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{{出典の明記|date=2015年4月}} |
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{{未検証|date=2015年4月}} |
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{{タイの歴史}} |
{{タイの歴史}} |
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[[ファイル:Thailand Topography.png|thumb|180px|タイの地勢図]] |
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'''タイの歴史'''(タイのれきし)では、[[タイ王国]]の[[歴史]]を時代ごとに述べる。 |
'''タイの歴史'''(タイのれきし)では、[[タイ王国]]の[[歴史]]を時代ごとに述べる。 |
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== 先史時代 == |
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{{main|{{仮リンク|有史以前のタイ|en|Prehistoric Thailand}}|{{仮リンク|タイの初期の歴史|en|Early history |
{{main|{{仮リンク|有史以前のタイ|en|Prehistoric Thailand}}|{{仮リンク|タイの初期の歴史|en|Early history of Thailand}}}} |
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[[東南アジア]]における人類([[ホモ・エレクトス]])の居住は、50万年以上遡る<ref>[[#dohsei|坂井・西村・新田 (1998)]]、35-36頁</ref>。[[タイ王国|タイ]][[タイ北部|北部]]の[[ラムパーン県]]からは100万年-50万年前とされるホモ・エレクトスの痕跡が認められている<ref>{{Cite book |last=Schliesinger |first=Joachim |title=The Kingdom of Phamniet: An Early Port State in Modern Southeastern Thailand |year=2017 |publisher=White Elephant Press |isbn=978-1-63323-986-9 |page=1}}</ref>。現生の人々がタイの地域に住み始めたのは[[旧石器時代]]からである<ref>[[#dohsei|坂井・西村・新田 (1998)]]、38頁</ref>。タイ各地に点在した当時の人々は、移動しながら洞窟や岩陰などに住み、狩猟・採集・漁労で生活をしていた<ref>[[#textbook|『タイの歴史』 (2002)]]、25頁</ref>。[[中石器時代]]となる約1万年前には世界的な気候の温暖化が進み、海面の上昇により地形は大きく変化したが、東南アジアは位置的環境より動植物相はあまり変化しなかったことから、この[[石器時代]]の生活形態は長く続いた<ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、19頁</ref>。1万1000年前から7500年前の年代とされる{{仮リンク|ホアビニアン|en|Hoabinhian}}の中石器文化(ホビアン文化)は東南アジア各地に広く認められ、タイにも分布が見られる<ref>[[#dohsei|坂井・西村・新田 (1998)]]、41頁</ref><ref>[[#iwanami1|『岩波講座 東南アジア史 1』 (2001)]]、31-33頁</ref>。 |
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[[ネグリト]]の{{仮リンク|マニ族|en|Mani people}}は、南タイの先住民で[[マレー半島]]に住み、かつては[[アンダマン諸語]]を話していたかもしれないが、現在は[[モン・クメール語派]]の{{仮リンク|ケンシウ語|en|Kensiu language|label=マニ語}}({{lang-en-short| Maniq}})を話すことから、新しい言語を受容したと考えられている。<ref name="The Negrito of Thailand">[http://www.andaman.org/BOOK/chapter36/text36.htm The Negrito of Thailand-The Mani]</ref> |
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=== 東北部 === |
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[[新石器時代]]か[[青銅器時代]]と思われる[[ナコーンラーチャシーマー県]]の{{仮リンク|Ban Non Wat|th|แหล่งโบราณคดีบ้านโนนวัด}}が2002年から発掘調査されている。 |
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{{See also|{{仮リンク|イーサーンの歴史|en|History of Isan}}}} |
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[[新石器時代]]には様相が大きく変化し、稲作が認められる文化(新石器文化)が出現する<ref>[[#iwanami1|『岩波講座 東南アジア史 1』 (2001)]]、45・55頁</ref>。北部[[イーサーン]]地方の[[バーンチエン遺跡]]などの研究によると、[[紀元前2千年紀]]には<ref group="注">当初は[[紀元前4千年紀]]、最古のものは[[紀元前36世紀|紀元前3600年]]とされた。</ref>、タイに初期の[[青銅]]器文化をもつ集落があったといわれる<ref>[[#dohsei|坂井・西村・新田 (1998)]]、77-84頁</ref><ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、32頁</ref>。この発展に伴って、[[水稲]]の耕作が認められ<ref group="注">東北部の[[ウドーンターニー県]]バーンチエン遺跡下層、中東部の[[チョンブリー県]]コークパノムディー遺跡から[[イネ]]が出土。</ref><ref>[[#iwanami1|『岩波講座 東南アジア史 1』 (2001)]]、64-65頁</ref>、同時に社会的な組織構成が進んだ<ref>[[#dohsei|坂井・西村・新田 (1998)]]、67-70頁</ref>。これらの文化は、[[中国]]も含めてタイなど東南アジア全域に拡散していた。 |
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[[紀元前1000年]]頃には、イーサーン地方の[[ウボンラーチャターニー県]]の東端に位置する{{仮リンク|パーテム国立公園|en|Pha Taem National Park|label=パーテム}} (Pha Taem、{{lang-th|ผาแต้ม}}) に[[ペトログリフ|岩絵]]が描かれた<ref>{{cite web |title=Attractions Near Udon Thani - Phu Phra Bat Historical Park |url=http://www.thailandsworld.com/index.cfm?p=884#axzz1kiqexxVp |work=Thailand's World |publisher=Asia's World Pty Ltd |accessdate=2017-10-28}}</ref>。また、[[ウドーンターニー県]]の{{仮リンク|プープラバート歴史公園|en|Phu Phra Bat Historical Park|label=プープラバート}} (Phu Phra Bat、{{lang-th|ภูพระบาท}}) の岩絵は約6000年前のものともいわれる<ref>{{cite web |title=Attractions Near Udon Thani - Phu Phra Bat Historical Park |url=http://www.udonthaniattractions.com/phu-phra-bat-historical-park.html |publisher=udonthaniattractions.com |accessdate=2017-10-28}}</ref>。このほか[[ノーンブワラムプー県]]の岩絵などは、中国南部の岩絵([[左江花山の岩絵の文化的景観|花山の岩絵]]など<ref group="注">花山岩絵を描いた集団は後に[[青銅器時代]]の[[ドンソン文化]]を担った{{仮リンク|雒越|en|Lạc Việt}}であるとされる。</ref>)との類似性が指摘される<ref name=Hauser>{{cite web |last=Hauser |first=Sjon |authorlink=:nl:Sjon Hauser|Sjon Hauser |title=Lampang’s rock art at Pratu Pha |url=http://www.sjonhauser.nl/lampang-rock-art.html |publisher=sjonhauser.nl |accessdate=2017-10-28}}</ref>。岩絵はタイ東北部のほか、北部、[[タイ中部|中部]]、[[タイ南部|南部]]にも認められる<ref name=Hauser />。 |
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次いで、[[紀元前1500年]]頃までに[[モン族 (Mon)|モン族]]が[[東南アジア]]の[[少数民族]]として最初に到達していたとされる。 |
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== 民族 == |
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=== Si Kottaboon文化 === |
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[[ファイル:Se asia lang map.png|thumb|[[オーストロアジア語族]]の分布<br />{{legend|#61FFBD|[[クメール語]]}}{{legend|#d2f740|[[モン語]]}}]] |
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{{main|{{仮リンク|イーサーンの歴史|en|History of Isan|label=イサーンの歴史}}}} |
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{{main|{{仮リンク|タイの民族移動|en|Peopling of Thailand}}|タイ族#タイ族の南下}} |
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北部[[イサーン]]地方から中央[[ラオス]]にかけての地域に文明があったことが知られている。中心部は{{仮リンク|ナコーンパノム|en|Nakhon Phanom|FIXME=1}}。 |
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東南アジアの[[ネグリト]]である{{仮リンク|マニ族|en|Maniq people}} (Maniq) はタイ南部の先住民として[[マレー半島]]に住み、かつては[[アンダマン諸語]]のような言語を話したとされるが、現在は[[モン・クメール語派]]の{{仮リンク|ケンシウ語|en|Kensiu language}}(マニ語)を話すことから、後に新しい言語を受容したと考えられている<ref name="The Negrito of Thailand">[http://www.andaman.org/BOOK/chapter36/text36.htm The Negrito of Thailand-The Mani]</ref>。次いで、[[東南アジア]]のモン・クメール語派の言語をもつ[[モン族 (Mon)|モン族]]および[[クメール人|クメール族]]が到達していたとされる<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、23-24頁</ref>。現在のタイに居住する[[タイ族]]は、中国の[[長江|揚子江]]以南起源の民族であるとされ、[[6世紀|6]]-[[7世紀]]に、中国南部から東南アジアへと移住した可能性が大きい<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、14-17頁</ref>。タイ族はその[[1千年紀]]中期から[[13世紀]]中頃、[[メコン川]]北部上流([[瀾滄江]])に定住していた<ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、141頁</ref>。 |
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[[紀元前1500年]]頃に{{仮リンク|ファターム国立公園|en|Pha Taem National Park|label=ファターム}}({{lang-th-short|ผาแต้ม}}、{{lang-en-short|Pha Taem}}、現[[ウボンラーチャターニー県]]にある国立公園)の[[壁画]]が描かれた。この壁画と中国南部の{{仮リンク|花山壁画|en|Rock Paintings of Hua Mountain}}との類似性が指摘されており、花山壁画を描いた集団は後に[[青銅器時代]]の[[ドンソン文化]]を担った{{仮リンク|雒越|en|Lạc Việt}}であると解明されている。ドンソン文化とのSi Kottaboon文化の直接の関係はまだ明らかではない。 |
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== 古代国家 == |
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紀元前535年頃、ナコーンパノムに仏塔{{仮リンク|ワット・プラタートパノ|en|Wat Phra That Phanom|label=プラタート・パノム}}が建築された。 |
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[[ファイル:Map-of-southeast-asia 900 CE.png|thumb|180px|西暦900年頃の領域図<br/>{{legend|#F94a65|[[真臘]]([[クメール王朝|クメール]])}}{{legend|#41ea85|[[ハリプンチャイ王国|ハリプンチャイ]]}}{{legend|#d2f740|[[シュリーヴィジャヤ王国|シュリーヴィジャヤ]]}}]] |
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[[ファイル:Map-of-southeast-asia 1000 - 1100 CE.png|thumb|180px|1000-1100年頃の領域図<br/>{{legend|#F94a65|クメール}}{{legend|#00ffe5|[[ラヴォ王国|ラヴォ]]}}{{legend|#41ea85|ハリプンチャイ}}{{legend|#d2f740|シュリーヴィジャヤ}}{{legend|#FF82C0|[[パガン王朝|パガン]]}}]] |
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== 古代 == |
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=== ドヴァーラヴァティー王国 === |
=== ドヴァーラヴァティー王国 === |
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{{main|ドヴァーラヴァティー王国}} |
{{main|ドヴァーラヴァティー王国}} |
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6-7世紀から<ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、98頁</ref><ref>[[#Suzuki|鈴木 (2016)]]、48頁</ref>[[11世紀]]頃まで、モン族の[[ムアンナコーンパトム郡|ナコーンパトム]]を中心とした広範囲な連合国家[[ドヴァーラヴァティー王国|ドヴァーラヴァティー]]<ref group="注">ドヴァーラヴァティーの漢訳として、頭和・投和・堕和羅・独和羅・堕和羅鉢・堕羅鉢底・杜和鉢底・堕和羅鉢底などと記される。</ref><ref>[[#iwanami1|『岩波講座 東南アジア史 1』 (2001)]]、134・137頁</ref>が東南アジアで繁栄した<ref name=Kakizaki_26-27>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、26-27頁</ref>。 |
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[[紀元前300年]]頃、[[スパンブリー県|スパンブリー]]に[[ドヴァーラヴァティー王国]](スワンナプーム王国)を建国。 |
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[[紀元前3世紀]]頃、[[アショーカ王]]の遣わした伝道者による[[上座部仏教]]が、ドヴァーラヴァティー王国で信仰され始めたともいわれ、それは伝道の地名にある[[インド語群|インド古語]]([[サンスクリット]])のスヴァルナブーミ([[タイ語]]: スワンナプーム、「黄金の国」)が、ドヴァーラヴァティーと同一の地であるとする説による<ref>[[#Shiraishi|白石 (2010)]]、189-194頁</ref>。また、ナコーンパトム(「最初の町」の意)には、アショーカ王の時代の創建ともいわれるタイで最古の[[ワット・プラパトムチェーディー]]があるが<ref>[[#Shiraishi|白石 (2010)]]、193-195頁</ref>、考古学の証拠などによると、[[4世紀]]から6世紀の建設とされる<ref>{{Cite web |title=Phra Pathom Chedi, Nakhon Pathom |url=http://thailandforvisitors.com/central/nakhon-pathom/phra-pathom-chedi.php |publisher=Asia for Visitors |accessdate=2017-10-28}}</ref>。 |
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[[紀元前200年]]頃、[[アショーカ王]]の遣わした伝道者によりドヴァーラヴァティー王国では[[上座部仏教]]を信仰し始めた。しかし、モン族はそれ以前から海路による仏教との接触があったと主張している。 |
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==== ラヴォ王国 ==== |
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4世紀頃、[[ワット・プラパトムチェーディー]]が建設された。 |
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{{main|[[ラヴォ王国]]|{{仮リンク|ロッブリーの歴史|en|History of Lopburi}}}} |
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モン族のドヴァーラヴァティー王国の時代の6世紀より<ref name=iwanami2_237>[[#iwanami2|『岩波講座 東南アジア史 2』 (2001)]]、237頁</ref>、[[ラヴォ王国|ラヴォ]]は[[ムアンロッブリー郡|ロッブリー]]にあったが<ref name=Kakizaki_32>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、32頁</ref>、[[9世紀]]頃、[[クメール王朝]]の影響を受けてドヴァーラヴァティーから独立し、ラヴォ王国が建国された<ref name=thai_364>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、364頁</ref>。その後、クメールの王{{仮リンク|スーリヤヴァルマン1世|en|Suryavarman I}}(在位1002-1050年)により領有された<ref name=Kitagawa_84-85>[[#Kitagawa|北川 (2006)]]、84-85頁</ref>。[[スーリヤヴァルマン2世]](在位1113-1150年)が死去した後、ラヴォ王国はクメールから離反する動きを見せ、[[1155年]]に中国に使節を送っているが<ref name=Kitagawa_84-85 />、クメールの支配は13世紀まで続いた。 |
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13世紀中頃、タイ族による[[スコータイ王朝]]の成立により<ref>[[#chuokoron|石澤・生田 (1996)]]、207頁</ref>、ラヴォ王国のクメール支配は衰退した<ref name=thai_364 />。タイ族の勢力が強くなると13世紀末、[[1289年]]より[[1299年]]まで[[元 (王朝)|元]]に使節を送るなど、独立に動いた。その後、[[14世紀]]の[[アユタヤ王朝]]成立の頃には、同じくかつてドヴァーラヴァティーの都であった[[スパンブリー県|スパンブリー]]とともに重要な位置を占めた<ref name=iwanami2_237 />。 |
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6世紀から11世紀までドヴァーラヴァティー王国は東南アジアで繁栄した。[[モン語|モン文字]]などを開発し先住の文明民族として東南アジアに君臨した。古代[[モン語]]を話していたことが確実視されているが、モン族の王国であったかどうかは確定していない。クメール人やマレー人も同時期に居住していたと考えられる出土物もあるが結論は出ていない。 |
