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1993年、選手時代の古巣ベレスの監督に就任した。ベレスは1968年以来リーグ優勝から遠ざかっていたが、1993クラウスーラで優勝に導き、ベレスでは選手・監督の両方でリーグタイトルを獲得した。1994年には[[コパ・リベルタドーレス]]を制した。決勝の[[サンパウロFC]](ブラジル)戦はPK戦にもつれ込んだが、キーパーの[[ホセ・ルイス・チラベルト]]が自身でもPKを成功させる活躍を見せた。同年の[[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|インターコンチネンタルカップ]]では、過去の同大会で3度優勝している[[ACミラン]](イタリア)を破った。1996年にはイタリア・[[セリエA (サッカー)|セリエA]]の強豪[[ASローマ]]の監督に就任したが、1996-97シーズン途中に解任された。 |
1993年、選手時代の古巣ベレスの監督に就任した。ベレスは1968年以来リーグ優勝から遠ざかっていたが、1993クラウスーラで優勝に導き、ベレスでは選手・監督の両方でリーグタイトルを獲得した。1994年には[[コパ・リベルタドーレス]]を制した。決勝の[[サンパウロFC]](ブラジル)戦はPK戦にもつれ込んだが、キーパーの[[ホセ・ルイス・チラベルト]]が自身でもPKを成功させる活躍を見せた。同年の[[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|インターコンチネンタルカップ]]では、過去の同大会で3度優勝している[[ACミラン]](イタリア)を破った。1996年にはイタリア・[[セリエA (サッカー)|セリエA]]の強豪[[ASローマ]]の監督に就任したが、1996-97シーズン途中に解任された。 |
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その後はベレスに戻り、1998年には[[ボカ・ジュニアーズ]]の監督に就任。持ち前の手腕を発揮し、国内リーグを3度、コパ・リベルタドーレスを2度、インターコンチネンタルカップを1度制してクラブの黄金期を築き上げた。2001年のインターコンチネンタルカップでは自身3度目の優勝に挑戦したが、[[バイエルン・ミュンヘン]](ドイツ)に敗れて退任した。2003年には成績が低迷するボカを救うために再び監督に就任し、破竹の快進撃を見せてリーグ優勝を果たした。同年にはコパ・リベルタドーレスとインターコンチネンタルカップも制した。監督として4度のコパ・リベルタドーレス制覇、3度のトヨタカップ制覇はどちらも史上初の快挙だった。2004年6月、[[マウリシオ・マクリ]]会長との確執が理由で辞任した<ref name="総督"/>。 |
その後はベレスに戻り、1998年には[[ボカ・ジュニアーズ]]の監督に就任。持ち前の手腕を発揮し、国内リーグを3度、コパ・リベルタドーレスを2度、インターコンチネンタルカップを1度制してクラブの黄金期を築き上げた。2001年のインターコンチネンタルカップでは自身3度目の優勝に挑戦したが、[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]](ドイツ)に敗れて退任した。2003年には成績が低迷するボカを救うために再び監督に就任し、破竹の快進撃を見せてリーグ優勝を果たした。同年にはコパ・リベルタドーレスとインターコンチネンタルカップも制した。監督として4度のコパ・リベルタドーレス制覇、3度のトヨタカップ制覇はどちらも史上初の快挙だった。2004年6月、[[マウリシオ・マクリ]]会長との確執が理由で辞任した<ref name="総督"/>。 |
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2005年にはスペイン・[[リーガ・エスパニョーラ]]の名門[[アトレティコ・マドリード]]の監督に就任したが、2005-06シーズン前半戦終了を待たずに、成績低迷を理由に解任された。2008年10月には[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン代表]]の[[アルフィオ・バシーレ]]監督が辞任し、ビアンチが後任監督の最有力候補と目された。しかし、[[アルゼンチンサッカー協会]](AFA)の[[フリオ・グロンドーナ]]会長との確執から就任話が流れ、その後、[[ディエゴ・マラドーナ]]が代表監督に就任した。 |
2005年にはスペイン・[[リーガ・エスパニョーラ]]の名門[[アトレティコ・マドリード]]の監督に就任したが、2005-06シーズン前半戦終了を待たずに、成績低迷を理由に解任された。2008年10月には[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン代表]]の[[アルフィオ・バシーレ]]監督が辞任し、ビアンチが後任監督の最有力候補と目された。しかし、[[アルゼンチンサッカー協会]](AFA)の[[フリオ・グロンドーナ]]会長との確執から就任話が流れ、その後、[[ディエゴ・マラドーナ]]が代表監督に就任した。 |
