「八甲田雪中行軍遭難事件」の版間の差分
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2017年9月4日 (月) 19:39時点における版
八甲田雪中行軍遭難事件(はっこうだせっちゅうこうぐんそうなんじけん)は、1902年(明治35年)1月に日本陸軍第8師団の歩兵第5連隊が青森市街から八甲田山の田代新湯に向かう雪中行軍の途中で遭難した事件。訓練への参加者210名中199名が死亡(うち6名は救出後死亡)するという日本の冬季軍事訓練における最も多くの死傷者が発生した事故であるとともに、近代の登山史における世界最大級の山岳遭難事故である。
雪中行軍
日本陸軍は1894年(明治27年)の日清戦争で冬季寒冷地での戦いに苦戦したため、さらなる厳寒地での戦いとなる対ロシア戦を想定し、それに向けて準備をしていた。日本陸軍にとって冬季訓練は喫緊の課題であった。対ロシア戦は2年後の1904年(明治37年)に日露戦争として現実のものとなった。
雪中行軍には青森から歩兵第5連隊210名が、弘前から歩兵第31連隊37名と民間の新聞記者1名が参加した。うち青森歩兵第5連隊が遭難した。
行軍の目的
- 青森歩兵第5連隊は、冬のロシア軍の侵攻で青森の海岸沿いの列車が動かなくなった際「青森〜田代〜三本木〜八戸」のルートを使ったソリでの物資輸送が可能かどうかを調査することが主な目的であった。最大の難所である青森~田代温泉間の雪中行軍演習が片道約20km、1月23日より1泊2日の予定で計画された[1]。行軍ルートは田代街道、現在の青森県道40号青森田代十和田線である。
- 弘前歩兵第31連隊の計画は「雪中行軍に関する服装、行軍方法等」の全般に亘る研究の最終段階に当たるもので、3年がかりで実行してきた雪中行軍の最終決算であった。「弘前〜十和田湖〜三本木〜田代〜青森〜浪岡〜弘前」の総距離224kmのルートで1月20日より11泊12日の行程であった[2]。
なお、両連隊は、日程を初め、お互いの雪中行軍予定を知らずに計画を立てた[注釈 1]。ただし、弘前連隊の行軍予定については東奥日報が1月17日発行の紙面上で報道していたことから、青森側には行軍予定の重複に気付いた者がいた可能性がある[3]。
行軍の準備
弘前第31連隊
弘前第31連隊が行軍命令を通知したのは1901年(明治34年)12月20日頃で、出発の1月前だった[2]。隊は志願者37名の少数精鋭に東奥日報から従軍記者1名を加えた計38名で編成された。出発に先立ち、同隊は行軍途中の村落や町役場に手紙で食料・寝具・案内人の調達を依頼した[2]。また、木こり、マタギ、農家から情報収集し、冬山では汗をかかないように工夫することや、足の指を油紙で巻き、唐辛子をまぶし、靴下を3枚履くなどの知識を得て実践していた[2]。行軍中は麻縄で隊員同士を1列に結んだ[2]。
青森第5連隊
青森第5連隊の第2大隊は1902年(明治35年)1月18日、行軍計画の立案者である神成大尉の指揮で予行演習を行った。これは小隊規模(約40名)の将兵とソリ1台で屯営~小峠間(片道約9km)を往復したもので、好天に恵まれて成功した。これを受け、大隊長の山口少佐は屯営~田代間は1日で踏破可能と判断。1月21日、山口少佐は行軍命令を下し、23日に出発することを定めた[4]。
行軍隊は210名の大編成で、1日分の食料(米、餅、缶詰、漬物、清酒)、燃料(薪と木炭)、大釜と工具など合計約1.2tをソリ14台で引く計画だった。ソリの重量は1台約80kgで最低4人で引くことになる。他に行李に詰めた昼食用の弁当一食分、糒1日分、餅2個(1個50匁=187.5g)の各自携行が命じられ、懐炉の携行が推奨された[5][6]。
出発前日、同行する軍医から凍傷予防と処置に関する事前注意があった。そこでは手指の摩擦や足踏などに加え、露営ではなるべく「睡眠セザル様注意スベキコト」と指示された[7]。即ち、本格的な休息は元から想定しておらず、後述の露営状況にあるように、十分な装備や準備を欠いていた。
遭難部隊・青森歩兵第5連隊
遭難した歩兵第5連隊は青森を衛戍地としていた。部隊の指揮を執っていたのは、第2大隊第5中隊長で陸軍歩兵大尉の神成文吉であった。神成大尉は秋田県出身で、陸軍士官学校ではなく陸軍教導団を経て陸軍歩兵二等軍曹に任官し、順次昇進して陸軍歩兵大尉となった人物で、平民の出身である。5連隊の雪中行軍は、第2大隊を中心に第5中隊長の神成大尉の隊を中心に行軍隊が編成されたが、第1大隊や第3大隊からも長期伍長が一部選抜された。
また、大隊長で陸軍歩兵少佐の山口鋠が随行した。山口少佐は遭難行軍の途中から指揮権を握ったという証言もあるが中隊には大隊本部が随行するのは通常でもあり、神成大尉の上官である山口鋠が最終的な責任者だった。
遭難経緯
第1日
1月23日午前6時55分に歩兵第5連隊は青森連隊駐屯地を出発。田茂木野において地元村民が行軍の中止を進言し、もしどうしても行くならと案内役を買ってでるが、これを断り地図と方位磁針のみで厳寒期の八甲田山踏破を行うことになった。
天候悪化
途中小峠までは障害もなく進軍できたが、ソリ隊が遅れ始めたため大休止とし昼食を摂った。この時、天候が急変し、暴風雪の兆しがあったことから、永井軍医の進言により、将校の間で進むか退くかの協議を行った。装備の不安と天候がさらに悪化することを恐れ、将校らは駐屯地へ帰営することを検討したが、見習士官や長期伍長など下士官を中心とする兵たちの反対と、田茂木野村で案内人を断って進軍したことなどにより行軍を続行した[8]。
悪化する天候と強風・深雪などの困難を極めながらもようやく大峠から6kmの馬立場まで進軍した。ここから鳴沢に向け積雪量が格段に深くなったため、行軍速度が落ち食料と燃料などを積んだソリ部隊は本隊より2時間以上遅れることとなった。神成大尉は第2、第3小隊計88名をソリ隊の応援に向かわせると同時に、設営隊15名を田代方面に斥候を兼ねた先遣隊として先行させた。
夕方5時頃、馬立場から鳴沢へ向かう途中でソリの放棄を決定した。ソリの荷物については、各輸送隊員が分散して持つこととなった。このとき炊飯用の銅釜を持たされた兵士が一番悲惨だったという。先遣隊として先行していた設営隊も進路を発見できず、道に迷っていたところを偶然にも本隊と合流した。見習士官を先導とする第2の斥候部隊を派遣したが、日没と猛吹雪により田代方面への進路も発見できなくなったため、やむなく部隊は露営場所を探すことになった。
第1露営地
午後8時15分、田代[注釈 2]まであと1.5kmの平沢の森まで進出した所が最初の露営地となった。『遭難始末』によれば、幅2m、長さ5m、深さ2.5mの雪壕を小隊単位に計5つ掘り、この面積約6畳ほどの壕に各40名が入った。覆いや敷き藁はなかったので保温性に乏しく、座ることもできなかった[9]。
