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「ダレイオス1世」の版間の差分

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| 各国語表記 = 𐎭𐎠𐎼𐎹𐎺𐎢𐏁
| 各国語表記 = 𐎭𐎠𐎼𐎹𐎺𐎢𐏁
| 君主号 = ペルシアの大王
| 君主号 = ペルシアの大王
| 画像 = Darius In Parse.JPG
| 画像 = Darius I (The Great).jpg
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| 埋葬日 =
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| 配偶者1 = {{仮リンク|アトッサ|en|Atossa}}
| 配偶者1 = [[アトッサ]]
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| 配偶者6 = ゴブリュアスの娘(名前不詳)
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| 子女 = アルトバザネス、[[クセルクセス1世]](クシャヤールシャン1世)、{{仮リンク|アリアビゲネス|en|Ariabignes}}、アルサメネス、{{仮リンク|マシステス|en|Masistes}}、{{仮リンク|アケメネス (総督)|label=アケメネス|en|Achaemenes (satrap)}}、アルサメス、ゴブリュアス、アリオマルドス、アブリオコマス、ヒュペランテス、{{仮リンク|アルタゾストレ|en|Artazostre}}
| 子女 = [[クセルクセス1世]]
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| 王家 =
| 王朝 = [[アケメネス朝]]
| 王朝 = [[アケメネス朝]]
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| 父親 = [[ヒュスタスペス]](ウィシュタースパ)
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| 母親 = ロドグネ(ワルダガウナ)
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}}


'''ダレイオス1世'''([[古代ペルシア語]]: {{lang|peo|𐎭𐎠𐎼𐎹𐎺𐎢𐏁}} - {{lang|en|Dārayavahuš}} - ダーラヤワウシュ, {{lang-en|Darius I}}, [[紀元前558年]]頃 - [[紀元前486年]])は、[[アケメネス朝|アケメネス朝ペルシア]]第3代の王(在位:[[紀元前522年]] - [[紀元前486年]])。通称'''ダレイオス'''
'''ダレイオス1世'''([[古代ペルシア語]]: {{lang|peo|Dārayavau}} - ダーラヤワウ[[紀元前550年]]頃 - [[紀元前486年]])は、[[アケメネス朝]]の王(在位:[[紀元前522年]] - [[紀元前486年]])。一般に[[キュロス2世]]から数えて第3代とされるが、ダレイオス1世自身の言によれば第9代のである。[[僭称]]者とされる[[スメルディス]](ガウマータ)を排除して王位に就き、王国の全域で発生した反乱をことごとく鎮圧して、西は[[エジプト第27王朝|エジプト]]、[[トラキア]]地方から東は[[インダス川]]流域に至る広大な領土を統治した。彼は自らの出自、即位の経緯、そして各地の反乱の鎮圧などの業績を[[ベヒストゥン碑文]]として知られる[[碑文]]に複数の言語で記録させており、これは近代における[[楔形文字]]と[[古代ペルシア語]]解読のための貴重な資料を提供した
また、今日にもその遺跡が残されているペルセポリスの建設を開始した。


== 名 ==
== 名 ==
彼の名前は[[古代ペルシア語]]では'''ダーラヤワウ'''('''Dārayavau'''、'''Dārayava(h)uš'''{{refnest|group="注釈"|日本語ではダーラヤワウともダーラヤワウシュとも表記される。これは古代ペルシア語は[[インド・ヨーロッパ語族]]に属する屈折語であり、固有名詞も文法的条件により格変化を起こすためである。ダーラヤワウは名詞幹のみの形態であり、ダーラヤワウシュは単数主格形である<ref name="伊藤1974pxviii">[[#伊藤 1974|伊藤 1974]], p. xviii</ref>。}})である。''Dārayavau''という名前は、語幹のdāraya(保持する者)と形容詞vau(善)からなり、「確固たる善を保持する者」を意味する即位名である<ref name="Iranica_Darius_i_the_name"/>。
<!--[[画像:Sphinx Darius Louvre.jpg|right|thumb|400px|スサにて]]-->
[[古代ペルシア語]]では'''ダーラヤワウ'''('''Dārayavau'''-:名詞幹のみの形)。
この名は「ワウ(よきもの)を保持する者」という意味である。
[[ギリシア語]]形の'''ダレイオス'''({{lang-grc|Δαρείος}} - ダーレイオス)または[[ラテン語]]形'''ダリウス''' (Darius) でも知られる。聖書[[ヘブライ語]]・[[アラム語]]では דָּרְיָוֶשׁ Dārĕyāweš。


古代ペルシア語の楔形文字表記では{{lang|peo|𐎭𐎠𐎼𐎹𐎺𐎢𐏁}}となる({{ruby|{{lang|peo|𐎭}}|da}}{{ruby|{{lang|peo|𐎠}}|a}}{{ruby|{{lang|peo|𐎼}}|ra}}{{ruby|{{lang|peo|𐎹}}|ya}}{{ruby|{{lang|peo|𐎺}}|va}}{{ruby|{{lang|peo|𐎢}}|u}}{{ruby|{{lang|peo|𐏁}}|š}}<ref name="伊藤1974p巻末付録">[[#伊藤 1974|伊藤 1974]], 巻末のペルシア式楔形文字表に依る。</ref>)。
== 略歴 ==
=== 出生 ===
[[紀元前550年]]頃、[[バクトリア]]で[[サトラップ]]だった[[ヒュスタスペス]]の長子として生まれた。


日本語では一般に'''ダレイオス1世'''または'''ダリウス1世'''として知られている。この名前はギリシア語形'''ダーレイオス'''(''Dareîos''、{{lang|grc|[[wikt:Δαρεῖος|Δαρεῖος]]}})および、ラテン語形'''ダーリーウス'''({{lang|la|''Dārīus''}})または'''ダーレーウス'''({{lang|la|''Dārēus''}})から来ている<ref name="西洋古典学辞典ダーレイオス">[[#松原 2010|西洋古典学辞典 2010]], pp. 738-739 「ダーレイオス」の項目より</ref>。また、旧約聖書の日本語訳においては'''ダリヨス'''という表記をされる場合もある。
=== 王朝簒奪説 ===
ダレイオス1世は内乱の後、推戴されて帝位についたとされるが、この事件は、ダレイオスによるキュロスの王朝の簒奪説が近年提起されている<ref>[http://www.herodotuswebsite.co.uk/darius.htm www.herodotuswebsite.co.uk], ''"A Commentary on Darius"''</ref><ref>[[カンビュセス2世#カンビュセス2世の死|カンビュセス2世の死]]を参照。</ref>。<!--参考として、高校の[[世界史B]]の教科書では、アケメネス朝ペルシアの'''3代目'''の王として表記される場合が多い。-->


ダレイオス1世と彼の後継者たちが支配した領域が広大であったため、彼の名前は多数の言語で様々な形態で記録されている。主要なものは以下の通りである。
=== インド遠征 ===
* [[エラム語]]:Da-ri-(y)a-ma-u-iš、Da-ri-ya-(h)u-(ú-)iš<ref name="Iranica_Darius_i_the_name">{{cite web|url=http://www.iranicaonline.org/articles/darius-i|title=Encyclopedia Iranica DARIUS i. The Name|accessdate=2017-12-31}}</ref>
{{main|:en:Iranian invasion of Indus Valley}}
* [[アッカド語]]:Da-(a-)ri-ia-(a-)muš、Da-(a-)ri-muš<ref name="Iranica_Darius_i_the_name"/>
[[紀元前521年]]、[[パンジャーブ]]・[[シンド]]を征服。[[紀元前520年]]、ペルセポリスの建設に着手。
* [[アラム語]]:dryhwš{{refnest|group="注釈"|擬古形ではdrywhwšという形を取る。恐らくこれのギリシア語形がダーレイアイオス(Dareiaîos)であり、[[クテシアス]]の『ペルシア史』と[[クセノフォン]]の『ギリシア史』においてのみ検出される形である<ref name="Iranica_Darius_i_the_name"/>。}}、drwš、drywš<ref name="Iranica_Darius_i_the_name"/>
* [[エジプト語]]:tr(w)š、trjwš、intr(w)š、intrjwš<ref name="Iranica_Darius_i_the_name"/>
* [[リュキア語]]:Ñtarijeus<ref name="Iranica_Darius_i_the_name"/>


== 称号 ==
[[紀元前518年]]、[[ガンダーラ]]を征服。
ダレイオス1世は碑文において新機軸の王号を使用している。彼が築き上げた広大な帝国を支配するため、それに相応しい新たな王権観が必要とされ、かつてのアッシリアの称号なども参考に多数の称号が用いられた<ref name="田辺2003pp154_156">[[#田辺 2003|田辺 2003]], pp. 154-156</ref>。彼は[[キュロス2世]](クル2世<ref group="注釈">一般にキュロス2世はアケメネス朝の初代王とされる。彼の祖父の名前もキュロスであることから、彼自身はキュロス2世とされる。キュロス1世はアンシャンの王としてキュロス2世の祖先の系譜にリストされている。</ref>)が用いていた称号を一部踏襲しているが、更にアッシリア王の称号「諸王の王(šar šarrāni)」に由来する「[[諸王の王]](Xšâyathiya Xšâyathiyânâm)」という称号を採用した<ref name="田辺2003pp154_156"/>。この称号は同じく彼が用いている「この地界の王(Xšâyathiya ahyâyâ bumiyâ)」「諸邦の王(Xšâyathiya dahyunâm )」等とも密接に関連し、一部の地域ではなく様々な異民族を支配する世界帝国の王であることを強く意識した称号である<ref name="田辺2003pp154_156"/><ref name="伊藤1974pp22_50">[[#伊藤 1974|伊藤 1974]], pp. 22-50</ref>。また、[[アフラ・マズダー|アウラマズダー]]神の恩寵(Vašnâ Ahuramazdâ)によって王となったという一種の王権神授の立場を取った<ref name="田辺2003pp154_156"/>。この点は彼以前の王、キュロス2世なども同様の論理を用いているが、ダレイオス1世が画期的であったのは、キュロス2世の称号がメソポタミアの神々の支持によるという、バビロニアの現地人向けの「政治宣伝」的な物であるのに対し、ダレイオス1世のそれはイラン系固有の宗教に基づくものであった点である<ref name="田辺2003pp154_156"/>。このような変化は、後述の通り彼は簒奪者として王位についた可能性が高く、バビロニア人等の異民族よりもまずペルシア人の支持を勝ち取る必要があったからであろう<ref name="田辺2003pp154_156"/>。


なお、アウラマズダーは一般的に[[ゾロアスター教]]の最高神[[アフラ・マズダー]]のことであると考えられているが、ダレイオス1世を含む古代ペルシア人の宗教をゾロアスター教と見做すかどうかについては議論がある{{refnest|group="注釈"|アケメネス朝の王たちが残した碑文中にゾロアスター(ザラスシュトラ)への言及はなく、またゾロアスター教においてアフラ・マズダーと対を為す悪神[[アーリマン]]への言及もない<ref name="バンヴェニストpp12_44">[[#バンヴェニスト、ニョリ 1996|バンヴェニスト 1996]], pp. 12-44</ref>。[[エミール・バンヴェニスト]]は、当時のアケメネス朝の宗教について、はっきりとそれが「ゾロアスター教」であることを示すいかなる証拠も存在しないとし、アウラマズダーという神格はゾロアスター教よりも古い起源を持つものであると指摘する<ref name="バンヴェニストpp12_44"/>。そしてこの時期に存在したアケメネス朝の宗教はギリシア人たちが記録したペルシア人の宗教である「マゴスの宗教」とも「ゾロアスター教」とも異なる「マズダー教」とでも呼ぶべきものであったとする<ref name="バンヴェニストpp12_44"/>。一方で、[[ゲラルド・ニョリ]]はマズダー教とゾロアスター教を等価として扱えるものであるとし、アケメネス朝の宗教はゾロアスター教であったと確言する<ref name="ニョリpp153_176">[[#バンヴェニスト、ニョリ 1996|ニョリ 1996]], pp. 12-44</ref>。}}。
=== スキタイ征伐 ===
[[スキタイ]]人征伐のため南ロシア平原に侵攻したが、スキタイの[[焦土作戦]]に苦しめられて撤退した。