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==== ハリプンチャイ王国 ==== |
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{{main|{{仮リンク|ロッブリーの歴史|en|History of Lopburi}}|[[ラヴォ王国]]}} |
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[[612年]]から[[628年]]にかけてクメール人の[[真臘|真臘王国]]が[[扶南国]]を占領した。さらに真臘王{{仮リンク|イシャーナヴァルマン1世|fr|Içanavarman Ier}}([[611年]]-[[635年]])に影響を受けた地域がドヴァーラヴァティー王国から独立し、[[ラヴォ王国]]が[[ロッブリー]]に出来た。<ref>[[:en:Sdok Kok Thom|Sdok Kok Thom]]の[[:en:Sdok Kok Thom#Inscription|碑文]]</ref>[[706年]]頃、北の陸真臘(現[[ラオス]][[チャンパーサック県]])と南の水真臘に分裂したと中国の記録にも残されている。陸真臘はShambhuvarmanの兄弟{{仮リンク|Rajendravarman1世|fr|Rajendravarman Ier}}が支配した。[[774年]]頃から水真臘は[[シャイレーンドラ朝]]ジャワ王国に侵攻されてその支配下に入っていたが、[[802年]]頃に[[クメール王朝]]として独立した。 |
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=== ヒランナコーングンヤーン === |
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{{仮リンク|タイ・ユアン族|en|Northern Thai people}}({{lang-th-short|ไทยวน}})と{{仮リンク|タイ・ユワン族|th|ไทเหนือ}}({{lang-th-short|ไทเหนือ}})が[[メコン川]]北部上流に定住し、[[638年]]に{{仮リンク|グンヤーン|en|Ngoenyang|label=ヒランナコーングンヤーン}}(グンヤーン王国とも。現[[チエンセーン郡]])の統治を[[クメール人]](現在のカンボジア人)の[[ラヴォ王国]]の王Kalavarnaditに命じられ、Vieng Prueksaが王となった。<ref>"หิรัญนครเงินยางเชียงแสน - วิกิพีเดีย." วิกิพีเดีย สารานุกรมเสรี. Web. 16 Jan. 2011. [[:th:หิรัญนครเงินยางเชียงแสน]].</ref> |
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=== ハリプンチャイ王国 === |
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{{main|ハリプンチャイ王国}} |
{{main|ハリプンチャイ王国}} |
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伝説によれば、7世紀にドヴァーラヴァティー王国の支配下にあったラヴォの王が、王女{{仮リンク|チャマデヴィ|en|Jamadevi}}(チャーマテーウィー)をハリプンチャイ([[ラムプーン]])に送ったことによって成立した<ref name=Kakizaki_32 />。ただし11世紀以前の史料はなく<ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、100頁</ref>、ハリプンチャイの繁栄は11-13世紀とされる<ref name=Kakizaki_32 />。[[12世紀]]にはクメール王朝の[[スーリヤヴァルマン2世]](在位1113-1150年)が進出している<ref name=Kitagawa_84-85 />。[[1292年]]、タイ族の[[ラーンナー]]の侵入により壊滅した<ref>[[#Suzuki|鈴木 (2016)]]、50頁</ref>。 |
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=== 真臘(クメール) === |
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[[950年]]頃、[[クメール王朝]]の{{仮リンク|スーリヤヴァルマン1世|en|Suryavarman I}}王にラヴォ王国が占領され、[[1010年]]から約十年間、ハリプンチャイ王国は援軍を送り、ラヴォ王国を再びモン族勢力下に取り戻すためにクメール王朝と何度も争ったが、[[マレー半島]]の[[ムアンナコーンシータンマラート郡|ナコーンシータンマラート]]のクメール人の王が船でクメール王朝に援軍を派遣したことによりハリプンチャイ王国軍は撤退した。[[1023年]]にもクメール軍がハリプンチャイ王国のラムプーンを攻撃した。 |
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{{main|真臘|クメール王朝}} |
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クメール族の[[真臘]]は、同じくクメール族の[[扶南国]]の属国であったが、[[5世紀]]中頃には{{仮リンク|シーテープ歴史公園|fr|Parc historique de Sri Thep|label=シーテープ}}などを支配下に置き<ref>[[#Suzuki|鈴木 (2016)]]、65頁</ref>、7世紀初頭、王{{仮リンク|マヘンドラヴァルマン|en|Mahendravarman (Chenla)}}(チトラセナ)<ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、87頁</ref>もしくは次の{{仮リンク|イシャーナヴァルマン1世|en|Isanavarman I}}の時代には扶南を占領した<ref>[[#iwanami1|『岩波講座 東南アジア史 1』 (2001)]]、182-184頁</ref>。[[706年]]頃、陸真臘と水真臘に分裂したと中国の記録にある<ref>[[#Suzuki|鈴木 (2016)]]、81頁</ref><ref>[[#iwanami1|『岩波講座 東南アジア史 1』 (2001)]]、187・191頁</ref>。陸真臘はサンブヴァルマン (Shambhuvarman) が建国し<ref>[[#Suzuki|鈴木 (2016)]]、85頁</ref>、沿海部は{{仮リンク|ラージェンドラヴァルマン1世|fr|Rajendravarman Ier}}が支配したともいわれる<ref>[[#Suzuki|鈴木 (2016)]]、116頁</ref>。[[8世紀]]中頃から水真臘はジャワの[[シャイレーンドラ朝]]に侵攻されていたが<ref>[[#iwanami1|『岩波講座 東南アジア史 1』 (2001)]]、193・274頁</ref>、9世紀初頭、クメール王朝として独立した<ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、88-89頁</ref>。クメール王朝はその後、タイ東北部(イーサーン)より[[タイ中部|中部]]へと支配を拡大していった<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、30-31頁</ref>。 |
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=== タイ族の南下 === |
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{{main|[[タイ族#歴史|タイ族の歴史]]}} |
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[[1050年]]からラムプーンでコレラが6年間流行し続けたため、モン族の一部は[[下ビルマ]]へ民族移動し、{{仮リンク|タトゥン王国|en|Thaton Kingdom}}の首都[[モッタマ]]や[[バゴー|ハンターワディー]](ペグー)へ移住した。その空白地帯へ[[タイ族]]をはじめとする異民族の進入が増え始めた({{仮リンク|ナコーンシータンマラート王国|en|Nakhon Si Thammarat Kingdom}})。[[雲南省|雲南]]から南下してきた[[タイ族]]は、13世紀ごろまでは強力なクメール王朝の支配力の下にあった。 |
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[[1057年]]には[[パガン王朝]]の初代[[アノーヤター]]王がラヴォ王国に侵攻し、王女を連れ去り妻とした。 |
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[[1076年]]にナライ王が死去すると、ラヴォ王国は内戦となり、急襲したクメール王朝の[[スーリヤヴァルマン2世]]が息子をラヴォ王国の王に据えた。 |
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[[1130年]]にかけてハリプンチャイ王国の[[アーディッタ]]王は再びラヴォ王国に侵攻した。この戦争ではクメール側が敗走し一時的にラヴォ王国がモン族側の勢力に入った。[[1150年]]、後にクメール王朝がラヴォ王国を取り戻した。この後、ラヴォ王国はハリプンチャイ王国の影響を受けクメールから離反する動きを見せ、[[1155年]]に[[北宋]]に使節を送り独立国としての承認を受けた。 |
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12世紀頃、[[パヤオ王国]]が成立。 |
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12世紀頃、[[プレー王国]]が成立。 |
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[[ファイル:Srivijaya Empire.svg|thumb|180px|8世紀頃の[[シュリーヴィジャヤ王国|シュリーヴィジャヤ]]の領域図]] |
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=== シュリーヴィジャヤ王国 === |
=== シュリーヴィジャヤ王国 === |
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{{main|シュリーヴィジャヤ王国}} |
{{main|シュリーヴィジャヤ王国}} |
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タイ南部は[[シュリーヴィジャヤ王国]]の影響下にあった<ref name=Kakizaki_28-29>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、28-29頁</ref>。シュリーヴィジャヤは7世紀より、交易の要衝である[[マラッカ海峡]]周辺の多くの[[港市国家]]を支配していた<ref>[[#iwanami1|『岩波講座 東南アジア史 1』 (2001)]]、268-269頁</ref>。タイ南部の[[チャイヤー郡|チャイヤー]]は、その海上交易を支配するシュリーヴィジャヤの都の1つであったとされる<ref name=Kakizaki_28-29 />。また、[[ムアンナコーンシータンマラート郡|ナコーンシータンマラート]](リゴール)の[[775年]]の碑文により、8世紀後半には[[ジャワ島|ジャワ]]に興った[[シャイレーンドラ朝]]に属するようになったことが知られる<ref>[[#iwanami1|『岩波講座 東南アジア史 1』 (2001)]]、274頁</ref>。 |
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タイ南部は[[シュリーヴィジャヤ王国]]の影響下にあった。 |
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=== スコータイ王国 === |
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{{main|スコータイ王朝}} |
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[[1235年]]にラヴォ王国の後ろ盾となっていた[[南宋]]へ[[モンゴル帝国]]が侵攻を開始すると、[[1238年]]にタイ民族の指導者[[シーインタラーティット]]がラヴォ王国からの独立を宣言した(後に[[スコータイ]]で[[スコータイ王朝|スコータイ王国]]を建国)。 |
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<ref>現在のタイ人は、自分たちの国家の設立を[[13世紀]]としている。伝承によると、[[1238年]]、タイ民族の指導者[[シーインタラーティット]]が[[スコータイ]]でクメール(タイの伝説ではラヴォ王国をクメールと呼んでいる)の大君主を倒し、小タイ族の[[スコータイ王朝|スコータイ王国]]を設立したという。その王国の衰退の後、[[1350年]]にアユタヤー王朝が[[チャオプラヤー川]]沿いに成立した。</ref> |
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[[モンゴル帝国]]が[[大理国]]を侵略した[[雲南・大理遠征]]([[1253年]]-[[1254年]])では、タイ民族はモンゴル側に協力し、[[クメール人|クメール族]](ラヴォ王国)の勢力を追い出し退けた。[[1257年]]に[[スコータイ]]で[[スコータイ王朝|スコータイ王国]]を建国した。 |
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スコータイ王朝の三代目[[ラームカムヘーン]]大王時代に[[パヤオ王国]]と[[ラーンナー王国]]と同盟を結んだ。この時期に、ラヴォ王国は衰退した。 |
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=== ラーンナー王国 === |
=== ラーンナー王国 === |
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{{main|{{仮リンク|グンヤーン|en|Ngoenyang}}|ラーンナー}} |
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スコータイ王国と時を同じくして、ヒランナコーングンヤーンの君主[[マンラーイ]]が、[[1259年]]にラヴォ王国から独立して[[ラーンナー|ラーンナー王国]]を建国し、首都を{{仮リンク|グンヤーン|en|Ngoenyang|label=ヒランナコーングンヤーン}}(現[[チエンセーン郡]])から新しく建設した[[チエンマイ]]に遷都した。タイ北部の[[チエンマイ]]から中国の[[シップソーンパンナー]]が繁栄した。 |
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メコン支流の[[コック川]]流域のタイ北部には、{{仮リンク|タイ・ユアン族|en|Northern Thai people}} (Tai Yuan、{{lang-th|ไทยวน}}) を中心に<ref name=ChiangMai>{{cite web |title=チェンマイの歴史 |url=http://www.thailandsworld.com/ja/chiang-mai/chiang-mai-history/index.cfm |work=Thailand's World |publisher=Asia's World Pty Ltd |year=2017 |accessdate=2017-10-28}}</ref>、ヨーノック ([[w:Singhanavati|Yonok]]) と呼ばれる{{仮リンク|グンヤーン|en|Ngoenyang}}([[チエンセーン郡|チエンセーン]])を中心とした国家的形態の1つが認められ、その成立は11世紀から<ref name=Kakizaki_34>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、34頁</ref>12世紀頃であったとも考えられる<ref>{{Cite book |和書 |author=加藤久美子 |title=盆地世界の国家論 - 雲南、シプソンパンナーのタイ族史 |year=2000 |publisher=[[京都大学学術出版会]] |series=地域研究叢書|isbn=4-87698-401-8 |pages=2・28-29頁}}</ref>。 |
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グンヤーンにおいて、タイ・ルー族 ([[w:Tai Lü language|Tai Lue]]) の君主[[マンラーイ]]が<ref name=ChiangMai />[[1259年]]に即位すると、支配域を広げるとともに南に侵出し、[[1262年]]に首都をグンヤーンから[[ムアンチエンラーイ郡|チエンラーイ]]に、[[1269年]]には[[ファーン郡|ファーン]]に移した。[[1281年]]には、7年間進入を企てていたマンラーイは、モン族のハリプンチャイ王国(ラムプーン)を攻撃し、壊滅させた<ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、313頁</ref>。[[1296年]]、新しく建設した[[ムアンチエンマイ郡|チエンマイ]]に遷都し<ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、146頁</ref>、ラーンナー王国(チエンマイ王国)を建国した<ref name=Kakizaki_34 />。 |
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13世紀頃、[[カーオ王国]]が成立。 |
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[[ファイル:Location Lanna (under King Tilok).png|thumb|15世紀のラーンナーの王[[ティローカラート]]時代の領域図]] |
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[[1281年]]にはコレラの発生以降進入を続けていた{{仮リンク|タイ・ユワン族|th|ไทเหนือ}}の[[ラーンナー|ラーンナー王朝]]の王[[マンラーイ]]がランプーンを攻撃し、ハリンプチャイ王国は壊滅した。 |
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[[1338年]]、ラーンナーの王[[カムフー]](在位1334-1336年〈1338-1345年〉<ref name=mekong>{{cite web |title=ランナー王国マンラーイ朝 |url=http://www.mekong.ne.jp/directory/history/mangrai.htm |work=メコンプラザ |publisher=Mekong Creative Support |accessdate=2017-10-09}}</ref>)は、タイ族の[[パヤオ王国]]を併合<ref name=ChiangMai />。[[1443年]]には、王[[ティローカラート]](在位1441〈1442〉-1487年〉<ref name=mekong />)が[[プレー県|プレー]]に侵攻し、[[プレー王国]]を併合した<ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、225-226頁</ref>。また、[[1448年]]頃にナーン([[カーオ王国]])を併合している<ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、147頁</ref>。{{仮リンク|アユタヤ・ラーンナー戦争|en|Ayutthaya-Lanna War}}では、[[1450年]]から[[1462年]]に王ティローカラートが数度にわたって南進し、アユタヤ王朝と衝突した<ref>[[#Kamihigashi|上東 (1990)]]、39-40頁</ref>。 |
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この後にはモン族の中心はペグーに移ることになった。下ビルマには、モン族が[[ペグー王朝]](1287年 - 1539年)を建国した。[[上ビルマ]]には、タイ系の[[シャン族]]が、[[ピンヤ朝]](1312年 - 1364年)と[[アヴァ王朝]](1364年 - 1555年)を開き、強盛になると絶えずペグー王朝を攻撃した。 |
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[[1523年]]、ラーンナー王国の王[[ケーオ (ラーンナー王)|ケーオ]](在位1495-1525年)は[[チャイントン|チェントゥン]]に出兵し敗北。多くの権力者や、兵士らを失った。さらに[[1524年]]には水害もあり、その人材と人口の減少は国内を大きく疲弊させ、ラーンナー王国衰退の一因となった。[[1546年]]には、[[ラーンサーン王朝]]から[[セーターティラート]]を招いてラーンナーの国王に据えた。しかし2年後、セーターティラートは王位を継ぐためにラーンサーンに戻ると、その後さらに混乱は増した。[[1551年]]、ナーンの{{仮リンク|メクティ|de|Mae Kut}}(メーク、在位1951-1964年)が招かれ王位につくが、[[1558年]]、[[ビルマ]]の侵攻により[[タウングー王朝]]の属国となった<ref>[[#iwanami3|『岩波講座 東南アジア史 3』 (2001)]]、300-302頁</ref>。 |
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ラーンナー王国のカムプー王(1334-36年)が、[[カーオ王国]]の後援の元、[[パヤオ王国]]を併合。パヤオは、ラーンナー王国がカーオ王国や[[プレー王国]]へ進出する土台になった。 |
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== スコータイ王朝 == |
