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| 画像 = RIAN archive 497574 Soviet gymnast Nelli Kim.jpg
| 画像 = RIAN archive 497574 Soviet gymnast Nelli Kim.jpg
| 画像サイズ = 250px
| 画像サイズ = 250px
| 画像説明 = [[1980年]][[7月25日]]、「モスクワ五輪[[体操競技]]種目別決勝女子[[ゆか]]」で演技するネリー・キム。
| 画像説明 =
| フルネーム = [[ロシア語]]: Нелли Владимировна Ким
| フルネーム = {{lang-ru|Нелли Владимировна Ким}}<br/ >{{lang-en|Nellie Vladimirovna Kim}}
| 愛称 =
| 愛称 = キマネリー
| 国籍 = {{BLR}}<ref>{{Cite web|url=http://fig-gymnastics.com/publicdir/athletes/bio_detail.php?id=674&type=licence|title=ネリー・キムのプロフィール|publisher=[[国際体操連盟]]|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref>
| 国籍 = {{SSR}}
| 旧国籍 =
| 旧国籍 = {{SSR}}
| 種目 =
| 種目 = 体操競技
| 得意種目 = ゆか、[[跳馬]]<ref name="FIG">{{Cite web|url=http://www.fig-gymnastics.com/events/athletes/bio.jsp?ID=4893|title=Gymnast Profiles : Nellie Kim|publisher=国際体操連盟|accessdate=2017-12-17|language=英語|archiveurl=http://web.archive.org/web/20070930014530/http://www.fig-gymnastics.com/events/athletes/bio.jsp?ID=4893|archivedate=2007-09-30}}</ref>
| 得意種目 =
| 生年月日 =1957729
| 生年月日 = {{生年月日と年齢|1957|07|29}}
| 生誕地 = {{SSR1923}}シュラブ:
| 生誕地 = {{SSR}} シュラブ
| 故郷 = {{SSR}} [[シムケント]]
| 没年月日 =
| 居住地 = [[File:Flag of the United States.svg|22x20px|border|alt=|link=]] [[アメリカ合衆国|米国]] [[ミネアポリス]]
| 死没地 =
| 身長 = 152 cm
| 身長 = 152 [[センチメートル|cm]]
| 体重 = 47 kg<ref name="SR">[http://www.sports-reference.com/olympics/athletes/ki/nelli-kim-1.html ''Nelli Kim Biography and Statistics''] - Olympics at Sports-Reference.com 2008年10月6日閲覧。</ref>
| 体重 = 47 [[キログラム|kg]]<ref name="sr">{{Cite sports-reference|name=ネリー・キム|url=https://www.sports-reference.com/olympics/athletes/ki/nelli-kim-1.html|accessdate=2017-12-17}}</ref>
| 実績 =
| 実績 =
| 代表 =
| 代表 = {{SSR}}
| 所属 = スパルタク・シムケント<br/ >VS ミンスク
| 所属 =
| 学歴 = カザフ体育研究所体育学部卒業<br/ >ミンスク社会科学院修了<br/>レスガフト記念体育大学(教育博士号取得)
| 練習場 =
| コーチ = ウラジーミル・バイディン<br/ >ニコライ・ミリグロ
| 学歴 =
| 補助 = ガリーナ・バルコワ
| コーチ =
| 振付師 = ヴァレンティーナ・コソラポワ<br/ >ガリーナ・サヴァリナ
| 補助 =
| 使用曲 = 『サンバ』<br/ >『[[朝日のあたる家]]』
| 元コーチ =
| 技名 = キム(跳馬)<br/ >キム([[平均台]])<br/ >キム(ゆか)
| 振付師 =
| 引退 = 1980年モスクワ五輪
| 使用曲 =
| 技名 =
| 引退 =
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}}
}}
'''ネリー・ウラジーミロヴナ・キム'''(Nellie Vladimirovna Kim, [[1957年]][[7月29日]] - )は、[[ソビエト連邦]](現[[ロシア連邦]])の元女子[[体操競技]]選手。[[1976年]]の[[モントリオールオリンピック|モントリオール五輪]]でつの[[金メダル]]とつの銀メダルを獲得し、[[1980年]]の[[モスクワオリンピック|モスクワ五輪]]でもつの金メダルを獲得した。五輪大会の[[跳馬]]と[[ゆか]]で10点満点の採点を受けた史上初の選手である<ref name="ig"/><ref>いずれも、モントリオール五輪において。この五輪ではコマネチも段違い平行棒と平均台で五輪史上初の10点満点を記録している。キムより達成が3日早い。</ref>。[[1999年]][[7月]]に国際体操殿堂入りした<ref name="ig">[http://www.ighof.com/honorees/honorees_kim.html ''NELLI KIM - Belarus''] International Gymnastics Hall of Fame 2008年10月6日閲覧。</ref>。
'''ネリー・ウラジーミロヴナ・キム'''({{lang-en-short|Nellie Vladimirovna Kim}} {{lang-ru-short|Нелли Владимировна Ким}} {{IPA-ru|nʲɪlʲɪ vlədʲɪmʲɪrəvnə kʲim|-|Ru-nellie-kim.ogg}}, [[1957年]][[7月29日]] - )は、[[ソビエト連邦]](現[[ロシア連邦]])の元女子[[体操競技]]選手。[[1976年]]の[[1976年モントリオールオリンピック|モントリオール五輪]]で3つの[[金メダル]]と1つの[[銀メダル]]を獲得し、[[1980年]]の[[1980年モスクワオリンピック|モスクワ五輪]]でも2つの金メダルを獲得した<ref name="kim">{{Cite web|url=http://nelliekim.net/About.html|title=Nellie Kim's Journey:From Small Town Gym to International Triumph|publisher=ネリー・キム 公式ウェブサイト|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref>[[夏季オリンピック|五輪大会]]の[[跳馬]]と[[ゆか]]で史上初めて[[10点満点]]の採点を受けた選手である<ref name="kim"/>。

競技生活引退後は[[コーチ]]、[[審判員]]のほか[[国際体操連盟]]の委員として活動しており、[[2016年]]10月に国際体操連盟の副会長に選出された<ref name="fi2"/>。[[1999年]]6月に[[国際体操殿堂]]入りしている<ref name="ig">{{Cite web|url=http://www.ighof.com/inductees/1999_Nelli_Kim.php|title=CLASS OF 1999 NELLI KIM - Belarus|publisher=国際体操殿堂|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.ighof.com/news/1999.php|title=1999 - 3RD ANNUAL INDUCTION CEREMONY|publisher=国際体操殿堂|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref>。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
=== 生い立ち ===
=== 生い立ち ===
{{Location map | Kazakhstan
1957年7月29日、ネリー・キムは[[タジク・ソビエト社会主義共和国]]レニナバード州(現[[タジキスタン|タジキスタン共和国]][[ソグド州]])の街シュラブで、[[高麗人|朝鮮系ソビエト人]]の父ウラジーミル・キムと[[タタール人]]の母アルフィヤの長女として生まれた。ネリーは9歳のとき、[[カザフスタン]]のチムケントにあるスパルタクスポーツ協会青少年スポーツ学校に入学した<ref name="book">Kim Nellie, ''Schastlivyy pomost (Lucky Gymnastics Platform)'', Moscow: Molodaya Gvardiya, 1985.{{ru icon}}</ref><ref name="BYNOC">[http://www.noc.by/bsog/htdocs/47 ''КИМ Нелли Владимировна (гимнастика спортивная)''] Belarus Olympic Committee {{ru icon}} 2008年10月6日閲覧。</ref>。
| lat_deg = 42
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| lon_deg = 69
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| label = シムケント
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| caption = カザフ
}}
1957年7月29日、ネリー・キムはソビエト連邦[[タジク・ソビエト社会主義共和国]][[ソグド州|レニナバード州]](現[[タジキスタン|タジキスタン共和国]]ソグド州)の街シュラブで、[[高麗人|朝鮮系ソビエト人]]の父ウラジーミル・ニコラエヴィッチ・キムと[[ヴォルガ・タタール人|タタール人]]の母アルフィア・ガジゾーヴナ・サフィナの長女として生まれた<ref name="ne5">{{Cite web|author=Nellie Kim|url=http://www.offsport.ru/gymnastics/nellie-kim/ne-ustupat-5.shtml|title=Не уступать ни в чем! 5 - Нелли Ким - Спортивная гимнастика|publisher=OFFSPORT.RU|accessdate=2017-12-17|language=ロシア語}}</ref><ref>{{Cite web|author=Дмитрий Домановский|date=2017-02-27|url=http://fb.ru/article/297574/nelli-kim---legenda-sssr|title=Нелли Ким - легенда СССР|publisher=FB.ru|accessdate=2017-12-17|language=ロシア語}}</ref>。彼女が生まれた後すぐに父が[[カザフ・ソビエト社会主義共和国]](現[[カザフスタン|カザフスタン共和国]])[[シムケント]]にある[[粘板岩|スレート]]工場に転職したため、一家はシムケントに移った<ref name="ne5"/><ref name="pro">{{Cite web|author=Юрий Шпилькин|date=2013|url=https://www.proza.ru/2013/09/10/639|title=Гимнастка Нелли Ким (Юрий Шпилькин)|publisher=Proza.ru|accessdate=2017-12-17|language=ロシア語}}</ref>。


キムは9歳、[[小学校]]3年生のときにスパルタク[[スポーツ]]協会<ref name="spar">{{Cite web|author=В.Л.Голубев|url=http://spartak70.ru/trenerssports/gymsport/stars/181.html|title=Нелли Ким - Спортивное общество Спартак|publisher=スパルタクスポーツ協会|accessdate=2017-12-17|language=ロシア語}}</ref>{{Refnest|group="†"|「スパルタクスポーツ協会」はソビエト連邦時代の[[1935年]]に設立されたスポーツソサエティーの一つで、モスクワに本拠地を置き、ソビエト各地に[[スタジアム]]やスポーツホール、プール、キャンプ場、青少年スポーツ学校など、さまざまなスポーツ施設を設立・運営していた。キムが入学したシムケントの青少年スポーツ学校もその一つである。青少年スポーツ学校はソビエトスポーツの基盤として機能し、数多くの五輪代表選手を輩出した。スパルタクスポーツ協会は[[1987年]]にいったん廃止されたが[[1991年]]に復活し、[[2017年]]現在、存続している<ref>{{Cite web|date=2010-04-19|url=https://ria.ru/spravka/20100419/224251170.html|title=Спортивное общество "Спартак": история и традиции|publisher=RIA通信社|accessdate=2017-12-17|language=ロシア語}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.mfsospartak.ru/|title=Сайт МФСО «Спартак» - Главная страница|publisher=スパルタクスポーツ協会|accessdate=2017-12-17|language=ロシア語}}</ref>。}}のシムケント第3青少年スポーツ学校へ入学した<ref name="BYNOC">{{Cite web|url=http://www.noc.by/chempiony-olimpijskih/kim|title=КИМ Нелли Владимировна (гимнастика спортивная)|publisher=ベラルーシオリンピック委員会|accessdate=2017-12-17|language=ロシア語}}</ref><ref name="ne7">{{Cite web|author=Nellie Kim|url=http://www.offsport.ru/gymnastics/nellie-kim/ne-ustupat-7.shtml|title=Не уступать ни в чем! 7 - Нелли Ким - Спортивная гимнастика|publisher=OFFSPORT.RU|accessdate=2017-12-17|language=ロシア語}}</ref>。彼女のコーチになったのはウラジーミル・ボイソヴィッチ・バイディンとその妻のガリーナ・ワシリーエヴナ・バルコワである<ref name="pro"/><ref name="pol">{{Cite web|date=2016-07-29|url=http://polit.ru/news/2016/07/29/kim/|title=Мемория. Нелли Ким|publisher=POLIT.RU|accessdate=2017-12-17|language=ロシア語}}</ref>。2人は当時、シムケント市内の各小学校を熱心に訪問して、小学校の児童たちをスポーツ学校に勧誘していた<ref name="cso">{{Cite web|date=2006-10-06|url=http://www.c-society.ru/main.php?ID=577412|title=Самая титулованная спортсменка Казахстана живет в Америке|publisher=Russia Civil Society|accessdate=2017-12-17|language=ロシア語}}</ref>。
弟のアレクサンドルと妹のイリーナも体操学校に入って、しばらくの間訓練を受けていたが、アレクサンドルは背が低かったので中学校の同級生にいじめられ、[[ボクシング]]を選んで体操学校を辞めてしまった。また、ネリーが自分より才能があると思っていたイリーナも、頻繁に通わなくてはならないため体操学校を辞めた<ref name="book"/>。


スポーツ学校に入学したのは偶然からのことだった。ある日、通学する小学校で[[算数]]の授業を受けていたとき、突然、見知らぬ男性が教室に入ってきて教壇に登った。それがバイディンだった。青少年スポーツ学校で体操競技のコーチをしていると[[自己紹介]]した上で彼は、「この中に[[体操]]をしてみたい女の子はいますか?」と質問した<ref name="ne7"/>。それに対してキムも含めたクラスの女子児童のほぼ全員が手を挙げたので、バイディンはさっそく志望者を廊下に集めて「入学試験」を始めた。彼はあらかじめ小学校の教師に連絡をとり、授業中に児童の勧誘をすることの了解を教師から得ていたのである<ref name="ne7"/>。
キムのトレーナーはウラジーミル・バイディンと妻のガリナ・バルコワだった。入学したばかりのキムを見て、その生来的な気品と才能に強い印象を受けたバイディンは彼女に自分のクラスへ入るよう勧めていた<ref name="collins">[http://www.ncsu.edu/ligon/olympics/kim/kim.menu.html ''Nellie Kim''] By Hanna Collins. 2008年10月6日閲覧。</ref>。当初、キムは仲間の多くと比較して柔軟性が充分ではなかったが、優秀な技術と困難な訓練で、すぐにそれを埋め合わせることができた。

バイディンは廊下に集まった各志望者に[[ジャンプ]]や姿勢などのテストを行った後、「[[ブリッジ (運動)|ブリッジ]]」の姿勢をとるよう求めた。しかし、キムはうまくブリッジの姿勢をとることができなかった<ref name="ne7"/>。彼が顔を曇らせるのを見た彼女は不合格だと思って落胆したが、「入学試験」を終えたバイディンはキムに対して翌日の放課後に[[体操着|体操服]]を持ってスポーツ学校へ来るようにと伝えた<ref name="ne7"/>。それが彼からの「合格通知」であり、こうして彼女は体操競技選手としての第一歩を踏み出した。キムはその日が[[1966年]][[9月15日]]だったことを記憶している<ref name="ne6">{{Cite web|author=Nellie Kim|url=http://www.offsport.ru/gymnastics/nellie-kim/ne-ustupat-6.shtml|title=Не уступать ни в чем! 6 - Нелли Ким - Спортивная гимнастика|publisher=OFFSPORT.RU|accessdate=2017-12-17|language=ロシア語}}</ref>。

スポーツ学校に入学した当初は仲間の多くと比べて選手として重要な身体の柔軟性が充分ではなかった<ref name="ne7"/><ref name="cso"/>。ブリッジの姿勢をとることができなかったのもそのためだったが、熱心にトレーニングに取り組むことでこれを克服していった<ref name="cso"/>。バルコワは後年、「キムに初めて会ったときは、じっとしていることさえ我慢できないほどの『[[お転婆|おてんば]]』だというのが第一印象だったが、負けず嫌いで常に最高であることを目指しており、人一倍厳しいトレーニングを積む子だった」と語っている<ref name="pro"/><ref name="cso"/>。

キムは幼少の頃から近所の子供たちとともに外で遊ぶことをいちばんの楽しみとしており<ref name="ne6"/>、さまざまなスポーツをすることも好きで、中でも[[水泳]]と[[スケート|アイススケート]]<ref name="collins">{{Cite web|author=Hanna Collins|url=http://www.ncsu.edu/ligon/olympics/kim/kim.menu.html|title=Nellie Kim|publisher=[[ノースカロライナ州立大学]]|accessdate=2017-12-17|language=英語|archiveurl=https://archive.is/bKny|archivedate=2012-12-15}}</ref>、[[サッカー|フットボール]]を好む<ref name="BYNOC"/>快活で活発な少女に育った。そのため、当初はスポーツ学校でレクリエーションとして体操を楽しむつもりだったが、学校での[[訓練|トレーニング]]の内容は時間が経つにつれて厳しいものとなり、仲間との競争も次第に激しくなっていったことからオーバーワークの状態に陥り、学校を辞めたいと思うこともしばしばだった<ref name="cen">{{Cite web|date=2008-04-12|url=http://www.centrasia.ru/newsA.php?st=1207987020|title=Гимнастка-чемпионка Нелли Ким|publisher=CentrAsia|accessdate=2017-12-17|language=ロシア語}}</ref>。しかし、その頃には体操競技なしでの自分を考えられなくなっていたため、そのたびに思いとどまった<ref name="cen"/>。

苦労することも多かったものの彼女の成長は順調であり、スポーツ学校に入学した1年後にはマットの上での宙返りを習得し<ref>{{Cite web|author=Nellie Kim|url=http://www.offsport.ru/gymnastics/nellie-kim/ne-ustupat-8.shtml|title=Не уступать ни в чем! 8 - Нелли Ким - Спортивная гимнастика|publisher=OFFSPORT.RU|accessdate=2017-12-17|language=ロシア語}}</ref>、2年後には[[段違い平行棒]]でも宙返りをすることができるようになっていた<ref name="BYNOC"/>。