=== ペルシア戦争 ===
== 来歴 ==
=== 出自 ===
[[イオニア]]植民市の反乱を機として、[[古代ギリシア|ギリシア]]との間で、約50年に及ぶ[[ペルシア戦争]]を開始させた。しかし、戦争の途中でダレイオスは死去し、戦いは息子の[[クセルクセス1世]]に引き継がれた。
{{Quote box
| quote = ダレイオス1世は自身の出自について以下のように語る。
# 余はダーラヤワウ(ダレイオス)、偉大なる王、諸王の王、パールサの王、諸邦の王、ウィシュタースパ(ヒュスタスペス)の子、アルシャーマ(アルサメス)の孫、ハカーマニシュ(アケメネス)の裔。
# 王ダーラヤワウは告げる、余の父はウィシュタースパ、ウィシュタースパの父はアルシャーマ、アルシャーマの父はアリヤーラムナ(アリアラムネス)、アリヤーラムナの父はチャイシュピ(テイスペス)、チャイシュピの父はハカーマニシュ。
# 王ダーラヤワウは告げる、このゆえに、われらはハカーマニシュ家と呼ばれる。往昔よりわれらは勢家である。往昔よりわれらの一門は王家であった。
# 王ダーラヤワウは告げる、我が一門にしてさきに王たりしは八人、余は第九位。二系にわかれて九人、われらは王である。
| source=- ベヒストゥン碑文§1-4、伊藤義教訳<ref name="伊藤1974pp22_50"/>
| align = right
| width = 23em
}}
ダレイオス1世は[[ヒュルカニア]]と[[パルティア]]の[[サトラップ]](クシャサパーワン、総督)[[ヒュスタスペス]](ウシュタースパ)とロドグネ(ワルダガウナ)の長男として生まれた<ref name="Iranica_Darius_i">{{cite web|url=http://www.iranicaonline.org/articles/darius-iii|title=Encyclopedia Iranica DARIUS iii. Darius I the Great|accessdate=2017-12-31}}</ref><ref name="山本1997p130">[[#山本 1997|山本 1997]], p. 130</ref>。[[ベヒストゥン碑文]]においてダレイオス1世自身が語るところによれば、その祖先はアケメネス家(ハカーマニシュ家)の分流であるという<ref name="伊藤1974pp22_50"/>。


=== カンビュセス2世の崩御とガウマータの簒奪 ===
== 政治・文化 ==
[[ファイル:Darius.jpg|left|100px|thumb|レリーフに描かれたダレイオス1世。]]
=== 国内統治 ===
ダレイオス1世の幼少期についての情報は存在しない。ヘロドトスによれば、カンビュセス2世(カンブジヤ2世)の生前、ダレイオス1世はカンビュセス2世の槍持ちとして親衛隊にいたという<ref name="ヘロドトス巻3§139">[[#松平訳 1971|ヘロドトス]], 巻3§139</ref>。この職業は王に極めて近い人物のみが付く高い職である<ref name="山本1997p130" />。また、バビロニアのサトラップ、ゴブリュアス(ガウバルワ)の娘と結婚し、3人の子供を儲けていた<ref name="山本1997p130" />。ダレイオス1世が主要な舞台に登場するのは[[カンビュセス2世]]の崩御([[紀元前522年]])とその後の王位継承の争いの頃である。この時代についての重要な記録は[[ヘロドトス]]が『[[歴史 (ヘロドトス)|歴史]]』に記録している逸話と、ダレイオス1世自身が残したベヒストゥン碑文である<ref name="森谷2016p54">[[#森谷 2016|森谷 2016]], p. 54</ref>。
ダレイオスは、全土を約20の行政区(サトラピー)に分割し、それぞれに総督([[サトラップ]])を配置した。その上で各地を結ぶ交通網を整備し、総督の監視や情報伝達のために「王の目」「王の耳」と称される監察官を派遣した。このように中央集権体制を整備し、[[エーゲ海]]から[[インダス川]]におよぶ最大版図を統治したことから、アケメネス朝全盛期の王と評価される。彼の時代に新都[[ペルセポリス]]が造営されたが、政治的中心は[[スーサ]]であり続けた。交通網の整備は、当時としては驚異的な速度で通信や移動を行うことを可能とし、とりわけスーサと[[サルディス|サルデス]]を結ぶ「[[王の道]]」は有名である。中央集権的な統治体制を整備する一方で、帝国内の諸民族には寛容な政策をとり、交易で活躍する[[アラム人]]や[[フェニキア人]]の活動を保護した。上質な金貨・銀貨を鋳造して帝国各地への流通を図ったが、その成果は限定的であったとされる。


=== ベヒスゥーン碑文 ===
==== ヘロドスによる記録 ====
ヘロドトスによれば、カンビュセス2世は弟である[[スメルディス]]による王位簒奪を恐れ密かに殺害した。そのためスメルディスの死は人々に知られる事はなかった。しかしカンビュセス2世がエジプトに遠征している最中、本国を任せていた[[マギ|マゴス]]僧[[パティゼイノス]]{{refnest|group=注釈|ヘロドトスが記すパディゼイノスというマゴス僧の実在は疑わしい。ヘロドトスは彼についてカンビュセス2世留守中に王家の面倒を任された人物であるとするが<ref name="ヘロドトス巻3§61">[[#松平訳 1971|ヘロドトス]], 巻3§61</ref>、これは「執事」、「管理人」を意味するパティクシャヤティア(patiXšâyathia)という役職を固有名詞として、簒奪者を二人に分割したものであると考えられる
彼の事跡を記したものには[[ベヒストゥン碑文|ベヒストゥーン碑文]]がある。この碑文は[[古代ペルシア語]]・[[エラム語]]・[[アッカド語]](後期バビロニア語)によって書かれているが、ベヒストゥーン碑文に記された[[古代ペルシア楔形文字]]はペルシアで制定された表音文字であった。これはイギリス人の[[ヘンリー・ローリンソン (初代準男爵)|ヘンリー・ローリンソン]]が解読に成功し、この解読を端緒として、[[楔形文字]]([[楔形文字|アッカド語楔形文字]]や{{仮リンク|シュメール楔形文字|en|Sumerogram|label=シュメール文字}}など)の解読への道が開けた。
<ref name="森谷2016p59">[[#森谷 2016|森谷 2016]], p. 59</ref>。}}が反旗を翻した。このマゴス僧には容姿がスメルディスの生き写しの弟がおり、名前も同じスメルディスであった。そしてスメルディスの死が人々に知られていなかったことに目をつけ、この弟を殺害されたスメルディス王子その人であるとして玉座に着け、王国全土に布告を出した<ref name="ヘロドトス巻3§61"/>。カンビュセス2世はエジプトからの帰国の途上、シリアでこの知らせを聞き、激しく狼狽した後、偽スメルディスを打倒するため急ぎ戻ろうとしたが、乗馬する際に剣の操作を誤って負傷し、[[歴史的シリア|シリア]]のアグバタナで死去した<ref name="ヘロドトス巻3§65">[[#松平訳 1971|ヘロドトス]], 巻3§65</ref>。こうしてパティゼイノスと偽スメルディスがペルシアの支配権を握ったが、即位8カ月目にパルナスペスの子オタネス(ウターナ)が正体を暴き、ダレイオス1世を含む7人の同志<ref group="注釈">ヘロドトスによれば、オタネス(ウターナ)、アスパティネス(アシュパカナ)、ゴブリュアス(ガウバルワ)、インタプレネス(ウィンダファルナフ)、メガビュゾス(バガブクシャ)、ヒュダルネス(ウィダルナ)、ダレイオス1世(ダーラヤワウ1世)の7人</ref> で、マゴス僧の兄弟を排除した<ref name="ヘロドトス巻3§70-79">[[#松平訳 1971|ヘロドトス]], 巻3§70-79</ref>。事が済んだ後、7人は国制をどうするかについて議論したがまとまらず、城外に騎乗して遠乗りし、日の出と共に最初に馬がいなないた者が王となることを定めた。そして馬丁オイバレスの計略により最初に馬をいななかせることに成功したダレイオス1世が王となった<ref name="ヘロドトス巻3§80-86">[[#松平訳 1971|ヘロドトス]], 巻3§80-86</ref>。

==== ベヒストゥン碑文の記録 ====
一方、ベヒストゥン碑文によれば、ことの顛末は次のようなものであった。カンブジヤ2世(カンビュセス2世)は同母同父の弟バルディヤを殺害したが、バルディヤの死は人々には知らされなかった。その後カンブジヤ2世がムドラーヤ(エジプト)に進発すると民衆の間に不穏な空気が流れた。この時、マゴス僧ガウマータが「余はクル2世の息子であり、カンブジヤ2世の弟であるバルディヤである」と偽って宣言すると、民衆はカンブジヤ2世から離反してガウマータに付き、彼は王として王国を掌握した。その後カンブジヤ2世は寿命尽きて死んだ<ref name="ベヒストゥン碑文第1欄§11">[[#ベヒストゥン碑文|ベヒストゥン碑文]], §11</ref>。ガウマータは自分が偽物であることを隠し通すため、生前のバルディヤを知っている者の多くを粛清した。このため多くの人々は恐れおののき、ガウマータについて何事をも敢えて口にすることはなくなった。正当な王家の出身者であったダーラヤワウ1世(ダレイオス1世)は[[アフラ・マズダー|アウラマズダー]]神に助けを乞い、その恩寵を得てガウマータとその側近たちを殺害した。こうしてダーラヤワウ1世は王国をガウマータから奪回し、アウラマズダーの意思によって王となった<ref name="ベヒストゥン碑文§13">[[#ベヒストゥン碑文|ベヒストゥン碑文]], §13</ref>。

==== 二つの主要な記録に対する現代の評価 ====
上記の通りカンビュセス2世の崩御の前後についてのヘロドトスの記録とベヒストゥン碑文の記録は細部では食い違う物の、大筋は一致している<ref name="森谷2016pp55_56">[[#森谷 2016|森谷 2016]], pp. 55-56</ref><ref name="山本1997pp128_129">[[#山本 1997|山本 1997]], pp. 128-129</ref>。しかし、近年ではこの記録の信憑性は疑問視されており、実際にはダレイオス1世の方が王位簒奪者として即位し、それを正当化するためにマゴス僧による王位簒奪の物語が創作されたのであるという見解が有力となっている<ref name="森谷2016pp55_56"/><ref name="山本1997pp128_129" />。詳細は[[#アケメネス朝の創設者としてのダレイオス1世|後述の節]]を参照。

