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路面電車との併用橋であったため、[[軌道法]]に準拠する最後の鉄道道路併用橋となっていた。また、[[列車]]通行時には片側2車線の[[道路]]が実質1車線となり、朝夕の[[ラッシュ時]]には橋のたもとの[[交差点]]で混雑が見られた。また、自動車の[[タイヤ]]が[[レール]]をスリップして他の車と衝突する[[交通事故]]も絶えなかった。岐阜市内線の廃止に伴い、以前ほどの[[渋滞]]はなくなった。軌道は[[2007年]]([[平成]]19年)3月までに撤去されている。 |
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なお、忠節橋北端の忠節橋北交差点は、[[2011年]](平成23年)時点で[[岐阜北警察署]]管内の交通事故多発場所ワースト3となっている<ref>[https://web.archive.org/web/20130707123211/http://www.pref.gifu.lg.jp/police/keisatsu-sho/gifukita-sho/jiken-jiko/koutuujiko.html 岐阜県:交通事故の発生状況]、[[岐阜県警察]]・[[岐阜北警察署]]([[インターネット |
なお、忠節橋北端の忠節橋北交差点は、[[2011年]](平成23年)時点で[[岐阜北警察署]]管内の交通事故多発場所ワースト3となっている<ref>[https://web.archive.org/web/20130707123211/http://www.pref.gifu.lg.jp/police/keisatsu-sho/gifukita-sho/jiken-jiko/koutuujiko.html 岐阜県:交通事故の発生状況]、[[岐阜県警察]]・[[岐阜北警察署]]([[インターネットアーカイブ]]参照)</ref>。 |
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== その他 == |
== その他 == |
2017年9月4日 (月) 18:32時点における版
忠節橋 | |
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忠節橋(2005年6月) | |
基本情報 | |
国 | 日本 |
所在地 | 岐阜県岐阜市 |
交差物件 | 長良川 |
建設 |
1939年1月 - 1942年9月(下部工) 1947年11月 - 1948年7月(上部工) |
座標 | 北緯35度25分50秒 東経136度45分0.5秒 / 北緯35.43056度 東経136.750139度 |
構造諸元 | |
形式 | ブレースト・リブ・バランスト・タイドアーチ+カンチレバー・プレートガーダー |
材料 | 鋼 |
全長 | 266.06m |
幅 | 17.60m |
最大支間長 | 80.00m |
関連項目 | |
橋の一覧 - 各国の橋 - 橋の形式 |
忠節橋(ちゅうせつばし)は、岐阜県岐阜市の長良川に架かる、国道157号(国道303号重複)の鋼製アーチ橋である。補強工事や欄干の取替えなどが行われているが、その姿は1948年(昭和23年)の架設当時とほとんど変わっていない。
概要
下記は1948年(昭和23年)の竣功時のデータである[1]。
- 橋梁形式
- 竣功:1948年(昭和23年)7月31日
- 供用:1948年(昭和23年)8月1日(竣功式)
- 延長:266.06m(構橋部 181.06m、鈑桁部 85.00m)
- 幅員:17.60m(軌道部 4.98m、車道両側 3.64m、歩道両側 2.67m)
- アーチライズ高:14.50m(桁最下端からアーチ最上部まで)
- 鋼重:2,043tf
- 製造:横河橋梁製作所芝浦工場[2]
- 橋面
- 橋台:基礎杭打(松丸太:直径18cm×5.2m)扶壁式鉄筋コンクリート造