=== 競技生活 ===
=== 競技生活 ===
[[1968年]]から競技大会への出場を始め<ref name="FIG"/>、2年目の[[1969年]]にシムケントで開かれたスパルタク共和国選手権大会で初めて金メダルを獲得した<ref name="us10">{{Cite web|author=Nellie Kim|url=http://www.offsport.ru/gymnastics/nellie-kim/ne-ustupat-10.shtml|title=Не уступать ни в чем! 10 - Нелли Ким - Спортивная гимнастика|publisher=OFFSPORT.RU|accessdate=2017-12-17|language=ロシア語}}</ref>。しかし、その1年後に彼女は五輪で9つの金メダルを獲得した著名な元体操競技選手の[[ラリサ・ラチニナ]]{{Refnest|group="†"|バーバラ・フィッシャーとジェニファー・イスビスターは、この指摘をした人物についてラリサ・ラチニナであると述べている<ref name="gymn.ca">{{Cite web|author=Barbara Fisher|coauthors=Jennifer Isbister|2002-10-24|url=http://www.gymn.ca/gymnasticgreats/wag/kim_nelli.htm|title=GymnasticGreats.com: Whatever happened to Nelli Kim?|publisher=GymnasticGreats.com|accessdate=2017-12-17|language=英語|archiveurl=http://web.archive.org/web/20170905140648/http://www.gymn.ca/gymnasticgreats/wag/kim_nelli.htm|archivedate=2017-09-05}}</ref>。一方、キムは自伝の中で「ある有名な元体操競技選手から『キムには将来性がない』と指摘を受けた」事実について記しつつも、その指摘をした人物の名前には言及していない<ref name="us10"/>。}}から「キムには将来性がない」と指摘を受ける<ref name="us10"/><ref name="gymn.ca"/>。バイディンは「ラチニナの言い方は厳しいが、その指摘は間違っていない」とキムにさらなる努力を促し、一方の彼女は将来性がないのであれば、これからどうすればいいのかと不安を感じながらもこれに耐えた<ref name="us10"/>。
キムの最も早い時期での成功は、[[1969年]]にチムケントで開かれたスパルタク共和国競技大会での優勝だった。にもかかわらず、その1年後、彼女は有名な元体操選手の[[ラリサ・ラチニナ]]に「将来性がない」と言われてしまう<ref name="GG">[http://www.gymn.ca/gymnasticgreats/wag/kim_nelli.htm ''Whatever happened to Nelli Kim?''] GymnasticGreats.com 2008年10月6日閲覧。</ref>。キムはその「評決」の後、もう少しで体操を辞めそうになったが、バイディンの励ましにより何とか競技を続けた。


それから約2か月後、ソビエトユース代表チームのヘッドコーチを務めるリディア・ガヴリーロヴナ・イワノワから「すぐに[[スフミ]]へ来るように」との連絡を受けた<ref name="ne11">{{Cite web|author=Nellie Kim|url=http://www.offsport.ru/gymnastics/nellie-kim/ne-ustupat-11.shtml|title=Не уступать ни в чем! 11 - Нелли Ким - Спортивная гимнастика|publisher=OFFSPORT.RU|accessdate=2017-12-17|language=ロシア語}}</ref>。その頃、スフミではユース代表の合宿が行われていた。キムに着目し、選手として評価していたイワノワは彼女をユース代表に招集したのである<ref name="BYNOC"/>。彼女はスフミへ行ってチームと合流し、しばらくの間、代表の合宿でトレーニングを行なった。シムケントを離れ不慣れな土地でトレーニングをするのは初めてだったが、スフミで体操競技に関するさまざまな新しい知識と経験を得た<ref name="ne11"/>。
最初の全国大会となった[[1971年]]のジュニアソビエト連邦選手権で、キムは個人総合で5位に入った<ref name="gf">[http://www.gymn-forum.net/bios/women/kim_n.html ''Nelli Kim Biography''] Gymn - Forum. 2008年10月6日閲覧。</ref>。さらに、その2年後の[[1973年]]にはシニアの全国大会と国際大会デビュー戦でも好成績を挙げる。全連邦ユーススポーツ大会でキムは個人総合で優勝、その他に二つの金メダルを獲得<ref name="gf"/>。ソビエト連邦カップでは個人総合8位、[[段違い平行棒]]では1位、[[日本]]では[[豊田国際体操競技大会|中日カップ]]<ref>かつて、毎年12月に名古屋市で開催されていた体操競技の国際大会。2004年の第35回大会を最後にして、現在は開催されていない [http://www.47news.jp/CN/200509/CN2005092701004056.html]。</ref> に出場して優勝した<ref name="gf"/>。


初めて大きな全国大会に出たのは[[1971年]]である。その年のジュニアソビエト連邦選手権に出場し、[[個人総合]]で5位に入った<ref>{{Cite web|date=2004-07-30|url=http://www.gymn-forum.net/Results/URSJunior/Women/1971_Champs.html|title=Gymn Forum: 1971 Jr. USSR Champs, Women's Results|publisher=Gymn-Forum|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref>。翌[[1972年]]12月のジュニアソビエト連邦選手権では個人総合で銀メダルを獲得し、跳馬と段違い平行棒で金メダルを獲得と前年から大きく成績を伸ばした<ref>{{Cite web|date=2004-07-30|url=http://www.gymn-forum.net/Results/URSJunior/Women/1972_Champs.html|title=Gymn Forum: 1972 Jr. USSR Champs, Women's Results|publisher=Gymn-Forum|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref>。この大会の平均台で、その年の8月に開催された[[1972年ミュンヘンオリンピック|ミュンヘン五輪]]で[[オルガ・コルブト]]が演じたような宙返りを決めて注目を集め、イワノワからも「順調に成長していることが明確に見て取れる」との賛辞を受けている<ref>{{Cite web|author=Nellie Kim|url=http://www.offsport.ru/gymnastics/nellie-kim/ne-ustupat-14.shtml|title=Не уступать ни в чем! 14 - Нелли Ким - Спортивная гимнастика|publisher=OFFSPORT.RU|accessdate=2017-12-17|language=ロシア語}}</ref>。
[[1974年]]8月のソビエト連邦カップを2位で終えた後、キムはその年の10月に行われる[[世界体操競技選手権|世界選手権]]ヴァルナ大会のチーム名簿に加えられ、団体総合で金メダルを獲得した。その後、1980年まで彼女は多くのトップレベルの国際大会に出場して好成績を挙げた。


[[1973年]]のオールユニオン・ユーススポーツ大会では15歳でカザフチームの[[主将|キャプテン]]に選ばれ<ref>{{Cite web|author=Nellie Kim|url=http://www.offsport.ru/gymnastics/nellie-kim/vospitanie-lichnosti-5.shtml|title=Воспитание личности 5 - Нелли Ким - Спортивная гимнастика|publisher=OFFSPORT.RU|accessdate=2017-12-17|language=ロシア語}}</ref>、チームを率いて[[団体総合]]と個人総合、[[平均台]]で金メダルを獲得した<ref name="gf"/>。同年8月に[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]](現[[ドイツ]])の[[ゲーラ]]で開かれた[[東側諸国]]によるドルーズバ国際ユース競技大会で[[ルーマニア]]の[[ナディア・コマネチ]]と初めて対戦<ref name="BYNOC"/>。個人総合でコマネチに次ぐ銀メダルを獲得した後<ref>{{Cite web|date=2004-07-29|url=http://www.gymn-forum.net/Results/Druzhba/Women/1973.html|title=Gymn Forum: 1973 Druzhba, Women's Results|publisher=Gymn-Forum|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref>、自身初のシニアの全国大会であるソビエト連邦カップでは個人総合で8位に入り、段違い平行棒では[[リュドミラ・ツリシチェワ]]と同点で金メダルを獲得<ref name="gf"/><ref>{{Cite web|author=Nellie Kim|url=http://www.offsport.ru/gymnastics/nellie-kim/vospitanie-lichnosti-7.shtml|title=Воспитание личности 7 - Нелли Ким - Спортивная гимнастика|publisher=OFFSPORT.RU|accessdate=2017-12-17|language=ロシア語}}</ref>。続いて11月に[[ニコライ・アンドリアノフ]]らとともに[[日本]]へ移動し、[[名古屋市]]で開催された[[豊田国際体操競技大会|中日カップ]]{{Refnest|group="†"|かつて、毎年11月 - 12月に名古屋市で開催されていた体操競技の国際大会。当時、[[アジア]]で毎年開催される唯一の体操競技の国際大会であり、ネリー・キムをはじめナディア・コマネチ、リュドミラ・ツリシチェワ、ニコライ・アンドリアノフなど各国の有名選手らも参加していた。中日カップでは男女とも団体総合や種目別は実施されず、個人総合のみが実施されていた。2004年の第35回大会を最後に以降は開催されていない<ref>{{Cite news|title=中日カップが休止 体操の国際大会|newspaper=[[47NEWS]]|date=2005-09-27|url=http://www.47news.jp/CN/200509/CN2005092701004056.html|accessdate=2017-12-17|archiveurl=https://archive.is/PbtV|archivedate=2012-07-30}}</ref>。[[愛知県]]では2007年から[[豊田市]]で毎年11月 - 12月に「豊田国際体操競技大会」が開催されており、この大会が中日カップの実質的な後継大会に当たる<ref>{{Cite web|url=http://www.toyota-taiso.com/|title=豊田国際体操競技大会 公式ウェブサイト|publisher=豊田国際体操競技大会|accessdate=2017-12-17}}</ref>。}}に出場して金メダルを獲得した<ref>{{Cite web|date=2001-01-09|url=http://www.gymn-forum.net/Results/CCup/Women/1973.html|title=Gymn Forum: 1973 Chunichi Cup, Women's AA|publisher=Gymn-Forum|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref><ref>{{Cite news|title=ニュース映画『美と技の共演 - 中日カップ国際体操 - 』|newspaper=[[中日新聞ニュース|中日ニュース]]|date=1973-11-30|url=http://www.chunichieigasha.co.jp/?p=16193|publisher=[[中日映画社]]|accessdate=2017-12-17}}</ref>。キムは初めて経験する[[エキゾチシズム|エキゾティック]]な日本に強い印象を受け、また、[[加藤澤男]]・[[塚原光男]]など大選手たちのホームランドで優勝したことは彼女にとって喜びでもあった<ref>{{Cite web|author=Nellie Kim|url=http://www.offsport.ru/gymnastics/nellie-kim/vospitanie-lichnosti-8.shtml|title=Воспитание личности 8 - Нелли Ким - Спортивная гимнастика|publisher=OFFSPORT.RU|accessdate=2017-12-17|language=ロシア語}}</ref>。当時の[[中日新聞ニュース|中日ニュース]]は中日カップを報道する記事の中でキムを「16才の妖精」「第二のコルブト」と[[批評|評]]している<ref>{{Cite web|title=ニュース映画『美と技の共演 - 中日カップ国際体操 - 』のプレスシート|format=PDF|date=1973-11-30|url=http://wx08.wadax.ne.jp/~chunichieigasha-co-jp/cp-bin/wordpress/wp-content/uploads/2014/03/1037.pdf|publisher=中日ニュース (中日映画社)|accessdate=2017-12-17}}</ref>。
ソビエトのチームメイトやコーチの間でのキムのニックネームは「キマネリー」だった。トレーナーのウラジスラフ・ラストロツキーが彼女を大急ぎで呼んだとき「Kim, Nellie、電話だ!」と言ったのが、このニックネームの由来である<ref name="book"/>。


翌年の[[1974年]]には、5月に[[ロストフ・ナ・ドヌ]]で開かれたソビエト連邦選手権において初出場で個人総合の[[銅メダル]]を獲得<ref>{{Cite web|date=2004-08-20|url=http://www.gymn-forum.net/Results/URSNatl/Women/1974.html|title=Gymn Forum: 1974 USSR Championships - Women's AA, EF & Team|publisher=Gymn-Forum|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref><ref>{{Cite web|author=Nellie Kim|url=http://www.offsport.ru/gymnastics/nellie-kim/vospitanie-lichnosti-10.shtml|title=Воспитание личности 10 - Нелли Ким - Спортивная гимнастика|publisher=OFFSPORT.RU|accessdate=2017-12-17|language=ロシア語}}</ref>。さらに8月に[[ヴィリニュス]]で行われたソビエト連邦カップの個人総合でもツリシチェワに次ぐ銀メダルを獲得し<ref name="BYNOC"/><ref name="gf">{{Cite web|date=2007-08-26|url=http://www.gymn-forum.net/bios/women/kim_n.html|title=Nelli Kim Biography - A signed photo and list of competitive results|publisher=Gymn-Forum|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref>、これらの好成績が評価されたキムはその年の10月に[[ブルガリア]]の[[ヴァルナ (ブルガリア)|ヴァルナ]]で開催される[[世界体操競技選手権|世界選手権]]のソビエト代表に初めて選ばれた<ref name="kim"/><ref name="BYNOC"/>。大会では団体総合予選・跳馬の規定演技の着地の際に[[足関節|足首]]を[[捻挫]]したが<ref name="cen"/>、それでも出場を続行して<ref>{{Cite web|author=Nellie Kim|url=http://www.offsport.ru/gymnastics/nellie-kim/shipy-i-rozy-2.shtml|title=Шипы и розы 2 - Нелли Ким - Спортивная гимнастика|publisher=OFFSPORT.RU|accessdate=2017-12-17|language=ロシア語}}</ref>チームの団体総合金メダル獲得に貢献した<ref>{{Cite web|date=2012-10-29|url=http://www.gymn-forum.net/Results/Worlds/Women/1974_team.html|title=Gymn Forum: 1974 World Champs, Women's Team|publisher=Gymn-Forum|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref><ref>{{Cite web|date=2012-10-28|url=http://www.gymn-forum.net/Results/Worlds/Women/1974_teams_1-4.html|title=Gymn Forum: 1974 World Championships, Women's Teams 1-4|publisher=Gymn-Forum|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref>。しかし、その夜から捻挫した足首が腫れ上がり痛みがひどくなったため個人総合決勝は欠場して少しでも痛みが和らぐのを待ち<ref>{{Cite web|author=Nellie Kim|url=http://www.offsport.ru/gymnastics/nellie-kim/shipy-i-rozy-3.shtml|title=Шипы и розы 3 - Нелли Ким - Спортивная гимнастика|publisher=OFFSPORT.RU|accessdate=2017-12-17|language=ロシア語}}</ref>、大会最終日の種目別決勝に出場して平均台で銅メダルを獲得した<ref name="74ef">{{Cite web|url=http://www.gymn-forum.net/Results/Worlds/Women/1974_ef.html|title=Gymn Forum: 1974 World Champs, Women's EF|publisher=Gymn-Forum|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref><ref>{{Cite web|author=Nellie Kim|url=http://www.offsport.ru/gymnastics/nellie-kim/shipy-i-rozy-4.shtml|title=Шипы и розы 4 - Нелли Ким - Спортивная гимнастика|publisher=OFFSPORT.RU|accessdate=2017-12-17|language=ロシア語}}</ref>。この大会はキムが経験する初めてのシニアの世界選手権だったことから、彼女はこの大会でどうしても[[メダル]]を獲りたいと考えていた<ref name="cen"/>。さらに足首を痛めながら獲得したこともあり、彼女にとってこの銅メダルは現役生活の中でもとりわけ思い入れのあるメダルとなった<ref name="cen"/>。
[[1975年]]の[[カナダ]]プレ五輪大会の後、キムは来るべきモントリオール五輪での主要なメダル有望選手の一人になり、ソビエトチームの実質的なリーダーになった。この大会でキムは、個人総合では[[ルーマニア]]の[[ナディア・コマネチ]]に次ぐ2位だったが、種目別決勝で三つの金メダル(跳馬、ゆか、[[平均台]])を獲得した。キムに対するかつての見解を既に変えていたラリサ・ラチニナはキムの体操スタイルを「快活できらめきがある」と評し、カナダの新聞が書いた彼女の演技に対する論評を引用して「自然の微笑には勝利よりも価値があると思える瞬間の連続だった」ともコメントした。


続く[[1975年]]は、3月に開かれたソビエト連邦カップの個人総合で銀メダルを獲得した後<ref>{{Cite web|date=2003-10-25|url=http://www.gymn-forum.net/Results/URSCup/Women/1975.html|title=Gymn Forum: 1975 USSR Cup, Women's AA|publisher=Gymn-Forum|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref>、5月には[[ノルウェー]]の[[シーエン]]で行われた[[ヨーロッパ体操競技選手権|欧州選手権]]に初めて出場し、同じく初出場であるコマネチと対戦。ここでも個人総合でコマネチに次ぐ銀メダルを獲得した<ref name="75aa">{{Cite web|date=1997-10-24|url=http://www.gymn-forum.net/Results/EChamps/Women/1975_aa.html|title=Gymn Forum: 1975 European Championships, Women's AA|publisher=Gymn-Forum|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref>。そして、7月に[[サンクトペテルブルク|レニングラード]](現サンクトペテルブルク)で開催されたソビエト連邦選手権でキムはツリシチェワやコルブトなどの強豪に勝ち、個人総合で金メダル、種目別でも3つの金メダル(段違い平行棒、平均台、ゆか)と1つの銀メダル(跳馬)を獲得した<ref name="URS">{{Cite web|date=2004-08-20|url=http://www.gymn-forum.net/Results/URSNatl/Women/1975.html|title=Gymn Forum: 1975 USSR Championships|publisher=Gymn-Forum|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref>。この大会は4年ごとに開催されるソビエト連邦国民スパルタキアード{{Refnest|group="†"|かつてソビエト連邦は理念上の理由からオリンピック大会(オリンピアード)には参加せず、その代替として独自に「スパルタキアード」という国際スポーツ大会を[[1928年]]から[[1936年]]まで4年ごとに開催していた<ref name="spa"/>。「スパルタキアード」という名称は、[[共和政ローマ|古代ローマ]]の[[剣闘士]][[スパルタクス]]に由来する。[[第二次世界大戦]]後の[[1952年]]からソビエトはオリンピック大会に参加することを決定したため「スパルタキアード」は廃止されたが、その理念を受け継ぐ形でソビエト国内のスポーツ大会として「ソビエト連邦国民スパルタキアード」が[[1956年]]に開催され、[[1959年]]からは4年ごとに開催されていた。夏季大会の他に1962年からは冬季大会も4年ごとに開催され、夏季大会・冬季大会ともにオリンピック大会と同様、多数の競技が行われる大規模な大会だった<ref name="spa">{{Cite web|date=2013-11-03|url=http://spartakiada.org/history/olimpiyskie-igry-i-spartakiady-narodov-sssr|title=Олимпийские игры и Спартакиады народов СССР - МЕЖДУНАРОДНОЕ СПАРТАКИАДНОЕ ДВИЖЕНИЕ|publisher=INTERNATIONAL MOVEMENT SPARTAKIAD|accessdate=2017-12-17|language=ロシア語}}</ref>。こうした経緯から、当時のソビエト国内においては他のスポーツ大会よりも重きを置かれていた。「ソビエト連邦国民スパルタキアード」は1991年の夏季大会を最後に開催されていない。}}の体操競技として開催されたため<ref name="URS"/>、そこでの彼女の勝利は当時のソビエトにおいて栄誉となるものだった<ref name="pro"/>。これを受けて、彼女の地元カザフの人々はキムに「鉄のネリー」という[[愛称|ニックネーム]]をつけた<ref name="cso"/>。
1976年のソビエト連邦カップでもキムはリュドミラ・ツリシチェワや[[オルガ・コルブト]]のような有名選手に勝って優勝したが、メディアは依然として彼女らがソビエトのリーダーだと考えていた。ソビエトコーチ会議でさえもキムをリーダーだとは明確に示さなかったのである。それは、後にソビエトの専門家も認める間違いだった<ref name="book"/>。

