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=== スバルとの共同参戦 ===
=== スバルとの共同参戦 ===
1989年末に[[富士重工業]](スバル)が1億円でチームの株の半分を買い取り、 [[1990年のF1世界選手権|1990年]]はスバル・コローニとしてエントリーを行った<ref name="ColoniF1">{{Cite book|和書|title=Racing On 2009年4月号|year=2009|publisher=三栄書房|pages=P.26|id=[[雑誌コード#定期刊行物コード|JANコード]] 4910096810499}}</ref>。スバルと[[モトーリ・モデルニ]]が共同開発した水平対向12気筒エンジンを搭載したが、90年開幕戦アメリカGP予選では信頼性の問題もあって1周5分という惨憺たるタイムを記録し<ref>[http://blog.livedoor.jp/markzu/archives/51686420.html 最低のF1エンジン: 煙と消える
1989年末に[[富士重工業]](スバル)が1億円でチームの株の半分を買い取り、 [[1990年のF1世界選手権|1990年]]はスバル・コローニとしてエントリーを行った<ref name="ColoniF1">{{Cite book|和書|title=Racing On 2009年4月号|year=2009|publisher=三栄書房|pages=P.26|id=[[雑誌コード#定期刊行物コード|JANコード]] 4910096810499}}</ref>。スバルと[[モトーリ・モデルニ]]が共同開発した水平対向12気筒エンジンを搭載したが、90年開幕戦アメリカGP予選では信頼性の問題もあって1周5分という惨憺たるタイムを記録し<ref>[http://blog.livedoor.jp/markzu/archives/51686420.html 最低のF1エンジン: 煙と消える]</ref>、その後も[[予備予選 (F1)|予備予選]]すら通過できない惨憺たる結果が続いた。結局[[イギリスグランプリ|イギリスGP]]を以ってスバルと決別し、フォード・[[コスワース]]DFRエンジンに切り替えるものの、決勝進出はならなかった。
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[[1991年のF1世界選手権|1991年]]は前年のマシンを改正レギュレーションに合わせただけのもので戦うが(ドライバーはポルトガル人ドライバーの[[ペドロ・チャベス]])、予備予選でも最下位の常連になるほどの結果しか残せなかった。シーズン終盤には、日本の若手有望株の一人であった[[服部尚貴]]を擁し、さらに[[1991年日本グランプリ (4輪)|日本GP]]では一口2万円での個人スポンサーを募った。鈴鹿に現れたマシンには、サイドポンツーン上部に細かく個人スポンサーの名前が並び『[[耳なし芳一]]』と揶揄されたが、予備予選すら通過できなかった。
[[1991年のF1世界選手権|1991年]]は前年のマシンを改正レギュレーションに合わせただけのもので戦うが(ドライバーはポルトガル人ドライバーの[[ペドロ・チャベス]])、予備予選でも最下位の常連になるほどの結果しか残せなかった。シーズン終盤には、日本の若手有望株の一人であった[[服部尚貴]]を擁し、さらに[[1991年日本グランプリ (4輪)|日本GP]]では一口2万円での個人スポンサーを募った。鈴鹿に現れたマシンには、サイドポンツーン上部に細かく個人スポンサーの名前が並び『[[耳なし芳一]]』と揶揄されたが、予備予選すら通過できなかった。

2018年1月29日 (月) 00:14時点における版

コローニ
活動拠点 {{{活動拠点}}}
創設者 {{{創設者}}}
スタッフ {{{スタッフ}}}
ドライバー {{{ドライバー}}}
参戦年度 1987 - 1991
出走回数 13
コンストラクターズ
タイトル
0
ドライバーズタイトル 0
優勝回数 0
通算獲得ポイント 0
表彰台(3位以内)回数 0
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
F1デビュー戦 1987年スペインGP
初勝利 -
最終勝利 -
最終戦 1991年オーストラリアGP
テンプレートを表示

コローニ(Coloni Motorsport s.p.a.)は、イタリアに本拠地を置くレーシングチームで、一時期F1に参戦していた。創設者はエンツォ・コローニ

F1

参戦開始

コローニ・FC188B

コローニは、地元イタリアF3の強豪チームとして活躍していたが、1987年イタリアGPでF1に初参戦した。しかし同グランプリでは予選通過を果たせず、決勝に進出したのは2戦後のスペインGPだったが、完走は成らなかった。この年はイタリアGPとスペインGPの2戦のみに参戦した。