=== 反乱 ===
[[ファイル:ダレイオス1世時代のアケメネス朝.jpg|420px|right|thumb|ダレイオス1世時代のアケメネス朝の領域とサトラペイア(ダフユ)。赤字はダレイオス1世即位時に反乱が発生した、または反乱勢力の支配下に入った地区。]]
偽スメルディス(ガウマータ)を排除した後、[[紀元前522年]]に王位についたダレイオス1世は、王国全土で相次いで発生した反乱に対処しなければならなかった。この一連の反乱についてはベヒストゥン碑文に詳述されている。それによれば、ガウマータの死の翌月(紀元前522年10月<ref name="森谷2016pp67_68">[[#森谷 2016|森谷 2016]], pp. 67-68</ref>)、[[エラム]](ウーウジャ)でアーシナという人物が王を称して反乱を起こし、また[[バビロニア]](バービル)ではナディンタバイラ(ニディントゥ・ベール)が[[新バビロニア|新バビロニア王国]]の王[[ナボニドゥス|ナブナイタ]](ナボニドゥス)の息子ナブクドゥラチャラ({{仮リンク|ネブカドネザル3世|en|Nebuchadnezzar III}}) であると称して自立した<ref name="ベヒストゥン碑文§16">[[#ベヒストゥン碑文|ベヒストゥン碑文]], §16</ref>。ダレイオス1世はアーシナを逮捕することで迅速に制圧することに成功し<ref name="ベヒストゥン碑文§17">[[#ベヒストゥン碑文|ベヒストゥン碑文]], §17</ref>、[[ティグリス川]]の河畔でバビロニア軍を撃破し、次いでナディンタバイラが滞在していた[[ユーフラテス川]]河畔の[[ザーザーナ]]市の戦いでもバビロニア軍を撃破した。ナディンタバイラは[[バビロン]]市に逃げ込んだが、ダレイオス1世はこの都市も制圧してナディンタバイラを殺し、バビロニアの反乱は鎮圧された<ref name="ベヒストゥン碑文§18_20">[[#ベヒストゥン碑文|ベヒストゥン碑文]], §18_20</ref>。

ダレイオス1世がバビロニアに滞在している間、更に反乱が相次いだ<ref name="ベヒストゥン碑文§21">[[#ベヒストゥン碑文|ベヒストゥン碑文]], §21</ref>。紀元前522年12月<ref name="森谷2016pp67_68"/>、エラム王イマニを名乗ったマルティヤという人物によってエラムで反乱が発生した。しかし彼は部下の裏切りにあって殺害されたためこれはすぐに終息した<ref name="ベヒストゥン碑文§23">[[#ベヒストゥン碑文|ベヒストゥン碑文]], §23</ref>。同月中に<ref name="森谷2016pp67_68"/>、メディアでもフラワルティ(フラオルテス)がメディア王クシャスリタを称して反乱を起こした。この反乱はメディアの他、[[アルメニア]](アルミナ)、[[アッシリア]](アスラー)地方まで巻き込む大規模なものとなり、ダレイオス1世はメディアで2回、アルメニアで4回、アッシリアで1回の戦いを行った。メディアで行われた最後の戦いで逃亡したフラワルティを捕らえ、メディアの首都[[エクバタナ]]で鼻と耳を舌をそぎ落とし最後に杭刺しにして殺害し反乱を鎮圧した<ref name="ベヒストゥン碑文§24_32">[[#ベヒストゥン碑文|ベヒストゥン碑文]], §24-32</ref>。次いで[[ケルマーン州|ケルマーン]](アサガルタ)でメディア王族を称するチサンタクマが反乱を起こしたため、一軍を差し向けてこれを鎮圧した<ref name="ベヒストゥン碑文§33">[[#ベヒストゥン碑文|ベヒストゥン碑文]], §33</ref>。更にフラワルティの臣下を称する者たちが反乱を続け、ダレイオス1世の父ウィシュタースパ(ヒュスタスペス)によって鎮圧された<ref name="ベヒストゥン碑文§35_36">[[#ベヒストゥン碑文|ベヒストゥン碑文]], §35-36</ref>。

同じく紀元前522年12月に[[マルギアナ]](マルグ)ではマルギアナ人フラーダによる反乱が発生したため、[[バクトリア]]の[[サトラップ]]、ダーダルシに鎮圧が命ぜられ、これを撃破した<ref name="ベヒストゥン碑文§39">[[#ベヒストゥン碑文|ベヒストゥン碑文]], §39</ref>。更に同月<ref name="森谷2016pp67_68"/>、ペルシア(パールサ)でワフヤズダータという人物が、[[キュロス2世]](クル2世)の息子バルディヤを自称して反乱を起こしたため、これも臣下のアルタワルディヤによって鎮圧させた<ref name="ベヒストゥン碑文§41_42">[[#ベヒストゥン碑文|ベヒストゥン碑文]], §41-42</ref>。しかし[[アラコシア]](ハラウワティ)に派遣されていたワフヤズダータの軍勢は彼の死後も反乱を続け、鎮圧には更に時間がかかった<ref name="ベヒストゥン碑文§45_47">[[#ベヒストゥン碑文|ベヒストゥン碑文]], §45-47</ref>。そして[[紀元前521年]]8月<ref name="森谷2016pp67_68"/>、バビロニアで再び反乱が発生し、アルメニア人アラカがナブクドゥラチャラ([[ネブカドネザル4世]])を称してバビロニア王となった。このため、一軍を派遣してこれを鎮圧した<ref name="ベヒストゥン碑文§49_50">[[#ベヒストゥン碑文|ベヒストゥン碑文]], §49-59</ref>。

ベヒストゥン碑文の記述を信ずるならば、上記の一連の反乱はダレイオス1世が即位したその年のうちに発生し鎮圧されたものである<ref name="ベヒストゥン碑文§52">[[#ベヒストゥン碑文|ベヒストゥン碑文]], §52</ref>。また6人のパールサ人(ペルシア人)の功績が特に大であったとして顕彰している<ref group="注釈">対象者はウィンダファルナフ(インタプレネス)、ウターナ(オタネス)、ガウバルワ(ゴブリュアス)、ウィダルナ(ヒュダルネス)、バガブクシャ(メガビュゾス)、アルドゥマニシュ</ref>。

更に[[紀元前520年]]春には<ref name="森谷2016pp67_68"/>、再度エラムでアッタマイタという人物が反乱を起こしたためこれを鎮圧し、その翌年には[[サカ]]人の領土に侵攻してその王スクンカを倒しこれを制圧した。こうしてダレイオス1世は王国の完全な支配を手に入れた<ref name="ベヒストゥン碑文§71_79">[[#ベヒストゥン碑文|ベヒストゥン碑文]], §71-76</ref>。

=== 治世 ===
==== 内政の整備 ====
{{Quote box
| quote =
余はダーラヤワウ(ダレイオス)、偉大なる王、諸王の王、この果て遥かなる地界の王。ウィシュタースパ(ヒュスタスペス)の子、ハカーマニシュ(アケメネス)の裔。<br>
また王ダーラヤワウは告げる、この基壇の上にこの宮邸は建てられた。以前には、ここには宮邸は建てられていなかった。アウラマズダーの恩寵によって余はこの宮邸を建てた。そしてアウラマズダーは、すべての神々とともに、この宮邸が建てられるように決定し給うたのであって、余はそれを建て、かつそれを完璧に、美しく、そして余がそれを決定したごとくに、建てたのである。
| source=- ダレイオス1世のペルセポリス碑文f(エラム語版)§1-18、伊藤義教訳<ref name="伊藤1974pp68_79"/>
| align = left
| width = 23em
}}

ダレイオス1世はアケメネス朝の体制を整備し完成させたと言われる<ref name="山本1997p133">[[#山本 1997|山本 1997]], p. 133</ref>。彼は奪取した王位を安定させるため、キュロス2世の娘[[アトッサ]]と[[アルテュストネ]]と結婚し、殺害されたスメルディス(バルディヤ)の娘パルミュスも妻とした。更にカンビュセス2世の妻となっていたオタネス(ウターナ)の娘パイデュメも妻とし、王家の血統の独占を図った<ref name="ヘロドトス巻3§88">[[#松平訳 1971|ヘロドトス]], 巻3§88</ref><ref name="森谷2016pp72_73">[[#森谷 2016|森谷 2016]], pp. 72-73</ref>。彼の王国は20から29の邦(ダフユ)に分けられ、それぞれにサトラップが任命されていたが、その動きを監視するため、「王の目」、「王の耳」と呼ばれる王直属の官僚たちにその動きを監視させた<ref name="Iranica_Darius_i"/><ref name="山本1997p134">[[#山本 1997|山本 1997]], p. 134</ref>{{refnest|group=注釈|「王の目」「王の耳」という名称はヘロドトスによるが<ref name="山本1997p134" />、これは恐らくディディヤカ(*didiyaka、見張り)、ガウシャカ(gaušaka、聞き手)の訳語であると推定される<ref name="伊藤1974pp68_79">[[#伊藤 1974|伊藤 1974]], pp. 68-79</ref>。}}。

中央集権的な体制の構築と、軍隊の迅速な移動のため、「王の道」と呼ばれる道路網が整備され、[[リュディア]]の[[サルディス]]市からエラムの[[スサ]]市まで2400キロメートルに及んだ<ref name="山本1997p136">[[#山本 1997|山本 1997]], p. 136</ref>。王の道には111の駅逓が整備され、通常90日かかる行程を早馬では7日で移動することができたとされる<ref name="山本1997p136" />。王の道の全容は明らかになっていないが、[[石畳]]で舗装された道路の一部が駅逓の跡と共に発掘されており、馬車を走らせることもできたと見られている<ref name="山本1997p136" />。また、中央集権の要として度量衡の統一が行われ、不完全ながら貨幣制度の整備も行われた<ref name="山本1997p136" />。銀貨や銅貨は各地のサトラップによっても発行され、ダレイオス1世自身も[[ダリック]]と呼ばれる金貨を発行した<ref name="山本1997p136" />。

また、その理由は現在では不明であるが、新たな首都として[[ペルセポリス]]の造営を開始した。この都市の造営はその後[[クセルクセス1世]](クシャヤールシャン1世)、[[アルタクセルクセス1世]](アルタクシャサ1世)の時代も続き、アケメネス朝の時代を通じて整備され続けた<ref name="伊藤1974pp68_79"/><ref name="山本1997p136" />。ペルセポリスにはダレイオス1世が残した建築碑文が複数残されている他、ペルセポリスのあちらこちらにダレイオス1世の一際大きく描かれた像が残されており、その強大な権力を今日に伝えている<ref name="山本1997p139">[[#山本 1997|山本 1997]], p. 139</ref>。

==== インドとスキタイへの遠征 ====
財政的な余裕を得たダレイオス1世は、かつて[[スキタイ人]]がメディアと小アジアを席巻したことへの報復としてスキュティアへの遠征を思い立った<ref name="ヘロドトス巻4§1">[[#松平訳 1972-1|ヘロドトス]], 巻4§1</ref>。ダレイオス1世の弟アルタバノスはこの遠征の困難を訴えて制止したが、ダレイオス1世は攻撃を強行した<ref name="ヘロドトス巻4§83">[[#松平訳 1972-1|ヘロドトス]], 巻4§83</ref>。[[紀元前513年]]頃、ダレイオス1世が[[ダーダネルス海峡]]を越えると、[[トラキア]]地方の諸族は戦わずして降伏し、唯一抵抗したゲタイ人も瞬く間に征服された<ref name="ヘロドトス巻4§93">[[#松平訳 1972-1|ヘロドトス]], 巻4§93</ref>。その後、ダレイオス1世の軍勢は[[黒海]]の海岸沿いに北上したが、黒海北岸のスキタイ人本拠地への攻撃は、スキタイ人の焦土戦術の前に大きな損害を出して撤退を余儀なくされた。ヘロドトスの記録には[[ドナウ川]]を渡河した後、橋梁の建設の記事がないことから、ダレイオス1世の軍勢は少なくとも[[ドニエストル川]]に到着する前に撤退したと推定されている<ref name="ギルシュマン1970pp138_139">[[#ギルシュマン 1970|ギルシュマン 1970]], pp. 138-139</ref>。この時確保したトラキアは後のギリシア遠征への足掛かりとなった<ref name="山本1997p133"/><ref name="ヘロドトス巻4§130_136">[[#松平訳 1972-1|ヘロドトス]], 巻4§130-136</ref>。

