縁 = <!--no と入力すると画像に縁が付かない--> |
|国旗縁 = <!--no と入力すると画像に縁が付かない--> |
||
|国章画像 = |
|国章画像 = <!--画像ファイル名を入力--> |
||
|国章リンク = |
|国章リンク = |
||
|国章説明 = |
|国章説明 = |
||
|国章幅 |
|国章幅 = <!--初期値85px--> |
||
|標語 = |
|標語 = |
||
|国歌名 = |
|国歌名 = |
||
|国歌追記 = |
|国歌追記 = |
||
|位置画像 = Location of Parthia.svg |
|位置画像 = Location of Parthia.svg |
||
|位置画像説明 = 紀元前50年頃のパルティアの |
|位置画像説明 = 紀元前50年頃のパルティアの領域 |
||
|公用語 = [[古代ギリシア語|ギリシア語]]<ref name="Green 1992 45"/>、[[パルティア語]]<ref group="注釈">{{cite web|last1=Skjaervo|first1=Prods Oktor|title=IRAN vi. IRANIAN LANGUAGES AND SCRIPTS (2) Doc – Encyclopaedia Iranica|url=http://www.iranicaonline.org/articles/iran-vi2-documentation|website=www.iranicaonline.org|publisher=Encyclopedia Iranica|accessdate=8 February 2017|language=en|quote=パルティア語。それはカスピ海の東の地域の現地語および、パルティア国家(アルサケス朝を参照)の公用語であり、石碑と金属の銘文(コインと印象を含む)と、パルティアの首都ニサで発見されたワインのツボの陶片ラベル、そして同様にマニ教の文書から知られている。}}</ref> [[中世ペルシア語]]、[[アラム語]](共通語)<ref name="Green 1992 45">{{harvnb|Green|1992|p=45}}</ref><ref group="注釈">{{cite book|last=Chyet|first=Michael L.|editor1-last=Afsaruddin|editor1-first=Asma|editor2-last=Krotkoff|editor2-first=Georg|editor3-last=Zahniser|editor3-first=A. H. Mathias|title=Humanism, Culture, and Language in the Near East: Studies in Honor of Georg Krotkoff|year=1997|publisher=[[Eisenbrauns]]|isbn=978-1-57506-020-0|page=284|quote=中世のペルシア(パルティアとサーサーン朝)において、アラム語は日常的な文章の媒体であり、[[中世ペルシア語]]、[[パルティア語]]、[[ソグド語]]、[[ホラズム語]]は[[アラム文字]]を採用した。}}</ref> [[アッカド語]] |
|||
|公用語 = [[パルティア語]] |
|||
|首都 = [[ニサ (トルクメニスタン)|ミトラダトケルタ]]、 |
|首都 = [[クテシフォン]]、[[エクバタナ]]、[[ヘカトンピュロス]]、[[スサ]]、[[ニサ (トルクメニスタン)|ミトラダトケルタ]]、{{仮リンク|アサーク|en|Asaak}}、[[シャフレ・レイ|ラゲス]] |
||
|元首等肩書 = [[ |
|元首等肩書 = [[諸王の王]] |
||
|元首等年代始1 = [[紀元前247年|前247年]] |
|元首等年代始1 = [[紀元前247年|前247年]]頃? |
||
|元首等年代終1 = [[紀元前211年|前211年]] |
|元首等年代終1 = [[紀元前211年|前211年]] |
||
|元首等氏名1 = [[アルサケス1世]](初代) |
|元首等氏名1 = [[アルサケス1世]](初代) |
||
|元首等年代始2 = [[紀元前123年|前123年]] |
|元首等年代始2 = [[紀元前123年|前123年]] |
||
|元首等年代終2 = [[紀元前88年|前88年]] |
|元首等年代終2 = [[紀元前88年|前88年]] |
||
|元首等氏名2 = [[ミトラダテス2世]] |
|元首等氏名2 = [[ミトラダテス2世]] |
||
|元首等年代始3 = |
|元首等年代始3 = |
||
|元首等年代終3 = |
|元首等年代終3 = |
||
40行目: | 39行目: | ||
|元首等年代始4 = [[216年]] |
|元首等年代始4 = [[216年]] |
||
|元首等年代終4 = [[224年]] |
|元首等年代終4 = [[224年]] |
||
|元首等氏名4 = [[アルタバ |
|元首等氏名4 = [[アルタバノス4世]] |
||
|元首等年代始5 = [[208年]] |
|元首等年代始5 = [[208年]] |
||
|元首等年代終5 = [[228年]] |
|元首等年代終5 = [[228年]] |
||
|元首等氏名5 = [[ヴォロガセス6世]] |
|元首等氏名5 = [[ヴォロガセス6世]] |
||
|面積測定時期1 = |
|面積測定時期1 = |
||
|面積値1 = |
|面積値1 = |
||
65行目: | 64行目: | ||
|人口値5 = |
|人口値5 = |
||
|変遷1 = 成立 |
|変遷1 = 成立 |
||
|変遷年月日1 = [[紀元前247年|前247年]] |
|変遷年月日1 = [[紀元前247年|前247年]]頃? |
||
|変遷2 = |
|変遷2 = |
||
|変遷年月日2 = |
|変遷年月日2 = |
||
|変遷3 = |
|変遷3 = |
||
|変遷年月日3 = |
|変遷年月日3 = |
||
|変遷4 = |
|変遷4 = アルタバノス4世死亡 |
||
|変遷年月日4 = [[224年]] |
|変遷年月日4 = [[224年]] |
||
|変遷5 = |
|変遷5 = ヴォロガセス6世死亡 |
||
|変遷年月日5 = [[228年]] |
|変遷年月日5 = [[228年]]頃 |
||
|通貨 = |
|通貨 = |
||
|注記 = |
|注記 = |
||
}} |
}} |
||
{{イランの歴史}} |
{{イランの歴史}} |
||
'''パルティア'''([[古典ギリシア語]]:{{lang|grc|Παρθία}}, [[古典ラテン語]]:Parthia, [[紀元前247年]]頃 - [[228年]])は、[[カスピ海]]南東部、[[イラン高原]]東北部に興った[[王国]]・[[遊牧国家]]である。[[パルニ氏族]]を中心とした[[遊牧民]]の長、[[アルサケス]]が建国した。 |
|||
'''パルティア'''({{IPAc-en|ˈ|p|ɑr|θ|i|ən}}、前247年-後224年)は古代イランの王朝。王朝の名前から'''アルサケス朝'''とも呼ばれ、日本語ではしばしばアルサケス朝パルティアという名前でも表記される。[[紀元前3世紀|前3世紀]]半ばに中央アジアの遊牧民の族長[[アルサケス1世]](アルシャク1世)によって建国され、ミトラダテス1世(ミフルダート1世、在位:前171年-前138年)の時代以降、現在の[[イラク]]、[[トルコ]]東部、[[イラン]]、[[トルクメニスタン]]、[[アフガニスタン]]西部、[[パキスタン]]西部にあたる、[[西アジア]]の広い範囲を支配下に置いた。[[紀元前1世紀|前1世紀]]以降、[[地中海世界]]で勢力を拡大する[[古代ローマ|ローマ]]と衝突し、特に[[アルメニア王国|アルメニア]]や[[歴史的シリア|シリア]]、[[メソポタミア]]、[[バビロニア]]の支配を巡って争った。末期には王位継承を巡る内乱の中で自立した[[ペルシス]]の支配者[[アルダシール1世]](在位:226年-240年)によって滅ぼされ、新たに勃興した[[サーサーン朝]]に取って代わられた。 |
|||
== 名称 == |
|||
=== アルサケス === |
|||
パルティア王国は、'''アルサケス朝'''({{lang-en-short|Arsacid dynasty}})とも呼ばれる。アルサケス({{lang-grc|Ἀρσάκης}}、{{lang-fa|ارشک}} <small>アルシャク</small>)は、[[アケメネス朝]]の[[アルタクセルクセス]](古代ペルシア語: {{unicode|Artaxšaçā-}} <small>アルタクシャサー</small>)に由来する。漢文史料では'''安息'''と音写されている。 |
|||
== 概要 == |
|||
パルティアという名称は、元来[[イラン高原]]北東部に位置する一地方名であり、[[アケメネス朝]](前550年頃 - 前330年)時代には'''パルサワ'''という名前で記録に登場する<ref name="小川山本1997pp234-235">[[#小川, 山本 1997|小川, 山本 1997]], pp. 234-235</ref><ref group="注釈">概ね、{{仮リンク|大ホラーサーン|label=ホラーサーン|en|Greater Khorasan}}西部にあたる{{harvnb|Bickerman|1983|p=6}}。</ref>。アルサケス朝という王朝の名前は、建国者とされる[[アルサケス1世]]([[古代ギリシア語]]:アルサケース、{{lang|grc|Ἀρσάκης}} ''Arsakēs''、[[パルティア語]]:アルシャク、 {{lang|xpr|𐭀𐭓𐭔𐭊}}、''Aršak'')から来ている<ref name="小川山本1997pp234-235"/><ref>{{harvnb|Brosius|2006|p=84}}</ref>。彼は中央アジアの遊牧民の一派、[[パルニ氏族]]の族長であり、前3世紀半ばにパルティア地方を征服してこの王朝を打ち立てた。以降、歴代の王たちは彼の名前、アルサケスを代々受け継いだ。 |
|||
'''パルティア'''は元々、パルティア王国の故地である東北イランの'''パルサワ'''([[古代ペルシア語]]:{{unicode|Parθava}})に由来し、[[ペルシア]]とは語源的に異なる。[[ストラボン]]『地理書』11.8 では {{lang|grc|Παρθυαία}} <small>パルテュアイア</small> としているが、[[プルタルコス]]『対比列伝』55 では {{lang|grc|Παρθία}} <small>パルティア</small> になっている<ref>{{el|[[s:el:Βίοι Παράλληλοι/Αντώνιος#p55|Βίοι Παράλληλοι/Αντώνιος]]}} (wikisource)</ref>。 |
|||
ミトラダテス1世(ミフルダート1世、在位:前171年-前138年)の時代には、シリアに本拠地を置くセレウコス朝から[[メディア王国|メディア]]と[[メソポタミア]]、[[バビロニア]]を奪い取り、その領土は大幅に拡大した。最盛期には、その支配は[[ユーフラテス川]]の北、現在の[[トルコ]]中央東部から、東は[[イラン]]高原にまで達した。パルティアの支配地は、[[地中海]]の[[古代ローマ|ローマ]]と、[[中国]]の[[漢]]朝の間の交易路である[[シルクロード]]上に位置しており、交易と商業の中心となった。 |
|||
『[[新約聖書]]』の『[[使徒行伝]]』2:9で、日本語訳聖書の[[文語訳聖書]]、[[口語訳聖書]]、[[新改訳聖書]]は「パルテヤ人」と訳している。 |
|||
パルティア人は様々な地域的文化を持つ領域を支配し、{{仮リンク|イランの文化|label=ペルシア|en|Culture of Iran}}や[[ヘレニズム|ギリシア]]、そして更に各地の文化から、芸術、建築、宗教的信条、王権観など様々な要素を採用した。アルサケス朝の治世の前半には、宮廷は{{仮リンク|ギリシア文化|en|Culture of Greece}}の要素を強く採用しており、王達は「ギリシア愛好者(ΦΙΛΕΛΛΗΝΟΣ)」という称号をコインに刻んだ。そして時代が進むにつれイラン的伝統が徐々に復活した。 |
|||
== 概要 == |
|||
パルティア王国の領域は現在でいう[[アルメニア]]、[[イラク]]、[[グルジア]]、[[トルコ]]東部、[[シリア]]東部、[[トルクメニスタン]]、[[アフガニスタン]]、[[タジキスタン]]、[[パキスタン]]、[[クウェート]]、[[サウジアラビア]]の[[ペルシャ湾]]岸部、[[バーレーン]]、[[カタール]]、[[アラブ首長国連邦]]の領域にまで拡大した。最も初期の都は[[ニサ (トルクメニスタン)|ミトラダトケルタ]]、次いで[[カスピ海]]南岸の[[ヘカトンピュロス]]、更に遷都して[[バビロニア]]の[[クテシフォン]](現在のイラク)。 |
|||
アルサケス朝の支配者はかつての[[アケメネス朝]]や[[セレウコス朝]]の王たちと同じく「[[諸王の王]]」という称号を帯びた。アルサケス朝の勢力が拡大するとともに、中央政府の拠点は[[ニサ (トルクメニスタン)|ニサ]]から[[ティグリス川|ティグリス河畔]]の[[クテシフォン]](テーシフォーン、現在の[[イラク]]、[[バグダード]]の南)に移されたが、他の複数の都市も首都として機能していた。 |
|||
パルティアの初期の敵は西では[[セレウコス朝]]、東では[[スキタイ人]]であった。パルティアの建国当初、セレウコス朝はパルティアを服属させるべくたびたび遠征を行った。その後パルティアの優勢は確実なものとなり、セレウコス朝はローマによって滅ぼされた。パルティアとローマが西アジアで互いに勢力を拡張した結果、両者は各地で衝突するようになった。パルティアとローマはともに、自らの[[従属国|属王]]として{{仮リンク|アルメニア王の一覧|en|List of Armenian kings|label=アルメニア王}}を擁立しようと競い合った。パルティアは[[紀元前53年|前53年]]に[[カルラエの戦い]]で[[マルクス・リキニウス・クラッスス]]率いるローマ軍を完全に撃破し、前40年から前39年にかけては、[[テュロス]]市を除く[[レヴァント]]地方を[[古代ローマ|ローマ]]から奪い取った。しかしその後、ローマの反撃によってシリアから撃退された。2世紀以降の戦争では、たびたびメソポタミアとバビロニアにローマ軍が侵入し、数度にわたり首都の[[セレウキア]]とクテシフォンを占領された。また、王位をめぐるパルティア人同士の間の頻繁な内戦は、国家の安定にとって外国の侵略よりも重大な影響を及ぼした。 |
|||
最終的にパルティアは[[ファールス州|ファールス地方]]の[[エスタフル]]の支配者、[[アルダシール1世]]の反逆によって滅亡した。224年に分裂していたパルティアの王の一人、[[アルタバノス4世]](アルタバーン4世)がアルダシール1世との戦いに敗れ殺害された。だが、アルサケス家の分流が{{仮リンク|アルサケス朝 (アルメニア)|label=アルメニア|en|Arsacid Dynasty of Armenia}}、{{仮リンク|アルサケス朝 (イベリア)|label=イベリア|en|Arsacid Dynasty of Armenia}}、{{仮リンク|アルサケス朝 (コーカサスのアルバニア)|label=コーカサスのアルバニア|en|Arsacid Dynasty of Armenia}}の王家としてその後も生き残った。 |
|||
パルティアの歴史の詳細は不明瞭な部分が多い。パルティア自身が残した史料は、後のサーサーン朝や、かつてのアケメネス朝の史料に比べ乏しく、散在する[[楔形文字]]粘土板文書、[[オストラコン]]、碑文、[[ドラクマ]]貨、幸運にも生き残ったいくつかの[[羊皮紙]]文書が残されるのみである。後のイスラーム時代のイランではパルティアの歴史の大部分は忘れ去られ、非常に大雑把で不正確な記録しか残されていない。このため、パルティアの歴史の大部分は外国の記録を通してのみ知ることができる。この外国史料は主に{{仮リンク|古代ギリシアの歴史学|label=ギリシア|en|Greek historiography}}と{{仮リンク|古代ローマの歴史学|label=ローマ|en|Roman historiography}}の歴史書であるが、{{仮リンク|中国の歴史学|label=中国|en|Chinese historiography}}の[[漢]]朝によって残された記録もある<ref name="足利1972pp262_270">[[#足利 1972|足利 1972]], pp. 262-270</ref>。また{{仮リンク|パルティアの芸術|en|Parthian art}}作品は、その文書史料の存在しない社会および文化的な側面を理解するための有用な情報源であると現代の歴史家たちによって評価されている。 |
|||
また、歴代のパルティア王は「アルサケス」という称号を継承しており、もともと初代王の個人名であったものが、後にパルティアの[[君主号]]として定着した。これはちょうど[[ローマ帝国]]の「[[アウグストゥス (称号)|アウグストゥス]]」や「[[カエサル (称号)|カエサル]]」に類似している。<ref>京都大学学術出版会 1998,p435(トログス『ピリッポス史』第41巻2)</ref> |
|||
== 歴史 == |
== 歴史 == |
||
{{出典の明記|date=2016年3月|section=1}} |
|||
=== 成立 === |
|||
[[紀元前3世紀]]中頃には[[セレウコス朝]]の支配力が衰え、[[紀元前3世紀|紀元前250年]]頃にその支配下から[[グレコ・バクトリア王国|バクトリア]]が独立した。これとほぼ同時に{{仮リンク|パルティア (サトラップ)|en|Parthia|label=パルティア}}地方と{{仮リンク|ヒュルカニア|en|Hyrcania}}地方では現地の[[サトラップ|総督 (サトラップ)]]であった[[アンドラゴラス]]がセレウコス朝より独立していたが、[[パルニ氏族]]を中心とした遊牧民勢力が、[[アルサケス1世]]([[紀元前3世紀|前247年]]頃 - [[紀元前3世紀|前211年]]頃)と弟の[[ティリダテス1世]]を指導者としてアンドラゴラスの勢力を放逐して周辺一帯の支配権を得た。この年代はおおよそ紀元前247年ごろと推定されている<ref>[[ユゼフ・ヴォルスキ]]は前239年としている。</ref>。アルサケス1世とティリダテス1世の関係には様々な説がある(それぞれの項目を参照)。 |
|||
=== 起源と建国 === |
|||
以降、パルティア地方に定着した彼らは「パルティア人」と呼ばれるようになる。アルサケス1世とティリダテス1世による征服以前から「パルティア」という地名は存在したが、その時代の「パルティア人」と一般的に知られている「パルティア人」は同一ではない。 |
|||
[[File:Pdc 24586.jpg|thumb|[[アルサケス1世]](アルシャク1世、在位:前247年-前211年)の[[ドラクマ]]銀貨。[[ギリシア文字]]で彼の名前(ΑΡΣΑΚΟΥ)が刻まれている。|alt=銀貨の両面。左側は男性の頭部が、右側の面は座している人物が打刻されている。]] |
|||
初代王とされる[[アルサケス1世]]はアルサケス朝を創設する前は、古代[[中央アジア]]の[[イラン系]]部族で、[[ダハエ氏族]]連合に属する[[遊牧民]][[パルニ氏族]]の族長であった<ref name="小川山本1997pp234-235"/><ref>{{harvnb|Katouzian|2009|p=41}}; {{harvnb|Curtis|2007|p=7}}; {{harvnb|Bivar|1983|pp=24–27}}; {{harvnb|Brosius|2006|pp=83–84}}</ref>。イラン北東部に位置するパルティア地方は、かつては[[アケメネス朝]]の、その後[[セレウコス朝]]の支配下にあった<ref name="小川山本1997pp234-235"/><ref>{{harvnb|Bivar|1983|pp=24–27}}; {{harvnb|Brosius|2006|pp=83–84}}</ref>。当時、東方におけるセレウコス朝の支配は弱体化しつつあり、前250年代頃にはバクトリアのサトラップ(総督)であった[[ディオドトス1世]]がセレウコス朝の支配から独立した<ref name="前田1992pp101_105">[[#前田 1992|前田 1992]], pp. 101-105</ref><ref name="小川山本1997pp234-235"/>{{refnest|group="注釈"|ディオドトス1世のセレウコス朝からの独立の正確な時期は明らかでない。[[ユニアヌス・ユスティヌス|ユスティヌス]]は「バクトリアの1,000の都市の総督テオドトス(ディオドトス1世)がセレウコス朝から離脱し、自らを王と呼ぶことを命じたと記すが<ref name="ユスティヌス巻41§4">[[#ユスティヌス|ユスティヌス]], 巻41§4</ref>、ディオドトス1世が発行したコインからは確実に彼が王号を使用していたことを証明することはできない<ref name="前田1992pp101_105"/>。このため、ディオドトス1世は実際には王を名乗らなかったという予測する学者も存在する。[[前田耕作]]はディオドトス1世が一挙に王として独立したのではなく、地位を曖昧にしたまま徐々に事を推し進めたと推測している<ref name="前田1992pp101_105"/>。}}。続いて、パルティア地方ではやはりサトラップであった[[アンドラゴラス]]が、前240年代初頭にセレウコス朝から離脱した<ref name="小川山本1997pp234-235"/><ref name="前田1992pp101_105"/>。 |
|||
アルサケス1世と、その弟の[[ティリダテス1世]](ティルダート1世)は、このアンドラゴラスを破ってパルティア地方を支配下に置いた<ref name="小川山本1997pp234-235"/><ref name="前田1992pp101_105"/>。これがパルティア王国(アルサケス朝)の成立である。しかし、この出来事がいつ頃の事であるのかはわかっていない。アルサケス朝の宮廷は、アルサケス起源の初年を前247年に設定したが<ref name="足利1972p198">[[#足利 1972|足利 1972]], p. 198</ref>、これがアンドラゴラスを打倒した年であるかどうかはわからない{{refnest|group="注釈"|{{仮リンク|エイドリアン・デーヴィッド・ヒュー・ビヴァール|label=A.D.H.ビヴァール|en|Adrian David Hugh Bivar}}は、この年が、[[サトラップ]]の[[アンドラゴラス]]の反乱によってセレウコス朝がパルティアの支配を失った年であると結論付けている。従って、アルサケス1世はセレウコス朝によるパルティアの統治が途絶えた瞬間まで「彼の{{仮リンク|紀年|en|Regnal year}}を遡らせた」のだという<ref name="bivar_1983_28-29">{{harvnb|Bivar|1983|pp=28–29}}</ref>。しかし、ヴェスタ・サルコーシュ・カーティス(Vesta Sarkhosh Curtis)は、これは単純にアルサケス1世がパルニ氏族の族長に就任した年であると主張している<ref name="curtis_2007_7">{{harvnb|Curtis|2007|p=7}}</ref>。ホーマ・カトウジアン(Homa Katouzian)<ref name="katouzian 2009 41">{{harvnb|Katouzian|2009|p=41}}</ref>とジーン・ラルフ・ガースウェイト(Gene Ralph Garthwaite)<ref name="garthwaite_2005_67">{{harvnb|Garthwaite|2005|p=67}}</ref>は、この年はアルサケス1世がパルティアを征服した年であると主張する。だが、カーティス<ref name="curtis_2007_7"/>とマリア・ブロシウス(Maria Brosius)<ref name="brosius_2006_85">{{harvnb|Brosius|2006|p=85}}</ref>はアンドラゴラスの政権は前238年まで{{仮リンク|パルニ氏族によるパルティア征服|label=滅ぼされて|en|Parni conquest of Parthia}}いないと述べている。[[足利惇氏]]はカトウジアンと同じく前247年はアルサケス1世がパルティアを征服した年であるとしている。ただし、アルサケス起源の第1年が前247年であることについては、重要な事件を記念したものであろうが、それが何なのかはわからないと率直に述べている<ref name="足利1972p198"/>。また、[[山本由美子 (歴史学者)|山本由美子]]はアルサケス朝の成立を前238年頃のことであるとしている<ref name="小川山本1997pp234-235"/>。}}。アルサケス1世は、未だ位置不明の{{仮リンク|アサーク|en|Asaak}}というパルティアの都市で即位式を行った<ref name="小川山本1997pp234-235"/><ref name="前田1992pp101_105"/>。 |
|||
アルサケス1世らは、初め[[ニサ_(トルクメニスタン)|ニサ]](現在の[[アシガバート]]近郊、[[ニサ_(トルクメニスタン)|ミトラダトケルタ]]だとする説が有力)を根拠地としていたが、{{仮リンク|ヒュルカニア|en|Hyrcania}}地方(カスピ南東部)に進出し、[[ヘカトンピュロス]]を首都とした。その後、長くパルティアにとって{{仮リンク|ヒュルカニア|en|Hyrcania}}地方が本拠地となった。同じくセレウコス朝より独立したバクトリアの[[ディオドトス2世]]とは[[紀元前3世紀|紀元前228年]]頃に同盟を結び東方を固めた。しかし、セレウコス朝シリアの[[セレウコス2世]]の遠征に遭い、アルサケス1世は一度はサカの地に避難したものの、セレウコス2世がシリアで没する([[紀元前226年]])と再び帰還した。その後は町の建設を行い、国固めを行った。 アルサケス1世の死後、歴代の王は全て王の称号として「アルサケス(アルシャク)」を用いるようになった。 |
|||
アルサケス1世とティリダテス1世の関係、アルサケス1世の死、その後継者が誰なのかという問題についても不明瞭であり、後継者は弟であるティリダテス1世である可能性と、ティリダテス1世の息子[[アルサケス2世]](アルシャク2世、アルタバノスとも<ref group="注釈">アルサケス2世は史料によってはアルタバノス(アルタバノス)という名前で記録されており、デベボイスはアルタバノスという名前で言及している。</ref>)である可能性がある{{refnest|group="注釈"|ビヴァール<ref>{{harvnb|Bivar|1983|pp=29–31}}</ref>とカトウジアン<ref name="katouzian 2009 41"/>は、アルサケス1世の後継者は兄弟であるティリダテス1世であり、ティリダテス1世の地位は前211年にその息子、アルサケス2世に引き継がれたとする。だが、カーティス<ref name="curtis_2007_8">{{harvnb|Curtis|2007|p=8}}</ref>とブロシウス<ref name="brosius_2006_86">{{harvnb|Brosius|2006|p=86}}</ref>はアルサケス2世がアルサケス1世の直接の後継者であるとしており、カーティスは前211年に、ブロシウスは前217年にアルサケス2世が王位を継いだとしている。}}。アルサケス朝の王たちは全て、初代王の名前アルサケス(アルシャク)を受け継いだ<ref name="小川山本1997pp236-238">[[#小川, 山本 1997|小川, 山本 1997]], pp. 236-238</ref>。このため、「英雄」という意味を持つこの名前は個人名ではなく、王を意味する普通名詞であったとする考え方もある<ref name="小川山本1997pp236-238"/>。このことから、アルサケス1世と当初より行動を共にし、その弟であるとされるティリダテス1世は、実際にはアルサケス1世と同一人物であるとする考え方もあった<ref name="小川山本1997pp236-238"/>。現在では、後のパルティア王[[プリアパティオス]]が、アルサケス1世の甥の子孫であると示す[[オストラコン]]が発見されていることから、やはりこの二人は別個の人物であるという見解が一般的である<ref name="小川山本1997pp236-238"/><ref name="前田1992pp114_115">[[#前田 1992|前田 1992]], pp. 114-115</ref>。 |
|||
王位を継いだ[[アルサケス2世]](在位:前211年頃 - [[紀元前3世紀|前191年]])の時代には[[メディア王国|メディア]]の[[エクバタナ]]を占領したが、セレウコス朝の[[アンティオコス3世]]の東方遠征によってにエクバタナを奪還される。さらに[[アナーヒター]]神殿の財宝を奪われ、最終的には本拠地のヘカトンピュロスにまで進軍されたため、セレウコス朝の優位を認め「同盟者」となった。 |
|||
[[File:前240年頃の西アジア.jpg|thumb|left|300px|紀元前240年頃の西アジア。]] |
|||
次の王[[フリアパティウス]](在位:[[紀元前2世紀|前191年]] - [[紀元前2世紀|前176年]])からはティリダテス1世の子孫が王位を継いでいくことになる。彼の時代の[[紀元前2世紀|前189年]]、セレウコス朝のアンティオコス3世がローマとの戦いに敗れ、この直後に再びセレウコス朝の勢力下から離脱した。フラーテス1世(在位[[紀元前2世紀|前176年]] - [[紀元前2世紀|前171年]])の時代には[[エルブールズ山脈]]へ進出。さらに[[マーザンダラーン]](カスピ海南岸)を征圧し、メディア侵出の足がかりを得た。 |
|||
アルサケス1世とティリダテス1世は、セレウコス朝に西側から[[プトレマイオス朝|エジプト]]王[[プトレマイオス3世|プトレマイオス3世エウエルゲテス]](在位:前246年-前222年)が侵入したことで有利な環境を得て、しばらくの間パルティアと[[ヒュルカニア]]で地位を固めた。このプトレマイオス朝とセレウコス朝の衝突は[[第三次シリア戦争]](前246年-前241年)と呼ばれ、パルティアでアルサケス朝が地歩を固めるとのと同じく、バクトリアでディオドトス1世が政権を安定させ、[[グレコ・バクトリア王国]]を形成することを可能とした<ref name="brosius_2006_85"/>。パルティアはディオドトス1世の後継者、[[ディオドトス2世]]との間に対セレウコス朝の同盟を結んだが、アルサケス1世(またはティリダテス1世)は[[セレウコス2世|セレウコス2世カリニクス]](在位:前246年-前225年)の軍勢によって一時的にパルティアから駆逐された<ref name="デベボイス1993p22">[[#デベボイス 1993|デベボイス 1993]], p. 22</ref>。そして遊牧民{{仮リンク|アパシアカエ|en|Apasiacae}}の中で亡命生活をしばらく送った後、反撃に転じ、パルティアを再占領した<ref name="デベボイス1993p22"/>。セレウコス2世の後継者[[アンティオコス3世]](大王、在位:前222年-前187年)は、軍を[[メディア王国|メディア]]で発生していた[[モロン]]の反乱の鎮圧にあてていたため、即座に反撃に出ることはできなかった<ref name="デベボイス1993p22"/>。 |
|||
アンティオコス3世はパルティアとバクトリアを再び支配下に置くべく、前210年から前209年にかけて大規模な遠征を開始した。彼は目的を達成できなかったが、新たにパルティア王となっていたアルサケス2世は和平交渉でアンティオコス3世を上位者と認めた<ref name="デベボイス1993pp24-25">[[#デベボイス 1993|デベボイス 1993]], pp. 24-25</ref>。そして代償として王(希:''Basileus''、[[バシレウス]])の称号が付与された<ref name="bivar_1983_29 brosius_2006_86 kennedy_1996_74">{{harvnb|Bivar|1983|p=29}}; {{harvnb|Brosius|2006|p=86}}; {{harvnb|Kennedy|1996|p=74}}</ref>。 セレウコス朝は、[[共和制ローマ]]の脅威、前190年の[[マグネシアの戦い]]での敗北によって、それ以上パルティアでの出来事に介入することはできなくなっていた<ref name="bivar_1983_29 brosius_2006_86 kennedy_1996_74"/>。[[プリアパティオス]](在位:前191年-前176年頃)がアルサケス2世の跡を継いだが、史料からは彼が「アルサケス1世の甥の子孫」であることと、アルサケス2世の後継者であったこと以外何もわからない<ref name="デベボイス1993pp24-25"/><ref name="小川山本1997pp236-238"/><ref name="前田1992pp114_115">[[#前田 1992|前田 1992]], pp. 114-115</ref>。続いて[[フラーテス1世]](フラハート1世、在位:前176年-前171年頃)がパルティア王位に昇った。フラーテス1世はセレウコス朝の干渉を受けることなくパルティアを統治した<ref>{{harvnb|Bivar|1983|pp=29–31}}; {{harvnb|Brosius|2006|p=86}}</ref>。 |
|||
総じてこの時代のパルティアは中央アジアに近い地域の一角を占める地方勢力でしかなく、古代の記録者達も彼らに対して格段の興味を示してはいなかった。しかし、やがてパルティアはイラン世界の覇を唱える勢力に成長していくことになる。 |
|||
=== 拡大 === |
=== 拡大と統合 === |
||
{{main article|セレウコス朝とパルティアの戦争}} |
|||
[[ミトラダテス1世]](在位:[[紀元前2世紀|前171年]] - [[紀元前2世紀|前138年]])の治世にはパルティアは飛躍的な拡大を遂げた。まず[[エウクラティデス1世]]王が率いる[[グレコ・バクトリア王国]]に東征して2州を奪い、西方では長期に渡る戦いの末、[[紀元前2世紀|紀元前148年]]または[[紀元前2世紀|紀元前147年]]にはメディア地方をその支配下に置いた。これによってセレウコス朝の中核地帯である[[バビロニア]]への拡大が視野に入ることとなった。セレウコス朝の内乱も手伝ってバビロニア方面への侵攻は大成功に終わり、[[紀元前2世紀|前141年]]までにはバビロニアの中心都市[[セレウキア]]を陥落させ、翌年には[[エラム|スシアナ]]({{lang|en|Susiana}}、現[[フーゼスターン州]])の中心都市[[スサ]]も陥落、[[エリマイス王国]]もその影響下に置いた。しかし、このミトラダテス1世の征服活動の結果、パルティアの支配地域には多数の[[異民族]]集団が内包されることになった。ミトラダテス1世以降のパルティア王達は異民族の統治に非常に気を使ったが、パルティアの支配を忌避し反パルティアの政治傾向を長く持ち続ける集団も存在した。ミトラダテス1世は北西インドの[[サカ人]]が本拠地の{{仮リンク|ヒュルカニア|en|Hyrcania}}に侵入したと言う報せを受けて、ヒュルカニアへ出向いた。その間にセレウコス朝の[[デメトリオス2世]]はエリマイス、[[ペルシス王国|ペルシス]](ペルシア湾北岸)、バクトリアと協力し、バビロニアで挙兵した。しかし、王の留守を預かったパルティアの将軍たちはこの軍を打ち破ってデメトリオス2世を捕虜とした。この時セレウコス朝に味方をしたエリマイスの都市アルテミスには制裁として略奪が行われた。ミトラダテス1世はその後[[インド]]北西部を征服し、王はバシレオス・メガロス(大王)を名乗った。 |
|||
[[Image:Xong-e Ashdar Parthian relief.jpg|thumb|岩に刻まれた[[ミトラダテス1世]](ミフルダート1世、在位:前171年頃-前138年)の[[レリーフ]]。王が乗馬している場面。[[イラン]]、[[フーゼスターン州]]、{{仮リンク|イゼー|en|Izeh}}市、コング=エ・アズダール(Kong-e Aždar)|alt=岩の側面に刻まれた摩耗したレリーフ。男性と複数の人物が乗馬している場面を描いている。]] |
|||
フラーテス1世はかつての{{仮リンク|アレクサンドロスの門|en|Gates of Alexander}}を超えて位置不明の{{仮リンク|アパメア・ラギアナ|en|Apamea Ragiana}}市を占領し、パルティアの支配拡大したと記録されている<ref>{{harvnb|Bivar|1983|p=31}}</ref>。だが、パルティアの勢力が大幅に拡大してその領土が広がったのは、彼の弟であり後継者である[[ミトラダテス1世]](ミフルダート1世、在位:前171年-前138年頃)の治世中である。カトウジアンは彼をアケメネス朝の創設者[[キュロス2世]](大王、前530年死去)に例えており<ref name="katouzian 2009 41"/>、日本の研究者[[山本由美子]]は「真の意味でのパルティア帝国の建設者であった」と評している<ref name="小川山本1997p238">[[#小川, 山本 1997|小川, 山本 1997]], p. 238</ref>。 |
|||
グレコ・バクトリア王ディオドトス2世の地位が、内紛によって[[エウクラティデス1世]](在位:前170年-145年頃)に奪われた後、ミトラダテス1世の軍勢が[[タプリナ]]と[[トラクシアナ]]という二つの{{仮リンク|エパルキア|label=州|en|Eparchy}}を奪取したため、パルティアとグレコ・バクトリアの関係は悪化した<ref name="前田1992pp122-125">[[#前田 1992|前田 1992]], pp. 122-125</ref>。その後、ミトラダテス1世の視線は西方に転じた<ref name="前田1992pp122-125"/>。当時セレウコス朝の[[アンティオコス4世]]は[[ユダヤ人]]の反乱に対応するために[[パレスチナ]]に軍を終結させていたが、この間にアルメニア王[[アルタクシアス1世]]と、メディア王[[ティマルコス (メディア王)|ティマルコス]]がセレウコス朝の統制下から離れたため、これらを鎮撫すべく遠征を行った<ref name="前田1992pp122-125"/><ref name="デベボイス1993pp25-26">[[#デベボイス 1993|デベボイス 1993]], pp. 25-26</ref>。アンティオコス4世はアルメニアを抑え、メディアの首都[[エクバタナ]]、[[ペルシア|ペルシス]]の[[ペルセポリス]]を経て[[エリマイス王国|エリュマイス]]へ進軍したが、現地人の抵抗によって敗退し、ガバエ(現:[[イスファハーン]])で倒れた<ref name="前田1992pp122-125"/><ref name="デベボイス1993pp25-26"/>。パルティアのミトラダテス1世は、前161年には東側からメディアに侵入し、前155年までにメディア王ティマルコスを倒してメディアを征服した。この勝利に続いて、更に肥沃な[[メソポタミア]]を目指し、前141年までには[[バビロニア]]を征服した<ref name="前田1992pp122-125"/>。前141年には[[セレウキア]]でコインを鋳造し、公的な[[即位式]]を行っている<ref name="curtis_2007_10-11 brosius_2006_86-87 Bivar_1983_34 Garthwaite_2005_76">{{harvnb|Curtis|2007|pp=10–11}}; {{harvnb|Brosius|2006|pp=86–87}}; {{harvnb|Bivar|1983|p=34}}; {{harvnb|Garthwaite|2005|p=76}};</ref>。その後ミトラダテス1世は東部での問題の対応のためにヒュルカニアへと戻ったが、残された軍隊は[[エリュマイス王国|エリュマイス]]と[[カラケネ王国|カラケネ]]を征服し、[[スサ]]市を占領した<ref name="前田1992pp122-125"/><ref name="ギルシュマン1970pp243_244">[[#ギルシュマン 1970|ギルシュマン 1970]], pp. 243-244</ref>。歴史家[[オロシウス]]の記録では、ミトラダテス1世の時代には[[ヒュダスペス川]]から[[インダス川]]の間の一切の民族を支配したとも言う。これは実際にはペルシアのある川からインダス川にいたる、古来争奪されていた地域を漠然と表現したものであると推定されている<ref name="中村1998pp163_164">[[#中村 1998|中村 1998]], pp. 164-164</ref>。 |
|||
[[フラーテス2世]](在位:[[紀元前2世紀|前138年]] - [[紀元前2世紀|前128年]])は初め幼少であったため、 母[[リインヌ]]が摂政となった。彼の治世に捕虜であったセレウコス朝のデメトリオス2世の弟である[[アンティオコス7世]]が、失地奪還のために兵を起した。デメトリオス2世の侵入時と同じく、パルティア領内の旧支配層はセレウコス朝の「マケドニア人王」の到来を歓迎し、この軍に参入していった。こうしてまずメディア地方が、[[紀元前2世紀|紀元前130年]]にはバビロニア一帯が占領された。このとき和平交渉により、フラーテス2世はデメトリオス2世を返還した。アンティオコス7世は更に東方へと向かったが、現地住民に圧力をかけ不評だったため、住民は重圧に抵抗する態度を見せ始めた。パルティア側は市民蜂起の工作を行い、蜂起軍にパルティア軍を参加させ、蜂起を盛り上げた。[[紀元前3世紀|前129年]]にアンティオコス7世は反乱鎮圧中に戦没した。アンティオコス7世の子は捕虜となり、パルティアで丁重に扱われた。また、同年アラブ人{{仮リンク|ヒスパネシオス|en|Hyspaosines}}によってメソポタミア南部に[[カラケネ王国]]が建てられ、一時バビロンとセレウキアを奪われた。フラーテス2世は勢いに乗じて、シリア侵攻を計画したが、傭兵として雇っていたサカ人やバビロニアのギリシア人捕虜が反乱を起こし、紀元前128年、フラーテス2世は戦死した。 |
|||
セレウコス朝は前142年に首都[[アンティオキア]]で将軍の[[ディオドトス・トリュフォン]]が反乱を起こしたため、このパルティアの進撃に対応することができなかった<ref>{{harvnb|Bivar|1983|p=34}}</ref>。しかし、前140年までに[[デメトリオス2世|デメトリオス2世ニカトル]]はメソポタミアでパルティアに対する反撃を開始した。セレウコス朝の反撃は当初順調であったが、ミトラダテス1世はこれを撃退することに成功し、デメトリオス2世自身を捕らえてヒュルカニアに連行した。ミトラダテス1世は虜囚となったデメトリオス2世を王者として扱い、娘の{{仮リンク|ロドグネ (パルティア)|label=ロドグネ|en|Rhodogune of Parthia}}をデメトリオス2世と結婚させた<ref name="前田1992pp122-125"/>。 |
|||
続く[[アルタバヌス1世]](在位:前128年 - [[紀元前2世紀|前123年]])は、即位後、遊牧民である[[トハラ人]]に悩まされた。トハラは[[アムダリヤ川]]の北を本拠とし、アルタバヌス1世はトハラ人との戦闘において腕に毒矢を受けて戦没した。この結果サカ人はドランギアナ北方(現在のアフガニスタン、[[ヘラート]]市近辺)に移住し、この一帯はサカスタンと呼ばれるようになった。 |
|||
ミトラダテス1世の治世の間、[[ヘカトンピュロス]]がパルティアの最初の首都として機能していた一方で、彼ははセレウキア、エクバタナ、[[クテシフォン]]、新たに建設した都市ミトラダトケルタ([[ニサ (トルクメニスタン)|トルクメニスタンのニサ]])にも王宮を建設した。ミトラダトケルタにはアルサケス朝の王たちの墓が建設され保全された<ref>{{harvnb|Brosius|2006|pp=103, 110–113}}</ref>。エクバタナはアルサケス朝の王族たちの主たる夏宮となった<ref>{{harvnb|Kennedy|1996|p=73}}; {{harvnb|Garthwaite|2005|p=77}}</ref>。クテシフォンは[[ゴタルゼス1世]](ゴータルズ1世、在位:前90年-前80年頃)の治世まで公式な首都とはならなかったと思われるが<ref>{{harvnb|Garthwaite|2005|p=77}}; {{harvnb|Bivar|1983|pp=38–39}}</ref>、歴史学者のマリア・ブロシウス(Maria Brosius)によればこの地は戴冠式を執り行う場所となり、アルサケス朝を代表する都市であった<ref name="brosius_2006_103"/>。 |
|||
[[ミトラダテス2世]](在位:前123年頃 - [[紀元前1世紀|前87年]]頃)の時代にはサカ人の圧力をかわすことに成功し、西ではセレウコス朝を攻めてメソポタミア北部を制圧。さらに[[カラケネ王国]]および小アジアの[[アルメニア王国]]を服属させた。都を[[クテシフォン]]に移し、この時代には再び[[メソポタミア]]から[[インダス川]]までを支配する大国となり、ミトラダテス2世はイラン地方の覇者の称号である「バシレウス・バシレイオン」(諸王の王)を名乗るようになった。[[紀元前1世紀|前92年]]には[[共和政ローマ|ローマ]]と会談し、初めての接触を持っている。この時代がパルティアの最盛期と評される。 |
|||
歴史学者の{{仮リンク|エイドリアン・デーヴィッド・ヒュー・ビヴァール|label=A.D.H.ビヴァール|en|Adrian David Hugh Bivar}}は、この[[ミトラダテス1世]]の治世最後の年である紀元前138年が「パルティアの歴史の中で正確に確定できる最初の年」であるとしており<ref>{{harvnb|Bivar|1983|p=36}}</ref>、デベボイスもまた前137年または前138年のミトラダテス1世の死が「貨幣と楔形文字の記録を元に確定されたパルティアの最も古い年代である。」としている<ref name="デベボイス1993p28">[[#デベボイス 1993|デベボイス 1993]], p. 28</ref>。 |
|||
=== 分裂とローマとの戦争 === |
|||
{{main|パルティア戦争}} |
|||
ミトラダテス2世の後、王位継承を巡って内紛が勃発し、さらにローマからの侵攻を幾度となく受けることになる。[[紀元前1世紀|前63年]]にはセレウコス朝がローマの[[ポンペイウス]]により滅亡し、パルティアもローマと直接向き合うこととなった。この時期は政治混乱のために記録が少なく、パルティアの内情は不明な点が多い。 |
|||
[[File:Mithradatesi.jpg|thumb|left|パルティア王[[ミトラダテス1世]]の[[ドラクマ]]貨。髭を蓄え、{{仮リンク|ディアディム|en|Diadim}}をかぶっている。|alt=コインの両面。左図は髭のある男性の頭部、右図は立っている人物]] |
|||
紀元前1世紀半ばには[[オロデス2世]]と[[ミトラダテス3世]]との間で王位継承の戦いが行われたが、敗れたミトラダテス3世はローマ領へ逃れその支援を受けた。結局ミトラダテス3世は敗死するが、[[紀元前1世紀|前53年]]にはローマ軍が自らパルティアに侵入した。この戦争では[[カルラエ]]市近郊で行われた戦いでローマ将軍の[[マルクス・リキニウス・クラッスス|クラッスス]]親子を戦死させ、パルティアが勝利を収めた([[カルラエの戦い]]あるいは第1回[[パルティア戦争]])。 |
|||
ミトラダテス1世の跡を継いだのは幼い王子[[フラーテス2世]](フラハート2世、在位:138年-前129年)であり、セレウコス朝ではデメトリオス2世の兄弟の[[アンティオコス7世|アンティオコス7世シデテス]](在位:前138年-前129年)が王位を引き継いだと想定される。彼はデメトリオス2世の妻、[[クレオパトラ・テア]]と結婚した。ディオドトス・トリュフォンの反乱を完全に鎮圧した後、前130年にアンティオコス7世はパルティア王の支配下にあるメソポタミアを奪回するための遠征を開始した<ref name="前田1992pp131_135">[[#前田 1992|前田 1992]], pp. 131-135</ref>。パルティアの将軍イダテスは{{仮リンク|大ザブ川|en|Great Zab}}沿いで撃破され、その後バビロニアでも反乱が発生して将軍エニウスもセレウキアの住民によって殺害された<ref name="デベボイス1993pp32_36">[[#デベボイス 1993|デベボイス 1993]], pp. 32-36</ref>。アンティオコス7世はバビロニアを征服し、スサを占領してその地でコインを発行した<ref name="bivar_1983_36-37 curtis_2007_11">{{harvnb|Bivar|1983|pp=36–37}}; {{harvnb|Curtis|2007|p=11}}; {{harvnb|Shayegan|2011|pp=121–150}}</ref>。その後、彼の軍隊がメディアへ進軍すると、パルティアは和平を求めた<ref name="デベボイス1993pp32_36"/>。アンティオコス7世が提示した和平の条件は、アルサケス朝がパルティア地方を除く全ての土地を譲渡し、莫大な賠償金を払い、デメトリオス2世を虜囚から解放するという過酷なものであった<ref name="デベボイス1993pp32_36"/>。パルティアはデメトリオス2世を開放しセレウコス朝の本国[[歴史的シリア|シリア]]へ送ったが、他の要求は拒否した<ref name="デベボイス1993pp32_36"/><ref name="足利1972p208">[[#足利 1972|足利 1972]], p. 208</ref><ref>{{harvnb|Garthwaite|2005|pp=76–77}}; {{harvnb|Bivar|1983|pp=36–37}}; {{harvnb|Curtis|2007|p=11}}</ref>。だがアンティオコス7世と彼の軍勢は、メディアで越冬する間に物資を使い果たし、住民からの過酷な徴発のために、前129年の春までにメディア人が公然と反逆し始めた<ref name="デベボイス1993pp32_36"/><ref name="足利1972p208"/>。アンティオコス7世がこの反乱の鎮圧が試みている間にパルティア軍の主力がメディアに押し寄せ、彼を殺害した。パルティアはアンティオコス7世の死体を銀の棺に入れてシリアに送り返し、彼の幼い息子のセレウコスを捕らえた<ref name="デベボイス1993pp32_36"/><ref>{{harvnb|Shayegan|2011|pp=145–150}}</ref>。そしてアンティオコス7世に同行していたデメトリオス2世の娘もこの時捕らえ、彼女はフラーテス2世の[[後宮]]に入った<ref name="デベボイス1993pp32_36"/>。 |
|||
[[File:Mithridatesiiyoung.jpg|thumb|[[ミトラダテス2世]](在位:前124年-前90年頃)のドラクマ貨]] |
|||
[[紀元前1世紀|前44年]]にローマの[[ガイウス・ユリウス・カエサル|カエサル]]がパルティア侵攻の準備中に暗殺される。その後の内紛に乗じてオロデス2世は[[紀元前1世紀|前40年]]にローマに侵攻してシリアを奪った。しかし翌年からの第2回パルティア戦争でシリアを奪還され、戦闘を指揮していた[[パコルス1世]]は戦死する。 |
|||
こうしてパルティアは西方における失地を回復したが、別の脅威が東方で生じていた。前177年から前176年にかけ、[[匈奴]]の遊牧民部族連合が、遊牧民の[[月氏]]を、現在の[[中国西北部]]の[[甘粛省]]にあった彼らの故地から追いやった<ref>{{harvnb|Torday|1997|pp=80–81}}</ref>。月氏は西へ逃れバクトリアに移住し、[[サカ人|サカ]](スキタイ)人の部族を放逐した。サカ人は更に西へと追い立てられ、パルティアの北東国境地帯へ侵入したのであった<ref>{{harvnb|Garthwaite|2005|p=76}}; {{harvnb|Bivar|1983|pp=36–37}}; {{harvnb|Brosius|2006|pp=89, 91}}</ref>。かつて、ミトラダテス1世はこれに対処するため、メソポタミアを征服した後ヒュルカニアへ戻ることを余儀なくされた<ref name="デベボイス1993p27">[[#デベボイス 1993|デベボイス 1993]], p. 27</ref>。 |
|||
このサカ人は、その後アンティオコス7世と戦うフラーテス2世の軍隊に傭兵として加わった。だが、彼らは実際の戦闘には間に合わなかった。このためフラーテス2世は彼らに賃金を支払うことを拒否したが、結果としてサカ人たちは反乱を起こした。フラーテス2世は捕虜にしたセレウコス朝の元兵士たちをこれに当てて鎮圧しようとしたが、彼らは非常に冷遇されており、パルティア人がの戦列がぐらついたのを見ると、瞬く間にサカ人の下へと寝返った<ref name="デベボイス1993pp37_44">[[#デベボイス 1993|デベボイス 1993]], pp. 37-44</ref><ref>{{harvnb|Bivar|1983|p=38}}; {{harvnb|Garthwaite|2005|p=77}}</ref>。この結果、フラーテス2世は彼らによってその軍隊もろとも虐殺された<ref name="デベボイス1993pp37_44"/>。ローマ人の歴史家、[[ユニアヌス・ユスティヌス|ユスティヌス]]は彼の叔父で、次の王になった[[アルタバノス1世]](アルタバーン1世、在位:前128年-前124年頃)が、東方の遊牧民との戦いの中で前任者と同様の運命を辿ったことを報告している<ref name="ユスティヌス巻42§2">[[#ユスティヌス 1998|ユスティヌス]]『地中海世界史』 第42巻§2 </ref>。それによれば、アルタバノス1世はトカロイ族(吐火羅、[[月氏]]と推定される<ref name="デベボイス1993pp37_44"/>)によって殺害された<ref name="ユスティヌス巻42§2"/>。なお、ビヴァールはユスティヌスはトカロイ族にサカ人たちを含めていると考えている<ref>{{harvnb|Bivar|1983|pp=38–39}}</ref>。 |