その直後に行われた[[モントリオール]]・プレ五輪大会での女子体操競技は、同年の欧州選手権シーエン大会で種目別のゆかを制したキム<ref name="75ef">{{Cite web|date=1997-11-21|url=http://www.gymn-forum.net/Results/EChamps/Women/1975_ef.html|title=Gymn Forum: 1975 European Championships, Women's EF|publisher=Gymn-Forum|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref>と、同大会でゆか以外の個人種目を制したコマネチ<ref name="75aa"/><ref name="75ef"/>とによる激しい戦いとなった{{Refnest|group="†"|米国体操連盟の月刊誌『USGF News』誌1975年8月号38頁は、この戦いを ''a fierce battle'' と評している<ref name="75_4aug">{{Cite web|url=https://issuu.com/usagymnastics/docs/1975_4aug/|title=INTERNATIONAL GYMNASTICS COMPETITIONS MONTREAL|publisher=『USGF News』1975年8月号 米国体操連盟|page=38|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref>。}}。各種目で両選手による接戦が行われた結果<ref name="75_4aug"/>、個人総合では先の欧州選手権に続きコマネチに次ぐ銀メダルだったが<ref name="75paa">{{Cite web|date=2004-06-23|url=http://www.gymn-forum.net/Results/PreOly/Women/1975_aa.html|title=Gymn Forum: 1975 Pre-Olympic Test Event, Women's AA|publisher=Gymn-Forum|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref>、種目別で3つの金メダル(跳馬、平均台、ゆか)と1つの銀メダル(段違い平行棒)を獲得した<ref name="75pef">{{Cite web|date=2004-06-24|url=http://www.gymn-forum.net/Results/PreOly/Women/1975_ef.html|title=Gymn Forum: 1975 Pre-Olympic Test Event, Women's EF|publisher=Gymn-Forum|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref>{{Sfn|''1975 MONTREAL PRE-OLYMPICS''|p=22|loc=『Gymnast Magazine』1975年9月号 米国体操連盟 2017年11月20日閲覧}}。このとき、キムは跳馬の種目別決勝で「[[跳馬#技の種類|前転跳び]]1回半ひねり」という[[体操競技#難度|難度]]の高い技を決め、[[アメリカ合衆国|米国]]体操協会が発行する[[雑誌|月刊誌]]『Gymnast Magazine』誌もこれを特筆している{{Sfn|''1975 MONTREAL PRE-OLYMPICS''|p=23|loc=『Gymnast Magazine』1975年9月号 米国体操連盟 2017年11月20日閲覧}}。この技は彼女自身が前年1974年の世界選手権ヴァルナ大会において世界で初めて成功させたもので、国際体操連盟({{lang-fr-short|Fédération Internationale de Gymnastique}}、略称:FIG)により「キム」という[[体操競技#技と技名・新技|技名]]がつけられて『FIG採点規則(FIG CODE OF POINTS)』にも掲載された{{Sfn|''2017-2020 CODE OF POINTS WAG - FIG''|p=204|loc=''PART V - APPENDICES - List of Elements performed for the first time by gymnasts at the FIG official competitions - Vault''}}{{Refnest|group="†"|name="new"|体操競技においては、国際体操連盟公認の競技大会で最初に成功させた選手の名前から国際体操連盟によって技名がつけられている。新しい技に対する認定の要件と手続きについては、『FIG採点規則』に詳細に規定されている{{Sfn|''2017-2020 CODE OF POINTS WAG - FIG''|pp=25-26|loc=''PART II Evaluation of the Exercise SECTION 7 - Regulations Governing the D-Score 7.2.3 New Vaults, Elements and Connections''}}。}}。

このプレ五輪大会での女子体操競技について、当時の[[カナダ]]の[[新聞]]は「キムの演技は、自然の微笑には勝利よりも価値があると思わせる瞬間の連続だった。きらめきがあり快活で生き生きとした演技、それがキムの演技スタイルである」と論評している<ref>{{Cite web|author=Nellie Kim|url=http://www.offsport.ru/gymnastics/nellie-kim/shipy-i-rozy-11.shtml|title=Шипы и розы 11 - Нелли Ким - Спортивная гимнастика|publisher=OFFSPORT.RU|accessdate=2017-12-17|language=ロシア語}}</ref>。

モントリオール五輪を目前に控えた1976年5月のソビエト連邦カップでも、跳馬と平均台で金メダル、段違い平行棒で銀メダル、個人総合でもツリシチェワとコルブトに勝って金メダルを獲得した<ref>{{Cite web|date=2004-08-16|url=http://www.gymn-forum.net/Results/URSCup/Women/1976.html|title=Gymn Forum: 1976 USSR Cup - Women's AA & EF|publisher=Gymn-Forum|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref>。世界のスポーツ[[報道機関|メディア]]は「今やキムがソビエト女子体操競技界の実質的な[[リーダーシップ|リーダー]]であり、来るべきモントリオール五輪でのメダル獲得が有望視される主要な選手の一人でもある」と考えており、米国のスポーツ[[ジャーナリスト]]たちがシムケント市内にある彼女の自宅まで取材に訪れるようになっていた<ref name="pro"/>。[[英語]]が堪能な彼女は、米国からやってきた彼らとの[[インタビュー]]に英語で応じていたとバルコワは語っている<ref name="pro"/>。

一方、ソビエトの国民やメディアは依然としてツリシチェワとコルブトがソビエト女子体操競技界のリーダーだと考えており<ref name="pro"/>、ソビエトコーチ評議会でさえもキムをリーダーだとは明確に示さなかった。ソビエトコーチ評議会が自らのチームのリーダーが誰かを正しく見極めることができなかった誤りをソビエトの[[専門家]]たちはモントリオール五輪終了後に認めている<ref>{{Cite web|author=Nellie Kim|url=http://www.offsport.ru/gymnastics/nellie-kim/shipy-i-rozy-17.shtml|title=Шипы и розы 17 - Нелли Ким - Спортивная гимнастика|publisher=OFFSPORT.RU|accessdate=2017-12-17|language=ロシア語}}</ref>。

モントリオール・プレ五輪大会を終えて帰国した後の1975年秋にキムはバイディンから突然、新しい技に関する提案を受けた。それは、跳馬で「ツカハラ跳び1回ひねり」、ゆかで「後方2回宙返り」に挑戦するというものだった<ref name="BYNOC"/><ref name="sh9">{{Cite web|author=Nellie Kim|url=http://www.offsport.ru/gymnastics/nellie-kim/shipy-i-rozy-9.shtml|title=Шипы и розы 9 - Нелли Ким - Спортивная гимнастика|publisher=OFFSPORT.RU|accessdate=2017-12-17|language=ロシア語}}</ref>。これらの技を考案したのは、バイディンと交流がある[[モスクワ]]体育研究院[[准教授]]のレフ・コンスタンティーノヴィッチ・アントノフである<ref name="BYNOC"/><ref>{{Cite web|author=Nellie Kim|url=http://www.offsport.ru/gymnastics/nellie-kim/ne-ustupat.shtml|title=Не уступать ни в чем! - Нелли Ким - Спортивная гимнастика|publisher=OFFSPORT.RU|accessdate=2017-12-17|language=ロシア語}}</ref>。この提案にキムは戸惑った。全く新しい複雑なジャンプを習得する自信はなかったが、モントリオール五輪で勝つためにはそれを習得するしかないと考えた彼女は最終的に提案を受け入れて<ref name="sh9"/>、2つの技を習得するため連日、トレーニングを重ねた。しかし、当初はこれらの技が要請する空中での連続した複雑な動作を円滑に行うことは容易ではなく、また彼女は当時、足首を痛めていたこともあって、着地を決めることは特に困難だった<ref name="BYNOC"/><ref name="sh9"/>。キムは練習熱心だったが、ただ漫然と長時間の練習をすることは好まなかった<ref name="sta">{{Cite web|author=Stanislav Tokarev|date=2004-01-15|url=http://www.gymn-forum.net/Articles/Misc-Kim.html|title=Gymn Forum: Nelly Kim: A New Gymnastics Star|publisher=Gymn-Forum|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref>。彼女にとって練習とは楽しむことであり、ひたすら同じ練習に集中して打ち込み続けることも苦ではなかった<ref name="sta"/>。そして、未踏の領域に挑戦しそれを開拓するときにおいて自らの力を最大限に発揮した<ref name="sta"/>。彼女は次第に2つの技を習得していき、1976年5月のソビエト連邦カップの際に初めて試合でテストし、これを成功させた<ref>{{Cite web|author=Nellie Kim|url=http://www.offsport.ru/gymnastics/nellie-kim/shipy-i-rozy-12.shtml|title=Шипы и розы 12 - Нелли Ким - Спортивная гимнастика|publisher=OFFSPORT.RU|accessdate=2017-12-17|language=ロシア語}}</ref>。こうして7月にキムにとって初めての五輪を迎える。


=== オリンピックと世界選手権 ===
=== オリンピックと世界選手権 ===
1976年7月、カナダのモントリオールで五輪大会が開催された。五輪の開幕前、この大会の女子体操競技に関しては各国際大会でその強さを示す14歳の王者コマネチと前回1972年ミュンヘン五輪で個人総合を制したツリシチェワ<ref name="72aa">{{Cite web|date=2003-08-04|url=http://www.gymn-forum.net/Results/Olympics/1972_Munich/1972_women_aa.html|title=Gymn Forum: 1972 Olympic Games, Women's AA|publisher=Gymn-Forum|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref>、前回五輪で種目別の平均台とゆかを制したコルブト<ref name="72ef">{{Cite web|date=2003-08-04|url=http://www.gymn-forum.net/Results/Olympics/1972_Munich/1972_women_ef.html|title=Gymn Forum: 1972 Olympic Games, Women's EF|publisher=Gymn-Forum|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref>、そして5月のソビエト連邦カップでツリシチェワとコルブトに勝利したキムの4人を中心とした戦いになるものとメディアは予想していたが<ref name="ny7613">{{Cite news |title=Olympic Preview|newspaper=[[ニューヨーク・タイムズ]]|date=1976-07-13|author=ROBIN HERMAN|url=http://www.nytimes.com/1976/07/13/archives/olympic-preview-gymnastics-hopes-dim-fencing-a-us-thrust-gymnastics.html|accessdate=2017-12-17|page=54|language=en}}</ref>、実際に大会で女子体操競技が始まると次第にキムとコマネチの対決との様相を呈し、2人の対決は女子体操競技の焦点として大いに注目を集めた<ref name="kim"/>。
1976年モントリオール五輪でのネリー・キムとナディア・コマネチの対決は女子体操競技の焦点となり、大いに注目を集めた。金メダル争いにおいて、キムのチームメイトで[[ミュンヘンオリンピック|ミュンヘン五輪]]チャンピオンのツリシチェワとコルブトは二人の躍進するスターにすっかり圧倒された。


キムはこの大会の跳馬で抱え込みツカハラ跳び1回ひねり、ゆかで後方抱え込み2回宙返りを見せ、いずれも世界で初めて成功させた<ref name="FIG"/><ref name="kim"/>。団体総合で金メダルを獲得した後<ref>{{Cite web|date=2004-02-06|url=http://www.gymn-forum.net/Results/Olympics/1976_Montreal/1976_women_team_main.html|title=Gymn Forum: 1976 Olympic Games, Women's Team|publisher=Gymn-Forum|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref><ref>{{Cite web|date=1999-06-26|url=http://www.gymn-forum.net/Results/Olympics/1976_Montreal/1976_women_team_1-3.html|title=Gymn Forum: 1976 Olympics, Women's Team Results USSR|publisher=Gymn-Forum|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref>、個人総合決勝では五輪大会の跳馬で史上初の10点満点を出して銀メダルを獲得した<ref name="kim"/><ref name="76aa">{{Cite web|date=2004-02-06|url=http://www.gymn-forum.net/Results/Olympics/1976_Montreal/1976_women_aa.html|title=Gymn Forum: 1976 Olympic Games, Women's AA|publisher=Gymn-Forum|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref>。五輪大会の体操競技で10点満点を記録するのは、この大会の団体総合予選・段違い平行棒の規定演技で史上初めて記録したコマネチ<ref>{{Cite web|url=http://www.usghof.org/files/bio/n_comaneci/n_comaneci.html|title=Biography: COMANECI, Nadia|publisher=米国体操殿堂|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref>に次いで史上2人目となった<ref>{{Cite web|author=Hilary Levey Friedman|date=2016-07-28|url=http://www.providencejournal.com/entertainmentlife/20160728/book-review-perfect-read-for-die-hard-gymnastics-fans|title=The other Perfect 10: The half-Korean Soviet gymnast you’ve never heard of|publisher=providencejournal.com|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref>。種目別でも跳馬の予選で9.850点、決勝で9.950点をマークし、合計19.800点で大会2つ目の金メダルを獲得<ref name="76ny">{{Cite news |title=Nelli Kim Also Wins Twice in Gymnastics|newspaper=ニューヨーク・タイムズ|date=1976-07-23|author=NEIL AMDUR|url=http://www.nytimes.com/1976/07/23/archives/nelli-kim-also-wins-twice-in-gymnastics-nadia-comaneci-wins-two.html|accessdate=2017-12-17|page=34|language=en}}</ref><ref name="76ef">{{Cite web|date=2004-02-06|url=http://www.gymn-forum.net/Results/Olympics/1976_Montreal/1976_women_ef.html|title=Gymn Forum: 1976 Olympic Games, Women's EF|publisher=Gymn-Forum|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref>。ゆかでは予選で9.850点を出し、9.925点をマークした1位ツリシチェワと0.075点差の2位で決勝に臨んだ<ref name="76ef"/>{{Sfn|''MONTREAL XXI OLYMPICS''|p=12|loc=『USGF NEWS』1976年8月号 米国体操連盟 2017年11月28日閲覧}}。決勝では先に演技したツリシチェワが9.900点をマークして予選との合計で19.825点とし、金メダル獲得のためには9.975点以上を出すことが必要な状況となったが、演技の冒頭で高い跳躍から後方抱え込み2回宙返りを決めてそのままミスなく演じ切り、10点満点の採点を受けて予選との合計で19.850点とし、0.025点差でツリシチェワを逆転して金メダルを獲得した<ref name="76ny"/><ref name="76ef"/>。五輪大会のゆかで10点満点を記録するのは史上初めてだった<ref name="kim"/><ref name="76ny"/>。ヴァレンティーナ・コソラポワが振付を担当したゆかの演技の音楽は、前年の欧州選手権とソビエト連邦選手権に引き続いて『サンバ』が使用された<ref>{{Cite web|author=Nellie Kim|url=http://www.offsport.ru/gymnastics/nellie-kim/shipy-i-rozy-5.shtml|title=Шипы и розы 5 - Нелли Ким - Спортивная гимнастика|publisher=OFFSPORT.RU|accessdate=2017-12-17|language=ロシア語}}</ref><ref>{{Cite web|author=Nellie Kim|url=http://www.offsport.ru/gymnastics/nellie-kim/vospitanie-lichnosti-9.shtml|title=Воспитание личности 9 - Нелли Ким - Спортивная гимнастика|publisher=OFFSPORT.RU|accessdate=2017-12-17|language=ロシア語}}</ref>。キムはこの大会で3つの金メダルを獲得して実施された女子体操競技6種目のうち半数を制し<ref name="kim"/>、同じく3つの金メダル(個人総合、段違い平行棒、平均台)を獲得したコマネチ<ref name="76aa"/><ref name="76ef"/>とともに女子体操競技の金メダルを分け合った。また、キムは1つの銀メダルと合わせて合計4つのメダルを獲得し<ref name="kim"/>、彼女はその女性美と、華麗さと優美さと激しさとを合わせ持つ演技スタイルをファンから称讃された<ref name="gymn.ca"/>。
キムは団体総合で金メダル。跳馬とゆかでも金メダルをとり、合計三個の金メダルを獲得した<ref>一方のコマネチも個人総合と段違い平行棒、平均台で三個の金メダルを獲得している。</ref>。バレンチナ・コソラポワが振付を担当したゆかの演技の音楽は、火のような[[サンバ (ブラジル)|サンバ]]だった。エレメンツの一つは後方への二回宙返りで、これは五輪史上女子として初めて行われた演技だった。彼女は個人総合で銀メダルを獲得したが、10点満点をマークした跳馬で見せた抱え込みのツカハラ跳び一回ひねりも五輪史上初めて行われた演技である。キムは、その女性美と優美で華麗で激しい演技スタイルを称讃された<ref name="GG"/>。