東方では[[インダス川]]流域へも遠征が行われた。ダレイオス1世によるインダス川流域の征服がいつ頃行われたのかは不明である。ペルセポリスの碑文と、[[ナクシェ・ロスタム]]の碑文にインド人(ヒンドゥ)がガンダーラ人と共に臣民として数えられていることから、[[紀元前516年]]からダレイオス1世の没年までのある時期に征服されたと推定されている<ref name="中村 1997p10_11">[[#中村 1997|中村 1997]], pp. 10-11</ref>。この遠征に先立ち、ダレイオス1世はカリュアンダ<ref group="注釈">[[アナトリア半島]]の[[カリア]]地方沿岸にある小島。</ref> 人スキュクラスにインダス川流域の探検と河口の確認を命じ、更にインドからエジプトへの航路を確認させた<ref name="ヘロドトス巻4§44">[[#松平訳 1972-1|ヘロドトス]], 巻4§44</ref>。ダレイオス1世が征服したインドが実際にどの地方だったのか、正確なことはわかっていない。[[パンジャーブ]]地方の大部分を含んでいたとも考えられるし、インダス川の両岸地区を河口に達するまで支配した可能性もある<ref name="中村 1997p10_11"/>。ただし、実際に征服された範囲がどの程度であったにせよ、インドはアケメネス朝の版図の中で最も税収の多いサトラペイア(ダフユ)となった。ヘロドトスによればインドはアケメネス朝の第20徴税区であり、砂金360タラントンを納入していた<ref name="ヘロドトス巻4§94">[[#松平訳 1972-1|ヘロドトス]], 巻4§94</ref>。これはインド以外の全てのサトラペイアの合計に匹敵したという<ref name="ヘロドトス巻4§94"/><ref group="注釈">ただし、松平千秋は『歴史』の訳注にてこの表現は誇張が過ぎるであろうと述べている。</ref>。

==== イオニアの反乱 ====
アナトリア半島の[[エーゲ海]]沿岸に居住していたギリシア人の一派であるイオニア人は、元々ダレイオス1世の王国に恭順の姿勢を示していた。アケメネス朝側の記録にはこのイオニア人はヤウナ<ref name="ベヒストゥン碑文§6">[[#ベヒストゥン碑文|ベヒストゥン碑文]], §6</ref> や、陸地と海浜のヤウナ人<ref>[[#伊藤 1974|ダレイオス1世のペルセポリス碑文e]]</ref> として記載されている。アケメネス朝はイオニア人の[[ポリス]]に自治を認めつつ、従属的な[[僭主]]を統治者とすることで支配を行った<ref name="桜井1997pp127_129">[[#桜井 1997|桜井 1997]], pp. 127-129</ref>。紀元前513年頃のダレイオス1世のスキタイ遠征の最中、スキタイ人はアケメネス朝の軍団に加わっていたギリシア人の部隊に調略を行い、ペルシアからの離反を唆した。アテナイ人で[[ケルソネソス]]の僭主であった[[ミルティアデス]]が同調しギリシア人の解放を主張したが、イオニアの主邑[[ミレトス]]の僭主[[ヒスティアイオス]]は、ダレイオス1世の存在によって自分達の地位が安泰なのであると主張し、他の僭主たちも同調したためこの時には離反は起こらなかった<ref name="桜井1997pp127_129"/><ref name="ヘロドトス巻4§137">[[#松平訳 1972-1|ヘロドトス]], 巻4§137</ref><ref group="注釈">ヘロドトスによればこの時ヒスティアイオスに同調したのは[[ヘレスポントス]]地方のポリスの僭主としては、[[アビュドス]]のダプニス、[[ランプサコス]]のヒッポクロス、[[パリオン]]のヘロバントス、[[プロコンネソス]]のメトロドロス、[[キュジコス]]のアリスタゴラス、[[ビュザンティオン]]のアリストン、イオニア地方のものとしては[[キオス]]のストラッティス、[[サモス]]のアイアケス、[[ポカイア]]のラオダマス、そして[[アイオリス]]地方の[[キュメ]]のアリスタゴラスらである。</ref>。

スキタイ遠征から引き揚げた後、ダレイオス1世は残留させたペルシア軍に周辺地域の平定に当たらせた。指揮官に任じられたメガバゾスは[[トラキア]]地方のほとんどを制圧し、[[パイオニア (ギリシア)|パイオニア]]も平定して[[マケドニア]]の手前までを支配下に置いた<ref name="ヘロドトス巻5§1_17">[[#松平訳 1972-1|ヘロドトス]], 巻5§1-17</ref>。帰還したメガバゾスは、ミレトス僭主ヒスティアイオスが大功ありとして新たな領土を与えられたことを危険視し、彼を本国のスサに移させた<ref name="ヘロドトス巻5§23">[[#松平訳 1972-1|ヘロドトス]], 巻5§23</ref>。その後、メガバゾスの後任としてエーゲ海沿岸地域の司令官となったシサムネスの子オタネス<ref group="注釈">スメルディス(ガウマータ)の排除に関わったオタネス(ウターナ)とは別人。</ref> はビュザンティオンと[[カルケドン]]を征服すると共に、[[レムノス島]]と[[インブロス島]]も制圧し、エーゲ海沿岸でのアケメネス朝の支配地は順次拡大した<ref name="ヘロドトス巻5§25">[[#松平訳 1972-1|ヘロドトス]], 巻5§25</ref>。

[[紀元前499年]]、アケメネス朝の[[サルディス]]のサトラップ、[[アルタプレネス]]はミレトスの臨時僭主アリスタゴラスと共謀し、[[ナクソス]]の内紛に乗じてこれを征服するべく、[[メガバテス (将軍)|メガバテス]]を総司令官にナクソス遠征を企画した<ref name="ヘロドトス巻5§28_33">[[#松平訳 1972-1|ヘロドトス]], 巻5§28-33</ref>。しかし方針を巡ってメガバテスとアリスタゴラスが対立した上、4ヶ月に渡る包囲戦の末に軍資金が底をつき退却を余儀なくされた。失敗の責任を問われて地位を失うことを恐れたアリスタゴラスは反乱に踏み切った<ref name="ヘロドトス巻5§35_46">[[#松平訳 1972-1|ヘロドトス]], 巻5§35-36</ref>。アリスタゴラスが他のイオニア都市も反乱に引き込んだため、これが[[イオニアの反乱]]と呼ばれる反乱に発展した。アリスタゴラスは事を起こす前に[[アテナイ]]や[[スパルタ]]などに支援を要請した<ref name="桜井1997pp127_129"/>。スパルタは協力を拒否したものの、アテナイと[[エレトリア]]がイオニアへ軍事支援を行った<ref name="桜井1997pp127_129"/>。

しかしアテナイは初戦の敗退の後イオニアを見放し、結果としてイオニアの反乱は[[紀元前494年]]にミレトスが陥落したことで鎮圧された<ref name="桜井1997pp127_129"/><ref name="ヘロドトス巻5§99_126">[[#松平訳 1972-1|ヘロドトス]], 巻5§99-126, 巻6§1-22</ref>。

==== ペルシア戦争 ====
ダレイオス1世の対外遠征の中で史上名高いのはイオニアの反乱に端を発したギリシア遠征である。この戦いは一般に[[ペルシア戦争]]と呼ばれる数次にわたる戦争の第一回目とされている。

ダレイオス1世はイオニアの反乱を鎮圧した後、[[紀元前492年]]に甥の[[マルドニオス]]に艦隊を与えて、反乱へ加担したアテナイやエレトリアへの懲罰を目的として遠征を行った。この遠征は暴風雨にあって失敗し、マルドニオスは解任された<ref name="山本1997p130"/>。その後、ダレイオス1世はギリシア人の諸ポリスに、土と水を献上して恭順の意を示すように要求し<ref name="桜井1997pp127_129"/>、多くのポリスがそれに従ったが、アテナイやスパルタはこれを拒否した<ref name="桜井1997pp127_129"/>。[[紀元前490年]]、服従の意を示さなかったポリスを平定するため、ギリシアへ大規模な遠征軍が派遣された<ref name="桜井1997pp127_129"/>。ダレイオス1世はメディア人[[ダティス]]と、アルタプレネスの子アルタプレネスにアテナイとエレトリアの征服を命じ<ref name="ヘロドトス巻6§94">[[#松平訳 1972-1|ヘロドトス]], 巻6§94</ref>、7日間の攻撃でエレトリアは陥落した<ref name="ヘロドトス巻6§101">[[#松平訳 1972-1|ヘロドトス]], 巻6§101</ref>。エレトリアの陥落の後、ペルシア軍は[[マラトン]]の平野でミルティアデス率いるアテナイ軍の前に敗退し([[マラトンの戦い]]<ref name="ヘロドトス巻6§111_117">[[#松平訳 1972-1|ヘロドトス]], 巻6§111-117</ref>)、ギリシア遠征は失敗に終わった。ただし、ダレイオス1世は捕虜としたエレトリアの市民をスサに近い[[キッシア]]地方に定住させた<ref name="ヘロドトス巻6§119">[[#松平訳 1972-1|ヘロドトス]], 巻6§119</ref>。

==== 崩御とその後 ====
{{Quote box
| quote =
余は余の友人たちにたいして友人であった。乗馬者や射手として、他のすべてのものよりも優秀であることを余は証明した。余は狩猟者としても優れていることを示した。余はあらゆることをすることができた。
| source=- ダレイオス1世の墳墓の碑文<ref name="ギルシュマン1970pp143_144">[[#ギルシュマン 1970|ギルシュマン 1970]], pp. 143-144</ref>
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}}

ダレイオス1世は2度にわたる遠征の失敗に憤激し、より大規模な遠征軍を編成して親征することを決断した<ref name="ヘロドトス巻7§1">[[#松平訳 1972-2|ヘロドトス]], 巻7§1</ref>。しかしその準備の最中、エジプト(ムドラーヤ)で反乱が発生したため、ギリシアとエジプトのどちらへの遠征を優先すべきかが問題となった<ref name="ヘロドトス巻7§1"/>。ところが、紀元前486年8月にダレイオス1世は急死し、ギリシアへの遠征もエジプトの反乱鎮圧も後継者の手に委ねられることになった<ref name="ヘロドトス巻7§4">[[#松平訳 1972-2|ヘロドトス]], 巻7§4</ref><ref name="山本1997p148">[[#山本 1997|山本 1997]], p. 148</ref>。

ダレイオス1世には後継者の候補として即位以前に結婚していたゴブリュアスの娘(名前不詳)との間に長子アルトバザネスを始めとする3人の息子がおり、キュロス2世の娘アトッサとの間にはクセルクセス1世(クシャヤールシャン1世)がいた<ref name="ヘロドトス巻7§2">[[#松平訳 1972-1|ヘロドトス]], 巻7§2</ref>。ヘロドトスは王位継承を巡る対立と、クセルクセス1世が後継者に定まる顛末を記録しているが<ref name="ヘロドトス巻7§3">[[#松平訳 1972-1|ヘロドトス]], 巻7§3</ref>、母アトッサの権勢が強かったため、クセルクセス1世が後継者になったのは既定のことであったと評している<ref name="ヘロドトス巻7§3"/>。ペルセポリスの浮彫には大きく描かれたダレイオス1世の像の傍らに太子クセルクセス1世が描かれており、考古学的にもクセルクセス1世が当初より正当な後継者として扱われていたのは明らかである<ref name="山本1997pp132_133_139_140">[[#山本 1997|山本 1997]], pp. 132-133, 139</ref>。