|||
後を継いだ[[フラーテス4世]]は、その治世の[[紀元前1世紀|前36年]]に[[マルクス・アントニウス|アントニウス]]率いるローマ軍の大挙侵入を受けたが、これを撃退した。[[紀元前1世紀|前31年]]に[[ティリダテス2世]]による反乱が起こり、王は一時[[スキタイ]]方面に避難した。スキタイ人の力を借りたフラーテス4世はティリダテス2世を追い出したが、その後も内紛は続いた。 |
|||
同じ頃、フラーテス2世によってバビロニア総督に任命されていた[[ヒメロス]]は[[ペルシア湾]]岸の{{仮リンク|カラクス・スパシヌ|en|Charax Spasinu}}に拠点を置く[[ヒスパオシネス]]統治下の[[カラケネ王国]]を征服するように命令をされた<ref name="デベボイス1993pp37_44"/>。しかし、この企ては失敗し、逆にヒスパネシオスが前127年にバビロニアに侵入、セレウキアを占領した<ref name="デベボイス1993pp37_44"/>。 |
|||
フラーテス4世を暗殺した[[フラーテス5世]]以降、王位継承を巡る争いは更に深刻なものとなった。最終的にローマ帰りの王[[ヴォノネス1世]]の即位を見るが、彼の親ローマ政策は国内の大きな反発を買い、[[アルタバヌス2世]]が敵対者によって擁立された。 |
|||
新たに王となった[[ミトラダテス2世]](ミフルダート2世、在位:前124年-前90年頃)は、同名の王ミトラダテス1世と同じく傑出した王として数えられ、ヒスパネシオスをバビロニアから排除し、パルティアの[[宗主権]]下に置いた<ref name="小玉1994pp120_123">[[#小玉 1994|小玉 1994]], pp. 120-123</ref><ref name="デベボイス1993pp37_44"/>。また、[[シースターン]]でサカ人によって失われた領土を回復した<ref name="デベボイス1993pp37_44"/>。 |
|||
アルタバヌス2世はヴォノネス1世に対する勝利を収めた後、アルメニアの王位継承に介入しこれを支配下に置こうとしたため、帝政となった[[ローマ帝国]]と第3回パルティア戦争を引き起こした。その後もアルメニアの帰属を巡って両国の関係は紛糾し続けた。パルティアがアルメニアへ対して軍を派遣しようとした所、[[36年]]にローマの手引きにより[[アラン人]]の侵入を受け、同年に和平を結んだ。その後、アルタバヌス2世は貴族たちの不満から退位させられ、一旦はキンナムスが後を擁立されるが、すぐに退位してアルタバヌス2世が復位する。なお現[[アフガニスタン]]、[[パキスタン]]方面を支配していた{{仮リンク|スーレーン氏族|en|House of Suren}}の[[ゴンドファルネス]]は[[20年]]頃に分離独立して[[インド・パルティア王国]]を建てた。 |
|||
ミトラダテス2世はが前113年に[[ドゥラ・エウロポス]]を占領してパルティアの支配を更に西方まで拡大した後、[[アルメニア王国]]を攻撃した<ref name="足利1972p210">[[#足利 1972|足利 1972]], p. 210</ref><ref>{{harvnb|Curtis|2007|pp=11–12}}</ref>。彼はアルメニア王{{仮リンク|アルタヴァスデス1世 (アルメニア)|label=アルタヴァスデス1世|en|Artavasdes I of Armenia}}を撃破して廃位し、その息子ティグラネスを人質とした<ref name="足利1972p210"/><ref name="デベボイス1993pp37_44"/>。このティグラネスは後のアルメニア王[[ティグラネス2世]](大王、在位:前95年頃-前55年)である<ref name="足利1972p210"/<ref>{{harvnb|Brosius|2006|pp=91–92}}; {{harvnb|Bivar|1983|pp=40–41}}</ref>。 |
|||
アルタバヌス2世は復位後すぐに死去し、再び内紛が起こった。最終的に[[ゴタルゼス2世]]が勝利して、[[51年]]にその後を[[ヴォロガセス1世]]が継いだ。[[53年]]、ヴォロガセス1世は再びアルメニアを占領するが、[[58年]]に[[コルブロ]]率いるローマ軍に奪い返され、[[63年]]に[[ネロ]]帝との間に和議を結んだ。 |
|||
==== インド・パルティア王国 ==== |
|||
その後、しばらくはローマとの間は小康状態となり、その代わりにアラン人対策に追われることになる。ヴォロガセス1世はアラン人討伐のため、ローマに援軍を依頼するが不調に終わった。 |
|||
{{main|インド・パルティア王国}} |
|||
紀元前1世紀、現在の[[アフガニスタン]]と[[パキスタン]]に、歴史学者によって[[インド・パルティア王国]]と呼ばれるパルティア人の政権が成立した<ref name="グプタ2010pp21_28">[[#グプタ 2010|グプタ 2010]], pp. 21-28</ref>。[[アゼス2世]]{{refnest|group="注釈"|当時インドにはギリシア人、サカ人、パルティア人などがインダス川を越えて侵入し、各地で王国を築いていた。アゼス王は実在が確実なパルティア人の王であるゴンドファルネスに先行する王であるが、その詳細は不明である。彼をサカ人の王とする学者もあり、またアゼスという名前を持つ王が一人だけなのか、あるいは1世と2世の二人いるのかについても論者によって見解が異なる。インド史も研究した仏教学者・哲学者の[[中村元]]は、アゼスを一人とし、「多数説に従って」パルティア人であるらしい、とする<ref name="中村1998pp171_177">[[#中村 1998|中村 1998]], pp. 171-177</ref>。[[インド]]の研究者グプタは、アゼスを1世と2世に分けるが、その出自については特に言及していない<ref name="グプタ2010pp21_28"/>。}}、もしくは[[ゴンドファルネス]](ゴンドファレス)等の王たちが建設したこの王国は、[[カーブル]]周辺のギリシア人の王国を滅ぼし、インダス川河口部のサカ人たちも支配下に置いていた<ref name="中村1998pp171_177"/>。インド・パルティアの王ゴンドファルネスはギリシア語とインドの現地語で「諸王の王(basileōs basileōn/maharaja rajatiraja)」と刻んだコインを発行し、大王(maharaya)と称する碑文も残している<ref name="中村1998pp177_183">[[#中村 1998|中村 1998]], pp. 177-183</ref>。このインド・パルティア王国と、一般にパルティア王国と呼ばれる西アジアの王国の関係は明瞭ではない。ビヴァールはこの二つの国家は政治的に同一と考えられると主張している<ref>{{harvnb|Bivar|1983|p=41}}</ref>。西暦42年にギリシア人の哲学者、{{仮リンク|ティアナのアポロニウス|en|Apollonius of Tyana}}がパルティア王[[ヴァルダネス1世]](在位:40年-47年頃)の宮廷を訪れた際、彼はアポロニウスがインド・パルティアへ旅をするためのキャラバンの保護を命じた。アポロニウスがインド・パルティアの首都[[タクシラ]]に到着した後、彼を丁重にもてなしたインドの役人に対し、アポロニウスのキャラバンの隊長が、恐らくパルティア語で書かれたヴァルダネスの公式の手紙を読み上げた<ref name="bivar_2007_26">{{harvnb|Bivar|2007|p=26}}</ref>。 |
|||
=== ローマとの戦争と交渉 === |
|||
ローマに[[トラヤヌス]]が即位し、[[113年]]より侵攻を受ける。パルティアはローマにアルメニア、メソポタミアを奪われ、[[115年]]には首都クテシフォンを攻略される。[[117年]]、オスロエス1世によりクテシフォンは奪回するもののアルメニアとメソポタミアはローマの属州となった(第5回パルティア戦争)。同年にトラヤヌス帝が死ぬとローマはメソポタミアを放棄し、[[ユーフラテス川]]を両者の国境と定めた。 |
|||
{{main article|ローマ・ペルシア関係|パルティア戦争}} |
|||
北部インドで成立した月氏の[[クシャーナ朝]]が成立した結果、パルティアの東部国境の大部分が安定した<ref name="brosius_2006_92">{{harvnb|Brosius|2006|p=92}}</ref>。この結果、前1世紀半ばのアルサケス朝の宮廷は主としてローマに対して積極策に出て、西部国境の安全を勝ち取ることをに焦点を当てた<ref name="brosius_2006_92"/>。ミトラダテス2世がアルメニアを征服した翌年、ローマの[[キリキア]][[属州]]総督([[プロコンスル]])[[ルキウス・コルネリウス・スッラ]]は[[ユーフラテス川]]でパルティアの外交官{{仮リンク|オロバズス|en|Orobazus}}と会談した<ref name="シェルドン2013pp30_33">[[#シェルドン 2013|シェルドン 2013]]. pp. 30-33</ref>。この会談で、両者は恐らくユーフラテス川をパルティアとローマの国境とすることに合意した<ref name="シェルドン2013pp30_33"/>。ただし複数の学者が、スッラはこの条項をローマ本国に伝達する権限しか持っていなかったと主張している<ref>{{harvnb|Kennedy|1996|pp=73–78}}; {{harvnb|Brosius|2006|p=91}}; {{harvnb|シェルドン|2013|pp=30-33}}</ref>。 |
|||
その後、パルティアはシリアで[[アンティオコス10世|アンティオコス10世エウセベス]](在位:前95年-前92年?)と戦い、彼を殺害した<ref name="デベボイス1993pp37_44"/><ref name="kennedy_1996_77–78">{{harvnb|Kennedy|1996|pp=77–78}}</ref>。最後のセレウコス朝の君主の一人、[[デメトリオス3世|デメトリオス3世エウカエルス]]はバロエア(現:[[アレッポ]])の包囲を試みたが、パルティアは現地住民に援軍を送り、デメトリオス3世は破られた<ref name="kennedy_1996_77–78"/>。 |
|||
ローマとの和平後の[[134年]]には[[アラン人]]に侵入され略奪された。 |
|||
[[File:Orodesi.jpg|thumb|[[オロデス1世]](ウロード1世、在位:前90年頃-前80年頃)のドラクマ貨]] |
|||
[[ヴォロガセス4世]](在位:[[148年]] - [[192年]])は[[161年]]の時代には[[マルクス・アウレリウス・アントニヌス]]治下のローマと再びアルメニア問題で対立し、[[162年]]にローマ領シリアに侵攻したが、反撃を受けて[[164年]]に首都クテシフォンを破壊され、占領される。しかしこの時、ローマ軍で[[天然痘]]が発生し、これに乗じてクテシフォンを奪回し、アルメニアを占領した。[[166年]]、パルティアはローマに北メソポタミアを割譲することで戦争は終了した(第6回パルティア戦争)。 |
|||
ミトラダテス2世の治世の後、パルティアの王権は分裂したように思われる。バビロニアをゴタルゼス1世が、東部を[[オロデス1世]] (ウロード1世、在位:前90年頃-前80年頃)が分割して統治した<ref>{{harvnb|Bivar|1983|pp=41–44}};{{harvnb|Garthwaite|2005|p=78}}と[[#デベボイス 1993|デベボイス 1993]], pp. 44-46も参照。</ref>。この分割統治体制はパルティアを弱体化させ、アルメニア王ティグラネス2世が西部メソポタミアでパルティアの領土を切り取ることを可能とした<ref name="ガイボフら2003p6">[[#ガイボフら 2003|ガイボフら 2003]], p. 6</ref>。この時失われた領土は[[シナトルケス]]王(サナトルーク、在位:前78年頃-前71年頃)の治世までパルティアに戻らなかった<ref>{{harvnb|Brosius|2006|pp=91–92}}</ref>。ローマと[[ポントス王国]]の王、[[ミトリダテス6世|ミトラダテス6世]](在位:前119年-前93年)の間に[[第三次ミトリダテス戦争|第三次ミトラダテス戦争]]が勃発した後、ポントスと同盟を結んでいたアルメニア王ティグラネス2世は、ローマに対する同盟をパルティアに依頼したが、パルティア王シナトルケスは救援を拒否した<ref name="bivar_1983_44-45">{{harvnb|Bivar|1983|pp=44–45}}</ref>。前69年、ローマの将軍[[ルキウス・リキニウス・ルクッルス|ルキウス]]がアルメニアの首都[[ティグラノケルタ]]に進軍したため、ミトラダテス6世とティグラネス2世は再びパルティアの[[フラーテス3世]](フラハート3世、在位:前71年-前58年)に援軍を依頼した<ref name="シェルドン2013pp33_34">[[#シェルドン 2013|シェルドン 2013]]. pp 33-34</ref>。フラーテス3世はどちらにも援軍を送ることはなく、[[ティグラノケルタの戦い|ティグラノケルタ陥落]]の後に、ユーフラテス川がパルティアとローマの国境であることを再確認する協定を結んだ<ref name="シェルドン2013pp33_34"/>。 |
|||
この混乱の中でアルメニア王ティグラネス2世の息子、小ティグラネスは父親からの王位簒奪を企んで失敗した<ref name="デベボイス1993pp58-62">[[#デベボイス 1993|デベボイス 1993]], pp. 58-62</ref>。彼はパルティア王フラーテス3世の下へ逃亡し、フラーテス3世を説得してアルメニアの新たな首都、{{仮リンク|アルタクシャタ|en|Artashat}}に進軍することを決意させた<ref name="デベボイス1993pp58-62"/>。この進軍とその後の包囲は失敗し、小ティグラネスは今度はローマの将軍[[グナエウス・ポンペイウス|ポンペイウス]]の下へと逃亡した<ref name="デベボイス1993pp58-62"/>。彼はポンペイウスにアルメニアの道案内をすると約束した。しかし、ティグラネス2世がローマの[[従属国|属王]]となることを受け入れると、小ティグラネスは人質としてローマに送られた<ref>{{harvnb|Bivar|1983|pp=46–47}}</ref>。フラーテス3世はポンペイウスに小ティグラネスを自身の下へ送還するよう要求したが、ポンペイウスは拒否した<ref name="デベボイス1993pp58-62"/>。このことから、フラーテス3世は{{仮リンク|ゴルデュエネ|en|Corduene}}(トルコ南東部)への侵攻を開始した。ローマの[[執政官]](コンスル){{仮リンク|ルキウス・アフラニウス (執政官)|label=ルキウス・アフラニウス|en|Lucius Afranius (consul)}}は軍隊と外交を用いてパルティア人を排除した{{refnest|group="注釈"|このことについてのローマ人の記録は二つの矛盾したものが伝えられている。[[カッシウス・デュオ]]は、ルキウス・アフラニウスがパルティア軍と衝突することなく再占領したと書き、一方で[[プルタルコス]]はアフリカヌスが軍事力によって彼を追い払ったとする{{harv|Bivar|1983|p=47}}。}}。 |
|||
後を継いだ[[ヴォロガセス5世]]はマルクス・アウレリウスの死後の内紛に介入するが、内紛を収めた[[セプティミウス・セヴェルス]]の侵攻を受けて[[194年]]には再びクテシフォンを落とされるが、ローマ軍も兵站が上手くいかなかったために撤退した。[[197年]]にローマ領メソポタミアに侵入するが、[[198年]]ローマ軍によって撃退され撤退した(第7回パルティア戦争)。 |
|||
==== クラッススとアントニウスとの戦い ==== |
|||
ヴォロガセス5世の跡を継いだ[[ヴォロガセス6世]]の時代([[207年]]頃)に内紛が起き、国が分裂した。メソポタミアとクテシフォンをヴェロガセス6世が、イラン高原を[[アルタバヌス4世]]が支配し、国内を二分して合い争った。この内乱に乗じてローマの[[カラカラ]]帝が侵攻してくるが、アルタバヌスはこれを打ち破り、大勝。カラカラは軍中で暗殺され、アルタバヌスはローマから賠償金を奪った(第8回パルティア戦争)。 |
|||
[[File:Marcus Licinius Crassus Louvre.jpg|thumb|left|upright|ローマの三頭政治で権力を握っていた一人、[[マルクス・リキニウス・クラッスス]]大理石製頭像。彼は[[カルラエの戦い]]で[[スレナス]]に打ち破られた。]] |
|||
フラーテス3世は息子の[[オロデス2世]](ウロード2世、在位:前57年頃-前37年頃)と[[ミトラダテス3世]](ミフルダート3世、在位:前57年頃-前55年)によって暗殺された<ref name="シェルドン2013pp35_37">[[#シェルドン 2013|シェルドン 2013]]. pp 35-37</ref>。その後直ちに二人の兄弟は争いを始め、敗れたミトラダテス3世はメディアから[[シリア属州|ローマ領シリア]]へと逃げ込んだ<ref name="デベボイス1993pp58-62"/>。彼はローマのシリア属州総督(プロコンスル)[[アウルス・ガビニウス]]の支援を得たが、[[プトレマイオス朝]](エジプト)の王[[プトレマイオス12世|プトレマイオス12世アウレテス]](在位:前80年-前58年、前55年-前51年)が多額の謝礼金を積んで反乱の鎮圧支援をガビニウスに依頼すると、ガビニウスはエジプトへ転身した<ref name="デベボイス1993pp58-62"/><ref name="シェルドン2013pp35_37"/><ref>{{harvnb|Bivar|1983|pp=48–49}}; また、{{harvnb|Brosius|2006|pp=94–95}}もこれに言及。</ref>。ミトラダテス3世はローマがあてにならないことを悟ると、自力での再起を目論んで故国へと戻った<ref name="デベボイス1993pp58-62"/><ref name="シェルドン2013pp35_37"/>。当初はバビロニアの征服に成功し、前55年までセレウキアでコインを発行している。この年、オロデス2世の将軍がセレウキアを再占領し、ミトラダテス3世は処刑された。この将軍の名前は[[スレナス]](スーレーン氏族の者の意)という彼の出身氏族名でのみ知られている<ref name="デベボイス1993pp62-65">[[#デベボイス 1993|デベボイス 1993]], pp. 62-65</ref>。 |
|||
当時ローマのシリアの属州総督(プロコンスル)で、[[三頭政治#第一回三頭政治|三頭政治]]を敷く[[マルクス・リキニウス・クラッスス]]は、前53年に遅ればせながらミトラダテス3世の支援のためパルティアへの侵攻を開始した<ref name="シェルドン2013pp44_45">[[#シェルドン 2013|シェルドン 2013]]. pp 44-45</ref><ref>{{harvnb|Bivar|1983|pp=49–50}}; {{harvnb|Katouzian|2009|pp=42–43}}</ref>。彼がカルラエ(現在のトルコ南東部、[[ハッラーン]])に進軍した時、オロデス2世はシリアへの侵攻をスレナスに任せ、アルメニアに侵攻し、ローマの同盟者であったアルメニア王[[アルタヴァスデス2世 (アルメニア)|アルタヴァスデス2世]](在位:前53年-前34年)からの支援を断ち切るべくアルメニアへ進軍した<ref name="シェルドン2013pp45_52">[[#シェルドン 2013|シェルドン 2013]]. pp 45-52</ref>。そしてアルタヴァスデス2世に、パルティアの王太子[[パコルス1世]](前38年死去)とアルタヴァスデス2世の姉妹との婚姻同盟を結ぶように説得した<ref>{{harvnb|Bivar|1983|pp=55–56}}; {{harvnb|Garthwaite|2005|p=79}}; {{harvnb|Brosius|2006|pp=94–95}}と{{harvnb|Curtis|2007|pp=12–13}}も参照</ref>。スレナスの軍勢はカルラエで4倍もの数を誇ったクラッススのローマ軍を撃破してパルティアの威信を高めた([[カルラエの戦い]])。クラッススは講和の席で部下によって殺害された<ref name="デベボイス1993pp66-75">[[#デベボイス 1993|デベボイス 1993]], pp. 66-75</ref><ref name="シェルドン2013pp45_52"/><ref name="足利1972pp212_213">[[#足利 1972|足利 1972]], pp. 212-213</ref>。 |
|||
=== 滅亡へ === |
|||
しかし国内の混乱はますます激しさを増し、全土に反乱が多発する。[[220年]]、それに乗じたペルシア王[[アルダシール1世]]の侵攻を受け、メソポタミア諸都市も多数離反し、ヴェロガセス6世は陣中で死去し、アルタバヌス4世も[[224年]]にアルダシール1世に敗れて殺された。この時点で事実上パルティアは滅びた。 |
|||
カルラエにおけるクラッススの敗北は、ローマ史上最も大きな軍事上の敗北の一つである<ref name="kennedy_1996_78"/>。パルティアの勝利は、ローマと同等の勢力ではないにせよ、その威信を強固なものとした<ref>{{harvnb|Bivar|1983|pp=55–56}}; {{harvnb|Brosius|2006|p=96}}</ref>。従卒や捕虜、貴重なローマの戦利品を携えて、スレナスはセレウキアまで700キロメートルの道のりを凱旋し、勝利を祝った。だが、王位に対するスレナスの野心を恐れたオロデス2世は、この後間もなくスレナスを処刑した<ref name="kennedy_1996_78">{{harvnb|Kennedy|1996|p=78}}</ref>。 |
|||
その後、アルタバヌスの子・アルタバスデスが抵抗を続けたが、クテシフォンで処刑。パルティアは完全に滅亡した。 |
|||
[[Image:Antony with Octavian aureus.jpg|thumb|[[マルクス・アントニウス]](左)と[[オクタウィアヌス]](右)の肖像が刻まれたローマの[[アウレウス]]貨。前43年のオクタウィアヌス、アントニウス、[[マルクス・アエミリウス・レピドゥス|レピドゥス]]による[[三頭政治#第二回三頭政治|第二回三頭政治]]の確立を祝って前41年に発行された。]] |
|||
パルティアを滅ぼしたアルダシール1世はパルティアの後継者を名乗り、「バシレウス・バシレイオン」(諸王の王)を称してクテシフォンを首都として[[サーサーン朝]]を設立した。 |
|||
クラッススに対する勝利で勢いづいたパルティアは、[[西アジア]]におけるローマ領の奪取を試みた<ref group="注釈">ケネディは恒久的な占領こそパルティア人の最終的な目標であり、ローマ領シリアの複数の都市と守備隊がパルティアに屈服した後は特にそうであったと主張している{{harv|Kennedy|1996|p=80}}。デベボイスやシェルドンはパルティアの主目的は略奪であり、征服を意図したものではなかったとしている。</ref>。[[太子|王太子]]パコルス1世と彼の将軍オサケスはシリアを襲撃し、前51年にはアンティオキアまで達した。しかし、彼らは[[ガイウス・カッシウス・ロンギヌス]]に撃退され、その待ち伏せによりオサケスが殺害された<ref name="デベボイス1993pp78-84">[[#デベボイス 1993|デベボイス 1993]], pp. 78-84</ref><ref name="シェルドン2013pp62_68">[[#シェルドン 2013|シェルドン 2013]]. pp. 62-68</ref>。前49年以降、ポンペイウスが[[ユリウス・カエサル]]と戦った[[ローマ内戦 (紀元前49年-紀元前45年)|ローマの内戦]]では、パルティアはポンペイウス側に味方し、前44年にカエサルが暗殺された後の[[フィリッピの戦い]](前42年)の際には[[マルクス・ユニウス・ブルトゥス|ブルトゥス]]と[[カッシウス・ロンギヌス|カッシウス]]たちは、ポンペイウスと[[オクタウィアヌス]]に対抗するための援軍をパルティアに求めた<ref name="シェルドン2013pp71_72">[[#シェルドン 2013|シェルドン 2013]]. pp. 71-72</ref>。ブルトゥスらの敗死によってこの援軍は実現しなかったが、この時使者として派遣された[[クィントゥス・ラビエヌス]]は、前40年にパルティア軍の司令官[[パコルス1世]]に随伴してシリアに侵攻した<ref name="シェルドン2013pp71_72"/>。三頭政治の一角、[[マルクス・アントニウス]]はイタリアへ進発するために、パルティア軍からのローマ領防衛を指揮することができなかった<ref name="シェルドン2013pp71_72"/>。シリアがパコルス1世の軍勢に占領された後、ラビエヌスはパルティア軍の主力の一部を率いて[[アナトリア]]に侵攻し、パコルス1世とその将軍{{仮リンク|バルザファルネス|en|Barzapharnes}}がローマ領[[レヴァント]]へ侵攻した<ref name="bivar_1983_57 strugnell_2006_244 kennedy_1996_80">{{harvnb|Bivar|1983|p=57}}; {{harvnb|Strugnell|2006|p=244}}; {{harvnb|Kennedy|1996|p=80}}</ref>。ラビエヌスはアナトリアのほぼ全ての都市を占領し、パコルス1世は地中海海岸に沿って、南はプトレマイス(現:イスラエル領[[アッコ]])に至る全ての都市を、[[テュロス]]市を例外にして制圧した<ref name="デベボイス1993pp85-90">[[#デベボイス 1993|デベボイス 1993]], pp. 85-90</ref><ref name="シェルドン2013pp71_72"/>。[[ユダヤ|ユダエア]](ユダヤ)では、親パルティア派の[[アンティゴノス (ハスモン朝)|アンティゴノス2世マッタティアス]](在位:前40年-前37年)率いるユダヤ人が、パルティア軍と共に、ローマ派の大祭司[[ヨハネ・ヒルカノス2世|ヨハネ・ヒュルカノス2世]]、{{仮リンク|ファサエル|en|Phasael}}、そして[[ヘロデ大王|ヘロデ]]らのユダヤ人を打ち破った<ref name="デベボイス1993pp85-90"/>。アンティゴノス2世マッタティアスはユダエアの王となり、ヘロデは[[マサダ]]の砦へと逃亡した<ref name="デベボイス1993pp85-90"/>。 |
|||
== 政治 == |
|||
{{出典の明記|date=2016年3月|section=1}} |
|||
パルティアは国内の社会的相違が激しく、それを反映して政治体制は地方分権的であった。領内に多数の従属王国を抱え、また無数の領主が存在していた。社会的階層として頂点にいたのは王族たる[[アルサケス氏族]]であり、アルサケス氏族の出身者のみがパルティア王位、及び従属王国の王位に付く事ができた。また従属王国の王位は厳しく序列分けされたが、[[インド・パルティア王国]]のように事実上の独立王国といえる状態に到った王国や、一時[[バビロニア]]を制圧して強勢を誇った[[カラケネ王国]]などの例からもわかるように、時代によって各王国の地位、立場は変化した。 |
|||
このような成功にも関わらず、パルティアは間もなくローマの反撃によってレヴァント地方から追い出された。マルクス・アントニウスの部下[[プブリウス・ウェンティディウス・バッスス]]は、前39年に{{仮リンク|キリキア門の戦い|en|Battle of the Cilician Gates}}(現:トルコ領[[メルシン県]])でラビエヌスを破ってこれを処刑した<ref name="デベボイス1993pp90_95">[[#デベボイス 1993|デベボイス 1993]], pp. 90-95</ref><ref name="シェルドン2013pp72_75">[[#シェルドン 2013|シェルドン 2013]]. pp. 72-75</ref>。その後すぐに、ファルナパテス率いるシリアのパルティア軍も{{仮リンク|アマヌス街道の戦い|en|Battle of Amanus Pass}}でウェンティディウスによって打ち破られた<ref name="デベボイス1993pp90_95"/>。この結果、パコルス1世は一時的にシリアから撤退した<ref name="デベボイス1993pp90_95"/><ref name="シェルドン2013pp72_75"/>。彼は前38年の春に再びシリアに入り、アンティオキアの北東にある{{仮リンク|ギンダロス山の戦い|en|Battle of Mount Gindarus}}でウェンティディウスに相対した。パコルス1世はこの戦いの最中戦死し、パルティア軍はユーフラテス川を渡って後退した<ref name="デベボイス1993pp90_95"/><ref name="シェルドン2013pp72_75"/>。彼の死は老齢のオロデス2世にとり重大な痛手であったであろう<ref name="シェルドン2013pp72_75"/>。彼はパコルス1世に代わる新たな後継者として[[フラーテス4世]](フラハート4世、在位:前38年-前2年頃)を選んだ<ref name="シェルドン2013pp72_75"/>。 |
|||
=== パルティア内の主要な王国 === |
|||
*[[ペルシス王国]] |
|||
*[[インド・パルティア王国]] |
|||
*[[カラケネ王国]] |
|||
*[[エリマイス王国]]([[エラム]]) |
|||
*[[アルメニア王国]](厳密にはパルティア内の王国とは言い難い) |
|||
*[[アトロパテネ王国]]([[メディア王国|メディア]]) |
|||
*[[アディアバネ王国]] |
|||
[[File:Phraatesiv.jpg|thumb|パルティア王[[フラーテス4世]](フラハート4世、在位:前38年-前2年頃)のドラクマ貨]] |
|||
=== 7大貴族 === |
|||
しかしフラーテス4世は間もなく父親を殺害し、即位直後には兄弟たちを殺害すると共に、数多くのパルティア貴族を追放した<ref name="デベボイス1993pp98_108">[[#デベボイス 1993|デベボイス 1993]], pp. 98-108</ref><ref name="シェルドン2013pp77_79">[[#シェルドン 2013|シェルドン 2013]]. pp. 77-79</ref>。彼らのうちの一人、モナエセスはローマのアントニウスの下へ逃げ、彼に{{仮リンク|アントニウスのパルティア戦争|label=パルティアへ侵攻|en|Antony's Parthian War}}するように説得した<ref name="デベボイス1993pp98_108/"<ref name="シェルドン2013pp77_79"/>。状況有利と見たアントニウスはパルティアへの侵攻を決意した<ref name="シェルドン2013pp77_79"/>。アントニウスはユダヤのパルティア同盟者アンティゴノス2世を前37年に打倒し、ヘロデを属王としてユダヤの王に据えた<ref name="デベボイス1993pp90_95"/>。翌年、アントニウスはアルメニアの[[エルズルム]]市に進軍し、アルメニア王アルタヴァスデス2世にローマとの同盟を強要した<ref name="デベボイス1993pp98_108"/>。アントニウスはパルティアと同盟を結んだ[[アトロパテネ王国|メディア・アトロパテネ]](現:イラン、[[アーザルバーイジャーン]])の王、{{仮リンク|アルタヴァスデス1世 (アトロパテネ)|label=アルタヴァスデス1世|en|Artavasdes I of Media Atropatene}}を攻撃した<ref name="デベボイス1993pp98_108"/>。目的は現在では位置不明となっているその首都、プラースパを占領することであった。しかし、フラーテス4世はアントニウス軍の後方を襲って孤立化させ、プラースパ包囲に用いられていた[[攻城兵器]]である巨大な[[破城槌]]を破壊した<ref name="シェルドン2013pp79_87">[[#シェルドン 2013|シェルドン 2013]]. pp. 79-87</ref><ref name="デベボイス1993pp98_108"/>。アルメニア王アルタヴァスデス2世は戦闘の前後にアントニウスの軍を見限って逃亡していた<ref name="デベボイス1993pp98_108"/><ref name="シェルドン2013pp79_87"/><ref>{{harvnb|Bivar|1983|pp=58–59}}</ref>。パルティアはアントニウス軍をアルメニアへの撤退に追い込むことに成功し、退却路で更なる襲撃を続けた<ref name="デベボイス1993pp98_108"/><ref name="シェルドン2013pp79_87"/>。大きな損害を受けたローマ軍は最終的にシリアへと帰還した<ref>{{harvnb|Bivar|1983|pp=60–63}}; {{harvnb|Garthwaite|2005|p=80}}; {{harvnb|Curtis|2007|p=13}}; アントニウス以降の、シリアからローマの関心がユーフラテス上流に移動したことについての分析は{{harvnb|Kennedy|1996|p=81}}も参照。 </ref>。この後、アントニウスはローマ軍敗北の原因を作ったアルタヴァスデス2世を繰り返し罠に誘いこんだ。アルタヴァスデス2世は前34年に捕縛され、ローマに送られた後処刑された<ref name="デベボイス1993pp98_108"/><ref name="シェルドン2013pp87_90">[[#シェルドン 2013|シェルドン 2013]]. pp. 87-90</ref><ref name="bivar_1983_64-65">{{harvnb|Bivar|1983|pp=64–65}}</ref>。アントニウスはアルメニアを平定しフラーテス4世とメディア・アトロパテネ王アルタヴァスデス1世の関係が悪化すると、アルタヴァスデス1世との同盟を試みた。しかしアントニウスはオクタウィアヌスとの内戦に備えなければならず、この企ては前33年にアントニウスと彼の軍勢がアルメニアから撤退した時に放棄された。前31年にアントニウスがオクタウィアヌスに敗れ、エジプトで自殺する前後、パルティアと結んだ{{仮リンク|アルタクシアス2世|en|Artaxias II}}が再びアルメニア王位を得た<ref name="デベボイス1993pp98_108"/><ref name="シェルドン2013pp87_90"/>。 |
|||
パルティアで大きな影響力を振るった7つの氏族があった。 |
|||
*[[パルニ氏族]] |
|||
*{{仮リンク|スーレーン氏族|en|House of Suren}} |
|||
*{{仮リンク|カーレーン氏族|en|House of Karen}} |
|||
*{{仮リンク|ミフラーン氏族|en|House of Mihran}} |
|||
*{{仮リンク|アスパーフバド氏族|en|House of Ispahbudhan|fa|خاندان_اسپهبد}} |
|||
*[[ソーハ氏族]] |
|||
*[[ダーハ氏族]] |
|||
==== アルメニアを巡るローマとの対立 ==== |
|||
これらの大貴族らの中には、[[サーサーン朝]]時代にまで影響力を振るったものもあった。この7貴族はその領地経営において、パルティア中央政府の影響を受けることはほとんど無く、王に近い地位を保持していた。この7家氏族の中でも特殊な地位にあったのがスーレーン氏族であり、軍司令官の地位を世襲したほか、王位継承の儀式においてパルティア王に戴冠する役割を持っていた。 |
|||
{{further information|パクス・ロマーナ}} |
|||
前31年の[[アクティウムの海戦]]でアントニウスを破ったのに続き、オクタウィアヌスは彼の政治的権威を統合し、前27年には[[元老院 (ローマ)|元老院]]によって[[アウグストゥス]](尊厳者)と名付けられ、ローマの初代[[ローマ皇帝|皇帝]]となった<ref name="桜井木村1997pp321_325">[[#桜井, 木村 1997|桜井, 木村 1997]]. pp. 321-325</ref>。同じ頃、パルティアでは[[ティリダテス2世]](ティルダート2世)が反乱を起こし短期間支配権を得たが、フラーテス4世はスキタイ系遊牧民の支援を得て迅速に支配権を回復した<ref name="デベボイス1993pp98_108"/><ref name="シェルドン2013pp93_94">[[#シェルドン 2013|シェルドン 2013]]. pp. 93_94</ref><ref>{{harvnb|Bivar|1983|pp=65–66}}</ref>。ティリダテス2世はフラーテス4世の息子の一人を連れ去ってローマに逃亡した<ref name="デベボイス1993pp98_108"/><ref name="シェルドン2013pp93_94"/>。前20年に交渉の場が持たれ、フラーテス4世は連れ去られた息子の解放のために尽力した。解放の見返りとして、ローマは前53年にカルラエで失われたレギオン([[ローマ軍団]])の{{仮リンク|アクイラ (ローマ)|label=軍旗|en|Aquila (Roman)}}と、生存していた当時の捕虜の返還を受けた<ref name="シェルドン2013pp93_94"/><ref>{{harvnb|Garthwaite|2005|p=80}}; {{harvnb|Strugnell|2006|pp=251–252}}も参照</ref>。フラーテス4世はこの交換条件は王子を奪還するためには小さな代償であると考えた<ref>{{harvnb|Bivar|1983|pp=66–67}}</ref>。アウグストゥスは軍旗の返還をパルティアに対する政治的勝利として歓迎した。この政治的勝利はプロパガンダとして記念コインが発行され、軍旗を収める[[アウグストゥスのフォルム|新たな神殿]]も建設された。同様に[[プリマポルタのアウグストゥス]]像の{{仮リンク|胸当て|en|Breastplate}}にもその場面が再現された<ref>{{harvnb|Brosius|2006|pp=96–97; 136–137}}; {{harvnb|Bivar|1983|pp=66–67}}; {{harvnb|Curtis|2007|pp=12–13}}</ref>。 |
|||
[[File:Augustus Prima Porta (detail).PNG|thumb|left|[[プリマポルタのアウグストゥス]]像の{{仮リンク|胸当て|en|Breastplate}}のクローズアップ。[[マルクス・リキニウス・クラッスス]]が[[カルラエの戦い|カルラエ]]で失った軍旗をパルティア人の男性が[[アウグストゥス]]に返還している。]] |
|||
この他にも中小の貴族が存在し、これらの貴族は重装騎兵として軍事力の根幹を担っており、パルティアの政治体制の基層を成した。 |
|||
アウグストゥスはこの王子とともに、フラーテス4世にイタリア人の女奴隷を贈った<ref name="デベボイス1993pp114_121">[[#デベボイス 1993|デベボイス 1993]], pp. 114-121</ref><ref name="シェルドン2013pp98_100">[[#シェルドン 2013|シェルドン 2013]]. pp. 98-100</ref>。彼女は後にパルティアの王妃[[ムサ]]となる<ref name="デベボイス1993pp114_121"/>。彼女の子供フラータケスが無事に王位を継承することを確実にするために、ムサはフラーテス4世に対し、他の息子たちを人質としてアウグストゥスに送るように説得した<ref name="シェルドン2013pp98_100"/>。アウグストゥスはこの人質もプロパガンダとして活用し、{{仮リンク|レス・ゲスタエ・ディヴィ・アウグスティ|en|Res Gestae Divi Augusti}}に偉大な業績として列挙している<ref>{{harvnb|Bivar|1983|p=67}}; {{harvnb|Brosius|2006|pp=96–99}}</ref>。フラータケスが[[フラーテス5世]](フラハート5世、在位:前2年頃-後4年頃)として王位に就いた時、ムサはこの自分自身の息子と結婚し、彼とともに統治した。パルティアの貴族たちはこの近親相姦関係を拒否し、二人は追放されるかまたは殺害された。<ref name="デベボイス1993pp114_121"/><ref name="シェルドン2013pp100_106">[[#シェルドン 2013|シェルドン 2013]]. pp. 100-106</ref>。フラーテス5世の後に王座に据えられた[[オロデス3世]](ウロード3世)は僅か2年で真偽の疑わしい残虐行為を理由に排除された<ref name="デベボイス1993pp114_121"/><ref name="シェルドン2013pp100_106"/>。続いて、ローマに人質として送られていたフラーテス4世の息子を送り返すよう要請が行われ、帰国した[[ヴォノネス1世]](在位:6年-12年)が王となった<ref name="デベボイス1993pp114_121"/><ref name="シェルドン2013pp100_106"/>。だが、彼はローマ滞在中にローマの行動様式・習慣を身に着けており、そのローマ志向に怒るパルティアの貴族たちは、他の王位継承候補者である[[アルタバノス2世]](アルタバーン2世、在位:10年頃-38年頃)を支持し、彼が最終的にヴォノネス1世を破って国外へと追い出した<ref name="デベボイス1993pp114_121"/><ref name="シェルドン2013pp100_106"/>。ヴォノネス1世はアルメニアに逃走し、当時空位だったアルメニアの王位を手に入れたが、アルタバノス2世の圧力で15年か16年にはその地位を追われ、ローマへと逃走した<ref name="デベボイス1993pp114_121"/><ref name="シェルドン2013pp100_106"/>。 |
|||
アルタバノス2世の治世中、ユダヤ人平民の兄弟、{{仮リンク|アニライとアシナイ|en|Anilai and Asinai}}(アニラエウスとアシナエウス)が{{仮リンク|ネハルダ|en|Nehardea}}(現:イラク、[[ファルージャ]]近郊)からやってきて<ref>{{harvnb|Bivar|1983|pp=69–71}}</ref>、パルティアのバビロニア総督に対する反乱を引き起こした<ref name="デベボイス1993pp122_130">[[#デベボイス 1993|デベボイス 1993]], pp. 122-130</ref>。総督が打ち破られた後、二人の兄弟は他の場所に反乱が飛び火するのを恐れたアルタバノス2世によって正式にバビロニアを統治する権利を付与された<ref name="デベボイス1993pp122_130"/><ref>{{harvnb|Bivar|1983|p=71}}</ref>。アニライのパルティア人妻は、[[異教徒]]と結婚したことでアシナイがアニライを攻撃するだろうという恐れから、アシナイを毒殺した。この後、アニライはアルタバノス2世の義理の息子との武力衝突に巻き込まれ、最終的に彼によってアニライは排除された<ref>{{harvnb|Bivar|1983|pp=71–72}}</ref>。ユダヤ人政権が瓦解すると、バビロニア人は現地の{{仮リンク|イラクのユダヤ人|label=ユダヤ人コミュニティ|en|Iraqi Jews}}を嫌うようになり、セレウキア市へ強制的に移住させた。西暦35年から36年にかけてセレウキア市がパルティアに対して反乱を起こした時、このユダヤ人たちは今度は現地の[[ギリシア人]]と[[アラム人]]によって再び追放された。追放されたユダヤ人はクテシフォン、ネハルダ、そして[[ニシビス]]へと逃れた<ref>{{harvnb|Bivar|1983|pp=72–73}}</ref>。 |
|||
=== 騎士 === |
|||
騎士は主に[[軽騎兵]]としてパルティアの軍事力の一翼を担っていた。支配者層としていくつかの特権を持ち、被征服民とは明確に区別されていたが、貴族にあまりにも強く従属していたために古典古代の著作家たちの中には、[[奴隷]]だと考えた者もいたという。騎士は遊牧的もしくは半遊牧的な伝統を持ち、都市ではなく農耕的[[オアシス]]周辺の[[草原]]を生活の場にしていたと考えられている。 |
|||
[[File:Augustus Denarius 19 BC 2230399.jpg|thumb|right|[[アウグストゥス]]治世の前19年に打刻された[[デナリウス]]貨。[[フェーローニア|フェロニア]]女神が表面に描かれ、背面にはパルティア人の男が跪き、[[カルラエの戦い]]で奪取したローマ{{仮リンク|アクイラ (ローマ)|label=軍旗|en|Aquila (Roman)}}を差し出している<ref>パルティア人が軍旗をローマに返還している場面を描いたローマのコインについての更なる情報は、{{harvnb|Brosius|2006|pp=137–138}}を参照。</ref>。]] |
|||
=== ペラト === |
|||
[[プルタルコス]]がペラト(Pelat)と呼んだ階層は[[プトレマイオス朝]]の[[ラオイ]]に似た「奴隷タイプの隷属民」だと考えられている。一定の法的保障を持つと同時に納税を義務づけられた被支配民である。税は土地台帳に基づいて課税され、納税を怠ると厳しい処罰を受けた。王の直轄地では国家に、貴族の所領では貴族に従属していた。古典古代の著作家たちは奴隷としていることも多いが、プルタルコスはペラトと奴隷を明確に区別している。 |
|||
直接の戦闘こそ避けられたが、パルティア王アルタバノス2世とローマ皇帝[[ティベリウス]](在位:14年-37年)は、互いに自分の意のままになる人物をアルメニア王に擁立しようと、周辺諸国を巻き込みつつアルメニア情勢への介入を繰り返した<ref name="デベボイス1993pp122_130"/><ref name="シェルドン2013pp106_113">[[#シェルドン 2013|シェルドン 2013]]. pp. 106-113</ref>。更にローマは自らの同盟者としてパルティアを統治させるため、人質としていたパルティアの王子、[[ティリダテス3世]](ティルダート3世)を開放してバビロニアに送り込んだ<ref name="デベボイス1993pp122_130"/><ref name="シェルドン2013pp106_113"/>。アルタバノス2世は一時ヒュルカニアまで撤退を余儀なくされたが、間もなくその地から動員した軍隊を用いてティリダテス3世を王座から排除した<ref name="デベボイス1993pp122_130"/><ref name="シェルドン2013pp106_113"/><ref>{{harvnb|Bivar|1983|pp=73–74}}</ref>。 |
|||
=== 奴隷 === |
|||
奴隷はペラトよりさらに下の階層として存在していたと考えられている。また、奴隷とペラトの中間階層も存在したと思われる。 |
|||
38年にアルタバノス2世が死去すると、[[ゴタルゼス2世]](ゴータルズ2世)が兄弟のアルタバノスを殺害し権力を握った<ref name="デベボイス1993pp132_139">[[#デベボイス 1993|デベボイス 1993]], pp. 132-139</ref>。もう一人の兄弟、[[ヴァルダネス1世]]は一時逃亡したが、ゴタルゼス2世と対立する貴族たちによって呼び戻され、1年後にはヴァルダネス1世が王位を奪い取った<ref name="デベボイス1993pp132_139"/>。その後も両者の戦いは、西暦48年頃にヴァルダネス1世が暗殺されるまで続いた<ref name="デベボイス1993pp132_139"/>。西暦49年、パルティアの貴族たちは権力を握ったゴタルゼス2世に対抗するため、ローマ皇帝[[クラウディウス]](在位:41年-54年)に人質となっていた王子[[メヘルダテス]]を解放することを懇願した。しかしメヘルダテスを擁立する試みは、[[エデッサ]]総督である[[アディアベネ]]の{{仮リンク|モノバゾスの子イザテス|en|Izates bar Monobaz}}たちが裏切った事で失敗に終わった<ref name="デベボイス1993pp132_139"/>。メヘルダテスは捕らわれてゴタルゼス2世の下へ送られ、生きていることは許されたが耳を切断された。この処置は、彼が王座を継ぐ資格を喪失させるものであった(パルティア王位に就くためには五体満足である必要があった<ref name="デベボイス1993pp132_139"/><ref>{{harvnb|Bivar|1983|pp=76–78}}</ref>。)。 |
|||
=== ギリシア人ポリス === |
|||
[[File:Roman-Parthian War 58-60.svg|thumb|300px|[[ローマ・パルティア戦争(58-63年)]]における最初の2年間の[[アルメニア王国]]での軍団の移動図。[[アルメニア]]でのローマの攻撃の詳細と、[[グナエウス・ドミティウス・コルブロ]]による占領]] |
|||
パルティアが征服した領域、特に[[メソポタミア]]など西部には多数の[[ギリシア人]]が住む砦や少数の都市が存在した。これらの集落(砦)や都市は[[セレウコス朝]]以来自治組織を持っており、また伝統的に親セレウコス朝、親ローマの政治傾向が強かった。パルティアの政治闘争の中でしばしば現れる親ローマ派の勢力の支持母体となったのがこの集団であった。このため、セレウコス朝やローマとの戦争の際に裏切る恐れがあるギリシア人ポリスは、パルティア首脳部の頭痛の種となっていた。 |
|||
ゴタルゼス2世は51年頃に死去し、[[ヴォノネス2世]]の数カ月の治世の後、[[ヴォロガセス1世]](ワルガシュ1世、在位:51年頃-77年頃)が即位した<ref name="デベボイス1993pp132_139"/>。ヴォロガセス1世はアルメニアの混乱<ref group="注釈">[[イベリア王国|イベリア]]王フラスマネス1世が息子の[[ラダミストゥス]](在位:51年-55年)をアルメニアに侵攻させ、ローマの属王であったミトラダテスを退位させた。</ref>に乗じて、兄弟のティリダテス(ティルダート)をその王位につけることを計画し、実際にアルメニア王[[ティリダテス1世 (アルメニア王)|ティリダテス1世]]として即位させた<ref name="デベボイス1993pp132_139"/><ref name="シェルドン2013pp115_117">[[#シェルドン 2013|シェルドン 2013]]. pp. 115-117</ref>。これによって{{仮リンク|アルサケス朝 (アルメニア)|lable=アルサケス朝|label=アルサケス朝|en|Arsacid Dynasty of Armenia}}のアルメニア王家が誕生し、パルティアはアルメニアを(短期間の中断を挟みつつも)確固とした支配の下に置いた<ref>{{harvnb|Bivar|1983|pp=79–81}}; {{harvnb|Kennedy|1996|p=81}}</ref>。アルメニアのアルサケス王家はパルティアの滅亡後も存続した<ref>{{harvnb|Garthwaite|2005|p=82}}; {{harvnb|Bivar|1983|pp=79–81}}</ref>。そして、アルサケス王家はアルメニア以外の周辺国にも確立された。[[グルジア]]でも{{仮リンク|アルサケス朝 (イベリア)|label=アルサケス朝|en|Arsacid dynasty of Iberia}}のイベリア王国が成立し、[[カフカス・アルバニア王国|コーカサスのアルバニア]]でも、{{仮リンク|アルサケス朝 (アルバニア)|label=アルサケス朝|en|Arsacid Dynasty of Caucasian Albania}}のアルバニア王家が継続した<ref>{{harvnb|Bausani|1971|p=41}}</ref>。 |
|||
ギリシア人殖民団の自治はパルティアによる征服初期にはセレウコス朝時代からほとんどそのまま継続されたが、長期に渡るセレウコス朝やローマとの戦争を通じて、パルティアの指導者達は彼等の自治権を縮小した。最大の契機となったのは[[紀元前1世紀|紀元前6年]]にローマの支持の下で即位した[[ヴォノネス1世]]と、[[アルタバヌス2世]]との間で戦われた内戦である。この内戦ではギリシア人集団の大半がヴォノネス1世側に加担したが、最終的にアルタバヌス2世が勝利した。これ以後、パルティア領内でのギリシア人の政治的地位が著しく低下し、ギリシア人集団の自治権も剥奪された。 |
|||