- 橋脚:基礎井筒(11.7m - 17.7m)鉄筋コンクリート造5基
- 支間長:50.53+80.00+50.53m、27.00+31.00+27.00m
- 鉸鋲数(現場鋲員数):構桁部 87,765本、鈑桁部 30,645本、合計 118,360本
- 活荷重:内務省鋼道路橋設計示方書案に依る第一種荷重、及び名古屋鉄道30トン電車2両連結
- 所在地:岐阜県岐阜市真砂町 - 早田
- 取付道路:延長754m(左岸取付道路414m、右岸取付道路340m、盛土57,457m3、鉄筋コンクリート框橋368m3)
- 総予算:6721万5908円
旧橋の諸元
初代
2代目
- 橋梁形式:木桁橋(有料、後に岐阜県が2,917円で買上げて無料化)
- 供用:1898年(明治31年)
- 延長:96間2尺(約175.2m)
- 幅員:2間1尺(約3.93m)
- 経費:6,500円
3代目
- 橋梁形式:木鉄混合平行弦プラットトラス橋4連
- 供用:1912年(明治45年)
- 延長:164.7m(1937年(昭和12年)に北側に約100mの土橋を架けて延伸)
- 幅員:4.70m
- 経費:51,543円[3]
歴史
明治の初め頃まで長良川には橋が架かっておらず、現在の忠節橋付近は「忠節の渡し」と呼ばれる渡し舟で右岸と左岸が結ばれていた。長良川には1874年(明治7年)に明七橋(長良橋)が、1881年(明治14年)5月に河渡橋が架けられたが、岐阜町(当時)と周辺農村の往来が多くなると、新たな橋の架橋が求められるようになった。
出資者約10人により資本金1万5000円の株式会社が設立され、1884年(明治17年)5月に現在の忠節橋より270mほど上流[4]に総工費6,500円で忠節橋(初代)が架けられた。通行料を取る賃取橋で、一人5厘、馬・人力車は2銭が徴収された。
1898年(明治31年)には、初代の下流(現在の忠節橋より150mほど上流[5])に架け替えられた。この橋梁も賃取橋で、他の橋が県費で架け替えられて無料化されるなか、岐阜市で最後まで残った賃取橋だったが、老朽化が激しくなり無料化による利便性向上も望まれたため、県費で架け替えられる事となり2,917円で買い上げられた。
1912年(明治45年)、県費51,543円[3]が投じられ、忠節橋(2代目)と同じ場所に木鉄混合平行弦プラットトラス橋[6]の忠節橋(3代目)が完成し、無料で通行可能となった。1936年(昭和11年)12月に着工された長良川上流改修工事で、長良古川(現在の早田川)・古々川(現在の正木川)が締め切られ、併せて長良川本流(井川)の川幅も拡げられる事となり、忠節橋付近も右岸堤防が北に約100m拡げられたため、1937年(昭和12年)に忠節橋(3代目)の北側に約100mの土橋を架けて延伸した。
この忠節橋(3代目)も老朽化が著しく、荷重や交通量に耐えられなくなり、鋼鉄製の永久橋に架け替えられる事となった。当初計画(第一次計画)では鈑桁部分を鉄筋コンクリート桁としたもので、1939年(昭和14年)1月に着工したが、太平洋戦争の勃発で鋼・セメント等の主要資材の入手が困難となり、1942年(昭和17年)9月に橋台・橋脚などの下部工が完成した状態で工事は一時中止となった。その後、竣功した橋脚間に新たに木造橋脚(下部鉄筋コンクリート井筒)10基を設置して軌道橋(木造ハウ)と公道橋(木造ラチス)を並列架設する設計(第二次計画)に変更し、1944年(昭和19年)7月に着工したが、翌1945年(昭和20年)7月9日の岐阜空襲で橋梁用材の大部分が焼失して工事は再度中断した。この間、旧橋は幾度かの修繕を重ねて戦時中の酷使に耐えてきた。第二次世界大戦後、将来の自動車交通量の増加を見越して再度設計を変更。1947年(昭和22年)6月に取付道路、同年11月22日に上部工の工事を再開し、1948年(昭和23年)7月31日に諸般の工事が終了。翌8月1日に竣功式を挙行して供用開始した。鋼材の調達が難しかった第二次世界大戦後、日本で初めて架設された大規模鋼橋である。