ダレイオス1世は偉大なペルシアの王として後のギリシア人たちに大きな印象を残した。ヘロドトスはダレイオス1世の即位から崩御に至るまでの治世全期間を、様々な挿話を交えつつ記録に残している。また、アケメネス朝を滅ぼしたマケドニアの王[[アレクサンドロス3世]](大王)は、キュロス2世とダレイオス1世と言う二人の創始者の業績に感嘆し、彼らの墳墓を訪れた際に、ダレイオス1世の墓に刻まれた碑文をギリシア語訳するように命じた<ref name="ギルシュマン1970pp143_144"/>。

== アケメネス朝の創設者としてのダレイオス1世 ==
通常、ダレイオス1世は[[キュロス2世]]、[[カンビュセス2世]]に続く[[アケメネス朝]]の第3代の王であるとされる。一方、[[ベヒストゥン碑文]]でダレイオス1世が自ら語るところによれば彼はアケメネス(ハカーマニシュ)家の第9代の王である<ref name="伊藤1974pp22_50"/>。しかし、近年では偽スメルディス(ガウマータ)の排除を巡る伝承に含まれる矛盾や{{refnest|group="注釈"|ギリシアの文献によれば、偽スメルディス(ガウマータ)は本物のスメルディスと見分けがつかないほど似通った容姿をしていたとされるが、仮にそのような人物が存在したとしても本人そのものとして振る舞うことができたとは考えられず、このような説話はおよそ現実的なものではない。このため、僭称者など存在せずダレイオス1世が殺害した偽スメルディスとは本物の王弟そのものであったという推測がしばしば行われる<ref name="阿部2023p198">[[#阿部 2023|阿倍 2023]], p. 198</ref>。また別の説として、この「偽」の王スメルディスとは古代オリエントにおいて時折見られた[[身代わり王]](代理王、王に凶兆があった時に一時的に王として扱われ、本物の王に代わって凶兆を受ける存在)だったのではないかとする説もある<ref name="阿部2023p199">[[#阿部 2023|阿倍 2023]], p. 199</ref>。}}、その後相次いだ反乱などから、王位継承にまつわる一連のダレイオス1世の主張は[[プロパガンダ]]に過ぎず、実際にはダレイオス1世の方が簒奪者であったとする見解が有力である<ref name="森谷2016pp55_56"/>。

ギリシア史・マケドニア史研究家の[[森谷公俊]]は更に論を進め、アケメネス(ハカーマニシュ)朝を実際に創出したのはダレイオス1世であったとする<ref name="森谷2016pp70_74">[[#森谷 2016|森谷 2016]], pp. 70-74</ref>。ベヒストゥン碑文においてダレイオス1世の祖先としてあげられるヒュスタスペス(ウィシュタースパ)、アルサメス(アルシャーマ)、アリアラムネス(アリヤーラムナ)、テイスペス(チャイシュピ)、アケメネス(ハカーマニシュ)の中に王であった人物は存在しない。テイスペスはキュロス2世の祖父にあたるキュロス1世(クル1世)の父であるので、碑文を全面的に信用したとしても、ダレイオス1世は4代前でようやく王家と繋がる傍系であったことがわかる<ref name="森谷2016pp70_74"/>。重要なことは、キュロス2世自身が語る系譜にはアケメネスという人物が登場しないことである<ref name="森谷2016pp70_74"/>。キュロス2世は「私はキュロス(クル)、偉大なる王、アンシャンの王カンビュセス(カンブジヤ)の子、偉大なる王、アンシャンの王キュロスの孫、テイスペス(チャイシュピ)の裔」としか宣言していない<ref name="森谷2016pp70_74"/>。そして、キュロス2世、アルサメス、アリアラムネスの碑文が見つかっているが、その全てがダレイオス1世以降の時代に追刻されたものであることがわかっている<ref name="伊藤1974pp109_115">[[#伊藤 1974|伊藤 1974]], pp. 109-115</ref>。また、ダレイオス1世は、王位に就いた後、キュロス2世の名前で「アケメネス家のキュロス」という文言を含む碑文をいくつも刻み、更にキュロス2世やカンビュセス2世、スメルディスの妻や娘全てと結婚し、王家の血統を独占することに熱心であった<ref name="森谷2016pp70_74"/>。これらの事から、キュロス2世は簒奪者ダレイオス1世によってアケメネス朝の王として再定義されたのであり、そのことからダレイオス1世はペルシア帝国の再創造者であったと言えると言う<ref name="森谷2016pp70_74"/>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
<references/>
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
=== 史料の和訳 ===
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* {{Cite book |和書 |author=ヘロドトス|authorlink=ヘロドトス |others=[[松平千秋]]訳 |title=[[歴史 (ヘロドトス)|歴史]] 上 |publisher=[[岩波書店]] |series=[[岩波文庫]] |date=1971-12 |isbn=978-4-00-334051-6 |ref=松平訳 1971 }}

* {{Cite book |和書 |author=ヘロドトス |others=松平千秋訳 |title=歴史 中 |publisher=岩波書店 |series=岩波文庫 |date=1972-1 |isbn=978-4-00-334052-3 |ref=松平訳 1972-1 }}
== 関連項目 ==
* {{Cite book |和書 |author=ヘロドトス |others=松平千秋訳 |title=歴史 下 |publisher=岩波書店 |series=岩波文庫 |date=1972-2 |isbn=978-4-00-334053-0 |ref=松平訳 1972-2 }}
* [[ヘロドトス]] ({{lang-el-short|Ηρόδοτος}}) 『[[歴史 (ヘロドトス)|歴史]] ({{lang-el-short|ἱστορίαι}})』
* {{Cite book |和書 |translator=[[伊藤義教]]|title=古代ペルシア |chapter=ベヒストゥン碑文|publisher=岩波書店 |date=1974-1 |isbn=978-4007301551 |ref=ベヒストゥン碑文 }}


=== 書籍 ===
* {{Cite book |和書 |author=青木健|authorlink=青木健 (宗教学者)|title=ゾロアスター教の興亡 -サーサーン朝ペルシアからムガル帝国へ-|publisher=刀水書房|date=2006-12 |isbn=978-4007301551 |ref=青木 2006 }}
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* {{Cite book |和書 |author1=小川英雄|authorlink1=小川英雄|author2=山本由美子|authorlink2=山本由美子|title=オリエント世界の発展 |series=世界の歴史4 |publisher=中央公論社 |date=1997-7 |isbn=978-4-12-403404-2 |ref=オリエント世界の発展 1997 }}
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** {{Cite book |和書 |author=田辺勝美|authorlink=田辺勝美|title=古代王権の誕生Ⅲ 中央ユーラシア・西アジア・北アフリカ篇 |chapter=第5章 古代ペルシアの王権とその造形|ref=田辺 2003 }}
* {{Cite book |和書 |author1=山田勝久|authorlink1=山田勝久|author2=児島建次郎|authorlink2=児島建次郎|author3=森谷公俊|authorlink3=森谷公俊|title=ユーラシア文明とシルクロード <small>ペルシア帝国とアレクサンドロス大王</small> |publisher=雄山閣 |date=2016-6 |isbn=978-4-639-02427-9 |ref=ユーラシア 2016 }}
** {{Cite book |和書 |author=森谷公俊|authorlink=森谷公俊|title=ユーラシア文明とシルクロード <small>ペルシア帝国とアレクサンドロス大王</small> |chapter=第四章 ダレイオス一世とアカイメネス朝の創出|ref=森谷 2016 }}
* {{Cite book |和書 |author1=エミール・バンヴェニスト|authorlink1=エミール・バンヴェニスト|author2=ゲラルド・ニョリ|authorlink2=ゲラルド・ニョリ|transrator=[[前田耕作]] |title=ゾロアスター教論考 |publisher=平凡社 |date=1996-12 |isbn=978-4-582-80609-0 |ref=バンヴェニスト、ニョリ 1996 }}
* {{Cite book |和書 |author=ロマン・ギルシュマン|authorlink=ロマン・ギルシュマン|translator=[[岡崎敬]]、[[糸賀昌昭]]、[[岡崎正孝]]| title=イランの古代文化 |publisher=平凡社 |date=1970-2 |asin=B000J9I12Q |ref=ギルシュマン 1970 }}


== 関連項目 ==
{{Commons|Darius I of Persia}}
{{Commons|Darius I of Persia}}
* [[アケメネス朝]]
* [[エジプト第27王朝]] - ダレイオス1世はエジプト王としてファラオに即位している。ダレイオス1世によるエジプト統治については当該項目を参照。
* [[ペルセポリス]]
* [[ベヒストゥン碑文]]
* [[ヘロドトス]]
* [[古代ペルシア語]]
* [[ペルシア戦争]]
* [[マラソンの戦い]]
* [[300 〈スリーハンドレッド〉 〜帝国の進撃〜]]


== 外部リンク ==
* {{Kotobank|ダリウス(1世)}}


{{先代次代|[[アケメネス朝]]の王|紀元前522年 - 紀元前486年|[[スメルディス]]|[[クセルクセス1世]]}}
{{先代次代|[[アケメネス朝]]の王|紀元前522年 - 紀元前486年|[[スメルディス]]|[[クセルクセス1世]]}}
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2024年12月4日 (水) 14:40時点における最新版

ダレイオス1世
𐎭𐎠𐎼𐎹𐎺𐎢𐏁
ペルシアの大王
在位 紀元前522年 - 紀元前486年
別号 エジプトのファラオ

出生 紀元前550年
死去 紀元前486年
配偶者 アトッサ
  アルテュストネ
  パルミュス
  フラタゴネ
  パイディメ
  ゴブリュアスの娘(名前不詳)
子女 アルトバザネス、クセルクセス1世(クシャヤールシャン1世)、アリアビゲネス英語版、アルサメネス、マシステス英語版アケメネス英語版、アルサメス、ゴブリュアス、アリオマルドス、アブリオコマス、ヒュペランテス、アルタゾストレ英語版
王朝 アケメネス朝
父親 ヒュスタスペス(ウィシュタースパ)
母親 ロドグネ(ワルダガウナ)
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ダレイオス1世古代ペルシア語: Dārayavau - ダーラヤワウ、紀元前550年頃 - 紀元前486年)は、アケメネス朝の王(在位:紀元前522年 - 紀元前486年)。一般にキュロス2世から数えて第3代とされるが、ダレイオス1世自身の言によれば第9代の王である。僭称者とされるスメルディス(ガウマータ)を排除して王位に就き、王国の全域で発生した反乱をことごとく鎮圧して、西はエジプトトラキア地方から東はインダス川流域に至る広大な領土を統治した。彼は自らの出自、即位の経緯、そして各地の反乱の鎮圧などの業績をベヒストゥン碑文として知られる碑文に複数の言語で記録させており、これは近代における楔形文字古代ペルシア語解読のための貴重な資料を提供した。 また、今日にもその遺跡が残されているペルセポリスの建設を開始した。

王名

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彼の名前は古代ペルシア語ではダーラヤワウDārayavauDārayava(h)uš[注釈 1])である。Dārayavauという名前は、語幹のdāraya(保持する者)と形容詞vau(善)からなり、「確固たる善を保持する者」を意味する即位名である[2]