アルメニアの事件がローマに伝わると、ローマ人はただちに介入の準備を始めた<ref name="デベボイス1993pp142_152">[[#デベボイス 1993|デベボイス 1993]], pp. 142-152</ref><ref name="シェルドン2013pp115_117"/>。[[グナエウス・ドミティウス・コルブロ]]が指揮官に任命され、シリアに軍団を集結させた<ref name="デベボイス1993pp142_152"/><ref name="シェルドン2013pp115_117"/>。一方、ヴォロガセス1世は55年に息子の[[ヴァルダネス1世]]の反乱に直面し、ヴォロガセス1世は軍勢をアルメニアから撤退させた<ref name="デベボイス1993pp142_152"/><ref name="シェルドン2013pp115_117"/>。彼はローマに人質を送って妥協姿勢を示したが、反乱の鎮圧前後から、ローマに対して強硬姿勢を取り始め、アルメニアが完全にパルティアの物であることを主張した<ref name="デベボイス1993pp142_152"/><ref name="シェルドン2013pp115_117"/>。このため、ローマ軍司令官コルブロは本格的に戦争の準備を始め、58年にはアルメニアへの侵攻を開始した<ref name="デベボイス1993pp142_152"/><ref name="シェルドン2013pp115_117"/>この戦争でパルティア軍と、アルサケス朝のアルメニア軍は敗退し、[[ティグラネス5世]]がローマによってアルメニア王に擁立された<ref name="デベボイス1993pp142_152"/><ref name="シェルドン2013pp117_130">[[#シェルドン 2013|シェルドン 2013]]. pp. 117-130</ref>。しかし、ヴォロガセス1世はパルティア貴族たちの前で、改めて弟のティグラネス1世がアルメニアの正統な王であることを宣言し、反撃に転じた<ref name="デベボイス1993pp142_152"/><ref name="シェルドン2013pp117_130"/>。パルティアはコルブロの後任者{{仮リンク|ルキウス・カエセンニウス・パエトゥス|en|Lucius Caesennius Paetus}}に大勝し、アルメニアを回復することができた<ref name="デベボイス1993pp142_152"/><ref name="シェルドン2013pp117_130"/><ref>{{harvnb|Bivar|1983|pp=83–85}}</ref>({{仮リンク|ローマ・パルティア戦争 (58-63年)|en|Roman–Parthian War of 58–63}})。この結果結ばれた63年の和平条約で、パルティアとローマの間に妥協点が見出された。アルメニア王位はアルサケス朝のティリダテス1世のものとなるが、その代わり彼は[[ナポリ|ネアポリス]](ナポリ)市とローマ市の両方で、ローマ皇帝[[ネロ]](在位:54年-68年)によって正式なアルメニア王として戴冠され、頭上に{{仮リンク|ディアディム|label=王環(ディアディム)|en|Diadim}}を授けられることが合意された<ref name="デベボイス1993pp153_159">[[#デベボイス 1993|デベボイス 1993]], pp. 153-159</ref><ref name="シェルドン2013pp117_130"/><ref>{{harvnb|Brosius|2006|pp=99–100}}; {{harvnb|Bivar|1983|p=85}}</ref>。アルメニアで妥協が成立した後、パルティアとローマの和平は長く続いた<ref name="デベボイス1993pp153_159"/><ref name="シェルドン2013pp117_130"/>。このためローマによるパルティアについての記録は乏しくなり、かえってこの時期のパルティア史の詳細は不明瞭となる<ref name="デベボイス1993pp153_159"/><ref name="シェルドン2013pp117_130"/>。ヴォロガセス1世の治世がいつごろまで続いたのかも明確ではないが、79年か80年頃までであろうとされる<ref name="デベボイス1993pp153_159"/>。 |
|||
=== バビロン === |
|||
[[バビロン]]には独自の市民と神殿の共同体が存在していた。この共同体はヘレニズム期の初めに神殿関係者と都市の富裕層が一体となった共同体を形成したもので、市民は何らかの義務を果たし、神殿は共同体成員にブレベンダ(給与)の形で分配するというシステムになっていたと考えられている。時代が下ると、ブレベンダは信仰とは無関係に神殿経営で得られた余剰産物の市民と共同体成員の間での分配方法の一つとなっていった。 |
|||
バビロンはセレウコス朝時代より自治を認められており、いくつかの神殿の管理する土地をはじめとする特権を有していた。この特権は共同体の成員のみに与えられていた。 |
|||
バビロンの自治も、ギリシア人ポリス同様にパルティア中期以降は次第に縮小されていったと考えられている。 |
|||
==== トラヤヌスの侵入 ==== |
|||
== 文化 == |
|||
[[File:ParthianInChains.jpg|thumb|left|[[フリジア帽|フリュギア帽]]をかぶったパルティア人(右)。ローマによって捕虜として鎖に繋がれている様子が描かれている(左)。[[セプティミウス・セウェルスの凱旋門]]。203年。]] |
|||
{{出典の明記|date=2016年3月|section=1}} |
|||
ヴォロガセス1世の治世末期、少なくとも78年4月からセレウキアで[[パコルス2世]](在位:78年頃~115年頃)が王としてコインを発行しているのが確認されている<ref name="デベボイス1993pp170_175">[[#デベボイス 1993|デベボイス 1993]], pp. 170-175</ref>。彼とヴォロガセス1世の関係は、確執があったであろうこと以外ほとんど何もわからない<ref name="デベボイス1993pp170_175"/>。80年から81年にかけては別の王位主張者、[[アルタバノス3世]](アルタバーン3世、在位:80年頃-81年頃)がやはりセレウキアでコインを発行している<ref name="デベボイス1993pp153_159"/>{{refnest|group="注釈"|インド史、イラン史研究者の[[足利惇氏]]は、これらの王について発行した貨幣の年代が交叉していることから、むしろ諸州の統治者であったと推測している<ref name="足利1972pp219_226">[[#足利 1972|足利 1972]], pp. 219_226</ref>。}}。パコルス2世は82年か83年までには対立する王たちを駆逐していたが、長期に渡る統治にもかかわらずセレウキア、クテシフォンでの彼のコイン発行には空白期間が数多く見られ、支配は安定しなかったと見られる<ref name="デベボイス1993pp170_175"/>。105年か106年にはパコルス2世と対立する王として[[ヴォロガセス3世]](ワルガシュ3世、在位:105年頃-147年)が登場し、109年か110年にはパコルス2世の兄弟か義兄弟の[[オスロエス1世]]も王としてコインを発行し始めた<ref name="デベボイス1993pp170_175"/>。年代を記録したパコルス2世のコインは97年を最後に、一度の例外を除き途絶えているが、101年に[[後漢]]に使者を派遣した安息(パルティア)王満屈復はパコルス2世であると推定され、またローマで皇帝[[トラヤヌス]](在位:98年-117年)に反抗した[[ダキア]]人[[デケバルス]]がパコルス2世へ使者を送っていることなどから、対抗者が立った後もしばらくの間は王として地位を維持していたと見られる<ref name="デベボイス1993pp170_175"/>。この間のパルティアの事情はほとんど詳らかでない。 |
|||
パルティアは征服の過程で[[ヘレニズム]]文化圏を広範に支配下に納めた。この結果、初期には旺盛なヘレニズム文化の継承者となった。[[ギリシア語]]は[[アラム語]]と並んで共通語として普及し、パルティア王達はギリシア文化の保護者を名乗った。 |
|||
110年代初頭、パルティア王オスロエス1世がアルメニアの王位継承に介入し、ローマと相談することなくアルメニア王ティリダテス1世(ティルダート1世)を廃立し、パコルス2世の息子アクシダレスを擁立した時、ローマ皇帝トラヤヌスは軍事介入を決定し、再びローマとの戦いが始まった<ref name="デベボイス1993pp153_159"/><ref name="シェルドン2013pp136_142">[[#シェルドン 2013|シェルドン 2013]]. pp. 136-142</ref><ref>{{harvnb|Bivar|1983|pp=86–87}}</ref>{{refnest|group="注釈"|シェルドンはトラヤヌスのパルティアに対する攻撃の理由は、領土的野心と栄誉、そして半世紀にわたり続いてきた、ローマ皇帝によるアルメニア王戴冠の権利をパルティアが無視したことによって傷つけられたトラヤヌスの名誉心であったとする。そして以前よりパルティア侵攻を決意しており、オスロエス1世による介入は都合の良い切っ掛けに過ぎなかったとしている<ref name="シェルドン2013pp136_142"/>。}}。113年、オスロエス1世はこのローマ軍の脅威を受けてアクシダレスを廃位し、代わってやはりパコルス2世の息子で、アクシダレスの兄弟である[[パルタマシリス]]を改めてアルメニア王とし、トラヤヌスが戴冠するという妥協案を提示した<ref name="デベボイス1993pp170_175"/><ref name="シェルドン2013pp136_142"/>。トラヤヌスはこの提案を拒絶し、前114年春にはシリアの[[アンティオキア]]に移動し、5月にはアルメニアとの国境の都市[[サタラ]]に着陣して、ドナウ方面からの分遣隊を含む8個[[ローマ軍団]]からなる空前の規模のローマ軍を集結させた<ref name="デベボイス1993pp170_175"/><ref name="シェルドン2013pp142_146">[[#シェルドン 2013|シェルドン 2013]]. pp. 142-146</ref>。トラヤヌスがアルメニアに侵入を開始するとパルタマシリスは戦わずに降伏したが処刑され、アルメニアがローマの属州であることが宣言された<ref name="デベボイス1993pp175_180">[[#デベボイス 1993|デベボイス 1993]], pp. 175-180</ref><ref name="シェルドン2013pp142_146"/>。ローマ軍は{{仮リンク|ルシウス・クイエトゥス|en|Lusius Quietus}}の指揮でアディアベネの領域にあったニシビスも占領した<ref name="デベボイス1993pp175_180"/>。これは北メソポタミアの平原を横切る全ての主要街道を確保するために不可欠であった<ref>{{harvnb|Lightfoot|1990|pp=117–118}}; {{harvnb|Bivar|1983|pp=90–91}}も参照。</ref>。 |
|||
このように初期には各地でギリシャ風の美術、建築が行われたが、その度合いは地域によって大きく異なっている。ヘレニズム文化の中心地となったのはギリシア人の居住が多いバビロニアであり、[[セレウキア]]などの都市はパルティア時代に入ってもなおギリシャ文化の一大中心地であった。 |
|||
翌年、トラヤヌスはメソポタミアに侵攻したが、アディアベネの{{仮リンク|メバルサペス|en|Meharaspes}}による微弱な抵抗しか受けなかった<ref name="シェルドン2013pp146_149">[[#シェルドン 2013|シェルドン 2013]]. pp. 146-149</ref>。メバルサペスが打ち破られた後、{{仮リンク|オスロエネ|en|Osroene}}の[[アブガルス7世]]はローマに鞍替えすることを決定し、トラヤヌスによって地位を安堵された<ref name="シェルドン2013pp146_149"/>。トラヤヌスは115年から116年にかけての冬をアンティオキアで過ごし、116年春に遠征を再開した。ユーフラテス川を下って進軍し、アディアベネの主要都市を占領した後、ドゥラ・エウロポス、そして首都クテシフォン<ref>{{cite book|author=Dr. Aaron Ralby|title=Atlas of Military History|year=2013|publisher=Parragon|isbn=978-1-4723-0963-1|page=239|chapter=Emperor Trajan, 98—117: Greatest Extent of Rome}}</ref>とセレウキアを占領し、更にカラケネを服属させた<ref name="デベボイス1993pp180_185">[[#デベボイス 1993|デベボイス 1993]], pp. 180-185</ref><ref name="シェルドン2013pp149_153">[[#シェルドン 2013|シェルドン 2013]]. pp. 149-153</ref>。こうして[[ティグリス川]]と[[ユーフラテス川]]の河口部までがローマの占領下に入り、オスロエス1世は逃走した<ref name="シェルドン2013pp149_153"/>。 |
|||
南[[トルクメニスタン]](パルティアナ)でも都市ではギリシア様式の芸術が多数みつかっているが、ギリシア人の絶対人口が少ないこの地域ではヘレニズム文化は極めて限られた都市部に集中していた。パルティアの農村地帯は研究が少ないが、現在知られている限り、パルティアの発祥地ともいえるパルティアナでは、農村部にヘレニズム文化が普及することはなかった。[[バクトリア]]なども含め、東方領土では早い段階から現地文化が強く現れはじめ、ヘレニズム文化との折衷様式が普及した。 |
|||
ここまでの過程で、パルティアによる組織的な抵抗はほとんどなされなかった。これは同時期にパルティアが分裂と内戦に直面していたためであると考えられる<ref name="デベボイス1993pp175_180"/><ref>{{harvnb|Bivar|1983|pp=88–89}}</ref>。メソポタミア侵攻に対し僅かでもローマ軍に抵抗したのはオスロエス1世であったが、セレウキアでのコインの発行状況から、ヴォロガセス3世とオスロエス1世との激しい争いが継続していたことは明らかであり、パコルス2世もまだ生存して権力を主張していた可能性もある<ref name="デベボイス1993pp175_180"/>。 |
|||
ローマ軍に奪われた領土を奪回するためオスロエス1世の甥の[[シナトルケス2世]]<ref group="注釈">オスロエス1世の兄弟[[ミトラダテス4世]]の息子。</ref>が各地で反ローマ反乱を扇動し、軍を東パルティアに集めた<ref name="シェルドン2013pp154_156">[[#シェルドン 2013|シェルドン 2013]]. pp. 154-156</ref>。しかし、シナトルケス2世への援軍を率いて合流したオスロエス1世の息子[[パルタマスパテス]]は、シナトルケス2世と対立し、彼を裏切ってトラヤヌスと通じた<ref name="デベボイス1993pp180_185"/>。結果としてシナトルケス2世は死亡し、パルタマスパテスはトラヤヌスによって116年にクテシフォンでパルティア王に戴冠された<ref name="デベボイス1993pp180_185"/><ref name="bivar_1983_90-91">{{harvnb|Bivar|1983|pp=90–91}}</ref>。 |
|||
トラヤヌスが北へ戻ると、バビロニアの住民はローマ軍の守備隊に対し反乱を起こした<ref>{{harvnb|Lightfoot|1990|p=120}}; {{harvnb|Bivar|1983|pp=90–91}}</ref>。トラヤヌスは占領地の主要部分を属王に与えると、117年にメソポタミアから撤退し、交通上の要路である[[ハトラ]]の再占領に着手した<ref name="シェルドン2013pp154_156"/><ref>{{harvnb|Bivar|1983|p=91}}; {{harvnb|Curtis|2007|p=13}}; {{harvnb|Garthwaite|2005|p=81}}</ref>。彼の撤退は(彼の意図としては)一時的なものであった。なぜならば彼は118年にパルティアへの攻撃を再開し「パルティア人を真に服属させる」つもりであったためである<ref>{{harvnb|Mommsen|2004|p=69}}</ref>。だが、トラヤヌスは健康を損ない、117年8月に死亡した<ref name="シェルドン2013pp154_156"/><ref name="シェルドン2013pp156_160">[[#シェルドン 2013|シェルドン 2013]]. pp. 156-160</ref>。 |
|||
遠征の最中、トラヤヌスは'''パルティクス'''(''Parthicus'')の称号を元老院から付与され、コインでパルティアの征服を宣言している<ref name="シェルドン2013pp154_156"/><ref>{{harvnb|Bivar|1983|pp=90–91}}; {{harvnb|Brosius|2006|p=137}}と{{harvnb|Curtis|2007|p=13}}も参照。</ref>。4世紀の歴史家、[[エウトロピウス]]と{{仮リンク|フェストゥス (歴史家)|label=フェスティス|en|Festus (historian)}}はトラヤヌスはメソポタミア下流に{{仮リンク|メソポタミア属州|label=ローマの属州|en|Mesopotamia (Roman province)}}を設置しようと試みたのだと主張している<ref>{{harvnb|Lightfoot|1990|pp=120–124}}</ref>。 |
|||
==== トラヤヌス以後のローマとの争い ==== |
|||
トラヤヌスの後継者[[ハドリアヌス]](在位:117年-138年)はローマとパルティアの国境がユーフラテス川であることを再度主張し、ローマの軍事資源が限られていることからメソポタミアに侵攻しないという選択をした<ref>{{harvnb|Brosius|2006|p=100}}; {{harvnb|Lightfoot|1990|p=115}}も参照; {{harvnb|Garthwaite|2005|p=81}}; 及び{{harvnb|Bivar|1983|p=91}}</ref>。以降、ローマとの衝突を除き、パルティア史に関する具体的な情報はほとんど残されていない。 |
|||
パルティアではトラヤヌスの退却後パルタマスパテスがたちまち王位を追われた<ref name="デベボイス1993pp188_206">[[#デベボイス 1993|デベボイス 1993]], pp. 188-206</ref><ref name="シェルドン2013pp162_164">[[#シェルドン 2013|シェルドン 2013]]. pp. 162-164</ref>。彼はハドリアヌスの下へ逃げ込み、ローマの手によってオスロエネの王とされた<ref name="デベボイス1993pp188_206"/><ref name="シェルドン2013pp162_164"/>。その後のパルティアではオスロエス1世とヴォロガセス3世の権力闘争が続いていたとみられる<ref name="デベボイス1993pp188_206"/><ref name="シェルドン2013pp162_164"/>。詳細は不明だが、コインの発行状況から見て、次第にヴォロガセス3世が優勢となったと見られ、オスロエス1世のコインは128年または129年のものを最後に発行されなくなった<ref name="デベボイス1993pp188_206"/><ref name="シェルドン2013pp162_164"/>。また、同じくコインの発行状況から判断すれば、オスロエス1世の死からヴォロガセス3世の治世が終わるまでの間(128/129年~147年頃)、[[イラン高原]]ではヴォロガセス3世とは別に、[[ミトラダテス4世]]が王として君臨していた<ref name="デベボイス1993pp188_206"/>。しかし彼の統治についてはコイン以外何一つ情報が残されていない<ref name="デベボイス1993pp188_206"/>。 |
|||
ヴォロガセス3世の死後、[[ヴォロガセス4世]](在位:147年頃-191年頃)が登場した。ヴォロガセス4世は争いなくその王位を継承したと見られる<ref name="デベボイス1993pp188_206"/><ref name="シェルドン2013pp162_164"/>。彼は長期に渡って王位を維持することに成功し、平和と安定の時代を用意した<ref>{{harvnb|Bivar|1983|pp=92–93}}</ref>。だが、ヴォロガセス4世がアルメニア王をローマに親和的な{{仮リンク|ソハエムス|en|Sohaemus}}から新たにパルティアのアルサケス家から選ばれたパコルスに交代させ、更にローマの勢力圏内にあるエデッサを再奪取したことで、161年から166年まで続く{{仮リンク|ローマ・パルティア戦争 (161-166年)|label=ローマ・パルティア戦争|en|Roman–Parthian War of 161–166}}が始まった<ref name="デベボイス1993pp188_206"/><ref name="シェルドン2013pp164_172">[[#シェルドン 2013|シェルドン 2013]]. pp. 164-172</ref>。ローマ皇帝[[マルクス・アウレリウス・アントニウス]](在位:161年-180年)は共同皇帝の[[ルキウス・ウェルス]](在位:161年-169年)にシリアを守備させ、163年に{{仮リンク|マルクス・スタティウス・プリスクス|en|Marcus Statius Priscus}}をアルメニアに侵攻させた。続いて164年には[[ガイウス・アウィディウス・カッシウス]]がメソポタミアに侵攻した<ref name="デベボイス1993pp188_206"/><ref name="シェルドン2013pp164_172"/>。 |
|||
ローマ人は165年にはセレウキアとクテシフォンを占領して焼き払った<ref name="デベボイス1993pp188_206"/><ref name="シェルドン2013pp164_172"/>。だが、ローマ兵たちが命に関わる{{仮リンク|アントニウスのペスト|label=疫病|en|Antonine Plague}}(恐らくは[[天然痘]])に罹患したため、撤退を余儀なくされた。この疫病はすぐにローマ世界に破壊的な影響を及ぼした<ref name="デベボイス1993pp188_206"/><ref name="シェルドン2013pp164_172"/>。ローマ軍は撤退したが、この時以降、ドゥラ・エウロポスの町はローマの支配下に入った<ref>{{harvnb|Curtis|2007|p=13}}; {{harvnb|Bivar|1983|pp=93–94}}</ref>。166年にはカッシウスと[[マルティウス・ウェルス]]の指揮でメディア地方への侵攻が行われ、ルキウスはこれらの業績からパルティクス・マクシムス(最大のパルティア征服者、''Parthicus Maximus'')、及びメディクス(メディア征服者、''Medicus'')の称号を得た<ref name="デベボイス1993pp188_206"/><ref name="シェルドン2013pp164_172"/>。175年にローマでカッシウスが皇帝を称し、マルクス・アウレリウスとの間で対立が生じると、パルティア王ヴォロガセス4世は内戦の気配を感じ取りローマに対し戦争を再開すると脅したが、カッシウスの反乱が短期間で終息したために結局戦端は開かれなかった<ref name="デベボイス1993pp188_206"/><ref name="シェルドン2013pp173_174">[[#シェルドン 2013|シェルドン 2013]]. pp. 173-174</ref>。 |
|||
191年9月[[ヴォロガセス5世]](ワルガシュ5世、在位:191年-207/208年)が王となった<ref name="デベボイス1993pp188_206"/>{{refnest|group="注釈"|デベボイスは、192年にもヴォロガセス4世がコインを発行していることから、ヴォロガセス5世の即位が反乱によるものであるとしている<ref name="デベボイス1993pp188_206"/>。一方、シェルドンは191年にヴォロガセス4世は死亡したとし、ヴォロガセス5世の即位の経緯については特に触れない<ref name="シェルドン2013pp173_174"/>。いずれにせよ、史料の不足のためヴォロガセス5世の即位の経緯についての詳細は不明である。}}。間もなくローマで[[セプティミウス・セウェルス]](在位:193年-211年)、[[ディディウス・ユリアヌス]](在位:193年)、[[ペスケンニウス・ニゲル]]らの間で内戦が勃発すると、ヴォロガセス5世はシリア総督だったニゲルを支援し、ローマの東方領土を切り取りにかかった<ref name="デベボイス1993pp188_206"/><ref name="シェルドン2013pp174_178">[[#シェルドン 2013|シェルドン 2013]]. pp. 174-178</ref>。しかし、ニゲルの敗北とその後のローマの反撃により、アディアベネが占領された<ref name="デベボイス1993pp188_206"/><ref name="シェルドン2013pp174_178"/>。セウェルスがローマ帝国内での更なる戦いのために196年に西方に去ると、ヴォロガセス5世は再び攻勢に転じ、メソポタミアとアルメニアを奪回した<ref name="デベボイス1993pp188_206"/><ref name="シェルドン2013pp174_178"/>。しかし、アディアベネでは現地の王ナルセスが親ローマ姿勢を見せた上、パルティアでも後方でペルシア人とメディア人が反乱を起こしたため、これらの鎮圧に全力を注がなければならなくなった<ref name="デベボイス1993pp188_206"/><ref name="シェルドン2013pp174_178"/>。ヴォロガセス5世は最終的に[[ホラーサーン]]地方で反乱軍を撃破し、アディアベネ王ナルセスも処刑して支配を回復することに成功した<ref name="デベボイス1993pp188_206"/><ref name="シェルドン2013pp174_178"/>。 |
|||
197年になると、国内を統合したセウェルス帝が再びパルティア領内に侵攻した<ref name="デベボイス1993pp188_206"/><ref name="シェルドン2013pp178_184">[[#シェルドン 2013|シェルドン 2013]]. pp. 178-184</ref>。トラヤヌスの時と同じく、ローマ軍はユーフラテス川を下り、セレウキアとクテシフォンを占領した<ref name="デベボイス1993pp188_206"/><ref name="シェルドン2013pp178_184"/>。彼もまたパルティクス・マクシムス(''Parthicus Maximus'')という称号を得たが、198年の後半に撤退し、かつてのトラヤヌスのようにハトラを包囲したが失敗した<ref name="デベボイス1993pp188_206"/><ref name="シェルドン2013pp178_184"/>。 |
|||
セウェルス帝のローマ軍が撤退した後、パルティアについての情報は極端に少なくなる<ref name="デベボイス1993pp188_206"/>。ヴォロガセス5世が207年か208年に死亡した後、[[ヴォロガセス6世]](ワルガシュ6世)と[[アルタバノス4世]](アルタバーン4世)の間で王位を巡る争いが行われていた<ref name="デベボイス1993pp188_206"/><ref name="シェルドン2013pp184_187">[[#シェルドン 2013|シェルドン 2013]]. pp. 184-187</ref>。アルタバノス4世は王国の東部の大部分を、ヴォロガセス6世はメソポタミアからバビロニアに至る地方を支配していた<ref name="デベボイス1993pp188_206"/><ref name="シェルドン2013pp184_187"/>。ローマ皇帝[[カラカラ]](在位:211年-217年)はこれに乗じて213年頃、オスロエネの王を廃して支配下に置き、アルメニアにも侵攻した<ref name="デベボイス1993pp188_206"/><ref name="シェルドン2013pp184_187"/>。内戦を争う二人のパルティア王はこのローマの動きに対抗することはなかった。アルタバノス4世は216年までにメソポタミア地方にまで勢力を伸ばしたが、ヴォロガセス6世はなおセレウキアとクテシフォン周辺の支配を維持した<ref name="デベボイス1993pp188_206"/><ref name="シェルドン2013pp184_187"/>。 |
|||
カラカラはアルタバノス6世の娘の一人と結婚を要求した。だが(この結婚が承認されなかったため)パルティアと開戦し、[[ティグリス川]]東の[[アルベラ]]を占領してメソポタミア征服した<ref name="デベボイス1993pp188_206"/><ref name="シェルドン2013pp184_187"/>。217年にカラカラが暗殺されると、跡を継いだ[[マクリヌス]](在位:217年-218年)は、戦争の責任はカラカラにあるとして、アルタバノス4世に講和を申し入れたが、アルタバノス4世はこれを拒絶し、メソポタミアの返還と、破壊された都市と要塞、陵墓の再建を要求した<ref name="デベボイス1993pp188_206"/><ref name="シェルドン2013pp187_189">[[#シェルドン 2013|シェルドン 2013]]. pp. 187-189</ref>。最終的にアルタバノス4世はローマ軍を打ち破り、マクリヌスを敗走させることに成功した<ref name="デベボイス1993pp188_206"/><ref name="シェルドン2013pp187_189"/>。アルタバノス4世ははマクリヌスから2億セスティルティウス相当の贈り物を受け取って和平を結んだ<ref name="デベボイス1993pp188_206"/><ref name="シェルドン2013pp187_189"/>。 |
|||
[[File:Bas relief nagsh-e-rostam couronnement.jpg|thumb|left|[[ナクシェ・ロスタム]]の[[サーサーン朝]]のレリーフ。[[アルダシール1世]]への王権授与。]] |
|||
=== パルティアの滅亡 === |
|||
この勝利にもかかわらずパルティアはローマとの戦争によって弱体化し、[[サーサーン朝]]の勃興によって間もなく滅亡することになる。この頃、ペルシス(現在のイラン、[[ファールス州]])がアルサケス朝の支配を脱し、[[エスタフル]]から周辺の領域を征服し始めた<ref name="デベボイス1993pp188_206"/><ref name="シェルドン2013pp190_192">[[#シェルドン 2013|シェルドン 2013]]. pp. 190-192</ref>。パルティアの滅亡についても、はっきりとしたことはほとんどわかっていない<ref name="デベボイス1993pp188_206"/><ref name="シェルドン2013pp190_192"/>。後世の伝説によれば、ペルシスの支配者であった[[パーパク]]がサーサーン朝の創設者であり、208年に即位したという<ref name="ギルシュマン1970pp291_294">[[#ギルシュマン 1970|ギルシュマン 1970]], pp. 291-294</ref>。パーパクはアルタバノス4世に対して、自分の王国と占領地の後継者として息子のシャープールを承認するように要求したがアルタバノス4世はこれを拒否した<ref name="ギルシュマン1970pp291_294"/><ref name="デベボイス1993pp188_206"/><ref name="シェルドン2013pp190_192"/>。このためパーパクとアルタバノス4世との間で戦いが発生したが、ほどなくパーパクは死亡し、シャープールも事故死したため、パーパクの次子[[アルダシール1世]]が即位した<ref name="ギルシュマン1970pp291_294"/><ref name="デベボイス1993pp188_206"/><ref name="シェルドン2013pp190_192"/>。 |
|||
アルタバノス4世はこれを鎮圧しようと試みたが、220年にはメディア、アディアベネ、ケルク・スルク([[キルクーク]])でも反乱が発生し、反乱者たちはアルダシール1世と手を結んだ<ref name="シェルドン2013pp190_192"/><ref name="ギルシュマン1970pp291_294"/>。[[224年]]4月28日、アルタバノス4世は[[イスファハーン]]に近い{{仮リンク|ホルミズダガーンの戦い|en|Battle of Hormozdgān}}でアルダシール1世と戦い、敗れて戦死した<ref name="シェルドン2013pp190_192"/><ref name="ギルシュマン1970pp291_294"/><ref name="小川山本1997pp289_291">[[#小川, 山本 1997|小川, 山本 1997]], pp. 289-291</ref>。こうしてパルティアは崩壊し、アルダシール1世が新たな王朝、サーサーン朝を打ち立てた<ref name="シェルドン2013pp190_192"/><ref name="ギルシュマン1970pp291_294"/><ref name="小川山本1997pp289_291"/><ref name="brosius_2006_101 bivar_1983_95-96 curtis_2007_14 katouzian_2009_44">{{harvnb|Brosius|2006|p=101}}; {{harvnb|Bivar|1983|pp=95–96}}; {{harvnb|Curtis|2007|p=14}}; {{harvnb|Katouzian|2009|p=44}}も参照。</ref>。ただし、もう一人のパルティア王ヴォロガセス6世は228年までセレウキアでコインを発行し続けていたことが知られている<ref>{{harvnb|Bivar|1983|pp=95–96}}</ref>。 |
|||
== 史料 == |
|||
{{multiple image| align = right | direction = horizontal | header = | header_align = left/right/center | footer = [[ニネヴェ]](現:[[イラク]]、[[モスル]]近郊)の墓地から発見されたパルティアの金製装身具。[[大英博物館]]| footer_align = left | image1 = Parthian gold funerary objects by Nickmard Khoey.jpg | width1 = 126 | caption1 = | image2 = Parthian jewelry from Nineveh by Nickmard Khoey.jpg | width2 = 174 | caption2 = }} |
|||
パルティア史の復元のために現地と外国で書かれた文書記録や各種の考古学的遺物が現代の研究者によって利用されている<ref name="widengren_1983_1261-1262">{{harvnb|Widengren|1983|pp=1261–1262}}</ref>。パルティア宮廷では文書記録が保持されていたが、パルティア人は公式の[[歴史]]を残さなかった。パルティア人自身による[[一次史料|史料]]は乏しく、利用できる記録はイラン史の他のどの時代よりも少ない<ref name="デベボイス1993pp207_217">[[#デベボイス 1993|デベボイス 1993]], pp. 207-217</ref><ref name="widengren_1983_1261">{{harvnb|Widengren|1983|p=1261}}</ref>。パルティアについての同時代史料の大部分はギリシア語とラテン語の文献、およびパルティア語とアラム語の碑文である<ref name="garthwaite_2005_75-76">{{harvnb|Garthwaite|2005|pp=75–76}}</ref>。 |
|||
[[File:Samartian-Persian necklace and amulet.png|thumb|サルマタイ・パルティアの金製ネックレスとアミュレット。2世紀。タモキン美術基金所蔵。]] |
|||
パルティアの統治者たちの正確な年代を復元するための最も価値ある現地史料は、支配者たちによって発行された金属製の[[ドラクマ]]貨である<ref>{{harvnb|Garthwaite|2005|p=67}}; {{harvnb|Widengren|1983|p=1262}}; {{harvnb|Brosius|2006|pp=79–80}}</ref>。{{仮リンク|ジオ・ワイデングレン|en|Geo Widengren}}に依れば、このような貨幣は「非文書記録から文書記録へと変換」することができる代表的な遺物である<ref name="widengren_1983_1262">{{harvnb|Widengren|1983|p=1262}}</ref>。年代学的に利用することができるほかのパルティアの記録にはバビロニアから発見された[[楔形文字|粘土板文書]]による天文記録と奥付がある<ref name="widengren_1983_1265">{{harvnb|Widengren|1983|p=1265}}</ref>。パルティアの現地文書史料にはまた、[[石碑]]や[[羊皮紙]]、[[パピルス]]、そして[[オストラコン]]の文書記録がある<ref name="デベボイス1993pp207_217"/><ref name="widengren_1983_1262"/>。例えば、初期のパルティアの首都ミトラダトケルタ(現:トルクメニスタン、ニサ)では、[[ワイン]]のような商品の販売と在庫についての情報を記した大型のオストラコンが見つかっている<ref>{{harvnb|Garthwaite|2005|pp=75–76}}; {{harvnb|Widengren|1983|p=1263}}; {{harvnb|Brosius|2006|pp=118–119}}</ref>。加えて、ドゥラ・エウロポスのような場所では羊皮紙文書が見つかっており、パルティアの課税や軍事的称号、地方組織のような政府運営についての貴重な情報がもたらされている<ref>{{harvnb|Widengren|1983|p=1263}}; {{harvnb|Brosius|2006|pp=118–119}}</ref>。 |
|||
[[File:Golden Necklace - Parthian Empire 2nd AD.JPG|thumb|left|パルティアの金製ネックレス。2世紀、イラン、{{仮リンク|レザー・アッバーシ博物館|en|Reza Abbasi Museum}}]] |
|||
[[File:Iran-bastan-32.jpg|thumb|left|パルティアの陶器製{{仮リンク|オイルランプ|en|Oil lamp}}。イラン、[[フーゼスターン州]]。{{仮リンク|イラン国立博物館所蔵|en|National Museum of Iran}}]] |
|||
{{仮リンク|古代ギリシアの歴史学|label=ギリシア語|en|Greek historiography}}と{{仮リンク|古代ローマの歴史学|label=ラテン語|en|Latin histories}}の歴史書は、パルティアの歴史に触れる史料の大部分を占めている。これはパルティアに敵対的な、そして戦時にあっては敵としての観点から書かれているため、全面的に信頼できるとは見做されていない<ref name="デベボイス1993pp207_217"/><ref>{{harvnb|Garthwaite|2005|pp=67, 75}}; {{harvnb|Bivar|1983|p=22}}</ref>。これらの外部の記録は一般に主要な軍事的、政治的事件に関心を示しており、パルティア史の社会的・文化的側面には触れないことが多い<ref>{{harvnb|Garthwaite|2005|p=75}}; {{harvnb|Bivar|1983|pp=80–81}}</ref>。ローマ人は通常パルティア人を荒々しい戦士として描くが、文化的に洗練された人々としても描く。[[アピシウス]]の料理本にあるパルティア料理のレシピは、パルティアの食文化に賞賛を示している<ref group="注釈">{{harvnb|Kurz|1983|p=564}}; さらなる分析として {{harvnb|Brosius|2006|p=138}}も参照。「奇妙なことに、パルティア人は野蛮な存在として描かれていたと同時に、伝統的な手法によって「オリエンタル化」されており、女性的なライフスタイルによって贅沢を愛する存在として、また、過剰なセクシュアリティを表現して描かれていた。」</ref>。{{仮リンク|アルテミタのアポロドロス|en|Apollodorus of Artemita}}と[[アッリアノス]]はパルティアに焦点を合わせた歴史を書いたが、それらは失われ他の歴史書に引用された抜き出ししか現存していない<ref>{{harvnb|Widengren|1983|pp=1261, 1264}}</ref>。アウグストゥスの時代に生きた{{仮リンク|カラクスのイシドロス|en|Isidore of Charax}}は恐らくパルティア政府の調査に基づいたパルティア領についての情報を提供している<ref name="widengren_1983_1264">{{harvnb|Widengren|1983|p=1264}}</ref>。パルティアの人々と事件についての記録は、より狭い範囲についてであるが、[[ユニアヌス・ユスティヌス|ユスティヌス]]、[[ストラボン]]、[[シケリアのディオドロス]]、[[プルタルコス]]、[[カッシウス・デュオ]]、[[アッピアノス]]、[[フラウィウス・ヨセフス|ヨセフス]]、[[ガイウス・プリニウス・セクンドゥス|大プリニウス]]、そして[[ヘロディアヌス]]の歴史書にも含まれている<ref name="デベボイス1993pp207_217"/><ref>{{harvnb|Widengren|1983|pp=1265–1266}}</ref>。 |
|||
パルティア史は[[二十四史|中国の歴史的記録]]に残された出来事を通じても再構成することができる<ref name="widengren_1983_1265, 1267">{{harvnb|Widengren|1983|pp=1265, 1267}}</ref>。ギリシアやローマの歴史家とは対照的に、初期の中国人の歴史家はパルティアについて記述する際、より中立的な視点で言及しているが<ref>{{harvnb|Brosius|2006|p=80}}; {{harvnb|Posch|1998|p=363}}</ref>、中国の史官たちの(原典が明らかでない)より古い記録から記述をコピーする習慣が、出来事の相対年代を確定することを難しくしている<ref>{{harvnb|Posch|1998|p=358}}</ref>。中国人はパルティアを安息([[上古音]]: ''ansjək'')と呼んでおり、恐らくパルティアの都市である[[メルヴ|マルギアナのアンティオキア]]のギリシア語名(Αντιόχεια της Μαργιανήs)から来ている<ref>{{harvnb|Watson|1983|pp=541–542}}</ref>。あるいはそれは王朝の創設者アルサケスの音訳であったかもしれない<ref>{{harvnb|Wang|2007|p=90}}</ref>。これらの記録には、『[[史記]]』『[[漢書]]』『[[後漢書]]』がある<ref name="前田1992pp131_135"/><ref name="足利1972pp262_270"/>。彼らは遊牧民の移動に発する古い時代の[[サカ人]]のパルティアへの侵入や、政治や地理についての貴重な情報を提供している<ref name="widengren_1983_1265, 1267"/>。例えば『史記』(巻123)は外交的交流、ミトラダテス2世が[[漢]]の宮廷へエキゾチックな贈り物を贈ったこと、パルティアで栽培されている農作物の種類、葡萄酒の生産、貿易商、そしてパルティア領土の位置と広さについて説明している<ref name="前田1992pp131_135"/><ref name="足利1972pp262_270"/>。 |
|||
aa |
|||
イスラーム時代のパルティアに関する歴史記録は非常に限定的かつ不正確である。前近代のペルシア語文化圏の歴史家は、旧約聖書的な歴史と古代ペルシア史を整合させる作業の中で、イスラーム以前の古代ペルシア史が、[[ピーシュダート朝]]、[[カヤーン朝]](カイ朝)、[[アシュカーン朝]]{{refnest|group="注釈"|日本語ではアシュカーニー朝とも表記される<ref name="山中2009">[[#山中 2009|山中 2009]]</ref>。}}、[[サーサーン朝]]の四王朝からなるという歴史叙述を発達させてきた<ref name="大塚2017p16">[[#大塚 2017|大塚 2017]], p. 16</ref>。この伝統的なイスラーム期の古代ペルシアについての歴史認識では、セレウコス朝の記憶は失伝しており、カヤーン朝のダーラー(ダレイオス)から王位を奪ったアレクサンドロスの治世の後にアシュカーン朝が置かれる場合が多い(しばしばアレクサンドロス自体もカヤーン朝の王として扱われる)。アシュク、アルダワーンのようなパルティアの諸王に対応すると考えられる王名はアシュカーン朝の君主として登場し、現代の学者も概ねアシュカーン朝をアルサケス朝として扱うが<ref name="山中2009"/>、アシュカーン朝の歴代王についての記録は、実際のアルサケス朝の歴代王と一致はしない<ref name="大塚2017pp368-373">[[#大塚 2017|大塚 2017]], pp. 368-373、巻末付表、イスラーム期の歴史書における古代ペルシア王の一覧を参照</ref>{{refnest|group="注釈"|イスラーム期西アジアの研究者[[大塚修]]の研究によれば、初期イスラーム時代の歴史家は古代ペルシア史を、ペルシア自体の系譜に基づく伝承よりも、むしろアラブの伝承学者に依拠して記述していた。上記したような四王朝の分類も初期イスラームの頃にはなされておらず、[[タバリー]]や[[マスウーディー]]らに代表される歴史家たちの貢献によって整理されて行く中で次第に登場していったものである。そして10世紀以降にイラン古代の文献の[[アラビア語]]訳が大々的に利用されるようになると、古代ペルシア史は更に再編成され、アシュカーン朝を含む四王朝による古代ペルシア史認識が成立した<ref name="大塚2017pp20-126">[[#大塚 2017|大塚 2017]], pp. 20-126</ref>。}}。現代の歴史家はこのイスラーム時代の伝承のうち、アシュカーン朝以前の時代は神話時代、英雄時代として史実としては扱わない<ref name="大塚2017p16"/>。このため、パルティアについてのイスラーム時代の歴史史料は、それ自体には歴史的価値があるにせよ、実際のパルティア史の復元には使用されることはほぼない。 |
|||
== 政府と行政 == |
|||
=== 王権と称号 === |
|||
パルニ氏族によるパルティア征服によって成立したアルサケス朝は、様々な種族を宇含む広大な領域を支配したため、その合法性・正当性を確立する必要があった<ref name="田辺2003p159">[[#田辺 2003|田辺 2003]], p. 159</ref>。初期においてモデルとなったのは、先にイラン地方を支配していたセレウコス朝であり、これと同じく武力によって現地を征服したという「征服の権利に基づいた合法性」によってその支配は正当化されたと推定する学者が複数いる<ref name="田辺2003p159"/>。彼らによれば、前1世紀以降、次第に貴族層の台頭によって王家の権力が弱まると、アケメネス朝の後継者を標榜するようになったという<ref name="田辺2003p159"/>。また、アケメネス朝と同様の王権神授原理がその初期から存在していたとする説も存在する<ref name="田辺2003p159"/>。 |
|||
アルサケス朝の王権観に関する史料は、彼らが発行したコインと、ベヒストゥンにあるミトラダテス2世の碑文などがあるに過ぎない<ref name="田辺2003p159"/>。コインはアルサケス朝の王権を考察する上で最も有効な史料である。歴代の王は初代のアルサケス1世の名を受け継ぎ、ギリシア語でコインに称号を刻んだ<ref name="田辺2003p159"/>。アルサケス1世はスキタイ風の帽子をかぶり、ギリシア文字で「アルサケス、アウトクラトール(自主権者、独裁者)」と記したものと、ギリシア文字で「アルサケス」、アラム文字で「Krny{{refnest|group="注釈"|Krnyは古代ペルシア語のKāranaya-(軍隊指導者)に由来する中世ペルシア語を表記したものであり、アウトクラトールはこの語のギリシア語訳として採用されたものであると考えられる。<ref name="佐藤1982p61">[[#佐藤 1982|佐藤1982]], p. 61</ref>}}」と記したものの二種類のコインを発行している。 |
|||
アルサケス1世の時代からミトラダテス1世の治世前半まで、パルティア王のコインはアルサケス1世と同じ形式で、銘文もただ「アルサケス」とのみ刻んだだけの物が発行されていた<ref name="佐藤1982p61"/>。しかし、大きく領土が拡張したミトラダテス1世の治世後半に入ると、王の肖像は顎鬚を蓄えた物になり、ギリシア語で各種の称号が刻まれるようになる<ref name="佐藤1982p62">[[#佐藤 1982|佐藤1982]], p. 62</ref>。コインに刻まれた称号には、例えば「大王(ΒΑΣΙΛΕΟΣ ΜΕΓΑΛΟΥ)」、「神の化身(ΕΠΙΦΑΝΟΥΣ)」や、「救済者(ΣΩΤΗΡΟΣ)」などヘレニズムの諸王によって用いられたものが採用された<ref name="田辺2003p160">[[#田辺 2003|田辺 2003]], p. 160</ref><ref name="佐藤1982p62"/>[。これらはセレウコス朝時代からのものを引き継いだもので、古くは[[アッシリア]]やアケメネス朝の王権観に由来するものである<ref name="田辺2003p160"/>。また、領内の主要都市に多数居住していたギリシア人の支持を得るため、「ギリシア愛好者(ΦΙΛΕΛΛΗΝΟΣ)」という称号も用いられた<ref name="田辺2003p160"/>。「神の子(ΘΕΟΠΑΤΟΡΟΣ)」という称号も用いられた。これはフラーテス2世のコインに見られるもので、神とされるのは父親であるミトラダテス1世である<ref name="田辺2003p160"/>。生前に王たちが神格化されていたかどうかは不明であるが、これによって死後の神格化は証明される<ref name="田辺2003p160"/>。西方の支配権をセレウコス朝やローマと争ったミトラダテス2世の時代には「[[諸王の王]](ΒΑΣΙΛΕΟΣ ΒΑΣΙΛΕΩΝ」などのイラン地方の伝統的な世界支配者の称号が登場し、末期まで受け継がれた<ref name="佐藤1982p62"/>。ヴォロガセス1世(在位:51年頃-77年頃)の時代以降、コイン表面の肖像脇にパルティア文字による銘文が出現するようになり、これは明らかにヘレニズムからの脱却傾向を示している<ref name="佐藤1982p62"/>。 |
|||
アルサケス朝の王たちがアケメネス朝の王の後継を主張したということはローマ・[[東ローマ帝国|ビザンツ]]の記録によって伝わる。[[タキトゥス]]は『[[年代記 (タキトゥス)|年代記]]において、[[アルタバノス2世]]はローマに対し、キュロス2世とアレクサンドロス大王がかつて支配下全ての領土を侵略するだろうと脅したと記す<ref name="タキトゥス巻6§32">[[#タキトゥス 1981|タキトゥス、 国原訳 1981]], p. 364</ref><ref name="デベボイス1993pp122_130"/>。ビザンツ帝国(東ローマ帝国)時代の記録は、アルサケス朝の王たちはペルシアの王アルタクセルクセスの子孫であるという伝承を伝えている<ref name=shahbazi525>{{harvnb|Shahbazi|1987|p=525}}</ref>。このアルタクセルクセスとは一般に[[アルタクセルクセス2世]](在位:前404年-358年)であると考えられているが、これは彼の即位前の名前がアルサケスであったというクテシアスの報告から来ており、強固な根拠のあるものではない<ref name=shahbazi525/>。この伝承の存在が事実とすれば、これは古代イランの「輝かしい王たちの正統な後継者」となることで、往年のアケメネス朝の領土の支配を正当化するためのイデオロギーから発生したものであったであろう<ref>{{harvnb|Lukonin|1983|p=697}}</ref>。 |
|||
実際にパルティア人がアケメネス朝をどのように認識していたかを示す記録は残存していない。ミトラダテス1世以来使用された「諸王の王」という称号はしばしばアケメネス朝の後継者としてのアルサケス朝の立場を示す物とされるが、この称号はセレウコス朝の諸王も使用していたため、必ずしもアケメネス朝との関係を証明するものではない<ref name="田辺2003p159"/>。 |
|||
