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中野は[[1935年]]の全日本学生テニス選手権(通称インカレ)で初めてベスト4に入り、この年から「全日本テニスランキング」のトップ10位以内に入った。[[1937年]]から男子テニス国別対抗戦・[[デビスカップ]]の日本代表選手に選ばれ、海外の[[グランドスラム (テニス)|グランドスラム大会]]にも挑戦を始める。[[1937年]]のデビスカップ「アメリカン・ゾーン」1回戦で、日本は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に5戦全敗を喫した。当時のアメリカ代表選手は[[ドン・バッジ]]、[[ジーン・マコ]]、[[フランク・パーカー]]の3人であり、中野と[[山岸二郎]]は彼らに全く歯が立たなかった<ref>[http://www.daviscup.com/en/results/tie/details.aspx?tieId=10004601 Davis Cup - Tie details - 1937 - USA v Japan]</ref>。中野のグランドスラム大会初出場は、2か月後の[[1937年ウィンブルドン選手権]]であり、ここでは3回戦まで進出した。[[1937年全米選手権 (テニス)|1937年全米選手権]]では、中野と山岸の2人が男子シングルス4回戦に進出する。中野は第2シードの[[ボビー・リッグス]]に 6-3, 5-7, 3-6, 6-8 で敗れ、山岸は当時18歳の[[ジョー・ハント]]に敗れた。1937年の中野と山岸を最後に、日本人男子選手は全米選手権(現在の[[全米オープン (テニス)|全米オープン]])で上位に進出できなかった。
中野は[[1935年]]の全日本学生テニス選手権(通称インカレ)で初めてベスト4に入り、この年から「全日本テニスランキング」のトップ10位以内に入った。[[1937年]]から男子テニス国別対抗戦・[[デビスカップ]]の日本代表選手に選ばれ、海外の[[グランドスラム (テニス)|グランドスラム大会]]にも挑戦を始める。[[1937年]]のデビスカップ「アメリカン・ゾーン」1回戦で、日本は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に5戦全敗を喫した。当時のアメリカ代表選手は[[ドン・バッジ]]、[[ジーン・マコ]]、[[フランク・パーカー]]の3人であり、中野と[[山岸二郎]]は彼らに全く歯が立たなかった<ref>[http://www.daviscup.com/en/results/tie/details.aspx?tieId=10004601 Davis Cup - Tie details - 1937 - USA v Japan]</ref>。中野のグランドスラム大会初出場は、2か月後の[[1937年ウィンブルドン選手権]]であり、ここでは3回戦まで進出した。[[1937年全米選手権 (テニス)|1937年全米選手権]]では、中野と山岸の2人が男子シングルス4回戦に進出する。中野は第2シードの[[ボビー・リッグス]]に 6-3, 5-7, 3-6, 6-8 で敗れ、山岸は当時18歳の[[ジョー・ハント]]に敗れた。1937年の中野と山岸を最後に、日本人男子選手は全米選手権(現在の[[全米オープン (テニス)|全米オープン]])で上位に進出できなかった。