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{{main| |
{{main|スコータイ王朝}} |
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[[ファイル:Map-of-southeast-asia 1300 CE.png|thumb|180px|1300年頃の領域図<br/>{{legend|#ffba0c|[[スコータイ王朝|スコータイ]]}}{{legend|#F94a65|クメール}}{{legend|#00ffe5|[[ラヴォ王国|ラヴォ]]}}{{legend|#c700ff|[[ラーンナー]]}}{{legend|#ef77a0|[[ペグー王朝|ペグー]]}}]] |
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=== 前期 === |
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クメールの王[[ジャヤーヴァルマン7世]](在位1181-1218/1220年)が死去した後、[[1240年]]頃に<ref>[[#textbook|『タイの歴史』 (2002)]]、16頁</ref><ref>{{Cite book |和書 |author=桃木至朗 |title=歴史世界としての東南アジア |year=1996 |series=世界史リブレット12 |publisher=[[山川出版社]] |isbn=978-4-7503-1555-3 |page=20}}</ref>、タイ族の指導者バーンクラーンハーオ([[シーインタラーティット]])が[[ポークン・パームアン|パームアン]]とともに、クメールの支配するラヴォ王国からの独立を宣言し、[[スコータイ]]のクメール領主を追いやりスコータイ王国を建国したとされる<ref group="注">現在のタイ人は、自分たちの国家の設立を、[[スコータイ]]でクメール(かつてタイではラヴォを統治するクメールをコームと呼んでいる)の領主を倒し、小タイ族の[[スコータイ王朝|スコータイ王国]]を設立した[[13世紀]]としている。</ref><ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、36頁</ref>。 |
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[[1350年]]にラヴォ王国の[[ラーマーティボーディー1世]]と[[ムアンスパンブリー郡|ムアンスパンブリー]]の[[パグワ]]がアユタヤー王朝を共同して開いた。<ref>タイの伝説では、[[1350年]]に[[ラーマーティボーディー1世]]がアユタヤー王朝を開いた。</ref> |
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スコータイ王朝の3代目の王[[ラームカムヘーン]](在位1279-1298年頃)の時代に、統治する領域は大きく広がっていった<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、39-42頁</ref><ref>[[#textbook|『タイの歴史』 (2002)]]、116-117頁</ref>。また、スコータイ王国はラーンナー王国と同盟を結んでいた<ref>[[#yamakawa6|『東南アジアの民族と歴史』 (1984)]]、367頁</ref>。 |
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アユタヤー王朝の最初の王[[ラーマーティボーディー1世]]は、タイの歴史に対して2つの重要な貢献をしている。1つは、[[上座部仏教]]を公式の宗教として設立し、推進したこと、すなわち、タイ王国と近隣のアンコールの[[ヒンドゥー教]]国を区別したこと、2つ目は、ヒンドゥー教由来の法典でありタイの伝統的な慣習となった、[[ダルマ・シャーストラ]]を編集したこと、である。[[19世紀]]後期まで、ダルマシャースートラはタイの法律を成す一部として残った。 |
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王[[ラームカムヘーン]]は、[[1292年]]のタイ語最古の[[ラームカムヘーン大王碑文]]「スコータイ第一刻文」で知られ、タイ文字を考案したとされる。また、[[上座部仏教]]を公式の宗教として設立し、推進した<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、37-39頁</ref>。しかし、ラームカムヘーンが死去すると、各地で離反が相次ぎスコータイ王朝は衰退していった<ref name=thai_170>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、170頁</ref>。その後、[[リタイ]](在位1347-1368年頃)が即位し周辺を治めたが、この時代に成立したアユタヤ王朝の圧力が次第に増すと、[[1378年]]、王[[サイルータイ]](マハータンマラーチャー2世、在位1368-1398年頃)の時代に属国となった<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、43頁</ref>。 |
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[[1438年]]、[[マハータンマラーチャー4世]]が死去し、実質的にアユタヤー王朝がスコータイ王朝を吸収した。 |
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== アユタヤ王朝 == |
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[[1443年]]、ラーンナー王国の[[ティローカラート]]王がプレー王国に侵攻し、プレー王国を併合。 |
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{{main|アユタヤ王朝}} |
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[[ファイル:Map-of-southeast-asia 1400 CE.png|thumb|180px|1400年頃の領域図<br/>{{legend|#665bff|[[アユタヤ王朝|アユタヤ]]}}{{legend|#ffba0c|スコータイ}}{{legend|#F94a65|クメール}}{{legend|#c700ff|ラーンナー}}{{legend|#0e8e70|[[ラーンサーン王朝|ラーンサーン]]}}{{legend|#ef77a0|ペグー}}]] |
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[[ファイル:Southeast Asian history - Around 1540.png|thumb|180px|1540年頃の領域図<br/>{{legend|#5b4cff|アユタヤ}}{{legend|#6afc5f|クメール}}{{legend|#3f85ff|ラーンナー}}{{legend|#ff7f7f|ラーンサーン}}]] |
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=== 前期 === |
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[[1450年]]頃、ラーンナー王国のティローカラート王が[[カーオ王国]]に侵攻し、カーオ王国を併合。 |
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スコータイ王朝の衰退の後、[[1351年]]<ref>[[#iwanami2|『岩波講座 東南アジア史 2』 (2001)]]、236-237頁</ref>、ウートーン([[ラーマーティボーディー1世]])が[[チャオプラヤー川]]沿いにアユタヤ王朝を開いたとされる<ref name=Kakizaki_46-47>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、46-47頁</ref>。この時代、ウートーンの出身地ともいわれるスパンブリーや<ref group="注">出生は不詳であり、スパンブリーやロッブリーの王家に関係する説のほか、『シアム王統記』では中国の一王族であったとする<!--(弘末雅士 『東南アジアの建国神話』 山川出版社、2003年、25-34頁)-->。[[ムアンペッチャブリー郡|ペッブリー]]付近出身の[[タイの華人|華人]]のもとに生まれたと考える説もある<!--(『岩波講座 東南アジア史 2』 238頁)-->。</ref><ref>[[#yamakawa6|『東南アジアの民族と歴史』 (1984)]]、233頁</ref><ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、171頁</ref>ロッブリー(ラヴォ)の存在が大きかったが、ウートーンがラーマーティボーディー1世(在位1351-1369年<ref>[[#iwanami2|『岩波講座 東南アジア史 2』 (2001)]]、238-239頁</ref>)として即位すると双方を連携させ、[[ムアンスパンブリー郡|スパンブリー]]を義兄(王妃の兄)[[パグワ]]に、ロッブリーを王子[[ラーメースワン]]に統治させた<ref name=Kakizaki_46-47 /><ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、60頁</ref><ref>[[#iwanami2|『岩波講座 東南アジア史 2』 (2001)]]、238頁</ref>。 |
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[[1438年]]、スコータイ王朝の王[[マハータンマラーチャー4世]]が死去し、スコータイの王位継承者が絶えたことで、実質的にアユタヤ王朝がスコータイ王朝を吸収した<ref name=thai_170 />。 |
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[[1456年]]から[[1474年]]の{{仮リンク|アユタヤー・ラーンナー戦争|en|Ayutthaya-Lanna War}}では、[[スコータイ王朝]]の王族Yuttittiraの支援を受けたラーンナー王国のティローカラート王が三度に渡って南進し、Yuttittiraはスコータイ王朝の再興を狙っていた。最初の侵攻は、アユタヤー王朝の[[ボーロマトライローカナート|トライローカナート]]王に撃退された。2度目の侵攻では、アユタヤー王朝の王都をアユタヤーから{{仮リンク|ピッサヌローク|en|Phitsanulok|FIXME=1}}へ遷都させた。3度目の侵攻で、アユタヤーの[[ボーロマトライローカナート|トライローカナート]]王に撃退され、ラーンナー王国内部の後継者争いから和平交渉を締結した。 |
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[[1540年]]、ビルマのタウングー王朝の王[[タビンシュエーティー]](在位1531-1551年)が[[ポルトガル]]人の鉄砲隊700人の傭兵を雇用し、軍事力を高めた<ref>[[#Ohno|大野 (2002)]]、242頁</ref>。[[第一次緬泰戦争]](1548-1549年)では、タウングー王朝の[[バインナウン]]がアユタヤに侵攻し、[[1549年]]にアユタヤ王朝の王[[チャクラパット]](在位1548-1569年)が危機に陥った際、王妃[[シースリヨータイ]]が身を挺して命を助けたといわれる<ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、148頁</ref>。この戦いでは、アユタヤの王[[チャクラパット]]も防衛にポルトガル人の傭兵を雇用して侵攻を阻んでいる<ref>[[#Ohno|大野 (2002)]]、242-243頁</ref>。 |
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[[1470年]]、[[チャンパ王国]]の[[槃羅茶全]]が[[黎朝]]に侵攻したが失敗し、逆に[[黎朝]]の[[レ・タイントン]]が[[チャンパ王国]]に親征して、[[槃羅茶全]]の首をさらした。[[1480年]]、勢いに乗ったレ・タイントンはさらに[[ラーンサーン王国]]に侵攻し、ラオスの国王を殺し、現在のジャール平原に7県の鎮寧府を設置して統治した。レ・タイントンはさらに西進してラーンナー王国へも侵攻したが、逆襲に遭いレ・タイントンは敗走した。 |
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1551年、タウングー王朝の王となった[[バインナウン]](在位1551-1581年)は、現在の[[シャン州]]となっている東部の[[シャン族]]を制圧すると、1558年にラーンナーに侵攻して征服した<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、52-53頁</ref><ref>[[#Ohno|大野 (2002)]]、244頁</ref>。{{仮リンク|第二次緬泰戦争|en|Burmese–Siamese War (1563–64)}}(1563-1564年)では、占領したラーンナーの軍を率いたバインナウンがアユタヤ王朝の[[ムアンピッサヌローク郡|ピッサヌローク]]を制圧した後、[[1568年]]、再びアユタヤに侵攻し<ref name=Ohno_245>[[#Ohno|大野 (2002)]]、245頁</ref>、翌年、ビルマに占領された<ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、216頁</ref>。 |
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[[1523年]]から[[1525年]]まで、ラーンナー王国の[[ケーオ (ラーンナー王)|ケーオ]]王は[[チャイントン|ケントゥン]]に出兵し敗北。多くの権力者や、兵士らを失った。この人材と人口の減少は国内を大きく疲弊させ、ラーンナー王国衰退の一因を作った。 |
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[[1540年]]、タウングー王朝の[[タビンシュエーティー]]王がポルトガル人の鉄砲隊700人の傭兵を雇用し、軍事力を高めた。これがラーンナー王国とアユタヤー王朝の運命を左右することになった。 |
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[[1546年]]に[[ラーンサーン王国]]から[[セーターティラート]]を招いてラーンナー王国の国王に据えた。 |
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[[1548年]]、[[緬泰戦争 (1548年)|第一次緬泰戦争]]では、[[タウングー王朝]]の[[バインナウン]]王がアユタヤー王朝に侵攻し、[[チャクラパット]]王が危機に陥ったが[[シースリヨータイ]]王妃が身を挺して命を助けた。 |
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[[1558年]]に東方への領土拡大をねらった[[タウングー王朝]]の[[バインナウン]]王がラーンナー王国に侵攻し、その属国となりラーンナー王朝は終わりを告げた。これが現在の[[シャン州]]となっている。 |
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[[1563年]]、第二次緬泰戦争では、タウングー王朝のバインナウン王が再びアユタヤー王朝に侵攻し、チャクラパット王がビルマの属国となることを認めた。 |
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=== 後期 === |
=== 後期 === |
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[[1581年]]にタウングー王朝のバインナウンが死去した後、タウングー王朝が混乱状態をきたすと、[[1584年]]に[[ナレースワン]](在位1590-1605年)は機が熟したと見て、アユタヤ王朝の独立を宣言する<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、57頁</ref><ref>[[#Ohno|大野 (2002)]]、245-246頁</ref>。[[1590年]]に王位を継いだナレースワンは<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、58頁</ref>、[[1594年]]にタウングー王朝へ侵攻した<ref>[[#heibonsha|『東南アジアを知る事典』 (2008)]]、312頁</ref>({{仮リンク|緬泰戦争 (1594年–1605年)|en|Burmese–Siamese War (1594–1605)|label=緬泰戦争〈1594-1605年〉}})。[[1595年]]、[[バゴー|ペグー]]の戦いに勝利し、要衝の[[モッタマ|マルタバン]]を奪い返した<ref>[[#Ohno|大野 (2002)]]、246頁</ref>。[[1598年]]にラーンナーを属国とすると、[[1599年]]には再びペグーからタウングーにかけて侵攻した<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、58-59頁</ref>。 |
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[[1605年]]にナレースワンが死去し<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、59頁</ref>、弟の[[エーカートッサロット]](在位1605-1610/1611年)の時代になると、いっそう対外交易を進展させた<ref>[[#iwanami3|『岩波講座 東南アジア史 3』 (2001)]]、183-184頁</ref>。[[イギリス]]([[イギリス東インド会社]])は[[1605年]]に[[パタニ王国|パタニ]]、[[1612年]]には[[アユタヤ]]での商業活動を許可された<ref name=thai_188>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、188頁</ref>。 |
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[[1606年]]、ビルマの{{仮リンク|ニャウンギャンミン|en|Nyaungyan Min}}王の死去を機に、シャン州がタイに寝返ったが、すぐに鎮圧された。 |
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王[[ソンタム]](在位1611-1628年)は、日本人約800人を傭兵として雇い、[[アユタヤ日本人町]]は隆盛を極めた<ref name=thai_188 />。[[1612年]]頃アユタヤに渡来した[[山田長政]]が、津田又左右衛門を筆頭とする日本人義勇兵(クロム・アーサー・イープン<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、63頁</ref>、Krom Asa Yipun<ref name=thai_257>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、257頁</ref>)に入ると頭角を現わし、王ソンタムに殊遇されたが、ソンタム死去による王位継承争いの後[[プラーサートトーン]](在位1629-1656年)が王位に就くと、[[1630年]]頃、王の命令で山田長政は暗殺され<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、63-64頁</ref>、アユタヤ日本人町は一時焼き払われた<ref name=thai_257 />。 |
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[[1612年]]に[[エーカートッサロット]]王が、イギリス人の[[アユタヤ]]および[[パタニ王国]]での商業活動を許可した。 |
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[[1661年]]に王[[ナーラーイ]](在位1656-1688年)がラーンナーに攻め込み、[[1662年]]にはビルマのペグーまで侵攻した<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、67頁</ref><ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、250頁</ref>。 |
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[[ソンタム]]王が津田又左右衛門を筆頭とする日本人600人を傭兵として雇い、[[アユタヤ日本人町]]は隆盛を極めた。 |
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[[1630年]]頃、[[プラーサートトーン|シーウォーラウォン]]の命令で[[山田長政]]が暗殺され、アユタヤ日本人町は皆殺しにされ焼き払われた。 |
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[[1663年]]11月から翌年2月にかけて、オランダ([[オランダ東インド会社]])が武装した2隻の船で[[チャオプラヤー川]]を封鎖し、中国人の船を捕獲するなどして一定の独占貿易を要求した。ナーラーイはこの要求を受け入れ、[[1664年]]8月に条約を締結した<ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、261-262頁</ref>。このことより王ナーラーイは、[[1665年]]、国に大事があった時のためにアユタヤより上流のロッブリーに副都を建設した<ref name=thai_364 />。[[1685年]]12月には[[チャオプラヤー・コーサーパーン]]が{{仮リンク|フランスへのシャム大使派遣 (1686年)|en|Siamese embassy to France (1686)|label=フランスにアユタヤ大使として派遣}}され、[[1686年]]9月、[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]に謁見し、翌年9月に帰国している<ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、122頁</ref>。[[1688年]]に{{仮リンク|シャム革命 (1688年)|en|Siamese revolution of 1688|label=シャム革命}}が勃発。最高顧問であった[[コンスタンティン・フォールコン]]が6月に処刑され、7月に王ナーラーイが死去すると[[ペートラーチャー]](在位1688-1703年)が即位し、[[フランス]]勢力を一掃した<ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、151頁</ref>。 |