当時、キムに関心を抱いたカナダ国立映画制作庁({{lang-en-short|National Film Board of Canada}}、略称:NFB)はジャック・ボベを[[映画プロデューサー|プロデューサー]]、ジョルジュ・デュフォーとピエール・ベルニエを共同[[映画監督|監督]]に起用してモントリオール五輪での彼女の姿を丹念に描写し、[[アスリート]]とその背後にある人間としての姿をテーマにした28分間の[[ドキュメンタリー|ドキュメンタリー映画]]『Nelli Kim』{{Refnest|group="†"|2017年現在、「Нелли Ким」の[[ラテン文字]]表記([[ラテン文字化|ラテン文字転写]])としては「Nellie Kim」が一般的に使用されており、キムの公式ウェブサイト<ref>{{Cite web|url=http://nelliekim.net/|title=The Official Website of Nellie Kim|publisher=ネリー・キム 公式ウェブサイト|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref>やFIGの公式ウェブサイト<ref name="fi2"/>もこの表記を用いているが、モントリオール五輪が開催された当時の[[北アメリカ|北米]]メディアにおいては「Nelli Kim」という表記が一般的だった(当時の[[ニューヨーク・タイムズ]]紙で『Nelli Kim』表記が使用された例<ref name="ny7613"/><ref name="76ny"/><ref>{{Cite news |title=U.S. Women's Hopes Are Cast in Bronze|newspaper=ニューヨーク・タイムズ|date=1976-07-11|author=ROBIN HERMAN|url=http://www.nytimes.com/1976/07/11/archives/us-womens-hopes-are-cast-in-bronze.html|accessdate=2017-12-17|page=154|language=en}}</ref><ref>{{Cite news |title=Summaries of Montreal Olympic Games|newspaper=ニューヨーク・タイムズ|date=1976-07-23|author=SPECIAL TO THE NEW YORK TIMES|url=http://www.nytimes.com/1976/07/23/archives/summaries-of-montreal-olympic-games-todays-olympic-schedule.html|accessdate=2017-12-17|page=37|language=en}}</ref><ref>{{Cite news |title=The Measure of Greatness|newspaper=ニューヨーク・タイムズ|date=1976-07-25|author=NEIL AMDUR|url=http://www.nytimes.com/1976/07/25/archives/the-measure-of-greatness-nadia-comaneci-fearless-and-tireless.html|accessdate=2017-12-17|page=131|language=en}}</ref><ref>{{Cite news |title=Amid the Strife Emerge the Heroes and Heroines|newspaper=ニューヨーク・タイムズ|date=1976-08-01|author=JOSEPH DURSO|url=http://www.nytimes.com/1976/08/01/archives/amid-the-strife-emerge-the-heroes-and-heroines.html|accessdate=2017-12-17|page=37|language=en}}</ref><ref>{{Cite news |title=Sports Editor's Mailbox: No Love, No Soul and No Graciousness From Nadia|newspaper=ニューヨーク・タイムズ|date=1976-08-15|author=M. S. LUSTBADER|url=http://www.nytimes.com/1976/08/15/archives/sports-editors-mailbox-no-love-no-soul-and-no-graciousness-from.html|accessdate=2017-12-17|page=146|language=en}}</ref>、当時の『USGF NEWS』誌で『Nelli Kim』表記が使用された例{{Sfn|''MONTREAL XXI OLYMPICS''|pp=9-10,12|loc=『USGF NEWS』1976年8月号 米国体操連盟 2017年12月11日閲覧}})。これを受け、NFBの制作した映画のタイトルも『Nelli Kim』となっている。標準的な[[ロシア語]]発音では「Нелли」の最初の[[母音]]еに[[アクセント]]が置かれ、最後の母音иにアクセントは置かれないのでиに[[母音弱化]]が起こる。そのため、「Нелли」のラテン文字表記としては「Nelli」、日本語表記としては「ネーリ」が原音により忠実な表記である。}}を制作した<ref name="Film">{{Cite web|url=http://onf-nfb.gc.ca/en/our-collection/?idfilm=12862|title=Nelli Kim - NFB - Collection|publisher=カナダ国立映画制作庁|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref>。この作品は[[1978年]]に一般公開され<ref>{{IMDb title|0256225|Nelli Kim (1978)}}</ref>、[[21世紀]]に入ってからはNFBの公式[[ウェブサイト]]<ref>{{Cite web|url=https://www.nfb.ca/film/nelli_kim_en/|title=Online documentary film on Kim|publisher=カナダ国立映画制作庁|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref>や[[YouTube]]のNFB公式チャンネル<ref>{{Cite web|date=2016-07-20|url=https://www.youtube.com/watch?v=J8H82fCozVE|title=Nelli Kim - YouTube|publisher=カナダ国立映画制作庁|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref>でも公開されている。この映画についてキムは、カナダの国立映画会社が伝統的なオリンピック記録映画ではなく、モントリオール五輪に参加している6人の選手たちに焦点を当てた斬新な映画の制作を決定し、その6人のうちの1人として彼女も選ばれたと語っている<ref>{{Cite web|author=Nellie Kim|url=http://www.offsport.ru/gymnastics/nellie-kim/shipy-i-rozy-14.shtml|title=Шипы и розы 14 - Нелли Ким - Спортивная гимнастика|publisher=OFFSPORT.RU|accessdate=2017-12-17|language=ロシア語}}</ref>{{Refnest|group="†"|NFBが実際に制作・公開したのはキムのドキュメンタリー映画だけだった。NFBがキムをドキュメンタリー映画の対象に選んだ理由について、[[ニューヨーク]]を拠点とするジャーナリストのドヴォラ・マイヤーズ<ref>{{Cite web|url=http://www.simonandschuster.com/authors/Dvora-Meyers/483039966|title=Dvora Meyers - Official Publisher Page|publisher=Simon & Schuster|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref>はカザフスタンに住むキムの友人の証言などに基づき、まだ世界が[[冷戦|東西冷戦]]下にあった当時、NFBは[[西側諸国|西側]]のメディアとして、五輪に参加しているソビエトの選手たちに興味を示しており、なかでもエスニックなキムに彼らはとりわけ大きな関心を抱いたことが決め手となったと述べている<ref name="spl"/>。}}。
当時、カナダ国立映画制作庁(National Film Board of Canada)がモントリオール五輪でのキムの姿を丹念にカメラで追い、彼女に関するドキュメンタリー映画「Nelli Kim」を制作した<ref name="Film">[http://www.nfb.ca/collection/films/fiche/?id=12862 ''Nelli Kim - NFB - Collection''] - at the National Film Board of Canada 2008年10月6日閲覧。</ref><ref>{{Imdb title|title=Nelli Kim (1978)|id=0256225}}</ref>。この作品は1978年にカナダで一般公開されている。


モントリオール五輪の結果、キムは数多くの称賛を受け、国からも表彰を受けたが、やがて困難な時期を過ごすことになった<ref name="BYNOC"/><ref name="pe1">{{Cite web|author=Nellie Kim|url=http://www.offsport.ru/gymnastics/nellie-kim/pesnja.shtml|title=Песня спорта не кончается - Нелли Ким - Спортивная гимнастика|publisher=OFFSPORT.RU|accessdate=2017-12-17|language=ロシア語}}</ref>。この時期に彼女は体操競技選手としてできることは全てやり尽くしたため、今後は別の人生を歩もうと考えてコーチに[[引退|現役引退]]を申し出ている<ref name="pe1"/>。それまで目指してきた五輪が終わって目標を失い、どのように生きるべきかがわからなくなっていたのである<ref name="pe3"/><ref name="sh9"/>。コーチは驚いて引き留めたが、彼女はシムケントを離れ[[タタール自治ソビエト社会主義共和国]](現ロシア連邦[[タタールスタン共和国]])[[カザン]]近郊の小さなタタールの村マジリヘ行った<ref name="pe1"/>。そこは母の故郷で、キムが幼少の頃によく行っていた思い出の場所である<ref name="ne5"/>。マジリの親戚の家で、しばらく自然と触れ合う生活を送った。そうする中で現役続行の意欲を取り戻した彼女はトレーニングを再開させて[[1977年]]5月の欧州選手権[[プラハ]]大会に出場したが<ref name="pe2">{{Cite web|author=Nellie Kim|url=http://www.offsport.ru/gymnastics/nellie-kim/pesnja-2.shtml|title=Песня спорта не кончается 2 - Нелли Ким - Спортивная гимнастика|publisher=OFFSPORT.RU|accessdate=2017-12-17|language=ロシア語}}</ref>、その直後に身体に異変を感じ病に倒れた<ref name="BYNOC"/><ref name="pe3">{{Cite web|author=Nellie Kim|url=http://www.offsport.ru/gymnastics/nellie-kim/pesnja-3.shtml|title=Песня спорта не кончается 3 - Нелли Ким - Спортивная гимнастика|publisher=OFFSPORT.RU|accessdate=2017-12-17|language=ロシア語}}</ref>。病気は深刻なものだった。医師は、当分の間は激しい運動をしてはいけないと彼女に告げた<ref name="pe3"/>。病気で休養している間にキムは結婚し(詳細は『[[#結婚生活と家族|結婚生活と家族]]』のセクションを参照)、夫が住む[[白ロシア・ソビエト社会主義共和国]](現[[ベラルーシ共和国]])の[[ミンスク]]に移って<ref name="pro"/><ref name="pe3"/>、現地の[[ソ連地上軍|陸軍]]スポーツクラブに加入した{{Refnest|group="†"|ソビエト連邦時代、ソビエト陸軍(ソビエト地上軍)の各軍管区はそれぞれ独自のスポーツクラブを持っていた。キムが加入したのは、ソビエト陸軍白ロシア軍管区がミンスクで設立・運営していたスポーツクラブである。このスポーツクラブはソビエト連邦の崩壊後も存続している<ref name="ska">{{Cite web|url=http://www.ska-minsk.by/news_item/?ni=524|title=Спорткомитету - 70 лет! - Гандбольный клуб СКА-Минск|publisher=SKA-Minsk|accessdate=2017-12-17|language=ロシア語}}</ref>。}}。
モントリオール五輪の後、キムは[[白ロシア・ソビエト社会主義共和国]](現[[ベラルーシ共和国]])に移り、[[ミンスク]]の軍スポーツ協会に加入した。2年後の世界選手権[[ストラスブール]]大会でも、キムは好成績を残す。この大会で彼女は跳馬、ゆか、団体総合で金メダルを取り、個人総合でも[[エレナ・ムヒナ]](ソビエト)に次いで銀メダルを獲得した。彼女が最もよい成績を挙げたのは1979年の世界選手権[[フォートワース]]大会においてであった。この大会でキムは、マキシ・グナウク([[ドイツ民主共和国|東ドイツ]])、メリタ・リューン(ルーマニア)、マリア・フィラトワ(ソビエト)といった強豪に打ち勝ち、個人総合で優勝した<ref>Dan Hulbert, ''Miss Kim Captures Laurels'', New York Times, December 9, 1979, p. S4 2008年10月6日閲覧。</ref>。ガリナ・サヴァリナが振付を行ったゆかの演技では新しい楽曲が使用された。[[サンタ・エスメラルダ]]の「[[朝日のあたる家]]」である。この曲は翌年のモスクワ五輪でも使われた<ref name="book" />。


ミンスクでは夫のコーチであるニコライ・パヴロヴィッチ・ミリグロの指導の下で競技生活を続けることとしていたが<ref name="BYNOC"/>、依然としてトレーニングができない状態は続いた。[[1960年]][[1960年ローマオリンピック|ローマ五輪]]の銀メダリストであるミリグロ<ref>{{Cite sports-reference|name=ニコライ・ミリグロ|url=https://www.sports-reference.com/olympics/athletes/mi/nikolay-miligulo-1.html|accessdate=2017-12-17}}</ref>はキムに助言を送るとともに、彼女はまだ衰えとはほど遠く競技生活を続ける能力を十分に持っていると確信していた<ref name="pe3"/><ref name="kz">{{Cite web|author=Александр Шатов|date=2010-01-17|url=https://www.sports.kz/news/pyatikratnaya|title=Пятикратная - Олимпиада|publisher=SPORTS.KZ|accessdate=2017-12-17|language=ロシア語}}</ref>。約半年間のブランクを経て病気から回復したキムはミリグロの下でトレーニングを再開し競技生活に復帰したが<ref name="kz"/>、その直後に虫垂炎で入院するなどの不運が重なって本調子に戻るのは遅れ<ref>{{Cite web|author=Nellie Kim|url=http://www.offsport.ru/gymnastics/nellie-kim/pesnja-4.shtml|title=Песня спорта не кончается 4 - Нелли Ким - Спортивная гимнастика|publisher=OFFSPORT.RU|accessdate=2017-12-17|language=ロシア語}}</ref>、復帰初戦となった[[1978年]]8月のソビエト連邦カップでは個人総合16位に終わった<ref>{{Cite web|date=2011-05-08|url=http://www.gymn-forum.net/Results/URSCup/Women/1978.html|title=Gymn Forum: 1978 USSR Cup - Women's AA & EF|publisher=Gymn-Forum|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref>。しかし、当時のソビエトチームは長年チームを支えてきたツリシチェワとコルブトが引退して去り、[[エレナ・ムヒナ]]、[[ナタリア・シャポシュニコワ]]、マリア・フィラトワら若い選手が主体の困難な時期にあったため、経験を買われて10月に開催される世界選手権[[ストラスブール]]大会のソビエト代表に選ばれた<ref>{{Cite web|author=Nellie Kim|url=http://www.offsport.ru/gymnastics/nellie-kim/pesnja-6.shtml|title=Песня спорта не кончается 6 - Нелли Ким - Спортивная гимнастика|publisher=OFFSPORT.RU|accessdate=2017-12-17|language=ロシア語}}</ref>。
1980年のソビエト連邦選手権でもキムは個人総合で優勝し、彼女にとって最後の競技大会となったモスクワ五輪に出場した。大会では、ゆかでコマネチと同点優勝。団体総合でも金メダルを獲得した<ref>''Deprived of the all-around title'', Boston Globe, July 26, 1980, p. 1. 2008年10月6日閲覧。</ref>。彼女の体操演技は、非常に女性らしい優雅さと激しさ、強いカリスマ性をあわせ持ち、それによって人々に長く記憶されている<ref name="FIG">[http://www.fig-gymnastics.com/vsite/vnavsite/page/directory/0,10853,5187-188452-205674-nav-list,00.html ''Gymnast Profiles: Nellie Kim'' 2008年10月6日閲覧。] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20120707011254/http://www.fig-gymnastics.com/vsite/vnavsite/page/directory/0%2C10853%2C5187-188452-205674-nav-list%2C00.html |date=2012年7月7日 }} [http://fig.lx3.sportcentric.com/athletes?athlete%5Bfirst_name%5D=Nellie&athlete%5Blast_name%5D=KIM&athlete%5Bdiscipline_id%5D=3&athlete%5Bcountry_id%5D=25&display=&athlete%5Bdisc%5D=&commit=Search Ref.] Fédération Internationale de Gymnastique 2008年10月6日閲覧。</ref>。


こうして迎えたストラスブール大会はキムにとって約1年半ぶりの国際大会ではあったが、ブランクによる遅れを取り戻すかのような好演技を示した<ref name="BYNOC"/>。跳馬では伸身ツカハラ跳び1回ひねり、ゆかでは後方屈身2回宙返りをそれそれ世界で初めて成功させて{{Sfn|''2017-2020 CODE OF POINTS WAG - FIG''|p=204|loc=''PART V - APPENDICES - List of Elements performed for the first time by gymnasts at the FIG official competitions - Vault''}}{{Sfn|''2017-2020 CODE OF POINTS WAG - FIG''|p=209|loc=''PART V - APPENDICES - List of Elements performed for the first time by gymnasts at the FIG official competitions - Floor Exercise''}}{{Refnest|group="†"|体操競技では原則として、空中での姿勢が抱え込み、屈身、伸身の順に難度が高くなる。たとえば、跳馬の抱え込みツカハラ跳びは難度3.50 P、屈身は3.70 P、伸身は4.20 Pである{{Sfn|''2017-2020 CODE OF POINTS WAG - FIG''|p=66|loc=''PART IV Section 14 - TABLE OF ELEMENTS 14.1 - VT Table - Group 3-1''}}(『FIG女子体操競技採点規則2017年 - 2020年版』)。}}合計3つの金メダル(団体総合、跳馬、ゆか)を獲得<ref>{{Cite web|date=2005-09-25|url=http://www.gymn-forum.net/Results/Worlds/Women/1978_team_main.html|title=Gymn Forum: 1978 World Champs, Women's Team|publisher=Gymn-Forum|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref><ref>{{Cite web|date=1999-08-14|url=http://www.gymn-forum.net/Results/Worlds/Women/1978_teams_1-2.html|title=Gymn Forum: 1978 Worlds, Women's Team Results USSR|publisher=Gymn-Forum|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.gymn-forum.net/Results/Worlds/Women/1978_ef.html|title=Gymn Forum: 1978 World Champs, Women's EF|publisher=Gymn-Forum|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref>。個人総合でも銀メダルを獲得し、金メダルのムヒナ、銅メダルのシャポシュニコワとともにソビエトチームで個人総合の表彰台を独占した<ref>{{Cite news |title=Nadia Nowhere!|newspaper=The AGE (APP-Reuter)|date=1978-10-30|url=https://news.google.com/newspapers?id=oPNUAAAAIBAJ&sjid=XJIDAAAAIBAJ&pg=3061%2C7127410|accessdate=2017-12-17|page=25|language=en}}</ref><ref>{{Cite web|date=2004-01-31|url=http://www.gymn-forum.net/Results/Worlds/Women/1978_aa.html|title=Gymn Forum: 1978 World Champs, Women's AA|publisher=Gymn-Forum|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref>。翌[[1979年]]は医師から足首の故障がひどくなっているとの診断を受けたため、当初は大会に出ることを控えていたが、不安に陥ったキムは医師の診断にかかわらず出場することを決めた<ref name="gymn.ca"/>。そして、[[11月]]に彼女にとって最高の大会となる世界選手権[[フォートワース]]大会を迎える<ref name="gymn.ca"/>。
=== 現役引退後 ===
モスクワオリンピックを最後に現役から引退したキムは、自分自身の競技経験を伝えるべく、ベラルーシ、[[韓国]]、[[イタリア]]、[[南アフリカ]]の各ナショナルチームでコーチをつとめた。また、[[1983年]]に白ロシア体操審判委員会の委員長に就任。[[1984年]]に国際名誉審判になり、欧州選手権、世界選手権、オリンピック大会をはじめとして数多くの国際競技大会の審判を経験している。[[1996年]]には国際体操連盟(FIG)・女子体操技術委員会(WTC)の委員に選ばれ、[[2001年]]にWTCの第一副委員長に就任。そして、[[2004年]][[10月]]、[[トルコ]]の[[アンタルヤ]]で開催されたFIGの会議でキムはWTCの委員長に選出された<ref>[https://web.archive.org/web/20080110090410/http://www.intlgymnast.com/news/2004/oct.html ''Grandi, Stoica Re-Elected''] International GYMNAST Magazine Online, October 22, 2004. 2008年10月6日閲覧。</ref>。


