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ノート:煬帝

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>「このため、従来、大運河は煬帝の遊行のための施設だったと喧伝され、前述の東京造営などとともに、煬帝を暴君として非難する材料とされているが、この大運河の完成こそ南北統一の具体的成果であって、海上輸送や陸運の困難な当時に於いてその便利さはすばらしいものであった。」(『隋唐帝国』P48、ISBN 4061593005布目潮フウ栗原益男
とあります。おおよそ大運河の目的が南北統一を確かなものとするためにあったというのは中国史研究者の間では一致しているかと思われます。奢侈が理由であるというのはいわば巷間に流布されている「お話」であり、これを紹介した井波氏の本も一般向けのものであって、これを歴史的事実であるかのように載せるのは問題があると思います。らりた 2007年5月5日 (土) 13:10 (UTC)[返信]

ウイキペディアはあくまで百科事典であり、そうである以上は「信憑性が低いもの」であっても「巷間に広まっている説」はとりあげて然るべきではないでしょうか? 個人の意見により恣意的な取捨選択を行ってしまっては、それは「Wikipedia:独自研究は載せない」という方針に反する事にはならないでしょうか? KSKS 2007年5月5日 (土) 13:55 (UTC)[返信]

独自の研究でない証拠として『隋唐帝国』を示したのですが・・・?そもそも大運河は煬帝の父・文帝が始めた事業であり、文帝はご存知の通り質素倹約が趣味。それなのに大運河が煬帝の奢侈が目的などというのはとは大いなる矛盾だと思いますが。
もう一つ出典。
>「煬帝の代になっても運河開鑿は続行され、大業元(605)年には百万余人を徴発しての黄河・淮水間の通済渠が、同四年には黄河と涿郡(現北京)の白河を結ぶ永済渠が完成した。永済渠は女性までも徴発した人海戦術で掘削されたもので、主として高句麗遠征という戦略上の目的によるものである。」(『世界歴史体系 中国史2』P.293(池田温編、当該部分を書いたのは愛宕元、山川出版社、ISBN 4634461609))
両者とも定評のある中国通史の本であり、スタンダードな研究成果を示すものと思われます。「煬帝の奢侈」という説を紹介するなとは言いませんが、あくまで通俗的な「お話」と研究成果とは区別してしかるべきと思います。らりた 2007年5月11日 (金) 13:20 (UTC)[返信]


>独自の研究でない証拠として『隋唐帝国』を示したのですが・・・?

だから、資料の取捨選択が偏るのが「独自の研究」ではないですか? と、そう指摘しているのですが。 あなたがいくら資料を提出しても、「それとは違う資料がある」という事実は動かない訳です。それが理解できませんか? そして一部の資料を「通俗的な『お話』」と断定する事自体が、「独自の研究」ではないですか? KSKS 2007年5月11日 (金) 15:50 (UTC)[返信]

取捨選択に問題ありということですが、『隋唐帝国』は『中国史研究入門』上(ISBN 4634654806)に、山川『中国史』は『中国歴史研究入門』(ISBN 481580527X)にそれぞれ参照すべき概説書として取り上げられていますが、井波氏の『酒池肉林』は『史研究』『歴史研究』ともに言及がありません。井波氏の本はそういった奢侈に関する面白いエピソードを取り上げて紹介するのが目的の「一般書」であり、煬帝の「研究書」ではないということです。一般書と研究書を並列に取り上げた両論併記は「フェアに見せかけたアンフェア」であり、正しいこととは思えません。
「ある事柄が単に『検証可能』だからといって、それをウィキペディアに書いてよいとは限りません。」(Wikipedia:検証可能性より)
繰り返しますが研究と「お話」とは明確に区別されるべきです。らりた 2007年5月12日 (土) 12:06 (UTC)[返信]

ですから「研究とお話とは明確に区別されるべき」とか「一般書と研究書」とかいう恣意的な差別こそ、アンフェアな取り上げ方としか思えないのですが。 「フェアに見せかけたアンフェア」とまで言うのであれば、それは議論ではなく、暴言、誹謗中傷の類としか解釈できませんが。 KSKS 2007年5月12日 (土) 13:37 (UTC)[返信]