4車線のうち中央2車線に路面電車(名古屋鉄道岐阜市内線)の鉄道用複線軌道が敷設された鉄道道路併用橋だったが、自動車の普及に伴って路面電車の利用客が減少。2005年(平成17年)4月1日に岐阜市内線が廃止されてから、自動車・歩行者用橋梁となっている。
沿革
- 1884年(明治17年)5月 - 現在の忠節橋より270mほど上流に忠節橋(初代)が架けられる(有料)。
- 1898年(明治31年) - 初代の下流(現在の忠節橋より150mほど上流)に忠節橋(2代目)が架けられる(有料)。
- 1912年(明治45年) - 県費で忠節橋(3代目)が架けられる。通行料が無料となる。
- 1937年(昭和12年) - 長良川上流改修工事による河川拡幅に伴い、北へ約100m延伸。
- 1948年(昭和23年)8月1日 - 忠節橋(4代目:現橋)が開通。
- 2005年(平成17年)4月1日 - 岐阜市内線岐阜駅前駅 - 忠節駅間営業廃止(廃線)。忠節橋は自動車・歩行者用橋梁となる。
特徴
長良川の流路(低水敷)を跨ぐ部分の橋梁形式に、ブレースト・リブ・バランスト(カンチレバー)・タイドアーチ橋を採用。日本に現存するこの形式の橋は、北海道旭川市の旭橋、岩手県一関市の北上大橋、東京都荒川区/墨田区の白鬚橋、および忠節橋の4例のみである[7]。
交通事情
路面電車との併用橋であったため、軌道法に準拠する最後の鉄道道路併用橋となっていた。また、列車通行時には片側2車線の道路が実質1車線となり、朝夕のラッシュ時には橋のたもとの交差点で混雑が見られた。また、自動車のタイヤがレールをスリップして他の車と衝突する交通事故も絶えなかった。岐阜市内線の廃止に伴い、以前ほどの渋滞はなくなった。軌道は2007年(平成19年)3月までに撤去されている。
なお、忠節橋北端の忠節橋北交差点は、2011年(平成23年)時点で岐阜北警察署管内の交通事故多発場所ワースト3となっている[8]。
その他
- JR岐阜駅を起点として、忠節橋を経由した岐阜環状線までの国道157号を含む道路の総称を「忠節橋通り」という。
- 長良川左岸堤防上の「初代忠節橋」が架かっていた箇所に、2013年(平成25年)6月、寄贈された「二代目忠節橋」の石碑2柱と説明板を岐阜県が設置。
脚注
- ^ 「忠節橋架設工事概要」12-13頁、17頁
- ^ 第2章 時代を代表する構造物、横河ブリッジホールディングス
- ^ a b 『岐阜県統計書』(大正3年) 土功 著大橋梁までは51,735円となっているが、『岐阜県統計書』(大正4年)以降は51,543円に変更されている。
- ^ 本願寺岐阜別院の西側を通る天神町通りを北へ直進した箇所。
- ^ 岐阜県道287号上白金真砂線と長良川左岸の堤防道路との交点。
- ^ 下部工が鉄管柱橋脚、上部工が木造のトラス橋。
- ^ 「時代を越えて生き続ける最北の名橋「旭橋」」『Consultant』Vol.246、38頁、2010年、建設コンサルタンツ協会
- ^ 岐阜県:交通事故の発生状況、岐阜県警察・岐阜北警察署(インターネットアーカイブ参照)
参考資料
- 河瀬令二 / 涌井義貞 「忠節橋架設工事概要」『土木技術』第3卷第12號(昭和23年12月号)、土木技術社、1948年12月15日、12-24頁
- 歴史的鋼橋: A7-001 忠節橋、公益社団法人土木学会
- 石田元章 / 秋山孝正 「長良川における橋梁空間の歴史性に関する検討」『土木史研究』第20号、2000年5月、227-236頁
- 今井裕夫 「忠節橋Project-川の記憶のデザインIV-」『岐阜市立女子短期大学研究紀要』第56輯、2007年3月、53-60頁
- ふるさとの歴史こぼれ話Vol.6 長良川・忠節橋物語、『VIVO』2012年春号(第29号)、2-3頁
- 『岐阜県統計書』(明治19年) 土功 著大橋梁ノ長及幅、178-179頁
- 『岐阜県統計書』(明治42年) 土功 著大橋梁、60頁
- 『岐阜県統計書』(昭和15年) 土功 橋長著大橋架、25頁
- 『岐阜県統計書』(昭和37年) 著大橋梁、286頁