フォートワース大会の個人総合は予選で39.250点のキムと39.175点の[[マキシ・グナウク]](東ドイツ)、39.150点のフィラトワ、39.125点のメリタ・リューン(ルーマニア)と4人が0.125点差以内に並ぶ僅差の接戦となったが、決勝ではキムが4種目全てで9.850点をマークする安定感を見せて39.400点を記録し、予選との合計で78.650点として78.375点のグナウクを0.275点差で上回り、初の金メダルを獲得した<ref name="ny79">{{Cite news |title=Miss Kim Captures Laurels|newspaper=ニューヨーク・タイムズ|date=1979-12-09|author=DAN HULBERT|url=http://www.nytimes.com/1979/12/09/archives/miss-kim-captures-laurels.html|accessdate=2017-12-17|page=4|language=en}}</ref><ref name="79aa">{{Cite web|date=2004-02-02|url=http://www.gymn-forum.net/Results/Worlds/Women/1979_aa.html|title=Gymn Forum: 1979 World Champs, Women's AA|publisher=Gymn-Forum|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref>。個人総合での勝利は、どの種目別での勝利よりも高い価値があると考えていた彼女にとって<ref name="cen"/>、この金メダルは現役生活中で最高のメダルとなった<ref name="cen"/>。この大会でのソビエトチームは前回の世界選手権で個人総合を制したムヒナを[[脚]]の[[骨折]]で欠くなどして戦力が低下しており<ref name="gymn.ca"/>、その結果、個人総合に先立って行われた団体総合で、ソビエトは世界選手権とオリンピックを通じて長年守り続けてきた王座をルーマニアに明け渡していた<ref group="†">ソビエト連邦が五輪大会に初参加した1952年からソビエト連邦崩壊の1991年までの間、女子体操競技・団体総合で金メダルを逃したのは五輪大会では1984年[[ロサンゼルス|ロサンゼルス大会]]の1回(ソビエトは大会自体をボイコットして参加していない)。世界選手権では銀メダルに終わった1966年[[ドルトムント|ドルトムント大会]]、1979年[[フォートワース|フォートワース大会]]、1987年[[ロッテルダム|ロッテルダム大会]]の3回である。1952年から1991年までの間に10回開催された五輪大会で9個の金メダル、14回開催された世界選手権で11個の金メダルを獲得している。</ref><ref>{{Cite web|date=2005-09-25|url=http://www.gymn-forum.net/Results/Worlds/Women/1979_team_main.html|title=Gymn Forum: 1979 World Champs, Women's Team Finals|publisher=Gymn-Forum|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref>。そのため、個人総合での金メダルは落胆していたチームを救うために戦って獲得したものだった<ref name="gymn.ca"/><ref>{{Cite web|author=Nellie Kim|url=http://www.offsport.ru/gymnastics/nellie-kim/moy-god-2.shtml|title=«Мой» год 2 - Нелли Ким - Спортивная гимнастика|publisher=OFFSPORT.RU|accessdate=2017-12-17|language=ロシア語}}</ref>。モスクワの[[振付師]]ガリーナ・ウラジーミロヴナ・サヴァリナが振付を行ったゆかの演技の音楽は[[サンタ・エスメラルダ]]の『[[朝日のあたる家]]』が用いられ、この曲はモスクワ五輪でも使用された<ref>{{Cite web|author=Nellie Kim|url=http://www.offsport.ru/gymnastics/nellie-kim/moy-god.shtml|title=«Мой» год - Нелли Ким - Спортивная гимнастика|publisher=OFFSPORT.RU|accessdate=2017-12-17|language=ロシア語}}</ref>。
委員長として彼女は[[2006年]]の採点法変更に尽力した。それは10点満点方式を終わらせ、上限のない採点を導くものだった。採点法変更の大きな原因となったのは2004年の[[アテネオリンピック (2004年) における体操競技|アテネ五輪]]で続発した審判の採点をめぐるトラブルだった<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/athe2004/news/20040824ie43.htm 体操、また採点トラブル…ブーイングで?鉄棒の点変更] ヨミウリ・オンライン 2004年8月24日付。2008年10月6日閲覧。</ref><ref>[http://www.yomiuri.co.jp/athe2004/news/20040829ie52.htm 体操の10点満点廃止案が再浮上、採点トラブル続発で] ヨミウリ・オンライン 2004年8月30日付。2008年10月6日閲覧。</ref>。キムやブルーノ・グランディ会長を含むFIGの役員たちは将来において同様のトラブルが発生することを防ぎ、競技のフェアな実施と芸術性を優先させるための有力な手段は旧採点法の急進的な変革だと考えたのである。この動きはファンやアスリートの間でも論争の的になった。キムや他のFIGの役員は、新採点法は旧採点法で多くの採点をしてきたFIGの委員や審判からの助力と助言で立案されたのだと指摘し、最終的な採用の前にメジャーな国際大会でこのシステムをテストすると強調した。


翌1980年6月にモスクワのルジニキ・スポーツパレスで開かれたソビエト連邦選手権において個人総合で金メダルを獲得した後<ref>{{Cite web|date=2004-08-21|url=http://www.gymn-forum.net/Results/URSNatl/Women/1980.html|title=Gymn Forum: 1980 USSR Championships - Women's AA|publisher=Gymn-Forum|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref>、キムは平均台の演技で着地の際に行う新しい技の仕上げに入った<ref name="mo7">{{Cite web|author=Nellie Kim|url=http://www.offsport.ru/gymnastics/nellie-kim/moy-god-7.shtml|title=«Мой» год 7 - Нелли Ким - Спортивная гимнастика|publisher=OFFSPORT.RU|accessdate=2017-12-17|language=ロシア語}}</ref>。この高難度な技を新たに開発するために彼女は約3年間の歳月を費やしている。しかし、その後、古い病気を再発させ、モスクワ五輪の開幕を目前に控える中でベッドで静養しなければならないことになった<ref name="mo7"/>。ベッドで不安な日々を過ごし、一時はモスクワ五輪への出場も断念したが、病気からは急速に回復し復帰後のトレーニングでも以前と変わらない姿を見せた。こうした困難な状況を経ることで、それまで幾多の辛酸を経験してきたキムの闘志はかえって高まった<ref name="mo7"/>。
最終的に新採点法は、大きな大会としては2006年の世界選手権[[オーフス]]大会から正式に導入された。

そして、1980年7月、キムにとって現役最後の競技大会となるモスクワ五輪が開催された。エレーナ・ダヴィドワ、シャポシュニコワ、フィラトワらからなる若いソビエトチームを率い、団体総合決勝では394.900点をマークして393.150点のルーマニアを1.750点差で上回り金メダルを獲得した<ref>{{Cite web|date=2004-12-05|url=http://www.gymn-forum.net/Results/Olympics/1980_Moscow/1980_women_team_main.html|title=Gymn Forum: 1980 Olympic Games, Women's Team|publisher=Gymn-Forum|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref><ref>{{Cite web|date=1999-06-26|url=http://www.gymn-forum.net/Results/Olympics/1980_Moscow/1980_women_team_1-4.html|title=Gymn Forum: 1980 Olympic Games, Women's Team Results USSR|publisher=Gymn-Forum|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref>。ソビエトは前年の世界選手権で失った団体総合の王座を取り戻すとともに、この種目で[[1952年]][[1952年ヘルシンキオリンピック|ヘルシンキ五輪]]から8大会連続の五輪金メダル獲得を決めた。また、キムは団体総合決勝の平均台の演技で「側方宙返りからの後方抱え込み宙返り」という難度の高い終末技<ref group="†">体操競技で演技の最後に行う技を終末技と呼ぶ。ゆか以外の種目では体操器具から離れ、着地するときに行われる。</ref>を世界で初めて成功させた{{Sfn|''2017-2020 CODE OF POINTS WAG - FIG''|p=208|loc=''PART V - APPENDICES - List of Elements performed for the first time by gymnasts at the FIG official competitions - Balance Beam''}}。この技はFIGにより「キム」と命名され、『FIG女子体操競技採点規則2017年 - 2020年版』でもE難度に指定されている{{Sfn|''2017-2020 CODE OF POINTS WAG - FIG''|p=143|loc=''PART IV Section 14 - TABLE OF ELEMENTS 14.3 - BB Table - Group 6-1''}}。種目別のゆかでは予選で9.925点のスコアを出してコマネチと並び、大会最後の女子体操競技の金メダルをかけて臨んだ決勝では両者とも9.950点をマークして合計19.875点でコマネチとの同点優勝になった<ref>{{Cite web|date=2004-02-06|url=http://www.gymn-forum.net/Results/Olympics/1980_Moscow/1980_women_ef.html|title=Gymn Forum: 1980 Olympic Games, Women's EF|publisher=Gymn-Forum|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref>。ゆかの[[オリンピックの式典#表彰式|表彰式]]では長年の[[ライバル]]だったコマネチとともに表彰台の頂点に立ち、そこでキムはコマネチに「もう、終わるのね?」と語りかけた。コマネチはキムに「ええ、終わりね」と答えた{{Refnest|group="†"|一方、キムは自伝の中で、モスクワ五輪の個人総合決勝の試合中にいつものコマネチらしくない演技を目撃したので、種目別ゆかの表彰式の際にコマネチに対して「もう、ジムから離れていくの?(すなわち、''もう、引退してしまうの?'')」と問いかけたところ、コマネチはかすかに微笑みながら「ええ」と答えたと語っている<ref>{{Cite web|author=Nellie Kim|url=http://www.offsport.ru/gymnastics/nellie-kim/moy-god-10.shtml|title=«Мой» год 10 - Нелли Ким - Спортивная гимнастика|publisher=OFFSPORT.RU|accessdate=2017-12-17|language=ロシア語}}</ref>。}}<ref name="gymn.ca"/><ref name="spl"/>。モスクワ五輪で金メダル2つを獲得した彼女は、この大会を最後に現役を引退した<ref name="kim"/>。キムが体操演技で示す表現は、非常に女性らしい優美さと激しさ、そして強い[[カリスマ|カリスマ性]]を合わせ持ち、それによって彼女は人々に長く記憶されているとFIGは評している<ref name="FIG"/>。

=== 競技生活引退後 ===
競技生活から引退した後はコーチ、審判員として活動している<ref name="kim"/>。自分自身の競技経験を伝えるべく、[[1983年]]から白ロシアの国家代表コーチおよび体操競技審判委員会委員長を務め、[[大韓民国|韓国]]、[[イタリア]]、米国でもコーチを務めた<ref name="off">{{Cite web|url=http://nelliekim.net/Consulting.html|title=Put the expertise of an Olympic Champion to work for your team.|publisher=ネリー・キム 公式ウェブサイト|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref>。また、欧州選手権、世界選手権、オリンピック大会をはじめとする数多くの国際競技大会で審判員を経験し、1976年以降の全ての夏季オリンピック大会に何らかの形で貢献している<ref name="kim"/>。[[1996年]]にはFIG女子体操競技技術委員会({{lang-en-short|Women’s Artistic Gymnastics Technical Committee}}、略称:WTC)の委員に選ばれ、[[2000年]]にWTCの副委員長に就任した<ref name="kim"/><ref name="off"/>。その後、[[2004年]][[10月22日]]に[[トルコ]]の[[アンタルヤ]]で開催されたFIG第75回総会でWTCの委員長に選出された<ref>{{Cite web|date=2004-10-22|url=http://www.gymmedia.com/artistic-gymnastics/FIG-Congress-President-Grandi-confirmed-Office|title=FIG Congress: President Grandi confirmed in Office|publisher=GYMmedia.com|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref><ref>{{Cite web|date=2004-10-22|url=http://www.gymmedia.com/ag/news/FIGelection04-AGw.pdf|title=ELECTION of Women's ARTISTIC GYMNASTICS TC MEMBERS|format=PDF|publisher=GYMmedia.com|accessdate=2017-12-17|language=英語|archiveurl=http://web.archive.org/web/20060216031322/http://www.gymmedia.com/ag/news/FIGelection04-AGw.pdf|archivedate=2006-02-16}}</ref>。

WTCの委員長としてキムは[[2006年]]の[[体操競技#採点方法|採点法]]変更に尽力した。それは体操競技において10点満点方式を終わらせ、上限のない採点を導くものだった<ref name="spl">{{Cite web|author=Dvora Meyers|date=2016-08-10|url=https://splinternews.com/the-other-perfect-10-the-half-korean-soviet-gymnast-yo-1793861081|title=The other Perfect 10: The half-Korean Soviet gymnast you’ve never heard of|publisher=Splinter|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref>。[[1990年代]]から細かな採点法の変更は行われてきたが、2006年の急進的な採点法変更の大きな誘因となったのは2004年の[[2004年アテネオリンピックの体操競技|アテネ五輪]]で続発した審判員の採点をめぐる一連のトラブルだった<ref>{{Cite news |title=体操、また採点トラブル…ブーイングで?鉄棒の点変更|newspaper=ヨミウリ・オンライン|publisher=[[読売新聞|読売新聞社]]|date=2004-08-24|url=http://www.yomiuri.co.jp/athe2004/news/20040824ie43.htm|accessdate=2017-12-17|archiveurl=https://archive.fo/Y1ewY|archivedate=2013-08-28}}</ref><ref>{{Cite news|title=体操の10点満点廃止案が再浮上、採点トラブル続発で|newspaper=ヨミウリ・オンライン|publisher=読売新聞社|date=2004-08-30|url=http://www.yomiuri.co.jp/athe2004/news/20040829ie52.htm|accessdate=2017-12-17|archiveurl=https://archive.fo/bPTJE|archivedate=2013-08-28}}</ref>。これらのトラブルには[[ポール・ハム]](米国)、[[アレクセイ・ネモフ]](ロシア)をはじめとする複数の選手らが巻き込まれている<ref>{{Cite news |title=SUMMER 2004 GAMES -- GYMNASTICS: EVENT FINALS; Hamm Ruling Stands, but Ire At Judges Rises|newspaper=ニューヨーク・タイムズ|date=2004-08-24|author=JULIET MACUR|url=http://www.nytimes.com/2004/08/24/sports/summer-2004-games-gymnastics-event-finals-hamm-ruling-stands-but-ire-judges.html|accessdate=2017-12-17|language=en}}</ref><ref>{{Cite web|date=2004-08-25|url=http://www.espn.com/olympics/summer04/gymnastics/news/story?id=1865921|title=Furious crowd protests Nemov's low score|publisher=[[ESPN]]([[AP通信]])|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref>。キムやブルーノ・グランディ会長などのFIGの役員たちは将来において同様のトラブルが発生することを防止して体操競技の採点への信頼性を確保するとともに、審判員などによる人的なミスを排して各選手の演技・技術をより公正かつ正確に判定するためには、従来の採点法を抜本的に見直す急進的な変革が必要だと考えたのである<ref name="usa">{{Cite news |title=USATODAY.com - Scoring changes in gymnastics studied|newspaper=[[USAトゥデイ|USA TODAY]](AP通信)|date=2005-04-27|url=https://usatoday30.usatoday.com/sports/olympics/summer/2005-04-27-gymnastics-scoring-changes_x.htm|accessdate=2017-12-17|language=en}}</ref>。この動きはファンやアスリートの間でも論争の的になった<ref name="usa"/>。FIGの役員らは、新採点法は旧採点法で多くの採点をしてきたFIGの委員や審判員からの助力と助言で立案されたのだと指摘し、最終的な採用の前にメジャーな国際大会でこのシステムをテストすると強調した。最終的に新採点法は、大きな大会としては2006年の世界選手権[[オーフス]]大会から正式に導入された<ref>{{Cite web|author=藤山健二|date=2006-11-09|url=http://number.bunshun.jp/articles/-/10885|title=冨田洋之が体感した新採点方式の難しさ。|publisher=[[Sports Graphic Number|Number Web]] [[文藝春秋]]|accessdate=2017-12-17}}</ref>。

