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{{鉄道車両 |
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{{No footnotes|date=2017年8月}} |
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| 車両名 = 山梨交通7形電車<div style="font-size:80%;">上田丸子電鉄モハ2340形電車<br />江ノ島鎌倉観光800形電車</div> |
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[[File:Enoshimadentetsu_801.jpg|thumb|[[山梨県]][[南巨摩郡]][[富士川町]]の利根川公園に保存されている江ノ電801<br />(元山梨交通モハ8・2006年5月)]] |
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| 背景色 = #B64018 |
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'''山梨交通モハ7形電車'''(やまなしこうつうモハ7がたでんしゃ)は、[[山梨交通]]が[[1948年]]([[昭和]]23年)に新製した[[電車]]([[制御車|制御電動車]])である。 |
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| 文字色 = #FFFFFF |
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| 画像 = Enoshimadentetsu_801.jpg |
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| 画像幅 = 280px |
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| 画像説明 = 利根川公園に保存されている江ノ電801<br />(元山梨交通モハ8・2006年5月) |
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| 運用者 = [[山梨交通]]<ref name="RP179_p71-72" />→[[上田交通|上田丸子電鉄]]<ref name="RP179_p71-72" />→[[江ノ島電鉄|江ノ島鎌倉観光(江ノ島電鉄)]]<ref name="RML5_p20-21" /> |
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| 製造所 = [[汽車製造]]東京支店<ref name="RP179_p71-72" /> |
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| 製造年 = [[1948年]](昭和23年)<ref name="RP179_p71-72" /> |
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| 製造数 = 2両<ref name="RP179_p71-72" /> |
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| 運用開始 = |
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| 運用終了 = |
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| 引退 = |
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| 廃車 = [[1986年]](昭和61年)4月<ref name="RPAS33_p9-10" /> |
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| 運用範囲 = |
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| 編成 = |
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| 軌間 = 1,067 [[ミリメートル|mm]]([[狭軌]]) |
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| 電気方式 = [[直流電化|直流]]600 [[ボルト (単位)|V]]([[架空電車線方式]]) |
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| 最高運転速度 = |
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| 設計最高速度 = |
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| 起動加速度 = |
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| 常用減速度 = |
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| 非常減速度 = |
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| 減速度 = |
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| 編成定員 = |
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| 車両定員 = 104人(座席28人) |
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| 荷重 = |
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| 車両重量 = |
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| 自重 = 22.0 [[トン|t]] |
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| 積車重量 = |
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| 編成重量 = |
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| 編成長 = |
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| 長さ = |
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| 幅 = |
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| 高さ = |
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| 全長 = 13,800 [[ミリメートル|mm]] |
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| 全幅 = 2,336 mm |
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| 全高 = 3,800 mm |
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| 車体長 = |
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| 車体幅 = |
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| 車体高 = |
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| 床面高さ = |
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| 車体材質 = 半鋼製 |
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| 台車 = 汽車製造製スイングボルスター式<ref name="RP_PRCT3_p114-116" /> |
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| 主電動機 = [[直巻整流子電動機|直流直巻電動機]] TDK-521/2-A1 |
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| 主電動機出力 = 37.5 [[ワット|kW]] |
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| 搭載数 = 4基 / 両 |
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| 駆動方式 = [[吊り掛け駆動方式|吊り掛け駆動]] |
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| 歯車比 = 4.20 (63:15) |
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| 出力 = |