古代ペルシア語の楔形文字表記では𐎭𐎠𐎼𐎹𐎺𐎢𐏁となる(𐎭da𐎠a𐎼ra𐎹ya𐎺va𐎢u𐏁š[3])。

日本語では一般にダレイオス1世またはダリウス1世として知られている。この名前はギリシア語形ダーレイオスDareîosΔαρεῖος)および、ラテン語形ダーリーウスDārīus)またはダーレーウスDārēus)から来ている[4]。また、旧約聖書の日本語訳においてはダリヨスという表記をされる場合もある。

ダレイオス1世と彼の後継者たちが支配した領域が広大であったため、彼の名前は多数の言語で様々な形態で記録されている。主要なものは以下の通りである。

称号

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ダレイオス1世は碑文において新機軸の王号を使用している。彼が築き上げた広大な帝国を支配するため、それに相応しい新たな王権観が必要とされ、かつてのアッシリアの称号なども参考に多数の称号が用いられた[5]。彼はキュロス2世(クル2世[注釈 3])が用いていた称号を一部踏襲しているが、更にアッシリア王の称号「諸王の王(šar šarrāni)」に由来する「諸王の王(Xšâyathiya Xšâyathiyânâm)」という称号を採用した[5]。この称号は同じく彼が用いている「この地界の王(Xšâyathiya ahyâyâ bumiyâ)」「諸邦の王(Xšâyathiya dahyunâm )」等とも密接に関連し、一部の地域ではなく様々な異民族を支配する世界帝国の王であることを強く意識した称号である[5][6]。また、アウラマズダー神の恩寵(Vašnâ Ahuramazdâ)によって王となったという一種の王権神授の立場を取った[5]。この点は彼以前の王、キュロス2世なども同様の論理を用いているが、ダレイオス1世が画期的であったのは、キュロス2世の称号がメソポタミアの神々の支持によるという、バビロニアの現地人向けの「政治宣伝」的な物であるのに対し、ダレイオス1世のそれはイラン系固有の宗教に基づくものであった点である[5]。このような変化は、後述の通り彼は簒奪者として王位についた可能性が高く、バビロニア人等の異民族よりもまずペルシア人の支持を勝ち取る必要があったからであろう[5]

なお、アウラマズダーは一般的にゾロアスター教の最高神アフラ・マズダーのことであると考えられているが、ダレイオス1世を含む古代ペルシア人の宗教をゾロアスター教と見做すかどうかについては議論がある[注釈 4]

来歴

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出自

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ダレイオス1世は自身の出自について以下のように語る。
  1. 余はダーラヤワウ(ダレイオス)、偉大なる王、諸王の王、パールサの王、諸邦の王、ウィシュタースパ(ヒュスタスペス)の子、アルシャーマ(アルサメス)の孫、ハカーマニシュ(アケメネス)の裔。
  2. 王ダーラヤワウは告げる、余の父はウィシュタースパ、ウィシュタースパの父はアルシャーマ、アルシャーマの父はアリヤーラムナ(アリアラムネス)、アリヤーラムナの父はチャイシュピ(テイスペス)、チャイシュピの父はハカーマニシュ。
  3. 王ダーラヤワウは告げる、このゆえに、われらはハカーマニシュ家と呼ばれる。往昔よりわれらは勢家である。往昔よりわれらの一門は王家であった。
  4. 王ダーラヤワウは告げる、我が一門にしてさきに王たりしは八人、余は第九位。二系にわかれて九人、われらは王である。
- ベヒストゥン碑文§1-4、伊藤義教訳[6]

ダレイオス1世はヒュルカニアパルティアサトラップ(クシャサパーワン、総督)ヒュスタスペス(ウシュタースパ)とロドグネ(ワルダガウナ)の長男として生まれた[9][10]ベヒストゥン碑文においてダレイオス1世自身が語るところによれば、その祖先はアケメネス家(ハカーマニシュ家)の分流であるという[6]

カンビュセス2世の崩御とガウマータの簒奪

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レリーフに描かれたダレイオス1世。

ダレイオス1世の幼少期についての情報は存在しない。ヘロドトスによれば、カンビュセス2世(カンブジヤ2世)の生前、ダレイオス1世はカンビュセス2世の槍持ちとして親衛隊にいたという[11]。この職業は王に極めて近い人物のみが付く高い職である[10]。また、バビロニアのサトラップ、ゴブリュアス(ガウバルワ)の娘と結婚し、3人の子供を儲けていた[10]。ダレイオス1世が主要な舞台に登場するのはカンビュセス2世の崩御(紀元前522年)とその後の王位継承の争いの頃である。この時代についての重要な記録はヘロドトスが『歴史』に記録している逸話と、ダレイオス1世自身が残したベヒストゥン碑文である[12]

ヘロドトスによる記録

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ヘロドトスによれば、カンビュセス2世は弟であるスメルディスによる王位簒奪を恐れ密かに殺害した。そのためスメルディスの死は人々に知られる事はなかった。しかしカンビュセス2世がエジプトに遠征している最中、本国を任せていたマゴスパティゼイノス[注釈 5]が反旗を翻した。このマゴス僧には容姿がスメルディスの生き写しの弟がおり、名前も同じスメルディスであった。そしてスメルディスの死が人々に知られていなかったことに目をつけ、この弟を殺害されたスメルディス王子その人であるとして玉座に着け、王国全土に布告を出した[13]。カンビュセス2世はエジプトからの帰国の途上、シリアでこの知らせを聞き、激しく狼狽した後、偽スメルディスを打倒するため急ぎ戻ろうとしたが、乗馬する際に剣の操作を誤って負傷し、シリアのアグバタナで死去した[15]。こうしてパティゼイノスと偽スメルディスがペルシアの支配権を握ったが、即位8カ月目にパルナスペスの子オタネス(ウターナ)が正体を暴き、ダレイオス1世を含む7人の同志[注釈 6] で、マゴス僧の兄弟を排除した[16]。事が済んだ後、7人は国制をどうするかについて議論したがまとまらず、城外に騎乗して遠乗りし、日の出と共に最初に馬がいなないた者が王となることを定めた。そして馬丁オイバレスの計略により最初に馬をいななかせることに成功したダレイオス1世が王となった[17]

ベヒストゥン碑文の記録

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一方、ベヒストゥン碑文によれば、ことの顛末は次のようなものであった。カンブジヤ2世(カンビュセス2世)は同母同父の弟バルディヤを殺害したが、バルディヤの死は人々には知らされなかった。その後カンブジヤ2世がムドラーヤ(エジプト)に進発すると民衆の間に不穏な空気が流れた。この時、マゴス僧ガウマータが「余はクル2世の息子であり、カンブジヤ2世の弟であるバルディヤである」と偽って宣言すると、民衆はカンブジヤ2世から離反してガウマータに付き、彼は王として王国を掌握した。その後カンブジヤ2世は寿命尽きて死んだ[18]。ガウマータは自分が偽物であることを隠し通すため、生前のバルディヤを知っている者の多くを粛清した。このため多くの人々は恐れおののき、ガウマータについて何事をも敢えて口にすることはなくなった。正当な王家の出身者であったダーラヤワウ1世(ダレイオス1世)はアウラマズダー神に助けを乞い、その恩寵を得てガウマータとその側近たちを殺害した。こうしてダーラヤワウ1世は王国をガウマータから奪回し、アウラマズダーの意思によって王となった[19]

二つの主要な記録に対する現代の評価

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上記の通りカンビュセス2世の崩御の前後についてのヘロドトスの記録とベヒストゥン碑文の記録は細部では食い違う物の、大筋は一致している[20][21]。しかし、近年ではこの記録の信憑性は疑問視されており、実際にはダレイオス1世の方が王位簒奪者として即位し、それを正当化するためにマゴス僧による王位簒奪の物語が創作されたのであるという見解が有力となっている[20][21]。詳細は後述の節を参照。

反乱

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ダレイオス1世時代のアケメネス朝の領域とサトラペイア(ダフユ)。赤字はダレイオス1世即位時に反乱が発生した、または反乱勢力の支配下に入った地区。

偽スメルディス(ガウマータ)を排除した後、紀元前522年に王位についたダレイオス1世は、王国全土で相次いで発生した反乱に対処しなければならなかった。この一連の反乱についてはベヒストゥン碑文に詳述されている。それによれば、ガウマータの死の翌月(紀元前522年10月[22])、エラム(ウーウジャ)でアーシナという人物が王を称して反乱を起こし、またバビロニア(バービル)ではナディンタバイラ(ニディントゥ・ベール)が新バビロニア王国の王ナブナイタ(ナボニドゥス)の息子ナブクドゥラチャラ(ネブカドネザル3世英語版) であると称して自立した[23]。ダレイオス1世はアーシナを逮捕することで迅速に制圧することに成功し[24]ティグリス川の河畔でバビロニア軍を撃破し、次いでナディンタバイラが滞在していたユーフラテス川河畔のザーザーナ市の戦いでもバビロニア軍を撃破した。ナディンタバイラはバビロン市に逃げ込んだが、ダレイオス1世はこの都市も制圧してナディンタバイラを殺し、バビロニアの反乱は鎮圧された[25]

ダレイオス1世がバビロニアに滞在している間、更に反乱が相次いだ[26]。紀元前522年12月[22]、エラム王イマニを名乗ったマルティヤという人物によってエラムで反乱が発生した。しかし彼は部下の裏切りにあって殺害されたためこれはすぐに終息した[27]。同月中に[22]、メディアでもフラワルティ(フラオルテス)がメディア王クシャスリタを称して反乱を起こした。この反乱はメディアの他、アルメニア(アルミナ)、アッシリア(アスラー)地方まで巻き込む大規模なものとなり、ダレイオス1世はメディアで2回、アルメニアで4回、アッシリアで1回の戦いを行った。メディアで行われた最後の戦いで逃亡したフラワルティを捕らえ、メディアの首都エクバタナで鼻と耳を舌をそぎ落とし最後に杭刺しにして殺害し反乱を鎮圧した[28]。次いでケルマーン(アサガルタ)でメディア王族を称するチサンタクマが反乱を起こしたため、一軍を差し向けてこれを鎮圧した[29]。更にフラワルティの臣下を称する者たちが反乱を続け、ダレイオス1世の父ウィシュタースパ(ヒュスタスペス)によって鎮圧された[30]

同じく紀元前522年12月にマルギアナ(マルグ)ではマルギアナ人フラーダによる反乱が発生したため、バクトリアサトラップ、ダーダルシに鎮圧が命ぜられ、これを撃破した[31]。更に同月[22]、ペルシア(パールサ)でワフヤズダータという人物が、キュロス2世(クル2世)の息子バルディヤを自称して反乱を起こしたため、これも臣下のアルタワルディヤによって鎮圧させた[32]。しかしアラコシア(ハラウワティ)に派遣されていたワフヤズダータの軍勢は彼の死後も反乱を続け、鎮圧には更に時間がかかった[33]。そして紀元前521年8月[22]、バビロニアで再び反乱が発生し、アルメニア人アラカがナブクドゥラチャラ(ネブカドネザル4世)を称してバビロニア王となった。このため、一軍を派遣してこれを鎮圧した[34]

ベヒストゥン碑文の記述を信ずるならば、上記の一連の反乱はダレイオス1世が即位したその年のうちに発生し鎮圧されたものである[35]。また6人のパールサ人(ペルシア人)の功績が特に大であったとして顕彰している[注釈 7]

更に紀元前520年春には[22]、再度エラムでアッタマイタという人物が反乱を起こしたためこれを鎮圧し、その翌年にはサカ人の領土に侵攻してその王スクンカを倒しこれを制圧した。こうしてダレイオス1世は王国の完全な支配を手に入れた[36]