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[[1661年]]にモン族が[[モッタマ|マルタバン]]で反乱を起こし、[[1662年]]には[[ナーラーイ]]王がランサーンへ攻め込んだため、[[1663年]]にモン族が大挙してビルマを脱出し、アユタヤーへ逃れて[[ナーラーイ]]王に帰化を求めた。モン族の返還を求めたビルマと戦争になった。 |
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[[1664年]]にタイ華僑とオランダ人商人が衝突した。翌年、[[オランダ東インド会社]]が武装した船にポルトガルの国旗を掲げバンコク湾を封鎖し独占貿易を要求した。ナーラーイ王はこの要求を受け入れ、国に一大事があった時のために副都[[ロッブリー]]を建設した。 |
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[[1686年]]に[[チャオプラヤー・コーサーパーン]]が{{仮リンク|フランスへのシャム大使派遣 (1686年)|en|Siamese embassy to France (1686)|label=フランスへのシャム大使として派遣}}され、[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]に謁見した。 |
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[[1688年]]に{{仮リンク|シャム革命 (1688年)|en|Siamese revolution of 1688|label=シャム革命}}が勃発。顧問の[[コンスタンティン・フォールコン]]が暗殺され、[[ペートラーチャー]]が即位した。 |
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アユタヤ王朝は、[[16世紀]]の[[1516年]]にポルトガルとの条約締結から始まって、ヨーロッパと接触をもったが<ref>[[#iwanami2|『岩波講座 東南アジア史 2』 (2001)]]、250頁</ref><ref>[[#chuokoron|石澤・生田 (1996)]]、253頁</ref>、[[中国]]との関係が最も重要であった<ref>{{Cite book |和書 |editor=[[石井米雄]]・[[辛島昇]]・和田久徳 |title=東南アジア世界の歴史的位相 |year=1992 |publisher=[[東京大学出版会]] |isbn=4-13-021055-6 |page=78}}</ref>。1709年に王位に就いた[[プーミンタラーチャー]](ターイサ〈池の端〉王、在位1709-1733年)の時代、中国を中心に[[タイ米]]の輸出が開始され<ref>[[#iwanami3|『岩波講座 東南アジア史 3』 (2001)]]、197頁</ref><ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、265頁</ref>、オランダ領[[ジャワ島|ジャワ]](オランダ東インド会社)やイギリス領インド(イギリス東インド会社)にも輸出された<ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、194頁</ref>。また、[[ベトナム]]と手を結んだ[[カンボジア]]内の勢力に対して[[1720年]]に派兵し、主権を維持した。しかし、次の王[[ボーロマコート]](在位1733-1758年)の時代も、カンボジアの親タイ派と親ベトナム派の対立が続くと、[[1749年]]、再びカンボジアに派兵し属国とした<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、72頁</ref>。 |
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[[プーミンタラーチャー]]王が、[[イギリス東インド会社]]との通商を開き、ベトナムと手を結んで独立していたクメール王朝を保護国とした。 |
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アユタヤ王朝は、400年間以上の繁栄の後、ビルマに興った[[コンバウン王朝]]との[[泰緬戦争 (1759年-1760年)|泰緬戦争(1759-1760年)]]で、[[タニンダーリ管区|テナセリム]](タニンダーリ)、マルタバン(モッタマ)、[[ダウェイ|タヴォイ]](ダウェイ)を失った<ref>[[#Nemoto|根本 (2014)]]、49頁</ref>。[[1765年]]からの[[泰緬戦争 (1765年-1767年)|泰緬戦争(1765-1767年)]]で、ついにコンバウン王朝の侵入により、[[1767年]]4月、首都[[テーサバーンナコーン・プラナコーンシーアユッタヤー|アユタヤ]]は攻め落とされ、アユタヤ王朝は破滅した<ref>[[#iwanami3|『岩波講座 東南アジア史 3』 (2001)]]、201-202頁</ref><ref>[[#Ohno|大野 (2002)]]、252頁</ref>。 |
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[[1727年]][[5月2日]]、[[ナーン王国]]が成立。 |
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== トンブリー王朝 == |
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アユタヤー王朝は、[[16世紀]]に[[ポルトガル]]人から始まって、西洋といくらか接触をもっていたが、[[1800年代]]までは、[[インド]]や[[中国]]、近隣諸国との関係が最も重要であった。 |
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{{main|トンブリー王朝}} |
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[[1766年]]から[[1769年]]にかけて[[清緬戦争]]が勃発し、[[1776年]]にはコンバウン王朝がタイ領から撤退して圧力が弱まったこともあり<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、76頁</ref><ref>[[#Ohno|大野 (2002)]]、253頁</ref>、[[華僑]]の父とタイ人の母をもつ[[タークシン]]は、華僑の支援のもとに要衝[[トンブリー]](現在の[[バンコク]]・[[トンブリー区]])を拠点として再統合することに成功し、[[1768年]]末にタークシン(在位1768-1782年)は王となった<ref name=thai_199-200>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、199-200頁</ref>。新首都トンブリーを拠点にトンブリー王朝はアユタヤを取り戻すとともに支配域を回復し、さらに拡大を図った<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、78-80頁</ref>。また、カンボジアで始まった王座を巡る争いに介入し<ref>[[#iwanami4|『岩波講座 東南アジア史 4』 (2001)]]、251頁</ref>、[[1771年]]からカンボジアに2度侵攻した<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、79・82頁</ref><ref>[[#Kitagawa|北川 (2006)]]、175-178頁</ref>。 |
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== チャクリー王朝 == |
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{{main|チャクリー王朝|{{仮リンク|ラッタナーコーシン王国|en|Rattanakosin Kingdom}}}} |
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=== トンブリー王朝 === |
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[[ファイル:Carte royaume de Siam.png|thumb|180px|1809年のラッタナーコーシン王国の領域図]] |
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その後、精神的な偏重を示したとされる王タークシンは<ref>[[#iwanami4|『岩波講座 東南アジア史 4』 (2001)]]、254頁</ref>、[[1782年]]初頭、クーデターで追い詰められ、カンボジア遠征から戻ったチャオプラヤー・チャクリーにより同年4月6日処刑された<ref name=thai_199-200 />。チャオプラヤー・チャクリーは[[ラーマ1世]](在位1782-1809年)として王を継ぎ、後にプラプッタヨートファーチュラーロークと呼ばれる[[チャクリー王朝]](ラッタナーコーシン王朝)の最初の王となった<ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、338頁</ref>。ラーマ1世は、右岸のトンブリーから[[チャオプラヤー川]]を渡った左岸に新しい首都バンコクを建設し、現在に続くチャクリー王朝が始まった<ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、268頁</ref>。 |
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[[ラーマ2世]](在位1809-1824年)の時代になって、[[1821年]]にタイが{{仮リンク|ナコーンシータンマラート王国|en|Nakhon Si Thammarat Kingdom}}により{{仮リンク|ケダ・スルタン国|en|Kedah Sultanate}}を征服し<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、94頁</ref><ref>[[#iwanami4|『岩波講座 東南アジア史 4』 (2001)]]、178-180頁</ref>、統治を開始するなどの対外拡張政策を推進した<ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、341頁</ref>。タイのラーマ1世以後の支配者がアジア地域におけるヨーロッパ列強の力を認識したのは、隣国のコンバウン王朝が[[1824年]]からの{{仮リンク|第一次英緬戦争|en|First Anglo-Burmese War}}によりイギリスに敗北し、一部領土を失うなど<ref>[[#Ohno|大野 (2002)]]、255-256頁</ref>、ヨーロッパ諸国の脅威に晒されたことによる<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、94-96・104頁</ref>。[[ラーマ3世]](在位1824-1851年)は、[[1826年]]、イギリスと通商条約({{仮リンク|バーネイ条約|en|Burney Treaty}})を締結し<ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、273頁</ref><ref>{{Cite book |和書 |author=[[中西輝政]] |title=国民の文明史 |year=2015 |publisher=[[PHP研究所]] |series=[[PHP文庫]] |isbn=978-4-569-76272-2 |page=468}}</ref>、[[1833年]]には[[アメリカ合衆国|アメリカ]]とも外交上の条約を交わした<ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、342頁</ref>。 |
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400年間以上の王権の後は、[[泰緬戦争 (1759年-1760年)]]で、かつて[[タウングー王朝]]から奪った[[タニンダーリ管区|テナセリム]]の北部を失い、[[1762年]]から[[1769年]]にかけて[[清緬戦争]]が勃発し、[[1767年]]の[[泰緬戦争 (1765年-1767年)]]でアユタヤー王朝は隣国コンバウン王朝の侵入により破滅し、首都[[テーサバーンナコーン・プラナコーンシーアユッタヤー|アユタヤ]]は焼き払われ、国は6つに分割され、[[タニンダーリ管区|テナセリム]]南部を失った。その後、清緬戦争で清軍が[[景洪市|景洪]]以北へコンバウン王朝に押し戻されるとともに、コンバウン王朝がタイ領から撤退して圧力が弱まったこともあり、[[華僑]]の[[タークシン]]将軍は、新首都[[トンブリー]]を拠点とする[[トンブリー王朝]]を再統合することに成功し、[[1769年]]に王となった。 |
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この時代、ベトナムで[[1802年]]に成立した[[阮朝]]が強勢になると、タイとベトナムがカンボジアの覇権を巡る争いが大きくなった。タイがカンボジアの支配を狙って起こした{{仮リンク|泰越戦争 (1831-1834)|en|Siamese–Vietnamese War (1831–34)|label=泰越戦争(1831-1834年)}}において、[[1832年]]にタイはカンボジアに侵攻したが、ベトナム(阮朝)とともにカンボジアが反撃に転じると、タイは撤退し、[[1834年]]にはベトナムがカンボジアを掌握した。その後、タイが再びカンボジアの支配のために起こした{{仮リンク|泰越戦争 (1841-1845)|en|Siamese–Vietnamese War (1841–1845)|label=泰越戦争(1841-1845年)}}の結果、[[1845年]]にタイとベトナム両国でカンボジアを共有する講和条約が締結された<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、90-91頁</ref>。この結果、[[1847年]]に[[アン・ドゥオン]]がカンボジア王に即位したが、ひそかにカンボジア領内の一定の支配権を得るため、[[シンガポール]]のフランス領事を通じて[[ナポレオン3世]]に援助を要請しようとした。しかし、それは事前にタイに情報が漏れたことで失敗に終わった<ref>{{cite book |和書 |author=フーオッ・タット |translator=今川幸雄 |title=アンコール遺跡とカンボジアの歴史 |publisher=[[めこん]] |year=1995 |isbn=4-8396-0095-3 |page=129}}</ref>。 |
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[[1777年]]にタークシン王は[[福建省]][[ショウ州市|漳州府]][[竜海市|海澄県]]で生まれた[[華僑]]出身の呉譲を[[ソンクラー県|ソンクラー国主]]に就任させ、以後、ソンクラー国を拠点としてシャム軍が[[パタニ王国]]、{{仮リンク|クダ・スルタン国|en|Kedah Sultanate}}への侵略の動きを見せ始めた。また1770年からカンボジアで始まった王座を巡る争いに介入した。 |
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=== 近代化 === |
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[[ファイル:ThailandWithFlags.gif|thumb|180px|19世紀末-20世紀初頭のタイ領域の割譲<br/>{{legend|#80f8fc|1867年[[フランス]]に<ref>[[#Winichakul|ウィニッチャクン (2003)]]、176頁</ref>}}{{legend|#0d8e0c|1888年[[フランス領インドシナ|フランス]]に<ref>[[#Kamihigashi|上東 (1990)]]、91頁</ref>}}{{legend|#1e8eff|1893年フランスに}}{{legend|#aa9f4b|1893年[[イギリス領インド帝国|イギリス]]に<ref>[[#Winichakul|ウィニッチャクン (2003)]]、199-200頁</ref>}}{{legend|#338c70|1904年フランスに}}{{legend|#4aea00|1907年フランスに}}{{legend|#eaa400|1909年イギリスに}}]] |
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{{main|{{仮リンク|ラッタナコシン王国|en|Rattanakosin Kingdom|label=バンコク王朝}}}} |
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タイが西欧勢力との間に堅固な国交を確立したのは、その後の[[ラーマ4世]](モンクット、在位1851-1868年)と息子の[[ラーマ5世]](チュラーロンコーン、在位1868-1910年)の統治中のことであった。[[1840年]]からの[[アヘン戦争]]における大国の[[清]]の敗北はタイにとっても大きな衝撃であり<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、108頁</ref>、この2人の君主の外交手腕がタイ政府の近代化改革([[チャクリー改革]])と結び付いたことによって、タイ王国はヨーロッパによる植民地支配から免れた東南アジアで唯一の国になった。タイはイギリスとフランスの植民地にはさまれて、両大国の[[緩衝国]]となったことも独立の維持に役立った<ref name=iwanami5_214>[[#iwanami5|『岩波講座 東南アジア史 5』 (2001)]]、214頁</ref>。[[1852年]]の{{仮リンク|第二次英緬戦争|en|Second Anglo-Burmese War}}の結果、イギリスは[[下ビルマ]]を獲得していた<ref>[[#chuokoron|石澤・生田 (1996)]]、409頁</ref><ref>[[#Nemoto|根本 (2014)]]、59-60頁</ref>。ラーマ4世は、[[1855年]]にイギリスと通商貿易に関する条約({{仮リンク|バウリング条約|en|Bowring Treaty}})を締結した<ref name=iwanami5_214 /><ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、107-108頁</ref>。 |
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一方、[[1779年]]よりタイの属国となっていた[[ルアンパバーン王国]]では<ref>[[#heibonsha|『東南アジアを知る事典』 (2008)]]、485頁</ref>、[[太平天国の乱]]の末裔の中国人[[匪賊]]として各地に侵攻したホーにより1872年以来襲撃された。タイが軍を派遣したことでいったん沈静化していたが、[[1885年]]、再度襲撃が活発になると<ref>[[#Kamihigashi|上東 (1990)]]、81-82頁</ref>、タイは討伐の軍を送り、フランスもまた{{仮リンク|シップソーンチュタイ|en|Sip Song Chau Tai}}に軍を派遣した。これによりホーの襲撃はおさまりを見せたが<ref name=Kakizaki_117>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、117頁</ref>、ルアンパバーンにはフランス副領事館が置かれることとなった<ref name=yamakawa5_352>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、352頁</ref>。その後、[[1887年]]にルアンパバーンは再びホーにより襲撃された<ref name=Kakizaki_117 />。すでに軍は撤退しており、当時国王であった{{仮リンク|ウンカム|en|Oun Kham}}とその家族はこの襲撃により危機に晒されたが、フランス副領事館の{{仮リンク|オーガスト・パヴィ|en|Auguste Pavie}}により救出され、逃亡に成功している<ref>[[#Kamihigashi|上東 (1990)]]、83頁</ref>。このホー軍の襲撃は、ルアンパバーンに国王を救出したフランスへの信頼感を産み出す契機となった<ref name=yamakawa5_352 />。また、[[清仏戦争]]で1885年に清からベトナムに対する宗主権をフランスが奪取したことも<ref>[[#iwanami5|『岩波講座 東南アジア史 5』 (2001)]]、114頁</ref>、ルアンパバーン王国がフランスの保護を受け入れる道を選択することを後押しした。ルアンパバーン王国のフランスによる保護国化を不服としたタイも、[[1893年]]の{{仮リンク|仏泰戦争|en|Franco-Siamese War}}([[パークナム事件]])に敗戦した結果、[[ラオス]]がフランス保護下に置かれることが確定すると<ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、410-411頁</ref>、[[1899年]]、ラオスは[[フランス領インドシナ]]に編入された<ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、353-354頁</ref><ref>[[#Kamihigashi|上東 (1990)]]、94頁</ref>。 |
