「シュテファン・エッフェンベルク」の版間の差分
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[[1987年]]、[[ボルシア・メンヒェングラートバッハ|ボルシアMG]]でプロ生活をスタート。長短の精度の高いパス供給できる中心選手として頭角を現し、[[1990年]]に強豪[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]へ移籍。クラブに数多くのタイトルをもたらした。[[1992年]]からは2シーズン[[セリエA (サッカー)|セリエA]]・[[フィオレンティーナ]]に移籍した。 |
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[[サッカードイツ代表|ドイツ代表]]としては1991年に初招集され、翌1992年の[[UEFA欧州選手権]]に出場するが、ピッチの内外で騒動を起こす問題児としても知られており、[[1994年]]の[[1994 サッカー・ワールドカップ|アメリカW杯]]では自分にブーイングしたサポーターに対して中指を立てるなど挑発的な態度をとったとして強制帰国させられた。しかし、彼の抜けた穴は大きかったのか、アメリカW杯、[[1998 サッカー・ワールドカップ|フランスW杯]]は共に準々決勝で敗退。フランスW杯終了後、代表復帰を望む声が高まり、再び代表でプレーするが、わずか2試合出場しただけで代表を辞退。その後、代表でプレーすることはなかった。 |
[[サッカードイツ代表|ドイツ代表]]としては1991年に初招集され、翌1992年の[[UEFA欧州選手権]]に出場するが、ピッチの内外で騒動を起こす問題児としても知られており、[[1994年]]の[[1994 サッカー・ワールドカップ|アメリカW杯]]では自分にブーイングしたサポーターに対して中指を立てるなど挑発的な態度をとったとして強制帰国させられた。しかし、彼の抜けた穴は大きかったのか、アメリカW杯、[[1998 サッカー・ワールドカップ|フランスW杯]]は共に準々決勝で敗退。フランスW杯終了後、代表復帰を望む声が高まり、再び代表でプレーするが、わずか2試合出場しただけで代表を辞退。その後、代表でプレーすることはなかった。 |
2017年8月29日 (火) 10:22時点における版
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名前 | ||||||
愛称 | エッフェ、ティーガー | |||||
ラテン文字 | Stefan EFFENBERG | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | ドイツ | |||||
生年月日 | 1968年8月2日(56歳) | |||||
出身地 | ハンブルク | |||||
身長 | 188cm | |||||
体重 | 85kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF | |||||
利き足 | 右足 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1987-1990 | ボルシアMG | 73 | (10) | |||
1990-1992 | バイエルン・ミュンヘン | 65 | (19) | |||
1992-1994 | フィオレンティーナ | 56 | (12) | |||
1994-1998 | ボルシアMG | 118 | (23) | |||
1998-2002 | バイエルン・ミュンヘン | 95 | (16) | |||
2002-2003 | ヴォルフスブルク | 19 | (3) | |||
2003-2004 | アル・アラビ | 15 | (4) | |||
代表歴 | ||||||
1988-1990 | 西ドイツ U-21 | 5 | (1) | |||
1991-1998 | ドイツ | 35 | (5) | |||
監督歴 | ||||||
2015-2016 | パーダーボルン | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
シュテファン・エッフェンベルク(Stefan Effenberg, 1968年8月2日 - )は、ドイツ・ハンブルク出身の元同国代表サッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションはMF。中盤の底の位置からのゲームメイクを得意とする。愛称はエッフェ、ティーガー(ドイツ語で虎の意)。
経歴
1987年、ボルシアMGでプロ生活をスタート。長短の精度の高いパス供給できる中心選手として頭角を現し、1990年に強豪バイエルン・ミュンヘンへ移籍。クラブに数多くのタイトルをもたらした。1992年からは2シーズンセリエA・フィオレンティーナに移籍した。
ドイツ代表としては1991年に初招集され、翌1992年のUEFA欧州選手権に出場するが、ピッチの内外で騒動を起こす問題児としても知られており、1994年のアメリカW杯では自分にブーイングしたサポーターに対して中指を立てるなど挑発的な態度をとったとして強制帰国させられた。しかし、彼の抜けた穴は大きかったのか、アメリカW杯、フランスW杯は共に準々決勝で敗退。フランスW杯終了後、代表復帰を望む声が高まり、再び代表でプレーするが、わずか2試合出場しただけで代表を辞退。その後、代表でプレーすることはなかった。
クラブレベルにおいては、1994年からは再びボルシアMGに在籍したあと、1998年にバイエルンに復帰。オットマー・ヒッツフェルト監督に主将に任命される。1999年の「カンプ・ノウの悲劇」を経験した後、2001年のチャンピオンズリーグ優勝に貢献した。2002年にヴォルフスブルクへ移籍した後、カタールのクラブチームであるアル・アラビでプレーしたのを最後に現役を引退した。2005年7月22日には引退試合が行われ、自身初のハットトリックを決めて引退に花を添えた。
2015年10月からはブンデスリーガ2部の SCパーダーボルン07 の監督に就任している[1]。
問題児と目される一方でチャリティー活動も熱心に行っており、ドイツ国内の虐待児童への支援や、タイに発展途上国支援の一環としてサッカースクールを開設し若手の育成に取り組むなどしている。
脚注
- ^ “Effenberg neuer Trainer des SC Paderborn” (German). 13 October 2015閲覧。