夜9時頃までには行李隊も全て露営地に到着し、各壕に餅と缶詰、および木炭約6貫匁(約22.5kg)ずつが分配された。しかし40人あたりの木炭としては不足であり、各壕で一つずつしか炉火を起こせず交代で火に当たることになった上、点火に1時間余り掛かった。それと並行して炊事用の壕を掘開しようとしたが、8尺(約2.4m)掘っても地面に行き当たらず、やむなく壕の底の雪上に竈と釜を据えて炊飯作業を始めた。しかしまず火が容易に点かず、水は全て雪を溶かして得る必要があり、さらに火が起るにつれ床の雪が熱で溶けて釜が傾くなど問題が続出し、炊事作業は極めて難航した[10]。
第2日
帰営決定
1月24日午前1時頃、ようやく1食分の生煮えの飯が支給される。その後炊飯の終わった釜で酒も温めて分配したが、異臭を帯びて飲めなかった[11]。将兵は雪壕の側壁に寄り掛かるなどして仮眠を取ったが、厳しい風雪で気温がマイナス20℃以下まで下がり、眠ると凍傷になるとして軍歌の斉唱や足踏が命じられた。このため長くとも1時間半程度しか眠れなかった[12]。午前5時出発の予定だったが、多くの将兵が寒気を訴え凍傷者が続出する恐れが出たため、午前2時頃、事態を重く見た山口少佐ら将校たちは協議の結果、行軍の目標は達成されたと判断し、部隊の帰営を決定する。これを受けて部隊は午前2時半に露営地を出発した[13]。
遭難
部隊は馬立場を目指すが午前3時半頃に鳴沢付近で峡谷(ゴルジュ)に迷い込んでしまった。やむなく前露営地へ引き返すこととなったが、この時佐藤特務曹長が田代への道を知っているとの言を山口少佐が聞き、独断で「然らば案内せよ」と命じた。しかし佐藤特務曹長は道を誤り、結局沢への道を下った所は駒込川の本流であった。その頃は全員疲労困憊しており、隊列も整わず統制に支障が出始めた。山口少佐は、駒込川に至ったことで佐藤特務曹長の進言が誤りだったことに気付くが、元来た道は吹雪により消されており部隊は完全に遭難状態となった。
崖登り
仕方なく部隊は崖をよじ登ることになる。ここで崖を登れず落伍する兵が出てしまった。駒込川の沢を脱出する際、第4小隊の水野忠宜中尉(華族、紀伊新宮藩藩主水野忠幹の長男)が卒倒凍死し、部隊の士気が下がった。
彷徨
一行は崖を登って高地に出たが、改めて猛烈な暴風雪に曝され、そこから今度は鳴沢上流の山陰に向けて進んだ。以後、部隊は安全な場所を求めて彷徨した。「遭難始末」はこの日の現地は風速29m/s前後、気温零下20~25°C以下、積雪は渓谷の深い場所で6~9mという悪条件だったと推測している。このためこの間を通じて総員の4分の1が凍死または落伍した。特に行李運搬手は数名しか残らず、残った者も荷物を投棄していた[14]。夕刻に未だに大釜を背負っていた山本徳次郎一等卒(生還)などは、見かねた倉石大尉が釜を捨てさせた[15]。
第2露営地
この日の行軍は14時間半に及んだが、結局、前露営地より直線距離にしてたった約700m進んだだけで、夕方頃に鳴沢付近にて凹地を発見し露営地とした。なお2015年現在、青森県県道40号沿いに第1第2露営地跡の標識が立っているが、この間は徒歩約10分ほどの距離である。部隊は統制が取れない上、雪濠を掘ろうにも道具を所持していた隊員は全員落伍して行方不明となっており、文字通り吹曝しの露天に露営する状態となった。食料は各自が携帯していた糒と餅の残りと缶詰があったが、凍結して殆ど喫食不可能だった。凍傷者を内側に囲むように固まり、軍歌や足踏み、互いに摩擦するなどして睡魔と空腹に耐えたが、猛吹雪と気温低下で体感温度が−50°C近く、前日よりほとんど不眠不休で絶食状態であるため、ここで多数の将兵が昏倒し凍死していった。この遭難で最も多くの犠牲者が発見された場所である。
青森屯営
一方、青森では帰営予定日時になっても帰営しない行軍隊を迎えに行くため、川和田少尉以下40名が田茂木野まで出迎えに行き24時まで待ったものの消息がなかった。この日は弘前連隊へ転出する松木中尉の送別会を催していたが、出席者は「この場で行軍隊が戻ってきたらうれしい話だな」などと悠長に話し合っていた。
第3日
1月25日も夜明けを待って出発の予定であったが、凍死者が続出したため、やむなく午前3時頃、部隊は馬立場方面を目指して出発した。この時点で死者、行方不明者合わせて70名を超えていた。その他の兵士も多くは凍傷にかかっていた。方位磁針は凍りついて用を成さず、地図を頼りに、ほぼ勘に頼っての行軍となっていた。
彷徨
鳴沢の辺りまで一度は辿り着くも、風が強く断崖に達したため進行が不可能になり引き返した。その後再度反対方向に進行するも、前方を山に遮られ道を失った。のちの後藤伍長の証言によれば、大隊本部の将校、神成大尉らが協議の上「ここで部隊を解散する。各兵は自ら進路を見出して青森または田代へ進行するように」と命令したとされる。また小原伍長の証言によれば、新田次郎の小説やドラマで有名な台詞の元となる「天は我らを見捨てたらしい」[注釈 3][注釈 4][注釈 5][注釈 6][16]というような言葉をこの場所で神成大尉が吐いたとされる[17]。このため、それまで何とか落伍せずに頑張っていた多くの兵士が、この一言により箍が外れ、矛盾脱衣を始める者、「この崖を降りれば青森だ!」と叫び川に飛び込む者、「筏を作って川下りをして帰るぞ」と叫び樹に向かって銃剣で切りつける者など発狂者が出てくるほか、凍傷で手が効かず袴のボタンを外せぬまま放尿しそこからの凍結が原因で凍死する者など死者が続出した。
ただし、実質的に部隊の統制が取れなくなっていたことはともかく、この時同行していた生存者である伊藤中尉は晩年に至っても「部隊が途中で解散した」と巷で定説のように扱われている話を否定し続けた。
この彷徨で興津大尉以下約30名が凍死。昨晩の夕方から興津大尉は凍傷にかかっており櫻井看護長らが手当てしていた[注釈 7]。さらに後に生存者として発見される兵士を含む十数名が行方不明となる。長谷川特務曹長は滑落し道に迷い、彼に従った数名は午後2時頃平沢の炭小屋を発見しそこに滞在した。マッチで火を起こし暖を取ったが全員疲労が激しく睡魔に襲われ、焚火の番をするのが困難だったため、翌1月26日午前3時頃に火事になる可能性を恐れ炭火を消し、その後は暖を取らなかった。本隊が露営地(第2露営地)に戻った頃に山口少佐が人事不省となり、倉石大尉は少佐に遺言を求めた。後藤伍長は少佐がこの時死んだものと判断したようである。
斥候隊
午前7時頃、多少天気が回復した際に大隊本部所属の倉石大尉は斥候隊を募り、田茂木野方面に高橋他一伍長以下7名、田代方面に渡辺幸之助軍曹以下6名の計13名を送り出した[18]。部隊は平静を取り戻したがそれも長くは続かず、午前10時頃、1人の兵士が遠目に兵士の隊列が行進するのを見て「救助隊が来た!」と叫び、他の者も「本当に来た!」「母ちゃ~ん!」と叫び始めた。倉石大尉はラッパ卒に命じて号音を吹かせようとしたが、ラッパが唇に凍りつき、腹にも力が無くまともに吹けなかった。しかし11時まで待っても救援隊の様子が変わらないので、よくよく見ると風に吹き荒らされる樹列だと判明し、一同は呆然と士気阻喪した[19]。