では、そこまで言うのであれば、「信用度が高さ」について「研究所と一般書」などという曖昧な言葉ではなくて「数値化された信用できるデータ」として提示してもらえないでしょうか? 歴史の考察について「この説の信用度のほうが○○%高い」といったデータです。そんなものが有り得るのでしょうか? それが提示できるのであれば、それで結構です。できないのであれば、両論併記はやむを得ないでしょう。KSKS 2007年5月12日 (土) 13:43 (UTC)

言うまでもなく数値的なデータなど提示できる訳がありません。しかし『中国史研究入門』・『中国歴史研究入門』は信頼度の証拠としては十分と私は認識しております。これを恣意的といわれてはかないません。らりた 2007年5月12日 (土) 13:14 (UTC)[返信]

だから『中国史研究入門』・『中国歴史研究入門』を全面否定する訳ではありません。それら資料に対して盲従するがごとき態度、それら資料に反するものは全否定するという偏狭な態度が恣意的だと言っています。KSKS 2007年5月12日 (土) 15:13 (UTC) 

全面否定するわけではありませんが、概ね無視して構わないと考えています。『中国史研究入門』・『中国歴史研究入門』で井波氏の著作を取り上げていないことおよび『隋唐帝国』『中国史』で明確に「奢侈目的ではない」と記述されていることをその理由として挙げています。逆にお尋ねしますが、井波氏の著作を取り上げる理由は何でしょうか?単にその資料に書いてあるからでは理由になりません。「ある事柄が単に『検証可能』だからといって、それをウィキペディアに書いてよいとは限りません。」ということです。らりた 2007年5月12日 (土) 14:48 (UTC)[返信]
われわれウィキペディアンが依拠すべき資料は、信頼できる情報源だとされています。資料は、その信頼性に応じて優劣がつけられて当然なのであり、中国史研究の場で検証され、また多く参照されている文献と、中国史研究の場でほとんど顧みられず、検証も参照もされていない文献とでは、前者の信頼性が後者のそれに比してはるかに優っていることはいうまでもないでしょう。井波先生の所説は学問的な厳密性を有していないどころか、学術研究レベルでは否定されているようですので、ウィキペディア執筆において、捨象されてもやむをえないと思いました。--shimoxx 2007年5月12日 (土) 15:17 (UTC)[返信]


>井波先生の所説は学問的な厳密性を有していないどころか、学術研究レベルでは否定されているようですので

そちらに関しての出典の開示をお願いしたい。 KSKS 2007年5月12日 (土) 15:20 (UTC)

上でらりたさんが述べておられるように、主要な中国史文献に参照されていないということと、主要文献において「奢侈目的でない」と明記されていることが根拠です。--shimoxx 2007年5月12日 (土) 15:30 (UTC)[返信]

ですから「主要な中国史文献」という「曖昧な言葉の説明」ではだめだと言っているのですが。どうしてもというのであれば、数字的データは極端として、「この文献は正しい。この文献は問題がある」と記した、別の出典・客観的資料を提示して下さい。「主要な中国史文献」などという「主観主張」はやめていただきたいものです。 KSKS 2007年5月13日 (日) 00:12 (UTC)