2017年8月29日 (火) 09:47時点における版
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1970年のビアンチ | ||||||
名前 | ||||||
本名 |
カルロス・アルセシオ・ビアンチ Carlos Arcecio Bianchi | |||||
愛称 | El Virrey(エル・ビレイ、総督)[1] | |||||
ラテン文字 | Carlos BIANCHI | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | アルゼンチン | |||||
生年月日 | 1949年4月26日(75歳) | |||||
出身地 | ブエノスアイレス | |||||
身長 | 178cm | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
ユース | ||||||
1960-1967 | ベレス・サルスフィエルド | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1967-1973 | ベレス・サルスフィエルド | 165 | (121) | |||
1973-1977 | スタッド・ランス | 124 | (107) | |||
1977-1979 | パリ・サンジェルマン | 74 | (64) | |||
1979-1980 | ストラスブール | 22 | (8) | |||
1980-1984 | ベレス・サルスフィエルド | 159 | (85) | |||
1984-1985 | スタッド・ランス | 18 | (8) | |||
1967-1985 | 通算 | 562 | (393) | |||
代表歴 | ||||||
1970-1972 | アルゼンチン | 14 | (7) | |||
監督歴 | ||||||
1985-1988 | スタッド・ランス | |||||
1989-1990 | ニース | |||||
1993-1996 | ベレス・サルスフィエルド | |||||
1996 | ローマ | |||||
1998-2001 | ボカ・ジュニアーズ | |||||
2003-2004 | ボカ・ジュニアーズ | |||||
2005-2006 | アトレティコ・マドリード | |||||
2013-2014 | ボカ・ジュニアーズ | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。2014年10月1日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
カルロス・ビアンチ(Carlos Bianchi, 1949年4月26日 - )は、アルゼンチン・ブエノスアイレス出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。選手としてアルゼンチン代表だった。選手時代のポジションはフォワード。
経歴
選手経歴
CAベレス・サルスフィエルドの下部組織出身であり、18歳の時にボカ・ジュニアーズ戦(1-1)でトップチームデビューした。その後ベレスとプロ契約し、ナシオナル1968ではリーグ優勝。ナシオナル1970では18得点で得点王に輝き、メトロポリターノ1971では36得点で得点王に輝いた。1970年から1972年にかけてアルゼンチン代表に選出され、14試合に出場して7得点した。1973年、フランス・ディヴィジョン・アン(1部)のスタッド・ランスに移籍。4シーズンで計107得点を挙げ、1973-74シーズン(30得点)、1975-76シーズン(34得点)、1976-77シーズン(28得点)の3度に渡って得点王のタイトルを獲得した。1977年にはパリ・サンジェルマンFCに移籍し、在籍した2シーズン連続(前所属クラブと合わせて4シーズン連続)で得点王のタイトルを獲得した。1979-80シーズンはRCストラスブールでプレーしたが、ストラスブールでは成功をおさめることができず、8得点に終わった。1980年に母国の古巣ベレスに戻り、1981メトロポリターノでは15得点を挙げた。1984年に再びフランスのスタッド・ランスに加入し、1985年に現役引退した。ベレスでは通算206得点を挙げてクラブの歴代最多得点記録を保持しており、この記録はアルゼンチンサッカー全体でも9位の記録である。リーグ・アンでも歴代9位となる計179得点を挙げた。
現役引退後