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しかしその後、精神を病んでいたとされているタークシン王はプラヤー・サンのクーデターで退位させられ、[[1782年]][[4月2日]]にカンボジア遠征から戻ったチャックリー将軍に処刑され、チャックリー将軍が[[ラーマ1世|チュラローク王]]('''ラーマ1世'''、[[チャクリー王朝]]の最初の王)として彼を継いだ。同年、ラーマ1世はトンブリーから[[チャオプラヤー川]]を渡った河口の平原に新しい首都[[バンコク]]を建設し、現在まで続くチャクリー王朝(バンコク王朝)が始まった。ラーマ1世の時代になっても[[1821年]]になってタイがクダ・スルタン国を征服し、統治を開始するなど、隣国コンバウン朝同様の対外膨張政策を推進していた。 |
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イギリスは1885年の{{仮リンク|第三次英緬戦争|en|Third Anglo-Burmese War}}の結果<ref>[[#Nemoto|根本 (2014)]]、64頁</ref>、[[1886年]]にはビルマ全域を獲得していた<ref>[[#chuokoron|石澤・生田 (1996)]]、411頁</ref>。[[1890年]]代にイギリスとフランスが、ビルマとラオスの接する[[メコン川]]に向い合うようになると<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、122頁</ref>、[[1896年]]、イギリス・フランス両国は、タイのチャオプラヤー川流域に関する英仏宣言を発表して紛争を回避し、タイをイギリス・フランス両国の緩衝地帯として残すことが定められた<ref name=iwanami5_214 />。[[1904年]]にはフランスとの協定で[[ムアンチャンタブリー郡|チャンタブリー]]がタイに返還される代わりに、ルアンパバーンのメコン川西岸([[サイニャブーリー県|ラーンチャーン]]〈ラーンサーン〉)と[[チャンパーサック県|チャンパーサック]]およびマノープライ (Mano Phrai)、それに[[ムアントラート郡|トラート]]と{{仮リンク|ダーンサーイ郡|en|Dan Sai District|label=ダーンサーイ}}を割譲し、[[1907年]]の条約では、トラートとダーンサーイが返還されたが、タイはカンボジアの[[バタンバン州|バタンバン]]、[[シェムリアップ州|シェムリアップ]]、[[シソポン]]を割譲した<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、132-133頁</ref><ref name=Takahashi>{{Cite journal |和書 |author=高橋正樹 |title=英仏植民地主義及び日本の南進政策とタイの領域主権国家化 |date=2016-4 |publisher=[[新潟国際情報大学]]国際学部 |journal=新潟国際情報大学国際学部紀要 |volume=1 |ISSN=2189-5864 |pages=117-133 |url=http://lbir.nuis.ac.jp/infolib/user_contents/lbir/kiyo/kiyo_2016.02.08.pdf |format=PDF |accessdate=2019-10-27}}</ref>。また、[[1909年]]のイギリスとの条約({{仮リンク|英泰条約 (1909年)|en|Anglo-Siamese Treaty of 1909|label=英泰条約}})では、現在のマレー半島の4州([[クランタン州|クランタン]]・[[トレンガヌ州|トレンガヌ]]・[[ケダ州|ケダ]]・[[プルリス州|プルリス]])を割譲した<ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、160頁</ref>。タイはこれらの条約の締結により多くの領土を手放したが、一方で東北部およびマレー半島などのタイ領を維持した<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、122-124頁</ref>。 |
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[[1788年]]から[[1789年]]にかけて[[ドンダーの戦い|清越戦争]]が勃発し、[[西山朝]]が[[清]]の介入を撃退し、[[黎朝]]が滅んだ。ベトナムも[[阮朝]]が強勢になった。[[乾隆帝]]の[[十全武功]]における清緬戦争と清越戦争の結果、タイとベトナムがインドシナの覇権を巡って争うことになった。一方、タイのラーマ1世の後継者達がアジア地域における西欧列強の力を認識し始めたのは、[[1826年]]に隣国コンバウン王朝が{{仮リンク|第一次英緬戦争|en|First Anglo-Burmese War}}で[[イギリス|英国]]に敗北し、次第にヨーロッパ諸国の[[植民地]]主義の脅威に晒されるようになってからである。同年、英国と[[:en:Treaty_of_Amity_and_Commerce_(UK-Siam)|友好通商条約]]及び[[:en:Burney_Treaty|バーニー条約]]を締結し、[[1833年]]に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]とも外交上の交流を始め、タイは[[1939年]]まで(その後、再び[[1945年]]~[[1949年]]の期間)招かれた。 |
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[[1914年]]に[[第一次世界大戦]]が発生すると、タイは直後の8月6日に中立を宣言して戦況をうかがい、その後、[[1917年]]4月のアメリカ参戦で[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]が有利と見極めたタイは、7月22日に連合国側として宣戦した。これに伴い、9月28日、タイの国旗を現在の3色旗に変更した<ref>{{Cite book |和書 |author=早瀬晋三 |year=2012 |title=マンダラ国家から国民国家へ - 東南アジア史のなかの第一次世界大戦 |series=レクチャー 第一次世界大戦を考える |publisher=[[人文書院]] |isbn=978-4-409-51116-9 |pages=63-64}}</ref>。 |
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[[1831年]]にタイがカンボジアの支配を狙って起こした{{仮リンク|泰越戦争 (1831年 - 1834年)|en|Siamese–Vietnamese War (1831–34)|label=第一次泰越戦争}}では、タイはカンボジア北部に侵攻した後、南転してさらにベトナム南部の[[チャウドク]]と[[ヴィンロン]]を蹂躙した。ベトナム([[阮朝]])が反撃に転じると、戦闘になる前にタイは撤退し、ベトナムがカンボジア全土を掌握した。タイとベトナムの戦争で蹂躙され、カンボジアが弱体化すると、Prey Nokorは徐々にベトナム化し、名前もサイゴン(現在の[[ホーチミン市]])となった。[[1841年]]にタイがカンボジアの支配を狙って再び起こした{{仮リンク|泰越戦争 (1841年 - 1845年)|en|Siamese–Vietnamese War (1841–1845)|label=第二次泰越戦争}}の結果、泰越両国でカンボジアを共有する平和条約が締結された。この結果、[[1848年]]に[[アン・ドゥオン]]王がカンボジア王に即位したが、ひそかに[[シンガポール]]のフランス領事を通じて[[ナポレオン3世]]に援助を要請したが、事前にタイに情報が漏れ、失敗に終わった。 |
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== 立憲君主制時代 == |
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{{See also|{{仮リンク|タイの歴史 (1932年 - 1973年)|en|History of Thailand (1932–1973)}}|タイの首相}} |
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タイが西欧勢力との間に堅固な国交を確立したのは、その後の[[ラーマ4世|モンクット王]]('''ラーマ4世'''、[[1851年|1851]] - [[1868年]])と彼の息子[[ラーマ5世|チュラーロンコーン王]]('''ラーマ5世'''、[[1868年|1868]] - [[1910年]])の統治中のことであった。[[1840年]]の[[アヘン戦争]]における大国の清の敗北はタイにとっても大きな衝撃であり、この2人の君主の外交手腕がタイ政府の近代化改革([[チャクリー改革]])と結び付いたことによって、タイ王国はヨーロッパによる植民地支配から免れた南・東南アジアで唯一の国になった。<ref>以後、タイは[[イギリス]]と[[フランス]]の植民地にはさまれて、両大国の[[緩衝国]]となったことも独立の維持に役立ったとタイ人は信じている。この歴史は、[[1949年]][[5月11日]]に公式に宣言された現在の国名 ''Prathet Thai(ประเทศไทย)''([[1939年]]から[[1945年]]の間も非公式に使用されていた)に反映されており、''prathet(ประเทศ)''は「国家」、''thai(ไทย)''は「自由な」を意味している。</ref>[[1852年]]の{{仮リンク|第二次英緬戦争|en|Second Anglo-Burmese War}}と[[1885年]]の{{仮リンク|第三次英緬戦争|en|Third Anglo-Burmese War}}という2つの戦争の結果、イギリスが東進してタイの北、[[シャン州]]まで進出した。[[1855年]]にイギリスと通商貿易に関する{{仮リンク|ボーリング条約|en|Bowring Treaty}} (不平等条約) を締結。[[1856年]]から[[1873年]]にかけて、[[太平天国の乱]]に呼応して蜂起した[[パンゼーの乱]]によって、隣国コンバウン朝は大きく影響を受けて衰退し、タイにとって脅威ではなくなったが、[[1865年]]から[[1890年]]にかけてタイも[[パンゼーの乱]]の残党の{{仮リンク|チン・ホー族|en|Chin Haw}}による{{仮リンク|ホー戦争|en|Haw wars}}の戦場となった。 |
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一方、タイの保護国だった[[ルアンパバーン王国]]でも、[[1872年]]からチン・ホー族の[[赤旗軍]]が二度に渡って襲撃し、{{仮リンク|シップソーンチュタイ|en|Sip Song Chau Tai}}地方を占領し、[[1873年]]頃には{{仮リンク|ムアン・タン (歴史)|en|Muang Then|label=ムアン・タン}}(現在の[[ディエンビエンフー]])など北東部を占領した。同年、"Striped Flags"が[[:en:Phuan|Phuan]]{{要曖昧さ回避|date=2014年6月7日}}や[[ジャール平原]]を支配下に置いた。[[1874年]]にはいったん沈静化したが、[[1875年]]より再び[[シエンクワーン県|シエンクワーン]]、[[ヴィエンチャン]]などでチン・ホー族の襲撃が行われ、[[1875年]]-[[1876年]]頃、[[黒旗軍]]や[[黄旗軍]]が{{仮リンク|シップソーンチュタイ|en|Sip Song Chau Tai}}(Sip Son Chu Tai)に侵攻した。これらの襲撃はシャム軍による掃討作戦により一応のおさまりを見せたが、[[1885年]]に再度ヴィエンチャンが襲撃に遭い、[[1887年]]にはルアンパバーン王国が[[太平天国の乱]]の後ベトナムの傭兵としてフランスと戦っていた[[黒旗軍]]に襲撃された。この襲撃により当時国王であった{{仮リンク|ウン・カム|en|Oun Kham}}とその家族は危機に晒されたが、フランス副領事館の{{仮リンク|オーガスト・パヴィ|en|Auguste Pavie}}により救出され、パークライへの逃亡に成功している。長きに渡ったチン・ホー族の反乱と黒旗軍の襲撃は、ルアンパバーン王国の住民に初動が遅れたシャムへの不信感を植え付け、逆に国王を救出したフランスへの信頼感を産み出す契機となった。また、[[1885年]]の[[清仏戦争]]で清からベトナムに対する宗主権を[[フランス]]が奪取したことも、ルアンパバーン王国がフランスの保護を受け入れる道を選択することを後押しした。 |
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ルアンパバーン王国のフランスによる保護国化を不服としたタイも[[1893年]]に{{仮リンク|仏泰戦争|en|Franco-Siamese War}}を起こしたが敗戦した結果、ラオスがフランス保護下に置かれることが確定し、[[フランス領インドシナ|仏領インドシナ連邦]]が完成した。1890年代になると英仏はインドシナから雲南への別々のルートを巡って衝突した、所謂「[[雲南問題]]」に直面した。しかし、両国とも昆明へのルート<ref>英仏両国の検討したルートは、後の[[援蒋ルート]]や[[中越戦争]]の舞台となったことからも戦略上の重要性は明らかである。</ref>がコスト高であることと、[[マラリア]]の問題を解決出来ず、[[1896年]]にイギリス・フランス両国は[[シャムとメーコーン上流域に関する英仏宣言]]を発表して戦争を回避し、副次的産物として、タイをイギリス・フランス両国の緩衝地帯として残すことが定められた。[[1909年]]の{{仮リンク|英泰条約 (1909年)|en|Anglo-Siamese Treaty of 1909|label=英泰条約}}では、現在の泰緬国境線を確定する一方、[[パッターニー県]]・[[ヤラー県]]・[[ナラーティワート県]]の[[深南部 (タイ)|深南部三県]]と[[サトゥーン県]]という旧マラヤ領をタイ領とするなど、タイに有利な条約を締結した。その後、フランスとの一連の条約では、ラオス・カンボジアとの東部国境線を確定した。 |
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== 立憲君主制時代のタイ == |
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{{main|{{仮リンク|タイの歴史 (1932年 - 1973年)|en|History of Thailand (1932–1973)}}|タイの首相}} |
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=== 立憲革命 === |
=== 立憲革命 === |
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{{main|立憲革命 (タイ)}} |
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[[1910年]]に[[ラーマ6世]](在位:[[1910年]] - [[1925年]])が王位を継承すると、[[1912年]]には[[絶対君主制]]に反対する軍部による[[:en:Palace Revolt of 1912]]が起こったが失敗に終わったが、後の[[人民党 (タイ)|人民党]]のメンバーに大きな影響を与えた。 |
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[[1910年]]にワチラーウットが[[ラーマ6世]](在位1910-1925年)として王位を継承すると、[[1912年]]には[[絶対君主制]]に反対する軍部の青年によるクーデター ([[w:Palace Revolt of 1912|Palace Revolt of 1912]]) が起こったが<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、135頁</ref>失敗に終わった<ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、420頁</ref>。 |
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[[1925年]]に[[ラーマ7世]](在位 |
[[1925年]]に[[ラーマ7世]](プラチャーティポック、在位1925-1935年)が王位を継承すると、[[1929年]]に始まった[[世界恐慌]]をきっかけにタイの財政が悪化し、再び絶対君主制に反対する運動が高まった<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、152-153頁</ref>。[[1927年]]に結成された人民党による[[1932年]]の[[クーデター]]([[立憲革命 (タイ)|立憲革命]])は、タイの政府を[[絶対君主制]]から[[立憲君主制]]へと移行させた<ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、425-427頁</ref>。ラーマ7世はこの改革を認めたが、その後[[1935年]]、当時9歳の甥[[ラーマ8世]](アーナンタマヒドン、在位1935-1946年)に王位を譲った<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、158頁</ref>。 |
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=== 第二次世界大戦 === |
=== 第二次世界大戦 === |
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[[プレーク・ピブーンソンクラーム]]が実権を握 |
人民党の[[プレーク・ピブーンソンクラーム]](在任1938-1944年〈後1948-1957年〉)が実権を握り首相に就くと、[[1939年]]6月、国名を「シャム」から「タイ」に変更した<ref group="注">国名「タイ」(''Prathet Thai''、{{lang-th|ประเทศไทย}})は、当初[[1939年]]から[[1945年]]に使用され、[[1949年]]5月11日に公式に宣言された。''prathet'' ({{lang-th|ประเทศ}})は「国家」、''thai'' ({{lang-th|ไทย}})「タイ」の語源は「自由」に由来するとした。<!--(『東南アジア史 I 大陸部』 136頁)--></ref>。タイは、1939年9月に[[ヨーロッパ]]で[[第二次世界大戦]]が勃発した直後に中立宣言を出していたが、[[1940年]]に日本軍がフランス領インドシナに進駐すると、ピブーンソンクラームは同年9月10日にフランス領インドシナと国境紛争を起こした<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、159-165頁</ref>。タイの要求を拒否したフランスは11月28日にタイ側を空爆し、[[タイ・フランス領インドシナ紛争]]の開戦となった。翌[[1941年]]の日本の仲介により、5月9日に[[東京条約]]を締結し、1904年と1907年にタイが割譲した領土のほとんどを自国領に併合した<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、165-167頁</ref><ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、431-432頁</ref>。 |
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その後、1941年[[12月8日]]にイギリスやアメリカなどの[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]との間に開戦した[[日本軍]]が、イギリスが支配していたマレー半島へ向かい、[[イギリス領マラヤ]]の[[コタバル]]と同じく、タイ南部の[[ムアンソンクラー郡|ソンクラー]](シンゴラ)や[[ムアンパッターニー郡|パッターニー]](パタニ)に上陸すると、タイ軍らは戦闘を開始したが<ref>{{Cite book |和書 |author=倉沢愛子 |title=「大東亜」戦争を知っていますか |year=2002 |publisher=[[講談社]] |series=[[講談社現代新書]] |isbn=4-06-149617-4 |page=28}}</ref>、同日、タイは日本軍の通過を認めた。こうした日本の圧力や、日本軍の緒戦の勝利を背景として、12月21日には[[日泰攻守同盟条約]]を締結し、日本の同盟国となった<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、172頁</ref>。その翌年の[[1942年]]1月8日にイギリス軍がバンコクを爆撃したのを機に、1月25日、ピブーンソンクラームはイギリスとアメリカに宣戦布告し、タイは[[枢軸国]]として参戦することになった<ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、197頁</ref>。 |
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1942年3月、駐米大使であり<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、179頁</ref>後に[[首相]]になる[[セーニー・プラーモート]]は、日泰攻守同盟条約をもとに祖国が日本の同盟国になり日本軍を駐留させるのを見て、「[[自由タイ運動|自由タイ]]」 (Free Thai、{{lang-th|เสรีไทย}}) という抗日運動をアメリカのタイ人外交官や留学生らと始めた。これはイギリスのタイ人留学グループにまでおよび、イギリスは自由タイの志願者をイギリス兵として受け入れ、特殊訓練を施して情報機関員を養成した<ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、117頁</ref>。また、タイ国内にいたピブーンソンクラーム内閣の閣僚の[[プリーディー・パノムヨン]]([[摂政]]で後の首相)までも参加していた。[[1944年]]7月にはピブーンソンクラームの総辞職により[[クアン・アパイウォン]]の新内閣が成立したが、日本に対しては自由タイ運動の支援などないように振る舞っていた。しかし、自由タイの指導者3名が入閣するなど急速に連合国との関係を強めた<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、179-182頁</ref>。 |
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イギリス軍も日本軍と同じ頃にマレー半島側から侵攻しており、[[タイ王国国家警察庁|タイ警察]]が交戦していた。その後の[[1942年]][[1月8日]]にイギリス軍がバンコクを爆撃したのを機に同月25日、ピブーンソンクラームは中立政策を完全に翻しイギリスとアメリカに宣戦布告し、タイは[[枢軸国]]となり参戦することになった。 |