高橋班に属する佐々木霜吉一等卒が帰路を発見した。午前11時30分頃高橋斥候長が自ら戻ってきて、帰路を発見し田茂木野方面へ進軍中と報告した。本隊は正午頃出発し、戻ってきた斥候隊について行った。この時点で人員は60~70名(元の1/3以下)になっていた[20]。午後3時頃馬立場に到着し、そこでもう片方の渡辺幸之助軍曹らの合流を待ったが、彼らはついに戻らなかった。また、馬立場付近で帰路を発見した佐々木一等卒と高橋伍長は、その後重なり合うようにして凍死しているのを発見された。
以後行軍を再開したが、中ノ森東方山腹に達したところで薄暮を迎え、更に午後5時カヤイド沢東方鞍部に着いた頃、倉石大尉が気づいた時には大橋中尉、永井軍医が隊列から遅れ行方不明となっていた。永井軍医や桜井龍造看護長といった医療班は、兵の看護を無理をして続けていたが、その結果本人達も倒れてしまう結果となった。この頃には完全に部隊はばらばらになっていた。倉石大尉はカヤイド沢に降りて露営地を定め、伝令を送ったが、部隊は集まらなかった[20]。
合流、第3露営
『遭難始末』によれば、午後11時頃倉石大尉の一群は山口少佐の一行を探して出発し、午後12時頃に合流を果たして露営地に戻った[21]。この日の露営では互いに叫呼や打撃を加えて昏睡を防ぎ、凍死した将兵の背嚢を燃やすなどして寒さを凌いだものの多数の兵士が凍死した。
なお、この日と翌26日の記録は資料や証言者によって異同があり、それぞれ記憶違いか事実の別側面か不明である。
倉石大尉の証言によれば、山口少佐ではなく先行した神成大尉の一行とはぐれており、25日深夜を回った26日午前1時に合流を目指して出発したが、26日中はとうとう合流できなかった。27日に至って漸く神成大尉らと再会し、そこで協議の結果二手に分かれることを決めたという[22]。
また、後藤伍長の証言によれば、25日に山口少佐が死亡し、この日の夜の時点で生存者は71名いたが、田代に進むか田茂木野に戻るか方針が定まらず各自の任意行動となった。ここで倉石大尉は田代を目指すとして単身姿を消し、水野中尉は先導として進んで忽ち雪に沈むなど凍死者が続出した[23]。(山口少佐の死亡は誤認とされる。また水野中尉の死亡は通常24日とされる)
青森屯営
青森では天候が前日よりも良かったので今日こそは帰ってくるだろうと、古閑中尉以下40名は炊飯具を携行して幸畑で粥を作って待っていた。その一部は田茂木野村の南端でかがり火を作って夜まで待った。しかし夜中になっても到着しないことから、屯営では行軍隊が三本木方面に抜けているのではと考え、三本木警察に電報を出したが確認がとれず、翌日から救援隊を派遣することを決定した[24]。
第4日
1月26日、『遭難始末』によれば、倉石神成両大尉と比較的元気だった十数名が検討し、現在地から田茂木野まで凡そ2里(8km)以内だと判断して払暁を待って出発することとした。午前1時頃に人員を呼集すると約30名になっていた[25]。前日の露営で山口少佐が再び人事不省となり、少佐は兵卒に担がれる状態で行軍する。隊列は乱れに乱れ、先頭は神成大尉、倉石大尉と自然に決まっていたが、それ以外は所属も階級も関係なく、将兵が後から続く形となっていた。神成大尉らは前方高地を偵察しながら、また、倉石大尉は後方を進んでいた。
前日夜、後藤伍長は他の4~5人と共に露営中、絶食と寒気のため昏睡したが、幸運にも凍死せず26日朝に目覚めた。降雪もない晴天だったという。しかし周りに誰もおらず、見渡すと2人5人と兵士が散在して帰路を見定めようとしていた。そこで1人で帰路を求めて高地に登ったところ、神成大尉、鈴木少尉らと出会い、以後行動を共にした。この日の天気は晴れ時々雪だった[26]。
部隊は夕方までに中の森~賽の河原の間(所在不明)に到着し露営した。この日進んだ距離は通常なら2時間で進める程度だったが、激しい疲労と飢えのため1日を要した[22]。
救援隊による捜索
この日、村上一等軍医、三神少尉、下士卒60名の救援隊は屯営を出発した。途中村民を案内人として雇い大峠まで捜索活動を行ったが、案内人の調達に手間取り田茂木野出発が遅れたこと、およびこの日の気温は−14°Cであり、風雪も厳しく、案内人および軍医の進言により捜索を断念して田茂木野へ引き返した。
第5日
1月27日、生き残った部隊は協議し、二手に別れることとした。青森に向かって左手の田茂木野を目指す神成大尉一行数名と、同右手の駒込澤沿いに進行し青森を目指す倉石大尉(山口少佐含む)の一行約20名である。なお、『遭難始末』は2隊に分れた日を26日としているが、倉石大尉の証言によれば27日が正しい[22]。
倉石大尉の一行は駒込川方面を進むが、途中青岩付近で懸崖にはまってしまい、進むことも戻ることもできなくなった。そのまま日没となり崖の陰に寄って夜を凌ごうとしていたところ、今泉三太郎見習士官が下士1名を伴い、連隊に報告すると告げ、大尉が制止するのも聞かず裸になって川に飛び込んだ[22]。倉石大尉は「川を下っていった」と述べているが、他の生存者の証言から川に飛び込んだのは間違いなく、3月9日に下流で遺体となって発見された。
神成大尉の一行は、道自体は比較的正確に進んでいたが、倉石大尉らと異なり猛吹雪をまともに受けたため落伍者が続出した。残り4人の中から鈴木少尉が高地を見に行くと言い、出発したがそのまま帰ってこなかった。3人となりしばらく留まる中で、及川篤三郎が危篤となったが手当てもできずそのまま死亡した。やむを得ず神成大尉と後藤伍長の2人は雪中を進むが、今度は神成大尉が倒れた。1月27日早朝、神成大尉は後藤伍長に「田茂木野に行って住民を雇い、連隊への連絡を依頼せよ」と命令した。後藤伍長は命を受けて1人で朦朧とした意識の中で危急を知らせるために田茂木野へ向けて歩いた。
救援隊による捜索と後藤伍長発見
救援隊は捜索活動を再開した。田代まで進軍し雪中行軍隊と接触しようと、尻込みする案内人を説得して行進した。午前10時半頃、三神少尉率いる小隊が大滝平付近で雪中に佇立する後藤房之助伍長を発見した。後藤伍長本人はこの時のことを「其距離等も詳かに知る能はず、所謂夢中に前進中救護隊の為めに救助せられたるものなり」[26]と述べている。ここで雪中行軍隊が遭難したことが判明した。
発見時の様子については複数の説がある。
- 1月29日付東奥日報によれば、救援隊が遠目に人らしいものが1~2歩動くのを認めて近付くと、後藤伍長が直立したまま身動きせず目だけをギロギロさせており、大声で呼び掛けると初めて気が付いた様子で言葉を発した。
- 同紙の1月30日付号外によれば、救援隊に気付いて大声で叫び、気が緩んだのかその場で倒れた。この描写が29日記事の描写に続くものかは不明確。
