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2017年11月22日 (水) 17:45時点における版
世祖 楊広 | |
---|---|
隋 | |
第2代皇帝 | |
王朝 | 隋 |
在位期間 | 604年8月21日 - 618年4月11日 |
姓・諱 | 楊広 |
諡号 |
明皇帝(楊侗より) 煬皇帝(李淵より) 閔皇帝(竇建徳より) |
廟号 | 世祖(楊侗より) |
生年 | 天和4年(569年) |
没年 |
大業14年3月11日 (618年4月11日) |
父 | 楊堅(第2子) |
母 | 独孤皇后 |
后妃 | 蕭皇后 |
陵墓 | 雷塘 |
年号 | 大業 : 605年 - 618年 |
煬帝(ようだい[注釈 1]、ようてい[注釈 2])は、隋朝の第2代皇帝(在位:604年8月21日 - 618年4月11日)。煬帝は唐王朝による追謚である。中国史を代表する暴君といわれる[2]。
生涯
即位まで
後に煬帝となる楊広は、文帝楊堅の次子として生まれる。文帝により隋が建国されると晋王となり北方の守りに就き、南朝の陳の討伐が行われた際には、討伐軍の総帥として活躍した。この時、初めて華やかな南朝の文化に触れ、当地の仏教界の高僧達と出会ったことが後の煬帝の政治に大きな影響を与えたようである。591年には、天台智顗より菩薩戒と「總持」の法名(居士号)を授かり、智顗に対しては「智者」の号を下賜している。
楊広の生母の独孤伽羅は一夫一妻意識が強い匈奴出身であったため、「自分以外の女とは関係しない」と文帝に誓わせている。また文帝自身は質素倹約を是としていた。ところが、楊広の兄で皇太子の楊勇は派手好みで愛妾を求め、正妃を疎かにしたため、特に皇后に嫌われた。この状況を楊広が利用して自らの質素を宣伝すると共に、腹心の楊素と張衡らによる文帝への讒言を行って楊勇を廃させ、皇太子の地位をいとめた。
604年に文帝の崩御に伴い即位したが、崩御直前の文帝が楊広を廃嫡しようとして逆に暗殺された、とする話が根強く流布した(『隋書』「后妃伝[注釈 3]」でも言及している)。
治世
即位した煬帝はそれまでの倹約生活から豹変し奢侈を好む生活を送った。また廃止されていた残酷な刑を復活させ、謀反を企てた楊玄感(煬帝を擁立した楊素の息子)は九族に至るまで処刑されている。
洛陽を東都に定めた他、文帝が着手していた国都大興城(長安)の建設を推進し、また100万人の民衆を動員し大運河を建設、華北と江南を連結させ、これを使い江南からの物資の輸送を行うことが出来るようになった。対外的には煬帝は国外遠征を積極的に実施し、高昌に朝貢を求め、吐谷渾、林邑、流求(現在の台湾、一説に沖縄)などに出兵し版図を拡大した。
さらに612年には煬帝は高句麗遠征を実施する。高句麗遠征は3度実施されたが失敗に終わり、煬帝に離反して亡命した高句麗から送還された斛斯政を射殺に処して、その遺体を釜茹でにするなど、これにより隋の権威は失墜した。また国庫に負担を与える遠征は民衆の反発を買い、第2次遠征途中の楊玄感の反乱など各地で反乱が発生、隋国内は大いに乱れた。615年8月、雁門において突厥に包囲された。煬帝は多大な賞賜を約束して援軍を募ったが、突厥が撤退すると恩賞を払わず、多くの将士から恨みを買った。各地で李密、李淵ら群雄が割拠する中、煬帝は難を避けて江都に逃れた。
最期
煬帝は反乱の鎮圧に努める中で次第に現実から逃避して酒色にふける生活を送り、皇帝としての統治能力は失われた[3]。ある日、煬帝は眠れなかったので天を仰ぐと、帝星が勢いを失い傍らにあった大星が妖しげな光を放っているのを見て、不吉なものを感じて天文官に聞いてみると、「近頃、賊星が帝星の座をおかしています。また日光は四散してあたかも流血のごとき模様を描いております。このまま時が過ぎますと、恐らくは近々に不測の禍が起こりましょうから、陛下には直ちに徳をおさめられてこの凶兆を払う事が肝要と存じます」と述べた[3]。この日から煬帝は国事の奏上を受け付けなくなり、奏上する者は斬罪に処すという命令を出した[4]。
618年、江都で煬帝は故郷への帰還を望む近衛兵を率いた宇文化及・宇文智及兄弟や裴虔通らによって、末子の趙王楊杲(13歳)と共に50歳にして殺害された[5]。
歴史的評価
煬帝は暴君として描写され、その業績は否定的に評価される傾向にある。
大運河に関しては女性までも動員した急工事でこれを開鑿し、開通のデモンストレーションとして自ら龍船に乗って行幸したために、「自らの奢侈のために多数の人民を徴発した」などと後世に評されることになる。しかし大運河の建設は、長期間分裂していた中国を統一するための大事業でもあった。