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| 編成出力 = |
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| 定格出力 = |
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| 定格速度 = 32 [[キロメートル毎時|km/h]] |
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| 制御方式 = [[主制御器#電動カム軸接触器式|電動カム軸式]][[主制御器#自動進段|間接自動加速制御]] |
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| 制御装置 = ES-517SE |
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| 制動装置 = SME[[直通ブレーキ#SME|非常直通ブレーキ]] |
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| 保安装置 = |
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| 備考 = 主要諸元は[[#RML5|『RM LIBRARY5 山梨交通鉄道線回想録』 pp.16 - 17]]による。 |
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| 備考全幅 = |
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}} |
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'''山梨交通7形電車'''(やまなしこうつう7がたでんしゃ){{Refnest|group="*"|山梨交通作成の竣功図における形式表記は「記号形式7、番号7・8」であり<ref name="RML5_p16-17" />、また本形式が山梨交通の保有車両であった当時に発行された雑誌記事においても本形式の形式称号をモハの記号を付けず単に「7形」としている<ref name="RP_PRCT3_p114-116" />。}}は、[[山梨交通]]が同社の[[山梨交通電車線|鉄軌道路線(電車線)]]において運用する目的で[[1948年]]([[昭和]]23年)に導入した[[電車]]([[制御車|制御電動車]])である。 |
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後年 |
後年山梨交通の運営路線廃止に伴い上田丸子電鉄(後の[[上田交通]])へ譲渡されて同社'''モハ2340形'''として運用されたのち、同社[[上田丸子電鉄丸子線|丸子線]]の廃止に伴って江ノ島鎌倉観光(現・[[江ノ島電鉄]])へ再び譲渡されて同社'''800形'''となり、[[1986年]](昭和61年)まで運用された。 |
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以下、本項では山梨交通7形として導入された車両群を「本形式」と記述し、導入から江ノ島電鉄における退役までの動向について詳述する。 |
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== 山梨交通モハ7形 == |
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[[1948年]](昭和23年)に[[汽車製造会社]]東京支店で7・8の2両が製造された2軸ボギー車。性能は同社が開業時に製造した[[山梨電気鉄道モハ1形電車|モハ1形]]に準じ、主電動機は出力50[[馬力|PS]]の[[東洋電機製造]]TDK-525-2を4基装備する。 |
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== 導入経緯 == |
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車体はモハ1形に比べやや長い全長13.8mの半鋼製車体で、側面両端に乗務員用扉を設け、その隣に片開き扉があり、扉間には12枚の上段固定下段上昇窓を配していた。ヘッドライトは着脱式で、前面窓のすぐ下に取りつける方式だった。塗色は山梨交通標準色の赤っぽいオレンジ一色で、前面下部にロックフェンダー式の救助網を、乗降口には路面からの乗車のための折りたたみ式ステップを設置していた。 |
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山梨交通は輸送力増強および[[二軸車 (鉄道)|4輪単車]]構造の小型車[[山梨交通電車線#100形|100形]](元・[[常南電気鉄道#車両|常南電気鉄道1形]])の代替を目的として、1948年(昭和23年)度に2両の電車の増備を計画した<ref name="RP179_p71-72" /><ref name="RML5_p14" />。ただし、当時の地方鉄軌道事業者による車両製造発注は、[[太平洋戦争]]終戦後間もなくの資材不足などを背景として[[運輸省]]の監督下における認可制を採っており<ref name="RP170_p35-36" />、各事業者が自由に製造メーカーへ新車を発注することは事実上不可能であった<ref name="RP170_p35-36" />。 |
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このような情勢下、山梨交通は運輸省の実務代行機関である日本鉄道会(現・[[日本民営鉄道協会]])より新造車2両分の割当を受けた<ref name="RP179_p71-72" />。当時は日本鉄道会が制定した地方鉄軌道事業者の新製車両に関する規格「私鉄郊外電車設計要項」に沿って設計された車両、いわゆる「[[通勤形車両 (鉄道)#4ドア電車の普及と運輸省規格形電車|運輸省規格形車両]]」の新製発注のみが原則的に認可されていたが<ref name="RP170_p35-36" />、山梨交通が発注した新造車2両は車体寸法・主要機器の仕様とも同要項を逸脱した設計を採用した<ref name="RP175_p38" />。これは「私鉄郊外電車設計要項」に定められた数種の規格のうち、最も車体寸法が小型であったB'形(車体長15,000 [[ミリメートル|mm]]・車体幅2,450 mm)<ref name="RP175_p38" />でも山梨交通の路線規格には過大であったため、規格外の設計が例外的に認められたものである<ref name="RP175_p38" />{{Refnest|group="*"|1948年(昭和23年)度に私鉄各社へ導入された新造車のうち、本形式のほか[[北陸鉄道]]が導入したデハ1100形(後の[[北陸鉄道モハ3000形電車|モハ3000形]])および[[三重交通]]が導入した[[北勢鉄道モハニ50形電車|モニ220形増備車]]が、いずれも同様の事情から私鉄郊外電車設計要項に定められた規格を逸脱した設計を採用して落成している<ref name="RP179_p71-72" /><ref name="RP175_p38" />。}}。 |
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廃止まで使用され、廃止翌年の1963年に上田丸子電鉄に譲渡された。 |
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上記経緯を経て、1948年(昭和23年)12月に[[汽車製造]]東京支店において'''7形'''モハ7・モハ8の2両が落成した<ref name="RP_PRCT3_p114-116" />。[[鉄道の車両番号|記号番号]]がモハ7から始まっているのは、従来車である[[山梨電気鉄道1形電車|1形]]モハ1 - モハ6の続番が付与されたことによるものである<ref name="RP_PRCT3_p114-116" />。 |
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== 上田丸子電鉄モハ2340形 == |
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上田丸子電鉄ではモハ2341・2342として使用。救助網は撤去され、集電装置をビューゲルからパンタグラフに換装したほか、着脱式だったヘッドライトを固定式とし屋根上に1灯を設置している。また、ステップも車体とホームの隙間を埋める小型の物に換装された。塗色は上がクリーム、下が濃紺の上田丸子電鉄標準色だった。 |
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== 仕様 == |
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== 江ノ島鎌倉観光800形 == |
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[[1971年]](昭和46年)6月、片運転台化し2両固定連結とした801-802の2両編成として就役、[[江ノ島電鉄600形電車|600形]]と並び、輸送力増強のための大型車として期待された。ただし、就役当初は扉が両端に寄った2扉のため乗降に手間どり列車遅延の元凶になったため、運用に入ることは稀だった。 |
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=== 車体 === |