- 同年7月23日発行の『遭難始末』によれば、目を開けたまま仮死状態で立っており、近付いて救急処置を施して約10分後に蘇生した[27]。この説は以後『仮死状態で歩哨の如く立っていた』などと喧伝され、後に銅像が建立された。
神成大尉らの遺体発見
意識を取り戻した伍長が「神成大尉」と微かに語ったため、付近を捜索すると約100m先に神成大尉が倒れていた。大尉は全身凍っていた上、帽子も手袋も着けておらず雪に首まで埋まっていた。軍医は腕に気付け薬を注射しようとしたが、皮膚まで凍っていたため針が折れた。その後口を開けさせ口腔内に針を刺した。何か語ったように見えたが、蘇生せずそのまま凍死した。すぐ近くで及川篤三郎の遺体も発見された。2人の遺体は運ぶことができず、目印を付けてその場に置いたまま、後藤伍長と重度の凍傷で倒れた救援隊員1名のみ救護して田茂木野へたどりついた。
本部への報告
19時40分、三神少尉が連隊長官舎に駆け込み大滝平で後藤伍長を発見したことと雪中行軍が「全滅の模様」であること、2時間の捜索で「救助隊60余名中、約半数が凍傷で行動不可かつ1名が重度の凍傷で卒倒」となったことを知らせた。行軍隊が田代に到達したものと信じていた青森歩兵第五連隊長の津川謙光中佐は、この報告を聞いて青くなった。
第6日
1月28日倉石大尉らの一隊では、錯乱した佐藤特務曹長が下士兵卒を連れ川に飛び込んだが、岩に引っ掛かりそのまま凍死した。これに関しても倉石大尉は「連隊に連絡せんとて行きしまま行方不明」と述べている。倉石大尉ら数名は崖穴に入った。山口少佐がいる川岸の場所と、倉石大尉らのいる場所の2つに分かれて兵士がいたが、どちらかといえば倉石大尉らのいる所の方が場所的には良かった。倉石大尉は山口少佐にこちらに来るよう勧めたが、山口少佐は「吾は此処にて死せん」として拒否した[22]。この頃、山口少佐に水を与える役目になったのは、比較的動けた山本徳次郎であった。
弘前隊の通過
この日の朝、八甲田山を逆方向から行軍してきた弘前隊は田代付近の露営地を発ち、鳴沢~大峠経由で田茂木野を目指した。この行程は青森隊の遭難地を通過しており、その際に遭難者を見たという説がある(後述)。
第7日
1月29日、救助隊が神成大尉および及川伍長の遺体を収容し、各哨所も完成する[28]。
弘前隊の青森到着
午前2時過ぎ、前日より昼夜を徹して強行軍した弘前隊は田茂木野に到着した。同隊は民家で喫食したのち午前4時20分に再び出発し、午前7時20分に青森駅前に到着した。
第8日
1月30日、後藤惣助一等卒が倉石大尉らの場所に合流した[22]。
救助隊は賽の河原で中野中尉ら36名の遺体を発見した。この場所は倉石大尉らが駒込川の沢に降りていった道に当たる。「賽の河原」という地名は、以前にもここで凍死した村人が多数いたことに由来するといわれる。
第9日
1月31日午前9時頃、鳴沢付近で捜索隊に加わっていた人夫が、飛び出してきた兎を面白半分に追いかけたところ偶然炭小屋を発見した。人の気配がするので開けてみると2人の生存者がおり、三浦武雄伍長と阿部卯吉一等卒を救出した。朝まで生きていたというもう1人の遺体も発見した。この2名は軍医の質問に対し、25日朝に露営地から出発したところまでは覚えているが、それ以降は分からず、気づいたら小屋に飛び込んでいたと証言している[29]。小屋周辺では16名の遺体を発見した。この際、田村少佐は陸軍省に「生存者12名」と誤電報を送るがすぐさま「生存兵卒2、遺体10」だったと訂正している。なお、三浦伍長は救出後の入院中に死亡した(死亡は3月14日)。
鳴沢では他に水野忠宜中尉以下33名の遺体を発見し、大滝平付近で鈴木少尉の遺体を発見している。これについて某将校は、1902年2月6日付萬朝報に「故に某将校は鈴木少尉の死体を発見せし時、『是れ死後二十時間以上を経しものに非ず。捜索今一日早かりせば』とて深く捜索の緩慢なるを遺憾とす」(『救援隊到着がもう1日早ければ、もっと多くの将兵が助かっていただろう』)という記述を残している。
倉石大尉らの発見
午前9時頃から倉石大尉らが崖をよじ登り始め、15時頃、250mほど進んだ所で倉石大尉と伊藤中尉ら4人が救援隊に発見された。生存者は合計9人が救助されたが、高橋房治伍長、紺野市次郎二等卒は救出後死亡した。この際に救出された山口少佐も病院に収容されたが2月2日に死亡した。
弘前隊の帰営
この日弘前隊は弘前市郊外の連隊屯営に帰営し、雪中行軍の全日程を終えた。
第10日
2月1日、賽の河原付近にて数名、按ノ木森から中ノ森にかけては十数名の遺体を発見した。
第11日
2月2日捜索隊が大崩沢(平沢)付近で見付けた炭小屋において、長谷川特務曹長、阿部寿松一等卒、佐々木正教二等卒、小野寺佐平二等卒の4人の生存者が発見された。しかし佐々木二等卒、小野寺二等卒は救出後死亡した[30][31]。最初この炭小屋には8名の生存者がいたが、比較的元気な3名は屯営を目指して小屋を出発したのち全員凍死し、永井軍医は付近から聞こえた助けを求める声を探して小屋を出たきり戻らなかったという[32]。
15時頃には、最後の生存者となる村松伍長が古館要吉一等卒の遺体とともに田代元湯近くの小屋で発見された。村松伍長は四肢切断の上、一時危篤となったがかろうじて回復した。25日朝の遭難当時、村松伍長は古館一等卒らと共に本隊からはぐれ、青森を目指したが進路を誤り、26日午後にこの小屋を見付けた。中には茅が積まれていたがマッチが無かったため火を起こせず、翌日古館一等卒は死亡した。村松伍長は付近で見付けた温泉の湯を飲んで命をつないだが、30日以降は立てなくなり、以後はただ横臥して雪を食べていたという[33]。
生存者
最終的に生存したのは、倉石一大尉(山形)、伊藤格明中尉(山形)、長谷川貞三特務曹長(秋田)、後藤房之助伍長(宮城)、小原忠三郎伍長(岩手)、及川平助伍長(岩手)、村松文哉伍長(宮城)、阿部卯吉一等卒(岩手)、後藤惣助一等卒(岩手)、山本徳次郎一等卒(青森)、阿部寿松一等卒(岩手)の11人のみであった。
このほか山口少佐以下6名(三浦武雄伍長、高橋房治伍長、紺野市次郎二等卒、佐々木二等卒、小野寺二等卒)が救助された。しかしこれらの救出者は治療の甲斐なく死亡した。
生存した将兵も、倉石大尉、伊藤中尉、長谷川特務曹長以外、その全員が凍傷により足や手の切断を余儀なくされた。軽症な方では、及川はアキレス腱と指3本、山本は左足を切断した。その他は四肢切断(一部は両下肢と手指部のみ)であった。また、一番元気だった倉石大尉は日露戦争の黒溝台会戦で1905年1月27日に戦死した。伊藤中尉、長谷川特務曹長も重傷を負った。
遭難の詳細は生存者の証言がそれぞれ異なること、また軍部の圧力または情報操作により、戦争に向けて民間人の軍部への批判をかわすことを目的に、真実が隠されたり、歪曲された節がある。
山口鋠少佐の死因