1988年よりフル参戦を行い、新型車のFC188Bを投入した。F1の決勝初完走は同年第4戦メキシコGP(14位)だった。その後、1989年を除いて1台体制で戦うものの、当時参加台数が40台近くに達したために予備予選に回され、その結果、決勝に進出したのは13回のみであった。

スポンサーにも恵まれることはなく、資金不足に悩まされたままの戦いを強いられ、1989年スペインGPでのロベルト・モレノがコローニにとって最後の決勝進出だった。

スバルとの共同参戦

1989年末に富士重工業(スバル)が1億円でチームの株の半分を買い取り、 1990年はスバル・コローニとしてエントリーを行った[1]。スバルとモトーリ・モデルニが共同開発した水平対向12気筒エンジンを搭載したが、90年開幕戦アメリカGP予選では信頼性の問題もあって1周5分という惨憺たるタイムを記録し[2]、その後も予備予選すら通過できない惨憺たる結果が続いた。結局イギリスGPを以ってスバルと決別し、フォード・コスワースDFRエンジンに切り替えるものの、決勝進出はならなかった。

1991年は前年のマシンを改正レギュレーションに合わせただけのもので戦うが(ドライバーはポルトガル人ドライバーのペドロ・チャベス)、予備予選でも最下位の常連になるほどの結果しか残せなかった。シーズン終盤には、日本の若手有望株の一人であった服部尚貴を擁し、さらに日本GPでは一口2万円での個人スポンサーを募った。鈴鹿に現れたマシンには、サイドポンツーン上部に細かく個人スポンサーの名前が並び『耳なし芳一』と揶揄されたが、予備予選すら通過できなかった。

撤退

コローニは、F1チームをイタリアの製靴メーカ社長のアンドレア・サセッティに売却し、F1から撤退した。ちなみに売却されたチームはアンドレア・モーダとして翌1992年のF1にエントリーするが、結局同年のベルギーGPを最後にF1から追放処分を受けている。

下位フォーミュラでの活躍

F1を撤退したコローニは、下位フォーミュラで活動を行う。地元イタリアF3(後のユーロF3)のほか、国際F3000(現在のGP2)にも参戦している。またイタリアを中心にヨーロッパを転戦するユーロ3000選手権では、自らシリーズ運営にも携わっている。

2006年からは、ジャンカルロ・フィジケラがオーナーのFMSとパートナーを組んで参戦(チーム名はFMS)、途中から参戦した元F1ドライバーであるジョルジオ・パンターノによって3勝をあげている。

変遷表(F1)

エントリー名 シャーシ タイヤ エンジン 燃料
オイル
ドライバー 備考
1987 エンツォ・コローニ・レーシングカー・システムズ FC187 G フォードDFZ Agip ニコラ・ラリーニ *第11,13戦のみ参戦し、第11戦は予選落ち
1988 コローニ SpA FC188 G フォードDFZ Agip ガブリエル・タルキーニ *第6-9,12,14-16戦は予選不通過
1989 コローニ SpA FC188B
C3
P フォードDFR Agip ロベルト・モレノ
ピエール=アンリ・ラファネル
エンリコ・ベルタッジア
*第1,2,4,5,7戦で予選、第9-12,14-16戦で予備予選落ち
*第1-10戦に参戦した内、第3戦以外予備予選落ち
*参戦した第11-14,16戦すべて予備予選落ち
1990 スバル・コローニ・レーシング
コローニ・レーシング
C3B
C3C
G スバル1235
フォードDFR
Agip ベルトラン・ガショー *第1-10戦は予備予選、第11-16戦は予選落ち
1991 コローニ・レーシング C4 G フォードDFR Agip ペドロ・チャベス
服部尚貴
*両ドライバー全戦予備予選落ち

*斜体になっているドライバーはスポット参戦など

在籍していたドライバー

F1

F3

F3000(GP2)

脚注

  1. ^ 『Racing On 2009年4月号』三栄書房、2009年、P.26頁。JANコード 4910096810499。 
  2. ^ 最低のF1エンジン: 煙と消える

関連項目

外部リンク