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元々山岳線向け車両であったため江ノ電内では出力過多であり、そのため1両あたり4台あった[[電動機|主電動機]](モーター)を2台外して就役させた。また、この800形は山梨県、[[長野県]]と寒冷地を走行していた関係で[[暖房]]器を装備しており、江ノ電初の暖房付き車両となった。塗色は当初は緑とクリームの江ノ電標準塗装であったが、日中合作映画『[[未完の対局]]』撮影のため幕板と下回りが青、窓周りが黄色の「青電」塗装となったり、[[1984年]](昭和59年)に下が茶色、上がクリームのツートンカラーになり、「チョコ電」の愛称で親しまれた。 |
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車体長13,000 mm・車体幅2,300 mm(全長13,800 mm・全幅2,380 mm)の半鋼製車体を備える<ref name="RML5_p16-17" />。1形と比較すると、車体長が570 mm、車体幅が166 mmそれぞれ大型化されているが<ref name="RML5_p16-17" />、前述した私鉄郊外電車設計要項B'形よりも小型化された寸法となっている<ref name="RP179_p71-72" />。また、本形式の車体寸法は同要項において路面電車車両の基準の一つとされた[[大阪市交通局1701形電車|大阪市交通局1711形]]との共通性が指摘されている<ref name="RP179_p71-72" />。 |
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前後妻面に運転台を備える両運転台構造を採用、妻面形状は緩い円弧を描く丸妻形状とし、各妻面には両端に600 mm幅、中央に700 mm幅の計3枚の前面窓を、75 mm幅の窓間柱にて区切って配置する<ref name="RML5_p16-17" />。この前面窓は3枚とも1段下降窓となっており、全開が可能な構造である<ref name="RML5_p28" />。中央窓上の幕板部には1形と同様に[[方向幕|行先表示窓]]が設置され、腰板下部には[[後部標識灯]]を左右1個ずつ設置する<ref name="RML5_p16-17" />。[[前照灯]]は1形と同様に中央窓下に取り付け座のみを設置し、必要な時間帯のみ着脱式の前照灯を取り付けて運行する形としている<ref name="RML5_p18-19" />。 |
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[[1974年]](昭和49年)に[[藤沢駅]][[高架橋|高架]]化工事が行われると、勾配対策として外してあった主電動機が元に戻され、翌[[1975年]](昭和50年)には大型車体を生かすため3扉化改造されたことでようやく常時運用されるようになり、以後は輸送力の大きい[[連結車]]として重宝された。3扉化改造直後は両端の2つの扉は木製のままだったが、後にプレス鋼製に交換されている。また、後年にはヘッドライトが上田丸子時代の屋根上1灯から前面下部の尾灯のすぐ上に左右1灯ずつに変更され、尾灯も丸い外付けタイプから角形に交換されている。 |
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側面には400 mm幅の乗務員扉・900 mm幅の片開客用扉・700 mm幅の側窓をそれぞれ配置する<ref name="RML5_p16-17" />。この客用扉も私鉄郊外電車設計要項にて定められた1,000 mm - 1,100 mm幅よりも寸法が縮小されている<ref name="RP179_p71-72" />。側窓は1形の一段下降窓構造から二段窓構造(上段固定下段上昇式)に改められ<ref name="RP_PRCT3_p114-116" />、前後2箇所に設置された客用扉間に75 mm幅の窓間柱にて区切る形で戸袋窓を含めて計12枚配置し、各窓の下段部分には保護棒が設置されている<ref name="RML5_p16-17" />。[[構体 (鉄道車両)#側面窓配置|側面窓配置]]はd D 12 D d(d:乗務員扉、D:客用扉、数値は側窓の枚数)である<ref name="RML5_p16-17" />。 |
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しかし狭い[[操縦席|運転室]]、車体が長い連結車であるがために他車と重連運転ができなかったこと、そして[[戦後]]混乱期に落成した車両ゆえに電気機器の劣化が他の車両よりも激しかったこと等も重なり、[[江ノ島電鉄1000形電車|1000形]]1501号の登場と入れ替わりに除籍された。 |
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また、本形式は1形とは異なり各客用扉直下の内蔵型ステップは省略されて客用扉下端部と車内床面高さが同一に揃えられ、その代わり併用軌道区間にて使用する車外設置の折り畳み型ステップが1形の一段構造に対して本形式では二段構造に改められている<ref name="RML5_p18-19" />。この設計変更によって折り畳み型ステップを収納するスペースを設ける必要が生じたため、各客用扉直下の台枠側受部分が切り欠かれた形状とされている<ref name="RML5_p18-19" />。 |
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廃車後、801は山梨県[[南巨摩郡]][[富士川町]]利根川公園に、802は[[静岡県]][[裾野市]]十里木高原別荘地内に、それぞれ[[静態保存]]され現存する。 |
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車体塗装は幾度かの変更を経て、最終的には車体全体を濃オレンジ色として、窓枠部分のみシルバーグレーとする塗り分けとされている<ref name="RP_PRCT3_p114-116" />。この濃オレンジ色は、[[国鉄101系電車|国鉄101系]]のオレンジ色、すなわち[[日本国有鉄道|国鉄]]制式塗料の[[朱色1号]]よりも濃い色合いであったと伝わる<ref name="RP_PRCT3_p114-116" />。 |
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== 車歴 == |
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*[[1948年]](昭和23年)- 山梨交通'''モハ7形'''7, 8として[[汽車製造]]にて製造。 |
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車内座席は[[鉄道車両の座席#ロングシート(縦座席)|ロングシート]]仕様で、収容力向上を目的に前後の側窓各2枚分に相当する部分を立席スペースとした都合上、座席定員は1形の32人に対して本形式は28人と減少している<ref name="RML5_p16-17" /><ref name="RML5_p18-19" />。車両定員は104人で、1形の86人より増加している<ref name="RML5_p16-17" />。 |
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*[[1962年]](昭和37年)- [[山梨交通電車線]]廃止に伴い上田丸子電鉄に譲渡。'''モハ2340形'''2341, 2342として[[上田丸子電鉄丸子線|丸子線]]で運用。 |
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*[[1971年]](昭和46年)- 丸子線廃止に伴い江ノ電に譲渡。2両固定編成に改造して運用開始。なお、車両間の貫通路は江ノ電のカーブ半径の関係で設置されなかった。 |
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=== 主要機器 === |
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*[[1974年]](昭和49年)- 藤沢駅の高架化に伴い、モーター出力増強(元に戻す形となる)。 |
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主制御器は[[主制御器#自動進段|自動加速制御]]と[[主制御器#手動進段|手動加速制御]]を切り替え可能な[[主制御器#電動カム軸接触器式|電動カム軸式]]の[[東洋電機製造]]ES-517SEを採用する<ref name="RML5_p16-17" />。連結運転時の[[総括制御]]に対応した設計となっており<ref name="RML5_p16-17" />、当初は総括制御用のジャンパ栓を備えていたが後年撤去されている<ref name="RML5_p18-19" />。 |
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*[[1975年]](昭和50年)- 3扉化改造。 |
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*[[1982年]](昭和57年)- 日中合作[[映画]]「[[未完の対局]]」撮影のため、青+黄の「青電」塗装に変更。 |