現代の学者の中には、アルサケス朝の王たちがアケメネス朝の後継を主張したという立場を取る者も多くいる。佐藤進は、J.ネスナー(J.Neusner)の研究を引き、アルサケス朝がアケメネス朝の遺産相続者として帝国政策を推進したとしている。そして、パルティアの拡大期にはこの後継意識は外国に対する征服戦争を正当化する権利要求の表現として現れたが、後期に入るとむしろ国内の有力貴族に対する王権の正統性を強化する対内的な性質が強くなったという<ref name="佐藤1982pp63_64">[[#佐藤 1982|佐藤1982]], pp. 63-64</ref>。V.G.ルコニン(V.G. Lukonin)によれば、アルサケス朝の王たちは彼ら自身の名前に典型的なゾロアスター教の名前を使用し、同じくまた『[[アヴェスター]]』の{{仮リンク|カヤーン朝|label=英雄的説話|en|Kayanian dynasty}}から名前を取った<ref>{{harvnb|Lukonin|1983|p=687}}; {{harvnb|Shahbazi|1987|p=525}}</ref>。パルティア人はまた、アケメネス朝の[[イラン暦]]とされた[[バビロニア暦|バビロニアの暦]]を採用し、セレウコス朝の{{仮リンク|古代マケドニア暦|label=マケドニア暦|en|Ancient Macedonian calendar}}から置き換えた<ref>{{harvnb|Duchesne-Guillemin|1983|pp=867–868}}</ref>。 |
|||
パルティアの王は[[複婚|複数の婚姻関係]]を結び、一般的には長男が後継者となった<ref name="brosius_2006_103-104">{{harvnb|Brosius|2006|pp=103–104}}</ref>。エジプトのプトレマイオス朝のように、アルサケス朝の王たちも姪や異母姉妹と考えられる女性と結婚したことが記録されている<ref name="brosius_2006_103-104"/>。王妃ムサは自身の息子と結婚したが、これは極端な例であり唯一の事例であった。 |
|||
=== 中央権力と半自律的な王たち === |
|||
[[File:650521.jpg|thumb|[[エリマイス王国|エリュマイス]](現:[[フーゼスターン州]])王{{仮リンク|カムナスキロス3世|en|Kamnaskires III}}と彼の妻、王妃{{仮リンク|アンザゼ|en|Anzaze}}のコイン。紀元前1世紀。]] |
|||
かつてのアケメネス朝と比較して、パルティアの政府は非常に分権的であった<ref>{{harvnb|Garthwaite|2005|pp=67–68}}</ref>。アルサケス朝ではマルズバーン(marzbān)、クシャトラパ(xšatrap)、ディズパト(dizpat)となどの役職が地方統治に関与していた<ref name="widengren_1983_1263">{{harvnb|Widengren|1983|p=1263}}</ref>。パルティアはまた、その内部に複数の半自律的な王国を内包していた。このような王国には[[イベリア王国|コーカサスのイベリア]]、[[アルメニア王国|アルメニア]]、[[アトロパテネ王国|アトロパテネ]]、{{仮リンク|ゴルディエネ|en|Gordyene}}、[[アディアバネ王国|アディアベネ]]、[[エデッサ]]、[[ハトラ]]、[[カラケネ王国|メセネ]](カラケネ)、[[エリマイス王国|エリュマイス]]、そして{{仮リンク|ペルシス|en|Persis}}があった<ref name="lukonin_1983_701">{{harvnb|Lukonin|1983|p=701}}</ref>。これらの国々の支配者たちは自国を統治し、中央の造幣局で生産された王朝の貨幣とは異なる独自の貨幣を鋳造した<ref>{{harvnb|Lukonin|1983|p=701}}; {{harvnb|Curtis|2007|pp=19–21}}</ref>。このことはかつてのアケメネス朝と違わない。アケメネス朝もまた複数の都市国家を抱えており、同様に遠隔地のサトラップ(総督)は半独立的であった。ただし、ブロシウスによれば彼らは「王の権威を認め、貢物と軍事力を提供した。」<ref>{{harvnb|Brosius|2006|pp=113–114}}</ref>。だが、パルティア時代のサトラップ(総督)たちはアケメネス朝時代のそれより小さな領土を統治し、恐らくは小さな権威と影響力しか持たなかった<ref>{{harvnb|Brosius|2006|pp=115–116}}</ref>。セレウコス朝時代には、半独立的な王朝による地方統治と、それがしばしば中央の支配に全く服さない状況が一般化した。この状態はパルティア後期の統治形態にも受け継がれた<ref>{{harvnb|Brosius|2006|pp=114–115}}</ref>。 |
|||
ブロシウスは西暦21年にアルタバノス2世によって[[スサ]]の総督([[アルコン]])と市民に当ててギリシア語で書かれた手紙からの引用を紹介している。これにはヘタイロイ(友人)である特定の政府役人、護衛、そして財務担当官への言及がある。この文書はまた「地方の裁判と高位役人の任命について、王は総督に代わって介入し、事件を審査し、適切と考えるならば裁定を変更することができる。」ことを証明している<ref>{{harvnb|Brosius|2006|p=119}}</ref>。 |
|||
=== 貴族 === |
|||
{{further information|パルティアの7氏族}} |
|||
[[File:Arm less man edit 3.jpg|thumb|[[エリマイス王国|エリュマイス]](現在の[[イラン]]、ペルシア湾岸の[[フーゼスターン州]])のシャミにある聖域から発見されたパルティア貴族の銅像。現在は{{仮リンク|イラン国立博物館|en|National Museum of Iran}}に所蔵されている。]] |
|||
ガイボフらによれば、最高権威者としての諸王の王、そして従属的諸王国の王家を構成するアルサケス氏族に続き、征服者パルニ氏族の子孫らによる「騎士」と称される社会的地位のグループがあった<ref name="ガイボフら2003p11">[[#ガイボフら 2003|ガイボフら 2003]], p. 11</ref>。この「騎士」は二つのカテゴリーにわけられ、高位の者たちは、パルニ氏族の有力者の子孫であり、軍事的貴族を構成し、慣習法によって国家の政治と軍事の権力を掌握した<ref name="ガイボフら2003p11"/>。この貴族たちの権力基盤は(経営の実態は全く不明ながら)大土地所有にあったと考えられる<ref name="ガイボフら2003p11"/>。彼らの中で最も有力な者たちは、その領内でほとんど王と同様の権力を持っていたと見られている<ref name="ガイボフら2003p11"/>。パルニ氏族の一般構成員からなるもう一方の下層の騎士層は、貴族の伝統的権力の支配下にあった<ref name="ガイボフら2003p11"/>。この伝統的権力は非常に強力な物であったと見られ、ローマの著作家たちはこれを奴隷と考えたほどであった<ref name="ガイボフら2003p11"/>。実際には彼らは奴隷ではなく征服者側に属し、被征服者である現地の住民とは明らかに区別されていたが、同時に貴族に従属する存在でもあった<ref name="ガイボフら2003p11"/>。ガイボフはこれらのことから、パルティアの政治用語において貴族だけが「自由人(Lieri)」と呼ばれたとしている<ref name="ガイボフら2003p11"/>。 |
|||
同じくガイボフによれば、(特に王国の東部において)パルティア社会における基本的境界線は「騎士」と被征服者である一般住民の間に引かれ、一般住民の中核は歴史家の[[プルタルコス]]によってペラト(Pelat)と呼ばれるグループであった<ref name="ガイボフら2003p11"/>。プルタルコスはペラトと奴隷を明確に区別している<ref name="ガイボフら2003p11"/>。このグループは納税と耕作の義務を負っており、それを果たさない時には厳しく罰せられた<ref name="ガイボフら2003p11"/>。 |
|||
パルティアの貴族たちは、西暦1世紀にはアルサケス朝の王位継承と廃位に巨大な影響力を行使していたと想定されている<ref>{{harvnb|Brosius|2006|pp=99–100, 104}}</ref>。何人もの貴族が宮廷で王の助言者、そして高位聖職者を勤めていた<ref>{{harvnb|Brosius|2006|pp=104–105, 117–118}}</ref>。[[ストラボン]]は『{{仮リンク|地理誌|en|Geographica}}』の中で、ギリシアの哲学者・歴史家である[[ポセイドニオス]]の主張を記録している。それによればパルティアの評議会は貴族門閥と[[マギ]]という「王たちが任命した」二つのグループによって構成されていた<ref>{{Cite web|url=http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus:text:1999.01.0198:book=11:chapter=9:section=3|title=Strabo, Geography, Book 11, chapter 9, section 3|website=www.perseus.tufts.edu|access-date=2017-09-11}}</ref>。サーサーン朝時代の初めに記録されたパルティアの大貴族(しばしば7氏族と括られる)のうち、[[スーレーン氏族]]と[[カーレーン氏族]]という二つの氏族だけがパルティア時代以前の記録でも言及されている<ref>{{harvnb|Lukonin|1983|pp=704–705}}</ref>。プルタルコスはスーレーン氏族の構成員について、貴族の中の第一位であり、戴冠式でアルサケス朝の新たな王に王冠を授ける特権を保持していたと記録している<ref>{{harvnb|Lukonin|1983|p=704}}; {{harvnb|Brosius|2006|p=104}}</ref>。 |
|||
サーサーン朝の初代王アルダシール1世の治世中に記録されている貴族階級の世襲の称号の数々は、既にパルティア時代に使用されていた称号を継承している可能性が高い<ref>{{harvnb|Lukonin|1983|pp=699–700}}</ref>。 |
|||
=== 軍事 === |
|||
[[File:Zahhak castle stucco 2.JPG|thumb|パルティアの歩兵を描いた[[化粧漆喰|ストッコ]]のレリーフ。イラン、[[東アーザルバーイジャーン州]]{{仮リンク|ザッハク城|en|Zahhak Castle}}の城壁。]] |
|||
パルティアは[[常備軍]]を保持していなかったが、地方的な危機に対して迅速に軍を招集することができた<ref>{{harvnb|Brosius|2006|pp=116, 122}}</ref>。王には常時武装した貴族、[[農奴]]、[[傭兵]]からなる護衛が付き添っていたが、その規模は小さかった<ref name="kennedy_1996_84"/>。警備部隊もやはり、国境の要塞に常設維持されていた。パルティアの碑文は、これらの現地指揮官に与えられていた複数の称号を明らかにしている<ref name="kennedy_1996_84">{{harvnb|Kennedy|1996|p=84}}</ref>。軍事力は外交的なジェスチャーとしても使われた。例えば中国の使者が紀元前2世紀にパルティアを訪れた時、20,000人の騎兵がこの使者の護衛として東の国境まで送られたと『史記』は伝えている。だが、この数は恐らく誇大なものであろう<ref>{{harvnb|Wang|2007|pp=99–100}}</ref>。 |
|||
パルティア軍の最も目立つ軍事力は騎手と馬が共に[[鎖帷子|鎧]]を纏った重装騎兵、[[カタフラクト]]であった<ref name="brosius_2006_120 garthwaite_2005_78">{{harvnb|Brosius|2006|p=120}}; {{harvnb|Garthwaite|2005|p=78}}</ref>。このカタフラクトは敵の前線に突撃するためのランスを装備していたが、弓矢は装備しておらず、その装備は[[弓騎兵]]に限られていた<ref>{{harvnb|Brosius|2006|p=120}}; {{harvnb|Kennedy|1996|p=84}}</ref>。カタフラクトの武装にはコストがかかったため、彼らは貴族階層の中から募集され、その軍事的な奉仕の見返りとして彼らはアルサケス朝の王に地方における自治権を要求した<ref>{{harvnb|Brosius|2006|pp=116–118}}; {{harvnb|Garthwaite|2005|p=78}}と{{harvnb|Kennedy|1996|p=84}}も参照</ref>。軽騎兵は平民階級から徴募され、弓騎兵として運用された。彼らは戦闘時シンプルなチュニックとズボンをはいていた<ref name="brosius_2006_120 garthwaite_2005_78"/>。そして[[複合弓]]を用い、敵に向かって騎射すると共に後退することが可能であった。これは[[パルティアンショット]]として知られ、極めて効果的な技術であった<ref>{{harvnb|Brosius|2006|p=120}}; {{harvnb|Garthwaite|2005|p=78}}; {{harvnb|Kurz|1983|p=561}}</ref>。パルティアの重装騎兵と軽騎兵は[[カルラエの戦い]]で、数に勝るクラッスス旗下のローマ軍をパルティア軍が打ち破るための決定的な要素であった。[[徴兵制度|平民]]と傭兵で構成された軽装歩兵部隊は、騎兵の突撃後にばらばらになった敵軍に対して使用された<ref>{{harvnb|Brosius|2006|p=122}}</ref>。 |
|||
パルティア軍の規模は不明であり、帝国全体の人口規模もわからない。しかしながら、考古学的発掘によってかつてのパルティアの中心的都市圏の居住地が大きな人口を維持していたであろうことと、それ故に大きな動員能力を持っていたであろうことを明らかにしている<ref name="kennedy_1996_83">{{harvnb|Kennedy|1996|p=83}}</ref>。バビロニアのような人口集中地は、軍隊を駐留させる余裕があったことからローマ人にとって魅力的であったに違いない<ref name="kennedy_1996_83"/>。 |
|||
=== 貨幣 === |
|||
通常、銀で作成された<ref>{{harvnb|Curtis|2007|pp=9, 11–12, 16}}</ref>、[[テトラドラクマ]]貨を含むギリシアの[[ドラクマ]]貨は、パルティア全体で標準的な通貨として使われた<ref>{{harvnb|Curtis|2007|pp=7–25}}; {{harvnb|Sellwood|1983|pp=279–298}}</ref>。アルサケス朝は王家の[[造幣所]]をヘカトンピュロス市、セレウキア市、そしてエクバタナ市に保持していた<ref name="brosius_2006_103">{{harvnb|Brosius|2006|p=103}}</ref>。そしてミトラダトケルタ(ニサ)でも造幣所が運営されたいたであろう<ref name="curtis_2007_8"/>。この帝国の開始から終了まで、パルティアで生産されたドラクマ貨の重量は3.5グラムを下回ること、または4.2グラムを上回ることは滅多に無かった<ref>{{harvnb|Sellwood|1983|p=280}}</ref>。最初のパルティア製テトラドラクマ貨は原則として16g前後で、いくつかのバリエーションがあった。これはミトラダテス1世がメソポタミアを征服した後から登場するようになり、その地でのみ生産された<ref>{{harvnb|Sellwood|1983|p=282}}</ref>。 |
|||
== 社会と文化 == |
|||
=== ヘレニズムとイラン的伝統の復権 === |
|||
[[File:Drachma Mithradates II.jpg|thumb|[[ミトラダテス2世]]のコイン。パルティアの衣装をまといヘレニズム式([[オンパロス|中央]]に座す)のスタイルである。ギリシア語の銘文は「王たるアルサケス、{{仮リンク|ギリシア愛好者|en|philhellene}}」]] |
|||
[[File:ParthianHorseman.jpg|thumb|left|パルティアの騎手。現在トリノの{{仮リンク|マダーマ宮殿 (トリノ)|en|Palazzo Madama, Turin}}で展示されている。]] |
|||
セレウコス朝の{{仮リンク|ギリシア文化|en|Culture of Greece}}は[[ヘレニズム時代]]の間に広く[[中東]]の人々に受け入れられたが、パルティア時代には芸術や衣服について{{仮リンク|イランの文化|label=イランの伝統的文化|en|Culture of Iran}}の復権が見られた<ref>{{harvnb|Curtis|2007|pp=14–15}}; {{harvnb|Katouzian|2009|p=45}}も参照</ref>。彼らの王権のヘレニズム的、ペルシア文化的な根源の双方を意識して、アルサケス朝の支配者たちはペルシアの諸王の王の後継者という体裁をとると共に、フィロヘレネス({{仮リンク|ギリシア愛好者|en|Philhellenism}})であることを主張していた<ref>{{harvnb|Garthwaite|2005|p=85}}; {{harvnb|Curtis|2007|pp=14–15}}</ref>。この「philhellene」という言葉はパルティアのコインにアルタバノス2世の時代まで刻まれていた<ref name="curtis_2007_11">{{harvnb|Curtis|2007|p=11}}</ref>。このフレーズが使用されなくなったことは、パルティアにおけるイラン文化の復権を意味する<ref name="curtis_2007_16">{{harvnb|Curtis|2007|p=16}}</ref>。ヴォロガセス1世は造幣したコインにパルティアの[[パフラヴィー文字|文字]]と[[パルティア語|言語]]を使用した最初の王であり、これはほとんど判読不能なギリシア語と共に刻まれている<ref>{{harvnb|Garthwaite|2005|pp=80–81}}; {{harvnb|Curtis|2007|p=21}}と{{harvnb|Schlumberger|1983|p=1030}}も参照。</ref>。しかし、ギリシア文字の銘はこの帝国の滅亡までパルティアのコインに残され続けた<ref>{{harvnb|Schlumberger|1983|p=1030}}</ref>。 |
|||
[[File:ParthianWaterSpoutWithFaceOfIranianMan1-2ndCenturyCE.jpg|thumb|人の頭をかたどった陶製のパルティアの注水口。1世紀、または2世紀。]] |
|||
ギリシア文化の影響はパルティアから姿を消すことはなかったし、アルサケス朝の王たちが[[古代ギリシアの演劇|ギリシア演劇]]を楽しんでいたという証拠がある。クラッススの首級がオロデス2世に届けられた時、彼はアルメニア王アルタヴァスデス2世と共に劇作家[[エウリピデス]](前480年-前406年)の『[[バッコスの信女]]』の上演を熱心に観賞していた。興行主は[[プロップ|舞台用小道具]]の[[ペンテウス]]の頭の代わりに、クラッススの実物の頭部を使用した<ref>{{harvnb|Bivar|1983|p=56}}</ref>。 |
|||
=== 宗教 === |
=== 宗教 === |
||
文化的、政治的に多様であったパルティアは、バラエティに富んだ宗教制度と信仰を持っていた。最も広く普及していたのは[[ギリシア神話|ギリシア]]と[[イラン神話|イラン]]の信仰であった<ref name="katouzian_2009_45">{{harvnb|Katouzian|2009|p=45}}</ref>。少数の[[ユダヤ教徒]]<ref>{{harvnb|Neusner|1983|pp=909–923}}</ref>と初期[[キリスト教徒]]を除き<ref>{{harvnb|Asmussen|1983|pp=924–928}}</ref>、大部分のパルティア人の宗教は[[多神教]]であった<ref name="brosius_2006_125">{{harvnb|Brosius|2006|p=125}}</ref>。ギリシアとイランの神々はしばしば1つの神格に習合された。例えば[[ゼウス]]はしばしば[[アフラ・マズダー]]と同一視され、[[ハデス]]は[[アンラ・マンユ]]、[[アフロディーテ]]と[[ヘラ]]は[[アナーヒター]]、[[アポロン]]は[[ミトラ]]、[[ヘルメス]]は[[シャマシュ]]と同一視された<ref>{{harvnb|Garthwaite|2005|pp=68, 83–84}}; {{harvnb|Colpe|1983|p=823}}; {{harvnb|Brosius|2006|p=125}}</ref>。主要な神々や女神たちの他に、各地の民族や都市が独自の神々を持っていた<ref name="brosius_2006_125"/>。パルティアの王たちは、自身を神とするセレウコス朝の王たちの習慣に倣い、自らが神であることを示すテオス(神、Theos)またはテオパトル(神の子、Theopator)という称号をコインに刻んだこともあった<ref name="ボイス2010pp163_166">[[#ボイス 2010|ボイス 2010]], pp. 163-166</ref>。 |
|||
[[ゾロアスター教]]や[[ミトラ教]]信仰が盛ん。[[ミトラ教]]は[[帝政ローマ]]において、兵士の間で流行する。[[仏教]]は、『[[高僧伝]]』などの史料に安息国(1.1に既述する漢語での名称)の王の太子と伝わる[[安世高]](安清)が中国国内([[後漢]])に入って経典の漢訳も行った。 |
|||
==== パルティア時代のゾロアスター教に関する諸見解 ==== |
|||
== 軍事 == |
|||
イラン世界における重要な宗教として拝火教とも呼ばれる[[ゾロアスター教]]があるが、アルサケス朝の宮廷とゾロアスター教の関係についての詳細は、やはり史料の不足により明確にはわからない。アルサケス朝の諸王が聖なる火を崇める習慣をもっていたことは、初代のアルサケス1世が即位したというアサークの町で、「王朝の火」が保たれていたという[[カラクスのイシドロス]]による記録や、聖火の祭壇に聖木を捧げるパルティア君主の浮彫がベヒストゥンに残されていることからわかる<ref name="小川山本1997pp244_245">[[#小川, 山本 1997|小川, 山本 1997]], pp. 244-245</ref><ref name="足利1972pp254_255">[[#足利 1972|足利 1972]], pp. 254_255</ref>。しかし、このアルサケス朝の王たちによる聖火崇拝をゾロアスター教と判断するかどうかについては学者により見解がわかれる。日本の研究者山本由美子は、上記のような証拠から、「アルサケス朝の諸王がゾロアスター教徒であったことは明らかである。」とする<ref name="小川山本1997pp244_245"/>。また、イギリスの研究者[[メアリー・ボイス]]も同様の見解に立つが<ref name="ボイス2010pp163_166"/>、アルサケス朝の宗教は古代イランの多神教であり、ゾロアスター教の影響を受けていないという見解もある<ref name="田辺2003p160"/>。この他、多くの研究者が、この時代の宗教がゾロアスター教であることを前提としているが、[[カナダ]]のイラン史研究者[[リチャード・フォルツ]]は、「(多くの研究者が)実質的に古代イラン全体をゾロアスター教徒であると特徴づけているが、このおおざっぱな一般化にはごくわずかしか、あるいはまったく証拠はない。」としている<ref name="フォルツ2003pp50_55">[[#フォルツ 2003|フォルツ 2003]], pp. 50-55</ref>。フォルツは、ゾロアスター教が初めて体系化されたのはサーサーン朝時代であることを指摘し、それ以前のイラン系住民の宗教についてはわずかしかわかっていないと述べる<ref name="フォルツ2003pp50_55"/>。そしてサーサーン朝の「ゾロアスター教的」伝統をパルティア時代やそれ以前の時代について投影することには慎重でなければならないという<ref name="フォルツ2003pp50_55"/>。 |
|||
{{出典の明記|date=2016年3月|section=1}} |
|||
パルティアは遊牧民が政権中核を構成した国家であり、弓と馬の扱いに秀でていた。そのため軍隊の主力にも軽装騎兵を採用しており、機動力を生かした戦いを得意としていた。軽装騎兵は槍や剣ではなく弓で武装し、一定の距離を保ち矢を放って敵を苦しめた。軽装騎兵を効果的に活用するためパルティアは接近した[[白兵戦]]につながる[[会戦]]をできるだけ避け、戦闘になっても会戦で決着をつけようとはせずにすぐに退却した。退却するパルティア軍は追撃する敵に逃げながら矢を放ち、その損害に敵が浮き足立ったり高速移動に敵の戦列が対応できずに戦闘隊形が乱れると、取って返して再び攻撃した。こうした戦法は特にパルティア独自のものではなく、[[スキタイ]]、[[匈奴]]、[[モンゴル帝国]]といった[[遊牧国家]]の戦争に共通したものであるが、ヨーロッパに古典文明を伝えたローマ帝国が本格的に対峙した遊牧民勢力がパルティアだったため、ヨーロッパ人にとって遊牧民の戦法は、パルティア的なものとして記憶されるようになった。 |
|||
一方で、後世のゾロアスター教の伝承には、アルサケス朝(アシュカーン朝)の王がゾロアスター教において重要な役割を果たしたとする伝承もある。ゾロアスター教の聖典『[[アヴェスター]]』の注釈である『バフマン・ヤシュトのザンド』では、[[アフラ・マズダー]]神がゾロアスターに夢で、金、銀、黄銅、銅、鈴、鋼、土の混ざった鉄の来るべき7つの時代についての啓示を与えたとされが<ref name="山中2009pp68_70">[[#山中 2009|山中 2009]], pp. 68-70</ref>、これに関する一節で「銅の時代は、この世に存在した異教を一掃したアシュカーン朝(アルサケス朝)の王の治世。」としてパルティア時代を位置付けている。別の箇所では「アシュカーン朝のヴァラフシュ(ヴォロガセス)は[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス]]による破壊と危害や、ローマ人の略奪のために、完全な状態から散り散りになっていたアヴェスターとザンド(注釈)を書き留めさせた。神官が口頭で伝えて残っていたことも保存され、他の都市のために移しが造られた。」という<ref name="山中2009pp68_70"/>。聖典としての『アヴェスター』はサーサーン朝時代に入ってから編纂されたが、これらの伝説から比較文学・比較文化研究者の[[山中由里子]]は、パルティア時代に各地のゾロアスター教集団に口頭で伝わっていた『アヴェスター』の断片が記録された可能性はあるとしている<ref name="山中2009pp68_70"/>。 |
|||
このようなパルティアの戦い方から逃げながら馬上から振り返りざまに打つ矢のことを「[[パルティアンショット]]」(Parthian shot) と呼び、現代では転じて「捨てぜりふ」の意味になった。馬上の弓術は、パルティアの後継政権であるサーサーン朝の皇帝の狩猟図像などに記録されているものを、今日でも見ることができる。 |
|||
==== マニ教 ==== |
|||
*[http://en-two.iwiki.icu/wiki/Image:E3_5_4a_sassanian.jpg シャープール2世のパルティアンショットによる狩猟図像] |
|||
[[マニ (預言者)|マニ]](216年-276年)は、パルティア時代に生を受け、サーサーン朝時代の初期に[[マニ教]]と呼ばれる新たな宗教を創始した。ビヴァールは彼の新しい宗教が「[[マンダ教|マンダ人]]、イランの創世論、同じくキリスト教のエコー等々の要素を含んでいた。それは後期アルサケス朝の宗教的な混合主義を端的に反映したものであると考えられる。サーサーン朝のゾロアスター教正統信仰はすぐ後にこれを一掃しようとした。」と述べている<ref>{{harvnb|Bivar|1983|p=97}}</ref>。 |
|||
==== 仏教 ==== |
|||
1960年代以降トルクメニスタンで行われた[[ソヴィエト連邦]]の考古学者による調査によって、中央アジアで多様な部派仏教が栄えていた痕跡が発見されている<ref name="フォルツ2003pp79_80">[[#フォルツ 2003|フォルツ 2003]], pp. 79-80</ref><ref name="芳賀ら2017pp531_532">[[#芳賀ら 2017|芳賀ら 2017]], pp. 531-532</ref>。パルティア時代の仏教について特に重要な痕跡を残すのは、パルティア領の東端に位置する[[メルヴ]](マルギアナのアンティオキア、木鹿)である<ref name="フォルツ2003pp79_80"/>。この都市はアケメネス朝時代にはエルク・カラと呼ばれるオアシス都市であり、セレウコス朝時代に[[アンティオコス1世]]によってギリシア式の方形の都市として整備された<ref name="芳賀ら2017pp531_532"/>。その後ミトラダテス1世によって征服され、パルティアの支配下に入った<ref name="芳賀ら2017pp531_532"/>。 |
|||
このメルヴは、現在知られている仏教伝播の西端の地である<ref name="芳賀ら2017p526">[[#芳賀ら 2017|芳賀ら 2017]], p. 526</ref>。メルヴの遺跡であるギャウル・カラの南東端からは、世界で最も西に位置する[[ストゥーパ]]を伴う仏教寺院の遺構が残されている<ref name="芳賀ら2017p526"/>。ここからはサーサーン朝時代の紀年を持つサンスクリット語の経典やコインが発見されている<ref name="辛嶋2017pp171_173">[[#辛嶋 2017|辛嶋 2017]], pp. 171-173</ref>。このことからこの寺院自体は4世紀から6世紀頃のものと推定されるが、パルティア時代に仏教の存在したことは、[[後漢]]の[[桓帝 (漢)|桓帝]]の時代である148年頃、安息(パルティア)の太子[[安世高]]が[[洛陽]]に赴き仏典を漢訳したという中国の記録によって明らかとなっている<ref name="フォルツ2003pp79_80"/><ref name="芳賀ら2017p526"/>。メルヴ周辺で発見されている仏教の痕跡は[[説一切有部]]の系統のものであり<ref name="辛嶋2017pp173_175">[[#辛嶋 2017|辛嶋 2017]], pp. 173-175</ref>、これを含む後期の部派仏教が最終的に中央アジア西部の仏教で主流の地位を占めたことが理解される<ref name="フォルツ2003pp79_80"/>。ただし、中国へ行ったパルティア出身の仏僧の多くが、初期の[[大乗仏教]]の経典の漢訳に関与しているとされており、これが事実であるならば、中央アジアにおける大乗仏教の痕跡はまだ発掘されていないということになるであろう<ref name="フォルツ2003pp79_80"/>。 |
|||
==== 葬儀 ==== |
|||
葬儀について、パルティアの王族は埋葬を行うというアケメネス朝時代以来の習慣を保持していたが、臣民は伝統的な[[風葬]]を行っていた<ref name="ボイス2010pp180_182">[[#ボイス 2010|ボイス 2010]], pp. 180-182</ref>。ローマの歴史家、ユスティヌスは1世紀頃のパルティア人の葬儀の週間について「一般には葬送は鳥や犬が(遺体を)食いちぎることであった。最後に、彼らは剥き出しの骨を土で覆った。」と述べている<ref>[[#ユスティヌス 1998|ユスティヌス]]『地中海世界史』 第41巻§3</ref><ref name="ボイス2010pp180_182"/>。西イランの山々では、岩をくりぬいた多数の墓室が発見されており、風葬の後残された骨を持ち込むべき場所であったと考えられる<ref name="ボイス2010pp180_182"/>。 |
|||
=== 美術 === |
|||
{{further information|パルティア美術}} |
|||
パルティアの美術は基本的にアケメネス朝以来の伝統に連なるイラン様式の物であったが、概ね前3世紀から前1世紀までのヘレニズム時代にはギリシア美術が愛好され、ギリシア様式とイラン様式を折衷したグレコ・イラン様式が生み出された<ref name="芳賀ら2017p524">[[#芳賀ら 2017|芳賀ら 2017]], p. 524</ref>。パルティア時代の後期にあたる1世紀から3世紀にはギリシア美術の要素は後退し、イラン、オリエント的要素が強くなる<ref name="芳賀ら2017p525">[[#芳賀ら 2017|芳賀ら 2017]], p. 525</ref>。ただし、このパルティア後期の美術は、パルティア人自身によるものではなく、彼らに支配されていた各地の被征服民、例えば[[エリマイス王国|エリュマイス]]やペルシス、ハトラやドゥラ・エウロポス、パルミュラの宮廷美術によって知られている<ref name="芳賀ら2017p525"/>。従って現在知られている後期のパルティア美術とは、パルティア人の美術ではなく、「アルサケス朝パルティア時代のその影響下の西アジアの諸都市・諸王国の美術である」(芳賀満)<ref name="芳賀ら2017p525"/>。 |
|||
==== グレコ・イランの美術 ==== |
|||
[[File:Sarbaz Nysa.jpg|thumb|150px|トルクメニスタン、[[ニサ (トルクメニスタン)|ニサ]]で発見された兵士の像の頭部。前2世紀。]] |
|||
[[File:Met, greek-parthian, hellenistic, silver-gilt rhyton, 2nd BC.JPG|left|thumb|150px|ヘレニズム様式の銀製[[リュトン]]]] |
|||
パルティアにおける「ギリシア愛好」の美術を最も顕著に示しているのが、ミトラダテス1世が建設した首都、ミトラダトケルタ(現:トルクメニスタンのニサ)の遺跡である<ref name="芳賀ら2017p526">[[#芳賀ら 2017|芳賀ら 2017]], p. 526</ref>。ニサで発見された兵士の頭像を含む多くの美術品は、初期のパルティア美術がギリシア美術から大きな影響を受けていたことを証明している<ref name="芳賀ら2017p526"/>。これらの中にはイラン的要素が全く見られないものが数多くあることから、グレコ・バクトリアや地中海世界からの搬入品である可能性もある<ref name="芳賀ら2017p526"/>。この中に含まれる有名なギリシア様式の[[リュトン]]は、グレコ・バクトリア<ref name="芳賀ら2017p527">[[#芳賀ら 2017|芳賀ら 2017]], p. 527</ref>、またはティグリス河畔のセレウキアからの戦利品であると見られている<ref name="ガイボフら2003p16">[[#ガイボフら 2003|ガイボフら 2003]], p. 16</ref>。これはアルサケス朝の宮廷美術を代表するものであるが、現代においてニサ以外のアルサケス朝の宮廷美術がどのようなものであったかを知る手立てはコインを除いてほとんど存在しない<ref name="芳賀ら2017p527"/>。 |
|||
[[File:Bistoon Kermanshah.jpg|left|thumb|150px|ベヒストゥンにある「休息するヘラクレス(ヘラクレス・カリニコス)」の像。]] |
|||
[[File:ParthianVotiveReliefIranKhuzestan2ndCenturyCE.jpg|left|thumb|150px|イラン、フーゼスターン州で発見されたパルティアの奉納碑のレリーフ。2世紀。]] |
|||
ニサに代表されるパルティア地方における美術に対し、イラン高原ではやや異なる発展の状況が見られた<ref name="ガイボフら2003p16"/>。イラン高原地域は比較的長期に渡りセレウコス朝の支配が行われ、ギリシア的な植民都市のネットワークもパルティア地方に比べ密であった<ref name="ガイボフら2003p16"/>。アレクサンドロス期からセレウコス朝時代のギリシア的特徴を持つ彫刻の断片が複数発見されている<ref name="ガイボフら2003p18">[[#ガイボフら 2003|ガイボフら 2003]], p. 18</ref>。セレウコス朝からアルサケス朝へと支配者が交代する頃、彫刻におけるギリシア的原理とイラン的原理の接近の兆候が見られた<ref name="ガイボフら2003p18"/>。その代表作は[[ベヒストゥン]]の崖壁に彫られた「休息するヘラクレス」の像であり、ギリシアの主題(ヘラクレス)とイランの表現方法(岩壁レリーフ)が統一されている<ref name="ガイボフら2003p18"/>。 |
|||
こうしたグレコ・イラン美術は、ギリシアの[[写実主義]]の影響下にあったが、仕上げや主題選択における技術的な退行が見られることから、しばしば「堕落したギリシア美術」と見做され、老衰期の単純な状態に後退した「哀れなほど低い」芸術水準を示すともされてきた<ref name="芳賀ら2017p525"/><ref name="ギルシュマン1970pp276_278">[[#ギルシュマン 1970|ギルシュマン 1970]], pp. 276-278</ref>。一方で、ヘレニズムによってイランの芸術に接ぎ木されたあらゆる要素から解放されて「決定的な進歩」を成し遂げ、単なるギリシア美術の模倣ではなく、新たにイラン系の装飾効果を重視した美意識やアラブ系の美術的伝統などの復興を通じて新しい様式を確立したとする見解も伝統的に存在する<ref name="ギルシュマン1970pp276_278"/><ref name="芳賀ら2017p526"/>。この間、原始的な技術への回帰は否定し難く、制作技術はパルティア時代を通じて継続的に低下したが、外来の影響から解放され、伝統を復活させようとする意図は重要な意味を持った<ref name="ギルシュマン1970pp276_278"/>。 |
|||
パルティア時代の一般的な[[モチーフ|美術主題]]には、拝火壇の前で行われる宗教儀式、王の狩猟、アルサケス朝の王の叙任式、そして馬上試合がある<ref name="ギルシュマン1970p281">[[#ギルシュマン 1970|ギルシュマン 1970]], p. 281</ref><ref>{{harvnb|Brosius|2006|p=127}}; {{harvnb|Schlumberger|1983|pp=1041–1043}}も参照。</ref>。これらのモチーフの使用は、地方支配者たちの描写にも広まった<ref name="brosius_2006_127">{{harvnb|Brosius|2006|p=127}}</ref>。一般的な芸術表現の媒体は、石碑のレリーフ、[[フレスコ画]]、そして[[落書き]]であった<ref name="brosius_2006_127"/>。幾何学的で定型化された植物文様はストッコとプラスター製の壁に用いられた。サーサーン朝時代に一般的となる二人の騎手がランスを構えて戦う美術主題は、パルティア時代のベヒストゥン山において初めて現れる<ref>{{harvnb|Brosius|2006|pp=129, 132}}</ref>。 |
|||
パルティア美術の独特な特徴は正面主義原則を厳密に守った人物描写である。パルティアの影響下にある地域では、人物を絵、彫刻、またはコインの陽刻に描写する際には、横顔ではなく見る者に正対するように描く表現方法が普及した<ref name="ギルシュマン1970p278">[[#ギルシュマン 1970|ギルシュマン 1970]], pp. 278</ref><ref>{{harvnb|Brosius|2006|p=127}}; {{harvnb|Garthwaite|2005|p=84}}; {{harvnb|Schlumberger|1983|pp=1049–1050}}</ref>。人物描写の正面主義は、既にパルティア以前からある古い美術技法として見られた。古くは紀元前一千年紀初頭の[[スィアールク]]遺跡から発見された彩文土器にその類例が見られる<ref name="ギルシュマン1970p278"/>。こうした正面描写はアケメネス朝時代の公的な美術では歓迎されなかったが、グレコ・イランの彫刻では継続的に使用された<ref name="ギルシュマン1970p278"/>。ダニエル・シュルンベルガーはパルティア時代の正面描写の革新について以下のように説明している<ref name="schlumberger_1983_1051"/>。 |
|||
[[File:Duraeuropa-1-.gif|right|thumb|[[ドゥラ・エウロポス]]の{{仮リンク|ドゥラ・エウロポスのシナゴーグ|label=シナゴーグ|en|Dura-Europos synagogue}}にある[[エステル記]]の場面を描いた西暦245年頃の壁画は、カーティス<ref>{{harvnb|Curtis|2007|p=18}}</ref>とシュルンベルガー<ref>{{harvnb|Schlumberger|1983|pp=1052–1053}}</ref>によって「パルティアの正面主義」の好例として言及されている。]] |
|||
<blockquote>''現在、「パルティアの正面主義(Parthian frontality)」と我々が呼ぶものは、古代中東とギリシアの正面主義のいずれとも非常に異なるものであるが、疑う余地なく後者から発達したものである。オリエント美術とギリシア美術の双方において、正面向きの描写は例外的な表現方法であった。オリエント美術では厳密に、伝統的な信仰と神話上の少数の人物にのみ使用される手法であり、ギリシア美術では主題が正面性を要求する明確な理由がある場合にのみオプションとして用いるものであった。そして、全体としては滅多に使用されなかった。パルティア美術においてはこれとは逆に、正面向きが一般的な人物描写の方法となった。パルティアの正面主義は実際のところレリーフと絵画のみでみられる習慣であり、全ての人物の正面表現は、(現代のモダンアートのように)他の部分の描写を犠牲にしても明快さと明瞭さをもって用いられた。正面向き描写が体系的に用いられたことで、横向きの描写と、動作中を表現するような中間的姿勢の描写は事実上完全に放棄された。この美術の特異な状態は、西暦1世紀の間に確立されたように思われる''<ref name="schlumberger_1983_1051">{{harvnb|Schlumberger|1983|p=1051}}</ref>''。''</blockquote> |
|||
パルティア美術は、肖像における明確な正面描写の使用共々、サーサーン朝によってもたらされた深遠な文化的、政治的変化によって失われ放棄された<ref>{{harvnb|Schlumberger|1983|p=1053}}</ref>。だが、ドゥラ・エウロポスでは165年にローマによって占領された後でも、パルティア式の正面描写の肖像は盛んに用いられつづけた。これは3世紀初頭の{{仮リンク|ドゥラ・エウロポスのシナゴーグ|en|Dura-Europos synagogue}}の壁画、この都市のパルミュラの神々に捧げられた神殿、そして現地の[[ミトラ教]]の神殿によって例示されている<ref>{{harvnb|Curtis|2007|p=18}}; {{harvnb|Schlumberger|1983|pp=1052–1053}}</ref>。 |
|||
=== 建築 === |
|||
パルティア建築は{{仮リンク|イラン建築|label=アケメネス朝|en|Iranian architecture}}と[[ギリシア建築|ギリシア]]の建築の要素を採用したが、この二つとは異なる物である。パルティア建築はこの二つの建築の要素を結び付けるとともに、構成のイラン世界の建築に大きな影響を残す独自の発展を遂げた<ref name="ホープ1981p52">[[#ホープ 1981|ホープ 1981]], p. 52</ref>。ただし完全な形で残る作例は乏しく、重要な遺構はパルティアの中心部よりも周辺部であった地方に残されている<ref name="ホープ1981p53">[[#ホープ 1981|ホープ 1981]], p. 53</ref>。 |
|||
パルティア建築の初期の例はミトラダトケルタ(ニサ)の遺跡で見ることができる<ref name="brosius_2006_111-112">{{harvnb|Brosius|2006|pp=111–112}}</ref>。ニサの遺跡は[[#グレコ・イランの美術|グレコ・イランの美術]]節で述べた通り、パルティア人の「ギリシア愛好」の顕著な例であり<ref name="芳賀ら2017p526"/>、その遺構からはギリシア的な柱頭や装飾が広範に使用されていたことがわかる<ref name="ガイボフら2003p14">[[#ガイボフら 2003|ガイボフら 2003]], p. 14</ref>。一方で、建築の原理、平面プラン、構造物としての構造はギリシア建築とは異なっており、これらはイラン世界における典型的な拝火神殿と同系統の原理によっている<ref name="ガイボフら2003p14"/>。ギリシアの列柱様式が取り入れられたが、それは(ギリシア建築のような)構造としての列柱ではなく、壁空間を装飾する手段として利用された<ref name="ガイボフら2003p14"/>。柱式はギリシア建築とは別の建築的意味を与えられ、建物の壁面にあたかも絵画のように組み込まれた<ref name="ガイボフら2003p16">[[#ガイボフら 2003|ガイボフら 2003]], p. 16</ref><ref name="ギルシュマン1970pp273_276">[[#ギルシュマン 1970|ギルシュマン 1970]], pp. 273-276</ref>。パルティア人は平面的な表現を好み、壁画が非常に流行するものになった<ref name="ギルシュマン1970pp273_276"/>。パルティア時代の浮彫も平面的であり、これは壁画の手法の影響を受けたことを表している<ref name="ギルシュマン1970pp273_276"/>。 |
|||
[[File:Hatra-109726.jpg|thumb|250px|ハトラの主宮殿のイーワーン。]] |
|||
パルティア建築の明確な特徴は、[[イーワーン]]と、片側が開き、アーチか[[ヴォールト]]天井で支えられた観客席である<ref name="garthwaite_2005_84 brosius_2006_128 schlumberger_1983_1049">{{harvnb|Garthwaite|2005|p=84}}; {{harvnb|Brosius|2006|p=128}}; {{harvnb|Schlumberger|1983|p=1049}}</ref>。ヴォールトの使用は、屋根を支えるためのギリシア式の列柱を置き換えたものである<ref name="brosius_2006_128">{{harvnb|Brosius|2006|p=128}}</ref>。イーワーンはアケメネス朝時代から使用されていたが、規模は小さく、地下の構造として用いられていた。パルティア人はこれを初めてモニュメンタルなスケールで建造した<ref name="garthwaite_2005_84 brosius_2006_128 schlumberger_1983_1049"/>。最初期のパルティアのイーワーンはセレウキアで発見された1世紀初頭に建造されたものである<ref name="brosius_2006_128"/>。イラクのハトラには2世紀頃に建造された大宮殿の遺構が残されており、左右にパレル・ヴォールトを伴った二つの巨大なイーワーンが開口している<ref name="ホープ1981p54">[[#ホープ 1981|ホープ 1981]], p. 54</ref>。イーワーンはまた、ハトラの古代神殿において使用されており、[[アッシュール]]、[[フィールザーバード]]にも作例が残されている<ref name="ギルシュマン1970pp273_276"/>。これはパルティア建築の一般的原理を導入したものの例と見做すことができるであろう<ref name="ホープ1981p54"/><ref name="ギルシュマン1970pp273_276"/><ref name="brosius_2006_134-135">{{harvnb|Brosius|2006|pp=134–135}}</ref>。ハトラ最大のパルティア式イーワーンは15メートルのスパンを持つ<ref>{{harvnb|Schlumberger|1983|p=1049}}</ref>。アッシュールの宮殿のイーワーンは方形の中庭に向けて4つのイーワーンが開口するという後世流行するプランの最古の例である<ref name="ホープ1981p54"/>。パルティアが発達させたこのイーワーンは、サーサーン朝の宮殿遺構([[ホスローのイーワーン]])にその後継を見る事ができ、イスラーム時代以降には、現代に至るまで[[モスク]]や廟、[[キャラバンサライ]]建築の欠くべからざる要素としてペルシア建築の基本原理となった<ref name="ホープ1981p54"/>。 |
|||
パルティアの神殿建築はイラン高原では全く残されておらず、王国の西方では上述のハトラ、王国の東方にあたる地域ではインダス川東岸の[[タクシラ]]で痕跡を確認できる<ref name="ギルシュマン1970pp273_276"/>。これらの神殿は回廊と、それによって外部から分離された方形の中央広間によって構成されていた。これはアケメネス朝時代以来のペルシア建築の伝統に連なるものである<ref name="ギルシュマン1970pp273_276"/>。この拝火神殿の宗教儀式は戸外で行われたと見られるが、聖なる火は常に屋上で焚かれていた<ref name="ギルシュマン1970pp273_276"/>。 |
|||
宮殿や神殿以外の一般的住居については、都市部でも農村部でも何もわかっていないに等しく、建築発展に関する知識は一部の貴人の住居跡から得られる情報に基づくもののみである<ref name="ガイボフら2003p16"/>。 |
|||
==== メソポタミアの建築 ==== |
|||
メソポタミアでは、古代以来のバビロニアの建築と、多数入植していたギリシア人たちの建築が継続していた。バビロニアの住居建築についての情報は少ないが、セレウキアやドゥラ・エウロポスではギリシア人たちの建築が1世紀前半まで、気候的条件によるわずかな変化を除いて継続していたことがわかる<ref name="ガイボフら2003p19_20">[[#ガイボフら 2003|ガイボフら 2003]], p. 19-20</ref>。その後、現地のローカルな建築の原理が融合し、またイラン系の建築の若干の影響の下に徐々に新しい様式に変化した<ref name="ガイボフら2003p19_20"/>。 |
|||
宗教建築におていては、セレウコス朝時代まではギリシアとバビロニアの建築は互いに重大な影響を与えることなく存続していたことがわかっている<ref name="ガイボフら2003p19_20"/>。[[ウルク]]で発見された[[アヌ]]と[[イシュタル]]の神殿は、典型的なバビロン様式の神殿であり、ドゥラ・エウロポスで前3世紀に建てられた[[アルテミス]]と[[アポローン|アポロン]]の神殿は完全にギリシア的である<ref name="ガイボフら2003p19_20"/>。パルティア人の到来と共に、バビロニアの神殿建築とギリシアの神殿建築は(前者の優越の下)融合を始め、新しいタイプの建築のバリエーションを生み出した<ref name="ガイボフら2003p19_20"/>。 |
|||
=== 衣類 === |
|||
[[File:YoungManWithParthianCostume.jpg|thumb|upright|良質なパルティアのズボンをはいた若い[[パルミラ|パルミュラ]]人の像。3世紀初頭の[[石碑]]から。]] |
|||
典型的なパルティアの乗馬用衣装はエリュマイスのシャミから発見された{{仮リンク|イラン国立博物館彫像2401|label=有名なパルティア貴族の銅像|en|Statue, National Museum of Iran 2401}}に例示されている。1.9メートルの高さで立つこの人物はV字型ジャケットを着用し、V字型[[チュニック]]をベルトで締め、ゆったりとフィットした多数の折り目がついたズボンをガーターで止め、切りそろえられセットされた髪の上に冠かバンドをつけている<ref>{{harvnb|Brosius|2006|pp=132–134}}</ref>。彼の衣装は前1世紀半ばまでのパルティアのコインの図像に一般的に見ることができる<ref name="curtis_2007_16"/>。 |
|||
イラク北部のハトラの発掘調査で発見されたパルティアの影響を受けた彫像からも服装の例を見ることができる。彫像は典型的なパルティアのシャツ(カミス、''qamis'')を特徴とし、細かな装飾品で飾り付けられたズボンをはいて立てられている<ref>{{harvnb|Bivar|1983|pp=91–92}}</ref>。ハトラの貴族階級のエリートは、短く切りそろえた髪型、頭飾り、パルティアの中央の宮廷に所属する貴族が身に着けていたベルトで締めるチュニックを採用した<ref name="brosius_2006_134-135"/>。このズボンとシャツは、コインの裏面の図像で示されるようにアルサケス朝の王たちも同じように着用していた<ref>{{harvnb|Curtis|2007|p=15}}</ref>。このパルティアのズボンとシャツはまた、[[パルミラ|パルミュラ]]、シリアで、芸術におけるパルティアの正面主義と共に採用された<ref>{{harvnb|Curtis|2007|p=17}}</ref>。 |
|||
パルティアの彫像は富裕な女性がドレスの上から長袖のローブを纏い、ネックレス、イヤリング、ブレスレット、宝石をあしらった頭飾りをつけていた様子を描写している<ref>{{harvnb|Brosius|2006|pp=108, 134–135}}</ref>。多数の折り目がついたドレスは、[[ブローチ]]で片側の肩で止められていた。頭飾りには後ろ側を覆うヴェールもあった<ref name="brosius_2006_134-135"/>。 |
