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「霊仙」の版間の差分

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== 概要 ==
== 概要 ==
霊仙の出自については幾つかの説があるが、滋賀県醒井の松尾寺住職等の努力により[[2000年]]([[平成]]12年)「霊仙三蔵顕彰の会」が発足し、「霊仙三蔵記念堂」が松尾寺内に設けられた。霊仙三蔵記念館に寄れば霊仙は、[[息長氏]]丹生真人族の中より霊仙山麓の地に生まれ、幼くして仏門に入り金勝寺別院霊山寺、その後[[興福寺]]で学んだとされている<ref>[https://web.archive.org/web/20090217021032/http://www.kibori-samegai.jp/around/index.html 周辺のご案内 霊仙三蔵記念堂](2009年2月17日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) - 醒井木彫り美術館</ref>。
霊仙の出自については幾つかの説があるが、滋賀県醒井の松尾寺住職等の努力により[[2000年]]([[平成]]12年)「霊仙三蔵顕彰の会」が発足し、「霊仙三蔵記念堂」が松尾寺内に設けられた。霊仙三蔵記念館に寄れば霊仙は、[[息長氏]]丹生真人族の中より霊仙山麓の地に生まれ、幼くして仏門に入り金勝寺別院霊山寺、その後[[興福寺]]で学んだとされている<ref>[https://web.archive.org/web/20090217021032/http://www.kibori-samegai.jp/around/index.html 周辺のご案内 霊仙三蔵記念堂](2009年2月17日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) - 醒井木彫り美術館</ref>。


興福寺で学んだ後、[[804年]]([[日本|和]]の[[延暦]]23年、唐の[[貞元 (唐)|貞元]]20年)には第18次[[遣唐使]]の一人として45歳で入唐した。同期に[[最澄]]・[[空海]]・[[橘逸勢]]らがいる。[[長安]]で学び[[810年]](唐の[[元和 (唐)|元和]]5年)には醴泉寺(れいせんじ)にて、[[カシミール]]から来た[[般若 (僧)|般若三蔵]]が請来した「大乗本生心地観経」を翻訳する際の筆受<ref>ひつじゅ。[[仏教用語一覧|仏教用語]]の一つ。経典を[[漢訳]]する際に、[[サンスクリット|梵語]]の口述を[[漢文]]で筆記する係の者。また、口述筆記することを指す。</ref>・訳語(おさ)<!--判る人は脚注書いて。現代の通俗語と同義?-->を務めた。[[811年]](唐の元和6年)、「三蔵法師」の[[号 (称号)|号]]を与えられる。時の唐の皇帝・[[憲宗 (唐)|憲宗]]は[[仏教]]の熱心な保護者であり霊仙も寵愛を受けて[[大元帥法]]の秘法を受ける便宜を与えられるが、仏教の秘伝が国内から失われることを恐れた憲宗によって日本への帰国を禁じられた。憲宗が反仏教徒に暗殺されると、迫害を恐れて[[五台山 (中国)|五台山]]に移る。
興福寺で学んだ後、[[804年]]([[日本|和]]の[[延暦]]23年、唐の[[貞元 (唐)|貞元]]20年)には第18次[[遣唐使]]の一人として45歳で入唐した。同期に[[最澄]]・[[空海]]・[[橘逸勢]]らがいる。[[長安]]で学び[[810年]](唐の[[元和 (唐)|元和]]5年)には醴泉寺(れいせんじ)にて、[[カシミール]]から来た[[般若 (僧)|般若三蔵]]が請来した「大乗本生心地観経」を翻訳する際の筆受<ref>ひつじゅ。[[仏教用語一覧|仏教用語]]の一つ。経典を[[漢訳]]する際に、[[サンスクリット|梵語]]の口述を[[漢文]]で筆記する係の者。また、口述筆記することを指す。</ref>・訳語(おさ)<!--判る人は脚注書いて。現代の通俗語と同義?-->を務めた。[[811年]](唐の元和6年)、「三蔵法師」の[[号 (称号)|号]]を与えられる。時の唐の皇帝・[[憲宗 (唐)|憲宗]]は[[仏教]]の熱心な保護者であり霊仙も寵愛を受けて[[大元帥法]]の秘法を受ける便宜を与えられるが、仏教の秘伝が国内から失われることを恐れた憲宗によって日本への帰国を禁じられた。憲宗が反仏教徒に暗殺されると、迫害を恐れて[[五台山 (中国)|五台山]]に移る。

2017年9月4日 (月) 23:44時点における版

霊仙(りょうせん、759年?(天平宝字3年?) - 827年?(天長4年?))は日本平安時代前期の法相宗である。日本で唯一の三蔵法師。出自については不明であるが、近江国(現・滋賀県)の出身とも阿波国(現・徳島県)出身とも伝えられる。「霊船」「霊宣」「霊仙三蔵」とも称される。

概要

霊仙の出自については幾つかの説があるが、滋賀県醒井の松尾寺住職等の努力により2000年平成12年)「霊仙三蔵顕彰の会」が発足し、「霊仙三蔵記念堂」が松尾寺内に設けられた。霊仙三蔵記念館に寄れば霊仙は、息長氏丹生真人族の中より霊仙山麓の地に生まれ、幼くして仏門に入り金勝寺別院霊山寺、その後興福寺で学んだとされている[1]

興福寺で学んだ後、804年延暦23年、唐の貞元20年)には第18次遣唐使の一人として45歳で入唐した。同期に最澄空海橘逸勢らがいる。長安で学び810年(唐の元和5年)には醴泉寺(れいせんじ)にて、カシミールから来た般若三蔵が請来した「大乗本生心地観経」を翻訳する際の筆受[2]・訳語(おさ)を務めた。811年(唐の元和6年)、「三蔵法師」のを与えられる。時の唐の皇帝・憲宗仏教の熱心な保護者であり霊仙も寵愛を受けて大元帥法の秘法を受ける便宜を与えられるが、仏教の秘伝が国内から失われることを恐れた憲宗によって日本への帰国を禁じられた。憲宗が反仏教徒に暗殺されると、迫害を恐れて五台山に移る。

825年(唐の宝暦2年、和の天長2年)には淳和天皇から渤海の僧・貞素に託された黄金を受け取り、その返礼として仏舎利経典を貞素に託して日本に届けさせた。日本側は貞素の労苦を労うとともに霊仙への追加の黄金の送付を依頼し、また日本に残された霊仙の弟妹に阿波国の千束を支給するよう計らった。その後、828年(唐の大和2年、和の天長5年)までの間に没したようで一説によれば霊境寺の浴室院で毒殺されたという。唐に渡ってから死ぬまで日本の地を踏むことはなかった。

840年(唐の開成5年、和の承和7年)7 - 8月、霊境寺に立ち寄った円仁が入唐留学僧・霊仙の最期の様子を聞いている。また、円行常暁が入唐した際には霊仙の門人であった僧侶から手厚く遇されて霊仙の遺物や大元帥法の秘伝などを授けられて日本に持ち帰ったという。

脚注

  1. ^ 周辺のご案内 霊仙三蔵記念堂(2009年2月17日時点のアーカイブ) - 醒井木彫り美術館
  2. ^ ひつじゅ。仏教用語の一つ。経典を漢訳する際に、梵語の口述を漢文で筆記する係の者。また、口述筆記することを指す。

参考文献

関連項目

外部リンク