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主電動機は同じく東洋電機製造製のTDK-521/2-A1[[直巻整流子電動機|直流直巻電動機]](定格出力37.5 [[ワット|kW]])を、[[歯車比]]4.20 (63:15) にて1両あたり4基搭載する<ref name="RML5_p16-17" />。[[定格#鉄道車両における定格速度|定格速度]]は32 [[キロメートル毎時|km/h]]、定格牽引力は2,700 [[重量キログラム|kgf]]で、いずれも1形と同一である<ref name="RP_PRCT3_p114-116" />{{Refnest|group="*"|[[#RML5|『RM LIBRARY5 山梨交通鉄道線回想録』 pp.16 - 17]]においては本形式の定格牽引力を1,800 kgfとする。}}。 |
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*[[1984年]](昭和59年)- 茶色+クリームの「チョコ電」塗装へ変更。 |
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*[[1986年]](昭和61年)- 廃車、形式消滅。 |
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[[鉄道車両の台車|台車]]は汽車製造製の鋳鋼組立式台車を装着する<ref name="RML5_p16-17" />。固定軸間距離は1,650 mm、車輪径は860 mmである<ref name="RML5_p16-17" />。 |
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制動装置はSME[[直通ブレーキ#SME|非常直通ブレーキ]]を常用制動として採用、その他[[手ブレーキ|手用制動]]を併設する<ref name="RML5_p16-17" />。 |
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連結器は下作用型の[[連結器#並形自動連結器|自動連結器]]を装着、連結器下部には併用軌道区間走行のため[[排障器]]が設置されている<ref name="RML5_p18-19" />。 |
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集電装置は当初ダブルポール仕様で、前後各2本・計4本の[[集電装置#トロリーポール|トロリーポール]]を搭載した<ref name="RP175_p38" /><ref name="RML5_p18-19" />。併用軌道区間では2本のポールを使用し、専用軌道区間ではプラス側(集電側)のポールのみを使用する形態であったが、後年架線改良工事の完成と同時に[[泰平電機]]製の[[集電装置#ビューゲル|ビューゲル]]に換装されている<ref name="RP_PRCT3_p114-116" />。 |
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== 運用 == |
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=== 山梨交通時代 === |
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導入後は1形とともに運用されたが、後年は朝夕の多客時の運用が中心となったという<ref name="RML5_p18-19" />。 |
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戦後間もなく輸送量のピークを迎えた電車線であったが、その後自家用車の普及や[[路線バス|乗合バス]]路線の発達など[[モータリゼーション]]の進展に伴って利用客は年々減少の一途を辿った<ref name="JTBC-SM_AR3_p84-85" />。その後[[1962年]](昭和37年)6月30日をもって電車線は全線廃止となり<ref name="RML5_p2-3" />、本形式を含む全在籍車両は翌7月1日付で[[廃車 (鉄道)|除籍]]され<ref name="RPAS33_p11" />、用途を失った<ref name="RML5_p20-21" />。 |
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路線全廃後、本形式は山梨交通の在籍車両中唯一他社への譲渡対象となり、2両揃って上田丸子電鉄(後の[[上田交通]])へ譲渡された<ref name="RML5_p20-21" />。 |
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=== 上田丸子電鉄時代 === |
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電車線廃止から半年余を経過した[[1963年]](昭和38年)2月、上田丸子電鉄は同社[[上田丸子電鉄丸子線|丸子線]]用車両であった[[丸子鉄道ホ100形電車|モハ3330形]]の代替を目的として本形式2両を譲り受けた<ref name="RML5_p20-21" /><ref name="RP150_p80" />。搬入後は[[八日堂駅|八日堂]]・[[大屋駅|大屋]]の両駅側線に1両ずつ分散して留置されたのち<ref name="RP150_p80" /><ref name="RML73_p24-26" />、丸子線[[丸子町駅]]に隣接する丸子電車区にて整備が実施され'''モハ2340形'''として竣功<ref name="RP150_p80" />、モハ7はモハ2341、モハ8はモハ2342とそれぞれ新たな記号番号が付与された<ref name="RP150_p80" />。また、本形式は丸子線における最後の増備形式となった<ref name="RML73_p24-26" />。 |
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導入に際しては、行先表示窓の埋込撤去・車内照明の[[蛍光灯]]化・排障器の撤去・折り畳み式ステップの撤去および客用扉下部の切り欠きの埋め込み・集電装置の[[集電装置#菱形|菱形パンタグラフ]]への換装のほか、着脱式であった前照灯を屋根上にステーを介して取り付ける固定式に改造した<ref name="RP150_p80" /><ref name="RML73_p24-26" />。また、本形式は丸子線の他形式と比較して車体が狭幅であったことから、各客用扉下部に張り出し型のステップを新設している<ref name="RML73_p39" />。車体塗装は上半分がクリーム色・下半分が紺色の上田丸子電鉄標準塗装となった<ref name="RP149_p55" />。 |
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丸子線は本形式の導入前後から山梨交通電車線と同じくモータリゼーションの影響によって営業成績が悪化しつつあり<ref name="RML73_p24-26" />、[[1969年]](昭和44年)4月19日をもって全線廃止となった<ref name="RML73_p2-3" />。再び運用路線の廃止に遭遇した本形式であったが、[[1971年]](昭和46年)に江ノ島鎌倉観光(現・[[江ノ島電鉄]])へ再譲渡された<ref name="RML73_p39" />。 |
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=== 江ノ島鎌倉観光(江ノ島電鉄)時代 === |
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江ノ島鎌倉観光(以下「江ノ電」)は連接車の4両編成運転(重連運転{{Refnest|group="*"|連接車2編成を連結して運用する形態を江ノ電においては「重連」と称した<ref name="RPAS33_p104-106" />。}})開始に伴う車両増備を目的として<ref name="RPAS33_p106" />、1971年(昭和46年)6月に本形式2両を譲り受け、同年12月に竣功した<ref name="JTBC-SC_ENDN_p50" />。江ノ電においては'''800形'''の形式が付与され、モハ2341(山梨モハ7)が802、モハ2342(山梨モハ8)が801とそれぞれ改番された<ref name="RML5_p20-21" /><ref name="RP418_p148" />{{Refnest|group="*"|旧番対照を上田丸子モハ2341(山梨モハ7)→江ノ電801・上田丸子モハ2342(山梨モハ8)→江ノ電802とする資料も存在する<ref name="Titech-TRguide_p395" />。}}。 |
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導入に際しては、2両を固定編成とする永久連結車とするため{{Refnest|group="*"|本形式の導入時、当時余剰となっていた単行車の[[江ノ島電気鉄道100形電車|100形]]105・107・108・110のいずれかを中間車化の上で編成へ組み込み、3両編成で導入する構想があったものの、車両の構造・外観に差異があり過ぎるとの理由から実現しなかった<ref name="RPAS33_p110" />。}}、各車の連結面となる側、すなわち801の[[鎌倉駅|鎌倉]]側・802の[[藤沢駅|藤沢]]側の妻面の運転台をそれぞれ撤去して片運転台構造に改造された<ref name="RPAS33_p106" />。ただし、車内は運転関連機器・仕切り壁などを完全撤去して客室スペース化しているが<ref name="Titech-TRguide_p98-99" />、乗務員扉は溶接固定化されたのみで存置されている<ref name="RPAS33_p106" />。また、2両とも主電動機を半減し1両あたり2基搭載に改め<ref name="RPAS33_p106" />、802のパンタグラフを新造品の[[東洋工機]]PT52TEに換装し<ref name="RPAS33_p106" />、同時に801のパンタグラフと制御装置を撤去した<ref name="RPAS33_p109" />。その他、連結器のNCB-6[[連結器#小型密着自動連結器|密着自動連結器]]への交換・後部標識灯の丸型埋込式への改造・車内暖房機の撤去などが施工された<ref name="RPAS33_p106" />。 |