翌[[1938年]]にも、中野は山岸とともに多忙な海外遠征の生活を送った。この年は、彼にとって唯一の[[1938年全仏選手権 (テニス)|全仏選手権]]出場があり、この大会でも4回戦まで勝ち進んだ。全仏3回戦で、中野は第7シードの[[ジーン・マコ]]を 6-1, 6-3, 4-6, 6-0 で破る勝利を挙げたが、続く4回戦でフランティシェク・チェイナー([[チェコスロバキア]])に 4-6, 3-6, 3-6 のストレートで敗れた<ref>{{PDFlink|[http://web.archive.org/web/20070930201232/http://www.fft.fr/rolandgarros/pdfpalmares/hommes1938_fra.pdf Roland-Garros 1938]}}(2007年9月30日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。8月12日-14日にかけて、デビスカップ「アメリカン・ゾーン」決勝が[[カナダ]]・[[モントリオール]]で開かれ、日本は[[オーストラリア]]と対戦した。シングルス第1試合で山岸が[[ジョン・ブロムウィッチ]]を 6-0, 3-6, 7-5, 6-4 で倒した勝利の後、中野は第2試合で[[エイドリアン・クイスト]]に 3-6, 6-4, 7-9, 1-6 で敗れた。クイストは後に『テニスの偉人たち-1920年代から1960年代』という回想録を著したが、その中で山岸のプレーを高く評価している。その一方で「中野は山岸ほどの力はなかった」とも書き残した。[[1939年]]、中野は全日本テニスランキング1位に選ばれた。
翌[[1938年]]にも、中野は山岸とともに多忙な海外遠征の生活を送った。この年は、彼にとって唯一の[[1938年全仏選手権 (テニス)|全仏選手権]]出場があり、この大会でも4回戦まで勝ち進んだ。全仏3回戦で、中野は第7シードの[[ジーン・マコ]]を 6-1, 6-3, 4-6, 6-0 で破る勝利を挙げたが、続く4回戦でフランティシェク・チェイナー([[チェコスロバキア]])に 4-6, 3-6, 3-6 のストレートで敗れた<ref>{{PDFlink|[http://web.archive.org/web/20070930201232/http://www.fft.fr/rolandgarros/pdfpalmares/hommes1938_fra.pdf Roland-Garros 1938]}}(2007年9月30日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。8月12日-14日にかけて、デビスカップ「アメリカン・ゾーン」決勝が[[カナダ]]・[[モントリオール]]で開かれ、日本は[[オーストラリア]]と対戦した。シングルス第1試合で山岸が[[ジョン・ブロムウィッチ]]を 6-0, 3-6, 7-5, 6-4 で倒した勝利の後、中野は第2試合で[[エイドリアン・クイスト]]に 3-6, 6-4, 7-9, 1-6 で敗れた。クイストは後に『テニスの偉人たち-1920年代から1960年代』という回想録を著したが、その中で山岸のプレーを高く評価している。その一方で「中野は山岸ほどの力はなかった」とも書き残した。[[1939年]]、中野は全日本テニスランキング1位に選ばれた。