現役引退後、国際サッカー連盟(FIFA)によって世界各国1部リーグにおけるアルゼンチン人最多得点者として認められた。ビアンチは2ヶ国の1部リーグで計385得点(アルゼンチンで206点、フランスで179点)を挙げており、計377得点のアルフレッド・ディ・ステファノや計352得点のデリオ・オニス(アルゼンチンで53得点、フランスで299得点)を凌いでいる。
指導者経歴
1993年、選手時代の古巣ベレスの監督に就任した。ベレスは1968年以来リーグ優勝から遠ざかっていたが、1993クラウスーラで優勝に導き、ベレスでは選手・監督の両方でリーグタイトルを獲得した。1994年にはコパ・リベルタドーレスを制した。決勝のサンパウロFC(ブラジル)戦はPK戦にもつれ込んだが、キーパーのホセ・ルイス・チラベルトが自身でもPKを成功させる活躍を見せた。同年のインターコンチネンタルカップでは、過去の同大会で3度優勝しているACミラン(イタリア)を破った。1996年にはイタリア・セリエAの強豪ASローマの監督に就任したが、1996-97シーズン途中に解任された。
その後はベレスに戻り、1998年にはボカ・ジュニアーズの監督に就任。持ち前の手腕を発揮し、国内リーグを3度、コパ・リベルタドーレスを2度、インターコンチネンタルカップを1度制してクラブの黄金期を築き上げた。2001年のインターコンチネンタルカップでは自身3度目の優勝に挑戦したが、バイエルン・ミュンヘン(ドイツ)に敗れて退任した。2003年には成績が低迷するボカを救うために再び監督に就任し、破竹の快進撃を見せてリーグ優勝を果たした。同年にはコパ・リベルタドーレスとインターコンチネンタルカップも制した。監督として4度のコパ・リベルタドーレス制覇、3度のトヨタカップ制覇はどちらも史上初の快挙だった。2004年6月、マウリシオ・マクリ会長との確執が理由で辞任した[1]。
2005年にはスペイン・リーガ・エスパニョーラの名門アトレティコ・マドリードの監督に就任したが、2005-06シーズン前半戦終了を待たずに、成績低迷を理由に解任された。2008年10月にはアルゼンチン代表のアルフィオ・バシーレ監督が辞任し、ビアンチが後任監督の最有力候補と目された。しかし、アルゼンチンサッカー協会(AFA)のフリオ・グロンドーナ会長との確執から就任話が流れ、その後、ディエゴ・マラドーナが代表監督に就任した。
2009年1月6日、ボカ・ジュニアーズのゼネラル・マネージャー(GM)に就任した[2]。しかし、カルロス・イスチア監督、アルフィオ・バシーレ監督のどちらも満足いく結果を残せなかったため、2010年1月、バシーレ監督の辞任直後にGMを退任した。2012年12月17日、ボカ・ジュニアーズの監督に就任した[3]。
人物
ビアンチはブエノスアイレスの中流家庭で生まれ育った。父親はセールスマンであり、ファンでもあったCAベレス・サルスフィエルドからデビューするまでは父親の仕事を手伝うこともあった。ビアンチは1972年に結婚して一男一女を儲けている。長女はサッカー選手のエドゥアルド・ドミンゲスと結婚した。
ビアンチがベレスを指揮している時に、スポーツライターのビクトル・ウーゴ・モラレスがビアンチに「総督」(El Virrey、エル・ビレイ)というニックネームを付けた。ベレスはブエノスアイレスのリニエルス地区に位置しており、この地区名はリニエルス総督(1800年代初頭にリオ・デ・ラ・プラタ地域を統治していた人物)に由来している。
タイトル
選手時代
クラブ
- CAベレス・サルスフィエルド
- プリメーラ・ディビシオン: 1968ナシオナル
個人
- プリメーラ・ディビシオン得点王: 1970, 1971, 1981
- リーグ・アン 得点王 : 1973-74, 1975-76, 1976-77, 1977-78, 1978-79
指導者時代
クラブ
- CAベレス・サルスフィエルド
- コパ・リベルタドーレス: 1994
- プリメーラ・ディビシオン: 1993クラウスーラ, 1995アペルトゥーラ, 1996クラウスーラ
- インターコンチネンタルカップ: 1994
- コパ・インテルアメリカーナ: 1994
- ボカ・ジュニアーズ
- コパ・リベルタドーレス: 2000, 2001, 2003
- プリメーラ・ディビシオン: 1998アペルトゥーラ, 1999クラウスーラ, 2000アペルトゥーラ, 2003アペルトゥーラ
- インターコンチネンタルカップ: 2000, 2003
個人
- 南米年間最優秀監督賞: 1994, 1998, 2000, 2001, 2003
- IFFHS世界クラブ最優秀監督: 2000, 2003
脚注
- ^ a b 帰って来たビアンチ総督 スポニチ、2012年12月21日
- ^ カルロス・ビアンチ、ボカGMに就任 Goal.com、2009年1月8日
- ^ ビアンチ氏がボカ監督に就任 Goal.com、2012年12月18日
外部リンク
- Carlos Bianchi: "self-belief in the face of adversity" at fifa.com
- Futbol Factory profile (Archived)