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車体塗装は江ノ電における標準塗装の窓周りをクリーム・腰板部および幕板部をグリーンとする2色塗装となったが、従来車と比較するとクリーム色の明度が高めに変更されている<ref name="RPAS33_p106" />。この仕様変更は後に従来車にも普及した<ref name="RPAS33_p106" />。 |
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導入後は1両あたりの定員が江ノ電における在籍車両中最多の102人<ref name="RPAS33_p110" />{{Refnest|group="*"|江ノ電導入当時、3扉化改造以前の公称車両定員は102人(座席42人)であった<ref name="RPAS33_p110" />。後述する3扉化改造後は104人(座席36人)と車両定員が2人分増加している<ref name="JTBC-SC_ENDN_p76-77" />。}}という収容力の高さを生かし、主に多客時の運用に投入された<ref name="Titech-TRguide_p98-99" />。しかし、実際に運用を開始すると客用扉が車体の前後端部に寄った設計に起因して客用扉周辺のみが非常に混雑するという構造上の弱点が露呈し<ref name="JTBC-SC_ENDN_p50" /><ref name="Titech-TRguide_p98-99" />、また主電動機を半減したことによる動力性能低下と狭い乗務員扉が現場から敬遠される要因となり、運用開始後間もなく予備車扱いされるようになった<ref name="RPAS33_p106" /><ref name="Titech-TRguide_p98-99" />{{Refnest|group="*"|重連運転の開始に伴って運用機会が激減した単行車の100形<ref name="RPAS33_p104-106" />と比較しても、本形式の方が月間走行距離が少ない時期があったという<ref name="RPAS33_p106" />。}}。 |
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[[1973年]](昭和48年)8月の定期検査に際して、802の主電動機を再び4基に増設し、撤去されていた801のパンタグラフおよび制御装置を再び設置した<ref name="RPAS33_p109" />。これは藤沢駅付近の[[高架橋|高架]]化工事に関連して施工されたもので、高架区間への取り付き部に存在する最急勾配35 [[パーミル|‰]]区間を走行するにあたって編成出力・[[粘着式鉄道|粘着力]]とも不足することが懸念されたことによるものである<ref name="RPAS33_p109" />。801にはPT52TEの[[集電装置#パンタグラフ|集電舟]]部を改良したPT52TE2菱形パンタグラフが再設置され、同時に802のパンタグラフもPT52TE2に再交換された<ref name="RPAS33_p110" />。また、801のパンタグラフ搭載位置は原形とは異なり藤沢寄り(運転台側)とされている<ref name="JTBC-SC_ENDN_p50" />{{Refnest|group="*"|このため、新設された801のパンタグラフ周辺のランボードは802とは異なり既設のベンチレーター(通風器)をまたぐ形で設置され、また連結面側屋根上の旧パンタグラフ設置箇所は撤去跡がそのまま残存する形態となっている<ref name="JTBC-SC_ENDN_p50" />。}}。この時は予算の都合から懸案であった客用扉増設は見送られたが<ref name="RPAS33_p109" />、遅れて[[1975年]](昭和50年)10月に客用扉増設による3扉化改造が施行された<ref name="Titech-TRguide_p98-99" />。車体中央部に1,100 mm幅の客用扉を新設、新設客用扉左右の側窓(一方が戸袋窓で、他方は開閉可能窓)を1,000 mm幅に拡幅し、改造後の側面窓配置はd D 3 '''1''' D '''1''' 4 D d(各数値は側窓の枚数、太字は広幅窓)の前後非対称構造となった<ref name="Titech-TRguide_p98-99" /><ref name="JTBC-SC_ENDN_p76-77" />。3扉化改造後は従来の予備車扱いを脱し、運用機会が大幅に増加した<ref name="RP418_p148" />。その他、[[1980年]](昭和55年)に前照灯のシールドビーム2灯化および腰板部への移設と後部標識灯の角型化が施工され<ref name="RP418_p94-95" /><ref name="RP418_p146" />、その後原形の木製扉のままであった両端の客用扉が中央扉と同じく扉窓をHゴム固定支持とした鋼製扉に交換されている<ref name="Titech-TRguide_p98-99" /><ref name="RP418_p94-95" />。 |
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[[1982年]](昭和57年)1月、日中合作映画『[[未完の対局]]』の制作に際して本形式が撮影に用いられることとなり、車体塗装を窓周りが黄色・幕板部と腰板部が青の2色塗装に変更された<ref name="RP418_p148" />。さらに[[1984年]](昭和59年)6月の定期検査に際して車体塗装を窓下補強帯(ウィンドウ・シル)の下端部を境界として下半分を茶色・上半分をクリーム色とした、江ノ電において江ノ島電気鉄道当時の一時期採用されていた2色塗装に変更され、以降本形式は「チョコ電」の愛称で親しまれた<ref name="JTBC-SC_ENDN_p50" />。 |
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その後、<!--狭い[[操縦席|運転室]]、編成長が長い連結車であるがために他形式と重連運転ができなかったこと、そして太平洋戦争終戦後の混乱期に落成した車両ゆえに電気機器の劣化が他の車両よりも激しかったことなどが重なり ←淘汰理由については出典が見つからなかったのでひとまずコメントアウト。見つかり次第解除予定です-->本形式は[[江ノ島鎌倉観光1000形電車|1000形]]4次車(1500形1501-1551編成)の就役と入れ替わる形で運用を離脱<ref name="JTBC-SC_ENDN_p112" />、[[1986年]](昭和61年)4月28日付で除籍された<ref name="RPAS33_p9-10" />。廃車後、<!--本形式は2両とも解体処分を免れ、801は[[山梨県]][[南巨摩郡]][[富士川町]]の利根川公園に、802は[[静岡県]][[裾野市]]十里木高原別荘地内に、それぞれ[[静態保存]]され現存する。←こちらに関しても同様。残念ながら現状802の静態保存については情報源が個人ブログしか見当たりませんでした-->801が[[山梨県]][[南巨摩郡]][[富士川町]]の利根川公園に、里帰り保存の形で[[静態保存]]され現存する<ref name="RML5_p20-21" /><ref name="RPAS33_p9-10" /><ref name="JTBC-SM_AR3_p84-85" />。 |
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== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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=== 注釈 === |
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{{reflist|group="*"}} |
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=== 出典 === |
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{{Reflist|2|refs= |
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<ref name="Titech-TRguide_p98-99">[[#Titech-TRguide|『路面電車ガイドブック』 pp.98 - 99]]</ref> |
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<!--<ref name="Titech-TRguide_p376-377">[[#Titech-TRguide|『路面電車ガイドブック』 pp.376 - 377]]</ref>--> |
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<ref name="Titech-TRguide_p395">[[#Titech-TRguide|『路面電車ガイドブック』 p.395]]</ref> |
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<ref name="JTBC-SM_AR3_p84-85">[[#JTBC-SM_AR3|『鉄道廃線跡を歩くIII』 pp.84 - 85]]</ref> |