|||
パルティアのコインにみられるように、パルティアの王たちが身に着けた頭飾りは時間と共に変化した。最初期のアルサケス朝のコインは{{仮リンク|バシリク|en|Bashlyk}}(希:キルバシア、''kyrbasia'')として知られる、頬の折り返し付きの柔らかい帽子をかぶっていた<ref name="brosius_2006_101">{{harvnb|Brosius|2006|p=101}}</ref>。これは多分、アケメネス朝時代のサトラップの頭飾りや、ベヒストゥンと[[ペルセポリス]]のレリーフに描かれている{{仮リンク|尖がり帽子|en|pointy hat}}から派生したものである<ref>{{harvnb|Curtis|2007|p=8}}; アケメネス朝のサトラップスタイルの頭飾りとの比較には{{harvnb|Sellwood|1983|pp=279–280}}を参照。</ref>。ミトラダテス1世の最初期のコインではこの柔らかい帽子をかぶっているが、彼の治世の後半のコインでは彼は初めてヘレニズム式のディアディムをかぶっている<ref>{{harvnb|Brosius|2006|pp=101–102}}; {{harvnb|Curtis|2007|p=9}}</ref>。ミトラダテス2世はパルティア式の[[ティアラ]]を身に着けた最初の人物である。刺繍と真珠と宝石で飾られたこのティアラは、後期パルティア時代とサーサーン朝の君主たちが一般的に身に着けていた<ref>{{harvnb|Brosius|2006|pp=101–102}}; {{harvnb|Curtis|2007|p=15}}</ref>。 |
|||
=== 言語 === |
|||
==== パルティア語と中世ペルシア語 ==== |
|||
パルティア地方を征服し、アルサケス朝を作り上げたパルニ氏族は、元々はほぼ確実に{{仮リンク|東イラン語派|label=東イラン系|en|Eastern Iranian languages}}の言語を話していた。これに対し当時のパルティア地方では[[メディア語]]の流れをくむ{{仮リンク|西イラン語派|label=西北イラン語|en|Eastern Iranian languages}}を使用していた<ref>{{harvnb|Bivar|1983|p=24}}; {{harvnb|Brosius|2006|p=84}}</ref>。この西北イラン語が[[パルティア語]]と呼ばれるもので、[[アラム文字]]で筆記された<ref name="黒柳1984pp53_55">[[#黒柳 1984|黒柳 1984]], pp. 53-55</ref>。パルニ氏族はこのパルティア語を王宮の公用語に採用した<ref>{{harvnb|Curtis|2007|pp=7–8}}。{{harvnb|Curtis|2007|pp=7–8}}; {{harvnb|Brosius|2006|pp=83–84}}</ref>。 |
|||
イランではパルティア語とサーサーン朝時代の[[中世ペルシア語]]を総称して[[パフラヴィー語]]と呼び、特に区別する必要のある時はアルサケス・パフラヴィー語(パフラヴィーイェ・アシュカーニー pahlavīye aškānī)とサーサーン・パフラヴィー語(パフラヴィーイェ・サーサーニー pahlavīye sāsānī)と呼んでいた<ref name="黒柳1984pp53_55"/>。また、パルティア語をパフラヴァーニーク(pahlavānīk)、中世ペルシア語をパールスィーク(pālsīk)とも呼ぶ<ref name="黒柳1984pp53_55"/>。[[イラン革命]]後には[[パフラヴィー朝]]を連想させる名前であることからもっぱら「中世ペルシア語」の名前が用いられ、場合によってはパルティア語も含めて中世ペルシア語として一括して呼ばれる場合もある<ref name="黒柳1984pp55_56">[[#黒柳 1984|黒柳 1984]], pp. 55-56</ref>。 |
|||
現存するパルティア語の史料は非常に限られている。重要なものとしてはサーサーン朝時代に[[ナクシェ・ロスタム]]に作られた碑文群がある。これはアルサケス朝の滅亡後の文書であるが、パルティア語と中世ペルシア語の二言語、またはギリシア語を加えた三言語で記されている<ref name="黒柳1984pp53_55"/>。また、ミトラダトケルタの遺跡(トルクメニスタンのニサ)では多数のオストラコン(陶片)文書が発見され、パルティア語の貴重な情報が得られている<ref name="黒柳1984pp53_55"/>。そして南部[[クルディスタン]]や[[ドゥラ・エウロポス]]では羊皮紙文書が発見されている他、現在の中国領内にある[[トゥルファン]]ではソグド文字で記されたパルティア語の[[マニ教]]文書が見つかっている<ref name="黒柳1984pp53_55"/><ref>このパルティア語マニ教文書については、[[#吉田 1992|吉田 1992]]も参照。</ref>。 |
|||
パルティア語が西北イラン語であるのに対し、中世ペルシア語は[[古代ペルシア語]]の流れをくむ西南イラン語であり、系統を異にする<ref name="黒柳1984pp58_59">[[#黒柳 1984|黒柳 1984]], pp. 58-59</ref>。しかし中世ペルシア語は発展の過程でパルティア語から多くの影響を受け、多数の語彙を受け入れたことが明らかである<ref name="黒柳1984pp58_59"/>。パルティア語はアルサケス朝の滅亡後も1世紀余りの間使用され続け、サーサーン朝の王[[ナルセ1世]](在位:293年-302年)までの王は王碑文にパルティア語版を用意している<ref name="黒柳1984pp58_59"/>。中世ペルシア語の重要性が増すにつれ、4世紀頃にはパルティア語は使用されなくなり死語となった<ref name="黒柳1984pp58_59"/>。 |
|||
==== パルティア語とアラム語 ==== |
|||
アラム語はパルティア語や中世ペルシア語の筆記に対して重大な影響を与えている。アラム語は[[アケメネス朝]](前550年頃 - 前330年)時代以来、イラン世界全域で共通語として使用されていた<ref name="伊藤1968pp191_224">[[#伊藤 1968|伊藤1968]], pp. 191-224</ref>。パルティア時代においてもアラム語は共通語として広く普及しており、人々の生活に密着した分野において使用されていたことが現存する文書からわかる<ref name="伊藤1968pp191_224"/>。 |
|||
パルティア語はアラム文字で筆記されたが、単純にアルファベットとしてアラム文字が導入されたのみではなく、アラム語そのままに綴ってパルティア語として「訓む」筆記法が用いられていた<ref name="伊藤1968pp191_224"/>。これはパルティア語の他、中世ペルシア語や[[ソグド語]]でも見られる記法で、ウズワーリシュン(訓じられるべきもの、uzwārišn)と呼ばれた<ref name="伊藤1968pp191_224"/>。これは例えば、「月」という語を表す時、アラム語式に'''YRH'''(yarhā、アラム語では母音を筆記しない)と綴り、パルティア語で'''māh'''と訓読するものである<ref name="伊藤1968pp191_224"/>。現存する「アラム語文書」には、文全体を逐語的にパルティア語で訓読すればそのまま「パルティア語文書」として訓めるものがあり、このために、一見してアラム語で読まれたのかパルティア語で訓まれたのかを判別することが困難である<ref name="伊藤1968pp191_224"/>。こうした文書では、パルティア語の末尾音を示す「送り仮名」の役割をする文字がある単語も見られ、これによってその文書がパルティア語で読まれたことが判別可能である場合もある<ref name="伊藤1968pp191_224"/>。イラン研究者の[[伊藤義教]]は、パルティア時代の文書では、「一見しただけでは、アラム語にパルティア語詞を借用混書しているかの印象を与えるほど、アラム語の文法やシンタックスが正しく保持されている。」と述べている<ref name="伊藤1968pp191_224"/>。 |
|||
パルティア期にはテキスト全体がアラム語でもパルティア語でも読める程度にアラム語の正しい形を保持していたこうした筆記法は、サーサーン朝期に入ると次第に化石化し、特定のアラム語の単語を決まり事にしたがって訓読するという方式で習慣的に混書されるようになり、アラム語本来の文法的形態は考慮されなくなっていった<ref name="伊藤1968pp191_224"/>。 |
|||
==== その他の言語 ==== |
|||
また、パルティアの支配下に入った地域では多数の言語が使用されており、[[ギリシア語]]、[[アッカド語|バビロニア語]]、[[ソグド語]]などがパルティア語と同じく使用されていた<ref>{{harvnb|Curtis|2007|pp=7–8}}。{{harvnb|Curtis|2007|pp=7–8}}; {{harvnb|Brosius|2006|pp=83–84}}</ref>。 |
|||
ギリシア語はパルティア領内に居住するギリシア人によって使用されたのみならず、1世紀頃まで王が発行する貨幣に刻まれ、[[バクトリア]]との交易で使用された<ref name="ギルシュマン1970pp225_228">[[#ギルシュマン 1970|ギルシュマン 1970]], pp. 225-227</ref>。この言語がイラン人の間にも広く普及していたことはクルディスタンで出土した羊皮紙文書の中にイラン人同士の訴訟事件の判決をギリシア語で記したものが存在することからも知られる<ref name="ギルシュマン1970pp225_228"/>。 |
|||
バビロニア語(アッカド語)は口語としては当時既に死語になりつつあったが<ref name="春田1998p192注22">[[#春田 1998|春田 1998]], p. 192 注22</ref>、[[バビロン]]で作成される天文日誌は伝統に則りバビロニア語で記録され続けた。この天文日誌はパルティア時代の貴重な同時代史料であり、前2世紀から前1世紀のパルティア史研究の基本史料である<ref name="春田1998pp181_185">[[#春田 1998|春田 1998]], pp. 181-185</ref>。 |
|||
==== 筆記と文学 ==== |
|||
{{Quote box |
|||
| quote = 巻書をわれより人はつくり、文したたむる書記たちも、文書とはたまた証書とを、われが上にぞ書きつくる |
|||
| source= - 『アスールの木』より、山羊と棕梠の木の言い争い。伊藤義教訳<ref name="伊藤1974pp228_231">[[#伊藤 1974|伊藤 1974]], pp. 228-231</ref> |
|||
| align = right |
|||
| width = 25em |
|||
}} |
|||
パルティア人たちは羊皮紙に文字を綴ったことは『史記』「大宛列伝」に記録されている<ref name="伊藤1974pp228_231"/>。『史記』は、パルティア人が記録を取る時、「切った革に水平に書く」こと、即ち羊皮紙を使用していることを述べており、この記録は上述した羊皮紙文書の発見によって裏付けられている<ref name="伊藤1974pp228_231"/>。パルティアにおける羊皮紙の使用については、『アスールの木(Draxt Asūrīg)』と呼ばれるパルティア語の文学作品からも窺い知ることができる<ref name="伊藤1974pp228_231"/>。この作品の中では山羊とアスールの木(棕梠の木)が、どちらの方が人に役立っているかを言い争うが、その中で山羊は自分の皮が紙として使用されることを自慢している<ref name="伊藤1974pp228_231"/>。パルティア語で「文書」を意味する''daftar''という語は、ギリシア語で「皮」を意味する''diphtherā''の借用から来ている<ref name="伊藤1974pp228_231"/>。 |
|||
パルティア時代の間、宮廷の[[吟遊詩人]](ゴーサーン、''gōsān'')は音楽を伴った[[口承文学]]を詠んでいたことが知られている。しかしながら、これらの詩の形で作られた物語は、後のサーサーン朝時代まで書き留められることはなかった<ref>{{harvnb|Brosius|2006|p=106}}</ref>。事実として、次の時代に書き留められる以前のオリジナルの形で残存するパルティア語の文学は知られていない<ref>{{harvnb|Boyce|1983|p=1151}}</ref>。ロマンティックな物語『{{仮リンク|ヴィースとラーミーン|en|Vis and Ramin}}』や、{{仮リンク|カヤーン朝|en|Kayanian dynasty}}の[[叙事詩]]のシリーズは、パルティア時代の口承文学の一部であり、はるか後の時代にまとめられている<ref>{{harvnb|Boyce|1983|pp=1158–1159}}</ref>。パルティア語の文学は文書の形態になっていなかったが、アルサケス朝が[[ギリシア文学]]に価値を認め、それを重んじていた証拠がある<ref>{{harvnb|Boyce|1983|pp=1154–1155}}; {{harvnb|Kennedy|1996|p=74}}も参照。</ref>。 |
|||
==言語== |
|||
{{Main|パルティア語}} |
|||
[[ユニアヌス・ユスティヌス]]が抄録した[[ポンペイウス・トログス]]の『ピリッポス史』に「彼ら(パルティア人)の言語はスキュティア人の言語とメディア人のそれとの中間で、両方を混合したものである。」と記されている。<ref>京都大学学術出版会 1998,p430(トログス『ピリッポス史』第41巻2)</ref> |
|||
== 歴代 |
== 歴代王 == |
||
#[[アルサケス1世]] (紀元前247年頃 - 紀元前211年頃) |
#[[アルサケス1世]] (紀元前247年頃 - 紀元前211年頃) |
||
#*[[ティリダテス1世]] (紀元前248年頃 - 紀元前211年頃) |
#*[[ティリダテス1世]] (紀元前248年頃 - 紀元前211年頃) |
||
#[[アルサケス2世]](アルタバノス) (紀元前211年頃 - 紀元前191年) |
#[[アルサケス2世]](アルタバノス) (紀元前211年頃 - 紀元前191年) |
||
#[[プリアパティオス]] (紀元前191年 - 紀元前176年) |
#[[プリアパティオス]] (紀元前191年 - 紀元前176年) |
||
#[[フラーテス1世]] (紀元前176年 - 紀元前171年) |
#[[フラーテス1世]] (紀元前176年 - 紀元前171年) |
||
#[[ミトラダテス1世]] (紀元前171年 - 紀元前138年) |
#[[ミトラダテス1世]] (紀元前171年 - 紀元前138年) |
||
#[[フラーテス2世]] (紀元前139年/138年/137年 - 紀元前128年) |
#[[フラーテス2世]] (紀元前139年/138年/137年 - 紀元前128年) |
||
#[[アルタバノス1世]] (紀元前128年/127年 - 紀元前124年/123年) |
#[[アルタバノス1世]] (紀元前128年/127年 - 紀元前124年/123年) |
||
#[[ミトラダテス2世]] (紀元前124年/123年 - 紀元前88年/87年) |
#[[ミトラダテス2世]] (紀元前124年/123年 - 紀元前88年/87年) |
||
#[[ゴタルゼス1世]] (紀元前91年 - 紀元前81年/80年 |
#[[ゴタルゼス1世]] (紀元前91年 - 紀元前81年/80年) |
||
#[[オロデス1世]] (紀元前80年 - 紀元前76年/75年) |
#[[オロデス1世]] (紀元前80年 - 紀元前76年/75年) |
||
#[[シナトルケス]] (紀元前76年/75年 - 紀元前70年/69年) |
#[[シナトルケス]] (紀元前76年/75年 - 紀元前70年/69年) |
||
#[[フラーテス3世]] (紀元前70年/69年 - 紀元前58年/57年) |
#[[フラーテス3世]] (紀元前70年/69年 - 紀元前58年/57年) |
||
#[[ミトラダテス3世]] (紀元前58年/57年 - 紀元前55年) |
#[[ミトラダテス3世]] (紀元前58年/57年 - 紀元前55年) |
||
#[[オロデス2世]] (紀元前57年頃 - 紀元前38年/36年) |
#[[オロデス2世]] (紀元前57年頃 - 紀元前38年/36年) |
||
#[[フラーテス4世]] (紀元前38年頃 - 紀元前2年) |
#[[フラーテス4世]] (紀元前38年頃 - 紀元前2年) |
||
#*[[ティリダテス2世]] (紀元前30年頃 - 紀元前25年) |
#*[[ティリダテス2世]] (紀元前30年頃 - 紀元前25年) |
||
#[[フラーテス5世]](フラータケス) (紀元前2年 - 紀元後4年) |
#[[フラーテス5世]](フラータケス) (紀元前2年 - 紀元後4年) |
||
#*[[ムサ]] (紀元前2年 - 紀元後4年)…フラーテス5世の母であり妻 |
#*[[ムサ]] (紀元前2年 - 紀元後4年)…フラーテス5世の母であり妻 |
||
#[[オロデス3世]] (4年 - 6年/7年頃) |
#[[オロデス3世]] (4年 - 6年/7年頃) |
||
#[[ヴォノネス1世]] (7年/8年 - 12年) |
#[[ヴォノネス1世]] (7年/8年 - 12年) |
||
#[[アルタバノス2世]] (12年 - 38年頃) |
#[[アルタバノス2世]] (12年 - 38年頃) |
||
#*[[ティリダテス3世]] (36年頃) |
#*[[ティリダテス3世]] (36年頃) |
||
#*[[キンナムス]] (37年頃) |
#*[[キンナムス]] (37年頃) |
||
#[[ゴタルゼス2世]] (38年頃 - 51年) |
#[[ゴタルゼス2世]] (38年頃 - 51年) |
||
#[[ヴァルダネス1世]] (39年頃 - 47年/48年) |
#[[ヴァルダネス1世]] (39年頃 - 47年/48年) |
||
#[[ヴォノネス2世]] (51年頃) |
#[[ヴォノネス2世]] (51年頃) |
||
#[[ヴォロガセス1世]] (51年/52年 - 79年/80年) |
#[[ヴォロガセス1世]] (51年/52年 - 79年/80年) |
||
#*[[ヴァルダネス2世]] (55年 - 58年) |
#*[[ヴァルダネス2世]] (55年 - 58年) |
||
#*[[ヴォロガセス2世]] (77年 - 80年) |
#*[[ヴォロガセス2世]] (77年 - 80年) |
||
#[[パコルス2世]] (78年 - 115年/116年?) |
#[[パコルス2世]] (78年 - 115年/116年?) |
||
#*[[アルタバノス3世]] (80年 - 81年) |
#*[[アルタバノス3世]] (80年 - 81年) |
||
#[[オスロエス1世]] (109年/110年頃 - 128年/129年) |
#[[オスロエス1世]] (109年/110年頃 - 128年/129年) |
||
#*[[パルタマスパテス]] (117年頃) |
#*[[パルタマスパテス]] (117年頃) |
||
#*[[ヴォロガセス3世]] (105年/106年? - 147年) |
#*[[ヴォロガセス3世]] (105年/106年? - 147年) |
||
#*[[ミトラダテス4世]] (128年/129年? - 147?年) |
#*[[ミトラダテス4世]] (128年/129年? - 147?年) |
||
#[[ヴォロガセス4世]] (148年 - 192年) |
#[[ヴォロガセス4世]] (148年 - 192年) |
||
#*[[オスロエス2世]] (190年) |
#*[[オスロエス2世]] (190年) |
||
#[[ヴォロガセス5世]] (191年 - 207年/208年) |
#[[ヴォロガセス5世]] (191年 - 207年/208年) |
||
#[[ヴォロガセス6世]] (207年/208年 - 222年/223年) |
#[[ヴォロガセス6世]] (207年/208年 - 222年/223年) |
||
#[[アルタバノス4世]] (213年頃 - 227年) |
#[[アルタバノス4世]] (213年頃 - 227年) |
||
#[[アルタ |
#[[アルタヴァスデス]] (227年頃 - 228年/229年?) |
||
※ アルサケス2世をアルタバ |
※ アルサケス2世をアルタバノス1世とし、以後1世ずつずれて表記される書籍もある。<ref>[[#デベボイス 1993|デベボイス 1993]]</ref> |
||
== 系図 == |
== 系図 == |
||
273行目: | 459行目: | ||
{{familytree | | |,|-|-|-|.| | | |}} |
{{familytree | | |,|-|-|-|.| | | |}} |
||
{{familytree | |AR1 | |TI1 | |AR1=[[アルサケス1世]]|TI1=[[ティリダテス1世]]}} |
{{familytree | |AR1 | |TI1 | |AR1=[[アルサケス1世]]|TI1=[[ティリダテス1世]]}} |
||
{{familytree | | | |
{{familytree | | | | | | |!| | |}} |
||
{{familytree | | |
{{familytree | | | | | |AR2|AR2=[[アルサケス2世]](アルタバノス)}} |
||
{{familytree | | | | | | |!| | |}} |
{{familytree | | | | | | |!| | |}} |
||
{{familytree | | | | | |PHR | |PHR=[[フリアパティウス]]}} |
{{familytree | | | | | |PHR | |PHR=[[フリアパティウス]]}} |
||
306行目: | 492行目: | ||
{{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |ART | |ART=アルタヴァスデス}} |
{{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |ART | |ART=アルタヴァスデス}} |
||
{{familytree/end}} |
{{familytree/end}} |
||
== 関連項目== |
|||
* {{仮リンク|アルサケス朝 (アルメニア)|en|Arsacid Dynasty of Armenia}} |
|||
* {{仮リンク|アルサケス朝 (イベリア)|en|Arsacid dynasty of Iberia}} |
|||
* {{仮リンク|アルサケス朝 (コーカサスのアルバニア)|label=コーカサスのアルバニア|en|Arsacid Dynasty of Armenia}} |
|||
* {{仮リンク|ペルシアにおけるローマ人|en|Romans in Persia}} |
|||
* [[イランの歴史]] |
|||
* {{仮リンク|パルティアにおける諸王の王の碑文|en|Inscription of Parthian imperial power}} |
|||
{{clear}} |
|||
== 脚注 == |
== 脚注 == |
||
{{脚注ヘルプ}} |
{{脚注ヘルプ}} |
||
=== 注釈 === |
|||
{{Reflist}} |
|||
{{Reflist|group="注釈"}} |
|||
=== 出典 === |
|||
{{Reflist|2}} |
|||
== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
||
=== 原典史料 === |
|||
* V.G.ガイボフ,G.A.コシェレンコ,Z.V.セルディテフ([[加藤九祚]]・訳)「「ヘレニズム的当方」としてのパルティア―初期パルティアの歴史・文化概説」『アイハヌム2003』(東海大学出版会 2003年) |
|||
*[[ポンペイウス・トログス]]、[[ユニアヌス・ユスティヌス]]抄録 |
* {{Cite book |和書 |author=[[グナエウス・ポンペイウス・トログス]]、[[ユニアヌス・ユスティヌス]]抄録 |translator=[[合阪學]] |title=地中海世界史 |publisher=[[京都大学|京都大学学術出版会]] |series=[[西洋古典叢書]] |date=1998-1 |isbn=978-4-87698-156-4 |ref=トログス 1998 }} |
||
* {{Cite book |和書 |author=[[タキトゥス|コルネリウス・タキトゥス]] |translator=[[国原吉之助]] |title=年代記(上) |publisher=[[岩波書店]] |series=[[岩波文庫]] |date=1981-3 |isbn=978-4-00-334082-0 |ref=タキトゥス 1981}} |
|||
=== 二次資料(和書) === |
|||
* {{Cite book |和書 | title=世界の歴史2 古代オリエント文明 |publisher=筑摩書房 |date=1968-5 |asin=B000JBHTCW |ref=世界の歴史2 1968 }} |
|||
** {{Cite book |和書 |author=[[伊藤義教]]| title=世界の歴史2 古代オリエント文明 |chapter=イラン人の悲劇 |publisher=筑摩書房 |date=1968-5 |asin=B000JBHTCW |ref=伊藤 1968 }} |
|||
* {{Cite book |和書 |author=[[ロマン・ギルシュマン]]|translator=[[岡崎敬]]、[[糸賀昌昭]]、[[岡崎正孝]]| title=イランの古代文化 |publisher=平凡社 |date=1970-2 |asin=B000J9I12Q |ref=ギルシュマン 1970 }} |
|||
* {{Cite book |和書 |author=[[足利惇氏]] |title=ペルシア帝国 |series=世界の歴史9|publisher=[[講談社]]|date=1972-7|isbn=978-4-06-144709-7 |ref=足利 1972}} |
|||
* {{Cite book |和書 |author=[[伊藤義教]]|title=古代ペルシア |publisher=岩波書店 |date=1974-1 |isbn=978-4007301551 |ref=伊藤 1974 }} |
|||
* {{Cite book |和書 |author=[[アーサー・ウプハム・ポープ]]|translator=[[石井昭]]| title=ペルシア建築 |publisher=鹿島出版会 |date=1981-7 |isbn=4-306-05169-2 |ref=ホープ 1981 }} |
|||
* {{Cite book |和書 |author=[[佐藤進]] |title=オリエント史講座3 渦巻く諸宗教|chapter=三 イランの諸王朝/パルティアとササン朝ペルシア| publisher=[[学生社]]|date=1982-3|isbn=978-4311509032 |ref=佐藤 1982}} |
|||
* {{Cite book |和書 |author=[[黒柳恒男]] |title=ペルシア語の話 |publisher=[[大学書林]]|date=1984-9|isbn=978-4-475-01736-7 |ref=黒柳 1984}} |
|||
* {{Cite book |和書 |author=[[前田耕作]] |title=バクトリア王国の興亡 |publisher=[[第三文明社]]|date=1992-1|isbn=978-4-476-01198-2 |ref=前田 1992}} |
|||
* {{Cite book |和書 |author=[[ニールソン・カレル・デベボイス]]|translator=[[小玉新次郎]]、[[伊吹寛子]]| title=パルティアの歴史 |publisher=[[山川出版社]] |date=1993-11 |isbn=978-4-634-65860-8 |ref=デベボイス 1993 }} |
|||
* {{Cite book |和書 |author=[[小玉新次郎]] |title=隊商都市パルミラの研究 |publisher=[[同朋舎出版]]|date=1994-2|isbn=978-4-8104-1767-8 |ref=小玉 1994}} |
|||
* {{Cite book |和書 |author=[[小川英雄]] |author2=[[山本由美子 (歴史学者)|山本由美子]] |title=オリエント世界の発展 |series=世界の歴史4|publisher=[[中央公論社]]|date=1997-7|isbn=978-4-12-403404-2 |ref=小川, 山本 1997}} |
|||
* {{Cite book |和書 |author=[[桜井万里子]] |author2=[[木村凌二]] |title=ギリシアとローマ |series=世界の歴史5|publisher=[[中央公論社]]|date=1997-10|isbn=978-4-12-403405-9 |ref=桜井, 木村 1997}} |
|||
* {{Cite book |和書 |author=[[中村元]]|title=インド史 III |series=中村元選集 決定版6 |publisher=春秋社 |date=1998-4 |isbn=978-4-393-31207-0 |ref=中村 1998 }} |
|||
* {{Cite book |和書 |author=[[パルメーシュワリ・ラール・グプタ]]|translator=[[山崎元一]]、[[鬼生田顯英]]、[[吉井龍介]]、[[吉田幹子]]| title=インド貨幣史 |publisher=[[刀水書房]] |date=2001-10 |isbn=978-4-88708-282-3 |ref=グプタ 2001 }} |
|||
* {{Cite book |和書 |author=[[角田文衛]]| author2=[[上田正明]]監修 |title=古代王権の誕生Ⅲ 中央ユーラシア・西アジア・北アフリカ篇 |publisher=[[角川書店]] |date=2003-6 |isbn=978-4-04-523003-3 |ref=古代王権3 2003 }} |
|||
** {{Cite book |和書 |author=[[田辺勝美]]|title=古代王権の誕生Ⅲ 中央ユーラシア・西アジア・北アフリカ篇 |chapter=第5章 古代ペルシアの王権とその造形|ref=田辺 2003 }} |
|||
* {{Cite book |和書 |author=[[リチャード・フォルツ]]|translator=[[常塚聴]]| title=シルクロードの宗教 |publisher=[[教文館]] |date=2003-11 |isbn=978-4-7642-6643-8 |ref=フォルツ 2003 }} |
|||
* {{Cite book|和書|author=V.G.ガイボフ|author2=G.A.コシェレンコ|author3=Z.V.セルディテフ|translator=[[加藤九祚]]|title=アイハヌム 2003|chapter=ヘレニズム的東方としてのパルティア -初期パルティアの歴史・文化概説 |publisher=[[東海大学|東海大学出版会]]|date=2003-10|isbn=978-4-486-03167-9 |ref=ガイボフら 2003}} |
|||
* {{Cite book |和書 |author=[[メアリー・ボイス]]|translator=[[山本由美子 (歴史学者)|山本由美子]]| title=ゾロアスター教 |publisher=平凡社 |date=2010-2 |isbn=978-4-06-291980-7 |ref=ボイス 2010 }} |
|||
* {{Cite book |和書 |author=[[ローズ・マリー・シェルドン]]|translator=[[三津間康幸]]| title=ローマとパルティア |publisher=[[白水社]] |date=2013-12 |isbn=978-4-560-08337-6 |ref=シェルドン 2013 }} |
|||
* {{Cite book|和書|author=[[山中由里子]]|title=アレクサンドロス変相 古代から中世イスラームへ |date=2009-2 |publisher=[[名古屋大学出版会]] |isbn=978-4-8158-0609-5 | ref=山中 2009}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=[[芳賀京子]]| author2=[[芳賀満]]|title=古代1 ギリシアとローマ、美の曙光 |date=2017-1 |publisher=[[中央公論新社]] |isbn=978-4-12-403591-9 |series=西洋美術の歴史 | ref=芳賀ら 2017}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=[[宮治昭]]編|title=中央アジアⅠ ガンダーラ~東西トルキスタン |date=2017-2 |publisher=[[中央公論美術出版]] |isbn=978-4-8055-1127-5 |series=アジア仏教美術論集 | ref=宮治ら 2017}} |
|||
** {{Cite book|和書|author=[[辛嶋静志]]|title=中央アジアⅠ ガンダーラ~東西トルキスタン |chapter=トルクメニスタン・メルヴ出土説話集|ref=辛嶋 2017}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=[[大塚修]]|title=普遍史の変貌 ペルシア語文化圏における形成と展開 |date=2017-121 |publisher=[[名古屋大学出版会]] |isbn=978-4-8158-0891-4 | ref=大塚 2017}} |
|||
=== 二次資料(論文) === |
|||
* {{Cite journal|和書|author=[[吉田豊]]|author2=W.Sandermann |date=1992 |title=ソグド文字によるマニ教パルティア語の賛歌|journal=オリエント|publisher=[[日本オリエント学会]]|volume=35 |naid=AN00034305|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/jorient1962/35/2/35_2_119/_pdf/-char/ja|ref=吉田 1992|accessdate=2018-2}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=[[春田晴郎]]|date=1992 |title=バビロン天文日誌第3巻の公刊|journal=オリエント|publisher=[[日本オリエント学会]]|volume=41|naid=AN00034305|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/jorient1962/41/2/41_2_181/_pdf/-char/ja|ref=春田 1998|accessdate=2018-2}} |
|||
=== 二次資料(洋書) === |
|||
* {{citation|last=Asmussen|first=J.P.|chapter=Christians in Iran|pages=924–948|title=Cambridge History of Iran|volume=3.2|year=1983|publisher=Cambridge University Press|location=London & New York|editor-last=Yarshater|editor-first=Ehsan|isbn=0-521-20092-X}}. |
|||
* {{citation|last=Ball|first=Warwick|title=Rome in the East: Transformation of an Empire, 2nd Edition|year=2016|publisher=Routledge|location=London & New York|isbn=978-0-415-72078-6}}. |
|||
* {{citation|last=Bausani|first=Alessandro|pages=41|title=The Persians, from the earliest days to the twentieth century|year=1971|publisher=St. Martin's Press|location=New York|isbn=978-0-236-17760-8}}. |
|||
* {{citation|last=Bickerman|first=Elias J.|chapter=The Seleucid Period|pages=3–20|title=Cambridge History of Iran|volume=3.1|year=1983|publisher=Cambridge University Press|location=London & New York|editor-last=Yarshater|editor-first=Ehsan|isbn=0-521-20092-X}}. |
|||
* {{citation|last=Bivar|first=A.D.H.|chapter=The Political History of Iran Under the Arsacids|pages=21–99|title=Cambridge History of Iran|volume=3.1|year=1983|publisher=Cambridge University Press|location=London & New York|editor-last=Yarshater|editor-first=Ehsan|isbn=0-521-20092-X}}. |
|||
* {{citation|last=Bivar|first=A.D.H.|chapter=Gondophares and the Indo-Parthians|pages=26–36|title=The Age of the Parthians: The Ideas of Iran|volume=2|year=2007|publisher=I.B. Tauris & Co Ltd., in association with the London Middle East Institute at SOAS and the British Museum|location=London & New York|editor-last=Curtis, Vesta Sarkhosh and Sarah Stewart|isbn=978-1-84511-406-0}}. |
|||
* {{citation|last=Boyce|first=Mary|chapter=Parthian Writings and Literature|pages=1151–1165|title=Cambridge History of Iran|volume=3.2|year=1983|publisher=Cambridge University Press|location=London & New York|editor-last=Yarshater|editor-first=Ehsan|isbn=0-521-20092-X}}. |
|||
* {{citation|last=Brosius|first=Maria|title=The Persians: An Introduction|year=2006|publisher=Routledge|location=London & New York|isbn=0-415-32089-5}}. |
|||
* {{citation|last=Colpe|first=Carsten|chapter=Development of Religious Thought|pages=819–865|title=Cambridge History of Iran|volume=3.2|year=1983|publisher=Cambridge University Press|location=London & New York|editor-last=Yarshater|editor-first=Ehsan|isbn=0-521-20092-X}}. |
|||
* {{citation|last=Curtis|first=Vesta Sarkhosh|chapter=The Iranian Revival in the Parthian Period|pages=7–25|title=The Age of the Parthians: The Ideas of Iran|volume=2|year=2007|publisher=I.B. Tauris & Co Ltd., in association with the London Middle East Institute at SOAS and the British Museum|location=London & New York|editor-last=Curtis, Vesta Sarkhosh and Sarah Stewart|isbn=978-1-84511-406-0}}. |
|||
* {{citation|last=de Crespigny|first=Rafe|title=A Biographical Dictionary of Later Han to the Three Kingdoms (23–220 AD)|year=2007|publisher=Koninklijke Brill|location=Leiden|isbn=90-04-15605-4}}. |
|||
* {{citation|last=Demiéville|first=Paul|chapter=Philosophy and religion from Han to Sui|pages=808–872|title=Cambridge History of China: the Ch'in and Han Empires, 221 B.C. – A.D. 220|volume=1|year=1986|publisher=Cambridge University Press|location=Cambridge|editor-last=Twitchett and Loewe|editor-first=|isbn=0-521-24327-0}}. |
|||
* {{citation|last=Duchesne-Guillemin|first=J.|chapter=Zoroastrian religion|pages=866–908|title=Cambridge History of Iran|volume=3.2|year=1983|publisher=Cambridge University Press|location=London & New York|editor-last=Yarshater|editor-first=Ehsan|isbn=0-521-20092-X}}. |
|||
* {{citation|last=Emmerick|first=R.E.|chapter=Buddhism Among Iranian Peoples|pages=949–964|title=Cambridge History of Iran|volume=3.2|year=1983|publisher=Cambridge University Press|location=London & New York|editor-last=Yarshater|editor-first=Ehsan|isbn=0-521-20092-X}}. |
|||
* {{citation|last=Frye|first=R.N.|chapter=The Political History of Iran Under the Sasanians|pages=116–180|title=Cambridge History of Iran|volume=3.1|year=1983|publisher=Cambridge University Press|location=London & New York|editor-last=Yarshater|editor-first=Ehsan|isbn=0-521-20092-X}}. |
|||
* {{citation|last=Garthwaite|first=Gene Ralph|title=The Persians|year=2005|publisher=Blackwell Publishing, Ltd.|location=Oxford & Carlton|isbn=1-55786-860-3}}. |
|||
* {{citation|last=Green|first=Tamara M.|title=The City of the Moon God: Religious Traditions of Harran|year=1992|publisher=BRILL|isbn=90-04-09513-6}}. |
|||
* {{citation|last=Howard|first=Michael C.|title=Transnationalism in Ancient and Medieval Societies: the Role of Cross Border Trade and Travel|year=2012|publisher=McFarland & Company|location=Jefferson}}. |
|||
* {{citation|last=Katouzian|first=Homa|title=The Persians: Ancient, Medieval, and Modern Iran|year=2009|publisher=Yale University Press|location=New Haven & London|isbn=978-0-300-12118-6}}. |
|||
* {{citation|last=Kennedy|first=David|chapter=Parthia and Rome: eastern perspectives|pages=67–90|title=The Roman Army in the East|volume=|year=1996|location=Ann Arbor|publisher=Cushing Malloy Inc., Journal of Roman Archaeology: Supplementary Series Number Eighteen|isbn=1-887829-18-0}} |
|||
* {{citation|last=Kurz|first=Otto|chapter=Cultural Relations Between Parthia and Rome|pages=559–567|title=Cambridge History of Iran|volume=3.1|year=1983|publisher=Cambridge University Press|location=London & New York|editor-last=Yarshater|editor-first=Ehsan|isbn=0-521-20092-X}}. |
|||
*{{Citation |doi=10.2307/300283 |last=Lightfoot |first=C.S. |year=1990 |title=Trajan's Parthian War and the Fourth-Century Perspective |journal=The Journal of Roman Studies |volume=80 |issue= |pages=115–126|issn= |jstor=300283 }} |
|||
* {{citation|last=Lukonin|first=V.G.|chapter=Political, Social and Administrative Institutions: Taxes and Trade|pages=681–746|title=Cambridge History of Iran|volume=3.2|year=1983|publisher=Cambridge University Press|location=London & New York|editor-last=Yarshater|editor-first=Ehsan|isbn=0-521-20092-X}}. |
|||
* {{citation|last=Mawer|first=Granville Allen|chapter=The Riddle of Cattigara|pages=38–39|title=Mapping Our World: Terra Incognita to Australia|year=2013|publisher=National Library of Australia|location=Canberra|editor-given1=Robert|editor-surname1=Nichols|editor-given2=Martin|editor-surname2=Woods|isbn=978-0-642-27809-8}}. |
|||
* {{citation|last=Mommsen|first=Theodor|title=The Provinces of the Roman Empire: From Caesar to Diocletian|year=2004 |origyear=original publication 1909 by Ares Publishers, Inc.|volume=2|publisher=Gorgias Press|location=Piscataway (New Jersey)|isbn=1-59333-026-X}}. |
|||
* {{citation|last=Morton|first=William S.|last2=Lewis|first2=Charlton M.|title=China: Its History and Culture|year=2005|publisher=McGraw-Hill|location=New York|isbn=0-07-141279-4}}. |
|||
* {{citation|last=Neusner|first=J.|chapter=Jews in Iran|pages=909–923|title=Cambridge History of Iran|volume=3.2|year=1983|publisher=Cambridge University Press|location=London & New York|editor-last=Yarshater|editor-first=Ehsan|isbn=0-521-20092-X}}. |
|||
* {{citation|last=Posch|first=Walter|chapter=Chinesische Quellen zu den Parthern|pages=355–364|title=Das Partherreich und seine Zeugnisse|editor-last=Weisehöfer|editor-first=Josef|series=Historia: Zeitschrift für alte Geschichte, vol. 122|location=Stuttgart|publisher=Franz Steiner|year=1998|language=de}}. |
|||
* {{citation|last=Schlumberger|first=Daniel|chapter=Parthian Art|pages=1027–1054|title=Cambridge History of Iran|volume=3.2|year=1983|publisher=Cambridge University Press|location=London & New York|editor-last=Yarshater|editor-first=Ehsan|isbn=0-521-20092-X}}. |
|||
* {{citation|last=Sellwood|first=David|chapter=Parthian Coins|pages=279–298|title=Cambridge History of Iran|volume=3.1|year=1983|publisher=Cambridge University Press|location=London & New York|editor-last=Yarshater|editor-first=Ehsan|isbn=0-521-20092-X}}. |
|||
*{{Citation |last=Shahbazi|first=Shahpur A.|year=1987|title=Arsacids. I. Origin|journal=Encyclopaedia Iranica|volume=2|issue= |page=255|url= |issn= }} |
|||