また、共に次子でありクーデターによって帝位に就くなど、環境や行動に類似点の多い唐太宗の正統性を主張するため、煬帝(ようだい)という貶字を謚号に用い、『隋書』にも暴君であるように編纂したとする意見もある[6]。
煬帝個人に関する研究は多いとは言えないが、その中で宮崎市定・布目潮渢・アーサー・F・ライトが挙げられ、いずれも煬帝の暴君像は後世に(その程度がどれほどであったかは別として)誇張されたとする点では共通している。
2013年3月、中国江蘇省揚州市の工事現場で古代遺跡が発見された。2013年11月16日、この遺跡が煬帝の墓であることが発表された[7]。
詩人としての煬帝
煬帝は統治者としては結果として国を滅ぼした失格者であったが、一面では隋代を代表する文人・詩人でもあった。治世中各地に巡幸した際などしばしば詩作を行なったといわれる。治世後半には自らの没落を予見したのか、寂寥感を湛える抒情詩を数多く残した。煬帝の作品は文学史上からも高い評価を受けている。
代表作
- 飲馬長城窟行
- 突厥との戦いに赴く遠征軍の雄姿を描き出す。
- 野望
- 静かな村を描写。
- 春江花月夜
- 静寂におおわれた長江の夕暮れを描写。
原文 | 書き下し文 |
---|---|
暮江平不動 | 暮江 平にして動かず |
春花滿正開 | 春花 満ちて正に開く |
流波將月去 | 流波 月を将いて去り |
潮水帶星來 | 潮水 星を帯びて来る |
倭国との関係
倭国が第2回遣隋使(607年)を遣わしたのがこの煬帝の治世で、「日出處天子致書日沒處天子無恙」(日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無しや)の有名な書き出しで始まる国書が倭王[注釈 4]から送られている[8]。東夷の島国の王が「天子」を称するのは固より剰え対等な関係を求め、字面では「没落の途にある皇帝」を意味する「日没處天子(倭で日没は方位を表す程度の表現であった)」という語句に煬帝はいたく立腹したが、当時隋は高句麗遠征を控えて外交上倭国との友好関係は必要と判断し、裴清[注釈 5]を倭国へ派遣した。煬帝在位中に遣隋使はこの第2回を含めて計4回も派遣されている。
宗室
后妃
男子
女子
年号
煬帝を扱った作品
- 塚本青史『煬帝』上下(日本経済新聞出版社、2011年1月26日 ISBN 978-4532171025 / ISBN 978-4532171032)
- 田中芳樹『隋唐演義〈2〉隋の煬帝ノ巻』(中公文庫、2004年3月 ISBN 978-4122043350)
- 田中芳樹『風よ、万里を翔けよ』(徳間書店、1991年3月 ISBN 978-4191244931)
脚注
注釈
- ^ 後世への訓戒として、其の余りの暴君振りが万人に直ぐに判る様に特殊読みにされた。[要出典]
- ^ 「ようだい」は日本古来の読み癖と謂われる。[1]
- ^ (英語) 隋書/卷36, ウィキソースより閲覧。によれば、煬帝は父の愛妾(妃)である宣華夫人に迫ったが、夫人は病室に逃げ戻り文帝にそのことを告げた。文帝は怒り、楊勇を呼ぶように命じたがかなわず(このときの罵りは隋書では「畜生」とある)、その直後に張衡が病室に入ってきて女性全員を下がらせたなかで、文帝は崩御したといわれる。なお張衡は8年後に誅殺される。
- ^ 『日本書紀』に記述のない第1回の遣隋使では「開皇二十年 俀王姓阿毎 字多利思北孤」号を「阿輩雞彌」で「王妻號雞彌 後宮有女六七百人 名太子爲利歌彌多弗利」という。一般に多利思北孤は厩戸皇子(聖徳太子)と考えられている。
- ^ 『日本書紀』では裴世清、これが本名である。『隋書』がまとめられたのは次の唐の時代であり、当時は唐の太宗李世民の諱を忌避して「世」を欠字にしている。
出典
参考文献
- 宮崎市定 『隋の煬帝』(人物往来社、1965年)
- 布目潮渢 『隋の煬帝と唐の太宗』(清水書院、新版1987年 ISBN 4389440446)
- 陳舜臣 『中国の歴史 四』(講談社文庫、1991年、ISBN 4061847856)
- アーサー・F・ライト「Sui Yang-ti: Personality and Stereotype」(『Confucian Persuasion』の一章、スタンフォード大学、ISBN 0804700184)
関連項目
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