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その後1942年4月ごろ、後に[[首相]]になる[[セーニー・プラーモート]]は、日泰攻守同盟条約をもとに祖国が日本の同盟国になり日本軍を駐留させるのを見て、「[[自由タイ運動]]」という抗日運動をアメリカ[[留学]]仲間と始めた。これは後にイギリスのタイ人留学グループにまでおよび、イギリスでは自由タイのメンバーはイギリス兵として受け入れられ、特殊訓練が施された。またピブーンソンクラーム内閣の閣僚で、タイ国内にいたルワン・プラディットマヌータム(本名[[プリーディー・パノムヨン]]、[[摂政]]で後の首相)までも参加していた。むろんピブーンソンクラームはこれに気が付いていたが黙認し、一方で日本に対しては「[[自由タイ運動|自由タイ]]」(Free Thai、เสรีไทย)というタイ人の団体の支援などないかのように振る舞っていた。しかし、[[1944年]]頃より日本の敗色が濃くなるとプリーディーが「自由タイ」を指揮するなど急速に連合国との関係を強めた。 |
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=== 戦後 === |
=== 戦後 === |
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[[ファイル:Provinces of Cambodia loss to Thailand during Franco-Thai War.png|thumb|タイが1941年より併合し、戦後1946年に返還した3県<br/>{{legend|#0b6810|ナコーン・チャンパーサック県}}{{legend|#08158c|ピブーンソンクラーム県}}{{legend|#910505|プレアタボン県}}]] |
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[[1945年]]8月に日本が連合国に対して敗北すると、プリーディーは「タイの宣戦布告は無効である」と宣言し、連合国との間の敵対関係を終結させようとした。こうした巧妙な政治手腕により、タイは連合国による敗戦国としての裁きを免れた。日本の敗北以来、米英を支持した''[[自由タイ運動|自由タイ]]''によって、泰米関係は軍事面に置いて非常に親密な関係を保っていた。 |
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[[1945年]]8月に日本が連合国に対して敗北すると、8月16日にプリーディーは「タイの宣戦布告は無効である」と宣言し<ref name=Takahashi />、連合国との間の敵対関係を終結させようとした。こうした巧妙な政治手腕により、タイは連合国による敗戦国としての裁きを免れた<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、183-188頁</ref>。 |
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[[1946年]] |
戦後処理内閣が[[1946年]]1月に退陣して再び就任したクアン・アパイウォンが3か月で首相を辞任し、自由タイのプリーディー・パノムヨン(在任1946年3–8月)が次の首相となった<ref name=Kakizaki_194>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、194頁</ref>。5月にフランス軍がタイ領を攻撃し、国際社会への復帰を優先せざるを得ないタイは、1941年に併合した領土の引き渡しに応じ<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、186頁</ref>、{{仮リンク|ナコーン・チャンパーサック県|en|Nakhon Champassak Province}}(チャンパーサック州)、{{仮リンク|ピブーンソンクラーム県|en|Phibunsongkhram Province}}(シェムリアップ州)、{{仮リンク|プレアタボン県|en|Phra Tabong Province}}(バタンバン州)の3県がフランスに返還された。 |
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1945年に成人したラーマ8世は、12月にスイスより帰国したが、1946年6月9日、額を銃弾が貫通した不可解な状況で死亡した<ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、348頁</ref>。ラーマ8世に続いて18歳で即位した弟の[[ラーマ9世]](プーミポン・アドゥンヤデート、在位1946-2016年)は、タイ王国で最も長く王位に就き、タイ国民に非常に人気のある君主となった。プリーディーは8月の総選挙後に辞任し、自由タイの{{仮リンク|タワン・タムロンナーワーサワット|en|Thawan Thamrongnawasawat}}(在任1946-1947年)が次の首相になった<ref name=Kakizaki_194 />。 |
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=== 軍政 |
=== 軍事政権 === |
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[[1947年]] |
[[1947年]]11月、陸軍による{{仮リンク|タイ・クーデター (1947年)|en|Siamese coup d'état of 1947|label=タイ・クーデター}}でプリーディーが亡命し、自由タイは終焉を迎えた。[[民主党 (タイ)|民主党]]のクアン・アパイウォンが首相に擁立されたが、翌[[1948年]]には陸軍の圧力により辞任を余儀なくされ、「ピブーンの返り咲き」と呼ばれるピブーンソンクラームによる軍事政権(1948-1957年)が開始された<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、196-197頁</ref>。 |
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[[1957年]] |
[[1957年]]9月の[[サリット・タナラット]]のクーデターにより、{{仮リンク|ポット・サーラシン|en|Pote Sarasin}}暫定政権が誕生し、12月に{{仮リンク|タノーム・キッティカチョーン|en|Thanom Kittikachorn}}政権が成立した<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、202頁</ref>。その後、[[1958年]]10月20日のクーデターを経てサリット・タナラット自身による軍事政権(1959-1963年)が誕生した。サリットは[[インフラストラクチャー]]の整備や高い経済成長を実現した<ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、138-139頁</ref>。この時期、[[1961年]]の[[フォード・モーター|フォード]]の工場を初めとして、日本からの自動車メーカーも多く進出した<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、207頁</ref>。[[1963年]]にサリットが死去すると、タノーム・キッティカチョーンが再登板し、長期軍事政権(1963-1973年)となった<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、216頁</ref>。 |
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東南アジアの[[冷戦]]期には、ビルマ([[ビルマ式社会主義]])、カンボジア([[クメール・ルージュ]])、ベトナム([[ベトナム民主共和国|北ベトナム]])およびラオス([[パテート・ラーオ]])のような近隣諸国の[[共産主義革命]]に脅かされた。タイは共産主義の防波堤としてアメリカの支援を受け、[[東南アジア条約機構]] (SEATO) の一翼を担った。[[ベトナム戦争]]ではアメリカ側に立ち、南ベトナムへの派兵を行い、北ベトナム爆撃([[ベトナム戦争#北爆|北爆]])のための空軍基地の開設も許可した。また、タイはアメリカ軍の補給や兵の滞在のための後方基地でもあったため、タイは経済的に発展し<ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、500-501頁</ref>、[[パッタヤー]]などのリゾート開発も進んだ<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、213-214頁</ref>。ベトナム戦争が激化するなか、[[1967年]]8月8日に[[東南アジア諸国連合]] (ASEAN) の設立がタイのバンコクにおいて宣言された<ref>[[#Kano|加納 (2012)]]、148-149頁</ref>。 |
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== 民主化後のタイ == |
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{{main|[[タイの歴史 (1973年 - )]]|タイの首相}} |
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1973年に民主化が行われ[[セーニー・プラーモート]]と[[ククリット・プラーモート]]が首相を務めた。セーニー・プラーモートが再登板した時期は、左翼学生と右翼組織とが対峙して国家の危機の時期となった。[[1976年]][[10月6日]]に僧となっていたタノーム・キッティカチョーンの帰国が引き金となり学生運動が暴発すると[[タンマサート大学虐殺事件]]が起こり、学生運動が弾圧された。{{仮リンク|ターニン・クライウィチエン|en|Tanin Kraivixien}}がしばらく首相を務めた後、再び軍政期に入る事になった。 |
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== 民主化 == |
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{{See also|[[タイの歴史 (1973年 - )]]}} |
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ラーマ9世期のタイが立憲君主政体であったのは名目上であり、[[1992年]]の選挙までの間、一連の軍政に動かされた。 |
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[[1973年]]10月の学生運動を契機にタノームらが退陣し、民主化が行われた<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、218-219頁</ref><ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、502-503頁</ref>。[[1974年]]に新憲法が制定されると、翌[[1975年]]に[[セーニー・プラーモート]]や[[ククリット・プラーモート]]が首相を務めた<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、220頁</ref>。セーニー・プラーモートが再登板した[[1976年]]には、学生・市民と右翼組織とが対峙して国家の危機の時期となった。僧となったタノーム・キッティカチョーンの帰国が引き金となり学生運動が暴発すると、10月6日に[[タンマサート大学虐殺事件]]が起こり、学生運動が弾圧された。そして[[反共主義]]をとる{{仮リンク|ターニン・クライウィチエン|en|Tanin Kraivixien}}(在任1976-1977年)がしばらく首相を務めた後、再び軍事政権期に入ることになった<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、222-224頁</ref><ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、504-505頁</ref>。 |
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=== 調整型政治 === |
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1977年から{{仮リンク|クリエンサック・チョマナン|en|Kriangsak Chomanan}}による軍政([[1977年]] - [[1980年]])が敷かれた。1972年2月の[[ニクソン大統領の中国訪問|ニクソン訪中]]による米中接近から、[[ベトナム戦争]]中だったベトナムはソ連との関係を強化しており、[[中ソ対立]]の構図の中で、隣国カンボジアの[[ポル・ポト]]政権は中国との関係が深まっていた。[[1978年]]1月にポル・ポトはベトナム領内の農村に攻撃をしかけ、ベトナムとカンボジアは国交を断交した。この状況下でクリエンサックはタイ北部の共産勢力を中国が排除するなら、タイ領を通過する[[クメール・ルージュ]]への武器供与を認めるという密約を行ったとされている。<ref>タイは公式にこれを否定する声明を発表している。当時、ラオスはタイによる国境封鎖を受けており、カンボジアへの武器搬入経路はタイという見方が一般的である。</ref> |
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[[1977年]]から{{仮リンク|クリエンサック・チョマナン|en|Kriangsak Chomanan}}(在任1977-1980年)による政権が敷かれた。一方、隣国カンボジアに誕生した[[ポル・ポト]]政権は、1977年よりベトナム国境で紛争をしかけ、1977年末にはベトナムと国交を断交した<ref>[[#Kano|加納 (2012)]]、190頁</ref>。その後、[[1978年]]末から<ref name=Kakizaki_225>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、225頁</ref>[[1979年]]初頭にベトナムがカンボジアに進軍したことから、多くのカンボジア難民がタイに逃れた<ref>{{cite book |和書 |author=ジャン・デルヴェール |translator=[[石澤良昭]]・中島節子 |title=カンボジア |series=[[文庫クセジュ]] |publisher=[[白水社]] |year=1996 |isbn=4-560-05782-6 |pages=133-134}}</ref>。同じく1979年にはベトナムからの[[ボートピープル]]も急増した<ref name=Kakizaki_225 />。 |
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[[1979年]]1月にベトナム軍はプノンペンを攻略し、クメール・ルージュ体制は崩壊([[カンボジア・ベトナム戦争]])。しかしポル・ポト派はタイ領を避難場所としてベトナム軍を攻撃し続け、ベトナム軍はポル・ポト派をタイ国境近くの山林まで駆逐した。[[1979年]]2月には[[中国人民解放軍]]がカンボジア侵攻の報復としてベトナムを攻撃した([[中越戦争]])。しかしベトナム軍に中国人民解放軍は惨敗し、3月には撤収した。 |
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[[プレーム・ティンスーラーノン]](在任1980-1988年)政権時代は「半分の民主主義」などと呼ばれ、比較的平穏で経済成長への道筋をつけた<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、225-226頁</ref><ref>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、506-507頁</ref>。ただしラオスとの国境においては、[[1980年]]6月14日、メコン川を挟んだタイ・ラオスの国境警備隊の間にて銃撃事件が発生したことより、外交努力により解除へ動きつつあったタイの国境封鎖に対して、再び歯止めがかかることとなった<ref>[[#Kamihigashi|上東 (1990)]]、133-134頁</ref>。加えて[[1984年]]5月には、ラオスの[[サイニャブーリー県]]とタイの[[ウッタラディット県]]の狭間に位置するラオス領の3つの村を[[タイ王国軍|タイ国軍]]が不法に占拠しているとして、領土権を巡る国境紛争が勃発した(三村事件)。タイは同年10月15日、国軍が撤兵したとの声明を発表し、三村事件はいったん沈静化した。その後、[[1987年]]12月に再びタイ・ラオス国境付近で両軍が衝突し、翌[[1988年]]2月まで戦闘状態に陥ったが、両国代表団により和平交渉が実施され、停戦協定が結ばれた<ref>[[#Kamihigashi|上東 (1990)]]、168-171頁</ref>。 |
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[[プレーム・ティンスーラーノン]]政権([[1980年]] - [[1988年]])は「半分の民主主義」と呼ばれ、ラオスとの国境を除けば比較的平穏で経済成長への道筋をつけた。 |
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[[チャートチャーイ・チュンハワン]](在任1988-1991年)政権では、軍の権益を軽視したことが災いして<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、234頁</ref>、[[1991年]]2月23日に[[スチンダー・クラープラユーン]]が{{仮リンク|タイ軍事クーデター (1991年)|th|รัฐประหารในประเทศไทย พ.ศ. 2534|label=軍事クーデター}}を起こし<ref name=yamakawa5_511>[[#yamakawa5|『東南アジア史 I』 (1999)]]、511頁</ref>、チャートチャーイが失脚すると<ref>[[#thai|『タイの事典』 (1993)]]、218頁</ref>、[[アナン・パンヤーラチュン]](在任1991-1992年)が推されて一時文民政権が誕生した<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、242-243頁</ref>。 |
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[[1980年]][[6月14日]]、メコン川を挟んだタイ・ラオスの国境警備隊の間にて銃撃事件が発生したことより、外交努力により解除へ動きつつあった国境封鎖に対して再び歯止めがかかることとなった。加えて1984年にはラオスの[[サイニャブリー県]]とタイの[[ウッタラディット県]]の狭間に位置するラオス領の三つの村をタイ国軍が不法に占拠していると発表し、領土権を巡る国境紛争が勃発した(三村事件)。タイ政府は同年10月14日国軍が撤兵した旨の声明を発表し、三村事件はいったん沈静化した。[[1987年]]に再びタイ・ラオス国境付近で両軍が衝突し、戦闘状態に陥ったが、[[1988年]]に両国代表団による和平交渉が実施され、停戦協定が結ばれた。 |
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[[チャートチャーイ・チュンハワン]]政権([[1988年]] - [[1991年]])では、国軍軽視が災いして[[1991年]][[2月23日]]に[[スチンダー・クラープラユーン]]が{{仮リンク|タイ軍事クーデター (1991年)|th|รัฐประหารในประเทศไทย พ.ศ. 2534|label=タイ軍事クーデター}}を起こし、チャートチャーイは失脚し、[[アナン・パンヤーラチュン]]が推された文民政権が誕生した。 |
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=== 暗黒の5月事件 === |
=== 暗黒の5月事件 === |
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1992年に |
[[1992年]]3月に行なわれた総選挙の結果、スチンダー・クラープラユーン(在任1992年4-5月)が首相に指名され、4月に就任したが、民主化を望んでいた国民は反発し、5月17日の抗議デモにより衝突した([[暗黒の5月事件]])。スチンダーは首相を辞任して、アナンが暫定政権の首相に復帰し、文民政権の樹立につながった<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、243-247頁</ref>。1992年の民主選挙以来、タイは政府が憲法上の手続きを踏んで機能する民主主義国家となった<ref name=yamakawa5_511 />。 |
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スチンダーは首相を辞任し、アナンが首相に復帰し文民政権の樹立につながった。1992年の民主選挙以来のタイは、政府が憲法上の手続きを踏んで機能する民主主義国家となった。 |
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=== 政治危機 === |
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{{main|{{仮リンク|タイの政治危機 (2008年 - 2010年)|en|2008–2010 Thai political crisis}}|{{仮リンク|タイの政治危機 (2013年 - 2014年)|en|2008–2010 Thai political crisis}}|[[タイ軍事クーデター (2014年)]]}} |