*{{Citation |last=Shayegan|first=Rahim M.|year=2007|title=On Demetrius II Nicator's Arsacid Captivity and Second Rule|journal=Bulletin of the Asia Institute|volume=17|pages=83–103|url= |issn= }} |
|||
*{{Citation |last=Shayegan|first=Rahim M.|title=Arsacids and Sasanians: Political Ideology in Post-Hellenistic and Late Antique Persia |year=2011|publisher=Cambridge University Press|location=Cambridge|isbn=978-0-521-76641-8}} |
|||
*{{Citation |doi=10.1556/AAnt.46.2006.3.3 |last=Strugnell |first=Emma |year=2006 |title=Ventidius' Parthian War: Rome's Forgotten Eastern Triumph |journal=Acta Antiqua |volume=46 |issue= 3|pages=239–252 |url= |issn= }} |
|||
* {{citation|last=Torday|first=Laszlo|title=Mounted Archers: The Beginnings of Central Asian History|year=1997|publisher=The Durham Academic Press|location=Durham|isbn=1-900838-03-6}} |
|||
* {{citation|last=Wang|first=Tao|chapter=Parthia in China: a Re-examination of the Historical Records|pages=87–104|title=The Age of the Parthians: The Ideas of Iran|volume=2|year=2007|publisher=I.B. Tauris & Co Ltd., in association with the London Middle East Institute at SOAS and the British Museum|location=London & New York|editor-last=Curtis, Vesta Sarkhosh and Sarah Stewart|isbn=978-1-84511-406-0}}. |
|||
* {{citation|last=Watson|first=William|chapter=Iran and China|pages=537–558|title=Cambridge History of Iran|volume=3.1|year=1983|publisher=Cambridge University Press|location=London & New York|editor-last=Yarshater|editor-first=Ehsan|isbn=0-521-20092-X}}. |
|||
* {{citation|last=Widengren|first=Geo|chapter=Sources of Parthian and Sasanian History|pages=1261–1283|title=Cambridge History of Iran|volume=3.2|year=1983|publisher=Cambridge University Press|location=London & New York|editor-last=Yarshater|editor-first=Ehsan|isbn=0-521-20092-X}}. |
|||
* {{citation|last=Wood|first=Frances|title=The Silk Road: Two Thousand Years in the Heart of Asia|year=2002|publisher=University of California Press|location=Berkeley and Los Angeles|isbn=0-520-24340-4}}. |
|||
* {{citation|last=Yarshater|first=Ehsan|chapter=Iranian National History|pages=359–480|title=Cambridge History of Iran|volume=3.1|year=1983|publisher=Cambridge University Press|location=London & New York|editor-last=Yarshater|editor-first=Ehsan|isbn=0-521-20092-X}}. |
|||
* {{citation|last=Yü|first=Ying-shih|chapter=Han Foreign Relations|pages=377–462|title=Cambridge History of China: the Ch'in and Han Empires, 221 B.C. – A.D. 220|volume=1|year=1986|publisher=Cambridge University Press|location=Cambridge|editor-last=Twitchett, Denis and Michael Loewe|editor-first=|isbn=0-521-24327-0}}. |
|||
* {{citation|last=Young|first=Gary K.|title=Rome's Eastern Trade: International Commerce and Imperial Policy, 31 BC - AD 305|year=2001|publisher=Routledge|location=London & New York|isbn=0-415-24219-3}}. |
|||
* {{citation|last=Zhang|first=Guanuda|chapter=The Role of the Sogdians as Translators of Buddhist Texts|pages=75–78|title=Silk Road Studies: Nomads, Traders, and Holy Men Along China's Silk Road|volume=7|year=2002|publisher=Brepols Publishers|location=Turnhout|editor-last=Juliano, Annette L. and Judith A. Lerner|editor-first=|isbn=2-503-52178-9}}. |
|||
== 外部リンク == |
|||
{{Commons category|Parthia}} |
|||
* Various articles from Iran Chamber Society ([http://www.iranchamber.com/history/parthians/parthians.php Parthian Empire], [http://www.iranchamber.com/art/articles/art_of_parthians.php The Art of Parthians], [http://www.iranchamber.com/history/parthians/parthian_army.php Parthian Army]) |
|||
*[http://www.parthia.com/ Parthia.com] (a website featuring the history, geography, coins, arts and culture of ancient Parthia, including a bibliographic list of scholarly sources) |
|||
{{coord|33|05|37|N|44|34|51|E|region:IQ_type:country_source:kolossus-dewiki|display=title}} |
|||
== 関連項目 == |
|||
{{Normdaten}} |
|||
* [[アルサケス]] |
|||
* [[バグダッド電池]] |
|||
{{DEFAULTSORT:はるていあ}} |
{{DEFAULTSORT:はるていあ}} |
2018年3月30日 (金) 17:55時点における版
- アルサケス朝パルティア
- اشکانیان (Ashkâniân)
-
← 前247年 - 224年 →
紀元前50年頃のパルティアの領域-
公用語 ギリシア語[1]、パルティア語[注釈 1] 中世ペルシア語、アラム語(共通語)[1][注釈 2] アッカド語 首都 クテシフォン、エクバタナ、ヘカトンピュロス、スサ、ミトラダトケルタ、アサーク、ラゲス
パルティア([ˈpɑːrθiən]、前247年-後224年)は古代イランの王朝。王朝の名前からアルサケス朝とも呼ばれ、日本語ではしばしばアルサケス朝パルティアという名前でも表記される。前3世紀半ばに中央アジアの遊牧民の族長アルサケス1世(アルシャク1世)によって建国され、ミトラダテス1世(ミフルダート1世、在位:前171年-前138年)の時代以降、現在のイラク、トルコ東部、イラン、トルクメニスタン、アフガニスタン西部、パキスタン西部にあたる、西アジアの広い範囲を支配下に置いた。前1世紀以降、地中海世界で勢力を拡大するローマと衝突し、特にアルメニアやシリア、メソポタミア、バビロニアの支配を巡って争った。末期には王位継承を巡る内乱の中で自立したペルシスの支配者アルダシール1世(在位:226年-240年)によって滅ぼされ、新たに勃興したサーサーン朝に取って代わられた。
概要
パルティアという名称は、元来イラン高原北東部に位置する一地方名であり、アケメネス朝(前550年頃 - 前330年)時代にはパルサワという名前で記録に登場する[2][注釈 3]。アルサケス朝という王朝の名前は、建国者とされるアルサケス1世(古代ギリシア語:アルサケース、Ἀρσάκης Arsakēs、パルティア語:アルシャク、 𐭀𐭓𐭔𐭊、Aršak)から来ている[2][3]。彼は中央アジアの遊牧民の一派、パルニ氏族の族長であり、前3世紀半ばにパルティア地方を征服してこの王朝を打ち立てた。以降、歴代の王たちは彼の名前、アルサケスを代々受け継いだ。
ミトラダテス1世(ミフルダート1世、在位:前171年-前138年)の時代には、シリアに本拠地を置くセレウコス朝からメディアとメソポタミア、バビロニアを奪い取り、その領土は大幅に拡大した。最盛期には、その支配はユーフラテス川の北、現在のトルコ中央東部から、東はイラン高原にまで達した。パルティアの支配地は、地中海のローマと、中国の漢朝の間の交易路であるシルクロード上に位置しており、交易と商業の中心となった。
パルティア人は様々な地域的文化を持つ領域を支配し、ペルシアやギリシア、そして更に各地の文化から、芸術、建築、宗教的信条、王権観など様々な要素を採用した。アルサケス朝の治世の前半には、宮廷はギリシア文化の要素を強く採用しており、王達は「ギリシア愛好者(ΦΙΛΕΛΛΗΝΟΣ)」という称号をコインに刻んだ。そして時代が進むにつれイラン的伝統が徐々に復活した。
アルサケス朝の支配者はかつてのアケメネス朝やセレウコス朝の王たちと同じく「諸王の王」という称号を帯びた。アルサケス朝の勢力が拡大するとともに、中央政府の拠点はニサからティグリス河畔のクテシフォン(テーシフォーン、現在のイラク、バグダードの南)に移されたが、他の複数の都市も首都として機能していた。
パルティアの初期の敵は西ではセレウコス朝、東ではスキタイ人であった。パルティアの建国当初、セレウコス朝はパルティアを服属させるべくたびたび遠征を行った。その後パルティアの優勢は確実なものとなり、セレウコス朝はローマによって滅ぼされた。パルティアとローマが西アジアで互いに勢力を拡張した結果、両者は各地で衝突するようになった。パルティアとローマはともに、自らの属王としてアルメニア王を擁立しようと競い合った。パルティアは前53年にカルラエの戦いでマルクス・リキニウス・クラッスス率いるローマ軍を完全に撃破し、前40年から前39年にかけては、テュロス市を除くレヴァント地方をローマから奪い取った。しかしその後、ローマの反撃によってシリアから撃退された。2世紀以降の戦争では、たびたびメソポタミアとバビロニアにローマ軍が侵入し、数度にわたり首都のセレウキアとクテシフォンを占領された。また、王位をめぐるパルティア人同士の間の頻繁な内戦は、国家の安定にとって外国の侵略よりも重大な影響を及ぼした。
最終的にパルティアはファールス地方のエスタフルの支配者、アルダシール1世の反逆によって滅亡した。224年に分裂していたパルティアの王の一人、アルタバノス4世(アルタバーン4世)がアルダシール1世との戦いに敗れ殺害された。だが、アルサケス家の分流がアルメニア、イベリア、コーカサスのアルバニアの王家としてその後も生き残った。
パルティアの歴史の詳細は不明瞭な部分が多い。パルティア自身が残した史料は、後のサーサーン朝や、かつてのアケメネス朝の史料に比べ乏しく、散在する楔形文字粘土板文書、オストラコン、碑文、ドラクマ貨、幸運にも生き残ったいくつかの羊皮紙文書が残されるのみである。後のイスラーム時代のイランではパルティアの歴史の大部分は忘れ去られ、非常に大雑把で不正確な記録しか残されていない。このため、パルティアの歴史の大部分は外国の記録を通してのみ知ることができる。この外国史料は主にギリシアとローマの歴史書であるが、中国の漢朝によって残された記録もある[4]。またパルティアの芸術作品は、その文書史料の存在しない社会および文化的な側面を理解するための有用な情報源であると現代の歴史家たちによって評価されている。
歴史
起源と建国
初代王とされるアルサケス1世はアルサケス朝を創設する前は、古代中央アジアのイラン系部族で、ダハエ氏族連合に属する遊牧民パルニ氏族の族長であった[2][5]。イラン北東部に位置するパルティア地方は、かつてはアケメネス朝の、その後セレウコス朝の支配下にあった[2][6]。当時、東方におけるセレウコス朝の支配は弱体化しつつあり、前250年代頃にはバクトリアのサトラップ(総督)であったディオドトス1世がセレウコス朝の支配から独立した[7][2][注釈 4]。続いて、パルティア地方ではやはりサトラップであったアンドラゴラスが、前240年代初頭にセレウコス朝から離脱した[2][7]。
アルサケス1世と、その弟のティリダテス1世(ティルダート1世)は、このアンドラゴラスを破ってパルティア地方を支配下に置いた[2][7]。これがパルティア王国(アルサケス朝)の成立である。しかし、この出来事がいつ頃の事であるのかはわかっていない。アルサケス朝の宮廷は、アルサケス起源の初年を前247年に設定したが[9]、これがアンドラゴラスを打倒した年であるかどうかはわからない[注釈 5]。アルサケス1世は、未だ位置不明のアサークというパルティアの都市で即位式を行った[2][7]。
アルサケス1世とティリダテス1世の関係、アルサケス1世の死、その後継者が誰なのかという問題についても不明瞭であり、後継者は弟であるティリダテス1世である可能性と、ティリダテス1世の息子アルサケス2世(アルシャク2世、アルタバノスとも[注釈 6])である可能性がある[注釈 7]。アルサケス朝の王たちは全て、初代王の名前アルサケス(アルシャク)を受け継いだ[18]。このため、「英雄」という意味を持つこの名前は個人名ではなく、王を意味する普通名詞であったとする考え方もある[18]。このことから、アルサケス1世と当初より行動を共にし、その弟であるとされるティリダテス1世は、実際にはアルサケス1世と同一人物であるとする考え方もあった[18]。現在では、後のパルティア王プリアパティオスが、アルサケス1世の甥の子孫であると示すオストラコンが発見されていることから、やはりこの二人は別個の人物であるという見解が一般的である[18][19]。
アルサケス1世とティリダテス1世は、セレウコス朝に西側からエジプト王プトレマイオス3世エウエルゲテス(在位:前246年-前222年)が侵入したことで有利な環境を得て、しばらくの間パルティアとヒュルカニアで地位を固めた。このプトレマイオス朝とセレウコス朝の衝突は第三次シリア戦争(前246年-前241年)と呼ばれ、パルティアでアルサケス朝が地歩を固めるとのと同じく、バクトリアでディオドトス1世が政権を安定させ、グレコ・バクトリア王国を形成することを可能とした[14]。パルティアはディオドトス1世の後継者、ディオドトス2世との間に対セレウコス朝の同盟を結んだが、アルサケス1世(またはティリダテス1世)はセレウコス2世カリニクス(在位:前246年-前225年)の軍勢によって一時的にパルティアから駆逐された[20]。そして遊牧民アパシアカエの中で亡命生活をしばらく送った後、反撃に転じ、パルティアを再占領した[20]。セレウコス2世の後継者アンティオコス3世(大王、在位:前222年-前187年)は、軍をメディアで発生していたモロンの反乱の鎮圧にあてていたため、即座に反撃に出ることはできなかった[20]。
アンティオコス3世はパルティアとバクトリアを再び支配下に置くべく、前210年から前209年にかけて大規模な遠征を開始した。彼は目的を達成できなかったが、新たにパルティア王となっていたアルサケス2世は和平交渉でアンティオコス3世を上位者と認めた[21]。そして代償として王(希:Basileus、バシレウス)の称号が付与された[22]。 セレウコス朝は、共和制ローマの脅威、前190年のマグネシアの戦いでの敗北によって、それ以上パルティアでの出来事に介入することはできなくなっていた[22]。プリアパティオス(在位:前191年-前176年頃)がアルサケス2世の跡を継いだが、史料からは彼が「アルサケス1世の甥の子孫」であることと、アルサケス2世の後継者であったこと以外何もわからない[21][18][19]。続いてフラーテス1世(フラハート1世、在位:前176年-前171年頃)がパルティア王位に昇った。フラーテス1世はセレウコス朝の干渉を受けることなくパルティアを統治した[23]。
拡大と統合
フラーテス1世はかつてのアレクサンドロスの門を超えて位置不明のアパメア・ラギアナ市を占領し、パルティアの支配拡大したと記録されている[24]。だが、パルティアの勢力が大幅に拡大してその領土が広がったのは、彼の弟であり後継者であるミトラダテス1世(ミフルダート1世、在位:前171年-前138年頃)の治世中である。カトウジアンは彼をアケメネス朝の創設者キュロス2世(大王、前530年死去)に例えており[12]、日本の研究者山本由美子は「真の意味でのパルティア帝国の建設者であった」と評している[25]。
グレコ・バクトリア王ディオドトス2世の地位が、内紛によってエウクラティデス1世(在位:前170年-145年頃)に奪われた後、ミトラダテス1世の軍勢がタプリナとトラクシアナという二つの州を奪取したため、パルティアとグレコ・バクトリアの関係は悪化した[26]。その後、ミトラダテス1世の視線は西方に転じた[26]。当時セレウコス朝のアンティオコス4世はユダヤ人の反乱に対応するためにパレスチナに軍を終結させていたが、この間にアルメニア王アルタクシアス1世と、メディア王ティマルコスがセレウコス朝の統制下から離れたため、これらを鎮撫すべく遠征を行った[26][27]。アンティオコス4世はアルメニアを抑え、メディアの首都エクバタナ、ペルシスのペルセポリスを経てエリュマイスへ進軍したが、現地人の抵抗によって敗退し、ガバエ(現:イスファハーン)で倒れた[26][27]。パルティアのミトラダテス1世は、前161年には東側からメディアに侵入し、前155年までにメディア王ティマルコスを倒してメディアを征服した。この勝利に続いて、更に肥沃なメソポタミアを目指し、前141年までにはバビロニアを征服した[26]。前141年にはセレウキアでコインを鋳造し、公的な即位式を行っている[28]。その後ミトラダテス1世は東部での問題の対応のためにヒュルカニアへと戻ったが、残された軍隊はエリュマイスとカラケネを征服し、スサ市を占領した[26][29]。歴史家オロシウスの記録では、ミトラダテス1世の時代にはヒュダスペス川からインダス川の間の一切の民族を支配したとも言う。これは実際にはペルシアのある川からインダス川にいたる、古来争奪されていた地域を漠然と表現したものであると推定されている[30]。
セレウコス朝は前142年に首都アンティオキアで将軍のディオドトス・トリュフォンが反乱を起こしたため、このパルティアの進撃に対応することができなかった[31]。しかし、前140年までにデメトリオス2世ニカトルはメソポタミアでパルティアに対する反撃を開始した。セレウコス朝の反撃は当初順調であったが、ミトラダテス1世はこれを撃退することに成功し、デメトリオス2世自身を捕らえてヒュルカニアに連行した。ミトラダテス1世は虜囚となったデメトリオス2世を王者として扱い、娘のロドグネをデメトリオス2世と結婚させた[26]。
ミトラダテス1世の治世の間、ヘカトンピュロスがパルティアの最初の首都として機能していた一方で、彼ははセレウキア、エクバタナ、クテシフォン、新たに建設した都市ミトラダトケルタ(トルクメニスタンのニサ)にも王宮を建設した。ミトラダトケルタにはアルサケス朝の王たちの墓が建設され保全された[32]。エクバタナはアルサケス朝の王族たちの主たる夏宮となった[33]。クテシフォンはゴタルゼス1世(ゴータルズ1世、在位:前90年-前80年頃)の治世まで公式な首都とはならなかったと思われるが[34]、歴史学者のマリア・ブロシウス(Maria Brosius)によればこの地は戴冠式を執り行う場所となり、アルサケス朝を代表する都市であった[35]。
歴史学者のA.D.H.ビヴァールは、このミトラダテス1世の治世最後の年である紀元前138年が「パルティアの歴史の中で正確に確定できる最初の年」であるとしており[36]、デベボイスもまた前137年または前138年のミトラダテス1世の死が「貨幣と楔形文字の記録を元に確定されたパルティアの最も古い年代である。」としている[37]。
ミトラダテス1世の跡を継いだのは幼い王子フラーテス2世(フラハート2世、在位:138年-前129年)であり、セレウコス朝ではデメトリオス2世の兄弟のアンティオコス7世シデテス(在位:前138年-前129年)が王位を引き継いだと想定される。彼はデメトリオス2世の妻、クレオパトラ・テアと結婚した。ディオドトス・トリュフォンの反乱を完全に鎮圧した後、前130年にアンティオコス7世はパルティア王の支配下にあるメソポタミアを奪回するための遠征を開始した[38]。パルティアの将軍イダテスは大ザブ川沿いで撃破され、その後バビロニアでも反乱が発生して将軍エニウスもセレウキアの住民によって殺害された[39]。アンティオコス7世はバビロニアを征服し、スサを占領してその地でコインを発行した[40]。その後、彼の軍隊がメディアへ進軍すると、パルティアは和平を求めた[39]。アンティオコス7世が提示した和平の条件は、アルサケス朝がパルティア地方を除く全ての土地を譲渡し、莫大な賠償金を払い、デメトリオス2世を虜囚から解放するという過酷なものであった[39]。パルティアはデメトリオス2世を開放しセレウコス朝の本国シリアへ送ったが、他の要求は拒否した[39][41][42]。だがアンティオコス7世と彼の軍勢は、メディアで越冬する間に物資を使い果たし、住民からの過酷な徴発のために、前129年の春までにメディア人が公然と反逆し始めた[39][41]。アンティオコス7世がこの反乱の鎮圧が試みている間にパルティア軍の主力がメディアに押し寄せ、彼を殺害した。パルティアはアンティオコス7世の死体を銀の棺に入れてシリアに送り返し、彼の幼い息子のセレウコスを捕らえた[39][43]。そしてアンティオコス7世に同行していたデメトリオス2世の娘もこの時捕らえ、彼女はフラーテス2世の後宮に入った[39]。
こうしてパルティアは西方における失地を回復したが、別の脅威が東方で生じていた。前177年から前176年にかけ、匈奴の遊牧民部族連合が、遊牧民の月氏を、現在の中国西北部の甘粛省にあった彼らの故地から追いやった[44]。月氏は西へ逃れバクトリアに移住し、サカ(スキタイ)人の部族を放逐した。サカ人は更に西へと追い立てられ、パルティアの北東国境地帯へ侵入したのであった[45]。かつて、ミトラダテス1世はこれに対処するため、メソポタミアを征服した後ヒュルカニアへ戻ることを余儀なくされた[46]。
このサカ人は、その後アンティオコス7世と戦うフラーテス2世の軍隊に傭兵として加わった。だが、彼らは実際の戦闘には間に合わなかった。このためフラーテス2世は彼らに賃金を支払うことを拒否したが、結果としてサカ人たちは反乱を起こした。フラーテス2世は捕虜にしたセレウコス朝の元兵士たちをこれに当てて鎮圧しようとしたが、彼らは非常に冷遇されており、パルティア人がの戦列がぐらついたのを見ると、瞬く間にサカ人の下へと寝返った[47][48]。この結果、フラーテス2世は彼らによってその軍隊もろとも虐殺された[47]。ローマ人の歴史家、ユスティヌスは彼の叔父で、次の王になったアルタバノス1世(アルタバーン1世、在位:前128年-前124年頃)が、東方の遊牧民との戦いの中で前任者と同様の運命を辿ったことを報告している[49]。それによれば、アルタバノス1世はトカロイ族(吐火羅、月氏と推定される[47])によって殺害された[49]。なお、ビヴァールはユスティヌスはトカロイ族にサカ人たちを含めていると考えている[50]。
同じ頃、フラーテス2世によってバビロニア総督に任命されていたヒメロスはペルシア湾岸のカラクス・スパシヌに拠点を置くヒスパオシネス統治下のカラケネ王国を征服するように命令をされた[47]。しかし、この企ては失敗し、逆にヒスパネシオスが前127年にバビロニアに侵入、セレウキアを占領した[47]。
新たに王となったミトラダテス2世(ミフルダート2世、在位:前124年-前90年頃)は、同名の王ミトラダテス1世と同じく傑出した王として数えられ、ヒスパネシオスをバビロニアから排除し、パルティアの宗主権下に置いた[51][47]。また、シースターンでサカ人によって失われた領土を回復した[47]。
ミトラダテス2世はが前113年にドゥラ・エウロポスを占領してパルティアの支配を更に西方まで拡大した後、アルメニア王国を攻撃した[52][53]。彼はアルメニア王アルタヴァスデス1世を撃破して廃位し、その息子ティグラネスを人質とした[52][47]。このティグラネスは後のアルメニア王ティグラネス2世(大王、在位:前95年頃-前55年)である[52]。
インド・パルティア王国
紀元前1世紀、現在のアフガニスタンとパキスタンに、歴史学者によってインド・パルティア王国と呼ばれるパルティア人の政権が成立した[54]。アゼス2世[注釈 8]、もしくはゴンドファルネス(ゴンドファレス)等の王たちが建設したこの王国は、カーブル周辺のギリシア人の王国を滅ぼし、インダス川河口部のサカ人たちも支配下に置いていた[55]。インド・パルティアの王ゴンドファルネスはギリシア語とインドの現地語で「諸王の王(basileōs basileōn/maharaja rajatiraja)」と刻んだコインを発行し、大王(maharaya)と称する碑文も残している[56]。このインド・パルティア王国と、一般にパルティア王国と呼ばれる西アジアの王国の関係は明瞭ではない。ビヴァールはこの二つの国家は政治的に同一と考えられると主張している[57]。西暦42年にギリシア人の哲学者、ティアナのアポロニウスがパルティア王ヴァルダネス1世(在位:40年-47年頃)の宮廷を訪れた際、彼はアポロニウスがインド・パルティアへ旅をするためのキャラバンの保護を命じた。アポロニウスがインド・パルティアの首都タクシラに到着した後、彼を丁重にもてなしたインドの役人に対し、アポロニウスのキャラバンの隊長が、恐らくパルティア語で書かれたヴァルダネスの公式の手紙を読み上げた[58]。
ローマとの戦争と交渉
北部インドで成立した月氏のクシャーナ朝が成立した結果、パルティアの東部国境の大部分が安定した[59]。この結果、前1世紀半ばのアルサケス朝の宮廷は主としてローマに対して積極策に出て、西部国境の安全を勝ち取ることをに焦点を当てた[59]。ミトラダテス2世がアルメニアを征服した翌年、ローマのキリキア属州総督(プロコンスル)ルキウス・コルネリウス・スッラはユーフラテス川でパルティアの外交官オロバズスと会談した[60]。この会談で、両者は恐らくユーフラテス川をパルティアとローマの国境とすることに合意した[60]。ただし複数の学者が、スッラはこの条項をローマ本国に伝達する権限しか持っていなかったと主張している[61]。
その後、パルティアはシリアでアンティオコス10世エウセベス(在位:前95年-前92年?)と戦い、彼を殺害した[47][62]。最後のセレウコス朝の君主の一人、デメトリオス3世エウカエルスはバロエア(現:アレッポ)の包囲を試みたが、パルティアは現地住民に援軍を送り、デメトリオス3世は破られた[62]。
ミトラダテス2世の治世の後、パルティアの王権は分裂したように思われる。バビロニアをゴタルゼス1世が、東部をオロデス1世 (ウロード1世、在位:前90年頃-前80年頃)が分割して統治した[63]。この分割統治体制はパルティアを弱体化させ、アルメニア王ティグラネス2世が西部メソポタミアでパルティアの領土を切り取ることを可能とした[64]。この時失われた領土はシナトルケス王(サナトルーク、在位:前78年頃-前71年頃)の治世までパルティアに戻らなかった[65]。ローマとポントス王国の王、ミトラダテス6世(在位:前119年-前93年)の間に第三次ミトラダテス戦争が勃発した後、ポントスと同盟を結んでいたアルメニア王ティグラネス2世は、ローマに対する同盟をパルティアに依頼したが、パルティア王シナトルケスは救援を拒否した[66]。前69年、ローマの将軍ルキウスがアルメニアの首都ティグラノケルタに進軍したため、ミトラダテス6世とティグラネス2世は再びパルティアのフラーテス3世(フラハート3世、在位:前71年-前58年)に援軍を依頼した[67]。フラーテス3世はどちらにも援軍を送ることはなく、ティグラノケルタ陥落の後に、ユーフラテス川がパルティアとローマの国境であることを再確認する協定を結んだ[67]。
この混乱の中でアルメニア王ティグラネス2世の息子、小ティグラネスは父親からの王位簒奪を企んで失敗した[68]。彼はパルティア王フラーテス3世の下へ逃亡し、フラーテス3世を説得してアルメニアの新たな首都、アルタクシャタに進軍することを決意させた[68]。この進軍とその後の包囲は失敗し、小ティグラネスは今度はローマの将軍ポンペイウスの下へと逃亡した[68]。彼はポンペイウスにアルメニアの道案内をすると約束した。しかし、ティグラネス2世がローマの属王となることを受け入れると、小ティグラネスは人質としてローマに送られた[69]。フラーテス3世はポンペイウスに小ティグラネスを自身の下へ送還するよう要求したが、ポンペイウスは拒否した[68]。このことから、フラーテス3世はゴルデュエネ(トルコ南東部)への侵攻を開始した。ローマの執政官(コンスル)ルキウス・アフラニウスは軍隊と外交を用いてパルティア人を排除した[注釈 9]。
クラッススとアントニウスとの戦い
フラーテス3世は息子のオロデス2世(ウロード2世、在位:前57年頃-前37年頃)とミトラダテス3世(ミフルダート3世、在位:前57年頃-前55年)によって暗殺された[70]。その後直ちに二人の兄弟は争いを始め、敗れたミトラダテス3世はメディアからローマ領シリアへと逃げ込んだ[68]。彼はローマのシリア属州総督(プロコンスル)アウルス・ガビニウスの支援を得たが、プトレマイオス朝(エジプト)の王プトレマイオス12世アウレテス(在位:前80年-前58年、前55年-前51年)が多額の謝礼金を積んで反乱の鎮圧支援をガビニウスに依頼すると、ガビニウスはエジプトへ転身した[68][70][71]。ミトラダテス3世はローマがあてにならないことを悟ると、自力での再起を目論んで故国へと戻った[68][70]。当初はバビロニアの征服に成功し、前55年までセレウキアでコインを発行している。この年、オロデス2世の将軍がセレウキアを再占領し、ミトラダテス3世は処刑された。この将軍の名前はスレナス(スーレーン氏族の者の意)という彼の出身氏族名でのみ知られている[72]。
当時ローマのシリアの属州総督(プロコンスル)で、三頭政治を敷くマルクス・リキニウス・クラッススは、前53年に遅ればせながらミトラダテス3世の支援のためパルティアへの侵攻を開始した[73][74]。彼がカルラエ(現在のトルコ南東部、ハッラーン)に進軍した時、オロデス2世はシリアへの侵攻をスレナスに任せ、アルメニアに侵攻し、ローマの同盟者であったアルメニア王アルタヴァスデス2世(在位:前53年-前34年)からの支援を断ち切るべくアルメニアへ進軍した[75]。そしてアルタヴァスデス2世に、パルティアの王太子パコルス1世(前38年死去)とアルタヴァスデス2世の姉妹との婚姻同盟を結ぶように説得した[76]。スレナスの軍勢はカルラエで4倍もの数を誇ったクラッススのローマ軍を撃破してパルティアの威信を高めた(カルラエの戦い)。クラッススは講和の席で部下によって殺害された[77][75][78]。
カルラエにおけるクラッススの敗北は、ローマ史上最も大きな軍事上の敗北の一つである[79]。パルティアの勝利は、ローマと同等の勢力ではないにせよ、その威信を強固なものとした[80]。従卒や捕虜、貴重なローマの戦利品を携えて、スレナスはセレウキアまで700キロメートルの道のりを凱旋し、勝利を祝った。だが、王位に対するスレナスの野心を恐れたオロデス2世は、この後間もなくスレナスを処刑した[79]。
クラッススに対する勝利で勢いづいたパルティアは、西アジアにおけるローマ領の奪取を試みた[注釈 10]。王太子パコルス1世と彼の将軍オサケスはシリアを襲撃し、前51年にはアンティオキアまで達した。しかし、彼らはガイウス・カッシウス・ロンギヌスに撃退され、その待ち伏せによりオサケスが殺害された[81][82]。前49年以降、ポンペイウスがユリウス・カエサルと戦ったローマの内戦では、パルティアはポンペイウス側に味方し、前44年にカエサルが暗殺された後のフィリッピの戦い(前42年)の際にはブルトゥスとカッシウスたちは、ポンペイウスとオクタウィアヌスに対抗するための援軍をパルティアに求めた[83]。ブルトゥスらの敗死によってこの援軍は実現しなかったが、この時使者として派遣されたクィントゥス・ラビエヌスは、前40年にパルティア軍の司令官パコルス1世に随伴してシリアに侵攻した[83]。三頭政治の一角、マルクス・アントニウスはイタリアへ進発するために、パルティア軍からのローマ領防衛を指揮することができなかった[83]。シリアがパコルス1世の軍勢に占領された後、ラビエヌスはパルティア軍の主力の一部を率いてアナトリアに侵攻し、パコルス1世とその将軍バルザファルネスがローマ領レヴァントへ侵攻した[84]。ラビエヌスはアナトリアのほぼ全ての都市を占領し、パコルス1世は地中海海岸に沿って、南はプトレマイス(現:イスラエル領アッコ)に至る全ての都市を、テュロス市を例外にして制圧した[85][83]。ユダエア(ユダヤ)では、親パルティア派のアンティゴノス2世マッタティアス(在位:前40年-前37年)率いるユダヤ人が、パルティア軍と共に、ローマ派の大祭司ヨハネ・ヒュルカノス2世、ファサエル、そしてヘロデらのユダヤ人を打ち破った[85]。アンティゴノス2世マッタティアスはユダエアの王となり、ヘロデはマサダの砦へと逃亡した[85]。
このような成功にも関わらず、パルティアは間もなくローマの反撃によってレヴァント地方から追い出された。マルクス・アントニウスの部下プブリウス・ウェンティディウス・バッススは、前39年にキリキア門の戦い(現:トルコ領メルシン県)でラビエヌスを破ってこれを処刑した[86][87]。その後すぐに、ファルナパテス率いるシリアのパルティア軍もアマヌス街道の戦いでウェンティディウスによって打ち破られた[86]。この結果、パコルス1世は一時的にシリアから撤退した[86][87]。彼は前38年の春に再びシリアに入り、アンティオキアの北東にあるギンダロス山の戦いでウェンティディウスに相対した。パコルス1世はこの戦いの最中戦死し、パルティア軍はユーフラテス川を渡って後退した[86][87]。彼の死は老齢のオロデス2世にとり重大な痛手であったであろう[87]。彼はパコルス1世に代わる新たな後継者としてフラーテス4世(フラハート4世、在位:前38年-前2年頃)を選んだ[87]。
しかしフラーテス4世は間もなく父親を殺害し、即位直後には兄弟たちを殺害すると共に、数多くのパルティア貴族を追放した[88][89]。彼らのうちの一人、モナエセスはローマのアントニウスの下へ逃げ、彼にパルティアへ侵攻するように説得した[89]。状況有利と見たアントニウスはパルティアへの侵攻を決意した[89]。アントニウスはユダヤのパルティア同盟者アンティゴノス2世を前37年に打倒し、ヘロデを属王としてユダヤの王に据えた[86]。翌年、アントニウスはアルメニアのエルズルム市に進軍し、アルメニア王アルタヴァスデス2世にローマとの同盟を強要した[88]。アントニウスはパルティアと同盟を結んだメディア・アトロパテネ(現:イラン、アーザルバーイジャーン)の王、アルタヴァスデス1世を攻撃した[88]。目的は現在では位置不明となっているその首都、プラースパを占領することであった。しかし、フラーテス4世はアントニウス軍の後方を襲って孤立化させ、プラースパ包囲に用いられていた攻城兵器である巨大な破城槌を破壊した[90][88]。アルメニア王アルタヴァスデス2世は戦闘の前後にアントニウスの軍を見限って逃亡していた[88][90][91]。パルティアはアントニウス軍をアルメニアへの撤退に追い込むことに成功し、退却路で更なる襲撃を続けた[88][90]。大きな損害を受けたローマ軍は最終的にシリアへと帰還した[92]。この後、アントニウスはローマ軍敗北の原因を作ったアルタヴァスデス2世を繰り返し罠に誘いこんだ。アルタヴァスデス2世は前34年に捕縛され、ローマに送られた後処刑された[88][93][94]。アントニウスはアルメニアを平定しフラーテス4世とメディア・アトロパテネ王アルタヴァスデス1世の関係が悪化すると、アルタヴァスデス1世との同盟を試みた。しかしアントニウスはオクタウィアヌスとの内戦に備えなければならず、この企ては前33年にアントニウスと彼の軍勢がアルメニアから撤退した時に放棄された。前31年にアントニウスがオクタウィアヌスに敗れ、エジプトで自殺する前後、パルティアと結んだアルタクシアス2世が再びアルメニア王位を得た[88][93]。
アルメニアを巡るローマとの対立
前31年のアクティウムの海戦でアントニウスを破ったのに続き、オクタウィアヌスは彼の政治的権威を統合し、前27年には元老院によってアウグストゥス(尊厳者)と名付けられ、ローマの初代皇帝となった[95]。同じ頃、パルティアではティリダテス2世(ティルダート2世)が反乱を起こし短期間支配権を得たが、フラーテス4世はスキタイ系遊牧民の支援を得て迅速に支配権を回復した[88][96][97]。ティリダテス2世はフラーテス4世の息子の一人を連れ去ってローマに逃亡した[88][96]。前20年に交渉の場が持たれ、フラーテス4世は連れ去られた息子の解放のために尽力した。解放の見返りとして、ローマは前53年にカルラエで失われたレギオン(ローマ軍団)の軍旗と、生存していた当時の捕虜の返還を受けた[96][98]。フラーテス4世はこの交換条件は王子を奪還するためには小さな代償であると考えた[99]。アウグストゥスは軍旗の返還をパルティアに対する政治的勝利として歓迎した。この政治的勝利はプロパガンダとして記念コインが発行され、軍旗を収める新たな神殿も建設された。同様にプリマポルタのアウグストゥス像の胸当てにもその場面が再現された[100]。
アウグストゥスはこの王子とともに、フラーテス4世にイタリア人の女奴隷を贈った[101][102]。彼女は後にパルティアの王妃ムサとなる[101]。彼女の子供フラータケスが無事に王位を継承することを確実にするために、ムサはフラーテス4世に対し、他の息子たちを人質としてアウグストゥスに送るように説得した[102]。アウグストゥスはこの人質もプロパガンダとして活用し、レス・ゲスタエ・ディヴィ・アウグスティに偉大な業績として列挙している[103]。フラータケスがフラーテス5世(フラハート5世、在位:前2年頃-後4年頃)として王位に就いた時、ムサはこの自分自身の息子と結婚し、彼とともに統治した。パルティアの貴族たちはこの近親相姦関係を拒否し、二人は追放されるかまたは殺害された。[101][104]。フラーテス5世の後に王座に据えられたオロデス3世(ウロード3世)は僅か2年で真偽の疑わしい残虐行為を理由に排除された[101][104]。続いて、ローマに人質として送られていたフラーテス4世の息子を送り返すよう要請が行われ、帰国したヴォノネス1世(在位:6年-12年)が王となった[101][104]。だが、彼はローマ滞在中にローマの行動様式・習慣を身に着けており、そのローマ志向に怒るパルティアの貴族たちは、他の王位継承候補者であるアルタバノス2世(アルタバーン2世、在位:10年頃-38年頃)を支持し、彼が最終的にヴォノネス1世を破って国外へと追い出した[101][104]。ヴォノネス1世はアルメニアに逃走し、当時空位だったアルメニアの王位を手に入れたが、アルタバノス2世の圧力で15年か16年にはその地位を追われ、ローマへと逃走した[101][104]。
アルタバノス2世の治世中、ユダヤ人平民の兄弟、アニライとアシナイ(アニラエウスとアシナエウス)がネハルダ(現:イラク、ファルージャ近郊)からやってきて[105]、パルティアのバビロニア総督に対する反乱を引き起こした[106]。総督が打ち破られた後、二人の兄弟は他の場所に反乱が飛び火するのを恐れたアルタバノス2世によって正式にバビロニアを統治する権利を付与された[106][107]。アニライのパルティア人妻は、異教徒と結婚したことでアシナイがアニライを攻撃するだろうという恐れから、アシナイを毒殺した。この後、アニライはアルタバノス2世の義理の息子との武力衝突に巻き込まれ、最終的に彼によってアニライは排除された[108]。ユダヤ人政権が瓦解すると、バビロニア人は現地のユダヤ人コミュニティを嫌うようになり、セレウキア市へ強制的に移住させた。西暦35年から36年にかけてセレウキア市がパルティアに対して反乱を起こした時、このユダヤ人たちは今度は現地のギリシア人とアラム人によって再び追放された。追放されたユダヤ人はクテシフォン、ネハルダ、そしてニシビスへと逃れた[109]。
直接の戦闘こそ避けられたが、パルティア王アルタバノス2世とローマ皇帝ティベリウス(在位:14年-37年)は、互いに自分の意のままになる人物をアルメニア王に擁立しようと、周辺諸国を巻き込みつつアルメニア情勢への介入を繰り返した[106][111]。更にローマは自らの同盟者としてパルティアを統治させるため、人質としていたパルティアの王子、ティリダテス3世(ティルダート3世)を開放してバビロニアに送り込んだ[106][111]。アルタバノス2世は一時ヒュルカニアまで撤退を余儀なくされたが、間もなくその地から動員した軍隊を用いてティリダテス3世を王座から排除した[106][111][112]。
38年にアルタバノス2世が死去すると、ゴタルゼス2世(ゴータルズ2世)が兄弟のアルタバノスを殺害し権力を握った[113]。もう一人の兄弟、ヴァルダネス1世は一時逃亡したが、ゴタルゼス2世と対立する貴族たちによって呼び戻され、1年後にはヴァルダネス1世が王位を奪い取った[113]。その後も両者の戦いは、西暦48年頃にヴァルダネス1世が暗殺されるまで続いた[113]。西暦49年、パルティアの貴族たちは権力を握ったゴタルゼス2世に対抗するため、ローマ皇帝クラウディウス(在位:41年-54年)に人質となっていた王子メヘルダテスを解放することを懇願した。しかしメヘルダテスを擁立する試みは、エデッサ総督であるアディアベネのモノバゾスの子イザテスたちが裏切った事で失敗に終わった[113]。メヘルダテスは捕らわれてゴタルゼス2世の下へ送られ、生きていることは許されたが耳を切断された。この処置は、彼が王座を継ぐ資格を喪失させるものであった(パルティア王位に就くためには五体満足である必要があった[113][114]。)。
ゴタルゼス2世は51年頃に死去し、ヴォノネス2世の数カ月の治世の後、ヴォロガセス1世(ワルガシュ1世、在位:51年頃-77年頃)が即位した[113]。ヴォロガセス1世はアルメニアの混乱[注釈 11]に乗じて、兄弟のティリダテス(ティルダート)をその王位につけることを計画し、実際にアルメニア王ティリダテス1世として即位させた[113][115]。これによってアルサケス朝のアルメニア王家が誕生し、パルティアはアルメニアを(短期間の中断を挟みつつも)確固とした支配の下に置いた[116]。アルメニアのアルサケス王家はパルティアの滅亡後も存続した[117]。そして、アルサケス王家はアルメニア以外の周辺国にも確立された。グルジアでもアルサケス朝のイベリア王国が成立し、コーカサスのアルバニアでも、アルサケス朝のアルバニア王家が継続した[118]。
アルメニアの事件がローマに伝わると、ローマ人はただちに介入の準備を始めた[119][115]。グナエウス・ドミティウス・コルブロが指揮官に任命され、シリアに軍団を集結させた[119][115]。一方、ヴォロガセス1世は55年に息子のヴァルダネス1世の反乱に直面し、ヴォロガセス1世は軍勢をアルメニアから撤退させた[119][115]。彼はローマに人質を送って妥協姿勢を示したが、反乱の鎮圧前後から、ローマに対して強硬姿勢を取り始め、アルメニアが完全にパルティアの物であることを主張した[119][115]。このため、ローマ軍司令官コルブロは本格的に戦争の準備を始め、58年にはアルメニアへの侵攻を開始した[119][115]この戦争でパルティア軍と、アルサケス朝のアルメニア軍は敗退し、ティグラネス5世がローマによってアルメニア王に擁立された[119][120]。しかし、ヴォロガセス1世はパルティア貴族たちの前で、改めて弟のティグラネス1世がアルメニアの正統な王であることを宣言し、反撃に転じた[119][120]。パルティアはコルブロの後任者ルキウス・カエセンニウス・パエトゥスに大勝し、アルメニアを回復することができた[119][120][121](ローマ・パルティア戦争 (58-63年))。この結果結ばれた63年の和平条約で、パルティアとローマの間に妥協点が見出された。アルメニア王位はアルサケス朝のティリダテス1世のものとなるが、その代わり彼はネアポリス(ナポリ)市とローマ市の両方で、ローマ皇帝ネロ(在位:54年-68年)によって正式なアルメニア王として戴冠され、頭上に王環(ディアディム)を授けられることが合意された[122][120][123]。アルメニアで妥協が成立した後、パルティアとローマの和平は長く続いた[122][120]。このためローマによるパルティアについての記録は乏しくなり、かえってこの時期のパルティア史の詳細は不明瞭となる[122][120]。ヴォロガセス1世の治世がいつごろまで続いたのかも明確ではないが、79年か80年頃までであろうとされる[122]。
トラヤヌスの侵入
ヴォロガセス1世の治世末期、少なくとも78年4月からセレウキアでパコルス2世(在位:78年頃~115年頃)が王としてコインを発行しているのが確認されている[124]。彼とヴォロガセス1世の関係は、確執があったであろうこと以外ほとんど何もわからない[124]。80年から81年にかけては別の王位主張者、アルタバノス3世(アルタバーン3世、在位:80年頃-81年頃)がやはりセレウキアでコインを発行している[122][注釈 12]。パコルス2世は82年か83年までには対立する王たちを駆逐していたが、長期に渡る統治にもかかわらずセレウキア、クテシフォンでの彼のコイン発行には空白期間が数多く見られ、支配は安定しなかったと見られる[124]。105年か106年にはパコルス2世と対立する王としてヴォロガセス3世(ワルガシュ3世、在位:105年頃-147年)が登場し、109年か110年にはパコルス2世の兄弟か義兄弟のオスロエス1世も王としてコインを発行し始めた[124]。年代を記録したパコルス2世のコインは97年を最後に、一度の例外を除き途絶えているが、101年に後漢に使者を派遣した安息(パルティア)王満屈復はパコルス2世であると推定され、またローマで皇帝トラヤヌス(在位:98年-117年)に反抗したダキア人デケバルスがパコルス2世へ使者を送っていることなどから、対抗者が立った後もしばらくの間は王として地位を維持していたと見られる[124]。この間のパルティアの事情はほとんど詳らかでない。
110年代初頭、パルティア王オスロエス1世がアルメニアの王位継承に介入し、ローマと相談することなくアルメニア王ティリダテス1世(ティルダート1世)を廃立し、パコルス2世の息子アクシダレスを擁立した時、ローマ皇帝トラヤヌスは軍事介入を決定し、再びローマとの戦いが始まった[122][126][127][注釈 13]。113年、オスロエス1世はこのローマ軍の脅威を受けてアクシダレスを廃位し、代わってやはりパコルス2世の息子で、アクシダレスの兄弟であるパルタマシリスを改めてアルメニア王とし、トラヤヌスが戴冠するという妥協案を提示した[124][126]。トラヤヌスはこの提案を拒絶し、前114年春にはシリアのアンティオキアに移動し、5月にはアルメニアとの国境の都市サタラに着陣して、ドナウ方面からの分遣隊を含む8個ローマ軍団からなる空前の規模のローマ軍を集結させた[124][128]。トラヤヌスがアルメニアに侵入を開始するとパルタマシリスは戦わずに降伏したが処刑され、アルメニアがローマの属州であることが宣言された[129][128]。ローマ軍はルシウス・クイエトゥスの指揮でアディアベネの領域にあったニシビスも占領した[129]。これは北メソポタミアの平原を横切る全ての主要街道を確保するために不可欠であった[130]。
翌年、トラヤヌスはメソポタミアに侵攻したが、アディアベネのメバルサペスによる微弱な抵抗しか受けなかった[131]。メバルサペスが打ち破られた後、オスロエネのアブガルス7世はローマに鞍替えすることを決定し、トラヤヌスによって地位を安堵された[131]。トラヤヌスは115年から116年にかけての冬をアンティオキアで過ごし、116年春に遠征を再開した。ユーフラテス川を下って進軍し、アディアベネの主要都市を占領した後、ドゥラ・エウロポス、そして首都クテシフォン[132]とセレウキアを占領し、更にカラケネを服属させた[133][134]。こうしてティグリス川とユーフラテス川の河口部までがローマの占領下に入り、オスロエス1世は逃走した[134]。
ここまでの過程で、パルティアによる組織的な抵抗はほとんどなされなかった。これは同時期にパルティアが分裂と内戦に直面していたためであると考えられる[129][135]。メソポタミア侵攻に対し僅かでもローマ軍に抵抗したのはオスロエス1世であったが、セレウキアでのコインの発行状況から、ヴォロガセス3世とオスロエス1世との激しい争いが継続していたことは明らかであり、パコルス2世もまだ生存して権力を主張していた可能性もある[129]。
ローマ軍に奪われた領土を奪回するためオスロエス1世の甥のシナトルケス2世[注釈 14]が各地で反ローマ反乱を扇動し、軍を東パルティアに集めた[136]。しかし、シナトルケス2世への援軍を率いて合流したオスロエス1世の息子パルタマスパテスは、シナトルケス2世と対立し、彼を裏切ってトラヤヌスと通じた[133]。結果としてシナトルケス2世は死亡し、パルタマスパテスはトラヤヌスによって116年にクテシフォンでパルティア王に戴冠された[133][137]。
トラヤヌスが北へ戻ると、バビロニアの住民はローマ軍の守備隊に対し反乱を起こした[138]。トラヤヌスは占領地の主要部分を属王に与えると、117年にメソポタミアから撤退し、交通上の要路であるハトラの再占領に着手した[136][139]。彼の撤退は(彼の意図としては)一時的なものであった。なぜならば彼は118年にパルティアへの攻撃を再開し「パルティア人を真に服属させる」つもりであったためである[140]。だが、トラヤヌスは健康を損ない、117年8月に死亡した[136][141]。
遠征の最中、トラヤヌスはパルティクス(Parthicus)の称号を元老院から付与され、コインでパルティアの征服を宣言している[136][142]。4世紀の歴史家、エウトロピウスとフェスティスはトラヤヌスはメソポタミア下流にローマの属州を設置しようと試みたのだと主張している[143]。
トラヤヌス以後のローマとの争い
トラヤヌスの後継者ハドリアヌス(在位:117年-138年)はローマとパルティアの国境がユーフラテス川であることを再度主張し、ローマの軍事資源が限られていることからメソポタミアに侵攻しないという選択をした[144]。以降、ローマとの衝突を除き、パルティア史に関する具体的な情報はほとんど残されていない。
パルティアではトラヤヌスの退却後パルタマスパテスがたちまち王位を追われた[145][146]。彼はハドリアヌスの下へ逃げ込み、ローマの手によってオスロエネの王とされた[145][146]。その後のパルティアではオスロエス1世とヴォロガセス3世の権力闘争が続いていたとみられる[145][146]。詳細は不明だが、コインの発行状況から見て、次第にヴォロガセス3世が優勢となったと見られ、オスロエス1世のコインは128年または129年のものを最後に発行されなくなった[145][146]。また、同じくコインの発行状況から判断すれば、オスロエス1世の死からヴォロガセス3世の治世が終わるまでの間(128/129年~147年頃)、イラン高原ではヴォロガセス3世とは別に、ミトラダテス4世が王として君臨していた[145]。しかし彼の統治についてはコイン以外何一つ情報が残されていない[145]。