初選出の2004年10月以来、3期12年間にわたってWTCの委員長を務めた後<ref name="kim"/><ref name="spor">{{Cite web|author=Михаил ДУБИЦКИЙ|date=2012-11-15|url=http://sportpanorama.by/content/gymnastics/16778/|title=Нелли Ким: тройное сальто на вольных|publisher=SP-Online ベラルーシスポーツ観光省|accessdate=2017-12-17|language=ロシア語|archiveurl=http://web.archive.org/web/20170330184438/http://sportpanorama.by/content/gymnastics/16778/|archivedate=2017-03-30}}</ref>、2016年[[10月19日]]に[[東京]]の[[ヒルトン東京お台場]]で開催されたFIG第81回総会において、キムは国際体操連盟の副会長に選出された<ref name="fi2">{{Cite web|date=2016-10-19|url=http://www.fig-gymnastics.com/site/figNews/view?id=1681|title=The FIG enters a new cycle with Morinari Watanabe as President|publisher=国際体操連盟|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref><ref name="fi">{{Cite web|date=2016-10-24|url=http://www.fig-gymnastics.com/site/figNews/view?id=1684|title=2016 FIG Congress Official News|publisher=国際体操連盟|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref>。

=== 結婚生活と家族 ===
最初の結婚相手は同僚の体操競技選手ウラジーミル・アカソフだった<ref name="sr"/><ref>{{Cite web|date=2009-08-10|url=http://www.gymn-forum.net/bios/men/achasov.html|title=Gymn Forum: Vladimir Achasov biography|publisher=Gymn-Forum|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref>。1976年夏にキムがアカソフの[[誕生日]]パーティに招待されたことで2人は知り合い<ref name="cso"/>、翌1977年に結婚<ref name="pol"/>。キムはシムケントを離れ、夫が住むミンスクに移ったが、この結婚は長くは続かなかった<ref name="cso"/>。2人目の夫はソビエトの[[自転車競技]]選手ヴァレリー・イワーノヴィッチ・モヴチャンである<ref name="spor"/>。モヴチャンはキムと同じレニナバード州の出身で<ref name="cyc">{{Cite web|url=http://www.cyclingarchives.com/coureurfiche.php?coureurid=28183|title=Valeriy Movchan|publisher= Cycling Archives|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref>1980年モスクワ五輪自転車競技男子[[チームパシュート|団体追い抜き]]で金メダルを獲得し<ref>{{Cite sports-reference|name=ヴァレリー・モヴチャン|url=https://www.sports-reference.com/olympics/athletes/mo/valeriy-movchan-1.html|accessdate=2017-12-17}}</ref>、1982年[[世界選手権自転車競技大会|世界自転車競技選手権大会]]でも同種目で金メダルを獲得している<ref name="cyc"/>。2人はモスクワ五輪で出会って結婚し、[[1980年代]]半ばには娘が誕生。その娘はキムの名前にちなんで「ネリー」と名付けられた<ref name="gymn.ca"/>。

しかし、その後モヴチャンとも離婚して娘とともに米国[[ミネソタ州]]の[[ミネアポリス]]へ居を移した<ref name="pol"/>。[[2017年]]8月にベラルーシの[[ニュースサイト]]「ミンスク・クーリエ」とのインタビューで、キム自身は引き続きミネアポリスに居住しており、娘は[[医科大学]]の学生で夫と子供とともに米国の[[シカゴ]]に住んでいると語っている<ref name="mk">{{Cite web|author=Владимир Писарев|date=2017-08-18|url=http://mk.by/2017/08/18/167806/|title=Нелли Ким: многоборье без помарок - Газета «Минский курьер»|publisher=ミンスク・クーリエ|accessdate=2017-12-17|language=ロシア語}}</ref>。

=== 学業 ===
1978年に[[アルマトイ]]のカザフ体育研究所体育学部を卒業し、[[1985年]]に白ロシアのミンスク社会科学院を修了<ref name="off"/>。[[2012年]]にサンクトペテルブルクのレスガフト記念体育大学にて教育[[博士|博士号]]を取得している<ref name="off"/>。博士論文は『体操競技における優秀な審判員の養成』である<ref name="off"/><ref name="pri">{{Cite web|author=Ким, Нелли Владимировна|date=2011|url=http://primo.nlr.ru/primo_library/libweb/action/display.do?doc=07NLR_LMS001929311|title=Подготовка высококвалифицированных судей по спортивной гимнастике|publisher=Нац. гос. ун-т физ. культуры, спорта и здоровья им. П. Ф. Лесгафта, Санкт-Петербург, [[ロシア国立図書館 (サンクトペテルブルク)|ロシア国立図書館]] サンクトペテルブルク|accessdate=2017-12-17|language=ロシア語}}</ref>。この論文は[[オープンアクセス]]にされており、サンクトペテルブルクの[[ロシア国立図書館 (サンクトペテルブルク)|ロシア国立図書館]]は一定のコピー制限を施して、[[インターネット]]上でこれを公開している<ref name="viv">{{Cite web|author=ネリー・ウラジーミロヴナ・キム|date=2011|url=https://vivaldi.nlr.ru/bd000317737/details/|title=体操競技における優秀な審判員の養成|publisher=レスガフト記念体育大学 電子図書館ヴィヴァルディ(ロシア国立図書館) サンクトペテルブルク|accessdate=2017-12-17|language=ロシア語}}</ref>。

=== ニックネーム ===
ソビエトのチームメイトやコーチの間でのニックネームは「キマネリー」だった<ref name="sh14">{{Cite web|author=Nellie Kim|url=http://www.offsport.ru/gymnastics/nellie-kim/shipy-i-rozy-14.shtml|title=Шипы и розы 14 - Нелли Ким - Спортивная гимнастика|publisher=OFFSPORT.RU|accessdate=2017-12-17|language=ロシア語}}</ref>。ある日、ツリシチェワのコーチであるウラジスラフ・スティパーノヴィッチ・ラストロツキーがキムを慌てて呼んだとき、うっかり大声で「キマネリー、電話だ!」と言ってしまった<ref name="pros">{{Cite web|date=2013-02-11|url=https://prosports.kz/news/21186|title=Нелли Ким: «С Нелли Фуртадо пока не встретилась»|publisher=PROSPORTS.KZ|accessdate=2017-12-17|language=ロシア語}}</ref>。ラストロツキーは一瞬、彼女の姓(キム)と名前(ネリー)を混同したのである<ref name="pro"/>。それ以来、キムは「キマネリー」というニックネームで呼ばれるようになった。

[[2014年]]7月にカザフスタンの[[テレビジョン放送局|テレビ局]]「KAZsport」がこのニックネームをタイトルに使用し、キムに関するドキュメンタリー番組『私たちのキマネリー』を制作・放送した<ref>{{Cite web|date=2014-07-03|url=https://www.sports.kz/news/nasha-kimanelli-dokumentalnyiy-film|title=«Наша Киманелли» - документальный фильм - Гимнастика|publisher=SPORTS.KZ|accessdate=2017-12-17|language=ロシア語}}</ref>。初放送の際には彼女自身もカザフスタンを訪問している<ref>{{Cite web|author=Ануар Абдрахманов|date=2014-07-01|url=https://www.sports.kz/news/nelli-kim-ochen-jal-chto-myi-poteryali-traditsii-jenskoy-gimnastiki-v-kazahstane|title=Нелли Ким: «Очень жаль, что мы потеряли традиции женской гимнастики в Казахстане» - Гимнастика|publisher=SPORTS.KZ|accessdate=2017-12-17|language=ロシア語}}</ref>。

== キムに由来する体操競技の技名の一覧 ==
キムが国際体操連盟公認の大会で最初に成功させた技は7つ存在する。キムに由来する体操競技の技名は、次の通りである{{Sfn|''2017-2020 CODE OF POINTS WAG - FIG''|pp=204-209|loc=PART V - APPENDICES - List of Elements performed for the first time by gymnasts at the FIG official competitions}}<ref group="†" name="new"/>。
{| class="wikitable"
|-
! 種目 !! 技名 !! 内容 !! 難度 !! 採点規則に掲載された大会
|-
| 跳馬 || キム || 前転跳び1回半ひねり || 3.60 P{{Sfn|''2017-2020 CODE OF POINTS WAG - FIG''|p=60|loc=''PART IV Section 14 - TABLE OF ELEMENTS 14.1 - VT Table - Group 1-1''}} || 1974年ヴァルナ世界選手権
|-
| 跳馬 || キム || 抱え込みツカハラ跳び1回ひねり || 4.10 P{{Sfn|''2017-2020 CODE OF POINTS WAG - FIG''|p=66|loc=''PART IV Section 14 - TABLE OF ELEMENTS 14.1 - VT Table - Group 3-1''}} || 1976年モントリオール五輪
|-
| 跳馬 || キム || 伸身ツカハラ跳び1回ひねり || 4.80 P{{Sfn|''2017-2020 CODE OF POINTS WAG - FIG''|p=66|loc=''PART IV Section 14 - TABLE OF ELEMENTS 14.1 - VT Table - Group 3-1''}} || 1978年ストラスブール世界選手権
|-
| 平均台 || キム || 平均台の端での片足踏み切り抱え込み宙返り1回ひねり || C{{Sfn|''2017-2020 CODE OF POINTS WAG - FIG''|p=146|loc=''PART IV Section 14 - TABLE OF ELEMENTS 14.3 - BB Table - Group 6-4''}} || 1976年モントリオール五輪
|-
| 平均台 || キム || 側方宙返りからの後方抱え込み宙返り || E{{Sfn|''2017-2020 CODE OF POINTS WAG - FIG''|p=143|loc=''PART IV Section 14 - TABLE OF ELEMENTS 14.3 - BB Table - Group 6-1''}} || 1980年モスクワ五輪
|-
| ゆか || キム || 後方抱え込み2回宙返り || D{{Sfn|''2017-2020 CODE OF POINTS WAG - FIG''|p=167|loc=''PART IV Section 14 - TABLE OF ELEMENTS 14.4 - FX Table - Group 5-1''}} || 1976年モントリオール五輪
|-
| ゆか || キム || 後方屈身2回宙返り || D{{Sfn|''2017-2020 CODE OF POINTS WAG - FIG''|p=167|loc=''PART IV Section 14 - TABLE OF ELEMENTS 14.4 - FX Table - Group 5-1''}} || 1978年ストラスブール世界選手権
|}

技の難度は、『FIG女子体操競技採点規則2017年 - 2020年版』に規定されているものに基づく。

== オリンピック大会以外での成績 ==
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|}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Nellie Kim|ネリー・キム}}
*[[ネリー・ファータド|ネリー・キム・ファータド]] - カナダの女性歌手。彼女の名前は、ネリー・ウラジーミロヴナ・キムに由来する<ref>[http://www.yuddy.com/celebrity/nelly-furtado/bio ''Nelly Furtado Biography''] Yuddy.com 2008年10月7日閲覧。</ref>。
*[[体操競技の技名一覧]]
*[[オリンピックの体操競技・女子メダリスト一覧]]
*[[オリンピックで多数の金メダルを獲得した選手一覧]]
*[[ネリー・ファータド|ネリー・キム・フルタード]] - [[ポルトガル]]系カナダ人の女性[[歌手]]{{Refnest|group="†"|彼女は2006年11月の[[イギリス|英国]]『メトロ』紙とのインタビューにおいて、1976年モントリオール五輪で金メダルを獲得した「ネリー・キム」の名前はクールだと思った彼女の母が1978年に生まれた彼女に「ネリー・キム」にちなんだ名前をつけたと語った<ref>{{Cite web|date=2006-11-26|url=http://metro.co.uk/2006/11/26/60-seconds-nelly-furtado-391565/|title=60 Seconds: Nelly Furtado|publisher=METRO|accessdate=2017-12-17|language=英語}}</ref>。ネリー・キム本人もこの事実を知っており、いつかネリー・キム・フルタードに会ってみたいと2017年8月の「ミンスク・クーリエ」とのインタビューで述べている<ref name="mk"/>。}}。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="†"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|colwidth=30em}}

== 参考文献 ==
*{{Cite web |title=''1975 MONTREAL PRE-OLYMPICS''|journal = Gymnast Magazine 1975年9月号| publisher=『Gymnast Magazine』1975年9月号 米国体操連盟 | language =英語 | url=https://issuu.com/usagymnastics/docs/1975_9sept/ | accessdate=2017-12-17 |ref={{SfnRef|''1975 MONTREAL PRE-OLYMPICS''}}}}.
*{{Cite web |title=''MONTREAL XXI OLYMPICS''|journal = USGF NEWS 1976年8月号| publisher=『USGF NEWS』1976年8月号 米国体操連盟 | language =英語 | url=https://issuu.com/usagymnastics/docs/1976_4aug/ | accessdate=2017-12-17 |ref={{SfnRef|''MONTREAL XXI OLYMPICS''}}}}.
*{{Cite web |title=''2017-2020 CODE OF POINTS WAG - FIG'' | publisher=FIG(国際体操連盟) | language =英語 | format=PDF | url=http://www.fig-gymnastics.com/publicdir/rules/files/en_WAG%20CoP%202017-2020.pdf | accessdate=2017-12-17 |ref={{SfnRef|''2017-2020 CODE OF POINTS WAG - FIG''}}}}.


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
*[http://www.nelliekim.com/ オフィシャルサイト]
*[http://nelliekim.net/ The Official Website of Nellie Kim] - ネリー・キム公式ウェブサイト{{en icon}}
*[http://www.noc.by/chempiony-olimpijskih/kim KIM, Nellie Vladimirovna (sports gymnastics)] - ベラルーシオリンピック委員会{{ru icon}}
*[http://www.gymn-forum.net/Articles/Misc-Kim.html ''Nelly Kim: A New Gymnastics Star'']
*[https://www.nfb.ca/film/nelli_kim_en/ Nelli Kim by Pierre Bernier, Georges Dufaux] - カナダ国立映画制作庁{{en icon}}
*[http://www.gymnast.ru/persons/k.html ''A short biography at Gymnast.ru'']{{ru icon}}
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* {{Fig|674}}
* {{SportsReference|ki/nelli-kim-1}}

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2017年12月22日 (金) 04:58時点における版

ネリー・キム
1980年7月25日、「モスクワ五輪体操競技種目別決勝女子ゆか」で演技するネリー・キム。
選手情報
フルネーム ロシア語: Нелли Владимировна Ким
英語: Nellie Vladimirovna Kim
愛称 キマネリー
国籍  ベラルーシ[1]
旧国籍 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
生年月日 (1957-07-29) 1957年7月29日(67歳)
生誕地 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦 シュラブ
故郷 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦 シムケント
居住地 米国 ミネアポリス
身長 152 cm
体重 47 kg[2]
種目 体操競技
得意種目 ゆか、跳馬[3]
代表 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
所属 スパルタク・シムケント
VS ミンスク
学歴 カザフ体育研究所体育学部卒業
ミンスク社会科学院修了
レスガフト記念体育大学(教育博士号取得)
コーチ ウラジーミル・バイディン
ニコライ・ミリグロ
補助 ガリーナ・バルコワ
振付師 ヴァレンティーナ・コソラポワ
ガリーナ・サヴァリナ
使用曲 『サンバ』
朝日のあたる家
技名 キム(跳馬)
キム(平均台
キム(ゆか)
引退 1980年モスクワ五輪
獲得メダル
オリンピック
1976 モントリオール 団体総合
1976 モントリオール 跳馬
1976 モントリオール ゆか
1980 モスクワ 団体総合
1980 モスクワ ゆか
1976 モントリオール 個人総合
世界体操競技選手権
1974 ヴァルナ 団体総合
1978 ストラスブール 団体総合
1978 ストラスブール 跳馬
1978 ストラスブール ゆか
1979 フォートワース 個人総合
1978 ストラスブール 個人総合
1979 フォートワース 団体総合
1979 フォートワース 平均台
1979 フォートワース ゆか
1974 ヴァルナ 平均台
1979 フォートワース 跳馬
ヨーロッパ体操競技選手権
1975 シーエン ゆか
1977 プラハ 跳馬
1975 シーエン 個人総合
1975 シーエン 平均台
1977 プラハ 平均台
1975 シーエン 跳馬
1975 シーエン 段違い平行棒
1977 プラハ 個人総合
1977 プラハ ゆか
テンプレートを表示

ネリー・ウラジーミロヴナ・キム: Nellie Vladimirovna Kim : Нелли Владимировна Ким ロシア語発音: [nʲɪlʲɪ vlədʲɪmʲɪrəvnə kʲim] ( 音声ファイル), 1957年7月29日 - )は、ソビエト連邦(現ロシア連邦)の元女子体操競技選手。1976年モントリオール五輪で3つの金メダルと1つの銀メダルを獲得し、1980年モスクワ五輪でも2つの金メダルを獲得した[4]五輪大会跳馬ゆかで史上初めて10点満点の採点を受けた選手である[4]

競技生活引退後はコーチ審判員のほか国際体操連盟の委員として活動しており、2016年10月に国際体操連盟の副会長に選出された[5]1999年6月に国際体操殿堂入りしている[6][7]

経歴

生い立ち

シムケントの位置(カザフスタン内)
シムケント
シムケント
カザフ

1957年7月29日、ネリー・キムはソビエト連邦タジク・ソビエト社会主義共和国レニナバード州(現タジキスタン共和国ソグド州)の街シュラブで、朝鮮系ソビエト人の父ウラジーミル・ニコラエヴィッチ・キムとタタール人の母アルフィア・ガジゾーヴナ・サフィナの長女として生まれた[8][9]。彼女が生まれた後すぐに父がカザフ・ソビエト社会主義共和国(現カザフスタン共和国シムケントにあるスレート工場に転職したため、一家はシムケントに移った[8][10]