[[1939年]]に[[第二次世界大戦|第2次世界大戦]]が始まり、日本の男子テニス選手たちも少なからぬ人が戦死した。中野も戦時中は兵役に就いたが、戦争を無事に切り抜けて、終戦後に[[復員]]を果たす。彼は直ちにテニス選手活動を再開し、[[1946年]]に全日本テニスランキング3位へ戻る。終戦後の[[全日本テニス選手権]]で、中野は[[1947年]]・[[1948年]]に男子シングルス2年連続優勝を成し遂げ、[[1949年]]と[[1952年]]に男子ダブルスで2勝を挙げた。[[1951年]]にようやく日本の[[デビスカップ]]復帰が認められ、36歳になった中野は終戦後最初のデビスカップ戦にも参加した。日本代表チームは[[熊谷一弥]]監督のもとで中野文照、[[藤倉五郎]]、[[隈丸次郎]]の3人が出場し、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]チームは[[フランク・シールズ]]監督のもとで、[[ディック・サビット]]、[[ビル・タルバート]]、[[トニー・トラバート]]、[[ハーバート・フラム]]の4人が出場した。シングルス第1試合で、中野は当年度の[[1951年オーストラリア選手権 (テニス)|全豪選手権]]・[[1951年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]優勝者になったサビットに 5-7, 3-6, 2-6 のストレートで敗れた<ref>[http://www.daviscup.com/en/results/tie/details.aspx?tieId=10004602 Davis Cup - Tie details - 1951 - USA v Japan]</ref>。デビスカップ終了後の[[1951年全米選手権 (テニス)|全米選手権]]にも参加し、タルバートとの3回戦まで進出する。こうして日本テニス界は海外遠征を再開し、中野は戦前・戦後をまたいで日本の男子テニス界をリードした。[[1952年]]のデビスカップと全日本選手権を最後に、37歳で現役を引退する。[[1989年]][[12月30日]]、[[愛知県]][[瀬戸市]]にて74歳で死去。<!--各種新聞縮刷版で確認。死去の日時は「1989年12月30日、午後9時25分」と記されていた-->
[[1939年]]に[[第二次世界大戦|第2次世界大戦]]が始まり、日本の男子テニス選手たちも少なからぬ人が戦死した。中野も戦時中は兵役に就いたが、戦争を無事に切り抜けて、終戦後に[[復員]]を果たす。彼は直ちにテニス選手活動を再開し、[[1946年]]に全日本テニスランキング3位へ戻る。終戦後の[[全日本テニス選手権]]で、中野は[[1947年]]・[[1948年]]に男子シングルス2年連続優勝を成し遂げ、[[1949年]]と[[1952年]]に男子ダブルスで2勝を挙げた。[[1951年]]にようやく日本の[[デビスカップ]]復帰が認められ、36歳になった中野は終戦後最初のデビスカップ戦にも参加した。日本代表チームは[[熊谷一弥]]監督のもとで中野文照、[[藤倉五郎]]、[[隈丸次郎]]の3人が出場し、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]チームは[[フランク・シールズ]]監督のもとで、[[ディック・サビット]]、[[ビル・タルバート]]、[[トニー・トラバート]]、[[ハーバート・フラム]]の4人が出場した。シングルス第1試合で、中野は当年度の[[1951年オーストラリア選手権 (テニス)|全豪選手権]]・[[1951年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]優勝者になったサビットに 5-7, 3-6, 2-6 のストレートで敗れた<ref>[http://www.daviscup.com/en/results/tie/details.aspx?tieId=10004602 Davis Cup - Tie details - 1951 - USA v Japan]</ref>。デビスカップ終了後の[[1951年全米選手権 (テニス)|全米選手権]]にも参加し、タルバートとの3回戦まで進出する。こうして日本テニス界は海外遠征を再開し、中野は戦前・戦後をまたいで日本の男子テニス界をリードした。[[1952年]]のデビスカップと全日本選手権を最後に、37歳で現役を引退する。[[1989年]][[12月30日]]、[[愛知県]][[瀬戸市]]にて74歳で死去。<!--各種新聞縮刷版で確認。死去の日時は「1989年12月30日、午後9時25分」と記されていた-->

2017年9月4日 (月) 20:35時点における版

中野 文照(なかの ふみてる, 1915年1月13日 - 1989年12月30日)は、岐阜県瑞浪市出身の男子テニス選手。法政大学卒業。1930年代後半から1950年代初頭にかけて、日本男子テニス界を代表する選手として活動した。時代的には、1934年に投身自殺した佐藤次郎のすぐ後に位置している。彼と同年代のライバル選手には、慶應義塾大学山岸二郎や同じ法政大学の松本武雄などがいた。

1937年全米選手権1938年全仏選手権で4回戦に進出。この結果は錦織圭が並ぶまで日本人男子シングルス最後の各大会4回戦以上進出記録だった(全米は71年ぶり、全仏は75年ぶりに進出)。

人物

中野は1935年の全日本学生テニス選手権(通称インカレ)で初めてベスト4に入り、この年から「全日本テニスランキング」のトップ10位以内に入った。1937年から男子テニス国別対抗戦・デビスカップの日本代表選手に選ばれ、海外のグランドスラム大会にも挑戦を始める。1937年のデビスカップ「アメリカン・ゾーン」1回戦で、日本はアメリカに5戦全敗を喫した。当時のアメリカ代表選手はドン・バッジジーン・マコフランク・パーカーの3人であり、中野と山岸二郎は彼らに全く歯が立たなかった[1]。中野のグランドスラム大会初出場は、2か月後の1937年ウィンブルドン選手権であり、ここでは3回戦まで進出した。1937年全米選手権では、中野と山岸の2人が男子シングルス4回戦に進出する。中野は第2シードのボビー・リッグスに 6-3, 5-7, 3-6, 6-8 で敗れ、山岸は当時18歳のジョー・ハントに敗れた。1937年の中野と山岸を最後に、日本人男子選手は全米選手権(現在の全米オープン)で上位に進出できなかった。