治世

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内政の整備

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余はダーラヤワウ(ダレイオス)、偉大なる王、諸王の王、この果て遥かなる地界の王。ウィシュタースパ(ヒュスタスペス)の子、ハカーマニシュ(アケメネス)の裔。
また王ダーラヤワウは告げる、この基壇の上にこの宮邸は建てられた。以前には、ここには宮邸は建てられていなかった。アウラマズダーの恩寵によって余はこの宮邸を建てた。そしてアウラマズダーは、すべての神々とともに、この宮邸が建てられるように決定し給うたのであって、余はそれを建て、かつそれを完璧に、美しく、そして余がそれを決定したごとくに、建てたのである。
- ダレイオス1世のペルセポリス碑文f(エラム語版)§1-18、伊藤義教訳[37]

ダレイオス1世はアケメネス朝の体制を整備し完成させたと言われる[38]。彼は奪取した王位を安定させるため、キュロス2世の娘アトッサアルテュストネと結婚し、殺害されたスメルディス(バルディヤ)の娘パルミュスも妻とした。更にカンビュセス2世の妻となっていたオタネス(ウターナ)の娘パイデュメも妻とし、王家の血統の独占を図った[39][40]。彼の王国は20から29の邦(ダフユ)に分けられ、それぞれにサトラップが任命されていたが、その動きを監視するため、「王の目」、「王の耳」と呼ばれる王直属の官僚たちにその動きを監視させた[9][41][注釈 8]

中央集権的な体制の構築と、軍隊の迅速な移動のため、「王の道」と呼ばれる道路網が整備され、リュディアサルディス市からエラムのスサ市まで2400キロメートルに及んだ[42]。王の道には111の駅逓が整備され、通常90日かかる行程を早馬では7日で移動することができたとされる[42]。王の道の全容は明らかになっていないが、石畳で舗装された道路の一部が駅逓の跡と共に発掘されており、馬車を走らせることもできたと見られている[42]。また、中央集権の要として度量衡の統一が行われ、不完全ながら貨幣制度の整備も行われた[42]。銀貨や銅貨は各地のサトラップによっても発行され、ダレイオス1世自身もダリックと呼ばれる金貨を発行した[42]

また、その理由は現在では不明であるが、新たな首都としてペルセポリスの造営を開始した。この都市の造営はその後クセルクセス1世(クシャヤールシャン1世)、アルタクセルクセス1世(アルタクシャサ1世)の時代も続き、アケメネス朝の時代を通じて整備され続けた[37][42]。ペルセポリスにはダレイオス1世が残した建築碑文が複数残されている他、ペルセポリスのあちらこちらにダレイオス1世の一際大きく描かれた像が残されており、その強大な権力を今日に伝えている[43]

インドとスキタイへの遠征

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財政的な余裕を得たダレイオス1世は、かつてスキタイ人がメディアと小アジアを席巻したことへの報復としてスキュティアへの遠征を思い立った[44]。ダレイオス1世の弟アルタバノスはこの遠征の困難を訴えて制止したが、ダレイオス1世は攻撃を強行した[45]紀元前513年頃、ダレイオス1世がダーダネルス海峡を越えると、トラキア地方の諸族は戦わずして降伏し、唯一抵抗したゲタイ人も瞬く間に征服された[46]。その後、ダレイオス1世の軍勢は黒海の海岸沿いに北上したが、黒海北岸のスキタイ人本拠地への攻撃は、スキタイ人の焦土戦術の前に大きな損害を出して撤退を余儀なくされた。ヘロドトスの記録にはドナウ川を渡河した後、橋梁の建設の記事がないことから、ダレイオス1世の軍勢は少なくともドニエストル川に到着する前に撤退したと推定されている[47]。この時確保したトラキアは後のギリシア遠征への足掛かりとなった[38][48]

東方ではインダス川流域へも遠征が行われた。ダレイオス1世によるインダス川流域の征服がいつ頃行われたのかは不明である。ペルセポリスの碑文と、ナクシェ・ロスタムの碑文にインド人(ヒンドゥ)がガンダーラ人と共に臣民として数えられていることから、紀元前516年からダレイオス1世の没年までのある時期に征服されたと推定されている[49]。この遠征に先立ち、ダレイオス1世はカリュアンダ[注釈 9] 人スキュクラスにインダス川流域の探検と河口の確認を命じ、更にインドからエジプトへの航路を確認させた[50]。ダレイオス1世が征服したインドが実際にどの地方だったのか、正確なことはわかっていない。パンジャーブ地方の大部分を含んでいたとも考えられるし、インダス川の両岸地区を河口に達するまで支配した可能性もある[49]。ただし、実際に征服された範囲がどの程度であったにせよ、インドはアケメネス朝の版図の中で最も税収の多いサトラペイア(ダフユ)となった。ヘロドトスによればインドはアケメネス朝の第20徴税区であり、砂金360タラントンを納入していた[51]。これはインド以外の全てのサトラペイアの合計に匹敵したという[51][注釈 10]

イオニアの反乱

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アナトリア半島のエーゲ海沿岸に居住していたギリシア人の一派であるイオニア人は、元々ダレイオス1世の王国に恭順の姿勢を示していた。アケメネス朝側の記録にはこのイオニア人はヤウナ[52] や、陸地と海浜のヤウナ人[53] として記載されている。アケメネス朝はイオニア人のポリスに自治を認めつつ、従属的な僭主を統治者とすることで支配を行った[54]。紀元前513年頃のダレイオス1世のスキタイ遠征の最中、スキタイ人はアケメネス朝の軍団に加わっていたギリシア人の部隊に調略を行い、ペルシアからの離反を唆した。アテナイ人でケルソネソスの僭主であったミルティアデスが同調しギリシア人の解放を主張したが、イオニアの主邑ミレトスの僭主ヒスティアイオスは、ダレイオス1世の存在によって自分達の地位が安泰なのであると主張し、他の僭主たちも同調したためこの時には離反は起こらなかった[54][55][注釈 11]

スキタイ遠征から引き揚げた後、ダレイオス1世は残留させたペルシア軍に周辺地域の平定に当たらせた。指揮官に任じられたメガバゾスはトラキア地方のほとんどを制圧し、パイオニアも平定してマケドニアの手前までを支配下に置いた[56]。帰還したメガバゾスは、ミレトス僭主ヒスティアイオスが大功ありとして新たな領土を与えられたことを危険視し、彼を本国のスサに移させた[57]。その後、メガバゾスの後任としてエーゲ海沿岸地域の司令官となったシサムネスの子オタネス[注釈 12] はビュザンティオンとカルケドンを征服すると共に、レムノス島インブロス島も制圧し、エーゲ海沿岸でのアケメネス朝の支配地は順次拡大した[58]

紀元前499年、アケメネス朝のサルディスのサトラップ、アルタプレネスはミレトスの臨時僭主アリスタゴラスと共謀し、ナクソスの内紛に乗じてこれを征服するべく、メガバテスを総司令官にナクソス遠征を企画した[59]。しかし方針を巡ってメガバテスとアリスタゴラスが対立した上、4ヶ月に渡る包囲戦の末に軍資金が底をつき退却を余儀なくされた。失敗の責任を問われて地位を失うことを恐れたアリスタゴラスは反乱に踏み切った[60]。アリスタゴラスが他のイオニア都市も反乱に引き込んだため、これがイオニアの反乱と呼ばれる反乱に発展した。アリスタゴラスは事を起こす前にアテナイスパルタなどに支援を要請した[54]。スパルタは協力を拒否したものの、アテナイとエレトリアがイオニアへ軍事支援を行った[54]

しかしアテナイは初戦の敗退の後イオニアを見放し、結果としてイオニアの反乱は紀元前494年にミレトスが陥落したことで鎮圧された[54][61]

ペルシア戦争

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ダレイオス1世の対外遠征の中で史上名高いのはイオニアの反乱に端を発したギリシア遠征である。この戦いは一般にペルシア戦争と呼ばれる数次にわたる戦争の第一回目とされている。

ダレイオス1世はイオニアの反乱を鎮圧した後、紀元前492年に甥のマルドニオスに艦隊を与えて、反乱へ加担したアテナイやエレトリアへの懲罰を目的として遠征を行った。この遠征は暴風雨にあって失敗し、マルドニオスは解任された[10]。その後、ダレイオス1世はギリシア人の諸ポリスに、土と水を献上して恭順の意を示すように要求し[54]、多くのポリスがそれに従ったが、アテナイやスパルタはこれを拒否した[54]紀元前490年、服従の意を示さなかったポリスを平定するため、ギリシアへ大規模な遠征軍が派遣された[54]。ダレイオス1世はメディア人ダティスと、アルタプレネスの子アルタプレネスにアテナイとエレトリアの征服を命じ[62]、7日間の攻撃でエレトリアは陥落した[63]。エレトリアの陥落の後、ペルシア軍はマラトンの平野でミルティアデス率いるアテナイ軍の前に敗退し(マラトンの戦い[64])、ギリシア遠征は失敗に終わった。ただし、ダレイオス1世は捕虜としたエレトリアの市民をスサに近いキッシア地方に定住させた[65]

崩御とその後

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余は余の友人たちにたいして友人であった。乗馬者や射手として、他のすべてのものよりも優秀であることを余は証明した。余は狩猟者としても優れていることを示した。余はあらゆることをすることができた。
- ダレイオス1世の墳墓の碑文[66]

ダレイオス1世は2度にわたる遠征の失敗に憤激し、より大規模な遠征軍を編成して親征することを決断した[67]。しかしその準備の最中、エジプト(ムドラーヤ)で反乱が発生したため、ギリシアとエジプトのどちらへの遠征を優先すべきかが問題となった[67]。ところが、紀元前486年8月にダレイオス1世は急死し、ギリシアへの遠征もエジプトの反乱鎮圧も後継者の手に委ねられることになった[68][69]

ダレイオス1世には後継者の候補として即位以前に結婚していたゴブリュアスの娘(名前不詳)との間に長子アルトバザネスを始めとする3人の息子がおり、キュロス2世の娘アトッサとの間にはクセルクセス1世(クシャヤールシャン1世)がいた[70]。ヘロドトスは王位継承を巡る対立と、クセルクセス1世が後継者に定まる顛末を記録しているが[71]、母アトッサの権勢が強かったため、クセルクセス1世が後継者になったのは既定のことであったと評している[71]。ペルセポリスの浮彫には大きく描かれたダレイオス1世の像の傍らに太子クセルクセス1世が描かれており、考古学的にもクセルクセス1世が当初より正当な後継者として扱われていたのは明らかである[72]

ダレイオス1世は偉大なペルシアの王として後のギリシア人たちに大きな印象を残した。ヘロドトスはダレイオス1世の即位から崩御に至るまでの治世全期間を、様々な挿話を交えつつ記録に残している。また、アケメネス朝を滅ぼしたマケドニアの王アレクサンドロス3世(大王)は、キュロス2世とダレイオス1世と言う二人の創始者の業績に感嘆し、彼らの墳墓を訪れた際に、ダレイオス1世の墓に刻まれた碑文をギリシア語訳するように命じた[66]

アケメネス朝の創設者としてのダレイオス1世

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通常、ダレイオス1世はキュロス2世カンビュセス2世に続くアケメネス朝の第3代の王であるとされる。一方、ベヒストゥン碑文でダレイオス1世が自ら語るところによれば彼はアケメネス(ハカーマニシュ)家の第9代の王である[6]。しかし、近年では偽スメルディス(ガウマータ)の排除を巡る伝承に含まれる矛盾や[注釈 13]、その後相次いだ反乱などから、王位継承にまつわる一連のダレイオス1世の主張はプロパガンダに過ぎず、実際にはダレイオス1世の方が簒奪者であったとする見解が有力である[20]