『中国史研究入門』・『中国歴史研究入門』に取り上げられているか否かはその「主要な中国史文献」という言葉が「主観的ではない」ということの十分な証明になっています。また『史学雑誌』「回顧と展望」93年版にも井波氏の著作は言及されていないことを証拠としてあげておきます。「回顧と展望」はその論文が注目に値するかどうかの目安としては最も信頼が置かれているものといって良いでしょう。
更に出典を追加。
>「以上のほかにもその豪華絢爛なさまはこれでもかといわんばかりに書かれている。そして煬帝巡幸用に大運河が造られ、そのため人民は塗炭の苦しみにおちいったとされる。それには誇張もあろうが、事実もあろう。しかし煬帝はこのような巡幸のためにだけ大運河を造ったわけでは断じてないであろう。大運河の完成こそは南北朝の具体的な統一の完成といってよいであろう。」(『隋の煬帝と唐の太宗』P90 ISBN 4389440446布目潮フウ
はっきり言いますと、大運河が煬帝の奢侈を目的としているなどというのは何度か繰り返したとおり、後になって出来た「お話」であり、それを歴史的事実であるかのように記述し、史学者の考えと同等に扱うのは正しい態度とは思われません。それに関しての出典、
>後世このことが小説に仕組まれて『開河記』などというものができて愛読されたが、小説を事実のようにとられたのでは、煬帝も迷惑するであろう。(『隋の煬帝』P124、宮崎市定
以上に付き、あくまで「煬帝の奢侈目的」というお話はお話であることを明記した上で記述し、史学者による考えを「出典明記の上で」別個に記述するべきと提案します。らりた 2007年5月13日 (日) 12:08 (UTC)[返信]


概ねおっしゃりたい事はよくわかりました。ところで、私自身の勉強のためにも、質問があります。

1.運河開削のコストと、それによって南北の物流のコスト低減効果を、数値で比較したデータを示している文献はあるでしょうか?

2.コスト低減効果は明白として、それを当時の隋朝廷が認識していたというデータはあるでしょうか?

ちなみに、漢の武帝による匈奴遠征の場合は、当時の陸上輸送能力では「前線に兵糧を送るのに、その十倍の食料を用意する必要があった(輸送部隊が食べる食料を供給しないといけないので)」という史実は、よく理解しております。そういったデータがあると、非常に解りやすいのですが。 KSKS 2007年5月13日 (日) 23:07 (UTC)[返信]

とりあえず『「煬帝の奢侈目的」というお話はお話であることを明記した上で記述し、史学者による考えを「出典明記の上で」別個に記述するべきと提案します』の点に付いてはご同意いただけたと解していいのでしょうか?
ご質問の点ですが、1はおそらく存在していないと思います。数値的なデータというのが残るのはかなり稀な例と思います。2に関しては何ともいえません。『隋書』を借りてきて調べようと思いますが、私の調査で調べきれると思えませんので、確実な所は私からは言えません。甚だ不完全な返答になってしまい、すいません。らりた 2007年5月15日 (火) 11:50 (UTC)[返信]

私の中でどうしてもひっかかるのが、元々北朝である隋が運河開削による流通コストの低減について知識があったのかという、その点なんですよ。これが南朝であればわからなくもない。元より舟運は盛んに行われていた訳ですから。「南船北馬」という言葉は、さほど中国史に知識が無くても、かなりの人が知っている事だと思いますが。そして当時の商業流通が、生活必需品までに及んでいたのかどうか? 上流階級にとって必要な物資の流通に留まるのなら、それもまた奢侈以外の何物でもないのではないかと。運河開削による流通コストの低減によって、穀物レベルの物資まで長江流域から黄河流域まで運ばれるようになった。この結果が史実である事は存じています。問題はそれは単なる結果であって、果たして運河開削はその意図があってのものかどうか? 以上のような事を考えたら、井波先生の論は自分にとってすごく納得のいくものであった訳ですよ。まあ、ここまでいくと「独自研究」にまで足を踏み入れてしまうので、今までコメントしなかった訳ですが。そんな訳で本文の改稿についてはお任せしましょう。あとは後学のために、何か資料が見つかったら開示して頂けたら幸いです(残念ながら自分は原書を当たるまでの知識はありませんので、隋書を読もうにも無理ですので、証拠が見つかれば幸いです) KSKS 2007年5月15日 (火) 13:20 (UTC)[返信]