2月2日に死亡した山口鋠少佐(大隊長)の死因は公式発表では心臓麻痺となっている。山口少佐は元々心臓が弱かったとの証言もある。しかし、遭難についての一切の責任を負わせるために軍部が暗殺したとする説や、ピストル自殺説(小笠原孤酒を取材した新田次郎が採っている)もある。最近では「凍傷の指で銃の操作は不可能」として新たな背景を探る松木明知の研究(死因はクロロホルムによるショック死)もある。
山口(養子のため改姓、旧姓は成澤)鋠は安政3年に幕臣の子として生まれ、義兄の英学者の渡部温[34]が沼津兵学校教授を務めていたため、幼少期を沼津で過ごした(年少のため入学はせず)。東京外国語学校[注釈 8]でフランス語を専攻し、陸軍士官学校から陸軍戸山学校に進む。日清戦争に従軍した後、青森の前任地は山形(歩兵第32聯隊)だった。
山口の最期を看取った軍医は山形衛戍病院からの応援者、中原貞衛である。担当の中原軍医が数年後に変死したことなどもあって、陸軍上層部による暗殺説もあるが、弘前大学医学部麻酔科の松木明知教授が、陸上自衛隊三宿駐屯地内にある彰古館(医療史博物館)が所蔵する『陸軍軍医学会雑誌』の「明治三十五年凍傷患者治療景況」に記載された山口少佐の死亡状況を医学的に分析したところ、クロロホルム麻酔による心臓麻痺の可能性が高いと指摘した。
山口少佐の生存が確認されたのは1月31日の夕刻であり、それまでは後藤伍長の言により死亡と思われていた。崖下からの引上げに手間取ったため、最終的に救助されたのは夜中で、応急処置の後、青森衛戍病院に入院したのは2月1日の夜である。入院時の記録では「膝下、肘下は重度の凍傷で手指は水膨れて膨張す」とある[35]。この記録によって、まず拳銃自殺は否定される。
少佐が死亡したのは2月2日午後8時半であるが、入院後わずか1日で死亡している。当時、東京-青森間は、直通列車で23時間を要し、電話も敷設されていなかったため、急を要する通信手段は電報に限られていた。遭難発生後の当時のその電報記録についても、その発信日時まで詳細に残っている[36]が、その中には陸軍上層部(陸軍大臣および第八師団長)による謀殺を匂わすような文言は一切ない。
よって、松木が主張するような「軍上層部による山口少佐謀殺説」は、それを裏付ける証拠もなく、以上のような時間的制約(すなわち、救出後わずか1日程度で陸軍大臣が師団長を通して連隊長に暗殺を命じることは時間的に不可能)もあり、謀殺の事実はほぼあり得ないと考えられる[37]。
松木の主張通りクロロホルム(クロロホルムは現在劇薬として取り扱われている[38])が死因だとすれば、治療ミスの可能性もあるが、救出後死亡した者の中には心臓麻痺が原因の者もおり、少佐の死因に特段の作為はないと考えられる。
救助活動
救助活動は青森連隊、弘前連隊、さらには仙台第5砲兵隊も出動した大掛かりな体制になり、延べ1万人が投入された。その後、生存者の収容の完了と捜索方法の確立とともに青森連隊独自で行った。
救助拠点は、幸畑に資材集散基地、田茂木野に捜索本部を置き、そこから哨戒所と呼ばれるベースキャンプを構築、前進させる方法が取られた。哨戒所は大滝平から最初の遭難地点の鳴沢まで合計15箇所設営予定であったが、実際にはいくつかが合併され、11箇所の設置にとどまった。
捜索方法
捜索は、生存者の証言と行軍計画を参照して行軍ルートを割出し、そのルートを重点として、横幅30m(およそ30人一列)になって、それぞれが所持する長さ10m程の竹棒を雪中に突き刺しながら前進し、少しでも違和感がある手応えを感知するとその下を掘削する方法が採られた。この作業は構築した哨戒所を拠点として、日中を6時間程かけて行い、遺体は哨戒所に一旦収容してから、捜索本部に集積した。1ヵ月も経過すると、捜索隊員によって雪が踏み固められたり、気温の変化で雪がシャーベット状になり、かなり固くなってしまった。そのため、竹棒では刺さらなくなり鉄棒で代用した。
また、捜索活動初期の頃、北海道から辨開凧次郎らアイヌ人一行を招き、および彼等が所有する猟犬(北海道犬)と共に捜索活動を行い、遺体発見でかなりの成果を挙げた。
遺体収容
発見された遺体は、1体に数人程度をかけて掘り出して哨戒所に運搬した。あまりに凍りついていたため、粗略に扱うと遺体が関節の部分から粉々に砕けるからであった。哨戒所にて衣服を剥いだ後、鉄板に載せられ直火にて遺体を解凍し、新しい軍服を着せてから棺に収容して本部まで運搬した。
水中に没した遺体は引き揚げ作業が難航し、そのまま流されてしまうものが多数あった。そのため、幸畑村を流れる駒込川に流出防止の柵を構築し、そこに引っ掛かった遺体から順次収容して行った。しかし、雪解けで水量が増加したこともあり、柵を越え海まで流された遺体もあった。
発見された遺体は、最終的に5連隊駐屯所に運ばれ、そこで遺族と面会、確認の後、そこで荼毘に付されるか故郷へ帰っていった。腐敗がひどく身元がなかなか判明しない遺体もあった。
最後の遺体収容は5月28日であった。
遭難の原因
原因は諸説あるが、決定的な原因ははっきりしていない。唱えられている原因を列挙する。
なお、映画「八甲田山」では三國連太郎演じる山田少佐が無謀な上司として描かれ、青森歩兵第5連隊の組織の問題が遭難原因の一つになっていること、また八甲田山死の彷徨(新田次郎 著)では、軍首脳部が考え出した寒冷地における人間実験が遭難原因との記述があるが、これらは映画や小説としての演出、創作であり史実とは異なる。
気象条件
雪中行軍が行われた時は、冬季に典型的な西高東低の気圧配置で、未曾有の寒気団が日本列島を襲っていた。日本各地で観測史上における最低気温を更新した日でもあった[注釈 9]。青森の気温は例年より8°Cから10°C程低かった。青森市内の青森測候所の1月24日の観測記録では最低気温が−12.3°C、最高気温は−8°C、最大風速14.3m/秒であり、山間部ではこれより厳しいものであった[2]。行軍隊の遭難した山中の気温は、観測係であった看護兵が記録も残せず死亡したため定かでないが、『遭難始末』は−20°C以下だったと推測している[39]。
貧弱な装備
雪中行軍時、将兵の装備は、特務曹長(准士官)以上が「毛糸の外套1着」「毛糸の軍帽」「ネル生地の冬軍服」「軍手1足」「長脚型軍靴」「長靴型雪沓」、下士卒が「毛糸の外套2着重ね着」「フェルト地の普通軍帽」「小倉生地の普通軍服」「軍手1足」「短脚型軍靴」と、冬山登山の防寒に対応しているとは言い難い装備であった。とくに下士官兵卒の防寒装備に至っては、毛糸の外套2枚を渡されただけである。
倉石大尉はゴム靴を持っていたことが結果として凍傷を防いだと言われるが、これは正月に東京に行った際にたまたま土産物として買っていたものであった。当時はまだ日本においてはゴム靴というのはハイカラな靴(いわゆるファッションブーツ)として扱われていたにすぎず、倉石大尉が本行軍で履いていたのは単なる偶然である。