ギリシア史・マケドニア史研究家の森谷公俊は更に論を進め、アケメネス(ハカーマニシュ)朝を実際に創出したのはダレイオス1世であったとする[75]。ベヒストゥン碑文においてダレイオス1世の祖先としてあげられるヒュスタスペス(ウィシュタースパ)、アルサメス(アルシャーマ)、アリアラムネス(アリヤーラムナ)、テイスペス(チャイシュピ)、アケメネス(ハカーマニシュ)の中に王であった人物は存在しない。テイスペスはキュロス2世の祖父にあたるキュロス1世(クル1世)の父であるので、碑文を全面的に信用したとしても、ダレイオス1世は4代前でようやく王家と繋がる傍系であったことがわかる[75]。重要なことは、キュロス2世自身が語る系譜にはアケメネスという人物が登場しないことである[75]。キュロス2世は「私はキュロス(クル)、偉大なる王、アンシャンの王カンビュセス(カンブジヤ)の子、偉大なる王、アンシャンの王キュロスの孫、テイスペス(チャイシュピ)の裔」としか宣言していない[75]。そして、キュロス2世、アルサメス、アリアラムネスの碑文が見つかっているが、その全てがダレイオス1世以降の時代に追刻されたものであることがわかっている[76]。また、ダレイオス1世は、王位に就いた後、キュロス2世の名前で「アケメネス家のキュロス」という文言を含む碑文をいくつも刻み、更にキュロス2世やカンビュセス2世、スメルディスの妻や娘全てと結婚し、王家の血統を独占することに熱心であった[75]。これらの事から、キュロス2世は簒奪者ダレイオス1世によってアケメネス朝の王として再定義されたのであり、そのことからダレイオス1世はペルシア帝国の再創造者であったと言えると言う[75]

脚注

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注釈

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  1. ^ 日本語ではダーラヤワウともダーラヤワウシュとも表記される。これは古代ペルシア語はインド・ヨーロッパ語族に属する屈折語であり、固有名詞も文法的条件により格変化を起こすためである。ダーラヤワウは名詞幹のみの形態であり、ダーラヤワウシュは単数主格形である[1]
  2. ^ 擬古形ではdrywhwšという形を取る。恐らくこれのギリシア語形がダーレイアイオス(Dareiaîos)であり、クテシアスの『ペルシア史』とクセノフォンの『ギリシア史』においてのみ検出される形である[2]
  3. ^ 一般にキュロス2世はアケメネス朝の初代王とされる。彼の祖父の名前もキュロスであることから、彼自身はキュロス2世とされる。キュロス1世はアンシャンの王としてキュロス2世の祖先の系譜にリストされている。
  4. ^ アケメネス朝の王たちが残した碑文中にゾロアスター(ザラスシュトラ)への言及はなく、またゾロアスター教においてアフラ・マズダーと対を為す悪神アーリマンへの言及もない[7]エミール・バンヴェニストは、当時のアケメネス朝の宗教について、はっきりとそれが「ゾロアスター教」であることを示すいかなる証拠も存在しないとし、アウラマズダーという神格はゾロアスター教よりも古い起源を持つものであると指摘する[7]。そしてこの時期に存在したアケメネス朝の宗教はギリシア人たちが記録したペルシア人の宗教である「マゴスの宗教」とも「ゾロアスター教」とも異なる「マズダー教」とでも呼ぶべきものであったとする[7]。一方で、ゲラルド・ニョリはマズダー教とゾロアスター教を等価として扱えるものであるとし、アケメネス朝の宗教はゾロアスター教であったと確言する[8]
  5. ^ ヘロドトスが記すパディゼイノスというマゴス僧の実在は疑わしい。ヘロドトスは彼についてカンビュセス2世留守中に王家の面倒を任された人物であるとするが[13]、これは「執事」、「管理人」を意味するパティクシャヤティア(patiXšâyathia)という役職を固有名詞として、簒奪者を二人に分割したものであると考えられる [14]
  6. ^ ヘロドトスによれば、オタネス(ウターナ)、アスパティネス(アシュパカナ)、ゴブリュアス(ガウバルワ)、インタプレネス(ウィンダファルナフ)、メガビュゾス(バガブクシャ)、ヒュダルネス(ウィダルナ)、ダレイオス1世(ダーラヤワウ1世)の7人
  7. ^ 対象者はウィンダファルナフ(インタプレネス)、ウターナ(オタネス)、ガウバルワ(ゴブリュアス)、ウィダルナ(ヒュダルネス)、バガブクシャ(メガビュゾス)、アルドゥマニシュ
  8. ^ 「王の目」「王の耳」という名称はヘロドトスによるが[41]、これは恐らくディディヤカ(*didiyaka、見張り)、ガウシャカ(gaušaka、聞き手)の訳語であると推定される[37]
  9. ^ アナトリア半島カリア地方沿岸にある小島。
  10. ^ ただし、松平千秋は『歴史』の訳注にてこの表現は誇張が過ぎるであろうと述べている。
  11. ^ ヘロドトスによればこの時ヒスティアイオスに同調したのはヘレスポントス地方のポリスの僭主としては、アビュドスのダプニス、ランプサコスのヒッポクロス、パリオンのヘロバントス、プロコンネソスのメトロドロス、キュジコスのアリスタゴラス、ビュザンティオンのアリストン、イオニア地方のものとしてはキオスのストラッティス、サモスのアイアケス、ポカイアのラオダマス、そしてアイオリス地方のキュメのアリスタゴラスらである。
  12. ^ スメルディス(ガウマータ)の排除に関わったオタネス(ウターナ)とは別人。
  13. ^ ギリシアの文献によれば、偽スメルディス(ガウマータ)は本物のスメルディスと見分けがつかないほど似通った容姿をしていたとされるが、仮にそのような人物が存在したとしても本人そのものとして振る舞うことができたとは考えられず、このような説話はおよそ現実的なものではない。このため、僭称者など存在せずダレイオス1世が殺害した偽スメルディスとは本物の王弟そのものであったという推測がしばしば行われる[73]。また別の説として、この「偽」の王スメルディスとは古代オリエントにおいて時折見られた身代わり王(代理王、王に凶兆があった時に一時的に王として扱われ、本物の王に代わって凶兆を受ける存在)だったのではないかとする説もある[74]

出典

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  1. ^ 伊藤 1974, p. xviii
  2. ^ a b c d e f g Encyclopedia Iranica DARIUS i. The Name”. 2017年12月31日閲覧。
  3. ^ 伊藤 1974, 巻末のペルシア式楔形文字表に依る。
  4. ^ 西洋古典学辞典 2010, pp. 738-739 「ダーレイオス」の項目より
  5. ^ a b c d e f 田辺 2003, pp. 154-156
  6. ^ a b c d 伊藤 1974, pp. 22-50
  7. ^ a b c バンヴェニスト 1996, pp. 12-44
  8. ^ ニョリ 1996, pp. 12-44
  9. ^ a b Encyclopedia Iranica DARIUS iii. Darius I the Great”. 2017年12月31日閲覧。
  10. ^ a b c d 山本 1997, p. 130
  11. ^ ヘロドトス, 巻3§139
  12. ^ 森谷 2016, p. 54
  13. ^ a b ヘロドトス, 巻3§61
  14. ^ 森谷 2016, p. 59
  15. ^ ヘロドトス, 巻3§65
  16. ^ ヘロドトス, 巻3§70-79
  17. ^ ヘロドトス, 巻3§80-86
  18. ^ ベヒストゥン碑文, §11
  19. ^ ベヒストゥン碑文, §13
  20. ^ a b c 森谷 2016, pp. 55-56
  21. ^ a b 山本 1997, pp. 128-129
  22. ^ a b c d e f 森谷 2016, pp. 67-68
  23. ^ ベヒストゥン碑文, §16
  24. ^ ベヒストゥン碑文, §17
  25. ^ ベヒストゥン碑文, §18_20
  26. ^ ベヒストゥン碑文, §21
  27. ^ ベヒストゥン碑文, §23
  28. ^ ベヒストゥン碑文, §24-32
  29. ^ ベヒストゥン碑文, §33
  30. ^ ベヒストゥン碑文, §35-36
  31. ^ ベヒストゥン碑文, §39
  32. ^ ベヒストゥン碑文, §41-42
  33. ^ ベヒストゥン碑文, §45-47
  34. ^ ベヒストゥン碑文, §49-59
  35. ^ ベヒストゥン碑文, §52
  36. ^ ベヒストゥン碑文, §71-76
  37. ^ a b c 伊藤 1974, pp. 68-79
  38. ^ a b 山本 1997, p. 133
  39. ^ ヘロドトス, 巻3§88
  40. ^ 森谷 2016, pp. 72-73
  41. ^ a b 山本 1997, p. 134
  42. ^ a b c d e f 山本 1997, p. 136
  43. ^ 山本 1997, p. 139
  44. ^ ヘロドトス, 巻4§1
  45. ^ ヘロドトス, 巻4§83
  46. ^ ヘロドトス, 巻4§93
  47. ^ ギルシュマン 1970, pp. 138-139
  48. ^ ヘロドトス, 巻4§130-136
  49. ^ a b 中村 1997, pp. 10-11
  50. ^ ヘロドトス, 巻4§44
  51. ^ a b ヘロドトス, 巻4§94
  52. ^ ベヒストゥン碑文, §6
  53. ^ ダレイオス1世のペルセポリス碑文e
  54. ^ a b c d e f g h 桜井 1997, pp. 127-129
  55. ^ ヘロドトス, 巻4§137
  56. ^ ヘロドトス, 巻5§1-17
  57. ^ ヘロドトス, 巻5§23
  58. ^ ヘロドトス, 巻5§25
  59. ^ ヘロドトス, 巻5§28-33
  60. ^ ヘロドトス, 巻5§35-36
  61. ^ ヘロドトス, 巻5§99-126, 巻6§1-22
  62. ^ ヘロドトス, 巻6§94
  63. ^ ヘロドトス, 巻6§101
  64. ^ ヘロドトス, 巻6§111-117
  65. ^ ヘロドトス, 巻6§119
  66. ^ a b ギルシュマン 1970, pp. 143-144
  67. ^ a b ヘロドトス, 巻7§1
  68. ^ ヘロドトス, 巻7§4
  69. ^ 山本 1997, p. 148
  70. ^ ヘロドトス, 巻7§2
  71. ^ a b ヘロドトス, 巻7§3
  72. ^ 山本 1997, pp. 132-133, 139
  73. ^ 阿倍 2023, p. 198
  74. ^ 阿倍 2023, p. 199
  75. ^ a b c d e f 森谷 2016, pp. 70-74
  76. ^ 伊藤 1974, pp. 109-115

参考文献

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史料の和訳

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  • ヘロドトス歴史 上』松平千秋訳、岩波書店岩波文庫〉、1971年12月。ISBN 978-4-00-334051-6 
  • ヘロドトス『歴史 中』松平千秋訳、岩波書店〈岩波文庫〉、1972年1月。ISBN 978-4-00-334052-3 
  • ヘロドトス『歴史 下』松平千秋訳、岩波書店〈岩波文庫〉、1972年2月。ISBN 978-4-00-334053-0 
  • 伊藤義教 訳「ベヒストゥン碑文」『古代ペルシア』岩波書店、1974年1月。ISBN 978-4007301551 

書籍

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関連項目

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外部リンク

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先代
スメルディス
アケメネス朝の王
紀元前522年 - 紀元前486年
次代
クセルクセス1世
先代
スメルディス
古代エジプト王
紀元前521年 - 紀元前486年
次代
クセルクセス1世