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帰国後、人気者になっていた猿岩石は[[テレビ]]その他に引っ張りだこになった。しかし、11月に[[バンコク]](タイ) - [[ヤンゴン]](ミャンマー)間、[[ヤンゴン]] - [[コルカタ]](インド)間、[[テヘラン]](イラン) - [[アンカラ]](トルコ)間の3ヶ所で[[飛行機]]に乗っていた事が発覚。日本テレビ側は「危険地帯であった」と釈明した。しかし、それまで飛行機に乗っていた件は全く公表されていなかったため、やらせではないかとの批判もあった。
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12月、[[秋元康]]のプロデュースにより、[[藤井フミヤ]]・[[藤井尚之]]兄弟提供の「[[白い雲のように]]」を発売する。ヒッチハイクを連想させる様な曲で[[ミリオンセラー]]になり、[[1997年]]の『[[第39回日本レコード大賞]]』の新人賞を受賞し、その後もヒット曲を連発。しかし、「視聴者の支持が得られなかった」という理由でその年の『[[第48回NHK紅白歌合戦|NHK紅白歌合戦]]』には落選した<ref>[http://web.archive.org/web/20000422121437/http://www.zakzak.co.jp/geino/n_November97/nws1566.html 紅白「あの人がいない!」]、ZAKZAK、1997年11月28日。([[インターネットアーカイブ]]のキャッシュ)</ref>。
12月、[[秋元康]]のプロデュースにより、[[藤井フミヤ]]・[[藤井尚之]]兄弟提供の「[[白い雲のように]]」を発売する。ヒッチハイクを連想させる様な曲で[[ミリオンセラー]]になり、[[1997年]]の『[[第39回日本レコード大賞]]』の新人賞を受賞し、その後もヒット曲を連発。しかし、「視聴者の支持が得られなかった」という理由でその年の『[[第48回NHK紅白歌合戦|NHK紅白歌合戦]]』には落選した<ref>[http://web.archive.org/web/20000422121437/http://www.zakzak.co.jp/geino/n_November97/nws1566.html 紅白「あの人がいない!」]、ZAKZAK、1997年11月28日。([[インターネットアーカイブ]]のキャッシュ)</ref>。


また、当時放送されており、事務所の先輩である[[松村邦洋]]がパーソナリティを担当していた[[ラジオ番組]]、『[[松村邦洋のオールナイトニッポン]]』にもしばしば出演していた。
また、当時放送されており、事務所の先輩である[[松村邦洋]]がパーソナリティを担当していた[[ラジオ番組]]、『[[松村邦洋のオールナイトニッポン]]』にもしばしば出演していた。

2017年9月5日 (火) 03:17時点における版

猿岩石
メンバー 有吉弘行
森脇和成
結成年 1994年
解散年 2004年
事務所 太田プロダクション
活動時期 1994年4月 - 2004年3月
出会い 小学校時代
旧コンビ名 手裏剣トリオ
現在の活動状況 解散(共にピンで活動)
ネタ作成者 有吉弘行
現在の代表番組 なし
過去の代表番組進め!電波少年
受賞歴
1997年 第34回ゴールデン・アロー賞話題賞
1997年 第39回日本レコード大賞新人賞
1997年 全日本有線放送大賞新人賞
1997年 日本有線放送大賞新人賞 [1]
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猿岩石
出身地 日本の旗 日本 広島県
ジャンル J-POP
活動期間 1996年12月 - 2004年3月
レーベル 日本コロムビア
事務所 太田プロダクション
共同作業者 秋元康
藤井フミヤ
藤井尚之
メンバー 有吉弘行
森脇和成

猿岩石(さるがんせき)はかつて太田プロダクションに所属していたお笑いコンビ。ともに広島県安芸郡熊野町出身。

メンバー

歴史

2人とも小学生時代からの幼馴染で、小学校・中学校・高校の同級生である。広島県立熊野高等学校時代に、オール巨人に半年間弟子入りしていた有吉が巨人から謹慎を命じられ、広島の自宅に戻った後、巨人には無断で、森脇を誘って1994年4月に結成。グループ名の由来は、中学校時代の有吉と森脇それぞれの片思いの女の子のあだ名、『猿女房』『ほくろ岩石』の『猿』・『岩石』をくっつけて出来た。『猿女房』は『猿に似た男の子とつきあっていた』から、『ほくろ岩石』は『岩石みたいなほくろが顔にあった』からついたあだ名とされる[2]。なお、有吉は、ブレイク後にオール巨人からは正式に破門となっている。巨人は有吉に対して「有吉も辛かったんだろ」と、ねぎらいの言葉をかけた。