指揮系統の混乱
雪中行軍隊の指揮官は行軍隊長の神成大尉であるが、これに山口少佐と若干名の大尉や見習士官、長期伍長が大隊本部として同行している。中隊に大隊本部が随行するのは通常の形でもあるが、山口少佐が神成大尉に断りもなく独断で指示をしていたとの証言もある。山口少佐は最終的な責任者であるが神成大尉との間に意思決定の不統一もあったと思われる。
極端な情報不足
神成大尉が雪中行軍隊の指揮を任されることになったのは、行軍実施の直前(約3週間前)である。それまでの担当者は夫人出産の立会いのため、任を解かれる形となった。そのため、実際の雪中行軍に対して神成大尉は何も予備知識を持たないまま準備作業に入るが、準備作業としては、予行演習の日帰り行軍を小峠まで新兵による小隊編成で行ったのみで、今回の雪中行軍参加者は誰一人参加していない。その行軍自体が晴天下で行われたこともあり、冬山登山や雪中行動の基本的リスクの抽出が結果として行われなかったことになる。なお、神成大尉に関しては、少なくとも将校になってから、雪中行軍に参加したとの記録はないし、参加将校の半分は雪国の出身ではない。また兵士たち自身が露営地において、凍傷で動けなくなることを恐れ、朝まで待たずに夜中に雪濠を出発したことも大きな原因である。このため部隊は暗夜道に迷い、鳴沢付近を彷徨することとなり、これが多くの兵の体力を奪い大量遭難につながった。
認識不足
雪中行軍参加者のほとんどは岩手県、宮城県など寒冷地の農家の出身者であったが、厳冬期の八甲田における防寒の知識(八甲田の雪は綿雪と呼ばれる乾雪と湿雪の中間のもので、岩手や宮城の湿雪とは性質が異なる)は皆無だった。さらに予備行軍が好天に恵まれ雪の中の遠足のようであったとの話も広まり、雪中行軍をトレッキングと同列に考えている者が多かったといわれる。第5連隊では、出発の前日に壮行会が開かれており、深夜まで宴会が行われていたことも、「過酷な行軍」との認識が希薄だったことを窺わせる。長谷川特務曹長は「田代といっても僅かに5里ばかりで、湯に入りに行くつもりで、たった手ぬぐい1本を持っただけだった」と語っている。実際はマッチや蝋燭のほか予備の足袋を持参していた。また、長谷川は凍傷の防止に対する知識があり、予備の足袋を手袋代わりに使用し、常に手の摩擦を怠らず、さらに軍銃の皮と毛皮製の外套の襟を剥がして足に巻き凍傷を防いでいた。後藤惣助一等卒(生還)は“山登り”ということで履物を普段の皮製の軍靴から地下足袋に換え、その上に藁沓を履いて参加した[40]。生存者の小原伍長の証言によれば、誰も予備の手袋、靴下を用意しておらず、装備が濡れてしまったら換えはなく、そこから凍傷が始まり、体温と体力を奪われ凍死していったという。小原伍長自身も「もしあの時、予備の軍手、軍足の一組でも余計にあれば自分は足や指を失わなかっただろうし、半分の兵士が助かっただろう」と後年、供述している。「遭難始末」ほか当時発刊された各種遭難顛末には、行軍前日、大隊長および軍医の命令として、防寒の充実、凍傷の防止、食事等について各小隊長に詳細な注意事項が伝えたとされているが、結果的にはその注意事項が兵卒にまで伝えられなかったか、聞いたものの格段の準備をしなかったものと思われる。
兵卒の生存者は全員山間部の出身で、普段はマタギの手伝いや炭焼きに従事している者達だった。彼等は冬山での行動にある程度習熟していたが、凍傷に関する知識はなく、平澤の炭小屋で救出された長谷川特務曹長の談によれば、炭焼小屋で兵卒が凍傷の手をじかに火にかざしたため見る間に火傷を負ったが誰もそれに気がつかず一層凍傷を悪化させる結果となったため、自らはすぐに火に当たらず、ひたすら手足の摩擦を行ったと供述している。なお、壮年の佐官を含め将校の生存確率が高いのは、下士官、兵卒のように銃を持っていなかったこと(三十年式歩兵銃は銃剣を含めて重量約4.5㎏、将校が帯刀する軍刀は約2㎏)、行李運搬に携わらなかったこと、野営中たき火に優先的に前面で当たることができたこと、防寒機能が高い装備(上質の羅紗仕立ての外套や長靴の着用)、携行品も独自の裁量が認められていた(懐炉、フランネルの下着など)が一因と言われている。
階級 | 参加者数 | 生存者数 | 生存率 |
---|---|---|---|
将校・同相当官(軍医) | 11 | 2 | 18.2% |
見習士官 | 2 | 0 | 0% |
准士官 | 4 | 1 | 25% |
下士(看護長含む) | 45 | 4 | 8.9% |
兵卒(看護手含む) | 148 | 4 | 2.7% |
合計 | 210 | 11 | 5.2% |
弘前歩兵第31連隊
弘前ルートで入山した弘前歩兵第31連隊38名も、激しい風雪に悩まされたが、ほぼ全行程で案内人を立てたお陰で見事に踏破を果たし、途中で足を痛めた1名を三本木から帰還させた以外は無事全員生還した。
1902年(明治35年)1月20日弘前を出発[2]。案内人は経由地で随時雇い直したので人物や人数は一定していない。1月27日朝、増沢を出発し田代を目指したが田代の小屋を発見できず、案内人の動揺を見て露営した。福島大尉の手記によれば、大きな枯木を中心に直径4m深さ2mの雪穴を掘って入り、中心の枯木は適宜刈って薪として利用し、立ったまま暖を取り餅を炙った。その間案内人には田代新湯への道を探させた。案内人は田代新湯を見付けられなかったが、代わりに空小屋を発見して戻った。弘前隊はこの小屋に移動したが全員入れる大きさが無く、2時間程交代で食事と休憩を取り朝を待ったのち、不眠のまま鳴沢~田茂木野を経由し青森までの強行軍を行った。
弘前第31連隊が全員無事帰還できた理由は下記のようなものとされている。
- 天候不良で田代新湯にたどり着けないと判断するや、穴を掘ってビバークし、案内人が休憩のできる小屋を発見するまで露営地に留まっていたこと。
- 部隊を率いた指揮官・福島泰蔵大尉が、寒冷に対するさまざまな工夫(例:雪中行軍の研究という目的から、隊員の荷物を最小限とし、食糧や藁靴など消耗品の補給、宿泊を全部現地の民間に委ねたことなど)を重ねたこと。
- 連隊が比較的少人数で、最後まで統率を失われなかったこと。
- 隊員に地元青森の出身者が多く、選抜に当たっても応募者の体格や素質が充分考慮されたこと。
- 福島大尉が過去2年間にわたり、岩木山雪中行軍などを実施しており、露営を含め、雪中行軍を熟知していたこと。
1月29日に、弘前歩兵第31連隊は早朝に青森に到着。地元の歓迎を受けるが、公式には、この日に青森隊の遭難を知ることになった。1月31日、弘前に到着。予定よりも1日多い11泊12日の行程で、故障のため中途で帰還した1名を除き全員が無事完遂した[2]。
行軍途中の遭難隊の目撃説