ヴォロガセス3世の死後、ヴォロガセス4世(在位:147年頃-191年頃)が登場した。ヴォロガセス4世は争いなくその王位を継承したと見られる[145][146]。彼は長期に渡って王位を維持することに成功し、平和と安定の時代を用意した[147]。だが、ヴォロガセス4世がアルメニア王をローマに親和的なソハエムスから新たにパルティアのアルサケス家から選ばれたパコルスに交代させ、更にローマの勢力圏内にあるエデッサを再奪取したことで、161年から166年まで続くローマ・パルティア戦争が始まった[145][148]。ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニウス(在位:161年-180年)は共同皇帝のルキウス・ウェルス(在位:161年-169年)にシリアを守備させ、163年にマルクス・スタティウス・プリスクスをアルメニアに侵攻させた。続いて164年にはガイウス・アウィディウス・カッシウスがメソポタミアに侵攻した[145][148]。
ローマ人は165年にはセレウキアとクテシフォンを占領して焼き払った[145][148]。だが、ローマ兵たちが命に関わる疫病(恐らくは天然痘)に罹患したため、撤退を余儀なくされた。この疫病はすぐにローマ世界に破壊的な影響を及ぼした[145][148]。ローマ軍は撤退したが、この時以降、ドゥラ・エウロポスの町はローマの支配下に入った[149]。166年にはカッシウスとマルティウス・ウェルスの指揮でメディア地方への侵攻が行われ、ルキウスはこれらの業績からパルティクス・マクシムス(最大のパルティア征服者、Parthicus Maximus)、及びメディクス(メディア征服者、Medicus)の称号を得た[145][148]。175年にローマでカッシウスが皇帝を称し、マルクス・アウレリウスとの間で対立が生じると、パルティア王ヴォロガセス4世は内戦の気配を感じ取りローマに対し戦争を再開すると脅したが、カッシウスの反乱が短期間で終息したために結局戦端は開かれなかった[145][150]。
191年9月ヴォロガセス5世(ワルガシュ5世、在位:191年-207/208年)が王となった[145][注釈 15]。間もなくローマでセプティミウス・セウェルス(在位:193年-211年)、ディディウス・ユリアヌス(在位:193年)、ペスケンニウス・ニゲルらの間で内戦が勃発すると、ヴォロガセス5世はシリア総督だったニゲルを支援し、ローマの東方領土を切り取りにかかった[145][151]。しかし、ニゲルの敗北とその後のローマの反撃により、アディアベネが占領された[145][151]。セウェルスがローマ帝国内での更なる戦いのために196年に西方に去ると、ヴォロガセス5世は再び攻勢に転じ、メソポタミアとアルメニアを奪回した[145][151]。しかし、アディアベネでは現地の王ナルセスが親ローマ姿勢を見せた上、パルティアでも後方でペルシア人とメディア人が反乱を起こしたため、これらの鎮圧に全力を注がなければならなくなった[145][151]。ヴォロガセス5世は最終的にホラーサーン地方で反乱軍を撃破し、アディアベネ王ナルセスも処刑して支配を回復することに成功した[145][151]。
197年になると、国内を統合したセウェルス帝が再びパルティア領内に侵攻した[145][152]。トラヤヌスの時と同じく、ローマ軍はユーフラテス川を下り、セレウキアとクテシフォンを占領した[145][152]。彼もまたパルティクス・マクシムス(Parthicus Maximus)という称号を得たが、198年の後半に撤退し、かつてのトラヤヌスのようにハトラを包囲したが失敗した[145][152]。
セウェルス帝のローマ軍が撤退した後、パルティアについての情報は極端に少なくなる[145]。ヴォロガセス5世が207年か208年に死亡した後、ヴォロガセス6世(ワルガシュ6世)とアルタバノス4世(アルタバーン4世)の間で王位を巡る争いが行われていた[145][153]。アルタバノス4世は王国の東部の大部分を、ヴォロガセス6世はメソポタミアからバビロニアに至る地方を支配していた[145][153]。ローマ皇帝カラカラ(在位:211年-217年)はこれに乗じて213年頃、オスロエネの王を廃して支配下に置き、アルメニアにも侵攻した[145][153]。内戦を争う二人のパルティア王はこのローマの動きに対抗することはなかった。アルタバノス4世は216年までにメソポタミア地方にまで勢力を伸ばしたが、ヴォロガセス6世はなおセレウキアとクテシフォン周辺の支配を維持した[145][153]。
カラカラはアルタバノス6世の娘の一人と結婚を要求した。だが(この結婚が承認されなかったため)パルティアと開戦し、ティグリス川東のアルベラを占領してメソポタミア征服した[145][153]。217年にカラカラが暗殺されると、跡を継いだマクリヌス(在位:217年-218年)は、戦争の責任はカラカラにあるとして、アルタバノス4世に講和を申し入れたが、アルタバノス4世はこれを拒絶し、メソポタミアの返還と、破壊された都市と要塞、陵墓の再建を要求した[145][154]。最終的にアルタバノス4世はローマ軍を打ち破り、マクリヌスを敗走させることに成功した[145][154]。アルタバノス4世ははマクリヌスから2億セスティルティウス相当の贈り物を受け取って和平を結んだ[145][154]。
パルティアの滅亡
この勝利にもかかわらずパルティアはローマとの戦争によって弱体化し、サーサーン朝の勃興によって間もなく滅亡することになる。この頃、ペルシス(現在のイラン、ファールス州)がアルサケス朝の支配を脱し、エスタフルから周辺の領域を征服し始めた[145][155]。パルティアの滅亡についても、はっきりとしたことはほとんどわかっていない[145][155]。後世の伝説によれば、ペルシスの支配者であったパーパクがサーサーン朝の創設者であり、208年に即位したという[156]。パーパクはアルタバノス4世に対して、自分の王国と占領地の後継者として息子のシャープールを承認するように要求したがアルタバノス4世はこれを拒否した[156][145][155]。このためパーパクとアルタバノス4世との間で戦いが発生したが、ほどなくパーパクは死亡し、シャープールも事故死したため、パーパクの次子アルダシール1世が即位した[156][145][155]。
アルタバノス4世はこれを鎮圧しようと試みたが、220年にはメディア、アディアベネ、ケルク・スルク(キルクーク)でも反乱が発生し、反乱者たちはアルダシール1世と手を結んだ[155][156]。224年4月28日、アルタバノス4世はイスファハーンに近いホルミズダガーンの戦いでアルダシール1世と戦い、敗れて戦死した[155][156][157]。こうしてパルティアは崩壊し、アルダシール1世が新たな王朝、サーサーン朝を打ち立てた[155][156][157][158]。ただし、もう一人のパルティア王ヴォロガセス6世は228年までセレウキアでコインを発行し続けていたことが知られている[159]。
史料
パルティア史の復元のために現地と外国で書かれた文書記録や各種の考古学的遺物が現代の研究者によって利用されている[160]。パルティア宮廷では文書記録が保持されていたが、パルティア人は公式の歴史を残さなかった。パルティア人自身による史料は乏しく、利用できる記録はイラン史の他のどの時代よりも少ない[161][162]。パルティアについての同時代史料の大部分はギリシア語とラテン語の文献、およびパルティア語とアラム語の碑文である[163]。
パルティアの統治者たちの正確な年代を復元するための最も価値ある現地史料は、支配者たちによって発行された金属製のドラクマ貨である[164]。ジオ・ワイデングレンに依れば、このような貨幣は「非文書記録から文書記録へと変換」することができる代表的な遺物である[165]。年代学的に利用することができるほかのパルティアの記録にはバビロニアから発見された粘土板文書による天文記録と奥付がある[166]。パルティアの現地文書史料にはまた、石碑や羊皮紙、パピルス、そしてオストラコンの文書記録がある[161][165]。例えば、初期のパルティアの首都ミトラダトケルタ(現:トルクメニスタン、ニサ)では、ワインのような商品の販売と在庫についての情報を記した大型のオストラコンが見つかっている[167]。加えて、ドゥラ・エウロポスのような場所では羊皮紙文書が見つかっており、パルティアの課税や軍事的称号、地方組織のような政府運営についての貴重な情報がもたらされている[168]。
ギリシア語とラテン語の歴史書は、パルティアの歴史に触れる史料の大部分を占めている。これはパルティアに敵対的な、そして戦時にあっては敵としての観点から書かれているため、全面的に信頼できるとは見做されていない[161][169]。これらの外部の記録は一般に主要な軍事的、政治的事件に関心を示しており、パルティア史の社会的・文化的側面には触れないことが多い[170]。ローマ人は通常パルティア人を荒々しい戦士として描くが、文化的に洗練された人々としても描く。アピシウスの料理本にあるパルティア料理のレシピは、パルティアの食文化に賞賛を示している[注釈 16]。アルテミタのアポロドロスとアッリアノスはパルティアに焦点を合わせた歴史を書いたが、それらは失われ他の歴史書に引用された抜き出ししか現存していない[171]。アウグストゥスの時代に生きたカラクスのイシドロスは恐らくパルティア政府の調査に基づいたパルティア領についての情報を提供している[172]。パルティアの人々と事件についての記録は、より狭い範囲についてであるが、ユスティヌス、ストラボン、シケリアのディオドロス、プルタルコス、カッシウス・デュオ、アッピアノス、ヨセフス、大プリニウス、そしてヘロディアヌスの歴史書にも含まれている[161][173]。
パルティア史は中国の歴史的記録に残された出来事を通じても再構成することができる[174]。ギリシアやローマの歴史家とは対照的に、初期の中国人の歴史家はパルティアについて記述する際、より中立的な視点で言及しているが[175]、中国の史官たちの(原典が明らかでない)より古い記録から記述をコピーする習慣が、出来事の相対年代を確定することを難しくしている[176]。中国人はパルティアを安息(上古音: ansjək)と呼んでおり、恐らくパルティアの都市であるマルギアナのアンティオキアのギリシア語名(Αντιόχεια της Μαργιανήs)から来ている[177]。あるいはそれは王朝の創設者アルサケスの音訳であったかもしれない[178]。これらの記録には、『史記』『漢書』『後漢書』がある[38][4]。彼らは遊牧民の移動に発する古い時代のサカ人のパルティアへの侵入や、政治や地理についての貴重な情報を提供している[174]。例えば『史記』(巻123)は外交的交流、ミトラダテス2世が漢の宮廷へエキゾチックな贈り物を贈ったこと、パルティアで栽培されている農作物の種類、葡萄酒の生産、貿易商、そしてパルティア領土の位置と広さについて説明している[38][4]。 aa イスラーム時代のパルティアに関する歴史記録は非常に限定的かつ不正確である。前近代のペルシア語文化圏の歴史家は、旧約聖書的な歴史と古代ペルシア史を整合させる作業の中で、イスラーム以前の古代ペルシア史が、ピーシュダート朝、カヤーン朝(カイ朝)、アシュカーン朝[注釈 17]、サーサーン朝の四王朝からなるという歴史叙述を発達させてきた[180]。この伝統的なイスラーム期の古代ペルシアについての歴史認識では、セレウコス朝の記憶は失伝しており、カヤーン朝のダーラー(ダレイオス)から王位を奪ったアレクサンドロスの治世の後にアシュカーン朝が置かれる場合が多い(しばしばアレクサンドロス自体もカヤーン朝の王として扱われる)。アシュク、アルダワーンのようなパルティアの諸王に対応すると考えられる王名はアシュカーン朝の君主として登場し、現代の学者も概ねアシュカーン朝をアルサケス朝として扱うが[179]、アシュカーン朝の歴代王についての記録は、実際のアルサケス朝の歴代王と一致はしない[181][注釈 18]。現代の歴史家はこのイスラーム時代の伝承のうち、アシュカーン朝以前の時代は神話時代、英雄時代として史実としては扱わない[180]。このため、パルティアについてのイスラーム時代の歴史史料は、それ自体には歴史的価値があるにせよ、実際のパルティア史の復元には使用されることはほぼない。
政府と行政
王権と称号
パルニ氏族によるパルティア征服によって成立したアルサケス朝は、様々な種族を宇含む広大な領域を支配したため、その合法性・正当性を確立する必要があった[183]。初期においてモデルとなったのは、先にイラン地方を支配していたセレウコス朝であり、これと同じく武力によって現地を征服したという「征服の権利に基づいた合法性」によってその支配は正当化されたと推定する学者が複数いる[183]。彼らによれば、前1世紀以降、次第に貴族層の台頭によって王家の権力が弱まると、アケメネス朝の後継者を標榜するようになったという[183]。また、アケメネス朝と同様の王権神授原理がその初期から存在していたとする説も存在する[183]。
アルサケス朝の王権観に関する史料は、彼らが発行したコインと、ベヒストゥンにあるミトラダテス2世の碑文などがあるに過ぎない[183]。コインはアルサケス朝の王権を考察する上で最も有効な史料である。歴代の王は初代のアルサケス1世の名を受け継ぎ、ギリシア語でコインに称号を刻んだ[183]。アルサケス1世はスキタイ風の帽子をかぶり、ギリシア文字で「アルサケス、アウトクラトール(自主権者、独裁者)」と記したものと、ギリシア文字で「アルサケス」、アラム文字で「Krny[注釈 19]」と記したものの二種類のコインを発行している。
アルサケス1世の時代からミトラダテス1世の治世前半まで、パルティア王のコインはアルサケス1世と同じ形式で、銘文もただ「アルサケス」とのみ刻んだだけの物が発行されていた[184]。しかし、大きく領土が拡張したミトラダテス1世の治世後半に入ると、王の肖像は顎鬚を蓄えた物になり、ギリシア語で各種の称号が刻まれるようになる[185]。コインに刻まれた称号には、例えば「大王(ΒΑΣΙΛΕΟΣ ΜΕΓΑΛΟΥ)」、「神の化身(ΕΠΙΦΑΝΟΥΣ)」や、「救済者(ΣΩΤΗΡΟΣ)」などヘレニズムの諸王によって用いられたものが採用された[186][185][。これらはセレウコス朝時代からのものを引き継いだもので、古くはアッシリアやアケメネス朝の王権観に由来するものである[186]。また、領内の主要都市に多数居住していたギリシア人の支持を得るため、「ギリシア愛好者(ΦΙΛΕΛΛΗΝΟΣ)」という称号も用いられた[186]。「神の子(ΘΕΟΠΑΤΟΡΟΣ)」という称号も用いられた。これはフラーテス2世のコインに見られるもので、神とされるのは父親であるミトラダテス1世である[186]。生前に王たちが神格化されていたかどうかは不明であるが、これによって死後の神格化は証明される[186]。西方の支配権をセレウコス朝やローマと争ったミトラダテス2世の時代には「諸王の王(ΒΑΣΙΛΕΟΣ ΒΑΣΙΛΕΩΝ」などのイラン地方の伝統的な世界支配者の称号が登場し、末期まで受け継がれた[185]。ヴォロガセス1世(在位:51年頃-77年頃)の時代以降、コイン表面の肖像脇にパルティア文字による銘文が出現するようになり、これは明らかにヘレニズムからの脱却傾向を示している[185]。
アルサケス朝の王たちがアケメネス朝の王の後継を主張したということはローマ・ビザンツの記録によって伝わる。タキトゥスは『年代記において、アルタバノス2世はローマに対し、キュロス2世とアレクサンドロス大王がかつて支配下全ての領土を侵略するだろうと脅したと記す[187][106]。ビザンツ帝国(東ローマ帝国)時代の記録は、アルサケス朝の王たちはペルシアの王アルタクセルクセスの子孫であるという伝承を伝えている[188]。このアルタクセルクセスとは一般にアルタクセルクセス2世(在位:前404年-358年)であると考えられているが、これは彼の即位前の名前がアルサケスであったというクテシアスの報告から来ており、強固な根拠のあるものではない[188]。この伝承の存在が事実とすれば、これは古代イランの「輝かしい王たちの正統な後継者」となることで、往年のアケメネス朝の領土の支配を正当化するためのイデオロギーから発生したものであったであろう[189]。
実際にパルティア人がアケメネス朝をどのように認識していたかを示す記録は残存していない。ミトラダテス1世以来使用された「諸王の王」という称号はしばしばアケメネス朝の後継者としてのアルサケス朝の立場を示す物とされるが、この称号はセレウコス朝の諸王も使用していたため、必ずしもアケメネス朝との関係を証明するものではない[183]。
現代の学者の中には、アルサケス朝の王たちがアケメネス朝の後継を主張したという立場を取る者も多くいる。佐藤進は、J.ネスナー(J.Neusner)の研究を引き、アルサケス朝がアケメネス朝の遺産相続者として帝国政策を推進したとしている。そして、パルティアの拡大期にはこの後継意識は外国に対する征服戦争を正当化する権利要求の表現として現れたが、後期に入るとむしろ国内の有力貴族に対する王権の正統性を強化する対内的な性質が強くなったという[190]。V.G.ルコニン(V.G. Lukonin)によれば、アルサケス朝の王たちは彼ら自身の名前に典型的なゾロアスター教の名前を使用し、同じくまた『アヴェスター』の英雄的説話から名前を取った[191]。パルティア人はまた、アケメネス朝のイラン暦とされたバビロニアの暦を採用し、セレウコス朝のマケドニア暦から置き換えた[192]。
パルティアの王は複数の婚姻関係を結び、一般的には長男が後継者となった[193]。エジプトのプトレマイオス朝のように、アルサケス朝の王たちも姪や異母姉妹と考えられる女性と結婚したことが記録されている[193]。王妃ムサは自身の息子と結婚したが、これは極端な例であり唯一の事例であった。
中央権力と半自律的な王たち
かつてのアケメネス朝と比較して、パルティアの政府は非常に分権的であった[194]。アルサケス朝ではマルズバーン(marzbān)、クシャトラパ(xšatrap)、ディズパト(dizpat)となどの役職が地方統治に関与していた[195]。パルティアはまた、その内部に複数の半自律的な王国を内包していた。このような王国にはコーカサスのイベリア、アルメニア、アトロパテネ、ゴルディエネ、アディアベネ、エデッサ、ハトラ、メセネ(カラケネ)、エリュマイス、そしてペルシスがあった[196]。これらの国々の支配者たちは自国を統治し、中央の造幣局で生産された王朝の貨幣とは異なる独自の貨幣を鋳造した[197]。このことはかつてのアケメネス朝と違わない。アケメネス朝もまた複数の都市国家を抱えており、同様に遠隔地のサトラップ(総督)は半独立的であった。ただし、ブロシウスによれば彼らは「王の権威を認め、貢物と軍事力を提供した。」[198]。だが、パルティア時代のサトラップ(総督)たちはアケメネス朝時代のそれより小さな領土を統治し、恐らくは小さな権威と影響力しか持たなかった[199]。セレウコス朝時代には、半独立的な王朝による地方統治と、それがしばしば中央の支配に全く服さない状況が一般化した。この状態はパルティア後期の統治形態にも受け継がれた[200]。
ブロシウスは西暦21年にアルタバノス2世によってスサの総督(アルコン)と市民に当ててギリシア語で書かれた手紙からの引用を紹介している。これにはヘタイロイ(友人)である特定の政府役人、護衛、そして財務担当官への言及がある。この文書はまた「地方の裁判と高位役人の任命について、王は総督に代わって介入し、事件を審査し、適切と考えるならば裁定を変更することができる。」ことを証明している[201]。
貴族
ガイボフらによれば、最高権威者としての諸王の王、そして従属的諸王国の王家を構成するアルサケス氏族に続き、征服者パルニ氏族の子孫らによる「騎士」と称される社会的地位のグループがあった[202]。この「騎士」は二つのカテゴリーにわけられ、高位の者たちは、パルニ氏族の有力者の子孫であり、軍事的貴族を構成し、慣習法によって国家の政治と軍事の権力を掌握した[202]。この貴族たちの権力基盤は(経営の実態は全く不明ながら)大土地所有にあったと考えられる[202]。彼らの中で最も有力な者たちは、その領内でほとんど王と同様の権力を持っていたと見られている[202]。パルニ氏族の一般構成員からなるもう一方の下層の騎士層は、貴族の伝統的権力の支配下にあった[202]。この伝統的権力は非常に強力な物であったと見られ、ローマの著作家たちはこれを奴隷と考えたほどであった[202]。実際には彼らは奴隷ではなく征服者側に属し、被征服者である現地の住民とは明らかに区別されていたが、同時に貴族に従属する存在でもあった[202]。ガイボフはこれらのことから、パルティアの政治用語において貴族だけが「自由人(Lieri)」と呼ばれたとしている[202]。
同じくガイボフによれば、(特に王国の東部において)パルティア社会における基本的境界線は「騎士」と被征服者である一般住民の間に引かれ、一般住民の中核は歴史家のプルタルコスによってペラト(Pelat)と呼ばれるグループであった[202]。プルタルコスはペラトと奴隷を明確に区別している[202]。このグループは納税と耕作の義務を負っており、それを果たさない時には厳しく罰せられた[202]。
パルティアの貴族たちは、西暦1世紀にはアルサケス朝の王位継承と廃位に巨大な影響力を行使していたと想定されている[203]。何人もの貴族が宮廷で王の助言者、そして高位聖職者を勤めていた[204]。ストラボンは『地理誌』の中で、ギリシアの哲学者・歴史家であるポセイドニオスの主張を記録している。それによればパルティアの評議会は貴族門閥とマギという「王たちが任命した」二つのグループによって構成されていた[205]。サーサーン朝時代の初めに記録されたパルティアの大貴族(しばしば7氏族と括られる)のうち、スーレーン氏族とカーレーン氏族という二つの氏族だけがパルティア時代以前の記録でも言及されている[206]。プルタルコスはスーレーン氏族の構成員について、貴族の中の第一位であり、戴冠式でアルサケス朝の新たな王に王冠を授ける特権を保持していたと記録している[207]。
サーサーン朝の初代王アルダシール1世の治世中に記録されている貴族階級の世襲の称号の数々は、既にパルティア時代に使用されていた称号を継承している可能性が高い[208]。
軍事
パルティアは常備軍を保持していなかったが、地方的な危機に対して迅速に軍を招集することができた[209]。王には常時武装した貴族、農奴、傭兵からなる護衛が付き添っていたが、その規模は小さかった[210]。警備部隊もやはり、国境の要塞に常設維持されていた。パルティアの碑文は、これらの現地指揮官に与えられていた複数の称号を明らかにしている[210]。軍事力は外交的なジェスチャーとしても使われた。例えば中国の使者が紀元前2世紀にパルティアを訪れた時、20,000人の騎兵がこの使者の護衛として東の国境まで送られたと『史記』は伝えている。だが、この数は恐らく誇大なものであろう[211]。
パルティア軍の最も目立つ軍事力は騎手と馬が共に鎧を纏った重装騎兵、カタフラクトであった[212]。このカタフラクトは敵の前線に突撃するためのランスを装備していたが、弓矢は装備しておらず、その装備は弓騎兵に限られていた[213]。カタフラクトの武装にはコストがかかったため、彼らは貴族階層の中から募集され、その軍事的な奉仕の見返りとして彼らはアルサケス朝の王に地方における自治権を要求した[214]。軽騎兵は平民階級から徴募され、弓騎兵として運用された。彼らは戦闘時シンプルなチュニックとズボンをはいていた[212]。そして複合弓を用い、敵に向かって騎射すると共に後退することが可能であった。これはパルティアンショットとして知られ、極めて効果的な技術であった[215]。パルティアの重装騎兵と軽騎兵はカルラエの戦いで、数に勝るクラッスス旗下のローマ軍をパルティア軍が打ち破るための決定的な要素であった。平民と傭兵で構成された軽装歩兵部隊は、騎兵の突撃後にばらばらになった敵軍に対して使用された[216]。
パルティア軍の規模は不明であり、帝国全体の人口規模もわからない。しかしながら、考古学的発掘によってかつてのパルティアの中心的都市圏の居住地が大きな人口を維持していたであろうことと、それ故に大きな動員能力を持っていたであろうことを明らかにしている[217]。バビロニアのような人口集中地は、軍隊を駐留させる余裕があったことからローマ人にとって魅力的であったに違いない[217]。
貨幣
通常、銀で作成された[218]、テトラドラクマ貨を含むギリシアのドラクマ貨は、パルティア全体で標準的な通貨として使われた[219]。アルサケス朝は王家の造幣所をヘカトンピュロス市、セレウキア市、そしてエクバタナ市に保持していた[35]。そしてミトラダトケルタ(ニサ)でも造幣所が運営されたいたであろう[16]。この帝国の開始から終了まで、パルティアで生産されたドラクマ貨の重量は3.5グラムを下回ること、または4.2グラムを上回ることは滅多に無かった[220]。最初のパルティア製テトラドラクマ貨は原則として16g前後で、いくつかのバリエーションがあった。これはミトラダテス1世がメソポタミアを征服した後から登場するようになり、その地でのみ生産された[221]。
社会と文化
ヘレニズムとイラン的伝統の復権
セレウコス朝のギリシア文化はヘレニズム時代の間に広く中東の人々に受け入れられたが、パルティア時代には芸術や衣服についてイランの伝統的文化の復権が見られた[222]。彼らの王権のヘレニズム的、ペルシア文化的な根源の双方を意識して、アルサケス朝の支配者たちはペルシアの諸王の王の後継者という体裁をとると共に、フィロヘレネス(ギリシア愛好者)であることを主張していた[223]。この「philhellene」という言葉はパルティアのコインにアルタバノス2世の時代まで刻まれていた[224]。このフレーズが使用されなくなったことは、パルティアにおけるイラン文化の復権を意味する[225]。ヴォロガセス1世は造幣したコインにパルティアの文字と言語を使用した最初の王であり、これはほとんど判読不能なギリシア語と共に刻まれている[226]。しかし、ギリシア文字の銘はこの帝国の滅亡までパルティアのコインに残され続けた[227]。
ギリシア文化の影響はパルティアから姿を消すことはなかったし、アルサケス朝の王たちがギリシア演劇を楽しんでいたという証拠がある。クラッススの首級がオロデス2世に届けられた時、彼はアルメニア王アルタヴァスデス2世と共に劇作家エウリピデス(前480年-前406年)の『バッコスの信女』の上演を熱心に観賞していた。興行主は舞台用小道具のペンテウスの頭の代わりに、クラッススの実物の頭部を使用した[228]。
宗教
文化的、政治的に多様であったパルティアは、バラエティに富んだ宗教制度と信仰を持っていた。最も広く普及していたのはギリシアとイランの信仰であった[229]。少数のユダヤ教徒[230]と初期キリスト教徒を除き[231]、大部分のパルティア人の宗教は多神教であった[232]。ギリシアとイランの神々はしばしば1つの神格に習合された。例えばゼウスはしばしばアフラ・マズダーと同一視され、ハデスはアンラ・マンユ、アフロディーテとヘラはアナーヒター、アポロンはミトラ、ヘルメスはシャマシュと同一視された[233]。主要な神々や女神たちの他に、各地の民族や都市が独自の神々を持っていた[232]。パルティアの王たちは、自身を神とするセレウコス朝の王たちの習慣に倣い、自らが神であることを示すテオス(神、Theos)またはテオパトル(神の子、Theopator)という称号をコインに刻んだこともあった[234]。
パルティア時代のゾロアスター教に関する諸見解
イラン世界における重要な宗教として拝火教とも呼ばれるゾロアスター教があるが、アルサケス朝の宮廷とゾロアスター教の関係についての詳細は、やはり史料の不足により明確にはわからない。アルサケス朝の諸王が聖なる火を崇める習慣をもっていたことは、初代のアルサケス1世が即位したというアサークの町で、「王朝の火」が保たれていたというカラクスのイシドロスによる記録や、聖火の祭壇に聖木を捧げるパルティア君主の浮彫がベヒストゥンに残されていることからわかる[235][236]。しかし、このアルサケス朝の王たちによる聖火崇拝をゾロアスター教と判断するかどうかについては学者により見解がわかれる。日本の研究者山本由美子は、上記のような証拠から、「アルサケス朝の諸王がゾロアスター教徒であったことは明らかである。」とする[235]。また、イギリスの研究者メアリー・ボイスも同様の見解に立つが[234]、アルサケス朝の宗教は古代イランの多神教であり、ゾロアスター教の影響を受けていないという見解もある[186]。この他、多くの研究者が、この時代の宗教がゾロアスター教であることを前提としているが、カナダのイラン史研究者リチャード・フォルツは、「(多くの研究者が)実質的に古代イラン全体をゾロアスター教徒であると特徴づけているが、このおおざっぱな一般化にはごくわずかしか、あるいはまったく証拠はない。」としている[237]。フォルツは、ゾロアスター教が初めて体系化されたのはサーサーン朝時代であることを指摘し、それ以前のイラン系住民の宗教についてはわずかしかわかっていないと述べる[237]。そしてサーサーン朝の「ゾロアスター教的」伝統をパルティア時代やそれ以前の時代について投影することには慎重でなければならないという[237]。
一方で、後世のゾロアスター教の伝承には、アルサケス朝(アシュカーン朝)の王がゾロアスター教において重要な役割を果たしたとする伝承もある。ゾロアスター教の聖典『アヴェスター』の注釈である『バフマン・ヤシュトのザンド』では、アフラ・マズダー神がゾロアスターに夢で、金、銀、黄銅、銅、鈴、鋼、土の混ざった鉄の来るべき7つの時代についての啓示を与えたとされが[238]、これに関する一節で「銅の時代は、この世に存在した異教を一掃したアシュカーン朝(アルサケス朝)の王の治世。」としてパルティア時代を位置付けている。別の箇所では「アシュカーン朝のヴァラフシュ(ヴォロガセス)はアレクサンドロスによる破壊と危害や、ローマ人の略奪のために、完全な状態から散り散りになっていたアヴェスターとザンド(注釈)を書き留めさせた。神官が口頭で伝えて残っていたことも保存され、他の都市のために移しが造られた。」という[238]。聖典としての『アヴェスター』はサーサーン朝時代に入ってから編纂されたが、これらの伝説から比較文学・比較文化研究者の山中由里子は、パルティア時代に各地のゾロアスター教集団に口頭で伝わっていた『アヴェスター』の断片が記録された可能性はあるとしている[238]。
マニ教
マニ(216年-276年)は、パルティア時代に生を受け、サーサーン朝時代の初期にマニ教と呼ばれる新たな宗教を創始した。ビヴァールは彼の新しい宗教が「マンダ人、イランの創世論、同じくキリスト教のエコー等々の要素を含んでいた。それは後期アルサケス朝の宗教的な混合主義を端的に反映したものであると考えられる。サーサーン朝のゾロアスター教正統信仰はすぐ後にこれを一掃しようとした。」と述べている[239]。
仏教
1960年代以降トルクメニスタンで行われたソヴィエト連邦の考古学者による調査によって、中央アジアで多様な部派仏教が栄えていた痕跡が発見されている[240][241]。パルティア時代の仏教について特に重要な痕跡を残すのは、パルティア領の東端に位置するメルヴ(マルギアナのアンティオキア、木鹿)である[240]。この都市はアケメネス朝時代にはエルク・カラと呼ばれるオアシス都市であり、セレウコス朝時代にアンティオコス1世によってギリシア式の方形の都市として整備された[241]。その後ミトラダテス1世によって征服され、パルティアの支配下に入った[241]。
このメルヴは、現在知られている仏教伝播の西端の地である[242]。メルヴの遺跡であるギャウル・カラの南東端からは、世界で最も西に位置するストゥーパを伴う仏教寺院の遺構が残されている[242]。ここからはサーサーン朝時代の紀年を持つサンスクリット語の経典やコインが発見されている[243]。このことからこの寺院自体は4世紀から6世紀頃のものと推定されるが、パルティア時代に仏教の存在したことは、後漢の桓帝の時代である148年頃、安息(パルティア)の太子安世高が洛陽に赴き仏典を漢訳したという中国の記録によって明らかとなっている[240][242]。メルヴ周辺で発見されている仏教の痕跡は説一切有部の系統のものであり[244]、これを含む後期の部派仏教が最終的に中央アジア西部の仏教で主流の地位を占めたことが理解される[240]。ただし、中国へ行ったパルティア出身の仏僧の多くが、初期の大乗仏教の経典の漢訳に関与しているとされており、これが事実であるならば、中央アジアにおける大乗仏教の痕跡はまだ発掘されていないということになるであろう[240]。
葬儀
葬儀について、パルティアの王族は埋葬を行うというアケメネス朝時代以来の習慣を保持していたが、臣民は伝統的な風葬を行っていた[245]。ローマの歴史家、ユスティヌスは1世紀頃のパルティア人の葬儀の週間について「一般には葬送は鳥や犬が(遺体を)食いちぎることであった。最後に、彼らは剥き出しの骨を土で覆った。」と述べている[246][245]。西イランの山々では、岩をくりぬいた多数の墓室が発見されており、風葬の後残された骨を持ち込むべき場所であったと考えられる[245]。
美術
パルティアの美術は基本的にアケメネス朝以来の伝統に連なるイラン様式の物であったが、概ね前3世紀から前1世紀までのヘレニズム時代にはギリシア美術が愛好され、ギリシア様式とイラン様式を折衷したグレコ・イラン様式が生み出された[247]。パルティア時代の後期にあたる1世紀から3世紀にはギリシア美術の要素は後退し、イラン、オリエント的要素が強くなる[248]。ただし、このパルティア後期の美術は、パルティア人自身によるものではなく、彼らに支配されていた各地の被征服民、例えばエリュマイスやペルシス、ハトラやドゥラ・エウロポス、パルミュラの宮廷美術によって知られている[248]。従って現在知られている後期のパルティア美術とは、パルティア人の美術ではなく、「アルサケス朝パルティア時代のその影響下の西アジアの諸都市・諸王国の美術である」(芳賀満)[248]。
グレコ・イランの美術
パルティアにおける「ギリシア愛好」の美術を最も顕著に示しているのが、ミトラダテス1世が建設した首都、ミトラダトケルタ(現:トルクメニスタンのニサ)の遺跡である[242]。ニサで発見された兵士の頭像を含む多くの美術品は、初期のパルティア美術がギリシア美術から大きな影響を受けていたことを証明している[242]。これらの中にはイラン的要素が全く見られないものが数多くあることから、グレコ・バクトリアや地中海世界からの搬入品である可能性もある[242]。この中に含まれる有名なギリシア様式のリュトンは、グレコ・バクトリア[249]、またはティグリス河畔のセレウキアからの戦利品であると見られている[250]。これはアルサケス朝の宮廷美術を代表するものであるが、現代においてニサ以外のアルサケス朝の宮廷美術がどのようなものであったかを知る手立てはコインを除いてほとんど存在しない[249]。
ニサに代表されるパルティア地方における美術に対し、イラン高原ではやや異なる発展の状況が見られた[250]。イラン高原地域は比較的長期に渡りセレウコス朝の支配が行われ、ギリシア的な植民都市のネットワークもパルティア地方に比べ密であった[250]。アレクサンドロス期からセレウコス朝時代のギリシア的特徴を持つ彫刻の断片が複数発見されている[251]。セレウコス朝からアルサケス朝へと支配者が交代する頃、彫刻におけるギリシア的原理とイラン的原理の接近の兆候が見られた[251]。その代表作はベヒストゥンの崖壁に彫られた「休息するヘラクレス」の像であり、ギリシアの主題(ヘラクレス)とイランの表現方法(岩壁レリーフ)が統一されている[251]。
こうしたグレコ・イラン美術は、ギリシアの写実主義の影響下にあったが、仕上げや主題選択における技術的な退行が見られることから、しばしば「堕落したギリシア美術」と見做され、老衰期の単純な状態に後退した「哀れなほど低い」芸術水準を示すともされてきた[248][252]。一方で、ヘレニズムによってイランの芸術に接ぎ木されたあらゆる要素から解放されて「決定的な進歩」を成し遂げ、単なるギリシア美術の模倣ではなく、新たにイラン系の装飾効果を重視した美意識やアラブ系の美術的伝統などの復興を通じて新しい様式を確立したとする見解も伝統的に存在する[252][242]。この間、原始的な技術への回帰は否定し難く、制作技術はパルティア時代を通じて継続的に低下したが、外来の影響から解放され、伝統を復活させようとする意図は重要な意味を持った[252]。
パルティア時代の一般的な美術主題には、拝火壇の前で行われる宗教儀式、王の狩猟、アルサケス朝の王の叙任式、そして馬上試合がある[253][254]。これらのモチーフの使用は、地方支配者たちの描写にも広まった[255]。一般的な芸術表現の媒体は、石碑のレリーフ、フレスコ画、そして落書きであった[255]。幾何学的で定型化された植物文様はストッコとプラスター製の壁に用いられた。サーサーン朝時代に一般的となる二人の騎手がランスを構えて戦う美術主題は、パルティア時代のベヒストゥン山において初めて現れる[256]。
パルティア美術の独特な特徴は正面主義原則を厳密に守った人物描写である。パルティアの影響下にある地域では、人物を絵、彫刻、またはコインの陽刻に描写する際には、横顔ではなく見る者に正対するように描く表現方法が普及した[257][258]。人物描写の正面主義は、既にパルティア以前からある古い美術技法として見られた。古くは紀元前一千年紀初頭のスィアールク遺跡から発見された彩文土器にその類例が見られる[257]。こうした正面描写はアケメネス朝時代の公的な美術では歓迎されなかったが、グレコ・イランの彫刻では継続的に使用された[257]。ダニエル・シュルンベルガーはパルティア時代の正面描写の革新について以下のように説明している[259]。
現在、「パルティアの正面主義(Parthian frontality)」と我々が呼ぶものは、古代中東とギリシアの正面主義のいずれとも非常に異なるものであるが、疑う余地なく後者から発達したものである。オリエント美術とギリシア美術の双方において、正面向きの描写は例外的な表現方法であった。オリエント美術では厳密に、伝統的な信仰と神話上の少数の人物にのみ使用される手法であり、ギリシア美術では主題が正面性を要求する明確な理由がある場合にのみオプションとして用いるものであった。そして、全体としては滅多に使用されなかった。パルティア美術においてはこれとは逆に、正面向きが一般的な人物描写の方法となった。パルティアの正面主義は実際のところレリーフと絵画のみでみられる習慣であり、全ての人物の正面表現は、(現代のモダンアートのように)他の部分の描写を犠牲にしても明快さと明瞭さをもって用いられた。正面向き描写が体系的に用いられたことで、横向きの描写と、動作中を表現するような中間的姿勢の描写は事実上完全に放棄された。この美術の特異な状態は、西暦1世紀の間に確立されたように思われる[259]。
パルティア美術は、肖像における明確な正面描写の使用共々、サーサーン朝によってもたらされた深遠な文化的、政治的変化によって失われ放棄された[262]。だが、ドゥラ・エウロポスでは165年にローマによって占領された後でも、パルティア式の正面描写の肖像は盛んに用いられつづけた。これは3世紀初頭のドゥラ・エウロポスのシナゴーグの壁画、この都市のパルミュラの神々に捧げられた神殿、そして現地のミトラ教の神殿によって例示されている[263]。
建築
パルティア建築はアケメネス朝とギリシアの建築の要素を採用したが、この二つとは異なる物である。パルティア建築はこの二つの建築の要素を結び付けるとともに、構成のイラン世界の建築に大きな影響を残す独自の発展を遂げた[264]。ただし完全な形で残る作例は乏しく、重要な遺構はパルティアの中心部よりも周辺部であった地方に残されている[265]。
パルティア建築の初期の例はミトラダトケルタ(ニサ)の遺跡で見ることができる[266]。ニサの遺跡はグレコ・イランの美術節で述べた通り、パルティア人の「ギリシア愛好」の顕著な例であり[242]、その遺構からはギリシア的な柱頭や装飾が広範に使用されていたことがわかる[267]。一方で、建築の原理、平面プラン、構造物としての構造はギリシア建築とは異なっており、これらはイラン世界における典型的な拝火神殿と同系統の原理によっている[267]。ギリシアの列柱様式が取り入れられたが、それは(ギリシア建築のような)構造としての列柱ではなく、壁空間を装飾する手段として利用された[267]。柱式はギリシア建築とは別の建築的意味を与えられ、建物の壁面にあたかも絵画のように組み込まれた[250][268]。パルティア人は平面的な表現を好み、壁画が非常に流行するものになった[268]。パルティア時代の浮彫も平面的であり、これは壁画の手法の影響を受けたことを表している[268]。
パルティア建築の明確な特徴は、イーワーンと、片側が開き、アーチかヴォールト天井で支えられた観客席である[269]。ヴォールトの使用は、屋根を支えるためのギリシア式の列柱を置き換えたものである[270]。イーワーンはアケメネス朝時代から使用されていたが、規模は小さく、地下の構造として用いられていた。パルティア人はこれを初めてモニュメンタルなスケールで建造した[269]。最初期のパルティアのイーワーンはセレウキアで発見された1世紀初頭に建造されたものである[270]。イラクのハトラには2世紀頃に建造された大宮殿の遺構が残されており、左右にパレル・ヴォールトを伴った二つの巨大なイーワーンが開口している[271]。イーワーンはまた、ハトラの古代神殿において使用されており、アッシュール、フィールザーバードにも作例が残されている[268]。これはパルティア建築の一般的原理を導入したものの例と見做すことができるであろう[271][268][272]。ハトラ最大のパルティア式イーワーンは15メートルのスパンを持つ[273]。アッシュールの宮殿のイーワーンは方形の中庭に向けて4つのイーワーンが開口するという後世流行するプランの最古の例である[271]。パルティアが発達させたこのイーワーンは、サーサーン朝の宮殿遺構(ホスローのイーワーン)にその後継を見る事ができ、イスラーム時代以降には、現代に至るまでモスクや廟、キャラバンサライ建築の欠くべからざる要素としてペルシア建築の基本原理となった[271]。
パルティアの神殿建築はイラン高原では全く残されておらず、王国の西方では上述のハトラ、王国の東方にあたる地域ではインダス川東岸のタクシラで痕跡を確認できる[268]。これらの神殿は回廊と、それによって外部から分離された方形の中央広間によって構成されていた。これはアケメネス朝時代以来のペルシア建築の伝統に連なるものである[268]。この拝火神殿の宗教儀式は戸外で行われたと見られるが、聖なる火は常に屋上で焚かれていた[268]。
宮殿や神殿以外の一般的住居については、都市部でも農村部でも何もわかっていないに等しく、建築発展に関する知識は一部の貴人の住居跡から得られる情報に基づくもののみである[250]。
メソポタミアの建築
メソポタミアでは、古代以来のバビロニアの建築と、多数入植していたギリシア人たちの建築が継続していた。バビロニアの住居建築についての情報は少ないが、セレウキアやドゥラ・エウロポスではギリシア人たちの建築が1世紀前半まで、気候的条件によるわずかな変化を除いて継続していたことがわかる[274]。その後、現地のローカルな建築の原理が融合し、またイラン系の建築の若干の影響の下に徐々に新しい様式に変化した[274]。
宗教建築におていては、セレウコス朝時代まではギリシアとバビロニアの建築は互いに重大な影響を与えることなく存続していたことがわかっている[274]。ウルクで発見されたアヌとイシュタルの神殿は、典型的なバビロン様式の神殿であり、ドゥラ・エウロポスで前3世紀に建てられたアルテミスとアポロンの神殿は完全にギリシア的である[274]。パルティア人の到来と共に、バビロニアの神殿建築とギリシアの神殿建築は(前者の優越の下)融合を始め、新しいタイプの建築のバリエーションを生み出した[274]。
衣類
典型的なパルティアの乗馬用衣装はエリュマイスのシャミから発見された有名なパルティア貴族の銅像に例示されている。1.9メートルの高さで立つこの人物はV字型ジャケットを着用し、V字型チュニックをベルトで締め、ゆったりとフィットした多数の折り目がついたズボンをガーターで止め、切りそろえられセットされた髪の上に冠かバンドをつけている[275]。彼の衣装は前1世紀半ばまでのパルティアのコインの図像に一般的に見ることができる[225]。
イラク北部のハトラの発掘調査で発見されたパルティアの影響を受けた彫像からも服装の例を見ることができる。彫像は典型的なパルティアのシャツ(カミス、qamis)を特徴とし、細かな装飾品で飾り付けられたズボンをはいて立てられている[276]。ハトラの貴族階級のエリートは、短く切りそろえた髪型、頭飾り、パルティアの中央の宮廷に所属する貴族が身に着けていたベルトで締めるチュニックを採用した[272]。このズボンとシャツは、コインの裏面の図像で示されるようにアルサケス朝の王たちも同じように着用していた[277]。このパルティアのズボンとシャツはまた、パルミュラ、シリアで、芸術におけるパルティアの正面主義と共に採用された[278]。
パルティアの彫像は富裕な女性がドレスの上から長袖のローブを纏い、ネックレス、イヤリング、ブレスレット、宝石をあしらった頭飾りをつけていた様子を描写している[279]。多数の折り目がついたドレスは、ブローチで片側の肩で止められていた。頭飾りには後ろ側を覆うヴェールもあった[272]。
パルティアのコインにみられるように、パルティアの王たちが身に着けた頭飾りは時間と共に変化した。最初期のアルサケス朝のコインはバシリク(希:キルバシア、kyrbasia)として知られる、頬の折り返し付きの柔らかい帽子をかぶっていた[280]。これは多分、アケメネス朝時代のサトラップの頭飾りや、ベヒストゥンとペルセポリスのレリーフに描かれている尖がり帽子から派生したものである[281]。ミトラダテス1世の最初期のコインではこの柔らかい帽子をかぶっているが、彼の治世の後半のコインでは彼は初めてヘレニズム式のディアディムをかぶっている[282]。ミトラダテス2世はパルティア式のティアラを身に着けた最初の人物である。刺繍と真珠と宝石で飾られたこのティアラは、後期パルティア時代とサーサーン朝の君主たちが一般的に身に着けていた[283]。
言語
パルティア語と中世ペルシア語
パルティア地方を征服し、アルサケス朝を作り上げたパルニ氏族は、元々はほぼ確実に東イラン系の言語を話していた。これに対し当時のパルティア地方ではメディア語の流れをくむ西北イラン語を使用していた[284]。この西北イラン語がパルティア語と呼ばれるもので、アラム文字で筆記された[285]。パルニ氏族はこのパルティア語を王宮の公用語に採用した[286]。
イランではパルティア語とサーサーン朝時代の中世ペルシア語を総称してパフラヴィー語と呼び、特に区別する必要のある時はアルサケス・パフラヴィー語(パフラヴィーイェ・アシュカーニー pahlavīye aškānī)とサーサーン・パフラヴィー語(パフラヴィーイェ・サーサーニー pahlavīye sāsānī)と呼んでいた[285]。また、パルティア語をパフラヴァーニーク(pahlavānīk)、中世ペルシア語をパールスィーク(pālsīk)とも呼ぶ[285]。イラン革命後にはパフラヴィー朝を連想させる名前であることからもっぱら「中世ペルシア語」の名前が用いられ、場合によってはパルティア語も含めて中世ペルシア語として一括して呼ばれる場合もある[287]。
現存するパルティア語の史料は非常に限られている。重要なものとしてはサーサーン朝時代にナクシェ・ロスタムに作られた碑文群がある。これはアルサケス朝の滅亡後の文書であるが、パルティア語と中世ペルシア語の二言語、またはギリシア語を加えた三言語で記されている[285]。また、ミトラダトケルタの遺跡(トルクメニスタンのニサ)では多数のオストラコン(陶片)文書が発見され、パルティア語の貴重な情報が得られている[285]。そして南部クルディスタンやドゥラ・エウロポスでは羊皮紙文書が発見されている他、現在の中国領内にあるトゥルファンではソグド文字で記されたパルティア語のマニ教文書が見つかっている[285][288]。
パルティア語が西北イラン語であるのに対し、中世ペルシア語は古代ペルシア語の流れをくむ西南イラン語であり、系統を異にする[289]。しかし中世ペルシア語は発展の過程でパルティア語から多くの影響を受け、多数の語彙を受け入れたことが明らかである[289]。パルティア語はアルサケス朝の滅亡後も1世紀余りの間使用され続け、サーサーン朝の王ナルセ1世(在位:293年-302年)までの王は王碑文にパルティア語版を用意している[289]。中世ペルシア語の重要性が増すにつれ、4世紀頃にはパルティア語は使用されなくなり死語となった[289]。
パルティア語とアラム語
アラム語はパルティア語や中世ペルシア語の筆記に対して重大な影響を与えている。アラム語はアケメネス朝(前550年頃 - 前330年)時代以来、イラン世界全域で共通語として使用されていた[290]。パルティア時代においてもアラム語は共通語として広く普及しており、人々の生活に密着した分野において使用されていたことが現存する文書からわかる[290]。
パルティア語はアラム文字で筆記されたが、単純にアルファベットとしてアラム文字が導入されたのみではなく、アラム語そのままに綴ってパルティア語として「訓む」筆記法が用いられていた[290]。これはパルティア語の他、中世ペルシア語やソグド語でも見られる記法で、ウズワーリシュン(訓じられるべきもの、uzwārišn)と呼ばれた[290]。これは例えば、「月」という語を表す時、アラム語式にYRH(yarhā、アラム語では母音を筆記しない)と綴り、パルティア語でmāhと訓読するものである[290]。現存する「アラム語文書」には、文全体を逐語的にパルティア語で訓読すればそのまま「パルティア語文書」として訓めるものがあり、このために、一見してアラム語で読まれたのかパルティア語で訓まれたのかを判別することが困難である[290]。こうした文書では、パルティア語の末尾音を示す「送り仮名」の役割をする文字がある単語も見られ、これによってその文書がパルティア語で読まれたことが判別可能である場合もある[290]。イラン研究者の伊藤義教は、パルティア時代の文書では、「一見しただけでは、アラム語にパルティア語詞を借用混書しているかの印象を与えるほど、アラム語の文法やシンタックスが正しく保持されている。」と述べている[290]。
パルティア期にはテキスト全体がアラム語でもパルティア語でも読める程度にアラム語の正しい形を保持していたこうした筆記法は、サーサーン朝期に入ると次第に化石化し、特定のアラム語の単語を決まり事にしたがって訓読するという方式で習慣的に混書されるようになり、アラム語本来の文法的形態は考慮されなくなっていった[290]。
その他の言語
また、パルティアの支配下に入った地域では多数の言語が使用されており、ギリシア語、バビロニア語、ソグド語などがパルティア語と同じく使用されていた[291]。
ギリシア語はパルティア領内に居住するギリシア人によって使用されたのみならず、1世紀頃まで王が発行する貨幣に刻まれ、バクトリアとの交易で使用された[292]。この言語がイラン人の間にも広く普及していたことはクルディスタンで出土した羊皮紙文書の中にイラン人同士の訴訟事件の判決をギリシア語で記したものが存在することからも知られる[292]。
バビロニア語(アッカド語)は口語としては当時既に死語になりつつあったが[293]、バビロンで作成される天文日誌は伝統に則りバビロニア語で記録され続けた。この天文日誌はパルティア時代の貴重な同時代史料であり、前2世紀から前1世紀のパルティア史研究の基本史料である[294]。
筆記と文学
パルティア人たちは羊皮紙に文字を綴ったことは『史記』「大宛列伝」に記録されている[295]。『史記』は、パルティア人が記録を取る時、「切った革に水平に書く」こと、即ち羊皮紙を使用していることを述べており、この記録は上述した羊皮紙文書の発見によって裏付けられている[295]。パルティアにおける羊皮紙の使用については、『アスールの木(Draxt Asūrīg)』と呼ばれるパルティア語の文学作品からも窺い知ることができる[295]。この作品の中では山羊とアスールの木(棕梠の木)が、どちらの方が人に役立っているかを言い争うが、その中で山羊は自分の皮が紙として使用されることを自慢している[295]。パルティア語で「文書」を意味するdaftarという語は、ギリシア語で「皮」を意味するdiphtherāの借用から来ている[295]。
パルティア時代の間、宮廷の吟遊詩人(ゴーサーン、gōsān)は音楽を伴った口承文学を詠んでいたことが知られている。しかしながら、これらの詩の形で作られた物語は、後のサーサーン朝時代まで書き留められることはなかった[296]。事実として、次の時代に書き留められる以前のオリジナルの形で残存するパルティア語の文学は知られていない[297]。ロマンティックな物語『ヴィースとラーミーン』や、カヤーン朝の叙事詩のシリーズは、パルティア時代の口承文学の一部であり、はるか後の時代にまとめられている[298]。パルティア語の文学は文書の形態になっていなかったが、アルサケス朝がギリシア文学に価値を認め、それを重んじていた証拠がある[299]。
歴代王
- アルサケス1世 (紀元前247年頃 - 紀元前211年頃)
- ティリダテス1世 (紀元前248年頃 - 紀元前211年頃)
- アルサケス2世(アルタバノス) (紀元前211年頃 - 紀元前191年)
- プリアパティオス (紀元前191年 - 紀元前176年)
- フラーテス1世 (紀元前176年 - 紀元前171年)
- ミトラダテス1世 (紀元前171年 - 紀元前138年)
- フラーテス2世 (紀元前139年/138年/137年 - 紀元前128年)
- アルタバノス1世 (紀元前128年/127年 - 紀元前124年/123年)
- ミトラダテス2世 (紀元前124年/123年 - 紀元前88年/87年)
- ゴタルゼス1世 (紀元前91年 - 紀元前81年/80年)
- オロデス1世 (紀元前80年 - 紀元前76年/75年)
- シナトルケス (紀元前76年/75年 - 紀元前70年/69年)
- フラーテス3世 (紀元前70年/69年 - 紀元前58年/57年)
- ミトラダテス3世 (紀元前58年/57年 - 紀元前55年)
- オロデス2世 (紀元前57年頃 - 紀元前38年/36年)
- フラーテス4世 (紀元前38年頃 - 紀元前2年)
- ティリダテス2世 (紀元前30年頃 - 紀元前25年)
- フラーテス5世(フラータケス) (紀元前2年 - 紀元後4年)
- ムサ (紀元前2年 - 紀元後4年)…フラーテス5世の母であり妻
- オロデス3世 (4年 - 6年/7年頃)
- ヴォノネス1世 (7年/8年 - 12年)
- アルタバノス2世 (12年 - 38年頃)
- ゴタルゼス2世 (38年頃 - 51年)
- ヴァルダネス1世 (39年頃 - 47年/48年)
- ヴォノネス2世 (51年頃)
- ヴォロガセス1世 (51年/52年 - 79年/80年)
- パコルス2世 (78年 - 115年/116年?)