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<ref name="JTBC-SC_ENDN_p50">[[#JTBC-SC_ENDN|『江ノ電 - 懐かしの電車名鑑』 p.50]]</ref> |
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<ref name="JTBC-SC_ENDN_p76-77">[[#JTBC-SC_ENDN|『江ノ電 - 懐かしの電車名鑑』 pp.76 - 77]]</ref> |
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<ref name="JTBC-SC_ENDN_p112">[[#JTBC-SC_ENDN|『江ノ電 - 懐かしの電車名鑑』 p.112]]</ref> |
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<ref name="RML5_p2-3">[[#RML5|『RM LIBRARY5 山梨交通鉄道線回想録』 pp.2 - 3]]</ref> |
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<ref name="RP_PRCT3_p114-116">[[#RP_PRCT3_p198-205|『私鉄車両めぐり特輯 (第三輯)』 pp.114 - 116]]</ref> |
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<ref name="RP149_p55">[[#RP149_p51-55|「私鉄車両めぐり(59) 上田丸子電鉄(前)」 (1963) p.55]]</ref> |
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<ref name="RP150_p80">[[#RP150_p80-84|「私鉄車両めぐり(59) 上田丸子電鉄」 (1963) p.80]]</ref> |
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<ref name="RP418_p94-95">[[#RP418_p94-95|「現況12 江ノ島電鉄」 (1983) pp.94 - 95]]</ref> |
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<ref name="RP418_p146">[[#RP418_p145-149|「関東地方のローカル私鉄 現況12 江ノ島電鉄」 (1983) p.146]]</ref> |
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<ref name="RP418_p148">[[#RP418_p145-149|「関東地方のローカル私鉄 現況12 江ノ島電鉄」 (1983) p.148]]</ref> |
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<ref name="RPAS33_p9-10">[[#RPAS33_p6-12|「その後の関東のローカル私鉄(II)」 (2016) pp.9 - 10]]</ref> |
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<ref name="RPAS33_p11">[[#RPAS33_p6-12|「その後の関東のローカル私鉄(II)」 (2016) p.11]]</ref> |
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<ref name="RPAS33_p104-106">[[#RPAS33_p103-111|「私鉄車両めぐり 江ノ島鎌倉観光・補遺」 (2016) pp.104 - 106]]</ref> |
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<ref name="RPAS33_p106">[[#RPAS33_p103-111|「私鉄車両めぐり 江ノ島鎌倉観光・補遺」 (2016) p.106]]</ref> |
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<ref name="RPAS33_p109">[[#RPAS33_p103-111|「私鉄車両めぐり 江ノ島鎌倉観光・補遺」 (2016) p.109]]</ref> |
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<ref name="RPAS33_p110">[[#RPAS33_p103-111|「私鉄車両めぐり 江ノ島鎌倉観光・補遺」 (2016) p.110]]</ref> |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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=== 書籍 === |
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* {{cite journal | 和書 | publisher = [[電気車研究会]] | journal = [[鉄道ピクトリアル]] | author = 宮沢元和 | title = 私鉄車両めぐり〔47〕山梨交通電車線 | issue = 125号 | year =1961 | month = 12 | pages=pp. 52-54 }} |
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* {{Anchor|Titech-TRguide|[[東京工業大学]]鉄道研究部 『路面電車ガイドブック』 [[誠文堂新光社]] 1976年5月}} |
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* 『私鉄車両めぐり特輯 (第三輯)』 [[電気車研究会|鉄道図書刊行会]] 1982年4月 |
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** {{Anchor|RP_PRCT3_p114-116|宮沢元和 「私鉄車両めぐり(47) 山梨交通電車線」 pp.114 - 116}} |
|||
* {{Anchor|JTBC-SM_AR3|[[宮脇俊三]] 『鉄道廃線跡を歩くIII』 [[JTBパブリッシング|JTB]] 1997年5月 ISBN 4-533-02743-1}} |
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* {{Anchor|JTBC-SC_ENDN|湘南倶楽部 『江ノ電 - 懐かしの電車名鑑』 JTB 2003年10月 ISBN 4-533-05006-9}} |
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* {{Anchor|RML5|[[花上嘉成]] 『RM LIBRARY5 山梨交通鉄道線回想録』 [[ネコ・パブリッシング]] 1999年12月 ISBN 4-87366-190-0}} |
|||
* {{Anchor|RML73|[[宮田道一]]・[[諸河久]] 『RM LIBRARY73 上田丸子電鉄(上)』 ネコ・パブリッシング 2005年9月 ISBN 4-7770-5119-6}} |
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=== 雑誌記事 === |
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* 『[[鉄道ピクトリアル]]』 鉄道図書刊行会 |
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** {{Anchor|RP149_p51-55|[[小林宇一郎]] 「私鉄車両めぐり(59) 上田丸子電鉄(前)」 1963年9月号(通巻149号) pp.51 - 55}} |
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** {{Anchor|RP150_p80-84|小林宇一郎 「私鉄車両めぐり(59) 上田丸子電鉄」 1963年10月号(通巻150号) pp.80 - 84}} |
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** {{Anchor|RP170_p33-36|[[中川浩一]] 「私鉄高速電車発達史(5)」 1965年5月号(通巻170号) pp.33 - 36}} |
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** {{Anchor|RP175_p35-38|中川浩一 「私鉄高速電車発達史(8)」 1965年9月号(通巻175号) pp.35 - 38}} |
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** {{Anchor|RP179_p71-74|中川浩一 「私鉄高速電車発達史(9)」 1966年1月号(通巻179号) pp.71 - 74}} |
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** {{Anchor|RP418_p94-95|鉄道ピクトリアル編集部 「現況12 江ノ島電鉄」 1983年6月臨時増刊号(通巻418号) pp.94 - 95}} |