(運河建設が奢侈かどうかを断定しないという点で単なるコメント)井波先生は京大中国文学の重鎮で、変な人でないのは確かです。しかしそれだけを根拠とするのは脆弱です。疑問に思うので有れば、それ以外の根拠を探す努力が必要でしょう。たとえば近年出された講談社や中央公論社の『中国の歴史』や『世界の歴史』シリーズの隋の箇所を調べるとかです。これくらいは中国研究をしてなくとも調べられるでしょう。図書館で一度調べられることお勧めします。漢文が読めなくとも、中国語が読めるので有れば、運河研究はいくつもあるのですから、それを調べれば良いかと思います。未見ですが、少し調べただけでも安作璋主編『中国運河文化史』(上中下)や陳璧顯主編『中国大運河史』などあるようです。自説に良い意味でこだわるので有れば、その執着を調査に向けるのが良いと思います。もしかすると希望通りの答えが得られないかもしれませんが、きっと別のものがえられると思います。--Tears for Asia 2007年5月16日 (水) 17:32 (UTC)[返信]
とりあえず『隋書』では見つけられなかったと報告しておきます。ただかなり断片的な調査なのでこれが当てになるとはとても言えません。らりた 2007年5月26日 (土) 15:05 (UTC)[返信]

隋包囲網を原因とする説に付いてはどこかで読んだことがあったのですが、見つけられなかったです。見つかったら改めて「そういう説もある」という形で追加しようと思います。らりた 2007年6月25日 (月) 10:03 (UTC)[返信]

煬帝の読み方について

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[1][2][3] にて、出典付き記述が削除されました。理由は「ようていは一般的な読みでなく、Wikipediaがこの読み方を広めようとしているように誤解されるため」、「Wikipedia は出典があるものをすべて集める場所でもない」となっています。

以下、これらの理由について意見を述べます。

  • 出典元である『アジア歴史事典』(平凡社)では「ようてい」で立項されています。
    • 適正な出典です(WP:RS)。 歴史事典であり査読されていないような文献ではありません。
    • WP:IINFO で示されている例にも当てはまりません。
  • 「ようてい」という読み方が「ようだい」より一般的ではないことは重々承知しています。
    • ですから、「ようてい」を後ろに記載しています。
    • 読み方を広めようとしている、という考えは個人的な感想であり、穿った見方です。また、出典の否定にあたります。
  • 例えば、『煬帝』 - コトバンクでは「ようだい」で、アルファベット表記は Yang-di ですが、同じ随の『文帝[隋]』 - コトバンクでは Wen-di です。帝は di であり変わりません。しかし、日本においては「だい」と「てい」で異なっているのに理由が示されていません。
    • 『アジア歴史事典』では「ようだい」と読まれる経緯の一端についての記述があります。

煬帝の煬が否定的なニュアンスの諡号であることは存じておりますが、それが煬帝と記述すると帝が「てい」から「だい」に変化する理由が本文にも示されていません。「たい」が呉音という注釈はありますが、他の皇帝で「たい」「だい」と読む例は無いかと思います。また、非道な皇帝だから煬帝だけ「ようだい」と呼ぶ、といったような書物を読んだ記憶がありますが帝を「だい」と読む理由にはなっていません。(『アジア歴史事典』においても詳細な理由とは言えませんが、読み方に関する疑問点を解消する一助にはなります)

少なくとも、「ようてい」と読む適正な出典があり、「ようだい」と読む理由についても記述がある記載を削除することは、削除者の個人的な意見であると考え、記述を復帰します。--みそがい会話2020年2月18日 (火) 14:31 (UTC)[返信]


出典元である『アジア歴史事典』(平凡社)では「ようてい」で立項されています。
適正な出典です(WP:RS)。 歴史事典であり査読されていないような文献ではありません。
WP:IINFO で示されている例にも当てはまりません。
「ようてい」という読み方が「ようだい」より一般的ではないことは重々承知しています。
ですから、「ようてい」を後ろに記載しています。

「ようてい」と呼んでいる人が一人いるとして、残りの1億数千人は「ようだい」派になり、並べて記載するような対等な関係ではないです。 別の節を作って「ようてい」と主張している人がいるという風にすることが良いのではないでしょうか?