福島泰蔵大尉率いる弘前歩兵隊が青森隊の遭難を知ったのは公式には田茂木野に着いてからとされているが、途中凍死者および銃を見たとの記述が従軍記者による記事[注釈 10]や隊員の日記、案内人の証言記録などにある[41]。遭難者の顔を見ようと軍帽を外そうとしたところ、顔の皮膚まで剥がれて軍帽に付着したとの記述もある[42]。さらに弘前隊が田茂木野に着いた際、第5連隊遭難者を目撃した旨を福島大尉自身が報告したという資料が2002年に見つかっている。
しかし、福島大尉による「過去二日間の事は絶対口外すべからず」という命令やその後の軍の緘口令により、現地で見たこと、その他軍の不利になるようなことはすべて封じられた。自らも遭難しそうな状況下で救助は事実上不可能だったが、目撃の事実を隠蔽した理由として、遭難を発見しながら救助活動をしなかったことが推測されている。その後、第5連隊の後藤惣助一等卒(生還)の体験談として、救援隊と思しき一団を見て互いに気付いたが無視して通過されてしまい、後日弘前隊だったと知ったという旨の資料が見付かっている[43]。
案内人の証言と被害
31連隊と共に田代への道案内で駆り出された地元の一般人も後遺症の残る凍傷などの被害を受けている。国などから補償のあった遭難兵士と違い、道案内の地元民には1人2円の案内料以外は渡されていない[注釈 11]。
後日発表された当時の案内人の言によれば、実際には田代に向けた行進において、引き返すことを進言した案内人を叱り飛ばし無理矢理案内をさせたばかりか、田代近辺の露営地に着くなり休憩する間も与えず、案内人の一部を人質として拘束した上で、残りの者に田代新湯への斥候を命じたとある。結局、新湯は見つからず、途中に発見した開拓者の小さな小屋を明け方に発見し、全員は中に入りきれないので足踏みをしながら朝まで交代で小屋の内外で休憩をした。
また、31連隊の福島隊は、八甲田山系の最難関を通過後、小峠付近で疲労困憊の案内人たちを置き去りにして部隊だけで田茂木野に行軍していった。これら案内人はすべて重度の凍傷を負い、うち一人は入院するも回復せず、廃人同様となったまま16年後に死亡、また別の一人は凍傷のため頬に穴があき、水を飲むのにさえ苦労したという。これらの事実は1930年(昭和5年)になって初めて明らかにされたが、地元では“七勇士”として、その功績を称える石碑も翌年に建立された[44][45]。
その後の雪中行軍
第2次雪中行軍(戦前)
- 1932年(昭和7年)1月、第2次雪中行軍を敢行。参加者全員無事に八甲田山踏破に成功した。
陸上自衛隊第5普通科連隊(戦後)
- 1965年(昭和40年)から毎年厳冬期には、青森駐屯の陸上自衛隊第9師団の第5普通科連隊が八甲田山系での冬季雪中戦技演習を行っている。第5普通科連隊は歩兵第5連隊の連隊番号を継承している。
- 1972年(昭和47年)1月、青森駐屯の第5普通科連隊(陸上自衛隊第9師団)が近代装備を用い八甲田山の雪中行軍に成功した。
- 1997年(平成9年)7月、レンジャー養成訓練中だった青森駐屯第5普通科連隊の訓練生15人、教官ら8人の計23人が、八甲田温泉近くの田代平牧場入口付近のくぼ地で相次いでガス中毒様の症状で倒れ、12人が病院に運ばれ内3名が死亡する惨事が起きている。
事件以降の出来事
- 1907年(明治40年)、神成大尉の命を受けた伍長後藤房之助が命がけで田茂木野に向け行進した功が認められ銅像が立てられた。銅像建立の場所は青森湾を見渡すことのできる馬立場付近で、第二露営地(1月24日)と第三露営地(1月25日)の間である。なお、後藤伍長発見の地は銅像よりも数km青森よりの場所である。銅像を後藤房之助本人は当時の連隊長に「よく見ろ」と言われたが、照れくさくなかなか見ることができなかったという。彼は遭難の話はあまり話したがらず、また、後藤伍長は同じく生き残りの村松伍長と仲が良かった。
- この八甲田山雪中行軍遭難事件を聞いた、ノルウェー国王ホーコン7世が、1909年(明治42年)、お見舞いとして明治天皇宛にスキー板2台を進呈した。
- 1971年(昭和46年)、新田次郎が『八甲田山死の彷徨』として小説化。さらにこの小説を原作とした1977年(昭和52年)の映画『八甲田山』で一般に広く知られることになった。
- 新田次郎の『八甲田山死の彷徨』の終章に、事件後に陸軍と国家が取った対応として遺族には国家から恩給が与えられ皇室からは祭粢料が下賜されたことに続いて、「遭難者は戦死者と同じように扱い、靖国神社に合祀するということを聞いて、遺家族や国民もようやく納得した」と書かれているくだりがあるため、この事件の遭難者が靖国神社の合祀対象となったという誤った説が、長い間流布される結果となったが、2003年(平成15年)、川村邦光編著『戦死者のゆくえ』(青弓社)に収録された丸山泰明の論文「八甲田山雪中行軍遭難事件と靖国神社合祀のフォークロア」(同書139~172頁)において、上記の情報は誤報であったことが、詳細に明らかにされた。
- 生還者の中で最後の存命人物だったのは小原忠三郎伍長で、両足と手の指を切断したが、91歳まで存命し、1970年(昭和45年)2月5日に死去した。
- 2007年(平成19年)2月14日、後藤伍長の銅像に向かうスキーのコース「銅像コース」で雪崩が発生し、死者2人・重軽傷者8人の事故となった。
- 2011年3月11日に起きた東日本大震災の影響により、陸上自衛隊衛生学校(東京都世田谷区)の史料室の展示品が壊れた際、救出された隊員のうち後藤房之助伍長ら5名の手術前の姿を写した写真が見つかったことが、2012年6月に明らかとなった。これまで術前の写真の存在は知られていなかった[46]。
- 2012年4月12日、弘前歩兵第31連隊の福島泰蔵大尉が記した報告書や手記、論文、手紙など計241点が陸上自衛隊幹部候補生学校に寄贈された。親族が生家で保管していたもので、2004年の日露戦争開戦100周年を機に、公開を検討していたものである[47]。
関連施設
- 陸上自衛隊第9師団青森駐屯地防衛館 - 元第5連隊本部兵舎を1968年に移築(事前連絡で見学可能)
- 県立青森高校 - 出発点の第5連隊跡地。
- 雪中行軍遭難記念像 - 八甲田山中。1904年建立。モデルは後藤房之助伍長。県立青森高校から県道40号(行軍ルート)で車で40分、銅像茶屋の脇から歩行者用の参道を約250m登った場所にある。同地はかつての馬立場付近であり、実際の後藤伍長発見場所からは数km南東に位置する。
- 八甲田山雪中行軍遭難資料館 - 近くに幸畑陸軍墓地(雪中行軍隊墓碑がある)、遭難凍死者英霊堂がある。雪中行軍遭難記念像(後藤伍長像)のレプリカを所蔵する。
- 銅像茶屋 - 青森県県道40号沿い、後藤伍長像に続く参道の入口脇にある民営ドライブイン。八甲田雪中行軍記念館「鹿鳴庵」を併設し、関連書籍や資料等を展示。かつて生前の小笠原孤酒と交流があった関係で、小笠原孤酒『吹雪の惨劇』の発行・販売元となっている。
- 青森市森林博物館 - 旧青森営林局庁舎(営林局長室が映画のロケに使われた)[16]
