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また、肥前側の小川内村での伝承によると、江戸時代の当時水不足に陥ったのは麓の大野集落ではなく(大野集落は大野川からは引水しておらず)、大野川下流の那珂川流域の平野部付近(筑前国)であり、「お万」と言う女性はその下流集落から水路の変更を謀りに来ていたと言う。 |
また、肥前側の小川内村での伝承によると、江戸時代の当時水不足に陥ったのは麓の大野集落ではなく(大野集落は大野川からは引水しておらず)、大野川下流の那珂川流域の平野部付近(筑前国)であり、「お万」と言う女性はその下流集落から水路の変更を謀りに来ていたと言う。 |
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なお史実として、茂安はその後「野越し」という一種の[[オーバーフロー]]設備を作り、筑前側にも少々の水が流れるように改良した。これは、水路の損壊防止が主眼であり、増水時でないと大野川方面にはほとんど流下しない。蛤水道は藩や市町村により平成時代まで維持、改良され続けており、昭和、平成期の改修で、ため池中央部に導水路取水口を進出造成させている。水路全体も昭和27年にはコンクリート造に改修され、野越しも含めて現代も機能している<ref>北緯33.414257・東経130.387577付近</ref>。コンクリート改修の際に取水口をため池上流部に設置したため、大野川にも常時若干量が流れるようになった。また、昭和や平成の福岡県側渇水時には、何らかの諮いにより水路側からも大野川側に水が流される事があったと言う<ref>[http://web.archive.org/web/20050921062511/http://www5b.biglobe.ne.jp/~ms-koga/b-201-hamaguri.suidou.htm 蛤水道の故事](2005年9月21日時点の[[インターネット |
なお史実として、茂安はその後「野越し」という一種の[[オーバーフロー]]設備を作り、筑前側にも少々の水が流れるように改良した。これは、水路の損壊防止が主眼であり、増水時でないと大野川方面にはほとんど流下しない。蛤水道は藩や市町村により平成時代まで維持、改良され続けており、昭和、平成期の改修で、ため池中央部に導水路取水口を進出造成させている。水路全体も昭和27年にはコンクリート造に改修され、野越しも含めて現代も機能している<ref>北緯33.414257・東経130.387577付近</ref>。コンクリート改修の際に取水口をため池上流部に設置したため、大野川にも常時若干量が流れるようになった。また、昭和や平成の福岡県側渇水時には、何らかの諮いにより水路側からも大野川側に水が流される事があったと言う<ref>[http://web.archive.org/web/20050921062511/http://www5b.biglobe.ne.jp/~ms-koga/b-201-hamaguri.suidou.htm 蛤水道の故事](2005年9月21日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref><ref>http://www5b.biglobe.ne.jp/~ms-koga/201hamagurisuido.html</ref><ref>なお、蛤水道に関する教育資料では「野越し」から「那珂川」に流下するとしている物があるが、那珂川支流の「大野川」に流下するのが正しく、地形上は那珂川本流に自然流下することはない。</ref>。なお、大野川の麓一帯では2017年度(平成29年度)完成を目指して[[五ヶ山ダム]]が建設中である。 |
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この故事の数10年後、[[脊振山]]頂付近で国境の争いがあり、[[元禄]]6年([[1693年]])に幕府の裁定が下りている<ref>[http://museum.city.fukuoka.jp/je/html/231-240/232/232_01.htm]、「黒田新続家譜」(黒田藩)、「肥前脊振弁財嶽境論御記録」</ref>。なお、この争論(肥筑国境争論)で蛤岳付近の国境についても議論に俎上したが、裁定上は何ら影響が無かった<ref>http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/10795/%EF%BD%90215.pdf</ref>。 |
この故事の数10年後、[[脊振山]]頂付近で国境の争いがあり、[[元禄]]6年([[1693年]])に幕府の裁定が下りている<ref>[http://museum.city.fukuoka.jp/je/html/231-240/232/232_01.htm]、「黒田新続家譜」(黒田藩)、「肥前脊振弁財嶽境論御記録」</ref>。なお、この争論(肥筑国境争論)で蛤岳付近の国境についても議論に俎上したが、裁定上は何ら影響が無かった<ref>http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/10795/%EF%BD%90215.pdf</ref>。 |
2017年9月5日 (火) 01:36時点における版