例えば、『煬帝』 - コトバンクでは「ようだい」で、アルファベット表記は Yang-di ですが、同じ随の『文帝[隋]』 - コトバンクでは Wen-di です。帝は di であり変わりません。しかし、日本においては「だい」と「てい」で異なっているのに理由が示されていません。

Yang-diとWen-di は中華人民共和国の現在の標準語の通称普通話の発音になります。Yan-di, Wen-diは日本語の煬帝、文帝のアルファベット表記ではありません。 また、中華人民共和国の標準語では一つの漢字には基本的に一つの読み方しかありません。そのため両方とも di となります。


『アジア歴史事典』では「ようだい」と読まれる経緯の一端についての記述があります。
煬帝の煬が否定的なニュアンスの諡号であることは存じておりますが、それが煬帝と記述すると帝が「てい」から「だい」に変化する理由が本文にも示されていません。「たい」が呉音という注釈はありますが、他の皇帝で「たい」「だい」と読む例は無いかと思います。また、非道な皇帝だから煬帝だけ「ようだい」と呼ぶ、といったような書物を読んだ記憶がありますが帝を「だい」と読む理由にはなっていません。(『アジア歴史事典』においても詳細な理由とは言えませんが、読み方に関する疑問点を解消する一助にはなります)

日本の漢字の読み方は奈良時代以前に中国から伝わった呉音と奈良時代以降の漢音の2種類が主ですが、 「ようだい」という読みが日本に伝わったときはほかの皇帝もみな「だい」だったが、時間がたつと「ようだい」以外は皆、漢音の「てい」が用いられるようになったのかもしれません。その他の説としては元々「ようてい」だったものを誰かがごり押しして「ようだい」に変えたというものが考えられますが「だい」にする理由も不明です。

暴君だから「だい」としている文献も存在し、その理由のひとつとして廃帝は「はいたい」と読むと主張していますが、これも説得力があるとは言えません。

話を元に戻すと「ようてい」と記載している文献があるから「ようてい」も正しいというのは、暴君だから「ようだい」と読むとしている文献があるから「ようだい」の読みの理由は暴君だと記載するのと 同じです。「ようてい」の出典はある一人の人が言っている意見という以上の意味はないです。その意味でも別の節に書いたほうが良いのではないでしょうか?--HQA02330会話2020年2月19日 (水) 11:29 (UTC)[返信]


HQA02330さん、コメントありがとうございます。
まず申し上げておきますが「1対1億数千」というような印象操作はおやめ下さい。私は適切な出典を示した上でコメントしておりますし、歴史事典の立項目名を個人的な主張ととられるのは主観的なものではないでしょうか。
「Yan-di, Wen-diは日本語の煬帝、文帝のアルファベット表記ではありません」
この点はおっしゃるとおりです(ただし、ドイツ語版Wikipediaでも Yandi、Wendi となっていて、di の発音は変わらないと思います)。しかし、私が言いたかったのは、この中国語における発音が日本語で異なるのは一見不合理である点です。HQA02330さんもおっしゃられておりますが「だい」と読む理由が不明であることには同意します。読み方の変化についてはHQA02330さんの推測なので、この点についてはコメントしません。
「「ようてい」と記載している文献があるから「ようてい」も正しいというのは・・・」
査読されていないような文献ではなくアジアを専門分野とする事典における記述です。単一筆者の雑誌記事のようなものではありません。「ようてい」が正しくないと考えておられるならば、正しくないと記載されている文献をもって指摘していただきたい。また、現時点ではなぜ「ようだい」と呉音で読むのか自体への出典がつけられていませんので、できれば出典となる文献をお願いしたいです。
繰り返しになりますが、「ようてい」と読むのは一般的ではないことは承知しています。また、「ようだい」と読むこと自体は多くの書籍やコトバンクなどにおいても(暴君だからといった理由抜きで)行われていますから、読み方の出典として用いればいいのです。ただしいわば少数派であっても適正な文献に記載されている情報を無いことにするには違うのではないかと考えます。
別節を設け、なぜ「ようてい」ではなくて「ようだい」という読み方が定着したのかという点を明らかにすることには異論ありません。出典をもって記述すべきと考えます。(暴君だから「ようだい」と呼ぶ、ではなく、なぜ呉音を用いるのか、という点に着目して)
--みそがい会話2020年2月19日 (水) 14:58 (UTC)[返信]
「Yan-di, Wen-diは日本語の煬帝、文帝のアルファベット表記ではありません」
この点はおっしゃるとおりです(ただし、ドイツ語版Wikipediaでも Yandi、Wendi となっていて、di の発音は変わらないと思います)。しかし、私が言いたかったのは、この中国語における発音が日本語で異なるのは一見不合理である点です。