- アルタバノス3世 (80年 - 81年)
- オスロエス1世 (109年/110年頃 - 128年/129年)
- ヴォロガセス4世 (148年 - 192年)
- オスロエス2世 (190年)
- ヴォロガセス5世 (191年 - 207年/208年)
- ヴォロガセス6世 (207年/208年 - 222年/223年)
- アルタバノス4世 (213年頃 - 227年)
- アルタヴァスデス (227年頃 - 228年/229年?)
※ アルサケス2世をアルタバノス1世とし、以後1世ずつずれて表記される書籍もある。[300]
系図
文献[301][302]を参考に作成。双方の記述で異なる場合は、各王の記事と矛盾しないものを採用した。
関連項目
脚注
注釈
- ^ “IRAN vi. IRANIAN LANGUAGES AND SCRIPTS (2) Doc – Encyclopaedia Iranica” (英語). www.iranicaonline.org. Encyclopedia Iranica. 8 February 2017閲覧。 “パルティア語。それはカスピ海の東の地域の現地語および、パルティア国家(アルサケス朝を参照)の公用語であり、石碑と金属の銘文(コインと印象を含む)と、パルティアの首都ニサで発見されたワインのツボの陶片ラベル、そして同様にマニ教の文書から知られている。”
- ^ Chyet, Michael L. (1997). Afsaruddin, Asma; Krotkoff, Georg; Zahniser, A. H. Mathias. eds. Humanism, Culture, and Language in the Near East: Studies in Honor of Georg Krotkoff. Eisenbrauns. p. 284. ISBN 978-1-57506-020-0. "中世のペルシア(パルティアとサーサーン朝)において、アラム語は日常的な文章の媒体であり、中世ペルシア語、パルティア語、ソグド語、ホラズム語はアラム文字を採用した。"
- ^ 概ね、ホラーサーン西部にあたるBickerman 1983, p. 6。
- ^ ディオドトス1世のセレウコス朝からの独立の正確な時期は明らかでない。ユスティヌスは「バクトリアの1,000の都市の総督テオドトス(ディオドトス1世)がセレウコス朝から離脱し、自らを王と呼ぶことを命じたと記すが[8]、ディオドトス1世が発行したコインからは確実に彼が王号を使用していたことを証明することはできない[7]。このため、ディオドトス1世は実際には王を名乗らなかったという予測する学者も存在する。前田耕作はディオドトス1世が一挙に王として独立したのではなく、地位を曖昧にしたまま徐々に事を推し進めたと推測している[7]。
- ^ A.D.H.ビヴァールは、この年が、サトラップのアンドラゴラスの反乱によってセレウコス朝がパルティアの支配を失った年であると結論付けている。従って、アルサケス1世はセレウコス朝によるパルティアの統治が途絶えた瞬間まで「彼の紀年を遡らせた」のだという[10]。しかし、ヴェスタ・サルコーシュ・カーティス(Vesta Sarkhosh Curtis)は、これは単純にアルサケス1世がパルニ氏族の族長に就任した年であると主張している[11]。ホーマ・カトウジアン(Homa Katouzian)[12]とジーン・ラルフ・ガースウェイト(Gene Ralph Garthwaite)[13]は、この年はアルサケス1世がパルティアを征服した年であると主張する。だが、カーティス[11]とマリア・ブロシウス(Maria Brosius)[14]はアンドラゴラスの政権は前238年まで滅ぼされていないと述べている。足利惇氏はカトウジアンと同じく前247年はアルサケス1世がパルティアを征服した年であるとしている。ただし、アルサケス起源の第1年が前247年であることについては、重要な事件を記念したものであろうが、それが何なのかはわからないと率直に述べている[9]。また、山本由美子はアルサケス朝の成立を前238年頃のことであるとしている[2]。
- ^ アルサケス2世は史料によってはアルタバノス(アルタバノス)という名前で記録されており、デベボイスはアルタバノスという名前で言及している。
- ^ ビヴァール[15]とカトウジアン[12]は、アルサケス1世の後継者は兄弟であるティリダテス1世であり、ティリダテス1世の地位は前211年にその息子、アルサケス2世に引き継がれたとする。だが、カーティス[16]とブロシウス[17]はアルサケス2世がアルサケス1世の直接の後継者であるとしており、カーティスは前211年に、ブロシウスは前217年にアルサケス2世が王位を継いだとしている。
- ^ 当時インドにはギリシア人、サカ人、パルティア人などがインダス川を越えて侵入し、各地で王国を築いていた。アゼス王は実在が確実なパルティア人の王であるゴンドファルネスに先行する王であるが、その詳細は不明である。彼をサカ人の王とする学者もあり、またアゼスという名前を持つ王が一人だけなのか、あるいは1世と2世の二人いるのかについても論者によって見解が異なる。インド史も研究した仏教学者・哲学者の中村元は、アゼスを一人とし、「多数説に従って」パルティア人であるらしい、とする[55]。インドの研究者グプタは、アゼスを1世と2世に分けるが、その出自については特に言及していない[54]。
- ^ このことについてのローマ人の記録は二つの矛盾したものが伝えられている。カッシウス・デュオは、ルキウス・アフラニウスがパルティア軍と衝突することなく再占領したと書き、一方でプルタルコスはアフリカヌスが軍事力によって彼を追い払ったとする(Bivar 1983, p. 47)。
- ^ ケネディは恒久的な占領こそパルティア人の最終的な目標であり、ローマ領シリアの複数の都市と守備隊がパルティアに屈服した後は特にそうであったと主張している(Kennedy 1996, p. 80)。デベボイスやシェルドンはパルティアの主目的は略奪であり、征服を意図したものではなかったとしている。
- ^ イベリア王フラスマネス1世が息子のラダミストゥス(在位:51年-55年)をアルメニアに侵攻させ、ローマの属王であったミトラダテスを退位させた。
- ^ インド史、イラン史研究者の足利惇氏は、これらの王について発行した貨幣の年代が交叉していることから、むしろ諸州の統治者であったと推測している[125]。
- ^ シェルドンはトラヤヌスのパルティアに対する攻撃の理由は、領土的野心と栄誉、そして半世紀にわたり続いてきた、ローマ皇帝によるアルメニア王戴冠の権利をパルティアが無視したことによって傷つけられたトラヤヌスの名誉心であったとする。そして以前よりパルティア侵攻を決意しており、オスロエス1世による介入は都合の良い切っ掛けに過ぎなかったとしている[126]。
- ^ オスロエス1世の兄弟ミトラダテス4世の息子。
- ^ デベボイスは、192年にもヴォロガセス4世がコインを発行していることから、ヴォロガセス5世の即位が反乱によるものであるとしている[145]。一方、シェルドンは191年にヴォロガセス4世は死亡したとし、ヴォロガセス5世の即位の経緯については特に触れない[150]。いずれにせよ、史料の不足のためヴォロガセス5世の即位の経緯についての詳細は不明である。
- ^ Kurz 1983, p. 564; さらなる分析として Brosius 2006, p. 138も参照。「奇妙なことに、パルティア人は野蛮な存在として描かれていたと同時に、伝統的な手法によって「オリエンタル化」されており、女性的なライフスタイルによって贅沢を愛する存在として、また、過剰なセクシュアリティを表現して描かれていた。」
- ^ 日本語ではアシュカーニー朝とも表記される[179]。
- ^ イスラーム期西アジアの研究者大塚修の研究によれば、初期イスラーム時代の歴史家は古代ペルシア史を、ペルシア自体の系譜に基づく伝承よりも、むしろアラブの伝承学者に依拠して記述していた。上記したような四王朝の分類も初期イスラームの頃にはなされておらず、タバリーやマスウーディーらに代表される歴史家たちの貢献によって整理されて行く中で次第に登場していったものである。そして10世紀以降にイラン古代の文献のアラビア語訳が大々的に利用されるようになると、古代ペルシア史は更に再編成され、アシュカーン朝を含む四王朝による古代ペルシア史認識が成立した[182]。
- ^ Krnyは古代ペルシア語のKāranaya-(軍隊指導者)に由来する中世ペルシア語を表記したものであり、アウトクラトールはこの語のギリシア語訳として採用されたものであると考えられる。[184]
出典
- ^ a b Green 1992, p. 45
- ^ a b c d e f g h i 小川, 山本 1997, pp. 234-235
- ^ Brosius 2006, p. 84
- ^ a b c 足利 1972, pp. 262-270
- ^ Katouzian 2009, p. 41; Curtis 2007, p. 7; Bivar 1983, pp. 24–27; Brosius 2006, pp. 83–84
- ^ Bivar 1983, pp. 24–27; Brosius 2006, pp. 83–84
- ^ a b c d e f 前田 1992, pp. 101-105
- ^ ユスティヌス, 巻41§4
- ^ a b 足利 1972, p. 198
- ^ Bivar 1983, pp. 28–29
- ^ a b Curtis 2007, p. 7
- ^ a b c Katouzian 2009, p. 41
- ^ Garthwaite 2005, p. 67
- ^ a b Brosius 2006, p. 85
- ^ Bivar 1983, pp. 29–31
- ^ a b Curtis 2007, p. 8
- ^ Brosius 2006, p. 86
- ^ a b c d e 小川, 山本 1997, pp. 236-238
- ^ a b 前田 1992, pp. 114-115
- ^ a b c デベボイス 1993, p. 22
- ^ a b デベボイス 1993, pp. 24-25
- ^ a b Bivar 1983, p. 29; Brosius 2006, p. 86; Kennedy 1996, p. 74
- ^ Bivar 1983, pp. 29–31; Brosius 2006, p. 86
- ^ Bivar 1983, p. 31
- ^ 小川, 山本 1997, p. 238
- ^ a b c d e f g 前田 1992, pp. 122-125
- ^ a b デベボイス 1993, pp. 25-26
- ^ Curtis 2007, pp. 10–11; Brosius 2006, pp. 86–87; Bivar 1983, p. 34; Garthwaite 2005, p. 76;
- ^ ギルシュマン 1970, pp. 243-244
- ^ 中村 1998, pp. 164-164
- ^ Bivar 1983, p. 34
- ^ Brosius 2006, pp. 103, 110–113
- ^ Kennedy 1996, p. 73; Garthwaite 2005, p. 77
- ^ Garthwaite 2005, p. 77; Bivar 1983, pp. 38–39
- ^ a b Brosius 2006, p. 103
- ^ Bivar 1983, p. 36
- ^ デベボイス 1993, p. 28
- ^ a b c 前田 1992, pp. 131-135
- ^ a b c d e f g デベボイス 1993, pp. 32-36
- ^ Bivar 1983, pp. 36–37; Curtis 2007, p. 11; Shayegan 2011, pp. 121–150
- ^ a b 足利 1972, p. 208
- ^ Garthwaite 2005, pp. 76–77; Bivar 1983, pp. 36–37; Curtis 2007, p. 11
- ^ Shayegan 2011, pp. 145–150
- ^ Torday 1997, pp. 80–81
- ^ Garthwaite 2005, p. 76; Bivar 1983, pp. 36–37; Brosius 2006, pp. 89, 91
- ^ デベボイス 1993, p. 27
- ^ a b c d e f g h i デベボイス 1993, pp. 37-44
- ^ Bivar 1983, p. 38; Garthwaite 2005, p. 77
- ^ a b ユスティヌス『地中海世界史』 第42巻§2
- ^ Bivar 1983, pp. 38–39
- ^ 小玉 1994, pp. 120-123
- ^ a b c 足利 1972, p. 210 引用エラー: 無効な
<ref>
タグ; name "足利1972p210"が異なる内容で複数回定義されています - ^ Curtis 2007, pp. 11–12
- ^ a b グプタ 2010, pp. 21-28
- ^ a b 中村 1998, pp. 171-177
- ^ 中村 1998, pp. 177-183
- ^ Bivar 1983, p. 41
- ^ Bivar 2007, p. 26
- ^ a b Brosius 2006, p. 92
- ^ a b シェルドン 2013. pp. 30-33
- ^ Kennedy 1996, pp. 73–78; Brosius 2006, p. 91; シェルドン 2013, pp. 30–33
- ^ a b Kennedy 1996, pp. 77–78
- ^ Bivar 1983, pp. 41–44;Garthwaite 2005, p. 78とデベボイス 1993, pp. 44-46も参照。
- ^ ガイボフら 2003, p. 6
- ^ Brosius 2006, pp. 91–92
- ^ Bivar 1983, pp. 44–45
- ^ a b シェルドン 2013. pp 33-34
- ^ a b c d e f g デベボイス 1993, pp. 58-62
- ^ Bivar 1983, pp. 46–47
- ^ a b c シェルドン 2013. pp 35-37
- ^ Bivar 1983, pp. 48–49; また、Brosius 2006, pp. 94–95もこれに言及。
- ^ デベボイス 1993, pp. 62-65
- ^ シェルドン 2013. pp 44-45
- ^ Bivar 1983, pp. 49–50; Katouzian 2009, pp. 42–43
- ^ a b シェルドン 2013. pp 45-52
- ^ Bivar 1983, pp. 55–56; Garthwaite 2005, p. 79; Brosius 2006, pp. 94–95とCurtis 2007, pp. 12–13も参照
- ^ デベボイス 1993, pp. 66-75
- ^ 足利 1972, pp. 212-213
- ^ a b Kennedy 1996, p. 78
- ^ Bivar 1983, pp. 55–56; Brosius 2006, p. 96
- ^ デベボイス 1993, pp. 78-84
- ^ シェルドン 2013. pp. 62-68
- ^ a b c d シェルドン 2013. pp. 71-72
- ^ Bivar 1983, p. 57; Strugnell 2006, p. 244; Kennedy 1996, p. 80
- ^ a b c デベボイス 1993, pp. 85-90
- ^ a b c d e デベボイス 1993, pp. 90-95
- ^ a b c d e シェルドン 2013. pp. 72-75
- ^ a b c d e f g h i j デベボイス 1993, pp. 98-108
- ^ a b c シェルドン 2013. pp. 77-79
- ^ a b c シェルドン 2013. pp. 79-87
- ^ Bivar 1983, pp. 58–59
- ^ Bivar 1983, pp. 60–63; Garthwaite 2005, p. 80; Curtis 2007, p. 13; アントニウス以降の、シリアからローマの関心がユーフラテス上流に移動したことについての分析はKennedy 1996, p. 81も参照。
- ^ a b シェルドン 2013. pp. 87-90
- ^ Bivar 1983, pp. 64–65
- ^ 桜井, 木村 1997. pp. 321-325
- ^ a b c シェルドン 2013. pp. 93_94
- ^ Bivar 1983, pp. 65–66
- ^ Garthwaite 2005, p. 80; Strugnell 2006, pp. 251–252も参照
- ^ Bivar 1983, pp. 66–67
- ^ Brosius 2006, pp. 96–97, 136–137; Bivar 1983, pp. 66–67; Curtis 2007, pp. 12–13
- ^ a b c d e f g デベボイス 1993, pp. 114-121
- ^ a b シェルドン 2013. pp. 98-100
- ^ Bivar 1983, p. 67; Brosius 2006, pp. 96–99
- ^ a b c d e シェルドン 2013. pp. 100-106
- ^ Bivar 1983, pp. 69–71
- ^ a b c d e f デベボイス 1993, pp. 122-130
- ^ Bivar 1983, p. 71
- ^ Bivar 1983, pp. 71–72
- ^ Bivar 1983, pp. 72–73
- ^ パルティア人が軍旗をローマに返還している場面を描いたローマのコインについての更なる情報は、Brosius 2006, pp. 137–138を参照。
- ^ a b c シェルドン 2013. pp. 106-113
- ^ Bivar 1983, pp. 73–74
- ^ a b c d e f g デベボイス 1993, pp. 132-139
- ^ Bivar 1983, pp. 76–78
- ^ a b c d e f シェルドン 2013. pp. 115-117
- ^ Bivar 1983, pp. 79–81; Kennedy 1996, p. 81
- ^ Garthwaite 2005, p. 82; Bivar 1983, pp. 79–81
- ^ Bausani 1971, p. 41
- ^ a b c d e f g h デベボイス 1993, pp. 142-152
- ^ a b c d e f シェルドン 2013. pp. 117-130
- ^ Bivar 1983, pp. 83–85
- ^ a b c d e f デベボイス 1993, pp. 153-159
- ^ Brosius 2006, pp. 99–100; Bivar 1983, p. 85
- ^ a b c d e f g デベボイス 1993, pp. 170-175
- ^ 足利 1972, pp. 219_226
- ^ a b c シェルドン 2013. pp. 136-142
- ^ Bivar 1983, pp. 86–87
- ^ a b シェルドン 2013. pp. 142-146
- ^ a b c d デベボイス 1993, pp. 175-180
- ^ Lightfoot 1990, pp. 117–118; Bivar 1983, pp. 90–91も参照。
- ^ a b シェルドン 2013. pp. 146-149
- ^ Dr. Aaron Ralby (2013). “Emperor Trajan, 98—117: Greatest Extent of Rome”. Atlas of Military History. Parragon. p. 239. ISBN 978-1-4723-0963-1
- ^ a b c デベボイス 1993, pp. 180-185
- ^ a b シェルドン 2013. pp. 149-153
- ^ Bivar 1983, pp. 88–89
- ^ a b c d シェルドン 2013. pp. 154-156
- ^ Bivar 1983, pp. 90–91
- ^ Lightfoot 1990, p. 120; Bivar 1983, pp. 90–91
- ^ Bivar 1983, p. 91; Curtis 2007, p. 13; Garthwaite 2005, p. 81
- ^ Mommsen 2004, p. 69
- ^ シェルドン 2013. pp. 156-160
- ^ Bivar 1983, pp. 90–91; Brosius 2006, p. 137とCurtis 2007, p. 13も参照。
- ^ Lightfoot 1990, pp. 120–124
- ^ Brosius 2006, p. 100; Lightfoot 1990, p. 115も参照; Garthwaite 2005, p. 81; 及びBivar 1983, p. 91
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj デベボイス 1993, pp. 188-206
- ^ a b c d e シェルドン 2013. pp. 162-164
- ^ Bivar 1983, pp. 92–93
- ^ a b c d e シェルドン 2013. pp. 164-172
- ^ Curtis 2007, p. 13; Bivar 1983, pp. 93–94
- ^ a b シェルドン 2013. pp. 173-174
- ^ a b c d e シェルドン 2013. pp. 174-178
- ^ a b c シェルドン 2013. pp. 178-184
- ^ a b c d e シェルドン 2013. pp. 184-187
- ^ a b c シェルドン 2013. pp. 187-189
- ^ a b c d e f g シェルドン 2013. pp. 190-192
- ^ a b c d e f ギルシュマン 1970, pp. 291-294
- ^ a b 小川, 山本 1997, pp. 289-291
- ^ Brosius 2006, p. 101; Bivar 1983, pp. 95–96; Curtis 2007, p. 14; Katouzian 2009, p. 44も参照。
- ^ Bivar 1983, pp. 95–96
- ^ Widengren 1983, pp. 1261–1262
- ^ a b c d デベボイス 1993, pp. 207-217
- ^ Widengren 1983, p. 1261
- ^ Garthwaite 2005, pp. 75–76
- ^ Garthwaite 2005, p. 67; Widengren 1983, p. 1262; Brosius 2006, pp. 79–80
- ^ a b Widengren 1983, p. 1262
- ^ Widengren 1983, p. 1265
- ^ Garthwaite 2005, pp. 75–76; Widengren 1983, p. 1263; Brosius 2006, pp. 118–119
- ^ Widengren 1983, p. 1263; Brosius 2006, pp. 118–119
- ^ Garthwaite 2005, pp. 67, 75; Bivar 1983, p. 22
- ^ Garthwaite 2005, p. 75; Bivar 1983, pp. 80–81
- ^ Widengren 1983, pp. 1261, 1264
- ^ Widengren 1983, p. 1264
- ^ Widengren 1983, pp. 1265–1266
- ^ a b Widengren 1983, pp. 1265, 1267
- ^ Brosius 2006, p. 80; Posch 1998, p. 363
- ^ Posch 1998, p. 358
- ^ Watson 1983, pp. 541–542
- ^ Wang 2007, p. 90
- ^ a b 山中 2009
- ^ a b 大塚 2017, p. 16
- ^ 大塚 2017, pp. 368-373、巻末付表、イスラーム期の歴史書における古代ペルシア王の一覧を参照
- ^ 大塚 2017, pp. 20-126
- ^ a b c d e f g 田辺 2003, p. 159
- ^ a b 佐藤1982, p. 61
- ^ a b c d 佐藤1982, p. 62
- ^ a b c d e f 田辺 2003, p. 160
- ^ タキトゥス、 国原訳 1981, p. 364
- ^ a b Shahbazi 1987, p. 525
- ^ Lukonin 1983, p. 697
- ^ 佐藤1982, pp. 63-64
- ^ Lukonin 1983, p. 687; Shahbazi 1987, p. 525
- ^ Duchesne-Guillemin 1983, pp. 867–868
- ^ a b Brosius 2006, pp. 103–104
- ^ Garthwaite 2005, pp. 67–68
- ^ Widengren 1983, p. 1263
- ^ Lukonin 1983, p. 701
- ^ Lukonin 1983, p. 701; Curtis 2007, pp. 19–21
- ^ Brosius 2006, pp. 113–114
- ^ Brosius 2006, pp. 115–116
- ^ Brosius 2006, pp. 114–115
- ^ Brosius 2006, p. 119
- ^ a b c d e f g h i j k ガイボフら 2003, p. 11
- ^ Brosius 2006, pp. 99–100, 104
- ^ Brosius 2006, pp. 104–105, 117–118
- ^ “Strabo, Geography, Book 11, chapter 9, section 3”. www.perseus.tufts.edu. 2017年9月11日閲覧。
- ^ Lukonin 1983, pp. 704–705
- ^ Lukonin 1983, p. 704; Brosius 2006, p. 104
- ^ Lukonin 1983, pp. 699–700
- ^ Brosius 2006, pp. 116, 122
- ^ a b Kennedy 1996, p. 84
- ^ Wang 2007, pp. 99–100
- ^ a b Brosius 2006, p. 120; Garthwaite 2005, p. 78
- ^ Brosius 2006, p. 120; Kennedy 1996, p. 84
- ^ Brosius 2006, pp. 116–118; Garthwaite 2005, p. 78とKennedy 1996, p. 84も参照
- ^ Brosius 2006, p. 120; Garthwaite 2005, p. 78; Kurz 1983, p. 561
- ^ Brosius 2006, p. 122
- ^ a b Kennedy 1996, p. 83
- ^ Curtis 2007, pp. 9, 11–12, 16
- ^ Curtis 2007, pp. 7–25; Sellwood 1983, pp. 279–298
- ^ Sellwood 1983, p. 280
- ^ Sellwood 1983, p. 282
- ^ Curtis 2007, pp. 14–15; Katouzian 2009, p. 45も参照
- ^ Garthwaite 2005, p. 85; Curtis 2007, pp. 14–15
- ^ Curtis 2007, p. 11
- ^ a b Curtis 2007, p. 16
- ^ Garthwaite 2005, pp. 80–81; Curtis 2007, p. 21とSchlumberger 1983, p. 1030も参照。
- ^ Schlumberger 1983, p. 1030
- ^ Bivar 1983, p. 56
- ^ Katouzian 2009, p. 45
- ^ Neusner 1983, pp. 909–923
- ^ Asmussen 1983, pp. 924–928
- ^ a b Brosius 2006, p. 125
- ^ Garthwaite 2005, pp. 68, 83–84; Colpe 1983, p. 823; Brosius 2006, p. 125
- ^ a b ボイス 2010, pp. 163-166
- ^ a b 小川, 山本 1997, pp. 244-245
- ^ 足利 1972, pp. 254_255
- ^ a b c フォルツ 2003, pp. 50-55
- ^ a b c 山中 2009, pp. 68-70
- ^ Bivar 1983, p. 97
- ^ a b c d e フォルツ 2003, pp. 79-80
- ^ a b c 芳賀ら 2017, pp. 531-532
- ^ a b c d e f g h 芳賀ら 2017, p. 526
- ^ 辛嶋 2017, pp. 171-173
- ^ 辛嶋 2017, pp. 173-175
- ^ a b c ボイス 2010, pp. 180-182
- ^ ユスティヌス『地中海世界史』 第41巻§3
- ^ 芳賀ら 2017, p. 524
- ^ a b c d 芳賀ら 2017, p. 525
- ^ a b 芳賀ら 2017, p. 527
- ^ a b c d e ガイボフら 2003, p. 16
- ^ a b c ガイボフら 2003, p. 18
- ^ a b c ギルシュマン 1970, pp. 276-278
- ^ ギルシュマン 1970, p. 281
- ^ Brosius 2006, p. 127; Schlumberger 1983, pp. 1041–1043も参照。
- ^ a b Brosius 2006, p. 127
- ^ Brosius 2006, pp. 129, 132
- ^ a b c ギルシュマン 1970, pp. 278
- ^ Brosius 2006, p. 127; Garthwaite 2005, p. 84; Schlumberger 1983, pp. 1049–1050
- ^ a b Schlumberger 1983, p. 1051
- ^ Curtis 2007, p. 18
- ^ Schlumberger 1983, pp. 1052–1053
- ^ Schlumberger 1983, p. 1053
- ^ Curtis 2007, p. 18; Schlumberger 1983, pp. 1052–1053
- ^ ホープ 1981, p. 52
- ^ ホープ 1981, p. 53
- ^ Brosius 2006, pp. 111–112
- ^ a b c ガイボフら 2003, p. 14
- ^ a b c d e f g h ギルシュマン 1970, pp. 273-276
- ^ a b Garthwaite 2005, p. 84; Brosius 2006, p. 128; Schlumberger 1983, p. 1049
- ^ a b Brosius 2006, p. 128
- ^ a b c d ホープ 1981, p. 54
- ^ a b c Brosius 2006, pp. 134–135
- ^ Schlumberger 1983, p. 1049
- ^ a b c d e ガイボフら 2003, p. 19-20
- ^ Brosius 2006, pp. 132–134
- ^ Bivar 1983, pp. 91–92
- ^ Curtis 2007, p. 15
- ^ Curtis 2007, p. 17
- ^ Brosius 2006, pp. 108, 134–135
- ^ Brosius 2006, p. 101
- ^ Curtis 2007, p. 8; アケメネス朝のサトラップスタイルの頭飾りとの比較にはSellwood 1983, pp. 279–280を参照。
- ^ Brosius 2006, pp. 101–102; Curtis 2007, p. 9
- ^ Brosius 2006, pp. 101–102; Curtis 2007, p. 15
- ^ Bivar 1983, p. 24; Brosius 2006, p. 84
- ^ a b c d e f 黒柳 1984, pp. 53-55
- ^ Curtis 2007, pp. 7–8。Curtis 2007, pp. 7–8; Brosius 2006, pp. 83–84
- ^ 黒柳 1984, pp. 55-56
- ^ このパルティア語マニ教文書については、吉田 1992も参照。
- ^ a b c d 黒柳 1984, pp. 58-59
- ^ a b c d e f g h i 伊藤1968, pp. 191-224
- ^ Curtis 2007, pp. 7–8。Curtis 2007, pp. 7–8; Brosius 2006, pp. 83–84
- ^ a b ギルシュマン 1970, pp. 225-227
- ^ 春田 1998, p. 192 注22
- ^ 春田 1998, pp. 181-185
- ^ a b c d e f 伊藤 1974, pp. 228-231
- ^ Brosius 2006, p. 106
- ^ Boyce 1983, p. 1151
- ^ Boyce 1983, pp. 1158–1159
- ^ Boyce 1983, pp. 1154–1155; Kennedy 1996, p. 74も参照。
- ^ デベボイス 1993
- ^ 下津清太郎 編 『世界帝王系図集 増補版』 近藤出版社、1982年、p.145, 146
- ^ ジョン・E.・モービー 『オックスフォード 世界歴代王朝王名総覧』 東洋書林、1993年、p.60, 61
参考文献
原典史料
- グナエウス・ポンペイウス・トログス、ユニアヌス・ユスティヌス抄録 著、合阪學 訳『地中海世界史』京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉、1998年1月。ISBN 978-4-87698-156-4。
- コルネリウス・タキトゥス 著、国原吉之助 訳『年代記(上)』岩波書店〈岩波文庫〉、1981年3月。ISBN 978-4-00-334082-0。
二次資料(和書)
- 『世界の歴史2 古代オリエント文明』筑摩書房、1968年5月。ASIN B000JBHTCW。
- 伊藤義教「イラン人の悲劇」『世界の歴史2 古代オリエント文明』筑摩書房、1968年5月。ASIN B000JBHTCW。
- ロマン・ギルシュマン 著、岡崎敬、糸賀昌昭、岡崎正孝 訳『イランの古代文化』平凡社、1970年2月。ASIN B000J9I12Q。
- 足利惇氏『ペルシア帝国』講談社〈世界の歴史9〉、1972年7月。ISBN 978-4-06-144709-7。
- 伊藤義教『古代ペルシア』岩波書店、1974年1月。ISBN 978-4007301551。
- アーサー・ウプハム・ポープ 著、石井昭 訳『ペルシア建築』鹿島出版会、1981年7月。ISBN 4-306-05169-2。
- 佐藤進「三 イランの諸王朝/パルティアとササン朝ペルシア」『オリエント史講座3 渦巻く諸宗教』学生社、1982年3月。ISBN 978-4311509032。
- 黒柳恒男『ペルシア語の話』大学書林、1984年9月。ISBN 978-4-475-01736-7。
- 前田耕作『バクトリア王国の興亡』第三文明社、1992年1月。ISBN 978-4-476-01198-2。
- ニールソン・カレル・デベボイス 著、小玉新次郎、伊吹寛子 訳『パルティアの歴史』山川出版社、1993年11月。ISBN 978-4-634-65860-8。
- 小玉新次郎『隊商都市パルミラの研究』同朋舎出版、1994年2月。ISBN 978-4-8104-1767-8。
- 小川英雄、山本由美子『オリエント世界の発展』中央公論社〈世界の歴史4〉、1997年7月。ISBN 978-4-12-403404-2。
- 桜井万里子、木村凌二『ギリシアとローマ』中央公論社〈世界の歴史5〉、1997年10月。ISBN 978-4-12-403405-9。
- 中村元『インド史 III』春秋社〈中村元選集 決定版6〉、1998年4月。ISBN 978-4-393-31207-0。
- パルメーシュワリ・ラール・グプタ 著、山崎元一、鬼生田顯英、吉井龍介、吉田幹子 訳『インド貨幣史』刀水書房、2001年10月。ISBN 978-4-88708-282-3。
- 角田文衛、上田正明監修『古代王権の誕生Ⅲ 中央ユーラシア・西アジア・北アフリカ篇』角川書店、2003年6月。ISBN 978-4-04-523003-3{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。。
- 田辺勝美「第5章 古代ペルシアの王権とその造形」『古代王権の誕生Ⅲ 中央ユーラシア・西アジア・北アフリカ篇』。
- リチャード・フォルツ 著、常塚聴 訳『シルクロードの宗教』教文館、2003年11月。ISBN 978-4-7642-6643-8。
- V.G.ガイボフ、G.A.コシェレンコ、Z.V.セルディテフ 著、加藤九祚 訳「ヘレニズム的東方としてのパルティア -初期パルティアの歴史・文化概説」『アイハヌム 2003』東海大学出版会、2003年10月。ISBN 978-4-486-03167-9{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。。
- メアリー・ボイス 著、山本由美子 訳『ゾロアスター教』平凡社、2010年2月。ISBN 978-4-06-291980-7。
- ローズ・マリー・シェルドン 著、三津間康幸 訳『ローマとパルティア』白水社、2013年12月。ISBN 978-4-560-08337-6。
- 山中由里子『アレクサンドロス変相 古代から中世イスラームへ』名古屋大学出版会、2009年2月。ISBN 978-4-8158-0609-5。
- 芳賀京子、芳賀満『古代1 ギリシアとローマ、美の曙光』中央公論新社〈西洋美術の歴史〉、2017年1月。ISBN 978-4-12-403591-9。
- 宮治昭編『中央アジアⅠ ガンダーラ~東西トルキスタン』中央公論美術出版〈アジア仏教美術論集〉、2017年2月。ISBN 978-4-8055-1127-5。
- 辛嶋静志「トルクメニスタン・メルヴ出土説話集」『中央アジアⅠ ガンダーラ~東西トルキスタン』。
- 大塚修『普遍史の変貌 ペルシア語文化圏における形成と展開』名古屋大学出版会、2017-121。ISBN 978-4-8158-0891-4。
二次資料(論文)
- 吉田豊、W.Sandermann「ソグド文字によるマニ教パルティア語の賛歌」『オリエント』第35巻、日本オリエント学会、1992年、NAID AN00034305識別子"AN00034305"は正しくありません。、2018年2月閲覧。
- 春田晴郎「バビロン天文日誌第3巻の公刊」『オリエント』第41巻、日本オリエント学会、1992年、NAID AN00034305識別子"AN00034305"は正しくありません。、2018年2月閲覧。
二次資料(洋書)
- Asmussen, J.P. (1983), “Christians in Iran”, in Yarshater, Ehsan, Cambridge History of Iran, 3.2, London & New York: Cambridge University Press, pp. 924–948, ISBN 0-521-20092-X.
- Ball, Warwick (2016), Rome in the East: Transformation of an Empire, 2nd Edition, London & New York: Routledge, ISBN 978-0-415-72078-6.
- Bausani, Alessandro (1971), The Persians, from the earliest days to the twentieth century, New York: St. Martin's Press, pp. 41, ISBN 978-0-236-17760-8.
- Bickerman, Elias J. (1983), “The Seleucid Period”, in Yarshater, Ehsan, Cambridge History of Iran, 3.1, London & New York: Cambridge University Press, pp. 3–20, ISBN 0-521-20092-X.
- Bivar, A.D.H. (1983), “The Political History of Iran Under the Arsacids”, in Yarshater, Ehsan, Cambridge History of Iran, 3.1, London & New York: Cambridge University Press, pp. 21–99, ISBN 0-521-20092-X.
- Bivar, A.D.H. (2007), “Gondophares and the Indo-Parthians”, in Curtis, Vesta Sarkhosh and Sarah Stewart, The Age of the Parthians: The Ideas of Iran, 2, London & New York: I.B. Tauris & Co Ltd., in association with the London Middle East Institute at SOAS and the British Museum, pp. 26–36, ISBN 978-1-84511-406-0.
- Boyce, Mary (1983), “Parthian Writings and Literature”, in Yarshater, Ehsan, Cambridge History of Iran, 3.2, London & New York: Cambridge University Press, pp. 1151–1165, ISBN 0-521-20092-X.
- Brosius, Maria (2006), The Persians: An Introduction, London & New York: Routledge, ISBN 0-415-32089-5.
- Colpe, Carsten (1983), “Development of Religious Thought”, in Yarshater, Ehsan, Cambridge History of Iran, 3.2, London & New York: Cambridge University Press, pp. 819–865, ISBN 0-521-20092-X.
- Curtis, Vesta Sarkhosh (2007), “The Iranian Revival in the Parthian Period”, in Curtis, Vesta Sarkhosh and Sarah Stewart, The Age of the Parthians: The Ideas of Iran, 2, London & New York: I.B. Tauris & Co Ltd., in association with the London Middle East Institute at SOAS and the British Museum, pp. 7–25, ISBN 978-1-84511-406-0.
- de Crespigny, Rafe (2007), A Biographical Dictionary of Later Han to the Three Kingdoms (23–220 AD), Leiden: Koninklijke Brill, ISBN 90-04-15605-4.
- Demiéville, Paul (1986), “Philosophy and religion from Han to Sui”, in Twitchett and Loewe, Cambridge History of China: the Ch'in and Han Empires, 221 B.C. – A.D. 220, 1, Cambridge: Cambridge University Press, pp. 808–872, ISBN 0-521-24327-0.
- Duchesne-Guillemin, J. (1983), “Zoroastrian religion”, in Yarshater, Ehsan, Cambridge History of Iran, 3.2, London & New York: Cambridge University Press, pp. 866–908, ISBN 0-521-20092-X.
- Emmerick, R.E. (1983), “Buddhism Among Iranian Peoples”, in Yarshater, Ehsan, Cambridge History of Iran, 3.2, London & New York: Cambridge University Press, pp. 949–964, ISBN 0-521-20092-X.
- Frye, R.N. (1983), “The Political History of Iran Under the Sasanians”, in Yarshater, Ehsan, Cambridge History of Iran, 3.1, London & New York: Cambridge University Press, pp. 116–180, ISBN 0-521-20092-X.
- Garthwaite, Gene Ralph (2005), The Persians, Oxford & Carlton: Blackwell Publishing, Ltd., ISBN 1-55786-860-3.
- Green, Tamara M. (1992), The City of the Moon God: Religious Traditions of Harran, BRILL, ISBN 90-04-09513-6.
- Howard, Michael C. (2012), Transnationalism in Ancient and Medieval Societies: the Role of Cross Border Trade and Travel, Jefferson: McFarland & Company.
- Katouzian, Homa (2009), The Persians: Ancient, Medieval, and Modern Iran, New Haven & London: Yale University Press, ISBN 978-0-300-12118-6.
- Kennedy, David (1996), “Parthia and Rome: eastern perspectives”, The Roman Army in the East, Ann Arbor: Cushing Malloy Inc., Journal of Roman Archaeology: Supplementary Series Number Eighteen, pp. 67–90, ISBN 1-887829-18-0
- Kurz, Otto (1983), “Cultural Relations Between Parthia and Rome”, in Yarshater, Ehsan, Cambridge History of Iran, 3.1, London & New York: Cambridge University Press, pp. 559–567, ISBN 0-521-20092-X.
- Lightfoot, C.S. (1990), “Trajan's Parthian War and the Fourth-Century Perspective”, The Journal of Roman Studies 80: 115–126, doi:10.2307/300283, JSTOR 300283
- Lukonin, V.G. (1983), “Political, Social and Administrative Institutions: Taxes and Trade”, in Yarshater, Ehsan, Cambridge History of Iran, 3.2, London & New York: Cambridge University Press, pp. 681–746, ISBN 0-521-20092-X.
- Mawer, Granville Allen (2013), “The Riddle of Cattigara”, Mapping Our World: Terra Incognita to Australia, Canberra: National Library of Australia, pp. 38–39, ISBN 978-0-642-27809-8.
- Mommsen, Theodor (2004) [original publication 1909 by Ares Publishers, Inc.], The Provinces of the Roman Empire: From Caesar to Diocletian, 2, Piscataway (New Jersey): Gorgias Press, ISBN 1-59333-026-X.
- Morton, William S.; Lewis, Charlton M. (2005), China: Its History and Culture, New York: McGraw-Hill, ISBN 0-07-141279-4.
- Neusner, J. (1983), “Jews in Iran”, in Yarshater, Ehsan, Cambridge History of Iran, 3.2, London & New York: Cambridge University Press, pp. 909–923, ISBN 0-521-20092-X.
- Posch, Walter (1998), “Chinesische Quellen zu den Parthern”, in Weisehöfer, Josef (ドイツ語), Das Partherreich und seine Zeugnisse, Historia: Zeitschrift für alte Geschichte, vol. 122, Stuttgart: Franz Steiner, pp. 355–364.
- Schlumberger, Daniel (1983), “Parthian Art”, in Yarshater, Ehsan, Cambridge History of Iran, 3.2, London & New York: Cambridge University Press, pp. 1027–1054, ISBN 0-521-20092-X.
- Sellwood, David (1983), “Parthian Coins”, in Yarshater, Ehsan, Cambridge History of Iran, 3.1, London & New York: Cambridge University Press, pp. 279–298, ISBN 0-521-20092-X.
- Shahbazi, Shahpur A. (1987), “Arsacids. I. Origin”, Encyclopaedia Iranica 2: 255
- Shayegan, Rahim M. (2007), “On Demetrius II Nicator's Arsacid Captivity and Second Rule”, Bulletin of the Asia Institute 17: 83–103
- Shayegan, Rahim M. (2011), Arsacids and Sasanians: Political Ideology in Post-Hellenistic and Late Antique Persia, Cambridge: Cambridge University Press, ISBN 978-0-521-76641-8
- Strugnell, Emma (2006), “Ventidius' Parthian War: Rome's Forgotten Eastern Triumph”, Acta Antiqua 46 (3): 239–252, doi:10.1556/AAnt.46.2006.3.3
- Torday, Laszlo (1997), Mounted Archers: The Beginnings of Central Asian History, Durham: The Durham Academic Press, ISBN 1-900838-03-6
- Wang, Tao (2007), “Parthia in China: a Re-examination of the Historical Records”, in Curtis, Vesta Sarkhosh and Sarah Stewart, The Age of the Parthians: The Ideas of Iran, 2, London & New York: I.B. Tauris & Co Ltd., in association with the London Middle East Institute at SOAS and the British Museum, pp. 87–104, ISBN 978-1-84511-406-0.
- Watson, William (1983), “Iran and China”, in Yarshater, Ehsan, Cambridge History of Iran, 3.1, London & New York: Cambridge University Press, pp. 537–558, ISBN 0-521-20092-X.
- Widengren, Geo (1983), “Sources of Parthian and Sasanian History”, in Yarshater, Ehsan, Cambridge History of Iran, 3.2, London & New York: Cambridge University Press, pp. 1261–1283, ISBN 0-521-20092-X.
- Wood, Frances (2002), The Silk Road: Two Thousand Years in the Heart of Asia, Berkeley and Los Angeles: University of California Press, ISBN 0-520-24340-4.
- Yarshater, Ehsan (1983), “Iranian National History”, in Yarshater, Ehsan, Cambridge History of Iran, 3.1, London & New York: Cambridge University Press, pp. 359–480, ISBN 0-521-20092-X.
- Yü, Ying-shih (1986), “Han Foreign Relations”, in Twitchett, Denis and Michael Loewe, Cambridge History of China: the Ch'in and Han Empires, 221 B.C. – A.D. 220, 1, Cambridge: Cambridge University Press, pp. 377–462, ISBN 0-521-24327-0.
- Young, Gary K. (2001), Rome's Eastern Trade: International Commerce and Imperial Policy, 31 BC - AD 305, London & New York: Routledge, ISBN 0-415-24219-3.
- Zhang, Guanuda (2002), “The Role of the Sogdians as Translators of Buddhist Texts”, in Juliano, Annette L. and Judith A. Lerner, Silk Road Studies: Nomads, Traders, and Holy Men Along China's Silk Road, 7, Turnhout: Brepols Publishers, pp. 75–78, ISBN 2-503-52178-9.
外部リンク
- Various articles from Iran Chamber Society (Parthian Empire, The Art of Parthians, Parthian Army)
- Parthia.com (a website featuring the history, geography, coins, arts and culture of ancient Parthia, including a bibliographic list of scholarly sources)