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[[2006年]]、[[タクシン・チナワット]]首相の不正蓄財疑惑が発端となり、9月19日に[[タイ軍事クーデター (2006年)|軍事クーデター]]が起こった<ref>[[#Kakizaki|柿崎 (2007)]]、262-266頁</ref>。これ以降、タイではデモ、暴動が相次ぎ、政治混乱が続くことになる。[[2011年]]、タクシンの妹[[インラック・シナワトラ]](在任2011-2014年)がタイ史上初の女性の首相となると混乱は一時終息したかに見られたが<ref>[[#Kano|加納 (2012)]]、224-226頁</ref>、[[2013年]]11月に[[2013年タイ反政府デモ|反政府デモ]]が発生した<ref>{{Cite news |title=反タクシン派のデモ激化、財務省に突入 タイ |date=2013-11-26 |url=https://www.cnn.co.jp/world/35040463.html |agency=[[CNN]] |publisher=CNN.co.jp |accessdate=2017-10-28}}</ref>。翌[[2014年]]5月、インラックの政府高官人事の違憲判決により失職し<ref>{{Cite news |title=タイのインラック首相が失職、違憲判決で |date=2014-05-07 |url=http://www.afpbb.com/articles/-/3014319 |agency=[[フランス通信社|AFP]] |publisher=AFPBB News |accessdate=2017-10-28}}</ref>、5月22日には国軍が再び[[タイ軍事クーデター (2014年)|軍事クーデター]]を起こした<ref>{{Cite news |title=タイ軍がクーデター、夜間外出禁止令も |date=2014-05-22 |url=http://www.afpbb.com/articles/-/3015679 |agency=AFP |publisher=AFPBB News |accessdate=2017-10-28}}</ref>。 |
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[[2016年]]10月、王ラーマ9世が死去し<ref>{{Cite news |title=タイのプミポン国王死去 在位70年、88歳 |date=2016-10-13 |url=http://www.afpbb.com/articles/-/3104301 |agency=AFP |publisher=AFPBB News |accessdate=2017-10-28}}</ref>、[[ラーマ10世]](ワチラーロンコーン)が新国王に即位した<ref>{{Cite news |title=タイのワチラロンコン皇太子、新国王に即位 |newspaper=NEWS JAPAN |date=2016-12-02 |url=http://www.bbc.com/japanese/38178583 |agency=[[英国放送協会|BBC]] |accessdate=2017-10-28}}</ref>。 |
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=== タイの政治危機 === |
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{{main|{{仮リンク|タイの政治危機|en|2008–2010 Thai political crisis}}}} |
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[[タクシン・チナワット]]首相の不正蓄財疑惑が発端となり、[[2006年]][[9月19日]]に[[タイ軍事クーデター (2006年)|タイ軍事クーデター]]が起こり、2006年から2008年まで軍政が敷かれた。 |
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== 脚注 == |
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これ以降、タイではクーデターやデモ、暴動が相次ぎ、今日まで政治混乱が続くことになる。 |
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=== 注釈 === |
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{{Reflist|group=注}} |
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=== 出典 === |
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{{Reflist|2}} |
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<references/> |
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== |
== 参考文献 == |
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* {{Cite book |和書 |author1=坂井隆 |author2=西村正雄 |author3=新田栄治 |title=東南アジアの考古学 |year=1998 |publisher=[[同成社]] |series=世界の考古学⑧ |isbn=4-88621-158-5 |ref=dohsei}} |
|||
* {{Cite book |和書 |author=柿崎一郎 |title=物語 タイの歴史 |year=2007 |publisher=[[中央公論新社]] |series=[[中公新書]] |isbn=978-4-12-101913-4 |ref=Kakizaki}} |
|||
* {{cite book |和書 |author=トンチャイ・ウィニッチャクン |authorlink=トンチャイ・ウィニッチャクーン |translator=[[石井米雄]] |title=地図がつくったタイ - 国民国家誕生の歴史 |publisher=[[明石書店]] |series=明石ライブラリー |year=2003 |isbn=4-7503-1819-1 |ref=Winichakul}} |
|||
* {{Cite book |和書 |editor=中央大学政策文化総合研究所監修 |translator=柿崎千代 |title=タイの歴史 - タイ高校社会科教科書|year=2002 |publisher=明石書店 |series=世界の教科書シリーズ |isbn=978-4-7503-1555-3 |ref=textbook}} |
|||
* {{Cite book |和書 |editor=石井米雄・吉川利治 |year=1993 |title=タイの事典 |publisher=[[同朋舎|同朋舎出版]] |isbn=4-8104-0853-1 |ref=thai}} |
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* {{Cite book |和書 |title=新版 東南アジアを知る事典 |year=2008 |publisher=[[平凡社]] |isbn=978-4-582-12638-9 |ref=heibonsha}} |
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* {{Cite book |和書 |editor=[[大林太良]]編 |title=東南アジアの民族と歴史 |year=1984 |publisher=[[山川出版社]] |series=民族の世界史 6 |isbn=4-634-44060-1 |ref=yamakawa6}} |
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* {{Cite book |和書 |title=岩波講座 東南アジア史 1 原史東南アジア世界 |year=2001 |publisher=[[岩波書店]] |isbn=4-00-011061-6 |ref=iwanami1}} |
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* {{Cite book |和書 |title=岩波講座 東南アジア史 5 東南アジア世界の再編 |year=2001 |publisher=岩波書店 |isbn=4-00-011065-9 |ref=iwanami5}} |
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* {{Cite book |和書 |author1=[[石澤良昭]] |author2=[[生田滋]] |title=東南アジアの伝統と発展 |year=1996 |series=世界の歴史 13 |publisher=[[中央公論社]] |isbn=4-12-403413-X |ref=chuokoron}} |
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* {{Cite book |和書 |author=[[白石凌海]] |title=仏陀 南伝の旅 |year=2010 |publisher=[[講談社]] |series=講談社選書メチエ |isbn=978-4-06-258489-0 |ref=Shiraishi}} |
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* {{Cite book |和書 |author=鈴木峻 |title=扶南・真臘・チャンパの歴史 |year=2016 |publisher=めこん |isbn=978-4-8396-0302-1 |ref=Suzuki}} |
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* {{Cite book |和書 |author=北川香子 |title=カンボジア史再考 |year=2006 |publisher=連合出版 |isbn=4-89772-210-1 |ref=Kitagawa}} |
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* {{Cite book |和書 |author=大野徹 |year=2002 |title=謎の仏教王国パガン - 碑文の秘めるビルマ千年史 |series=[[NHKブックス]] |publisher=[[NHK出版|日本放送出版協会]] |isbn=4-14-001953-0 |ref=Ohno}} |
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* {{Cite book |和書 |author=[[根本敬 (ビルマ研究家)|根本敬]] |title=物語 ビルマの歴史 |year=2014 |publisher=中央公論新社 |series=中公新書 |isbn=978-4-12-102249-3 |ref=Nemoto}} |
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* {{cite book |和書 |author=[[上東輝夫]] |title=ラオスの歴史 |publisher=同文館出版 |year=1990 |isbn=4-495-85541-7 |ref=Kamihigashi}} |
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== 関連項目 == |
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* [[タイ王国]] |
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* [[タイ君主一覧]] |
* [[タイ君主一覧]] |
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* [[タイにおける政変一覧]] |
* [[タイにおける政変一覧]] |
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* [[タイ政治史]] |
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* [[タイ外交史]] |
* [[タイ外交史]] |
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* [[港市国家]] |
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== 外部リンク == |
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* {{citation |title=歴史 |url=https://www.thailandtravel.or.jp/about/history/ |work=amazing Thailand |publisher=[[タイ国政府観光庁]]}} |
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2017年11月29日 (水) 23:29時点における版
タイの歴史 |
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先史時代 |
古代~中世 (BC3-1238) |
スコータイ王朝 (1238-1448) |
アユタヤ王朝 (1351-1767) |
トンブリー王朝 (1768-1782) |
チャクリー王朝 (1782- ) |
地方の歴史 |
ハリプンチャイ王国 |
ラーンナー王朝 |
タイの歴史(タイのれきし)では、タイ王国の歴史を時代ごとに述べる。
先史時代
東南アジアにおける人類(ホモ・エレクトス)の居住は、50万年以上遡る[1]。タイ北部のラムパーン県からは100万年-50万年前とされるホモ・エレクトスの痕跡が認められている[2]。現生の人々がタイの地域に住み始めたのは旧石器時代からである[3]。タイ各地に点在した当時の人々は、移動しながら洞窟や岩陰などに住み、狩猟・採集・漁労で生活をしていた[4]。中石器時代となる約1万年前には世界的な気候の温暖化が進み、海面の上昇により地形は大きく変化したが、東南アジアは位置的環境より動植物相はあまり変化しなかったことから、この石器時代の生活形態は長く続いた[5]。1万1000年前から7500年前の年代とされるホアビニアンの中石器文化(ホビアン文化)は東南アジア各地に広く認められ、タイにも分布が見られる[6][7]。
東北部
新石器時代には様相が大きく変化し、稲作が認められる文化(新石器文化)が出現する[8]。北部イーサーン地方のバーンチエン遺跡などの研究によると、紀元前2千年紀には[注 1]、タイに初期の青銅器文化をもつ集落があったといわれる[9][10]。この発展に伴って、水稲の耕作が認められ[注 2][11]、同時に社会的な組織構成が進んだ[12]。これらの文化は、中国も含めてタイなど東南アジア全域に拡散していた。
紀元前1000年頃には、イーサーン地方のウボンラーチャターニー県の東端に位置するパーテム (Pha Taem、タイ語: ผาแต้ม) に岩絵が描かれた[13]。また、ウドーンターニー県のプープラバート (Phu Phra Bat、タイ語: ภูพระบาท) の岩絵は約6000年前のものともいわれる[14]。このほかノーンブワラムプー県の岩絵などは、中国南部の岩絵(花山の岩絵など[注 3])との類似性が指摘される[15]。岩絵はタイ東北部のほか、北部、中部、南部にも認められる[15]。
民族
東南アジアのネグリトであるマニ族 (Maniq) はタイ南部の先住民としてマレー半島に住み、かつてはアンダマン諸語のような言語を話したとされるが、現在はモン・クメール語派のケンシウ語(マニ語)を話すことから、後に新しい言語を受容したと考えられている[16]。次いで、東南アジアのモン・クメール語派の言語をもつモン族およびクメール族が到達していたとされる[17]。現在のタイに居住するタイ族は、中国の揚子江以南起源の民族であるとされ、6-7世紀に、中国南部から東南アジアへと移住した可能性が大きい[18]。タイ族はその1千年紀中期から13世紀中頃、メコン川北部上流(瀾滄江)に定住していた[19]。
古代国家
ドヴァーラヴァティー王国
6-7世紀から[20][21]11世紀頃まで、モン族のナコーンパトムを中心とした広範囲な連合国家ドヴァーラヴァティー[注 4][22]が東南アジアで繁栄した[23]。
紀元前3世紀頃、アショーカ王の遣わした伝道者による上座部仏教が、ドヴァーラヴァティー王国で信仰され始めたともいわれ、それは伝道の地名にあるインド古語(サンスクリット)のスヴァルナブーミ(タイ語: スワンナプーム、「黄金の国」)が、ドヴァーラヴァティーと同一の地であるとする説による[24]。また、ナコーンパトム(「最初の町」の意)には、アショーカ王の時代の創建ともいわれるタイで最古のワット・プラパトムチェーディーがあるが[25]、考古学の証拠などによると、4世紀から6世紀の建設とされる[26]。
ラヴォ王国
モン族のドヴァーラヴァティー王国の時代の6世紀より[27]、ラヴォはロッブリーにあったが[28]、9世紀頃、クメール王朝の影響を受けてドヴァーラヴァティーから独立し、ラヴォ王国が建国された[29]。その後、クメールの王スーリヤヴァルマン1世(在位1002-1050年)により領有された[30]。スーリヤヴァルマン2世(在位1113-1150年)が死去した後、ラヴォ王国はクメールから離反する動きを見せ、1155年に中国に使節を送っているが[30]、クメールの支配は13世紀まで続いた。
13世紀中頃、タイ族によるスコータイ王朝の成立により[31]、ラヴォ王国のクメール支配は衰退した[29]。タイ族の勢力が強くなると13世紀末、1289年より1299年まで元に使節を送るなど、独立に動いた。その後、14世紀のアユタヤ王朝成立の頃には、同じくかつてドヴァーラヴァティーの都であったスパンブリーとともに重要な位置を占めた[27]。
ハリプンチャイ王国
伝説によれば、7世紀にドヴァーラヴァティー王国の支配下にあったラヴォの王が、王女チャマデヴィ(チャーマテーウィー)をハリプンチャイ(ラムプーン)に送ったことによって成立した[28]。ただし11世紀以前の史料はなく[32]、ハリプンチャイの繁栄は11-13世紀とされる[28]。12世紀にはクメール王朝のスーリヤヴァルマン2世(在位1113-1150年)が進出している[30]。1292年、タイ族のラーンナーの侵入により壊滅した[33]。
真臘(クメール)
クメール族の真臘は、同じくクメール族の扶南国の属国であったが、5世紀中頃にはシーテープなどを支配下に置き[34]、7世紀初頭、王マヘンドラヴァルマン(チトラセナ)[35]もしくは次のイシャーナヴァルマン1世の時代には扶南を占領した[36]。706年頃、陸真臘と水真臘に分裂したと中国の記録にある[37][38]。陸真臘はサンブヴァルマン (Shambhuvarman) が建国し[39]、沿海部はラージェンドラヴァルマン1世が支配したともいわれる[40]。8世紀中頃から水真臘はジャワのシャイレーンドラ朝に侵攻されていたが[41]、9世紀初頭、クメール王朝として独立した[42]。クメール王朝はその後、タイ東北部(イーサーン)より中部へと支配を拡大していった[43]。
シュリーヴィジャヤ王国
タイ南部はシュリーヴィジャヤ王国の影響下にあった[44]。シュリーヴィジャヤは7世紀より、交易の要衝であるマラッカ海峡周辺の多くの港市国家を支配していた[45]。タイ南部のチャイヤーは、その海上交易を支配するシュリーヴィジャヤの都の1つであったとされる[44]。また、ナコーンシータンマラート(リゴール)の775年の碑文により、8世紀後半にはジャワに興ったシャイレーンドラ朝に属するようになったことが知られる[46]。
ラーンナー王国
メコン支流のコック川流域のタイ北部には、タイ・ユアン族 (Tai Yuan、タイ語: ไทยวน) を中心に[47]、ヨーノック (Yonok) と呼ばれるグンヤーン(チエンセーン)を中心とした国家的形態の1つが認められ、その成立は11世紀から[48]12世紀頃であったとも考えられる[49]。
グンヤーンにおいて、タイ・ルー族 (Tai Lue) の君主マンラーイが[47]1259年に即位すると、支配域を広げるとともに南に侵出し、1262年に首都をグンヤーンからチエンラーイに、1269年にはファーンに移した。1281年には、7年間進入を企てていたマンラーイは、モン族のハリプンチャイ王国(ラムプーン)を攻撃し、壊滅させた[50]。1296年、新しく建設したチエンマイに遷都し[51]、ラーンナー王国(チエンマイ王国)を建国した[48]。
1338年、ラーンナーの王カムフー(在位1334-1336年〈1338-1345年〉[52])は、タイ族のパヤオ王国を併合[47]。1443年には、王ティローカラート(在位1441〈1442〉-1487年〉[52])がプレーに侵攻し、プレー王国を併合した[53]。また、1448年頃にナーン(カーオ王国)を併合している[54]。アユタヤ・ラーンナー戦争では、1450年から1462年に王ティローカラートが数度にわたって南進し、アユタヤ王朝と衝突した[55]。
1523年、ラーンナー王国の王ケーオ(在位1495-1525年)はチェントゥンに出兵し敗北。多くの権力者や、兵士らを失った。さらに1524年には水害もあり、その人材と人口の減少は国内を大きく疲弊させ、ラーンナー王国衰退の一因となった。1546年には、ラーンサーン王朝からセーターティラートを招いてラーンナーの国王に据えた。しかし2年後、セーターティラートは王位を継ぐためにラーンサーンに戻ると、その後さらに混乱は増した。1551年、ナーンのメクティ(メーク、在位1951-1964年)が招かれ王位につくが、1558年、ビルマの侵攻によりタウングー王朝の属国となった[56]。
スコータイ王朝
クメールの王ジャヤーヴァルマン7世(在位1181-1218/1220年)が死去した後、1240年頃に[57][58]、タイ族の指導者バーンクラーンハーオ(シーインタラーティット)がパームアンとともに、クメールの支配するラヴォ王国からの独立を宣言し、スコータイのクメール領主を追いやりスコータイ王国を建国したとされる[注 5][59]。
スコータイ王朝の3代目の王ラームカムヘーン(在位1279-1298年頃)の時代に、統治する領域は大きく広がっていった[60][61]。また、スコータイ王国はラーンナー王国と同盟を結んでいた[62]。
王ラームカムヘーンは、1292年のタイ語最古のラームカムヘーン大王碑文「スコータイ第一刻文」で知られ、タイ文字を考案したとされる。また、上座部仏教を公式の宗教として設立し、推進した[63]。しかし、ラームカムヘーンが死去すると、各地で離反が相次ぎスコータイ王朝は衰退していった[64]。その後、リタイ(在位1347-1368年頃)が即位し周辺を治めたが、この時代に成立したアユタヤ王朝の圧力が次第に増すと、1378年、王サイルータイ(マハータンマラーチャー2世、在位1368-1398年頃)の時代に属国となった[65]。
アユタヤ王朝
前期
スコータイ王朝の衰退の後、1351年[66]、ウートーン(ラーマーティボーディー1世)がチャオプラヤー川沿いにアユタヤ王朝を開いたとされる[67]。この時代、ウートーンの出身地ともいわれるスパンブリーや[注 6][68][69]ロッブリー(ラヴォ)の存在が大きかったが、ウートーンがラーマーティボーディー1世(在位1351-1369年[70])として即位すると双方を連携させ、スパンブリーを義兄(王妃の兄)パグワに、ロッブリーを王子ラーメースワンに統治させた[67][71][72]。