現在の中華人民共和国の標準語は、清朝時代の北京近辺の方言をベースとしたものであり、4千年間中国大陸全土で同じ発音だったわけではありません。実際は全く逆で地域や時代によって字は同じでも発音が全くバラバラなのが中国大陸の言語なのです。例えば、の広東語の発音は dai となっており、これは、呉音が奈良時代ごろに中国南部から伝来したということと整合性が取れます。またドイツ語、英語でYang-di, Wen-di と読んでいるのはこれらの国が中国と付き合いを始めたのが最近であるから現在の中華人民共和国の発音をそのまま使用しているだけのことです。 日本語の音読みが複数あるのは、別の時代に別の中国大陸の場所から伝来したためで、小児科が「しょうにか」、児童が「じどう」など別の読みがあることと同じです。もともと合理的な言語として日本語を設計したわけではなく、ほとんどの人が話しているものを集めたのが日本語ですから合理的である必要はなく、「ようだい」のみ読みが違っても不合理ではなく、「ようてい」と読むべきと主張するようなものでもありません。--HQA02330会話2020年2月20日 (木) 11:19 (UTC)[返信]


「「ようだい」のみ読みが違っても不合理ではなく、「ようてい」と読むべきと主張するようなものでもありません」
事前の知識を無視して読むとしたら「てい」が一般的ですが、「だい」と読むのは少数派と言えるでしょう。しかし、この場合「ようだい」が一般的で「ようてい」は少数派です。かといって、「ようてい」とは読まないかというと読む例があるのです。ですから、「ようてい」と読む出典を付記しているのであって、両方を記することに問題はないと思いますが。もちろん、読むべき、とも考えていません。HQA02330さんさんの言を借りれば、読みが違っても不合理ではないのです。
それから、私が Yandi(煬帝)、Wendi(文帝) の例を出したかというと、同じ隋朝皇帝の諡号でありながら日本では読み方を変えている、という点です。高々30数年の違いで変化していることが解せないと思っているだけのことであって、本筋とは少し関係ない話題だったかもしれません。その点についてはお詫びいたします。
なお、『岩波 - ケンブリッジ 世界人名辞典』(岩波書店、1977年)において、煬帝の項にて「ヨウテイとも」という記述があることを確認したことも申し添えておきます。--みそがい会話2020年2月20日 (木) 13:44 (UTC)[返信]


それから、私が Yandi(煬帝)、Wendi(文帝) の例を出したかというと、同じ隋朝皇帝の諡号でありながら日本では読み方を変えている、という点です。高々30数年の違いで変化していることが解せないと思っているだけのことであって、本筋とは少し関係ない話題だったかもしれません。

呉音の時代の日本の知識人は煬帝(ようだい)は知っており、よく話題にもあがっていた。文帝、および、それ以外の皇帝についてはほとんど話題にあがることもなかった。その後、漢音が主流の時代になると煬帝以外の皇帝も広く日本で知られるようになったが、すでに漢音の時代になっており、帝の読みは「てい」になったが、煬帝については呉音の時代から「ようだい」の読みが定着しており、それが今まで続いているものと考えられます。その意味では「読み癖」でしょう。なぜ、当時の日本の知識人は煬帝だけは知っていたのか?それは、「日出づる処の天子」の手紙を渡した相手だからと考えられます。--HQA02330会話2020年2月21日 (金) 11:16 (UTC)[返信]


今回のHQA02330さんのコメントの中に記事における読み方の記載については言及がなかったので、現状のままで了とされたと認識しました。ありがとうございました。
「ようだい」が定着した経緯については、HQA02330さんの推測であるのか文献を基にしたものであるのか分かりませんが、以前に提案されたように、そこら辺の記述を補強すべく出典を用いて記載していただきたいと思います。--みそがい会話2020年2月21日 (金) 12:57 (UTC)[返信]