題材とした作品
- 吹雪の惨劇(小笠原孤酒著):私家本
- 八甲田山死の彷徨(新田次郎著):史実を基にしたフィクション
- 八甲田山(1977年の映画):新田小説を映画化したもの
- 八甲田山(テレビドラマ)
- ドキュメンタリー八甲田山(2014年の映画):日伊合作によるドキュメンタリー
- われ、八甲田より生還す(高木勉著):弘前隊・福島大尉の手記を基にした記録
- 八甲田山から還ってきた男(高木勉著):福島大尉の生涯
その他
後藤伍長についてはほかに、青森県道40号青森田代十和田線の路上に「後藤伍長発見の地」という板が立っている。
注釈
- ^ 小説や映画での行軍競争などは創作である。
- ^ 本来の目的地は田代新湯である。映画「「八甲田山」では最後の方に村山伍長がロープウェイに乗るシーンがあるが、村松伍長が発見されたのは田代元湯であり、また彼を含め生存者全員が八甲田山ロープウェイ敷設前に死去している
- ^ 映画「八甲田山」(1977年)では、「天は…天は我々を見放した」という台詞になっている。
- ^ 映画「八甲田山」では、神田大尉(北大路欣也)が声を下に絞り出した。
- ^ 原作(新田次郎)では「神田大尉は雪を踏みしめながら怒鳴った」
- ^ 脚本(橋本忍)では「血を吐くような悲痛な声が静かな疎林の中へ響く」
- ^ 余談:2月12日に興津大尉の遺体が発見された際、従卒の軽石三蔵二等卒の遺体が興津大尉を覆うように倒れていたという説があり、その光景を写したとされる写真も存在する。これは一種の美談として広く喧伝され、『遭難始末』附録の美談集にも「上官を想い供に凍死す」という見出しで取り上げられた(歩兵第五聯隊 1902b, p. 3)。ところが実際には、興津大尉と軽石二等卒の遺体はそれぞれ別の捜索隊が別の場所で発見しており、興津大尉に覆いかぶさっていたのは吉田春松一等卒だった。問題の写真も現場で撮影したものではなく、遺体を第8哨所に収容したのちに撮られた再現写真だったことが判っている(川口 2001, pp. 200–204)。
- ^ 渡部が校長だったことがある
- ^ 旭川で1月25日、2012年1月現在日本最低記録である−41.0°Cを記録した。1月26日に帯広で2012年1月現在の最低−38.2°Cを記録し、日本第2位である。
- ^ 1月30日付東奥日報号外において、従軍した同紙記者の東海勇三郎が1月28日の行軍中に銃および凍死体を見たと記している。ただし同紙は後に訂正記事を掲載した。
- ^ 映画では案内人に敬礼をする等、一定の敬意を払っていたかのような描写があるが、あくまで映画における演出である。
出典
- ^ 歩兵第五聯隊 1902, p. 5.
- ^ a b c d e f g h 「八甲田山雪中行軍から学ぶ組織の在り方」 - 青森市HP (PDF) (2015年2月12日時点のアーカイブ)
- ^ 川口 2001, p. 260.
- ^ 歩兵第五聯隊 1902, pp. 7–9
- ^ 歩兵第五聯隊 1902, p. 15
- ^ 歩兵第五聯隊 1902, pp. 9–10
- ^ 歩兵第五聯隊 1902, pp. 10–11
- ^ 小笠原 1974, pp. 67–77
- ^ 歩兵第五聯隊 1902, pp. 26–27.
- ^ 歩兵第五聯隊 1902, pp. 25–27
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- ^ 歩兵第五聯隊 1902, pp. 27–28
- ^ 歩兵第五聯隊 1902, p. 29
- ^ 歩兵第五聯隊 1902, p. 33.
- ^ 歩兵第五聯隊 1902b, pp. 4–5.
- ^ a b 「名言巡礼 天は我々を見放した 雪中行軍 絞り出す無念」読売新聞2013年11月3日日曜版。
- ^ 小笠原 1970
- ^ 小笠原 1974, p. 213
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- ^ 『イソップ寓話』の翻訳等で名高い
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参考文献
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- 北辰日報編輯部, ed. (1902), 第五聯隊遭難始末〔増補四版〕, 近松書店 2015年10月17日閲覧。
- 北辰日報社, ed. (1902-03), 第五聯隊遭難始末記 : 附・第三十一聯隊雪中行軍記, 近松書店 2015年10月17日閲覧。
- 佐藤, 陽之助, ed. (1902-04), 青森聯隊惨事雪中の行軍, 工業館 2015年10月18日閲覧。
- 高木勉「八甲田山から還ってきた男 雪中行軍隊長福島大尉の生涯」文芸春秋
- 新田次郎『八甲田山死の彷徨』(新潮社文庫、1978)ISBN 4-10-112214-8
- 陸上自衛隊第5普通科連隊, 陸奥の吹雪, 陸上自衛隊第9師団、非売品 青森県立図書館蔵
- 小笠原, 孤酒 (1970), 吹雪の惨劇 第一部, 銅像茶屋、私家本
- 小笠原, 孤酒 (1974), 吹雪の惨劇 第二部, 銅像茶屋、私家本
- 百足, 登, ed. (1902-02), 青森聯隊遭難雪中行軍, 本文書店 ほか 2015年10月17日閲覧。:他に有千閣書店刊の復刻版あり。銅像茶屋にて入手可能(要確認)
- 三上, 悦雄 (2004), 八甲田死の雪中行軍真実を追う, 河北新報出版センター, ISBN 4-87341-185-8
- 松木, 明知 (2007), 八甲田山雪中行軍事件の謎は解明されたか, 津軽書房, ISBN 4-80660-204-3
- 松木明知『八甲田雪中行軍の研究』
- 松木明知『八甲田雪中行軍の医学的研究』
- 松木明知『雪中行軍山口少佐の最後』(以上3点:岩波出版サービスセンター)
- 川口, 泰英 (2001-01-20), 雪の八甲田で何が起こったのか, 北方新社, ISBN 4-89297-044-1
- 川口, 泰英 (2014-02-23), 後藤伍長は立つていたか, 北方新社, ISBN 4-89297-198-7
- 川口, 泰英 (2015-05-27), 知られざる雪中行軍, 北方新社, ISBN 4-89297-213-4
- 苫米地, 吉重 (1930), 八甲田山麓 雪中行軍秘話, 福沢善八
- 十和田市 (1976), 十和田市史, asin:B000J9FDX6
- 丸山, 泰明 (2010-05), 凍える帝国, 青弓社, ISBN 4-78722-038-1
関連項目
- 八甲田山(遭難地)
- 八甲田山雪中行軍遭難資料館(事件を展示した博物館)
- 福井重記(福島隊見習士官)
- 渡部温