キムは9歳、小学校3年生のときにスパルタクスポーツ協会[11][† 1]のシムケント第3青少年スポーツ学校へ入学した[14][15]。彼女のコーチになったのはウラジーミル・ボイソヴィッチ・バイディンとその妻のガリーナ・ワシリーエヴナ・バルコワである[10][16]。2人は当時、シムケント市内の各小学校を熱心に訪問して、小学校の児童たちをスポーツ学校に勧誘していた[17]

スポーツ学校に入学したのは偶然からのことだった。ある日、通学する小学校で算数の授業を受けていたとき、突然、見知らぬ男性が教室に入ってきて教壇に登った。それがバイディンだった。青少年スポーツ学校で体操競技のコーチをしていると自己紹介した上で彼は、「この中に体操をしてみたい女の子はいますか?」と質問した[15]。それに対してキムも含めたクラスの女子児童のほぼ全員が手を挙げたので、バイディンはさっそく志望者を廊下に集めて「入学試験」を始めた。彼はあらかじめ小学校の教師に連絡をとり、授業中に児童の勧誘をすることの了解を教師から得ていたのである[15]

バイディンは廊下に集まった各志望者にジャンプや姿勢などのテストを行った後、「ブリッジ」の姿勢をとるよう求めた。しかし、キムはうまくブリッジの姿勢をとることができなかった[15]。彼が顔を曇らせるのを見た彼女は不合格だと思って落胆したが、「入学試験」を終えたバイディンはキムに対して翌日の放課後に体操服を持ってスポーツ学校へ来るようにと伝えた[15]。それが彼からの「合格通知」であり、こうして彼女は体操競技選手としての第一歩を踏み出した。キムはその日が1966年9月15日だったことを記憶している[18]

スポーツ学校に入学した当初は仲間の多くと比べて選手として重要な身体の柔軟性が充分ではなかった[15][17]。ブリッジの姿勢をとることができなかったのもそのためだったが、熱心にトレーニングに取り組むことでこれを克服していった[17]。バルコワは後年、「キムに初めて会ったときは、じっとしていることさえ我慢できないほどの『おてんば』だというのが第一印象だったが、負けず嫌いで常に最高であることを目指しており、人一倍厳しいトレーニングを積む子だった」と語っている[10][17]

キムは幼少の頃から近所の子供たちとともに外で遊ぶことをいちばんの楽しみとしており[18]、さまざまなスポーツをすることも好きで、中でも水泳アイススケート[19]フットボールを好む[14]快活で活発な少女に育った。そのため、当初はスポーツ学校でレクリエーションとして体操を楽しむつもりだったが、学校でのトレーニングの内容は時間が経つにつれて厳しいものとなり、仲間との競争も次第に激しくなっていったことからオーバーワークの状態に陥り、学校を辞めたいと思うこともしばしばだった[20]。しかし、その頃には体操競技なしでの自分を考えられなくなっていたため、そのたびに思いとどまった[20]

苦労することも多かったものの彼女の成長は順調であり、スポーツ学校に入学した1年後にはマットの上での宙返りを習得し[21]、2年後には段違い平行棒でも宙返りをすることができるようになっていた[14]

競技生活

1968年から競技大会への出場を始め[3]、2年目の1969年にシムケントで開かれたスパルタク共和国選手権大会で初めて金メダルを獲得した[22]。しかし、その1年後に彼女は五輪で9つの金メダルを獲得した著名な元体操競技選手のラリサ・ラチニナ[† 2]から「キムには将来性がない」と指摘を受ける[22][23]。バイディンは「ラチニナの言い方は厳しいが、その指摘は間違っていない」とキムにさらなる努力を促し、一方の彼女は将来性がないのであれば、これからどうすればいいのかと不安を感じながらもこれに耐えた[22]

それから約2か月後、ソビエトユース代表チームのヘッドコーチを務めるリディア・ガヴリーロヴナ・イワノワから「すぐにスフミへ来るように」との連絡を受けた[24]。その頃、スフミではユース代表の合宿が行われていた。キムに着目し、選手として評価していたイワノワは彼女をユース代表に招集したのである[14]。彼女はスフミへ行ってチームと合流し、しばらくの間、代表の合宿でトレーニングを行なった。シムケントを離れ不慣れな土地でトレーニングをするのは初めてだったが、スフミで体操競技に関するさまざまな新しい知識と経験を得た[24]

初めて大きな全国大会に出たのは1971年である。その年のジュニアソビエト連邦選手権に出場し、個人総合で5位に入った[25]。翌1972年12月のジュニアソビエト連邦選手権では個人総合で銀メダルを獲得し、跳馬と段違い平行棒で金メダルを獲得と前年から大きく成績を伸ばした[26]。この大会の平均台で、その年の8月に開催されたミュンヘン五輪オルガ・コルブトが演じたような宙返りを決めて注目を集め、イワノワからも「順調に成長していることが明確に見て取れる」との賛辞を受けている[27]

1973年のオールユニオン・ユーススポーツ大会では15歳でカザフチームのキャプテンに選ばれ[28]、チームを率いて団体総合と個人総合、平均台で金メダルを獲得した[29]。同年8月に東ドイツ(現ドイツ)のゲーラで開かれた東側諸国によるドルーズバ国際ユース競技大会でルーマニアナディア・コマネチと初めて対戦[14]。個人総合でコマネチに次ぐ銀メダルを獲得した後[30]、自身初のシニアの全国大会であるソビエト連邦カップでは個人総合で8位に入り、段違い平行棒ではリュドミラ・ツリシチェワと同点で金メダルを獲得[29][31]。続いて11月にニコライ・アンドリアノフらとともに日本へ移動し、名古屋市で開催された中日カップ[† 3]に出場して金メダルを獲得した[34][35]。キムは初めて経験するエキゾティックな日本に強い印象を受け、また、加藤澤男塚原光男など大選手たちのホームランドで優勝したことは彼女にとって喜びでもあった[36]。当時の中日ニュースは中日カップを報道する記事の中でキムを「16才の妖精」「第二のコルブト」としている[37]

翌年の1974年には、5月にロストフ・ナ・ドヌで開かれたソビエト連邦選手権において初出場で個人総合の銅メダルを獲得[38][39]。さらに8月にヴィリニュスで行われたソビエト連邦カップの個人総合でもツリシチェワに次ぐ銀メダルを獲得し[14][29]、これらの好成績が評価されたキムはその年の10月にブルガリアヴァルナで開催される世界選手権のソビエト代表に初めて選ばれた[4][14]。大会では団体総合予選・跳馬の規定演技の着地の際に足首捻挫したが[20]、それでも出場を続行して[40]チームの団体総合金メダル獲得に貢献した[41][42]。しかし、その夜から捻挫した足首が腫れ上がり痛みがひどくなったため個人総合決勝は欠場して少しでも痛みが和らぐのを待ち[43]、大会最終日の種目別決勝に出場して平均台で銅メダルを獲得した[44][45]。この大会はキムが経験する初めてのシニアの世界選手権だったことから、彼女はこの大会でどうしてもメダルを獲りたいと考えていた[20]。さらに足首を痛めながら獲得したこともあり、彼女にとってこの銅メダルは現役生活の中でもとりわけ思い入れのあるメダルとなった[20]

続く1975年は、3月に開かれたソビエト連邦カップの個人総合で銀メダルを獲得した後[46]、5月にはノルウェーシーエンで行われた欧州選手権に初めて出場し、同じく初出場であるコマネチと対戦。ここでも個人総合でコマネチに次ぐ銀メダルを獲得した[47]。そして、7月にレニングラード(現サンクトペテルブルク)で開催されたソビエト連邦選手権でキムはツリシチェワやコルブトなどの強豪に勝ち、個人総合で金メダル、種目別でも3つの金メダル(段違い平行棒、平均台、ゆか)と1つの銀メダル(跳馬)を獲得した[48]。この大会は4年ごとに開催されるソビエト連邦国民スパルタキアード[† 4]の体操競技として開催されたため[48]、そこでの彼女の勝利は当時のソビエトにおいて栄誉となるものだった[10]。これを受けて、彼女の地元カザフの人々はキムに「鉄のネリー」というニックネームをつけた[17]

その直後に行われたモントリオール・プレ五輪大会での女子体操競技は、同年の欧州選手権シーエン大会で種目別のゆかを制したキム[50]と、同大会でゆか以外の個人種目を制したコマネチ[47][50]とによる激しい戦いとなった[† 5]。各種目で両選手による接戦が行われた結果[51]、個人総合では先の欧州選手権に続きコマネチに次ぐ銀メダルだったが[52]、種目別で3つの金メダル(跳馬、平均台、ゆか)と1つの銀メダル(段違い平行棒)を獲得した[53][54]。このとき、キムは跳馬の種目別決勝で「前転跳び1回半ひねり」という難度の高い技を決め、米国体操協会が発行する月刊誌『Gymnast Magazine』誌もこれを特筆している[55]。この技は彼女自身が前年1974年の世界選手権ヴァルナ大会において世界で初めて成功させたもので、国際体操連盟(: Fédération Internationale de Gymnastique、略称:FIG)により「キム」という技名がつけられて『FIG採点規則(FIG CODE OF POINTS)』にも掲載された[56][† 6]

このプレ五輪大会での女子体操競技について、当時のカナダ新聞は「キムの演技は、自然の微笑には勝利よりも価値があると思わせる瞬間の連続だった。きらめきがあり快活で生き生きとした演技、それがキムの演技スタイルである」と論評している[58]

モントリオール五輪を目前に控えた1976年5月のソビエト連邦カップでも、跳馬と平均台で金メダル、段違い平行棒で銀メダル、個人総合でもツリシチェワとコルブトに勝って金メダルを獲得した[59]。世界のスポーツメディアは「今やキムがソビエト女子体操競技界の実質的なリーダーであり、来るべきモントリオール五輪でのメダル獲得が有望視される主要な選手の一人でもある」と考えており、米国のスポーツジャーナリストたちがシムケント市内にある彼女の自宅まで取材に訪れるようになっていた[10]英語が堪能な彼女は、米国からやってきた彼らとのインタビューに英語で応じていたとバルコワは語っている[10]

一方、ソビエトの国民やメディアは依然としてツリシチェワとコルブトがソビエト女子体操競技界のリーダーだと考えており[10]、ソビエトコーチ評議会でさえもキムをリーダーだとは明確に示さなかった。ソビエトコーチ評議会が自らのチームのリーダーが誰かを正しく見極めることができなかった誤りをソビエトの専門家たちはモントリオール五輪終了後に認めている[60]

モントリオール・プレ五輪大会を終えて帰国した後の1975年秋にキムはバイディンから突然、新しい技に関する提案を受けた。それは、跳馬で「ツカハラ跳び1回ひねり」、ゆかで「後方2回宙返り」に挑戦するというものだった[14][61]。これらの技を考案したのは、バイディンと交流があるモスクワ体育研究院准教授のレフ・コンスタンティーノヴィッチ・アントノフである[14][62]。この提案にキムは戸惑った。全く新しい複雑なジャンプを習得する自信はなかったが、モントリオール五輪で勝つためにはそれを習得するしかないと考えた彼女は最終的に提案を受け入れて[61]、2つの技を習得するため連日、トレーニングを重ねた。しかし、当初はこれらの技が要請する空中での連続した複雑な動作を円滑に行うことは容易ではなく、また彼女は当時、足首を痛めていたこともあって、着地を決めることは特に困難だった[14][61]。キムは練習熱心だったが、ただ漫然と長時間の練習をすることは好まなかった[63]。彼女にとって練習とは楽しむことであり、ひたすら同じ練習に集中して打ち込み続けることも苦ではなかった[63]。そして、未踏の領域に挑戦しそれを開拓するときにおいて自らの力を最大限に発揮した[63]。彼女は次第に2つの技を習得していき、1976年5月のソビエト連邦カップの際に初めて試合でテストし、これを成功させた[64]。こうして7月にキムにとって初めての五輪を迎える。

オリンピックと世界選手権

1976年7月、カナダのモントリオールで五輪大会が開催された。五輪の開幕前、この大会の女子体操競技に関しては各国際大会でその強さを示す14歳の王者コマネチと前回1972年ミュンヘン五輪で個人総合を制したツリシチェワ[65]、前回五輪で種目別の平均台とゆかを制したコルブト[66]、そして5月のソビエト連邦カップでツリシチェワとコルブトに勝利したキムの4人を中心とした戦いになるものとメディアは予想していたが[67]、実際に大会で女子体操競技が始まると次第にキムとコマネチの対決との様相を呈し、2人の対決は女子体操競技の焦点として大いに注目を集めた[4]

キムはこの大会の跳馬で抱え込みツカハラ跳び1回ひねり、ゆかで後方抱え込み2回宙返りを見せ、いずれも世界で初めて成功させた[3][4]。団体総合で金メダルを獲得した後[68][69]、個人総合決勝では五輪大会の跳馬で史上初の10点満点を出して銀メダルを獲得した[4][70]。五輪大会の体操競技で10点満点を記録するのは、この大会の団体総合予選・段違い平行棒の規定演技で史上初めて記録したコマネチ[71]に次いで史上2人目となった[72]。種目別でも跳馬の予選で9.850点、決勝で9.950点をマークし、合計19.800点で大会2つ目の金メダルを獲得[73][74]。ゆかでは予選で9.850点を出し、9.925点をマークした1位ツリシチェワと0.075点差の2位で決勝に臨んだ[74][75]。決勝では先に演技したツリシチェワが9.900点をマークして予選との合計で19.825点とし、金メダル獲得のためには9.975点以上を出すことが必要な状況となったが、演技の冒頭で高い跳躍から後方抱え込み2回宙返りを決めてそのままミスなく演じ切り、10点満点の採点を受けて予選との合計で19.850点とし、0.025点差でツリシチェワを逆転して金メダルを獲得した[73][74]。五輪大会のゆかで10点満点を記録するのは史上初めてだった[4][73]。ヴァレンティーナ・コソラポワが振付を担当したゆかの演技の音楽は、前年の欧州選手権とソビエト連邦選手権に引き続いて『サンバ』が使用された[76][77]。キムはこの大会で3つの金メダルを獲得して実施された女子体操競技6種目のうち半数を制し[4]、同じく3つの金メダル(個人総合、段違い平行棒、平均台)を獲得したコマネチ[70][74]とともに女子体操競技の金メダルを分け合った。また、キムは1つの銀メダルと合わせて合計4つのメダルを獲得し[4]、彼女はその女性美と、華麗さと優美さと激しさとを合わせ持つ演技スタイルをファンから称讃された[23]

当時、キムに関心を抱いたカナダ国立映画制作庁(: National Film Board of Canada、略称:NFB)はジャック・ボベをプロデューサー、ジョルジュ・デュフォーとピエール・ベルニエを共同監督に起用してモントリオール五輪での彼女の姿を丹念に描写し、アスリートとその背後にある人間としての姿をテーマにした28分間のドキュメンタリー映画『Nelli Kim』[† 7]を制作した[85]。この作品は1978年に一般公開され[86]21世紀に入ってからはNFBの公式ウェブサイト[87]YouTubeのNFB公式チャンネル[88]でも公開されている。この映画についてキムは、カナダの国立映画会社が伝統的なオリンピック記録映画ではなく、モントリオール五輪に参加している6人の選手たちに焦点を当てた斬新な映画の制作を決定し、その6人のうちの1人として彼女も選ばれたと語っている[89][† 8]

モントリオール五輪の結果、キムは数多くの称賛を受け、国からも表彰を受けたが、やがて困難な時期を過ごすことになった[14][92]。この時期に彼女は体操競技選手としてできることは全てやり尽くしたため、今後は別の人生を歩もうと考えてコーチに現役引退を申し出ている[92]。それまで目指してきた五輪が終わって目標を失い、どのように生きるべきかがわからなくなっていたのである[93][61]。コーチは驚いて引き留めたが、彼女はシムケントを離れタタール自治ソビエト社会主義共和国(現ロシア連邦タタールスタン共和国カザン近郊の小さなタタールの村マジリヘ行った[92]。そこは母の故郷で、キムが幼少の頃によく行っていた思い出の場所である[8]。マジリの親戚の家で、しばらく自然と触れ合う生活を送った。そうする中で現役続行の意欲を取り戻した彼女はトレーニングを再開させて1977年5月の欧州選手権プラハ大会に出場したが[94]、その直後に身体に異変を感じ病に倒れた[14][93]。病気は深刻なものだった。医師は、当分の間は激しい運動をしてはいけないと彼女に告げた[93]。病気で休養している間にキムは結婚し(詳細は『結婚生活と家族』のセクションを参照)、夫が住む白ロシア・ソビエト社会主義共和国(現ベラルーシ共和国)のミンスクに移って[10][93]、現地の陸軍スポーツクラブに加入した[† 9]

ミンスクでは夫のコーチであるニコライ・パヴロヴィッチ・ミリグロの指導の下で競技生活を続けることとしていたが[14]、依然としてトレーニングができない状態は続いた。1960年ローマ五輪の銀メダリストであるミリグロ[96]はキムに助言を送るとともに、彼女はまだ衰えとはほど遠く競技生活を続ける能力を十分に持っていると確信していた[93][97]。約半年間のブランクを経て病気から回復したキムはミリグロの下でトレーニングを再開し競技生活に復帰したが[97]、その直後に虫垂炎で入院するなどの不運が重なって本調子に戻るのは遅れ[98]、復帰初戦となった1978年8月のソビエト連邦カップでは個人総合16位に終わった[99]。しかし、当時のソビエトチームは長年チームを支えてきたツリシチェワとコルブトが引退して去り、エレナ・ムヒナナタリア・シャポシュニコワ、マリア・フィラトワら若い選手が主体の困難な時期にあったため、経験を買われて10月に開催される世界選手権ストラスブール大会のソビエト代表に選ばれた[100]