1994年6月、2人で揃って広島県からバスで上京。上京後は、しばらく文京区後楽園周辺で野宿をしていた。なお、この頃の生活の様子は、著書『猿岩石裏日記』で詳しく書かれている。実力はそれなりにあり、先輩からは面白かった(特に有吉)という声も聞かれた。

『進め!電波少年』ヒッチハイク時代

1996年4月、テレビ番組『進め!電波少年』の企画で「だまされて」香港に連れてこられた。それに先立ち、内容を明かされないまま行われたオーディションには、バナナマン劇団ひとり[3]らを含む多くの芸人が参加しており、最終選考にはTIMも残っていた。香港で「イギリスまでヒッチハイクで行け」と告げられ、旅が始まった。猿岩石は「最初は、『いつでもリタイアできる、所詮はTV企画』という甘えがあった」と語っている。この企画で『電波少年』の人気は持ち直し、2003年まで続く事になった。2人は1996年10月に無事ロンドンにゴールした。また、サンプラザ中野が歌った応援歌「旅人よ 〜The Longest Journey」も発売され、これが評判になった。さらに、ヒッチハイクの内実を記した書籍『猿岩石日記』もシリーズ累計で250万部のベストセラーになった。

猿岩石のゴール時点で次の旅を行うドロンズがスタンバイ済みで、絶対日本行きを選ぶ前提で企画し、南北アメリカ大陸の旅を選んだ場合に少し困る状態だったと、当時のプロデューサーの土屋敏男が著書で明かしている[4]

当時のギャラは給料制でブレーク前は5万円だったが、印税などの収入があったため、月収が最高2,000万円だった[5]。また、売れっ子だからと言って天狗になることはなく、有吉は、最大で5000万円以上の貯蓄をしていたという。

人気絶頂期

帰国後、人気者になっていた猿岩石はテレビその他に引っ張りだこになった。しかし、11月にバンコク(タイ) - ヤンゴン(ミャンマー)間、ヤンゴン - コルカタ(インド)間、テヘラン(イラン) - アンカラ(トルコ)間の3ヶ所で飛行機に乗っていた事が発覚。日本テレビ側は「危険地帯であった」と釈明した。しかし、それまで飛行機に乗っていた件は全く公表されていなかったため、やらせではないかとの批判もあった。

12月、秋元康のプロデュースにより、藤井フミヤ藤井尚之兄弟提供の「白い雲のように」を発売する。ヒッチハイクを連想させる様な曲でミリオンセラーになり、1997年の『第39回日本レコード大賞』の新人賞を受賞し、その後もヒット曲を連発。しかし、「視聴者の支持が得られなかった」という理由でその年の『NHK紅白歌合戦』には落選した[6]

また、当時放送されており、事務所の先輩である松村邦洋がパーソナリティを担当していたラジオ番組、『松村邦洋のオールナイトニッポン』にもしばしば出演していた。

この頃、営業で学園祭を一緒に回ったバナナマンは、学園祭が終わり車で帰る際に猿岩石のファンが車の周囲に押し寄せて混乱することが予想されたため、ダミー車を出すことになり、そのダミー車に乗ったのが当時知名度が低かった自分たちだったと語っている。

地元広島でのローカルタレント化

地元、広島の放送局中国放送1997年より放送が始まった『KEN-JIN』レギュラーとして出演。当初は全国レギュラーも多かったが、次第にレギュラーが少なくなり、結果として広島のローカルタレント化していった。

2000年頃には進研ゼミ中学講座の読者コーナーに連載も行っていた。

2001年3月に横山雄二アナと猿岩石で「KEN-JIN BAND」を結成。デビュー曲「Hungryman/dear」を発売した。その後もシングルを何枚か発売。猿岩石解散後は有吉と劇団ひとり、そして横山アナでバンドを続けた。

手裏剣トリオへの改名

2001年4月、フジテレビの「プレゼンタイガー」の企画で改名した。名前の候補には「手裏剣トリオ」と「なうまんぞう」があり、自ら「手裏剣トリオ」を選んだ。その頃、「さまぁ〜ず」等、芸人の改名が多く、成功例も多かったが、猿岩石の場合は人気が出ずに、同年の9月28日に「プレゼンタイガー」で「猿岩石への再改名」を宣言、「猿岩石」に戻った。

解散

2004年3月に有吉のお笑い芸人志向、森脇の役者音楽家実業家志向と方向性の違いにより解散。有吉は太田プロダクションに残り、森脇は実業家へ転身して一時芸能界引退するも、2015年より辺見プロモーション所属の芸能人として活動している。