1438年、スコータイ王朝の王マハータンマラーチャー4世が死去し、スコータイの王位継承者が絶えたことで、実質的にアユタヤ王朝がスコータイ王朝を吸収した[64]。
1540年、ビルマのタウングー王朝の王タビンシュエーティー(在位1531-1551年)がポルトガル人の鉄砲隊700人の傭兵を雇用し、軍事力を高めた[73]。第一次緬泰戦争(1548-1549年)では、タウングー王朝のバインナウンがアユタヤに侵攻し、1549年にアユタヤ王朝の王チャクラパット(在位1548-1569年)が危機に陥った際、王妃シースリヨータイが身を挺して命を助けたといわれる[74]。この戦いでは、アユタヤの王チャクラパットも防衛にポルトガル人の傭兵を雇用して侵攻を阻んでいる[75]。
1551年、タウングー王朝の王となったバインナウン(在位1551-1581年)は、現在のシャン州となっている東部のシャン族を制圧すると、1558年にラーンナーに侵攻して征服した[76][77]。第二次緬泰戦争(1563-1564年)では、占領したラーンナーの軍を率いたバインナウンがアユタヤ王朝のピッサヌロークを制圧した後、1568年、再びアユタヤに侵攻し[78]、翌年、ビルマに占領された[79]。
後期
1581年にタウングー王朝のバインナウンが死去した後、タウングー王朝が混乱状態をきたすと、1584年にナレースワン(在位1590-1605年)は機が熟したと見て、アユタヤ王朝の独立を宣言する[80][81]。1590年に王位を継いだナレースワンは[82]、1594年にタウングー王朝へ侵攻した[83](緬泰戦争〈1594-1605年〉)。1595年、ペグーの戦いに勝利し、要衝のマルタバンを奪い返した[84]。1598年にラーンナーを属国とすると、1599年には再びペグーからタウングーにかけて侵攻した[85]。
1605年にナレースワンが死去し[86]、弟のエーカートッサロット(在位1605-1610/1611年)の時代になると、いっそう対外交易を進展させた[87]。イギリス(イギリス東インド会社)は1605年にパタニ、1612年にはアユタヤでの商業活動を許可された[88]。
王ソンタム(在位1611-1628年)は、日本人約800人を傭兵として雇い、アユタヤ日本人町は隆盛を極めた[88]。1612年頃アユタヤに渡来した山田長政が、津田又左右衛門を筆頭とする日本人義勇兵(クロム・アーサー・イープン[89]、Krom Asa Yipun[90])に入ると頭角を現わし、王ソンタムに殊遇されたが、ソンタム死去による王位継承争いの後プラーサートトーン(在位1629-1656年)が王位に就くと、1630年頃、王の命令で山田長政は暗殺され[91]、アユタヤ日本人町は一時焼き払われた[90]。
1661年に王ナーラーイ(在位1656-1688年)がラーンナーに攻め込み、1662年にはビルマのペグーまで侵攻した[92][93]。
1663年11月から翌年2月にかけて、オランダ(オランダ東インド会社)が武装した2隻の船でチャオプラヤー川を封鎖し、中国人の船を捕獲するなどして一定の独占貿易を要求した。ナーラーイはこの要求を受け入れ、1664年8月に条約を締結した[94]。このことより王ナーラーイは、1665年、国に大事があった時のためにアユタヤより上流のロッブリーに副都を建設した[29]。1685年12月にはチャオプラヤー・コーサーパーンがフランスにアユタヤ大使として派遣され、1686年9月、ルイ14世に謁見し、翌年9月に帰国している[95]。1688年にシャム革命が勃発。最高顧問であったコンスタンティン・フォールコンが6月に処刑され、7月に王ナーラーイが死去するとペートラーチャー(在位1688-1703年)が即位し、フランス勢力を一掃した[96]。
アユタヤ王朝は、16世紀の1516年にポルトガルとの条約締結から始まって、ヨーロッパと接触をもったが[97][98]、中国との関係が最も重要であった[99]。1709年に王位に就いたプーミンタラーチャー(ターイサ〈池の端〉王、在位1709-1733年)の時代、中国を中心にタイ米の輸出が開始され[100][101]、オランダ領ジャワ(オランダ東インド会社)やイギリス領インド(イギリス東インド会社)にも輸出された[102]。また、ベトナムと手を結んだカンボジア内の勢力に対して1720年に派兵し、主権を維持した。しかし、次の王ボーロマコート(在位1733-1758年)の時代も、カンボジアの親タイ派と親ベトナム派の対立が続くと、1749年、再びカンボジアに派兵し属国とした[103]。
アユタヤ王朝は、400年間以上の繁栄の後、ビルマに興ったコンバウン王朝との泰緬戦争(1759-1760年)で、テナセリム(タニンダーリ)、マルタバン(モッタマ)、タヴォイ(ダウェイ)を失った[104]。1765年からの泰緬戦争(1765-1767年)で、ついにコンバウン王朝の侵入により、1767年4月、首都アユタヤは攻め落とされ、アユタヤ王朝は破滅した[105][106]。
トンブリー王朝
1766年から1769年にかけて清緬戦争が勃発し、1776年にはコンバウン王朝がタイ領から撤退して圧力が弱まったこともあり[107][108]、華僑の父とタイ人の母をもつタークシンは、華僑の支援のもとに要衝トンブリー(現在のバンコク・トンブリー区)を拠点として再統合することに成功し、1768年末にタークシン(在位1768-1782年)は王となった[109]。新首都トンブリーを拠点にトンブリー王朝はアユタヤを取り戻すとともに支配域を回復し、さらに拡大を図った[110]。また、カンボジアで始まった王座を巡る争いに介入し[111]、1771年からカンボジアに2度侵攻した[112][113]。
チャクリー王朝
その後、精神的な偏重を示したとされる王タークシンは[114]、1782年初頭、クーデターで追い詰められ、カンボジア遠征から戻ったチャオプラヤー・チャクリーにより同年4月6日処刑された[109]。チャオプラヤー・チャクリーはラーマ1世(在位1782-1809年)として王を継ぎ、後にプラプッタヨートファーチュラーロークと呼ばれるチャクリー王朝(ラッタナーコーシン王朝)の最初の王となった[115]。ラーマ1世は、右岸のトンブリーからチャオプラヤー川を渡った左岸に新しい首都バンコクを建設し、現在に続くチャクリー王朝が始まった[116]。
ラーマ2世(在位1809-1824年)の時代になって、1821年にタイがナコーンシータンマラート王国によりケダ・スルタン国を征服し[117][118]、統治を開始するなどの対外拡張政策を推進した[119]。タイのラーマ1世以後の支配者がアジア地域におけるヨーロッパ列強の力を認識したのは、隣国のコンバウン王朝が1824年からの第一次英緬戦争によりイギリスに敗北し、一部領土を失うなど[120]、ヨーロッパ諸国の脅威に晒されたことによる[121]。ラーマ3世(在位1824-1851年)は、1826年、イギリスと通商条約(バーネイ条約)を締結し[122][123]、1833年にはアメリカとも外交上の条約を交わした[124]。
この時代、ベトナムで1802年に成立した阮朝が強勢になると、タイとベトナムがカンボジアの覇権を巡る争いが大きくなった。タイがカンボジアの支配を狙って起こした泰越戦争(1831-1834年)において、1832年にタイはカンボジアに侵攻したが、ベトナム(阮朝)とともにカンボジアが反撃に転じると、タイは撤退し、1834年にはベトナムがカンボジアを掌握した。その後、タイが再びカンボジアの支配のために起こした泰越戦争(1841-1845年)の結果、1845年にタイとベトナム両国でカンボジアを共有する講和条約が締結された[125]。この結果、1847年にアン・ドゥオンがカンボジア王に即位したが、ひそかにカンボジア領内の一定の支配権を得るため、シンガポールのフランス領事を通じてナポレオン3世に援助を要請しようとした。しかし、それは事前にタイに情報が漏れたことで失敗に終わった[126]。
近代化
タイが西欧勢力との間に堅固な国交を確立したのは、その後のラーマ4世(モンクット、在位1851-1868年)と息子のラーマ5世(チュラーロンコーン、在位1868-1910年)の統治中のことであった。1840年からのアヘン戦争における大国の清の敗北はタイにとっても大きな衝撃であり[130]、この2人の君主の外交手腕がタイ政府の近代化改革(チャクリー改革)と結び付いたことによって、タイ王国はヨーロッパによる植民地支配から免れた東南アジアで唯一の国になった。タイはイギリスとフランスの植民地にはさまれて、両大国の緩衝国となったことも独立の維持に役立った[131]。1852年の第二次英緬戦争の結果、イギリスは下ビルマを獲得していた[132][133]。ラーマ4世は、1855年にイギリスと通商貿易に関する条約(バウリング条約)を締結した[131][134]。
一方、1779年よりタイの属国となっていたルアンパバーン王国では[135]、太平天国の乱の末裔の中国人匪賊として各地に侵攻したホーにより1872年以来襲撃された。タイが軍を派遣したことでいったん沈静化していたが、1885年、再度襲撃が活発になると[136]、タイは討伐の軍を送り、フランスもまたシップソーンチュタイに軍を派遣した。これによりホーの襲撃はおさまりを見せたが[137]、ルアンパバーンにはフランス副領事館が置かれることとなった[138]。その後、1887年にルアンパバーンは再びホーにより襲撃された[137]。すでに軍は撤退しており、当時国王であったウンカムとその家族はこの襲撃により危機に晒されたが、フランス副領事館のオーガスト・パヴィにより救出され、逃亡に成功している[139]。このホー軍の襲撃は、ルアンパバーンに国王を救出したフランスへの信頼感を産み出す契機となった[138]。また、清仏戦争で1885年に清からベトナムに対する宗主権をフランスが奪取したことも[140]、ルアンパバーン王国がフランスの保護を受け入れる道を選択することを後押しした。ルアンパバーン王国のフランスによる保護国化を不服としたタイも、1893年の仏泰戦争(パークナム事件)に敗戦した結果、ラオスがフランス保護下に置かれることが確定すると[141]、1899年、ラオスはフランス領インドシナに編入された[142][143]。
イギリスは1885年の第三次英緬戦争の結果[144]、1886年にはビルマ全域を獲得していた[145]。1890年代にイギリスとフランスが、ビルマとラオスの接するメコン川に向い合うようになると[146]、1896年、イギリス・フランス両国は、タイのチャオプラヤー川流域に関する英仏宣言を発表して紛争を回避し、タイをイギリス・フランス両国の緩衝地帯として残すことが定められた[131]。1904年にはフランスとの協定でチャンタブリーがタイに返還される代わりに、ルアンパバーンのメコン川西岸(ラーンチャーン〈ラーンサーン〉)とチャンパーサックおよびマノープライ (Mano Phrai)、それにトラートとダーンサーイを割譲し、1907年の条約では、トラートとダーンサーイが返還されたが、タイはカンボジアのバタンバン、シェムリアップ、シソポンを割譲した[147][148]。また、1909年のイギリスとの条約(英泰条約)では、現在のマレー半島の4州(クランタン・トレンガヌ・ケダ・プルリス)を割譲した[149]。タイはこれらの条約の締結により多くの領土を手放したが、一方で東北部およびマレー半島などのタイ領を維持した[150]。
1914年に第一次世界大戦が発生すると、タイは直後の8月6日に中立を宣言して戦況をうかがい、その後、1917年4月のアメリカ参戦で連合国が有利と見極めたタイは、7月22日に連合国側として宣戦した。これに伴い、9月28日、タイの国旗を現在の3色旗に変更した[151]。
立憲君主制時代
立憲革命
1910年にワチラーウットがラーマ6世(在位1910-1925年)として王位を継承すると、1912年には絶対君主制に反対する軍部の青年によるクーデター (Palace Revolt of 1912) が起こったが[152]失敗に終わった[153]。
1925年にラーマ7世(プラチャーティポック、在位1925-1935年)が王位を継承すると、1929年に始まった世界恐慌をきっかけにタイの財政が悪化し、再び絶対君主制に反対する運動が高まった[154]。1927年に結成された人民党による1932年のクーデター(立憲革命)は、タイの政府を絶対君主制から立憲君主制へと移行させた[155]。ラーマ7世はこの改革を認めたが、その後1935年、当時9歳の甥ラーマ8世(アーナンタマヒドン、在位1935-1946年)に王位を譲った[156]。
第二次世界大戦
人民党のプレーク・ピブーンソンクラーム(在任1938-1944年〈後1948-1957年〉)が実権を握り首相に就くと、1939年6月、国名を「シャム」から「タイ」に変更した[注 7]。タイは、1939年9月にヨーロッパで第二次世界大戦が勃発した直後に中立宣言を出していたが、1940年に日本軍がフランス領インドシナに進駐すると、ピブーンソンクラームは同年9月10日にフランス領インドシナと国境紛争を起こした[157]。タイの要求を拒否したフランスは11月28日にタイ側を空爆し、タイ・フランス領インドシナ紛争の開戦となった。翌1941年の日本の仲介により、5月9日に東京条約を締結し、1904年と1907年にタイが割譲した領土のほとんどを自国領に併合した[158][159]。
その後、1941年12月8日にイギリスやアメリカなどの連合国との間に開戦した日本軍が、イギリスが支配していたマレー半島へ向かい、イギリス領マラヤのコタバルと同じく、タイ南部のソンクラー(シンゴラ)やパッターニー(パタニ)に上陸すると、タイ軍らは戦闘を開始したが[160]、同日、タイは日本軍の通過を認めた。こうした日本の圧力や、日本軍の緒戦の勝利を背景として、12月21日には日泰攻守同盟条約を締結し、日本の同盟国となった[161]。その翌年の1942年1月8日にイギリス軍がバンコクを爆撃したのを機に、1月25日、ピブーンソンクラームはイギリスとアメリカに宣戦布告し、タイは枢軸国として参戦することになった[162]。
1942年3月、駐米大使であり[163]後に首相になるセーニー・プラーモートは、日泰攻守同盟条約をもとに祖国が日本の同盟国になり日本軍を駐留させるのを見て、「自由タイ」 (Free Thai、タイ語: เสรีไทย) という抗日運動をアメリカのタイ人外交官や留学生らと始めた。これはイギリスのタイ人留学グループにまでおよび、イギリスは自由タイの志願者をイギリス兵として受け入れ、特殊訓練を施して情報機関員を養成した[164]。また、タイ国内にいたピブーンソンクラーム内閣の閣僚のプリーディー・パノムヨン(摂政で後の首相)までも参加していた。1944年7月にはピブーンソンクラームの総辞職によりクアン・アパイウォンの新内閣が成立したが、日本に対しては自由タイ運動の支援などないように振る舞っていた。しかし、自由タイの指導者3名が入閣するなど急速に連合国との関係を強めた[165]。
戦後
1945年8月に日本が連合国に対して敗北すると、8月16日にプリーディーは「タイの宣戦布告は無効である」と宣言し[148]、連合国との間の敵対関係を終結させようとした。こうした巧妙な政治手腕により、タイは連合国による敗戦国としての裁きを免れた[166]。
戦後処理内閣が1946年1月に退陣して再び就任したクアン・アパイウォンが3か月で首相を辞任し、自由タイのプリーディー・パノムヨン(在任1946年3–8月)が次の首相となった[167]。5月にフランス軍がタイ領を攻撃し、国際社会への復帰を優先せざるを得ないタイは、1941年に併合した領土の引き渡しに応じ[168]、ナコーン・チャンパーサック県(チャンパーサック州)、ピブーンソンクラーム県(シェムリアップ州)、プレアタボン県(バタンバン州)の3県がフランスに返還された。
1945年に成人したラーマ8世は、12月にスイスより帰国したが、1946年6月9日、額を銃弾が貫通した不可解な状況で死亡した[169]。ラーマ8世に続いて18歳で即位した弟のラーマ9世(プーミポン・アドゥンヤデート、在位1946-2016年)は、タイ王国で最も長く王位に就き、タイ国民に非常に人気のある君主となった。プリーディーは8月の総選挙後に辞任し、自由タイのタワン・タムロンナーワーサワット(在任1946-1947年)が次の首相になった[167]。
軍事政権
1947年11月、陸軍によるタイ・クーデターでプリーディーが亡命し、自由タイは終焉を迎えた。民主党のクアン・アパイウォンが首相に擁立されたが、翌1948年には陸軍の圧力により辞任を余儀なくされ、「ピブーンの返り咲き」と呼ばれるピブーンソンクラームによる軍事政権(1948-1957年)が開始された[170]。
1957年9月のサリット・タナラットのクーデターにより、ポット・サーラシン暫定政権が誕生し、12月にタノーム・キッティカチョーン政権が成立した[171]。その後、1958年10月20日のクーデターを経てサリット・タナラット自身による軍事政権(1959-1963年)が誕生した。サリットはインフラストラクチャーの整備や高い経済成長を実現した[172]。この時期、1961年のフォードの工場を初めとして、日本からの自動車メーカーも多く進出した[173]。1963年にサリットが死去すると、タノーム・キッティカチョーンが再登板し、長期軍事政権(1963-1973年)となった[174]。
東南アジアの冷戦期には、ビルマ(ビルマ式社会主義)、カンボジア(クメール・ルージュ)、ベトナム(北ベトナム)およびラオス(パテート・ラーオ)のような近隣諸国の共産主義革命に脅かされた。タイは共産主義の防波堤としてアメリカの支援を受け、東南アジア条約機構 (SEATO) の一翼を担った。ベトナム戦争ではアメリカ側に立ち、南ベトナムへの派兵を行い、北ベトナム爆撃(北爆)のための空軍基地の開設も許可した。また、タイはアメリカ軍の補給や兵の滞在のための後方基地でもあったため、タイは経済的に発展し[175]、パッタヤーなどのリゾート開発も進んだ[176]。ベトナム戦争が激化するなか、1967年8月8日に東南アジア諸国連合 (ASEAN) の設立がタイのバンコクにおいて宣言された[177]。
民主化
1973年10月の学生運動を契機にタノームらが退陣し、民主化が行われた[178][179]。1974年に新憲法が制定されると、翌1975年にセーニー・プラーモートやククリット・プラーモートが首相を務めた[180]。セーニー・プラーモートが再登板した1976年には、学生・市民と右翼組織とが対峙して国家の危機の時期となった。僧となったタノーム・キッティカチョーンの帰国が引き金となり学生運動が暴発すると、10月6日にタンマサート大学虐殺事件が起こり、学生運動が弾圧された。そして反共主義をとるターニン・クライウィチエン(在任1976-1977年)がしばらく首相を務めた後、再び軍事政権期に入ることになった[181][182]。
調整型政治
1977年からクリエンサック・チョマナン(在任1977-1980年)による政権が敷かれた。一方、隣国カンボジアに誕生したポル・ポト政権は、1977年よりベトナム国境で紛争をしかけ、1977年末にはベトナムと国交を断交した[183]。その後、1978年末から[184]1979年初頭にベトナムがカンボジアに進軍したことから、多くのカンボジア難民がタイに逃れた[185]。同じく1979年にはベトナムからのボートピープルも急増した[184]。
プレーム・ティンスーラーノン(在任1980-1988年)政権時代は「半分の民主主義」などと呼ばれ、比較的平穏で経済成長への道筋をつけた[186][187]。ただしラオスとの国境においては、1980年6月14日、メコン川を挟んだタイ・ラオスの国境警備隊の間にて銃撃事件が発生したことより、外交努力により解除へ動きつつあったタイの国境封鎖に対して、再び歯止めがかかることとなった[188]。加えて1984年5月には、ラオスのサイニャブーリー県とタイのウッタラディット県の狭間に位置するラオス領の3つの村をタイ国軍が不法に占拠しているとして、領土権を巡る国境紛争が勃発した(三村事件)。タイは同年10月15日、国軍が撤兵したとの声明を発表し、三村事件はいったん沈静化した。その後、1987年12月に再びタイ・ラオス国境付近で両軍が衝突し、翌1988年2月まで戦闘状態に陥ったが、両国代表団により和平交渉が実施され、停戦協定が結ばれた[189]。
チャートチャーイ・チュンハワン(在任1988-1991年)政権では、軍の権益を軽視したことが災いして[190]、1991年2月23日にスチンダー・クラープラユーンが軍事クーデターを起こし[191]、チャートチャーイが失脚すると[192]、アナン・パンヤーラチュン(在任1991-1992年)が推されて一時文民政権が誕生した[193]。
暗黒の5月事件
1992年3月に行なわれた総選挙の結果、スチンダー・クラープラユーン(在任1992年4-5月)が首相に指名され、4月に就任したが、民主化を望んでいた国民は反発し、5月17日の抗議デモにより衝突した(暗黒の5月事件)。スチンダーは首相を辞任して、アナンが暫定政権の首相に復帰し、文民政権の樹立につながった[194]。1992年の民主選挙以来、タイは政府が憲法上の手続きを踏んで機能する民主主義国家となった[191]。
政治危機
2006年、タクシン・チナワット首相の不正蓄財疑惑が発端となり、9月19日に軍事クーデターが起こった[195]。これ以降、タイではデモ、暴動が相次ぎ、政治混乱が続くことになる。2011年、タクシンの妹インラック・シナワトラ(在任2011-2014年)がタイ史上初の女性の首相となると混乱は一時終息したかに見られたが[196]、2013年11月に反政府デモが発生した[197]。翌2014年5月、インラックの政府高官人事の違憲判決により失職し[198]、5月22日には国軍が再び軍事クーデターを起こした[199]。
2016年10月、王ラーマ9世が死去し[200]、ラーマ10世(ワチラーロンコーン)が新国王に即位した[201]。
脚注
注釈
- ^ 当初は紀元前4千年紀、最古のものは紀元前3600年とされた。
- ^ 東北部のウドーンターニー県バーンチエン遺跡下層、中東部のチョンブリー県コークパノムディー遺跡からイネが出土。
- ^ 花山岩絵を描いた集団は後に青銅器時代のドンソン文化を担った雒越であるとされる。
- ^ ドヴァーラヴァティーの漢訳として、頭和・投和・堕和羅・独和羅・堕和羅鉢・堕羅鉢底・杜和鉢底・堕和羅鉢底などと記される。
- ^ 現在のタイ人は、自分たちの国家の設立を、スコータイでクメール(かつてタイではラヴォを統治するクメールをコームと呼んでいる)の領主を倒し、小タイ族のスコータイ王国を設立した13世紀としている。
- ^ 出生は不詳であり、スパンブリーやロッブリーの王家に関係する説のほか、『シアム王統記』では中国の一王族であったとする。ペッブリー付近出身の華人のもとに生まれたと考える説もある。
- ^ 国名「タイ」(Prathet Thai、タイ語: ประเทศไทย)は、当初1939年から1945年に使用され、1949年5月11日に公式に宣言された。prathet (タイ語: ประเทศ)は「国家」、thai (タイ語: ไทย)「タイ」の語源は「自由」に由来するとした。
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