こうして迎えたストラスブール大会はキムにとって約1年半ぶりの国際大会ではあったが、ブランクによる遅れを取り戻すかのような好演技を示した[14]。跳馬では伸身ツカハラ跳び1回ひねり、ゆかでは後方屈身2回宙返りをそれそれ世界で初めて成功させて[56][101][† 10]合計3つの金メダル(団体総合、跳馬、ゆか)を獲得[103][104][105]。個人総合でも銀メダルを獲得し、金メダルのムヒナ、銅メダルのシャポシュニコワとともにソビエトチームで個人総合の表彰台を独占した[106][107]。翌1979年は医師から足首の故障がひどくなっているとの診断を受けたため、当初は大会に出ることを控えていたが、不安に陥ったキムは医師の診断にかかわらず出場することを決めた[23]。そして、11月に彼女にとって最高の大会となる世界選手権フォートワース大会を迎える[23]

フォートワース大会の個人総合は予選で39.250点のキムと39.175点のマキシ・グナウク(東ドイツ)、39.150点のフィラトワ、39.125点のメリタ・リューン(ルーマニア)と4人が0.125点差以内に並ぶ僅差の接戦となったが、決勝ではキムが4種目全てで9.850点をマークする安定感を見せて39.400点を記録し、予選との合計で78.650点として78.375点のグナウクを0.275点差で上回り、初の金メダルを獲得した[108][109]。個人総合での勝利は、どの種目別での勝利よりも高い価値があると考えていた彼女にとって[20]、この金メダルは現役生活中で最高のメダルとなった[20]。この大会でのソビエトチームは前回の世界選手権で個人総合を制したムヒナを骨折で欠くなどして戦力が低下しており[23]、その結果、個人総合に先立って行われた団体総合で、ソビエトは世界選手権とオリンピックを通じて長年守り続けてきた王座をルーマニアに明け渡していた[† 11][110]。そのため、個人総合での金メダルは落胆していたチームを救うために戦って獲得したものだった[23][111]。モスクワの振付師ガリーナ・ウラジーミロヴナ・サヴァリナが振付を行ったゆかの演技の音楽はサンタ・エスメラルダの『朝日のあたる家』が用いられ、この曲はモスクワ五輪でも使用された[112]

翌1980年6月にモスクワのルジニキ・スポーツパレスで開かれたソビエト連邦選手権において個人総合で金メダルを獲得した後[113]、キムは平均台の演技で着地の際に行う新しい技の仕上げに入った[114]。この高難度な技を新たに開発するために彼女は約3年間の歳月を費やしている。しかし、その後、古い病気を再発させ、モスクワ五輪の開幕を目前に控える中でベッドで静養しなければならないことになった[114]。ベッドで不安な日々を過ごし、一時はモスクワ五輪への出場も断念したが、病気からは急速に回復し復帰後のトレーニングでも以前と変わらない姿を見せた。こうした困難な状況を経ることで、それまで幾多の辛酸を経験してきたキムの闘志はかえって高まった[114]

そして、1980年7月、キムにとって現役最後の競技大会となるモスクワ五輪が開催された。エレーナ・ダヴィドワ、シャポシュニコワ、フィラトワらからなる若いソビエトチームを率い、団体総合決勝では394.900点をマークして393.150点のルーマニアを1.750点差で上回り金メダルを獲得した[115][116]。ソビエトは前年の世界選手権で失った団体総合の王座を取り戻すとともに、この種目で1952年ヘルシンキ五輪から8大会連続の五輪金メダル獲得を決めた。また、キムは団体総合決勝の平均台の演技で「側方宙返りからの後方抱え込み宙返り」という難度の高い終末技[† 12]を世界で初めて成功させた[117]。この技はFIGにより「キム」と命名され、『FIG女子体操競技採点規則2017年 - 2020年版』でもE難度に指定されている[118]。種目別のゆかでは予選で9.925点のスコアを出してコマネチと並び、大会最後の女子体操競技の金メダルをかけて臨んだ決勝では両者とも9.950点をマークして合計19.875点でコマネチとの同点優勝になった[119]。ゆかの表彰式では長年のライバルだったコマネチとともに表彰台の頂点に立ち、そこでキムはコマネチに「もう、終わるのね?」と語りかけた。コマネチはキムに「ええ、終わりね」と答えた[† 13][23][91]。モスクワ五輪で金メダル2つを獲得した彼女は、この大会を最後に現役を引退した[4]。キムが体操演技で示す表現は、非常に女性らしい優美さと激しさ、そして強いカリスマ性を合わせ持ち、それによって彼女は人々に長く記憶されているとFIGは評している[3]

競技生活引退後

競技生活から引退した後はコーチ、審判員として活動している[4]。自分自身の競技経験を伝えるべく、1983年から白ロシアの国家代表コーチおよび体操競技審判委員会委員長を務め、韓国イタリア、米国でもコーチを務めた[121]。また、欧州選手権、世界選手権、オリンピック大会をはじめとする数多くの国際競技大会で審判員を経験し、1976年以降の全ての夏季オリンピック大会に何らかの形で貢献している[4]1996年にはFIG女子体操競技技術委員会(: Women’s Artistic Gymnastics Technical Committee、略称:WTC)の委員に選ばれ、2000年にWTCの副委員長に就任した[4][121]。その後、2004年10月22日トルコアンタルヤで開催されたFIG第75回総会でWTCの委員長に選出された[122][123]

WTCの委員長としてキムは2006年採点法変更に尽力した。それは体操競技において10点満点方式を終わらせ、上限のない採点を導くものだった[91]1990年代から細かな採点法の変更は行われてきたが、2006年の急進的な採点法変更の大きな誘因となったのは2004年のアテネ五輪で続発した審判員の採点をめぐる一連のトラブルだった[124][125]。これらのトラブルにはポール・ハム(米国)、アレクセイ・ネモフ(ロシア)をはじめとする複数の選手らが巻き込まれている[126][127]。キムやブルーノ・グランディ会長などのFIGの役員たちは将来において同様のトラブルが発生することを防止して体操競技の採点への信頼性を確保するとともに、審判員などによる人的なミスを排して各選手の演技・技術をより公正かつ正確に判定するためには、従来の採点法を抜本的に見直す急進的な変革が必要だと考えたのである[128]。この動きはファンやアスリートの間でも論争の的になった[128]。FIGの役員らは、新採点法は旧採点法で多くの採点をしてきたFIGの委員や審判員からの助力と助言で立案されたのだと指摘し、最終的な採用の前にメジャーな国際大会でこのシステムをテストすると強調した。最終的に新採点法は、大きな大会としては2006年の世界選手権オーフス大会から正式に導入された[129]

初選出の2004年10月以来、3期12年間にわたってWTCの委員長を務めた後[4][130]、2016年10月19日東京ヒルトン東京お台場で開催されたFIG第81回総会において、キムは国際体操連盟の副会長に選出された[5][131]

結婚生活と家族

最初の結婚相手は同僚の体操競技選手ウラジーミル・アカソフだった[2][132]。1976年夏にキムがアカソフの誕生日パーティに招待されたことで2人は知り合い[17]、翌1977年に結婚[16]。キムはシムケントを離れ、夫が住むミンスクに移ったが、この結婚は長くは続かなかった[17]。2人目の夫はソビエトの自転車競技選手ヴァレリー・イワーノヴィッチ・モヴチャンである[130]。モヴチャンはキムと同じレニナバード州の出身で[133]1980年モスクワ五輪自転車競技男子団体追い抜きで金メダルを獲得し[134]、1982年世界自転車競技選手権大会でも同種目で金メダルを獲得している[133]。2人はモスクワ五輪で出会って結婚し、1980年代半ばには娘が誕生。その娘はキムの名前にちなんで「ネリー」と名付けられた[23]

しかし、その後モヴチャンとも離婚して娘とともに米国ミネソタ州ミネアポリスへ居を移した[16]2017年8月にベラルーシのニュースサイト「ミンスク・クーリエ」とのインタビューで、キム自身は引き続きミネアポリスに居住しており、娘は医科大学の学生で夫と子供とともに米国のシカゴに住んでいると語っている[135]

学業

1978年にアルマトイのカザフ体育研究所体育学部を卒業し、1985年に白ロシアのミンスク社会科学院を修了[121]2012年にサンクトペテルブルクのレスガフト記念体育大学にて教育博士号を取得している[121]。博士論文は『体操競技における優秀な審判員の養成』である[121][136]。この論文はオープンアクセスにされており、サンクトペテルブルクのロシア国立図書館は一定のコピー制限を施して、インターネット上でこれを公開している[137]

ニックネーム

ソビエトのチームメイトやコーチの間でのニックネームは「キマネリー」だった[138]。ある日、ツリシチェワのコーチであるウラジスラフ・スティパーノヴィッチ・ラストロツキーがキムを慌てて呼んだとき、うっかり大声で「キマネリー、電話だ!」と言ってしまった[139]。ラストロツキーは一瞬、彼女の姓(キム)と名前(ネリー)を混同したのである[10]。それ以来、キムは「キマネリー」というニックネームで呼ばれるようになった。

2014年7月にカザフスタンのテレビ局「KAZsport」がこのニックネームをタイトルに使用し、キムに関するドキュメンタリー番組『私たちのキマネリー』を制作・放送した[140]。初放送の際には彼女自身もカザフスタンを訪問している[141]

キムに由来する体操競技の技名の一覧

キムが国際体操連盟公認の大会で最初に成功させた技は7つ存在する。キムに由来する体操競技の技名は、次の通りである[142][† 6]

種目 技名 内容 難度 採点規則に掲載された大会
跳馬 キム 前転跳び1回半ひねり 3.60 P[143] 1974年ヴァルナ世界選手権
跳馬 キム 抱え込みツカハラ跳び1回ひねり 4.10 P[102] 1976年モントリオール五輪
跳馬 キム 伸身ツカハラ跳び1回ひねり 4.80 P[102] 1978年ストラスブール世界選手権
平均台 キム 平均台の端での片足踏み切り抱え込み宙返り1回ひねり C[144] 1976年モントリオール五輪
平均台 キム 側方宙返りからの後方抱え込み宙返り E[118] 1980年モスクワ五輪
ゆか キム 後方抱え込み2回宙返り D[145] 1976年モントリオール五輪
ゆか キム 後方屈身2回宙返り D[145] 1978年ストラスブール世界選手権

技の難度は、『FIG女子体操競技採点規則2017年 - 2020年版』に規定されているものに基づく。

オリンピック大会以外での成績

大会 個人総合 団体総合
1973 ソビエト連邦選手権
1974 世界選手権
ソビエト連邦カップ
ソビエト連邦選手権
1975 ヨーロッパ選手権
ソビエト連邦カップ
ソビエト連邦選手権
1976 ソビエト連邦カップ
ソビエト連邦選手権
1977 ヨーロッパ選手権
1978 世界選手権
ソビエト連邦選手権
1979 世界選手権
ワールドカップ
ソビエト連邦選手権
1980 ソビエト連邦選手権

関連項目

脚注

注釈

  1. ^ 「スパルタクスポーツ協会」はソビエト連邦時代の1935年に設立されたスポーツソサエティーの一つで、モスクワに本拠地を置き、ソビエト各地にスタジアムやスポーツホール、プール、キャンプ場、青少年スポーツ学校など、さまざまなスポーツ施設を設立・運営していた。キムが入学したシムケントの青少年スポーツ学校もその一つである。青少年スポーツ学校はソビエトスポーツの基盤として機能し、数多くの五輪代表選手を輩出した。スパルタクスポーツ協会は1987年にいったん廃止されたが1991年に復活し、2017年現在、存続している[12][13]
  2. ^ バーバラ・フィッシャーとジェニファー・イスビスターは、この指摘をした人物についてラリサ・ラチニナであると述べている[23]。一方、キムは自伝の中で「ある有名な元体操競技選手から『キムには将来性がない』と指摘を受けた」事実について記しつつも、その指摘をした人物の名前には言及していない[22]
  3. ^ かつて、毎年11月 - 12月に名古屋市で開催されていた体操競技の国際大会。当時、アジアで毎年開催される唯一の体操競技の国際大会であり、ネリー・キムをはじめナディア・コマネチ、リュドミラ・ツリシチェワ、ニコライ・アンドリアノフなど各国の有名選手らも参加していた。中日カップでは男女とも団体総合や種目別は実施されず、個人総合のみが実施されていた。2004年の第35回大会を最後に以降は開催されていない[32]愛知県では2007年から豊田市で毎年11月 - 12月に「豊田国際体操競技大会」が開催されており、この大会が中日カップの実質的な後継大会に当たる[33]
  4. ^ かつてソビエト連邦は理念上の理由からオリンピック大会(オリンピアード)には参加せず、その代替として独自に「スパルタキアード」という国際スポーツ大会を1928年から1936年まで4年ごとに開催していた[49]。「スパルタキアード」という名称は、古代ローマ剣闘士スパルタクスに由来する。第二次世界大戦後の1952年からソビエトはオリンピック大会に参加することを決定したため「スパルタキアード」は廃止されたが、その理念を受け継ぐ形でソビエト国内のスポーツ大会として「ソビエト連邦国民スパルタキアード」が1956年に開催され、1959年からは4年ごとに開催されていた。夏季大会の他に1962年からは冬季大会も4年ごとに開催され、夏季大会・冬季大会ともにオリンピック大会と同様、多数の競技が行われる大規模な大会だった[49]。こうした経緯から、当時のソビエト国内においては他のスポーツ大会よりも重きを置かれていた。「ソビエト連邦国民スパルタキアード」は1991年の夏季大会を最後に開催されていない。
  5. ^ 米国体操連盟の月刊誌『USGF News』誌1975年8月号38頁は、この戦いを a fierce battle と評している[51]
  6. ^ a b 体操競技においては、国際体操連盟公認の競技大会で最初に成功させた選手の名前から国際体操連盟によって技名がつけられている。新しい技に対する認定の要件と手続きについては、『FIG採点規則』に詳細に規定されている[57]
  7. ^ 2017年現在、「Нелли Ким」のラテン文字表記(ラテン文字転写)としては「Nellie Kim」が一般的に使用されており、キムの公式ウェブサイト[78]やFIGの公式ウェブサイト[5]もこの表記を用いているが、モントリオール五輪が開催された当時の北米メディアにおいては「Nelli Kim」という表記が一般的だった(当時のニューヨーク・タイムズ紙で『Nelli Kim』表記が使用された例[67][73][79][80][81][82][83]、当時の『USGF NEWS』誌で『Nelli Kim』表記が使用された例[84])。これを受け、NFBの制作した映画のタイトルも『Nelli Kim』となっている。標準的なロシア語発音では「Нелли」の最初の母音еにアクセントが置かれ、最後の母音иにアクセントは置かれないのでиに母音弱化が起こる。そのため、「Нелли」のラテン文字表記としては「Nelli」、日本語表記としては「ネーリ」が原音により忠実な表記である。
  8. ^ NFBが実際に制作・公開したのはキムのドキュメンタリー映画だけだった。NFBがキムをドキュメンタリー映画の対象に選んだ理由について、ニューヨークを拠点とするジャーナリストのドヴォラ・マイヤーズ[90]はカザフスタンに住むキムの友人の証言などに基づき、まだ世界が東西冷戦下にあった当時、NFBは西側のメディアとして、五輪に参加しているソビエトの選手たちに興味を示しており、なかでもエスニックなキムに彼らはとりわけ大きな関心を抱いたことが決め手となったと述べている[91]
  9. ^ ソビエト連邦時代、ソビエト陸軍(ソビエト地上軍)の各軍管区はそれぞれ独自のスポーツクラブを持っていた。キムが加入したのは、ソビエト陸軍白ロシア軍管区がミンスクで設立・運営していたスポーツクラブである。このスポーツクラブはソビエト連邦の崩壊後も存続している[95]
  10. ^ 体操競技では原則として、空中での姿勢が抱え込み、屈身、伸身の順に難度が高くなる。たとえば、跳馬の抱え込みツカハラ跳びは難度3.50 P、屈身は3.70 P、伸身は4.20 Pである[102](『FIG女子体操競技採点規則2017年 - 2020年版』)。
  11. ^ ソビエト連邦が五輪大会に初参加した1952年からソビエト連邦崩壊の1991年までの間、女子体操競技・団体総合で金メダルを逃したのは五輪大会では1984年ロサンゼルス大会の1回(ソビエトは大会自体をボイコットして参加していない)。世界選手権では銀メダルに終わった1966年ドルトムント大会、1979年フォートワース大会、1987年ロッテルダム大会の3回である。1952年から1991年までの間に10回開催された五輪大会で9個の金メダル、14回開催された世界選手権で11個の金メダルを獲得している。
  12. ^ 体操競技で演技の最後に行う技を終末技と呼ぶ。ゆか以外の種目では体操器具から離れ、着地するときに行われる。
  13. ^ 一方、キムは自伝の中で、モスクワ五輪の個人総合決勝の試合中にいつものコマネチらしくない演技を目撃したので、種目別ゆかの表彰式の際にコマネチに対して「もう、ジムから離れていくの?(すなわち、もう、引退してしまうの?)」と問いかけたところ、コマネチはかすかに微笑みながら「ええ」と答えたと語っている[120]
  14. ^ 彼女は2006年11月の英国『メトロ』紙とのインタビューにおいて、1976年モントリオール五輪で金メダルを獲得した「ネリー・キム」の名前はクールだと思った彼女の母が1978年に生まれた彼女に「ネリー・キム」にちなんだ名前をつけたと語った[146]。ネリー・キム本人もこの事実を知っており、いつかネリー・キム・フルタードに会ってみたいと2017年8月の「ミンスク・クーリエ」とのインタビューで述べている[135]

出典

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参考文献

外部リンク