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** {{Anchor|RP418_p145-149|私鉄倶楽部 「関東地方のローカル私鉄 現況12 江ノ島電鉄」 1983年6月臨時増刊号(通巻418号) pp.145 - 149}} |
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** アーカイブスセレクション33「私鉄車両めぐり 関東(II)」 2016年3月号別冊 |
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*** {{Anchor|RPAS33_p6-12|服部朗宏 「その後の関東のローカル私鉄(II)」 pp.6 - 12}} |
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*** {{Anchor|RPAS33_p103-111|小蔦達夫・飛田康行 「私鉄車両めぐり 江ノ島鎌倉観光・補遺」 pp.103 - 111}} |
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{{上田電鉄の車両}} |
{{上田電鉄の車両}} |
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|1-1= 上田電鉄の電車 |
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|1-2= 他社から譲り受けた鉄道車両 |
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|2-2= 他社から譲り受けた鉄道車両 |
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2018年8月9日 (木) 01:41時点における版
山梨交通7形電車 上田丸子電鉄モハ2340形電車 江ノ島鎌倉観光800形電車 | |
---|---|
利根川公園に保存されている江ノ電801 (元山梨交通モハ8・2006年5月) | |
基本情報 | |
運用者 | 山梨交通[1]→上田丸子電鉄[1]→江ノ島鎌倉観光(江ノ島電鉄)[2] |
製造所 | 汽車製造東京支店[1] |
製造年 | 1948年(昭和23年)[1] |
製造数 | 2両[1] |
廃車 | 1986年(昭和61年)4月[3] |
主要諸元 | |
軌間 | 1,067 mm(狭軌) |
電気方式 | 直流600 V(架空電車線方式) |
車両定員 | 104人(座席28人) |
自重 | 22.0 t |
全長 | 13,800 mm |
全幅 | 2,336 mm |
全高 | 3,800 mm |
車体 | 半鋼製 |
台車 | 汽車製造製スイングボルスター式[4] |
主電動機 | 直流直巻電動機 TDK-521/2-A1 |
主電動機出力 | 37.5 kW |
搭載数 | 4基 / 両 |
駆動方式 | 吊り掛け駆動 |
歯車比 | 4.20 (63:15) |
定格速度 | 32 km/h |
制御方式 | 電動カム軸式間接自動加速制御 |
制御装置 | ES-517SE |
制動装置 | SME非常直通ブレーキ |
備考 | 主要諸元は『RM LIBRARY5 山梨交通鉄道線回想録』 pp.16 - 17による。 |
山梨交通7形電車(やまなしこうつう7がたでんしゃ)[* 1]は、山梨交通が同社の鉄軌道路線(電車線)において運用する目的で1948年(昭和23年)に導入した電車(制御電動車)である。
後年山梨交通の運営路線廃止に伴い上田丸子電鉄(後の上田交通)へ譲渡されて同社モハ2340形として運用されたのち、同社丸子線の廃止に伴って江ノ島鎌倉観光(現・江ノ島電鉄)へ再び譲渡されて同社800形となり、1986年(昭和61年)まで運用された。
以下、本項では山梨交通7形として導入された車両群を「本形式」と記述し、導入から江ノ島電鉄における退役までの動向について詳述する。
導入経緯
山梨交通は輸送力増強および4輪単車構造の小型車100形(元・常南電気鉄道1形)の代替を目的として、1948年(昭和23年)度に2両の電車の増備を計画した[1][6]。ただし、当時の地方鉄軌道事業者による車両製造発注は、太平洋戦争終戦後間もなくの資材不足などを背景として運輸省の監督下における認可制を採っており[7]、各事業者が自由に製造メーカーへ新車を発注することは事実上不可能であった[7]。
このような情勢下、山梨交通は運輸省の実務代行機関である日本鉄道会(現・日本民営鉄道協会)より新造車2両分の割当を受けた[1]。当時は日本鉄道会が制定した地方鉄軌道事業者の新製車両に関する規格「私鉄郊外電車設計要項」に沿って設計された車両、いわゆる「運輸省規格形車両」の新製発注のみが原則的に認可されていたが[7]、山梨交通が発注した新造車2両は車体寸法・主要機器の仕様とも同要項を逸脱した設計を採用した[8]。これは「私鉄郊外電車設計要項」に定められた数種の規格のうち、最も車体寸法が小型であったB'形(車体長15,000 mm・車体幅2,450 mm)[8]でも山梨交通の路線規格には過大であったため、規格外の設計が例外的に認められたものである[8][* 2]。
上記経緯を経て、1948年(昭和23年)12月に汽車製造東京支店において7形モハ7・モハ8の2両が落成した[4]。記号番号がモハ7から始まっているのは、従来車である1形モハ1 - モハ6の続番が付与されたことによるものである[4]。
仕様
車体
車体長13,000 mm・車体幅2,300 mm(全長13,800 mm・全幅2,380 mm)の半鋼製車体を備える[5]。1形と比較すると、車体長が570 mm、車体幅が166 mmそれぞれ大型化されているが[5]、前述した私鉄郊外電車設計要項B'形よりも小型化された寸法となっている[1]。また、本形式の車体寸法は同要項において路面電車車両の基準の一つとされた大阪市交通局1711形との共通性が指摘されている[1]。
前後妻面に運転台を備える両運転台構造を採用、妻面形状は緩い円弧を描く丸妻形状とし、各妻面には両端に600 mm幅、中央に700 mm幅の計3枚の前面窓を、75 mm幅の窓間柱にて区切って配置する[5]。この前面窓は3枚とも1段下降窓となっており、全開が可能な構造である[9]。中央窓上の幕板部には1形と同様に行先表示窓が設置され、腰板下部には後部標識灯を左右1個ずつ設置する[5]。前照灯は1形と同様に中央窓下に取り付け座のみを設置し、必要な時間帯のみ着脱式の前照灯を取り付けて運行する形としている[10]。
側面には400 mm幅の乗務員扉・900 mm幅の片開客用扉・700 mm幅の側窓をそれぞれ配置する[5]。この客用扉も私鉄郊外電車設計要項にて定められた1,000 mm - 1,100 mm幅よりも寸法が縮小されている[1]。側窓は1形の一段下降窓構造から二段窓構造(上段固定下段上昇式)に改められ[4]、前後2箇所に設置された客用扉間に75 mm幅の窓間柱にて区切る形で戸袋窓を含めて計12枚配置し、各窓の下段部分には保護棒が設置されている[5]。側面窓配置はd D 12 D d(d:乗務員扉、D:客用扉、数値は側窓の枚数)である[5]。
また、本形式は1形とは異なり各客用扉直下の内蔵型ステップは省略されて客用扉下端部と車内床面高さが同一に揃えられ、その代わり併用軌道区間にて使用する車外設置の折り畳み型ステップが1形の一段構造に対して本形式では二段構造に改められている[10]。この設計変更によって折り畳み型ステップを収納するスペースを設ける必要が生じたため、各客用扉直下の台枠側受部分が切り欠かれた形状とされている[10]。
車体塗装は幾度かの変更を経て、最終的には車体全体を濃オレンジ色として、窓枠部分のみシルバーグレーとする塗り分けとされている[4]。この濃オレンジ色は、国鉄101系のオレンジ色、すなわち国鉄制式塗料の朱色1号よりも濃い色合いであったと伝わる[4]。
車内座席はロングシート仕様で、収容力向上を目的に前後の側窓各2枚分に相当する部分を立席スペースとした都合上、座席定員は1形の32人に対して本形式は28人と減少している[5][10]。車両定員は104人で、1形の86人より増加している[5]。
主要機器
主制御器は自動加速制御と手動加速制御を切り替え可能な電動カム軸式の東洋電機製造ES-517SEを採用する[5]。連結運転時の総括制御に対応した設計となっており[5]、当初は総括制御用のジャンパ栓を備えていたが後年撤去されている[10]。
主電動機は同じく東洋電機製造製のTDK-521/2-A1直流直巻電動機(定格出力37.5 kW)を、歯車比4.20 (63:15) にて1両あたり4基搭載する[5]。定格速度は32 km/h、定格牽引力は2,700 kgfで、いずれも1形と同一である[4][* 3]。
台車は汽車製造製の鋳鋼組立式台車を装着する[5]。固定軸間距離は1,650 mm、車輪径は860 mmである[5]。
制動装置はSME非常直通ブレーキを常用制動として採用、その他手用制動を併設する[5]。
連結器は下作用型の自動連結器を装着、連結器下部には併用軌道区間走行のため排障器が設置されている[10]。
集電装置は当初ダブルポール仕様で、前後各2本・計4本のトロリーポールを搭載した[8][10]。併用軌道区間では2本のポールを使用し、専用軌道区間ではプラス側(集電側)のポールのみを使用する形態であったが、後年架線改良工事の完成と同時に泰平電機製のビューゲルに換装されている[4]。
運用
山梨交通時代
導入後は1形とともに運用されたが、後年は朝夕の多客時の運用が中心となったという[10]。