1938年にも、中野は山岸とともに多忙な海外遠征の生活を送った。この年は、彼にとって唯一の全仏選手権出場があり、この大会でも4回戦まで勝ち進んだ。全仏3回戦で、中野は第7シードのジーン・マコを 6-1, 6-3, 4-6, 6-0 で破る勝利を挙げたが、続く4回戦でフランティシェク・チェイナー(チェコスロバキア)に 4-6, 3-6, 3-6 のストレートで敗れた[2]。8月12日-14日にかけて、デビスカップ「アメリカン・ゾーン」決勝がカナダモントリオールで開かれ、日本はオーストラリアと対戦した。シングルス第1試合で山岸がジョン・ブロムウィッチを 6-0, 3-6, 7-5, 6-4 で倒した勝利の後、中野は第2試合でエイドリアン・クイストに 3-6, 6-4, 7-9, 1-6 で敗れた。クイストは後に『テニスの偉人たち-1920年代から1960年代』という回想録を著したが、その中で山岸のプレーを高く評価している。その一方で「中野は山岸ほどの力はなかった」とも書き残した。1939年、中野は全日本テニスランキング1位に選ばれた。

1939年第2次世界大戦が始まり、日本の男子テニス選手たちも少なからぬ人が戦死した。中野も戦時中は兵役に就いたが、戦争を無事に切り抜けて、終戦後に復員を果たす。彼は直ちにテニス選手活動を再開し、1946年に全日本テニスランキング3位へ戻る。終戦後の全日本テニス選手権で、中野は1947年1948年に男子シングルス2年連続優勝を成し遂げ、1949年1952年に男子ダブルスで2勝を挙げた。1951年にようやく日本のデビスカップ復帰が認められ、36歳になった中野は終戦後最初のデビスカップ戦にも参加した。日本代表チームは熊谷一弥監督のもとで中野文照、藤倉五郎隈丸次郎の3人が出場し、アメリカチームはフランク・シールズ監督のもとで、ディック・サビットビル・タルバートトニー・トラバートハーバート・フラムの4人が出場した。シングルス第1試合で、中野は当年度の全豪選手権ウィンブルドン優勝者になったサビットに 5-7, 3-6, 2-6 のストレートで敗れた[3]。デビスカップ終了後の全米選手権にも参加し、タルバートとの3回戦まで進出する。こうして日本テニス界は海外遠征を再開し、中野は戦前・戦後をまたいで日本の男子テニス界をリードした。1952年のデビスカップと全日本選手権を最後に、37歳で現役を引退する。1989年12月30日愛知県瀬戸市にて74歳で死去。

1930年代後半に中野文照と山岸二郎が活躍した後、日本男子テニス界からグランドスラム大会の上位に進出できる選手は少なくなった。中野と山岸の2人が4回戦に進んだ1937年全米選手権から71年後、2008年全米オープン錦織圭が4回戦に進み、1968年の「オープン化時代」以後では初の快挙を果たした。錦織は2013年の全仏オープンでも4回戦に進み、同大会では中野以来75年ぶりと報じられた。

脚注

  1. ^ Davis Cup - Tie details - 1937 - USA v Japan
  2. ^ Roland-Garros 1938 (PDF) (2007年9月30日時点のアーカイブ
  3. ^ Davis Cup - Tie details - 1951 - USA v Japan

参考文献

  • 日本テニス協会発行『テニス・プレーヤーズ・ガイド』 2006年版(104ページ・180ページ) 本書中に、没年月日「1990年1月20日」のミスがある。
  • Adrian Quist, compiled by Jack Egan “Tennis the Greats: 1920-1960” (テニスの偉人たち-1920年代から1960年代) William Collins Pty Ltd., Sydney (1984) ISBN 0-00-217326-3 // ISBN 0-642-52720-2  本書からは97ページを参照した。
  • 中日新聞縮刷版・1989年12月(12月31日付で、中野の訃報を掲載。他紙では1990年1月1日付で掲載されている)

外部リンク