解散後のメンバーの動向

有吉弘行
解散後もピン芸人として活動。再ブレイク前は、「一発屋芸人」であることを押し出した自虐ネタが多かった。竜兵会の一員であり、同会のメンバーとの共演も多かった。
2008年に辛口のあだ名をきっかけに、芸人として再ブレイク。2014年現在ではレギュラー番組を10本以上持ち、コンビ時代以上に多忙な芸人となっている。
森脇和成
2006年10月26日放送分『雨上がり決死隊のトーク番組アメトーーク!』「元コンビ芸人」に出演し、実業家(株式会社スクラッチ専務)になっていたことを明かす。2012年3月発売のDVDには、スタジオ裏での有吉との会話も収録されている。
2007年2月、家事手伝いの女性と結婚。しかし有吉をはじめ芸能関係者は結婚式や披露宴にはほとんど出席しなかったとされる。
2008年11月にESPバイオテック・ラボ(株式会社スクラッチから社名変更)を退職。2011年10月1日現在、時計業界に在籍していることが同社社長のブログで明らかになっている[7]
2015年7月16日放送分「ヨソで言わんとい亭〜ココだけの話が聞ける(秘)料亭〜」に出演。この際、有吉と寿司屋でばったり会ったことや、ブランド品を輸入販売している店舗で勤務していることを明かした[5]
2015年7月20日放送分「しくじり先生 俺みたいになるな!!」に出演。なお、「しくじり先生」のオファーを受けて以降、打ち合わせを重ねる過程で自分の人生をじっくり見直したとして、出演中にサラリーマンをやめると発言。既に辞表を提出していると述べた。さらに妻とは離婚しており、子供は妻のところにいるとも述べた[8]
その後、2015年8月1日、辺見プロモーションに所属、タレント業を再開[9]

賞など

過去の出演番組

テレビ
テレビドラマ
ラジオ

他多数

CD

猿岩石名義

シングル
  1. 白い雲のように(1996年12月21日)
  2. ツキ(1997年3月19日)
  3. コンビニ(1997年5月8日)
  4. 君の青空/声が聴こえる(1997年6月18日)- 猿岩石 with VERSUS名義。
  5. オエオエオ!(1997年9月3日)
  6. Christmas/少年の羽根(1997年11月5日)
  7. 君に会いに行こう(1998年2月4日)
  8. 昨日までの君を抱きしめて(1998年3月18日)
  9. 初恋(1998年6月24日)
  10. My Revolution(1999年1月1日)- 渡辺美里のカバー。
アルバム
  1. まぐれ(1997年9月3日)
  2. 通信簿〜SARUGANSEKI SINGLES〜(1998年4月1日)
  3. 1986(1999年2月20日)
  4. GOLDEN☆BEST 白い雲のように 猿岩石(2008年8月20日)

KEN-JIN BAND名義

シングル
  • Hungryman / dear
  • 虹 / 君の左手(2002年5月25日)
  • ロケット / 働クオトコノウタ(2004年6月16日)有吉のみ

出版物

  • 猿岩石日記Part1極限のアジア編―ユーラシア大陸横断ヒッチハイク
  • 猿岩石Part2怒濤のヨーロッパ編―ユーラシア大陸横断ヒッチハイク
  • 猿岩石裏日記―ユーラシア大陸横断ヒッチハイク 日本テレビ放送網 1996
  • 猿岩石サバイバルツアー 太田出版 1997
  • シェ猿岩石―猿岩石のおうち 小学館 1997
  • ル猿岩石―ラッキーモンキー 小学館 1997
  • 猿岩石写真日記“一生、遊んで暮らしたい” 角川書店 1997
  • 写真集「猿岩石」

脚注

  1. ^ 有吉弘行”. 大田プロダクション. 2014年6月7日閲覧。
  2. ^ 「シェ猿岩石 猿岩石のおうち」1997年
  3. ^ 週刊文春』、文藝春秋、2010年2月、pp.68。 
  4. ^ 土屋敏男『電波少年 最終回』2001年 155ページ - 158ページ。
  5. ^ a b 元猿岩石の森脇和成 最高月収&有吉との関係…芸能界引退の真相を暴露”. リアルライブ (2015年7月18日). 2015年7月19日閲覧。
  6. ^ 紅白「あの人がいない!」、ZAKZAK、1997年11月28日。(インターネットアーカイブのキャッシュ)
  7. ^ ESPバイオテックラボ 八木聡 ブログです。2011年10月1日 元猿岩石 森脇和成 という男
  8. ^ 元猿岩石・森脇さん辞表提出「サラリーマン辞めます」 | ORICON STYLE
  9. ^ 森脇和成(辺見プロモーション・マネージメント事業部)

参考書籍

関連項目

外部リンク