戦後間もなく輸送量のピークを迎えた電車線であったが、その後自家用車の普及や乗合バス路線の発達などモータリゼーションの進展に伴って利用客は年々減少の一途を辿った[11]。その後1962年(昭和37年)6月30日をもって電車線は全線廃止となり[12]、本形式を含む全在籍車両は翌7月1日付で除籍され[13]、用途を失った[2]。
路線全廃後、本形式は山梨交通の在籍車両中唯一他社への譲渡対象となり、2両揃って上田丸子電鉄(後の上田交通)へ譲渡された[2]。
上田丸子電鉄時代
電車線廃止から半年余を経過した1963年(昭和38年)2月、上田丸子電鉄は同社丸子線用車両であったモハ3330形の代替を目的として本形式2両を譲り受けた[2][14]。搬入後は八日堂・大屋の両駅側線に1両ずつ分散して留置されたのち[14][15]、丸子線丸子町駅に隣接する丸子電車区にて整備が実施されモハ2340形として竣功[14]、モハ7はモハ2341、モハ8はモハ2342とそれぞれ新たな記号番号が付与された[14]。また、本形式は丸子線における最後の増備形式となった[15]。
導入に際しては、行先表示窓の埋込撤去・車内照明の蛍光灯化・排障器の撤去・折り畳み式ステップの撤去および客用扉下部の切り欠きの埋め込み・集電装置の菱形パンタグラフへの換装のほか、着脱式であった前照灯を屋根上にステーを介して取り付ける固定式に改造した[14][15]。また、本形式は丸子線の他形式と比較して車体が狭幅であったことから、各客用扉下部に張り出し型のステップを新設している[16]。車体塗装は上半分がクリーム色・下半分が紺色の上田丸子電鉄標準塗装となった[17]。
丸子線は本形式の導入前後から山梨交通電車線と同じくモータリゼーションの影響によって営業成績が悪化しつつあり[15]、1969年(昭和44年)4月19日をもって全線廃止となった[18]。再び運用路線の廃止に遭遇した本形式であったが、1971年(昭和46年)に江ノ島鎌倉観光(現・江ノ島電鉄)へ再譲渡された[16]。
江ノ島鎌倉観光(江ノ島電鉄)時代
江ノ島鎌倉観光(以下「江ノ電」)は連接車の4両編成運転(重連運転[* 4])開始に伴う車両増備を目的として[20]、1971年(昭和46年)6月に本形式2両を譲り受け、同年12月に竣功した[21]。江ノ電においては800形の形式が付与され、モハ2341(山梨モハ7)が802、モハ2342(山梨モハ8)が801とそれぞれ改番された[2][22][* 5]。
導入に際しては、2両を固定編成とする永久連結車とするため[* 6]、各車の連結面となる側、すなわち801の鎌倉側・802の藤沢側の妻面の運転台をそれぞれ撤去して片運転台構造に改造された[20]。ただし、車内は運転関連機器・仕切り壁などを完全撤去して客室スペース化しているが[25]、乗務員扉は溶接固定化されたのみで存置されている[20]。また、2両とも主電動機を半減し1両あたり2基搭載に改め[20]、802のパンタグラフを新造品の東洋工機PT52TEに換装し[20]、同時に801のパンタグラフと制御装置を撤去した[26]。その他、連結器のNCB-6密着自動連結器への交換・後部標識灯の丸型埋込式への改造・車内暖房機の撤去などが施工された[20]。
車体塗装は江ノ電における標準塗装の窓周りをクリーム・腰板部および幕板部をグリーンとする2色塗装となったが、従来車と比較するとクリーム色の明度が高めに変更されている[20]。この仕様変更は後に従来車にも普及した[20]。
導入後は1両あたりの定員が江ノ電における在籍車両中最多の102人[24][* 7]という収容力の高さを生かし、主に多客時の運用に投入された[25]。しかし、実際に運用を開始すると客用扉が車体の前後端部に寄った設計に起因して客用扉周辺のみが非常に混雑するという構造上の弱点が露呈し[21][25]、また主電動機を半減したことによる動力性能低下と狭い乗務員扉が現場から敬遠される要因となり、運用開始後間もなく予備車扱いされるようになった[20][25][* 8]。
1973年(昭和48年)8月の定期検査に際して、802の主電動機を再び4基に増設し、撤去されていた801のパンタグラフおよび制御装置を再び設置した[26]。これは藤沢駅付近の高架化工事に関連して施工されたもので、高架区間への取り付き部に存在する最急勾配35 ‰区間を走行するにあたって編成出力・粘着力とも不足することが懸念されたことによるものである[26]。801にはPT52TEの集電舟部を改良したPT52TE2菱形パンタグラフが再設置され、同時に802のパンタグラフもPT52TE2に再交換された[24]。また、801のパンタグラフ搭載位置は原形とは異なり藤沢寄り(運転台側)とされている[21][* 9]。この時は予算の都合から懸案であった客用扉増設は見送られたが[26]、遅れて1975年(昭和50年)10月に客用扉増設による3扉化改造が施行された[25]。車体中央部に1,100 mm幅の客用扉を新設、新設客用扉左右の側窓(一方が戸袋窓で、他方は開閉可能窓)を1,000 mm幅に拡幅し、改造後の側面窓配置はd D 3 1 D 1 4 D d(各数値は側窓の枚数、太字は広幅窓)の前後非対称構造となった[25][27]。3扉化改造後は従来の予備車扱いを脱し、運用機会が大幅に増加した[22]。その他、1980年(昭和55年)に前照灯のシールドビーム2灯化および腰板部への移設と後部標識灯の角型化が施工され[28][29]、その後原形の木製扉のままであった両端の客用扉が中央扉と同じく扉窓をHゴム固定支持とした鋼製扉に交換されている[25][28]。
1982年(昭和57年)1月、日中合作映画『未完の対局』の制作に際して本形式が撮影に用いられることとなり、車体塗装を窓周りが黄色・幕板部と腰板部が青の2色塗装に変更された[22]。さらに1984年(昭和59年)6月の定期検査に際して車体塗装を窓下補強帯(ウィンドウ・シル)の下端部を境界として下半分を茶色・上半分をクリーム色とした、江ノ電において江ノ島電気鉄道当時の一時期採用されていた2色塗装に変更され、以降本形式は「チョコ電」の愛称で親しまれた[21]。
その後、本形式は1000形4次車(1500形1501-1551編成)の就役と入れ替わる形で運用を離脱[30]、1986年(昭和61年)4月28日付で除籍された[3]。廃車後、801が山梨県南巨摩郡富士川町の利根川公園に、里帰り保存の形で静態保存され現存する[2][3][11]。
脚注
注釈
- ^ 山梨交通作成の竣功図における形式表記は「記号形式7、番号7・8」であり[5]、また本形式が山梨交通の保有車両であった当時に発行された雑誌記事においても本形式の形式称号をモハの記号を付けず単に「7形」としている[4]。
- ^ 1948年(昭和23年)度に私鉄各社へ導入された新造車のうち、本形式のほか北陸鉄道が導入したデハ1100形(後のモハ3000形)および三重交通が導入したモニ220形増備車が、いずれも同様の事情から私鉄郊外電車設計要項に定められた規格を逸脱した設計を採用して落成している[1][8]。
- ^ 『RM LIBRARY5 山梨交通鉄道線回想録』 pp.16 - 17においては本形式の定格牽引力を1,800 kgfとする。
- ^ 連接車2編成を連結して運用する形態を江ノ電においては「重連」と称した[19]。
- ^ 旧番対照を上田丸子モハ2341(山梨モハ7)→江ノ電801・上田丸子モハ2342(山梨モハ8)→江ノ電802とする資料も存在する[23]。
- ^ 本形式の導入時、当時余剰となっていた単行車の100形105・107・108・110のいずれかを中間車化の上で編成へ組み込み、3両編成で導入する構想があったものの、車両の構造・外観に差異があり過ぎるとの理由から実現しなかった[24]。
- ^ 江ノ電導入当時、3扉化改造以前の公称車両定員は102人(座席42人)であった[24]。後述する3扉化改造後は104人(座席36人)と車両定員が2人分増加している[27]。
- ^ 重連運転の開始に伴って運用機会が激減した単行車の100形[19]と比較しても、本形式の方が月間走行距離が少ない時期があったという[20]。
- ^ このため、新設された801のパンタグラフ周辺のランボードは802とは異なり既設のベンチレーター(通風器)をまたぐ形で設置され、また連結面側屋根上の旧パンタグラフ設置箇所は撤去跡がそのまま残存する形態となっている[21]。
出典
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- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『RM LIBRARY5 山梨交通鉄道線回想録』 pp.16 - 17
- ^ 『RM LIBRARY5 山梨交通鉄道線回想録』 p.14
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参考文献
書籍
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雑誌記事
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- 中川浩一 「私鉄高速電車発達史(5)」 1965年5月号(通巻170号) pp.33 - 36
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- 中川浩一 「私鉄高速電車発達史(9)」 1966年1月号(通巻179号) pp.71 - 74
- 鉄道ピクトリアル編集部 「現況12 江ノ島電鉄」 1983年6月臨時増刊号(通巻418号) pp.94 - 95
- 私鉄倶楽部 「関東地方のローカル私鉄 現況12 江ノ島電鉄」 1983年6月臨時増刊号(通巻418号) pp.145 - 149
- アーカイブスセレクション33「私鉄車両めぐり 関東(II)」 2016年3月号別冊
- 服部朗宏 「その後の関東のローカル私鉄(II)」 pp.6 - 12
- 小蔦達夫・飛田康行 「私鉄車両めぐり 江ノ島鎌倉観光・補遺」 pp.103 - 111