蛤岳(はまぐりだけ)は、日本南部の九州・佐賀県北部にある、脊振山系に属する標高862.8mの山である。
福岡県との県境近くの神埼郡吉野ヶ里町北部にある。山頂には直径3〜4mほどの蛤岩と呼ばれる巨石があり、これが東西に割れて蛤が殻を開いた様子に見えることから名付けられたと言われている。
蛤水道
蛤水道 | |
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蛤水道 | |
水系 | 筑後川水系田手川 |
延長 | 当初1.56~現存1.26 km |
平均流量 | 0.056 m3/s |
水源 | 蛤岳(吉野ヶ里町) |
流域 | 佐賀県 |
山腹には江戸時代初期に佐賀藩鍋島氏の家臣、成富茂安が築造した蛤水道が現存し、筑後川水系の田手川へと豊かな水(0.056立米毎秒)を佐賀方面に流し続けている。
蛤水道は、蛤岳山頂北麓の山盆[1]から筑前(五ヶ山町大野)方面に流れていた水を肥前側へ通す人工水路であり、1626年に築造された[2]。蛤岳の東側中腹にため池と1.5km程の導水路を築造し、南方の田手川に落ちる谷筋まで導水する仕組みである。「野越し」という一種のオーバーフロー設備が特徴であり、多雨期に水路が溢水して崩壊しないよう工夫されたものである。
2010年には土木学会選奨土木遺産に認定された。国道385号線坂本峠から蛤岳山頂に向かう九州自然歩道の途中にある。
逸話
吉野ヶ里町教育委員会によると、蛤水道には以下のような伝承がある。
水路とため池築造の影響で、筑前黒田藩側の大野川(現代の東脊振トンネル北側にある)に落ちる谷筋に向かう水量が激減し、麓の筑前側の大野集落が水不足に陥った。大野集落の民によって水道の破壊が謀られたが、実行には警備の目を欺くため「お万」という子持ちの女性が選ばれた。だが、あまりの警備の厳しさから果たすことができなかった。その際には、お万は泣き声で見つかることを恐れ連れていた乳飲み子を滝壺に捨て[3]、自らも池に身を投じた。子を捨てた滝を「稚児落としの滝」、お万が身を投じた池を「お万ヶ池」と呼び、今も水道の源付近にその名を残している。その後、蛤水道の水路さらえには、お万の霊が必ず雨を降らせたり曇らせたりし、作業を妨げるという言い伝えがある。
また、肥前側の小川内村での伝承によると、江戸時代の当時水不足に陥ったのは麓の大野集落ではなく(大野集落は大野川からは引水しておらず)、大野川下流の那珂川流域の平野部付近(筑前国)であり、「お万」と言う女性はその下流集落から水路の変更を謀りに来ていたと言う。
なお史実として、茂安はその後「野越し」という一種のオーバーフロー設備を作り、筑前側にも少々の水が流れるように改良した。これは、水路の損壊防止が主眼であり、増水時でないと大野川方面にはほとんど流下しない。蛤水道は藩や市町村により平成時代まで維持、改良され続けており、昭和、平成期の改修で、ため池中央部に導水路取水口を進出造成させている。水路全体も昭和27年にはコンクリート造に改修され、野越しも含めて現代も機能している[4]。コンクリート改修の際に取水口をため池上流部に設置したため、大野川にも常時若干量が流れるようになった。また、昭和や平成の福岡県側渇水時には、何らかの諮いにより水路側からも大野川側に水が流される事があったと言う[5][6][7]。なお、大野川の麓一帯では2017年度(平成29年度)完成を目指して五ヶ山ダムが建設中である。
この故事の数10年後、脊振山頂付近で国境の争いがあり、元禄6年(1693年)に幕府の裁定が下りている[8]。なお、この争論(肥筑国境争論)で蛤岳付近の国境についても議論に俎上したが、裁定上は何ら影響が無かった[9]。
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コンクリート化された溝渠
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野越し
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水路の横にはさらえ上げた土砂が積まれている
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水源地と成富兵庫茂安公記念碑
脚注
- ^ 蛤岳山地はほぼ全てが肥前側にある
- ^ http://www.qscpua.or.jp/dobokuisan/kobetsu/02saga/10hamagurisuidou/hamagurisuidou.html
- ^ お万が稚児を放置して身を投げ、肥前の役人が稚児を福岡側に連れてきたが泣き叫ぶので滝壺に遺棄したとするものもある。
- ^ 北緯33.414257・東経130.387577付近
- ^ 蛤水道の故事(2005年9月21日時点のアーカイブ)
- ^ http://www5b.biglobe.ne.jp/~ms-koga/201hamagurisuido.html
- ^ なお、蛤水道に関する教育資料では「野越し」から「那珂川」に流下するとしている物があるが、那珂川支流の「大野川」に流下するのが正しく、地形上は那珂川本流に自然流下することはない。
- ^ [1]、「黒田新続家譜」(黒田藩)、「肥前脊振弁財嶽境論御記録」
- ^ http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/10795/%EF%BD%90215.pdf